差止損害賠償請求事件、差止仮処分請求事件

東京高等裁判所第4民事部平成17年(ネオ)第183号事件、平成17年(ネ受)第192号事件

上告人兼上告受理申立人(債権者)  株式会社日本経済研究所

           山口節生不動産鑑定士事務所こと山口節生 

被上告人兼被上告受理申立人(債務者)  社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

上告申立及び上告受理申立の理由(1)

                           平成17年5月6日

最高裁判所 御 中

            上告人兼上告受理申立人(債権者)

                    株式会社 日本経済研究所

                    代表取締役 山口 節生

上告人兼上告受理申立人(債権者)

山口節生不動産鑑定士事務所

 

1 総論

1 差止請求が認められるべきこと

(1)被上告人(債務者)の上告人(債権者)日本経済研究所に対する入会拒否、高額な入会金徴収、資料閲覧・業務補助者証明書交付の被上告人(債務者)会員との差別の差止めが認められるべきこと

上告人(債権者)が、埼玉県内には被上告人(債務者)に代わる不動産鑑定業者の組織は他になく、埼玉県下における鑑定評価業務受託につき、被上告人(債務者)が、公的機関、民間等の依頼の鑑定業務評価員の委嘱について、被上告人(債務者)会員その他被上告人(債務者)の関係者等(以下「被上告人(債務者)会員等」という。)を推薦もしくは斡旋するなどし、被上告人(債務者)会員等が市場を独占する状況になっている。

   上記状況下においては、不動産鑑定業者が埼玉県で業者登録をしても、被上告人(債務者)に入会しない場合には、埼玉県内で公的機関、民間等からの依頼の上記委嘱もしくは斡旋は殆ど受けられず、不動産鑑定業者として事業を行うことは事実上困難である。

 しかし、被上告人(債務者)は、上告人(債権者)山口不動産鑑定所こと山口節生(以下「上告人(債権者)山口」という。)が平成11年9月7日になした入会申込を拒否したうえ、上告人(債権者)有限会社日本経済研究所(以下「上告人(債権者)日本経済研究所」という。)が平成13年1月19日になした被上告人(債務者)への入会申込に対して約3年もの間何ら通知もしないで事実上拒否している。

また、被上告人(債務者)は、入会金を5万円から80万円へ16倍もの値上げを実施し、被上告人(債務者)への新規参入者の入会をあからさまに妨害している。

そして、不動産鑑定業務上必要不可欠な事例資料の閲覧、業務補助者証明書交付について、被上告人(債務者)の会員と非会員との間で、著しく差別している。

被上告人(債務者)に加入しなければ埼玉県下で不動産鑑定業務を行うことが困難な状況における上記被上告人(債務者)の行為は、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独占禁止法」という。)8条1項5号及び19条の不公正な取引方法(一般指定1項正当な理由なき間接の取引拒絶(共同のボイコット)、一般指定1項正当な理由なき直接の取引拒絶(共同のボイコット)、一般指定3項差別的対価)に該当し、これらの行為を取りやめなければ、上告人(債権者)は、埼玉県下の市場から排除され、著しい損害を生じ及び将来も生ずるおそれ等があるので、独占禁止法24条に基づき、被上告人(債務者)の上記行為の差し止めが認められるべきは明らかである。

(2)被上告人(債務者)の固定資産鑑定評価員の推薦、公共事業用地等についての不動産鑑定報酬の固定及び鑑定評価員の推薦、路線価価格鑑定評価員の推薦等の差止めが認められるべきこと

  被上告人(債務者)が、市町村等公的機関等に対し、被上告人(債務者)会員等を、固定資産鑑定評価員、路線価価格鑑定評価員、公共事業用地等についての鑑定評価員等を推薦、斡旋する上記行為は、被上告人(債務者)の構成事業者と競争関係にある、上告人(債権者)と市町村等との取引を排除しており、独占禁止法8条1項5号及び19条の不公正な取引方法(一般指定1項正当な理由なき取引拒絶(共同のボイコット))に該当するので、同法24条により、被上告人(債務者)の同行為の差し止めが認められるべきは明らかである。

2 損害賠償請求が認められるべきこと

   また、被上告人(債務者)の、上告人(債権者)に対する上記入会拒否、固定資産鑑定評価員等の推薦もしくは斡旋等は、上記のとおり独占禁止法に違反するものであるので、上告人(債権者)が被上告人(債務者)の上記不法行為により被った、請求の趣旨で主張する逸失利益等の損害賠償請求が認められるべきである。

 3 以下、詳述する。

第2 被上告人(債務者)に加入しなければ埼玉県下において上告人(債権者)が不動産鑑定事業を行うことが困難な状況であること

 1 被上告人(債務者)の団体の性格等 

 (1)被上告人(債務者)が独占禁止法2条2項「事業者団体」及び同法2条1項の「事業者」に当たること

  @ 被上告人(債務者)は、埼玉県内における唯一の不動産鑑定業者の事業者団体で(甲第3号証)、不動産の鑑定評価に関する法律第52条に基づき、埼玉県知事に届出がなされ、平成7年3月30日に設立された団体であり(甲第92号証)、独占禁止法2条2項の「事業者団体」に当たる。

A また、被上告人(債務者)は、定款に、事業として、市町村その他の公共団体及び諸団体等に対する協力及び受託事業を掲げており(甲第12号証)、また、第12回通常総会議案書における平成13年度事業計画にも、「(5)受託事業 ア.市町村に対し受託事業を実施する。イ.県に対し事業の受託に努める。」としており(甲第13号証)、同法2条1項の「事業者」に当たる。

    この点、被上告人(債務者)は、事業者でないと主張するようであるが、最判平元8.12.14で、国や公共団体も経済活動を行う限り、「事業者」にあたるとされていることからも、上記受託事業を行う被上告人(債務者)が「事業者」に当たることは明らかである。

 (2)埼玉県登録業者がほぼ100%被上告人(債務者)に入会していること

    そして、埼玉県に登録して営業を行おうとする不動産鑑定業者は、ほぼ100%被上告人(債務者)に入会している。(甲第7ないし9号証、44号証の1の1ないし3、78、90、91号証)

 (3)被上告人(債務者)が日本不動産鑑定協会、関東甲信会と組織的、人的に密接な関係にあること

@被上告人(債務者)の前身が日本不動産鑑定協会の地方部会であったこと

  被上告人(債務者)は、その前身は、「社団法人日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会」(以下「日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会」という。)であり、社団法人日本不動産鑑定協会(以下「日本不動産鑑定協会」という。)の地方部会であったところ、平成7年3月30日に組織変更したものである。(甲第15、17号証)

A被上告人(債務者)会長退任後は日本不動産鑑定協会理事就任が通例であること

 そして、被上告人(債務者)は、現在も、日本不動産鑑定協会及び社団法人日本不動産鑑協会関東甲信会(以下「関東甲信会」という。)と、組織的、人的に、非常に密接な関係にあり、日本不動産鑑定協会に理事候補者やカウンセラー委員等を推薦し(甲第96号証5頁、甲第95号証9頁)、被上告人(債務者)の会長退任後は、日本不動産鑑定協会の理事になるのが通例となっている。

赤熊正保証人は、平成10年4月から平成12年の3月まで被上告人(債務者)の会長をしていた頃、社団法人日本不動産鑑定協会の地価調査委員会の委員をしており、関東甲信会にも被上告人(債務者)会長として幹事会に出席していた。

被上告人(債務者)会長退任後は、被上告人(債務者)の顧問を現在までしているほか、通例とおり、日本不動産鑑定協会の理事を平成13年6月25日から平成15年6月24日まで2年間行い、企画委員会の委員もしている。(同証人尋問調書3−2ないし3−3、甲第93号証)

平成12年4月から平成14年3月まで被上告人(債務者)会長を務めた高橋正光も、平成15年6月25日に日本不動産鑑定協会理事に就任している。(甲第93、94号証)

  B被上告人(債務者)と関東甲信会も組織的、人的に密接な関係であること

また、関東甲信会は、上記のとおり、被上告人(債務者)の前身組織と同一組織の上部団体であったところ、現在も地域会として被上告人(債務者)の上部団体と位置づけられ、被上告人(債務者)は、関東甲信会の業務推進委員(甲第95号証9頁)、選挙管理委員会(甲第96号証5頁)も推薦するなど、関係が密接である。

 (3)被上告人(債務者)が埼玉県と密接な関係にあること

  @被上告人(債務者)が埼玉県土地利用審査会の委員を推薦していること

   国土利用計画法(昭和49年法律第92号)第39条1項で都道府県に土地資料審査会設置が義務づけられ、同条4項で、同審査会を組織する委員は、土地利用、地価その他の土地に関する事項について優れた経験と知識を有し、公共の福祉に関し公正な判断をすることができる者のうちから、都道府県知事が、都道府県の議会の同意を得て、任命すると定められている。

   同法39条10項に基づき、埼玉県土地利用審査会条例が、埼玉県土地利用審査会の組織及び運営に関し必要な事項を定めている。

    被上告人(債務者)は、このように、埼玉県知事が埼玉県の議会の同意を得て任命する公的機関で、埼玉県の土地利用に関する重要な事項の調査審議等行う、埼玉県土地利用審査会の委員の推薦、選任を行っているもので(甲第95号証5、7頁)、埼玉県とも密接した関係にある。

A被上告人(債務者)の事務局長が埼玉県職員の天下り先であること

    平成14年3月31日に交代した前代の被上告人(債務者)の事務局長佐野長二は、前職は埼玉県庁職員として任用されていた者であり、被上告人(債務者)事務局長は、埼玉県庁職員退職後の天下り先の一つでもある。(甲第59号証)

 2 被上告人(債務者)会員等が埼玉県下鑑定評価業務を独占し、被上告人(債務者)非会員が国、地方公共団体、公社・公団・公庫等、裁判所から全く受託していないこと 

埼玉県内における不動産鑑定評価業務は、東京都等と較べると、民間の会社及び個人からの鑑定依頼は約3割と少なく、国土交通省が発注する地価公示の鑑定評価、埼玉県が発注する用地買収等の鑑定評価並びに地価調査等の鑑定評価、国税庁が発注する路線価価格の鑑定評価、裁判所が発注する最低競売価格の評価及び訴訟・非訴訟上の鑑定評価、市町村が発注する固定資産税の課税標準を定めるための地価調査及び用地買収等の鑑定評価などの公的機関からの鑑定評価の依頼がその業務の約7割もの大部分を占める。

被上告人(債務者)は、上記のとおり、日本不動産鑑定協会及び埼玉県等公的機関と密接な関係にあるところ、公的機関からの鑑定評価員委嘱にあたり、被上告人(債務者)会員及び被上告人(債務者)関係者のみを推薦、斡旋しているもので、被上告人(債務者)の会員及び被上告人(債務者)関係者でない者(以下「被上告人(債務者)非会員」という。)は、公的機関から、利益率のよくない地価公示、地価調査以外の受注を全く受けられない状況となっている。

不動産の鑑定評価に関する法律第28条により、埼玉県に業者登録を行っている不動産鑑定士は、毎年1回、埼玉県知事あてに、国土法審査関係、固定資産税・相続税評価(標準宅地・標準地)関係、公共団体からの用地取得のための鑑定評価等につき「事業実績等報告書」を提出することを義務づけられており、その各業者の事業実績をまとめたものが「依頼先別の件数及び報酬」である。

埼玉県下の不動産鑑定業務を被上告人(債務者)会員等がほぼ独占していることは、上記「依頼先別の件数及び報酬」(甲第7ないし9、78号証、)及び「裁判所における競売及び非訟事件のための評価」(甲第31ないし33、79号証)の客観資料で、平成11年から平成14年にわたり、被上告人(債務者)会員等の収入が埼玉県登録業者の全収入のほぼ100パーセントを占めていることから明らかである。

それも、埼玉県登録業者で被上告人(債務者)会員か被上告人(債務者)関係者でない者は、実際に、国、地方公共団体、公社・公団・公庫等、裁判所から全く鑑定業務を受託しておらず、また、民間からの受託も被上告人(債務者)会員等に比して著しく少ない。

なお、地価公示、地価調査は、固定資産鑑定評価、路線価価格評価等と比べ、手間が多くかかる割に利益が少ないため、被上告人(債務者)非会員にも割り当てられているので、「事業実績」として報告を求められず、「依頼先別の件数及び報酬」に含まれていない。

(1)平成11年分

  @被上告人(債務者)会員が埼玉県下における鑑定業務をほぼ独占していること

    「依頼先別の件数及び報酬」(甲第7号証)及び「裁判所における競売及び非訟事件のための評価」(甲第31号証)における、平成11年の埼玉県登録業者のうち被上告人(債務者)非会員9業者(甲第7号証、甲第44号証の1の1)の合計収入は614万1千円で、埼玉県登録業者の合計収入金額28億3809万5千円(山口節生不動産鑑定士事務所が東京都登録時に関して受注した分は除く。)の約0.2パーセントしかなく、被上告人(債務者)会員(埼玉県登録業者の約92パーセント)の収入が約99.8パーセントを占めている。

  そして、平成11年の被上告人(債務者)非会員の平均収入は約60万4千円であったのに対し、被上告人(債務者)会員の平均収入は約2421万円であり、収入の差は著しい。

  A被上告人(債務者)非会員が国、地方公共団体、公社・公団・公庫等、裁判所から全く受注していないこと 

 同年の被上告人(債務者)非会員の上記収入の内訳は、不動産鑑定士坂入策司事務所合計0円、青木不動産鑑定事務所合計0円、三共株式会社(民間法人321万5千円、個人113万4千円)合計434万9千円、高岡不動産鑑定事務所合計0円、石井不動産鑑定事務所合計0円、堀江不動産鑑定事務所(民間法人52万5千円、個人56万7千円)合計109万2千円、染矢不動産鑑定所合計0円、小山不動産鑑定士事務所(個人70万円)合計70万円、山口節生不動産鑑定士事務所(甲第7号証記載のものは東京都登録時に関する受注のみ)合計0円である。

(なお、準備書面(10)では小山不動産鑑定事務所が脱字しているが、同書面の金額等は同事務所分も含めて計算したものである。)

    上記内訳のとおり、埼玉県登録業者の被上告人(債務者)非会員は、国、地方公共団体、公社・公団・公庫等、裁判所からの鑑定評価業務を1件も受注できなかった。

また、民間法人、個人についても、被上告人(債務者)非会員は、被上告人(債務者)会員と比べ、受注件数、金額が、圧倒的に少ない。(甲第7、31号証)

(2)平成12年分

  @被上告人(債務者)会員が埼玉県下における鑑定業務をほぼ独占していること

   「依頼先別の件数及び報酬」(甲第8号証)及び「裁判所における競売及び非訟事件のための評価」(甲第32号証)における、平成12年の埼玉県登録業者のうち被上告人(債務者)非会員8業者(甲第8、44号証の1の2)の合計収入は322万1千円で、埼玉県登録業者の合計収入金額20億4861万3千円の約0.15パーセントしかなく、被上告人(債務者)会員(埼玉県登録業者の約93パーセント)の収入が約99.8パーセントを占めている。

そして、平成12年の被上告人(債務者)非会員の平均収入は約40万3千円であったのに対し、被上告人(債務者)会員の平均収入は約1778万6千円であり、収入の差は著しい。

 A被上告人(債務者)非会員が国、地方公共団体、公社・公団・公庫等、裁判所から全く受託していないこと 

 同年の被上告人(債務者)非会員の上記収入の内訳は、不動産鑑定士坂入策司事務所合計0円、青木不動産鑑定事務所合計0円、三共株式会社(民間法人226万7千円)合計226万7千円、高岡不動産鑑定事務所合計0円、石井不動産鑑定事務所合計0円、堀江不動産鑑定事務所(民間法人15万4千円)合計15万4千円、東京合同鑑定事務所(民間法人80万円)合計80万円 、株式会社エル・シー・アール国土利用研究所合計0円であった。     上記内訳のとおり、埼玉県登録業者の被上告人(債務者)非会員は、国、地方公共団体、公社・公団・公庫等、裁判所からの鑑定評価業務を1件も受注できなかった。

また、民間法人、個人についても、被上告人(債務者)非会員は、被上告人(債務者)会員と比べ、受注件数、金額が、圧倒的に少ない。(甲第8、32号証)

 (3)平成13年分

  @被上告人(債務者)会員等が埼玉県下における鑑定業務をほぼ独占していること

   「依頼先別の件数及び報酬」(甲第9号証)及び「裁判所における競売及び非訟事件のための評価」(甲第33号証)における、平成13年の埼玉県登録業者のうち被上告人(債務者)非会員11業者(甲第9、44号証の1の3)の合計収入は1816万1千円であり、埼玉県登録業者の合計収入金額19億1107万9千円(上告人(債権者)日本経済研究所が東京都登録時に関して受注した分は除く。)の約0.7パーセントしかなく、被上告人(債務者)会員等(埼玉県登録業者のうち約91.5パーセント)の収入が約99.3パーセントを占めている。

そして、平成13年の被上告人(債務者)非会員の平均収入は約122万8千円であったのに対し、被上告人(債務者)会員等の平均収入は約1608万1085円と、収入の差は著しい。

    なお、西原不動産鑑定事務所は、後述のとおり、被上告人(債務者)と関係ある者であるので、被上告人(債務者)非会員から除いた。

 A被上告人(債務者)非会員が国、地方公共団体、公社・公団・公庫等、裁判所から全く受託していないこと 

    同年の被上告人(債務者)非会員の上記収入の内訳は、不動産鑑定士坂入策司事務所合計0円、青木不動産鑑定事務所合計0円、三共株式会社(民間法人879万6千円)合計879万6千円、高岡不動産鑑定事務所(民間法人48万円、個人30万円)合計78円、石井不動産鑑定事務所合計0円、堀江不動産鑑定事務所(個人6万6千円)合計6万6千円、東京合同鑑定事務所(民間法人101万9千円)合計101万9千円 、上告人(債権者)日本経済研究所(甲第9号証記載のものは東京都登録時に関する受注のみ)合計0円、西武不動産販売株式会社(個人285万円)合計285万円、福田不動産鑑定事務所合計0円、吉本不動産鑑定事務所0円であった。 

上記内訳のとおり、埼玉県登録業者の被上告人(債務者)非会員は、国、地方公共団体、公社・公団・公庫等、裁判所からの鑑定評価業務を1件も受注できなかった。

    また、民間法人、個人についても、被上告人(債務者)非会員は、被上告人(債務者)会員と比べ、受注件数、金額が、圧倒的に少ない。(甲第9、33号証)    

 (4)平成14年分

  @被上告人(債務者)会員等と被上告人(債務者)非会員等の収入の差が著しいこと

「依頼先別の件数及び報酬」(甲第78号証)及び「裁判所における競売及び非訟事件のための評価」(甲第79号証)における、平成14年の埼玉県登録業者のうち被上告人(債務者)非会員12業者(甲第78、90号証)の合計収入は945万1千円であり、埼玉県登録業者の合計収入金額27億9358万9千円の約0.03パーセントしかなく、被上告人(債務者)会員等(埼玉県登録業者のうち約91パーセント)の収入が約100パーセントを占めている。

そして、平成14年の被上告人(債務者)非会員の平均収入は約78万8千円であったのに対し、被上告人(債務者)会員等の平均収入は約2263万5千円と、収入の差は著しい。

なお、西原不動産鑑定事務所及びアークアプレイザルは、後述のとおり、被上告人(債務者)と関係ある者であるので、被上告人(債務者)非会員から除いた。

  A被上告人(債務者)非会員が国、地方公共団体、公社・公団・公庫等、裁判所から全く受注していないこと 

同年の被上告人(債務者)非会員の上記収入の内訳は、不動産鑑定士坂入策司事務所合計0円、青木不動産鑑定事務所合計0円、三共株式会社(民間法人286万2千円、個人50万円)合計336万2千円、高岡不動産鑑定事務所合計0円、石井不動産鑑定事務所合計0円、堀江不動産鑑定事務所合計0円、東京合同鑑定事務所(民間法人54万5千円)合計54万5千円、西武不動産販売株式会社(個人290万円)合計290万円、福田不動産鑑定事務所合計0円、吉本不動産鑑定研究所(民間法人102万5千円、個人92万円)合計194万5千円、北辰不動産アプレイザル 合計161万9千円、上告人(債権者)日本経済研究所合計0円であった。

 上記内訳のとおり、埼玉県登録業者で被上告人(債務者)会員及び被上告人(債務者)関係者でない事業者は、国、地方公共団体、公社・公団・公庫等、裁判所からの鑑定評価業務を1件も受注できなかった。

また、民間法人、個人についても、被上告人(債務者)非会員は、被上告人(債務者)会員と比べ、受注件数、金額が、圧倒的に少ない。(甲第78、79号証)

第3 被上告人(債務者)の上告人(債権者)に対する入会拒否が停止されるべきであること

   被上告人(債務者)は、平成11年9月に上告人(債権者)山口が被上告人(債務者)になした入会申込につき、平成12年3月13日付通知で、「(1)当協会(被上告人(債務者))は、強制加入の団体ではないこと。(2)貴殿(上告人(債権者)山口)のこれまでの言動は、当協会(被上告人(債務者))の健全な運営を乱す虞があることなどの理由により不承認となりましたので、その旨通知いたします。」(乙第34号証)と上告人(債権者)山口に対して、被上告人(債務者)への入会を拒否した。

   その後、上告人(債権者)日本経済研究所が平成13年1月19日に被上告人(債務者)に入会申込をしたが、被上告人(債務者)から入会承認不承認の結果や、審議経過も報告が一切ないまま、約3年もの間放置され、被上告人(債務者)は入会を事実上拒否している。

   上記2回に亘る被上告人(債務者)の上告人(債権者)に対する入会拒否が、独占禁止法に違反することは、以下のとおり明らかである。

 1 参入制限行為等禁止違反(独占禁止法8条1項5号、19条一般指定5項)

   独占禁止法8条第1項5号は、「事業者団体が、事業者に不公正な取引方法に該当する行為をさせるようにすること」を禁止しているところ、「不公正な取引方法」とは、同法第2条9項1号から6号までの各号の一に該当する行為であって、公正な競争を阻害するおそれがあるもののうち、公正取引委員会が指定するものである。(同法2条9号)

これに基づき、公正取引委員会は、すべての業種に適用されるものとして、昭和57年公正取引委員会告示第15号で「不公正な取引方法」(以下「一般指定」という。)を指定している。

一般指定5項では、事業者団体や共同行為において、不当に差別的に取り扱い、事業者の事業活動を困難にすることを対象とし、「事業者団体若しくは共同行為からある事業者を不当に排斥し、その事業者の事業活動を困難にさせること」を「不公正な取引方法」に指定している。

 (1)不当な加入制限

  @ 公正取引委員会の「事業者団体の活動に関する独占禁止法上の指針」(事業者団体ガイドライン、平成7年10月)

    同ガイドラインでは、「参入制限行為等」につき、「団体に加入しなければ事業活動を行うことが困難な状況において、不当に、団体への事業者の加入を制限し、又は団体から事業者を除名すること。」(5−1−3不当な加入制限又は除名等)の参入制限等に関する行為により、事業者団体が新たに事業者が参入することを著しく困難とさせることは、市場における競争を実質的に制限するまでに至らない場合であっても、独占禁止法8条1項5号に違反するとしている。

   本件では、前述のとおり、上告人(債権者)が、埼玉県下において被上告人(債務者)に加入しなければ不動産鑑定業務を行うことが困難な状況にあることは明らかであり、そのような状況において、被上告人(債務者)は、上告人(債権者)に対し、被上告人(債務者)への入会を不当に拒否し、上告人(債権者)の埼玉県下における市場参入を著しく困難とさせているものであるから、独占禁止法8条1項5号、19条の不公正な取引方法(一般指定5項前段)に該当する。

 A茨城県不動産鑑定士協会の入会制限が独占禁止法に違反するとされた判例(最高裁確定)

    平成15年2月28日に上告棄却(平成14年(オ)第1438号)、上告不受理決定(平成14年(受)第1464号)で確定した東高判平成14年6月27日判決(平成13年(ネ)第5274号損害賠償請求事件、甲第20号証8ないし9頁)では、「控訴人(社団法人茨城県不動産鑑定士協会)は、会員制の社交クラブのごとき私的な団体ではなく、不動産の鑑定評価に関する法律52条が設立されることを想定している法人である上、茨城県内において不動産鑑定業を営む事業者の唯一の事業者団体であり、公的機関からの信用も厚いことから、茨城県内における不動産鑑定業務の主要な発注者である公的機関からの依頼のほとんどが控訴人の会員に集中しているなどの事情から、茨城県内において控訴人に加入することなく不動産鑑定業を営むことが実際上困難であるという状況にある以上、独占禁止法の事業者団体に該当し、その新規入会を制限する行為が同法(独占禁止法)に違反する。」と判示されている。

  本件被上告人(債務者)も、本判決控訴人である社団法人茨城県不動産鑑定士協会と同様の性格をもつ、埼玉県内における不動産鑑定業の唯一の事業者団体であり、上記のとおり、埼玉県内において被上告人(債務者)に加入することなく不動産業務を営むことが実際上困難であるという状況にあるから、本判決に照らしても、被上告人(債務者)が上告人(債権者)の新規入会を拒否する行為が独占禁止法に違反することは明らかである。

(2)被上告人(債務者)の沿革上上告人(債権者)に対する入会制限が認められないこと

  @被上告人(債務者)の前身組織では日本不動産鑑定協会会員であれば会員となれたこと

    また、被上告人(債務者)は、上記のとおり、平成7年3月15日開催の日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会臨時総会の第1号議案で、「社団法人日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会から被上告人(債務者)への組織変更について」が異議なく承認された(甲第18号証)ところ、被上告人(債務者)の前身組織である日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会会則では、第6条で、「県部会員とは(日本不動産鑑定)協会の会員のうち埼玉県内に不動産鑑定事務所を有する不動産鑑定業者及び当該事務所に所属する不動産鑑定士等をいう。」と定められており(甲第17号証)、日本不動産鑑定協会の会員で埼玉県内に不動産鑑定事務所を有する不動産鑑定業者であれば、当然に、日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会会員となり、入会の承認等は全く必要がなかった。

赤熊証人も、日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会は日本不動産鑑定協会のワンセクションであったので、「その当時、部会員であれば、今の士協会(被上告人(債務者))に入会できたでしょうね。」と明言している。(赤熊証人尋問調書2−14頁)

A前身組織と同一の性格である被上告人(債務者)が、以前から日本不動産鑑定協会会員であった上告人(債権者)に対して入会拒否するのは不当であること

  また、被上告人(債務者)は、日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会が「組織変更」したものであるところ、組織変更とは、「会社等の法人が、人格の同一性を維持しながら組織等を変更して、異なる種類の(すなわち、異なる法律上の根拠を有する)法人となること。」であり、前身組織の人格の同一性を維持し、日本不動産鑑定協会のワンセクションとしての位置づけとなる筈である。

実際にも、各県部会は社団法人化をしたが、各都道府県でいずれも「日本不動産鑑定協会の団体会員」となっている(甲第15号証)。

そのように前身組織と同一の性格である筈の被上告人(債務者)が、新たに入会の承認等の要件を設け、組織変更前から日本不動産鑑定協会会員である上告人(債権者)に対し、同要件をもって入会拒否すること自体、上記沿革上そもそも不当である。

万一、同入会要件により、入会不承認とするときには、このような団体設立経緯に加え、被上告人(債務者)が不動産の鑑定評価に関する法律52条が設立することを想定している法人である上、埼玉県内において不動産鑑定業を営む事業者の唯一の事業者団体であり、上記のとおり埼玉県内における不動産鑑定業務の主要な発注者である公的機関からの依頼のほとんどが被上告人(債務者)会員に集中しているという状況下において、被上告人(債務者)に加入することなく不動産鑑定業を営むことが実際上困難であるという、入会拒否による業者に与える影響の重大性等からして、よほど明確かつ合理的で厳格な基準によるべきである。

2 上告人(債権者)の被上告人(債務者)への入会申込当時、入会要件である「理事会の承認」の判断基準が定められていなかったこと

  被上告人(債務者)は、定款第7条で、「入会申込書を会長に提出し、理事会の承認を得なければならない。」との、前身組織では全く存在しなかった入会要件を設けた。(甲第12号証)

  しかし、その入会要件である「理事会の承認」の判断基準等は、後述のとおり、上告人(債権者)山口の入会申込日平成11年9月7日、上告人(債権者)日本経済研究所の入会申込日平成13年1月19日当時には全く定められていなかったもので、被上告人(債務者)の上告人(債権者)に対する入会の不承認は、以下のとおり、合理的理由なく、恣意的なものであり、独占禁止法8条1項5号、19条に違反することは明らかである。

  なお、被上告人(債務者)らがその基準として主張する「会員及び会費規程」は、後述のとおり、平成13年7月17日頃作成されたものであり、上告人(債権者)の入会申込当時存在していなかったことは明白である。

 

3 上告人(債権者)山口の平成11年9月7日申込に対する被上告人(債務者)の入会拒否が不当であること

(1)被上告人(債務者)の入会拒否理由の不当性

 @ 被上告人(債務者)は、平成11年9月に上告人(債権者)山口が被上告人(債務者)になした入会申込につき、平成12年3月13日付通知で、「(1)当協会(被上告人(債務者))は、強制加入の団体ではないこと。(2)貴殿(上告人(債権者)山口)のこれまでの言動は、当協会(被上告人(債務者))の健全な運営を乱す虞があることなどの理由により不承認となりましたので、その旨通知いたします。」(乙第34号証)と上告人(債権者)山口に対して、被上告人(債務者)への入会を拒否した。

被上告人(債務者)は、同入会拒絶の理由の1つとして、「(1)被上告人(債務者)が強制加入団体ではないこと」を挙げるが、上記被上告人(債務者)の団体の性格、埼玉県内における被上告人(債務者)会員の独占的受託状況等からして、自由な裁量で、被上告人(債務者)への加入を制限することが独占禁止法上許されないことは、ガイドライン、上記判例(甲第23号証8、9頁)に照らして明らかである。

A そして、もう一つの理由として、「(2)上告人(債権者)山口のこれまでの言動は、被上告人(債務者)の健全な運営を乱す虞があるとする」が、この文言においては、上告人(債権者)山口のこれまでの誰に対するどのような言動が、被上告人(債務者)の健全な運営をどのように乱す虞があるのか全く具体的にされていない。

 被上告人(債務者)の入会拒否により上告人(債権者)が被る重大な損害に照らし、このように極めて抽象的な理由による入会拒否は、合理的理由があるとは到底いえず、恣意的で不当なものである。

 

(2)被上告人(債務者)が準備書面等で主張する入会拒否理由も不当であること

   被上告人(債務者)は、本件訴訟になって、上告人(債権者)山口を拒否した理由につき、以下の理由を主張するところ、その理由も、不合理で恣意的なものであることは明らかである。

@上告人(債権者)山口の日本不動産鑑定協会や東京都不動産鑑定士協会、被上告人(債務者)に対する訴訟提起等が、被上告人(債務者)の入会拒否の理由とならないこと

被上告人(債務者)は、平成11年9月に、上告人(債権者)山口が被上告人(債務者)へ入会申込をする前に、上告人(債権者)山口が、東京不動産鑑定協会や日本不動産鑑定協会を相手に、訴訟を提起して敗訴したことや、会長選挙での言動等を、理由として挙げるようである。(被上告人(債務者)準備書面(3))

  当時被上告人(債務者)の会長であった赤熊も、上告人(債権者)山口に対して理事会で入会を拒否した一番の理由は、「他の地域での(上告人(債権者))山口さんの言動が主ですね。」と証言している(証人尋問調書4−10頁)。

  しかし、これらの他の地域での言動を理由として、被上告人(債務者)が上告人(債権者)山口の被上告人(債務者)への入会を拒否することは、全く合理的でなく、不当である。

(イ)そもそも、上記訴訟の相手である「他の地域」、すなわち、東京都不動産鑑定協会及び日本不動産鑑定協会自体が、上告人(債権者)山口の訴訟提起につき、自分の会員として会内で処分対象とするなど何ら問題としていない。

 上告人(債権者)山口の選挙での言動等についても同様である。

  すなわち、上告人(債権者)山口は、平成11年9月に被上告人(債務者)に入会申込をする直前まで、東京都不動産鑑定士協会に入会しており、その間、同協会に対し訴訟提起や会長選挙出馬等していたものであるが、それらの言動につき、懲戒処分等(甲第54号証の2)一切受けていない。

 そして、被上告人(債務者)が平成12年3月13日に入会拒否した後の、同年4月18日にも、東京都不動産鑑定士協会は、上告人(債権者)山口の入会申込に対し、何ら問題とすることなく、再び入会することを直ちに承認している。

(ロ)また、日本不動産鑑定協会も、上告人(債権者)山口に対し、上記訴訟提起や会長選挙での言動につき、会員として全く処分等していない。

(ハ)このように、東京不動産鑑定士協会及び日本不動産鑑定協会が自ら問題としていない上告人(債権者)山口のそれらの言動につき、被上告人(債務者)が、自らは関係のないにもかかわず、それらの上告人(債権者)山口の言動を理由として、被上告人(債務者)への入会拒否の理由とすることが、著しく不合理であることは明白である。

A乙第20号証ないし22号証の文書が被上告人(債務者)の入会拒否の理由とならないこと

  また、被上告人(債務者)は、茨城県不動産鑑定士協会から、平成10年6月2日付(乙第20号証)、同年6月9日付(乙第21号証の1)、同年6月20日付(乙第22号証)各文書につき、一般人をして茨城県不動産鑑定士協会内部の決定に基づいて作成されたものと誤信せしめる外観を有しているところ、上告人(債権者)山口がそれらの文書を、無題で配布したことによって、茨城県不動産鑑定士協会に対する一般社会の信用が損なわれたとして、上告人(債権者)山口に対する被上告人(債務者)への入会拒否理由とするようである。

 (イ)乙第20ないし22号証が作成された経緯(茨城県下における鑑定業務受注状況等)

   これらの文書は、茨城県不動産鑑定士協会が当事者であった判決文(甲第19、20号証)からも明らかなとおり、茨城県内の税務署や市町村がほとんど茨城県不動産鑑定士協会会員に委託している状況下において、茨城県下で不動産鑑定業者が、同会に入会しないで不動産鑑定業務を行うことは実際に困難であった。

  このような状況下において、上告人(債権者)は、価格自由競争により市町村から固定資産税評価員に選任されることを目指し、後に上記判決で勝訴した酒匂悦郎とともに、平成10年4、5月ころ、茨城県の市町村に茨城県不動産鑑定士協会が同会員に勧めていた1評価地点あたり6万6880円よりも安い評価料である4万5千円、5万円などで見積した名刺を市町村に交付したり、見積書を内容証明郵便で送付した(甲58、83号証)。

    しかし、同年6月頃になると、茨城県各市町村は、従来どおりに茨城県鑑定士協会へ一括発注する方法によって次年度の固定資産税鑑定評価員を次々選任していったので、その選任から排除されそうになっていた茨城、千葉、東京の上告人(債権者)山口を含む若手グループが、収入の途を閉ざされる危機感と焦りから、上告人(債権者)グループの真意でないが、已むを得ず、茨城県不動産鑑定士協会に妥協する内容の上記書面を作成せざるを得なかったものである。(甲第58号証、上告人(債権者)山口本人尋問調書22、28頁)。

(ロ)乙第20号証の書面を茨城県不動産鑑定士協会が問題としていないこと

被上告人(債務者)は、同文書が、一般人をして茨城県不動産鑑定士協会内部の決定に基づいて作成されたものと誤信せしめる外観を有しており、同協会に対する一般社会の信用が損なわれたとして、上告人(債権者)山口への入会拒否理由の1つとするようである。

 しかし、同書面には、名義人欄に「茨城県不動産鑑定士協会所属酒匂悦郎、千葉県不動産鑑定士協会所属村上兼三、東京都不動産鑑定士協会所属不動産鑑定士13名、茨城県不動産国土庁地価公示担当者以上15名の代表山口節生」と各個人名等が記載されており、一般人をして茨城県不動産鑑定士協会内部の決定に基づいて作成されたものと誤信せしめる外観を有していないことは明らかである。

  それ故、茨城県不動産鑑定士協会は同書面を問題とせず、上告人(債権者)山口に対する懲戒請求においても、同書面を懲戒事由として全く挙げていない。(甲第87号証)

  にもかかわらず、部会者である被上告人(債務者)が、同書面を理由として、上告人(債権者)山口の入会拒否理由とすることは、全く不合理である。

 (ハ)乙第21の1の書面を上告人(債権者)山口は配布しておらず、茨城県不動産鑑定士協会も問題としてないこと

  被上告人(債務者)は、上告人(債権者)山口が茨城県不動産鑑定士協会会長の名前を勝手に使って乙第21号証の1の書面を配布したとして、理事会で審理し、被上告人(債務者)への入会拒否の理由としたようである(被上告人(債務者)準備書面(3)、赤熊証人尋問調書5−1頁)。

  しかし、同書面は、一見して明らかなとおり、同会会長名の名は1本線で抹消されているのであり(乙第21号証の1)、そのような書面を受領した者が、名前を抹消されている同会会長自らが作成、配布したものとは考えることは通常ありえず、被上告人(債務者)が主張するような、同書面が、一般人をして茨城県不動産鑑定士協会内部の決定に基づいて作成されたものと誤信せしめる外観を有しているとは到底言えまい。

    そして、茨城県鑑定士協会当時の会長井坂雄作成の書面(乙第21号証の2)からも明らかなとおり、上告人(債権者)山口は、井坂雄に対し、乙第21号証の1の書面を同会長名で、市町村に配布していよいか事前に尋ねたところ、同会長の同意が得られなかったので、上告人(債権者)山口は、同書面の配布を取りやめたのである。

  もし市町村に「社団法人茨城県不動産鑑定士協会会長井坂雄」の名を1本線で抹消した乙第22号証の1の書面が配布されたのであれば、グループの中の松村清一が配布したものである。(甲第58号証、上告人(債権者)山口本人尋問調書第8回30ないし31頁)

 上記のように、同書面は、井坂雄会長名を冒用したものでも、上告人(債権者)山口が配布したものでもないため、茨城県不動産鑑定士協会が会長井坂雄の当時なした上告人(債権者)山口に対する懲戒請求においても、懲戒事由として、同文書で井坂雄の名義を冒用されたり、同文書が市長村に配布されたことにより混乱を招き同協会の信用を著しく失墜させたようなどということは勿論、同文書については、一切挙げていない。(甲第87号証)

  このように、同書面は、当の茨城県不動産鑑定士協会が問題としていないにもかかわらず、同書面と全く無関係の被上告人(債務者)が、それを上告人(債権者)山口の入会拒否理由とすること自体全く不合理であるが、被上告人(債務者)は、同書面につき、上告人(債権者)山口が茨城県不動産鑑定士協会の井坂雄会長の名前を勝手に使ったという前提で、理事会で審議して上告人(債権者)山口の入会拒否理由の1つしたところ(赤熊証人尋問5−1頁)、理事会は上記のとおり著しく事実誤認して審理したものである。

(ニ)乙第22号証の書面を上告人(債権者)山口は配布しておらず、懲戒事由として有責とされていないこと

   同書面の名義人は、「東京都不動産鑑定士協会所属茨城県地価公示評価委員、千葉県不動産鑑定士協会所属茨城県地価評価員 以上15名鑑定士交渉代表山口節生」と記載され、茨城県不動産鑑定士協会名は一切出てこないのであるから、被上告人(債務者)が主張するような、一般人をして茨城県不動産鑑定士協会内部の決定に基づいて作成されたものと誤信せしめる外観を有していないことは明らかである。

    また、同文書は、上記茨城県下における固定資産鑑定評価受注状況下において、グループが騒然たる議論の中で、上告人(債権者)山口は、自ら作成したものはではなかったが、グループ代表となっていたので、グループの内の多数の求めにより押印したものであり、文書の配布は自ら行っていない(甲第58号証)。

  茨城県不動産鑑定士協会は、日本不動産鑑定協会に、同書面につき、平成12年固定資産税標準地評価替え時、同文書を市町村に流し、混乱を招き同協会の信用を著しく失墜させ業務活動に支障をきたしたことなどを懲戒事由として、上告人(債権者)山口を懲戒請求した(甲第87号証)。

  しかし、日本不動産鑑定協会では、上記懲戒事由とする事実について、真実と認めなかったか、問題がないと判断して、上告人(債権者)山口を有責としなかったものである。(乙第8号証)

  このように、日本不動産鑑定協会にて懲戒事由として有責とされなかった同書面に関し、被上告人(債務者)が上告人(債権者)山口の入会拒否理由とするのは全く不合理である。

B平成11年6月4日付書面で上告人(債権者)山口がそれまで裁判、公正取引委員会への申告等が根拠がないものと認めていないこと

被上告人(債務者)は、乙第23号証の書面をもって、上告人(債権者)山口が平成11年6月4日、日本不動産鑑定協会、東京都不動産鑑定士協会、茨城県不動産鑑定士協会等に対し、それまで上告人(債権者)山口が行ってきた裁判、公正取引委員会への申告等が根拠のないものであったことを認め、各事業団体に迷惑を掛けたことを謝罪する旨の文書を送ったと主張するようである。

 しかし、同文書は、その内容からも明らかなとおり、それまで上告人(債権者)山口が行ってきた裁判、公正取引委員会への申告等が根拠のないものであったことを認めたものでなく、被上告人(債務者)は勝手に歪曲して上記主張をしている。

 そして、上告人(債権者)山口が同文書を作成した経緯は、当時日本不動産鑑定協会の常務理事、公的土地評価委員長であり、地価公示の鑑定業務の割当てを担当していた清水文雄から、詫び状を書かなければ、地価公示の業務から外すと威迫されためであり、上告人(債権者)山口は、収入の途が閉ざされないよう、やむを得ず、清水文雄から言われたままの文章を作成して、提出したものである。

 不動産鑑定士で、上告人(債権者)山口とともに、鑑定業務受託における自由競争社会を目指していた酒匂悦郎も、清水文雄から同様の要求をされたが、それに従わなかったため、その年から、地価公示委員を外された。(上告人(債権者)山口第8回口頭弁論本人尋問調書23頁、甲第58号証、甲第19号証判決文4頁)

従って、同文書は、そもそも上告人(債権者)山口の真意でないうえ、被上告人(債務者)の主張するような、それまで行ってきた裁判、公正取引委員会への申告等が根拠のないものであったことを認めたものではない。

C入会申込後半年間被上告人(債務者)から上告人(債権者)山口に対し審理状況等連絡がなかったこと

(イ)被上告人(債務者)から上告人(債権者)山口に対し話合いを申し入れる電話がなかったこと

   被上告人(債務者)は、上告人(債権者)山口の被上告人(債務者)への入会申込が平成15年9月7日になされたが、理事会の審議で継続審議となったので、同年10月15日、電話で、上告人(債権者)山口に対して話し合いをしたい旨を連絡したと主張するようである。(被上告人(債務者)準備書面(3)4頁)

  しかし、上告人(債権者)山口は、同年10月15日、また、その他の日にも、被上告人(債務者)から話し合いを申し入れる連絡は一切なかった。(上告人(債権者)山口本人尋問調書2−6、甲58号証)

赤熊証言も、同年10月15日には、被上告人(債務者)から上告人(債権者)山口に対し、電話をかけていないと明言している(赤熊証人尋問調書4−12頁)。

(ロ)乙第25号証の1の書面が上告人(債権者)山口に通知されていないこと

  また、被上告人(債務者)は、上告人(債権者)山口に対し、乙第25号証の1の平成11年10月19日付書面で、上告人(債権者)山口と話し合いをしたいので都合の良い日を知らせるよう通知し、乙第25号証の2の配達証明書をもって、同書面が、平成11年10月19日に上告人(債権者)山口に配達されたと主張するようである。

  しかし、乙第25号証の2の配達証明書にかかる郵便物は、全く別の郵便物であったものであり、同書面ではない。

  そのことは、同書面の記載内容が明らかに不合理であることからも裏づけられる。

(a)すなわち、赤熊証人が上記のとおり同年10月15日に上告人(債権者)山口に電話していないと明言しているのも関わらず、被上告人(債務者)会長秋庁赤熊正保名義の同書面では、10月15日(金)の理事会当日の17時30分頃電話で上告人(債権者)山口と話しをした旨記載されているのであり、同書面の内容が全くの虚偽であることが明らかである。

(b)また、同書面の日付等は、埼鑑協57号平成11年10月19日とされているところ、常識的にも、また、赤熊証言からも明らかなとおり(証人尋問調書4−11頁)、本書が実際に作成されたならば、埼鑑協の番号は日付順に付されるものであるから、同書は平成11年10月19日に作成された筈である。

   しかし、書留・配達記録郵便物受領証(乙)及び被上告人(債務者)の事務員らしき手書メモによると、同配達証明にかかる郵便物は平成11年10月18日午前8時から12時の間に被上告人(債務者)から投函されたものであり、配達証明書によると、翌10月19日の18時から24時の間に上告人(債権者)山口に配達されたようである。(乙第25号証の2)

   上記のとおり、被上告人(債務者)が作成日ではなく、わざわざ配達される日を、通知書に記載するとは社会通念上考えられず、万一、配達日を記載する必要性があったならば、同郵便は通常郵便であり10月20日に到達する可能性も十分にあり得たのであるから、速達郵便としていた筈である。

   このような同書面の、虚偽内容の記載、不合理な日付からも、乙第25号証の1の書面が、乙第25号証の2の配達証明にかかる郵便物でないことは明らかである。

(c)被上告人(債務者)は、本件訴訟が提起されたが、平成11年9月7日に入会申込後平成12年3月13日の入会拒否通知を発送するまで、上告人(債権者)山口に対して、何ら、事情聴取や話し合い等を申し入れたり、審議経過を連絡をしていなかったことを不都合と思い、偶々、全く別の書面を送付した際の乙第25号証の2の配達証明書が存在していたことを奇貨として、同書面を同配達証明書の際発送したものとして捏造したものである。

   それ故、上記書面の内容を誤ったり、不合理な日付を記載してしまったと容易に推測できる。

(d)そして、このような上告人(債権者)に対し何ら事情聴取等もしない被上告人(債務者)の態度は、後述のとおり、平成13年1月19日に上告人(債権者)日本経済研究所が入会申込をなした際におけるのとも同様である。  

 

  D上告人(債権者)の被上告人(債務者)に対する訴訟が入会拒否の理由となり得ないこと

    被上告人(債務者)は、上告人(債権者)山口が、被上告人(債務者)に対して訴訟提起したことも、入会拒否の理由としてあげるようである。

 (イ)しかし、そもそも、裁判を受ける権利は、憲法32条で保障された国民の権利であり、上記のとおり、上告人(債権者)山口は、東京都不動産鑑定士協会や日本不動産鑑定協会にも訴訟提起等しているが、同協会らからは、それを理由として、入会拒否や懲戒処分等全くなされていない。

 (ロ)被上告人(債務者)は、平成12年12月5日、日本不動産鑑定協会に対し、上告人(債権者)山口の懲戒請求をし、その懲戒事由の中で、上告人(債権者)山口の被上告人(債務者)に対する訴訟を次のように挙げている。

   「平成11年10月18日浦和地方裁判所に士協会を被上告人(債務者)として無効確認訴訟及び損害賠償請求訴訟を起こしたが、裁判所の指定する法廷(12.1.17)に出席をしなかった。その間、「入会を認めれば訴訟は取り下げる」と恫喝してきた。また、茨城県の例や関東甲信会会長或いは公正取引委員会の名を借りて恫喝した。11.10.18、11.10.29、11.11.18、11.12.2、11.12.6」(甲第86号証)

しかし、被上告人(債務者)の請求する上記懲戒事由は、日本不動産鑑定協会において、有責とは全く認められなかった。(乙第8号証)

(ハ)従って、上告人(債権者)山口の被上告人(債務者)に対する訴訟は、何ら不当なものではなく正当な裁判権利の行使であり、被上告人(債務者)の上記主張するように、上告人(債権者)山口が恫喝を用いて、裁判を駆け引きの道具として利用したものでないことは明らかである。

 E 以上のとおり、被上告人(債務者)会員が埼玉県下における鑑定業務受託を独占している状況下で、被上告人(債務者)は、上記のとおり合理性のない恣意的な理由により、平成11年9月7日に上告人(債権者)山口がなした入会申込を同年3月13日に不当に拒否したものであり、独占禁止法第8条1項5号、19条の不公正な取引方法(一般指定5項)に違反することは明らかである。

4 上告人(債権者)日本経済研究所の平成13年1月19日申込に対する被上告人(債務者)の入会拒否が不当であること

(1)被上告人(債務者)の入会拒否が不当であること

 @入会申込から約3年間入会の承認又は不承認の通知さえせずに放置していること

   上告人(債権者)日本経済研究所は、平成13年1月19日に被上告人(債務者)に入会申込をしたが、被上告人(債務者)から、約3年もの間、入会の承認又は不承認、審議状況等何ら通知がきておらず、いわば、放置された状態で、入会を事実上拒否されている。(上告人(債権者)山口本人尋問第8回口頭弁論調書15頁)

  上記のとおり、被上告人(債務者)に入会しなければ埼玉県下の鑑定業務受託が困難な状況下で、被上告人(債務者)は、上告人(債権者)日本経済研究所に与える不利益の大きさを全く考えずに、理由はおろか、入会の承認又は不承認さえ通知しないのであり、そのような事実上の入会拒否が不当であることは、明白である。

A理事会での審議もほとんどなされていないこと

   被上告人(債務者)の平成13年1月24日の平成12年度理事会議事録には、同理事会で、議事「(7)山口節生鑑定士の入会申込みに係る対応について」、島村専務理事が緊急提案し、口頭により説明をし、@係争中であること。A平成12年3月13日理事会で入会を拒否していることを理由に、総員賛成可決で、上告人(債権者)日本経済研究所の入会申込書は受理しないこととした旨記載されている。(甲49号証の3)

   @の「係争中であること」が入会拒否の理由とならないことは前述のとおりであり、また、上告人(債権者)山口と上告人(債権者)日本経済研究所は別個の法人格をもつのであるから、A「平成12年3月13日理事会で入会を拒否していること」も被上告人(債務者)の合理的な入会拒否理由として認められないことは明らかである。

   しかし、被上告人(債務者)は、被上告人(債務者)への入会拒否という重大事項につき、何ら調査をせず、殆ど審議しないで1回の理事会のうちの短時間で決定したものである。

   それも、入会申込の5日後にそのような結果が出ているにもかかわらず、上告人(債権者)日本経済研究所に対し約3年もの間、何ら通知さえしていない。

   このような被上告人(債務者)の態度からしても、被上告人(債務者)が、上告人(債権者)日本経済研究所の入会申込に対し、如何にいいかげんに、恣意的に入会拒否をしたかがよく判る。

 B被上告人(債務者)準備書面(3)で主張する入会拒否理由に合理性がないこと

   被上告人(債務者)は、被上告人(債務者)準備書面(3)では、@上告人(債権者)日本経済研究所は実質的に上告人(債権者)山口と同じであり、上告人(債権者)日本経済研究所での申込は方便に過ぎないと思われること、A会規では業者(法人)が会員となった場合、その業者が法人であれば、同時に代表者である不動産鑑定士も会員になるとされていること(乙第33号証)、Bこれまでの上告人(債権者)山口等の言動等を考慮して、被上告人(債務者)は上告人(債権者)日本経済研究所に対する入会も拒否したと主張するようである。

   しかし、これらの理由も、合理的なものではなく、被上告人(債務者)が上告人(債権者)日本経済研究所を入会拒否するに値する正当な理由とならないことは、以下のとおり明らかである。

(イ)上告人(債権者)日本経済研究所での申込が方便でないこと

   上告人(債権者)日本経済研究所は、平成2年に会社設立され、同社の看板は、その本店所在地の事務所入口扉に掲げられている。(甲第56号証)

   そして、平成11年9月7日に被上告人(債務者)に入会申込をする前の東京都不動産鑑定士協会に入会していた際、また、被上告人(債務者)に平成12年3月13日に入会拒否された後に再度東京都不動産鑑定士協会に再入会した際も、社会的に信用性も高い会社形態である上告人(債権者)日本経済研究所であった。

   平成11年9月7日に上告人(債権者)山口節生不動産鑑定士事務所こと上告人(債権者)山口節生で被上告人(債務者)へ入会申込をしたのは、同入会前に、当時被上告人(債務者)会長であった赤熊正保に挨拶等しに行った際、赤熊から、被上告人(債務者)会員に鑑定業務を平均的に割当てるにあたり、裁判所の競売評価員に入りたいならば個人にした方がよいと勧められたためである。(上告人(債権者)山口本人尋問第8回口頭弁論調書10頁)

   その後、上告人(債権者)日本経済研究所が、平成13年1月19日に、被上告人(債務者)に再度入会申込をした理由は、平成12年11月30日から施行された埼玉県地価調査員指名規程により、埼玉県地価調査評価員の選任されるためには、第2条2項二で、申請日において、勤務地に基づき、国土長長官又は知事が登録した事務所が埼玉県内にあること、が資格要件とされた(甲第1号証)からである。(山口本人尋問調書第8回12頁、8、9、33頁、甲第54号証)。

   従って、被上告人(債務者)が主張するような、上告人(債権者)日本経済研究所での申込が方便などではないことは明らかであり、上告人(債権者)山口と上告人(債権者)日本経済研究所が別個の法人格であることは民法の原則からして当然である。

(ロ)会員及び会費規程が上告人(債権者)日本経済研究所の入会申込時に存在していなかったこと

  (a)県土整備部開発指導課総務・地価担当の受付・収受が平成13年7月17日であること

     甲第55号証の1及び甲第85号証の公文書開示決定通知書によると、「会員及び会費規程」は、平成13年7月16日には、知事の所管に属する公益法人の設立及び監督に関する規則の規定に基づく届出、報告書類及びその他提供資料としても受理されておらず、存在しなかった。

    同規程は、平成13年7月17日に受付収受されたものである。

    被上告人(債務者)が主張するように平成7年から同規程が存在していたのであれば、上記規則に基づき、その頃埼玉県に届け出ていた筈であり、平成13年7月17日に、突如、届け出たこと自体不自然極まりない。

  (b)甲第55号証の3と乙第33号証の「会費及び会費規程」の内容が全く同じであり、制定日等が捏造であること

     平成13年7月17日に受付収受された「会費及び会費規程」は、題目の左下に、「平成7年4月28日制定」と記載されているが(甲第55号証の3)、乙第33号証で提出されている「会員及び会費規程」には、題目の左下に、「平成7年4月28日制定」「平成11年11月19日一部改正」「平成13年1月24日一部改正」と記載されている。

しかし、甲第55号証の3の「会費及び会費規程」と乙第33号証の「会費及び会費規程」の規程内容は、一文字も違わない。

   また、平成13年1月24日に開催された理事会の議事録でも、「会費及び会費規程」の一部改正について審議等された事実、また同日から施行するなどの記載は一切ない。(甲第49号証の3)

     このように、「会員及び会費規程」は、上告人(債権者)会社の入会拒否を正当化するため、被上告人(債務者)が、平成13年7月17日頃に急遽作成し、それも、制定日等を捏造したものである。

 従って、上告人(債権者)日本経済研究所が入会申込をした平成13年1月19日に存在しておらず、被上告人(債務者)は主張するように、業者(法人)が会員となった場合、その業者が法人であれば、同時に代表者である不動産鑑定士も会員になるものではなかったのであるから、平成13年1月19日に被上告人(債務者)が上告人(債権者)山口に対し入会拒否したことや、上告人(債権者)山口の言動等を理由として、上告人(債権者)会社の入会拒否をする規程等の根拠は全く存しない。

 (ハ)被上告人(債務者)に対する上告人(債権者)の訴訟提起等が入会拒否理由とならないこと

    被上告人(債務者)が上告人(債権者)日本経済研究所の入会申込を不承認とした理事会までの上告人(債権者)山口の言動として、被上告人(債務者)は、上告人(債権者)の被上告人(債務者)に対する訴訟提起を挙げるようである。

  (a)しかし、前述のとおり、裁判を受ける権利は憲法32条で保障されており、東京都不動産鑑定士協会や日本不動産鑑定協会も上告人(債権者)から訴訟提起等されているが、それを理由に、上告人(債権者)に対し入会拒否したり、懲戒処分等していないのであり、「訴訟中であること」を理由とした入会拒否は認められない。

  (b)被上告人(債務者)は、平成12年12月5日付で日本不動産鑑定協会に対し、上告人(債権者)山口の懲戒請求をしたが、「平成12年3月13日浦和地方裁判所に再度、士協会を被上告人(債務者)として無効確認訴訟及び損害賠償請求訴訟を起こしたが、県知事選挙に関連付けて、いたずらに審議を長引かせている。」ことを懲戒事由の1つとしたうえ、平成14年2月21日、日本不動産鑑定協会懲戒委員会委員長代行に対し、懲戒案件に係る補強資料等の追加提出について(送付)として、次の資料を提出した。(甲第103号証)

  ・平成13年12月7日最高裁判所判決文(写し)(甲第24号証の3)

    平成13年(オ)第1388号損害賠償請求事件

    原審 東京高等裁判所平成13年(ネ)第915号無効確認及び損害賠償請求事件

  ・平成13年10月23日さいたま地裁判決文(写し)(甲第25号証の1)

    平成13年(ワ)第460号損害賠償請求事件

  ・上記2の上告に伴う東京高等裁判所の事件番号等について

   平成13年12月17日付「訴訟進行に関する照会書(回答書)」(写し)

  しかし、被上告人(債務者)が、このように熱心に日本不動産鑑定協会に対して働きかけたにも関わらず、平成14年5月21付の懲戒処分では上記訴訟は、一切有責とされていない。(乙第8号証)

従って、被上告人(債務者)が、上告人が被上告人(債務者)に対して上記の訴訟提起等をしたことを理由として、入会拒否の正当な理由とならないことは明らかである。

(ニ)茨城県不動産鑑定士協会に対する訴訟が不当でないこと

 日本不動産鑑定協会は、上告人山口に対する戒告処分の理由として、「茨城県不動産鑑定士協会代表者理事井坂雄氏に対し、監禁暴行を受けたとして水戸地方裁判所に訴訟を提起したものの、被請求者自身の主張自体矛盾があることなど不当な訴訟であることが認められること」、としている。

 その詳細は、上告人山口が、平成12年6月22日に茨城県不動産鑑定士協会代表者理事井坂を相手取って、暴行及び監禁を請求原因とする損害賠償請求事件(以下「甲事件」という。)を提訴し、ほぼ同一の内容をもって平成13年11月26日にも上告人日本経済研究所の代表者として、茨城県不動産鑑定士協会代表者井坂雄を相手取って、契約妨害を請求原因とする損害賠償請求事件(以下「乙事件」という。)を提訴して併合審理された。上告人山口は、甲事件においては「頭、顔をたたくなどの暴行を受けた」と主張しているのに対し、乙事件においては「机などをたたく、けるの暴行が行われた」との主張に変えており、それぞれの主張は矛盾しているので、係る訴訟の根幹をなす上告人山口自身の主張に矛盾があることなどに鑑みると、上告人山口の訴訟提起は不当なものであることが明らかである、とされている(乙第8号証)。

  しかし、上記戒告処分は、以下のとおり、上記判決の解釈を明らかに誤った上での判断であり、全く不当なものである。

(a)すなわち、そもそも甲事件と乙事件は上記のとおり併合審理されたため、暴行の態様等につき矛盾することは考えられず、判決書(甲第26号証の1)における上告人山口の主張したとされる請求原因でも、甲事件と乙事件において上記のような矛盾する主張がなされた旨の記載はない。

 また、そもそも、上告人(債権者)山口は、併合前の甲事件で、身体に対する暴行及び監禁、机などを叩くなどの主張の両方を行っていたものであり、上告人(債権者)山口の主張は甲事件と乙事件とで全く矛盾していない(上告人(債権者)山口本人尋問第8回口頭弁論調書7頁、第9回口頭弁論調書2−9、10頁)。

(b)また、判決(甲第26号証の1)上明らかなとおり、甲事件及び乙事件とも、被上告人(債務者)は「社団法人茨城県不動産鑑定士協会」であるが、上記戒告処分では、「茨城県士協会代表者理事井坂氏を相手取って」とされていることからしても、同懲戒委員会は、裁判手続、内容をよく理解していないことは明らかであり、上記のとおり、上告人(債権者)山口の主張の内容を誤読し、誤って、懲戒事由としてしまったものである。

   なお、上記訴訟は、実際に暴行や監禁の事実があったが、本人訴訟であったため、立証活動がうまくできなかった結果、判決で認められなかったものである。

(ホ)ホームページ掲載が個人的誹謗中傷を目的としたものでないこと

   また、被上告人(債務者)は、上告人(債権者)山口が、ホームページ上で、岩崎彰等を誹謗中傷する内容を繰り返し掲載したと主張するようである。  

    確かに、上告人(債権者)山口は、岩崎彰に関してホームページ上で掲載はしたが、それは岩崎彰を個人的に誹謗中傷することを目的としたものではない。

  上告人(債権者)山口は、当時、山口節生政治事務所のホームページとして、「何故に国会議員を目指すのか。贈り物をもらわない政治、人間を公正平等に扱う政治、24時間開業の行政・司法への転換」と題して、自分の政治信条や政策等をホームページ上で印刷するとA4で52ページほど掲載していたところ、当時日本不動産鑑定協会関東甲信会の副会長岩崎彰や被上告人(債務者)会長赤熊正保に関し、2頁も充たない分量で、「公的立場にあった赤熊氏と岩崎氏が、守らなければならない法規を守っていないということを、公的な立場で公共の利益を図るために」掲載したものである。

 (a)すなわち、当時関東甲信会の会長であった清水文雄が、被上告人(債務者)理事の岩崎彰宛に、上告人(債権者)山口を被上告人(債務者)に入会させるようファクシミリで正式に申し入れたのに対し、岩崎彰が「絶対に入れない」と言って清水と大喧嘩したのであるが、清水文雄によると、岩崎彰が、上告人(債権者)山口の被上告人(債務者)への入会に断固反対しているのは、「県知事選挙に出馬表明しているから。」、また、「信条が異なるからである。」との理由であると述べたとのことであった。

  そこで、上告人(債権者)山口は、公的立場にある岩崎彰が、上記理由から同入会拒否を強く唱えていることは、独占禁止法違反であり、また、公職選挙法225条3号違反すると考え、公的な観点から、ホームページへの掲載や告訴を行ったものである。(甲第54号証)

  (b)また、上告人(債権者)山口は、赤熊正保に対する告訴に関しても事実に基づくものであり、当時被上告人(債務者)会長であった赤熊は、上告人(債権者)山口が平成11年の埼玉県知事選挙に立候補しようとしていたところ、「ここ(埼玉)にくれば生活をできなくしてやる。」「埼玉県知事選挙に出るな。」「土屋義彦の応援をしてくれ、そして埼玉県知事選挙に出ないようにさせてくれと土屋義彦とその命令下にある選対にいわれた。」と威圧した。(甲第54号証、乙第29号証)

  なお、赤熊は、山口事案について(お願い)と題する文書で、分科会幹事及び各評価員の面前で、「『あなたのホームページの内容は根拠があるのか?』と質したところ、彼(上告人(債権者)山口)は、『あれは、事実でないことを書いた。』と答えた。即座に私は、『事実でないことか。』と確認したところ、彼(上告人(債権者)山口)は、『そうだ。』と明言した。ただし、反省のことばは一言も無かった。」と記載している(乙第30号証の2)

 しかし、上告人(債権者)山口は、本人尋問で、「彼(赤熊)が、僕(上告人(債権者)山口)があれを書いた(調書で「変えた」とされているのは誤り。)ことは事実であると言っているのに、事実じゃないと言ったと言っているのは、それは全くのうそでありまして」と明確に否定している(本人尋問調書第9回口頭弁論3−2頁)。

  岩崎仁三郎は、平成12年12月の同日の地価公示の分科会に出席し、そのときの様子を陳述書(乙第36号証)に記載しているが、赤熊がいうように上記出来事が大勢の面前でなされたのあれば、被上告人(債務者)側で同証拠を提出している同人は、当然、その出来事を同陳述書で記載している筈であるが、一切触れられていない。

 また、赤熊正保から上告人(債権者)山口に対し、虚偽告訴罪や、民事の損害賠償請求等何らしていない。(上告人(債権者)山口本人尋問第9回口頭弁論調書3−2頁)

 そして、平成12年12月5日付の被上告人(債務者)から日本不動産鑑定協会に対し、上告人(債権者)山口の懲戒請求を求め、懲戒事由として、「赤熊正保及び岩崎彰に対して、何ら謂われもないのに刑事告訴をしたが、本告訴については、平成12年11月30日証拠不十分による不起訴処分となった。」とことを挙げているが、懲戒処分で有責とされなかった(乙第8号証)。

 これらのことからも、上告人(債権者)山口が、赤熊正保や岩崎彰に対して告訴した内容は、事実に基づくものであることは明らかである。

 (へ)上告人(債権者)山口は、平成14年5月21日付で日本不動産鑑定協会から戒告処分を受けているが、その処分の理由である、茨城県不動産鑑定士協会が不当訴訟でないこと、及び、上告人(債権者)山口の赤熊正保及び岩崎彰に関するホームページ上の掲載は個人的に誹謗中傷を繰り返したものでないことは、上記のとおり明らかである。

 懲戒処分の種類は、(1)戒告、(2)1年以内の会員権の停止、(3)除名であるところ、上告人(債権者)山口に対する処分は、上記理由を合わせても、一番軽い戒告であったが、上告人(債権者)山口は、同処分に全く納得していない。(上告人(債権者)山口本人尋問第9回口頭弁論調書)

 日本不動産鑑定協会の定款(甲第88号証の1)や懲戒規程(同の2)には、同処分に対する不服申立制度が設けられていない(上告人(債権者)山口本人尋問第9回口頭弁論調書)ので、同処分を覆すのは困難であるが、上記のとおり、同処分が理由のない不当なものであることは明らかである。

 従って、同処分で上告人(債権者)山口が有責とされた事由を理由として、被上告人(債務者)が上告人(債権者)山口に対して入会拒否するのは全く合理性がない。

   

C 以上のとおり、被上告人(債務者)会員が埼玉県下における鑑定業務受託を独占している状況下で、被上告人(債務者)は、上記のとおり合理性のない恣意的な理由により、平成13年1月19日に上告人(債権者)山口がなした入会申込に対し、約3年もの間、承認又は不承認の通知もせず、不当に、事実上入会拒否しているもので、独占禁止法第8条1項5号、19条の不公正な取引方法(一般指定5項)に該当することは明らかである。

第4 被上告人(債務者)の高額な入会金徴収が停止されるべきこと

 1 入会金の5万円から80万円の16倍もの異常な値上

(1)被上告人(債務者)は、上告人(債権者)山口が被上告人(債務者)入会申込をした平成11年9月7日の直後の同月24日の臨時総会で、入会金を、5万円から80万円に値上げした。(甲第49号証の2)

   それも、その値上げの理由は、被上告人(債務者)の財政が特にひっ迫していたための財源確保等ではないので、会費等の値上げは同時に行っておらず、「士協会(被上告人(債務者))の財産を構成員で割れば80万円ぐらいになるわけです。当然、何も士協会(被上告人(債務者))に貢献していない者と言ったら失礼かもしれないけども、そういう者が入ってくるときには、それなりの評価をしていただいて入会していいただくということですね。」(赤熊証人尋問調書4−9頁)という、全く必要性も合理性もないものである。

   被上告人(債務者)の主張するような入会金の定め方は、入会金の名目で、入会金のみならず、入会前の会費数年分まで一括で支払わせようとするようなものであり、新たに入会しようとする者は、入会前には、被上告人(債務者)入会の利益を一切享受していないのであるから、そのような入会金の計算方法が、全く不当であることは明らかである。

(2)被上告人(債務者)が、入会金を5万円から16倍の80万円にまで値上げした異常な高騰ぶりは、東京都不動産鑑定士協会では、一般の不動産鑑定業者の入会金が8万円、不動産鑑定士は4万円とされていることからしても(甲第54号証の2)、明白である。

(3)このような異常に高額な入会金の値上げは、被上告人(債務者)への新規入会を制限し、既存の被上告人(債務者)会員の権益を守るためであることは明らかであり、実際に、他県の不動産鑑定士協会に比して突出して高額な被上告人(債務者)の入会金の負担に耐えられず、日本不動産鑑定協会へ文句を言って、被上告人(債務者)への入会を諦める者もいた(上告人(債権者)山口本人尋問第8回調書15頁)。

2 事業者団体の活動に関する独占禁止法上の指針(参入制限行為等)

 (1)前述のとおり、公正取引委員会の「事業者団体の活動に関する独占禁止法上の指針」の「参入制限行為等」では、事業者団体が新たに事業者が参入することを著しく困難とさせる行為、具体的には、「団体に加入しなければ事業活動を行うことが困難な状況において、不当に、団体への事業者の加入を制限し、又は団体から事業者を除名すること。」(5−1−3)は、市場における競争を実質的に制限するまでに至らない場合であっても、独占禁止法8条1項5号に違反するとしている。

そして、同指針では、事業者団体が、「社会通念上合理性のない高額に過ぎる入会金や負担金を徴収すること。」は、5−1−3における「不当に、団体への事業者の加入を制限」することに当たるおそれが強いことから、事業者団体に加入しなければ事業活動を行うことが困難な状況においては、違反となるおそれが強いとしている。

(2)上記埼玉県下において被上告人(債務者)会員が鑑定業務受託を独占している状況下で、被上告人(債務者)が5万円から16倍の80万円もの入会金値上げをしたことは、全く不合理で、新規会員の被上告人(債務者)への入会を阻害する目的又は効果をもつことは明らかであり、独占禁止法第8条1項5号、19条の不公正な取引方法(一般指定5項)に違反する。

また、上記埼玉県の鑑定業務受託状況においては、被上告人(債務者)の高額の入会金は、埼玉県内における不動産鑑定業者に係る事業分野における事業者の数を制限することになるから、独占禁止法8条1項3号にも違反する行為である。

(3)社団法人豊橋市医師会事件昭和55年(勧)第7号では、当該医師会に加入せずに独自に開業する場合には、学校医の推薦、優生保護法に基づく指定医師の指定にかかる業務、関係行政機関からの通達等の伝達等業務上必要な便宜の供給が受けられず、また、診療面で他の開業医の協力を求め難いこと等から、当該医師会に加入しないで開業医となることが一般に困難な状況の下で、地区内での病院又は診療所の開設を制限するとともに、その開設の制限を強化するため、開業医として入会する者から徴収する入会金の額を従来の倍額以上に引き上げることを決定したことが、法第8条1項第3号及び第4号違反とされた。

(4)同審決に照らしても、被上告人(債務者)の5万円から80万円の16倍もの値上げが、同法に違反することは明らかである。

第4 事例資料の閲覧等、業務補助者証明書につき被上告人(債務者)会員と被上告人(債務者)非会員との間の著しい差別が停止されるべきこと

 1 事例資料の閲覧等の被上告人(債務者)会員との差別

 (1)事例資料閲覧等が不動産鑑定評価業務に必要不可欠であること

    不動産鑑定士は、鑑定評価業務を行うにあたって、鑑定対象土地の近隣の事例資料を閲覧する必要があるところ、この事例資料は、国や都道府県が保有しているが、個々の不動産鑑定士が直接国や都道府県に閲覧を申請しても、個人情報が含まれているといった理由で閲覧を拒否されており、国や都道府県は、事例資料を一括して、各都道府県鑑定士協会に預け、個々の不動産鑑定士は、不動産鑑定士協会(埼玉県においては被上告人(債務者))において、これを閲覧できるにすぎない。(甲第58号証35頁)

    赤熊証人も、事例資料閲覧の重要性については、「(不動産鑑定士にとって、事例資料を閲覧するということは)非常に重要な評価のポイントになりますね。」「不動産の評価をするに当たっては、取引事例比較法という方式がありまして、それには、不動産の取り引きの事例を調べ、また、データを検証しながら、事例と対照、予算を比較しながら評価していくわけです、そのために重要です。」と明確に証言している(赤熊証人尋問調書4−5頁)

 (2)会員外の者の資料閲覧等手数料が被上告人(債務者)は他協会と比べ高額であること

    被上告人(債務者)の資料の閲覧規程による資料閲覧等の手数料は、被上告人(債務者)の会員であれば、利用料「なし」、事例の複写料(1枚につき)「100円」、その他の資料の複写手数料(1枚につき)「100円」であるところ、被上告人(債務者)会員以外の日本不動産鑑定協会会員等は、利用料「7000円」、事例の複写手数料(1枚につき)「500円」、その他の資料の複写手数料(1枚につき)「300円」と料金が著しく異なる。(甲第27号証の2)

これに比して、東京都不動産鑑定士協会の資料閲覧等の手数料は、閲覧料が同協会の会員であれば「無料」であるが、同協会会員以外の日本不動産鑑定士協会会員、他士協会の会員等であっても「2000円」であり、複写料は、同協会会員とその他の区別なく、一律、同じ手数料となっている。(甲第28号証)

従って、被上告人(債務者)の資料閲覧等の手数料は、被上告人(債務者)会員と被上告人(債務者)非会員とで、他の協会とも比べても、著しい差別がなされている。

 (3)上告人(債権者)は、被上告人(債務者)に入会できないことにより、鑑定評価業務に必要不可欠な事例資料の閲覧等の手数料が、被上告人(債務者)会員と比べて、かなり多額となり、鑑定評価業務において著しい困難が生じていることは明らかである。(甲第59号証) 

2 業務補助者証明書の交付についての被上告人(債務者)会員との差別

 (1)被上告人(債務者)における資料閲覧等で上告人(債権者)が業務補助者を使用できないこと

不動産鑑定業者は、事例資料等の閲覧等をするにつき、不動産鑑定士だけではなく、業務補助者を使用する必要があるが、上告人(債権者)は、被上告人(債務者)会員でないため、被上告人(債務者)から業務補助者証明書の発行を受けられず、業務補助者を使用することができない。

    これに対し、被上告人(債務者)は、会員でない鑑定業者の業務補助者に対しては業務補助者証明書を発行していないが、日本不動産鑑定協会の地域会が発行した業務補助者証明書があれば閲覧を認めていると主張するようである。(被上告人(債務者)準備書面(5)6頁)

    しかし、関東甲信会の事務員は、上告人(債権者)山口との会話で、関東甲信会の業務補助者証明書は関東甲信会においてのみ有効であり、同会の業務補助者証明書では被上告人(債務者)の資料閲覧等できない旨明確に回答している。(甲第65号証)

    従って、被上告人(債務者)会員でない上告人(債権者)は、被上告人(債務者)から業務補助者証明書の発行を受けられないため、被上告人(債務者)において、不動産鑑定評価業務上必要不可欠な事例資料の閲覧、複写等に業務補助者を使用することができない。

 (2)赤熊証言に信用性がないこと

    この点、赤熊証人は、被上告人(債務者)は被上告人(債務者)会員にも業務補助証を発行していない旨証言したが(証人尋問調書4−5頁)、それは被上告人(債務者)の上記主張とも矛盾する。

    また、赤熊証人は、東京都不動産鑑定士協会も独自に業務補助者証明書を発行していないと断言しているが(証人尋問調書2−7頁)、東京都不動産鑑定士協会の資料の収集、管理及び閲覧規程運用細則から同会で独自に業務補助者閲覧証を発行していることは明らかである(甲第28号証)。

    従って、赤熊証人は、業務補助者証明書の発行等に関して正確に把握していないことは明白であり、同証言は信用に値いしない。

3 上記被上告人(債務者)会員と被上告人(債務者)非会員との資料閲覧、業務補助者の交付に関する著しい差別は、独占禁止法8条1項5号及び19条の不公正な取引方法(一般指定1項正当な理由なき間接の取引拒絶(共同のボイコット)、一般指定1項正当な理由なき取引拒絶(共同のボイコット)、一般指定3項差別的対価)に該当し、同法24条により、停止が認められるべきである。

第5 被上告人(債務者)が市町村に対し固定資産鑑定評価員を推薦、斡旋することの停止が認められるべきこと

被上告人(債務者)は、埼玉県内の市町村から受注する固定資産税の標準宅地の鑑定評価業務について、被上告人(債務者)の会員を鑑定評価員に選任するよう各市町村に、不当に働きかけをし、また、同選任にあたって、被上告人(債務者)の会員のみ有利になうような選考基準の設定を市町村に働きかけ、上告人(債権者)と市町村との取引を排除している。   市場における有力な事業者が、取引先事業者に対し自己又は自己と密接な関係にある事業者の競争者と取引しないよう拘束する条件を付けて取引する行為又は取引先事業者に自己又は自己と密接な関係にある事業者の競争者との取引を拒絶させる行為を行い、これによって競争者の取引の機会が減少し、他に変わり得る取引先を容易に見いだすことができなくなる場合には、当該行為は独占禁止法8条1項5号、19条の不公正な取引方法に該当し、当然に違法となる(一般指定2項、11項排他条件付取引又は13項拘束条件付取引)。

   被上告人(債務者)は、後述のとおり、地価公示及び地価調査等以外の利益率のよい公的機関等の依頼の鑑定業務評価員に委嘱について、被上告人(債務者)会員及び被上告人(債務者)関係者のみを推薦もしくは斡旋しているのであるから被上告人(債務者)の構成事業者と競争関係にある上告人(債権者)山口及び上告人(債権者)日本経済研究所を市場から排除している。

 このような被上告人(債務者)の行為は、独占禁止法8条1項及び19条の不公正な取引方法(一般指定1項正当な理由なき取引拒絶(共同のボイコット))に該当するので、同法24条により、被上告人(債務者)に対して同行為の差し止めが認められるべきは明らかである。

   以下、詳述する。

 1 被上告人(債務者)会員等以外は固定資産鑑定評価員に全く選任されていないこと

第2、2項のとおり、平成11年から平成14年の埼玉県業者における「依頼先別の件数及び報酬」(甲第9ないし11、78号証)から明らかなとおり、埼玉県登録業者で被上告人(債務者)会員及び被上告人(債務者)関係者でない被上告人(債務者)非会員は、固定資産評価委員に全く選任されていない。

なお、被上告人(債務者)は、荒川村では被上告人(債務者)会員でない後藤計が選任されていると主張するが、同人は、被上告人(債務者)と密接な関係にある日本不動産鑑定協会の業務委員長であったことから、被上告人(債務者)が推薦もしくは斡旋して選任されたと十分に推測できる。(甲第104号証)

   このように固定資産鑑定評価員に被上告人(債務者)会員等しか選任されていないのは、以下の体制により、被上告人(債務者)が、市町村に対し、固定資産鑑定評価員を推薦もしくは斡旋しているからである。

 2 被上告人(債務者)と大多数の市町村が固定資産税鑑定業務に間する委託契約を締結していること

   被上告人(債務者)は、その前身である関東甲信会埼玉県部会のときから、平成6年度の評価替えための鑑定評価業務で不動産鑑定士へ鑑定評価の委託がなされるようになった以降、固定資産税の課税標準を定めるための地価調査に関し、平成7年度(平成9年度の評価替えのため)、平成10年度(平成12年度の評価替えのため)及び平成13年度(平成15年度の評価替えのため)に、埼玉県内の各市町村との間で鑑定評価の業務委託契約をして、各市町村からの鑑定評価の委託のとりまとめを行った。

このような体制下において、被上告人(債務者)は、各市町村に対し、被上告人(債務者)会員及び被上告人(債務者)関係者を固定資産鑑定評価員に推薦もしくは斡旋しているものである。

 (1)平成9年度評価替えについて

 @ 「固定資産税評価における平成9年度評価替え以降の鑑定評価の実施体制について」(平成6年10月12日自治評第43号、各道府県総務部長、東京都総務・主税局長あて自治省税務局資産評価室長通達)の「平成9年度評価替え以降の鑑定評価の実施についての取扱要領」では、埼玉県が被上告人(債務者)に対して、固定資産鑑定評価員となることを希望する被上告人(債務者)会員の鑑定士名簿のとりまとめを依頼するとされたが、被上告人(債務者)会員以外の鑑定士等にあっては、希望により埼玉県又は市町村から希望者名簿の交付を受け、希望する市町村に期日までに提出するとされていた。

そして、埼玉県が、被上告人(債務者)及び市町村から提出された希望者名簿から、各市町村の担当の固定資産鑑定評価員を推薦するとされ、市町村は、被上告人(債務者)に対して、「市町村の指定する固定資産鑑定評価員に鑑定評価を行わせ、その結果を報告させる業務及びこれに付随する業務」を委託する体制が採られていた。(甲第34号証の2)

 A このように、平成9年度評価替えにおいては、同内かんにより、埼玉県内の各市町村が、被上告人(債務者)又は被上告人(債務者)の前身である関東甲信会埼玉県部会と、鑑定評価に関する委託契約を締結することとされていた(甲第34号証の2)ところ、埼玉県の担当者が多数の鑑定業者の中から適切な者を選別することは、現実には不可能であることは明らかであり、希望者名簿の取り纏めの段階で、埼玉県と密接な関係にある被上告人(債務者)が、鑑定評価員の事実上の推薦を行っていたことは容易に推測できる。

荒川村の「鑑定評価対戦の経緯について」と題する書面にも、「一部の都道府県鑑定士協会で鑑定士の割り振りを行っていた(独占禁止法に抵触)という話も事実のようである。」と記載されている。(甲第34号証の3)

 (2)平成12年度評価替えについて

その後、契約自由の原則に復帰するため、平成9年12月3日自治評第43号 各道府県総務部長、東京都総務・主務局長あて自治省税務局資産室長通知にて、上記「固定資産税評価における平成9年度評価替え以降の鑑定評価の実施体制について」が廃止された。(甲第34号証の3、甲第34号証の4)

@ しかし、埼玉県では、県市町村課も出席のうえ「埼玉県市町村税務協議会資産税部会」で協議したところ、「申し合わせ事項」として、平成12年度評価替えにおける鑑定評価体制につき、基本的に平成9年度の評価体制に準じ、被上告人(債務者)と随意契約を締結することで合意を得た。(甲第36号証の2)

平成10年2月20日に、埼玉県市町村税務協議会資産税(土地)部会と被上告人(債務者)との間で「打ち合わせ」が行われた後、同年3月17日に、被上告人(債務者)から、埼玉県市町村税務協議会資産税(土地)部会宛てになされた「『平成12年度固定資産税標準宅地評価に係る希望者名簿の受付』について」と題する通知で、被上告人(債務者)が、平成12年度固定資産税標準宅地評価の希望者名簿をとりまとめ、埼玉県内の全92市町村(当時)及び埼玉県に回付するとされた。

 そして、同通知の第3項で、「固定評価員の希望者が直接市町村に申込みに来た場合、士協会(被上告人(債務者))がとりまとめ窓口となっている旨、お話しください。士協会(被上告人(債務者))の連絡先は以下のとおりです。」とし、その下に、被上告人(債務者)の名称、所在地、電話番号、FAX番号が記載されている。(甲第36号証の3)

A その後、平成10年3月19日、埼玉県市町村税務協議会資産税専門部会長から、埼玉県市町村税務協議会会員(固定資産税担当課扱い)宛てに「平成12年度鑑定評価実施体制について(通知)」が通知されたが、内かんが廃止されたにもかかわらず、埼玉県各市町村は、第1項「契約方法及び契約の相手方」としては、基本的に平成9年度評価体制に準じ、被上告人(債務者)と鑑定評価に関する委託契約を結ぶことで「合意を得た」とされた。

加えて、第5項「埼玉県不動産鑑定士協会(被上告人(債務者))に未加入の鑑定評価員等の希望の申込先」では、「埼玉県不動産鑑定士協会に加入していない鑑定評価員並びに直接市町村に申し出た鑑定評価員の希望者の申し込みについても協会(被上告人(債務者))が受け付けるものとされた」。(甲第36号証の2)

B 上記内容は、契約自由の原則に復帰するめに廃止された上記内かんよりも、契約自由の原則と逆行する内容となっており、被上告人(債務者)が、被上告人(債務者)会員のみならず、被上告人(債務者)非会員についても、固定資産評価員希望者の取り纏めを一手に行うこととされたもので、被上告人(債務者)非会員は、直接市町村へ営業活動を行うことが不可能とされた。

(3)平成15年度評価替えについて

@ 被上告人(債務者)の希望者名簿の取り纏め

 (イ)平成15年度の固定資産税評価替えにおいても、被上告人(債務者)から、「平成15年度固定資産税評価に係る希望者名簿について」を送付し、その通知で「(社)埼玉県不動産鑑定士協会(被上告人(債務者))では、平成15年度固定資産税評価に当たりましても、平成12年度の実施体制と同様に遂行して参ります。」と記載している。

    しかし、同通知は、平成13年2月7日に被上告人(債務者)会員及び埼玉県部会会員宛に送付されているが、同月23日が希望者名簿提出締切りとされ、その後の同月26日にアンケート会員及び固定資産鑑定評価員(平成12年度評価替)宛に同年3月6日締切りとして、2回に分けて送付されている。(乙第1号証)

そして、そのわずか6日後である同月12日に、被上告人(債務者)は、各市町村の資産税課・税務課宛てに、乙第3号証の「固定資産税鑑定評価員希望者名簿」を取り纏め、「平成15年度固定資産税標準宅地評価の評価員希望者名簿について(送付)」と題する書面で、「平成15年度固定資産鑑定評価員希望者名簿1部」(社団法人埼玉県不動産鑑定士協会会員)(社団法人東京都不動産鑑定士協会会員)を送付したとするところ(乙第2号証1頁目)、その名簿は乙第2号証4頁目の「平成15年度固定資産税標準宅地鑑定評価員名簿」のようであるが、同名簿には、埼玉県不動産鑑定士協会、東京都不動産鑑定士協会会員が混同であいうえお順に記載されている。

同名簿に記載されている者は全員、平成15年度固定資産税標準宅地鑑定評価員に選任されている。(乙第2号証4ページ目、乙第45号証)

(ロ)他方、上記市町村への送付状には、埼玉県不動産鑑定士協会会員及び東京都不動産鑑定士協会以外の会員名簿については一切触れられておらず(乙第2号証1頁目)、乙第2号証3頁目の「士協会会員外県内業者名簿」が各市町村の資産税課・税務課宛てに実際に送付されたかどうかも疑わしい。

そして、上告人(債権者)日本経済研究所も掲載されている「士協会会員外県内業者名簿」の業者は、一人も、上記「平成15年度固定資産税評価員名簿」に掲載されておらず、平成15年度固定資産税評価員に選任されていない(乙第2号証3頁目、乙第45号証)。

(ハ)上記の事情から、被上告人(債務者)が、わずか6日後に乙第3号証の希望者名簿を取り纏めたとして、「平成15年度固定資産税標準宅地評価員希望者名簿」(乙第2号証4頁目)を各市町村に送付しているのは、その鑑定評価員の割当てが上記希望者名簿提出案内前に被上告人(債務者)会員及び被上告人(債務者)の関係者に実際はほぼ決まっているためであると十分推測できる。

このことは、赤熊が、平成の初めころから切れ目なく、安定的に固定資産税の標準宅評価員に選任されており、平成15年度も平成12年度と同じ、上尾市及び隣の伊那市で引き続き選任されていることからも裏づけられる。(赤熊証人尋問調書3−8頁)

従って、被上告人(債務者)が、上記希望者名簿提出以前に、各市町村に対し、平成15年度固定資産鑑定評価員を割当て推薦もしくは斡旋していたことが十分推測される。

 

A 埼玉県からの通知等により新規参入が困難とされていること

    埼玉県と被上告人(債務者)は、上記のとおり沿革上も、人的交流も密接な関係にあるところ、平成13年5月22日、埼玉県総合政策部市町村課長から、各市町村税務主幹部(課)長(固定資産税担当課扱い)宛て、「平成15年度固定資産(土地))の評価替えに係る鑑定評価体制について(通知)」(市第446号)が通知され、「不動産鑑定評価業務の委託について」に留意点が記載され、新規参入者が固定資産税評価員に選任されることが著しく困難な基準が示された。(甲第37号証の2の2)。

同通知を受けて、白岡町等などでは、固定資産税鑑定員選考基準として、新規参入者の参入がほぼ不可能な基準が設けられた(甲第38号証の2)

このように被上告人(債務者)会員に著しく有利な埼玉県の通知における基準、白岡町等の基準が設けられたのは、埼玉県、市町村と密接な関係にある被上告人(債務者)の強力な働きかけによるものであることは、第7第2項(2)の土地評価業務委託制度創設準備会議で、被上告人(債務者)の前身組織が埼玉県に対し「土地評価委託について県知事登録業者に限定して欲しい。」などと要求していることからも明らかである。

 

 2 個々の業者が市町村へ自由な営業活動ができないこと

 (1)固定資産税評価員選任システム上不可能であること

    上記のとおり、埼玉県内では、遅くとも、平成12年度の固定資産税評価替えの際から、被上告人(債務者)が、被上告人(債務者)非会員分の希望者名簿も、全て一括して取りまとめることとなり、そのシステムは現在も続いている。

    このようなシステムにおいては、個々の業者が直接市町村に鑑定評価員の希望を申し出ても、被上告人(債務者)がとりまとめ窓口となっているので、被上告人(債務者)へ希望者名簿を提出するように告げられるのみで、個々の業者が自ら市町村に営業活動をすることは形式的にも不可能なことが明らかである。

(2)被上告人(債務者)元会長、現顧問の赤熊正保の個々の業者の営業活動は独占禁止法上問題との認識であること

 被上告人(債務者)元会長で、現顧問の赤熊正保は、「業者が、鑑定評価の金額を提示して営業活動を行うということは、独禁法上、問題がある可能性があるので、私どもでは、していないはずですね。」「(個々の業者が)見積書じゃなくて、こういう金額ならやれるとか、この金額じゃできないとか、そういうことは業者としては発注先に言えませんので、それはやっていないはずです。」「(受注行為において、価格を提示して受注の勧誘行為を行うということは、独禁法上問題が)あると思ってますけどね。公取も、そういう見解じゃないですか。」と明確に証言している。(赤熊証人尋問調書3−3ないし5頁)

すなわち、被上告人(債務者)は、個々の業者が、市長村に対して自由な営業活動を行うことに対して、独禁法上問題があると全く誤って認識しており、そのような活動を許していないし、していなかった筈であるとのことである。

従って、埼玉県下で、個々の業者が市町村に対し自由な営業活動を行い得ず、固定資産鑑定評価員希望者は被上告人(債務者)を窓口として希望する体制が確立していることは、上記赤熊証言からも明白である。

3 被上告人(債務者)が市町村に対し鑑定評価業務受託を積極的に働き掛けていること

社団法人日本不動産鑑定協会甲信会の「かいほう」14.1bQ7では、被上告人(債務者)の当時の会長である高橋正光が、「平成15年固評鑑定評価受託状況」として、「埼玉県は県下90市町村よりなるが、01年12月現在、士協会(被上告人(債務者))契約72、個人契約14、未定4という契約状況である。報酬は66,000円(事務費こみ)を標準としており、公取問題がさわがれている中、まずまずの成果を得たものと思われる。」と掲載している。

このような、被上告人(債務者)会長の記載は、被上告人(債務者)が市町村に対し鑑定評価業務受託を積極的に働き掛けていることを十分に推測させるものであり、そのような働きかけは、個々の不動産鑑定業者が個別に市町村と鑑定業務を受注することを制限する効果を有するところ、埼玉県下においては上記のとおり個人の営業活動も不可能な状況であり、独占禁止法上問題であることは明らかである。(乙第9号証3頁Q2A2)

 4 市町村の鑑定評価員委嘱前に被上告人(債務者)から市町村に対して鑑定評価員の推薦もしくは斡旋がなされていること

被上告人(債務者)は、市町村と業務委託契約締結をする過程として、市町村と委嘱された鑑定評価員との間で決定した鑑定評価料をもとに、被上告人(債務者)と市長村が業務委託料を見積金額として算出し、業務委託料を決定すると主張するようである。(被上告人(債務者)準備書面(2)他)。

 しかし、実際には、次に述べるとおり、市町村が鑑定評価員を委嘱する前に、被上告人(債務者)と市町村との間で業務委託契約が締結されており、市町村の委嘱前に、鑑定評価員が被上告人(債務者)の推薦もしくは斡旋により内定しており、鑑定評価料が決められていることが明らかである。

(1)被上告人(債務者)が主張する業務委託契約締結過程(被上告人(債務者)準備書面(2))

@ まず、市町村が評価員を選ぶ前の段階で、評価員希望書名簿の提出を希望する市町村に対し、被上告人(債務者)は希望者全員の名簿を提供する。なお、この間、各不動産鑑定士は、別個に、自由な営業活動も行っている。(同主張が事実でないことは第5第2項のとおりである。)

A 次に、被上告人(債務者)が提出した名簿や各不動産鑑定士の営業活動を参考に、市町村は独自の判断で、複数の評価員希望者に対し、見積書の提出を求め、これに応じて評価員希望者が鑑定評価料(1地点あたりの金額)を記載した見積書を自治体に提出する。(甲11)

B 市町村は、評価員希望者から提出された見積書を基に鑑定評価料を決定し、当該金額で鑑定評価業務を受託するつもりがある評価員希望者の中から評価員を選任し、委嘱状(乙11)を発することにより鑑定評価業務を委託する。

 C 市町村と評価員との間で鑑定評価料(1地点あたりの金額)に関する合意が成立し、評価員の選任が行われた後、市町村は、被上告人(債務者)に対し、選任された評価員を通知し(乙12)、評価員との間で決定された鑑定評価料(1地点あたりの金額)と地点数とを被上告人(債務者)に伝えるとともに、見積書の提出を求める。

     これに対し、被上告人(債務者)は、鑑定評価料(1地点あたりの金額)に地点数を乗じた金額に、被上告人(債務者)が行う業務に対する報酬・経費を加えた合計額を見積金額として算出する。(甲11の「平成13年10月12日付け見積書」)

D Cの金額を基に市町村と被上告人(債務者)との間で業務委託契約を締結する(甲1)

(2)固定資産税における鑑定評価体制(概念図)(甲36号証の4)が上記  過程と異なること

     上記の、平成10年3月19日付埼玉県市町村税務協議会資産税専門部会長から、埼玉県市町村税務協議会会員(固定資産税担当課扱い)宛ての「平成12年度鑑定評価実施体制について(通知)」の添付資料2(甲第36号証の4)によると、「固定資産税における鑑定評価体制(概念図)」の順序として、F市町村と被上告人(債務者)の鑑定評価業務に関する委託契約締結、G担当鑑定評価員の決定及び委嘱、H鑑定評価人を県と協会(被上告人(債務者))へ通知とされている。

これによると、そもそも、埼玉県市町村税務協議会と埼玉県市町村税務協議会会員との間で、市町村と被上告人(債務者)の鑑定評価業務に関する委託契約が、市町村が鑑定評価員に委嘱する前に締結される段取りになっており、被上告人(債務者)が主張するような、担当鑑定評価員への委嘱後に、その評価員と市町村で決定された金額をもとに、被上告人(債務者)が見積を出して、市町村と業務委託契約を締結するものではないことは明らかである。

  (3)春日部市等における業務委託契約が上記過程と異なること

   春日部市の被上告人(債務者)との平成15年度の固定資産税宅地評価業務委託契約締結の実際の過程は以下のとおりであり、被上告人(債務者)の主張する上記経過とは明らかに異なる。

   平成13年9月7日   鑑定評価員希望者が春日部市に見積書提出

                1点65,000円(甲11)

     9月10日   鑑定評価員希望者が同市に見積書提出

      1点65,270円(甲11)

     9月11日   鑑定評価員希望者が同市に見積書提出

      1点65,200円(甲11)

  10月9日   同市が被上告人(債務者)に対して見積書提出依頼(乙13)

      10月12日   被上告人(債務者)が同市に見積書提出(甲11)

    10月18日   被上告人(債務者)と春日部市が業務委託契約書締結(甲11)

    10月22日   同市が鑑定評価員を委嘱(乙11)

これによると、同年10月18日に被上告人(債務者)と春日部市との間で業務委託契約書が締結された(甲11)後に、同月22日に春日部市から鑑定評価員を委嘱されており(乙第11号証)、春日部市が鑑定評価員を委嘱する前に、被上告人(債務者)と春日部市との間で業務委託契約が締結されている。

また、業務委託契約書(甲第11号証)のうちの「固定資産税評価(土地)における鑑定評価実施要領」でも、第6、3項で、「市が委嘱した鑑定評価員及び鑑定評価地点数について、業務受託者へ通知する。」と定められており、鑑定評価員嘱託が被上告人(債務者)との業務委託契約よりも後に予定されていることは明らかである。

上記条項は、川口市等においても、定められている。(甲第5号証契約条項19条)

従って、埼玉県内市町村において、委嘱した鑑定評価員との間で決定した鑑定評価料をもとに、被上告人(債務者)が同市に対して見積書を提出し、鑑定評価業務に関する委託契約を締結するという過程がとられていないことは明白である。

  (4)被上告人(債務者)は、被上告人(債務者)の会員であると否とを問わず、不動産鑑定士全員から希望をとって、名簿をそのまま各市町村に送るだけであり、被上告人(債務者)は書類の取り纏めといった事務的な手続を行っているに過ぎないなどと主張するが、上記のように、市町村の鑑定評価員委嘱前に、被上告人(債務者)が市町村と鑑定評価業務を締結することが可能なのは、予め、被上告人(債務者)によって推薦もしくは斡旋された鑑定評価員がそのまま市町村から委嘱を受けることになっているからである。

  5 白岡町が被上告人(債務者)に鑑定評価業務を委託した理由

   白岡町は、平成15年度固定資産評価替えに係る鑑定業務の委託契約の相手先として、被上告人(債務者)に業務委託するとした。

   そして、同町が被上告人(債務者)を契約相手に選定した理由の1つとして、「個人で業務を営む鑑定士と契約した場合は、健康状況などにより万一、業務の執行が出来ない評価替えの準備に支障を来すことも考えられます。契約の相手方としては複数の鑑定士が所属する法人が望まし」いことが挙げている。(甲第37号証の1)

   しかし、同市が被上告人(債務者)と鑑定評価業務に関する委託契約をしたとしても、被上告人(債務者)自身が鑑定評価業務を行うわけではなく、個人の不動産鑑定士等を固定資産鑑定評価員に選任する筈であり、実際に、同市は、平成15年度固定資産税標準宅地鑑定評価員として、渋谷不動産鑑定士事務所の渋谷正雄、大竹不動産鑑定事務所の大竹七郎、轄ェ岸綜合鑑定事務所の根岸一雄、石川不動産建築総合鑑定事務所の石川松雄を委嘱している。

 にもかかわらず、被上告人(債務者)との鑑定評価に関する業務委託契約締結の理由として上記理由を挙げるのは、被上告人(債務者)が被上告人(債務者)会員及び被上告人(債務者)関係者の中から鑑定評価員を推薦もしくは斡旋するというシステムとなっているので、それに基づき市が委嘱した鑑定評価員が病気等で業務執行不可能等になっても、被上告人(債務者)が被上告人(債務者)会員等の中から新たに鑑定評価員を推薦もしくは斡旋するので同市としては安心であるということに他ならない。

    

6 赤熊正保証言

  赤熊証人は、上記のように被上告人(債務者)事務局が希望者名簿のとりまとめ窓口となっている理由として、「なんでといいますと、複数の鑑定士がいろんな市町村に希望を出したりしてますし、希望が出てこない市町村があるといけないというんで、やっぱり名簿を出してくださいと。」と証言している。(同人証人尋問調書5−4)

この証言は、複数の鑑定士がいろんな市町村に希望を出したときは被上告人(債務者)が調整して推薦もしくは斡旋し、希望者が出てこない市町村には被上告人(債務者)が不動産鑑定士等を割り当てて推薦もしくは斡旋していることを意味するに他ならない。

 また、赤熊は、「(市町村のほうで、希望者名簿のとりまとめ等事務的なことをやる能力というのが)ないというか、全然ないというわけじゃないでしょうけど、やはり、市町村とすれば、どこか信頼できるところに一本に連絡先を作りたいというのあったんじゃないですかね。」と証言しているところ(同人証人尋問調書5−4ないし5−5)、希望者名簿のとりまとめ等事務能力さえない市町村が、鑑定希望者名簿をそのまま送られたとして、その中から、適切な鑑定人を選任できる能力があるとは到底考えられず、この発言からも、被上告人(債務者)が、市長村に対し、鑑定評価員を推薦していたことが十分推認される。

7 各市町村の担当の証言等

  上告人(債権者)は、平成15年度の固定資産税評価員の受託のため、埼玉県下の市長村を大部分を営業で訪問したが、「平成13年5月頃までは、競争させるし、業者登録しているのはあなたのほかに5名しかいないからということで、皆野町も都幾川村も見積書を出させると言っていたのに、」「6月1日以降は一切話も受け付けてもらえ」なかった。「13年6月以降は行っても、もう決まったような言い方をして、毎度毎度同じだと、12年度そのままだという言い方でした。」(上告人(債権者)山口本人尋問1−6ないし8)。ということで、結局、1市長村からも見積書も出させてももらえなかったのである。

  それは、平成13年6月頃に、被上告人(債務者)から推薦もしくは斡旋した固定資産評価員を、各市町村がそのまま選任したためであり、それは、次の蓮田市、杉戸役場、白岡町役場の担当者の発言からも明らかである。

 @蓮田市の江澤正夫税務課長の証言

 平成14年6月28日、蓮田市の江澤正夫税務課長は、上告人(債権者)山口との会話の中で、被上告人(債務者)が推薦した固定資産鑑定評価員を同市がそのまま選任することを明確に認めている。(甲第62号証の1、2)

・山口「鑑定協会(被上告人(債務者))は大体、あのー推薦でこの前のあのー3名、いや4名だったか。」

 江澤「言ってくるからね。」

・江澤「平成9年、あれー前回の平成12年というか11年1月1日の評価の時も推薦だったんでしょ。」

・山口「鑑定士協会(被上告人(債務者))名簿は僕は入っていないけど、入っている人の名簿がくるのね。」

 江澤「名簿はこないんじゃないですか。」

 山口「名簿はこない、じゃー、直接この人とこの人にと、」

 江澤「うん、うん、そういうことですね。」

 山口「お願いしてくださいってきますか。」

 江澤「直接でしょう。」

・山口「それは一応は人選は推薦どおりでしょう。」

 江澤「そうですね。」

・江澤「推薦はすることになるでしょう。誰が考えたって当然ね。」

A杉戸町役場税務課武井税務主幹の証言

平成14年6月28日、杉戸町役場税務課の武井税務課主幹は、上告人(債権者)山口との会話の中で、被上告人(債務者)が推薦した固定資産鑑定評価員を同市がそのまま選任することを明確に認めている。(甲第63号証の1、2)

・武井「従来協会(被上告人(債務者))との契約で、協会(被上告人(債務者))との単価契約でね、ですからあのー、実際の鑑定士もそちらの方から選んでいくということ」

 山口「鑑定協会(被上告人(債務者))に入っていないと、じゃー入れないんじゃないですか。」

武井「まー、現状その今までのやり方でいくと。」

山口「業務委託だからそうだよね、」

武井「まー、そうですね。そういうことになりますね。」

・山口「鑑定士協会(被上告人(債務者))の名簿があるわけだから。」

 武井「はい。」

 山口「そこから選ばないとだめでしょ。」

 武井「そうですね。」

  ・武井「具体的に直接あのー、人選に関してですね、あのーむこうから。」

・武井「もうある程度契約の段階ですからね。」

山口「契約はもう士協会(被上告人(債務者))でやっている可能性が高いということですね、それはもう武井さんはもう、その段階だから契約が進んでいる可能性が高い、業務委託契約という形であるということはだいたい一応決めてる。」

・武井「そうですね。」

  B白岡町役場の折原喜代子課長補佐の会話

平成14年6月28日、杉戸町役場税務課の武井税務課主幹は、上告人(債権者)山口との会話の中で、被上告人(債務者)が推薦した固定資産鑑定評価員を同市がそのまま選任することを明確に認めている。(甲第64号証の1、2)

・山口「あれ(固定資産鑑定評価)は鑑定協会(被上告人(債務者))との契約でしたかね。」

   折原「はい、鑑定士協会(被上告人(債務者))ですね、そうです。」

山口「人選でほとんどの人が推薦があっているといってるけど、やっぱ推薦があってるんでしょうかね。」

折原「あったと思うんですよ。まえから、大体決まっているんですよね。割り当てがね。えー。」

・山口「推薦があって大体その通りやったという感じですかね。」

折原「そうですね。」

・山口「こっち(白岡市)で人選しろといっても、誰か分からないんですよね。」  

 折原「そうですね。」

折原「士協会(被上告人(債務者))と委託契約するしかない、そうですよね。」

 8 岐阜県不動産鑑定士協会に対して警告等された状況と同様であること

 (1)公正取引委員会は、平成13年3月1日、社団法人岐阜県不動産鑑定士協会が、岐阜県内の市町村が発注する平成12年度の固定資産評価替えに係る標準宅地の鑑定評価業務について、一括して「鑑定評価に関する業務委託契約」を締結することとし、会員が市町村と個別に契約することを認めず、市町村に働きかけるなどして、会員が市町村と個別に契約できないようにさせていた疑いがある行為が認められたので、協会に対し、独占禁止法8条1項4号(事業者団体による構成事業者の機能又は活動の不当な制限の禁止)に違反するおそれがあるものとして、今後、同様の行為を行わないよう警告を行った、とされている。

岐阜県内の市町村のほとんどは、協会と「鑑定評価に関する業務委託契約」を締結しており、協会は、同契約に基づき、固定資産評価替え業務に関し、(1)会員である不動産鑑定士等に鑑定評価を行わせる、(2)不動産鑑定士等の行った鑑定結果を市町村に報告する、(3)鑑定評価の対価として不動産鑑定士等に報酬を支払う等の業務を行っているとされた。(甲第14号証)

(2)上記のとおり、被上告人(債務者)においても、被上告人(債務者)非会員の固定資産鑑定評価員の希望者名簿までも取り纏める体制を確立し、埼玉県内にあるほとんどの市町村と鑑定評価に関する業務委託契約を締結しており、同契約に基づき、固定資産評価替え業務に関し、(1)被上告人(債務者)会員又は被上告人(債務者)関係者の不動産鑑定士等に鑑定評価を行わせ、被上告人(債務者)非会員には行わせない、(2)不動産鑑定士等の行った鑑定結果を市町村に報告する、(3)鑑定評価の対価として不動産鑑定市等に報酬を支払う業務を行っている。(甲第5、10、11号証)

  従って、被上告人(債務者)は、公正取引委員会から警告等を受けた岐阜県鑑定市協会と同様の状況で、市町村との間で固定資産税鑑定評価業務に関する契約締結を行っているものである。

     

第6 被上告人(債務者)の国税庁等に対する路線価価格評価員の推薦、斡旋の停止が認められるべきこと

被上告人(債務者)は、国税庁が発注する路線価価格の鑑定評価業務について、日本不動産鑑定協会と共同して、埼玉県内の事務所長に被上告人(債務者)の会員のみを鑑定評価員として推薦したり、不当に働きかけて、上告人(債権者)と国税庁、国税局との取引を排除しており、独占禁止法8条1項及び19条の不公正な取引方法(一般指定1項正当な理由なき取引拒絶(共同のボイコット))に該当するので、同法24条により、被上告人(債務者)に対して同行為の差し止めが認められるべきは明らかである。

   以下、詳述する。

1 路線価価格鑑定評価員に被上告人(債務者)非会員が1人も選任されていないこと

(1)関東信越国税局の委嘱による埼玉県下の路線価価格の鑑定評価員会議構成員は、平成13年分は126名で、平成14年分には127名、平成15年分は126名である。(甲第70号証の1ないし2の3)

    路線価価格鑑定評価については、国税局から日本不動産鑑定協会が鑑定評価員希望者名簿の取纏めを受託しており(乙第7号証)、埼玉県については関東信越国税局及び各税務署において選任することとなっている。

    しかし、国税局が、希望者名簿から個々の地域における不動産鑑定士を選任する知識等を持ち合わせているとは到底考えられず、日本不動産鑑定協会と密接な関係にある被上告人(債務者)が、埼玉県下における相続税鑑定評価員選任に関して推薦を行っていたことは、路線価価格の鑑定評価員会議構成員表(甲第70号証の2の1ないし3)のほとんどが被上告人(債務者)会員及び被上告人(債務者)関係者であることから明らかである。

上記埼玉県下の路線価価格鑑定評価員会議構成員には、被上告人(債務者)会員又は被上告人(債務者)関係者以外の、埼玉登録業者で被上告人(債務者)非会員は、平成13年分から平成15年分で、1人も選任されておらず、もちろん、上告人(債権者)山口も一度も選任されたことがない。

 (2)なお、鑑定評価員会議主幹の石井敬二は東京都不動産鑑定士協会会員であり、その個人的人脈で東京都不動産鑑定士協会会員から柳川能久を初め10名が委嘱されたものである。(ただし、嘉藤雅俊は平成13年のみ。)(甲第71号証)

また、平成15年分では、被上告人(債務者)は、被上告人(債務者)会員でも、東京都等他の不動産鑑定士協会の会員でもない西原不動産鑑定事務所やアークプレイザルも委嘱されていると主張するところ、西原崇は、元被上告人(債務者)会員の勤務鑑定士であった者で(甲第44号証の1の2、3、上告人(債権者)山口本人尋問第9回口頭弁論調書2−1頁)、現在は被上告人(債務者)会員であり(甲第91号証)、また、アークアプレイザルは、日本不動産鑑定協会の業務委員長を務める後藤計が代表である株式会社二十一鑑定の業務補助者であった者であり(甲第94号証)、被上告人(債務者)と関係ある者であるので、被上告人(債務者)の推薦もしくは斡旋があったと十分推測される。

第7 被上告人(債務者)の公共機関等への公共事業の鑑定評価員の推薦、斡旋を停止が認められるべきこと

被上告人(債務者)は、公共事業用地等についての不動産鑑定業務について、日本不動産鑑定協会と共同して受注価格(鑑定報酬価格)を固定し、国、埼玉県、同県内市町村、公社、公団、共同債権買取機構など民間大手企業との間で用地対策連絡協議会を通じて価格の協定をしており、また、用地対策連絡協議会を通じて提供を受けるこれらの者からの鑑定評価業務発注情報に対して、被上告人(債務者)の会員のみを鑑定評価員として推薦したり、不当に働きかけて、上告人(債権者)と国、埼玉県、市町村、公社、公団、民間大手企業等との取引を排除しており、独占禁止法8条1項及び19条の不公正な取引(一般指定1項正当な理由なき取引拒絶(共同のボイコット))に該当するので、同法24条により、被上告人(債務者)に対して同行為の差し止めが認められるべきは明らかである。

   以下、詳述する。

1 埼玉県用地課と被上告人(債務者)との間の公共事業に係る不動産鑑定に関する合意

 (1)公共事業に係る不動産鑑定評価基準(昭和61年4月1日改正)の取扱い協議による鑑定価格協定合意

 埼玉県用地課の会議事録によると、昭和61年4月9日午前10時から午前11時まで、被上告人(債務者)の前身組織の「社団法人日本不動産鑑定協会 関東甲信会埼玉県部会」から桜井勉部会長、大林一司、岩崎仁三郎が、埼玉県用地課からは高岡実が出席し、「公共事業に係る不動産鑑定報酬基準(昭和61年4月1日改訂)の取扱い」について疑義があったので、統一的な取扱いを図るため、協議を行った。

 そして、両者間において、原則として、基本鑑定報酬額表(別表)の類型A「宅地又は建物の所有権」によるものとする(但し、提外民地を鑑定依頼する場合、提外民地の事例のみを採用し評価させる場合は類型Bによることができる。)と協議し、合意された。(甲第39号証の2)

 この点、被上告人(債務者)は、これは埼玉県内部で決定されたものであり、埼玉県部会はその決定を一方的に通告されたに過ぎないなどと主張するようである。

 しかし、上記の公文書である会議事録には、明確に被上告人(債務者)と「協議」した旨記載されており、被上告人(債務者)前身組織の部会長桜井勉外上記出席者の名刺まで添付されているものであり、公共用地の鑑定報酬額について、埼玉県と被上告人(債務者)前身組織で協議したことは明らかである。

このように埼玉県と被上告人(債務者)の前身組織との間で基本鑑定報酬額の合意がなされたため、埼玉県の公共事業にかかる不動産鑑定評価の依頼は、同合意を実施するために、当然に、被上告人(債務者)の推薦もしくは斡旋した業者を選任していることが十分推定される。

(2)土地評価業務委託制度創設準備会議における被上告人(債務者)への業者決定権留保の合意

 @ また、埼玉県用地課の会議報告書によると、昭和63年2月10日午後3時から午後4時30分からの「土地評価委託について」会議が開催され、埼玉県用地課用地課からは三井俊秀指導係長、白根泰主事が、被上告人(債務者)の前身組織である関東甲信会埼玉県部会、用対連対策委員会からは、川名俊之、坂東健男、浦野清司、岩崎仁三郎、岩崎彰、堀口剛、佐久間文彦、切敷幸志が出席した。

A その会議の概要は、「土地評価業務の委託制度を創設する準備を進めてきたところであるが、このたび、具体的な資料を初めて配布し、受託者側の意見を徴し、また、県側の要望を伝えたものである。(別紙資料のとおり)」

  そして、会議において、被上告人(債務者)は、1.(土地評価委託について)県知事登録業者に限定して欲しい。2.委託単価についても協議してほしい。なお、用対連対策委員会は窓口であり、決定権は県部会(現被上告人(債務者))に留保してほしい旨要望している。

これに対し、埼玉県側から、1.については「協会(被上告人(債務者))から正式な形で要請してみてはどうか。」との回答であったが、2.については、「その予定である。」とのことであった。

B つまり、鑑定評価業務委託については、用対連対策委員会は単なる窓口にすぎず、業務の業者への割り当て等の決定権については、被上告人(債務者)に留保されることとなったと解される。(甲第39号証の4)

また、被上告人(債務者)またその前身組織は、上記1項の要望のように、埼玉県に対し、被上告人(債務者)に有利な土地評価委託制度の構築を働きかけていることは明らかである。

2 中央用対策連絡協議会における申し合わせによる公共事業に係る不動産鑑定報酬基準の固定化

(1)公共報酬基準の固定化

 @ 昭和59年4月17日国土庁告示第2号「不動産の鑑定評価業務に関し請求することのできる報酬の基準」(甲第40号証の3)は拘束力はない。

   中央用対策連絡協議会では、平成8年3月28日、国土庁、大蔵省、建設省及び自治省の4省が所管する財団法人日本不動産研究所の報酬基準(甲第40号証の2)が平成7年10月に引き上げられたことに伴い、平成6年に改正した「公共事業に係る不動産鑑定報酬基準」を、財団法人日本不動産研究所の報酬基準の8割相当額をもって、公共報酬基準を決定するとし理事会において申し合わせを行い、会員及び地区用対連あて通知した。(甲第40号証の1)

その公共報酬基準は、民間大手を含め、官庁等発注者側の公共事業用地等についての不動産鑑定報酬基準固定価格となっている。

A その中央用対策連絡協議会の下部団体の関東地区用地対策連絡協議会は、会長が国土交通省関東地方整備局長であり、埼玉県土木部用地課長が会員である。(甲第41号証の2)

さらに下部団体の埼玉地区用地対策連絡協議会は、埼玉県内の地方公共団体及び県内で事業を行う国の出先機関並びに公共公益的事業を県内で行うその他の事業者で、この会の趣旨に賛同する団体によって構成されているところ、同会会長は埼玉県県土整備部長であり、県土木事務所の行政区域ごとに支部があり、支部長は土木事務所長である。(甲第41号証の1)

B 上記のとおり、中央用対策連絡協議会が公共事業に係る不動産鑑定報酬基準を申し合わせて固定価格となった結果、平成10年4月の埼玉県出納局出納総務課所管の「埼玉県財務規則」103条で、「随意契約を行う場合においては、予定価格を定め、契約の相手方から見積書を徴さなければならない。ただし、次に掲げる場合においては、見積書の徴取を要しない。」と定められ、その6号で、「その他出納局長が見積書を徴することが適当でないと認めた契約を締結するとき。」とされているところ、「埼玉県財務規則の運用について」(昭61.3.31出総第1428号出納局長通知)では、その6号に(11)不動産の鑑定依頼が挙げられている。(甲第43号証の1)

 その理由としては、埼玉県による改正の理由起案書で、「『不動産鑑定士に対する鑑定報酬』については、中央用地対策連絡協議会(県も下部組織に加入している。)が決めた協定価格により報酬額が決まるので、見積書を徴する意味がないことがあげられる。」と明確に記載されている。(甲第43号証の2)

 このように、公共事業の用地取得のための鑑定業務については、中央用地対策連合協議会が日本不動産鑑定協会と見積もり価格についての契約を締結し、そこで定められた価格表に基づいて、日本不動産鑑定協会との間で業務委託契約を締結するので、被上告人(債務者)と個々の不動産鑑定業者は、上記で定められた価格に基づいて鑑定業務を委託する。

 (2)用地対策連絡協議会を通じての鑑定評価発注情報の取得

    平成14年5月20日に開催された、平成14年度埼玉地区用地対策連絡協議会総会会議資料には、被上告人(債務者)支部の連絡調査委事務活動として、「関東地区用地対策連絡協議会の用地取得計画調整要領に基づき、県内で用地買収を予定している各起業者から年度当初に提出された取得計画書に会員の計画を加えた11支部の取得計画書を作成し、支部内で事業を行う全起業者及び当該支部に隣接する他支部の会員に配布した。」と記載されている。(甲第42号証)

    被上告人(債務者)は、埼玉地区用地対策連絡協議会に被上告人(債務者)会員を講師として頻繁に派遣するなど(甲第95号証8、9頁)、深い交流関係にあり、同協議会から上記のとおり鑑定評価業務発注情報を得ていると推測される。

    他方、被上告人(債務者)の会員でない上告人(債権者)には、上記資料は一切配布されていない。

(3)被上告人(債務者)は、上記のとおり、用地対策連絡協議会を通じて、国、埼玉県、市町村、公社、公団、民間大手との間で公共事業用地等についての鑑定報酬価格を協定しているところ、それらの公共機関等からの公共事業にかかる不動産鑑定評価の依頼は、同合意を実施するために、当然に、上記発注情報をもとに、価格の固定に同意している被上告人(債務者)会員が優先的に選任され、価格で競争しようとする業者が排除される結果となっている。

  

3  国土交通省関係の鑑定評価員の選任に関する被上告人(債務者)の推薦、斡旋

(1)国土交通省関東地方整備局の鑑定評価員が国土交通省OB等以外は被上告人(債務者)会員のみ選任されていること

 @ 国土交通省関係の公共事業に関わる鑑定評価業務も、上記のとおり、用地対策連絡協議会を通じて協定された鑑定報酬で行われるところ、国土交通省関東地方整備局が、埼玉県内の物件について、平成12年度ないし14年度に鑑定評価依頼した業者32業者のうち、建設省、大蔵事務官OB等の関係のある業者の4業者のほかは、いずれも全て被上告人(債務者)会員である(甲第68号証、甲第69号証の1の1ないし27の2)

 具体的には、埼玉県土木事務所において年度当初に被上告人(債務者)が推薦し指名した業者との間で「土地評価等委託契約書」(通称単価契約)が作成されており、例えば、平成12年度埼玉県浦和土木事務所は122件の土地評価等の委託をしたが、単価契約の指名業者以外のものとの契約は全くなく、全て単価契約の指名業者のみが委託された(甲第4号証)。

  A 国土交通省は、被上告人(債務者)主催の無料相談会後援をしたり(甲第101号証)、大宮土木事務所が被上告人(債務者)に講師派遣を依頼し、被上告人(債務者)が被上告人(債務者)会員を推薦するなどしており(甲第95号証9頁)、被上告人(債務者)と深い交流関係にある。

このような関係において、上記鑑定評価員の選任にあたっても、多数の不動産鑑定士から選別しえない国土交通省、埼玉県土木事務所等は、被上告人(債務者)の推薦もしくは斡旋された鑑定評価員を選任していると十分推測できる。

    この「公共事業に関わる鑑定評価」の売上額は不動産鑑定評価業界の総売上額の40パーセント以上の金額を占めているが、被上告人(債務者)に加入していないため、上告人(債権者)山口は一度も同鑑定評価員に選任されたことがない。

 (2)国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所用地課用地第一係長岡本弘行の証言

  平成15年6月19日、国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所用地課用地第一係長岡本弘行は、上告人(債権者)山口との会話の中で、被上告人(債務者)が推薦した固定資産鑑定評価員を同事務所がそのまま選任することを明確に認めている。(甲第75号証の1、2)

・岡本「地元関係に精通した方とか、それとか、あとはもしどうしてもそういうところでなければ、協会(被上告人(債務者))のほうから推薦してもらうとか、そういう形で対応を今まで、あー、してあり、いると、はい。」

・岡本「そう、あのーうちの事務所でいえば埼玉がもちろん中心、うん。」

 (3)日本道路公団東京建設局の鑑定評価員の選任に関する被上告人(債務者)の推薦

日本道路公団東京建設局の平成12年度、平成13年度、平成14年度の埼玉県内における用地取得に伴う不動産鑑定評価依頼書及び不動産鑑定評価依頼に係る承諾書の開示によると、東京不動産鑑定士協会の会員であるか、経営者が会計検査院の出身であるための人脈による森総合鑑定梶A住宅土地整備公団の退職者を雇用しているための人脈である樺央不動産鑑定所、日本道路公団の子会社への出向者がいるために同公団と関係が深い椛セ陽不動産鑑定所以外は、全て被上告人(債務者)会員であった。(甲第72号証の1ないし4、甲第73号証の1ないし3、甲第74号証、甲第81号証)

従って、日本道路公団東京建設局の鑑定評価員選任結果からしても、被上告人(債務者)が、(1)同様、被上告人(債務者)会員を推薦していたことが明らかである。

第8 国土交通省の土地鑑定委員会における地価公示鑑定評価員の委嘱

被上告人(債務者)は、地価公示鑑定評価員の鑑定評価業務については、単に希望者からの申請書類を取り纏めているだけであると主張する。

しかし、被上告人(債務者)が地価公示鑑定評価員を割当てて推薦していることは、以下のとおり明らかである。

 1 地価公示鑑定評価推薦要領等 

地価公示鑑定評価員は、地価公示鑑定評価員推薦要領3条で、日本不動産鑑定協会が、国土交通省土地鑑定委員会に毎年「推薦」することになっており、埼玉県で地価公示鑑定評価員を希望する者は、被上告人(債務者)会員、被上告人(債務者)非会員問わず、被上告人(債務者)に委嘱申請書を提出し、被上告人(債務者)会長が取りまとめ日本不動産鑑定協会長に申請しなければならないと定められているところ(甲第97条の1、乙5、6)、ここでも、被上告人(債務者)を通じなければ希望できない仕組みが採られている。

それに基づき、上告人(債権者)山口が被上告人(債務者)へ提出した委嘱申請書が「地価公示評価委員推薦申請書」(乙第43、44号証)である。

 

 2 赤熊証人が被上告人(債務者)幹部クラス会員による割当てを認めていること

   上記のとおり、被上告人(債務者)は、地価公示鑑定評価員の鑑定評価業務については、希望者からの申請書類を取り纏めているだけであると主張し、地価公示鑑定評価推薦要領、地価公示鑑定評価員推薦要領運用細則(甲第97号証の1、2)においても、被上告人(債務者)は希望者からの委嘱申請書を取り纏め、日本不動産鑑定協会へ提出するものと規定されている。

しかし、赤熊証人は、地価公示鑑定評価業務の「割当ては、分科会の幹事が継続地点の評価の勤続年数だとか、いろんなこと、また国土交通省の規定があるので、それに併せて評価依頼先を決めていきます。」と、被上告人(債務者)幹部クラス会員が就任している分科会の幹事が、「割当て」を決め、推薦していることを明確に認めている(証人尋問調書4−1頁)。

 3 このように、被上告人(債務者)が一括して鑑定評価員希望者名簿を取り纏め、市町村、国税庁等が鑑定評価員を決定するという形式をとりながら、被上告人(債務者)会員及び被上告人(債務者)関係者、官庁OB等しか鑑定評価員に選任されていないという実態は、固定資産鑑定評価員等でも共通しており、固定資産鑑定評価員等についても、地価公示鑑定評価員と同様に、被上告人(債務者)幹部クラス会員等が割当てを行い、市町村等に推薦もしくは斡旋していることが十分推測できる。(但し、地価公示鑑定評価、地価調査鑑定表は仕事の手間に対して報酬が低廉であるので被上告人(債務者)会員でない者も選任されている。)

      

第7 裁判所からの鑑定評価業務を被上告人(債務者)非会員は全く受託していないこと

前述のとおり、平成11年から平成14年の「裁判所における競売及び非訟事件のための評価」は合計11581件、17億2720万7千円のうち、埼玉県登録業者の被上告人(債務者)非会員が受注したのは1件もない。(甲第31号証のないし33号証、79号証)

 このような実績からも明らかなとおり、被上告人(債務者)の会員であるのと、そうでなく入会拒否されている被会員とでは、実質的に信用力に格段の差が生じているものと推定され、結果として取引拒絶をされているに等しい。

被上告人(債務者)は、競売不動産評価人候補者選考試験要領(乙第42号証の2)が被上告人(債務者)非会員にも通知されていると主張するが、同要領は平成15年1月9日付であるところ、上告人(債権者)は、これ以前に、このような通知を受け取ったことはない。

第8 民間からの鑑定評価業務の受託においても被上告人(債務者)会員と比して受託が著しく少ないこと

 1 被上告人(債務者)会員と比べ被上告人(債務者)非会員の民間からの受託が著しく少ないこと

   前述のとおり、民間からの鑑定評価業務の受託についても、平成11年から平成14年の「依頼先別の件数及び報酬」(甲第7号証ないし9、78号証)によると、被上告人(債務者)会員であるのと、そうでなく被上告人(債務者)非会員とでは、実質的に信用力に格段の差が生じており、結果として取引拒絶をされているに等しい。(甲第80号証)

   また、上告人(債権者)は、被上告人(債務者)に入会できないことにより、後述の無料相談会における受注の機会を奪われている。

2 JR東日本、森ビル、埼玉県庁職員の証言

 (1)JR東日本東京工事事務所契約用地部用地取得グループの磯崎英繁の証言

 平成15年6月15日、JR東日本東京工事事務所契約用地部用地取得グループの磯崎英繁土は、上告人(債権者)山口との会話の中で、被上告人(債務者)が推薦した鑑定評価員を同事務所がそのまま選任することを明確に認めている。(甲第76号証の2)

・山口「鑑定士協会(被上告人(債務者))入っとかないとね。」

 磯崎「最低そういうことでしょうね。」

・山口「埼玉県全体を、だから埼玉県の鑑定士協会(被上告人(債務者))にはいってからがいいと、こういうことですよね。」

 磯崎「そうですよね、あのー結局身元保証じゃないですけどね。誰とでもというわけいかないのでね。」

(2)株式会社森ビルの発注担当者の対応

上告人(債権者)山口が、平成14年10月ころ、株式会社森ビルに対して、鑑定評価業務受託の営業活動を行ったが、発注担当者からは、「うちは、民間なんだけども、「公共用地の用対連基準でやっていますから、被上告人(債務者)士協会とかの割当てによってすべてやっています」「営業に来られても無駄ですよ」「我々は競争入札はしていません。」と言われた。(上告人(債権者)山口の本人尋問第9回口頭弁論調書2−6)

 (3)埼玉県庁開発指導課不動産鑑定担当主任程塚力の証言

  平成15年12月1日、埼玉県庁開発指導課不動産鑑定担当主任程塚力は、上告人(債権者)山口との会話の中で、不動産鑑定業者の問い合わせをされた場合、埼玉県が、被上告人(債務者)の無料相談会を紹介したり、また、無料相談会に絡めなくても被上告人(債務者)を紹介することがあることを明確に認めた。(甲第100号証の1、2)

  ・山口「どこか業者いますかといた時に、士協会(被上告人(債務者))を紹介するということはありうるか。士協会(被上告人(債務者))がありますとかは。」

  ・程塚「あのー鑑定市協会(被上告人(債務者))、例えば無料相談会やっているじゃないですか。そういう形での紹介はしてますけどね。」

  ・山口「無料相談会にからめなくてもあるでしょ。どっか鑑定」

  ・程塚「それはありますよね。」

・山口「鑑定したいんだけど、どっかありますかねと言われた時。」

・程塚「それはありますよね。」

  ・山口「鑑定士協会(被上告人(債務者))がありますよねというよね。」

  ・程塚「そうですね。」

 3 無料相談会から排除されていることによる民間からの受注機会の大幅減少

   上記の無料相談会とは、被上告人(債務者)が定款に掲げている事業の1つであり(甲第12号証)、被上告人(債務者)主催の月例無料相談会が毎月行われているほか、被上告人(債務者)及び日本不動産鑑定協会が主催、国道交通省・埼玉県後援による不動産鑑定士による不動産の無料相談会が年2回開催されている。(甲第101、95、96号証)

平成14年4月6日に開催された春の無料相談会では来場者数63名、相談者数25名、同年10月6日に開催された秋の無料相談会では来場者数72名、相談者数29名であった。

 そして、東京都不動産鑑定士協会の「『定例無料相談会』設置規程」によると、相談員が来訪者により、鑑定業者の斡旋の依頼を受けたときは、依頼者の住所、対象物件の所在地、及び依頼者の意向等を勘案して斡旋を行う(甲第102号証)とされているところ、被上告人(債務者)の無料相談会においても、鑑定業者の依頼があったときは、当該相談員が適当な被上告人(債務者)会員に斡旋するか、直に受けることになっているものと十分推測される。

   しかし、上告人(債権者)は、被上告人(債務者)の会員でないので、上記無料相談会の会員になることができず、上記のとおり県から民間に一般的に紹介される、無料相談会を通じての民間法人、個人からの受注は全く受けられず、受注の機会を大幅に減少させられている。

 

 4 被上告人(債務者)会員であることの信用力が高いこと

   赤熊正保証人は、名刺や看板に「埼玉県不動産鑑定士協会会員」などの記載をしている名刺や看板を見たことはないと証言している(同証人尋問調書2−1頁)が、同証言が全くの虚偽であることは明らかである。

なぜなら、甲39号証の2に被上告人(債務者)の前身組織であった日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会に入会し、同会の代表として、埼玉県用地課の職員と協議した桜井勉、大林一司、岩崎仁三郎の名刺の写しが会議禄に添付されているが、それらの名刺には、それぞれ、「社団法人日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会」「国土長土地鑑定評価員、埼玉県土地鑑定評価員」「社団法人日本不動産鑑定協会会員」などと記載されているのであり、被上告人(債務者)組織になってからも、同様に記載されていることが十分推測できる。

  このように、被上告人(債務者)会員が、被上告人(債務者)の会員であることを名刺等で表示していることや、上記各発注者の発言等からも、被上告人(債務者)会員であることが、埼玉県内における鑑定評価受注に関し、公的機関、民間ともに信用性が高く、受注に有利であることが明らかである。

第9 情報の受領等が困難であること

 1 事例資料の閲覧、複写等手数料につき被上告人(債務者)会員と被上告人(債務者)非会員が著しく差別され、被上告人(債務者)非会員の情報収集が著しく困難であること

   第5で詳述したとおりである。

                

2 鑑定評価業務受注情報等入手困難であること

   上記のとおり、被上告人(債務者)は、埼玉県、国土交通省、用地対策連絡協議会等との交流が深いところ、被上告人(債務者)会員は、用地対策連絡協議会等を通じての鑑定評価発注情報の取得等(甲第42号証)を初めとする各機関の鑑定評価発注情報を得ている。

   しかし、被上告人(債務者)非会員の上告人(債権者)は、それらの情報を入手することが著しく困難である。

 3 被上告人(債務者)会員向け研修会等による情報受領ができないこと

   被上告人(債務者)は、被上告人(債務者)会員向けに、建築費に関する研修、固定資産税評価に関する研修会、汚染可能性地点の検索と浄化費用など減価簡易システム、DFC法の適用事例とエクセルによる検討、都市計画法に基づく開発許可等の基準に関する埼玉県条例の改正について等の研修を、また、市町村担当者向けに固定資産税評価に関する情報提供会を開催している。(甲第95号証2頁、甲第96号証2頁)

   また、被上告人(債務者)は、平成14年1月号の関東甲信会の「かいほう」(甲第98号証)で、「群馬県不動産鑑定士協会と共催による『建築現場研修会』をさいたま市で開催し、被上告人(債務者)より75名、群馬県不動産鑑定士協会より25名計100名の多くの出席を頂き、再調達原価の簡易な積算方法や建築部位の名称把握など有効な研修が出来た。ひき続き『固定資産をめぐる四囲の状況』と題して共催を試みたところ、これも総勢70名の盛況下に終了した。地の利を活かした周辺県との共催を今後も実施したいと考えている。」と掲載しているもので、研修等による情報収集が不動産鑑定業にとっていかに重要かがよく判る。

   上告人(債権者)は、このような被上告人(債務者)会員向けの研修会や、各委員会からの情報収集等被上告人(債務者)会員すなわち大多数の埼玉県登録業者が得ている鑑定評価業務に必要な情報を得られず、被上告人(債務者)会員に比して、必要、有益な情報の受領等が困難であることは明らかである。

第9 損害について

   上記のとおり、被上告人(債務者)は、被上告人(債務者)会員が埼玉県下における鑑定業務受託を独占している状況下で、平成11年9月7日に上告人(債権者)山口がなした被上告人(債務者)への入会申込、平成13年1月19日に上告人(債権者)日本経済研究所がなした被上告人(債務者)への入会申込を、不当に拒否し、独占禁止法第8条1項5号、同法19条の不公正な取引方法(一般指定5項)に当たることは明らかである。

また、被上告人(債務者)が、市町村等公的機関等に対し、被上告人(債務者)会員等を、固定資産鑑定評価員、路線価価格鑑定評価員、公共事業用地等についての鑑定評価員等を推薦、斡旋する上記行為は、被上告人(債務者)の構成事業者と競争関係にある、上告人(債権者)と市町村等との取引を排除しており、独占禁止法8条1項5号及び19条の不公正な取引方法(一般指定1項正当な理由なき取引拒絶(共同のボイコット))に該たることも上記のとおりである。

従って、上告人(債権者)は、被上告人(債務者)の上記不法行為により、被上告人(債務者)山口と上告人(債権者)日本経済研究所が被った、被上告人(債務者)会員の平均収入から、相当経費分10パーセントを控除した金額の逸失利益等の損害が認められるべきである。

第10 継続している損害と、継続中の公正競争阻害

   損害は現在も継続中であり、犯罪にたとえれば、継続犯であるといいうる。継続中である場合に、例え一度証拠不十分で起訴にならなかったとしても、その後証拠が見つかって継続犯として認定されれば、罰の決定をしたり、損害賠償義務を法的に認定する場合、犯罪の期間中継続的に罪及び損害が続いているのであるから、継続犯の始期にさかのぼって罪及び損害が認定されるべきである。

   これはあたかも犯罪が始期から継続している場合には、現行犯逮捕が証拠不十分で釈放され、その後に証拠が残り現行犯逮捕された場合であっても、始期から終期にいたるまで罪及び損害が認定されるのと同じである。

   本件においては平成10年4月の茨城県からの被上告人(債務者)の友好の北関東連絡協議会茨城県不動産鑑定士協会の東京都の事業者の排除事件から始まり、平成11年7年から9月にかけての被上告人(債務者)の排除の動きから今にいたる一連の行為は正当な理由なく独占禁止法違反の行為であり、証拠の収集の過程を通じてようやくそれが証明できた時点での正当な理由なく違法の認定が出来たとしても、罪及び損害は始期から終期まで認定されるべきである。

   終期については今後10年程度は続くと予測することが出来る。

   日本の独占禁止法による差止請求においては、「著しい損害」を要件としたが、日本が法を継受した母国のドイツや独占禁止法の母国アメリカではその要件が無く、差止は比較的容易である。

   日本の場合には、「著しい損害」を要件としたためにある時点では「著しい損害」にいう著しさに達していない場合でも、その後継続犯における継続の時間がたった場合には著しい損害が認定できるという場合があり得る。従って、証拠不十分という言葉を著しさに適用した判決が、当該継続犯がまだ長期に続いている場合には著しい損害とその後認定されるという事態も想定され、本件の場合には相当な長期にわたって著しい損害が続いたので、差止が可能になったと考えられる。

   上告人(債権者)に対する損害についても、公正競争阻害による社会に対する損害についてもこのことは言えると考えられる。

   取引拒絶はそもそも各事業者に対する不法行為であると同時に、社会公共に対する競争阻害による損害も問題としている。この場合には被上告人(債務者)が独占禁止法違反をするとか安売りをしないとの念書をとった上で、入会させるというような行為によれば公正競争阻害の程度は低くなる。本件では非価格行為である取引拒絶は、ゼニス事件のように純粋に非価格行為ではなくて、上告人(債権者)の安売りの行為を理由としたものであって、特に公正競争阻害の程度は高いと言える。価格維持効果が高くその意味では公正競争阻害性の程度からも共同のボイコットの違法性は高いので即刻差止を求め仮処分の申請をも行うものである。

第11 差止の性格と共同ボイコット

   独占禁止法上の差止の概念は、法制定の最初の段階から紆余曲折があったが、その中のもっとも悪い見解を、保守的であり、かつ、日本の官庁的な体質として本判決は採用した。

   それが受忍限度論である。犯罪や違反に対して受忍限度があるとは思われない。すべての犯罪に受忍限度があるとすれば窃盗における金額の少なさであろう。それによれば1,000円以下は許されるとかの金額が設定されなくてはならない。しかし死刑判決がほんのわずかな強盗においても認められている例からすると、これは適当ではない。

   次に悪質さの受忍限度がありうるのかという問題がある。確かに悪質さにも社会が受任しなくてはならない限度があるとすれば、規範など必要ないということであり、日本には独占禁止法等コンプライアンス学習でごまかそうというような態度は多くある。実際はこの世の中は独占禁止法違反をしていかないと生きていけないという思想が、入会拒否さえも違法としえない日本の独占禁止法の運用の仕方をしている社会においては蔓延している。これが悪質さの受忍限度論である。

   しかし本来の差止という概念はそもそも所有権の妨害排除請求権と同様に、営業の自由に対する妨害を排除して、営業の自由を確保するという概念である。

   この概念は日本人のように自由という概念が明治維新後に西洋から入ってきた民族には分かりにくい概念である。現代哲学では自由な主体である人間が、自由な行為を行うためには妨害する行為を排除しなければならないという概念である。この場合には著しい損害という要件は必要としないが、日本では制度の制定時に著しい損害という文言で、要件とした。

   この場合、受忍限度論と関係してこの著しい損害論を考えるのは妥当とは言えないことは上記受忍限度論批判のところで述べたとおりである。

   ところで著しい損害という文言は民事保全法にも現れる概念である。

   しかし差止は給付訴訟の概念には含まれるが、上記の通りに独占禁止法違反の現行犯さえ逮捕できないように逮捕は逮捕するという給付的概念ではあるが、それは先程の妨害排除の請求権と似た概念であって、損害が大きいから逮捕すべきであって、損害が著しくないから逮捕すべきではないということにはならず、常にあるいはほとんど常に逮捕すべき性質のものである。

   民事保全法が考えているものとは違っている。他の諸国では差止についてはサマリー差止が認められているのであるがそれは妨害排除による営業の自由の保証を意味している。民事保全法にいう著しい損害と、本件の独占禁止法違反の差止における著しい損害の要件とを同じ言葉ではあるが、同一の要件と考えることは到底出来ない。

   独占禁止法における著しい損害を法的に妥当な解釈として解釈するとすれば、独占禁止法の一方の母国アメリカにおけるように、独占禁止法違反要件の内の継続して違反が続いていること、妨害排除しなければ営業の自由が確保できない状態にあることの二つの要件に該当している必要があると考えられる。

   ドイツの入会拒否を違法とする国家による立法の例では、「もし参加を拒むことによって客観的に正当な理由なく平等的ではない取扱となり、ある事業者に競争上不当な不利益を与える場合には、入会を拒むことは許されない。」としており、この哲学は何であろうか。客観的に正当な理由なく平等的ではない取扱となり、ある事業者に競争上不当な不利益を与える場合には、という二つの要件を設けている。第一の要件は競争においては平等な取扱を要請している。第二の要件は競争上不当な不利益を与えるという要件であり、公正競争阻害を要件としている。

   一方アメリカにおいては

   Group Boycotts

グループによるボイコット

The role of per se analysis in evaluating group boycotts has long been a topic of confusion.

グループによるボイコットの判断において当然に違法であるとの判決は長い間混乱していた。

Northwest Wholesale Stationers provides the Supreme Court's most complete recent discussion of the issue:

最高裁判所はノースウエスト卸売事務用品会社判決で、この問題にほとんど完全な判断を行った。

Cases to which this Court has applied the per se approach have generally involved joint efforts by a firm or firms to disadvantage competitors by "either directly denying or persuading or coercing suppliers or customers to deny relationships the competitors need in the competitive struggle."

当裁判所は当然に違法であるとの原理を適用してきた事件は、一般的に言えば「競争する上で競争者が必要な関係を直接的に拒絶したり、拒絶するように供給者や、顧客に間接的に説得したり、強制したりすること」によって競争者に不利益を与えるような単独の事業者あるいは共同の事業者による共同の行為をいうのである。

In these cases, the boycott often cut off access to a supply, facility, or market necessary to enable the boycotted firm to compete, and frequently the boycotting firms possessed a dominant position in the relevant market.

これらの事件においては、通常の場合にはボイコットされた事業者が競争する場合に必要な供給や、施設や、市場にアクセスすることが出来なくなり、また通常の場合には当該市場においてボイコットを行った企業が独占的な地位を保有していることが非常に多い。

In addition, the practices were generally not justified by plausible arguments that they were intended to enhance overall efficiency and make markets more competitive.

それに加えて、市場全体の効率性を増大させ、市場における競争を活発化させようと意図されたことを理解出来る主張によって正当化されることは一般的にはほとんどないような行為である。

Under such circumstances the likelihood of anticompetitive effects is clear and the possibility of countervailing procompetitive effects is remote.(58)

そのような環境下においては反競争的な効果を持つ蓋然性が高く、それとは逆に競争促進的な効果はほとんど期待できないといえる。

The Court then held that, absent market power or "unique access to a business element necessary for effective competition," expulsion from a buying cooperative is appropriately analyzed under the rule of reason.(59)

従って、裁判所は市場支配力がない場合や、「競争を効果的にするために必要なある事業上の要素への特別なアクセス」がない場合や、購入組合からの排除などは合理性の基準によって分析するのが妥当であるとの判断を示した。

Subsequently, in SCTLA, 493 U.S. at 432-36, the Court clarified that group boycotts used to implement price-fixing conspiracies may be condemned without a market-power inquiry.

それに続いて、SCTLA 事件においては、価格固定の共謀を遂行するために用いられるグループによるボイコットは市場支配力の証明がなくても当然に違法であるとの判断を明瞭に示した。

Recent applications of the per se rule to group boycotts have tended to involve either boycotts of suppliers or customers directed toward discouraging dealings with the boycotters' competitor or boycotts utilized to implement per se unlawful price fixing or market divisions.(60)

グループによるボイコットに対する当然に違法の原則の適用は、ボイコットを行う側の競争者との取引を供給者あるいは顧客に対して拒絶させるように命令したりするボイコットか、あるいは、当然に違法な価格固定や、市場の分割などを遂行するために使用されるボイコットに対して、最近では適用されるようになっている。

アメリカにおいては上記のようにFTCは考えている(FTCの論文よりの引用であり、筆者訳。)。

以上により日独米の共同ボイコットに関する比較を行う。

(1) 競争する上で競争者が必要な関係の拒絶を要件としている。この場合の必要な関係とはドイツの場合と同じく競争を成立させる条件、つまりは平等な競争上の条件を保証している。これは個別企業に対するものであり、個別企業の営業の自由を保証したものといえる。                     

(2) 「競争者に不利益を与える」ことを要件としている。不利益を要件としている。不利益は直接に損害にならなくても要件としていることは妨害排除による営業の自由を確保しようとしているのか、損害を要件としているのかは不明であるが、競争者への不利益とは個別企業の保護を目的としているといえる。

(3) 「これらの事件においては、通常の場合にはボイコットされた事業者が競争する場合に必要な供給や、施設や、市場にアクセスすることが出来なくなり、また通常の場合には当該市場においてボイコットを行った企業が独占的な地位を保有していることが非常に多い。」「そのような環境下においては」という要件を設けた。

    これは共同ボイコットにおける環境条件について限定を設けたものである。

    「反競争的な効果を持つ蓋然性が高く、それとは逆に競争促進的な効果はほとんど期待できない」という理由からである。

    これは公正競争阻害性について述べていると同時に、排除された個別企業はアクセスすることが出来ない故に、また独占的な地位を保有している故に排除された個別企業は損害を受けていると考えられる。

    例えば、カルテルを行っている事業者達に対して、そのカルテルに入れてもらえなかった事業者が市場が自由競争と、一般競争入札によって成り立っており、安売りで大きくなり、ついにはカルテルを破って、大企業になったという例が考えられる。

    しかしもし本件事件のように上告人(債権者)日本経済研究所は、郵政省の一般競争入札や、文部省の一般競争入札や、日高市や、宇治市の一般競争入札においては安く入札できていたのであるから、もし入札できていたら大きな企業に成長していたと推測出来る。しかし随意契約からほとんどの契約が成り立っており、被上告人(債務者)との協定価格から成立しているような市場においては、一切受注できなかったのであるから、信用される立場にある被上告人(債務者)の共同ボイコットがいかに「競争する場合に必要な供給や、施設や、市場にアクセスすることが出来なくなり、また通常の場合には当該市場においてボイコットを行った企業が独占的な地位を保有している」かを認定することが出来る。

(4) 日本の共同ボイコットの定義においては、流通・取引慣行に関する独占禁止法上の指針において次のような要件が定められている。

 取引を拒絶される事業者等が市場に参入することが著しく困難となり,又は市場から排除されることとなることによって,市場における競争が実質的に制限される場合(注4)には,当該行為は独占禁止法第8条第1項第1号の規定に違反する。

(注4)事業者団体による共同ボイコットにより,市場における競争が実質的に制限されると認められる場合の例については,上記(注2)を参照。

共同ボイコットによって,例えば,次のような状況となる場合には,市場における競争が実質的に制限されると認められる。

価格・品質面で優れた商品を製造し,又は販売する事業者が市場に参入することが著しく困難となる場合又は市場から排除されることとなる場合

革新的な販売方法をとる事業者などが市場に参入することが著しく困難となる場合又は市場から排除されることとなる場合

総合的事業能力が大きい事業者が市場に参入することが著しく困難となる場合又は市場から排除されることとなる場合

事業者が競争の活発に行われていない市場に参入することが著しく困難となる場合

新規参入しようとするどの事業者に対しても行われる共同ボイコットであって,新規参入しようとする事業者が市場に参入することが著しく困難となる場合

   本件の場合には、例示のうちの「事業者が競争の活発に行われていない市場に参入することが著しく困難となる場合」に該当すると考えられる。

   競争の活発に行われていない市場に該当するのは、随意契約からほとんどの契約が成り立っており、被上告人(債務者)との協定価格から成立しているような市場においては、一切受注できなかったのであるから、信用される立場にある被上告人(債務者)の共同ボイコットがいかに「競争する場合に必要な供給や、施設や、市場にアクセスすることが出来なくなり、また通常の場合には当該市場においてボイコットを行った企業が独占的な地位を保有している」かを認定するアメリカにおける当然違法の考え方と同じように、当該市場において被上告人(債務者)が取引事例の管理保有とか、相続税路線価の会議における地位とかからしていかに独占的な地位を保有している故に競争の活発に行われていない市場であるのかということが認定できることにより、入会のモラトリアムがいかに独占禁止法第8条第1項第1号の規定に違反する行為であるのかを認定できる。

(4) 但し、安売りの業者である上告人(債権者)が東京から埼玉県に来ることによりこれまでの配分が上告人(債権者)に奪われるのかを恐れたのであるから、自由競争におけるカルテル破りとは全く違って、被上告人(債務者)が自らの利権を守るために行った共同ボイコットであることが分かる。これはアメリカにおいては「当然に違法な価格固定や、市場の分割などを遂行するために使用されるボイコット」として上記のFTCの文章にも例示されており、日本でも「共同して,安売りをする販売業者を排除するために,安売り業者に対する商品の供給を拒絶し,又は制限すること」という例示があり、商品の供給ではなく、信用の供給ではあるが、日本でも違法な、正当な理由のない、競争が実質的に制限される行為であると例示している。当然違法を競争が実質的に制限される行為であると解釈すれば、アメリカも日本も同様な考え方によって法律の運用を行っていることになる。

    従って本件事件は日本の法令においても競争が実質的に制限される行為であり、共同ボイコットに該当し、差止されるべき現在も今後も続くであろう違法な行為であるといいうる。被上告人(債務者)の行為は公正競争阻害性が強いばかりではなく、著しい損害を上告人(債権者)に与え続けているからである。入会したとしてもそれから10年間はのれんの毀損の続くであろうような個別企業に損害を与え続けるであろうような行為である。

    独占禁止法第24条が侵害のおそれを要件としているのは、他の場合とは差止の要件を違った意味に解釈していると考えることが出来る。

    以上により即刻差止の仮処分の申立を行うものである。

第12 憲法上の問題

   事業上の営業の自由を認めている日本国憲法においては、事業活動が出来ないことは生活権を奪うことになり、独占禁止法違反による営業の自由は認められない。

   不動産鑑定評価の事業は、法によって画定された市場であり、地価の調査とは違っている。不動産鑑定評価に関する法律と、最低売却価格制度等による。不動産鑑定評価基準に則った地価の調査の特に権威付けられたものをいう。

   従って一度営業を埼玉県に移した場合には容易に変更が出来ず、変更すれば受注が困難になるというような種類のものである。従って埼玉県から東京都にもう一度営業を移すということは方針としては出来ない。

   従って、埼玉県から排除しようという被上告人(債務者)の行為は上告人(債権者)の事業活動そのものを不可能ならしめるものであるのであり、憲法上の移転の自由や、営業の自由やらの自由権をおかすものである。

   これらは神聖であって侵すべからざるものである。

   従って憲法上の理由は上告状において別途主張する。

第13―1 受忍限度論

これまでの差止制度の創設の会議においては一部分でちょっとだけ受忍限度という言葉を使用したが、それに飛びついたと思われる第一審判決は上記の通りに意味がない。

著しい損害とは生活権及び営業の自由という憲法上の権利そのものの侵害なのであって、それ以外のものではなく天賦のものから生まれたものである。

以 上

第13−2 受忍限度論

平成10年5月25日に発表された民事的救済制度に関する研究会について考察する。「」の後が引用に対する見解。

「独占禁止法違反行為に係る民事的救済制度に関する研究会(第3回)議事概要 

1 日 時 平成10年5月20日(水)10:00〜12:00

2 場 所 公正取引委員会11階 大会議室

3 議 題

(1)私人の差止訴訟と公正取引委員会の排除措置との関係について

(2)私人の差止請求権の法的性質について

 4 議事概要

(1)各議題について事務総局から配布資料に沿って説明を行った後,自由討議が行われたところ,概要は以下のとおり。」について検討する。

 「〇 不正競争防止法では,民法上では不法行為が成立するとはいえない不法行為類型に対して差止請求権を認めている。これは民法の枠組で認めているのではなく,不正競争防止法固有の観点から差止めを認めていると考えられるところ,独占禁止法についても差止請求を認めようとする場合には,そのことを念頭に置く必要があるのではないか。」

 独占禁止法違反については特に生存権に関わるということで憲法問題である。自由経済の下で自由に営業する権利は生存権と、職業選択の自由から導かれるものである。不正競争防止法は独占禁止法とそのような意味で一対のものである。

 「〇 公正取引委員会が行う排除措置については,排除措置の内容は差止めに限定されるものではない点,競争秩序回復のための手段であり,主観的利益の回復ではない点において,主観的な利益侵害が生じたときの救済手段である私人による差止めとは異なる。」

公正競争阻害性は私人の損害とは別の観点であり、自由経済の憲法体制の下での経済の憲法である独占禁止法は、公共的利益である公正競争を守り、社会に対する公正競争阻害の効果を阻止するためのものであるが、トート法によってかねてから私人に対する営業の自由の妨害に対してはコモンローによる救済が認められていたので、その延長としても独占禁止法による私人への損害賠償請求の権利と、差止が認められたのである。同じく公正競争阻害であっても独占禁止法に違反しますという念書の下で市場に参入させることと、独占禁止法に違反しない業者を入会させない行為は共に公正競争阻害をしているが、私人に対する損害賠償請求が認められる金額には正反対のものがある。公正競争阻害性と、損害賠償請求の金額とは正反対の場合がある。

 「〇 公正取引委員会の排除措置と重なる部分もあるだろうが,私人のイニシアチブを強調して差止めを認めてもいいのではないか。」

私人のイニシアチブによるとしても捜査権限がなくほとんど不可能に近い状態と思われる。

 「〇 行政による対応ができるのに,私人による差止めを認めるためには,個々人が損害を受けているということを論拠とする必要がある。しかし,私人によるイニシアチブをあまり強調すると,この主観的利益と関係なく認め得るということになり,問題ではないか。」

「〇 参考資料の4を見ると,エドウィン・リー・ジャパン事件,東京都と畜場事件,東芝エレベーター事件など,いくつかの事例では差止めが認められていれば使われていたであろうというものもある。」

但し違反の継続性と、命令的差止、予防的差止について判断できたかどうかは不明である。

 「問い合わせ先 公正取引委員会事務総局経済取引局総務課電話 03−3581−5476(直通)」

 「〇 差止権者の範囲をどうするかという問題がある。独占禁止法は政府や地方公共団体が関係してくるので,それらにも差止請求権が与えられてもいいのではないか。」

合衆国政府がイニシアチブをとっているアメリカの例は参考になる。

 「〇 米国のPrivate Attorney Generalといった考え方のように,私人による訴訟であっても司法長官の訴追と同じような客観的な適合性を維持する性質を持つとすると,我が国では座りが悪いのではないか。」公正競争阻害性についてどれ程に判断するかの問題である。

 「〇 差止めが認められる要件としては,単なる事実上の被害だけでは足りないと考えられるところ,独占禁止法の保護法益が何かということを念頭に置いておかないと議論が難しいと思う。」

公正競争阻害性と、私人の損害とは連動している。 

「〇 不正競争防止法では,品質誤認表示を使用する行為のように,不法行為では損害賠償を請求することはできないが「営業上の利益」が侵害されるおそれがあるという理由から,差止請求が認められている。この点に関し,判例では公正な競争秩序の下で競争する利益という非常に抽象的な利益が侵害されていることについて,それが営業上の利益の侵害に当たると述べているものがある。」

「営業上の利益」が侵害されるおそれの概念については、「公正な競争秩序の下で競争する利益」が侵害されるおそれとみてよい。法哲学的にはそのようにいいうる。これは憲法から派生したものであり、憲法問題でもある。

 「〇独占禁止法の保護法益の議論に関しては,米国でのAnti Trust Injuryの法理で議論されている内容が参考になるのではないか。」

反トラスト法違反によって被害を被るという概念は、実際に被害に遭ってみないとどれぐらい大きいものであるかは分からない。

「〇独占禁止法には多様な違反行為があるため,差止めは適切な救済手段たり得るか否かという点が問題。カルテルは差止めによって利益が保護され得るような違法行為ではないが,出荷停止や東芝エレベーター事件のように参入を排除されたというような事例では,金銭賠償よりも差止めの方が救済手段としては適切だと思う。米国では合併規制についても私人に差止めを認めているが,我が国では競争上の被害を被った人一般に差止めを認めるということまでは考えられないのではないか。」

 競争上の被害を被った人のうち、カルテルによって被害を被るということはクラスアクションの中で第一次の購買者にも認めてよいと思われるが、それは公正競争阻害からの回復という意味がある。

「〇 独占禁止法第19条違反の一部の行為類型や事業者団体の加入拒否などは,差止めが救済手段として適当と考えられる典型的な事案ではないか。」

これが本件事件である。

 「○ 主観的利益保護という観点から差止めを認めると,消費者団体とか公益代表主体といったところには差止めを認めにくくなるかもしれない。」カルテルによる損害は、民法第709条によって損害賠償請求の手続をとる制度になっている。

 「○ 損害賠償訴訟では,一般消費者一人当たりの被害額が小さいために,訴訟を起こすインセンティブがあまりないので,消費者に訴権を認めても実際に使われないといったことが起こり得る。損害賠償訴訟においてすらこのような問題があるのであるから,差止めについても同じような問題が生じるのではないか。」これが問題になっている。

 「○ 米国では,二重賠償のおそれがあるため,最終消費者には損害賠償の原告適格が認められていないが,差止めの場合は二重賠償の危険がないので,原告適格が認められている。」差止は二重の賠償にはならないが、最終消費者であってもプライベートに行うには非常に困難な作業である。

 「○ 独占禁止法違反の認定に関する公正取引委員会中心主義という建前を崩して,裁判所で独自に行うルートをどこまで認めるかということは重要な問題である。排除措置との関係では,いきなり訴訟というのではなく,まず公正取引委員会に申し出をさせて,一定期間内に公正取引委員会が何らかの措置を採らなければ出訴できるようにするということも考えられる。」

公正取引委員会に強制捜査の権限が認められていない以上、どちらでも同じであるが、公正取引委員会にその権限が認められるならばそのようにするのもよいと思われる。 

「○ 公正取引委員会の排除措置命令があり,現実的な効果として,この命令により被害を受けた私人は救済されるのだから,排除措置という行政措置で十分ではないか。また,今の制度でも,誰でも情報を公正取引委員会に申告して,公正取引委員会が独占禁止法違反だと認定すれば排除措置が採られるわけであるから,それで不十分だということであるのならば,情報収集のところを充実させる等により対応すればよいのではないか。」公正取引委員会に認定する能力・権限が備わっていない。 

「○ 独占禁止法は第一義的に公益を保護しており,副次的に私益も保護していると考えるが,現在の制度は,公正取引委員会がスクリーニングを行うことを前提にしていると理解している。そうであるならば,私益侵害を理由に直接裁判所に提訴されると,競争政策上好ましくない判断がされるおそれがある。」好ましくないということは裁判所を信用していないということか。 

「○ 競争者の場合,競争促進よりも自己の利益のために戦略的に独占禁止法を利用する可能性が高いので,ある程度絞りをかけないと逆に競争を歪めるために独占禁止法が利用されるおそれがある。」独占禁止法が競争をゆがめているという本はたくさん出ているけど。談合を推奨する本もあった。

 「○ 現行法は,公正取引委員会がまず動いて,訴訟は東京高裁で行うということを基本にしているわけだが,損害賠償についてそれが崩れてしまっているのであるから,もう訴訟は全部地裁でもいいと割り切る考え方もある。」地裁はほとんど何も出来ない状態である。

 「○ まず,パブリックエンフォースメントを充実させていって,それにより救済の実を上げていくという論理があると思うが,公正取引委員会のリソースがそこまで広がるかといった問題がある。また,リソースの限界から,公正取引委員会は独占禁止法違反事件の中でも重要な事件だけを扱い,それ以外は取り上げないという場合が出てくるということがあり得るので,そのような小さな事件は私訴で対応したいという意見もある。」私訴は公正競争阻害性の問題をも取り扱っているという認識であるが、しかし公正取引委員会のリソースはそれ程大きくないという印象である。

 「○ リソースの問題があるのであれば,国民的なコンセンサスを得てリソースを広げるといったことをまず考えるべきではないか。」

 国民の認識が談合は利益があるという認識から変わるべきであろう。

「○ 公正取引委員会の排除措置と私人の差止めは同じものだけれど併存していると考えるのか,それとも守備範囲がそれぞれあって分担すると考えるのかという問題。基本的には分担関係になって補完し合うのだと思うが,わずかに競合する部分もあると思う。」

本件事件においてはその「わずかに競合する部分」に該当して、カルテルの一部分としてとらえられるものである。純粋に価格以外の行為と見る向きは少ないであろう。

 「○ 競合する部分というのはあると思うが,排除措置は単なる行為の差止めよりはもっと広い内容を持っており,それはやはり私訴では無理であろう。」

公正競争阻害を排除して社会に利益をもたらすという効果を持つのが、公正取引委員会であり、公正競争阻害を排除することによって私人に利益をもたらすのが私訴である。今後は念書をとって入れるようになるであろう。これではただ公正競争阻害が増すのみである。それが悔しいことである。

 「○ 私人による差止訴訟の既判力の主観的範囲というのは訴訟当事者間のみで,他の者には当然判決の効力は及ばないのだから,そこが公正取引委員会の排除措置と根本的に異なる。公正取引委員会の排除措置というのは一般的にこれはダメと言ってしまうので,対世効と同様な効果を持つ。だから競合する,重なり合うといっても,性格が違うと思う。」念書をとって入れるのは公正競争阻害があるから違反であると言ってもらいたいのだが、それは損害がないから公正取引委員会に期待するのは無理か。すると永久に日本は談合は儲かるという世界になってしまう。

高校生でも悪いことはしってやっている。

 「○ 原告適格者の範囲の問題について,これは比較的広く認めておいても訴訟を起こすインセンティブがなければ起こさないのだから,濫訴ということは実際上はあまり考えられないのではないか。不正競争防止法でも訴訟を提起する者の類型というのは固定してきており,あまり心配する必要はないのではないか。」至当。 

「○ 第一審は地裁で行うとしても,控訴は東京高裁に集中させるということは考えられないか。公正取引委員会の判断は最終的には東京高裁で見直しがされるわけだから,そこのところを集中させておけばダブルスタンダードの問題はクリアできると思う。」

今回は民法の担当者が行った点に問題があると言えないか。

「○ 独占禁止法の差止請求に係る事件というのはすべて東京高裁で第二審を担当するといった趣旨であるとすると,東京高裁に集中するほどの専門性の有無,また遠隔地の当事者の不利益といった点を考慮しなければならない。」

各高裁の独占禁止法担当部を作るべきであろう。

 「(2)次回は,「差止めの対象となる行為類型」,「訴権者の範囲」を議題とすること,また,次回会合の開催日程は6月24日(水)午前10時〜12時に行うこととされた。 以上

 (文責:公正取引委員会事務総局 速報のために事後修正の可能性あり。なお,配布資料の入手を希望される方は,前記問い合わせ先にご連絡くださるか,インターネットの公正取引委員会のホームページを御覧下さい(http://www.jftc.admix.go.jp)。)」

事務のために省略。 

「独占禁止法違反行為に係る民事的救済制度に関する研究会(第3回)

                     平成10年5月20日                               午前10時〜正午

                    公正取引委員会事務総局

議事次第

1 開会

 2 私人の差止訴訟と公正取引委員会の排除措置との関係

 3 私人の差止請求権の法的性質

 4 閉会

<配布資料>

  3−資料1 私人の差止訴訟と公正取引委員会の排除措置との関係

  3−資料2 私人の差止請求権の法的性質

  参考資料6 住民訴訟・株主代表訴訟をめぐる学説等

  参考資料7 差止をめぐる判例・学説等

  参考資料8 特別法により差止請求権が認められているもの

○ 私人の差止訴訟と公正取引委員会の排除措置との関係

<独占禁止法の体系>

 「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)」は,自由経済における企業の事業活動の基本的ルールを定めたものであり,全ての事業者に適用される法律である。 また,企業間の競争を維持・促進し,自由経済のメリットを活かす基盤を整備する競争政策を遂行するために制定された法律であり,その体系上,独占禁止法違反行為については,専門行政機関である公正取引委員会の排除措置を中心として規律されており,その他の刑事制裁,民事上の規律においても公正取引委員会の決定がかかわる仕組みになっている。」

公正取引委員会においてはこれまで行政書士会の壇上におけるすったもんだの事件もすべて無効確認できないとして放置してきた。今回の入会をモラトリアムするという行為に対しても、私的な好き嫌いはどうしようもないという立場をとってきた。

「1 独占禁止法の目的

  独占禁止法は,「公正かつ自由な競争を促進して,一般消費者の利益を確保するとともに,国民経済の民主的で健全な発達を図る」ことを目的としている。 

* 独占禁止法1条  この法律は,私的独占,不当な取引制限及び不公正な取引方法を禁止し,事業支配力の過度の集中を防止して,結合,協定等の方法による生産,販売,価格,技術等の不当な制限その他一切の事業活動の不当な拘束を排除することにより,公正且つ自由な競争を促進し,事業者の創意を発揮させ,事業活動を盛んにし,雇傭及び国民実所得の水準を高め,以て,一般消費者の利益を確保するとともに,国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とする。」

まさに被上告人はこの文章に該当している。

 「2 独占禁止法の内容

  独占禁止法は,上記法目的を達成するために次の実体規定を置いている。

 ・ 私的独占の禁止(法3条前段) ・ 不当な取引制限の禁止(法3条後段) ・ 不公正な取引方法の禁止(法19条) ・ 特定の国際的協定又は契約の禁止(法6条) ・ 独占的状態に対する措置(法8条の4) ・ 企業結合の制限(法9条〜18条) ・ 事業者団体の一定の行為の禁止(法8条)」

今回の本件事件においては事業者団体の一定の行為の禁止(法8条)共同ボイコットの行為に該当する。

 「3 独占禁止法の執行

 独占禁止法は,法目的を実現するために,独立行政委員会である公正取引委員会を設置し,独占禁止法違反行為を規律する手段として次の3つを規定している。」

 独立行政委員会である公正取引委員会の機能強化が望まれる。

「@ 行政上の規律 ・ 公正取引委員会による違反行為の排除措置命令 ・ 公正取引委員会の課徴金納付命令 ・ 公正取引委員会の申し立てによる裁判所の緊急停止命令A 刑事制裁一定の違反行為,確定審決違反等に対する罰則B 民事上の規律 事業者の違反行為に対する無過失損害賠償責任(審決前置) 

● @〜Bの手段は,それぞれ目的,機能を異にしているので,同一の違反行為に対して重複して用いられることがあるが,中心となるのは@の公正取引委員会による行政上の規律である。公正取引委員会は独占禁止法違反事実があると思料するときは,職権をもって調査を行い,審決により適当な措置(排除措置等)を命ずることができる(法7条,8条の2,17条の2,20条,48条,53条の3,54条)。」

 排除措置については入会のモラトリアムの場合には公正競争阻害性もあるが、私人への損害額が大きいのであるから、差止が必要である。

「● @の公正取引委員会の審決を争う審決取消訴訟については,公正取引委員会の事実認定について実質的な証拠がある場合に裁判所の判断を拘束する実質的証拠の法則など,通常の行政事件訴訟とは異なる手続が定められている(法80条〜83条)。」実質的証拠と見るかどうかの判断が必要である。

 「● A及びBによる規律においても,公正取引委員会の決定が関与する仕組みとなっており,Aの刑事制裁では公正取引委員会の専属告発制度が定められ(法73条,96条),Bの民事上の規律である無過失損害賠償請求は公正取引委員会の審決が確定しなければ主張できないとされており(法25条,26条),裁判所は損害額について公正取引委員会の意見を求めなければならない(法84条)。」

 民法709条によって損害賠償請求がおこなわれるようになっている。

「● 上記独占禁止法違反事件に関する訴訟の裁判権は東京高等裁判所が有している(法85条)。

  (以上参考資料1参照)」

 <検討事項>

 「1 法理論上の問題

(1) 独占禁止法体系の中に民事的救済制度を導入する際の法理論上の問題点

   私人による差止訴訟は,民事法体系に従って行われることになるが,公正かつ自由な競争秩序の維持という公益を目的としている独占禁止法に,私人の法的利益の保護を目的とする民事救済制度を導入することは法理論上の問題はないか。」

もともと不法行為法によっても、トート法によっても損害賠償請求が認められていたので問題はない。

「 ○ 公法と私法の関係

 公法・私法の関係については,我が国の法体系が大陸法の影響を受けていたことから,両者が従来明確に区別されていたが,近年の立法について公法・私法の中間領域ないし混合領域が広くなっており,両者を明確に区別しない考え方が支配的となっている。 また,近時,独占禁止法と民法の関係に係わる問題について,民法学者の側で競争秩序を私法上の公序に組み込んだり,経済法学者の側からも私法秩序と競争秩序は元来市場秩序を支えるものとして相互に不可分の関係にあるという見解が有力に主張されており,岐阜信用組合事件最高裁判決においても,民法90条を介して独占禁止法違反行為の私法上の効力が論じられている。 このように,独占禁止法が公益を目的としているとしても,独占禁止法自体の性格が私人の利益を包含していると考えられるのであれば,行政法規としての特殊性にこだわることはなく,民事的救済制度を導入しても,法理論上はそれほど問題はないのではないか。」

公正競争阻害の問題は公法の問題である。しかし不法行為法によっても同時に損害が語られうる唯一の例が共同ボイコットであろう。

  「(参考資料2参照)」

  「○ 私人のイニシアチブによる法目的の実現

 私人による訴訟の提起が単に被害の救済を求めるという消極面においてだけでなく,法目的の実現のために積極的な役割を果たすものとして評価されるべきであるという考え方も有力に主張されており,競争秩序の維持という独占禁止法の法目的の実現のために,私人による差止めを政策的に導入してはどうかという考え方もあるが,このような方向は必要か。 また,私人による法目的の実現という面を強く打ち出す場合には,地方自治法における住民訴訟のような客観訴訟や,あるいはそれに類似した商法における株主代表訴訟のような形態をとることも考えられる。しかし,住民訴訟や株主代表訴訟は,地方自治体や会社組織における特殊な事情や訴権者についての適切な要件の下に認められており,独占禁止法についても同じことを認め得るか。参考資料2,6参照)」私訴については私人の損害で事足りる。

 「 ○ 独占禁止法上の無過失賠償責任(法25条,26条)

 既に独占禁止法25条による無過失損害賠償訴訟制度が定められており,現行独占禁止法が公益とともに私益保護の側面も併せ持っていると言えるのではないか。 なお,25条訴訟の意義について,平成2年の独占禁止法に関する損害賠償制度研究会報告書は「独占禁止法違反行為によって生じた私人の損害が適正かつ迅速に填補されることを通じて当該競争侵害行為が及ぼした経済社会に対する損害が除去されることとなり,これにより競争秩序の回復と違反行為の抑止が同時に図られることにあるものと考えられる。」としており,25条訴訟を私人の損害の救済で手段であると同時に公益保護の性質も併せ持つものと位置づけていると考えられる。(参考資料3参照)」

公益保護の面があっても損害が私人には発生していない場合、例えば念書をとって入会させるような行為は、公正競争阻害性のみが問題となる。 

「(2) 私人による差止訴訟の法的枠組みについて

 独占禁止法の保護法益に私人の利益が含まれているとした場合,その保護を実現するための独占禁止法違反行為に対する私人の差止訴訟の法的枠組みについては次の2つが考えられるが,どちらとするのか。」

「● 民法の解釈の枠組みの中で,公序良俗や権利侵害といったツールを使って,独占禁止法違反行為についての差止めを認める。」

独占禁止法違反行為を民法の不法行為法によって差止を認めることにもともと無理があった。例えば所有権においても妨害排除の請求権が認められているが、このような強い権利として自由な競争社会において営業する権利を認める必要がある。それは生存権や、職業選択の自由に類するものである。

「 ● 独占禁止法違反行為の違法性の強さや,社会経済上の必要性など,独占禁止法独自の観点から差止めを認める。

  (参考資料2参照)」

 共同ボイコットを社会経済上の必要性があるので差止を認めるという公正競争阻害の考え方だけでは継続的に違反を行っているという性質を解決できない。憲法上の問題が発生する。

「2 公正取引委員会の排除措置との関係

  独占禁止法違反行為に対する民事上の規律としては,独占禁止法25条訴訟による無過失賠償請求と民法709条による損害賠償請求があるが,これらはいずれも過去の損害に対する金銭賠償責任である(契約関係にある者の場合には,民法90条に基づく地位確認請求,不当利得返還請求などが請求できる)。

  しかし,私人による差止訴訟は,公正取引委員会の審決の存在を前提とせず,独占禁止法違反行為を排除するという点で公正取引委員会による排除措置とほとんど同様の効果を生ずることから,独占禁止法違反行為に対して公正取引委員会と私人とが二重に措置を採ることができるという事態を招来する。この点についてヒアリング等を行った結果,概ね次のA説,B説2つの考え方に分かれている。

 A説 公正取引委員会が排除措置を採る違反行為を私人が差止めるのは問題ではないか。

   [論拠となる様々な意見]

  ○ 違反行為の排除は,事業者の経済活動を拘束することであり,社会経済に与える影響が大きい。したがって,その執行は独立行政機関である公正取引委員会が一元的に行うべきであり,私益追求を目的とする私人による執行にはなじまないのではないか。」

被害が発生するということを理解していない。

   「○ 私人による差止めは,競争秩序維持の観点から公正取引委員会が問題視しない場合であっても提起される可能性があり,独占禁止法違反行為に対する抑止が過剰になり,事業者の自由な経済活動を阻害するおそれがある。」自由な経済活動を行うための独占禁止法であることが理解されていない。

 「 ○ 仮に私人による差止めを認める場合であっても,行為類型の構成要件に違いを設けるなどして私人が差止訴訟を提起できる行為類型と行政が排除措置を採る行為類型とは異なる次元のものであることを明確にすべきではないか。」先程の例の通りに念書を入れて入会させる行為は、損害賠償請求にはなじまないので、排除措置だけしか適用できない。 

「B説 公正取引委員会の排除措置と私人の差止訴訟が併存しても問題ないのではないか。

   [論拠となる様々な意見]

  ○ 公正取引委員会の排除措置は,競争秩序の維持の観点から違法行為の除去を行うものであって,必ずしも私人が具体的に受けている違反状態を排除するものではない場合もあり得る。このような場合には,公正取引委員会の排除措置と私人の差止訴訟の内容は異なると考えられるのではないか。」上記の例が当てはまる。入会拒否は差止が必要な事例である。 

  「○ 民事事件においては,当事者主義の下,原告の証拠収集等の面で不十分な面もあることや,判決の既判力が当事者にしか及ばないことなどから,私人の差止めが認められたとしても公正取引委員会の排除措置の対象としておく必要があるのではないか。特に,当事者間の公平の見地から請求を認容しないことを認める場合には,この要請が一層強くなる。」強制執行の実を上げるためにはこれは必要である。

 「○ 自己責任原則の徹底の観点からは,行政が独占禁止法違反行為の排除の全てを担うのではなく,私人も自助努力により競争秩序維持形成を行うことが必要なのではないか。」プライベート・アトーニー・ゼネラルはほとんど捜査権限がない割に合わない職務である。

  「 ○ 規制緩和が推進され,独占禁止法の重要性が相対的に高まる中,公正取引委員会による執行のみでは人的リソースの面で今後不十分になるおそれもあることから,私人にも一定の役割を担わせる社会経済上の必要性が出てきているのではないか。」

人的リソースにされてはただ働きということであろう。

 「 ○ 公正取引委員会の探知能力には限界があり,最も情報を有している当事者による提訴を認めることが効率的ではないか。」最も情報を有している当事者による探知はプライベート・アトーニー・ゼネラルが適切かもしれない。

 「3 裁判所による独占禁止法違反の判断

  私人による差止訴訟は,独占禁止法違反行為について公正取引委員会による第一次判断を離れ裁判所で判断がなされることになるが,独占禁止法違反行為の認定は我が国の競争政策の運営に影響を及ぼすことから,公正取引委員会による判断を全く経ずに裁判所が独占禁止法違反を判断することが適当かという問題がある。この点についてヒアリング等を行ったところ,概ね次のC説,D説の2つの意見に分かれている。

 C説 民事訴訟は私人の権利・義務を確定する私益救済の場であり,競争政策の判断にはなじまないのではないか。

  [論拠となる様々な意見]

  ○ 独占禁止法違反行為は「一定の取引分野における競争の実質的制限」,「公正な競争を阻害するおそれ」といった対市場効果要件の下で成立し,一定の行為を無条件に禁止するわけでない。したがって,独占禁止法違反については市場の競争に及ぼす影響度等の経済実態を踏まえて政策的に判断する必要があることから,私益救済の場である民事裁判所の判断にはなじまないのではないか。」この意見は公正競争阻害性の問題だけを論じており、不法行為法によっても損害賠償請求がなされてきた実態を知っていない。

  「 ○ 公正取引委員会の審決が取消訴訟で争われる場合であっても,実質的証拠法則など裁判所の判断には一定の拘束があり,その限りで公正取引委員会の第一次判断権が尊重されているが,私人による差止訴訟はこうした枠組みに合致しないのではないか。なお,独占禁止法違反を理由とした民事事件における実際の判決の中でも,公正取引委員会のガイドラインに依拠しているものが多く,実務的には公正取引委員会の判断に依拠せざるを得ない状況にあるのではないか。」共同ボイコットに関するガイドラインの趣旨はドイツでも、アメリカでも、日本でも同様である。

 「 ○ 公正取引委員会と裁判所の判断に齟齬が生じるおそれがあり,独占禁止法違反についての基本的解釈・運用が不安定になると,事業者の経済活動を必要以上に抑圧してしまうことになるのではないか。独占禁止法違反事件(審決取消訴訟,25条訴訟,刑事訴訟)については,専門的かつ統一的な判断を必要とする独占禁止法違反行為に関して提起されることに鑑み,東京高裁の専属管轄とされているところ,全国の地裁で独占禁止法違反の判断がされることになると,この危険は一層強くなるのではないか。」自由に経済活動をするための法律を理解していない。談合が良いという本はあまねく談合の効用本として出回っている。

 「 ○ 裁判の進行を当事者に委ねる現行民事訴訟制度の下では,独占禁止法違反行為の迅速な排除を図ることが難しいのではないか。」

私人に捜査権限がないという意味か。

 「D説 公正取引委員会の行政処分と関係なく裁判所が独占禁止法違反の判断を行うことは問題ない。むしろ裁判所が積極的に競争政策の一翼を担うべきではないか。

   [論拠となる様々な意見]

  ○ 法の執行を行政が独占するのではなく,私人による裁判所の利用は,単に被害の救済を求めるという消極的な面においてだけでなく,法の目標を実現するという積極的な役割を果たすものとして評価されるべきではないか。」この考え方が損害賠償請求を認めるのは独占禁止法違反の抑制であるという考え方である。

「 ○ 現行の独占禁止法その他の法体系の下でも,次のような点で裁判所による独占禁止法の解釈,競争秩序の形成を容認しているのではないか。

    ・ 公正取引委員会の判断が適切かどうかは審決取消訴訟で結局は裁判所(東京高裁,最高裁)で判断され,実質的証拠法則についても,裁判所は実質的な証拠があるかどうかというところで事実認定を行っていると考えられる。

     また,25条訴訟においても公正取引委員会の審決については違法行為の存在が事実上推定されるにとどまる。」

念書をとって入会させるような行為については公正競争阻害性の問題だから公正取引委員会にまかせるしか方法はない。

「    ・ 損害賠償請求,地位確認訴訟等の例ではあるが,民法709条,90条を通じて独占禁止法違反を判断している判例もある。    (参考資料4,5参照)」2、3件しか存在しないというのは法が認知されていないということであろう。

 「4 その他

  私人による差止訴訟を導入するとした場合,裁判所との関係など既存の制度(25条訴訟,刑事制裁制度)の中で変更を必要とするものが出てくるか。」

差止と刑事訴追の関係はどうなるのか。

 「・ 私人の差止請求権の法的性質

 1 現行法で認められている差止請求権

 現行の民事法体系では,私人の差止請求は,(1)民事上の権利を根拠とする場合,(2)民法不法行為上の解釈により認められる場合,(3)特に立法化されている場合,にのみ提起することができる。」

 特に立法化されている場合ということは、これまでは確認訴訟でしか対応して来なかった。これはすべて負けてきた。

「1. 民事上の権利に基づく差止請求権

  @ 民法上認められた権利

  所有権等の支配的権利に基づく当然の権利として,妨害排除や妨害予防の請求権が認められている。また,対抗力を有する賃借権等,排他的な債権に基づく差止請求権が判例により認められている。」不正競争防止法や、独占禁止法における妨害排除の権利は、自由経済社会になってはじめて認められたものであるというのが現代の法哲学である。

  「 A 解釈上認められた権利

 金銭賠償によっては将来にわたっての侵害を消滅させることができず,被害者の救済が十分に図れないことから,「氏名権」,「肖像権」,名誉・プライバシー等の「人格権」などを根拠に,侵害行為の差止めを認める判例,学説がある。」これは憲法上認められた権利であり、営業する権利はこれとほぼ同じような自由を妨害するものを排除しない限りは自由に行動できないという法哲学に基づくものである。

  「  なお,煤煙,臭気,排・汚水による生活侵害に対する公害差止訴訟などで主張される「環境権」のような新しい権利については,公害問題が顕在化する頃には,加害者側にも恒久的な生活利益が事実上作り上げられてしまっていることが多いことや,差止請求が金銭賠償の例外であるため,差止請求は金銭賠償の場合よりも次の点において厳格な要件が要求されると主張する見解もある。

 (社会的な利益衡量をも前提とした上で,) ・侵害の重大性ないし違法性の大小 ・被害者側の受忍限度

   (以上,参考資料7参照)」

本件事件の第一審はこの部分を使用したものであるが、これは公害問題について言っているのであって、私も最初独占禁止法について言っていると思える程度に誤植してあったのであり、それに従った誤判決である。この文をおそらくp氏に渡していたので誤読したものと考えられる。

注1:【英】Maximum Permissible Level

「日照妨害等の他人の生活に悪影響を及ぼす行為、大気汚染や騒音等の公害において、影響を受ける者が社会生活上受忍すべき程度のことをいう。人が社会生活をする限りは、この種の影響は多少なりとも与えあっているものであるとして、お互いに合理的な範囲内においては受忍すべきであって、損害賠償や差し止め請求は認められないとされる。しばしば、公害裁判においてこの受忍限度の範囲内であるかどうかが争点になることがある。」

しかし喫煙の問題に対しても、所有権による喫煙室の指定の合法性もあるが、公害である喫煙の受忍限度論については次のような指摘があり得る。ましてや本件は公正競争阻害の問題である。公正競争阻害性とは別のところで解決されるべきことが、ここでは公正競争阻害性と利益考量されている。不思議な判決である。裁判の費用と、公正競争阻害性との比較である。

「いわゆる受忍限度論は、人の身体、健康等に影響を及ぼすものであっても、その態様、程度いかんによっては、社会生活を円滑に営むために相互に許容すべきものとして社会的に容認されるものもありうるとの認識に基づき、侵害の態様、程度、加害行為の性質・効用又はこれに対する差止による影響等を考慮して、受忍限度を超える場合に違法性を帯びるという考え方である。これは、結局のところ、侵害行為を禁止すれば、それによって一定の利益を侵害し、社会公共の利益が損なわれるという場合に、それら対立利益を調整するために、一定の限度の被害の発生は社会生活上やむをえないものとする利益衡量の考え方に基づくものである。

   ところで、本件で原告らに生じる被害は、現実の健康被害、将来の疾病罹患リスクの向上、著しい不快感という生命身体の安全にかかわるものであるのに対して、禁煙することによって損なわれる利益は、喫煙という個人の嗜好である。このような喫煙の利益は、そもそも受忍限度論で保護される利益ではないというべきである。

   なぜならば、前者の生命身体の安全は、人の生存に直結するものであって、法益のなかでももっとも高位に位置し、最大限の尊重が必要とされるものであるのに対して、後者の喫煙の利益はそれを奪ったとしても人の生存には一切関係しない文字どおり単なる個人的嗜好にすぎないからである。このようなまったく性質と位置づけの異なる利益の対立場面に受忍限度論を適用するならば、単なる個人的好みのために他人の生命身体への被害を強いるという結果を招来することになる。

  従来受忍限度が問題とされた事例の対立利益の典型は、公害事件における社会経済上の利益であった。これらの利益の実現はたしかに社会生活を豊かにするものであって、社会公共の利益に合致するものであり、これらの利益の実現のために、個人的被害を一定程度犠牲とすることは、社会生活の向上と発展を図るためにはやむをえないということができる。ところが、喫煙というような単なる個人的嗜好は、それを禁止したからといって、社会公共の利益を害することはまったくないばかりか、むしろ喫煙を禁止するほうが、喫煙者の生命の維持、火災の防止、清掃費用の軽減など、社会公共の利益を増進することにつながるのである。

   したがって、本件においては受忍限度論はまったく妥当しないというべきである。」

   これを独占禁止法違反という公正競争阻害を問題としている訴訟に持ち込むことは全く場違いである。場違いとは違法であるということである。ドイツ法にも、アメリカ法にもそのような考え方はない。

 「(2) 民法不法行為上の解釈により認められる場合

我が国民法においては,債務不履行や不法行為について金銭賠償を原則とする損害賠償制度のみを規定しており(民法709条,722条,417条),差止請求については実定法上の規定がないことから,原則として認められないとするのが通説・判例となっている(例外的に,他人の名誉を毀損した場合には,損害賠償に代えて,または損害賠償とともに,「名誉を回復するに適当な処分」を裁判所は命ずることができる(民法723条))。」損害賠償に代えてが重要な点である。

「しかし,不法行為に対する差止請求については,解釈上これを認める説も有力となっており,侵害行為又は侵害された状態の違法性の当然の効果として,(金銭賠償では不十分である場合に)妨害排除などの特定的救済を求める請求権と構成する考え方が主張されている。これは,侵害行為又は侵害された状態の違法性に着目して,違法な行為又は状態によって損害を受ける者に侵害除去の請求権を認める立場であるため,広い範囲で不法行為による差止請求権が認めうるものと考えられている。」

この考え方は特に自由経済において営業する自由を妨害を排除することによってのみ成立させうるという法哲学によって深く洞察すれば独占禁止法上の差止、不正競争防止法における差止の哲学的な基本概念となりうる。

   「ただし,権利(利益)に対する侵害が違法となるかは,原則として被侵害権利(利益)の性質と侵害行為の態様とを総合して,法の理念と社会通念に従って判定すべきであるとする説も有力に主張されており,公害訴訟の例ではあるが,違法な権利(利益)侵害として差止めが認められる場合について,最高裁判決は次のような基準を提示している。

  単なる法令違反では足りず,権利(利益)侵害になるかどうかは, ・侵害行為の態様 ・侵害の程度 ・被侵害利益の性質と内容 ・当該工場等の所在地の地域環境 ・侵害行為の開始とその後の継続の経過及び状況 ・その間にとられた被害の防止に関する措置の有無及びその内容・効果 等の諸般の事情を総合的に考察して,被害が一般社会生活上受忍すべき限度を超えているものかどうかによって決すべきである。

   (以上,参考資料7参照)」

 これは以下の公害訴訟における受忍限度論である。この場合には営業の自由のような憲法上の自由を守るために妨害を排除しなければならないという法哲学上の問題とは一切関係がない。

 「(3) 特に立法化されている場合

特別法により差止請求が認められているのは,@特許法などの知的財産保護法による差止請求権,A不正競争防止法による差止請求権,及びB商法による株主等による取締役の行為に対する差止請求権などがある。」いずれも所有権の妨害排除の請求権に似たものである。不正競争防止法については独占禁止法と同様の自由経済において営業する自由を確保するためという問題である。

 「@ 特許法などの知的財産保護法による差止請求権

    知的財産権は,技術や人の感情の表現などの「情報」を保護の対象とするものであるが,特許権,実用新案権,意匠権,商標権,著作権,種苗法に基づく品種登録者の権利(育成者権を設定する法案が第142回通常国会に提出されている。),半導体回路配置利用権などの権利者に対して,自己の権利を侵害する又は侵害するおそれがある者に対する差止請求権(侵害停止・予防及び除却請求権)が与えられている(特許法100条,実用新案法27条,意匠法37条,商標法36条,著作権法112条,種苗法12条の5,半導体集積回路の回路配置に関する法律22条)。

    以下,特許法を例に概観する。

    a)特許法の目的

     特許法は,発明の保護及び利用を図ることにより,発明を奨励し,もって産業の発達に寄与することを目的としており(法1条),特許権者に業として特許発明の実施をする権利を専有させている(法68条)b)特許法の民事的救済手段

     大正10年法では,特許権侵害があった場合の民事上の救済に関しては特段の規定はなく,もっぱら一般法としての民法の規定の適用によって救済措置が講じられていたが,昭和34年の改正時に,特許権の特殊性にかんがみて,民法の特別規定として権利侵害に関する差止請求権,民法709条の補完規定である損害の額の推定(故意・過失による特許権又は専用実施権の侵害は,当然に不法行為を構成するものと解されていたため,特許法中には民法709条に相当する特別の規定は置かれなかった),信用回復請求権などの規定が設けられた。」

特許訴訟において民事訴訟法第248条が頻繁に使用されている。

 「c)差止請求権の性質

     知的財産権法は「物」についての所有権の考え方を借用した所有権的な法制となっており(「工業所有権審議会損害賠償等小委員会報告書」平成9年11月25日),大正10年法には差止請求権に関する明文の規定はなかったが,特許権者が特許発明の実施権限を専有する旨定めていた大正10年法35条1項の解釈上,特許権者が物権的請求権としての差止請求権を行使しうることは当然のこととされていた。

しかし,昭和34年の改正時に専用実施権の制度が創設されたことや,明文の規定なくして侵害行為組成物等の廃棄請求までも認めることについて若干の疑義がないわけではないことなどを考慮して,同改正において差止請求権を確認的に新設したものと説明されている(以上,「工業所有権法逐条解説」特許庁編,「注解特許法」紋谷暢男編)。」

 物権的請求権と同様の妨害排除の請求権と理解してよいと考えられる。 

 「 A 不正競争防止法による差止請求権

    不正競争防止法は,不正競争の防止により,事業者の営業上の利益の保護を図るとともに,これを通じて公正な競争の確保を図るために,不正競争によって営業上の利益を侵害された者又はそのおそれのある者の差止請求を規定している(法3条)。

     a)不正競争防止法の目的

      不正競争防止法の目的規定(法1条)は,平成5年の全面改正時に追加されたものだが,同法の目的については,不正競争によって営業上の利益を侵害され,又は侵害されるおそれのある者に対し不正競争の停止・予防請求権等を付与することにより不正競争の防止を図るとともに,その営業上の利益が侵害された者の損害賠償に係る措置等を整備することにより,事業者間の公正な競争を確保しよう等するものであると説明されている(「逐条解説不正競争防止法」通商産業省知的財産政策室監修)。」営業上の利益を侵害され,又は侵害されるおそれとか停止・予防請求権の規定が存在している。

 「* 不正競争防止法1条  この法律は,事業者間の旺盛な競争及びこれに関する国際約束の的確な実施を確保するため,不正な競争の防止及び不正競争に係る損害賠償に関する措置等を講じ,もって国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする。

     b)不正競争防止法の沿革

      不正競争防止法は,昭和9年に「工業所有権の保護に関するパリ条約ヘーグ改正条約」を批准するにあたり,同改正条約が,不正競争の禁圧を加盟国に義務づけていたことから,条約上の最低限の義務を充足するために制定された。

      当時の立法経緯を見ると,それ以前から法制定の動きがあったが,当時の我が国産業が発展途上にあったこと,当時の民法解釈上,権利侵害とはいえない行為に法的責任を認めるべきではないと考えられていたこと等の理由から法律制定は見送られていたが,大学湯事件(大正14年11月28日大審院判決)を契機に不法行為の解釈が「権利侵害」から「違法性」へと変化したことから,ヘーグ改正条約における不正競争の規定を国内法に調和させることが可能となったことを受けて制定されたものである(「不正競争防止法概説」小野昌延,「逐条解説不正競争防止法」通商産業省知的財産政策室監修)。

     c)不正競争防止法の民事的救済手段

      法2条1項各号に掲げる「不正競争」について,これら行為により営業上の利益を侵害された(又はそのおそれのある)者からの差止請求と,故意・過失による「不正競争」により営業上の利益を侵害された者からの損害賠償請求等の民事的救済を定め,さらにこれらの行為のうち特に不正性の高い行為について一定の要件を加重した上で刑事罰を科している。

      なお,不正競争防止法には外国国旗等(法9条)や国際機関の標章(法10条)の商業上の使用などの行為類型も規定されているが,これら行為については民事上の救済手段は与えられておらず,もっぱら刑事罰の適用のみを受ける。」独占禁止法による被害は事業活動そのものを否定する程度のものであるから、財産権や営業の利益は憲法上の権利の否定にまで及ぶものである。

 「d」差止請求権の性質

      差止請求権については,「競争事業者間で行われる不法行為については,事後的な損害賠償請求のみでは救済として不十分であることから,損害賠償請求権に加えて特に差止請求権を付与したもの」と説明されている(以上,「逐条解説不正競争防止法」通商産業省知的財産政策室)。」事後的な損害賠償請求のみでは不十分である場合は特に継続犯である場合に顕著である。

      「なお,昭和9年の制定法においては,営業秘密に係る不正行為を除いては,将来の違法行為の禁止を求める予防請求権及び違法状態又は違法行為組成物の廃棄・除却を求める廃棄・除却請求権についての明文規定を欠いていたが,不正競争の防止という目的を達成するために,現在の侵害行為の停止を求めるだけでは不十分であり,むしろ将来の侵害を予防し,さらに,侵害の組成物の廃棄・除却等侵害の予防に必要な請求を認めることにより,その積極的根絶を図る必要があり,判例上も差止請求権として予防請求権及び廃棄・除却請求権が認められてきたことから,平成5年の改正時に明文化されている(法3条第2項)。」将来の違法行為の禁止を求める予防請求権については独占禁止法に引き継がれたと考えられ、そこに受忍限度論のような公害訴訟は持ち込まれていない。

     (参考)

     ○不正競争防止法の法目的達成手段

  対象行為類型 訴権者 加重要件

差止請求権(3条) 不正競争(不正競争防止法第2条第1項)・商品等表示混同惹起行為(1号)・著名表示冒用行為(2号)・商品等形態模倣行為(3号)・営業秘密不正使用等行為(4号〜9号)・品質等誤認惹起行為(10号)・信用毀損行為(11号)・代理人等の商標冒用行為(12号) 営業上の利益を侵害され又は侵害されるおそれのある者 (なし)

損害賠償請求権(4条) 不正競争(2条1項各号)(同上) 営業上の利益を侵害された者 故意・過失

信用回復の措置(7条) 不正競争(2条1項各号)(同上) 営業上の利益を侵害された者 故意・過失

罰則(13条) ○不正競争(2条1項)の一部・商品等表示混同惹起行為(1号)・品質等誤認惹起行為(10号) ○外国国旗等の商業上の使用(第9条)○国際機関の商標の商業上の使用(第10条)    不正目的虚偽表示 (なし)(なし)」営業上の利益を侵害され又は侵害されるおそれのある者の概念は独占禁止法に引き継がれたと思われる。この概念が重要であり、判例となりうる。

 「B 商法による株主等による取締役の行為に対する差止請求権

商法では,株主による差止請求権(法272条),株主による新株発行差止請求権(法280条の10),監査役による差止請求権(法275条の2第1項)が規定されている。」

株主は所有権を持つものであり、妨害排除の請求権を持つのは当然である。

  「a」株主による差止請求権(法272条,法280条の10)

   取締役が会社の目的の範囲外の行為や法令または定款に違反する行為をしようとうする場合に,会社に回復すべからざる損害を生ずるおそれがある場合に,個々の株主(6ヶ月前から引き続き株式を有することが必要)が自ら会社のために取締役に対しその行為をやめるべきことを請求する権利であり,株主の代表訴訟(法267条〜268条の3)と同様に,昭和25年の商法改正により株主の地位の強化の一環として規定されたものである。取締役が法令または定款に違反する行為をしようとする場合に,本来,これを差し止める権利を有しているのは会社自身であるが,会社が差止請求権の行使を怠っている場合に,株主が会社の有する権利を会社のために行使するのであり,実質上,会社の代表機関的地位に立ち,本質的に株主の代表訴訟提起権と同じ構想である。両者の相違は,株主代表訴訟提起権が事後における積極的給付を目的とする制度であるのに対し,株主の違法行為差止請求権は,違法行為がなされる前における事前の消極的な防止措置である点にあると説明されている。(「注釈会社法」竹内昭夫編)。」会社に回復すべからざるという概念は、独占禁止法の著しいという概念に近いと考えられる。本件事件においては生活権や将来継続するであろう損害を考えれば、回復すべからざるという概念が最も適当であろう。

   「そして,株主の違法行為差止請求権の性質については,株主の代表訴訟提起権と同様に,株主が会社の正規の体制による運営を監督・是正するために認められている権利である共益権とする説が有力である(「会社法(新版)」鈴木竹雄・竹内昭夫)。」

正規の体制によるという概念は、ここでも独占禁止法においては「自由経済において」という概念と一致する。

   「なお,株主の違法行為差止請求権は,違法行為の一つである違法な新株発行についても認められており,法令もしくは定款に違反しまたは著しく不公正な方法による新株発行については,さらに,それによって不利益を受けるおそれのある個々の株主が,新株発行の差止請求権を会社に対して行使することが認められているが(法280条の10),その法的性質についても同様とされている。」回復すべからざる損害は、正規の体制による運営であれば発生しないが、回復すべからざる損害は差止によって止まるものではなく、その後も続く恐れはある。

 「   b)監査役による差止請求権(275条の2)

   監査役が取締役の職務の執行を監査し,取締役の業務執行の適正を期するためには,単に事後監査をするだけでは不十分であって,事前に業務執行の適正を図る必要があることから,昭和49年の改正において,監査役が会計監査を含む広義の業務監査の権限を持ったのに伴って,取締役の違法行為によって会社に著しい損害が生じるおそれがある場合に監査役が当該行為を差し止める権利が規定された。

   監査役の違法行為差止請求権と株主の違法行為差止請求権とは,要件の点で若干の相違があるほか,監査役の差止めの仮処分の申請については,保証を立てる必要がないとの特則が定められている(275条の2第2項)。」著しい損害は所有権者である株主の場合の回復すべからざる損害とは少し弱い意味で使われている。一般の人でも所有権を持たない人でも差し止められるような損害であるということになる。

  「 また,監査役の違法行為差止請求権は,会社すなわち株主全員のために業務監査の手段として与えられたものであるから,本条の要件を満たした場合には,取締役の違法行為を差し止める義務があると解されている(「改正商法の逐条解説」並木俊守,「監査役制度の改正について」竹内昭夫 商事法務643号)。

   (参考)

     ○商法上の請求権及び訴訟

  対象行為 訴権者 加重要件

株主の差止請求権(272条) 取締役の・ 会社の目的の範囲内にあらざる行為 ・法令または定款に違反する行為 6ヶ月前より引き続き株式を有する株主 会社に回復すべからざる損害を生じるおそれがある場合

株主の新株発行差止請求権(280条の10) 会社の・法令もしくは定款に違反する株式の発行・著しく不公正な方法による株式の発行 不利益を受ける株主 株主が不利益を受けるおそれのある場合

監査役の差止請求権(275条の2) 取締役の・ 会社の目的の範囲内にあらざる行為 ・法令または定款に違反する行為 監査役 会社に著しい損害を生ずるおそれがある場合 

株主の代表訴訟(267条) 取締役の責任(266条第1項)・ 違法な利益の配当に関する議案の総会への提出(1号) ・ 違法な財産上の利益の供与(2号) ・ 他の取締役に対する金銭の貸付(3号) ・ 競業避止義務に違反する取引(4号) ・ 法令又は定款に違反する行為(5号) 6ヶ月前より引き続き株式を有する株主 ・ 株主が会社に対して書面による訴えの提起の請求をしてから30日内に訴えを提起しないこと ・ 会社に回復すべからざる損害を生ずるおそれのある場合

     (以上,参考資料6,8参照)」

所有権者の場合には回復すべからざる損害を生ずるおそれを使い、会社に著しい損害を生ずるおそれは会社の職務執行者に対して使用している。

 「2 独占禁止法違反行為に関する差止請求権の法的性質

   独占禁止法違反行為について私人の差止請求権を認めるとした場合に,当該請求権の法的性質について,既存の差止請求権の法的性質との対比から,次の3つの考え方があり得る。

 E説 独占禁止法違反行為によって侵害される利益を民事上の権利と構成し,これに基づく差止請求権とする。

 [考え方]

 独占禁止法違反行為により侵害される具体的な利益としては,財産,自由な営業的活動,顧客獲得可能性などが考えられる。また,目的規定に即して広く捉えると,事業者や一般消費者が公正かつ自由な競争に基づき形成された取引条件により取引を行うことなどが考えられるが,このような多岐にわたる利益を総体として含む民事上の権利を構成する。

  [検討事項]

○ このような広範な利益を民事上の権利として構成することは可能か。

○ 民事上の権利と構成しても差し支えない類型に限定するのか。

  ○ 民事上の権利と構成すると,権利侵害の事実以外には理論的には何の制約もなく差止め請求が認められることになろうが,金銭賠償が認められる場合よりも厳格な要件を設定する必要はないか(社会的な利益衡量,侵害の重大性ないし違法性の大小,被害者側の受忍限度)。」被害者に受忍限度があるとする説は独占禁止法違反が、談合は良いものだという原理を信じているものであって、そのような本は多く存在する。著しい損害の要件は「金銭賠償が認められる場合よりも厳格な要件を設定する」としたものであろうが、独占禁止法違反の犯罪性を認識していないものである。犯罪に受忍限度があったらたまったものではない。

 「F説 民法の不法行為の効果として,民法上違法と判断される独占禁止法違反行為による利益侵害に対して,特定的救済手段である差止請求権を認める。」

もともと独占禁止法は不法行為法からはじまったものであって、近隣の騒音を受忍しようということで始まったものではない。損害があれば当然に違法行為として認めるという考え方によって出発したものである。以下のアメリカの当然に違法の原理においても、正当な契約に付随した場合にだけ、あるいは、競争促進的な場合にだけ当然に違法の原則の例外を認めたのである。

 「[考え方]

 独占禁止法違反行為のうち,民法上違法な利益侵害と認められるものについて差止めを認める。民法上の違法性は,侵害行為の態様と被侵害利益の性質とを比較衡量して社会的通念に従って判断する。

  [検討事項]

・ 独占禁止法違反が直ちに違法と評価されるわけではなく,公序良俗等に反することが必要であるが,このような枠組みでは差止めは認められにくくはないか。

・ 主観要件として,侵害者の故意・過失は必要か。」

故意過失がある場合に、直ちに違法である行為であっても、どのようにでも言い逃れをするのが犯罪を行ったものである。

 「○ 利益侵害の違法性を重視すると,要件として損害の発生を必ずしも前提とする必要はないのではないか(損害の発生のおそれでよいのではないか。)」

プリベンティブな差止による救済は、継続すると認められる独占禁止法違反でなければならず、アメリカでもAMA事件だけであるというのであるから、おそれを証明するのは継続犯でなければ至難のわざである。

 「○ 独占禁止法によって保護されている私人の利益が,民法の不法行為等において差止めが認められるとされている身体・生命等と同程度に法律上保護された利益といえるか。また,同程度と認められたものに限定すべきか。」

事業の遂行を困難にする場合には言える。

 「○ 独占禁止法違反行為を差し止めることにより失われる利益は,被侵害利益を必ず下回る必要があるか。」

 独占禁止法違反行為を差し止めることにより失われる利益とは犯罪を差止、犯罪者を逮捕する場合と同じくない。但し、談合による利益があるとすれば民間では談合は素晴らしいという本があるが、その場合には失われる利益があると考える人や学者がいるであろう。

 「G説 独占禁止法独自の観点から,独占禁止法違反の効果として被害を受けた私人に差止請求権を認める。

 [考え方]

  独占禁止法違反の直接の効果として,民事上の特別な制度である差止めを創設的に認める。

ただし,現行独占禁止法は公正取引委員会による排除措置を中心に規律されており,独占禁止法違反であっても私人による差止めが適当でないと考えられる場合もあることから,一定の行為類型,あるいは(それに付加して)一定の要件の下に差止請求権を認める。」

確かに強制的に念書をとって、談合しますと書かせてから、入会させることは私人による差止めが適当でない例であろう、というよりも差止は行われない。

 「 [検討事項]

 ○ 民事上の特別の制度である独占禁止法独自の差止請求権を認める必要性はあるか。

・ 私人による差止めの対象とする独占禁止法違反の行為類型を特定する必要があるか。

・ 行為類型の違法性の明白性の程度

・ 規制の保護法益(公益のみを保護しているか,あるいは私益も含んでいるか)

・ 規制目的の差異(行為規制か構造規制か)

○ 差止請求を認める場合の要件をどのように設定するか。

・ 独占禁止法違反による被害の発生がなくとも,被害の発生のおそれのある場合には差止めを認めてもよいか。

・ 独占禁止法違反行為により被害を受ける者であれば,軽微な(あるいは迂遠な)被害であっても差止めを認めてもよいか。その際,独占禁止法で保護している私人の利益を明らかにし,その保護の対象となった利益を侵害された者だけに差止請求を認めるべきか。

・ 金銭賠償でも十分であると認められる場合には差止めを認めないのか。

特別法により差止請求権が認められているもの

 @特許法などの知的財産保護法による差止請求権

<特許法>

◆100条(差止請求権)

@ 特許権者又は専用実施権者は,自己の特許権又は専用実施権を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し,その侵害の停止又は予防を請求することができる。

A 特許権者又は専用実施権者は,前項の規定による請求をするに際し,侵害の行為を組成した物(物を生産する方法の特許発明にあっては,侵害の行為により生じた物を含む。)の廃棄,侵害の行為に供した設備の除却その他の侵害の予防に必要な行為を請求することができる。

 ◆106条(信用回復の措置)

故意・又は過失により特許権又は専用実施権を侵害したことにより特許権者又は専用実施権者の業務上の信用を害した者に対しては,裁判所は,特許権者又は専用実施権者の請求により,損害の賠償に代え,又は損害の賠償とともに,特許権者又は専用実施権者の業務上の信用を回復するのに必要な措置を命ずることができる。

 <実用新案法>

◆27条(差止請求権)

実用新案権者又は専用実施権者は,自己の実用新案権又は専用実施権を侵害する者又は侵害するおそれのある者(以下「侵害者等」という。)に対し,その侵害の停止又は予防を請求することができる。

 ◆30条(特許法の準用)

特許法第105条(書類の提出)及び第106条(信用回復の措置)の規定は,実用新案権又は専用実施権の侵害に準用する。

 <意匠法>

◆37条(差止請求権)

@ 意匠権者又は専用実施権者は,自己の意匠権又は専用実施権を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し,その侵害の停止又は予防を請求することができる。

A 意匠権者又は前項の規定による請求をするに際し,侵害の行為を組成した物の廃棄,侵害の行為に供した設備の除却その他の侵害の予防に必要な行為を請求することができる。

B 第14条1項の規定により秘密にすることを請求した意匠に係る意匠権者又は専用実施権者は,その意匠に関し第20条第3項各号に掲げる事項を記載した書面であって特許庁長官の証明を受けたものを提示して警告したあとでなければ,第1項の規定による請求をすることができない。

 ◆41条(特許法の準用)

特許法第105条(書類の提出)及び第106条(信用回復の措置)の規定は,意匠権又は専用実施権の侵害に準用する。

 <商標法>

◆36条(差止請求権)

商標権者又は専用使用権者は,自己の商標権又は専用使用権を侵害する者又は侵害するおそれのある者に対し,その侵害の停止又は予防を請求することができる。

 <著作権法>

◆112条(差止請求権)

@ 著作者,著作権者,出版権者又は著作隣接権者は,その著作者人格権,著作権,出版権又は著作隣接権を侵害する者又は侵害するおそれのある者に対し,その侵害の停止又は予防を請求することができる。

A 著作者,著作権者,出版権者又は著作隣接権者は,前項の規定による請求をするに対し,侵害の行為を組成した物,侵害の行為によって作成された物又はもっぱら侵害の行為に供された機械若しくは器具の廃棄その他の侵害の停止又は予防に必要な措置を請求することができる。

 ◆115条(名誉回復等の措置)

著作者は,故意又は過失によりその著作権人格権を侵害した者に対し,損害の賠償に代えて,又は損害の賠償とともに,著作者であることを確保し,又は訂正その他著作者の名誉若しくは声望を回復するために適当な措置を請求することができる。

 ◆116条(著作者の死後における人格的利益の保護のための措置)

@ 著作者の死後においては,その遺族(死亡した著作者の配偶者,子,父母,孫,祖父母又は兄弟姉妹をいう。以下この条において同じ。)は,当該著作者について第60条(著作者が存しなくなった後における人格的利益の保護)の規定に違反する者又はするおそれがある者に対し第112条の請求を,故意又は過失により著作者人格権を侵害する行為又は第60条の規定に違反する行為をした者に対し前条の請求をすることができる

A及びB(略)

 <種苗法>

◆12条の5(品種登録の保護)

@及びA2(略)

B 品種登録者は,登録品種の植物体の全部又は一部につき第1項の定に違反して同項各号に掲げる行為をしている者に対し,その行為をやめるべきことを請求することができる。ただし,損害賠償を請求することを妨げない。

 <半導体集積回路の回路配置に関する法律>

◆22条(差止請求権)

@ 回路配置利用権者又は専用利用権者は,自己の回路配置利用権又は専用利用権を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し,その侵害の停止又は予防を請求することができる。

A 回路配置利用権者は,前項の規定による請求をするに際し,侵害の行為を組成した半導体集積回路又は侵害の行為に供した物の廃棄その他の侵害の予防に必要な行為を請求することができる。

 A不正競争防止法による差止請求権

◆3条(差止請求権)

@ 不正競争によって営業上の利益を侵害され,又は侵害されるおそれがある者は,その営業上の利益を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し,その侵害の停止又は予防を請求することができる。

A 不正競争によって営業上の利益を侵害され,又は侵害されるおそれがある者は,前項の規定による請求をするに際し,侵害の行為を組成した物(侵害の行為により生じた物を含む。)の廃棄,侵害の行為に供した設備の除却その他の侵害の停止又は予防に必要な行為を請求することができる。

 ◆7条(信用回復の措置)

故意又は過失により不正競争を行って他人の営業上の信用を害した者に対しては,裁判所は,その営業上の信用を害された者の請求により,損害の賠償に代え,又は損害の賠償とともに,その者の営業上の信用を回復するのに必要な措置を命ずることができる。

 B商法による株主等による取締役の行為に対する差止請求権

◆272条(株主の差止請求権)

取締役が会社の目的の範囲内に在らざる行為その他法令又は定款に違反する行為を為し之に因り会社に回復すべからざる損害を生ずる虞ある場合に於ては,6月前より引き続き株式を有する株主は会社の為取締役に対しその行為を止むべきことを請求することを得。

 ◆275条の2(監査役の差止請求権)

取締役が会社の目的の範囲内に在らざる行為その他法令又は定款に違反する行為を為し之に因り会社に著しき損害を生ずる虞ある場合に於ては監査役は取締役に対し其の行為を止むべきことを請求することを得。

 ◆280条の10(株主の新株発行の差止請求権)

会社が法令若は定款に違反し又は著しく不公正なる方法に依りて株式を発行しこれに因り株主が不利益を得くる虞ある場合に於ては其の株主は会社に対し其の発行を止むべきことを請求することを得。

 ◆430条(清算に関する準用規定)

@ (略)

A … 第272条,…第275条2… の規定は清算人に之を準用す。

以上の中では独占禁止法における自由経済において営業する権利は特に重要な憲法上も重要な権利であると考えられる。

従って、現在事業活動を継続することが出来ないのであるから、民事保全法23条2項の「債権者に生ずる著しい損害又は急迫の危険」が認められるものと推定されるので差止仮処分申請及び上告を行うものである。上告の決定を待つ間にも4月には被上告人による単価契約による埼玉県との契約が被上告人の推薦を認めて行われており、また各市町村においてもすべての市町村に入札参加資格登録は行っているにもかかわらず、「埼玉県の推薦は許されているという行政指導の下で」(乙号証拠の中に各市町村の推薦は許されないが、埼玉県の推薦はよいという箇所があり、裁判所をではそこに付箋と印を付けてあった。被上告人は埼玉県と会合を持ったというテープがあるがこの行政指導を利用していると考えられる。)、被控訴人による推薦が行われており、また結局は被控訴人は埼玉県の唯一の不動産鑑定評価に関する事業者団体として信用を供与しているのが受けられず、事業活動を行っていくことが不可能であるので、ここに差止及びその仮処分の請求を行うものである。

なお、先に最高裁判所において審理されている上告事件ではいまだ終結時には集計が終わっていなかった平成15、16年度の事業実績報告書及び弁論再開申請書その他が第三分類にしか綴じ込まれておらず、まだ市場の状態が不明であったがこの平成17年4月に完成し情報公開を受けることができたので、もしその証拠がディスクロージャーあるいは裁判官のみに秘密理に見せるという制度が存在しない故に、もう一度審理するためには再度の裁判を起こし、著しい損害があり続けていることを証明する必要があるのならば、その証拠はこの差止請求仮処分においてのみ提出し、その後本案訴訟を最高裁判所に上告されている裁判とは別に提訴するということになる。

      

第14 おそれ

アメリカのクレイトン法第十六条は次の通りに規定する。

Section 16 of the Clayton Act gives private parties the right to seek injunctive relief for violation of the antitrust laws:

クレイトン法第十六条は、私的当事者の反トラスト法違反に対する差止請求権を次のように認めている。

Any person, firm, corporation, or association shall be entitled to sue for and have injunctive relief .. against threatened loss or damage by a violation of the antitrust laws ... when and under the some conditions and principles as injunctive relief against threatened conduct that will cause loss or damage is granted by courts of equity, under the rules governing such proceedings ...

どのような個人も、会社も、企業も、あるいは、組織も差止のための手続を規定する規則によって損失ないしは損害を生ぜしめるおそれのあると平衡裁判所によって認める行為に対して差止による救済の条件ないしは救済規則に合致している場合には、反トラスト法の違反によって受ける損失ないしは損害のおそれに対して差止による救済を求めて提訴する権利を有する。

In accordance with well established Supreme Court decisions, all that is required to state a case for such relief is "a real threat of future violation or a contemporary violation of a nature likely to continue to recur."

最高裁判所は判決により、差止による救済が認められるように請求できるのは「将来も違反が行われる本当のおそれreal threatがあること、または、継続してcontemporary violation繰り返してrecur現在も違反行為が行われる可能性があるようなlikely to性質natureが必要であるrequired。」と明確に判例として確立している。

United States v. Oregon State Medical Soc., 343 U.S. 326, 333 (1952);

合衆国 対 オレゴン州医師会事件、 343 U.S. 326, 333 (1952);

Zenith Radio Corp. v. Hazeltine Research, Inc., 395 U.S. 100, 130 (1969).

ゼニスラジオ会社 対 ハーゼルタイン調査会社事件、 395 U.S. 100, 130 (1969)。

Voluntary cessation of allegedly illegal conduct is looked upon with extreme skepticism by courts but may be a factor in determining the appropriateness of injunctive relief "if the defendant can demonstrate that there is no reasonable expectation that the wrong will be repeated. The burden is a heavy one."

申し立てられている違法な行為が自発的に中断されることがほとんど絶対的に困難と疑われ、「違法行為を繰り返さないとは期待できないことに合理的理由があると被告が行為で表明していることがもしもあり得れば」差止による救済を決定することの正当性の一要素となり、「その責任は重大である。」と裁判所はみている。

United States v. Realty Multi-List, Inc., 629 F.2d 1351, 1388 (5th Cir. 1980),

合衆国対不動産マルティ・リスト会社事件, 629 F.2d 1351, 1388 (5th Cir. 1980),において

quoting United States v. W.T. Grant Co., 345 U.S. 629, 633 (1953).

合衆国対W.T. グラント会社事件, 345 U.S. 629, 633 (1953)を引用して。」

これはアメリカでの裁判所の考え方であるが、日本でも独占禁止法第二十四条には「おそれ」「予防」の文言があり、まだ判決の集積は行われていないが、クレイトン法のおそれの文言を国会が採用したのであるから、早晩このような考え方がとられ判決が下されるべきことになると考えられる。

本件についてみるに被上告人には7年間違反行為を継続的に繰り返しているにもかかわらず、一向に公正競争阻害による社会に対する罪も、個別企業に対する損失や、損害の認識が生ずることもなく、違法行為を繰り返さないと期待できないとする判断には合理的理由があると考えられる。

独占禁止法第24条の「侵害されるおそれがある」「生ずるおそれがある」「侵害するおそれがある事業者若しくは事業者団体」「その侵害の停止又は予防を請求することができる。」のそれぞれ構成要件に該当していると考えられる。

第15 予防

これまでの日本の判例において、おそれがほとんど定義されて来なかったように予防も同様であったとある法律家は言っていた。そこでアメリカの判例を検討する。

While this is the only case I have found which states that such an injunction is mandatory, there is no question that a court may consider lingering efforts as a factor. この事件(AMA事件)はその差止が命令的であるとされた私の知る限り唯一の事件であるが、裁判所が継続してきているこれまでの多くの成果を一要素として考慮しているかもしれないことは疑いがないと考えた。As the Supreme Court stated in International Salt Co. v. United States, 332 U.S. 392, 400-01 (1947):

      最高裁判所が国際塩会社対合衆国事件、332 U.S. 392, 400-01 (1947)において述べているように:

The District Court is not obliged to assume, contrary to common experience, that a violator of the antitrust laws will relinquish the fruits of his violation more completely than the court requires him to do.反トラスト法の違反者がその違反によって得られた利益を放棄するよう裁判所が違反者に要求している程度以上に、一般の経験に反して、放棄するであろうと、地方裁判所は予測する義務はない。 And advantages already in hand may be held by methods more subtle and informed, and more difficult to prove, than those which, in the first place, win a market ...だから最初の段階での市場における様々な優位性よりも、すでに手中に収めた優位性は、よりつかまえにくい、より情報に通じた手段によって、したがって証明するのがより難しい手段によって保持されているのである。In an equity suit, the end to be served is not punishment of post transgression, nor is it merely to end specific illegal practices. 平衡法訴訟においては、その目的とするところは過去の違反や犯罪ではなくて、特定の違法な行為をやめさせるということだけではない。A public interest served by such civil suits is that they effectively pry open to competition a market that has been closed by defendants' illegal restraints.そのような公共的訴訟によって得られる公共的利益は、被告が違法な競争制限行為によって閉鎖してきた市場の競争性をそのような訴訟が開放しようと苦労して競争性を引き出しているということである。

The point, clearly, is to deny those in violation of the Act future benefits from their forbidden conduct. 独占禁止法違反の場合、禁止された行為を行うことによって生ずる将来の利益をも否定することが明らかに重要である。United States Gypsum Co., 340 U.S. at 89. 合衆国ジプサム会社事件, 340 U.S. at 89. See also Oregon State Medical Soc., 343 U.S. at 333.参照、オレゴン州医師会事件, 343 U.S. at 333. Continuing effects of post illegal conduct, therefore, is an important factor to consider.過去の違法行為を原因としてそれから継続して将来起こる効果は重要な要素である。

Because this suit is brought by private citizens, the AMA contends that (1) the plaintiffs must show a threat of personal injury and (2) that they are entitled only to preventive relief disabling that threat.この裁判は私訴であり、(1)個人の損害のおそれを証明しなければならないし、(2)このおそれが可能ではないようにする予防的preventive救済の権利が原告にあるかどうかについてだけはアメリカ医師会は争っている。 It bases its position on the Supreme Court's recognition that a private litigant's objectives in pursuing an antitrust action are not necessarily congruent with the public interest.反トラスト法の活動を遂行する私訴の当事者の目的は必ずしも公共の利益とは一致していないと、最高裁判所は認識しているという立場にこのことは基礎を置いている。United States v. Borden Co., 347 U.S. 514, 518-19 (1954).合衆国対ボーデン会社事件, 347 U.S. 514, 518-19 (1954)。 This difference in interests, it adds, renders inapplicable many of the cases cited by the plaintiffs in support of broad injunctive relief. 一般的に広く差止による救済を支持する立場によれば、原告によって引用された諸事件の多くはこの利益の違いによって適用できなくなるのではないかと付け加えている。That contention is only partially correct.この主張は一部分だけは正しい。

It is true that an antitrust plaintiff must prove some kind of personal injury or threat of injury stemming from the defendant's anticompetitive activity in order to maintain its lawsuit; both the Clayton Act and Article Ill of the Constitution require this much-.事実、反トラスト法における原告は、訴訟を維持するためには被告の反競争的な行為によって生じたある種の個人的損害あるいは損害のおそれを証明しなくてはならない、クレイトン法も憲法第3条も共にこれを要求している。 See Borden, 347 U.S. at 518-19 (Clayton Act);参照、ボーデン事件、347 U.S. at 518-19 (クレイトン法); Julian 0. von Kalinski, I Antitrust Low and Trade Regulation Section 4.06(6) (1986); ジュリアン・O・フォン・カリンスキ・I『反トラスト法と取引規制セクション』Valley Forge Christian College v. Americans United for Separation of Church and State, 454 U.S. 464, 472 (1982)バレー・フォルゲ・キリスト教単科大学事件、454 U.S. 464, 472 (1982) ("at an irreducible minimum, Art. III requires the party who invokes the court's authority to show that he personally has suffered from actual or threatened injury as a result of the putatively illegal conduct of the defendant").(「被告の推定される違法行為の結果として現実の損害か、損害のおそれを個人的に受けていることを裁判所の裁判官に証明して、動かすことが憲法第3条によって必要最小限として原告側に要求されている。」).

このようにアメリカにおいては予防的救済や、将来の損失に関する判断が行われている。Chiropractic Antitrust Suit Wilk, et al., v. AMA, et al.Memorandum Opinion and Order:Liability of the AMA and Dr. Sammons  6. Entitlement to An Injunction Chirobase Home Pageより。

法「第二十四条第八条第一項第五号又は第十九条の規定に違反する行為によつてその利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、これにより著しい損害を生じ、又は生ずるおそれがあるときは、その利益を侵害する事業者若しくは事業者団体又は侵害するおそれがある事業者若しくは事業者団体に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。」とした日本の国会が決定したこの条文にはおそれと、予防という言葉が入っている。これは以上のことを法定したということであり、以上のことを念頭において法律を解釈していない事件の判断は間違っていることになる。

第16 将来の損失の現在価値の請求

本件事件においては前年同様主義が各市町村及び県や国において採られていることが証明されており、7年前に入会していたのであれば、各市町村及び県や国から受注出来たであろう利益と、現在差止によって入会した場合今後受注できるであろう利益との差額があり、それらは10年は少なくとも回復するのに要すると考えられるので、両者の積分の差額が将来の損失に関する損害賠償請求が入会後も可能であると考えるので、その分をも損害賠償請求に付け加えることが出来ると考えられる。

これらは上告人の専門分野であり、その年度年度の利益の差額の現在への割り戻した金額の合計となる。

第17 本件事件の利益の予測を困難ならしめたのは被上告人の責任であるから、損害の予測困難性の責任を被上告人が負い、即刻差止及び損害賠償請求が認められるべきであること

違法な独占禁止法違反の行為の責任を被上告人が負うべきであるとすれば、被上告人の行為から生じた逸失利益の計算困難性の責任は上告人が負うべきであるとするのは挙証責任の分担において公平の原則に反する。公平の原則は日本の法律にはないから、またこれまでの日本の判例にはないから、アメリカの判例から引用して日本の参考にすべきであるとの主張を行う。

The underlying rational for the more lenient standard of proof is the effect on the market by the anticompetitive actions of the defendant and the very speculative nature of proof required to show future profits in a hypothetical free market.

被告の競争制限的な行為が市場に与えた効果の証拠による証明の基準を非常に緩やかにしている理由の背景には、仮定的な自由競争の市場における将来の収入を証明する証拠については、非常に予測的なものになるという本質があるからである。

The Fifth Circuit in Malcolm v. Marathon Oil, 642 F.2d 845 (5th Cir. 1981) held that:

マルコム 対 マラソン石油事件642 F.2d 845 (5th Cir. 1981)において、第5回巡回裁判所は次のように判断した。

This relaxed standard (of proof) is based on a recognition of the difficulty in reconstructing events that might have happened but for the defendant's unlawful conduct.

(証拠の)証明水準を和らげる理由は、被告の違法な行為がなかった場合に起こったであろう事象を再構成することが難しいという認識によっている。

It is appropriate that if there is uncertainty, the defendant should bear the burden of that uncertainty because his unlawful actions created it.

もし独占禁止法違反の損害が確実に推定出来ないとすれば、被告がその不確実性の挙証責任を負担すべきである、何故ならばその不確実性を発生させたのは被告の違法な行為であるからであるという考え方は妥当性がある。

Malcolm, 642 F.2d at 864.

マルコム事件、 642 F.2d at 864.

Factors subject to the more lenient standard of proof include the condition of the global economy, the assumptions underlying future profit margins, and the prospect of future sales and future customers.

より緩和された証拠の基準は、世界の経済の状況、将来の利益の幅や、将来の売上と将来の顧客の予測の基礎となる仮定がその要素となっている。

Thus, speculative evidence and inferences of damages which would normally not create a jury question are sufficient to be presented to the trier of fact in antitrust cases.

このような理由から、陪審員は損害額については予測的な証拠により推論することについて疑問を持つ必要は普通はないということは、反トラスト法の事件においては、事実審における陪審員の心得である。

To mitigate the damage award, a defendant may still raise these [**37] issues and put forth evidence discounting the damage assumptions of a plaintiff.

損害額の判断を和らげるためには、被告はこれらの問題に反論して、原告の提出した損害額の仮定に対してそれよりも少ないのであるという証拠を提出するべき責任が課せられることになる。

Before availing themselves of the more lenient standard of proof for antitrust damages, however, a plaintiff must prove that the plaintiff's damages were caused by an antitrust harm.

反トラスト法による損害の証明において緩やかな証拠の基準を採用する前には、その前提として反トラスト法の違反が原因で原告の損害が起こったということを原告は証明しなければならない、

The proof required for causation is a preponderance of the evidence.

原因として要求される証拠は、証拠の優越性を証明する程度である。

The Court in Brunswick Corporation v. Pueblo Bowl-O-Mat Inc., 429 U.S. 477, 50 L. Ed. 2d 701, 97 S. Ct. 690 (1977) discussed plaintiff's burden in proving causation of antitrust injuries:

1977年にブランズウィック会社対プエブロボウロマット会社事件 429 U.S. 477, 50 L. Ed. 2d 701, 97 S. Ct. 690  (1977)において、裁判所は反トラスト法による損害の因果関係についての原告の挙証責任について次のように論じている

They must prove more than injury casually linked to an illegal presence in the market.

原告は市場において、違法な行為が存在することと、その損害が因果関係があることを最低でも証明することが必要である。

Plaintiffs must prove antitrust injury, which is to say injury of the type the antitrust laws were intended to prevent and that flows from that which makes defendants' acts unlawful.

原告は反トラスト法が予防しようとしている種類の損害、その損害が被告の違法な行為が原因で起こってきた損害であること、つまり反トラスト法違反による損害であることを証明しなくてはならない。

The injury should reflect the anticompetitive effect either of the violation or of anticompetitive acts made possible by the violation.

その損害は違反行為の競争制限的な効果あるいは違反によって可能となった競争制限的な行為の競争制限的な効果のどちらかを反映していなければならない。

Brunswick, 429 U.S. at 489.

ブランズウィック事件、 429 U.S. at 489.」

「Thus, If a plaintiff who would bear the burden of proof by a preponderance of evidence at trial moves for summary judgment, he must present evidence that would require a reasonable trier of fact to find any underlying material fact more likely than not. 従って、もし法廷において証拠の優越によって挙証責任を負っている原告が、略式判決を求めるならば、事件の主要な事実についてなかったというよりも、あったと考えられる程度に合理的な事実を法廷に提出することが必要である。

IN THE SUPREME COURT OF CALIFORNIA THERESA AGUILAR et al.v.ATLANTIC RICHFIELD COMPANY et al.」   

以上の証拠の優越の問題を日本に取り入れる場合には民事訴訟法第248条の中に取り入れられたと考えることが出来る。従って独占禁止法違反が独占禁止法第24条において認められてからのみ、即ち差止なくして損害なしという考え方ではなく、差止めるために損害を考量する場合にすでに民事訴訟法第248条は考察の対象として判断の材料にすべきなのであって、差止なければ民事訴訟法第248条は使えないという第一審の受忍限度論は間違っているのであり、独占禁止法違反によって損害を認定する場合には民事訴訟法第248条を使用して認定し、差止めるということは何等の不都合はないと考えられる。

この点でこれまでの独占禁止法による損害賠償請求が民法の不法行為論によって解釈された酒匂悦郎事件での取扱の基準を変更する必要があると考えられる。

民事訴訟法第248条が使えるということで損害額を認定し、著しい損害があるからという理由で差止を認めるならば、証拠の優越に関する以上の論理は使えるであろうか。

知的所有権訴訟では民事訴訟法第248条が頻繁に使われている。それも損害の認定において使われている。差止そのものの認定が少ないので、両者の関係についての判決は探しえていない。しかし本件事件においても、先に損害額を認定し、6カ月程度以降のモラトリアムは違法性があると認定し、それ以降の損害額が大き過ぎるので著しい損害に当たるとの認定の仕方があったはずである。この点で差止なければ損害なしという論理は非常におかしな論理であったということが出来る。

「データベースにおける創作性と法的保護 松村信夫(Nobuo Matsumura)弁護士 関西学院大学及び近畿大学兼任講師

〔判示事項〕

著作物としての保護を受けないデータベースであっても、そのデータの相当数を複製し、競合するデータベースを開発する行為は不法行為に該当する。

〔判決年月日〕@ 東京地裁平成13年5月25日中間判決(東京地裁平8(ワ)第10047号、第25582号、損害賠償請求事件、不正競争行為差止請求事件)

A 東京地裁平成14年3月28日判決(事件番号・事件名は@に同じ)〔出典〕@ 判例時報 1774号132頁A 判例時報 1793号133頁

〔要旨〕

本判決は、原告の自動車整備兼用システムを構成する自動車の車両データ項目(型式指定番号、類別区分番号、型式等の事実)を収録したデータベースにつき、その情報の選択及び体系的構成のいずれについてもデータベースの著作物(著作権法12条ノ2)としての創作性が認められないとして、著作権法による保護を否定しつつ、原告が相当の資本・労力を投下して開発したデータベースのデータを複製し、原告データベースと競合する地域で販売した被告に対して不法行為責任を認めた中間判決及び終局判決である。

  データベースの著作物の創作性に関しては、編集著作物や同種ファクトデータベースの著作物性に関する従前の判例の考え方を踏襲し、いわゆる「額に汗」自体は著作物としてのデータベースの創作性判断に影響を与えないものであることを明らかにしつつ、競業秩序に違反する方法によって「他人の成果」を冒用する行為に対し不法行為責任を認めてきた最近の判例の論理を開発行為に多大の資本・労力を要するデータベースのデータ(相当の質及び量のデータ)の模倣盗用行為に及ぼした判決として注目される。判決の背景や要件に鑑みれば、その射程はそう大きくないものと考えるが、基本的に、判決の判旨に賛成する。

[事 実]  原告は,コンピュータのソフトウェアの開発、販売等を業とする株式会社であり、自動車整備業用システム(以下、「原告システム」という。)を開発、販売している。原告システムは、日本国内に実在する四輪自動車(以下「実在の自動車」という。)に関する一定の情報を収録したデータベース(以下「本件データベース」という。)を構成要素としている。

  なお、本件データベースに収録されている車両データ項目は、自動車検査証に記載すべき記述形式に準拠している型式指定番号、類別区分番号、メーカー、型式、種別、用途、車体形状、寸法、軸重、定員、最大積載量、車両重量、車両総重量、エンジン形式、総排気量、燃料、及び自動車検査証に記載する必要がない「車種」である。

  被告は、コンピュータソフトの製作、販売等を業とする株式会社であり、原告と同様のシステム(以下、「被告システム」という。)を製造販売しており、これも原告と同様の車両データベース(以下、「被告データベース」という。)をその構成要素とする。

  原告は、本件データベースは、対象となる自動車の選択、データ項目の選択及び体系的構成の観点から創作性を有するから、データベースの著作物に該当し、被告が本件データベースを複製し、これを組込んだ被告データベースを販売した行為(以下「被告行為」という。)は、本件データベースの著作権を侵害するか又は不法行為を構成するとして、被告システムの製造等の差止め及び損害賠償を請求した。

[判 旨] H13.5.25 東京地裁 中間判決

1. 本件データベースの著作物性

 対象となる自動車の選択について、原告が実在の自動車を選択した点は、国内の自動車整備業者向けに製造販売される自動車のデータベースにおいて、通常されるべき選択であって、情報の選択に創作性があるとは認められない。

 データ項目の選択について、原告が選択した自動車検査証に記載する必要のある項目と自動車の車種という情報項目は、自動車整備業者用のシステムに用いられる自動車車検証の作成を支援するデータベースにおいて、通常選択されるべき項目であって、創作性を有するとは認められない。

  また、本件データベースは、型式指定−類別区分番号の古い自動車から順に、自動車のデータ項目を並べたもので、それ以上に何らの分類もされていないから、体系的な構成に創作性があるとは認められない。

2. 被告行為が不法行為に当たるかどうか

  不法行為の成立要件としての権利侵害は、法的保護に値する利益の侵害をもって足りるというべきである。そして、人が費用や労力をかけて情報を収集、整理することで、データベースを作成し、そのデータベースを製造販売することで営業活動を行っている場合において、そのデータベースのデータを複製して作成したデータベースを、その者の販売地域と競合する地域において販売する行為は、公正かつ自由な競争原理によって成り立つ取引社会において、著しく不公正な手段を用いて他人の法的保護に値する営業活動上の利益を侵害するものとして、不法行為を構成する場合があるというべきである。

  本件では、原告は、本件データベースの開発に5億円以上、維持管理に年間4000万円もの費用を支出していること、原被告は、自動車整備業用システムの販売につき競業関係にあり、実際に、原告システムを導入していたが、その後、被告システムに変更した顧客もいたこと、及び、被告行為が認められる。

 以上の事実によると、被告行為は、不法行為を構成するというべきである。

[判 旨] H14. 3.28 東京地裁  終局判決

1 原告の損害

 (1) 原告のマーケットシェアによる逸失利益の算定

   顧客は、自動車整備業用システムの購入につき、データベースのみならず、いろいろな事情を総合して決することなどから、原告のマーケットシェアに基づいて、原告が原告システムを販売することができなかった数を算定することはできない。

(2)原告システムと被告システムとの実際の競合件数による逸失利益の算定

   被告行為の期間、平成7年1月から平成8年10月までの、原被告の現実の競合件数は民事訴訟法248条により23件と認める。原告が原告システムを販売したことによる1台当たりの利益額は、粗利益の212万3767円、システム保守契約の締結により、原告が得られる利益は26万6、148円と認められ、逸失利益額は各々、4884万6641円、128万5494円となる。

  (3) 値引きによる損害

   原告の値引きが直ちに被告システムの販売によるものと認めることはできないし、被告行為によって原告が原告システムの値引きを余儀なくされた具体的な事情が存するとまで認めることはできないので、値引きによる損害は、認めることができない。」

この判決はすでに民事訴訟法第248条を使用しており、本件事件の判決において民事訴訟法第248条を差止なければ損害なしとして使用しなかったことには判例違反がある。独占禁止法違反の認定においてこそ民事訴訟法第248条は採用されるべきであり、これは証拠の優越の原則を採用することに似ている。

独占禁止法に差止訴訟が導入される時に、民事訴訟法にではなくて独占禁止法の中に証拠の優越の法規を入れようとした経緯がある(宗万 秀和弁護士、虎ノ門の話及びその当時の法案をみせてもらった)。

しかし最終的には民事訴訟法第248条として結実して知的所有権においても使用されることになったのに、肝心の独占禁止法において採用された判決が存在しないのは非常に残念なことである。

独占禁止法違反行為は本件事件の証拠を見てみれば分かるとおりに民間人が犯罪に近い行為を隠すためにはあらゆる変造等の行為を行う。従ってこれは証拠隠滅に等しい行為であるといえるにもかかわらず、それを止めようがないし、いくらプライベート・アトーニー・ゼネラルと言われても捜査権限がなく、何も権限が与えられていない私人が犯罪に近い行為の捜査を行うのであるから、50ギガのテープを集めても、犯罪の証拠に対して自白の強制をさせることも出来ずにただ手をこまねくだけである。

このような場合に知的所有権にも妨害排除の請求権にも近い差止の権利が認められているので、独占禁止法の権利は生きる権利と同じであるからという理由からであると考えられるが知的所有権と同じように独占禁止法違反にも差止の権利が認められたとしても、その違反については被告が起こした違反から生ずる予測できない状態を証拠として提出したり、犯罪にも等しい行為を私人が追求することにより集められる証拠は捜査権限がない故に完全なものではありえないので、証拠の優越にも等しい民事訴訟法第248条を使用すべきであり、その最適な場合に使用しなかったことについては明らかに法令の適用に誤りがあるのは、共同ボイコットの事案において正当な理由なく違法の法規を使用しなかったことと同様に、法令の適用に誤りがあるのは自明である。

第18 損害額の実額及び将来の予測による損害金、ヤードスティック分析と、前後理論

本件事件が世界的にも特殊な事件であり、世界的にも独占禁止法の歴史上も有名になりうる事件であるのは、市場が法的に画定されていたことではない。市場が事業実績報告書というものによって法的に提出を義務付けられていたという点にある。各需要者毎に市場の数値や、市場における価格・数量が千円単位で各事業者(供給者)から細かく一年ごとに提出され、埼玉県で一々集計を行っていたという点にある。

それらは法的に義務付けられていた故に、業務屋と思われるボスが配分をどこかで行い、これは社会的に意義があるのだという主張の論陣をはるかわりに、堂々と被上告人においてそれも機関で決定して配分を行っていたという事件である。それ故に配分は業務委員会において、審査を行い行っていたのである。その市場支配力は完全で100%であったにもかかわらず、いやそれ故にそれをカモフラージュした市場の結果を出されれば今度は逆に市場における配分(分配)はほぼ市場において需要と供給が行ったのであるという主張がなされうるようにも被上告人においてもう一度やり直すことが可能であったという点にある。

これは証拠の能力の問題であった。日本においては談合は配分を平等にやる唯一の方法であるからいいのだという論陣がはられていて、そのような本は堂々と出版されている。その見本がここにあったのである。弁護士会が法律相談によって審査を通じて配分していないといったら嘘だろうということになる。どのような法律事務所もすべて「法律相談を通して下さい。」と言って断るからである。

ところが本件事件においては市場支配力を否定する判決を一審では出してしまった。そんなのは事実からしてありえないことである。

確かに世界的に見ても恥ずかしい事件ではある。こんな事件世界に出したら日本ではこんな市場構造になっているのかということがばれてしまうのである。しかし実際に起こったのであるから、そしてその意識が真実であるのだから、世界に公表することが妥当であろう。

今回の会長選挙ではギルド制度を強化しよう、価格を固定できるぞという清水文雄がその主張で会長選挙に出馬した。それが独占禁止法に違反することも知らずに。本当はギルド制度を維持し、配り続けようというのが本件事件の真相であり、それをやめさせようという不動産鑑定評価基準を守った鑑定評価書は安くても書けますよというのが上告人の主張である。

不動産鑑定評価の市場は、業界で(地価の)調査と呼ばれる市場とは違うことが画定されている。調査書は不動産鑑定評価基準にのっとっていない不動産鑑定評価書ではないものをいう。従って事業実績報告書は不動産鑑定評価書のみに限定して報告されている。

このうち上告人が7年間もの間埼玉県の事業者として埼玉県専業の事業者になったにもかかわらず、埼玉県の物件で鑑定評価書が書かせてもらったのは、自由競争(一般競争入札)によって落札した郵政省の16件の鑑定評価書のみであり、それも品質のよい(=不動産鑑定評価基準にまさしく則った)鑑定評価書を1件4万円ほどで作成したのと、日高市の固定資産税の標準宅地の標準宅地の不動産鑑定評価をコンピューターによる効率化によって一件39,000円で書かせてもらったのみである。これは指名競争入札によるものであって、指名をたまたま受けたので一位株式会社日本経済研究所39,000円、二位株式会社西園哲治不動産事務所39,500円、三位株式会社国土鑑定58,900円程の順位で一抜け方式で受注できたものである。

その他は他の都道府県の一般競争入札による入札における一位落札であった。

普通一年目からお祝いと称して、埼玉県の業者となり、被上告人の会員であれば、一件は非常に儲かる効率的な不動産鑑定評価である公共用地の買収案件が「一人指名の」電話が埼玉県からかかってくるという習慣がこの業界にはある。ところがそれさえもなかった。祝儀といわれるものである。

さて埼玉県の不動産鑑定評価を行うためには不動産鑑定評価基準により取引事例を使用する必要がある。これはただ乗りを防ぐために地価公示、地価調査の担当者が均等に分担して作成している。その作業量を90%とすれば、その他の利潤を得るのに効率的な不動産鑑定評価は10%の作業しか必要としない。日高市の74件は一週間の仕事で300万円であったのに、地価公示、地価調査の作業は一年かかる。従って埼玉県に事業所を置いておいても90%の基礎的な費用は払っているのに、90%の利潤を得るための利益が入ってこないのである。従って上告人の会社は倒産の状態に追い込まれている。しかし「過去の蓄えで事業費の90%を出しているのであり、この事件が終わったらどうしようかと思っておりますが、しかしこの事件を早く終わらせようと思っているだけであります。」これが真相である。

この業界は倒産がなかった業界であった。それは配分・市場割当が有効に働いていたからであった。

もう市場割当をするだけの新しい物件がないというのが被上告人に言える唯一の答弁でありうる。しかしそれは言えない。また新しい物件も多いのであり、新しい物件であっても、被上告人しか受注できないような価格固定を行っているから受注できない市場閉鎖の責任が重大であると思われる。それによれば市場を閉鎖したことにより予測を困難にしたのは被上告人の責任であるから、今だ撤退も出来ずにどうにもならなくしているのは被上告人の責任であり、挙証責任を被上告人に移して、事業実績報告書をもって埼玉県の物件が全く受注できないというだけで、それも自由競争を阻害しているから受注できないというだけでよいという法的な判断が必要である。

確かに7年もいれば普通は中間程度の受注が出来ていたと考えられる。特に東京都でも事業を積極的に展開してきていたので。しかし100%の証明はここでも不可能であることが分かった。先の市場割当を80%しか証明できないのと同じように、どうしても疑問が残る点がある。一件くらいは市場割当ではない、市場割当と市場における需給による決定とは同じ結果だよと言われればそれが否定できない性質のものだからである。市場割当が市場による決定と同じになっている場合がありうるのである。

この場合には自白が必要であり、100%の自白の裏付けが必要である。もう刑法の世界になってしまい、捜査権の問題になってしまう。捜査権のないプライベート・アトーニー・ゼネラルに出来ることは限られている。しかし5ギガに及ぶテープは新しい技術が可能にした。すべて毎日テープをオンにしていても自由に昔の会話を取り出せるようになったのである。いわゆる犯罪防止用のビデオテープと同じ状態といえる。電池も安くなった。自白は数多く得られた、そしてそれを裏付ける結果も裁判官の前に出している。

ただ動機の部分のみは出さなかった。安売りを防止する目的であるという部分のみは動機に関わるということで故意に弁護士が出さなかった。

動機がどうであれ、外見上正当な理由なく違法であるのであるから、動機の部分のみはよいというのであった。

しかし安売りの部分のみは違うと思われる。安売り防止は公正競争阻害の程度に影響を与える動機である。酒匂悦郎事件も安売りの防止の目的であった。本件も安売りの防止の目的である。

事業実績報告書には一件当たりの価格が入っており、鑑定評価額7億円の鑑定評価書は公共用地の不動産鑑定評価における報酬基準の通りに被上告人の会員は受注していることが分かる。これに対して価格競争をしようとした上告人はそれが一人指名による随意契約によるので、その情報さえも入手できず、単価契約により契約したものでしか公共用地の不動産鑑定評価に参加できないことを知り、更にはそれが被上告人と埼玉県の会議により決定されているという用地部長のテープ情報を得たので、裁判官の前に提出したのであるが、もし裁判所での証言となればそれが違法な事であると知れば、否定される可能性があるのである。

では何をもって100%の犯罪的事実の証明になるのかという問題が発生する。本件事件の様な犯罪的事実の証明においても100%の証明を要求するのならば不可能であり、証人として呼んで、言葉尻をとらえて、100%であるとするしか方法はなくなる。

二審の誘導尋問ではないかという反論は被上告人の言葉としてとらえれば、反論にはなっていないが、犯罪的事実のテープはそのようなものだといいうる。

しかし本件事件においてはたまたま酒匂悦郎事件におけると同様に入会拒否(入会のモラトリアム)は現在も継続犯として行われ続けているという事実がある。酒匂悦郎事件ではあまりに長いと罰される恐れがあるとして入会させた。これがあだとなって損害賠償請求が認められることになった。本件事件ではその経験を踏まえて、入会拒否を継続して続けざるをえなくなった。だから途中で、独占禁止法のことはいわずに入会しなさいということを言い出したのであろう。

さて東京都で事業を行っていた人が埼玉に来てすぐに不動産鑑定評価書が書けるのかという大問題と、埼玉県の市場に入れなかったら、他の県ににげ帰ればいいではないかという大問題が発生する。

これがヤードスティックになっているのかどうかという問題である。宇治市の固定資産税の標準宅地の鑑定評価書は341件が二週間程で完成した。京都府の調整会議で何の支障もなかった。京都府の不動産鑑定士協会の調整会議は廃止されても何の問題もなかった。宇治市の公務員がほとんどやっているのみであった。その通りに書くという仕事であり、何の問題もなかった。ところが埼玉県では事務費と称して2,500円を一件当たり取るという酒匂悦郎に言わせれば市場割当料としてとっており、京都府ではない調整会議を埼玉県では不動産鑑定士協会が行っている。しかし参加しないでも何等問題はなかった。

確かにたまたま郵政省と、文部科学省と、一部の市町村が自由競争に踏み切った。このために受注できたことはヤードスティックになっており、逆に損害賠償請求の金額を減らすことにはなっていないと主張する。というのは市場が違うからである。上告人が主張しているのは埼玉県の市場に入れなかったと言っているのであって、佐賀大学の全部の鑑定評価や、北陸の郵便局の不動産鑑定評価の市場に入れなかったと言っている訳ではない。入る権利がある埼玉県の物件で埼玉県の取引事例を必要とする埼玉県の物件の鑑定評価書の市場に入れなかったと言っているのである。名前が日本経済研究所だからいいではないかと言われれば、埼玉県不動産経済研究所に変えればどうなるのかという問題が存在する。

しかしこのような不確実性は被上告人の責任であり、上告人の主張すべきものはヤードスティックになっているという事実のみである。前後理論における東京都での事業実績報告書のみである。

またギルド制度によって先に入った者を優先するという制度を作っているのであるから、将来の損害も請求するものである。従ってこのような観点から損害及び損害のおそれを認定して、差止仮処分を請求するものである。

第19 被上告人の裁判アレルギーと公正競争阻害による公正取引委員会のアレルギー、公正取引委員会には行かないようにというおふれ、更には行った業者に対する戒告など

    被上告人は価格固定によるギルド制度を作っているので、公正競争阻害性があると思っている。従って公正取引委員会と検察庁と裁判所を異常に恐れている。これを理由とした上告人の理由の主張は到底独占禁止法に合致しているとは言えず、社会通念上も憲法上も憲法違反のおそれがあり認められない。それだけではなく犯罪性が認定できる。

    証拠の隠滅や、文書偽造やらの独占禁止法違反を隠すためのあらゆる努力を行った跡が随所に証拠として残っており、犯罪を隠すための裁判を理由とし、公正取引委員会に行ったことを理由とする本件入会のモラトリアムは犯罪を隠すための理由であるとしかいいようがない。

    それを認めた受忍限度論は限度はあると反論することが馬鹿げたことであるといえるくらいである。

被上告人には日本人特有の裁判アレルギーと、公正取引委員会アレルギーがあり、もしちゃんと公正競争阻害の行為を行っていないならば、それにかかる費用はコンプライアンス体制を構築する費用よりも少なく済むのであり、公正競争阻害性があるというよりも、競争促進性があるというべきである。更にはコンプライアンス体制が確実なものになっていれば、裁判など行わずに、仮処分での決定ですぐに済んでいたはずであり、仮にも茨城県不動産鑑定士協会事件、酒匂悦郎事件のように最高裁判所でも負けるというようなことはなかったはずである。本件事件においては差止が要件で損害賠償請求の認定が可能であるが、不法行為法によらざるを得なかった酒匂悦郎事件とは違い独占禁止法違反の事件である点を除いては茨城県不動産鑑定士協会事件とよく似ている。

上告人の裁判は負けたが、次のような価値があると裁判官が言っていた。

「一般の民事事件においても、既存の判例がない争点を含む訴訟を提起せざるをえないこともある。このような場合に弁護士費用を負担することを恐れる当事者が訴訟提起を控えることになると、結果として法の発展を阻害することになりかねない。

また、現代の民事裁判の中には、たとえば政策形成訴訟と呼ばれるような勝訴の見込みは必ずしも高くないものの訴訟を通じて世論を喚起し、新たな法の形成を目指す類型の訴訟も少なからず存在する。

また理念的には、たとえば、行政訴訟などは、行政の違法を是正し適正な行政作用を実現するという公益的側面があり、これに要する弁護士費用を被告行政側に負担させることには意義がある。同様のことは独禁法違反訴訟、消費者訴訟、公害訴訟などについても言える。

片面的敗訴者負担制度

片面的敗訴者負担制度は、原告勝訴の場合のみ原告の弁護士費用を敗訴被告に負担させる制度であり、アメリカにおいては特別法により広い範囲で認められている。これは、ある種の分野における訴訟の提起を促進し、弁護士費用の敗訴者負担制度が訴訟を抑制することがないようにするとの政策目的に基づくものである。

わが国においても、たとえば、以下のような類型の訴訟では上記制度の導入が図られるべきである。

1. 独禁法違反行為による損害賠償請求訴訟、著作権・特許権侵害による損害賠償請求訴訟

○ 懲罰的損害賠償制度

    懲罰的賠償制度は、その導入を前向きに検討するに値する。

被害者の権利行使のための時間や労力を考えると、現在のわが国における慰謝料の実状や実損害に限定する損害賠償制度では、裁判の利用は経済的に割の合わないものになっているといわざるをえない。このことは、弁護士費用が原則として各自の負担とされる場合には一層顕著となる。そのために権利の行使を諦めさせ、社会に不公正をもたらす結果となっている。かかる不公正、不公平を是正するために、一定の範囲で懲罰的賠償を導入することを検討すべきである。」

このことは特に独占禁止法裁判にいえるのであって、すでに司法制度の改革の議論においては議論に上っているのである。

「日本には、刑事司法と民事司法の峻別等を重視する考え方から懲罰的賠償に否定的な見解もある。しかし、上記の趣旨からして、実質的に公平な損害の分担を確保するためには、懲罰的賠償も必要である。また、労働基準法の付加金の制度(労働基準法114条)は二倍賠償の一種とも考えられ、懲罰的賠償が日本の法秩序と両立しえない制度とは言えない。

その方法として、知的財産権法や独禁法に特別の規定を設けることのほか民法の損害賠償に関する規定を改正することも検討されるべきである。その際には、制度目的に応じた合理的な範囲の賠償額の検討も必要である。」

第20 日本における弁護士の選任の困難性

この事件において告訴や、裁判が判例などの検索が、ふじゅうぶんな状態で提起されなくてはならなかった理由は、検索すべき判例を弁護士会が独占しており、一般人にはそれへのアクセスが非常に難しく、また弁護士業務は独占されているので、上告人代表のように中央大学法律学科を卒業し、法学研究科大学院博士後期課程を修了していてもほとんど本人訴訟であっても訴訟の遂行が不可能であることが理由である。更には弁護士業務はそのような状態の中にあって非常に高価なものになっており、それ故に勝訴してもほとんど金銭的価値がない(酒匂悦郎の実感)のである。

日本の弁護士会は完全な、100%のギルド制度を採用しており、次のような裁判利用窓口を通じてしか依頼が出来ないようになっている。(テープがあるし、何度もこの話は確認している。)

これは独占禁止法の面からは問題がある側面がある。これと同じ制度を採用しようとしたのが、被上告人の無料相談会の開催であった。また不動産鑑定士会になればそのあこがれになれると考えたのである。これが模範となって価格固定が公然と行われた。従って無料相談会により受注して会員で分け合うというのは本当の真実であることが理解できる。  弁護士会でも「自己の事務所で次回以降相談を行ったり、法律相談センターの審査を受けて自分で事件を受任することもある。また訴訟担当の弁護士を別に紹介したり、」して受注することになっており、審査を受けないで受任することはありえない。丹宗昭信元北海道大学教授が最初に受任したが、紹介事業を通さなかったことから弁護士会からそうすかんをくったことをはじめ、今回の上告に当たっても一橋大学で同じ法律研究会に入っていた鈴木五十三弁護士もやはり弁護士会の審査なしには受任できそうにはない。

この様な訳で自らの少ない判例の検索ソフトで検索しながら、自分で訴訟をしなければならない経済的、組織的制約がある場合には、それを責めることは出来ない。金がかかるのでや、弁護士会に相談しても弁護士が得られないので、仕方なく少ない判例によって本人訴訟にしたりすることは仕方のない日本での状況である。いくらコンピューターで検索しても重要な判例以外は出てこないのである。

酒匂悦郎氏は何度でも相談しろというが、10回以上やっても今回は赤坂氏にしろいう返事のみであった。

「3. 裁判利用相談窓口

  ○ 弁護士会の相談窓口の現状について

法律問題を抱えた市民が弁護士会の法律相談窓口にたどり着く経路は、別紙資料5に記載されたとおり、区役所・市役所の紹介が全体の13%、弁護士会の電話相談(13%)、知人の紹介(12%)、電話帳(12%)、弁護士会のホームページ(6%)、裁判所(5%)等である。

こうして、弁護士会の法律相談窓口にたどり着いた市民は、そこで問題別に各種相談へと振り分けられる。東京地区では、クレッジット・サラ金の相談窓口として、四谷と神田に専門の相談センターが新たに開設されている。それ以外の相談は、霞が関の弁護士会館の一階の受付窓口で受け付けられ、それが、一般相談、離婚・相続・遺言相談、労働相談、消費者相談、子どもの人権相談、医療過誤相談、交通事故相談、外国人相談などに振り分けられ、それぞれの相談担当弁護士からアドバイスを得られる仕組みとなっている。

相談担当弁護士は、その場で相談を行うほか、時間が足りないなどの場合には継続相談として、自己の事務所で次回以降相談を行ったり、法律相談センターの審査を受けて自分で事件を受任することもある。また訴訟担当の弁護士を別に紹介したり、会社などの顧問弁護士を紹介する制度などがある。

こうして、市民は各個の問題に応じた対応を受けることができる。訴訟費用などの負担が難しい者については、法律扶助協会の利用を紹介する。今後、権利保護保険ができれば、それに対応した弁護士紹介などの業務も行うことになる。」

この様な場合に勝訴の見込みについてないと思われるものについては本人訴訟をせざるをえないことはあり得たのである。この点では多くの人が弁護士の法律相談と紹介制度とに不満を持っていると思われる。

第21 価格維持行為であったという酒匂悦郎証拠による監禁暴行事件の独占禁止法上の違法性

安売りの行為に出た二業者の代表者である酒匂悦郎と山口節生に対して、酒匂悦郎は同一士協会内部のものとして理解できるが、他の東京会の山口節生にまで「価格を守らせるリンチまがいの行為」に井坂雄はでて、更には河田昭夫は埼玉県で日高市で一位の価格で入札した山口節生に対しても、更には二位の価格で入札した西園哲治に対しても価格維持行為を続けているのであり、今後とも公正競争阻害のおそれは十分にあり、現在も単価契約により埼玉県との間で契約を結んでいて、被控訴人会員によって独占している。これは価格維持行為とともに今後も継続していくというほぼ確実な証拠がある。

トイザらス事件は安売り業者を排除したという点で違法性の程度が、本件事件同様に、非常に高い事件である。ボイコットであっても当然に違法であるケースがあることを示している。FTCは、次の通り4つの構成要件についてテストしている。本件事件においてはこの4つの構成要件に完全に合致しているといえる。

First, the purpose of the group boycott agreement was anticompetitive, in that it was designed to disadvantage competitors of Toys "R" Us.第一の構成要件は共同ボイコットの合意の目的がトイザらスの競争者たちに不利益をもたらす故意があったのであるから、競争制限的であったことであった。 Second, the firms involved (both Toys "R" Us and the manufacturers) were dominant in their markets. 第二の構成要件は、(トイザらスと製造業者群ともに)関与した企業群は市場において支配的な地位にあったことであった。Third, the boycott cut off access to products and relationships needed for the boycotted firms to compete effectively.第三の構成要件はこの共同ボイコットによって、ボイコットされた企業群は競争を効果的に遂行するために必要である製品や取引へのアクセスが出来なくなったことであった。 Lastly, the practice was not justified by plausible arguments that it enhanced overall efficiency.第四の構成要件は、本件行為が総合的にみて効率性を増大させたという正当化の論理が外見からもっともらしくなかったことであった。

安売り業者を排除した典型的な事例であり、ノースウエスト卸売事務用品会社事件のアメリカにおいて確立された最高裁判所の判決後の動向にも適合している。

第22 被上告人の故意及び更正の可能性

被上告人会員はおそらく相談の上で「埼玉から出て行け。ぶっ殺すぞ。」と上告人に電話してきた。これは真実なので告訴した。このように被上告人には故意に追い出そうという意図がある。これは内容証明郵便によって確認されている。これについては入会金の16倍もの値上げについても同様である。

埼玉県の各事務所の用地課の発注においては会員以外は発注しないことは知っていなかったとしても、過失にも当たる。知っていないことはほぼありえないので故意があると考えられる。

従って損害額の認定に当たっては、この予測しがたい状況を故意に作り上げた被控訴人に責任があることは明白であり、著しい損害が緩やかな証拠の原則によって認定できる場合には差止の仮処分の請求を認めるのが妥当であると考えられる。

これは被上告人が継続している違反及び損害ないしは将来の損害を認めないばかりか、独占禁止法違反について公正競争阻害性を認めないばかりか、更には不動産鑑定士法にして価格固定を法的にしようという運動さえ続けている現状から、損害が継続するおそれも、公正競争阻害のおそれも存在し、命令的差止(強制命令、作為的差止命令、作為を命じるインジャンクション、違法状態の排除のために積極的なことが必要なので裁判所が命じる)や予防的差止のいずれをも必要としているからである。

以 上

注2 参照: U.S. Supreme Court ZENITH CORP. v. HAZELTINE, 395 U.S. 100 (1969) 395 U.S. 100  ZENITH RADIO CORP. v. HAZELTINE RESEARCH, INC., ET AL. CERTIORARI TO THE UNITED STATES COURT OF APPEALS FOR THE SEVENTH CIRCUIT. No. 49. Argued January 22, 1969.Decided May 19, 1969. から以下の文章を引用し訳す。

Moreover, the purpose of giving private parties treble-damage and injunctive remedies was not merely to provide [395 U.S. 100, 131] private relief, but was to serve as well the high purpose of enforcing the antitrust laws. E. g., United States v. Borden Co., 347 U.S. 514, 518

更に言えば私訴において三倍額請求を認め、差止給付訴訟を認める目的は単に私的な救済を与えるためであるばかりではなくてそれと同時に反トラスト法の強化という公的な目的にも資するからである。政府、対、ボーデン社事件、347 U.S. 514, 518。

    The evidence was sufficient to sustain a finding that the Canadian patent pool refused to license imported goods, thus excluding foreign manufacturers like Zenith from the Canadian market for radio and television products.

証拠によれば、次の事実が認められる。カナダの特許プールが輸入製品への特許許可を拒絶し、カナダのラジオとテレビの製品市場からゼニスのような外国の製造業者を取引拒絶によって排除しようとしていることが認められる。 P. 118.

Judgment in this [395 U.S. 100, 107] amount was awarded Zenith, along with injunctive relief against further participation in any arrangement to prevent Zenith from exporting electronic equipment into any foreign market.

この額が認められたこの判決[395 U.S. 100, 107]は、それと同時に差止の救済も認めた。どのような外国市場へもゼニス社が電子機器を輸出するのを妨害するような合意に更に参加することがないようにという差止であった。                        

注3、デジコン電子(株)による損害賠償等請求事件判決は次の文言を使っている。

「自由な競争市場において製品を販売することができる利益を有しているのである。」としている。これによれば受忍限度の問題は出てこない。自由に営業する権利は天賦の営業権である。

独禁法2条9項、独禁法19条(一般指定1項2号)、独禁法8条1項1号、独禁法8条1項5号、民法709条 平成5年(ワ)第7544号

判決  言渡平成9年4月9日交付平成9年4月9日裁判所書記官

「私法上の不法行為該当性

独禁法は、原則的には、競争条件の維持をその立法目的とするものであり、違反行為による被害者の直接的な救済を目的とするものではないから、右に違反した行為が直ちに私法上の不法行為に該当するとはいえない。

しかし、事業者は、自由な競争市場において製品を販売することができる利益を有しているのであるから、右独禁法違反行為が、特定の事業者の右利益を侵害するものである場合は、特段の事情のない限り、右行為は私法上も違法であるというべきであり、右独禁法違反行為により損害を受けた事業者は、違反行為を行った事業者又は事業者団体に対し、民法上の不法行為に基づく損害賠償請求をすることができると解するのが相当である。

そして、本件においては、本件妨害行為により、原告の自由な競争市場で製品を販売する利益が侵害されていることは明らかであり、私法上の違法性を阻却するべき特段の事情は何ら認められないから、民法上の不法行為が成立するというべきである。」(酒匂悦郎事件で引用されている。)

注4 See In re Lower Lake Erie Iron Ore, 998 F.2d at 1176 ("the relaxed measure of proof is afforded to the amount, not the causation of loss -- the nexus between the defendant's illegal activity and the injuries suffered must be reasonably proven.") (citations omitted);

参照In re Lower Lake Erie Iron Ore, 998 F.2d at 1176

(「証拠によりゆるやかに計算すると言う基準は損害の直接的な因果関係はなくてもよい程度に余裕をもたせている・・・つまり、被告の違法な行為と、受けた損害との間の因果関係は合理的に証明されなければならない。」)(引用は省略。)

see also Bigelow v. RKO Radio Pictures, 327 U.S. 251, 264-65, 90 L. Ed. 652, 66 S. Ct. 574 (1946)

(holding that when the plaintiff cannot prove his damages by precise computation, the jury "may make a just and reasonable estimate of the damage based on relevant data, and render its verdict accordingly")."

注6:デジコン電子(株)による損害賠償等請求事件判決では次のように「本件妨害行為が継続していると認めるに足りる的確な証拠は全くない」として差止請求の是非について判断している。

「4 差止請求の是非

前記認定のとおり、本件撤回文書配付以降、被告らによって新たな妨害行為が行われたと認めることはできず、殊に、現在もなお本件妨害行為が継続していると認めるに足りる的確な証拠は全くないというべきである。

原告は、本件撤回文書配付後も、3懇話会の席上等で、ASGK制度の推進、アウトサイダーの製品は取り扱わないなどという趣旨の発言がされていることを根拠として、本件妨害行為がなお継続されている旨主張をするが、前記のとおり、現時点において、被告組合はASGKシールを貼付していない商品も販売できるという認識であり、また、3懇話会が使用している「アウトサイダー」という表現も、エアーソフトガンに組み込むと威力が増加する部品のことを指していると考えられる(証人永吉勝美・速記録50頁参照)ことに照らせば、結局のところ、本件撤回文書配付以降は、原告製品に対する前記認定に係るような違法な妨害行為はされておらず、右が継続していると認めるに足りる的確な証拠はないというべきである。」

注7:3倍額の損害額を認定しても、現実の損失額よりもずっと少な過ぎるという意見がアメリカ反トラスト法協会のホームページに載っている。

Why Antitrust Damage Levels Should Be Raised?  By Robert H. Lande

7/18/04 Robert H. Lande, Why Antitrust Damage Levels Should Be Raised

Reprinted with permission from 16 Loyola Consumer Law Review 329 (2004).

Copyright (c) 2003 American Antitrust Institute

2919 Ellicott Street, N.W. Suite 1000

Washington D.C. 20008-1022

Phone: 202-276-6002, Fax: 202-966-8711

「反トラスト法違反による損害賠償請求の金額は上げるべきか?」ロバート・ランゲ著

によれば、損害は三倍額でも妥当であると考えている。

「I am not aware of even a single case where a cartel’s total payouts have ever exceeded three times the damages involved?if these damages are figured properly. This is true because, if one examines antitrust’s so-called“treble” damages remedy carefully, from the perspective of optimal deterrence, one will find that it is really at most only single damages. The “threefold damages” that the antitrust world takes for granted is a myth.

もし損害額が正しく計算されるならば、カルテルにより得られた超過利潤の三倍をカルテルによる全体の支払いが超える事件を見たことがない。反トラスト法のいわゆる「三重の」損害賠償の制度を充分に注意して研究すれば、現実的にはもっとも適切な抑止力という観点からすればせいぜいほとんど損害額と等しくなっていることに気がつくであろう。「三倍額の損害賠償」という反トラスト法の常識は神話にしか過ぎない。

If these were added to the totals from the private damages actions, the actual overall level of payouts would rise dramatically,  but would still rarely reach the true threefold level.  The criminal penalties imposed almost always utilize the statutory maximum of “twice the gross gain or twice the gross loss,”  which the DOJ almost

 もし私訴における損害賠償の請求による損害賠償の金額を全体の金額に加えれば、現実の支出の水準は劇的に上昇するであろうが、しかしまだ三倍額のレベルに到達するには程遠い。ほとんどすべての場合において刑法による罰金は制定法による最高限度の「総利潤の2倍あるいは総損失の2倍」という規定を利用している。

. The states (and private plaintiffs) could help to fill the void, and would provide a counterbalance that would help avoid sharp swings in antitrust policy. Second, the federal enforcers’ judgment might

 国も(私訴における原告も)役に立たないと言う喪失感をなくすのに手助けになるであろうし、反トラスト法の政策の反対勢力に対する非常に重い重しとして機能することになろう。第二に連邦の独占禁止法の強化の判断は・・・

See also Joseph F. Brodley, Antitrust Standing In Private Merger Cases:Reconciling Private Incentives And Public Enforcement Goals, 94 MICH. L. REV.1, n.91 (1995)

参照Joseph F. Brodley, Antitrust Standing In Private Merger Cases:Reconciling Private Incentives And Public Enforcement Goals, 94 MICH. L. REV.1, n.91 (1995)

(“In fact, treble damages turn out to be closer to single damages when current losses, litigation costs, and future recovery are discounted to present value.”).

(「事実としては現在の損失と、弁護士費用と、将来の回復費用のすべてを現在の価値に還元割引を行った時の総体としての損害額を計算すれば、三倍額とほぼ同じになる。」)

See also Carlson & Erickson Builders v. Lampert Yards, 190 Wis. 2d 650, 667 (1995). For discussions of the deterrence and compensation nature of treble damages, see, e.g., Lande, supra note 8 (positing that “‘treble damages’ actually awarded are probably at most as large as the damages caused by the violation”).

三倍額の抑止力効果と、慰謝料的な性質についての議論については、Lande, supra note 8を同様に参照(現実に「三倍額」の補償はおそらく現実に違反によって引き起こされた損害額とほとんど同じ金額になっていると肯定している)

Moreover, we know that some of their clients keep trying to fix prices, risking significant jail terms, fines, and private damages actions. Are these otherwise rational business people crazy? Or is collusion often profitable?

更に言えば、重大な刑期や、罰金や、私訴による損害賠償の請求を受けるという危険をおかしながらも、価格固定し続ける訴訟依頼人も少なくないということが知られている。これらの反対の意味での合理的なビジネス人は精神的におかしいのだろうか。あるいはそんなにいつでも癒着の共謀は非常に儲かるものだろうか。

Atypically, this was a case where the private plaintiffs took the lead and the government followed. There would have been no deterrence, no compensation, and no beneficial future effects on the market, if not for the actions of the plaintiffs and their lawyers.

このようなことが当てはまるのは、典型的には私訴の原告がリードを取り、政府がその後を追う場合である。もし原告とその弁護士の行為がなければ、市場に対して抑止力も、損害補償も、将来利益を市場に与える効果も生じなかったであろう。」

これが私訴は社会的な効果もあるということである。

注8:アメリカの Lost Profits Damages: A Natural Extension of Business Valuation Skills (September 25, 2001 )の理論においてはthe time when the damages “end.”は10年以内で認められている。

「a primer on lost profits damages calculations.

逸失利益の損害の計算における手引き

when the damages “end.” It may be unrealistic to carry the losses out into perpetuity, unless a business or portion of a business is unrecoverable.

損害額の「終了する」時。事業の全体か、事業の一部が回復不可能である場合を除いては損害を永遠に引きずると考えるのは、現実的ではないであろう。」としている。

おそれと、予防の観念が日本にも入ってきたということは、本件事件の損害の連鎖がいつ止まったか、いつ完全に回復したかを判断しなければならない。

注9:ドイツでは、著しい損害は必要とせずに、差止が規定されている。おそれと予防の規定がない。損害賠償請求出来る金額は現実に受けた損害である。

「ドイツGWB1998年の第20条第6項 入会拒絶の禁止

20条6項(6) Wirtschafts- und Berufsvereinigungen sowie Gutezeichengemeinschaften durfen die Aufnahme eines Unternehmens nicht ablehnen, wenn die Ablehnungeine sachlich nicht gerechtfertigte ungleiche Behandlung darstellen und zu einer unbilligen Benachteiligung des Unternehmens im Wettbewerb fuhren wurde.

(6)Trade and industry associations or professional organisations as well as quality-mark associations shall not refuse to admit an undertaking if such refusal constitutes an objectively unjustified unequal treatment and would place the undertaking at an unfair competitive disadvantage.

事業者団体ないしは職業団体、あるいは、品質保証団体が、もし参加を拒むことによって客観的に正当な理由なく平等的ではない取扱となり、ある事業者に競争上不当な不利益を与える場合には、入会を拒むことは許されない。

Section 32 Prohibition

The cartel authority may prohibit conduct by undertakings and associations of undertakings which is in contravention of this Act.

第32条 禁止

カルテル庁は、事業者や、事業者団体の行為のうち、この法律に違反している行為を禁止することが出来る。

Section 33 Liability for Damages; Claims for Injunctions

33条 損害賠償請求;差止訴訟

Whoever violates a provision of this Act or a decision taken by the cartel authority shall, if such provision or decision serves to protect another, be obliged vis-a-vis the other to refrain from such conduct; if the violating party acted wilfully or negligently, it shall also be liable for the damages arising from the violation.

この法律の規定を犯したもの、カルテル庁によってこの法律によって決定を受けたものは誰でも、もしその規定または決定が他のものを保護するためのものである場合には、そのものに対してその行為をやめるように義務を課すことができる;もし違反を犯している当事者が故意にまたは過失によって行為を行っている場合には、その違反によって発生した損害について賠償する責任を負う。

The claim for injunction may also be asserted by associations for the promotion of trade interests provided the association has legal capacity.

またもしも団体が法的な能力を持っている場合には、差止請求訴訟は商業上の利益を促進するためにその団体によって主張されることが出来る。」

注10 「Recent applications of the per se rule to group boycotts have tended to involve either boycotts of suppliers or customers directed toward discouraging dealings with the boycotters' competitor or boycotts utilized to implement per se unlawful price fixing or market divisions.(60)

グループによるボイコットに対する当然に違法の原則の適用は、ボイコットを行う側の競争者との取引を供給者あるいは顧客に対して拒絶させるように命令したりするボイコットか、あるいは、当然に違法な価格固定や、市場の分割などを遂行するために使用されるボイコットに対して、最近では適用されるようになっている。」

 これは安売り業者をある一定地域に入れないか、入札の資格を与えないことによってカルテルが崩壊することを防止しようとすることである。本件事件の場合には埼玉県の不動産鑑定評価の市場において上告人の事業者を入れないか、埼玉県の場合には単価契約を先に行っておいて、それよりも安売り業者は指名できないようにしておいて、安売り業者が入札できないようにすることによって高い価格に固定した価格カルテルが崩れないようにしたということができる。これによって価格カルテルが成立するのであるが、この場合には入札が一般競争入札によるものであれば価格カルテル破りがこの事業者によって行われるが、指名をさせないことによって価格カルテル破り(価格固定の破壊)が出来なくなるのである。価格破壊は自由競争によって価格が値下がりすることでもあり、同時にもともと価格カルテルで高い価格に固定されていたものが値下がりすることも言うのである。安売り業者を排除する行為としてとらえられる本件共同ボイコットは価格固定の行為(強制)でもあり、当然違法の価格カルテルの部分をも含むことになる。

注11:次のような事件もある。Multiple Listing Serviceはほぼ取引事例と同じ意味を持っており、これを高くしか他の県の不動産鑑定士に見せないことは、ひるがえれば埼玉県の不動産鑑定評価の市場の価格固定を可能にしていることが出来るということの結果につながっているのであり、二審がのべているように単に価格競争に入れなかったというだけではなく、価格固定につながっているということの証明でもある。公正競争阻害は常にカルテルとつながっている。

Realtors Association of South Central Wisconsin et al.

Class action status is being sought in a lawsuit filed against the Realtors Association of South Central Wisconsin and its separate Multiple Listing Service Corporation on behalf of realtors. According to the plaintiffs, the Association forced them to buy memberships as a condition of belonging to the MLS. The suit alleges that this was a violation of the 1991 Thompson federal appeals court decision which held that a Realtor association that had monopoly power over its MLS could not force real estate agents to purchase memberships in the trade association as a condition of gaining access to the MLS.

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注12: 独占禁止法上「マルティ・リストに対する入会許可のために現実に一般的にかかる費用を超過した入会金を決めることはしないことに合意する。」とした合意判決が2003年にアメリカにおいてはなされた判決がある。

「The Multi-List agrees that is, whether acting unilaterally or in concert or agreement with any other person, shall not:マルティ・リスト(不動産売買物件情報サービス)は、片務的にあるいは他のものと共同してあるいは合意によって行為をするとを問わず、

(A) Establish any initial membership fee in excess of the actual costs of new member admission to the Multi-List;

マルティ・リストに対する入会許可のために現実に一般的にかかる費用を超過した入会金を決めることはしないことに合意する。

IV. Initial Membership Fee

5. The Multi-List agrees that no later than September 30, 2002, it shall remove all bylaw provisions relating to an initial membership fee in excess of Two Hundred Fifty Dollars ($250.00), except as set forth herein:(包括的な合意において、2,002年9月30日までに、これからの入会金においては、250ドル(約3万円)を超える入会金に関係するすべての会費規定を廃止すべきである

(A) Within then (10) days of the date of this Agreement, the Multi-List may make a written proposal to the Office of Attorney General of a new initial membership fee;

この合意の日から10日以内に、新しい入会金の金額を公正取引委員会に文書で提出しなければならない。

(B) The Multi-List shall document the actual costs of new member admission and provide such documentation in its proposal above; 包括的な合意において新しい会員を審査するための現実にかかる費用について記録し、上記の新規会員の申し出に対して情報公開をしなければならない 

(C) Upon receipt of the approval of the Office of Attorney General, the Multi-List may adopt the new initial membership fee. The Office of Attorney General will not unreasonably withhold its approval, provided, however, that the Office of Attorney General may request further documentation from the Multi-List before approving or denying the new initial membership fee.新しい入会金は、公正取引委員会による許可がなければ包括的合意がなされたとは言えない。合理的ではない金額については公正取引委員会は許可をしないが、もし公正取引委員会は新規の入会金について許可、不許可を与える前に包括的合意によって更なる文書の提出を求めることがあり得る。

(D) For a period of ten (10) years from the date of this Agreement, if the Multi-List desires to increase its initial membership fee, it shall follow the procedure in this section.この合意の日から10年の期間の間に、入会金を増額する必要を包括的合意により希望するならば、この章の手続きに従わなくてはならない。

(E) Nothing in this Paragraph shall prohibit the Multi-List from adopting bylaws requiring reasonable training requirements for new members, nor shall this Paragraph prohibit the Multi-List from adopting bylaws requiring new members from paying actual and reasonable costs for such training.

(F) Establish any moratorium on new memberships to the Multi-List service;

(不動産売買物件サービスへの新規の入会にどのような猶予期間をも設けないこと)

ANTITRUST COMPLIANCE AGREEMENT

This Antitrust Compliance Agreement ("Agreement") is made as of the 30th day of October, 2002, by and between the Commonwealth of Pennsylvania, acting by the Attorney General D. Michael Fisher, through the Antitrust Section, Strawberry Square, Harrisburg, Pennsylvania 17120 ("Office of Attorney General") and Indiana Real Estate Corporation d/b/a Multi-List of Indiana Area (the "Multi-List"), a Pennsylvania corporation with its principal place of business at 200 South 7th Street, Indiana, Pennsylvania 15701,」

注13:最近の差止に関する判決とその批判は次の通り。

「平成16年 (ネ)第2179号独占禁止法違反行為に対する差止請求控訴事件

控  訴 人 エアポートプレスサービス株式会社

被 控 訴人  関西国際空港新聞販売株式会社 外5名

控 訴 理 由 書

平成16年8月6日

大阪高等裁判所第2民事部4係 御中

      控訴人訴訟代理人 弁護士  池   上       徹

         同      弁護士  岡   野   英   雄

        同      弁護士  布   施        裕

        同      弁護士  宮   永   堯   史

        同      弁護士  宮   野   皓   次

 原判決には、事実認定及び法令の解釈適用につき誤りがあるので、破棄を免れないと思料する。

1 原判決は、

(1)   京阪神地区において、販売ルートで流通する全国紙のほとんどすべてが、被控訴人卸売会社5社(新販、大読社、関西販売、近販、日経大阪販売開発、以下「卸売5社」という)を経由して流通していること

(2)   被控訴人関空販社(以下「関空販社」という)は、空港島における販売窓口一本化のために(卸売5社によって)設立され、当初卸売5社から一手に空港島向けの全国紙を仕入れ、これを空港島内の売店、航空会社等に販売していたこと

(3)  卸売5社は、平成6年2月7日から同年3月10日にかけて、それぞれ空港島における新聞の販売については、関空販社を通して行なうことを理由として、控訴人からの本件各取引申込みを拒絶したこと

を認定した。

  この事実を前提とすれば、原判決は明言することを避けてはいるものの、卸売5社が、共同取引拒絶を行ったことは明らかである。

  その理由は、卸売5社の取引拒絶の理由が関空販社の存在を理由とするものであること、そしてその関空販社を設立したのが、卸売5社であることから、卸売5社の共同性に疑問の余地がないからである。

2  ところで、原判決は、被控訴人日経大阪卸売が本件各取引拒絶後に、設立されたものであり、本件各取引拒絶を行っていないことは明らかであるとする。

  しかし、被控訴人日経大阪即売は、被控訴人日経大阪販売開発を引継いで、日経新聞を一手に販売する為に設立された会社であり、実質的な経営には何らの変更もなされていないのであるから、被控訴人日経大阪即売がなした控訴人との取引拒絶の方針を引継いでいるものであり、本件差止請求の相手方たる地位を引継いだものとして、差止請求を受ける被告適格があるというべきであって、単に会社の設立時期のみで、同社に対する差止請求を棄却したのは重大なる事実誤認である。

3   原判決は、独禁法第24条の要件である「著しい損害を生じ、又は生ずるおそれがあるとき」(以下「著しい損害」という)が定められた理由を、

「独禁法によって、保護される個々の事業者又は消費者の法益は、人格権、物権、知的財産権のように絶対権としての保護を受ける法益ではない。また、不正競争防止法所定の行為のように、行為類型が具体的でなく、より包括的な行為要件の定め方がされており、公正競争阻害性という幅のある要件も存在する。すなわち、幅広い行為が独禁法19条に違反する行為として取り上げられる可能性があることから、独禁法24条は、そのうち差止めを認める必要がある行為を限定して取り出すため」

としている。

4   しかし、これに対しては学説上、次のような批判がある。

  すなわち、立法関係者の説明を総合すると、この「著しい損害」要件を課した理由として考えられるのは以下の2点に要約されよう。

  第1点は民法の原則に従って条文化したことである。すなわち、通説的な見解によれば、不法行為の被害者に対する救済は事後的な金銭賠償を原則としており、例外的に差止請求を容認する場合にはより高度な違法性が必要であると解されており(違法性段階論)、そのことを明示するものとして「著しい損害」という用語を用いたとするのである。更に、直接的な参考規定としては「取締役の法令・定款違反行為に対する監査役の差止請求権」に関する「商法」代275条ノ2があり、そこでは「会社ニ著シキ損害ヲ生ズル虞アル場合」に差止請求を認めているとする。

  第2点は、不公正な取引方法による被害は不特定多数の者に及ぶために、小額の被害に対して差止請求訴訟を認めると社会的に弊害が生じるようなことが考えられるために、いわば濫訴を制限するために「著しい損害」要件を課したものとするのである。

 このような立法趣旨説明に対しては、以下のように批判することが可能である。すなわち、結論的に言うなら、差止め請求権が容認される民法の不法行為、知的財産権侵害及び不正競争防止法においても特段の損害要件が課されていないことを考慮する限り、これらよりも損害の程度が低いと考えられる独占禁止法違反行為による差止請求権についてのみ「著しい損害」要件が課されていることは、我が国の法体系上の整合性を欠き、不適切であるとするものである。

  この批判を分説するなら、

  第1に、ここで通説的な考え方とされる違法性段階論が、差止請求における違法性の程度が損害賠償の場合よりも高度であることを意味していると解釈することに対して疑問を呈した上で、この学説が意味するのは、せいぜい両者の違法性の程度が異なるものとして解釈すべきことを指摘しているに過ぎないとする立場に立つのである。その結果として、第24条に「著しい損害」要件を規定したことの意義が不明であるとする。

  第2に、商法第275条ノ2は会社内部の統制行為を問題としているために、特に違法性の程度が高い場合においてのみ差止請求が認められるものと解されているのであり、独占禁止法違反行為による被害に対する場合とは、情況を異にしていることである。

 第3に、極めて小額な被害を被った者が差止請求訴訟の原告適格を有することを阻止するために、このような過重な要件を課したとする説明に対しては、そのような少額の被害しか生じない独占禁止法違反行為は、「利益の侵害」要件を満たさないことを考慮する限り、このような説明も正当な根拠となりえないとするのである。

  以上のような、批判論をベースとして「著しい損害」要件の実質的な機能性に言及するなら、この規定が特別の要件を意味するものと解釈することは差止請求訴訟の原告適格を制限的に解することになり、本制度の実効性を阻害することになるのは明らかである。そこで、この要件を一般条項として理解し、独占禁止法が差止請求制度を創設することにより保護しようとしている利益が侵害された場合のみ、差止請求権を認めることを意味するものと解するのが穏当である、というのである。(谷原修身「独占禁止法と民事的救済制度」)

5  一方、立法関係者によれば、この「著しい損害」の要件は、「差止めを認めると非常に困った事態になる。加害者にあまり大きなコストを負担させることになるとか、社会的なコストが大きいという場合に差止めを我慢してもらう」ためのものであり、また「独占禁止法違反行為で事実上損害を受ける人が無数になり、その中で非常に損害が希薄な人が訴訟を起こしてきたときに・・・」原告適格を絞るという機能を果たすものとされている(古城誠)。しかし、せっかく差止請求制度を入れたのに、この要件があることによって訴訟が抑制されてしまうことが非常に懸念されている(根岸哲)。そして「著しい損害」という要件を理由として差止を認めないということは、よほどの場合でないとできないのではないか(古城誠)との期待的発言もあるところである(公正取引597、座談会「民事救済制度の整備について」における発言)。

6   よって、独禁法24条の「著しい損害」の判断については、原判決のように単純な基準ではなく、相手方の違法性の程度・態様、相手方が差止めによって蒙る損害の程度、差止請求者が蒙っている損害及びその程度を比較考慮して判断すべきである。

  すなわち、本件において、卸売5社が、独禁法違反の行為(共同取引拒絶)を行なっていたことに対して、公正取引委員会は、平成8年12月25日付の書面(甲第5号証)によって、控訴人に対し、調査の結果、独禁法上の措置は採らなかったが、独禁法違反につながる虞がある行為がみられたので、独禁法違反の未然防止を図る観点から関係人に注意した旨を通知してきた。

  しかしながら、被控訴人らは、平成8年6月25日開催の株主総会において、関空販社の定款を「全国紙の販売」から「全国紙の仕訳、包装、配送、代金回収業務」に変更した(甲第4号証)にもかかわらず、以後も全国紙の販売を継続していることは、控訴人が原審において提出した証拠によって明らかであり、これは公正取引委員会を欺く悪質な行為といわざるを得ない。

  次に、控訴人が求める本件差止請求が認められたとしても、卸売5社には何らの不都合も生じないはずである。つまり、卸売5社は関空販社に売るべき全国紙の一部を控訴人に売るだけであり、何らの損害(控訴人は卸売5社に全国紙の取引を求めているだけであり、関空販社より低い価格で売却せよとまでは求めていない)も生じない。

  最後に、本件共同取引拒絶によって、控訴人は空港島内における全国紙の販売につき、常に納入打ち切りの不安をかかえたままであり、販路の拡大がはかれないことはもちろんのこと、販路の維持さえ危うい状況にある。

  この点、原判決や被控訴人らは、控訴人が訴外「なんばミヤタ」から現に全国紙を仕入れているのではないかという。しかし、「なんばミヤタ」は控訴人に全国紙を売却していることを理由に、卸売5社から仕入れストップの圧力を受けており(甲第23号証、資料bP4.15)、いつ卸売5社が「なんばミヤタ」に全国紙の卸売を中止するか予断を許さない(ただし、その場合には独占禁止法違反が顕著となって、公正取引委員会から勧告を受ける可能性もある為、卸売5社は躊躇している状況である)。

 即ち、控訴人は空港島内における全国紙の販売については、いわゆる「ジリ貧」の状況に追い込まれており、いつ撤退してもおかしくない事態に陥っているのである。

  又、原判決は、控訴人が蒙っている損害について、控訴人が「5パーセントとはいえマージンを得ている」ことを理由に「著しい損害」に当たらないというが、控訴人が蒙っているのは、卸売5社から仕入れることができれば得られるはすの10%のマージンが、「なんばミヤタ」からしか仕入れることができないために、5%のマージンしか得ることができないために、実に得べかりし利益の半分を失っているのであるから、たとえその「額」が少なくとも控訴人にとっては「著しい損害」である事を看過するものであり、零細企業である控訴人にとって死活問題であることの認識を欠く不当な判決であると判断せざるを得ない。

7   以上述べた理由により、控訴人には独禁法24条の「著しい損害」があるというべきであり、この点の判断を誤った原判決は破棄されるべきである。」

としている。

 本件事件の上告理由と上告受理理由は、正当な理由なく違法な行為であり、一審は事業の遂行が出来ないことを認めているのであるから、差止るべきであり、つまり憲法上の生存権を脅かしているからという理由と、営業の自由は職業選択の自由の一種であり、この自由は妨害を排除することによってしか成立しないという理由から正当な理由なく違法であるという法律的判断を求めて上告理由としているものである。

確かに違法性には段階がある。「常にあるいはほとんど常に」競争制限的な行為というのは共同ボイコットには当てはまっており、かつ、ノースウエスト卸売事務用品会社事件のアメリカにおいて確立された最高裁判所の判決にも適合している。これはアメリカの話だけではない。

しかし本件は価格維持行為ともみられてもいる。一審の最終準備書面で主張したとおりに、

このような状況下において、上告人(債権者)は、価格自由競争により市町村から固定資産税評価員に選任されることを目指し、後に上記判決で勝訴した酒匂悦郎とともに、平成10年4、5月ころ、茨城県の市町村に茨城県不動産鑑定士協会が同会員に勧めていた1評価地点あたり6万6880円よりも安い評価料である4万5千円、5万円などで見積した名刺を市町村に交付したり、見積書を内容証明郵便で送付した(甲58、83号証)。

のであり、このために監禁暴行も受けたのであり、これが本件事件の直接的動機であり、その他の理由は被上告人のとってつけた理由である。これは酒匂悦郎証言で証明できる。

外見的にも価格競争をしないという念書を書かされているし、この念書の通りに価格競争をしないということをすれば入会させるというテープがある。

この場合のもし価格競争をしないという念書の下で入会していたのと、本件事件においては入会を拒否したのであるから、そのどちらが公正競争阻害の程度が強いのかという違法性段階論は存在するかもしれない。しかしよく考えると、念書をとる行為自体が公正競争阻害は強く、しかし損害は少ない。逆に念書を拒否してこのような事件が起こっている場合の方が公正競争阻害性はより少しだが少ない。しかし損害は巨大である。しかしノースウエスト卸売事務用品会社事件によればそのどちらであっても、共同ボイコットとして認められるべきであることになる。

注14:本件事件は価格カルテルをまもるための共同ボイコットである。この事件の真相は次の通りであるからである。

本件共同ボイコット事件の事実経過

一般的な誰でもを対象とした入会の制限である8−1−3と、8−1−5とは違っている。

 共同ボイコットの場合には、

悪性が強いものと、私が書かせられた念書の様に

 独占禁止法のことは言いません、というものの双方がある。

 従いますという念書の下での入会は、何らの競争制限の反対である競争促進の効果を持たない。

 ところが安売り業者の排除は、一種であると考えられる共同ボイコットに該当し、競争制限の効果が非常に高い。

 酒匂悦郎事件で監禁暴行を受けたのは私と、酒匂悦郎のみであった。これは二人が安売りの見積書を特殊的に郵送したからである。

固定資産税の標準宅地の鑑定評価を受注することになって、各地方の不動産鑑定士協会は独立して報酬額の法定化(価格固定)を行うために全国会から独立して行ったのであって、士協会になることによって報酬額の法定化(価格固定)が出来る様になると考えたのであった。

だから今証明しようとしていることは全く逆のことである。

不動産鑑定士協会になれば不動産鑑定士法になって価格固定が出来ると考えたのである。逆にこれをそうではないと被告は言っているのであって、逆である。

固定資産税の標準宅地の鑑定評価が受注出来る様になるまでは、不動産鑑定士協会になろうというような動きはなかった。

従って被告は全く矛盾する主張を行っていることになる。

 平成4年の固定資産税の標準宅地の鑑定評価においては、半額以下で下請けを行った。従ってこの年に出島村の固定資産税の標準宅地の鑑定評価書が私の事務所に残ってはいるが、しかし本当は鈴木?(日に半を加える字だがワープロにはない)の名前での鑑定評価書が当時の出島村に残っているはずである。

 これは固定資産税の標準宅地の鑑定評価書は半額以下での受注でも利益が出る仕事であることを示している。この頃すでにオアシスのワープロで鑑定評価書は作られていた。

 ところが最初は量が多すぎて鑑定評価書は完成しないと、田舎の茨城県の不動産鑑定業者は思ったので、東京の業者にやらせてもよいと思った。

 その後平成7年の固定資産税の標準宅地の鑑定評価書(平成9年度用)は被告と同列の茨城県の不動産鑑定士協会が推薦を行って、県が各市町村に推薦するという体制が作られる。これは全国的に行われた配分(市場割当)の確定的な証拠である。

 この頃にコンピューターやワープロが普及し始める。

 ところが業界の要求により自由競争になった(自治省は契約自由の原則を導入した。ということは鑑定評価をおこなわせるという契約書のひながたもなくしたが、今も続いている。)が、しかし業界は価格は維持したかった。また自らの推薦も維持したかった。

 だがあまりにも儲かる商売であるということが、コンピューターでやりはじめると分かったので、このことが原因・動機となり平成12年の評価替えの時期において(平成10年4月)東京勢を追い出そうとするきっかけとなる。超過利潤がなくなるからである。

 この事件が平成10年4月に起こった山口節生・酒匂悦郎事件である。

 原告は半額以下で出来ると知っていたので、安売りをかける。酒匂悦郎も安売りの見積書を直接各市町村に提出した。

杉並ですでに固定資産税の標準宅地の鑑定評価を行った経験があった酒匂悦郎の事件では本当は、この時期に北関東の業者は一致して東京からの進入をとめようとしたのであるが、それが原因で入会を拒否される。 これに対して共同ボイコットであるとして応援したのは、山口節生のみであった。

 平成10年4月、ほとんどの業者が市場割当を待つという営業方針を採ったが、山口節生と酒匂悦郎の事件では二人共に価格競争を行おうとした。

 これに対して北関東連絡協議会ではこの二人を価格競争をしない様にさせようという懲罰を加えることにした。

 これが酒匂悦郎事件であり、山口節生事件である。いずれも共同ボイコットの事件である。

 まず平成10年9月30日、すでに茨城県不動産鑑定士協会の会員であった酒匂悦郎は同会会長の井坂雄の自宅兼事務所において呼び出されて、価格競争をしない様に強制を受ける。この際に同罪だとして山口節生も強制的に監禁説得される。これを山口節生は独占禁止法違反であるととらえた。

 他の者は価格競争をしないという念書をとった上で、入会を認めてもらった者もあった。

 埼玉県は、神奈川県、千葉県が東京からの浸食に悩まされていたのであって、もうこれ以上増えると事業がやっていけないと杞憂して、第12分科会を中心に次回からの入会拒否の方法を模索していた。すでに平成9年度の時に推薦していたことに味をしめていたので、今後も推薦は可能であると思っていた。

 これが平成12年度の税務協議会との会議の結果の様な証拠である。

 平成11年7月には、山口節生が次はどこで固定資産税の標準宅地の鑑定評価を行おうかと考えて、大学院の博士後期課程が済んだのでこれから学問と、事業を埼玉で行おうと決定した丁度同じ時期に、埼玉県の不動産鑑定士協会はどのようにして入会を拒否する共同ボイコットを行おうかと考えていた。平成11年9月には山口節生は埼玉県でやろうと決定するのであるが、ほぼ同じ頃平成11年7月に埼玉県不動産鑑定士協会は会費の値上げをして共同ボイコット(入会拒否)を行おうと決定した。

 いかにして人口1,000万人の東京からの進入をくい止めるのか、それまで価格固定を行ってきたものがくずれないように安売り業者をくい止めるのかが埼玉県の不動産鑑定士協会の課題であった。

 これが共同ボイコット事件に発展した。

注15 「▼公取委に『独占禁止法違反行為に対する差止請求制度の改正』を要望(14年6月6日更新)

 全石連は、平成14年5月29日、先般本会の「独占禁止法問題研究会」がとりまとめた「民事的救済制度の実効性の確保策」に関する中間報告書を、公正取引委員会に提出し、独占禁止法の差止請求制度を改善するため、独占禁止法の改正を要望しました。

 当中間報告書は、立証が困難な独占禁止法違反行為について、被害者の立証負担を軽減するため、独占禁止法にも、特許法に規定されている民事訴訟法の文書提出命令の特則規定を設けるべきであると提言しており、この提言を受けて、独占禁止法にも特許法に準じた形で、民事訴訟法の文書提出命令の特則規定を設けるよう、法改正を要望したものです。」

 このような動きは原告側にも被告側にも有利に働くものではなく、どちらの証拠の収集にも利用できる。

注17:トイザラス事件では、FTCはノースウエスト卸売事務用品会社対パシフィック事務用品・印刷会社事件の4つの構成要素によるテストを通じて、当然に違法の法理の下でも、理由の原則の下でもこのボイコットは違法であると判断した。

10/30/98

「Current Exclusive Dealing and Boycott Cases

 現在の排除的取扱とボイコット事件

All three of these cases involve either an exclusive dealing arrangement or a boycott. In an exclusive dealing arrangement, the predator firm says "if you want to deal with me, you can only deal with me." In a boycott, the predator firm says, "you cannot deal with those specific firms if you want to deal with me." Thus, they are very similar.

PepsiCo., Inc. v. The Coca Cola Co., No. 98-3282 (E.D.N.Y. filed May 7, 1998).

PepsiCo filed suit against Coca Cola on May seventh of this year in the Eastern District Court of New York alleging that Coca Cola has been monopolizing the market for fountain-dispensed soft drinks that are sold through foodservice distributers. Overall, Coca Cola controls approximately forty-four percent of the soft drink market while PepsiCo controls approximately thirty-one percent. However, Coca Cola controls 90% of this fountain-dispensed soft drink market. PepsiCo alleges that Coca Cola has abused its market power by refusing to deal with foodservice distributors that carry Pepsi. Since movie theatres and restaurants do not find it economical to change distributors or find another method to obtain Pepsi, it will use Coke because it is the soft drink brand that its distributor uses. Pepsi challenged this exclusive dealing arrangement, and the District Court refused Coke's motion to dismiss. The parties are now in discovery.

United States v. Visa U.S.A., Inc., No. 98-7076 (S.D.N.Y. filed October 7, 1998).

On October 7, 1998, the United States Department of Justice brought suit in the Southern District Court of New York against Visa and MasterCard for violations of Section 1 of the Sherman Act. Together, Visa and MasterCard control 75 percent of the credit card market. They have allegedly adopted exclusionary rules that allow member banks - more than 90% of the banks in the United States - to issue both Master Card and Visa, but prohibiting the member banks from doing business with American Express or Discover. Furthermore, Visa and MasterCard have formed an agreement not to compete with one another, at least in certain ways. The Department of Justice asserts that this anitcompetitve atmosphere -"duality" - does not allow Visa and Master Card to develop new choices for their consumers, and also that it restricts consumers' choices. The trial is scheduled to begin on October 29, 1999 in front of Judge Milton Pollack.

For further information: www.usdoj.gov

In the Matter of Toys "R" Us, Inc., No. 9278 (FTC decided October 13, 1998).

The Federal Trade Commission filed a complaint against Toys "R" Us, Inc. in May of 1996. The complaint alleged that the company was using its dominant position in the toy market (it buys thirty percent of large toy manufacturers' products and sells 19 percent of all toys) to coerce 40 percent of the toy manufacturers into agreements with it not to also sell toys to discount warehouse club stores (BJ's, Sam's Club, Price Club, etc.). These agreements restricted the manufacturers to selling to the club stores only certain toys that Toys "R" Us had already approved - not the toys that Tory "R" Us wanted to sell. The agreements succeeded in significantly restraining the competition between Toys "R" Us and the club stores. Toys "R" Us chose to form these agreements with the manufacturers because the club stores sold their toys at nine percent above cost while Toys "R" Us was much less competitive at thirty percent above cost. Thus, the low priced discount stores could not obtain the toys they needed to compete effectively with the higher priced Toys "R" Us. この故に、価格が安いディスカウントストアーは、トイザラスの方が価格が高かったにもかかわらず、競争を効果的にするために必要であったおもちゃを手に入れることが出来なかった。The FTC used the four factor test adopted in Northwest Wholesale Stationers, Inc. v. Pacific Stationary & Printing Co., 472 U.S. 284, 294 (1985), to determine that the boycott was illegal, under both the per se and rule of reason approach. FTCはノースウエスト卸売事務用品会社対パシフィック事務用品・印刷会社事件の4つの構成要素によるテストを通じて、当然に違法の法理の下でも、理由の原則の下でもこのボイコットは違法であると判断した。It found both an illegal vertical boycott, and also an illegal horizontal "hub and spoke" conspiracy. 垂直的ボイコットで違法であり、また「ハブアンドスポーク」(中心となる大型空港に周辺空港からの便を集中させる航空路線システム)の水平的共謀であり違法であるとした。An appeal is expected to be decided within a year.一年以内に控訴審の決定があると期待されている。

For further information: www.ftc.gov

Copyright (c) 2003 American Antitrust Institute 2919 Ellicott Street, N.W. Suite 1000 Washington D.C. 20008-1022 Phone: 202-276-6002, Fax: 202-966-8711

FTCの報道発表は、次の通り4つの要素について説明している。本件事件においてはこの4つの構成要件に完全に合致しているといえる。特にこのトイザラス事件は安売り業者を排除したという点で違法性の程度が、本件事件同様に、非常に高い事件である。First, the purpose of the group boycott agreement was anticompetitive, in that it was designed to disadvantage competitors of Toys "R" Us. Second, the firms involved (both Toys "R" Us and the manufacturers) were dominant in their markets. Third, the boycott cut off access to products and relationships needed for the boycotted firms to compete effectively. Lastly, the practice was not justified by plausible arguments that it enhanced overall efficiency.

For Release: October 14, 1998

FTC Upholds Charges that Toys "R" Us Induced Toy Makers to Stop Selling Desirable Toys to Warehouse Clubs

Nation’s Largest Toy Retailer Ordered To Stop Illegal Practices Which Have Injured Competition and Consumers

Toys "R" Us, the nation’s largest toy retailer, was ordered today by the Federal Trade Commission to stop engaging in illegal practices that keep toy prices higher and reduce choice for consumers. Toys "R" Us, the FTC said, was concerned that warehouse clubs -- with substantially lower prices -- presented a threat to its low-price image and its profits. The Commission determined that to eliminate this threat, Toys "R" Us used its dominant position as a toy distributor to extract agreements from and among toy manufacturers to stop selling to warehouse clubs the same toys that they sold to other toy distributors.

The Commission’s opinion, authored by FTC Chairman Robert Pitofsky, explains that Toys "R" Us wanted "to prevent consumers from comparing the price and quality of products in the clubs to the price and quality of the same toys displayed and sold at Toys "R" Us, and thereby to reduce the effectiveness of the clubs as competitors."

消費者がクラブの中の製品の価格と品質をトイザラスが陳列し販売している同じおもちゃの価格と品質を比較しないようにトイザラスは望み、それでクラブの競争事業者としての効率性を減少させたと、ロバート・ピトフスキーを委員長とするFTCの書いた、FTCの委員会の意見を説明している。

"Toys "R" Us rose to its current position as the largest toy retailer in the United States by offering a larger selection of toys than any other retailer at the lowest prices," said Chairman Pitofsky. "Indeed, a remarkable irony of this case is that if the law were as Toys "R" Us contends -- if a large [retailer] could cut off or encumber a new or innovative [company’s] source of supply by exercising market power against suppliers -- then Toys "R" Us, itself an innovative marketer resented by larger and less dynamic [companies] a generation ago, could have been denied an opportunity to compete on the merits and win in the marketplace."

Toys "R" Us, based in Paramus, New Jersey, has about 650 stores located throughout the United States and roughly another 300 stores in foreign countries. Toys "R" Us offers an assortment of about 11, 000 individual toy items throughout the year. The company also buys about 30 percent or more of the large toy companies’ total output and is usually their most important customer. Toy manufacturers who participated in the boycott account for 40 percent of all toy sales in the United States and therefore have market power, the Commission determined. According to the Commission, no other toy retailer carries as many toys or purchases such a large percentage of the toy manufacturers’ output.

The Commission noted that retail margins enjoyed by different types of retailers vary widely. Toys "R" Us’ average margins are close to 30 percent above cost. Warehouse clubs sell toys at prices as low as 9 percent above wholesale cost.

In the past, when Toys "R" Us faced new, lower-priced competition from Wal-Mart, Target and other regional and national discount chains, Toys "R" responded by lowering its own toy prices and improving the presentation of toys in Toys "R" Us stores. The Commission found, however, that Toys "R" Us behaved quite differently when confronted with the dramatically lower prices of the warehouse clubs. By the end of the 1980s these clubs had emerged as increasingly important toy retailers in much the same way that Wal-Mart and the other discounters had done before. The warehouse clubs -- by reducing costs, selling branded products at low prices and increasing product turnover -- soon became the fastest growing retail outlet of toys. Contemporary estimates predicted that they would grow to occupy a significant percentage of the toy market, bringing down retail prices in all channels of distribution as they grew.

Fearing that warehouse clubs presented a greater threat than Wal-Mart and Target had to Toys "R" Us’ prices and profits, Toys "R" Us planned to restrict or cut off the clubs’ supply of key toy products. The Commission found that Toys "R" Us did this by inducing its suppliers to sell to the clubs only toys that were unique and highly differentiated -- most often so-called "combo" packages of two or more toys -- from the toys sold to Toys "R" Us. According to the Commission, beginning in 1992, Toys "R" Us entered into vertical agreements with 10 manufacturers to restrict their sales to clubs. (The 10 toy manufacturers who entered into vertical agreements are: Mattel, Hasbro, Fisher Price, Tyco, Little Tikes, Today’s Kids, Tiger Electronics, VTech, Binney & Smith and Sega.) Toys "R" Us also used the acquiescence of one manufacturer to obtain that of others, orchestrating a horizontal agreement among at least seven manufacturers to adhere to Toys "R" Us’ restrictions. (These seven manufacturers are: Mattel,

Hasbro, Fisher Price, Tyco, Little Tikes, Today’s Kids, and Tiger Electronics.) "Through its announced policy and [these] related agreements, Toys "R" Us sought to eliminate the competitive threat the clubs posed by denying them merchandise, forcing the clubs’ customers to buy products they did not want, and frustrating consumers’ ability to make direct price comparisons of club prices and Toys "R" Us prices," the opinion states.

The Commission further found that Toys "R" Us enforced the agreements by fielding complaints from toy manufacturers about their competitors’ sales to warehouse clubs. When manufacturers complained that a competitor was selling to warehouse clubs, Toys "R" Us again threatened to stop buying that competitor’s products and got its renewed acquiescence to the sales restrictions.

The FTC announced its complaint against Toys "R" Us in May 1996. The charges were upheld by Administrative Law Judge James P. Timony in a September 1997 decision. Toys "R" Us appealed, and the Commission heard oral argument on February 19, 1998.

The Commission agreed with Judge Timony that Toys "R" Us "halted a pattern of rapid growth of toy sales at the clubs" and noted that the "boycott hobbled individual clubs’ toy business." Citing warehouse club Costco’s experience, the Commission found that "while its overall growth on sales of all products during the period 1991 to 1993 was 25 percent, Costco’s toy sales increased during the same period by 51 percent. But, after the boycott took hold in 1993, Costco’s toy sales decreased by 1.6 percent despite total sales growth of 19.5 percent." The Commission also pointed out that reversal of the clubs’ success as toy retailers can also be seen by examining individual toy manufacturer’s sales to the clubs. For example, Mattel’s sales to warehouse clubs declined from over $23 million in 1991 to $7.5 million in 1993.

The opinion underscores that the most significant effect of the agreements was to eliminate competition that would have driven Toys "R" Us to lower its prices had Toys "R" Us not taken action to stifle the competitive threat posed by the clubs.

The Commission found that Toys "R" Us’ only asserted justification for its conduct -- that the agreements were necessary to prevent free riding on its advertising and "showroom" status -- was entirely without merit. The toy manufacturers and not Toys "R" Us (or any other retailer) promote toys to consumers, primarily by designing and purchasing television advertising, and Toys "R" Us is compensated for any services it does provide the toy industry, the Commission found.

The Commission used a four prong test that the Supreme Court has set out to provide guidance as to when boycotts are per se illegal under the antitrust laws. The Supreme Court found that these boycotts generally display four common factors. The opinion states that "[w]e conclude from the evidence in this case that each of the factors ... is present." First, the purpose of the group boycott agreement was anticompetitive, in that it was designed to disadvantage competitors of Toys "R" Us. Second, the firms involved (both Toys "R" Us and the manufacturers) were dominant in their markets. Third, the boycott cut off access to products and relationships needed for the boycotted firms to compete effectively. Lastly, the practice was not justified by plausible arguments that it enhanced overall efficiency. "Toys "R" Us and its reluctant collaborators set out to eliminate from the marketplace a form of price competition and a style of service that increasing numbers of consumers preferred," the Commission said.

The Commission also examined Toys "R" Us’ conduct under the full rule of reason and found that its behavior would also be illegal under this more elaborate mode of analysis. The additional factors that the Commission examined were whether Toys "R" Us’ behavior had a significant anticompetitive effect and whether any such effect is outweighed by legitimate business justifications. The Commission found that Toys "R" Us’ orchestrated boycott "had harmful effects for the clubs, for competition, and for consumers" and that there was "no business justification for a boycott that had a pronounced anticompetitive effect."

The Commission’s order prohibits Toys "R" Us from continuing, entering into, or attempting to enter into, vertical agreements with its suppliers to limit the supply of, or refuse to sell, toys to a toy discounter. The order also prohibits Toys "R" Us from facilitating, or attempting to facilitate, an agreement between or among its suppliers relating to the sale of toys to any retailer. Additionally, Toys "R" Us is enjoined from requesting information from suppliers about their sales to any toy discounter, and from urging or coercing suppliers to restrict sales to any toy discounter. According to the Commission, "[t]hese four elements of relief are narrowly tailored to stop, and prevent the repetition of Toys "R" Us’ illegal conduct."

The Commission vote to issue the opinion and order was 4-0, with Commissioner Orson Swindle concurring in part and dissenting in part.

Commissioner Swindle concurred in the Commission majority's determination that Toys "R" Us ("TRU") entered into a series of anticompetitive vertical agreements with various toy manufacturers. However, he found that the evidence in the record was insufficient to support

the majority's conclusion that TRU orchestrated a horizontal boycott among the manufacturers. According to Commissioner Swindle, "it is precisely the plausibility of the vertical theory and the strength of the evidence underpinning that theory that undercut the majority’s finding of a horizontal conspiracy among toy manufacturers." Swindle further stated that “[t]here is a paucity of evidence -- direct or circumstantial -- that the manufacturers developed among themselves a scheme to boycott the clubs.” Indeed, “TRU's hammerlock on the manufacturers made [any such] horizontal agreement among the manufacturers simply unnecessary." He observed that "TRU’s very indispensability gave each toy manufacturer every incentive -- every unilateral incentive -- to knuckle under to TRU’s demands regarding the clubs." In Swindle's view, "No inference of horizontal agreement is necessary to make sense of the manufacturers’ actions."

Swindle contended that rather than there being "hub and spoke" arrangement directed by TRU or some other type of horizontal conspiracy among manufacturers, the "glue that held TRU’s scheme together was each manufacturer’s individual decision not to cross its most important customer’s interests." The Commissioner concluded: “I am simply unable to find a horizontal boycott on the basis of this evidence. The gaps and ambiguities in the record require that I dissent from the conclusion that TRU orchestrated an anticompetitive horizontal agreement."

The order will be effective 60 days after it is served on the respondent. Under the Commission’s rules, ex parte communications regarding this matter are barred until the Commission has disposed of any petition for reconsideration, or until the time for filing such petitions (14 days after service) has elapsed.

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Copies of the opinion and order and other documents associated with this case, are available from the FTC’s web site at http://www.ftc.gov and also from the FTC’s Consumer Response Center, Room 130, 6th Street and Pennsylvania Avenue, N.W., Washington, D.C. 20580; 202-FTC-HELP (202-382-4357); TDD for the hearing impaired 1-866-653-4261. To find out the latest news as it is announced, call the FTC NewsPhone recording at 202-326- 2710.

MEDIA CONTACT:Victoria Streitfeld,Office of Public Affairs202-326-2718 (Docket No. 9278)(toysftc)

最終注 :この事件の最大の争点である、アメリカの判例の集積である「当然に違法な行為」の定義は次の通りである。

II. DETERMINING WHAT IS PER SE UNLAWFUL

当然に違法の定義

Per se unlawful activity is characterized by its clear probability of anticompetitive effect and the improbability of adequate compensating competitive virtues.

当然に違法な行為には、反競争的な効果が明確に予測でき、それを償う競争促進の適正な効果の可能性がないという特徴がある。

Characterization of conduct as per se unlawful generally requires (i) identifying a restraint's likely anticompetitive effect; (ii) determining whether it also has likely procompetitive potential; and, if so, (iii) ascertaining that the connection between the suspect conduct and any benefit is sufficiently close or necessary to justify rule-of-reason analysis.(17)

この当然に違法な行為の特徴は一般には(1)ある規制が反競争的な影響を与えているということが確実に証明していること、(2)その行為がまた競争重視の可能性を持っていないかどうかを決めること、もし競争重視の可能性を持つ場合には(3)疑惑となっている行為と利益との間の関係が、合理性の基準による分析にじゅうぶんに合致するか、その基準によって分析する必要があるかどうかを確認することの三点が要求される。

As the following discussion reflects, attempts to articulate standards that are both accurate in content and useful in implementation have not been entirely successful, at least for purposes of resolving relatively close cases.

以下の議論において述べるように、実際に適用する場合に内容的にも正確であり、かつ役に立つような基準を明確にする試みは、少なくとも比較的に似通った事件を解決する目的をもってみると、完全に成功してきたとはいえない。

We turn first to an examination of the courts' efforts to identify potentially per se unlawful conduct by its capacity for anticompetitive effect.最初に裁判所が行ってきた反競争的な効果を内包している故に当然に違法である可能性の高い行為を特定する努力を調べていくことにする。

A. Identifying Strong Likelihood of Anticompetitive Effects

反競争的な効果の強い蓋然性の認定

1. Judicial Articulations

法律的な明確化

Over the course of the past forty years, the courts repeatedly have attempted to articulate what makes certain business conduct worthy of summary condemnation under the antitrust laws.

過去40年間の間を通じて、裁判所は反トラスト法のもとである種の事業上の行為のうちのどのような行為が即決での有罪に当たるのかを明確にするための試みを繰り返して行ってきた。

We look first at the various formulations they have used and then at the fact patterns that have triggered per se treatment.

最初に裁判所が使用した様々な公式化を検討して、次に当然に違法として取り扱われた事実の形態を検討する。

The Supreme Court has variously described per se unlawful conduct as that which has a "pernicious effect on competition and lack of any redeeming virtue,"(18) has "no single purpose except stifling of competition,"(19) or is "manifestly anticompetitive,"(20) or "plainly anticompetitive."(21)

最高裁判所は当然に違法である行為を様々に表現している、たとえば「競争に対して破壊的な影響を」与えて、「そのみかえりに何らの利益をももたらさない」とか、あるいは、「ただ競争を圧殺する以外の何らの目的も」もっていないとか、あるいは「非常に反競争的である」とか、あるいは「単に反競争的」とか表現してきた。

More recently, the Court has indicated that per se condemnation is warranted when conduct "always or almost always tend[s] to restrict competition and decrease output" rather than to "increase economic efficiency and render markets more . . . competitive,"(22) has "predictable and pernicious anticompetitive effect" and "limited potential for procompetitive benefit,"(23) or when it is "likely to have predominantly anticompetitive effects."(24)

最近においては裁判所は「経済的効率性を上げさせ、市場をより・・・・競争的に」するのではなく「常にあるいはほとんど常に競争を制限して生産量を減少させる」ような行為とか、あるいは「反競争的な効果が予測でき、競争破壊的である」とか、ならびに「競争を促進する利益を与える可能性がほとんど限定されている」ないしは「非常に莫大な反競争的な効果を持っていると推測できる」時とかの行為に対して当然に違法であるとの判断が保証されると述べている。

These standards characterize the conduct but generally do not provide the information necessary to decide whether a particular restraint is per se illegal.

これらの基準は行為の特徴を述べてはいるが、一般的にある規制が当然に違法であるかどうかについて決定するのに必要な情報を与えてくれてはいない。

Although application of one standard over another might lead to different results,(25) the Court has not acknowledged this and has not told us when to apply which articulation.

一つの基準を他の場合に当てはめると違った結果をもたらすかもしれないのであるにもかかわらず、裁判所はこのことに気がついていないのであり、どのような時にどのような定式化を適用すべきであるかについては教えてくれてはいない。

In sum, the various articulations seem to lack individual significance.(26)

要するに、様々な定式化は一つ一つでは意味がないように思われる。

The BMI articulation is at least a partially successful effort to add a test of substance to the melange.

BMI事件において混乱した概念を明確化するのに少なくとも一部分においては実質的に成功した。

In BMI, the Court began by reiterating the characterizations "plainly anticompetitive" and lacking "any redeeming virtue," but ultimately stated that the proper inquiry focuses on "whether the practice facially appears to be one that would always or almost always tend to restrict competition and decrease output . . . or instead one designed to 'increase economic efficiency and render markets more, rather than less, competitive.'"(27)

BMI事件においては裁判所は「単純に反競争的で」そして 「何らのそれを償う価値が」存在しないという特徴について繰り返して表明することからはじめたが、しかし最後には「その行為が外見的に常に、あるいは、ほとんど常に競争を制限して、供給量を減らしているような行為であるか・・・あるいはそのかわりに「経済的効率性を上げさせ、市場を競争を減殺させないで、より競争的にさせるような」行為であると見ることができるかどうか」という点に焦点を当てて正しく審理するべきであると述べる。

This communicates some important points.

このことはある重要な要素を述べている。

For one thing, it tells us that per se condemnation can result from facial examination of the conduct, allowing the court to make its determination quickly, based on anticompetitive effects plausibly argued but not elaborately proved.(28)

一つには、当然に違法との判断は行為の外見を判断することで結論を導き出すことが出来るので、競争を制限する効果があることが丁寧に証拠によって示されなくても、論証されれば、裁判所は緊急に決定を下すことを可能にする。

The "always or almost always" portion of the formulation indicates the very high probability of anticompetitive effects required for finding a practice per se unlawful.

当然違法の定義における「常に、あるいは、ほとんど常に」という部分は、ある行為が当然に違法であると判断するために要求されるものは、反競争的な効果がある可能性が非常に高いということである。

However, the addition of "almost always" conveys the Court's willingness to allow a margin for error in making per se determinations.

しかしながら「ほとんど常に」と付け加えていることは、裁判所は当然に違法であるとの判決を行うときには間違いをある程度許容することもなしとはしていないといえる。

This is consistent with the rationale which justifies per se treatment when exceptions to the generalization supporting summary condemnation "are not sufficiently common or important to justify the time and expense necessary to identify them."(29)

仮処分による当然違法の判断を支持しているこの定式化に対する例外が「例外を認定するのに必要な時間と費用を正当化するだけじゅうぶんな一般性も、重要性ももっていない」のであるのであるから、当然に違法であるとの決定を正当化する理由ともこの考え方は合致している。

BMI also provides guidance on what harmful effects to look for through its "tend to restrict competition and decrease output" language.

またBMI事件は「競争を制限し、生産量を減少させる傾向がある」という文脈を通じて害がある効果は何であるのかを探し出す手引きを提供する。

This requires that the suspect conduct restrict competition and identifies one specific anticompetitive effect, output reduction, that triggers per se treatment.(30)

当然に違法な行為であると疑われている行為が競争を制限して、ある種の反競争的効果、生産量の減少を特別に認定出来るならば、その場合には当然に違法の判断をしなくてはならないきっかけとなることをこの文脈は要求していることになる。

Taken as a whole, the BMI articulation suggests that the Court wants to be able to make per se determinations quickly, based on a facial examination of the arguments; that it wants to include in per se categories only conduct with a high probability of anticompetitive effects unaccompanied by adequate offsetting benefits; that it accepts some possibility of error through over-inclusiveness; and that the effects that will trigger per se condemnation are restriction of competition and reduction of output.

全体を概観すれば、BMI事件による定式化は争点を外見的に審理することによって、素早く当然に違法であるとの決定を可能にしたいと裁判所は望んでいることを示している、つまり競争を制限する効果を強く推認させ、競争を促進する利益を適切にもたらさないような行為だけを当然に違法な行為の範疇に含めたいと望んでいるのである。それは当然に違法の範疇に含めすぎることによって少しは間違いをおかす可能性を受け入れているのであり、当然に違法であるとの判断を導き出すものは競争制限の効果であり、生産量の減少という効果である。

2. When Effects Cannot Be Predicted

効果が予測できない場合

The flip side of some of the per se characterizations -- an inability to say that conduct is "plainly anticompetitive" or "facially" appears to "always or almost always tend to restrict competition and decrease output" -- has led courts to be unwilling to apply per se proscriptions to conduct taking novel forms or arising in relatively unfamiliar settings.

当然に違法である行為の特徴が、対照的であったので、つまりはある行為が「競争を制限するのみであるということ」あるいは「常にあるいはほとんど常に競争を制限して、生産量を減少させる傾向にある」ように「外観からして」みることが出来るということが不可能にちかい面もあったので、裁判所は新しい形態をとった行為やそれまでとは違ったあまりなじみのない状況で起こった行為に対する当然に違法原則による禁止の適用をためらわせることになった。

The Supreme Court in Topco stated that "[i]t is only after considerable experience with certain business relationships that courts classify them as per se violations . . . ."(31)

トプコ事件において最高裁判所は「・・・裁判所が当然に違法な違反であるとして分類しているのはある種の事業上の関係について相当熟慮したあとでの判断だけである」と述べている。

Similarly, in determining to apply rule of reason analysis to an agreement among dentists to withhold x-rays from dental insurers,

同様に、歯科医の保険者に対してX線のフィルムを渡さないという歯科医達の合意の分析にあたっては合理性の基準を適用することを決定する際には、

the Court explained, "[W]e have been slow . . . to extend per se analysis to restraints imposed in the context of business relationships where the economic impact of certain practices is not immediately obvious."(32)

裁判所は「ある行為の経済的な影響が直接的に明白ではない時には、事業上の関係という文脈の中に照らして当該競争制限が当然に違法の原則の拡張解釈になるかどうか・・・じゅうぶんに審理してきた」と説明している。

A variation on this theme is a reluctance to apply per se rules in settings involving the professions.(33)

このテーマの変形は、多くの専門職業家を巻き込んだ中での環境における当然に違法の原理の適用においては控えめである。

"Judicial unfamiliarity" has proven an unsatisfying criterion, however, invoked inconsistently and generally with little or no substantiation.

しかしながら「法的判断が避けられていること」は満足できない領域であることを示しており、法律の発動に一貫性がなく、ほとんど裏付けがないか全くないことと一般的には同じことである。

It is unclear what enough experience might be,(34) and whether courts need to be familiar with the challenged activity in the precise form alleged, or whether familiarity with similar conduct is enough.

どのような事実経過が必要であるのかが不明瞭であり、申し立てるべき行為の申し立てるべき詳細な要素に裁判所が知っている必要があるのかについて不明瞭であり、また同様の行為にじゅうぶんに知っている必要があるのかについて不明瞭である。

For example, in McNeil v. National Football League,(35) unfamiliarity with Plan B (a series of rules governing teams' first-refusal and compensation rights following expiration of player contracts) "as it currently exists" was cited as a reason for analyzing its restrictions under the rule of reason, even though a predecessor of Plan B had been the subject of previous antitrust litigation.

たとえば、 マックネイル対ナショナルフットボールリーグMcNeil v. National Football League,(35)事件においては、(チームの最初の拒絶と、選手契約が終了した後の補償の義務についての一連の規則)であるプランBとはなじまないとして、「現在も継続中であるという理由から」という理由が合理化の原則の下でその規制を分析するための理由として述べられた。プランBの前のプランは競争制限に違反するとして以前は取り上げられてきたにもかかわらずである。

In contrast, Maricopa held that a maximum fee agreement among doctors in the context of a comprehensive medical plan was per se illegal even though the Court had never dealt with the antitrust consequences of a similar arrangement in the medical or insurance industries.(36)

これとは対照的に。マリコパ事件では総合的な医療計画の文脈における医者の間の最高報酬の合意が、医療と保険業では同様の協定が競争制限として取り扱われて来なかったにもかかわらず、当然に違法であるとされた。

When the Court next confronted a horizontal agreement regarding medical insurance, it declined to apply a per se rule, in part because "we have been slow to condemn rules adopted by professional associations as unreasonable per se . . . ."(37)

医療保険に関連する水平的な合意に裁判所が再度判断する時に、当然に違法の原則を裁判所は適用する可能性が高い。その理由は「専門職業の事業者団体によって決定された規制を合理的ではない当然に違法なものとして・・・これまではあまり罪があるとしてこなかった」からであるという理由による。

Thus, like the other standards considered in connection with identification of likely anticompetitive effects, the "judicial unfamiliarity" standard lacks clear content.

以上の様に、競争制限的効果がある可能性があることの証明に関連して考慮される他の基準と同じように「法的判断になじみがない」という基準は明確な内容を欠いている。

3. Fact Patterns

事実のパターン

In the context of competitor collaborations, the courts have imposed per se liability involving three general types of conduct: price-fixing, market division, and group boycotts.

競争業者の共同という文脈の中では、価格固定、市場分割およびグループボイコットの3つの一般的な類型を、当然に違法の行為責任類型のなかに含ませている。

This section briefly examines the fact patterns that in recent years have triggered per se analysis in each of these settings.

この章ではこれらの設定のそれぞれにおいて当然に違法の分析が最近どのような用いられているのかについて事実のパターンを簡単に検証する。

It finds that each category of activity potentially subject to per se condemnation encompasses quite diverse conduct, making delineation of boundaries difficult.

当然違法の性質を持っていると糾弾された各行為の範疇が非常に様々な行為を包含しているので、境界を確定することが困難であることが分かる。

It also observes that the courts have varied the nature of per se treatment in line with the severity of a category of conduct's perceived anticompetitive potential, requiring a greater showing of likely anticompetitive effect in settings where competitive harms have been thought less certain.

また、ある種競争制限の害悪が少ないと考えられてきた事件においては、競争制限の効果の蓋然性の証明をより多く要求するなどの方法によって、裁判所は競争制限が内包されているとされた行為の範疇の競争制限の程度に応じて、当然に違法の取扱の性質も裁判所は変えてきたということが見て取れる。

Horizontal Price Fixing

水平的価格固定

Per se condemnation of horizontal price fixing has been broadly applied.

水平的価格固定に対する当然に違法であるとの判決は広範に適用されている。

Per se treatment extends not only to agreements that directly establish price levels,(38) or their flip side, output levels,(39) but also to conduct, such as various forms of bid-rigging, that manipulates the market in order to raise (or, in the case of monopsony, to lower), stabilize, or "tamper with" price levels.(40)

当然に違法であるとの取扱をしたのは価格水準や、その反対の局面である生産量の水準を直接的に決定したりする合意ばかりではなくて、価格水準を上げるため、あるいは独占の場合には、下げるため、あるいは安定化させるため、「不当に圧力をかけるため」市場を操作する様々な形態の入札談合やらの行為にもまた適用が拡大されている。

The entire price need not be affected; an agreement jointly establishing any "part of the price" is also condemned.(41)

すべての価格が影響される必要はなく、「価格の一部分」であっても共同で決定する合意があれば、有罪であるとされる。

Maximum price fixing is included under the per se proscription.(42)

最高価格の固定は、当然に違法による禁止規定に含まれる。

Recent cases illustrate each of these principles.

最近の事件はこれらの各原則を一つ一つ説明している。

The Commission this year applied the per se rule to an agreement adopted by an association of professional conference interpreters directly fixing price by establishing minimum daily rates.(43)

公正取引委員会において職業団体の事業者団体の会議で日々の最低利率を決定する直接的価格固定の決定に当然違法の原則が適用された事例が今年出された。

Agreements setting portions of the price -- such as per diem rates, travel compensation, and charges for off-days and cancellations -- also received per se condemnation.(44)

日歩や、旅行損害賠償や、不調な時やキャンセル時の支払いの様な価格の一部分を固定する合意も、また当然に違法の判断をされている。

The per se rule has also been applied to arrangements affecting price through limitations on significant forms of competition, such as by restricting the ability to purchase services by the hour rather than by the day or to vary the rates paid to different members of an interpreting team.(45)

日給によらずに時間でサービスを購入することが可能であるのに、あるいは、通訳のチームの各々のメンバーが違ったレートで支払われるべきであるのに、それを制限することによって、競争の重要な形態に制限を加えて価格に影響を与える合意にもまた当然に違法の原則は適用されてきた。

The per se rule has been applied to maximum price fixing.(46)

当然に違法の原則は最高価格の固定に適用されてきた。

Finally, the per se rule against price fixing has been invoked in some less traditional contexts, including an effort to raise rivals' costs(47) and a joint effort to exclude a discounter from participation in a trade show.(48)

最後に価格固定に対する当然に違法の原則は、競争業者の費用を上昇させたり、商業上の展示会に安売り業者が参加するのを共同で排除するような行為をも含む、これまでの伝統的な流れにはない状況に対して、適用されてきた。

a. Market Division

市場の分割

The per se proscription of market divisions has had a broad reach similar to that against price fixing.

価格固定に対する糾弾と同様に、市場の分割に対する当然違法の糾弾は広く行われてきた。

Focusing on potential anticompetitive effects, Judge Posner recently explained:

ポズナー判事は、最近競争制限の効果を持つことに焦点を当てて、次の様に説明している。

The analogy between price-fixing and division of markets is compelling. It would be a strange interpretation of antitrust law that forbade competitors to agree on what price to charge, thus, eliminating price competition among them, but allowed them to divide markets, thus eliminating all competition among them.(49)

価格の固定と市場の分割の類似性は、強制にある。反トラスト法は価格をいくらにするのかの合意を競争者に禁止して、それによって競争者間の価格競争を消滅させることを禁じており、しかし市場を分割して、それによって競争者間のすべての競争を消滅させることは許可しているとする解釈は反トラスト法の間違った解釈である。

The per se rule has been applied to agreements to divide geographic territories, customers, and types of business.(50)

当然に違法の原則は地理的なテリトリー、顧客の分割、様々な種類の事業上の合意やらに適用されてきた。

It reaches arrangements splitting markets in which the parties compete and agreements "merely reserv[ing] one market for one and another for the other," that is, requiring parties to keep out of particular portions of otherwise available business.(51)

事業者が競争する市場を分割しての割り振り、「他の競争事業者のため相互に市場の単純制限」の合意 などにいたるのであり、それはいわばそういうことがなければ利用可能な事業の特殊な割合を各事業者に事業をさせないようにすることになる。

Recent cases show application of the per se rule against geographic market divisions,(52) customer allocations,(53) and assignments of business by product type.(54)

最近の事件においては地理的な市場分割や、顧客の割当、また製品の種類に応じた事業の割当に対して当然に違法の原則の適用を見い出すことができる。

More interesting are the cases that have extended per se illegality to arrangements that sheltered the agreeing parties' from one another's competition without expressly dividing markets.

目につく事件では市場を分割するとの宣言はしていないが、各当事者が合意して、相互に競争することに壁を設けるという合意を当然に違法であると拡張解釈したものがある。

For example, the Commission in AIIC found a per se unlawful market division when a trade association prohibited permanently employed staff interpreters from performing freelance business for which freelance interpreters were available.(55)

例えば、フリーの翻訳家が利用出来るフリーの仕事をすることを永久雇用の職員の翻訳家が禁止するという事業者団体の決定を競争制限の(AIICの)委員会は当然違法とみなした.

The Seventh Circuit found an agreement among former law partners to divide the geographic markets in which each could advertise per se unlawful.(56)

第7巡回裁判所は、各人が自分の広告出来る地理的な市場を分割する弁護士のかってのパートナー間の合意を当然に違法であると判断した。

In addition, complaints resolved by consent agreements have viewed certain joint bidding or teaming arrangements as in fact nothing more than market divisions.(57)

それに加えて、ある種の共同の合意による入札や、チームによる合意を市場の分割と事実上は同じであるとみなして、合意判決によって告訴が解決されてきた。

Group Boycotts

グループによるボイコット

The role of per se analysis in evaluating group boycotts has long been a topic of confusion.

グループによるボイコットの判断において当然に違法であるとの判決は長い間混乱していた。

Northwest Wholesale Stationers provides the Supreme Court's most complete recent discussion of the issue:

最高裁判所はノースウエスト卸売事務用品会社判決で、この問題にほとんど完全な判断を行った。

Cases to which this Court has applied the per se approach have generally involved joint efforts by a firm or firms to disadvantage competitors by "either directly denying or persuading or coercing suppliers or customers to deny relationships the competitors need in the competitive struggle."

当裁判所は当然に違法であるとの原理を適用してきた事件は、一般的に言えば競争する上で競争者が必要な関係を直接的に拒絶したり、拒絶するように供給者や、顧客に間接的に説得したり、強制したりすること」によって競争者に不利益を与えるような単独の事業者あるいは共同の事業者による共同の行為をいうのである。

In these cases, the boycott often cut off access to a supply, facility, or market necessary to enable the boycotted firm to compete, and frequently the boycotting firms possessed a dominant position in the relevant market.

これらの事件においては、通常の場合にはボイコットされた事業者が競争する場合に必要な供給や、施設や、市場にアクセスすることが出来なくなり、また通常の場合には当該市場においてボイコットを行った企業が独占的な地位を保有していることが非常に多い。

In addition, the practices were generally not justified by plausible arguments that they were intended to enhance overall efficiency and make markets more competitive.

それに加えて、市場全体の効率性を増大させ、市場における競争を活発化させようと意図されたことを理解出来る主張によって正当化されることは一般的にはほとんどないような行為である。

Under such circumstances the likelihood of anticompetitive effects is clear and the possibility of countervailing procompetitive effects is remote.(58)

そのような環境下においては反競争的な効果を持つ蓋然性が高く、それとは逆に競争促進的な効果はほとんど期待できないといえる。

The Court then held that, absent market power or "unique access to a business element necessary for effective competition," expulsion from a buying cooperative is appropriately analyzed under the rule of reason.(59)

従って、裁判所は市場支配力がない場合や、「競争を効果的にするために必要なある事業上の要素への特別なアクセス」がない場合や、購入組合からの排除などは合理性の基準によって分析するのが妥当であるとの判断を示した。

Subsequently, in SCTLA, 493 U.S. at 432-36, the Court clarified that group boycotts used to implement price-fixing conspiracies may be condemned without a market-power inquiry.

それに続いて、SCTLA 事件においては、価格固定の共謀を遂行するために用いられるグループによるボイコットは市場支配力の証明がなくても当然に違法であるとの判断を明瞭に示した。

Recent applications of the per se rule to group boycotts have tended to involve either boycotts of suppliers or customers directed toward discouraging dealings with the boycotters' competitor or boycotts utilized to implement per se unlawful price fixing or market divisions.(60)

グループによるボイコットに対する当然に違法の原則の適用は、ボイコットを行う側の競争者との取引を供給者あるいは顧客に対して拒絶させるように命令したりするボイコットか、あるいは、当然に違法な価格固定や、市場の分割などを遂行するために使用されるボイコットに対して、最近では適用されるようになっている。

d. Summary

要約

Two points emerge from this survey.

二つの要点がこの論文から浮かび上がる。

First, the courts have varied the nature of per se treatment in line with the severity of a category of conduct's perceived anticompetitive potential.

第一点は裁判所はある行為が反競争的であると認識される蓋然性の高さに応じて、厳格に当然に違法の原理の取扱を変化させている。

For price fixing and market divisions, where the threat to competition is most clear, the per se rule is strong, and plaintiffs typically have not been required to demonstrate market power or specific anticompetitive effects.

価格固定と市場割当に対しては、市場に与える脅威が最も高いので、当然に違法の原理の取扱が最も強力である。従って原告は市場支配力や反競争的な効果を証明する必要が全く要求されていない典型である。

For at least some group boycotts, where the anticompetitive effect may appear more attenuated, the courts have tended to require market power or unique access to essential business elements.(61)

少なくともある種のグループによるボイコットに対しては、反競争的な効果がより弱められている外観がある場合があるので、裁判所は市場支配力や必須施設への事業上のアクセスが特殊的に必要だとの証明を要求する傾向があった。

For group boycotts that implement price fixing or market divisions, however, the market power requirement is dropped.

しかしながら価格固定や、市場分割を行うグループによるボイコットに対しては市場支配力の証明は必要ないとした。

Second, each category of conduct potentially subject to per se condemnation encompasses quite diverse conduct and is far from self-defining.

第二点は、当然に違法であるとされる可能性のあるそれぞれの行為の範疇はそれとは違う行為を内包しており、それ自体のみを定義することはほとんど不可能である。

Price fixing is a prime example.

その代表的な事例は価格固定である。

The recent cases include several instances of per se condemnation where a price is not actually established, but where the competitive mechanisms for setting price have been tampered with, such as by requiring uniform pay for different members of an interpreting team, requiring a union to charge competitors a fee, or seeking to bar a competitor from a trade show.

最近の事件では価格が現実には設定されることはなく、たとえばある一つと解釈できる団体の違った種類のメンバーから同一の支払いを要求するとか、ある協同組合に競争業者に特定の利用料を要求したり、あるいはある競争業者をある事業の現場から排除したりするとかのように価格設定の競争的なメカニズムに改悪が加えられている。

Given the diversity of conduct that may be subject to per se treatment, it is understandable that efforts to delineate the boundaries of per se prohibitions using articulations based solely on their likely competitive harms have not been particularly successful.

たとえ当然に違法であると取り扱われることになる可能性が高い行為が様々に変化しようとも、競争に与える害の蓋然性の程度が明瞭であるかどうかにだけ基礎を置いて、当然に違法である禁止行為の境界を線引きする努力をしても特別に成功したのではなかったことは理解できる。

Categories of conduct lack precision, and descriptive phrases tend to be too conclusory to give much guidance.

行為の範疇が精密さを欠き、描写をする文章が証拠不十分による推論に頼る傾向があることから多くのガイダンスを与えることが出来ないでいる。

Not surprisingly, then, courts have increasingly focused on the presence or absence of competitive benefit as a means for chiseling away conduct that does not belong within per se categories.

それ故に裁判所においては当然に違法の範疇には属していない行為を特定する方法として競争上の利益があるかないかに注目することが増えてきたことは驚くにあたらない。

In recent years, cases have often turned on this factor, which is discussed in the next section.

現在においては、この訴因に関心が向けられることが多くなったので、次の章で検討することにする。

A. Identifying Absence of Competitive Benefit

競争的な利益がないことの特定

1. General Articulations

一般的明確化

Conduct that would otherwise trigger per se condemnation will still elude per se treatment if it is likely to generate competitive benefits.

当然に違法の判決を受けるような行為であっても、もし競争上の利益を生み出す傾向がありうるならば、それにもかかわらず当然に違法の判断を免れることもたまにありうる。

The courts' formulations for describing this second element of the per se rule typically adopt one of two approaches.

裁判所は当然に違法の原則のこのような二つ目の要素を描写するための定式化は、二つの接近法のうちの一つの接近法を採用する形式をとる。

They either focus directly on the conduct's likely competitive effects, or they seek to determine whether the suspect conduct is suitably connected, i.e., "ancillary," to legitimate activity.

裁判所は当該行為が競争的な効果を持っている可能性に直接に焦点を当てるか、提訴されている行為が合法的な行為と適切に相関関係、つまり「補完性」があるのかどうかを決定するための努力をする。

Although the "effects-based" and "ancillary restraints" analyses have somewhat different focuses, depending on how they are applied, they need not be substantively inconsistent.

「効果に基礎を置いた」分析と、「補完的制限」の分析は、適用の方法に依存して、焦点の置きかたが違っている部分があるにもかかわらず、この二つは本質的には相互に矛盾している必要性はない。

Indeed, a single opinion may contain elements of both forms of analysis.(62)

確かに、一つの意見が両方の分析形式のある種の要素を含んでいることはありうる。

a. "Effects-Based" Analysis

「効果に基礎を置いた」分析

The "effects-based" analysis is reflected in the second half of some of the Supreme Court's standards for per se illegality.

「効果に基礎を置いた」分析は、当然に違法の原則の最高裁判所の基準の半分の部分を反映している。

Thus, Northern Pacific Ry., 356 U.S. at 5, looks for conduct with a "lack of any redeeming virtue,"

しこうして、ノーザンパシフィック鉄道事件, 356 U.S. at 5では「何もその見返りの利益」を伴わない行為として見ている。

Khan, 1997 U.S. LEXIS 6705, at *11, speaks in terms of "limited potential for procompetitive benefit,"

カーン事件では, 1997 U.S. LEXIS 6705, at *11,「競争促進的な利益が潜在的に制限されている」という言葉を使用している。

and BMI, 441 U.S. at 19-20, asks whether a practice facially appears to always or almost always restrict competition and decrease output instead of being "designed to 'increase economic efficiency and render markets more, rather than less, competitive.'"

そしてまたBMI事件では, 441 U.S. at 19-20,「「経済的な効率性を増大させ、市場を反競争的にするのではなく、より競争的にする」ことを計画しているのではなくて、常にあるいはほとんど常に競争を制限して生産量を減少させるようにある行為が外形的に見えているかどうかについて審理している。

The effects-based approach leaves room for defendants to articulate procompetitive justifications for their conduct.

効果に基礎を置いた接近方法は、被告にとっては自らの行為の競争促進的な正当性をはっきりさせる余地を残している。

Faced with potential justifications, the Supreme Court has assigned cases to the rule of reason when benefits were so clear that the restraint was deemed necessary in order to provide the product at all,(63) as well as in instances where the restraint's "economic impact" was "not immediately obvious."(64)

その利益が非常に明白であって、競争の制限が製品を提供するのに少なくとも必要であるとみなされる場合には、また同時に競争の制限の「経済的な効果」が「即座に明白ではない」事件においては、正当化の可能性があるので、最高裁判所は理由の原理に付してきた。

Unfortunately, for much of this range of possibilities the Court has not provided specific guidance,and, as the discussion of cases such as BMI and Maricopa infra in Section II.B.2 suggests, the means for determining which competitive justifications are sufficient remain in doubt.

このような多くの種類の可能性に対しては、裁判所は特別なガイドを示して来なかったのであり、また、下記のII.B.2章におけるBMIとマリコパ事件のような事件の議論においてもどのような競争上の正当化がじゅうぶんであるのかを決定するための手法はまだ疑問が残っているのは残念である。

b. Ancillary Restraints Analysis

補助的規制の分析

"Ancillary restraints" analysis derives from Judge Taft's opinion in United States v. Addyston Pipe & Steel Co.,(65) involving an agreement among pipe manufacturers to fix prices, rig bids, and divide territories.

「補完的制限」の分析は政府対アディストンパイプ・鉄会社事件においてパイプ製造会社間の価格固定、入札談及び地域分割に関してタフト判事が提出した意見に由来している。

Accepting, arguendo, defendants' claim that Section 1 liability extends only to agreements void as restraints of trade under common law,

シャーマン法の第一条の違反であるし、かつコモンローのもとでも取引の制限に当たるので合意のみは事実ではあると認め、無効であることにのみに解釈すべきであると被告は主張した。

Judge Taft extracted from the common law the principle that no conventional restraint of trade can be enforced unless the covenant embodying it is merely ancillary to the main purpose of a lawful contract, and necessary to protect the covenantee in the enjoyment of the legitimate fruits of the contract, or to protect him from the dangers of an unjust use of those fruits by the other party.

適法な契約の主要な目的を純粋に補助することを具体化している契約でなければ、また契約による合法的な果実を享受する時の契約者を保護する必要があるか、あるいは、他の当事者によってそれらの果実が不正な使用がなされる危険性から当事者を守るためでなければ、タフト判事はコモンローによる原則を引用して、取引の制限は強制されることは出来ないという原理を持ち出した。

Id. at 282.

上掲書282頁。

In contrast, "[W]here the sole object . . . is merely to restrain competition, and enhance or maintain prices, it would seem that there was nothing to justify or excuse the restraint . . . ."

これとは対照的に「目的が・・・単に競争を制限する目的だけであって、価格を上げどまりさせ、価格維持の目的だけである時には、競争制限を正当化し、許可されることは全くないだろうと思われる・・・。」

Id. at 282-83.

上掲書282頁。

Some courts and commentators would apply Judge Taft's analysis in determining whether agreements warrant per se condemnation.

裁判所によっては、また独占禁止法の解説によっては、合意が当然に違法の判断に該当するのかについて結論を出すのにタフト判事の分析を適用するものがいくつか存在する。

For example, Judge Bork's opinion in Rothery Storage & Van Co. v. Atlas Van Lines, 792 F.2d 210 (D.C. Cir. 1986), cert. denied, 479 U.S. 1033 (1987),

例えば、Rothery Storage & Van Co. v. Atlas Van Lines事件における, 792 F.2d 210 (D.C. Cir. 1986),ボーク判事の意見、判決は請求棄却, 479 U.S. 1033 (1987),

concluded that Addyston Pipe "framed a rule of per se illegality for 'naked' price-fixing and market-dividing agreements, i.e., agreements between competitors who cooperated in no other integrated economic activity,"but "recognized that such a rule would not do where fusions or integrations of economic activity occurred . . . ."

アディストンパイプ事件は「「あからさまの」価格固定と市場分割の合意に対して当然に違法の原則を構成している、それは、共同しての競争者間の合意は経済的に統一の取れた行為ではないということである」また「そのような規則によれば、経済的な行為が統合あるいは統一性をもたないであろうという認識である・・・」

と結論を出している

Id. at 224.

Rothery continues:

ロスリーは次の様に続けている:

To be ancillary, and hence exempt from the per se rule, an agreement eliminating competition must be subordinate and collateral to a separate, legitimate transaction.

付随的であり、それ故に合理性の原則から外れるためには、競争を減殺させる合意は分離された、合法的な取引の下部にあり、付随したものでなくてはならない。

The ancillary restraint is subordinate and collateral in the sense that it serves to make the main transaction more effective in accomplishing its purpose.

付随的な競争制限は主な取引を効率的にするという目的を達成するために、より効率的にすることに奉仕するものであるという意味で下位にあり、かつ付随的である。

Of course, the restraint imposed must be related to the efficiency sought to be achieved. If it is so broad that part of the restraint suppresses competition without creating efficiency, the restraint is, to that extent, not ancillary.(66)

もちろん、競争制限の行為は達成されようとしている効率性に関連したものでなければならない。もし競争制限の範囲が非常に広いあまりに、競争制限の一部分によって効率性が達成されないという場合には、その程度において、その競争制限は補助的ではない。

Ancillary restraints analysis, however, is at least as plagued by ambiguities as the more direct, effects-based standards.

しかしながら、補助的な競争制限の分析は、より直接的な効果に基礎を置いた基準と同様に、少なくともあいまいさに悩まされる分析である。

Two questions immediately stand out: (1) to what must the conduct be ancillary? and (2) what is a sufficient connection to yield "ancillary" status?

二つの疑問が即座に生まれてくる。(1)ある行為が何に対して保管しているのか、また(2)「補完している」地位を与えるのにじゅうぶんな関係とは何かの二つである。

Courts and commentators have suggested a variety of answers to the first question.

裁判所も、学説も最初の疑問には多くの答えを提案している。

Some have looked to whether a restraint is ancillary to integration(67) or to an efficiency-enhancing integration.(68)

ある競争制限が統一を補完しているのか、あるいは効率性を高めるための統一を補完しているかどうかであると見ている判決や学説がある。

Similarly, some have asked whether a suspect restraint is ancillary to some lawful contract or joint activity.(69)

同様に、何らかの適法な契約や、共同の行為を補完しているかどうかを求めている判決や学説がある。

These formulations insert an intermediate construct between the restraint and its efficiencies and focus their inquiry on the construct.

これらの定式化は競争制限と、競争制限の効率性との間の中間的構成概念に当たり、その構成概念に研究の焦点を当てている。

Other formulations cast the ancillarity inquiry in very general terms, such as whether a suspect restraint is ancillary to some legitimate commercial objective or lawful purpose, i.e., to something other than price formation or restraining competition.(70)

他の定式化は、疑われている競争制限の行為が何らかの合法的な商業目的や、合法的な目的のとって補助的ではないかどうか、つまり、価格形成や競争制限以外のものではないのかについて、非常に一般的な熟語によって補助性の研究に没頭する。

Indeed, the "lawful purpose" formulation was used by Judge Taft in Addyston Pipe, 85 F. at 282-83. 「合法的目的」の定式化は、確かに、アディストンパイプ事件, 85 F. at 282-83.においてタフト判事によって使用された。

Significantly, when the inquiry is framed this broadly, that is, when the issue is whether a restraint is ancillary to some legitimate commercial objective -- such as achieving a procompetitive efficiency -- rather than merely restraining competition, the inquiry begins to overlap with effects-based formulations which look directly at procompetitive benefits.

この探求がこのことを広大に構成するならば、つまり単なる競争制限より、競争促進による効率性の向上のような、何らかの商業上の合法的目的に競争制限が補助することになっているかどうかが問題となれば、競争促進の利益を直接的に見つけるという効果を基礎にした定式化とこの探求はオーバーラップしていることなることは注目に値する。

Precise specification of what a restraint must be ancillary to thus becomes critical for actually assigning meaning to the doctrine.

どのような競争制限が補助的であるべきかを詳細に特定していけば、この原理に現実的な意義を認めることに疑問をていしなくてはならなくなる。

The second key question -- asking what is a sufficient connection to render a restraint ancillary -- usually is answered either (i) by a requirement that the restraint be related to the underlying object to which it must be ancillary or (ii) by a requirement that the restraint in some sense be necessary for attaining the underlying object.

競争制限を補助的にするのにじゅうぶんなつながりとは何なのかという第二の鍵となる質問に対する答えとしては、普通(@)競争制限が下にあって補助していなくてはならない目的に関係がある必要があるとされるか(A)その競争制限がある意味では上位にある目的を達成するためには必要であることが要求される。

The two approaches are not equivalent: a restraint can be related to attaining an object even when it is not necessary, such as when a less anticompetitive alternative would achieve the same goal.

この二つのアプローチは同じものではない:それより競争制限的ではない代替手段が存在してそれによって同一の目的が達成されることが出来るような時のように、競争制限が必要ではないにもかかわらず、競争制限がある目的を達成するためには、関係があることもある。

Consequently, formulations based on necessity pose the more stringent test.

その結果、必要性に基礎を置いた定式化はもっと厳格なテストを受けなくてはならない。

We return to this issue infra in Section II.B.4.

この問題は後記II.B.4.章で再度取り上げる。

 For present purposes we merely observe that without clear specification of the degree of association required, the term "ancillary" lacks meaning, and its use invites confusion.

要求されている連関の程度の明確な特定を行わない限りにおいては、補助的の言葉は意味がなく、その言葉を使用することは混乱をもたらすことを、現在の目的のために、単純にみているだけである。

Of course, effects-based standards require resolution of much the same issue in determining when a practice is sufficiently associated with the asserted benefits.

もちろんある行為が強く主張された利益と十分に連関があると決定出来るような同様の問題の解決が効果に基礎を置いた基準によっても要求される。

However, effects-based standards at least ensure that inquiry is focused on the connection between a restraint and its asserted benefits.

しかしながら、効果に基礎を置いた基準は、競争制限とそれが生み出す利益との間の関係に少なくとも焦点を向けて探求されていることは確かである。

The potential for confusion is magnified under ancillary restraints analysis, for a restraint may be related to an integration or a lawful contract but wholly unrelated to its competitive benefits.

補助的競争制限の分析によれば、混乱を来す可能性が高いのであり、その理由は競争制限は統合や、合法的な契約と関連しているかもしれないが、競争上の利益とは全く関係がないからである。

See Section II.B.5, infra.

後記II.B.5章を参照。

b. General Principles: Quickly Eliminating Plainly Inadequate Justifications

一般原理:明白に不適切な正当化を即座に棄却する原理

The initial step under either form of analysis is intended to permit speedy per se condemnation in settings where justifications are absent or plainly inadequate.

そのどちらの種類の分析によっても、最初の段階で正当化の理由がないか、あるいは明らかに不適切であるような事件である場合には、時間を節約した当然に違法の判断による有罪判断が許されると結論することが出来る。

There is clear consensus that when conduct of a type normally thought sufficiently anticompetitive to warrant per se condemnation stands alone, with no arguable justification, the conduct should be condemned summarily.(71)

当然に違法の有罪判断だけが成り立つような競争制限の性格がじゅうぶんに存在する様な一般的な種類の行為である時には、正当化の議論を省き、その行為は略式に有罪判断が下されることについては合意が成立していることは明らかである。

The issue is more difficult when some justification is offered.

この問題は何らかの正当化が提出された時には、更に難しくなる。

Modern trends suggest that it is appropriate to look at justifications,(72) but there is danger that opening one's eyes may open a door.

正当化に目を向けることは適切であるが、目を向けることと、それを許すこととは違うのであり、危険であると指摘している。

As Judge Posner has observed, "The per se rule would collapse if every claim of economies from restricting competition, however implausible, could be used to move a horizontal agreement not to compete from the per se to the Rule of Reason category."(73)

ポズナー判事が指摘するとおりに「競争を制限しようという水平的な合意を当然に違法の原理から、理由の原理に変換するためにもっともらしい理由付けが使用されることが可能になるならば、たとえどんなにもっともらしい理由であっても、競争の制限から経済を守ろうとするすべての訴訟に使用出来ることになり、当然違法の原理は崩壊してしまうことになる。」

Courts and commentators have suggested mechanisms for summarily weeding out plainly inadequate justifications.

裁判所と学説は、略式判決が不適切な正当化を除去する制度であるとして単純明解に提言している。

Professor Areeda's analysis contemplates elimination of some justifications on argument alone.

アリーダ教授の分析によれば、議論において何らかの正当化の議論をなくすことについてだけが熟慮されている。

It provides for a "quick look" to determine whether defendants' claims are "legitimate in principle and capable of being proved satisfactorily," while still summarily rejecting justifications of types previously found wanting and claimed defenses "close enough to those previously excluded."(74)

その理論によれば、ところが略式に以前欠けていると判断された種類の正当化を棄却し、主張された防御が「そのような以前に棄却された主張とほぼ全く同じである」としても、更に被告の主張が「原理において合法であり、満足に証明されることが出来るのか」どうかを「即決の審理」によって決定すべきであるとしている。

Others would permit a cursory look at factual content -- just enough to determine that a practice, while perhaps not naked, is clothed with only a "gauzy cloak."(75)

他のものは、訴訟手続はおそらくは裸ではないが「薄いマント」だけを着ているだけぐらいであり、じゅうぶんではなく、事実の内容にはざーっと目を通すことになるだろう。

Similarly, the enforcement agencies repeatedly have stated that they will apply per se treatment to joint ventures that actually are nothing more than shams,(76)and the Seventh Circuit has been willing to preliminarily find per se illegality after a "quick look" at the facts, "without undertaking the kind of searching inquiry that would make the case a Rule of Reason case in fact if not in name . . . ."(77)

同様に現実にはごまかし以上ではない共同事業に対して、当然に違法の判断を適用することになるであろうと捜査当局は繰り返し言ってきた、したがって第7巡回裁判所は、「名目的にではなく、・・・事実上理由の原則で事件を取り扱うようにするであろう審理を行うことになるような審理にいたることなく」事実を「即決で見て」から当然に違法の略式判断をすることに異議はなかった、

The case law provides little guidance for "quick-look per se" identification of shams, but the issue may be approached from the other side by considering how courts have described benefits sufficient to confer rule-of-reason status.

にせものの「即決で見た当然に違法」の認定に対するガイダンスを判例法はほとんど示して来なかったのであり、理由の原理の立場を参照するにじゅうぶんな利益についてどの程度裁判所は言及して来たかを考慮すれば、この問題は他の側からアプローチすることも可能であろう。

2. Application of "Effects-Based" Analysis

「効果に基礎を置いた」分析の適用

Unfortunately, the Supreme Court has offered little guidance for applying effects-based standards to cases of moderate efficiencies.

最高裁判所は効率性を加減する事件において効果に基礎を置いた基準を適用するに当たってのガイドをほとんど示してこなかったことは残念である。

Rather, it has focused on the end of the spectrum opposite from sham justifications, addressing settings where the challenged restraints offer very great efficiencies.

 むしろ提訴されている競争制限の行為が非常に大きな効率性を提供しているような状況を処理することによって、ごまかしの正当化とは正反対の領域の目的に焦点を当ててきた。

In rejecting per se analysis under these circumstances,the Court has explained that the challenged restraints may permit competitors to offer through collaboration a different product than what they can provide independently.

このような状況の下で当然に違法の分析を排除する場合には、提訴された競争制限によって、個人個人で供給することが出来るもの以上の違った製品を合作にすることによって供給することを、競争者達に許されるかについて裁判所は説明している。

Thus, in BMI, the Court discussed the advantages of blanket licenses for musical compositions in the following terms:

裁判所はBMI事件ではこの分析によって、音楽の作曲における包括許可の利点を次の様な言葉で、論じている:

This substantial lowering of costs, which is of course potentially beneficial to both sellers and buyers, differentiates the blanket license from individual use licenses.

本質的に費用を下げているのであるから、もちろん販売業者にも、購買者にも利益を与える可能性はあるが、包括許可は個人の許可による使用とは異なるものである。

The blanket license is composed of the individual compositions plus the aggregating service.

包括許可は個人個人の作曲家たちに加えて総合計されたサービスの両方から成り立っている。

Here, the whole is truly greater than the sum of its parts; it is, to some extent, a different product.

ここでは、全体の製品はその部分部分の合計よりも本当に大きくなっているのであり、それは、ある限度において違った製品である。

The blanket license has certain unique characteristics: It allows the licensee immediate use of covered compositions, without the delay of prior individual negotiations, and great flexibility in the choice of musical material.

包括許可はある種の特殊な性格を持っている、つまり包括許可は保護された作曲された曲を即座に使用する免許を前もって個人個人と交渉していくことなしに、遅れることなしに、与えたことになるので音楽著作物の選択において非常に柔軟性が確保される

Many consumers clearly prefer the characteristics and cost advantages of this marketable package . . . .

多くの消費者はこの市場製品の特徴と、費用の優位性・・・を明らかに好んでいる。

Thus, to the extent the blanket license is a different product, ASCAP is not really a joint sales agency offering the individual goods of many sellers, but is a separate seller offering its blanket license,of which the individual compositions are raw material.

従って、包括許可が違った製品であるというその程度において、現実にはASCAPは多くの販売業者が販売している個人個人の製品への申込と共同の購入業者ではないのであって、そういうよりもASCAPは包括許可を提供している分離された別個の販売業者であり、その個人個人の作曲家たちは原材料でしかないのである。

ASCAP, in short, made a market in which individual composers are inherently unable to compete fully effectively.

簡潔に言えば、ASCAPは個々の作曲家達が所在する一つの市場において、完全に効率的に競争することを本質的に不可能にしている。

BMI, 441 U.S. at 21-23 (footnotes omitted).

BM I 事件 441 U.S. at 21-23 (注は省略)

It is not clear, however, whether the "different product" concept entails anything more than a very great efficiency.

しかしながら、「違った製品」の概念が非常に大きな効率性以上のものを必然的にもたらすかどうかは明確ではない。

The Supreme Court relied on two factors.

最高裁判所は二つの要素によっている。

First, it emphasized the "substantial lowering of costs" and observed that individual composers are unable to compete with the blanket license "fully effectively."

第一に、「本質的に費用を軽減していること」また個人個人の作曲家たちが包括許可によって「完全には競争的に」競争が出来なくなっていることを認めている。

These considerations emphasize the efficiency of the arrangement.

これらの考察は協定の効率性を強調している。

Second, the Court stressed that a blanket license aggregates individual compositions, resulting in a "whole . . . truly greater than the sum of its parts."

第二には、裁判所は包括許可が個人個人の作曲家たちの総計であり、その結果「全体は・・・真実としてその部分部分の合計よりも大きくなっている」ことを強調している。

Yet when the Court attempted to be more specific -- by observing that this greater "whole" permitted immediate use and great flexibility -- it also explained that the blanket license eliminated any need for "prior individual negotiations," which together, albeit much less efficiently, could have assembled the same package of rights.

しかし裁判所が、この非常に大きな「全体」が即座の使用と、大きな伸縮性を認定することによって、もっと明確にしようとすると、「その前の交渉」の必要性を包括的許可がなくしていることをも説明している。しかしそれらは一緒にしてみれば、効率性はそれ程大きくはないが、権利の同じ一包みに集められることが可能である。

In effect, the Court may merely have been using an intuitively appealing illustration of the fact that the blanket license's cost savings were very great.(78)

効果としては、包括的許可の費用節約効果は非常に大きいという事実を、裁判所が直感的に訴えることが出来る説明として使用してきたことだけは言える。

If so, "different product" analysis provides a handy characterization for some cases offering very great benefits rather than a fully independent test.

もしそうであれば、「違った製品」という分析は完全に独立したテストというよりもむしろ大きな利益を提供している事件でありうるという簡便な特徴付けを提供している。

Nor is it particularly easy to apply, as reflected by the Court's opinion in Maricopa.

マリコパ事件における裁判所の見解に反映されている様に、この原則は特に適用が簡単という訳ではない。

That case involved agreements by competing physicians setting the maximum fees that they could claim for services provided under specified insurance plans.

その事件は、競争している医者たちが特別な保険計画の下で提供されるサービスにおいて請求出来る最高報酬価額を設定することに合意を形成した事件である。

Defendants argued that this was a new product in that it made possible complete insurance coverage -- requiring no co-payment -- for the services of a broad panel of physicians.

被告は広い範囲の医者のサービスに対して―自己負担をなしにした−完全に保険での補償を可能にした新しい製品であると論じた。

Id., 457 U.S. at 351.

前掲書、457 U.S. at 351.

The Court, however, found the situation fundamentally different from that in BMI  because the physicians, both before and after their price-fixing agreement, sold only their own medical services.

しかしながら価格固定の合意の前においても、後においても、彼ら自身の医者のサービスだけを提供したのであるから、裁判所は、BMI事件とこの事件は基本的には状況が違うと見ている。

Id. at 356.

前掲書356頁。

Yet, Justice Powell's dissent observes:

しかしポーウェル判事はこの見方には賛成しない。

the foundations provide a "different product" to precisely the same extent as did Broadcast Music's clearinghouses.

ブロードキャスト音楽社の信用交換所としての限度においてのみこの財団は「違った製品」を供給している。

The clearinghouses provided only what copyright holders offered as individual sellers -- the rights to use individual compositions.

信用交換所としての機能は個人個人の販売者として著作権の所有者が個人個人の作曲家が使用する権利のうち提供した部分についてだけ供給しているのである・・

Id. at 365 n.12.

上掲書。at 365 n.12.

Moreover, the arrangement in Maricopa, like that in BMI, offered consumers a complete range of services at a pre-arranged maximum fee.

更には、マリコパ事件においては、BMI事件におけると同様に、協定によって前もって協定された最高価格の価格によってサービスの完全な範囲が提供された。

Reading BMI and Maricopa together, it is difficult to extract coherent standards for applying the "different product" construct.

BMI事件とマリコパの両事件の判決を読んでみても、「違った製品」という概念構成を適用するための一貫した基準を抽出することは難しい。

A different path into this thicket derives from the Supreme Court's analysis in NCAA of a set of restrictions fixing the number and, effectively, the price, of college football telecasts.

この藪の中へ入る別の道は、大学フットボールのテレビ放送権の数量と、価格を効率的に一連の競争制限についてのNCAA事件における最高裁判所の分析から導き出すことが出来る。

The Court rejected application of the per se rule on grounds that the case "involves an industry in which horizontal restraints on competition are essential if the product is to be available at all."

裁判所が当然に違法の原理の適用を排除した理由はこの事件が「その製品を何らかの利用可能な状態にするためには水平的な競争制限が本質的であるような業界を」含んでいるからである。

Id., 468 U.S. at 101.

上掲書。468頁 U.S. at 101.

Although that rationale clearly rests on the presence of a distinct, jointly-offered product, the formulation adds little to the mix.

この論理的根拠は明らかに顕著で、共同で申込があった製品の存在にかかっているのであって、混在している場合にはこの定式化はほとんど役に立たない。

To the extent that a practice is necessary for the product to be available at all,(79) it would qualify for rule of reason treatment under virtually any test of competitive benefits.(80)

製品を少なくとも利用可能にするためにはある行為が必要であるその程度まで、競争による利益の実質的な何らかのテスト下での理由の原理の取扱に服すると判断される。

Again, guidance comes at the end of spectrum where competitive benefits are very clear.

もう一度強調すれば、競争上の利益が非常に明白な場合である範疇の最端においてのガイダンスが得られる。

3. Application of Ancillary Restraints Analysis: To What Must the Conduct Be Ancillary?

補助的な制限の分析の適用:ある行為が補助的であるのは何に対してか。

In contrast, ancillary restraints analysis provides guidance even when competitive benefits are less overwhelming.

以上と対照的に、補助的な制限の分析によれば競争上の利益がそれ程絶大ではない時でさえもガイダンスを与えることが出来る。

As already noted, it has been formulated in diverse ways, but most reduce to asking whether the challenged conduct is suitably connected either to (i) an integration (often, an "efficiency-enhancing integration") or (ii) to a lawful purpose, viz., to achieving an efficiency.

すでに指摘したように、それは全く逆の方法で定式化されてきたが、(@)統合性(しばしば、「効率性を向上させる統合性」である)あるいは(A)合法的な目的、言い換えると、効率性を達成することのどちらかに適切に関係があるかどうかの分析に変形されることが多い。

"Integration" is a term often used, but rarely defined.(81)

「統合」という熟語がしばしば使われるが、ほとんど定義されることは少ない。

Typically it has been applied in three general senses.

この言葉は典型的には三つの一般的な意味で使われてきた。

Sometimes usage has focused on a combination of productive assets.

製品の価値の結合に焦点を当ててこの言葉は使用されることがある。

For example, one analyst speaks in terms of the "integration of resources" that follows when collaborating firms "contribute assets such as capital, technology, or production facilities to a common endeavor."(82)

例えば、協力した企業群が「資本や、技術や、製品の必須施設を共同の努力で助長する」時に「資源群の統合」があるという熟語を使って論じている学説もある。

Other times the emphasis has centered on a coordination of functions and operations without necessarily combining assets.(83)

必ずしも資産が結合されることなく、諸機能や、諸活動が一つに連携されていることを強調し、それを中心に論じている場合がある。

Such arrangements sometimes are referred to as "contract integration."(84)

そのような協定は「契約の統合」として言及されていることがある。

On still other occasions, particularly in the context of physician networks, the inquiry has centered on shared financial risk.

 もう一つの場合においては、特に医者のネットワークの文脈の中においては、金銭的な危険を分散するということに中心に分析されている。

For instance, the Court's opinion in Maricopa viewed physicians in an HMO as "functionally integrated" in light of their sharing of economic risk as to the amount of medical treatment that the subscribers might need.(85)

Why has integration played such a critical role?

何故に統合がそんなに決定的に重要な役割を演じているのか。

After all, it is not an end in itself.

結局、統合はそれ自体が一つの目的ではない。

Rather, it appears primarily useful as an indicator or proxy for efficiencies.(86)

そうではなくて、効率性のための指標あるいは代替物として役に立つように最初はみえるだけである。

From the opposite perspective, it might also be viewed as an indicator that the arrangement is more than a sham something has happened beyond merely jointly setting prices, so that a more intensive look may be required to sort things out.(87)

また、反対側の視点から見れば、協定はにせもの以上の指標であるとして見られるかもしれない、つまり共同で価格を設定すること以上の何かが起こったのである、従って、ものごとを解決するためにはもっと集中的に観察する必要があるかもしれない。

If integration is indeed a proxy for efficiencies, its utility would seem to depend on (i) its accuracy as a proxy and (ii) any advantages it may afford with respect to ease of application.

確かにもし統合が効率性の代替物であれば、その有用性は(@)代替物としてのその正確さ(A)適用を容易にする可能性があり、その利点があるかどうかにかかっている。

Taking the latter point first, integration often will be readily apparent, such as when assets are combined or financial risk is shared.

後者の点を先に取り上げれば、資産が結合されたり、金銭的危険性が共有されたりしている時の場合には、統合が一見してすぐに明らかであろう。

A clear, quickly applied test of this nature may be well-suited to the per se/rule-of-reason determination, where the inquiry is not whether efficiencies will occur, but rather whether they are sufficiently likely to warrant a closer look.

この性質が明白に、即座の審査を行うことは、当然に違法か、理由の原則かの決定に容易に適用出来るかもしれない。その場合には効率性が発生しているかどうかの審査ではなく、むしろもっと詳細な審査が正当化される性質をじゅうぶんに持っているかどうかの審査である。

Application becomes more uncertain and difficult when "integration" is taken to include coordination of functions and operations, particularly under the broadest formulations such as the productive cooperation relied upon by Judge Easterbrook in Polk Bros.

ポークブロスPolk Bros事件におけるイースターブルック判事に信頼されたような製造協力のように特にもっとも広い意味を持った定式化によれば、「統合」が機能と活動の協力を含んでいるととらえられる場合に当たり、この定式化を適用するのはもっとより不確実で難しいものになる。

The often-used formulation "efficiency-enhancing integrations" appears to forfeit much of the advantage in terms of ease of application over an efficiencies-based standard.

「効率性を高める統合」というしばしば使用される定式化は、効率性基準の適用の簡便さという観点から見れば、多くの利点を喪失しているように見える。

As to accuracy, one key concern is likely to be that some efficiencies may be realized without integration, so that an integration-based standard might allow per se of beneficial conduct.(88)

正確さについては、一つの懸念は、統合なくしては実現出来ない効率性がありうるので、統合に基礎を置いた基準は利益のある行為に当然に違法の有罪判断が許されるかもしれないという要点が考えられる。

Efficiencies derived from combining complementary assets, shifting production among separately owned facilities, sharing risk, and facilitating the raising of capital would all seem to entail combinations of assets or financial integration.

補助的な資産を結合することから生ずる効率性、分離して所有された施設の間で生産を移動することから生ずる効率性、危険性を共有すること、資本の値上がりを促進することから生ずる効率性はすべて資産の結合と会計的統合を伴っている。

Achieving other forms of efficiencies

他の形式の効率性を達成するために、

such as by aligning incentives 一線に並ばせる動機によって(e.g., by preventing free-riding),

(言い換えると、ただ乗りを妨害するために)

reducing transactions costs取引の費用を減らすために (such as through joint selling, as in BMI and Maricopa),(BMI事件やマリコパ事件のように、共同しての販売を通じてというような

eliminating undesirable duplication (by dropping rather than combining certain operations),

望ましくない重複を避けるため(ある種の工程を結合するのではなく、省略することにより)

or, in some instances, achieving scale economies

あるいは、何らかの例では規模の経済を達成するために

-- may entail only coordination of functions and operations.

は機能や活動の共同だけを伴うであろう。

It is not clear, however, how frequently these latter efficiencies in fact arise in isolation, without an accompanying combination of assets or financial integration.

資産の結合や、金銭的統合を伴うことなしには、後者の効率性はどんなに頻繁に単独で現れることがあったとしても、それ単独で発生することは事実上ありえないことは明白である。

On the other hand, an integration-based standard may contribute to accuracy by filtering out certain efficiencies that antitrust law typically has not recognized.

他方、統合に基礎を置いた基準は反トラスト法が典型的には認識して来なかったある種の効率性を抽出することによって正確さに貢献するであろう。

For example, price fixing saves the cost of independently determining price levels, and market allocations permit competitors to focus specialized efforts on their share of the divided market.

例えば価格固定は個々に価格レベルを決定する費用を節約でき、市場割当によれば競争業者は分割された市場のシェアー割当を特定するよう関心を集中する。

Although antitrust law has not accepted these cost savings as procompetitive, both, strictly speaking, could pass an efficiencies-based test.

反トラスト法は、これらを行うことによって費用が節約されることを競争促進的であるとは受け入れていないが、厳密に言っても、

これらは両方共に効率性に基礎を置いたテストにパスすることが出来るであろう。

However, when price fixing and market allocations are naked, they would not pass an integration-based review.

だけれども、価格固定と市場割当は裸のままであれば、統合を基礎に置いた再審査にはパスしないであろう。

In sum, it appears that the utility of integration-based standards -- from the perspectives of both accuracy and ease of applicability -- is significantly affected by the breadth of their definition.

要約して言えば、統合に基礎を置いた基準の有用性は―正確さと、適用の容易さという観点からは―それらの定義の広さによって影響を受けるということは重要である。

Some efficiencies may be captured only by a standard broad enough to cover coordination of functions and operations through "contract integrations," and this tends to complicate the standard's application.

「契約の統合」を通じて機能や活動の連携をカバーする程に広い基準を設定することによる場合にだけ、効率性はとらえることが出来る可能性がある。

In contrast, all but the broadest formulations of the "integration" touchstone appear well-designed to exclude the types of cost-savings that antitrust law generally has not recognized.

それとは全く反対に、「統合」の手本となる事態の最も広い意味の定式化によってだけ、反トラスト法が一般には認識してこなかった種類の費用の節約を排除するように適切に設計されたように見える。

4. Closeness of the Restraint to the Competitive Benefits

競争による利益のための規制であること

Under either an "effects-based" or an "ancillary restraints" analysis, there must be a sufficiently close connection between the challenged conduct and the asserted competitive benefits.

「効果に基礎を置いた」分析あるいは「補助的規制」の分析のどちらによっても、提訴されている行為と、主張されている競争上の利益との間には密接な関係が十分に存在しなければならない。

Courts and analysts sometimes ask, on the one hand, whether the suspect conduct "relates to" or "contributes to" a benefit, or, on the other hand, whether the conduct is "reasonably necessary" or "necessary" for achieving the benefit.

裁判所も学説も、一方では疑われている行為が利益と「関連があり」あるいは利益に「貢献している」かどうかを審理している場合が多い。また他方ではある行為が利益を上げるために「必要な理由があるか」あるいは「必要であるか」どうかを審理している。

These articulations require varying degrees of rigor.

これらの定式化は正確さは様々な程度が要求される。

A "relationship" test might be satisfied even by a tangential connection.

「関係」のテストは、関係がほとんどない場合でさえも満たされる場合がある。

For example, an unabashed advocate might see a relationship between a research joint venture among automobile manufacturers to develop improved hubcaps and an agreement allocating markets for their automobiles, thereby better aligning the incentives of the joint venturers.

例えば、ホイールキャップを改善し、産業を発展させるために、自動車製造業者の間で共同事業を探求することと、自動車の市場において市場割当の合意を行うことの間に、関係を手放しの賛成者はみつけるのであり、共同の事業を行う動機が調和されていることはよいことであるとするであろう。

Clearly, however, that relationship is extremely tenuous.

しかしながら、その関係は非常に薄いことは明白である。

Requiring that the challenged conduct "contribute to" producing an efficiency would seem to suggest need for a more functionally meaningful connection.

提訴されている行為が効率性を達成することに「貢献して」いることを要求することはもっとより機能的な意味のある関係を必要性を提案しているように思われる。

Maricopa, for instance, involved a restraint that related and contributed to a competitive benefit, in that the maximum fee schedule agreed to by physicians permitted a binding assurance of complete insurance coverage for a specified premium.

マリコパ事件は競争上の利益に関係し、貢献している競争制限を含んでいたが、その事件では特別な保険料によって完全な保険でカバーする合同での保険が医者によって許されているような最高価格の料金が合意されていた。

Historically, however, "contribute to" sometimes has been treated as equivalent to "relate to."(89)

だが歴史的には、「貢献している」ことは「関係がある」として取り扱われてきたことが多かった。

"Necessity" clearly requires something more.

「必要性」とは明らかにそれ以上を要求している。

It introduces the concept of less anticompetitive alternatives: the suspect conduct is not necessary when the same goal can be accomplished by other means.

「必要性」とはもっとより反競争的ではない代替物という概念を含んでおり、疑惑を持たれている行為が他の手段によっても同じ目的が達成されることが出来る場合には、その行為は必要ではない。

A requirement framed in terms of "reasonable necessity" might temper the "necessity" inquiry.

「理由が是認されるほどに必要がある」という言葉を構成する場合には、その要請は「必要性」の審理ということに和らげることが出来る。

The Supreme Court has tended to speak in terms of necessity, without expressly explaining its rationale for that choice.

最高裁判所はその競争制限を選ぶための理由を説明して表現することをしないで、必要性という熟語を使う傾向があった。

Thus, the Court concluded in Maricopa that the maximum price fixing by physicians was unnecessary for achieving the asserted benefits:

裁判所はマリコパ事件において、医者による最高報酬の固定は主張されている利益の達成のためには必要ではないと結論付けている。

Even if a fee schedule is therefore desirable, it is not necessary that the doctors do the price fixing. . . . [I]nsurers are capable not only of fixing maximum reimbursable prices but also of obtaining binding agreements with providers guaranteeing the insured full reimbursement of a participating provider's fee. . . . [N]othing in the record even arguably supports the conclusion that this type of insurance program could not function if the fee schedules were set in a different way.(90)

たとえもし報酬の計画がそのような理由で望ましいものであったとしても、それは必ずしも医者が価格固定を行う必要があるとはいえない・・・。保険者は最大の回収可能な価格に固定することが可能であるばかりではなく、供給に参加している企業の費用を回収をじゅうぶんに行うことが保険されることが保証されるという供給者との拘束力のある契約に合意をえることもまた可能である。・・・・本件記録を見る限りでは料金の計画がもし間違った方向に向かうならば、このような種類の保険の計画は機能しなくなるという結論を支持できないという議論になる。

BMI also looked to "necessity," with the Court determining that a blanket license was "an obvious necessity"if thousands of individual negotiations were to be avoided and that "a bulk license of some type is a necessary consequence of the integration necessary to achieve these efficiencies, and a necessary consequence of an aggregate license is that its price must be established."(91)

また、もし何千という個人個人との交渉が省略することが出来、「ある種の膨大な許可にはこれらの効率性を確保するためには統一が必要であることが、必要性から来る帰結であるのであるからその結果許可を統一することが必要性からくる帰結であるということはその価格が決定されなくてはならない」ということになるのであるならばとしてBMI事件では裁判所は包括許可は「明白な必要性」があるとして「必要性」に言及している

NCAA also employed "necessity" language in rejecting per se treatment

for "an industry in which horizontal restraints on competition are essential if the product is to be available at all," but did not actually use a "necessity" test.(92)

またNCAA事件では当然に違法の取扱を否定するために「もしもその製品が少しでも利用可能であるのならば、水平的な競争制限が品質的である一つの産業」のために「必要性」という言語を採用したが、しかし現実には「必要性」の検証を使用していない。

Lower court treatment has been mixed.

下級裁判所の取扱は混合したものであった。

Addyston Pipe, the seminal opinion on the topic, employed a necessity standard.

アディストンパイプ事件は、この問題についての影響力のある意見では、必要性の基準を採用した。

It observed that at common law, restraints of trade were void unless "merely ancillary to the main purpose of a lawful contract, and necessary to protect the covenantee in the enjoyment of the legitimate fruits of the contract, or to protect him from the dangers of an unjust use of those fruits by the other party."(93)

コモンローにおいては、「合法的な契約の主たる目的に補助となる場合にだけ、また契約の合法的な果実を享受する時に被契約者を守る必要がある場合、また他の当事者によってそれらの果実を不正に使用されることから被契約者を守る必要がある場合にだけ、」取引の制限は無効であった。

Judge Taft explained, "Before such agreements are upheld . . . the court must find that the restraints attempted thereby are reasonably necessary" to legitimate ends and concluded that "if the restraint exceeds the necessity presented by the main purpose of the contract, it is void . . . ."(94)

タフト判事は「そのような合意が支持される前に・・・そこで企画された競争制限が(合法的な目的に)必要なのは合理的であるか、裁判所は判断しなければならない。」と説明して、「契約の主要な目的に表現された必要性を越えた制限であるならば、それは無効である・・・。」と結論付けた。

In contrast, the D.C. Circuit's Rothery opinion reformulated Addyston Pipe as requiring that "the restraint imposed must be related to the efficiency sought to be achieved" and as supporting rule-of-reason treatment when a restraint "is part of an integration of the economic activities of the parties and appears capable of enhancing the group's efficiency."(95)

これとは対照的にアディストンパイプ事件においてロスリー地方裁判所巡回判事が再定式化した意見では、「設定された競争制限は達成されるべき効率性と関連していなければならない」また競争制限が「当事者の経済活動の統一体の部分であり、団体の効率性を高めることが出来るようにみえる」場合にはその競争制限を理由の原理によって判断することを支持した。

This largely converts Addyston Pipe's "necessity" standard into a test that looks to whether the suspect conduct is "related to" or "contributes to" the claimed benefits.(96)

アディストンパイプ事件におけるそれまでを変更したこの「必要性」の基準は疑われている行為が主張されている利益と「関係がある」か、「貢献している」かどうかを見るテストに変更された。

Other appellate decisions apply a mixture of necessity and relationship/contribution standards.(97)

他の控訴審の決定は、必要性と、関係性・貢献度とを混合した基準を適用した。

The polar formulations -- "necessity" versus mere "relationship" -- pose well-defined, but difficult, policy choices.

「必要性」対単なる「関係」の正反対の定式化は、よい定義であるが、難しい政策の選択を提示した。 

The more stringent "necessity" standard subjects more cases to summary condemnation under the per se standard, and fewer cases to the more searching inquiry of the rule of reason.

もっと厳しい「必要性」の基準によれば、もっと多くの事件が当然に違法の基準の下における略式の違法の判断へと導かれる、ほとんどどのような事件も理由の原理の審理で調べられることはなくなる。

For example, Topco's per se condemnation of a restraint preventing the sale of Topco-brand products outside designated territories has often been questioned for failing to give recognition to potential benefits in developing private labels needed for interbrand competition with larger chains.(98)

トプコ事件においては、例えば、トプコブランドの製品の販売を指定された地域以外では妨害する競争制限に対しての当然に違法の判断は、しばしばより大きなチェーンとのブランド間の競争に必要とされている私的なラベルの展開に潜在的な利益を認識していないとしてしばしば疑問視されてきた。

Some commentators have suggested, however, that even given these efficiencies, per se treatment would still have been justified under a necessity standard on grounds that the benefits could have been achieved in less anticompetitive ways, such as through primary responsibility arrangements.(99)

しかし、例えこのような効率性が与えられているとしても、なお当然に違法の判断は必要な基準が満たされれば、正当化されるべきであった。なぜなら、原始的な責任の協定などを通じて、もっと競争制限的ではない方法で利益は達成できたはずであるからである。

We return to these issues infra in Section IV.B.2.

以下IV.B.2.章においてこれらの問題を再検討する。

5. Connection of the Restraint to the Joint Venture or to the Competitive Benefits

  競争制限の共同の事業との関連、あるいは、競争制限の競争による利益との関連

The elements explored individually above frame a core issue in joint venture analysis: is it sufficient to avoid per se prohibitions that a restraint be part of a legitimate, efficiency-enhancing joint venture, or must the restraint be suitably connected to the joint venture's competitive benefits?

共同の事業の分析において、ある競争制限が合法的で、効率性を上昇させる共同の事業であるので、当然に違法の違反の適用から外すのにじゅうぶんであるのか、あるいは、その競争制限が共同の事業の競争上の利益に関係があることが適切であるべきかなどが、上記の構造を中心問題として個別的に検討された。

The Supreme Court has suggested two different answers.

最高裁判所は二つの相違する答えを用意した。

On one hand, NCAA rejected per se treatment not because the telecast restraints generated competitive benefits, but rather because they were connected to an essential joint venture.

一方ではNCAA事件ではテレビ放送の競争制限が競争上の利益をもたらしたからという理由からではなくて、むしろ本質的に共同での事業と関連しているからという理由から当然に違法の判断を否定したのである。

Explaining its ruling, the Court stated, "[W]hat is critical is that this case involves an industry in which horizontal restraints on competition are essential if the product is to be available at all."

その判決を説明して、裁判所は「決定的に重要な意味を持つのは、製品を利用できるようにするためには、水平的競争制限が本質的であるような産業をこの事件は取り扱っているということである。」と述べる。

468 U.S. at 101.

468頁U.S. at 101.

According to the Court, the NCAA imposed essential restraints by setting rules of athletic competition and standards for preserving the amateur character of college football.(100)

裁判所によれば、NCAAは体育の競争のルールを決め、大学のフットボールのアマチュア的な性格を保護する基準をつくることにより、実質的に競争制限を行った。

However, a determination that some restraints on competition are essential for the product to be available at all is not the same as a determination that these restraints on competition were essential.

しかし競争の何らかの制限が製品の利用にとっては必須であるという判断と、競争の制限が必須であるとの判断とは同じではない。

Rules fixing the output and price of college football telecasts were neither necessary for nor related to achieving the cited benefits.(101)

 生産量と大学のフットボールのテレビ放送の価格を固定するという規則の制定はこれまで述べた利益を達成することのために必要でもないし、関連もしていない。

In essence the NCAA opinion rejected per se status when a restraint was related to the joint venture and the joint venture was essential for a competitive benefit, notwithstanding that the restraint was unrelated to the benefit.

本質的にはNCAAの意見は当然に違法の立場ではないが、競争制限が共同の事業に関係し、共同の事業がその競争制限が利益と関連性がないにもかかわらず、競争による利益が本質的であるとした。

The analysis would not have satisfied an effects-based test or an ancillary restraints test framed in terms of relationship to or necessity for achieving an efficiency.

この分析は効果に基礎を置いた審理を満足させているのでもないし、効率性を達成することに関係しているという条件か、あるいは、効率性を達成するために必要であるという条件から構成されている補助的規制の審理を満足させている訳ではない。

Only an ancillary restraints test requiring that restraints be related to an efficiency-enhancing integration might have been satisfied.(102)

競争制限が効率性を高めるという統合性と関連があるかを審理するという競争制限の補助性の審理によってのみ満足がいくものになるであろう。

On the other hand, the Court in Northwest Wholesale Stationers ruled that the likely efficiencies of the wholesale purchasing cooperative were not dispositive and cast its analysis instead in terms of the likely effects of the specific restraint at issue:

それとは逆に卸売の購買協同組合の効率性の可能性は、任意的な方針決定ではなくて、逆に問題となっている特別な競争制限の予測される効果の分析に待たねばならないとしている:

[Plaintiff] Pacific, of course, does not object to the existence of the cooperative arrangement, but rather raises an antitrust challenge to Northwest's decision to bar Pacific from continued membership. It is therefore the action of expulsion that must be evaluated to determine whether per se treatment is appropriate.(103)

もちろん、原告パシフィックは、協同組合の協定の存在に反対しているのではなくて、パシフィックが会員権を維持することを否定するノースウエストの決定に反トラスト法による提訴しただけである。したがって、この排除の行為が適切であるのか、当然に違法な行為であるのどうか判断することだけが価値判断されなくてはならない。

Similarly, BMI was careful to connect the price restraint to its efficiencies: "a bulk license of some type is a necessary consequence of the integration necessary to achieve these efficiencies, and a necessary consequence of an aggregate license is that its price must be established."(104)

同様にして、BMI事件では価格の制限と、その効率性を注意深く結びつけている:「これらの効率性及びを達成するためにはこの種の巨大な許可は必要であり、統合は必要性から来る必然の帰結である、したがって統合された許可という必要な結果は、その結果その価格が設定されなくてはならないということになる」

Some commentators endorse this latter approach and have criticized NCAA.

評釈者にはこの後者の接近法を支持し、NCAA判決を批判するものもある。

They argue that the lack of connection between the output/price restraints and the specified justifications should have resulted in application of the per se rule.(105)

生産量と価格の制限と、そして競争制限の個別個別の正当化とがつながっていないので当然に違法の原理を適用する結果にいたるべきであったと論じている。

The criticism has some merit: according rule of reason treatment to every restraint associated with a legitimate joint venture could cut a broad swath through the per se rule's coverage and open the door wide for abuses.

批判はある種のメリットがある:合法的な共同の事業と関係があるすべての競争制限を理由原則による判断によることを許容することは、当然に違法の原理のカバーするところをメチャメチャに壊す可能性があり、そのことによって不正使用に広くドアを開け放す可能性がある。

Assuming that the per se rule rests on valid "generalizations" about the social utility of certain types of conduct,(106) departing from those generalizations without inquiring whether a restraint yields any benefit may detract from the rule's effectiveness.

当然違法の原則とはある種のタイプの行為の社会的な効用についての「一般化」が価値があるかどうかにかかっていると推測するならば、ある制限が何らかの利益を生み出すかどうかについて調査することなしに、そのような一般化を行うことから離れれば、その原則の効果を損なわれる。

In any case, the alternatives may not be as disparate as they appear.

とにもかくにも、それぞれの選択肢は一見したほどには本質的に異なっていないかもしれない。

Although the Supreme Court in NCAA rejected per se treatment, it did not then subject the matter to full rule-of-reason review.

NCAA事件においては、最高裁判所は当然違法の取扱をしなかったけれども、それだからといって完全な合理性の基準に委ねた訳ではない。

別注:差止の性格について、学者間に違いがあるので、アメリカの場合を更に引用する。

129ページの命令的差止の前は次のような文章である。

United States v. W.T. Grant Co., 345 U.S. 629, 633 (1953). Where a violation has been founded on systematic wrongdoing, rather than on isolated occurrence or event, the Seventh Circuit has observed that a court should be more inclined to issue an injunction.違反が単に一回だけの発生であったり、事件であったりすのではなく、組織的な違反行為を行っている時、第7回巡回裁判所は裁判所は差止を行う傾向があるべきであると見てきた。 Commodity Futures, 591 F2d at 1220.コモディティー・フューチャーズ事件, 591 F2d at 1220. Relief is appropriate against a defendant which retains a financial interest in continuing antitrust violations and/or a position in the market which could enable it to carry out such anticompetitive activity. 競争制限的な違反を継続している時の金銭的な面での利益及び(あるいは)そのような競争制限的な行為を遂行することを可能にするような市場における地位を被告をそのままにしておくのをやめさせるのが正当である時に救済が行われる。Commodity Futures indicates that the defendant's acceptance of blame for its conduct is a factor tending to diminish the necessity of injunctive relief. コモディティー・フューチャーズ事件によれば、違反の行為に対して被告が責任を認めたことによって差止の救済の必要性が減少したその傾向の一つの要因になっていることがわかる。Conversely, lack of contrition would also have some relevance. これとは全く逆に改悛していないことというのもまた関連性を持っているだろう。The plaintiffs urge that a court, once it has found a violation of the antitrust laws, has "the duty to compel action by the conspirators that will, so for as practicable, cure the ill effects of the illegal conduct, and assure the public freedom from its continuance." 原告の主張によれば、反トラスト法の違反がひとたび発見された場合には、裁判所は「実際に実行可能な範囲で、共謀者たちによる行為に対して強制を行い、違反行為による悪影響を取り除く義務があり、違反の継続から公衆の自由を守る義務がある」と主張している。United States v. United States Gypsum Co., 340 U.S. 76, 88 (1950). While this is the only case I have found which states that such an injunction is mandatory, there is no question that a court may consider lingering efforts as a factor. As the Supreme Court stated in International Salt Co. v. United States, 332 U.S. 392, 400-01 (1947):

給付判決 [きゅうふはんけつ] /judgment ordering a performance/の概念

差止める [さしとめる] /enjoin/prohibit/forbid/ban/

差止命令 [さしとめめいれい] /injunction/cease and desist order (Anti-Monopoly Law)/

ドイツ法では、prohibit禁止と、injunction差止は別の概念であり、

32条は、カルテル庁は行為を禁止することができる(The cartel authority may prohibit conduct)

33条は、私人が他人に行為をしないように義務付けること(shall be obliged vis-a-vis the other to refrain from such conduct)が差止であると

知的所有権においては

Right to request exclusion and remedy for infringement

違反に対して排除や、救済を要求する権利

wherever and to the extent deemed practical in light of the nature of such rights

そのような権利の性格に照らして現実性があると考えられる場合と、その程度に

の文言が見られる。

to very carefully read the current AMA Judicial Council Opinions to realize that there has been a change in the treatment of chiropractors and the court cannot assume that members of the AMA pore over these opinions*, and finally, the systematic, long-term wrongdoing and the long-term intent to destroy a licensed profession suggests that an injunction is appropriate in this case. When all of these factors are considered in the context of this "private attorney general" antitrust suit, a proper exercise of the court's discretion permits, and in my judgment requires, an injunction. (Opinion pp. 11). Evidence in the case demonstrated that the AMA knew of scientific studies implying that chiropractic care was twice as effective cis medical care in relieving many painful conditions of the neck and back as well as related musculoskeletal problems. The court concluded: There also was some evidence before the Committee that chiropractic was effective - more effective than the medical profession in treating certain kinds of problems such as workmen's back injuries.

訴えの利益については

原告が被告に対して一定の行為の差止を請求する訴訟において、その行為の差止が原告に利益をもたらすものであれば、訴えの利益が原則として肯定される。

次のような事例がある。

第6章78 侵害者に対する民事上の救済とは(1)差止請求権とは

 「書籍の本文において、著作権者には、いまだ侵害行為が開始されていない場合にも、事前にすでに着手された準備行為を停止し、準備行為で用意された機器などを廃棄するよう請求する「侵害予防請求権」が与えられている、という説明を行いました。

 ところで、さらに一歩進んで、いまだ著作物が完成していない段階で、将来完成する著作物に対して発生するであろう著作権侵害行為に対し、これを差止める権利というものが認められるのでしょうか。「侵害予防請求権」というものは、あくまでもすでに存在している著作物に対して、侵害行為はまだ存在していないものの、その準備行為が開始された場合に、事前にその準備段階でその準備行為を差止るというものであり、いまだ存在していない著作物に対する保護というものを考えて規定されているものではありません。

 しかし、裁判所は、こうした「将来の著作物に対する侵害行為差止請求権」という権利を認めています。これをちょっと紹介しておきましょう。」

 これによれば、地価公示、地価調査の割当を行い、将来固定資産税の標準宅地の鑑定評価を受注しようと準備する行為は、独占禁止法違反による侵害準備行為に当たるか。

 「すでに第2章27でウォール・ストリート事件という事件を説明しましたが、ここでは、ダウ・ジョーンズ社(DJ)は、同社が将来発行するThe Wall Street Journal(WSJ)についてもノウハウ・ジャパン社(KJ)が編集著作権を侵害する可能性が高いとして、DJが将来発行するWSJ(いまだ著作物として存在していないもの)に対して編集著作権を侵害しないように命令するよう裁判所に求めました。

 その理由は、次の通りです。

 将来発行されるであろうWSJについてもKJにより同様の侵害行為がなされる蓋然性は極めて高く、この侵害行為に対する差止めが認められないとDJは既に発行された分についてのみ日々差止請求訴訟を提起せざるを得ないという不合理な事態に陥るから、将来成立する高度の蓋然性を有する著作権に基づいて、これに対する将来の侵害行為の差止めが認められる必要がある。

 これに対して、DJは、以下のように反論しました。

 これは人間精神の所産である著作物を現に生み出したことにより、これに対する報償として与えられる著作権を、未だ生み出されていない段階で認めるものであり、著作権法の基本を覆すものである。著作物の存在しない、その内容さえわからない段階で著作物としての保護が与えられる等、著作権法上考えられないことである。小説のような著作物の内容が作者の頭の中にあるだけでは保護の対象とならないことはいうまでもないが、まして本件の場合には、将来の新聞の紙面がどのようなものになるかは誰にも将来発行しようとする者にも、分からないのであり、いわば作者の頭の中にすら著作物の内容が存在しないのであるから、将来発行されるWSJについての編集著作権に基づく差止請求は全く理由がないというべきである。 

 以上の当事者の主張に対して、裁判所は、以下のように判断しました。

 

 (1)  著作権法112条は、著作権を侵害するおそれがある者に対し、その侵害の予防を請求することができる旨規定しているから、既に著作権が発生している場合は、たとえ侵害行為自体は未だなされていない段階においても、予測される侵害に対する予防を請求することができることはいうまでもない。また民事訴訟法226条は、必要性がある場合には将来の給付を求める訴えをすることができると規定しているから、日刊新聞のように、短い間隔で定期的に継続反復して発行される著作物について、これまで著作権侵害行為がその発行毎になされてきた等の事情から、将来も発行予定の著作物に対する同種侵害行為が予想され、しかも発行による著作権の発生を待っていては実質的に権利救済が図れない場合には、将来の給付請求として、著作物が発行されることを条件として、予測される侵害行為に対する予防を請求することができると解するのが相当である。

 

 (2)  編集著作物であるWSJは今後も確実に継続して発行され、したがって、DJにおいて、今後発行するWSJについて、これまでと同様の編集著作権を確実に取得するということができる。

 また、KJは、将来WSJが発行される毎に、これに依拠してこれまでと同様の文書を作成・頒布して編集著作権侵害行為を行うであろうことも確実であると認められる。

 更に、WSJは日々発行される日刊新聞であり、これに対応するKJの文書はその発行後直ちに作成され頒布されるというのであるから、DJにおいて、WSJを発行する都度、対応するKJの文書の作成・頒布の予防ないし停止を請求することは、事実上極めて困難であるといわざるをえない。したがって、WSJを現に発行するまで編集著作権に基づく予防請求をなしえないとするのはDJの編集著作権の保護に欠けるというべきである。

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第6章78 侵害者に対する民事上の救済とは(1)差止請求権とは(全文)

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著作権仮処分異議事件

東京地裁平成三年(モ)第六三一〇号

平成5年8月30日判決

判  決

アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク・リバティーストリート二〇〇 ワールド・ファイナンシャル・センター

債権者 ダウ・ジョーンズ・アンド・カンパニー・インク

右代表者 ピーター・アール・カン

右訴訟代理人弁護士 内田晴康

右訴訟復代理人弁護士 末吉亙

同 桑原聡子

東京都渋谷区神南一丁目一四番二号

債務者 株式会社ノウハウ ジャパン

右代表者代表取締役 海江田三郎

右訴訟代理人弁護士 内田実

同 椙山敬士

主  文

一  債権者と債務者間の東京地方裁判所平成二年ヨ第二五五〇号著作権仮処分事件について、当裁判所が平成三年九月二四日にした仮処分決定を、別紙(1)のとおり、変更する

二  訴訟費用は債務者の負担とする。

事  実

第一 債務者の申立ての趣旨

一  債権者と債務者間の東京地方裁判所平成二年(ヨ)第二五五〇号著作権仮処分事件について、当裁判所が平成三年九月二四日にした仮処分決定を取り消す。

二  債権者の本件仮処分申立てを却下する。

三  訴訟費用は債権者の負担とする。

第二 事案の概要

一  本件は、米国において英語の日刊新聞「THE WALL STREET JOURNAL」(債権者新聞)を発行する債権者が、日本において「全記事抄訳サービス」と称して、右新聞の記事を抄訳した文書(債務者文書)を作成・頒布する債務者に対し、債務者文書の作成・頒布は債権者の右新聞について有する編集著作権を侵害するものであるとして、その作成・頒布の差止めの仮処分を申し立てたところ、これを認容する仮処分決定(本件仮処分命令)がなされたため、その取消し等を求めた仮処分異議事件である。

二 債権者の主張

  1  債権者がこれまで発行してきた債権者新聞、及び将来発行する債権者新聞は、いずれも編集著作物である。

(一)  債権者の発行する債権者新聞は、特定の日付けの紙面全体が、素材の選択及び配列に創作性のある編集著作物である。

 債権者新聞は、世界中で生起するさまざまな出来事(素材)の中から、経済ニュースを中心に、報道する価値の認め得るものが選択され、更に内容及び重要度の分析に基づき、速報性の高い経済ニュース、速報性の低い経済ニュース、特集記事、国際ニュース、政治ニュース、レジャー関連記事、社説、投資情報、相場表などのカテゴリーに分類され、その分類に従って、紙面に割り付けがなされるから、特定の日付けの新聞紙面全体として編集著作物に該当することが明らかである。

(二)  将来発行される債権者新聞も、編集著作物となるものである。

 債権者は、一八八九年以来、組織を整備拡充し、世界的規模でニュースソースを収集しこれを的確に伝達できるための体制を構築しつつ、継続して債権者新聞を発行してきたのであり、将来もこれを継続するものである。したがって、債権者新聞が、将来においても反復継続して発行される蓋然性は極めて高い。そして、債権者が、これまで確立してきた記事の収集、選択及び配列の手法に依拠し、債権者新聞を発行する限り、素材の選択及び配列に創作性のない紙面ができることなどありえないから、将来発行される債権者新聞も全体について編集著作物性を当然有するものである。

(三)  右のとおり、債権者がこれまで発行してきた債権者新聞、また将来発行するであろう債権者新聞は、いずれも編集著作物に該当するものである。

2  これまで発行してきた、また将来発行するであろう債権者新聞の編集著作権は、債権者の発意に基づき、その従業員が職務上作成し、債権者の名義のもとに公表するものであるから、債権者に帰属するものである。

3  債務者は、債権者が編集著作権を有する債権者新聞を勝手に翻案し、その編集著作権を侵害している。

(一)  債務者は、特定の日付けの債権者新聞のほとんど全ての文章記事について、その一部又は全部を翻訳し、また要約し、これを債権者新聞の紙面における記事の割付順序とほとんど一致するように配列し、当該日付けの記事が一覧することができる債務者文書を作成している。

(二)  かかる債務者の行為は、債権者新聞の文章記事を利用して文書を作成している点において債権者新聞における素材の選択の創作性を利用するものであり、また債権者新聞の記事の分類に従って記事の分類のための表題まで付して配列している点において債権者新聞における素材の配列の創作性を利用するものであるから、編集著作権の侵害に該当することは明らかである。

(三)  かかる債務者の著作権侵害行為は将来も継続して行われる蓋然性が極めて高い。債務者は、これまで四年以上にわたって、全ての発行日の債権者新聞について、その素材の選択及び配列の創作性を利用する行為を反復継続してきており、今後も継続する意向を表明しているから、債権者が将来発行するであろう債権者新聞についても同様に編集著作権侵害行為をする蓋然性が極めて高いというべきである。

4 保全の必要性

(一)  債務者の前記侵害行為は、債権者の従業員である記者及び編集担当者の汗の結晶として集大成された編集著作物である新聞の価値を、翻訳家を雇って抄訳等をさせ、これをワードプロセッサーで打ち込んでファクシミリで送付するという極めて安易な方法によるものであり、かかる行為が放置されるならば、新聞業界全体に大きな影響を与えることになる。

(二)  債務者は、債権者からの昭和六三年四月頃からの再三の中止の申入れにもかかわらず、侵害行為を止めない。

(三)  また将来発行されるであろう債権者新聞についても債務者により同様の侵害行為がなされる蓋然性は極めて高く、この侵害行為に対する差止めが認められないと債権者は既に発行された分についてのみ日々差止請求訴訟を提起せざるを得ないという不合理な事態に陥るから、将来成立する高度の蓋然性を有する著作権に基づいて、これに対する将来の侵害行為の差止めが認められる必要がある。

三 債務者の主張

  1  

(一)  憲法二一条の表現の自由は、今日においては、単に情報の発信の自由であるだけでなく、情報の受け手の知る権利をも保障するものであり、特に時事に関する情報の流通は民主制にとって不可欠である。情報の自由な流通に関する制約の一つとして著作権制度があり、著作者に対し創作への報償として一定の権利を付与するが、情報の過度の独占は文化の発展を阻害するものであるから、著作権法の目的は、創作への報償と情報の自由流通の間に適切なバランスを取ることにある。

(二)  事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は言語の著作物に該当しない旨を規定した著作権法一〇条二項は、情報ことに時事に関する情報は民主制の基盤として最も重要なものであるから、このような憲法の表現の自由に由来する重大な要請のために著作権は一定程度道を譲るべきことを宣言した規定と解すべきである。

(三)  ECのデータベースの保護に関する指令案によると、要旨や要約であっても、原著作物自体を代替しなければ、許諾なしで、データベースに編入しうることを認めておりこの考え方は、電子的手段によらない編集物についても当然適用できるものである。すなわち、電子的編集物は非電子的編集物に比べ記憶容量が大きく、利用も迅速、容易、広範であり、素材の提供者に対する影響も格段に大きいのであるから、このような電子的編集物への編入が許容される以上、原著作物自体を代替しないという条件を満たす限り、電子的編集物より弱い編集物である非電子的編集物への編入は勿論解釈として許容されるのである。そして、このデータベース又は非電子的編集物に編入される著作物は、個別の著作物に限られず、編集著作物も含まれるのであり、またこの編入される編集著作物の素材が要旨で代替しえない以上、編集著作物自体も代替しえないと考えるべきである。編集著作物が代替されるのは、素材が代替される場合だけである。

 本件において、債権者新聞の各記事に対応する債務者文書の各記述は最小限の要旨であり、これにより債権者新聞の個々の記事についても、全体についても代替しうるものでないから、これらを非電子的編集物である債務者文書に編入することは当然許容されるものである。

(四)  編集著作物は、与えられた素材を選択・配列するという、それ自体では創作性の発揮しにくい行為を根拠とするから、その保護も弱くならざるをえない。

 本件において、一日分の新聞の編集著作権を考えるについては、個々の記事を既存の所与の素材として考えなければならないし、素材の選択・配列行為があっただけでは足りずこれに創作性がなければならないものである。素材の選択・配列行為は、元来従属的で創作性を発揮しにくいものであるから、安易に著作物性が認められてはならないし、仮に編集著作物性が認められる場合であっても強い保護を認めるべきではない。そして、新聞においては、素材の特性から、事実自体の独占につながらないように格別の配慮が必要である。

(五)  編集著作権は特定レベルの素材を前提に、その選択・配列の創作性によってかろうじて成立する微妙な権利である。素材の表現が異なれば、素材に依存する編集著作物の表現も異ならざるを得ない。素材の表現レベルを無視し抽象的な選択・配列だけを取り上げて、編集著作物の表現を問擬することは誤りである。

 本件においては、言語表現としての素材のレベルは全く異なっており、債権者新聞の各記事とこれに対応する債務者文書における文章とは、複製や翻案という著作権侵害関係に立たない。このような場合には、編集物全体としての表現も全く異なるものであるから、編集著作権の侵害関係には立たないというべきである。

(六)  債権者は、将来にわたり発行される債権者新聞についての編集著作権に基づく差止めを求めている。これは人間精神の所産である著作物を現に生み出したことにより、これに対する報償として与えられる著作権を、未だ生み出されていない段階で認めるものであり、著作権法の基本を覆すものである。著作物の存在しない、その内容さえわからない段階で著作物としての保護が与えられる等、著作権法上考えられないことである。小説のような著作物の内容が作者の頭の中にあるだけでは保護の対象とならないことはいうまでもないが、まして本件の場合には、将来の新聞の紙面がどのようなものになるかは誰にも将来発行しようとする者にも、分からないのであり、いわば作者の頭の中にすら著作物の内容が存在しないのであるから、将来発行される債権者新聞についての編集著作権に基づく差止請求は全く理由がないというべきである。

(七)  債務者は、予備的に、次のとおり、債務者文書が公正利用として許容される旨を主張する。

 著作権法は、一条において、著作権法の目的につき「これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ」と規定し、また三〇条以下において、教育目的その他異なる文化、社会的な価値がある場合に、一定の条件下で定型的に著作権が制限されることを規定しているので、これらの規定を合わせ考えれば、我が国においても公正利用の法理が認められるべきである。 本件において、具体的に分析検討すると、次のとおりであるから、債務者文書は、少なくとも公正利用として許容される。

(1)  本件での使用目的は、日本人読者が債権者の報道するニュースへのアクセスを可能にするため、要旨又はそれ以下の情報を記載することにあるから、商業性はあるけれども、公共的意義もあるのである。

(2)  債権者新聞は、ニュース報道を主目的とした新聞であるから、民主社会にいては公共的使命を帯びたものであり、情報の自由流通という重大な要請を有している。

(3)  債権者新聞と債務者文書を比較すると、債務者文書は債権者新聞の僅か一・二パーセントしか使用しておらず、量的に僅少である。

(4)  債権者新聞は、日本人読者にとっては、よほどの語学力と時間がなければ読みこなすことは不可能といってよいが、債務者文書により、債権者新聞の記事の検索が短時間で可能となり、これがより身近なものとなるから、購入者はむしろ増えると考えられ、市場へのマイナス影響はない。

2 本件仮処分命令について

(一)  本件仮処分命令は、債権者の著作物の特定として、何年も続く新聞を指すのか、一日分の新聞を指すのか、一個の記事についての著作物を指すのか、それらの編集著作物を指すのか不明であって、著作物の特定として極めて不十分である。著作権は著作物毎に成立する権利であり、また個々の記事についての著作物とこれらを要素とする編集著作物とは別個であるから、これらの特定が十分になされなければならないのである。

(二)  本件仮処分命令は、作成頒布の差止めの対象の文書として「別紙著作物目録の一の発行日に発行されたものの記事の全部を翻訳し、又は各記事の要約を翻訳したものとして」と表現しているが、この末尾の「ものとして」の言葉は全く意味不明である。本来、作成・頒布の差止めの対象物になるかどうかは客観的に判断されるべきものであり、「全文訳」又は「要約の翻訳」に当たるかどうかは、「全文訳として」又は「要約の翻訳として」表示しているかどうかとは全く関係がない事柄である。また、「として」の表現が販売方法を指すとすれば、著作権法に規定されていない法理を用いていることになり、審理の対象を逸脱しているものである。

(三)  本件仮処分命令は、作成頒布の差止めの対象の文書の特定として「一項目当たり一行ないし三行程度の日本語の記事」と表現しているが、この程度の要旨が著作権を侵害するとするものであれば、従来の学説及び社会慣行に明らかに反している。仮に、実際は要旨の翻訳であっても「要約の翻訳として一ないし三行程度の日本語の記事」にすることがいけないという趣旨であれば、債務者は債務者文書を要約の翻訳として提供しているものではなく、要旨として提供しているものである。 なお、要約が一ないし三行になってしまうのであれば、原文自体の著作物性が否定される。

(四)  本件仮処分命令の「・・・の記事を掲載し、これを・・・その他の項目に分類して配列した文書」という表現も、一ないし三行の記事を掲載すること自体が差し止められているのか、分類・配列したものが対象とされているのか明らかでなく、意味不明である

(五)  本件仮処分命令には何ら理由が付されていない。本件については債務者が正面から争っているにもかかわらず、理由が付されていないため、前記のような主文のあいまいさとあいまって、説得力を欠くだけでなく、裁判の公正さも担保されない。

(六)  本件仮処分命令が出された背景には、債務者が他人の労働の成果にフリーライドしているとの考え方が潜んでいるものと思われる。しかし、債権者は、英語の新聞を発行していただけであり、日本語版を出すとか、日本語の索引を作成する等の便宜を一切提供していないため、多くの日本人にとって債権者の情報の伝達が閉ざされていたところ、債務者は、債権者の提供する情報に対するアクセスを与えたにすぎないものであり、これだけでは債権者の情報は伝達されないし、また債権者の債権者新聞が売れなくなるわけでもない。著作権法が時事報道について特別の規定を設けている意義や法解釈として「要旨」記載が許容されている意義が考慮されなければならない。

3  本件仮処分命令が出されるまでの手続が著しく公正を欠くものである。すなわち、本件は、二年近くの間、審尋期日が重ねられ、最終の審尋期日では、双方の主張が尽きたことが確認されたうえ、「次回期日は追って指定する。口頭弁論を開く可能性もある。」とされたものである。ところが、その後債権者は、三回にわたり主張を追加し、二回にわたり「申請の趣旨」を変更したにもかかわらず、裁判所は、債務者に何らの反論をさせずに最終の申請の趣旨の変更から一週間もたたないうちに本件仮処分命令を出したものであって、このような手続は、著しく公正を欠き、裁判所に対する信頼を損ねるものである。

4  以上のとおりであるから、本件仮処分命令は取り消されるとともに、本件仮処分命令申立ては却下されるべきである。

理  由

  1  疎甲第一ないし第一四号証、第二〇ないし第二八号証、第三〇、第三三、第四七、第四八号証並びに弁論の全趣旨によると、次の事実が認められる。

(一)  債権者は、米国ニューヨーク州に本社を有し、ビジネス専門紙や二〇紙を超える地方新聞を発行し、また各種メディアを使用した情報の提供サービス等を行っている会社であって、一九八七年度には、年間売上高一三億ドル、従業員数九〇〇〇名に及び、またフォーチュン誌の選ぶ五〇〇社ランキング中の二六四位にランクされている。

(二)  債権者の発行する債権者新聞は、一八八九年に創刊されて以来継続して発行され一日の発行部数が二〇〇万部を超える米国最大の日刊紙であって、債権者は、債権者新聞を発行するため、六〇〇名を超える記者及び編集者を取材活動等に従事させている。

 債権者は、従来から、スポーツ記事や犯罪記事のような一般社会記事を掲載しない、情報の背後にある数字や事実を分析し解説することを重視する、できるだけ多くの情報を提供するため写真を使用しない、大字化はしない等の一定の編集方針を堅持し、この編集方針の下に経済記事を中心とした債権者新聞を発行し、多くの国で頒布している。

(三)  債権者の従業員である記者は、電話及び面接取材、記者会見、資料調査等によって情報を収集したうえ、原稿を作成し、担当局長や地方支局長による見直し、添削等のチェックを経て、この原稿を債権者のニューヨークのウォール・ストリート・ジャーナル・ニュース局に送付する。同局では、記者発送コードに従い、国内ニュース、第一面、第二部第一面、海外、金融、収益又は社説等の部署に分けられ、債権者の従業員である各部署のニュース編集者は送られてきた原稿の採否を決定するとともに、正確性、明確性及び体裁のチェックをし、時には原稿を書き直すこともある。

(四)  一日分の債権者新聞は、A2判数十頁で構成され、その中には数百に及ぶ記事、社説、株式相場や先物取引相場等の各種相場表、広告等が掲載され、その中では、原稿に基づいた報道記事、社説が主要な部分を占めている。例えば、債権者新聞の一九八九年九月二八日版(疎甲第八号証)は、A1ないしA26頁、B1ないしB8頁、C1ないしC28頁の合計六二頁で構成され、その中には、一五〇以上の記事・解説が掲載されている 債権者新聞の第一頁の第二、第三段には「What’s Newsー」と題し、その日の主要ニュースが、「Business and Finance」欄と「WorldーWide」欄に分かれて、大半は五行程度に要約されて掲載されている。

(五)  債務者は、昭和六一年九月一日から、「アメリカを読む研究会」との名称で、債権者新聞が発行される毎に、直ちに債権者新聞の記事を抄訳した後記のような債務者文書を作成し、月額三万円及び通信費の会費、又は一〇〇字当たり一〇〇〇円の料金と通信実費などの費用で、これを郵便又はファクシミリで右研究会の会員に送付している。その会員数は、昭和六三年一一月八日現在で二〇名以上に及んでいる。また、債務者は、債務者文書等の作成・送付のサービスについて、「全記事完全抄訳サービス」と称するとともに「全記事完全網羅」「その日の記事が一目瞭然」「取捨選択することなく全記事を細大もらさず取りあげています」との内容の広告を雑誌・新聞に掲載するなどして宣伝している。

(六)  債務者文書は、例えば別紙(2)のような形式で、「ウォール・ストリート・ジャーナル 89年9月28日木曜日」のように、その表題に債権者新聞の名称、日付け及び曜日を取り入れたものであって、特定日付けの債権者新聞に関するものであることが明らかとなっている。

 債務者文書には、特定日付けの債権者新聞の記事の全部又は一部が一行当たり約三四字で一行ないし三行程度の日本語に訳され、「主要経済ニュース」「主要国際ニュース(又は主要一般ニュース)」「フィーチャー」「社説・論評」その他の欄に分かれて記載され債権者新聞に掲載されていない出来事が債務者文書に記載されることはない。

(七)  債務者文書の「主要経済ニュース」の項目には、債権者新聞の「What’sNewsー」の「Business and Finance」欄に掲載された記事のほぼ全てが、「主要国際ニュース(又は主要一般ニュース)」の項目には、債権者新聞の「What’s Newsー」の「WorldーWide」欄に掲載された記事のほぼ全てが、それぞれそのままの順序で、その全部又はその要旨が翻訳されて掲載されている。債務者文書には、債権者新聞の「What’s Newsー」欄に記載されたニュースの詳細記事を除いて、その余の大半の記事(一部の記事については、抄訳されていない)が抄訳され、債権者新聞の当該記事の掲載順と同じ順で記載されている。

(八)  債権者新聞と債務者文書とを対比すると、債務者文書の各項目における文章は一行当たり約三四字で一行ないし三行という短文であるが、その記載内容で示される出来事としては、これに対応する債権者新聞の記事内容で示される出来事と同一である。例えば債権者新聞一九八九年九月二八日版のA一頁第六段からA二〇頁第一・第二段にかけて記載された「OffーLine Among Those Baffled By Technology Are Lots of Stock Analysts」と題する記事は二五〇行余にわたる長文の記事であるが、債務者文書はこれを「当てにならないコンピューター・アナリストーー証券会社の推薦株式が急落するケースが増加」と抄訳しており、極めて短文であるものの、この短文が伝達しようとしている出来事は、債権者新聞の前記記事が伝達しようとした出来事と同一である。

(九)  債務者は、昭和六三年四月頃から債権者より再三著作権侵害を理由とする中止の要請を受けながら、債務者文書の作成・頒布行為を中止せず、殊に平成元年五月には警告書と題する内容証明郵便で中止を求められながら、平成元年一一月二〇日付けで、会員に対し、「著作権上の問題が生じたので、記事の原文コピーサービス及び全訳サービスを中止するが、これに代わるものとして日本語要約サービス(債務者文書の作成・頒布)については引き続き行う」旨を記載した文書を送付している。

2  まず、既に発行された債権者新聞の編集著作権に基づく債務者文書の作成等に対する差止めの可否について、検討する。

(一)  前記認定事実によれば、債権者新聞の紙面は、その新聞社の従業員である記者等が作成する原稿に基づいた報道記事、社説が主要な部分を占め、その他に株式相場、先物取引相場等の各種相場表、広告等によって構成されているところ、債権者新聞のこのような紙面構成は、債権者の従業員である編集担当者の精神的活動の成果の所産であり、また債権者新聞の個性を形づくるものであるから、紙面を構成するこれらの記事、写真、広告等の選択及び配列について創作性があるというべきであり、そしてこのような編集著作権は、債権者新聞を発行する債権者に帰属するというべきである。

(二)  編集著作物である新聞における素材について考えてみる。

 新聞は、社会に生起するさまざまな出来事を素早く広く伝達するための刊行物であり、その製作過程は、前記認定の債権者新聞についての過程で明らかなように、多数の記者が多様な取材・調査活動等により情報を収集して原稿を作成し、編集担当者等による採否・内容等のチェックという過程を経て初めて、債権者新聞の紙面に掲載されるというのであるから、この事実からすると、原稿を作成しながら採用されなかったケースだけでなく、記者が一つの出来事について取材・調査活動を行いながら原稿を作成しなかったケースや何らかの出来事についての情報に接しながら、記者段階で採否を判断し、取材自体を行わないケースも存するであろうことは容易に推認できるものであって、このような製作過程を考慮すると、新聞記事の編集とは、記者の作成した記事原稿という媒体を取捨選択することによって、伝達すべき出来事自体を取捨選択しているものというべきである。そうすると、選択・配列の対象となる素材は、一方では記者の作成した記事原稿そのものであるが、また一方では原稿を媒体として記者が伝達しようとした出来事自体であるということができる。このように出来事自体を著作権法の「素材」と考えることができることは、旧著作権法一四条本文が「数多ノ著作物ヲ適法ニ編輯シタル者ハ著作者ト看做シ其ノ編輯物全体ニ付テノミ著作権ヲ有ス」と規定して、編集の対象が著作物である場合に限って編集著作権の成立を認めたのに対し、現行著作権法がこの規定を改め、「素材」との表現を用いていることからも明らかである。そして、右のように、現行著作権法が「素材」との表現を用いたことにより、単なる事実、データ、用語等の選択・配列についても、創作性があれば、これに編集著作権を認めることができるようになったと考えられるのである。

(三)  前記認定のとおり、債務者文書に記載された各項目はいずれも短文であるものの一つの出来事を伝達するものであり、また債権者新聞に掲載された記事が一つの出来事を伝達するものであることはいうまでもないから、いずれも編集著作物における素材と考えることができるところ、債務者文書の各項目が伝達しようとしている出来事はいずれも債権者新聞の記事に掲載された出来事であり、債権者新聞の記事に掲載されていない出来事が債務者文書に記載されていることはなく、またその配列もほぼ同一であるから、債務者文書が伝達しようとした出来事の選択・配列は、債権者新聞が伝達しようとした出来事の選択・配列とほぼ同一ということができる。そして債務者文書は、その表題自体が債権者新聞の名称、日付け及び曜日を取り入れたものである等債権者新聞に依拠して作成されたものであることは明らかである。したがって、債務者は、債務者文書の作成・頒布行為により、債権者が債権者新聞について有する編集著作権の翻案権を侵害しているというべきである。

3  次に、将来の債務者文書の作成・頒布行為に対する差止めの可否について、検討する

(一)  著作権法一一二条は、著作権を侵害するおそれがある者に対し、その侵害の予防を請求することができる旨規定しているから、既に著作権が発生している場合は、たとえ侵害行為自体は未だなされていない段階においても、予測される侵害に対する予防を請求することができることはいうまでもなく、また民事訴訟法二二六条は、必要性がある場合には将来の給付を求める訴えをすることができる旨規定し、更には著作権法は著作者等の権利の保護を図ることを目的としているから、これらの規定に鑑みれば、日刊新聞のように、短い間隔で定期的に継続反復して発行される著作物について、これまで著作権侵害行為がその発行毎になされてきた等の事情から、将来も発行予定の著作物に対する同種侵害行為が予想され、しかも発行による著作権の発生を待っていては実質的に権利救済が図れない場合には、将来の給付請求として、右著作物が発行されることを条件として、予測される侵害行為に対する予防を請求することができると解するのが相当である。

(二)  債権者は、年間売上高において一三億ドルに及び、またフォーチュン誌五〇〇社ランキングにおいて二六四位にランクされる等の有力メディア企業であること、債権者の発行する債権者新聞は、一八八九年に創刊され、以来継続して発行されている米国最大の日刊新聞であること、同紙は、従前から一定の編集方針を有し、これを堅持していること等は前記認定のとおりであり、これらの事実によれば、出来事の選択・配列について創作性のある債権者新聞が今後も確実に継続して発行され、したがって、債権者において、今後発行する債権者新聞について、これまでと同様の編集著作権を確実に取得するということができる。

 また、債務者は昭和六一年九月から継続して債務者文書を作成し頒布してきたものであること、債務者は債権者からの中止要請に対し、記事原文コピーサービス等は中止したものの、債務者文書の作成頒布は中止せず、かえって顧客である会員に対し今後もこれを継続する旨を記載した文書を送付していること等の前記認定事実によれば、債務者は、将来債権者新聞が発行される毎に、これに依拠してこれまでと同様の債務者文書を作成・頒布して編集著作権侵害行為を行うであろうことも確実であると認められる。

 更に、前記のとおり、債権者新聞は日々発行される日刊新聞であり、これに対応する債務者文書はその発行後直ちに作成され頒布されるというのであるから、債権者において、債権者新聞を発行する都度、対応する債務者文書の作成・頒布の予防ないし停止を請求すること、そしてその目的を達成することは、事実上極めて困難であるといわざるをえないしたがって、債権者新聞を現に発行するまで編集著作権に基づく予防請求をなしえないとするのは債権者の編集著作権の保護に欠けるというべきである。

(三)  右のとおり、日々発行される債権者新聞について、その発行毎に同種編集著作権侵害行為が反復継続され、今後も同種侵害行為が予想され、しかも債権者新聞が発行されなければ予防請求することができないとするのでは実質的に債権者の編集著作権保護が図れないから、将来の給付請求の必要性があると認められる。また将来債権者新聞が発行されたときには、前記2の場合と同様に、債権者新聞に対応した債務者文書が作成され、債権者の編集著作権が侵害されるおそれがあると認められる。したがって、債権者は、債権者新聞が発行されることを条件として、これに対応した債務者文書の作成・頒布行為の予防を求めることができるというべきである。

 なお、債権者は、将来発生する編集著作権に基づく差止請求権が現時点で既に発生し、これを被保全権利とする旨の主張をしているが、この主張の趣旨は、将来の債務者文書に対する差止めを求める点にあるから、右債権者の主張の中には、将来編集著作権が発生することを条件とし、この編集著作権が現実に発生した段階で生じる差止請求権を被保全権利とする主張も含まれているものと解される。

4  前記認定の諸事実によれば、債務者は、今後引き続き債務者文書の作成・頒布行為を行い、これにより債権者は著しい損害を被るおそれがあると認められるから、保全の必要性があるというべきである。

5  以上のとおりであって、本件仮処分命令は、将来の債務者文書に対する作成・頒布の差止めを何らの条件を付することなく認容した点において相当でないから、その主文を別紙(1)のとおり変更するのが相当である。

二 債務者の主張に対する判断

  1 (債務者の主張1(一)(二)について)

 債務者は、憲法二一条の表現の自由は、情報の受け手の知る権利をも保障するものであり、特に時事に関する情報の流通は民主制にとって不可欠であることから、著作権法は著作者に対し創作への報償として一定の権利を付与するものの、情報の過度の独占は文化の発展を阻害するため、同法は、創作への報償と情報の自由流通の間に適切なバランスを取ることを目的とし、また同法一〇条二項は、このような憲法の表現の自由に由来する重大な要請のために著作権は一定程度道を譲るべきことを宣言した規定と解すべきである旨主張する。

 しかしながら、憲法二一条の表現の自由が、情報の受け手の知る権利をも保障するものであり、特に時事に関する情報の流通は民主制にとって不可欠であることは、債務者の主張するとおりであるが、著作権法一条は、同法の目的について、「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。」と規定しているのであって、債務者主張のように、創作への報償と情報の自由流通の間に適切なバランスを取ることを目的としていることを規定しているわけではなく、また事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は言語の著作物に該当しない旨を定めた同法一〇条二項も、事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道がそもそも同法二条一項一号にいう「思想又は感情を創作的に表現したもの」に該当しないから保護の対象にならないということを確認的に規定した規定であると解されるのであって、債務者主張のように、表現の自由に由来する重大な要請のために著作権は一定程度道を譲るべきことを宣言した規定であると解することはできない。

 本件において、債務者は、前記のとおり、債権者新聞の個性を形づくる素材の選択・配列を債権者新聞に依拠してこれを模倣した債務者文書を作成し、これを多数の者に商業ベースで頒布していたものであって、このような行為が表現の自由の名を借りて許されるものでないことはいうまでもなく、債務者の前記主張は理由がない。

2 (債務者の主張1(三)について)

 債務者は、原著作物自体を代替しない要旨や要約については許諾なしで、データベースに編入しうることを認める考え方があり、この考え方は電子的手段によらない弱い編集物である本件においても認められるべきであり、本件において、債権者新聞の各記事に対応する債務者文書の各記述は最小限の要旨であり、個々の記事についても、全体についても代替しうるものでないから、本件は許容される旨主張する。

 しかしながら、原著作物自体を代替しない要旨や要約については、原著作物の著作権者の許諾なしでデータベースに編入しうるとの考え方が存在するとしても、それは、そのような要旨や要約が原著作物自体を代替しない以上原著作物の著作権を侵害するものではなく、またこの種のデータベースは、データベースとしての独自の観点から情報の選択又は体系的な構成をし、この点について創作性を有し、他者の編集著作権をも侵害するものではないと考えられるからであって、債務者文書に採用された項目の選択・配列が、債権者新聞の記事の選択・配列に依拠し、ほぼ同一である本件においては、前記のような考え方は相当しないのであって、右債務者の主張は理由がない。

3 (債務者の主張1(四)について)

 債務者は、編集著作物は、与えられた素材を選択・配列するという、それ自体では創作性の発揮しにくい行為を根拠とするから、その保護も弱くならざるをえない、素材の選択配列行為は、元来従属的で創作性を発揮しにくいものであるから、安易に著作物性が認められてはならないし、仮に編集著作物性が認められる場合であっても強い保護を認めるべきではない、新聞においては、素材の特性から、事実自体の独占につながらないように格別の配慮が必要である旨主張する。

 しかしながら、素材を選択・配列することが創作性の発揮しにくい行為であり、その保護も弱くならざるを得ない旨の債務者主張の一般論自体肯定することができない。また、新聞の場合、記者が種々の取材・調査活動で接することのできた多数の出来事のうち、新聞記事として何を取り上げ、どのような形で取り扱うかは、新聞の個性を形づくるものであり、新聞としての創作性を大きく発揮しうるところであるから、創作性の発揮しにくい行為である旨の債務者の主張は到底首肯することができないし、世の中には、一般総合新聞、経済新聞、スポーツ新聞、地方新聞、業界新聞等の多種多様な新聞が存在し、これら各新聞の個性は選択・配列された出来事の相違に基づいたものということができ、このような選択・配列の創作性に所定の保護が与えられるのは当然のことであって、強い保護を認めるべきではない旨の債務者の主張は採用できない。また、何人も、種々の方法をもって事実に接することができるのであるし、また新聞に掲載された個々の記事から事実を抽出して利用することも当然許容されるものであるから、特定の新聞における素材の選択・配列の創作性を保護することが、事実自体の独占につながるとの論も到底理解できないことであって、この点に関する債務者の主張も理由がない。

4 (債務者の主張1(五)について)

 債務者は、編集著作権は特定レベルの素材を前提に、その選択・配列の創作性によってかろうじて成立する微妙な権利であり、素材の表現が異なれば、素材に依存する編集著作物の表現も異ならざるを得ないところ、本件においては、言語表現としての素材のレベルは全く異なり、債権者新聞の各記事とこれに対応する債務者文書における文章とは、複製や翻案という著作権侵害関係に立たないから、編集物全体としての表現も全く異なるものであって、編集著作権の侵害には当たらない旨主張する。

 しかしながら、編集著作権は素材の選択・配列に創作性があることにより成立する権利であるから、編集著作権の侵害の有無を考えるに当たっては、選択・配列の対象となる素材の内容・趣旨が実質的に同一であれば、両素材の具体的表現の相違は考慮する必要はないというべきところ、新聞という編集著作物においては、原稿のみならず、原稿という媒体により伝達される出来事自体も素材として考えることができること、債権者新聞の記事と債務者文書の項目とを対比すれば、両編集物の素材としての出来事の選択・配列に同一又は類似性を認めることができること、債務者文書における出来事の選択・配列が債権者新聞のそれに依拠して作成されたものであること等から、債務者文書の作成・頒布が債権者新聞の編集著作権を侵害するものであることは前記判示のとおりであって、債務者の右主張は理由がない。

5 (債務者の主張1(六)について)

 債務者は、将来発生する編集著作権に基づく差止請求は現行著作権法の解釈上許されないから、将来分の差止請求は許されない旨主張するが、前記判示のとおり、本件においては、将来発生する編集著作権に基づく差止請求が可能であるとするものではなく、将来の給付請求の必要性があるとして、債権者新聞が発行されることを条件に、発行により生じた編集著作権に基づく予防請求を認めたものであるから、債務者の主張は、この限りにおいて理由がない。

6 (債務者の主張1(七)について)

 債務者は、債務者文書の作成・頒布は公正利用の法理により許容される旨主張する。

 一般的に公正利用の法理が認められるかどうかはともかく、本件は、債務者において債権者新聞を無断利用して債務者文書を作成し、これを一か月三万円余の会費、又は一〇〇字当たり一〇〇〇円の料金等の商業ベースで、多数の会員に頒布しているものであり、新聞の個性を形づくる重要な編集著作権を侵害する債務者のこのような行為が公正利用として許容されることは、到底ありえないものであって、債務者の主張は理由がない。

7 (債務者の主張2(一)ないし(四)について)

 債務者は、本件仮処分命令の主文の表現について、種々論難するところ、本件仮処分命令については、前記判示のとおり、変更されたものであるから、債務者の主張は、変更された主文に含まれる限度で理由があり、その余は理由がない。

8 (債務者の主張2(五)について)

 債務者は、本件仮処分命令には何ら理由が付されておらず、裁判の公正が担保されない旨主張するが、本件仮処分命令には「債権者の申請を相当と認め」と記載され、債権者の申請をそのまま認容したことが明らかであるから、本件仮処分命令に違法はなく、この点についての債務者の主張は理由がない。

9 (債務者の主張3について)

 債務者は、最終審尋期日から本件仮処分命令が発令されるまでの間の手続きが不公正である旨主張するが、仮に債務者主張のとおりの経緯であるとしても、本件については、仮処分命令申立てから最終審尋期日まで二年近くの間審尋が続けられたものであって、最終審尋期日以降に債権者から提出された書面に記載された事項は、いずれもそれまで提出された準備書面や疎明資料に表れていたものであり、これに対する債務者の主張・疎明を確認することがなかったとしても、公正を欠くということはできない。

三 結論

 以上のとおり、本件仮処分命令は、別紙(1)のとおり変更することとする。

東京地方裁判所民事第二九部

裁判長裁判官 一宮和夫 裁判官 足立謙三 裁判官 前川高範

別紙(1)

主  文

一  債務者は、別紙文書目録(一)の文書を作成し又はこれを頒布してはならない。

二  債務者は、別紙文書目録(二)の文書を、当該特定日付けの日刊新聞「THE WALL STREET JOURNAL」が発行されることを条件として、作成し又はこれを頒布してはならない。

 

  別紙

文書目録

(一)  ウォール・ストリート・ジャーナルとの名称、特定日付け及び曜日を頭書きし、債権者により昭和六一年九月一日以降本件口頭弁論が終結された平成五年一月二二日までに発行された日刊新聞「THE WALL STREET JOURNAL」(東部版及び西部版並びに各改訂版を含む。但し、広告部分、株価、社債価額、金利、為替レート、商品先物相場、法人の決算報告を数値又は図表で表示した部分及び死亡記事を除く。)の記事の全部又はその大半を一行ないし三行程度の日本語に抄訳し、これらを、番号を付した項目のもとに、右頭書きされた特定日付けの右新聞の紙面構成に対応して、「主要経済ニュース」「主要国際ニュース(又は主要一般ニュース)」「フィーチャー」「社説・論評」その他の欄に分類して配列した文書

(二)  ウォール・ストリート・ジャーナルとの名称、特定日付け及び曜日を頭書きし、債権者により本件口頭弁論が終結された日の翌日である平成五年一月二三日から発行される日刊新聞「THE WALL STREET JOURNAL」(東部版及び西部版並びに各改訂版を含む。但し、広告部分、株価、社債価額、金利、為替レート、商品先物相場、法人の決算報告を数値又は図表で表示した部分及び死亡記事を除く。)の記事の全部又はその大半を一行ないし三行程度の日本語に抄訳し、これらを、番号を付した項目のもとに、右頭書きされた特定日付けの右新聞の紙面構成に対応して、「主要経済ニュース」「主要国際ニュース(又は主要一般ニュース)」「フィーチャー」「社説・論評」その他の欄に分類して配列した文書

別紙(2)〈債務者文書の一部〉

■■ウォール・ストリート・ジャーナル 89年9月28日木曜日■■

アメリカを読む研究会

[1面]

<主要経済ニュース>

A1. IBMの第3四半期及び通年の収益、予想をかなり下回る見込み

A2. ソニー、コロンビア・ピクチャーズ社の買収契約に最終的に合意ー買収金額は日本企業では史上最高の34億ドル

A3. ブラニフ航空がほとんどのルートで航空便を削減ー財政逼迫のためとの憶測を呼ぶ

A4. OPEC石油輸出国機構、生産上限拡大決定ー石油価格引き上げの為の国別割当枠の見直しには合意出来ず

A5. 企業買収家のビルゼリアン氏に4年間の懲役と150万ドルの罰金判決ー不正証券取引等の罪で

A6. 米下院、企業の重役に対する特別手当を奨励する税制条項第89条の廃止を決定

A7. ゴールドマンサックス証券等証券大手4社、証券価格統計販売の為の合弁企業体設立を計画

A8. クラフト・ジェネラル・フーズ社、現社長のマイルズ氏を会長兼最高経営責任者に指名

A9. トヨタ自動車が来年販売の大衆車の価格を最高2.5%引き上げー米市場拡大をねらう

A10. 各国中央銀行の協調介入のなかドル急落ー証券価格はしっかり、債券は不調

A11. ペプシ・コーラ社がカフェイン抜きの清涼飲料水「ペプシAM」を中西部で実験販売

A12. アップル・コンピューター社、日本の半導体企業に対抗するために6月に設立された合弁企業体USメモリーズへ資本参加はせず

A13. サックス・フィフス・アベニュー社のヤコブ会長、同社レバレッジド・バイアウトを計画

平成七年(行ウ)第二六号銚子無線局廃止差止等請求事件

               原告(選定当事者) 栗   原   三   郎

                                    外 一 名

               被       告   日本電信電話株式会社

                                    外 一 名

   平成七年一〇月一一日

                       右被告日本電信電話株式会社

                           訴訟代理人弁護士

                               氏名       略

千葉地方裁判所

   民事第二部 御中

             答  弁  書

第一  「請求の趣旨』に対する答弁

  一 本案前の答弁

     本件訴えをいずれも却下する。

     訴訟費用は原告らの負担とする。

  との判決を求める。

  二 本案の答弁

     原告らの請求をいずれも棄却する。

     訴訟費用は原告らの負担とする。

  との判決を求める。

第二 本案前の主張

  一 権利保護の資格の欠缺

1. 人格権について

  原告らは人格権を根拠として差止めを求めているが、人格権とは一般的・普遍的に人格が専有する個人の生命、身体、自由、名誉等の人格的利益の総称であって、これらの個々の人格的利益が排他性のある権利と構成され、侵害に対して差止請求権が認められるものかは、個別具体的に検討されなくてはならない。

  しかしながら、原告らの主張する「船舶安全航行権」「営業権・通信利用権」「無線従事者として就労する雇用契約上の権利」なるものは個人の人格的利益と密接に関係するとは到底認められないものであるうえ、仮に人格的利益があるとして不法行為における被侵害利益とされる余地があるとしても、法理論的根拠なしにかかる利益に排他性が認められ、差止請求権が肯定されるものではない。

  本件訴訟において原告らの主張する「人格権」なるものは実定法上の根拠を欠くばかりでなく、原告らの主張によってもその内容とするところは明らかになっているとはいえないのであって、原告らの訴えは不適法なものとして却下されなくてはならない

 2. 不法行為について

   原告らは不法行為を理由として本件差止めを求めているが、わが国の法体系において、不法行為は過去の損害を?補するものとして構成されているのであり(民法第七〇九条)、かかる請求自体明文の規定に反するものであって、却下されなくてはならない。

二 権利保護の要件の欠缺

  原告らの請求は、将来の違法な権利侵害に対する救済を求める手段としての予防的差止請求であり、将来の給付の訴えにほかならないから、かかる請求が認められるためには、将来の給付の訴えを提起しうるだけの実体的基礎を有したうえ、あらかじめその請求をなす必要がなければならない。

  そして、原告らは、その主張する差止請求権を基礎づける事実として、「重要通信(遭難通信=SOSを含む)及び通常の無線通信が阻害されて、生命身体の危険に曝されるおそれ」や「緊急通信及び通常通信等海上交通の安全を守る業務に従事できないことによる人間の尊厳たる無線従事者としての誇りを毀損され、かつ無線通信または保守業務に従事する雇用契約上の権利を侵害されるおそれ」などを主張する。しかしながら、原告らの主張する「おそれ」は漠然たるものであり、仮に、原告らの主張する「人格権」なるものに排他性があったとしても、それが現実に侵害されるに至るか否か、またその侵害の程度、侵害行為の違法性の有無等について、原告らの主張は全く不分明である。すなわち、「人格権」侵害の可能性の有無・程度は、GMDSSの普及の程度、GMDSSを装備しない船舶への乗船の蓋然性、仮にかかる船舶に乗船することに高度の危険性が伴うとしても、乗船自体を拒否しうるか否かなど、将来生ずる諸事情やその変動、その他複雑多様な因子によって左右されざるをえない(なお、本件措置に何ら問題が存しないことについては、後に提出する準備書面において述べる)。

 したがって、本件差止の訴えは、権利発生の実体的基礎を有せず、かつ、あらかじめその請求をなす必要も認めがたいものであるから、「将来の給付の訴え」における権利保護の要件を欠くのであって、不適法なものとして却下されなくてはならない。

三  「請求の趣旨」の特定性の欠缺

  原告らは被告日本電信電話株式会社(以下、「会社」という)に対して、「電気通信事業の一部廃止をしてはならない」(第一項)こと、および、「無線通信の運用または保守以外の業務に従事させてはならない」(第二項)こと、の各差止めを求めている。

  しかしながら、「請求の趣旨」第一項柱書前段の「その電報事業に属する銚子無線電報サービスセンタの全面廃止をし、かつ長崎無線電報サービスセンタの中波の運用を廃止するなどして」にいう「など」の内容および同後段の「重要通信(遭難通信、緊急通信、非常通信及び安全通信)につき、中波無線による通信態勢の全面廃止及び短波無線による通信態勢を減少せしめる電気通信事業の一部廃止をしてはならない」にいう「電気通信事業の一部廃止」の内容が特定されていないうえ、同前段と同後段との関係が不明確であり、求める不作為(給付)内容自体の特定に欠けるものである。

 また、「請求の趣旨」第二項についても、「他の業種に配置転換するなどして」にいう「など」の内容が不明確であり、求める不作為(給付)内容自体の特定に欠けるものである。

 さらに、差止請求訴訟は給付訴訟の一つであるところ、給付訴訟は「強制的に請求権の実現をはかる(強制執行を開始しうる)可能性を裁判上つくり出すところにその本来的な機能がある」 (三ケ月章「民事訴訟法(第三版)」弘文堂四五頁)。そして、「強制執行は、債権者の債務者に対する給付請求権を表示した債務名義に基づき、そこに表示された権利を実現するためになされる」のであるから、「付款付債務名義については、付款の内容が明確に表示されていること」(司法研修所編「民事執行」九頁以下)が求められていることはもとより当然であるが、原告らの本件請求は、「GMDSSの機能及び信頼性が確認され、海上の安全確保が確実となるまで」「無線通信が現実に行われなくなるまで」(第一項)、あるいは、「第一項のGMDSS導入による海上の安全確保の確実性が確認されるまでの間及び銚子無線電報サービスセンターとモールス専用船との現実の無線通信が行われている限りは」(第二項)という、いずれも一義的に特定することができない付款(条件)が付されているのであって、強制執行することができないものであるから、かかる請求は「請求の趣旨」の特定に欠けるものである。

  したがって、かかる訴え(第一項、第二項)は、不適法なものとして却下を免れないといわなくてはならない。

四 争訟性の不存在、確認の利益・即時確定の利益の欠缺

  原告らは会社に対して、「電気通信事業法一八条一項による被告郵政大臣の許可を得べき義務があること」(第三項)の確認を求めている。

   しかしながら、かかる請求は単に裁判所に対して電気通信事業法第一八条第一項の法解釈を求めるものにすぎず、およそ具体的争訟性を欠くものである。

 また、同法は、「電気通信事業の公共性にかんがみ」 (同法第一条)、行政主体である国と事業者との間の公法上の法律関係を規律するものであり、同法第一八条第一項もその趣旨に出たものであるから、第三者である原告らが会社に対して、右「義務」の存否の確認を求めることはその利益を欠くものである。

 さらに、確認訴訟にあっては、「法律的地位の不安定を除去するため、確認判決を得ることが適切な手段であることが必要」であり、「確認判決を得てもなお当該紛争が解決されないで残る可能性があるときは、確認の利益は否定される」(三ケ月前掲書六九頁)のであるが、仮に原告らにおいて、会社が「電気通信事業法一八条一項による被告郵政大臣の許可を得べき義務があること」を確認することができたとしても、そのことによって直ちに原告らの法律的地位に影響を及ぼすことはないのである。

 したがって、かかる訴え(第三項)は、争訟性、確認の利益・即時確定の利益のいずれも欠くものであり、不適法なものとして却下されなくてはならない。

第三 本案の答弁

     「請求の原因」に対する答弁および会社の主張は、追って提出する準備書面をもって陳述する。

                                                     以上

第23 適用条文について

これまで述べてきた適用条文は、訂正する。憲法については第22条、独占禁止法については一般指定2項については一般指定1項に変更する。

民事訴訟法では第248条のほか将来の給付の訴えの条文を追加する。

第二審で主張した一般指定1項を維持する。しかし、「独占禁止法と差止・損害賠償」(村上政博著、平成12年6月、商事法務研究会)では31頁において、本件事件の行為は「一般指定1項(共同の取引拒絶)に該当するとともに。不当な取引制限の相互拘束にも該当する(少なくとも該当する場合がある)。」のであるから、被上告人(債務者)が不当な取引制限に該当する由の主張は、訴訟法上の抗弁には該当せず、むしろ請求原因事実の自認にあたると解されるのであるから、本件事件の行為は不当な取引制限の相互拘束にも該当するような一般指定1項(共同の取引拒絶)に該当するという主張に変更する。

第24 差止と差止仮処分

差止についてはクレイトン法第16条の略式判決の概念と似ているので、日本でもこの概念と似た運用がなされるべきである。

upon the execution of proper bond against damages for an injunction improvidently granted and a showing that the danger of irreparable loss or damage is immediate, a preliminary injunction may issue.

差止が認められたことが不当であった時に被告に生ずる損害を担保するために相当なる供託をし、そのうえで回復しがたい損失もしくは損害の危険が差し迫っていることを証明した場合には、予備的差止命令が発せられる。

これに対して差止は、sue for and have injunctive relief, in any court of the United States having jurisdiction over the parties, against threatened loss or damage by a violation of the antitrust laws, including sections 13, 14, 18, and 19 of this titleの言葉を使っている。

threatened loss or damageに対して訴えられる差止訴訟とほぼ同じく、回復しがたい損失あるいは損害の危険性(the danger of irreparable loss or damage)が差し迫っていることの証明が必要である。民事保全法23条2項の「債権者に生ずる著しい損害又は急迫の危険」が認められる仮処分とほぼ同様の定義である。審訊による予備的差止命令と日本の仮処分はほぼ同様の意味を持っているのであるから、本件においても審訊による予備的差止命令におけるアメリカにおける動向を参考にすべきであると考えられる。

この場合には独占禁止法ではいまだ判例が存在しないが、日本でも不正競争防止法では、差止請求等が認められた判例が数多く存在する。同じく営業に関するものであるので、それらを判例として考慮すべきである。これは本案、仮処分共に該当することである。

但し、仮処分においては危険が迫っていることの証明が必要である。

次に回復しがたい著しい損害の証明が必要である。これは損害共に将来にわたるおそれよりも、現在的である。違反が継続している本件事件においては現在も差し迫っていることは明白であり、仮処分が必要であると考えられる。後日本案は提出する。

別注:不正競争防止法では、差止請求等が認められた事例が多く存在する。このことは給付判決としての差止は判例が存在するのであるから、独占禁止法においてはその損害の程度や、質を考慮すれば、準用できるということになる。どちらも営業に関係するものである。

「(株)ミシュランを商号として使用することに対する差止請求等が認められた事例

(東京地方裁判所平成10年3月30日判決)     解説 水谷直樹

1.事件の内容

 原告コンパニー・ゼネラール・デ・ゼタブリマスン・ミシュラン・ミシュラン・エ・コンパニー(以下「原告ミシュラン」という)は,自動車タイヤの製造,販売等を主要な業務とし,被告(株)ミシュランは,サンドイッチ,弁当等の製造,販売等を主要な業務としておりました。

 原告ミシュランは,被告(株)ミシュランに対して,被告が(株)ミシュランの商号を使用して営業活動をすることは,原告の営業活動との間に誤認混同を生じさせるものであるから,不正競争防止法2条1項1号または2号に違反すると主張して,被告商号の使用の差止等を請求して,平成9年に東京地方裁判所に訴訟を提起しました。

  2.争点

 同訴訟での争点は,

 《1》 原告ミシュランの「ミシュラン」は,我が国において著名または周知の営業または商品表示と言えるか。

 《2》 被告が,その商号を(株)ミシュランとして営業活動をすることが,原告との間に営業活動上の誤認混同を生じさせるか。

3.判決

 東京地方裁判所は,平成10年3月30日に判決を言い渡しましたが,まず上記《1》の争点については,原告が証拠として提出した営業状況を示す資料(この中には,原告がレストランガイド,旅行用地図を発行していることを示す資料も含まれていました)に基づいて,細かく事実認定したうえで,

 「右認定の事実によれば『ミシュラン』の表示は,我が国において,遅くとも昭和52年ころには,原告の商品及び営業を示す表示として広く認識されており,それ以後,現在に至るまで,広く認識されているものと認められる。」と判示して,我が国における「ミシュラン」表示の周知性を肯定いたしました。

 更に判決は,上記《2》の争点について,

 「企業の経営が多角化した今日においては,当該企業自体はもとより,当該企業と親会社,子会社の関係にある企業や系列企業が,当該企業が本業としていた分野以外の事業に携わることが少なくないため,周知表示の主体と類似表示の使用者との間に直接の競業関係が存在せず,周知表示の主体の本業と異なる分野の事業に類似表示が用いられた場合にも、類似表示の使用者と周知表示の主体との間に営業上の密接な関係があると誤信される可能性が高く、このような誤解が生じることにより,周知表示の主体について,売上げの減少や周知表示の顧客吸引力減殺など有形無形の損害が生じ又は生じるおそれがある。不正競争防止法は,周知表示を保護する観点から,周知表示に対するこのような侵害行為をも防止しようとしているものであるから,同法2条1項1号の「混同を生じさせる行為」とは,他人の周知の営業表示と同一又は類似のものを使用する者が,自己と右他人とを同一営業主体と誤信させる行為のみならず,両者間にいわゆる親会社,子会社の関係ないしは同一の商品化事業を営むグループに属する関係などの密接な営業上の関係が存するものと誤信させる行為をも包含するものと解するのが相当である。

 これを本件についてみると,前記−1認定の原告の事業内容,前記−2認定の原告の営業表示の周知性,前記二認定の被告らの事業内容,前記三認定の原告の営業表示と被告会社の営業表示の類似性に照らせば,被告らが,「株式会社ミシュラン」の商号を,被告会社の営業表示として使用し,サンドイッチ,弁当等の製造販売,居酒屋の経営を行っていることは,被告らが,原告の営業表示と類似の営業表示を使用し,被告会社と原告とを同一営業主体と誤信させるか,若しくは,原告と被告会社の間に,いわゆる親会社,子会社の関係ないしは同一の商品化事業を営むグループに属する関係などの密接な営業上の関係が存するものと誤信させる行為であり,不正競争防止法2条1項1号の「混同を生じさせる行為」に該当するものと認められる。」と判示して,誤認混同の可能性について肯定をして,結論として原告の請求を,ほぼ認容いたしました。

4.検討

 本事件では,原告と被告において,それぞれ実際に行っている業務が基本的に異なっているにもかかわらず,原告から被告に対する不正競争防止法に基づく商号の使用の差止等の請求が認められております。

 不正競争防止法違反をめぐる事件は,同一の業務を行っている企業間で,同一または類似の商品やサービスを提供している場合にしばしば生じますが,本事件のように異業種の企業間においても生ずることがあり得ます。

 この場合には,不正競争防止法違反を主張して請求を行うサイド(原告)が提供している商品またはサービスの商品表示または営業表示の周知性について,いわば業種の垣根を超えて主張するに足るだけの周知性を獲得していることの立証が要求されることになると考えられます。本事件は,まさにこの点が争われた事件であるといってよいものかと思われます。

 本事件の原告は,自動車タイヤのメーカーとしてよく知られたミシュランであったために,「ミシュラン」の表示について,上述した自動車用タイヤの製造,販売という特定の業種を超えた範囲での周知性が認められたものと考えられます。

 また,ミシュランが自動車タイヤの製造,販売以外に,レストランガイド,旅行用地図の発行等でよく知られていたことも,上記の認定には寄与していたものと考えられます。

 本事件で原告は,不正競争防止法2条1項1号(周知性)または2号(著名性)を選択的に主張しており,裁判所は前者の周知性を認定して原告の請求を認めておりますが,認定された周知性のその程度は,上述のとおりかなり高かったのではなかったかとも考えられます。

 いずれにしても,本判決は,いわゆる広義の混同を認めた判例中に一事例を加えたという点で,評価できるものと考えられます。

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みずたに なおき 1973年,東京工業大学工学部卒業,1975年,早稲田大学法学部卒業後,1976年,司法試験合格。1979年,弁護士登録後,現在に至る(弁護士・弁理士)。知的財産権法分野の訴訟,交渉,契約等を数多く手がけてきている。

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注:差止を認めた最高裁判所の判決がある。

判決日 平成10年9月10日

裁判所 最高裁 第1小法廷  事件名 平成7年(オ)第637号 不正競争行為禁止請求事件 原審 東京高裁 要旨不正競争防止法二条一項一号に規定する「混同を生じさせる行為」は、「広義の混同惹起行為」を含む

主文

一 原判決中、「スナックシャネル」及び「スナックシャレル」の表示の使用差止請求並びに右表示の使用に係る損害 賠償請求に関する部分を破棄する。

二 前項の差止請求に関する部分について被上告人の附帯控訴を棄却する。

三 第一項の損害賠償請求に関する部分を東京高等裁判所に差し戻す。

四 上告人のその余の上告を棄却する。

五 第二項に関する附帯控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とし、第四項に関する上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人の上告理由第一について

一 本件は、上告人が被上告人に対し、被上告人が上告人の営業表示として周知である「シャネル」と類似する営業表示を使用して上告人の営業と混同を生じさせているとして、「シャネル」「シャレル」その他「シャネル」に類似する表示の使用差止め及び上告人が被った損害の賠償を求めている訴訟である。

 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

1 上告人は、「シャネル」の表示が付された高級婦人服、香水、化粧品、ハンドバッグ、靴、アクセサリー、時計等の製品の製造販売等を目的とする企業により構成される企業グループ(以下「シャネル・グループ」という。)に属し、「シャネル」の表示等につきシャネル・グループの商標権等の知的財産権を有し、その管理を行うスイス法人である。

2 シャネル・グループは、いわゆるパリ・オートクチュールの老舗として世界的に知られ、シャネル・グループに属する世界各地の会社の営業表示である「シャネル」の表示は、我が国においても、昭和三〇年代の初めころには周知となり、シャネル製品は、一般消費者に高級品のイメージを持たれるものとなっている。なお、シャネル・グループの属するファッション関連業界の企業は、飲食業にも進出するなど、その経営が多角化する傾向にある。

3 被上告人は、昭和五九年一二月、千葉県松戸市内の面積約三二平方メートルの賃借店舗において、「スナックシャネル」の営業表示を使用し、サインボードにこれを表示して飲食店を開店した。同店は、被上告人の外に従業員一名及びアルバイト一名が業務に従事し、一日数組の客に対し酒類と軽食を提供しており、昭和六一年から平成四年までの年間平均売上高は約八七〇万円程度であった。被上告人は、本件訴訟が提起された後である平成五年七月、右飲食店に使用していたサインボード四枚のうち一枚の表示を「スナックシャレル」に変更したが、残り三枚のサインボードについては、現在でも「スナックシャネル」の表示を使用している(以下、この二つの表示を合わせて「被上告人営業表示」という。)。

二 原審は、右事実関係の下において、(1) 被上告人営業表示は、いずれも「シャネル」の表示と類似するが、(2) 被上告人の営業の種類、内容、規模等に照らすと、被上告人が被上告人営業表示を使用することにより、一般の消費者において、被上告人がシャネル・グループと業務上、経済上又は組織上何らかの関係が存するものと誤認するおそれがあるとは認め難く、被上告人営業表示の使用がシャネル・グループの営業上の施設又は活動と混同を生ぜしめる行為に当たるものと認めることはできないと判示して、上告人の請求を棄却した。

三 しかしながら、原審の右判断のうち(2)の部分は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

 旧不正競争防止法(平成五年法律第四七号による改正前のもの。以下、これを「旧法」といい、右改正後のものを「新法」という。)一条一項二号に規定する「混同ヲ生ゼシムル行為」とは、他人の周知の営業表示と同一又は類似のものを使用する者が自己と右他人とを同一営業主体として誤信させる行為のみならず、両者間にいわゆる親会社、子会社の関係や系列関係などの緊密な営業上の関係又は同一の表示の商品化事業を営むグループに属する関係が存すると誤信させる行為(以下「広義の混同惹起行為」という。)をも包含し、混同を生じさせる行為というためには両者間に競争関係があることを要しないと解すべきことは、当審の判例とするところである(最高裁昭和五七年(オ)第六五八号同五八年一〇月七日第二小法廷判決・民集三七巻八号一〇八二頁、最高裁昭和五六年(オ)第一一六六号同五九年五月二九日第三小法廷判決・民集三八巻七号九二〇頁)。

 本件は、新法附則二条により新法二条一項一号、三条一項、四条が適用されるべきものであるが、新法二条一項一号に規定する「混同を生じさせる行為」は、右判例が旧法一条一項二号の「混同ヲ生ゼシムル行為」について判示するのと同様、広義の混同惹起行為をも包含するものと解するのが相当である。けだし、(一) 旧法一条一項二号の規定と新法二条一項一号の規定は、いずれも他人の周知の営業表示と同一又は類似の営業表示が無断で使用されることにより周知の営業表示を使用する他人の利益が不当に害されることを防止するという点において、その趣旨を同じくする規定であり、(二) 右判例は、企業経営の多角化、同一の表示の商品化事業により結束する企業グループの形成、有名ブランドの成立等、企業を取り巻く経済、社会環境の変化に応じて、周知の営業表示を使用する者の正当な利益を保護するためには、広義の混同惹起行為をも禁止することが必要であるというものであると解されるところ、このような周知の営業表示を保護する必要性は、新法の下においても変わりはなく、(三) 新たに設けられた新法二条一項二号の規定は、他人の著名な営業表示の保護を旧法よりも徹底しようとするもので、この規定が新設されたからといって、周知の営業表示が保護されるべき場合を限定的に解すべき理由とはならないからである。

 これを本件についてみると、被上告人の営業の内容は、その種類、規模等において現にシャネル・グループの営む営業とは異なるものの、「シャネル」の表示の周知性が極めて高いこと、シャネル・グループの属するファッション関連業界の企業においてもその経営が多角化する傾向にあること等、本件事実関係の下においては、被上告人営業表示の使用により、一般の消費者が、被上告人とシャネル・グループの企業との間に緊密な営業上の関係又は同一の商品化事業を営むグループに属する関係が存すると誤信するおそれがあるものということができる。したがって、被上告人が上告人の営業表示である「シャネル」と類似する被上告人営業表示を使用する行為は、新法二条一項一号に規定する「混同を生じさせる行為」に当たり、上告人の営業上の利益を侵害するものというべきである。

四 そうすると、原判決中、これと異なる判断の下に、被上告人営業表示に関する上告人の使用差止め及び損害賠償の請求を棄却すべきものとした部分には、法令の解釈適用を誤った違法があり、この違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。この点に関する論旨は理由があり、その余の上告理由につき判断するまでもなく、原判決中、右請求に関する部分は破棄を免れない。そして、以上の説示によれば、第一審判決中、被上告人営業表示の使用差止請求を認容した部分は正当であるから、被上告人の附帯控訴はこれを棄却すべきであり、右表示に係る損害賠償請求に関する部分については、損害額について更に審理を尽くさせる必要があるから、本件を原審に差し戻すのが相当である。また、被上告人営業表示を除くその余の表示は、被上告人が現に使用しているものではなく、これが使用されるおそれについての主張立証もないので、原判決中、右表示に関する請求を棄却すべきものとした部分は、結論において正当であるから、上告人のその余の上告を棄却することとする。

 よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判長裁判官 藤井 正雄 裁判官 小野 幹雄 裁判官 遠藤 光男 裁判官 井嶋 一友

裁判官 大出 峻郎

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第26 安売り業者を排除する場合の共同ボイコットへの適用の構成要件

トイザらス事件は安売り業者を排除したという点で違法性の程度が、本件事件同様に、非常に高い事件である。判例という事業に必要な必須の道具へのアクセスを独占している弁護士業界と同様に、埼玉県の取引事例という事業に必須の要素を要素を独占している被上告人(債務者)の共同ボイコットは、それがどのような意図であっても、共同ボイコットであってアメリカでは当然に違法であるケースがあることを示している。しかし日本では当然に違法の概念はないが、日本の共同ボイコットにおける「正当な理由なく」の解釈は当然に違法の概念を前提にしているという学説がある(慶応義塾大学石川氏等多数派の学説)。

日本の共同ボイコットは法第19条の一般指定第1項によって規定されており、一般指定は法令に該当すると考えられる。この共同ボイコットに関するガイドラインの法的効力については、独立行政委員会である公正取引委員会行政指導であるとも解釈されるが、公正取引委員会による法令に該当すると考えられ、本件事件はその例示に該当する行為であり、法令の適用を誤ったものであると考えられる。

この場合に共同ボイコットの理由をどのように言おうとも、それは単なる弁解にしか見えない。それが公正競争阻害せずに、公正競争を促進するという理由付けのみが考慮に値すると考えられる。

入会に関するモラトリアムは共同ボイコットとしてとらえられるが、入会金の値上げについては相当な人数の業者が入会できずに入会していないのは、公正競争阻害の効果が存在していると考えられる。

その人数については平成15年4月頃調査した結果では、26業者中の19業者が入会していなかった。

また価格については事業実績報告書において提出することになっており、平成16年についてみると裁判所の競売評価については2417件に対する報酬額が387,454千円一件14万円程度、全体の依頼件数が7,784件で1,381,971千円であり、一件19万円程度であるのに、上告人(債権者)の受注金額は36件、1,008千円であり、一件3万円以下である。この価格は東京では一般的になっている。従って安売り業者であった(今もある)からこそ、被上告人(債務者)は共同ボイコットを行い続けているのである。しかも上告人(債権者)はこれらを北海道、佐賀、富山において鑑定評価を行っているのである。しかも被上告人(債務者)であれば、その協定価格(カルテル)ではもっと数10倍にもなる物件を鑑定評価を行っているのである。これは鑑定評価の手間は金額の大きさにかかわらず、ほぼ同じであるという理由によっている。これに対する共同ボイコットの脅威は今も今後も、過去も続いてきたのであり、回復しがたい損害の危険があるといいうる。被上告人(債務者)はこの利権ともいえるものを守るために入会にモラトリアムを設けているのである。

一審で主張しているとおりに、安売り業者を排除する目的であったと上告人は主張している。確かに個人的な好き嫌いによってこれまで事業者団体の総会では、大混乱をしてきた。これを法は止めることが出来なかった。無効確認訴訟では負けると分かった訴訟であったので、誰も対処できなかったのである。これが日本における事業者団体の公正競争阻害につながり、日本の公共事業の非効率性、日本の価格体系における価格の固定制につながっていた。しかし今回の差止制度の導入は差止という制度によって新しい判決を国会が公的に法的に認めたのであり、その際のもっとも当てはまると考えられた入会拒否について、第一審、第二審での判断は法令の適用においても、更には法的に上の段階にある憲法の適用においても誤ったものである。

共同ボイコットは、法第19条において規定されている。事業者団体においては法8条1項5号において規定されている。

この場合には次の通り4つの構成要件についてテストするべきである。本件事件においてはこの4つの構成要件に完全に合致しているといえる。

第一の構成要件は共同ボイコットの合意の目的が被上告人(債務者)の競争者たちに不利益をもたらす故意があったのであるから、競争制限的であったことであった。第二の構成要件は、被上告人(債務者)とそれに関与した企業群は市場において支配的な地位にあったことであった。第三の構成要件はこの共同ボイコットによって、ボイコットされた企業群は競争を効果的に遂行するために必要である製品や取引へのアクセスが出来なくなったことであった。第四の構成要件は、本件行為が総合的にみて効率性を増大させたという正当化の論理が外見からもっともらしくなかったことであった。

安売り業者を排除した典型的な事例であり、ノースウエスト卸売事務用品会社事件のアメリカにおいて確立された最高裁判所の判決にならって。更にはそれが安売り業者を排除する共同ボイコットにも適用されたトイザらス事件にならって、日本においても同様な判例を世界の動向に遅れないように作成する義務があると考えられる。これは私訴を行っている人々の願いでもあり、それによって莫大な損失を被っている事業者の願いでもある。今後の独占禁止法の適用における日本の動向にも適合したものとなるように上告及び仮処分の申請を行うものである。

第27 継続性

本件事件の行為は不当な取引制限の相互拘束にも該当するような一般指定1項(共同の取引拒絶)に該当するという主張に変更する。

この場合に被上告人(債務者)においては毎月理事会が開かれており、自由な意思によっていつでも犯罪行為にも等しい本件行為をやめる機会があるにもかかわらず、公正競争阻害性を認識することなく、中止するにいたっていない。これは継続性が認められ、その都度犯罪が成立しているといえる。自由な意思の形成可能性は、犯罪や、故意の原点にある。その都度故意が認められといえる。また、片方では不当な取引制限に近い公正競争阻害のある行為を行いながら、片方では法人として固定資産税の標準宅地の鑑定評価の受注行為や契約を行っている。

本件事件は私訴であるから、禁止行為について全般的に責めているのではない。その権限は公正取引委員会にしかない。ドイツ法に言う禁止である。私人が責めているのは損害を自分に与えた、あるいは与え続けている被告である。しかし被告が全般的にも公正競争阻害性のある行為を行っているのでなければ、独占禁止法上の俎上にのることはない。カルテルとして批判できないが、その一部としての行為は私訴の対象とないうる。その場合にもし契約違反であれば民法の不法行為法によって責めることになるのではあるが、独占禁止法ももともとは不法行為法ではなかったのか、従ってそのどこが両者で違っているのだろうか。その違いは念書を取って参入させるのと、念書を書かない事業者を入会させないこととの違いによって理解できる。どちらも公正競争阻害性がある。しかし念書を取ってカルテル組織に入れることは、何らの私訴による損害賠償請求の対象となるようなものを発生させないが、後者は発生させている。つまり個別的事業者に対して、特にカルテルの対象が向けられた場合にのみ、個別企業に対する何らかの損害が発生し、損害賠償請求の私訴が行われる状態になる。個別企業に対する損害はその個別企業は特に安売りをするとか、品質を向上させたとか、販売方法がユニークであるとか、絶対にカルテルに参加しようとしないとかの特殊な事情がある場合にのみ対象となるのである。従って共同ボイコットの事例において、どのような事業者に対しても公正競争阻害が発生するような入会制限と、このような特殊なケースとは全く違ったケースである。本件においては16倍の値上げはどのような事業者に対しても、平等に公正競争阻害を発生させるものであるが、もっと自由競争をさせよ、もっと安売りしたいという事業者に対する公正競争阻害を発生させるような行為は、念書を書かせて、カルテルに埋没させられるような業者に対しては行われないのである。しかしどちらもまた社会公共に対する罪であるからこそ、公正競争阻害によって税金泥棒と俗にいわれているような窃盗と同じような罪に該当しているのである。

個別企業に対する保護の側面と、独占禁止法における社会公共に対する公正競争阻害の罪の側面とが対比される。しかし個別企業に対する保護の側面も、公正競争阻害による側面を併せ持っているのであって、個別企業に対する保護の事件においても公正競争阻害性のある行為が行われるのは本件事件におけるように純粋に個人的な理由によるのではなくて、公正競争阻害性があり、価格を高どまりさせられうるからそうするのが事業者団体の性格であり、事業者の複数の集団の性格である。

もしそうでなければ、そのうちやめているであろう。

共同ボイコットにおいてどのような事業者に対してでも行われるものであっても、正当な理由なくば原則違法との考え方はこのような公正競争阻害性に重点を置いてみているのである。

一方では個別企業に対する保護の側面では保護される事業者が特に自由競争において勝つであろうような安売りしたいという業者や、安売りをしている業者や、品質のよい業者や、販売方法がユニークである業者に対して行われるのである。

それならば入会を希望していない業者に対しても、公正競争阻害があることになって、そのような事業者が入会希望したならば、もし自由競争をしたいとか、安売りしたいとか、品質的によいとかの業者に対してでなければ、念書をとって入会を認めるのと同じ効果しかその市場に対して与えないから、それ程問題なく入会させてしまうであろう。

これが共同ボイコットの範囲を制限するか、入会制限と同じように誰に対するものであっても共同ボイコットするのかという問題となっている。

これは共同ボイコットの公正競争阻害による違法性の程度と、個別企業に対する損害発生の程度の問題である。

この場合には別の解き方もある。これはノースウエスト卸売事務用品会社事件において取られた方法である。またトイザらス事件において採用された方法である。

個別企業に対する損害が大きい場合というのは、市場においての参入制限が市場支配力のあるものによって行われた場合、あるいは、市場へのアクセスに必要な必須のサブスタンシャルを持っている場合である。

これは個別企業に対する排除が個別企業に対する損害を与えるかどうかという見方と共通している。この問題を解く場合には、念書をとって入会させている場合と、安売り業者が念書を書かなかったので入会させなかった場合における公正競争阻害性と、各個別企業の損害とを比較してみるのもひとつの方法である。

市場支配力を有しており、実質的な必須の資源を持っている事業者団体の場合には、入会しないことは損害をもたらすが、安売り業者が入会できない場合にはもし入会した場合には価格競争によって価格が下がり公正な競争が促進されるのであるがそうではない場合には、あるいは、念書を書いて安売りをしません、あるいは、価格競争はしませんという念書を書いて市場に参入する場合には市場はほとんど価格の値下がりによって消費者によい影響をもたらさないことになる。

全員が念書を書いて入会している不動産鑑定士協会があるとしてその例と比較して、埼玉県の様に26業者中の19業者が平等に少ない損害を16倍もの入会金の値上げによって受けている場合を比較してみる必要がある。16倍もの入会金の値上げに対して17業者は将来の市場割当がその入会金を上回るものと確信して、念書を書いて排除されないようにして入会したとする。実際はタシットコルージョンによるものが多いが、今では誓約書を書かせているので、暗黙ではなくなっている。

特に入会を申し込んで、断られた上告人(債権者)のみが損害を受けているとは考えられないだろうか。上告人(債権者)は損害の立証はできるし、それが被上告人(債務者)の責任であることを証明することができるが、入会しなかったものは責任の立証ができず、あるいは、念書を書いて入会したものは損害そのものがなくなってしまっている。

確かに入会金の値上げによって入会しなかった事業者は被害を受けている。しかし責任は入会しなかった自分にあるとされてしまいかねないので、クラスアクションを19業者がまとまって起こすこともできない。すなわちクラスアクションが起こせるのは消費者として、その公正競争阻害によって効率性がそこなわれたことに対してだけである。損害と公正競争阻害性とはどのように係わっているのであろうか。このような事業者は入る意思がなかったのであるからという理由で、私訴の対象とはならない。

しかしもし19業者は平等に損害を受けているのであるから、クラスアクションによって全員が共同歩調によって損害賠償請求ができるであろうか。この場合にはノースウエスト卸売事務用品会社判決が重要になる。自由競争の状態においての入会拒否と対比してのものである。もし公正競争阻害性がなく、自由競争の世界においては入会金が値上げされたら、入会せずに安売りを続ければよいのであるから、なんら問題はない。従ってどのような入会金の値上げも意味がなく、かえってその事業者団体を傷つける事になる。

つまり誰も入会しなくなる。安売り業者は費用に影響するというのでさらに費用を考慮して入会しなくなる。

ノースウエスト卸売事務用品会社判決が重要なのは、共同ボイコットを審理する上で、公正競争阻害性ある行為と、ない行為とを分けた点にあるのか、損害の発生がある場合とそうでない行為に分けたのか。後者である。これは重要な点である。一方で安売りや、品質のよいという形容詞によって限定することはノースウエスト卸売事務用品会社判決において示された点を例示によって個別的に分析した結果、そのような例示の場合には公正競争阻害性が高いということを示しているに過ぎないのであって、一般と例示の区別である。

例えば安売り業者が排除された場合でも、一般には共同ボイコットにはなるが、自由競争であって排除したものに市場支配力がない場合や、事業に必要な必須の施設を管理していない場合には、損害が発生しないから共同ボイコットにはならないということなのである。この場合に16倍に値上げしたことが共同ボイコットにあたるかという問題がある。市場支配力を持つ事業者団体であり、必須な施設を管理している場合には該当することになる。

従って継続犯になっているかどうかは、一方で市場支配力と必須の施設を持っておきながら、排除の行為を行っているかどうかにかかっているのである。それでも必須の施設が自分の資本力で作ったとか、市場支配力が公共の目的で使用されたもので、公共的な目的で排除するのが妥当なときにのみは排除が正当化されることになる。継続犯になっているのはそのような正当な理由がなくて、排除が行われているときであるということになる。

従って本件においては独占禁止法上、被上告人(債務者)に公的な信用という市場支配力があり、公的な必須の施設を管理がまかされているのであるから、特に公的な理由がなければ排除は正当とはみなされないのである。

ノースウエスト卸売事務用品会社判決がこのように重要な意味を持つのは、継続犯になる場合を特定したからである。本件事件の状況は変わらないので、継続犯となりうる。

第28 差止仮処分における訴訟物を終結後の分に限るとしても、損害の著しさを損害の総額であると解釈すれば、始期からの損害に着目しなくてはならないが、損害の質に着目すればいつにても何回でも、日々に差止の仮処分が提出できることになる。

継続的に継続的な違反として違反行為が行われていると主張した場合、原告は差止の仮処分をいつにても提出することができることになる。従って継続犯としての刑法犯の概念と同様な概念によってではなく、終結後にも違反行為が行われているとして、終結後の行為のみについて違反であると主張することができるのであろうか。

あるいは継続の始期から現在までの違反の損害額を請求出来るのであろうか。著しい損害を始期から現在までの総合計と考えるならば、できることになる。

しかし損害について始期から、終了までどの程度のものが著しいかという問題であれば、差止は継続的な違反の始期から考えなくてはならないことになり、これは継続犯の場合には累積的であるから、いつ現行犯が逮捕できるのかという問題と同じことになる。

それは証拠が固まった時であり、それまではいつでも逮捕できることになる。継続犯の場合に、逮捕しても証拠不十分で保釈された場合でも、後で起訴できれば、最初から遡って犯罪が適用されるように、不起訴になったからといっても、証拠不十分ではその時点までの犯罪がすべて免除されたことにはならない。

従って、その程度においていつまでが損害額が免除されるかということが審理されなくてはならない。差止はそのような意味を持つが、しかし差止の仮処分は急迫の危険が現在あるのかを問題としているのであるから、いつにてもすなわち本件事件の場合には終結後のいまでも裁判を求めることができることになる。

予防差止についてはすでに判例がある。「著作権法112条は、著作権を侵害するおそれがある者に対し、その侵害の予防を請求することができる旨規定しているから、既に著作権が発生している場合は、たとえ侵害行為自体は未だなされていない段階においても、予測される侵害に対する予防を請求することができることはいうまでもない。また民事訴訟法226条は、必要性がある場合には将来の給付を求める訴えをすることができると規定しているから、日刊新聞のように、短い間隔で定期的に継続反復して発行される著作物について、これまで著作権侵害行為がその発行毎になされてきた等の事情から、将来も発行予定の著作物に対する同種侵害行為が予想され、しかも発行による著作権の発生を待っていては実質的に権利救済が図れない場合には、将来の給付請求として、著作物が発行されることを条件として、予測される侵害行為に対する予防を請求することができると解するのが相当である。」(著作権仮処分異議事件 東京地裁平成三年(モ)第六三一〇号平成5年8月30日判決)としたことからも分かるとおりに本件差止の仮処分は、おそれ、あるいは、予防をも請求しているのであるから、訴訟物が異なっており、確定していない判決に対する差止の仮処分の申請、あるいは、終結後の現在新たに訴訟を提起することに何等の訴訟物の同一の問題は発生していない。継続犯の場合には将来も違反行為が続くと考えられるので、日々その違反行為に対して差止請求ができる。本件事件についてカルテルの一部とすることには意味がある。

注:東京高裁が、不当な取引制限の罪は「競争が実質的に制限されているという行為の結果が消滅するまでは継続して成立し」と明確に判示したことは重視すべきであるとも思われる。(子木曽国隆『私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律 注解特別刑法 補巻3』(青林書院、1996年)59頁以下,田中利幸「不当な取引制限の罪の性質---継続犯か状態犯か」独禁法審決判例百選(第6版)262頁以下(2002年)、大山徹「継続犯としての不当な取引制限(1)」杏林社会科学研究19巻3号49頁以(2003年)、およびそれらに所掲の諸文献を参照。

Dauerverbrechen: continuouscommit a crime 継続犯

英語において、継続的とボイコットに関して検索するとAMA事件がある。

The district court also found a continuing injury to chiropractors' reputation as a result of the boycott. Because the AMA has never made any attempt to publicly repair that damage, the court found that chiropractors will continue to suffer injury to reputation from the boycott. 671 F. Supp. at 1486-87. The AMA's publication of its changes and its settlements were not enough, in the eyes of the district court, to overcome these harmful effects. The AMA has not convinced us that the district court was wrong in this assessment.

[88] The AMA's strongest challenge comes to the district court's findings with respect to the lingering effects on chiropractors' incomes. The court found that the injury to chiropractors' incomes threatened to continue through the date of trial. 671 F. Supp. at 1487. For this it relied on plaintiffs' expert's analysis regarding chiropractic income levels through 1986. (Jt.App. 57.) The court found this continuing harm existed, even though plaintiffs' expert's last data point showed that chiropractors' income in 1984 exceeded that of podiatrists and optometrists -- the comparable professions. 671 F. Supp. at 1487.

東北法学会会報19号1頁(2001)

「入札談合に対する独占禁止法上の規制の当面する課題」

東北大学法学部教授 平林 英勝

 入札談合がわが国経済に広く蔓延しているが、過去十年余りにおける公取委

が法的措置をとった独禁法違反事件においても半分程度を入札談合が占めてい

る。

一 証拠の収集に関する問題

 刑事告発が行われるなど、入札談合に対する規制が厳しくなるにつれて、事

業者側でも証拠書類を残さなかったり、公取委における供述聴取においても否

認に終始するなどのケースが増えている。 そのため、公取委の事件審査が難

航したり、法的措置をとるのがむずかしくなったり、法的措置をとっても審判

で争われることが少なくない。この傾向は、多数の事業者がかかわるローカル

な事件よりも、少数の寡占的大企業による入札談合事件に顕著である。

 そのため、犯則事件手続の導入が考えられるが、これによってもともとない

証拠が得られるようになるわけではない上、犯則事件手続は刑事手続に直結し

刑事罰を適用することを目標とするから、行政処分を基本とする現行法の体系

や運用の再検討が必要になるし、審査手続と犯則事件手続との二本建ての手続、

組織を設ける必要があるといった種々の問題がある。

 事件審査に協力した事業者に課徴金を減免することにより、協力のインセン

ティヴを高めることも考えられるが、課徴金制度の基本的な性格にかかわるこ

とであり、慎重な検討が必要である。減免制度を導入するとすれば、それは事

件の円滑な審査という政策的な目的のためのものと位置付けるしかなく、かつ

減免の条件を法定することが必要になる。

 実際問題として、違反企業が懸念するのは課徴金より刑事告発であるから、

公取委の専属告発権の裁量を行使して事件審査に協力する事業者やその役員・

従業員を告発しないことが考えられる。 その場合、告発免除について公取委

は検察当局と事前に協議し、その了解を得ておく必要がある。

 他方、入札談合の立証に、不自然な入札結果など状況証拠を一層活用するこ

とがある。

二 発注者の関与についての問題

 発注者側の問題として、発注者の職員が談合に関与していたりすることがあ

り、特に北海道の農業土木事件に関連して、発注者にも排除勧告などが出せる

ように法改正すべきではないかとの意見が出されている。しかし、独占禁止法

は市場における事業者の競争制限行為を規制することを目的としているから、

基本的には会計検査や行政監察の問題である。ただし、公取委の発注者への改

善要請に法的裏付けを与えることは考えられるし、必要な場合には、入札談合

に関与した職員個人の刑事責任を問うのが本来の姿である。

三 刑事告発に伴う諸問題

 平成一二年一二月の東京都発注水道メーター入札談合事件の東京高裁判決は、

不当な取引制限の罪について、継続犯であるとしたことと、相互拘束行為の

「遂行行為」も独立の実行行為となるとした画期的な意義がある。

 不当な取引制限の罪が状態犯であるとすると、入札談合の基本合意が公訴時

効の三年以前に合意されていると、その後個別調整が続けられていたとしても、

告発、起訴ができなくなるという基本的な問題があった。

 基本合意に基づいて個別調整を続けていることは、不当な取引制限の構成要

件である競争を実質的に制限する「行為」をし、自由競争経済秩序という法益

を侵害し続けていることである。状態犯説によると、以前から入札談合を続け

ている業界は時効の恩恵を受けるが、最近始めた業界は受けないというのも奇

妙である。

 状態犯説は、会社のレベルでは合意は継続していても、個人のレベルでは新

たな実行行為者が次々に現れて合意を継続させているにすぎないとするが、ま

さに個人のレベルで前任者から合意を継承して個別調整行為をしていることが

問題なのであり、これを合意を維持する行為としてとらえることが特に難しい

とも思われない。 

 本件判決は相互拘束の「遂行行為」という概念を認めたことは、状態犯説の

このような難点を克服することにもなり、その点で告発、起訴の柔軟性を高め

ることになる。 しかし、この遂行行為とは価格連絡・入札行為まで入るのか、

価格カルテルの場合はどうか、明らかでないなどの問題が少なくない。

四 民事訴訟への協力

 公取委が入札談合等の独禁法違反を認定すると、最近では、それによって損

害を被った発注者が損害賠償請求訴訟を提起したり、住民が地方公共団体に代

位して損害賠償請求訴訟を提起することが珍しくない。 公取委は、違反が確

定し、原告の申し立てにより裁判所から文書の送付嘱託があったときは、違反

を認定する基礎となった主要な証拠の一部を提供することにしており、これも

入札談合を抑止することにつながるのであるから、公取委は今後とも積極的に

裁判所に協力していくべきである。

注:請求適格のレベル−予測可能性

将来給付の訴えは、すでに発生している請求権のみならず、将来発生する請求権のためにも許される。口頭弁論終結後も土地の不法占拠が継続することにより生ずる損害賠償請求権が、その典型例である。しかし、判決において将来発生するであろうと認められた請求権が発生しないことになった場合には、その判決に基づく強制執行を阻止するために、債務者は請求異議の訴えを提起しなければならないという負担を負う。債権者と債務者の利益の適切な調節として、将来給付の訴えが許されるためには、訴求債権が次のいずれかに該当することが必要である。

期限付債権・条件付債権  既に権利発生の基礎をなす事実関係及び法律関係が存在し、ただこれに基づく具体的な給付義務の成立・内容が将来における一定の時期の到来や債権者において立証を必要としないか又は容易に立証し得る別の一定の事実の発生にかかっているにすぎない期限付債権や条件付債権[58]であることが必要である。不確定期限の到来および条件成就の多くは執行文付与の段階で確認し(民執27条)、確定期限の到来および簡易に認定できる条件の成就(担保提供、代償請求の条件たる本来給付の執行の不奏効)は、執行機関が判断する(民執30条・31条)。

その他の将来発生すべき債権  これは、次の要件を満たすことが必要である:(α)その基礎となるべき事実関係及び法律関係が既に存在し、その継続が予測されるとともに、(β)右債権の発生・消滅及びその内容につき債務者に有利な将来における事情の変動が予め明確に予測し得る事由に限られ、(γ)しかもこれについて請求異議の訴えによりその発生を証明してのみ強制執行を阻止し得るという負担を債務者に課しても、当事者間の衡平を害することがないこと(最判昭和63年3月31日 ・判時1277号122頁)。

肯定例  次のものは、将来給付の訴えの対象適格を有する。

不動産の不法占拠者に対し明渡を求めるとともに、明渡義務の履行完了に至るまでの賃料相当額の損害金の支払いを予め請求すること[24]。

債務不履行による遅延損害金の支払請求

否定例  次のものは、将来給付の訴えの対象適格を有しないとされた。

航空機の夜間離着陸による騒音公害を原因とする将来の損害の賠償請求。最判昭和56.12.16民集35-10-1369[百選*1998a]68事件は、大阪国際空港公害差止請求訴訟において、「同一態様の行為が将来も継続することが予測される場合であっても、それが現在と同様に不法行為を構成するか否か及び賠償すべき損害の範囲いかん等が流動性をもつ今後の複雑な事実関係の展開とそれらに対する法的評価に左右されるなど、損害賠償請求権の成否及びその額を予め明確に認定することができない」場合には、将来給付の訴えは許されるべきでないとした。これに対しては、最少限の被害発生が確実に継続する期間を定めるなどして、将来給付の訴えを許すべきであるとする見解も有力である[30]。

注:こちらは訴訟物の考え方で、更に一歩先へ行った話ですけれども、一部請求は許されるか。あるいは、継続的な違法行為に基づく損害賠償請求権というのは、いったいそれを区切る単位というのは何だろうかという問題に絡みます。ずっと継続して侵害行為が行われている。日々損害が発生しているというわけです。何月何日の販売という違法行為によって生じた損害と、翌日に販売という侵害行為をして生じた損害は損害賠償請求権として別のものなのかという議論になってくるわけです。皆さんの常識からすると、同じ複製権侵害を理由として、継続して出版・販売している場合の行為というのは、一つに数えていいのではないかということになるだろうと思います。実際はそれでいいと思います。出版・販売という一類型の行為がずっと続いた損害賠償請求権は、訴訟物としては1個だと一応考えていただいて結構だと思います。しかし、一部請求という議論がありまして、これは民訴の中でも訴訟物論の更に進んだところの話です。(著作権と民事訴訟(弁護士 牧野利秋))

第29 継続犯と、継続的損害との関係

    

公正競争阻害性である継続犯と、損害の継続とは密接な関係にある。

特に継続犯の場合には損害の継続が続いてはいるが、しかしそれは社会公共に対する罪である。

一方損害の継続が個別事業者に対して行われている場合には、社会公共に対する公正競争阻害性の継続は少ない場合があり得るし、逆に公正競争阻害性は継続していない場合があり得る。二つの企業がお互いに傷つけあうような形で独占禁止法に違反している場合には、片方が他方の利益を競争上奪っているだけであって、総合計としてはゼロサムになっていて、公正競争阻害性は存在していないことがあり得る。但しこれは完全に架空の想定の場合であり、実際はあり得ないかもしれない。

本件の場合には公正競争阻害性が存在していることと、個別企業に対する損害を与え続けていることの双方が存在している。

Antitrust Laws

反トラスト法

Under the Sherman Act, every combination or conspiracy in restraint of trade is illegal.

シャーマン法によれば、競争制限のすべての結合と共謀は違法である。

The court has held that the conduct of the AMA and its members constituted a conspiracy in restraint of trade based on the following facts: the purpose of the boycott was to eliminate chiropractic; chiropractors are in competition with some medical physicians; the boycott had substantial anti-competitive effects; there were no pro-competitive effects of the boycott; and the plaintiffs were injured as a result of the conduct.

医者の担当分野の一部とカイロプラクティック業界が競争的な関係にあったので、カイロプラクティックを排除しようとしたことがボイコットの目的であること、このボイコットは本質的に競争制限的な効果を持っていること、競争促進的な効果はなかったこと、また原告はその行為の結果損害を被ったこと、の4つの事実を基礎にしてアメリカ医師会とその会員の行為は、取引の制限の共謀となっていると裁判所は認定した。

These facts add up to a violation of the Sherman Act.これらの事実を総合してシャーマン法の違反となった。

The district court also found a continuing injury to chiropractors' reputation as a result of the boycott.

また地方裁判所はボイコットの結果として、カイロプラクティックの評判に対する継続的な損害を認定した。

Because the AMA has never made any attempt to publicly repair that damage, the court found that chiropractors will continue to suffer injury to reputation from the boycott.

その損害を公的に修復するどのような試みも行って来なかったので、ボイコットは評判に対する損害を発生させて、与え続けるだろうと裁判所は認定した。

671 F. Supp. at 1486-87.

    The AMA's publication of its changes and its settlements were not enough, in the eyes of the district court, to overcome these harmful effects.

アメリカ地方裁判所は、医師会による変更の表明と、和解条件ではこれらの損害を与えた効果を補うのに充分ではないと判断した。

The AMA has not convinced us that the district court was wrong in this assessment. アメリカ医師会によって、この和解条件については地方裁判所が悪かったということをカイロプラクティック側は理解していない。[88]

The AMA's strongest challenge comes to the district court's findings with respect to the lingering effects on chiropractors' incomes. カイロプラクティック業界に長引く効果を与え続けていることを地方裁判所は認めたことにアメリカ医師会は非常に強く異議を申し立てた。

The court found that the injury to chiropractors' incomes threatened to continue through the date of trial.裁判の公開中ずっとカイロプラクティック業界の収入に損害を与え続けていることについて裁判所は認定した。

671 F. Supp. at 1487.

For this it relied on plaintiffs' expert's analysis regarding chiropractic income levels through 1986.これは1986年のカイロプラクティック業界の収入の水準にについての専門家の分析によっている。

(Jt.App. 57.)

The court found this continuing harm existed, even though plaintiffs' expert's last data point showed that chiropractors' income in 1984 exceeded that of podiatrists and optometrists -- the comparable professions.原告側の専門家による最近のデータのポイントは、カイロプラクティック業者の1984年の収入は、比較できる職業である足専門医や検眼医の1984年の収入を上回っていたにもかかわらず、この継続的な損害を裁判所は認定した。

671 F. Supp. at 1487.

確かに継続的な損害の発生という言葉は、常に共同ボイコットについては使うことができる。東京高裁が、不当な取引制限の罪は「競争が実質的に制限されているという行為の結果が消滅するまでは継続して成立し」と明確に判示したこととの関連については、例えば一般的に誰でもに対して行われる共同ボイコットについては損害についての認定はあまり意識されていない。しかし本件事件のような常に入札に参加しようという業者で、それも安売りをしようという業者に対しては継続的に損害を与え続けている。だがこれは公正競争阻害性が「競争が実質的に制限されているという行為の結果が消滅するまでは継続して成立し」ているととらえられる不当な取引制限の罪とは異なった概念ではある。確かに共同ボイコットにおいても公正競争阻害性が継続的に罪として成立しているという概念と、損害が継続的に与えられて続けているという概念とは異なっている。

例えば、本件においては公正競争阻害性がますます強まるように、公正競争阻害性をそのまま継続しますという念書を取って入会させ続けるとすれば、それは本件事件である共同ボイコットよりも公正競争阻害性がより強いにもかかわらず、その事業者に対しては一切損害を発生させていないのである。

逆にそのような公正競争阻害性が存在しない市場においては、例えば価格協定が行われていないような市場、それが化粧品業界であれば、その業界においては公正競争阻害性が存在しないのであるから、共同ボイコットも一切損害を発生させないことがあり得る。

公正競争阻害性の継続の問題をいっているのが継続犯の概念であり、損害の継続、即ち、不法行為の継続の問題について述べているのが、損害の継続性の概念である。

例えば、次のような事件では公正競争阻害性が少ないと考えられるが、損害は大きかった。

注:(評釈)本件事件において、ハーバード学派のようにシャーマン法の第2条(独占化)を主張した場合の損害との因果関係はどうなるか。取引拒絶の場合と違って因果関係の論証、故意、過失が難しいのか。本件の場合にも独占であるとしての損害額と独占との因果関係は可能であろうか。

the Court held that a trial judge's exclusion of scientific testimony was reviewable only for abuse of discretion.科学的証拠について事実審の裁判官が取り上げなかった場合に判断の間違いとしてだけ裁判所は再吟味することが出来ると述べた。

Adversarial Economics

敵対の経済学

in United States Tobacco Co. v. Conwood Co.

合衆国タバコ会社 対 コンウッド会社事件

The major producers of moist snuff are United States Tobacco Company, Inc. (USTC) (10) and Conwood Company, L.P. (11)

湿式かぎタバコの主な生産者は合衆国タバコ会社とコンウッド有限会社L.P. limited partnershipである。

In 1998, Conwood filed a complaint in the United States District Court for the Western District of Kentucky alleging that USTC monopolized the moist snuff market in the U.S. in violation of Section 2 of the Sherman Act.

1998年にケンタッキー州の西部地区の合衆国地方裁判所に「USTC(合衆国タバコ会社)が合衆国の湿式かぎたばこの市場において独占していることはシャーマン法の第二条の違反である」と、コンウッドは提訴した。

Developments Jurimetrics, The Journal of Law, Science, and Technology Volume 43, No. 3, Spring 2003, pp. 343-352

「計量法学{けいりょう ほうがく}の発展について」『法律、科学及び技術』43巻、No. 3, Spring 2003, pp. 343-352

c 2003 D.H. Kaye.

著作権 D.H. Kaye

The author served as a consultant to attorneys representing United States Tobacco Co., Inc., in the appeals described here.

この論文で述べている控訴における合衆国タバコ会社側の弁護士のコンサルタントとして著者はサービスした。

ABSTRACT: This article describes a questionable statistical study used to estimate large antitrust damages in United States Tobacco Co. v. Conwood Co., 290 F.3d 768 (6th Cir. 2002)

要旨:この論文は、合衆国タバコ会社対コンウッド事件, 290 F.3d 768 (6th Cir. 2002)での巨大な反トラスト法による損害額の認定に使われた統計的な分析に疑問を呈するものである。

It suggests that the district and appellate courts did not recognize that the study was incapable of separating the effects of legal conduct from illegal conduct and therefore failed in performing their role as gatekeepers for scientific evidence.

この論文は地方裁判所と控訴審の裁判所がそのような分析は合法的な行為による効果と、非合法的な行為から生じた効果とを分離することが出来ていないのであるから、従って科学的な証拠の交通整理としての役割は果たせなかったと主張する。

以下原文

CITATION: D.H. Kaye, Adversarial Econometrics in United States Tobacco Co. v. Conwood Co., 43 Jurimetrics J. 343-352 (2003).

引用:「合衆国タバコ会社 対 コンウッド会社事件における敵対の計量経済学」43 『計量法学』 J. 343-352 (2003).

In 1820, Chief Justice Lord Dallas summarized the testimony of England's leading chemists and technologists as to the safety of a new process for refining sugar in the following lament:

1820年に主席判事のダラス卿は砂糖を精製するための新しいプロセスの安全性についてトップの化学者と技術者のイギリスにおける証言を要約して、次のように嘆き悲しんでいる。

"It must be a matter of general regret to find the respectable witnesses . . . drawn up, not on one side, and for the maintenance of the same truths, but, as it were, in martial and hostile array against each other."

「・・・同じ事実を証明するのに、一方の当事者にとってではなくて、いわば、両当事者お互いにとって戦闘的で、敵対的なものに作成されている場合には、尊重に値する目撃証言を見つけることは、一般的に言えば、非常に悔しいことである。」

(1) He advised the jury that "the two days during which the results of [the chemical] experiments had been brought into comparison, were days, not of triumph, but of humiliation to science."

彼が陪審員にアドバイスした内容は [化学の]実験の結果が比較として用いられている2日間は勝利の日ではなくて、化学に対する冒?の日であった。」ということであった。

In the past decade, the U.S. Supreme Court responded to the "humiliation" of adversarial science in three important decisions.

過去10年間において、合衆国最高裁判所は敵対の科学の「屈辱」になるような三つの重要な判断を下している。

In 1993, the Court in Daubert v. Merrell Dow Pharmaceuticals, Inc.

1993年のダウバート対メレルダウ薬品会社事件において

(3) relied on the words "science" and "knowledge" in the Federal Rule of Evidence governing scientific testimony to incorporate a requirement that the method used by the expert be scientifically valid, and it suggested that trial courts ascertain validity by considering

科学的証明という連邦における証拠の原則において「科学」と「知性」という言葉を信頼して、専門家によって使用された手法が科学的に有効であるかどうかに関して立脚するべき要件を必要とするとし、それは次の4点を考慮することによって法廷は有効性を確かめる様に提言した:

(1) the extent to which the expert's method has been tested,専門家の手法がテストされたその限度において (2) its error rate and the presence or absence of "controlling standards" for applying the method,その手法のエラーが起こる程度、また、その手法が適用されるための「管理基準」があるか、ないか (3) its use in peer reviewed publications, 専門分野の権威ある研究者によって評価・訂正する制度が使われ、公表されているかand (4) its general acceptance in the relevant scientific community. また、関連している科学的学会において一般的に受け入れられているかFour years later, in General Electric Co. v. Joiner,

4年後には、ゼネラルエレクトリック社対ジョイナー事件においては、

(4) the Court held that a trial judge's exclusion of scientific testimony was reviewable only for abuse of discretion.

科学的証拠について事実審の裁判官が取り上げなかった場合に判断の間違いとしてだけ裁判所は再吟味することが出来ると述べた。

In affirming the exclusion of expert opinions that workplace exposure to polychlorinated biphenyls caused an electrician to develop lung cancer, 肺ガンにおかされている電気技師がポリ塩化ビフェニールに職場でさらされていたことが原因であるとした専門家の意見を採用しない理由としてthe Court reasoned that not only must the data on which an expert relies be generated from a valid method,専門家の利用するデータは有効な手法によって一般化されたデータに依拠しているだけではなくて、 but also that the expert's conclusion be "connected to existing data . . . by [something more than] the ipse dixit of the expert." 「専門家の証拠のない主張「より以上の何か確実なもの」によって・・・現実のデータに直結した」専門家の結論でなくてはならない(5) Two years after Joiner, the Court decided in Kumho Tire Co. v. Carmichael ジョイナー判決から二年後には、裁判所はクンホタイア社対カーマイケル事件において、裁判所は(6) that the factors listed in Daubert for ascertaining scientific validity could be applied to technical (and perhaps other) types of expert testimony. ダウバート事件において科学的有効性があるかどうかの判定に当たって列挙された要因は、専門家の証明の内でも技術的な(他の場合もありうるがそのような)種類のものには適用できるとした。(7)

This Term, the Supreme Court declined to review the application of these "Daubert factors" in United States Tobacco Co. v. Conwood Co.

合衆国タバコ会社 対 コンウッド会社事件について今期の最高裁判所はこれら「ダウバート要因」の適用を再審理せよとの上告を棄却した。

(8) In this antitrust case, the district court allowed plaintiff's expert to estimate lost profits on the basis of a novel theory implemented in the form of a standard statistical technique known as "regression." このアメリカ独占禁止法の事件では、原告側の専門家が「回帰分析」として知られている統計学上の基本的な手法による形態の分析を含んだ新理論を基礎とした逸失利益の推量を地方裁判所は認めた。

Essentially, the district court reasoned that inasmuch as both sides used the technique of regression, all was well.両当事者が回帰分析の手法を使っているのであるから、いいのであると地方裁判所は結論付けているのは重要である。

The court of appeals affirmed the resulting jury verdict and award of $1.05 billion--the largest in the history of antitrust law--on the understanding that plaintiff's study was of the type routinely used to ascertain antitrust violations or damages.

 控訴審は回帰分析の結果から得られた陪審員による判断を認めた、1.05ビリオンドルの損害賠償額を認めた・・・この金額は反トラスト法の歴史の中でもっとも巨額であった・・・それは原告による証明は反トラスト法違反あるいはそれによる損害を確定するのに日常よく使用される種類の手法によっているとの理解によっていた。

This article describes the expert testimony in Conwood and considers how it should have fared under Daubert. この論文はコンウッド事件における専門家の証明を検討して、ダウベートの下ではその手法がどのような正当性があるのかについて考察する。

It shows that, contrary to the Sixth Circuit's opinion, the study departs from the normal econometric approach to establishing causation or damages. (9)第6巡回裁判所の見解と正反対であるが、回帰分析の手法は計量経済学においては因果関係あるいは損害額を認定する一般性のある接近法ではないことを論証する。

The article then offers suggestions for improving the judicial response to contrived statistical studies of damages.

従ってこの論文は、損害額についての不自然な統計的分析に対する法的な反応を改善するための提言を行うものである。

I. CONWOOD'S COMPLAINT

コンウッドの主張

Snuff is a smokeless tobacco product that is placed in small amounts between the cheek and the gums.

かぎタバコは、あごと歯茎の間に少量のはさんで使用する煙の出ないタバコ製品である。

The major producers of moist snuff are United States Tobacco Company, Inc. (USTC) (10) and Conwood Company, L.P. (11)

湿式かぎタバコの主な生産者は合衆国タバコ会社とコンウッド有限会社(L.P. limited partnership)である。

In 1998, Conwood filed a complaint in the United States District Court for the Western District of Kentucky alleging that USTC monopolized the moist snuff market in the U.S. in violation of Section 2 of the Sherman Act.

1998年にケンタッキー州の西部地区の合衆国地方裁判所に「USTCが合衆国の湿式かぎたばこの市場において独占していることはシャーマン法の第二条の違反である」と、コンウッドは提訴した。

Conwood's theory, as developed at a four-week trial, was that:

4週間の裁判においてコンウッドが展開した理論は次の通りである:

In 1990, [USTC] began an orchestrated campaign to choke off the distribution of rivals' products.

1990年に[USTC]は、敵対的な競争業者の製品の流通を妨げる組織的な活動をはじめた。

Disdaining competition on the merits--which [USTC] feared would erode its market share and profit margin--[USTC] used its power to exclude competitors' display racks, advertising, and products.

[USTC]は市場占有率を侵され、超過利潤がなくなると恐れていたので、競争をないがしろにし、その市場支配力を使って、競争業者であるコンウッドの陳列棚、広告物更には製品までも排除した。

[USTC]'s representatives tossed as many as 20,000 Conwood [sales] racks [in retail stores] into dumpsters each month.

[USTC]の代表者は、毎月20000もの(小売店にあった)コンウッドの(販売用)陳列棚をゴミ収集箱に放り込んだ。

(12) USTC denied engaging in systematic, exclusionary conduct of this (or any other) sort.

USTCがこの種の、あるいは他の種類の組織的、排除的な行為を行っていることはないと主張した。

It also moved to exclude expert testimony designed to prove that USTC's allegedly illegal conduct gravely suppressed Conwood's sales of its brands of snuff,

主張されているUSTCの違法行為がコンウッドのブランドのかぎタバコの販売を甚大に圧迫したことを証明するために書かれた専門家の宣誓証言を排除するようにも求めて

and it sought summary judgment.

略式の判決を求めた。

The district court denied these motions.

地方裁判所はこれらの手続を棄却した。

At trial, USTC cross-examined Conwood's expert and presented its own expert, who dismissed the damages study as worthless.

審理においては、コンウッドの専門家に対抗して合衆国タバコ会社も自らの専門家を提出して、損害の主張は価値がないとして棄却を求めた。

After deliberating for under four hours, a jury awarded Conwood $350 million in damages.

陪審員は4時間の慎重な審議を経て、コンウッドに350ミリオンドルの損害を認めた。

Trebling this figure, (13) the district court entered judgment of $1.05 billion, and it issued a permanent injunction.

この数字に3倍を乗じて、(13)地方裁判所は1.05ビリオンの損害を判決して、永久差止を認めた。

The Court of Appeals for the Sixth Circuit affirmed the judgment and denied a petition for rehearing. (14)

第6巡回控訴裁判所は判決を認め、再審の控訴を棄却した。

With respect to the extraordinary damages, it stated that Conwood's expert employed "regression analyses, a yardstick test and a before-and-after test.

この巨額の損害額について、コンウッドの専門家は回帰分析、ヤードスティック分析、前後理論分析を採用した。

 

第30 民事訴訟法247条と民事訴訟法248条の関係について

 これまで民事訴訟法248条が立証が困難な時には、著しい損害は適用されることを申し立ててきた。これは循環論法になってわが国の差止の法文が矛盾していることから来る、恐ろしい結末を予言しているからである。

 谷原修身氏による独占禁止法と民事的救済制度の本によれば、民事訴訟法248条は独占禁止法が使用することを予定した条文であった。またそのために独占禁止法に民事訴訟法248条の特別条文を入れようという案があった。

 ところが最終的には著しい損害を理由として差止制度が導入された。このことは証拠が、契約のように違法ではない行為があったかどうかを調査するのではなくて、違法である行為があったのか、なかったのかを証拠収集によって確定していく作業が独占禁止法のプライベートアトーニーゼネラルのやるべきことであるから、当然に収集する相手が用心している場合にはほとんど不可能に近いことになるし、損害額の確定に当たっては、すでに自由競争ではない違法な公正競争阻害性のある状態を被上告人(債務者)によって作られているのであるから、そこでもし違法な競争制限的な行為がなかったのであるならば、どれ程の収入があったのかという点については証拠は緩やかにしか推定できないのであるから、そこには証拠法則として民事訴訟法248条による規定が必要である。

 ところが現在差し止めなければ、損害なしという理論が法曹会にまかり通っており、このために民事訴訟法248条を使っていないのである。故意に使っていない。被上告人(債務者)等のちまたのくだらない法理論によれば、酒匂悦郎事件では最高裁判所で負けたのは、4月になって入会させたから負けたのだ、だから今回は同じ事件であるが入れないで頑張ろうということである。これが被上告人(債務者)がいつまでたっても犯罪に近い行為をやめない理由であるという。

 しかしこれは循環論法になっている。従って、これは裁判官もこの理論を採用して民事訴訟法248条を採用しなかったことに法令の適用の違法があったという理由を付け加える。

 それは世界中の誰が考えても当たり前の理論であるが、伊従氏によれば批判するやつは入れないが理屈として民法では通ると言っている。

 しかし一応民事訴訟法247条の適用の誤りが経験則違反であるとの主張も法令の適用の誤りとして追加する。

 民事訴訟法247条においては何十人の人がテープによって証言しているのに推薦を認めなかったのは経験則違反である。

 独占禁止法においては立証が困難なのであるから、民事訴訟法248条を採用すべきであるのは上記で述べたとおりではあるが、たとえ民事訴訟法247条を使っていても経験則違反になる。

 もともとが独占禁止法違反の認定においては民事訴訟法248条を使用すべきことは学説の一般的な動向である。しかしあえて民事訴訟法247条を使ったとしても、経験則違反である。

 すでに終結前のテープとその反訳についてはもとより、終結後判決前に提出された証拠についても同様のことが言える。ひとつひとつの証拠については証明する。 

 今回終結後に提出されたが、判決の直前に提出された川島町における証拠のテープでは、たまたま川島町に行った時に、たまたま証言を得たものである。埼玉県の90市町村のすべてに行くことは費用的にも時間的にも莫大なものを必要とする。

 たまたま行った時に録取できたということは、確率としては90倍に大きい確率で証拠として採用できるものと思われる。

 このような科学的な証拠の分析も必要である。

 これはいわば目撃証言に匹敵するものであり、証拠としての価値は充分に持っており、このような10以上の証言について排斥した判決は経験則違反である。

 目撃されたものがテープに残っていることは、その90倍の確率でそのことが行われていることが立証できているのに、それを採用しなかったのである。目撃証言は犯罪についての非常に大きな証拠である。その係長の部下に問いただしたところ、被上告人(債務者)と電話していたという証拠のテープもある。これも何十倍の証拠の確率としてみなければならないし、被上告人(債務者)が埼玉県と会議を持ったという証言をしていることを固定資産税の標準宅地の鑑定評価における固定資産税の標準宅地の受注者の会議において述べていることも、たまたまなのではなくて何十倍の価値がある証拠である。

 目撃証言は犯罪においては有力な証拠となりうる。それもテープや、写真や、映像に映っている場合には尚更である。

 さて本件テープは目撃証人のテープというよりも、入札談合等関与罪に当たる行為を行ったものの自白にも当たる。自白は裁判所においては当然に否定されることが前提である。

目撃証言としてみる場合には、被上告人(債務者)の行為に関する目撃であり、その行為の結果自らがさせしめられたことの自白でもある。目撃については犯罪の目撃情報と同様に刑事犯罪における目撃と同様の意味を持つであろう。

一方推薦されたがその推薦に従わなかったというのではなく、それに従って当然だから従ったのであるという証言でもある。一般に犯罪者がそのようなことを言うのは自白と見なされるが、本件の場合にはそれが当然のこととして言われている。

そのような目撃情報が10以上になっている場合には、それもすべてについて同様の見解であり、それも多額の費用をかけて上告人(債権者)が行った場合にそのようにいっていることは、その行った程度が90分の一の確率であっても、言っているということは確率統計学的に90倍するのが科学的である。

刑事犯罪として100人の警察官が動員されて、90市町村のすべてに対して捜査が行われたのではない。いわゆるローラー作戦が行われている訳ではない。

上告人(債権者)が鑑定評価の仕事で忙しい中で、たまたま接近した場所で、たまたまそんな証言が出てくる訳がないと思って聞いていてもそのように言っていた。

80%の確率の問題をクリアー出来ていると考えられるのは、プライベート・アトーニー・ゼネラルの捜査権限がない故に強制して自白させていないということによる。質問についてもどこにも誘導尋問に近い部分はなく、真実を言っていると思われる部分しかない。

刑事裁判の場合裁判所においてはそれを否定するであろうようなことが自由な意志によって言われている証拠の場合には経験則によって信用できると考えられる。テープの証拠能力については民事訴訟法では反訳されれば文書としての性格が与えられてい。

実際には私が生きているすべての時間について録音しているのですべての時間についてテープがあるのは正しいことであるが、それを反訳する時間と、労力は莫大である。その作業に酒匂悦郎は一週間かかったと言っていたが、上告人(債権者)代表の場合には録音したのと同じだけ時間と労力がかかった。それだけ莫大な量の録音が存在する。

特に被上告人(債務者)がそれに気がついた場合には、宴会の席でそこに録音器を置いておき隠し録音でもしていない限りは、一旦気がついた場合には、100%不可能である。これによって収集された証拠はないが、内容は見ていないが、宴会の席のテープがある。最初はわいわいがやがやで聞こえなかったが、ついに聞こえたものである。

例えば次のテープがある。これは国土交通省江戸川工事事務所では推薦を依頼するというテープがあり、かつ、被上告人(債務者)の副会長が非会員を紹介する訳はないのであるから、この二つのテープを合わせれば完全に一致して、推薦が行われていることが証明されていることになる。

甲145号証拠として提出する。

被告副会長渋谷正雄と原告代表山口、佐久間良彦被告元公的土地評価委員長との話の録音テープの反訳。

平成16年7月21日午後7時頃、蓮田市にある大鷲飯店での地価調査打ち上げ会に酒席において、なんのきなしに話されたものであるので証拠として信用できると思われる。

・・・・・

佐久間「おれが今、国交省のあれでね、江戸川の堤防の、あれ評価やってんだよね。」

佐久間「江戸川の堤防があんまりやって、一生懸命にね、10年かけてスーパー堤防は出来ないから。」

被告副会長渋谷正雄「あのーなあに。」

佐久間「スーパー堤防は百年かかると言うんだ。」

被告副会長渋谷正雄「江戸川工事事務所のやつ、いった。」

佐久間「あーやっぱし、きました。紹介してくれって。」

被告副会長渋谷正雄「おれんところに、だからほら。」

佐久間「紹介してくれって来ました。」

渋谷「紹介してくれじゃなくて、紹介してくれと言うとこういう人間がいる。あーはっは。」

(山口を指さし、話をやめた。但し被告副会長渋谷正雄のいう「江戸川工事事務所のやつ、いった。」のうちの「いった。」の部分は、「(物件依頼が)推薦(紹介)によりいった。」の意味であると約3時間の話全体の内容を聞いていたので控訴人は認知できる。)

このテープの証拠能力については100%であると言えよう。その他のテープについても誘導されたところは微塵もなく、ただ話の相手が油断しただけである。

これから先は独占禁止法違反について、強制捜査の権限が与えられていない場合には証拠の収集は不可能になり、証拠の収集そのものをあきらめるしかない。

「かぎつけられそうだから、気をつけなよ。」

という連絡が被上告人(債務者)に出回ってしまうのである。

この連絡は非常に早かった。一度秩父の新井氏の所にあった後に、所沢の鈴木秀敏には即座に情報が伝わっていた。すべて鈴木秀敏に伝わっていることになる。そこで情報を管理していたと考えられる。その情報網は一瞬であると言ってよい。それ程に被上告人(債務者)には電話網が一瞬で出来上がっているのであるから、その他の独占禁止法における価格情報、発注情報も同様であると推測できる。

神栖町役場に送った内容証明郵便も他人の名前を語って電話した時にだけ、本当の話を聞けたが、これは法廷には出せないことになる。違法収集の証拠ということになる。

そうであるからテープはすべて上告人(債権者)に話しているのであるから違法収集の証拠ではなく採用できると考えられる。このことは第二審の証拠に関する判断はあれだけ多くの推薦の事実を上告人(債権者)の顔を知っていて話しているのであるから、事実認定しないことは経験則違反ということになる。

つまり油断をしている時以外は真実は話さないのである。捜査においては相手が油断をした時か、強制によってあきらめた時にだけ本当の話をする。あるいは仲間だと思っている人間にしか話をしないのである。

捜査の際におとり捜査をしたくなる理由がようやく分かったという感じである。油断させて本当の状況を調べるのである。また公正取引委員会の独占禁止法改正案のうちこの証拠収集の部分がいかに大切であるのかが分かるのである。

しかし違法ではなくても、このような場合には被上告人(債務者)の承諾によらないで証拠を収集しているのではないから、証拠能力があると考えられる。

「独占禁止法違反事件の例ではあるが、公取委が法人の悪質な違法行為に関する

証拠を収集して法人だけを告発し、強力な捜査権限を持つ検察当局が個人実行行為者の違法行為に関する証拠を収集して、双方を起訴したケースがある。」

「米国は、ディスカバリー(証拠開示)と呼ばれる一連の証拠収集制度を有しており、我が国の新法の下での証拠収集手続に比べ、 ... アメリカでは証券取引法や独占禁止法違反などで揖害賠償を求める訴訟のほか、人種差別差止訴訟などで大いに利用されている」という。

「証拠収集能力強化のために裁判所の監督の下で専門的知識を有する公取委に犯則調査権限を与えることは認める。」ことが求められている時代である。

用心していない時に自発的に自白してしまった自由意志による証拠は、そうであると被上告人(債務者)が主張するかも知れないが、証拠収集による証拠の能力、不意打ちと反論が可能か。隠そうとしている犯罪に対しては、何らかの強制がなければ証拠の収集は出来ない。

県の職員については、あそこまではっきりとテープでは証言しているんだから、80%は切り崩せる可能性はあると思うから、やはり証人として県の職員は呼ぶべきだったであろう。県は推薦はあったとは言ってない人がいるが、推薦はありましたかと被上告人(債務者)の弁護士は聞くだろう。この推薦の意味であるが、被上告人(債務者)の直接的な推薦ではなくても、暗黙の推薦であったとしてもよいであろう。

 しかし市町村については、被上告人(債務者)の推薦であるとの証言は、談合等関与にはなる。テープの人は正直だから言ってくれるとは思うが、人が良過ぎか、あるいは一かばちかか。

但し家内は350万円と、1億円をののしっている。この損失は大きい。従って家内の目から見れば、遅過ぎるというのはある。子供たちの目から見ても。これが急ぐ理由である。急迫の危険でやるべきだった。もし仮処分で勝っていても、本訴で否定されていたかもしれない。

 ただ「被上告人(債務者)の推薦とはいわないであろうという前提であり、247条の経験則違反はあるが、推薦は証明されているが、被上告人(債務者)の推薦とは関係がなく、原則違法であり、差止るべきであり、それ故に248条を使っての損害賠償請求が可能ということか。」

 しかし越知保見氏からトイザラス事件(安売りの排除事件)を教わったので良かったが、安売りの排除はヤードスティックかも知れない。しかし念書を書かなかったことが原因であり、安売りしそうであったからというのは理由にはなる。従って裁判によってではなくて、それもすべて安売りをするという裁判であるから、経験則として安売りが理由である。

  

テープに残っている可能性と確率

 突然証拠に残るような重要なことを話し始める。その時にテープを持っている可能性は、ゼロに近い1%程度である。ここでほぼ1%の確率になる。

洋服を着替えた時には、洋服の中に録音機がはいっていなかったりする。洋服のなかでもどこかズボンのポケットでは駄目である。

しかしそのテープが録音されている可能性が10%である。つまり相手の音が遠くて聞こえないとか、周りの騒音がうるさくて聞こえないとか、機械の調子が悪くて録音できていなかったり、電池がなくなっていたりというハップニングによって、あるいは、丁度録音ボタンをおしていなかったりということが起こる可能性が高い。

 そこではらはらして、録音のテープの再生を押してみて、ついに録音できていた時はほとんどない。重要な記録も逃していることの方が多い。

 もっとも惜しかったのは、酒匂悦郎と山口節生が井坂の事務所において「安売りするな。」と監禁された時の録音テープが全く音が聞こえなかったことである。

 しかしこれについては酒匂悦郎が証言してくれている。

 テープは準文書である。従って反訳して文書となる。

 もしその時のテープの人間を証人尋問していても、おそらく証拠をつかまえられなかったというのが赤坂裕彦の見解であり、絶対に証拠の通りに自白させられたというのが山口節生の見解である。

 もし赤坂説ならば、差戻は出来なかったかもしれない。

 善解すれば、即ち、被上告人(債務者)によって、それがなかったという証明がないのであるから、それがなかったというよりも、あったという確信をもつことが出来る。

「(一) 訴訟上の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実の存在を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。」

注:最高裁判所の判決文「(一) 訴訟上の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実の存在を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。

  (二) 原審は、被上告人西川の四月五日又は一〇日の時点における検査義務違反とスエ子の本症発症との間の因果関係及び同月一二日の時点における経過観察義務違反とスエ子の本症発症との間の因果関係をいずれも否定した。原審の右判断の根拠は、スエ子の本症が四月一〇日以後に投与されたネオマイゾンを起因剤として過反応性の中毒性機序により同月一三日ないし一四日朝に発症したという認定事実にある。

  (三) しかしながら、本件においては、(1)被上告人西川が本症の副作用を有する多種の薬剤を約四週間にわたりスエ子に投与してきたこと、(2)遅くとも四月一二日にはスエ子に発疹が生じたこと、(3)遅くとも同月一四日にはスエ子に本症が発症していたことを裏付ける血液検査の結果があること、(4)本症の発症に伴い発疹を生ずることがあること、(5)スエ子に投与された薬剤の相互作用によっても本症が発症し得ること、などの原審認定事実によれば、「スエ子の本症の原因は被上告人西川がスエ子に投与した薬剤のうちの一つであること又はその複数の相互作用であること及びスエ子は遅くとも発疹が生じた四月一二日には本症を発症していたこと」が真実の高度の蓋然性をもって証明されたものというべきである(なお、同被上告人が本症の副作用を有する多種の薬剤をスエ子に長期間投与してきたという本件においては、右薬剤のうちの一つ又はその複数の相互作用が本症発症の原因であったという程度の事実を前提として被上告人らの注意義務違反の有無を判断することも、通常は可能であり、常に起因剤を厳密に特定する必要があるものではない)。

    ところで、原審は、本件鑑定のみに依拠して、ネオマイゾンがスエ子の本症の唯一の起因剤であり、スエ子の本症発症日は四月一三日から一四日朝であると認定したものであることは、原判決の説示から明らかである。そこで、原審の本件鑑定に対する証拠評価の適否について検討する。

  (四) 起因剤の認定について

   (1) 本件鑑定は、四月一〇日から同月一三日までの間にスエ子に投与されたネオマイゾンが唯一の起因剤として最も疑われると判断する。

   (2) しかしながら、本件鑑定は、被上告人西川がスエ子に投与した薬剤については、ネオマイゾンを含めていずれも起因剤と断定するには難点があるものであることを認めつつ、スエ子の発症時期に最も近接した時期に投与されたことを論拠として「ネオマイゾンが起因剤として最も疑われるが確証がない」とし、複数の右薬剤の相互作用により本症が発症することはあり得るものの、本件においては、そのような相互作用による本症の発症は医学的に具体的に証明されていない、とするものであって、その蓋然性を否定するものではない。

(3) 本件の証拠として提出された医学文献(甲第二九号証、乙第四号証の一、二)には、「本症の病因論は未完成な部分が多く、薬剤による好中球減少の機序は多様であり、詳細な機序については決定的なことはいえず、個々の症例において原因薬剤を決定することは困難なことが多い。」旨が記載されていることからすると、ネオマイゾンが最も疑われるが確証がないという本件鑑定のみからネオマイゾンを唯一単独の起因剤と認定することには、著しく無理があるものといわざるを得ない。」

との最高裁判所の判決によれば、「経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実の存在を是認し得る高度の蓋然性を証明すること」なのであり、これは疫学的証明にも、独占禁止法の違反の証明においても言えるのであるが、違反の証明である独占禁止法における証明は更に難しい。疫学的証明とほぼ同じ程度に難しいのである。何十人もの人が推薦があったといっているテープによる証言は、もしも裁判所によばれれば、それが違法であることを知っていなければならない公務員の証言なのであるから、裁判所においては否定していたかもしれないというのが理由で、被上告人(債務者)本人は証人申請を要請していたが、代理人の判断で証人申請を行わなかったのである。証人尋問していても否定されかねないと考えたのである。

 さて、テープにあることで2ついうと、被上告人(債務者)は裁判を上告人(債権者)が起こしたことをもって、裁判きちがい(何でも裁判によって権利を確定すること。しかし一年で610万件の訴訟が起こされいるが、3割が本人訴訟であるという。それが悪いという訳ではない)であるという趣旨の様であるが、これは裁判で対応すれば良いのであって、本来自己の権利を守ることは天賦の絶対的権利である。なおこのような事件を起こされておいて、裁判を起こさない人間はいない。

 これがこの判決の原因であるとすれば狂っているとしかいいようがない。

 これについては多くのテープがある。

 実際に生活に必要な程度以上ではないし、私は独占禁止法違反については独占禁止法はザル法であることも認めている。それはちゃんと大学も、大学院の修士も、博士後期課程での教育を受けているからだ。

 投票しなければ終わりだというかもしれない。それならばそれはただ裁判官も弁護士もそうなってしまう。田舎にはそういう人が多かった。私が教えた人の大部分はそうであった。

批判をした人間は入れないということが出来るとすれば、それはサロンのような場合だけである。独占的な地位を有する事業者団体で、必須の取引事例を管理している団体ではそれが出来ない。入会強制の団体と、自由競争下における任意団体との中間に位置する団体である。東京都不動産鑑定士協会は自由競争における任意団体であり、被上告人(債務者)は入会強制が出来る団体である。

第31 憲法上の公共の利益

 公正競争阻害性のある競争制限的な行為を規制することが独占禁止法の目的である。本件の場合には独占禁止法の差止を民事的な相隣関係としてとらえているために、独占禁止法そのものをなしにしている。独占禁止法は存在しないものとなっている。

民事上の争いは公共の利益に適合する場合を除いては、民事上の争いによって決定すべきである。そうではない理由付けを認めるとすれば、独占禁止法は存在意味レーゾンデートルが失われてしまう。国家の法律を台無しにしてしまうような法解釈は国家組織法である憲法に違反しているといえる。

国家の規制において、LRA(より制限的ではない代替的な法律による規制がある場合にはそちらの規制を採用すべきであるという原則。これを競争制限禁止に適用する場合にもより競争制限的ではない行為を民間団体であっても選ぶべきであるという法理の適用が考えられる。)の原則がある様に、民間団体であってもより競争制限的ではない規制を選ぶべきである。

競争制限的な行為は人権の問題でもある。競争制限的な行為によって本件事件における上告人(債権者)の生存権や、営業する権利を奪うような行為は憲法違反であると考えられ、憲法の人権規定に違反するものであるといえる。

第25条(生存権,国の義務)

@ すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

A 国は,すべての生活部面について,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

All people shall have the right to maintain the minimum standards of wholesome and cultured living.

In all spheres of life, the State shall use its endeavors for the promotion and extension of social welfare and security, and of public health.

酒匂悦郎の考え方によれば、また上告人(債権者)が賛成するものであるが、特に不動産鑑定評価においては独占的な地位を被上告人(債務者)が有しており、そのことだけでも被上告人(債務者)の競争制限的な行為が上告人(債権者)の生存権を阻害しているといいうるのである。

憲法上の職業選択の自由と同時に、労働の権利憲法第27条、生存権憲法第25条を侵すものであるといいうる。

第27条(労働の権利義務,労働条件の基準,児童酷使の禁止)

@ すべて国民は,勤労の権利を有し,義務を負う。

A 賃金,就業規則,休息その他の勤労条件に関する基準は,法律でこれを定める。

B 児童は,これを酷使してはならない。

All people shall have the right and the obligation to work.

Standards for wages, hours, rest and other working conditions shall be fixed by law.

Children shall not be exploited.

第32 独占禁止法上の公共の利益

独占禁止法上の公共の利益の概念は、公正競争そのものであるという一般的な学説によっても、公正競争阻害性のある競争制限的な行為が禁止されていることそのものであるということになるのであるから、民事上の理由付けが認められれば、公共の利益がそこなわれてもよいということになり、ついには独占禁止法そのものが存在しなくてもよいということになりかねない。このような概念は独占禁止法にいうカルテル概念などザル法であり、独占禁止法はない方がよいという考え方ipse dixitに似ており、談合の効用を書いた本や意見は大量に存在する。これは憲法に現れる概念をも否定する憲法違反であるといいうる。憲法第76条、同第98条違反である。法律以外の独占禁止法はない方がよいという考え方ipse dixitに拘束されてはならない。

第98条(憲法の最高法規性,条約,国際法規の尊重)

@ この憲法は,国の最高法規であって,その条規に反する法律,命令,詔勅(しょうちょく)及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない。

A 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は,これを誠実に遵守(じゅんしゅ)することを必要とする。

 備考;

詔勅=詔書・勅書・勅語など,天皇の意思を表示する文書の総称をいう。明治維新後は,事に臨んで詔勅が盛んに出されるようになり,天皇の一人称を「朕(ちん)」とし,漢語の多い独自の難解な文語体が用いられた。1907(明治40)年に公式令が制定され,詔勅の区別と形式が規定された。同法により,詔書は,皇室の大事と大権の施行に関する勅旨を国民に示すものとされ,天皇が署名して御璽(ぎょじ)を捺(お)し,宮内大臣,内閣総理大臣,国務大臣等が副署する。勅書は,文書による勅旨(天皇の意思)で,国民には示されない。このほか,法律,勅令の公布に際して条文の前に付する勅旨を上諭(じょうゆ)といった。勅語は天皇のことばで,それを文書にした勅語書も勅語という。ほかに,勅諭,御沙汰(さた),外国に対する国書,親書があった。公式令は1947(昭和22)年の日本国憲法の施行に伴い廃止され,現在では,天皇の国事行為に関して詔書が発せられ,内閣総理大臣,最高裁判所長官の任命には勅書が出される。なお,勅語は,1953(昭和28)「お言葉」と称することに改められた。また,「お言葉」では,天皇の一人称は「わたくし」で,普通の文体が用いられている。

条規=一条一条の条文によって定められている規定。きまり。おきて。

遵守=規則や法律などにしたがい,それをまもること。

This Constitution shall be the supreme law of the nation and no law, ordinance, imperial rescript or other act of government, or part thereof, contrary to the provisions hereof shall have legal force or validity.

The treaties concluded by Japan and established laws of nations shall be faithfully observed.

第76条(司法権,裁判所,特別裁判所の禁止)

@ すべて司法権は,最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。

A 特別裁判所は,これを設置することができない。行政機関は,終審として裁判を行うことができない。

B すべて裁判官は,その良心に従い独立してその職権を行い,この憲法及び法律にのみ拘束される。

第33 独占禁止法上の安売り業者に対する競争制限的な行為と、念書によって入会させる行為との比較について最終的に要約する。

 

  これについては先に図示したのを図示のみでは説明が足りないので、ここにおいて説明する。

第34 理由の適正について

茨城県不動産鑑定士協会や、栃木県不動産鑑定士協会は更に入会強制が出来る団体であるが、被上告人(債務者)は公共団体との取引が7割を占める市場における独占的な地位を保有し、事業に必須の取引事例を保管しているのであるから、東京都不動産鑑定士協会のように3割が公共団体との取引である市場とは違った市場であり、事業に必須の取引事例の保管だけを行っている団体とは違っている。東京都では入れなかったら安売りを行えばよいのである。

 固定資産税の標準宅地の鑑定評価にあっては、被上告人(債務者)はほぼ90市町村のうちかっては70以上、現在は50以上の市町村で被上告人(債務者)との契約を行っており、ほぼ8割以上の市場における占有率を誇っていたのであり、現在は契約形態こそこの事件を考慮して、6割に減ってきているが実質はほぼ同じ程度で契約の形式を変えているに過ぎない。

注:最高裁判所の判例が判例たるゆえんは、それが、先例としての拘束力を持ち、下級審はその判例に従わなければならないところにある。もちろん、下級審の裁判例にはそういう拘束力はない。最高裁判所の判例は「法的ルール」だが、下級審の裁判例には(極端に言えば)参考程度の意味しかないのである。

「国側がこれに対して上告受理の申立をしました。まず、最高裁判所というのが、地方裁判所及び高等裁判所と何が違うかということを言います。証拠調べを最高裁判所は行いません。従って、証人尋問というものはないんです。同時に、証拠書類の提出というものもないんです。今まで、例えばどこかで事故が起こったら、事故の報告書などを証拠として出してきたんです。ところが、最高裁に対しては、もはや証拠書類の提出というのはあり得ないんです。では一体証拠調べを行わなかったらどうなるかというと、原判決が適法に確定した事実。例えば、蒸気発生器で高温ラプチャについては審査をしなかったというふうに原判決では確定をしたんです。そうすると、それは最高裁を拘束するんです。これは後で言いますけれども、国側は高温ラプチャについては審査した、審査したと相変わらず言っています。しかし、それについては新しい証人尋問もできませんし、証拠書類の提出もできないんです。適法に確定した事実なので、高温ラプチャの審査はしなかったということを前提として、最高裁は判断をせざるを得ないという状況になります。それで、あと問題が幾つかあるんです。

 昔は「上告」だけだったんです。ところが、5年ぐらい前から上告以外に上告受理の申立という2本立てにしました。2本立てにした上で、上告の場合には理由を制限したんです。憲法違反であるという場合と重大な手続違反だけにしたんです。重大な手続違反というのは、例えば裁判官が3人でやらなくてはいけないのに2人でやったとか。もう別の裁判所に行ってしまった人が判決を書いてしまったとか。そういったほとんどあり得ないような手続きの違反だけなんです。

 それで、憲法違反だと言っても、大体弁護士の感覚というのは、いろいろな法律違反は主張する時に、これは憲法違反だと言うと負け筋だというような感じ。つまり、憲法を持ち出さなければ勝てないような訴訟というのは負けるというような感じなんですね。よっぽど憲法違反というので主張はするけれども通らないんです。だから、上告というのはほとんど棄却なんです。ところが、上告申立がどっさりあるものですから、そんなのに最高裁が全部付き合っていられないということで、上告受理の申し立てというのを別に作った。これは、「法令の解釈に関する重要な事項」だけを理由にした。些細なことで受け付けませんよという。だから、これは読んで字の如く、「上告を受け付けてほしい」という申立なんですね。

 では、法令の解釈に関する重大な事項というのは何か、これは2種類あります。これは、判例に違反したと。「判例」というのは、最高裁判所の判断なんです。普通、地方裁判所とか高等裁判所で出された裁判というのは判例とは言わないんです。あれは、ただの「裁判例」と言います。これは法律家というのはこの辺を細かくごちゃごちゃ言うものですから、判例違反というと最高裁判所の判決にあっていないということなんです。その場合には、伊方最高裁判決及び東海原発最高裁判決、内容は全く一緒ですので伊方判決だけになります。先ほど「もんじゅ」では最高裁判例があると言いましたが、あれは入り口の話だけなので、ここで言う議論には入ってこないんです。

 その次は、法解釈の誤り。では、原子炉の関係で法令というのは何があるんだというと、原子炉等規制法24条1項という話だけになってくるんですね。それで、先ほど言ったように、事実というものについてはこれは最高裁を拘束します。「事実誤認だよ、これは間違っているよ」ということだったら上訴の理由にはできないんです。先ほど言ったように、高温ラプチャについては審理をしたよといってもそれは審理をしたということは言えないということなんですが、ただ、「経験則違反」というのは判例違反というふうに考えますので、例えばいろいろな証拠からそのように判断したということが明らかに間違っているようなものだったら、これは経験則違反だということは言えるんです。この辺がちょっとややこしい話にはなっています。何しろ、上告受理の申立を今やったという段階です。

【上告の手続き】

 では、手続きとしてどうなるかというと、上告受理の申立をすると50日以内に理由書の提出をしなくてはいけません。国側はこうなります。そうすると、最高裁は不受理決定または受理決定というものをします。不受理決定というのは本当に三行半みたいなものですね。本件上告受理は受理しないということだけしか書いていない。そんなのがぽっとやってくるんですね。または、上告を受理したという決定をするんです。上告を受理したというと、この理由書に対して答弁書を出しなさい、何日以内に出しなさいと言ってきます。それで、上告をした場合でも、先ほど言ったように、憲法違反とか重大な手続き違反の場合にはそういった理由書を出しますね。それを見ただけで、これはだめと言って却下とか棄却してしまうケースが圧倒的なんです。答弁書を出しなさいと言ってくるケースは極めて稀なんです。答弁書を提出しなさいと言ってきたら、今度2つに分かれます。口頭弁論を開かないケースと口頭弁論を開くケースがあります。口頭弁論を開かないということは、「書面だけであとは言い分も聞く必要はない」という意味ですから、これは棄却だということがすぐ分かるわけです。

 口頭弁論を開くと、大体原判決を破棄する場合が多いんです。それでも、口頭弁論を開いた挙句に棄却というのもあります。では、一体破棄したらどうなるのかというのを次に言います。先ほど言ったように、どういう場合に破棄するかというと、憲法に違反した、あるいは重大な手続きに違反した場合には、これを破棄して差し戻しをするか移送するんです。差し戻しをするというのは、名古屋高裁金沢支部で行った判決ですからそこに戻すという意味です。移送というのは、いろいろと事情があって同じ裁判所でやるのはまずい、別のところにやろうと。例えば東京高裁に移そうという場合、破棄してどこかに移送するということになる。ほとんどこれはないです。次は、破棄自判と言うんです。破棄をした挙句に最高裁判所自体で判断をしてしまうということです。これが破棄自判です。自判というのは自分で判断をするということです。もう1つも同じように、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反も破棄して差し戻し、移送、破棄自判ということになります。では、一体どのくらいの割合でこうなっているかということをちょっとお話しします。

 上告の申立が、去年は2,296件、上告受理の申立が2,357件、これが1つの書面で両方賄っているのもあるので、合わせて3,112件なんです。多いと見るか少ないと見るか分からないですけれども。それで、去年、不受理あるいは棄却にになっているのが、全部で4,833件です。破棄差し戻し、あるいは破棄自判になったのは、去年は92件、2.8%なんです。この2.8%というのは、今までの例がずっと2%だったものですから、去年だけぴょこっと増えたんです。なんで増えたかというと、1人で8件、こうなったのをもらった人がいるからです。

 ロス疑惑の三浦和義さんがあらゆるマスコミとか、いろいろなところを訴えていたのが、去年8件まとめて、特に共同通信とか時事通信からもらった記事をそのまま地方紙などが載せてしまった場合に地方紙を訴えたんですね。一審判決は、責任を負わないということはないんじゃないか、要するに共同通信や時事通信からもらったからといって、100%信用してそれを載せてしまうのはおかしいということで損害賠償請求を認めたんですが、高裁では配信記事に基づいて報道するということは態勢としてできているから、それを覆すだけの理由はなかったのではないかということで、三浦さんの訴えを退けたんです。それで、三浦さんが最高裁に行ったら、最高裁としては、結局これは個人的な犯罪やスキャンダルの問題だから、そこまで通信社の報道が信頼性があるとは思えないということで、8件まとめてこれをやったものですから、今まで2%しか破棄差し戻しにならなかったものが、去年だけ2.8%だったという異常事態になりました。多分来年になったらまた2%ぐらいしか破棄差し戻しにならないということになると思います。

 ということは、最高裁で破棄差し戻しや破棄自判をするということは非常に大変なんです。でも、国側が狙っているのは、「最高裁がいきなり判決をしてもらわなくてもいい。これをもう一度高等裁判所に差戻しをしてほしい」と。差戻しをすれば、法律審でないからあらゆる証拠が出せる。高裁判決が技術的におかしいと言うことが、差戻しをしてくれればそこでできるはずというようなことをどうももくろんでいるように思われます。

 国の上告受理の申立の内容というのは、まず無効ということについては、違法の「明白性が不要」だというように高裁がやったのは判例違反だと。つまり、今まで判例というのは、「重大かつ明白」を要件としていた。それの理由というのは法的な安定性で、つまり、一旦許可処分が出たということは、ずっと有効だということを前提として効くんだ。それを突然無効だと言われたら、それによって培ってきた法的な安定性が失われる。それで第三者の信頼についても、許可処分が起きたら、それを信頼していろいろな権利義務関係が入ってくる。だからそういった人たちの信頼を保護しなくてはいけない。それでは、住民はなんなんだというと、周辺住民はほかに民事訴訟だってできるし、いろいろできるじゃないかと。後続処分だって訴訟を起こせるじゃないかと。ほかに訴える手段があるから、明白性が不要だとやったのは判例に反しているというのが1つの主張です。

 その次、違法というものについては、高裁が出した法解釈が誤りで判例違反があると言うんです。それで、国の主張の前提として、「裁判所が何をするか」という主張があるんですね。裁判所というのは、国の言い分ですが、「原子炉を稼動させた場合に重大な事故が起こる可能性が高い」と認定判断し得る場合だけ許可処分は違法ということだと。裁判所が重大な事故が起こる可能性が高いというふうに認定判断できなければ、つまり、「分からない」と言うくらいだったら、違法と言うべきじゃないということなんです。だから、随分高いことを要求しています。

 しかも、どういうときに重大事故が起こるかというと、事故防止対策の一部分が合理性を有するかどうかというのを見ただけでは足りないんだと。国側がしょっちゅう言うのは、多重防護があると。「多重防護全体が不合理であると判断し得る場合だけが許可処分が無効だ」と言います。これはどこで言っているかというと、床ライナーが破れたということは事実として認めざるを得なくなったんです。そうすると、それは事故防止対策のほんの一部なんだと。それだけ見てああだこうだと言うのはおかしい。全体を見ればいいじゃないかと。そして、床ライナーが万一破れたとしても、コンクリートは1メートルの厚さがあるんだからそんなにほかに影響を及ぼすことはない、ということを主張しています。だから、全体として不合理であると判断し得る場合だけが無効なんだと。可能性が高い場合だけ違法だというのに、ところが実際には、原判決は具体的危険性を否定できないという非常に低いレベルなのに違法だと言ってしまった。それはおかしい。それは単なる可能性、危惧の念を言ったにすぎなくて、裁判所が果たすべき役割を果たしていない、ということを言っています。

 そしてもう1つは、規制法というのはそもそも相対的な安全性というのを採用しており、絶対的な安全性を求めるということは不可能だ、と言っています。誰も絶対的な安全性を求めているなんて思っていないのに、国がこう言うんです。それでは、どういう場合に相対的安全性なのかというと、どのレベルの安全性がいいかどうかというのは、原子力安全委員会と主務大臣−今だったら経済産業大臣、以前だったら内閣総理大臣に委ねられていたんだと。委ねられていたんだから、裁判所は行政庁に委ねられた専門技術的判断を尊重すべきだと。そうすると、すごく曖昧なものの言い方になるんです。相対的安全で、安全の水準というのは原子力安全委員会や主務大臣が決めるので、決めたんだったらそれは尊重すべきだ、となったら、「文句を言うな」ということしか言えないんです。それで、行政庁に委ねられた専門技術的判断を尊重しろと。つまり、「自分を敬ってくれなかったのはおかしい」というふうに読めるかなと思っているんです。これがメインなんです。

【ナトリウム対策に関する国の主張の問題】

 その次が、各論に入るとこういう言い方です。まず腐食対策。ナトリウムが漏れると空中で水分と一体になって、床ライナーの上に落ちると鋼鉄を腐食させる。それについては詳細設計段階、つまり、床ライナーの厚さは何ミリにするとか、いろいろなことをやればコンクリートとナトリウムの直接接触を防止できないわけではない、だから、基本設計には間違いはなかったんだ、あとは動燃側に任せていけばいいじゃないかと。そして、詳細設計段階で直接接触を防止できないかどうかというのは、原子力安全委員会ではなくて主務大臣だけで判断できると。そういった言い方なんです。

 温度については、安全審査で530℃以下だということにしたんですが、実際には700℃とか800℃近くなっちゃったんですね。それについては、「本当は安全審査で温度まで確認する必要がなかった。安全審査とは無関係だ。だから、温度が200℃超えていると裁判所はすごく強調したんですけれども、確認する必要がなかったものをたまたま親切にやってあげただけなんだから、それが200℃超えようが何だろうが関係がない」という主張なんです。それで、原判決というのが3系統、「もんじゅ」の場合には先ほどの図だと分かりにくかったんですが、原子炉本体からAループ、Bループ、Cループと3つループが出てきているんです。それぞれ冷却系があります。その3ループ全部が分離ができない。つまり、1個がだめになったらほかのものまでだめになる。冷却能力がなくなって放射能が外部に出ると言うけれども、これは技術的常識からみて空想的仮定を重ねているんだと。つまり、仮定に仮定を重ねているので、そんなことはあり得ない、という言い方をしています。ナトリウム漏えい事故については、ここが一番国側としては苦しい主張だと私は思うんです。現実に事故は起こってしまった。だから、確認する必要はなかったとか、後でやればいいじゃないかというようなこと、余り法律的でない議論を法律審である最高裁に言わざるを得ないというほど、これは非常に苦しいなと感じです。

【高温ラプチャに関する国の主張の問題】

 蒸気発生器伝熱管の破損事故については、相変わらず高温ラプチャについては安全審査で検討されて考慮する必要はないとされた、とこれを繰り返しています。「百篇言うと何となく本当だなと思うんだろう」ということで言っているのだろうと思います。それから、水漏えいの検知をしてプラントを停止する、これは多重防護だと。というのは、国が言うのは最後はプラントを停止できるからいいじゃないか。だから、事故防止対策はなされているんだと。それで「発生可能性を絶対的には排除しがたいことと前提とする必要はない」と。これは文章が非常に分かりにくいんですね。発生可能性を絶対的には排除しがたい、わずかでも発生する可能性があるということを前提とする必要はないということです。わずかでも発生する可能性があるということを前提とするとのは、絶対的安全を求める考え方だ、原子炉等規制法はそれを前提としていない、だから「事故が起こるかもしれないということぐらいは前提としてもいいんだ」という言い方なんですね。それで、原判決に対して文句を言っているのは、水素ガスが炉心に至ると。水・ナトリウム反応が起こりますから水素が出ますね。そうすると、二次系のループを通って中間熱交換器まで壊して、それが一次系に入って炉心に入るとか、あるいは一次系と二次系がまぜこぜになると、一次系の放射能が二次系に入って、破れ目のところから外に出てしまう、と原判決はいうけれども、「それは単なる可能性・危惧にすぎないんだ」という言い方をしています。これについても、やはり国側の主張というのは苦しいだろうなと思います。

【炉心崩壊事故に関する国の主張の問題】

 3つ目、炉心崩壊事故です。炉心崩壊事故というのは確かに設計基準事故ではないんです。それで、国が言っているのは念のためにやっているだけだと。だから、どんなやり方をするにしても専門技術的な判断だと。だから、専門技術的判断について尊重してほしい、と言っているんですけれども。先ほど言ったように、「遷移過程についても審査をちゃんとしたんだ。だから、原判決が言っているように、審査しなかったというのはおかしい」と言っているんですが、これは最高裁のレベルでいけば、原判決が遷移過程を審査しなかったと事実認定をしたら、最高裁としてはしなかったという前提で判断をするわけです。破棄・差し戻しすると、審査したかどうかというところまでまたやらなくちゃいけない。それで、国が言っているのは、「遷移過程も審査した」と。最高エネルギー放出380MJ[メガジュール]というのは、安全審査でやっている最高エネルギーなんです。「それより未満だった。だから、わざわざ書かなかっただけだ。最新の解析では110MJであり、これよりも1/3以下だから、安全審査は妥当だ」という結論でした。「それにもかかわらず、やっていなかったからおかしいと言った判決はおかしい」というのが国側の主張です。

【原告側の反論】

 それに対する反論。10月の段階で答弁書を出すということで、今現在、あれこれあれこれ検討中です。「無効について明白性は不要」、これについては絶対に勝てるという自信があります。というのは、問題はここなんです。重大な瑕疵がある処分によって国民の権利が侵害された場合には保護するというのが国の役割だ。そうすれば、これが最重要に出てくるというのと、「第三者を保護しなくてはいけない」と国側は言うけれども、それでは一体誰が第三者なんだと。動燃というのは直接的な処分の名宛人なんです。そうすると、それは第三者ではない。

 では、動燃と契約をしていた工事関係者が第三者かというと、第三者ではなくて動燃の事業をやることについてお手伝いをするだけの話なんです。だから、動燃が後で、例えば「設置許可処分が無効だ」ということになったとしても、それは動燃の責任なんです。動燃と工事関係者の間で処理すべき話であって、設置許可を信頼した第三者という意味ではないんです。許可時の明白を要求すると、後になって分かったことで裁判を起こせなくなる。これが実際的な、いわゆる利益衡量というところです。つまり、先ほどの判決のところで述べたように、「一見明白に瑕疵がある」というのは、実際そんなことはあり得ないんですね。人違いだったということだったら言える程度の話で。そういうことを要求すると、法的には許可処分自体有効だろうと思っても、後になっていろいろなことが分かってきたら、やはり無効だったんだと、この許可処分は無効だったんだという時に裁判を起こせなくなってしまうわけですよ。「許可時に明白」ということを要求すると。だから、これはどうしても必要になるし、学者もこの1、2、3を挙げて原判決は正しいと言っています。

 その次は、法解釈の誤り、判例違反ではないということについては、まず、裁判所の役割というのが、先ほど言ったように、重大事故が起こる可能性まで認定しなくてはいけないのかというと、裁判所にそれを要求するのはそもそもおかしいんですね。そんなに裁判所は完璧な知識を持っているわけではないし、マンパワーがあるわけではない。そうすると、裁判所が判断できるのは、実際にどのような調査をしたか、どんな審議をしたか、どんな判断をしたか、その過程をずっと追いかけてみて、そこで例えばこれはやっていないね、これはやっているけれどもそれは変だね、ということだけを審理するんです。それ以上の力量はないし、それで十分だと。

 だから、過誤・欠落というのが看過しがたい、それが非常に重要なもの、原子炉等規制法というのは原発を規制するものですから非常に重要なものなんですね。そういうようなものだったら判断は不合理だったと。だから、許可は違法とすべきなんだということです。これはもう伊方判決がはっきり言っています。ところが、国が言うように、原子炉を稼動させた場合に重大な事故が起こる可能性が高いというような判断までしろというのは、これは明らかに実体判断を求めることとして伊方判決に反するんです。

 それでは、規制法というのはどうかというと、原子炉というのは高度な潜在的危険性を持ちます。これは他の産業とは全く比較ができないぐらい。そうすれば、「災害の防止上支障がないこと」という条文なんですが、それについては高度な安全性を要求しているということは言える。それは絶対的な安全を要求しているわけではないんですが、相対的な意味での安全性の高さを要求されている。そして、原子炉等規制法というのは、原子炉が稼動するかどうか規制するものですから、違法であれば当然住民の健康だとか環境に影響があるんですから重大な違法になるんだと。ということは、取消訴訟と無効確認訴訟というのは違いはないんじゃないか。違いがあるというのはそもそもおかしいというのが、私共弁護士の最終的な結論になっています。

 その次。それでは、ナトリウム漏えい事故についてはどういうような主張をするかというと、これは現実の事故が起きた。燃焼実験も行なった。これはほかの原発訴訟では無いことなんですね。ということは、これは証拠価値としては非常に大きな証拠価値があるわけなんです。しかも変更許可申請を国が行っている。ということは、基本設計の誤りを国自身が認めた、動燃自身が認めたということです。これは当然理論的には明らかにこうなるんです。

 それで、設計基準事故というのは、そもそも設計が妥当であるかどうかを確認するために10幾つか事故を作るんです。それは頭の中で考える事故なんです。それがちゃんと収束をするという結論になって初めて設計が妥当だということが言える。ところが、それが崩れてしまったなら、炉心の十分な冷却が可能という基準がそもそも当てはまらないことになるので、その後どうなるかというのは安全審査をしていないわけだから、放射能が外に出る・出ないということまでは言う必要がないし、それは言えない。事故想定が崩れるということで重大な違法になるというのは明らかという考え方です。

 次に、蒸気発生器伝熱管破損事故では高温ラプチャが安全審査では検討されていない。これはもう確定した。これも変更許可申請で検知器を追加していますから、基本設計の誤りということになります。それで、水漏えい検知器というのは非常に重要なシステムなんです。設計基準事故が起きた時に、そこで収束するという保証はないんです。そうすると、炉心の十分な冷却が可能だとか、放射能被曝が著しくないという基準に当てはまらなくなる。そうすると、後は放射能が出るか出ないかというのは関係がなくて重大な違法になる。

 炉心崩壊事故は確かに設計基準事故ではありません。しかし安全審査の対象にはなっています。これは高速増殖炉の特殊性からそうなっている。だから、名古屋高裁金沢支部も言っているように、「起こらないと言うのはおかしいんだ、だから起こるということも考えなくてはいけない」というのはそのとおりなんです。それから、遷移過程を審査していない。だから、審査していないのだから、最高のエネルギー放出というのは380MJを超えるかどうかは不明じゃないかと。審査していないということから、すぐにそれは重大な違法だということが言える。もう1つは、最新の解析と言っているけれども、それは動燃がそう言っているだけなんです。それでは、動燃以外にそれを研究している人がいるかというと全然いないという状態なんですけれども。だから、動燃の言い分だけで現在の科学技術水準とは言えない。だから、やはりもう一度安全審査をやり直すべきだと。これをやっていないと炉心崩壊事故についてはだめだということにしたい。こんな内容で、大体数百ページにわたるような答弁書を今書いているところです。それが10月にできます。

【もんじゅをカルカーに!】

 これは全く違う話。ジグソーパズルに写っているのは西ドイツのカルカーというところにある建設中止となった高速増殖炉の跡地です。「ケルンヴァッサーヴンダーランド」となっています。これは核の水のワンダーランド、遊園地なんです。数年前にオランダ人の実業家が買って、こういう名前のワンダーランドに造りかえています。そこでジグソーパズルを売っていたので買ってきたんです。

 だから「もんじゅ」もこんなふうになったらいいなというのが、私共の希望であります。それは原告の皆さん方の希望だと思います。

参考

福武公子「勝利!名古屋高裁金沢支部でもんじゅ行訴判決!−もんじゅ設置許可処分は安全審査の欠落により無効」原子力資料情報室通信345号

海渡雄一「もんじゅ訴訟−国による上告理由に対する反論」原子力資料情報室通信350号 」

被上告人(債務者)のような団体がサロンのような団体ではないとする茨城県不動産鑑定士協会事件判決は、最高裁判所の判決であり、もっとも重要視すべき判決であるのに、高裁判決はこれを無視している。これは明らかな判例違反である。それに対して日本不動産鑑定協会で唯一人、他のすべての不動産鑑定士が被上告人(債務者)らの報復を恐れて、それを法律違反だと言わなかったのに、上告人(債権者)のみがそれに対して敢然と法律違反であると言ったことが、念書を書かなかったことと同様に、被上告人(債務者)らの法律を無視する態度が現れているのであり、更正の見込みがないと考えてしかるべきである。

さろんのような団体ではないからこそ、独占禁止法上の一定の理由がある場合には強制加入の団体となることがありうるということである。

第35 強制加入団体ではないが、競争制限的になる場合には事業者団体に加入の強制が可能であるか。

    税理士会は、税理士の入会が間接的に強制されるいわゆる強制加入団体であり、法に別段の定めがある場合を除く外、税理士であって、かつ、税理士会に入会している者でなければ税理士業務を行ってはならないとされている(法52条)。

    一方では、任意団体であるが事業者団体として独占禁止法上の規制を受ける被上告人(債務者)においては、「法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。

 特に、政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり(規正法3条等)、これらの団体に金員の寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである。」とするのとは異なり、任意に理事会の決定により特定の政党に対して政治献金をしたり、投票の自由を制限したり、「様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている」わけではないのであるから、特定の思想・信条及び主義・主張を有する者を排除する権利を有しているように見えるが、独占禁止法上独占的な地位にあり、その団体に加入していなければ「事業活動を行うことが困難である以上」特定の思想・信条及び主義・主張を有する者を排除する権利は事業者団体の性格からして存在しないというべきである。

 「民法上の法人は、法令の規定に従い定款又は寄付行為で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う(民法43条)。この理は、会社についても基本的に妥当するが、会社における目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行する上に直接又は間接に必要な行為であればすべてこれに包含され(最高裁昭和24年(オ)第64号同27年2月15日第二小法廷判決・民集六巻二号77頁、同27年(オ)第1075号同30年11月29日第三小法廷判決・民集九巻一二号1886頁参照)、さらには、会社が政党に政治資金を寄付することも、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためにされたものと認められる限りにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為とするに防げないとされる(最高裁昭和41年(オ)第444号同45年6月24日大法廷判決・民集二四巻六号625頁参照)。

(ニ) しかしながら、税理士会は、会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的の範囲については会社と同一に論ずることはできない。

 税理士は、国税局の管轄区域ごとに一つの税理士会を設立すべきことが義務付けられ(法49条一項)税理士会は法人とされる(同条三項)。また、全国の税理士会は、日税連を設立しなければならず、日税連は法人とされ、各税理士会は、当然に日税連の会員となる(法49条の14第一、第三、四項)。」

 「税理士会は、会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的の範囲については会社と同一に論ずることはできない。」これについては被上告人(債務者)についても会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的の範囲については会社と同一に論ずることはできない。被上告人(債務者)はサロンのような団体でもなく、不動産鑑定評価に関する法律によって設立が予定された埼玉県内の唯一の団体である。事業者団体ではあるが、信用を付与された公的な性格を有し、唯一でありそれから排除された場合には事業の継続が困難になるという性格を有するのであるから、特定の思想・信条及び主義・主張を有する者を排除する権利はそのような特殊な事業者団体の性格からして存在しないというべきである。

 「税理士会は、税理士の入会が間接的に強制されるいわゆる強制加入団体であ」るのと同じような意味で、被上告人(債務者)のように独占的な地位を有する団体である場合には、それからの排除が競争上不平等な取扱になる場合や、競争業者に入会が強制されることが出来、そのことについては任意的な団体ではないといううる。この点では「事業者団体ないしは職業団体、あるいは、品質保証団体が、もし参加を拒むことによって客観的に正当な理由なく平等的ではない取扱となり、ある事業者に競争上不当な不利益を与える場合には、入会を拒むことは許されない。(ドイツ独占禁止法GWB第20条第6項入会拒絶の禁止)」のようなことが日本で本件事件においては差止請求として主張されているが、事業者団体の自由を否定する違憲の請求にはならないと考えられる。

注:牛島税理士訴訟最高裁判決

最高裁判決 平成四年(オ)第1796号

判  決

熊本市出水六丁目39番11号 上 告 人 牛 島 昭 三

右訴訟代理人弁護士別紙上告代理人

目録記載のとおり

熊本市大江五丁目17番5号

被 上 告 人南九州税理士会

右代表者会長末 崎 将 弘

右訴訟代理人弁護士小 川 英 長

池 上 健 治

 右当事者間の福岡高等裁判所昭和61年(ネ)第106号、同62年(ネ)第551号選挙権被選挙権停止処分無効確認等請求控訴、同附帯控訴事件について、同裁判所が平成4年4月24日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立てがあり、被上告人は上告棄却の判決を求めた。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主 文

一  原判決を破棄する。

二  上告人の請求中、被上告人の昭和53年6月16日の総会決議に基づく特別会費の納入義務を上告人が負わないことの確認を求める部分につき、被上告人の控訴を棄却する。

三  その余の部分につき、本件を福岡高等裁判所に差し戻す。

四  第二項の部分に関する控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。

理 由

 上告代理人馬奈木昭雄、同板井優、同浦田秀徳、同加藤修、同椛島敏雅、同田中利美、同西清次郎、同藤尾順司、同吉井秀広の上告理由第1点、第4点、第5点、上告代理人上条貞夫、同松井繁明の上告理由、上告代理人諌山博の上告理由及び上告人の上告理由について

一 右各上告理由の中には、被上告人が政治資金規正法(以下「規正法」という。)上の政治団体へ金員を寄付することが被上告人の目的の範囲外の行為であり、そのために本件特別会費を徴収する旨の本件決議は無効であるから、これと異なり、右の寄付が被上告人の目的の範囲内であるとした上、本件特別会費の納入義務を肯認した原審の判断には、法令の解釈を誤った違法があるとの論旨が含まれる。以下、右論旨について検討する。

二 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

1 被上告人は、税理士法(昭和55年法律第26号による改正前のもの。以下単に法という。)49条に基づき、熊本国税局の管轄する熊本県、大分県、宮崎県及び鹿児島県の税理士を構成員として設立された法人であり、日本税理士会連合会(以下日税連という。)の会員である(法49条の14第4項)。被上告人の会則には、被上告人の目的として法49条2項と同趣旨の規定がある。

2 南九州税理士政治連盟(以下南九税政という。)は、昭和44年11月8日、税理士の社会的、経済的地位の向上を図り、納税者のための民主的税理士制度及び租税制度を確立するため必要な政治活動を行うことを目的として設立されたもので、被上告人に対応する規正法上の政治団体であり、日本税理士政治連盟の構成員である。

3 熊本県税理士政治連盟、大分県税理士政治連盟、宮崎県税理士政治連盟及び鹿児島県税理士政治連盟(以下、一括して南九各県税政という。)は、南九税政傘下の都道府県別の独立した税政連として、昭和51年7、8月にそれぞれ設立されたもので、規正法上の政治団体である。

4 被上告人は、本件決議に先立ち、昭和51年6月23日、被上告人の第20回定期総会において、税理士法改正運動に要する特別資金とするため、全額を南九各県税政へ会員数を考慮して配付するものとして、会員から特別会費5000円を徴収する旨の決議をした。被上告人は、右決議に基づいて徴収した特別会費470万円のうち446万円を南九各県税政へ、5万円を南九税政へそれぞれ寄付した。

5 被上告人は、昭和53年6月16日、第22回定期総会において、再度税理士法改正運動に要する特別資金とするため、各会員から本件特別会費5000円を徴収する、納期限は昭和53年7月31日とする、本件特別会費は特別会計をもって処理し、その使途は全額南九各県税政へ会員数を考慮して配付する、との内容の本件決議をした。

6 当時の被上告人の特別会計予算案では、本件特別会費を特別会計をもって処理し、特別会費収入を5000円の969名分である484万5000円とし、その全額を南九各県税政へ寄付することとされていた。

7 上告人は、昭和37年11月以来、被上告人の会員である税理士であるが、本件特別会費を納入しなかった。

8 被上告人の役員選任規則には、役員の選挙権及び被選挙権の欠格事由として選挙の年の3月31日現在において本部の会費を滞納している者との規定がある。

9 被上告人は、右規定に基づき、本件特別会費の滞納を理由として、昭和54年度、同56年度、同58年度、同60年度、同62年度、平成元年度、同3年度の各役員選挙において、上告人を選挙人名簿に登載しないまま役員選挙を実施した。

三 上告人の本件請求は、南九各県税政へ被上告人が金員を寄付することはその目的の範囲外の行為であり、そのための本件特別会費を徴収する旨の本件決議は無効であるなどと主張して、被上告人との間で、上告人が本件特別会費の納入義務を負わないことの確認を求め、さらに、被上告人が本件特別会費の滞納を理由として前記のとおり各役員選挙において上告人の選挙権及び被選挙権を停止する措置を採ったのは不法行為であると主張し、被上告人に対し、これにより被った慰謝料等の一部として500万円と遅延損害金の支払を求めるものである。

四 原審は、前記二の事実関係の下において、次のとおり判断し、上告人の右各請求はいずれも理由がないと判断した。

1 法49条の12の規定や同趣旨の被上告人の会則のほか、被上告人の法人としての性格にかんがみると、被上告人が、税理士業務の改善進歩を図り、納税者のための民主的税理士制度及び租税制度の確立を目指し、法律の制定や改正に関し、関係団体や関係組織に働きかけるなどの活動をすることは、その目的の範囲内の行為であり、右の目的に沿った活動をする団体が被上告人とは別に存在する場合に、被上告人が右団体に右活動のための資金を寄付し、その活動を助成することは、なお被上告人の目的の範囲内の行為である。

2 南九各県税政は、規正法上の政治団体であるが、被上告人に許容された前記活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その政治活動は、税理士の社会的、経済的地位の向上、民主的税理士制度及び租税制度の確立のために必要な活動に限定されていて、右以外の何らかの政治的主義、主張を掲げて活動するものではなく、また、特定の公職の候補者の支持等を本来の目的とする団体でもない。

3 本件決議は、南九各県税政を通じて特定政党又は特定政治家へ政治献金を行うことを目的としてされたものとは認められず、また、上告人に本件特別会費の拠出義務を肯認することがその思想及び信条の自由を侵害するもので許されないとするまでの事情はなく、結局、公序良俗に反して無効であるとは認められない。本件決議の結果、上告人に要請されるのは5000円の拠出にとどまるもので、本件決議の後においても、上告人が税理士法改正に反対の立場を保持し、その立場に多くの賛同を得るように言論活動を行うことにつき何らかの制約を受けるような状況にもないから、上告人は、本件決議の結果、社会通念上是認することができないような不利益を被るものではない。

4 上告人は、本件特別会費を滞納していたものであるから、役員選任規則に基づいて選挙人名簿に上告人を登載しないで役員選挙を実施した被上告人の措置、手続過程にも違法はない。

五 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

1 税理士会が政党など規正法上の政治団体に金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する政治的要求を実現するためのものであっても、法49条2項で定められた税理士会の目的の範囲外の行為であり、右寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の決議は無効であると解すべきである。すなわち、

(一) 民法上の法人は、法令の規定に従い定款又は寄付行為で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う(民法43条)。この理は、会社についても基本的に妥当するが、会社における目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行する上に直接又は間接に必要な行為であればすべてこれに包含され(最高裁昭和24年(オ)第64号同27年2月15日第二小法廷判決・民集六巻二号77頁、同27年(オ)第1075号同30年11月29日第三小法廷判決・民集九巻一二号1886頁参照)、さらには、会社が政党に政治資金を寄付することも、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためにされたものと認められる限りにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為とするに防げないとされる(最高裁昭和41年(オ)第444号同45年6月24日大法廷判決・民集二四巻六号625頁参照)。

(ニ) しかしながら、税理士会は、会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的の範囲については会社と同一に論ずることはできない。

 税理士は、国税局の管轄区域ごとに一つの税理士会を設立すべきことが義務付けられ(法49条一項)税理士会は法人とされる(同条三項)。また、全国の税理士会は、日税運を設立しなければならず、日税連は法人とされ、各税理士会は、当然に日税連の会員となる(法49条の14第一、第三、四項)。

 税理士会の目的は、会則の定めをまたず、あらかじめ、法において直接具体的に定められている。すなわち、法49条二項において、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的とするとされ(法49条の二第二項では税理士会の目的は会則の必要的記載事項ともされていない。)、法49条の12第一項においては、税理士会は、税務行政その他国税若しくは地方税又は税理士に関する制度について、権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとされている。

 また、税理士会は、総会の決議並びに役員の就任及び退任を大蔵大臣に報告しなければならず(法49条の11)、大蔵大臣は、税理士会の総会の決議又は役員の行為が法令又はその税理士会の会則に違反し、その他公益を害するときは、総会の決議についてはこれを取り消すべきことを命じ、役員についてはこれを解任すべきことを命ずることができ(法49条の18)、税理士会の適正な運営を確保するため必要があるときは、税理士会から報告を徴し、その行う業務について勧告し、又は当該職員をして税理士会の業務の状況若しくは帳簿書類その他の物件を検査させることができる(法49条の19第一項)とされている。

 さらに、税理士会は、税理士の入会が間接的に強制されるいわゆる強制加入団体であり、法に別段の定めがある場合を除く外、税理士であって、かつ、税理士会に入会している者でなければ税理士業務を行ってはならないとされている(法52条)。

(三) 以上のとおり、税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的として、法が、あらかじめ、税理士にその設立を義務付け、その結果設立されたもので、その決議や役員の行為が法令や会則に反したりすることがないように、大蔵大臣の前記のような監督に服する法人である。また、税理士会は、強制加入団体であって、その会員には、実質的には脱退の自由が保障されていない(なお、前記昭和55年法律第26号による改正により、税理士は税理士名簿への登録を受けた時に、当然、税理士事務所の所在地を含む区域に設立されている税理士会の会員になるとされ、税理士でない者は、この法律に別段の定めがある場合を除くほか、税理士業務を行ってはならないとされたが、前記の諸点に関する法の内容には基本的に変更がない。)。

 税理士会は、以上のように、会社とはその法的性格を異にする法人であり、その目的の範囲についても、これを会社のように広範なものと解するならば、法の要請する公的な目的の達成を阻害して法の趣旨を没却する結果となることが明らかである。

(四) そして、税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり、その会員である税理士に実質的には脱退の自由が保障されていないことからすると、その目的の範囲を判断するに当たっては、会員の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である。

 税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。

 特に、政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり(規正法3条等)、これらの団体に金員の寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである。

 法は、49条の12第一項の規定において、税理士会が、税務行政や税理士の制度等について権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとしているが、政党など規正法上の政治団体への金員の寄付を権限のある官公署に対する建議や答申と同視することはできない。

(五) そうすると、前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり(最高裁昭和48年(オ)第499号同50年11月28日第三小法廷判決・民集二九巻一〇号1698頁参照)、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、法49条二項所定の税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。

2 以上の判断に照らして本件をみると、本件決議は、被上告人が規正法上の政治団体である南九各県税政へ金員を寄付するために、上告人を含む会員から特別会費として5000円を徴収する旨の決議であり、被上告人の目的の範囲外の行為を目的とするものとして無効であると解するほかはない。

 原審は、南九各県税政は税理士会に許容された活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その活動が税理士会の目的に沿った活動の範囲に限定されていることを理由に、南九各県税政へ金員を寄付することも被上告人の目的の範囲内の行為であると判断しているが、規正法上の政治団体である以上、前判示のように広範囲な政治活動をすることが当然に予定されており、南九各県税政の活動の範囲が法所定の税理士会の目的に沿った活動の範囲に限られるものとはいえない。因みに、南九各県税政が、政治家の後援会等への政治資金、及び政治団体である南九税政への負担金等として相当額の金員を支出したことは、原審も認定しているとおりである。

(六) したがって、原審の判断には法令の解釈適用を誤った違法があり、右の違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、その余の論旨について検討するまでもなく、原判決は棄却を免れない。そして、以上判示したところによれば、上告人の本件請求のうち、上告人が本件特別会費の納入義務を負わないことの確認を求める請求は理由があり、これを認容した第一審判決は正当であるから、この部分に関する被上告人の控訴は棄却すべきである。また、上告人の損害賠償請求については更に審理を尽くさせる必要があるから、本件のうち右部分を原審に差し戻すこととする。

よって、民訴法408条、396条、384条、407条一項、96条、89条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

最高裁判所第三小法廷

裁判長裁判官    園部 逸夫

    裁判官    可部 恒雄

    裁判官    大野 正男

    裁判官    千種 秀夫

    裁判官    尾崎 行信

上告代理人員緑

馬奈木 昭 雄 板 井   優 浦 田 秀 徳 加 藤  修 椛 島 敏 雅

田 中 利 美 西 清 次 郎 藤 尾 順 司 吉 井 秀 広 上 条 貞 夫

松 井 繁 明 諌 山   博 池 永   満 名和田 茂 生 小 島   肇

山 本 一 行 小 澤 清 実 幸 田 雅 弘 平 田 広 志 井 上 道 夫

梶 原 恒 夫 小 林 洋 二 内 田 省 司 高 橋 謙 一 小 泉 幸 雄

津 田 聰 夫 松 岡   肇 石 田 吉 夫 岩 田 研二郎 鵜 川 隆 明

海 川 道 郎 大久保 賢 一 岡 田 正 樹 宮 澤 洋 夫 河 内 謙 策

加 藤 美 代 神 山 祐 輔 小 島 成 一 坂 本   修 佐 藤 克 昭

佐 藤 誠 一 四 位 直 毅 島 田 浩 孝 杉 村   茂 高 橋   敬

高 橋   勲 吉 田 健 一 田 中   隆 谷 萩 陽 一 寺 村 恒 郎

鷲 見 賢一郎 前   哲 夫 増 本 一 彦 松 岡 康 毅 山 田 忠 行

横 松 昌 典 横 山 慶 一 吉 本 隆 久 和 田   格

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注:2003年4月13日(日)「しんぶん赤旗」

牛島税理士訴訟最高裁判決とは?

 〈問い〉 団体献金の違法性を認めた、牛島税理士訴訟最高裁判決のことを聞きましたが、どういう判決ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 牛島税理士訴訟とは、税理士会が会員から政治献金を強制徴収することの違法性を問うた裁判です。一九七八年、熊本・大分・宮崎・鹿児島各県の税理士が加入する南九州税理士会は、自民党などへの献金のため、会員から五千円の特別会費を徴収することを総会で決議しました。同税理士会に所属する牛島昭三税理士がこの徴収を拒否したところ、税理士会は牛島氏から、会役員の選挙・被選挙権などをはく奪しました。牛島氏はこの処分取り消しと損害賠償などを求め、八〇年に提訴しました。

 地裁は牛島税理士の主張を認めましたが、高裁がこれを逆転させ、税理士会の決定・処分を追認しました。しかし、最高裁判所は一九九六年、強制加入団体の政治献金を違法とする判決を下し、審理を福岡高裁に差し戻しました。九七年、南九州税理士会が牛島氏に謝罪し、政治献金を今後一切おこなわないこと、過去に納入した全会員の特別会費を返還することなどの和解が成立しました。

 九六年の最高裁判決は、税理士会が法による強制加入団体であることに着目し、このような団体による政治献金は、税理士法で定めた税理士会の目的範囲外の行為となり無効だとしました。このことは、同じような強制加入団体である司法書士会、行政書士会などにも直接影響を及ぼします。現在、同様の裁判が各地であいついでいます。

 また判決理由の中で、政党などへの寄付は「選挙における投票の自由と表裏を成す」ものであり「市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄である」と指摘している点は、重要な意義をもちます。献金が個人の政党選択の権利と不可分であることを重視すれば、この権利を侵害する企業献金や政党助成金の違法性も問題とならざるを得ないからです。(水)

 〔2003・4・13(日)〕

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第35―2 LRAの原則の適用

我が日本国憲法は、第22条(居住・移転・職業選択,外国移住・国籍離脱の自由)で

@ 何人も,公共の福祉に反しない限り,居住,移転及び職業選択の自由を有する。

A 何人も,外国に移住し,又は国籍を離脱する自由を侵されない。

備考;国籍=一国の国民であるという身分・資格。日本では原則として、出生によって生じ、また帰化(きか=本人の希望によって他国の国籍を得て、その国の国民となること。)によって得られる。

Every person shall have freedom to choose and change his residence and to choose his occupation to the extent that it does not interfere with the public welfare.

Freedom of all persons to move to a foreign country and to divest themselves of their nationality shall be inviolate.

と定めているが、本件事件においては、本件独占禁止法違反による営業の自由の妨害は、憲法第22条に反する。

アメリカの裁判例の解釈においても、LRAの理論を採用したものがある。

他の代替的な競争制限的な手段によらずに、公共の福祉を達成する手段がない場合には事業者団体が競争制限によって営業の自由を制限することが認められる場合がある。しかし他の代替的な手段がある場合には、営業の自由を制限することは違憲であるという結論が導かれる。

一般には行政上の問題に適用されるが、本件の場合には私的な事業者団体の活動にも適用が可能である。「職業の自由に対する公権力による制限の一態様である。このような許可制が設けられる理由は多種多様で、それが憲法上是認されるかどうかも一律の基準をもって論じがたいことはさきに述べたとおりであるが、一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によっては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。」と最高裁判所(薬事法違憲判決、昭和43年(行ツ)第120号)は述べている。いわゆるLRAの原則である。

「公権力による制限の一態様」として「合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によっては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要する」としているのであるが、競争制限によって職業選択の自由を奪う場合にも対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制がない場合にのみ合憲であって、本件事件においては他にも様々な競争制限的ではない手段が考えられるのであるから、違憲のそしりを免れないといいうる。

注:薬事法違憲判決

昭和43年(行ツ)第120号

       判     決

上  告  人

株式会社 角      吉

右代表者代表取締役

安   田   収   作

右訴訟代理人弁護士

椢   原   隆   一

被 上 告 人

広島県知事 宮 澤   弘

右指定代理人

貞   家   克   己

近   藤   浩   武

矢   崎   秀   一

桑   畑       稔

川   井   重   男

松   田   良   企

井   上   昌   知

和   田       勝

大   和   至   雄

 右当事者間の広島高等裁判所昭和42年(行コ)第10号行政処分取消請求事件について、同裁判所が昭和43年7月30日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があり、被上告人は上告棄却の判決を求めた。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

       主     文

 原判決を破棄する。

 被上告人の控訴を棄却する。

 控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。

       理     由

 上告代理人椢原隆一の上告理由2について。

 所論は、要するに、本件許可申請につき、昭和38年法律第135号による改正後の薬事法の規定によって処理すべきものとした原審の判断は、憲法31条、39条、民法1条2項に違反し、薬事法6条1項の適用を誤ったものであるというのである。

 しかし、行政処分は原則として処分時の法令に準拠してされるべきものであり、このことは許可処分においても同様であって、法令に特段の定めのないかぎり、許可申請時の法令によって許否を決定すべきのではなく、許可申請者は、申請によって申請時の法令により許可を受ける具体的な権利を取得するものではないから、右のように解けたからといって法律不遡及の原則に反することとなるものではない。また、原審の適法に確定するところによれば、本件許可申請は所論の改正法施行の日の前日に受理されたというのであり、被上告人が改正法に基づく許可条件に関する基準を定める条例の施行をまって右申請に対する処理をしたからといって、これを違法とすべき理由はない。所論の点に関する原審の判断は、結局、正当というべきであり、違憲の主張は、所論の違法があることを前提とするもので、失当である。論旨は、採用することができない。

 同上告理由1について。

 所論は、要するに、薬事法6条2項、4項(これらを準用する同法26条2項)及びこれに基づく広島県条例「薬局等の配置の基準を定める条例」(昭和38年広島県条例第29号。以下「県条例」という。)を合憲とした原判決には、憲法22条、12条の解釈、適用を誤った違法があるというのである。

1 憲法22条1項の職業選択の自由と許可制

 (1) 憲法32条1項は、何人も、公共の福祉に反しないかぎり、職業選択の自由を有すると規定している。職業は、人が自己の生計を維持するためにする継続的活動であるとともに、分業社会においては、これを通じて社会の存続と発展に寄与する社会的機能分担の活動たる性質を有し、各人が自己のもつ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有するものである。右規定が職業選択の自由を基本的人権の一つとして保障したゆえんも、現代社会における職業のもつ右のような性格と意義にあるものということができる。そして、このような職業の性格と意義に照らすときは、職業は、ひとりその選択、すなわち職業の開始、継続、廃止において自由であるばかりでなく、選択した職業の遂行自体、すなわちその職業活動の内容、態様においても、原則として自由であることが要請されるのであり、したがって、右規定は、狭義における職業選択の自由のみならず、職業活動の自由の保障をも包含しているものと解すべきである。

 (2) もっとも、職業は、前述のように、本質的に社会的な、しかも主として経済的な活動であって、その性質上、社会的相互関連性が大きいものであるから、職業の自由は、それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力による規制の要請がつよく、憲法22条1項が「公共の福祉に反しない限り」という留保のもとに職業選択の自由を認めたのも、特にこの点を強調する趣旨に出たものと考えられる。このように、職業は、それ自身のうちになんらかの制約の必要性が内在する社会的活動であるが、その種類、性質、内容、社会的意義及び影響がきわめて多種多様であるため、その規制を要求する社会的理由ないし目的も、国民経済の円満な発展や社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的なものから、社会生活における安全の保障や秩序の維持等の消極的なものに至るまで千差万別で、その重要性も区々にわたるのである。そしてこれに対応して、現実に職業の自由に対して加えられる制限も、あるいは特定の職業につき私人による遂行を一切禁止してこれを国家又は公共団体の事業とし、あるいは一定の条件をみたした者にのみこれを認め、更に、場合によっては、進んでそれらの者に職業の継続、遂行の義務を課し、あるいは職業の開始、継続、廃止の自由を認めながらその遂行の方法又は態様について規制する等、それぞれの事情に応じて各種各様の形をとることとなるのである。それ故、これらの規制措置が憲法22条1項にいう公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによって制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない。この場合、右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであって、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。

 (3) 職業の許可制は、法定の条件をみたし、許可を与えられた者のみにその職業の遂行を許し、それ以外の者に対してはこれを禁止するものであって、右に述べたように職業の自由に対する公権力による制限の一態様である。このような許可制が設けられる理由は多種多様で、それが憲法上是認されるかどうかも一律の基準をもって論じがたいことはさきに述べたとおりであるが、一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によっては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであって、許可制の採用自体が是認される場合であっても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである。

2 薬事法における許可制について。

 (1) 薬事法は、医薬品等に関する事項を規制し、その適正をはかることを目的として制定された法律であるが(1条)、同法は医薬品等の供給業務に関して広く許可制を採用し、本件に関連する範囲についていえば、薬局については、5条において都道府県知事の許可がなければ開設をしてはならないと定め、6条において右の許可条件に関する基準を定めており、また、医薬品の一般販売業については、24条において許可を要することと定め、26条において許可権者と許可条件に関する基準を定めている。医薬品は、国民の生命及び健康の保持上の必需品であるとともに、これと至大の関係を有するものであるから、不良医薬品の供給(不良調剤を含む。以下同じ。)から国民の健康と安全とをまもるために、業務の内容の規制のみならず、供給業者を一定の資格要件を具備する者に限定し、それ以外の者による開業を禁止する許可制を採用したことは、それ自体としては公共の福祉に適合する目的のための必要かつ合理的措置として肯認することができる(最高裁昭和38年(あ)第3179号同40年7月14日大法廷判決・刑集19巻5号554頁、同昭和38年(オ)第737号同41年7月20日大法廷判決・民集20巻6号1217頁参照)。

 (2) そこで進んで、許可条件に関する基準をみると、薬事法6条(この規定は薬局の開設に関するものであるが、同法26条2項において本件で問題となる医薬品の一般販売業に準用されている。)は、1項1号において薬局の構造設備につき、1号の2において薬局において薬事業務に従事すべき薬剤師の数につき、2号において許可申請者の人的欠格事由につき、それぞれ許可の条件を定め、2項においては、設置場所の配置の適正の観点から許可をしないことができる場合を認め、4項においてその具体的内容の規定を都道府県の条例に譲っている。これらの許可条件に関する基準のうち、同条1項各号に定めるものは、いずれも不良医薬品の供給の防止の目的に直結する事項であり、比較的容易にその必要性と合理性を肯定しうるものである(前掲各最高裁大法廷判決参照)のに対し、2項に定めるものは、このような直接の関連性をもっておらず、本件において上告人が指摘し、その合憲性を争っているのも、専らこの点に関するものである。それ故、以下において適正配置上の観点から不許可の道を開くこととした趣旨、目的を明らかにし、このような許可条件の設定とその目的との関連性、及びこのような目的を達成する手段としての必要性と合理性を検討し、この点に関する立法府の判断がその合理的裁量の範囲を超えないかどうかを判断することとする。

3 薬局及び医薬品の一般販売業(以下も薬局等)という。)の適正配置規制の立法目的及び理由について。

 (1) 薬事法6条2項、4項の適正配置規制に関する規定は、昭和38年7月12日法律第135号「薬事法の一部を改正する法律」により、新たな薬局の開設等の許可条件として追加されたものであるが、右の改正法律案の提案者は、その提案の理由として、一部地域における薬局等の乱設による過当競争のために一部業者に経営の不安定を生じ、その結果として施設の欠陥等による不良医薬品の供給の危険が生じるのを防止すること、及び薬局等の一部地域への偏在の阻止によって無薬局地域又は過少薬局地域への薬局の開設等を間接的に促進することの2点を挙げ、これらを通じて医薬品の供給(調剤を含む。以下同じ。)の適正をはかることがその趣旨であると説明しており、薬事法の性格及びその規定全体との関係からみても、この2点が右の適正配置規制の目的であるとともに、その中でも前者がその主たる目的をなし、後者は副次的、補充的目的であるにとどまると考えられる。

 これによると、右の適正配置規制は、主として国民の生命及び健康に対する危険の防止という消極的、警察的目的のための規制措置であり、そこで考えられている薬局等の過当競争及びその経営の不安定化の防止も、それ自体が目的ではなく、あくまでも不良医薬品の供給の防止のための手段であるにすぎないものと認められる。すなわち、小企業の多い薬局等の経営の保護というような社会政策的ないしは経済政策的目的は右の適正配置規制の意図するところではなく(この点において、最高裁昭和45年(あ)第23号同47年11月22日大法廷判決・刑集26巻九号586頁で取り扱われた小売商業調整特別措置法における規制とは趣きを異にし、したがって、右判決において示された法理は、必ずしも本件の場合に適切ではない。)、また、一般に、国民生活上不可欠な役務の提供の中には、当該役務のもつ高度の公共性にかんがみ、その適正な提供の確保のために、法令によって、提供すべき役務の内容及び対価等を厳格に規制するとともに、更に役務の提供自体を提供者に義務づける等のつよい規制を施す反面、これとの均衡上、役務提供者に対してある種の独占的地位を与え、その経営の安定をはかる措置がとられる場合があるけれども、薬事法その他の関係法令は、医薬品の供給の適正化措置として右のような強力な規制を施してはおらず、したがって、その反面において既存の薬局等にある程度の独占的地位を与える必要も理由もなく、本件適正配置規制にはこのような趣旨、目的はなんら含まれていないと考えられるのである。

 (2) 次に、前記(一)の目的のために適正配置上の観点からする薬局の開設等の不許可の道を開くことの必要性及び合理性につき、被上告人の指摘、主張するところは、要約すれば、次の諸点である。

 (@) 薬局等の偏在はかねてから問題とされていたところであり、無薬局地域又は過少薬局地域の解消のために適正配置計画に基づく行政指導が行われていたが、昭和32年頃から一部大都市における薬局等の偏在による過当競争の結果として、医薬品の乱売競争による弊害が問題となるに至った。こよれらの弊害の対策として行政指導による解決の努力が重ねられたが、それには限界があり、なんらかの立法措置が要望されるに至ったこと。

 (A) 前記過当競争や乱売の弊害としては、そのために一部業者の経営が不安定となり、その結果、設備、器具等の欠陥を生じ、医薬品の貯蔵その他の管理がおろそかとなって、良質な医薬品の供給に不安が生じ、また、消費者による医薬品の乱用を助長したり、販売の際における必要な注意や指導が不十分になる等、医薬品の供給の適正化が困難となったことが指摘されるが、これを解消するためには薬局等の経営の安定をはかることが必要と考えられること。

 (B) 医薬品の品質の良否は、専門家のみが判定しうるところで、一般消費者にはその能力がないため、不良医薬品の供給の防止は一般消費者側からの抑制に期待することができず、供給者側の自発的な法規遵守によるか又は法規違反に対する行政上の常時監視によるほかはないところ、後者の監視体制は、その対象の数がぼう大であることに照らしてとうてい完全を期待することができず、これによっては不良医薬品の供給を防止することが不可能であること。

 

5 適正配置規制の合憲性について。

 (1) 薬局の開設等の許可条件として地域的な配置基準を定めた目的が前記三の(一)に述べたところにあるとすれば、それらの目的は、いずれも公共の福祉に合致するものであり、かつ、それ自体としては重要な公共の利益ということができるから、右の配置規制がこれらの目的のために必要かつ合理的であり、薬局等の業務執行に対する規制によるだけでは右の目的を達することができないとすれば、許可条件の一つとして地域的な適正配置基準を定めることは、憲法22条1項に違反するものとはいえない。問題は、果たして、右のような必要性と合理性の存在を認めることができるかどうか、である。

 (2) 薬局等の設置場所についてなんらの地域的制限が設けられない場合、被上告人の指摘するように、薬局等が都会地に偏在し、これに伴ってその一部において業者間に過当競争が生じ、その結果として一部業者の経営が不安定となるような状態を招来する可能性があることは容易に推察しうるところであり、現に無薬局地域や過少薬局地域が少なからず存在することや、大都市の一部地城において医薬品販売競争が激化し、その乱売等の過当競争現象があらわれた事例があることは、国会における審議その他の資料からも十分にうかがいうるところである。しかし、このことから、医薬品の供給上の著しい弊害が、薬局の開設等の許可につき地域的規制を施すことによって防止しなければならない必要性と合理性を肯定させるほどに、生じているものと合理的に認められるかどうかについては、更に検討を必要とする。

 (@) 薬局の開設等の許可における適正配置規制は、設置場所の制限にとどまり、開業そのものが許されないこととなるものではない。しかしながら、薬局等を自己の職業として選択し、これを開業するにあたっては、経営上の採算のほか、諸般の生活上の条件を考慮し、自己の希望する開業場所を選択するのが通常であり、特定場所における開業の不能は開業そのものの断念にもつながりうるものであるから、前記のような開業場所の地域的制限は、実質的には職業選択の自由に対する大きな制約的効果を有するものである。

 (A) 被上告人は、右のような地域的制限がない場合には、薬局等が偏在し、一部地域で過当な販売競争が行われ、その結果前記のように医薬品の適正供給上種々の弊害を生じると主張する。そこで検討するのに、

 (イ) まず、現行法上国民の保健上有害な医薬品の供給を防止するために、薬事法は、医薬品の製造、貯蔵、販売の全過程を通じてその品質の保障及び保全上の種々の厳重な規制を設けているし、薬剤師法もまた、調剤について厳しい遵守規定を定めている。そしてこれらの規制違反に対しては、罰則及び許可又は免許の取消等の制裁が設けられているほか、不良医薬品の廃棄命令、施設の構造設備の改繕命令、薬剤師の増員命令、管理者変更命令等の行政上の是正措置が定められ、更に行政機関の立入検査権による強制調査も認められ、このような行政上の検査機構として薬事監視員が設けられている。これらはいずれも、薬事関係各種業者の業務活動に対する規制として定められているものであり、刑罰及び行政上の制裁と行政的監督のもとでそれが励行、遵守されるかぎり、不良医薬品の供給の危険の防止という警察上の目的を十分に達成することができるはずである。もっとも、法令上いかに完全な行為規制が施され、その遵守を強制する制度上の手当がされていても、違反そのものを根絶することは困難であるから、不良医薬品の供給による国民の保健に対する危険を完全に防止するための万全の措置として、更に進んで違反の原因となる可能性のある事由をできるかぎり除去する予防的措置を講じることは、決して無意義ではなく、その必要性が全くないとはいえない。しかし、このような予防的措置として職業の自由に対する大きな制約である薬局の開設等の地域的制限が憲法上是認されるためには、単に右のような意味において国民の保健上の必要性がないとはいえないというだけでは足りず、このような制限を施さなければ右措置による職業の自由の制約と均衡を失しない程度において国民の保健に対する危険を生じさせるおそれのあることが、合理的に認められることを必要とするというべきである。

 (ロ) ところで、薬局の開設等について地域的制限が存在しない場合、薬局等が偏在し、これに伴い一部地域において業者間に過当競争が生じる可能性があることは、さきに述べたとおりであり、このような過当競争の結果として一部業者の経営が不安定となるおそれがあることも、容易に想定されるところである。被上告人は、このような経営上の不安定は、ひいては当該薬局等における設備、器具等の欠陥、医薬品の貯蔵その他の管理上の不備をもたらし、良質な医薬品の供給をさまたげる危険を生じさせると論じている。確かに、観念上はそのような可能性を否定することができない。しかし、果たして実際上どの程度にこのような危険があるかは、必ずしも明らかにされてはいないのである。被上告人の指摘する医薬品の乱売に際して不良医薬品の販売の事実が発生するおそれがあったとの点も、それがどの程度のものであったか明らかでないが、そこで挙げられている大都市の一部地域における医薬品の乱売のごときは、主としていわゆる現金問屋又はスーパーマーケットによる低価格販売を契機として生じたものと認められることや、一般に医薬品の乱売については、むしろその製造段階における一部の過剰生産とこれに伴う激烈な販売合戦、流通過程における営業政策上の行態等が有力な要因として競合していることが十分に想定されることを考えると、不良医薬品の販売の現象を直ちに一部薬局等の経営不安定、特にその結果としての医薬品の貯蔵その他の管理上の不備等に直結させることは、決して合理的な判断とはいえない。殊に、常時行政上の監督と法規違反に対する制裁を背後に控えている一般の薬局等の経営者、特に薬剤師が経済上の理由のみからあえて法規違反の挙に出るようなことは、きわめて異例に属すると考えられる。このようにみてくると、競争の激化―経営の不安定―法規違反という因果関係に立つ不良医薬品の供給の危険が、薬局等の段階において、相当程度の規模で発生する可能性があるとすることは、単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断とは認めがたいといわなければならない。なお、医薬品の流通の機構や過程の欠陥から生じる経済上の弊害について対策を講じる必要があるとすれば、それは流通の合理化のために流通機構の最末端の薬局等をどのように位置づけるか、また不当な取引方法による弊害をいかに防止すべきか、等の経済政策的問題として別途に検討されるべきものであって、国民の保健上の目的からされている本件規制とは直接の関係はない。

 (ハ) 仮に右に述べたような危険発生の可能性を肯定するとしても、更にこれに対する行政上の監督体制の強化等の手段によって有効にこれを防止することが不可能かどうかという問題がある。この点につき、被上告人は、薬事監視員の増加には限度があり、したがって、多数の薬局等に対する監視を徹底することは実際上困難であると論じている。このように監視に限界があることは否定できないが、しかし、そのような限界があるとしても、例えば、薬局等の偏在によって競争が激化している一部地域に限って重点的に監視を強化することによってその実効性を高める方途もありえないではなく、また、被上告人が強調している医薬品の貯蔵その他の管理上の不備等は、不時の立入検査によって比較的容易に発見することができるような性質のものとみられること、更に医薬品の製造番号の抹消操作等による不正販売も、薬局等の段階で生じたものというよりは、むしろ、それ以前の段階からの加工によるのではないかと疑われること等を考え合わせると、供給業務に対する規制や監督の励行等によって防止しきれないような、専ら薬局等の経営不安定に由来する不良医薬品の供給の危険が相当程度において存すると断じるのは、合理性を欠くというべきである。

 (ニ) 被上告人は、また、医薬品の販売の際における必要な注意、指導がおろそかになる危険があると主張しているが、薬局等の経営の不安定のためにこのような事態がそれ程に発生するとは思われないので、これをもって本件規制措置を正当化する根拠と認めるには足りない。

 (ホ) 被上告人は、更に、医薬品の乱売によって一般消費者による不必要な医薬品の使用が助長されると指摘する。確かにこのような弊害が生じうることは否定できないが、医薬品の乱売やその乱用の主要原因は、医薬品の過剰生産と販売合戦、これに随伴する誇大な広告等にあり、一般消費者に対する直接販売の段階における競争激化はむしろその従たる原因にすぎず、特に右競争激化のみに基づく乱用助長の危険は比較的軽少にすぎないと考えるのが、合理的である。のみならず、右のような弊害に対する対策としては、薬事法66条による誇大広告の規制のほか、一般消費者に対する啓蒙の強化の方法も存するのであって、薬局等の設置場所の地域的制限によって対処することには、その合理性を認めがたいのである。

 (ヘ) 以上(ロ)から(ホ)までに述べたとおり、薬局等の設置場所の地域的制限の必要性と合理性を裏づける理由として被上告人の指摘する薬局等の偏在―競争激化―一部薬局等の経営の不安定―不良医薬品の供給の危険又は医薬品乱用の助長の弊害という事由は、いずれもいまだそれによって右の必要性と合理性を肯定するに足りず、また、これらの事由を総合しても右の結論を動かすものではない。

 (B) 被上告人は、また、医薬品の供給の適正化のためには薬局等の適正分布が必要であり、一部地域への偏在を防止すれば、間接的に無薬局地域又は過少薬局地域への進出が促進されて、分布の適正化を助長すると主張している。薬局等の分布の適正化が公共の福祉に合致することはさきにも述べたとおりであり、薬局等の偏在防止のためにする設置場所の制限が間接的に被上告人の主張するような機能を何程かは果たしうることを否定することはできないが、しかし、そのような効果をどこまで期待できるかは大いに疑問であり、むしろその実効性に乏しく、無薬局地域又は過少薬局地域における医薬品供給の確保のためには他にもその方策があると考えられるから、無薬局地域等の解消を促進する目的のために設置場所の地域的制限のような強力な職業の自由の制限措置をとることは、目的と手段の均衡を著しく失するものであって、とうていその合理性を認めることができない。

 本件適正配置規制は、右の目的と前記(2)で論じた国民の保健上の危険防止の目的との、二つの目的のための手段としての措置であることを考慮に入れるとしても、全体としてその必要性と合理性を肯定しうるにはなお遠いものであり、この点に関する立法府の判断は、その合理的裁量の範囲を超えるものであるといわなければならない。

5 結論

 以上のとおり、薬局の開設等の許可基準の一つとして地域的制限を定めた薬事法6条2項、4項(これらを準用する同法26条2項)は、不良医薬品の供給の防止等の目的のために必要かつ合理的な規制を定めたものということができないから、憲法22条1項に違反し、無効である。

 ところで、本件は、上告人の医薬品の一般販売業の許可申請に対し、被上告人が昭和39年1月27日付でした不許可処分の取消を求める事案であるが、原判決の適法に確定するところによれば、右不許可処分の理由は、右許可申請が薬事法26条2項の準用する同法6条2項、4項及び県条例3条の薬局等の配置の基準に適合しないというのである。したがって、右法令が憲法22条1項に違反しないとして本件不許可処分の効力を維持すべきものとした原審の判断には、憲法及び法令の解釈適用を誤った違法があり、これが原判決の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨は、この点において理由があり、その余の判断をするまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、右処分が取り消されるべきものであることは明らかであるから、上告人の請求を認容すべきものとした第1審判決の結論は正当であって、被上告人の控訴は棄却されるべきものである。

 よって、行政事件訴訟法7条、民訴法408条1号、396条、384条、96条、89条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

最 高 裁 判 所 大 法 廷

裁 判 長 裁 判 官 村 上 朝 一

裁 判 官裁 判 官裁 判 官裁 判 官裁 判 官裁 判 官裁 判 官裁 判 官裁 判 官裁 判 官裁判 官裁 判 官裁 判 官裁 判 官

関 根 小 郷 藤 林 益 三 岡 原 昌 男 小 川 信 雄 下 田 武 三  岸   盛 一  天 野 武 一  坂 本 吉 勝  岸 上 康 夫  江里口 清 雄  大 塚 喜一郎  高 辻 正 己  吉 田   豊  団 藤 重 光

第36 合理の原則から原則違法の原則へ

 伊従寛氏によれば、公正取引委員会の時代には、入会拒否について民法上の理由があれば、無効確認訴訟でも入会強制はあり得なかったので、公正取引委員会は事業者団体においても入会拒否は「批判してきたものは入会を認めない」ということは認めた来たという。

 独占的な地位がある場合かつアクセスすべき必須な要素を管理している事業者団体の入会拒否を原則違法の取扱をすることはこれまでの判例がないから判例違反ではないが、審決の変更をするのと同様になる。但しこの判決がその最初の最高裁判所の判決となる可能性が高い。従ってその場合にはそれが合憲であることを主張しておく必要性がある。

 わが憲法は営業の自由をまもるために営業の自由を妨害する行為については、公共の福祉に反しない限り排除を認めていると解される。憲法第22条、第25条によるのであるが、営業の自由は財産を得るための重要な必須の自由権であるから、それなしでは財産権が得られないとしたした場合には、事業の継続が困難になる場合においては、憲法第29条にも違反している。

 第22条(居住・移転・職業選択,外国移住・国籍離脱の自由)

@ 何人も,公共の福祉に反しない限り,居住,移転及び職業選択の自由を有する。

A 何人も,外国に移住し,又は国籍を離脱する自由を侵されない。

備考;国籍=一国の国民であるという身分・資格。日本では原則として、出生によって生じ、また帰化(きか=本人の希望によって他国の国籍を得て、その国の国民となること。)によって得られる。

Every person shall have freedom to choose and change his residence and to choose his occupation to the extent that it does not interfere with the public welfare.

Freedom of all persons to move to a foreign country and to divest themselves of their nationality shall be inviolate.

第25条(生存権,国の義務)

@ すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

A 国は,すべての生活部面について,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

All people shall have the right to maintain the minimum standards of wholesome and cultured living.

In all spheres of life, the State shall use its endeavors for the promotion and extension of social welfare and security, and of public health.

第29条 (財産権)

@ 財産権は,これを侵してはならない。

A 財産権の内容は,公共の福祉に適合するやうに,法律でこれを定める。

B 私有財産は,正当な補償の下に,これを公共のために用ひることができる。

備考;財産権=財産的価値を有する権利。身分権・人格権などと並ぶ私権の一で,物権・債権および無体財産権などが主要なもの。

The right to own or to hold property is inviolable.

Property rights shall be defined by law, in conformity with the public welfare.

Private property may be taken for public use upon just compensation therefor.

第37 審理不尽の違法性
 伊従寛氏によれば、公正取引委員会の時代には、入会拒否について民法上の理由があれば、無効確認訴訟でも入会強制はあり得なかったので、公正取引委員会は事業者団体においても入会拒否は「批判してきたものは入会を認めない」ということは認めた来たという。

 このような状況においては重大な損害額を認定しないまま裁判を終えることは、憲法が保証する財産権の補償が受けられないことを意味し、甲121号証拠から、甲137号証拠までの証拠が、それも以上に述べた川島町の重要なテープ及びその反訳が証拠として採用されていないことなどが審理不尽に該当し、違法であるといいうる。裁判官のみが見ることが出来る証拠として採用されていたとしても、日本においては判決に引用できる証拠ではなく、再開申立が行われたにもかかわらず判決に重要な証拠について審理しなかったのは審理不尽に該当する。価格の証拠は事業実績報告書をみても分かるが、現実の一つ一つの契約における価格の証拠は再開してはじめて審理できたし、平成16年12月までの市場の動向は集計の関係上平成17年3月末までかかったのであり、審理不尽といわざるをえない。統計が終わっていない限り市場の数字が一切分からないという関係上、それを抜きにして判決がなされたのは、再開申請も出されていたのであるから、審理不尽といわざるをえない。

   甲121号証拠から甲137号証拠までの証拠が、それも以上に述べた川島町の重要なテープ及びその反訳が証拠として採用されていないことなどが審理不尽に該当し、違法であるといいうるが、これらはカルテルの証明になっており、将来の独占禁止法訴訟においては、独占禁止法違反が不当な取引制限の罪と関係している以上刑法の訴訟との関連を考えていくべきである。カルテルとの併合審理が望まれるのであり、私訴であってもカルテルの主張は公正競争阻害性の問題を論ずる限りは妥当であると考えられる。損害の継続性と共に、犯罪の継続性も認められるからである。

安売りに対する共同ボイコットは、トイザらス事件においては違うが、本件事件においてはカルテルが推測される。トイザらス事件と本件事件においては安売りするなという点では一致しているが、価格協定が推測されるかどうか、価格協定の維持のためであったのかどうかで違っている。そしてカルテルが推測されることが最後に証拠によって主張されたのである。

トイザらス事件においては単独の販売事業者と、複数の製造業者との共謀によるグループボイコットが認められたのであるが、本件においては共謀によるカルテルに対して事業者が価格競争をしようとしたところ、価格競争をする事業者は市場から排除するために入会拒否を行ったという事件である。

 今後犯罪にも匹敵するような不当な取引制限に該当するような事件においては、今後は独占禁止法においてはアメリカのディスクロージャーやディスカヴァリーのような制度を採用すべきであるし日本弁護士連合会の制度に対する提言によって主張しているのである。日本にはその制度はないが、犯罪に近い行為について審理するのであるから、裁判官の良心によって最後に提出された価格の証拠を見るべきである。裁判所においては第3分類に入れてあったが、被上告人(債務者)との対審(trial)にはなっていないが、日本においては犯罪に近い証拠を被上告人(債務者)が認めるとは思われないので、対審がなくても裁判官の良心によって見るべきである。制度論はさておき良心によって裁判官は一見して明かに価格の共謀があったと理解できる多くの証拠について審理か、採用を行うべきであり、裁判官の良心を定めた憲法76条に違反する。

第6章 司法

第76条(司法権,裁判所,特別裁判所の禁止)

@ すべて司法権は,最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。

A 特別裁判所は,これを設置することができない。行政機関は,終審として裁判を行うことができない。

B すべて裁判官は,その良心に従い独立してその職権を行い,この憲法及び法律にのみ拘束される。==⇒児島惟謙

 備考;下級裁判所=最高裁判所の下に置かれる高等裁判所・地方裁判所・家庭裁判所・簡易裁判所をさす。高等裁判所は,日本の8箇所の大都市(東京,大阪,名古屋,広島,福岡,仙台,札幌,高松)に置かれているほか,6箇所の都市に支部が設けられている。地方裁判所は,全国に50箇所あり,その管轄区域は北海道が4つに分かれているほか,各都府県と同じある。また地方裁判所に支部が設けられており,その総数は203箇所である。家庭裁判所とその支部は,地方裁判所とその支部の所在地と同じ所にあるほか,交通不便な所にある簡易裁判所のうち,特に必要性の高いところに家庭裁判所出張所を設けて家事事件の処理に当たらせ,国民の利便を図っている。簡易裁判所は,全国に438箇所あり,民事事件については,訴訟の目的となる物の価額が90万円を超えない請求事件について,また,刑事事件については,罰金以下の刑に当たる罪及び窃盗,横領などの比較的簡単な罪の訴訟事件等について,第一審の裁判権を持っている。

特別裁判所=一般の裁判所から独立し,特別の身分をもつ者または特定の種類の事件のみについて裁判権を行使する裁判所で,大日本憲法下の行政裁判所・皇室裁判所・軍法会議がこれにあたる。

終審=それ以上は上訴できない最終の裁判所の審理。

終審裁判所=審級(三審)制度の上で最終的な(終審としての)裁判をする裁判所で,一般には最高裁判所を指す。違憲審査については必ず最高裁が終審裁判所となる。行政機関は最終裁判所として裁判することを禁じられているが,前審として裁決や決定を行うことはできる(例えば,特許に関する争訟を判定するために特許庁長官が指定する審判官の合議で行われる特許審判や独占禁止法の運用のために設けられた行政委員会である公正取引委員会の審判,海難事件を取り扱う海難審判所の審判など)。

裁判官=裁判所の構成員として裁判事務を担当する国家公務員で,最高裁判所長官・最高裁判所判事・高等裁判所長官・判事・判事補・簡易裁判所判事の6種がある。

職権=特に公の機関や公務員に与えられた一定の行為を遂行する権限や権能。

The whole judicial power is vested in a Supreme Court and in such inferior courts as are established by law.

No extraordinary tribunal shall be established, nor shall any organ or agency of the Executive be given final judicial power.

All judges shall be independent in the exercise of their conscience and shall be bound only by this Constitution and the laws.

第38 訴訟の権利と、告訴の権利と、公正取引委員会への申告の権利

憲法においてこれらの権利は人権として守られているが、被上告人(債務者)の団体においては、現実には、このようなことは許可されていない。その理由は公正取引委員会はザル法を管理している独立行政委員会であるので、独占禁止法違反については目をつぶってくれているのに、その眠った獅子を起こしてくれるな、日本では談合を行い、独占禁止法を守らないことが相隣関係であり、受忍限度であるという絶対的に守らなければならない掟がある。高い価格によっていなくてはならない、そのように監禁されて酒匂悦郎と山口節生は井坂事務所でリンチを受けたのである。

またそのようなことはしないとの念書を書かされたのである。

これは憲法32条の違反である行為であるが、それを裁判所が認めるのは、憲法第32条違反といいうる。

第32条(裁判を受ける権利)

 何人も,裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。

No person shall be denied the right of access to the courts.

「この種の『内部告発』の重要性が広く認識され,「公益通報保護制度」の立法化へ

 さらに、この事件から、国と私人(私企業も含む)との取引のあり方、競争の意義、国と国民の関係(国民の税金で、国の費用を賄っているのだから、なるべく「安い政府」、効率的な行政運営を要求できるはず)など、考えて下さい。

 本件では、防衛庁にとって、最大の関心事は「安定供給」であり、価格は二の次です。それどころか、防衛庁その他の国の行政機関は、毎年必要な費用は予算で確保されていて、これを年度末までに消化することが重要。消化しないと不必要な予算要求をしたことになり、次の年度では減額されてしまう。また、毎年できるだけ多額の予算を獲得することが各機関の力と評価され、担当官の業績になる。」

との意見もある。


第39 憲法と、経済憲法

 日本国憲法は、戦後日本の自由競争による自由経済において独占禁止法を経済的自由を維持するための経済における憲法として機能させようとした。

 アメリカの独占禁止法もそのように認識されているのである。

 従って公共の利益や、LRAの理論などを採用したとしても、独占禁止法と憲法は同じ結論になるようである。思想・心情の自由や、LRAの原則や、公共の利益の憲法原則は経済憲法である独占禁止法は無視され、そのことが当然違法の原則となったといえるかの問題である。

 それは逆に当然違法の原則となったのであるから、思想・心情の自由は守られているといいうるのである。

 上記税理士会事件においても、政治的自由は守られているといいうる。逆に個別的事案には及ばないとする経済活動以外の場面における思想・心情の自由は守るすべを失っているのである。

 

 独占禁止法においてその他の競争制限によって効率性を達成出来ない時には、その競争制限的な行為が違法とはならない場合があるという理屈は、個別的行為に対して憲法理論におけるLRAの原則を適用しているといいうる。憲法の下位にあるが、経済の憲法である独占禁止法においては差止によって原則違法の行為をLRAの原則によって個別的行為を規制しうるということはいかに独占禁止法における差止が憲法よりも進んでおり、経済的自由という生存権に関わっている自由であるためにいかに自由が守られているかという問題となっている。

 「一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によっては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであって、許可制の採用自体が是認される場合であっても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである。」との最高裁判所の判決は「許可制の採用自体が是認される場合であっても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである。」と述べており、LRAの原則に照らして個別的に許可条件を判断するとしている。

 独占禁止法は許可制の問題ではないが、競争制限的な行為の違法性、公正競争阻害性を法的に規制しているのであって、この「LRAの原則に照らして個別的に許可条件を判断する」としている最高裁判所の判決に従う必要があることになる。

 その意味では本件事件においてこの最高裁判所の判決に従うべき義務はあると考えられるが、被上告人(債務者)はそれに従っておらず、それを是認した判決は違憲であると言わざるをえない。

 独占禁止法においてLRAの原則については次のような説がある。

Under the rule of reason, courts weigh the anti-competitive effect of the rule against the justification proffered for the rule. Section 1 is violated when a court finds that an anti-competitive effect outweighs the justifications for the rule or that the rule was not a reasonably less restrictive alternative to accomplish a legitimate goal. 合理性の基準においては、ある規制の競争制限的な効果を計測して、その規制のために用意された正当化よりも上回っているかどうかを審理することになる。競争制限的な効果がその規制の正当化よりも大きい場合、あるいは、合法的な目的を達成するために、その規制は「より制限的ではない他の代わりになる合理的な手段(LRA)」ではないことを裁判所が認定してはじめてシャーマン法の第一条の違反となる。In a decision reached earlier this year, the 6th Circuit evaluated an Ontario Hockey League rule that effectively precluded former college hockey players over the age of 19 from joining league rosters.今年前期において第6巡回裁判所は決定により、19歳以上の大学ホッケー前期選手をリーグの登録選手名簿への登載を拒否することが効率性があるとしてオンタリオホッケーリーグの規則を評価した。 The court ruled that the district court erred in applying the per se rule rather than the rule of reason. 裁判所は地方裁判所が合理性の原則(日本の理由の原則とは違った意味で。訳注。)ではなく、原則違法の原則を適用したのは誤っていると判断した。Accordingly, it evaluated the rule’s

 注:THE NATIONAL LAW JOURNAL Antitrust Law Sports League Rules Janet McDavid ? David J. Michnal While sports leagues have unique considerations, rules challenges may turn on issues comman to all § 1 Sherman Act claims. Janet L. McDavid, a partner at Washington's Hogan & Hartson, is a past chair of the ABA's Section of Antitrust Law. David J. Michnal is an Associate at the firm. On Jan. 3, talented Ohio State University running back Maurice Clarett held high college football’s national championship trophy, after a thrilling double overtime victory over the favored University of Miami Hurricanes. Seven months later, the National Collegiate Athletics Association (NCAA) initiated an investigation into whether Clarett violated NCAA rules by accepting improper financial and academic assistance while at Ohio State. Depending on its findings, the NCAA could suspend Clarett for a long period of time or even declare him ineligible to participate in NCAA collegiate athletics. Clarett’s dilemma is further complicated by a National Football League (NFL) rule that prohibits a prospective player from entering the NFL player draft until three years have elapsed since his high school class graduation. Depending upon the nature of the NCAA sanction, Clarett may face the choice of accepting sanction, transferring to a lower-level NCAA institution or a non-NCAA institution or joining a team in a less prestigious league unless he challenges the legality of either NCAA or NFL rules. If so, the Clarett case may become the latest collision between sports and antitrust. Stating a claim under § 1 of the Sherman Act A successful legal challenge to either the NCAA or the NFL rules regarding player eligibility would likely focus on § 1 of the Sherman Act and seek either damages or an injunction against the rules. To state a claim under § 1, a plaintiff must allege the existence of a contract, combination or conspiracy that unreasonably restrains trade. Assuming no standing or jurisdictional issues, a plaintiff’s case hinges on theexistence of an agreement and the "reasonableness" of the restraint. Courts categorize competitive restraints as either per se unlawful or subject to the rule of reason. Per se illegal restraints are those that have a "predictable and pernicious anticompetitive effect, without any potential for procompetitive benefit," and have typically been limited to price fixing, bid rigging and allocating markets or customers. But those with potential for procompetitive effect are subject to the rule of reason, which examines the overall competitive effects of the restraint.

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2 The first major obstacle to a § 1 claim against a professional sports league is proving that an agreement exists. Since the U.S. Supreme Court’s decision in Copperweld Corp. v. Independence Tube Corp., 467 U.S. 752 (1984), which held that a corporation and its wholly owned subsidiary could not conspire because they constitute a single entity, courts have wrestled with Copperweld’s application to sports leagues. In Brown v. Pro Football, Inc., 518 U.S. 231 (1996), the court suggested that, in the context of collective bargaining, professional sports teams arenot completely independent competitors because they depend on cooperation with each other for their existence. However, in Sullivan v. NFL, 24 F.3d 1091 (1st Cir. 1994), the 1st U.S. Circuit Court of Appeals held in a suit brought by a team owner against the league that the NFL’s members were capable of conspiring because theywere not a single entity under Copperweld. The 7th Circuit split the difference in Chicago Sports Ltd. v. NBA, 95 F.3d 593 (7th Cir. 1996), concluding that Copperweld's reasoning does not dictate a concrete answer to the single entity question, but rather might require an analysis "one league at a time and perhaps one facet of a league at a time." It does not appear that the NCAA has ever contended that it is a single entity and thus capable of conspiring under § 1. In NCAA v. Board of Regents, 468 U.S. 85 (1984), the high court expressly recognized that the restraint at issue - restrictions on broadcasts of college football games - was the result of "an agreement among competitors on the way in which they will compete with one another." Once an agreement is established, courts generally evaluate restraints promulgated by sports leagues under the rule of reason. As the Supreme Court explained in NCAA, sports leagues and their members "market competition itself. Of course, this would be completely ineffective if there were no rules to create and define the competition to be marketed." 468 U.S. at 101. While acknowledging that price fixing and output limitations are ordinarily condemned as illegal per se, the court applied the rule-of-reason test, explaining that the per se rule is inappropriate in "an industry in which horizontal restraints on competition are essential if the product is to be available at all." Id. at 100. Under the rule of reason, courts weigh the anti-competitive effect of the rule against the justification proffered for the rule. Section 1 is violated when a court finds that an anti-competitive effect outweighs the justifications for the rule or that the rulewas not a reasonably less restrictive alternative to accomplish a legitimate goal. In a decision reached earlier this year, the 6th Circuit evaluated an Ontario Hockey League rule that effectively precluded former college hockey players over the age of 19 from joining league rosters. The court ruled that the district court erred in applying the per se rule rather than the rule of reason. Accordingly, it evaluated the rule’s competitive effects and reversed the trial court’s grant of a preliminary injunction, reasoning that the plaintiff failed to allege that the restraint had an

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3 anticompetitive effect in any relevant market. See NHLPA v. Plymouth Whalers Hockey Club, 325 F.3d 712 (6th Cir. 2003). The NCAA’s mission provides its member schools with unique justifications for the reasonableness of its restraints. In order to preserve the unique character of the product that is intercollegiate athletics, courts have upheld restraints that might raise antitrust concerns in different contexts. The Supreme Court in NCAA concluded that "most regulatory controls of the NCAA [are] justifiable means of fostering competition among the amateur athletic teams and therefore are pro-competitive because they enhance public interest in intercollegiate athletics." The court warned, however, "[I]t is nevertheless well-settled that good motives will not validate an otherwise anticompetitive measure." 468 U.S. at 101, 117. This standard has been applied in several cases involving the NCAA. In Worldwide Basketball and Sports Tours, Inc. v. NCAA, 2003 WL 21756081 (S.D. Ohio 2003), the plaintiffs .tournament promoters sought to enjoin the NCAA’s enforcement of the "Two-in-Four Rule," which, limited Division I college basketball teams to playing no more than two school-scheduled basketball tournaments in any four consecutive years. Applying the rule of reason, the court found that the rule resulted in a significant reduction of Division I games. The court concluded that the NCAA’s justifications for the rule competitive balance, the welfare of the student-athlete and the standardization of the playing season were not served by the rule and therefore did not justify the restraint. The court’s decision emphasizes that even historically legitimate justifications for a restraint on competition will outweigh anti-competitive effects only when there is a nexus between the rule’s purpose and effect and when there is no reasonably less restrictive alternative. Applying an abbreviated rule-of-reason analysisIn cases involving restraints that have an obvious anti-competitive, courts may apply an abbreviated rule-of- reason analysis. In Law v. NCAA, 134 F.3d 1010 (10th Cir. 1998), the 10th Circuit considered whether NCAA-imposed salary limits for college basketball coaches violated antitrust laws. The court observed, "[W]here a practice has obvious anticompetitive effects as does price-fixing, there is no need to prove that the defendant possesses market power. Rather, the court is justified in proceeding directly to the question of whether the procompetitive justifications advanced for the restraint outweigh the anticompetitive effects under a ’quick look’ rule-of-reason." Applying the "quick look" rule-of-reason analysis to a restraint on basketball coaches’ salaries, the court concluded that the rule violated § 1 because it did not serve its stated purpose of creating an even playing field among NCAA member schools. Professional sports league rules and regulations are sometimes the subject of collective bargaining. If a rule negotiated during the collective bargaining process is a proper subject for collective bargaining, that rule is likely immune from antitrust

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4 laws under the National Labor Relations Act. See Wood v. NBA, 809 F.2d 954 (2nd Cir. 1987). Thus, so long as the NFL rule is a proper subject of collective bargaining under the act, §1 claims are unlikely to succeed. Before mounting an antitrust challenge to a sports league’s rules, an athlete like Clarett should carefully weigh the obstacles to successful litigation. Despite the successful challenge to a nearly identical NBA rule in 1971 (see Denver Rockets v. All-Pro Management, Inc., 325 F. Supp. 1049 (C.D. Cal. 1971)), winning a § 1 claim against any sports league is far from a "slam dunk." A challenge to a league’s rules may be an expensive endeavor financially and may take years to resolve. Further, challenges to league rules under § 1 must address the unique considerations that apply to sports leagues generally. A prospective plaintiff must determine whether the professional sports league rule was a subject of collective bargaining; assess the likelihood that the league will be considered a single entity under Copperweld and thus unable to conspire; and evaluate the substance of the § 1 claim, i.e., whether the rule’s anti-competitive effects of the rule outweigh the procompetitive effects. In the end, a successful challenge to a sports league’s rules may very well turn on issues common to all § 1 claims like market definition and competitive effects. However, prospective plaintiffs must also evaluate the unique considerations resulting from using laws designed to preserve competition against industries that market competition. REPRINTED WITH PERMISSION FROM THE SEPTEMBER 22, 2003EDITION OF THENATIONAL LAW JOURNALc 2003ALM PROPERTIES,INC. ALL RIGHTS RESERVED. FURTHER DUPLICATION WITHOUT PERMISSION IS PROHIBITED.

「(3)のより制限的でない代替的な手段があったかどうか(いわゆるLRA)については慎重な判断がされ、EC委員会は選択的な相手を探知するための手続さえもっているようです(最近のEC裁判所の判断として前述のKali+Salz合併事件判決およびとりわけ法務官意見参照)。(「新しい株式所有・合併等ガイドライン(原案)についての意見」1998年8月19日大阪市立大学法学部助教授 泉水文雄)といわれてい学者もあり、LRAの原則は独占禁止法になじまないわけではない。

 なお、合併の場合にではなく、共同ボイコットの場合には事業活動を困難にするので、生存権との関わりが出てくる。

「ストーリー性のあるゲームソフトに映画と同様の頒布権があるというメーカーの主張の当否は知的財産権の専門家にお任せしますが、ただ、ゲームソフトが頒布権の対象かどうかは、頒布権の概念からの演繹的な考察も重要ではありますが、のみならず頒布権創設により著作権が保護しようとする正当な利益がこの行為により本当に実現されるかどうか、仮に実現されるとしてどれだけ実現されるか、目的達成の手段は相当か(目的達成のための社会的コストーたとえば中古市場が成立しないことによる新作市場の価格上昇の経済厚生効果ー、消費者の不利益)、LRAなどから考えるべきだと思います。」(泉水文雄ホームページ、ニュース 97/11〜98/01)。

    MERGER WORKSHOP: February 19, 2004... former Acting Assistant Attorney General and Deputy. 24. Assistant Attorney General for Antitrust. ... reasoned decision of LRA analysis, Less Restrictive. 2. Alternative analysis, and stressed the efficiencies that

Only if a monopoly were shown to exist would we be faced with the public utility theory which has been much discussed in connection with this case and adopted by Mr. Justice FRANKFURTER. The decrees under the Sherman Act directed at monopolies have customarily been designed to break them up or dissolve them. See United States v. Crescent Amusement Co., 323 U.S. 173 , 65 S.Ct. 254. There have been some exceptions. Thus in United States v. Terminal Railroad Ass'n, 224 U.S. 383 , 32 S.Ct. 507, an action was brought under the Sherman Act to dissolve a combination among certain railroads serving St. Louis. The combination had acquired control of all available facilities for connecting railroads on the east bank of the Mississippi with those on the west bank. The Court held that as an alternative to dissolution a plan should be submitted which provided for equality of treatment of all railroads. And see United States v. Great Lakes Towing Co., D.C., 208 F. 733, 747; Id., D.C., 217 F. 656, appeal dismissed 245 U.S. 675 , 38 S.Ct. 8; United States v. New England Fish Exchange, D.C., 258 F. 732. Whether that procedure would be appropriate in this type of case or should await further legislative action (cf. Mr. Justice Brandeis' dissenting opinion, International News Service v. Associated Press, 248 U.S. 215, 248 , 262 S., 39 S.Ct. 68, 75, 81, 2 A.L.R. 293) is a considerable question, the discussion of which should not cloud the present decision. What we do today has no bearing whatsoever on it.

どうもRestrictiveは競争制限的なの意味であるようであるが、共同ボイコットの許可条件での意味ではフットボールリーグの場合がある。従って独占禁止法と憲法は深い関係があり、薬局の距離制限に関する憲法判断は、共同ボイコットの許可条件にも使用できる。つまりLRAがない場合には違憲ではないが、そうではない場合には違憲であるというように。しかし独占禁止法自体が経済憲法であるならば、憲法ではなく独占禁止法でそのまま使えるということになる。

 今上告人(債権者)が問題としているのは共同ボイコットに当然違法の原則を用いることが、行政法規の違憲性の審査を行っている訳ではないが、法規である独占禁止法の解釈・運用においてLRAがない場合には合憲(独占禁止法に限って言えば合法)であり、逆にある場合には違憲(同様に違法)であるかということである。

 特に独占禁止法違反についていうことを黙らせるという行為は告発権や、公益の見地から許されるものではない。

 もし職業選択の自由に被上告人(債務者)の行為が関与しているとした場合に憲法上の違憲性があるか、そうではないかの問題はその行為が間接適用に合致しているのかという問題に、これまでの判例上は還元できる。

 新しい判例を作る場合は別である。

 独占禁止法の解釈という場面は、間接適用か、直接適用になるのかという問題である。もし本件事件においてのみはこのように解釈するというのであれば、直接適用の問題となるが、独占禁止法における共同ボイコットの解釈全般、つまり原則違法論で共同ボイコットが原則違法であるのかどうかの問題に限定すれば、法令の解釈の問題であるので、間接適用であるということになる。つまりアメリカの場合には当然違法の法理を積み重ねてきたが、日本の場合には憲法において適用するのが妥当であるという法理である。

 職業選択の自由に関する問題については、独占禁止法の適用を通じて、LRAの原則を貫くことが独占禁止法の解釈上は妥当である。これは被上告人(債務者)の競争制限的な行為についてのみではなくて、法の定立にも等しい最高裁判所の判決において、LRAの憲法原則を要求し、ひいては本件事件においては被上告人(債務者)は個別的な事件において営業の自由を侵してはならないという論理が法的に妥当であると考えて上告理由とするものである。

 憲法原則は一般には事業者団体の被上告人(債務者)には及ばないのであるが、被上告人(債務者)は公的な団体であり、サロンのような団体ではないのであるから一事業者団体の問題ではあるが、間接的にその行為に影響を及ぼすようにすることが可能であるとして上告を行う。

 薬事法という行政法規そのものをあらそっているわけではないが、ガイドラインの解釈においては憲法問題が個別的違反行為に対して、LRAの原則によりより競争制限的ではない行為をとるように強制できると考えることが出来る。

 上記のアメリカの解釈においてはこれを独占禁止法そのものの中で解釈している。

 しかし独占禁止法は経済の憲法であるから、その解釈を通じて直接的に行為を規制しているのであって、憲法問題に含まれていないとはいえないので日米共通の解釈であるということになる。というのは憲法の下位規範が独占禁止法であり、アメリカから移植されてきた法であるから、わが国の憲法の中の法体系にははいっていないと考えるのは間違いであるからだ。

 事業者団体のある競争制限的な行為について、より競争制限的ではない行為をとれるのに、例えば6カ月のみの入会猶予のような行為がとれるのに、競争制限的な行為をとるのは間違っていると憲法がいいうるということである。

 また銭湯が過当競争の故に、公衆の衛生上の安全性をおかすかもしれないという危惧は、ペアレント的な発想ではあるが、憲法上社会経済的見地から妥当である場合もあるし、それはデジコン事件では子供の玩具であったからこそ是認されたのであり、弱者に対するセーフティネットは公共の福祉の観点から考量に入れた上での議論である。 

第40 ホームページの家的性質
 ホームページはいわば多くの糸電話の真ん中で、結合しているような糸電話である。従って何億人の人に本当に見られているとは言い難い。山口節生のホームページを本当に見た人はゼロに近いだろう。カウンターは一日私がつり上げていたのである。誰にもホームページのアドレスを公表していない。

 

第41 職業選択の自由

 職業は、本質的に社会的な、しかも主として経済的な活動であって、その性質上、社会的相互関連性が大きいものであるから、職業の自由は、それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力による規制の要請が強く、憲法22条1項が「公共の福祉に反しない限り」という留保のもとに職業選択の自由を認めたのも、特にこの点を強調する趣旨に出たものと考えられる。(最大判昭和50年4月30日民集29巻4号572頁)

 

第42 思想・表現の自由

 厳格な基準などの問題であり、おそれなどでは規制できない。一般の場合とは違って、商事の場合には法的には様々な考量の対象になる。

 税理士会事件においては強制加入団体であったので、政治的自由が確保されるべきであるという判断になっており、個別的事業者団体に対する判断がでているのであるから、本件においても任意団体であるが、独占禁止法上限りなく強制加入団体に近い団体であるので、政治的自由や討論の自由は確保されるべきであり、もしそのようなことが真の理由であるのならば憲法上許されない。

第42 上告理由

 本件は確かに共同ボイコットによって、資金が枯渇し、経営が成り立たなくなり、事業の継続が出来なくなったという世界でも初めての事件であり、永久に同じ事件は起こらないであろう事件である。

 しかし証拠を50%以上の確率でもって、推薦を認められるかという証拠の問題を独占禁止法上の問題として採用するかどうかは、上告理由となりうるのであろうか。

 例えば、渋谷正雄と佐久間良彦の会話のテープは、国土交通省の江戸川河川事務所からの推薦依頼を述べており、一方江戸川河川事務所の担当官は推薦を依頼する様にしていると述べている。この二つのテープによる証言は両方によって100%の証明になっている。一方では埼玉県内の市町村や、県は推薦を受けたと述べている。しかし被上告人(債務者)はそれが犯罪に近いものであることを知っているので、かって平成9年度は被上告人(債務者)から埼玉県を通じて推薦を受けたことを認めておりながら、それ以降の自由競争になってからは平成12年度の制度を埼玉県税務協議会との合意によって各市町村に営業をかけてきた業者を(テープでは相当数あったという)営業の禁止をしたり、個々の推薦については被上告人(債務者)は自白しないのである。

 そこでは証拠の優越を証明する程度に証明が出来ているかどうかである。

 本件事件においてそこが問題となっているのにもかかわらず、証拠の問題はないがしろにされてはまず困るということを上告理由とするものである。

 結果として事業活動が困難になっているとしても、信用というものの供与について取引拒絶をしていることと、直接的に推薦・紹介行為を行っていることとでは前者は過失ともとらえられるのに、直接の推薦は故意がはっきりと前面にでている。

 いずれにしても結果は100%の証拠であるが、推薦を50%しか証明していない場合には、結果は市場であり、それが証明が出来ているのであるから、行為の証明は50%以上証明できたのであるから、因果関係は認めてよいであろうと考えることが出来る。

 独占禁止法の場合には行為との因果関係は民事訴訟法第248条によって認定するべきであると考えられる。

 確かに自由裁量であるから247条を使用するとすることも自由裁量であるとすることは一方の主張であり、248条使用して下さいと裁判所に申し立てることは申立でしかない。しうるということを、しろと要請することはただのお願いでしかない。しかし独占禁止法においては犯罪に近い行為を私訴において私人が何の捜査権限もなく証拠収集するのであるから、全体の趣旨からして、248条の採用は憲法上の人権からの要請である。被害者の救済でもある。

「憲法と経済法の関係。憲法22条1項の「職業の自由」は、一般的な経済的自由、すなわち職業選択の自由だけでなく、職業活動の自由も含むと拡大されて解されている。しかし、「公共の福祉に反しない限り」という限定がつき、法律・行政による自由の制限が認められる。」(船田立教大学教授ホームページより)

 わが国の憲法はソ連の憲法とは違って、自由経済を目的とし自由競争を促進するという目的で制定されている。これは憲法の大原則である。もし競争制限によって行政が営業する権利を抑制することがあったとしても、より競争制限な手法がない場合に限り合憲であり、それよりも競争制限的である行為は違憲である。しかし合理の基準を採用するか、当然違法の原理を採用するかは独占禁止法の運用の問題であって、行政法規の問題ではない。司法に対して合理性の基準ではなく、原則違法の基準を採用するようにいえるか。公正取引委員会の共同ボイコットに関する解釈を変更するようにいうことは最高裁判所の働きに属する。

 しかし憲法の問題に含まれるか。独立行政委員会は最高裁判所の下にあるのか。ある。独立とは言っても憲法の下にあるからだ。解釈の問題によって憲法目的を達成することは間接適用に当たるのか。直接適用に近いが、その他の判決に与えるのであるから、間接適用といえる。

「立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。」

 本件事件において判例の判断の変更の主張は、司法府の判断に付き、司法の最高裁判所の判断を求めるものであるから、本件事件において共同ボイコットにおいて当然違法の原則を採用して、合理性の原則を排除すべきであるという上告理由は司法の判断について司法においても行政の判断が違憲であるという判断をすることが間接適用であるのと同じく、司法の判断が違憲であるかどうかを司法の最高裁判所の判断に委ねることは間接適用の変更を上告理由とするものであるから、上告理由として最高裁判所の判断を仰ぐことが出来ると主張し、それは直接適用を要求することにはならない。

「より制限的でない、他の代替的手段」(less restrictive alternatives. LRA基準とも呼ばれる。教科書242頁参照)は、抱き合わせについての説明であるが、この観点は他の不公正な取引方法についても採用されるべきであり、おとり廉売を防止するためにすべての販売業者に対する再販が必要か、それ以外の「より制限的でない、他の代替的手段」がないかを個別具体的に検討すべきである。

第42 証拠の問題―自由裁量権の逸脱

 証拠の採用において、証拠の優越の理論を検討したTHERESA AGUILAR et al.,v. ATLANTIC RICHFIELD COMPANY et al.テレサ・アグラー 対 アトランティック・リッチフィールド会社事件において自由裁量権については次の様に考えられる。

「It is true, as Aguilar argues, that, as a general matter, orders granting a new trial are examined for abuse of discretion.

アギュラー側が主張するとおり、一般的に言えば、新しい審理を認める判決は、自由裁量権の逸脱であるかどうかを審理されるべきであるということだというのは正しい。

(See, e.g., Schelbauer v. Butler Manufacturing Co. (1984) 35 Cal.3d 442, 452; Jiminez v. Sears, Roebuck & Co. (1971) 4 Cal.3d 379, 387.)

But it is also true that any determination underlying any order is scrutinized under the test appropriate to such determination. (See, e.g., People v. Waidla (2000) 22 Cal.4th 690, 730; People v. Alvarez (1996) 14 Cal.4th 155,188.)

どのような決定の判断であっても、その判断が正当であるかどうかの審査によって精査される。」

 最高裁判所の審理においては証拠の判断においては、証拠の優越にも近い民事訴訟法第248条を使っていないことが正当かどうか、自由裁量権の逸脱になっていないかの審理、判断が必要であると考えられる。

注:間接適用における私人間効力

本名を明かせない事情がある人のホームページより。

「私人間効力

一 憲法の人権規定は私人間にも適用されるか

 私人間効力、あまり聞かない言葉ですよね。 しかしながら、けっこう我々の生活に近いところの問題だったりします。

 そもそも、憲法は私と皆さんといったような私人対私人を想定しているわけではありません。あくまでもわれわれ私人対公人(つまり国家)を想定して作られています。ですから、私人対私人の関係に直接憲法を適用することには問題があるのです。

 しかし、戦後、資本主義の高度化(発展)にともない、社会の中に、企業・労働組合・経済団体・職能団体などの巨大な力を持った国家類似の私的団体が数多く生まれました。これにより、一般国民の人権が脅かされる、という事態が生じました。

 また、マスコミの巨大化によりプライバシー侵害も常態化しているのが現状です。

 そこで、このような「社会的権力」による人権侵害からも、国民の人権を保護する必要があるのではないかが問題になっているのです。ね、結構身近な問題ですよね?

 現在、間接適用説なる考え方が、通説、判例となっています。どのような考え方かといいますと、「規定の趣旨・目的ないし法文から直接的な私法的効力をもつ人権規定を除き、その他の人権については、法律の概括的条項、とくに、民法90条のような私法の一般条項に、憲法の趣旨をとり込んで解釈適用することによって、間接的に私人間の行為を規律すべきである」、という考え方であります。tanashinもこのように解するのがよいと考えています。

 ちょっと難しいですよね。要するに、直接適用すべき人権もあるが、私人対私人の関係には、できるだけこれを規律する民法等の法律に従うのがよい、ということです。このとき、民法の規定を憲法の理念にそって考えることが要求されています。

 上で民法90条なんて条文がでてきましたね。民法90条では有名な「公序良俗」について規定されています。公の秩序、善良な風俗を乱すことは許さない、ということをいっています。

 つまり、公序良俗に反する行為をした私人(実際には大企業など)には憲法の条文を間接的に適用していくぞー、というような態度を間接適用説はとっているのです。

 間接適用なんて方法をとらず、直接に適用しても良いんだ、という考え方もありますが・・・、私的自治の原則(市民社会において人が義務を負うのは自らの意思でそれを望んだときだけである、とする法原理のことをいう)が広く害されることになるので、できる限り間接的に適用するのがよいといえましょう。

ニ 私人間効力が問題になった裁判

 有名なものを2つだけみてみましょう。

1. 三菱樹脂事件

  ある学生さん(以後A君)がいました。A君は三菱樹脂株式会社に採用されましたが、入社試験の際に学生運動はしていないと、うそをついてしまいました。学生運動・・・、若い人にはピンとこないかもしれませんが、就職の際に学生運動をしていたことがばれるとほぼ間違いなく採用してもらえませんでした。

 ところが、それがばれて試用期間終了後A君はクビになってしまいました。そこで、A君は労働契約関係存在の確認を求めて訴えを起こしたのです。

 裁判(S.48.12.12)では、間接適用説に立ちつつも、企業の雇用の自由を強く認め、「特定の思想・信条を有する者をそのゆえをもって雇い入れることを拒んでも、それを当然に違法とすることはできず」、また、「労働者の採否決定にあたり、労働者の思想・信条を調査し、そのためその者からこれに関する事項の申告を求めることも」違法ではない(間接適用説によりますと、私法の一般条項に憲法の趣旨を取り込んで解釈するので、私人間において「合憲・違憲」の問題が生ずることは有り得ず、「適法・違法ないし有効・無効」といった判断が下されます)、と判示されました。

 以上の判旨は「無効力説」(憲法の規定は特段の定めある場合を除いて私人間には適用されない、との考え方)と変わらぬとして批判されました。

 tanashinも、この判決では強い保護が要請される精神的自由たる思想・信条を守れないのではないか、と考えています。

2. 百里基地訴訟

  自衛隊基地の用地売買契約についての訴訟ですが、売買の当事者の一方が国(自衛隊)ということもあって、憲法9条も問題になった重要判例です。

 事実の概要はこうです。基地反対派である小川町長Zさんは、基地建設を阻止するために国が基地用地として買収予定のXさんの土地を購入することにし、代理人Yさんを介してXさんと売買契約を結びました。ところがその代金の一部が支払われていないとしてXさんは契約を解除、国はその土地を買う契約をしたのでした。国とXさんが、小川町長Zさんとその代理人Yさんに対して所有権確認(つまり、問題になっている土地は国のものであることを確認する)等の請求をしたのがそもそもの始まりです。 

 平成元年の判決では、憲法98条1項にいう「国務に関するその他の行為」とは、公権力を行使して法規範を定立する国の行為を意味し、私人と対等の立場で行う国の行為は法規範の定立を伴わないから、「国務に関するその他の行為」に該当しない。ゆえに、国が私人と対等の立場で締結する私法上の契約は、「特段の事情がない限り、憲法9条の直接適用を受けず、私法の適用を受けるにすぎない」としました。そして、間接適用説のような考え方により、憲法9条は「私的自治の原則等私法上の規範によって相対化され、民法90条にいう公の秩序の内容の一部を形成する」が、売買当時、自衛隊のために国と私人との間で売買契約を締結することが、反社会的な行為であるとの認識が社会の一般的な観念として確立されていたとはいえないと判示し、ZさんとYさんは敗訴しました。

三 プライバシーと表現の自由

 さて、私人間効力のページでプライバシーだの表現の自由だの関係ないのでは、と思われる方、いらっしゃいませんか? ところが、結構関わりあるのですよ(^^;

 まず、プライバシー権(自己に関する情報をコントロールする権利であると考える説が有力です)についてですが、憲法のどこに規定されているか、ご存知ですか? 実は、今のところどこにも規定されていないんですね(^^; 同様に環境権や日照権、情報権等についての規定もありません。このように、社会に求められてはいるが憲法に規定されていない人権があります。新しい人権と呼んだりします。今現在、判例が正面から認めているのは、プライバシーの権利としての肖像権だけです。というわけで、新しい人権といえばまずはプライバシー権ということになります。憲法上の権利であれば「公共の福祉」(12条後段、13条後段、22条1項、29条2項)による制約しか受けませんが、憲法上の権利でなければより多くの制約を受けることになってしまうので、本当に重要な人権は憲法で保障されるよう努力する必要があるかもしれません。基本的に護憲派の私ですが、新しい人権を明文で憲法に規定することには強くは反対しません。ただし、仮にプライバシー権を憲法第三章で規定した場合、規定されなかった人権の地位がプライバシー権に対して弱められ、13条を根拠に新しい人権を認めていこうという動きが弱められてしまうのなら、やはりプライバシー権を明文化することに反対せざるをえないのかもしれません。

 さて、今ちょっとお話したように、この新しい人権は、憲法13条の幸福追求権を根拠に認めていくべきだ、との考えが有力です。そこから導かれる個々の人権には具体的権利性が認められると考えられています。つまり、裁判で争える、というわけです。

 そこで、この裁判でも争えるほどに有力な人権となったプライバシー権が、憲法上明記されている表現の自由とトラブルを起こしたときにはどのように考えていけばいいでしょうか。この問題を考えるときの基準が問題となります。

 例えば、ある人AがBさんの日常生活を暴露するようなノンフィクション小説を書いたとします。AさんはBさんの事をよく知っていて、どんな秘密を持っているか等の情報に詳しく、それを小説の中で暴露してしまったとしましょう。もう皆さんお分かりの通り、ここでは、Aさんの小説を書くという表現の自由とBさんの秘密等を暴露されたくない、自分の情報は自分で管理するんだというプライバシー権がぶつかり合っています。

 どうです?人権と人権との衝突ですよ。皆さんならどのように解決しますか?

 普通、こうしたケースでは、私人であるBさんは、同じく私人であるAさんにプライバシー権侵害を主張したいことでしょう。でも、プライバシー権という人権を私人に対して主張できるのでしょうか?

 皆さんもうお分かりのように、ここで私人間効力を持ち出すわけです。先ほどみた間接適用説によれば、憲法の人権規定の趣旨を私法の一般条項にとりこんで解釈・適用することにより間接的に私人間にも人権規定を適用していくことになります。ただ、間接適用の仕方によっては権利の保障が弱められるということが起こりうるため、緻密な利益衡量が必要とされています。

 今回の事例では、BさんがAさんに家族に知られたくない秘密を暴露され、このプライバシー権の侵害に対して慰謝料を請求しているとしましょうか。

 とすれば、Bさんの請求が認められるか、Aさんの行為の違法性が問題となります。

 まず、Aさんは私人であり、私人による小説の刊行は21条1項に保障されている表現の自由にあたります。そこで、Bさんのプライバシー権とAさんの表現の自由をいかに調整すべきか解決せねばなりません。

 思うに、表現の自由とプライバシー権は、いずれも個人の尊厳確保のために必要不可欠な人権です。そこで、その調整は緻密な利益衡量によるべきなのです。

 ところで、表現の自由は(表現の自由のところでも触れていますが)精神的自由の中核をなすものなので一般に強い保護が与えられています。プライバシー権との関係では、公共の利害に関わる公的な価値を有する表現は、その民主政下における価値の重要性に鑑み違法とはいえないとされています。

 そこで、Bさんが政治家等ではなく普通のサラリーマンだとしますと、Aさんによる表現は、無名の一私人に向けられたもので、Bさんの実名を公表する必要性が特にあったとはいえず、Aさんの表現行為は違法であるといえ、Bさんの請求は認められることになります。

 一方で、Bさんが政治家で選挙を間近に控えているときに、AさんがBさんの前科情報を小説の中で明らかにしたとき、「公共の利害に関わる」表現であると解することにより、Aさんの表現行為は適法であるとの結論に達することも可能です。

 以上のように、事例毎に相対する利益同士を細かく分析することにより結論は異なりますし、どのような事情をどの程度に評価するか、ということによっても結論は異なってくるでしょう。

 緻密な利益衡量によるべきだ、などといって事例を考えてみましたが、なにせ事例を簡単なものにしているので、上のような程度では「緻密」には程遠いですが、なんとなく利益衡量について分かってもらえると思います。それで、結構です。

以上です。三についてはご参考までに。

牛島税理士訴訟物語からの抜き書き

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松澤証人に関して

 とはいえ、当面の課題は松澤証人尋問対策である。

 彼は東京地裁判事時代にロッキード事件を担当したという。その貴重な経験

は披の信条に影響を与えなかっのだろうか、税理士会による政治献金が許され

るとの論陣を張った。これに対し、われわれは、司法試験受験数、論文の盗作

疑惑にはじまり国労広島地本事件の無理解、前提事実についての専断などを暴

露し、鑑定証人の命というべき専門性の欠如を明らかにした。ついには高石裁

判長から 「僭越なる証人」と決めつけられたのであるから、われわれの反対

尋問の成功を自負することが許されよう。

●40ページ 弁護士 浦田秀徳

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松澤氏の失敗

 松澤氏の失敗はもう一つある。証人は租税法が専門である。しかし証言では、

憲法の思想・信条の自由の問題、民法の公益法人の権利能力の範囲の問題につ

いても専門的に研究していると大風呂敷を広げた。昔の学者はいざ知らず、専

門分野が細分化した今日ではこういうことはありえない。したがって当然のこ

とながら、反対尋問の恰好の標的となってしまった。権利能力についての我妻

説の誤りを指摘されて答えられず、松澤氏が意見書の中で引用している広島地

本の最高裁判決の事例を聞かれて、ほとんどまともに答えられないという失態

をさらすことになったのである。ここはまさに「学者であれば僭越ですな」と

の声がかかる場面である。もっとも専門的に研究していなければ答えられない

という質問でもないと思うのだが・・・。

 伝え聞くところでは松澤氏は法廷の外でも勇猛果敢なる活躍があるようで、

この証人尋問が原因でそれに一層拍車がかかったようである。

●122ページ  弁護士 藤井順司

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判決の意義 憲法は私人間間にも適用される

 つぎに、以上のこととも関連しながら、牛島税理士訴訟判決が明確に、書法

の私人間への適用を認めていることに注目すべきである。

 三菱樹脂・高野事件判決 (一九七三年一二月一二日) で最高裁は、在学

中の団体加入や学生運動の有無について申告させることが思想・信条と関連す

ることを認めながらも、憲法はもっぱら国または公共団体と個人との関係を律

するもので私人相互の関係には適用されない、という「論理」で企業の本採用

拒否(解雇)を有効とした。

 大学の教育方針に反する思想・信条をいだいたことを理由とする私立大学生

にたいする退学処分が争われた、昭和女子大事件判決(一九七四年七月一九日)

でも最高裁はこの「論理」を踏襲したのであった。

 これにたいし牛島税理士訴訟判決で、牛島税理士が私人なのはいうまでもな

いが、南九州税理士会も、一定の公共性をもつとはいえ、国や公共団体の機関

ではない。憲法上の位置づけでは私人にすぎないのである。この私人相互の関

係において、税理士会の目的の範囲という中間項を媒介としながら憲法一九条

の適用を認めたことは前述のとおりである。これは最高裁が私人間への憲法の

間接適用を承認したことにほかならないのである。

「ルールなき資本主義」といわれる今日の大企業の横暴のなかで、ひとつの「

理論的支柱」とされてきたのが「憲法は企業の門の前でとどまる」という身勝

手な言い分であった。関西電力事件判決とならんでこの判決が、これに痛打を

浴びせたことの意義はけっして小さくはないのである。

●213ページ思想・信条の自由の擁護 弁護士 松井繁明

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思想・信条の自由 を積極的に擁護

 なによりもこの判決が、思想・信条の自由 (憲法一九条) を積極的に擁

護したことである。

 憲法が制定されてすでに五〇年。なにをいまさらと思われるかもしれない。

しかし、リアルに歴史的経過を振りかえるとき、最高裁が思想・信条の自由を

擁護してこなかったのは、明らかな事実に属する。レッド・パージ諸事件につ

いて最高裁は、日本の「独立」後における判決のなかでさえアメリカ占領軍命

令の超法規的効力を認めて、明白な思想・信条を理由とする解雇を有効とした

のであった。また、同じく思想・信条の自由が争われた三菱樹脂・高野事件な

どにおいても最高裁は、のちにも述べるように「私人間には憲法は適用されな

い」という「論理」によって、事実上、思想・信条の自由を擁護することを拒

否したのであった。

 これに対し、この判決に先だつ一九九五(平成七)年九月五日、同じく第三

小法廷がおこなった関西電力人権侵害事件の判決は、明らかに思想・信条の自

由を擁護するものであった。すなわち同判決は、「被上告人ら(四人の労働者)

が共産党員またはその同調者であることのみを理由として(中略)その思想を

非難して」監視・孤立策などをとったことは「不法行為を構成するもの」と判

示したのである。

 ところが奇妙なことに、関西電力事件判決のなかでは「思想・信条の自由」

という言葉はひとつも使用されていない。原審の大阪高裁判決と対比すると、

最高裁が故意にこの言葉を削除したと考えられるほかないのであるが、その理

由はさだかではない。

牛島判決の優位性

 それにくらべて牛島税理士訴訟判決では思想・信条の自由を明示して、これ

を擁護している。(税理士会の)目的を判断するに当たっては、会員の思想・

信条の自由との関係での考慮が必要である。(税理士会の)構成員である会員

には、さまざまの思想・信条及び主義・主張を有するものが存在することが当

然に予定されている。

●211ページ 弁護士 松井繁明

最近の最高裁は少数者、異端者は法的保護にあたいしな

い、法的保護は必要ないと考えていますよ

最近の敗訴例の一つの視点

 私が参加した敗訴例の代表として牛島税理士訴訟があります。私は思わず呆

然とし、裁判所を口汚くののしりました。証拠上、主張上負けるはずのない訴

訟だったからです。しかしそのとき、私の尊敬する京都の中島弁護士の警告が

頭をよぎりました。「最近の最高裁は少数者、異端者は法的保護にあたいしな

い、法的保護は必要ないと考えていますよ」。

 まさにこの判決はそうだと思います。「税理士のほとんどみんなが納得して

いるのに、たった一人で、たった五〇〇〇円のことに目くじらたてなさんな」。

 判決はそういっているのです。

 そういう目で最近の判決を見てみると、次々とあります。あの日立の残業拒

否による解雇事件、玉串料訴訟、まさにその典型例ではありませんか。

 少数者の権利を守るのが、まさに基本的人権なのだという正論はあります。

しかしその正論に裁判所が真正面から敵対してくる以上私たちもそれと正面か

らたたかうほかないのではないでしょうか。

● 271ページ 弁護士 馬奈木昭雄」

「709条、または90条の要件を満たせば差し止め請求しうる、という流れで書いてしまうと、条文の規定を曲げてしまうことになってしまうからです。」

北野氏と牛島氏の出会い

 この機会に、私と牛島昭三氏との交誼についてふれておきたい。

 私自身は牛島昭三氏とはかつて面識もなく、まったく存じあげていなかった。

いまから言って二〇数年前に税理士の任意研究団体である税経新人会全国協議

会の研究集会が熊本で開催された。開催地(熊本)の幹事をつとめられたのが

同氏であった。私はその熊本集会で税法学の特別記念講演をさせていただいた。

私を講演者として指名されたのは同氏であった、という。同熊本集会において

はじめて同氏と私は親しくお会いした。その後、全国税労働組合の税研集会が

東京で開催された。同研究集会においても私は税法学の特別講義をする機会を

与えられた。同講義には熊本から同氏も参加されていた。同講義終了後、同氏

から、近く牛島税理士訴訟を提起するつもりでいるので、ぜひ税法学者として

協力してほしいと要請された。

284ページ 日大教授 北野弘久

アメリカにおいても、より制限的ではない代替手段の問題により解決されると見る見解がある。

ii. ii. Fashion Originators [group boycott of retailers who distributed goods of “style pirates”] a social purpose of limiting style piracy was heavily outweighed by the dangers extra-governmental guildファッション・オリジネーターズ事件(「スタイルを盗用」した製品を配給された販売業者のグループによるボイコット事件)スタイルの盗用を制限するという社会的目的よりもギルドが自己において統治する危険性の方がずっと上回っているとした

1. 1. Some have read this as applying a per se test to group boycotts, but it seems to be a narrow rule of reason or limited per se approach. The court considers the group’s power and purpose, as well as less restrictive alternatives.

グループによるボイコットに対して当然違法の原理を適用したものであるとファッション・オリジネーターズ事件を読み解くものもいるが、狭い意味の合理性の基準か、限定された当然違法の原理であると思われる。裁判所はグループの支配力や目的を考慮すると同時に、より制限的ではない代替手段がないかどうかを考慮している。

注:

I. History of Antitrust Litigation

a. a. Monopolization

i. i. Definition: (1) The possession of monopoly power in a relevant market, and (2) the willful acquisition or use of that power by anticompetitive or exclusionary means or for anticompetitive or exclusionary purposes.

ii. ii. Aspen Ski a refusals to deal can amount to monopolization

1. 1. Essential Facilities Doctrine a With an essential facility, there is an obligation to provide access to a competitor.

iii. iii. With attempts to monopolize, there is a requirement to demonstrate specific intent, but not with monopolization cases.

b. b. Vertical Restraints

i. i. Intrabrand competition is w/in one brand, on the distribution level. Interbrand competition is among different brands.

ii. ii. Horizontal restraints are analyzed under the “per se” rule; the effects do not have to be apparent. Vertical restraints are analyzed under the “rule of reason.”

iii. iii. There is the possibility of free-riding in the form of cream-skimming, selling the product w/out allocating the resources.

c. c. Conspiracy to Restrain Trade

i. i. Modified Rule of Reason (Rothery Storage [agents cannot contract w/ competitors if using Atlas’ resources]):

1. 1. Naked horizontal restraint that does not accompany a contract integration is per se illegal.

2. 2. Ancillary horizontal restraint that is part of integration of economic activities of the activities of the parties and is appears to be capable of enhancing efficiency is judged by its purpose and effect.

ii. ii. See Chart

d. d. Mergers

i. i. Merger resulting in large market share is presumptively illegal, rebuttable only by a demonstration that the merger will not have competitive effects. [Philadelphia National Bank - SC]

ii. ii. The market share figure is not accurate in representing ease of entry or future market share. There should be greater attention to entry conditions in determining the legality of exclusionary practices and mergers. [Waste Management ? 2nd Cir.]

iii. iii. There are two types of potential errors: In Type 1, the firm or firms get away with activity that has anticompetitive effects; in Type 2, the activity is held illegal even though it may not be anticompetitive. Type 2 errors are potentially dangerous b/c of the chilling effects.

e. e. Standing [Mid-Michigan Radiology] a Radiology firm, which is seeking to provide for its own self-interest is not an adequate representative of the class of consumers that are supposed to be protected by the antitrust laws.

II. II. Conspiracies in Restraint of Trade

a. a. Classic Cases:

i. i. Trans-Missouri a Court took literal reading of “every restraint” in condemning all agreements in restraint of trade, not just unreasonable ones.

ii. ii. Joint Traffic a Trans-Missouri analysis will result in Type 2 errors. Efficiency will justify arrangements that may otherwise restrain trade.

iii. iii. Addyston Pipe a All price-fixing agreements are per se illegal unless ancillary to a legitimate purpose. Ancillary means that an agreement has to be reached for some larger purpose to be accomplished.

iv. iv. Trenton Potteries a Reasonableness of prices cannot be a defense. What is reasonable today may be unreasonable tomorrow. Proof of existence of price-fixing agreement establishes illegal purpose, and there is no need to show that the fixed prices are unreasonable.

v. v. Appalachian Coals a In applying the essential standard of reasonableness, there must be a close and objective scrutiny of particular conditions and purposes. Realities must dominate the judgment.

b. b. Per Se Rule [horizontal price-fixing, horizontal boycotting, horizontal territorial allocations]

i. i. Socony Vacuum (Madison Oil) [independent dealers were matched w/ major oil firms] a rigid per se rule condemning all price-fixing arrangements; if the purpose is to raise prices, then “per se” illegal.

1. 1. Dicta - §1 conspiracy violations require no overt act to be shown other than the conspiracy. NO §1 requirement to demonstrate both power (to control prices) & purpose.

2. 2. In order to establish horizontal price-fixing, there must be (1) agreement, combination, conspiracy; (2) among actual competitors; (3) with the purpose of raising, depressing, pegging, or stabilizing prices; (4) in interstate commerce.

ii. ii. Fashion Originators [group boycott of retailers who distributed goods of “style pirates”] a social purpose of limiting style piracy was heavily outweighed by the dangers extra-governmental guild

1. 1. Some have read this as applying a per se test to group boycotts, but it seems to be a narrow rule of reason or limited per se approach. The court considers the group’s power and purpose, as well as less restrictive alternatives.

iii. iii. Topco [territorial restraints among smaller grocery chains selling generic-branded products] a condemned as per se illegal for the market divisions’ elimination of competition among sellers.

1. 1. The court says that is not up to the organization which kind of competition is more advantageous to the market.

2. 2. If looked at today, the courts would view this as intrabrand competition and a vertical restraint, applying the rule of reason in order to determine if there is an impact on interbrand competition.

c. c. Rule of Reason

i. i. Chicago Board of Trade [special after-hours sessions where the call rule was in effect] a Legality of agreement cannot be determined by simple test of whether it restrains competition. New rule of reason analysis: pro-competitive or anti-competitive effects.

1. 1. The critical factors to be considered evaluation are the purpose and effects.

ii. ii. Society of Professional Engineers [professional society’s canon of ethics prohibits competitive bidding] a Purpose of the rule of reason analysis is to form judgment about the competitive significance of the restraint; it is not to decide whether a policy favoring competition is in the public interest, or in the interest of the members of an industry.

1. 1. Justifications are confined to consideration of the impact of the restrain on competitive conditions.

d. d. Modern Cases - Per Se Loosening

i. i. Price-Fixing

1. 1. BMI [effect of arrangement was that organization acted as license clearing house for composers] a the marketing arrangements (blanket licenses) seemed reasonably necessary for development of new music

a. a. Threshold inquiry as to whether horizontal collaboration “facially appears to be one that would always or almost always tend to restrict competition and decrease output” or is designed to “increase economic efficiency and render markets more, rather than less, competitive.”

b. b. Even horizontal price-fixing agreements may serve necessary and beneficial purposes and analyzed under the rule of reason.

c. c. The teaching force of this case is that what can technically or on its face as price-fixing under Madison Oil may, under certain circumstances be viewed under the rule of reason. These circumstances include the existence of other products, the value of the new product and efficiencies that result, and the effect of increasing output and driving down the price.

2. 2. NCAA [restricting how often each team’s games could be broadcasted] a Quick-look rule of reason instead of per se b/c of horizontal restraints may be necessary if the product is to be available. In this application, an exhaustive, fact-intensive analysis is not required and proves that Π’s can prevail under rule of reason.

3. 3. Abbott Labs [exclusive marketing agreement] a Licensing agreement was pro-competitive b/c it introduced a new product into the market. Π cannot articifially create antittrust claim by narrowly defining the relevant market.

4. 4. Procompetitive Justifications: tendency to reduce transaction costs and increased efficiency (BMI, NCAA, NW Wholesalers)

ii. ii. Concerted Refusals to Deal

1. 1. NW Wholesalers [member of office supplies cooperative expelled b/c it expanded activities from retail to wholesale] a modified per se rules for boycotts: “Unless the coop possesses market power or exclusive access to an element essential to effective competition, the conclusion that expulsion is virtually always likely to have anticompetitive effect is not warranted.”

a. a. Where the joint activity does not seek to disadvantage rivals, it is unlikely to have predominantly anticompetitive effects.

b. b. If there are likely anticompetitive effects from a group boycott, then per se rule applies. If anticompetitive effects are not likely, then apply two-step analysis:

i. i. Is there market power?

ii. ii. Does this result in anti-competitive effects?

c. c. Quick look has circular reasoning b/c there must be enough facts to determine pro-competitive effects, but not so much that the entire rule of reason analysis should be carried out.

2. 2. IN Federation of Dentists [collective refusal by dentists to provide x-rays to insurance company] a Together with NW Wholesalers, this case suggests that group boycotts are only per se illegal when there is market power or some other control of competition.

e. e. Modern Cases - Per Se Reaffirmance

i. i. Maricopa County [physicians set max fees] a Reaffirmance of per se rule against maximum price-fixing; maximum price becomes the minimum price when collective action exists.

ii. ii. SCTLA [lawyers refused to represent indigent Δ’s until fees were raised by gov’t] a Boycotts by rivals constitute naked restraints which are per se illegal (return to the dichotomy model).

iii. iii. Palmer [selling HBJ bar review materials] a Agreements by competitors not to compete in each other’s territories are illegal per se, “whether the parties split a market w/in which both do business or whether they merely reserve [markets].”

f. f. Modern Rule of Boycott Decisions: (1)An agreement by direct rivals to withhold their services until the price for such services is raised is a “naked” restraint on output and is condemned summarily [SCTLA]; (2)Concerted refusals to deal that pose remotely plausible efficiency rationales are evaluated with a truncated rule of reason that begins (and sometimes ends) with a preliminary assessment of the conduct’s purposes and effects [IN Federation of Dentists]; (3)Suits challenging memberships policies of efficiency-enhancing collaborations require a fuller reasonableness inquiry, including a determination of the Δ’s market power [NW Wholesalers].

g. g. Lower Court Interpretations [Polk Bros. (7th Cir.)(one store sells some items, the other sells the rest)] a Challenged market division facilitated the accomplishment of productive endeavor that would not have occurred w/out restraint. This is ancillary, subject to rule of reason.

III. III. Other Issues Concerning Collusion

a. a. Applicability of Sherman Act

i. i. Brown University [overlap group for determining students’ need] a Educational institutions are not exempt from antitrust analysis; financial aid is part of tuition-setting process and therefore, part of commerce.

1. 1. Quick look rule of reason analysis is not appropriate in cases where there are pro-competitive justifications. Here, there must be a full-blown rule of reason approach.

2. 2. Rule of reason inquiry should consider Δ’s non-economic justifications.

3. 3. Narrows the per se application only to most direct price-fixing agreements while more readily finding agreements not covered by the per se rule under the rule of reason.

ii. ii. DELTA [humane society has majority share of market] a charitable organizations are not in commerce, and therefore, not subject to the Sherman Act.

b. b. Evidentiary Standards - Mashushita [Japanese electronics manufacturers sell at below-market prices in US] a alleged conspiracy’s failure to achieve its end in two decades is strong evidence that conspiracy does not in fact exist; according to Monsanto, the evidence must tend to exclude the possibility that petitioners underpriced respondents to compete for business (acting independently) rather than to implement an economically senseless conspiracy.

i. i. There is a difference b/t predatory pricing schemes and garden variety price-fixing. W /predatory, if inferences are drawn wrong, we could chill decisions to reduce prices.

ii. ii. The success of any predatory scheme depends on maintaining that power for long enough both to recoup the predator’s losses and to harvest some add’l gain.

iii. iii. From Monsanto, a “conscious commitment to a common scheme” can be shown by direct or circumstantial evidence.

c. c. Ambiguous Practices ? Conspiracy to Monopolize

d. d. Ambiguous Practices ? Information Exchange

i. i. Container Corp. [informal price information exchange] acondemning of information exchanges because of tendency towards price uniformity; §1 bans stabilizing prices as well as raising them

ii. ii. An exchange of price information among competitors, w/out an agreement to fix prices, is sufficient as an antitrust violation only when:

1. 1. Market is highly concentrated by few sellers

2. 2. Fungible product

3. 3. Competition based upon demand

4. 4. Inelasticity of demand

iii. iii. Gypsum [large companies were part of association] a (1) Standard to be recognized for Sherman Act is that for criminal proceeding rather than civil; (2) Mere exchange of information is not violation of antitrust laws. This creates rule of reason standard for exchange of information.

iv. iv. Five Smiths [exchange of salary information among players] a Rule of reason should apply b/c information exchange among competitors does not necessarily have anticompetitive effects. W/o market concentration, information exchange is pro-competitive.

1. 1. What difference does elasticity make? If you are part of an elastic demand curve, change in quantity is larger w/ change in price. If on inelastic part of the demand curve, there is less change in quantity needed to change price.

v. v. Petroleum Products [oil price changes posted publicly] a Earlier cases were asking whether you can infer an agreement from the exchange of info. These cases are asking whether there was an agreement and did the exchange of info. facilitate this agreement.

e. e. Ambiguous Practices ? Oligopoly

i. i. City of Tuscaloosa [sales through submission of sealed bids at lust prices] a The test to determine whether there is an antitrust violation of dealing w/ conscious parallelism exists w/o direct evidence, depends on showing of (1) Δ’s acting in conscious parallel fashion, and (2) ‘plus factors’ that tend to exclude the possibility if non-collusive action.

1. 1. Daubert says for scientific evidence to be admissible, it must (1) reliable, and (2) relevant.

ii. ii. Catalano [beer distributors agree to eliminate short-term credit] a agreements which are inseparable from prices are governed by the per se rule.

f. f. Horizontal v. Vertical Restraints [Toys-R-Us]

IV. IV. Monopolization

a. a. Monopoly Power

i. i. ALCOA

ii. ii. Grinnell

iii. iii. Blue Cross Blue Shield

iv. iv. American Key

b. b. Exclusionary Conduct

i. i. Exclusionary Contracts ? United Shoe

ii. ii. Essential Facilities - Florida Fuels

c. c. Predatory Pricing

i. i. Rose Acre

ii. ii. Brown & Williamson

d. d. Attempted Monopolization - AMI

e. e. Price Squeezes ? Town of Concord

f. f. Non-collusive, non-monopolizing, non-competitive conduct ? DuPont

V. V. Vertical Restraints

a. a. Dr. Miles

b. b. State Oil

c. c. Sylvania

d. d. St. Martin

e. e. Monsanto

f. f. Sharp

VI. VI. Tying

a. a. International Salt

b. b. Chicken Delight

c. c. Jefferson Parish

d. d. Town Sound

e. e. Kodak

f. f. Microsoft

VII. VII. Exclusive Dealing

a. a. Standard Stations

b. b. Tampa Electric

c. c. Roland Machinery

d. d. Parikh

VIII. VIII. Mergers & Acquisitions

a. a. Classic Cases

i. i. Von’s Grocery

ii. ii. Proctor & Gamble

iii. iii. General Dynamics

b. b. Modern Cases

i. i. Hospital Corp.

ii. ii. Staples

上告理由の訂正

359頁の

事業者団体の自由を否定する違憲の請求にはならないと考えられる。

事業者団体の自由を否定する違憲であるとの上告理由になると考えられる。

に訂正する。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(2)

平成17年5月9日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

上告理由書兼上告受理申立理由書(目次)

はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

第1・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4

第2・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6

第3・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10

はじめに

1 本件の請求

 (1) 上告人山口は、不動産鑑定士であり、上告人会社は、不動産鑑定評価に関する法律(以下、「鑑定法」という。)に基づく不動産鑑定業者であるところ、上告人山口は、平成11年9月、被上告人に対し入会を申し込んだところ、被上告人から、平成12年3月13日、これを拒否され(以下、「第1入会拒否」という。)、上告人会社は、平成13年1月19日、被上告人に入会を申し込んだところ、被上告人において、その理事会で、同月24日、同申込みを受理しないことを決議し、現在に至るまで上告人会社の入会申込みに対して回答をしていない(以下、「第2入会拒否」という。)

 (2) 本件は、上告人会社が、埼玉県内の鑑定業務、受託を独占している被上告人において、固定資産税の標準宅地の鑑定業務、公共事業用地等についての不動産鑑定業務及び路線価の鑑定業務について鑑定評価員等の推薦又は働きかけ等をし、被上告人会員と競争関係にある上告人会社を市場から排除し、かつ、被上告人の入会金を不当に値上げして被上告人への入会を阻害するなどしたことに基づき、これらの推薦又は働きかけ、入会金の値上げ等の行為につき、不公正な取引方法(昭和57年6月18日公正取引委員会告示第15号。以下、「一般指定」という。)2項又は5項に該当し、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下、「独占禁止法」という。)8条1項1号、3号及び5号並びに19条に違反すること、また、被上告人において、資料閲覧及び業務補助者証明書の交付に関して、被上告人の会員と非会員を差別的に取り扱った行為につき、同じく一般指定2項、3項又は5項に該当し、独占禁止法の8条1項5号及び19条に違反すること、第2入会拒否が上告人会社を不当に排斥し、もって不動産鑑定業者として事業を行うことを困難にするものであるから、第2入会拒否につき、一般指定5項に該当し、独占禁止法の上記規定に違反すること、並びに、被上告人が、埼玉県内の市町村と業務委託契約を締結することによって、上告人らを埼玉県内の市町村との鑑定評価業務受託取引から排除していること、上記の行為は、一般指定1項2号又は2項に該当することを理由に、被上告人に対し、独占禁止法24条に基づき、第2入会拒否、鑑定評価員等の推薦又は働きかけ、入会金の徴収及び資料の閲覧等に係る差別的取扱い等の差止めを求めるとともに、上告人らが、第1入会拒否及び第2入会拒否(以下、「本件各入会拒否」という。)について、上記のとおり、一般指定5項に該当し、独占禁止法8条1項5号及び19条に反するものであり、これらの入会拒否により、上告人らは営業権を侵害され損害を蒙ったことに基づき、被上告人に対し、不法行為に基づき、上告人らが蒙った損害金(弁護士費用を含む)及びその遅延損害金の各支払を求めているところ、本理由書は、この内、本件各入会拒否の違法を理由とする上告人らの各請求に関する原審判断の誤りを述べる。

第1 原判決には、独占禁止法8条1項3号、5号および19条の解釈の誤りがあり、それは判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反であるから原判決は破棄を免れない。よって原判決は、最高裁判所の判例等に相反し、その他法令の解釈に関する重大な事項を含む判断がなされているものとして、上告受理決定なされるべきものである。

 1 原判決の引用する第一審判決は、次のとおり判示する。

 原判決は、「挙示の証拠に照らし、入会拒否に社会通念上合理的理由があるとした原判決の認定判断は正当として是認することができ、本件各入会拒否が被控訴人(被上告人:引用者注)の利権を守るためにされたものであることを認めるに足りる証拠はなく、控訴人ら(上告人ら:引用者注)の主張は、採用することができない。」(原判決13頁)と判示する。

 すなわち、原判決は、本件入会拒否は、社会通念上合理的な理由があれば、独占禁止法8条1項3号及び5号、19条に該当しても違法性は阻却されると判示したものである。

 2 しかしながら、原審の上記判断は、独占禁止法8条1項3号及び5号、19条の解釈を誤ったものである。その理由は次のとおりである。

独占禁止法8条1項3号は、事業者団体が「一定の事業分野における現在または将来の事業者数を制限すること」を禁じている。その趣旨は、事業者団体がその決定を持って一定の事業分野にある事業者の数を制限することにより、新規事業者の市場の参入を阻止しあるいは既存事業者を排除し、許容された一定数の事業者においてのみ競争が行われるという条件を作り出すことは、市場の開放性を阻害し、独占禁止法が禁じる不当な取引制限に該当するからである。それゆえ、同号に規定する事業者数の制限は、競争の実質的制限にいたらない場合であっても禁止されている点に特徴があるのであり、同項に該当する場合には、その違法性が阻却されるような例外的な場合は認められないと解すべきである。仮に、「不当な取引制限」行為から除外されるような例外的な場合があるとしても、それは、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進するという」独占禁止法の究極の目的(一条)に実質に反しない」と認められる例外的な場合でなければならない。したがって、入会拒否が、違法行為でないとされるためには、その理由が、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進するという独占禁止法の究極の目的(一条)に実質に反しない」と認められる例外的な場合によるものでなければならない。

3 本件についてみれば、埼玉県における不動産鑑定士業の唯一の団体である被上告人は、事業者団体であるとともに、被上告人に加入しないで埼玉県下において不動産鑑定業務を行うことが、著しく困難な状況にあったものであるから、上告人山口の入会を拒否することは、上告人山口の参入を阻止し市場の開放性を阻害することは明らかであるところ、被上告人が入会拒否として挙げる理由の主なものは、被上告人以外の同様の団体に対して行われた上告人山口の言動に鑑みて、上告人山口が被上告人の健全な運営を阻害する虞があるとしているにとどまるのであり、被上告人の会員の業務を享受する一般消費者の利益確保という観点からの必要性は全く考慮されていないだけでなく、被上告人が問題とする言動は、その主なものは、被上告人及び他地域における同様の事業者団体が行っている不動産鑑定業務の独占行為に対する疑いに基づきこれを矯正して、不動産鑑定業務における自由競争原理の実現の観点から、これを批判していると認められる意思表明であり、むしろ一般消費者の利益確保と独占禁止法の趣旨目的に沿うものとも見られ得るものであり、これらを理由に入会拒否できる例外的場合には、到底該当し得ないものである。

以上と異なる見解に立って、被上告人の請求を退けた原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があり、原判決は破棄を免れない。

第2 原判決の判断は、最高裁判所の判例と抵触する誤りがあり、それは判決に影響を及ぼすことが明らかな判例違反であるから原判決は破棄を免れない。よって最高裁判所の判例等に相反し、その他法令の解釈に関する重大な事項を含む判断がなされているものとして、上告受理決定なされるべきものである。

1 原判決の引用する第一審判決は、次のとおり判示する。

 原判決は、「挙示の証拠に照らし、入会拒否に社会通念上合理的理由があるとした原判決の認定判断は正当として是認することができ、本件各入会拒否が被控訴人(被上告人:引用者注)の利権を守るためにされたものであることを認めるに足りる証拠はなく、控訴人ら(上告人ら:引用者注)の主張は、採用することができない。」(原判決13頁)と判示する。

 すなわち、原判決は、本件入会拒否は、社会通念上合理的な理由があれば、独占禁止法8条1項3号及び5号、19条に該当しても違法性は阻却されると判示したものである。

2 しかしながら、最高裁判所判例(最高裁判所判例集 第38巻第4号25頁)は、次のとおり判示する。

「独禁法の立法の趣旨・目的及びその改正の経過などに照らすと、同法2条6項にいう「公共の利益に反して」とは、原則としては同法の直接の保護法益である自由競争経済秩序に反することを指すが、現に行われた行為が形式的に右に該当する場合であっても、右法益と当該行為によって守られる利益とを比較衡量して、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する」という同法の究極の目的(同法1条参照)に実質的に反しないと認められる例外的な場合を右規定にいう「不当な取引制限」行為から除外する趣旨と解すべきであり、これと同旨の原判断は、正当として是認することができる。」

 同判決が認容した原審判決は、次のように述べている。

「・・・独禁法の改正等の経緯にかんがみ、同法を整合的に解すると、同法は、共同行為により一定の取引分野における競争を実質的に制限する行為であっても、その行為の実質において同法の趣旨、目的に反しないものがありうることを予定しているものと解されるが、前記の同法の目的をも考慮すると、「公共の利益に反して」とは、同法の趣旨、目的に反することをいい、原則としては同法の直接の法益である自由競争経済秩序に反することであるが、形式的に右に該当する場合であっても、右法益と当該行為によって守られる利益とを比較衡量して、全体的にみた前記の同法の趣旨、目的に実質的に反しないと認められるような例外的なものを公共の利益に反しないものとして独禁法の適用から除く趣旨で右構成要件が設けられたものであると解するのが相当である。」

 そして、事業者団体による競争の実質的制限行為を禁止する8条の規定の解釈において、同条所定の各行為であれば違法性が阻却されるような例外的場合は一切認められないとの立場を採るのであれば格別、そうでない限り、これらの行為についても、事柄の本質及び独占禁止法1条の立法趣旨からみて、2条5項・6項の「公共の利益に反して」という要件は類推適用されるとするのが一般であり(村上政博、独占禁止法第2版・67頁・平成12年・弘文堂)、この2条5項・6項類推適用説に拠る限り、8条所定の事業者団体の行為も、上記判例の射程範囲に属するものであることは疑いない。

 3 上記判例によれば、独占禁止法8条1項3号及び5号、19条は、自由競争経済は、需給の調整を市場機構に委ね、事業者が市場の需給関係に適応しつつ価格決定を行う自由を有することを前提とし、その努力による価格引下げ競争が、本来、競争政策が維持・促進しようとする能率競争の中核をなるものであるところ、事業者団体が、将来の事業者の数を制限する場合には、一定の事業分野の市場の開放性を妨げ、事業者の努力又は正常な競争過程を反映せず、競争事業者の事業活動を困難にさせるなど公正な競争秩序に悪影響を及ぼす虞が多いと見られるため、これを禁止しているものであり、同規定による違反行為がないとされるためには、これら判例による「公共の利益に反して」という基準に該当しないことが示されなければならないものである。したがって、事業者団体による入会拒否が同項に該当する違法なものでないとする理由としては、それが「公共の利益に反」するかどうか、換言すれば、事業者団体による入会拒否が専ら公正な競争秩序維持の見地に立ち、具体的な場合における行為の意図、目的、態様、競争関係の実態及び市場の状況等を総合して(参照、最高裁第一小法廷平成6年12月14日民集43巻12号2078頁)勘案し、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的な発達を促進するという独占禁止法の究極の目的に実質的に反しない」と認められるかどうかを基準として判断すべきである。

 4 しかるに、原審は、入会拒否の違法性を判断する際に「社会通念上の合理性」を基準として採用するのみで、これら判例による、独占禁止法の目的に基づく同法2条5項・6項の類推適用による同法究極目的に実質的に反しないと認められる例外的な場合についてのみ違法性が阻却される、との基準に一顧だにしていない。入会拒否基準としての「社会通念上の合理性」とは、会員の自発的意思によって結成される任意団体に適用される基準であって、独占禁止法により規制される事業者団体の入会・拒否基準とはなり得ない。このような基準をもって、独占禁止法8条1項3号及び5号、19条に該当しないとした原判決は、上記最高裁判所の判例に明らかに抵触する。

 5 本件についてみれば、埼玉県における不動産鑑定士業の唯一の団体である被上告人は、事業者団体であるとともに、被上告人に加入しないで埼玉県下において不動産鑑定業務を行うことが、著しく困難な状況にあったものであるから、上告人山口の入会を拒否することは、上告人山口の参入を阻止し市場の開放性を阻害することは明らかであるところ、被上告人が入会拒否として挙げる理由の主なものは、被上告人以外の同様の団体に対して行われた上告人山口の言動に鑑みて、上告人山口が被上告人の健全な運営を阻害する虞があるとしているにとどまるのであり、被上告人の会員の業務を享受する一般消費者の利益確保という観点からの必要性は全く考慮されていないだけでなく、被上告人が問題とする言動は、その主なものは、被上告人及び他地域における同様の事業者団体が行っている不動産鑑定業務の独占行為に対する疑いに基づきこれを矯正して、不動産鑑定業務における自由競争原理の実現の観点から、これを批判していると認められる意思表明であり、むしろ一般消費者の利益確保と独占禁止法の趣旨目的に沿うものとも見られ得るものであり、これらを理由に入会拒否できる例外的場合には、到底該当し得ないものである。

以上と異なる見解に立って、被上告人の請求を退けた原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があり、原判決は破棄を免れない。

第3 原判決には、憲法の解釈の誤りがあり、原判決は破棄されるべきものである。よって上告に理由がある。

 1 原判決は、本件入会拒否に関し、次のように判示した。

 原判決は、「挙示の証拠に照らし、入会拒否に社会通念上合理的理由があるとした原判決の認定判断は正当として是認することができ、本件各入会拒否が被控訴人(被上告人:引用者注)の利権を守るためにされたものであることを認めるに足りる証拠はなく、控訴人ら(上告人ら:引用者注)の主張は、採用することができない。」(原判決13頁)と判示する。

 そして、原判決が是認した原原判決は、被上告人の定款5条3項(本会への入会が会員の綱紀保持上不適当と認められる事由のある者)に該当すると認定した理由を次のように述べる。

「・・・原告山口が、鑑定協会や都士協会に対し、具体的根拠も客観的根拠もないのに、談合をしている等として訴訟を提起し、不当に同協会らの業務に支障を生じさせ、その信用を貶めたこと、選挙活動の一環であることを考慮しても著しく不適切な表現行為であるとの謗りを免れない文章を選挙公報やホームページに公然と掲載したこと、茨城県の市町村に対して、・・・の公正取引委員会の警告の対象とされた独占禁止法違反のおそれのある行為と同種の行為を依頼する内容の書面を配布したこと、そのうち・・・の書面は、茨城県士協会会長井坂の名義部分を棒線1本を引いて消しただけのものであり、同書面を受け取った一般人をして、上記井坂作成に係る文書であると誤信せしめ得るものであること等によれば、原告山口の入会により、被告に対する社会一般の信頼・信用が低下し、被告や同会員の名誉が害され、被告内部に混乱を来し、被告の円滑な業務の執行に支障を来すおそれが高いと認められ、原告山口は、被告の定款5条3項(本会への入会が会員の綱紀保持上不適切と認められる事由のある者)に該当するものと認めることができる。」

 2 しかしながら、本件入会拒否の違法性を判断するにあたっては、入会拒否が違法な基本権保障規定を侵害しないかどうかの判断が回避されてはならない。一般に、私人間における基本的自由の侵害や侵害の虞に関しては、憲法の直接適用がないとされる(最高裁判所昭和48年12月12日、民集27巻11号1536頁)。しかし、基本的自由の侵害や侵害の虞の態様・程度が社会的に許容される限度を超える場合には、基本的自由の利益を保護すべきことは言うまでもない。まして、私人間の関係であっても相互の社会的力関係の相違から、一方が他方に優越し、事実上後者が前者の意思に服従せざるを得ないような場合で、法的服従関係に準ずるような場合には、憲法基本権保障規定の適用ないしは類推適用が認められるべきである。

3 本件では、被上告人への加入は、実質的には強制加入であり、埼玉県下において不動産鑑定業務を営むためには被上告人に加入してその会員資格を得ることが必要であり、被上告人の会員資格を有しないで同県における不動産鑑定業務を営むことは不可能又は著しく困難であるから、被上告人と上告人山口の関係は、憲法の基本権保障規定の適用ないし類推適用を受けるべき服従関係にある。

4 本件は以下のとおり、実質的には強制加入の事業者団体である被上告人と上告人ら事業者との関係は、埼玉県における不動産鑑定業務においては、被上告人と上告人らとの間に法的服従関係に準ずる関係が成立していると言わざるを得ない。

(1) 上告人山口は、平成2年5月に不動産鑑定業者として開業し、平成11年9月に、埼玉県内に不動産鑑定士事務所を設けると同時に、埼玉県の不動産鑑定業者の登録を受けた。

(2) 埼玉県内における不動産鑑定評価業務は、東京都等と較べると、民間の会社及び個人からの鑑定依頼は約3割と少なく、国土交通省が発注する地価公示の鑑定評価、埼玉県が発注する用地買収等の鑑定評価並びに地価調査等の鑑定評価、国税庁が発注する路線価格の鑑定評価、裁判所が発注する裁定競売価格の評価及び訴訟・非訴訟上の鑑定評価、市町村が発注する固定資産税の課税標準を定めるための地価調査及び用地買収等の鑑定評価などの公的機関からの鑑定評価の依頼がその業務の約7割もの大部分を占める。

(3) 被上告人は、本部の社団法人日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会がその前身であり、平成7年3月20日に社団法人となったものであり、不動産鑑定評価制度の普及等を目的とする公益社団法人であり、埼玉県における唯一の不動産鑑定業者の事業者団体である。

(4) 被上告人は、その前身である本部の関東甲信会埼玉県部会のときから、平成6年度から不動産鑑定士へ鑑定評価の委託がなされるようになった固定資産税の課税標準を定めるための地価調査に関し、平成7年度(平成9年度の評価替えのため)及び平成10年度(平成12年度の評価替えのため)及び平成13年度(平成15年度の評価替えのため)には、埼玉県内の各市町村との間で鑑定評価の業務委託契約をした。

(5) そして、固定資産税の課税標準を定めるための地価調査についての3年ごとの評価替えの年度である平成9年度については、「固定資産税評価における平成9年度評価替え以降の鑑定評価実施体制について」(平成6年10月12日自治評第43号)に基づいて埼玉県の行政指導により、平成12年度評価替え以降、上記自治省通知が廃止され行政指導がなくなった後は、埼玉県市町村税務協議会資産税(土地)部会と被上告人の申し合わせに基づき、被上告人において、埼玉県内全92の市町村(当時)において地価調査を希望する不動産鑑定士の名簿を提示することとされた。そこで被上告人は、会員から埼玉県下の各市町村の地価調査の希望を取りまとめて希望者名簿を作成し、これを各市町村に配布した。そして、平成10年3月19日には、一方で、平成9年度評価体制に準じ、被上告人と鑑定評価に関する委託契約を結ぶことで合意を得たとするとともに、他方で、被上告人に加入していない鑑定評価員並びに市町村に申し出た鑑定評価員の希望者の申し込みについても、被上告人が受け付けるべきものとされた。しかしながら、平成15年度評価替えにおいては、希望者の申し込みのとりまとめを、被上告人会員とそれ以外の者とを区別して実施し、後者の対象者には極めて短い回答期間を与えるにすぎないなど、不自然・不合理な方法により被上告人会員とそれ以外の者とを差別的に扱った。

(6) 相続税路線価の標準地評価に関しては、国税庁を委託者、社団法人日本不動産鑑定協会を受託者とする業務委託契約によっている。不動産鑑定士の選任手続は、本部が鑑定希望者を募り、その希望者名簿を国税庁に提出し、埼玉県内については、関東甲信越国税局及び各税務署が、鑑定士評価員に委託するというものであるが、平成13年分の相続税路線価の評価員として委嘱された者は、平成13年分は126名、平成14年分は127名、平成15年分は126名であるが、この中には、被上告人会員又は同関係者以外の埼玉登録業者で被上告人会員以外の者は一人も含まれてはいなかった。

(7) 以上を背景として、埼玉県では、固定資産の標準宅地の鑑定評価業務に関して、平成13年度において、平成15年度の固定資産鑑定評価員を希望した者が162業者(うち被上告人会員128業者、非会員34業者)であったところ、同評価員として選任されたのは127業者(うち被上告人会員106業者、非会員21業者。業者数に関する(以下同じ)会員比率83.4%)であり、公共事業用地等の不動産鑑定評価業務に関して、埼玉県浦和土木事務所が県内の物件について鑑定依頼を発注した業者は、平成11年度において、188業者、依頼件数合計140件(うち非会員1業者、依頼件数2件。会員比率99.5%)、平成12年度において、17業者、依頼件数合計122件(うち非会員ゼロ。会員比率100%)、平成13年度において、17業者、依頼件数合計117件(うち非会員ゼロ。会員比率100%)であり、さらに、国税庁は注の路線価の鑑定評価業務に関して、関東信越国税局が委嘱した鑑定評価員は、平成13年度において、のべ126名、鑑定地点総数597(うち非会員のべ16名、鑑定地点数59。評価員数に関する会員比率(以下同じ)87.3%)、平成14年度において、のべ127名、鑑定地点総数613(うち非会員のべ14名、鑑定地点数57。会員比率89%)であった。したがって、埼玉県下における不動産鑑定業務は、被上告人会員がほぼ独占している状態にあり、平成11年、平成12年、平成13年及び平成14年分の埼玉県登録業者の合計収入金額に占める被上告人会員の収入は、99.8%、99.8%、99.3%、100%を占め、これら全期間を通じて、被上告人会員以外の埼玉県登録業者で、国、地方公共団体、公社、公団、公庫等、裁判所から鑑定評価業務を受注した実績が零であった。

(8) 埼玉県において、不動産鑑定業者の被上告人への加入率はほぼ100%に近い。つまり、被上告人に加入していないのは、事業を行っていない者か又は何らかの特別な事情がある業者のみである。

  (9) 近隣他県(茨城県)における強制加入の実情

 このような状況は、埼玉県のみならず、同じ関東圏に属する茨城県においても同様である。

 不動産鑑定士の社団法人茨城県不動産鑑定士協会への入会に関して、入会に当たって会員2名の推薦を要件としていることが独占禁止法8条1項3号に該当し不法行為が成立する旨判断した東京地裁八王子支部も(同庁平成13年9月6日判決 判タ1116号273頁)も、茨城県内における不動産鑑定評価業界の実態に関して、

 「茨城県内における不動産鑑定評価業務は、国の行政機関、県、市町村、裁判所などの公的機関からの依頼がかなりの部分を占めるところ、茨城県内には、被告(社団法人茨城県不動産鑑定士協会:引用者注。以下同じ)に代わる不動産鑑定業者の組織が他になく、被告に対する公的機関からの信用力が高いため、依頼者である公的機関は、事実上、被告の会員である不動産鑑定業者に鑑定依頼する傾向にあり、具体的には、被告は、茨城県との間で、短期地価動向調査の鑑定評価の業務委託契約をしてその鑑定評価業務を各会員に割り当てている外、平成10年度の相続税路線価の標準地評価の鑑定及び平成12年度の固定資産税の課税標準を定めるための地価調査のための鑑定についても、茨城県内の税務署は、ほとんど被告の会員に委託をしているのであるから、以上の状況の下では、茨城県内に事務所を持つ不動産鑑定業者が被告に入会しないで不動産鑑定業務を行うことは実際には困難であるといわざるを得ない。」(判タ1116号279頁)

 と認定している。上記認定に係る不動産鑑定評価業界における実態は、埼玉県における実態と異なるところがない。

 (10) 被上告人への加入は実質的には強制加入であること

 埼玉県の不動産鑑定評価業務に関しても、上記第2 2(1)ア及びイ等の事情を踏まえ、さいたま地方裁判所が、上告人らが被上告人との間の請求差止請求仮処分申立事件(平成15年(ヨ)第180号)において、

 「結果的に鑑定評価員における債務者(被上告人:引用者注。以下同じ)会員の占める割合が相当高くなっているとの現実に照らすと、債務者に入会していないことにより信用に差が生じ、相対的に仕事が受注しにくい状況にあり、そのような意味において、債務者に加入しなければ事業活動を行うことが困難となる状況にあるものと認めることができる。」(同決定書47頁)

差止請求事件(平成14年(ワ)第576号)損害賠償請求事件(平成14年(ワ)356号)において

 「結果的に鑑定評価員における被告(被上告人:引用者注。以下同じ)会員の占める割合が相当高くなっているとの現実に照らすと、被告に入会していないことにより信用に差が生じ、相対的に仕事が受注しにくい状況にあり、そのような意味において、被告に加入しなければ事業活動を行うことが困難となる状況にあるものと認めることができる。」(同判決書45頁)

 と認定しているとおりの実態を有している。

 このように、被上告人の会員として被上告人に加入しなければ、埼玉県における不動産鑑定士として不動産鑑定評価業務に携り、それを稼業とすることはできず、被上告人への加入は、形式的には任意加入ではないものの、不動産鑑定士として業務を遂行する上では不可欠であり、強制加入としての実質を有する。

 5 上記の観点に立って本件各入会拒否理由を検討すると、まず第一に、被上告人が被上告人の健全な運営を害する虞があるとする上告人山口の言動は、主に、他地域における被上告人と同様の事業者団体が行っている不動産鑑定業務の独占行為に対する疑いに基づくものであり、被上告人が信条として保持する不動産鑑定業務における自由競争原理の観点からこれを批判していると認められる意思表明であり、これらは上告人山口の思想、信条に関係のある事実であることは明らかであるから、これらの言動を理由に入会拒否はできないものと解せられる。

 すなわち、人の思想・信条は身体と同様、本来自由であるべきものであり、その自由は憲法19条の保障するところであるから、本件のように、一定の事業活動について事実上独占状態にあり、その状態は、法的服従関係に準ずるような場合、優越した地位にある一方が他方に対しその意に反してみだりにこれを侵してはならないことは明白であり、人が信条において差別されないことは憲法14条の定めるところであるが、本件のように専門職業者の事業者団体においては、特定の経済思想、信条を有する者を会員にしたとしても、その思想・信条のゆえに事業の遂行に支障をきたすとは考えられないから、こうした思想・信条のゆえに不利益を課すことは許されない。

 6 また、上告人らによる一連の訴訟提起や選挙公報等での言論活動は、不動産鑑定評価業界において、市町村等との間で被上告人が業務委託契約を締結したり、あるいは国税庁と社団法人日本不動産鑑定協会との間で業務委託契約を締結したりする等、自由競争が排除又は妨害され、ひいては公的機関を始めとする顧客が損害を蒙っている現状を改善するため、上告人らが自己の経済的思想を外部に表現したものであり、その経済的思想は、顧客が不動産鑑定士を自由に選別し、また、価格の面においても利益を受けることができるという自由競争に基づくものであって、規制緩和が叫ばれる昨今の経済の流れにまさしく合致する正当なものである。このように、自由主義を掲げる経済的思想は、埼玉県内の不動産鑑定業界のみならず日本全国における不動産鑑定業界、引いては、不動産鑑定以外の資格に基づく事業に繋がるものであるし、さらにいえば、資格に基づかない事業一般の制度改革という政治思想に通ずるものである。このように、上告人らの表現行為は、上告人らの人格発展のみならず(自己実現)、民主制の過程を基礎付けそれを維持するためのものであり(自己統治)、それを行ったことが被上告人の健全な運営を乱すなどとして入会を拒否することは、憲法21条が保障する上告人らの表現の自由を侵害する行為として到底許されるものではない。さらに、上告人らのこのような思想は、既存の規制によって恩恵を被る不動産鑑定士が多く存在するであろう現在における不動産鑑定評価業界においては、少数派に過ぎないと思われる。本件各入会拒否は、少数派に属する上告人らの思想を弾圧し、蔑ろにするという意味においても、極めて重大な表現の自由の侵害行為にあたるのである。

 また、上告人らは、訴訟を通じてその思想を表現しているのであって、訴訟を起こしたが故に、被上告人の健全な運営を乱すとして入会を拒否することは、憲法32条が保障する上告人らの裁判を受ける権利の侵害そのものである

 7 また、本件各入会拒否は、憲法22条の定める職業選択の自由ないし同条の保障内容に含まれるものと解せられる、営業の自由という点からも、憲法上許されないものである。すなわち、前述したように、埼玉県内の不動産鑑定士による被上告人への加入は、形式的には任意加入であるものの、不動産鑑定士としての業務を遂行する上で加入は不可欠であり、強制加入としての実質を有するものである。そうだとすれば、被上告人への入会を原則として認めることこそが、上告人らが不動産鑑定士としての業務を遂行し、その営業の自由が機能するために、最低限必要とされる(必要性)。

 他方で、被上告人への加入以前に上告人らは不動産鑑定士としての適性・知識等が国家試験によって十分に審査されているのであるから、原則として入会を認めたとしても、不動産鑑定士の業務に関連して被上告人の信用を毀損する危険性は極めて小さいものと考えられる(許容性)。

8 したがって、社団法人日本不動産鑑定協会及びその地域会は、不動産鑑定士の入会を原則として認められなければならず、当該不動産鑑定士の営業の自由を侵害することになる事前の入会拒否は、極めて消極的・例外的でなければならない。

 例外的に事前の入会拒否が認められるのは、不動産鑑定士や鑑定業者の登録欠格基準である「相当な注意を怠り、又は故意に不等な鑑定を行った者」など、当該会員の不動産鑑定士としての業務に関連して、過去に不祥事を惹起し、又は将来そのおそれの大きい者の入会を拒否するとしても、当該会員が不動産鑑定士としての業務を行うことによって、顧客が損害を蒙り、引いては当会の信用が失墜するおそれも大きいと認められるなど、入会を拒否するための必要性及び合理性が認められなければならない。

 これに対し、当会の綱紀を保持するという目的を達成するために事前に入会を拒否する等、不動産鑑定士の業務に関わりのない事由によって入会を拒否する場合、入会を求めた不動産鑑定士の営業の自由を侵害することのないよう、より一層の慎重さ、消極性が求められる。すなわち、このような綱紀保持目的のために当該入会拒否が認められるためには、業務に関連した登録欠格基準に照らして、入会を拒否する必要性及び合理性を充たすことに加え、当会による事後的な諸対応等、よりゆるやかな対応をもってその綱紀保持の目的を十分に達成することができない、という事情を要するものである(薬局事件に関する最判昭和50年4月30日 判時777号8頁参照)。けだし、綱紀保持の目的は、不動産鑑定士としての業務との関連性に乏しく、これによって顧客が損害を蒙り、又は当会の信用が失墜することはない反面、当該不動産鑑定士の営業の自由を侵害するおそれが極めて高いからである。万一、当該会員の入会により、当会の信用を毀損したり綱紀を乱したりすることによって、その運営や所属する他の不動産鑑定士の業務遂行に不利益を及ぼすようなおそれがあるのであれば、当該会員の入会後に、事後的に当該会員に対し、適切な処分・措置を講じることによって予防又は回復すれば足りるからである。

判決文「職業の許可制は、法定の条件をみたし、許可を与えられた者のみにその職業の遂行を許し、それ以外の者に対してはこれを禁止するものであつて、右に述べたように職業の自由に対する公権力による制限の一態様である。このような許可制が設けられる理由は多種多様で、それが憲法上是認されるかどうかも一律の基準をもつて論じがたいことはさきに述べたとおりであるが、一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであつて、許可制の採用自体が是認される場合であつても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである。」という最高裁判所の判決に反している。

また本件判決は

一、 税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり

二、 会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている

三、 右(多数決)の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。

とする牛島税理士訴訟最高裁判決 平成四年(オ)第1796号にも反する。

 本件事件の場合の入会拒否の理由は、ノースウェスト判決とは違って、その理由が自由競争を擁護したという憲法上の思想・信条の自由と関わっており、強制加入団体である税理士会同様に思想・信条の自由が関わっている。ノースウェスト判決の場合には会の手続き規定に違反したかどうかの理由は独占禁止法では考慮に値しないというものであったが、本件事件の場合には自由競争の主張が自由競争を促進する。

税理士会の場合には入会強制が先にあるが、本件の場合には入会強制は最後の結論であり、その結論を出すまでにドイツの独占禁止法におけるように独占禁止法の理論が必要であり、ノースウェスト判決やトイザらス事件におけるようにアメリカで確立された共同ボイコットが当然違法、日本で言えば取引の実質的制限に該当する場合を特定する必要があった。この部分に関しては第一審、第二審で十分であろう。

 従って信条に関する入会拒否の理由付けの問題は上記の二つの最高裁判所における判決違反が明白にあり、最高裁判所で判決すべき事件であるということになる。

 理由の部分に憲法の条文を適用することは間接的か、直接的適用か。

 法令の解釈における憲法の解釈であるので、間接適用となる。理由の原理における理由に憲法違反があってはならないということである。そのことは結局は原則違法というアメリカの独占禁止法の歴史と合致する。理由の原理から原則違法の原理への転換が本件最高裁判所の判決によって達成されるべきである。

 思想・信条の理由で「加入しなければ事業活動が困難となるような事業者団体」が入会を拒否することは、出来ないし、本件事件においては破壊活動を主張するような信条ではなく、特に自由競争を主張するような信条であるのであるから、特に厳格に審理すべきであって、これは直接適用ではなく、法の解釈運用における間接適用ということになる。

 税理士会事件と論理の順序が逆になっている点が最も重要である。

 税理士会も事業者団体であると公正取引委員会はみなしている。

 この団体が強制加入団体であるのは、判例によれば「税理士会は、以上のように、会社とはその法的性格を異にする法人であり、その目的の範囲についても、これを会社のように広範なものと解するならば、法の要請する公的な目的の達成を阻害して法の趣旨を没却する結果となることが明らかである。」としているが、公的の意味は公共機関からの発注が多いという本件事件の場合とは異なり、公共機関と関わっているという意味であろう。しかしそれのみでは強制加入が認められているわけはないのであって、独占していること、すなわち市場支配力を有していること、但し入会を強制できるかが問題となっている本件事件においては、脱退の問題は論ずる必要がないのであるが、たとえば脱退して他の税理士会を作ることを法が想定しておらず、実際に現実に全公共団体と交渉してそのようなことが不可能な状態においては団体の内部において思想・信条の違いについて議論すべきであるとしていることによると考えられる。 

 不動産鑑定業において公的機関が依頼するものが7割以上に及んでいる現状からすれば、その市場支配力と、必須施設である取引事例の管理に対するアクセスが必要であるという観点からも、加入しなければ事業活動が困難になるということが出来、これはアメリカにおける当然違法に該当する共同ボイコットの構成要件にも合致しているのである。本件では共同ボイコットの違法性が認められれば、加入の強制は出来ることになる。

 税理士会事件においてはすでに独占禁止法によるのか他の理由によって、強制加入となっていたので、独占禁止法を論ずる必要はなかったのであるが、本件では税理士会事件では論ずる必要がなかった独占禁止法を論じた後で、憲法判断を行う必要が生じたのである。従って牛島税理士訴訟最高裁判決(最高裁判決 平成四年(オ)第1796号)は判例として引用して、本件判決の違憲性を論ずることは上告理由となる。強制が後か先かの問題であるが、瞬時に強制できたとして憲法を論ずる必要があると考えられる。従って牛島税理士訴訟最高裁判決最高裁判決 平成四年(オ)第1796号に照らしても、思想・信条の自由を侵しており、本件事件は違憲であるといいうる。

 理由の原理について、私的な好き嫌いでもこれまでの公正取引委員会の審決は入会拒否理由として認めてきた。

 さすがに顔が嫌いであるという理由はなかったがほぼ顔がきらいというのと同じ理由によっていた。本件事件も同様である。しかしそれでも公正取引委員会の審決では入会拒否を認めていた。裁判を起こされても無効確認の訴訟によれば確認訴訟であったので負けるおそれがあったからである。これは行政の最終決定ではあるが、最高裁判所の判断によっては覆ることはありうる。しかし本件事件の審理中においては公正取引委員会の見解を聞く必要はあったが、それはこれまでの取り扱いである好き嫌いでも認めるというものであった。

  本件事件においては思想・表現の自由は事業者団体の入会の審査において問題となっている。理由の原理においては、もし被上告人(債務者)がそれを問題としていくならば、次の点を追加する。当然違法であるという原則は重要であるが、理由の原理によった時であっても、それが憲法違反のように非常に社会的な違法性の強い場合には、競争に対する影響が強いので、許されない。

9 本件では、上告人山口は、平成2年2月、不動産の鑑定評価に関する法律(平成11年法律160号による改正前のもの。)15条に基づき、不動産鑑定士名簿に登録を受け、同年5月、自ら代表者として有限会社日本経済研究所(組織変更前の上告人会社)を設立し、同社は、鑑定法22条1項に基づき、不動産鑑定業者登録簿に登録を受けた。そして、上告人会社は、平成3年6月から同11年9月までの間、東京都内に所在し、東京都の不動産鑑定業者登録簿に登録を受け、社団法人東京都不動産鑑定士協会(以下、「都士協会」という。)の会員となっていた。

 このように、上告人らは、平成3年6月から同11年9月までの間、東京都内において不動産鑑定士として稼動していたのであり、その間、不動産鑑定士業務に関連して、相当な注意を怠ったり、又は故意に不等な鑑定を行ったりするなど、不動産鑑定士や鑑定業者の登録欠格基準に該当するような業務を行ったことは一切ない。

 しかも、上告人らは、第1入会拒否の直後である平成12年4月から同13年1月までの間、都士協会は、上告人らが会員となることを認め、その会員として不動産鑑定業務を行っていたのである。まさに、被上告人の入会拒否にその必要性及び合理性がないことを表している。

 そして、被上告人は、上告人山口が、社団法人日本不動産鑑定協会や都士協会に対し、具体的根拠もないのに、談合している等として訴訟を提起し、不要に同協会らの業務に支障を生じさせ、その信用を貶めたこと、及び不適切ともとられかねない文章を選挙公報やホームページに公然と掲載したこと等をもって、上告人らの入会により、被上告人に対する社会一般の信頼・信用が低下し、被上告人や会員の名誉が害され、被上告人内部に混乱をきたし、被上告人の円滑な業務の執行に支障をきたすおそれが高いと判断し、入会を拒否したとするが、これらはいずれも、被上告人以外の社団法人日本不動産鑑定協会の地域会などの事業者団体に関わる言動であるとともに、当該事業者団体において綱紀上の措置の対象とされていなかったものであり、この点でも、被上告人の入会拒否にその必要性及び合理性がなかったことは明白である。

 10 なお、上告人山口は、平成11年6月4日付で、国土庁、国土庁土地鑑定委員会、社団法人日本不動産鑑定協会、都士協会、茨城県士協会及び公正取引委員会に対し、文書を配布しているが、その文書において、

「私儀、山口節生は、これまで平成11年度の固定資産税の標準地評価などについて公正取引委員会に相談したり申告しましたが、正しかった部分もあり、正しくなかった部分もあったと考えます。正しくなかった部分についてはお詫びいたします。

(中略)

以上の事に関して今までやってきたような裁判所や、公正取引委員会に関わるような行動は猛烈に反省しております。これまでの裁判や、公正取引委員会に関わる事によって公正取引委員会や、裁判所や、各業者団体に迷惑をかけたことについては寛大なこころでご容赦願いたい。今後は同じ独立した不動産鑑定業の業者同士として出来るだけ配分以外でも温和にことが進み、配分に関しては対立がないように業者の内部で努力に努力を重ね、今後は外部に対して裁判をしたり、公正取引委員会と関係するような常識のない行動を慎み、迷惑をかけないように努力いたします。」

 と自らの非を認め、今後は、温和に行動することを誓っているのである。

 このような重大な決意をした上告人らに対しては、被上告人への入会を認めた上で、万一、被上告人の健全な運営を乱すようなことがあれば、事後的にその時点において、協議、指導又は勧告等、適切な処置を講じれば足りるのである。

被上告人の入会拒否には、事後的に適切な対応をするなど、よりゆるやかな対応をもってその綱紀保持の目的を十分に達成することができたのである。

 以上により、被上告人による上告人らの本件各入会拒否には、事前の入会拒否を認める必要性及び合理性は認められず、かつ、事後的に適切な対応をするなど綱紀保持の目的を達成することができないなどの事情は存せず、上告人らの営業の自由を侵害する違憲・違法がある。のみならず、本件各入会拒否は、上告人らの表現の自由及び裁判を受ける権利を侵害する違憲・違法がある。

 11 被上告人がした本件入会拒否は、憲法19条及び14条、憲法22条並びに32条の規定ないしその保障内容に反し違憲であり、違憲な入会拒否を適法とした原判決には憲法違反がある。原判決は、破棄を免れない。

以上

以上のとおりであるが以下に補足する。

思想・信条・表現の自由

「税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり、その会員である税理士に実質的には脱退の自由が保障されていないことからすると、その目的の範囲を判断するに当たっては、会員の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である。

 税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。」

この論旨は

一、 税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり

二、 会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている

三、 右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。

と要約することが出来る。

 一方本件においては逆から加入の強制を行うことが出来ると考えられる。

一、 人は、様々の思想・信条及び主義・主張を有する

二、 様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されているのではない任意団体である

三、 しかしサロンの様な団体であって、任意に脱退の自由も、入会の自由もあるような事業者団体ではない

四、 加入しなければ事業活動が出来ないような団体である

五、 従って、自由競争の思想によって、思想・信条によって入会拒否を認めれば事業活動が出来なくなる

六、 思想・信条の自由の違いによって事業活動が出来なくなることは信条が自由競争主義であれば、経済的自由が侵されるということであるのであるから、営業の自由を妨害することになる

七、 これを解釈するに、ある特定の思想・信条を持つものには事業活動を行わせないということであり、私的な任意加入の団体であっても、職業選択の自由の制限というほぼ公的な意味合い(憲法上の意味合い)を持っており、ある特定の思想・信条の自由を持つ者の入会を認めないということは、厳格な基準によるべきであり、単なる綱紀保持上のおそれがあるだけでは不十分である。

八、  逆に公正競争阻害性という観点から見れば、自由競争の思想の方が「独禁法の立法の趣旨・目的及びその改正の経過などに照らすと、同法2条6項にいう「公共の利益に反して」とは、原則としては同法の直接の保護法益である自由競争経済秩序に反することを指すが、現に行われた行為が形式的に右に該当する場合であっても、右法益と当該行為によって守られる利益とを比較衡量して、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する」という同法の究極の目的(同法1条参照)に実質的に反しないと認められる例外的な場合を右規定にいう「不当な取引制限」行為から除外する趣旨と解すべきであり、これと同旨の原判断は、正当として是認することができる」という判例に合致した見解である。

九、  この判決は私人間の行為においても適用することが可能である。私訴においても公正競争阻害が関係している場合があり適用可能であると考えられる。単に不法行為のみを形成しているような他の事業者の広告を妨害したという事件の場合でもそれが公正競争阻害性を持っている場合には自由競争に悪影響を及ぼすので、不法行為の問題としてのみならず、この判例は適用することが出来る。ましてや本件事件においては「不当な取引制限」に該当する共同ボイコットであり、「例外的な場合を右規定にいう「不当な取引制限」行為から除外する趣旨と解すべき」とする判例における例外には合致していないというべきである。

十、  独占禁止法の直接の保護法益である自由競争経済秩序に反することも、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する」という同法の究極の目的(同法1条参照)に実質的に反しないと認められる例外的な場合が「公共の利益に反して」いないと考えられるが、カルテルに関する最高裁判所判決のこの部分は「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する」競争促進的な行為であるかどうかにかかっているが、被上告人の行為は競争促進的ではないのであって、例外としては認められない。

十一、従って、任意加入団体であっても、差止によって加入を強制することが出来る。

十二、これが回りまわって税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある、という判例に違反することになる。

この理論は本件事件においては一般的にも現実の当事者にとっても現実に合致しており、正しい見解である。

但し、税理士会事件や、薬局事件とは違って本件は独占禁止法における私訴の事件であり、更に八,九,十の理論をどこに挿入するのかの問題がある。

本件事件では独占禁止法事件であるために、先に上告受理理由として判例違反を持ってきたが、税理士会事件や、薬局事件と最高裁判所判決をも考慮した上で加入を強制するという結論になり、その後に損害賠償請求の事件となるということが出来る。

 

そこで、問題を思想・表現の自由の制限が違憲かどうかについて検討する。

告発を行うことが、いけないのかの問題である。被上告人(債務者)こそ「監禁を暴露していること、公正取引委員会に行ったこと」を表現することを拒否しているのである。

 証拠を隠そうということである。

 上告人(債権者)はそれを暴露しようとした。

 

 

3、表現の自由においては内容の問題と、方法そのものの問題とがある。

   内容的には何ら問題はなく、それに対する好き嫌いの問題である。

4、方法そのもの

   ホームページは本件事件が処分であるとすれば、それ以降の問題であるので何らの問題はない。

 ホームページはそこに置いておくという意味であり、それを積極的に頒布しなければ問題はない。そこに置いているということを告知すれば頒布となりうる。

5、自由競争をしようという行為は、独占禁止法上問題はない。

   一方では、実際にそれを表現することも問題ではない。

6、情報公開請求することも問題ではない。配分が偏っていることを調べるために情報公開請求を行った。

7、しかし被上告人(債務者)においてはそれは問題であると考えられている。

日本においては強制加入の事業者団体について、強制である故に思想・信条の自由を制限することは許されないとの最高裁判所の判決がある。税理士会事件。

これは自由競争の理論によるのではないが、自由競争の理論にも使用することが出来る。ここが重要である。思想・表現の自由が存在しない社会ではない。

被上告人(債務者)の団体においては自由競争の理論を信じる者は少ない。しかし日本の制度的には自由競争を日本の憲法は前提としているのである。自由競争の維持促進は独占禁止法の目的である。この両者は政治的自由と、経済的自由という全く対立する自由の概念と考えられているが実は、人間の本質的自由に由来する者であるから、本質的には自由によって決められているのである。

従って自由競争を信じることは現在の明白な危険を内包していない。

自由競争は経済的自由である、しかし自由競争を信じることは政治的な自由である。

政治的自由も経済的自由もどちらも自由ではあるが、どちらかがどちらかを内包しているというものではない。また思想・表現の自由を使って、事業を行っている著作権は思想表現の自由が、経済的自由となっている。この場合には包括的契約のようなことをするのかどうかという問題が存在する。

経済的自由は自由競争における価格と供給の自由のことであるから、思想表現の自由とは違っているのであるが、入札において札を自由に入れる自由であるという点においては自分の価格を自由に表現する自由でもある。

広義の自由意志論は、未必の故意における自由意志の存在とか、故意における自由意志などあらゆる自由を含むのであるから、自由論は憲法から刑法、民法、商法にいたるまで含めることができる。

また狭義の自由のうちの思想・信条・表現の自由と、経済的自由とはこの広義の自由のうちに含まれると解釈してよい。経済的自由のうち入札を実施してもらい、そこに入札する自由、すなわち自由意志によって自由競争をする自由という概念は自由意志という概念を含んでおり、表現の自由と重なることになる。経済的自由は職業選択の自由や、営業の権利とかかわってきているという点で、生存権とより密接にかかわっている権利である。先に述べたように著作権は経済的自由との関連が強いにも関わらず、事業性を有している。

これらの自由権を制限する場合には、より制限的ではない方が憲法の趣旨、基本的人権論に合致する。従って国や、地方公共団体や、公的な機関や、公的に準ずる機関によって行われている、ある憲法議論の対象になっている法律行為がある目的のために行われている場合には、確かに薬事法の例の場合のように、LRAの原則が必要である。というのは様々な権利の制限によって、同じ合法的な目的が達成されうる場合にはより制限的ではない法律行為の方が、より権利制限的である法律行為よりも憲法の要請する基本的人権の理念に合致するからである。

但し、当然違法の原理と同様に、同じ合法的な目的が達成されうる場合にはそのように言えるのであって、当然違法論における合法的な目的に付随する制限の議論と同様に、法令違反の行為の目的を達成するための権利の制限の場合には当然に違法である。

まず思想表現の自由においては合法的な目的ではない目的とは、検閲などの制度と考えられ、一方では独占禁止法においては自由競争の思想がほぼ全部を占めており、不動産鑑定評価理論においては自由経済を原則としているが、不動産鑑定業界においては自由競争が少数派であるからという理由で、自由競争をしないように要請する行為は合法的ではない目的であるといいうる。合法的ではない目的に付随する本件競争制限行為は当然違法であるといいうる。ということはここでまた独占禁止法を持ち出すか、憲法論を持ち出すかという議論に到達することになる。

一般には同じ合法的な目的が達成されうる場合にはという概念は、公共団体の行為に限定されているゆえ、最初から議論の前提として合法的な目的を遂行するための競争制限という概念が内包されている。したがって間接適用という概念も、当然違法という付随的制限論も同じく合法的な目的を達成することを前提としている。公共団体の宿命であり、目的であるからである。

ところが民間の団体の場合には非合法的な目的を達成する場合に、権利の制限や、競争制限を行うことが多い。

従って本件事件における競争制限行為が合法的な目的のためであるのかどうかについて議論する必要がある。

好き嫌いのような概念や、あいさつをしてこなかったとか、中に入ったら自由競争を主張するであろうということを予防する目的とかは、前二者は社会通念であり、最後のものは違法な目的である。

ポズナーが議論しているのは、理由の概念はここに問題があるという。

純粋に合法的な目的とは、思想表現・信条の自由の場合には公共の安全であり、一方では自由競争を主張する独占禁止法の場合には競争促進の目的のみである。競争促進の目的には競争促進の主張の表現の自由が含まれている。この部分では競争促進の目的の表現の自由を含んでいる。自由に札を入れる自由は、札によって各事業者の価格と、供給量を表現する自由を含んでいるからである。

さて本件事件を憲法問題として解くのか、独占禁止法問題として当然違法の問題として解くのかの問題が存在する。

憲法問題としては私人間に憲法違反の効力が及ぶのかどうかの問題がある。

本件事件においては、価格の警備活動の一環として「価格を安くするな。」という行為が行われている。これは価格を安く表現するなという憲法問題としても、あるいは、独占禁止法上の価格維持活動としても考えられる。

独占禁止法は価格維持を目的とした行為、たとえば「させる行為」、そのものをも規制しているのであるから、ましてや価格を安く入れるなという行為は更に規制していることになる。事業者団体が不公正な行為をさせるだけで違反となるのに、「価格を安くいれるなよ。」と監禁して、命令する行為が日本では頻繁に行われている常識的行為であっても、許されるわけがないのである。当然にそれは違法であるということになる。

それでは憲法問題であるのか、独占禁止法の問題であるのかである。

憲法においては判例の積み重ねが著しいが、独占禁止法という経済の憲法と考えられている分野においては判例の積み重ねが少ない。

そこで憲法の原理を応用することはある意味では正しいことである。

しかし独占禁止法は個別の事業者の行為と、その共同行為である事業者団体と、事業者の集合を規制対象としている故に、個別適用が憲法において可能かという問題が残る。任意団体であるかどうかの問題である。

被上告人は任意団体であるという主張を行うが、最高裁判所の判決によればサロンの様な団体ではない。

事業者団体であっても、その団体が支配的な地位を持ち、必須の施設をもっている場合には、そして法人格を持っている場合には、サロンのような団体ではないばかりではなく、公的な性格を持っている。更にはその団体に加入しなければ事業活動が困難になるような団体である場合には、憲法上の要請もあって、生存権や、事業活動を自由を守るためにも、入会の強制でさえも可能になるような団体であるといいうる。

価格が自由な状態における事業者団体にあっては

「全国グラビア協同組合連合会(全国グラビア)

第31回通常総会を開催

 全国グラビア協同組合連合会は6月13日東京都新宿区の京王プラザホテルにおいて第31回通常総会を開催した。冒頭に川田会長はつぎのように挨拶した。 「グラビア印刷業界は今非常に厳しい状況におかれている。我々としては今こそ人に頼るのではなく、自分で自分の会社をどうやって守るか、組合として共通の課題と共通の解決策はなにかについて、真剣に取り組み一致協力して推進することが求められていると痛切に感じている。皆様のご協力をお願いしたい」。引続き議案の審議にはいり、平成12年度決算関係書類承認の件、平成13年度事業計画、収支予算並びに経費の賦課および徴収方法の件、平成13年度借入金残高の最高限度決定の件が上程され、いずれも原案通り承認可決された。その後、任期満了に伴う理事・監事の選出を行い川田善朗会長を再選、副会長には田中俊隆(新任)、飯田昭(再任)、東善男(新任)、小松豊吉(再任)の4氏が選任された。

(2001年9月5日更新)(C) Copyright The Japan Federation of Printing Industries < info@jfpi.or.jp >」

一般的な事業者団体のような状況ではなく、本件事件における被上告人の状況はそのようなものとはまったく違っており、被上告人自体が市場支配力を持っているし、また必須な取引事例も占有している。これを一般的な憲法の厳格な基準に合致しなければ、信条の自由の制限が許されないという基準によって論ずることができるか。

これはつとに被上告人自体が市場支配力を持っていて、かつまた、必須な取引事例を占有していることが公的な地位にあるといえるのか、あるいは、憲法を守るべき地位にあるのか、もし憲法が適用されるべきであるとした場合に独占禁止法の適用において理由の原理について審理することが、当然違法の原理を適用する場合よりもより競争制限的になるという理由から、当然違法の原理を採用すべきであるということになり、ポズナーがいうように、理由の原理を採用することが競争制限をどのようにでも可能にするということによって、理由の原理を排斥して、当然違法の原理を採用すべきであるという理屈付けが可能になるかどうかという問題である。

競争制限的であるということと、事業活動の制限ということとが同じになる場合がある。まず薬事法の違憲判決の場合には事業活動の制限であるということが出来る。LRAのrは競争制限の意味にとらえることが出来るし、薬局の開業という事業活動そのものの規制とも考えられる。競争制限ととらえる理由は、薬局の競争を制限する目的と、市場分割の結果を持っていると考えられるからである。

この場合にも事業活動の制限ととらえる見方を最高裁判所はとっている。このことは本件事件においても事業活動の制限としてとらえることができ、憲法問題としてとらえることができるということを最高裁判所の判例は示しているということになる。

日本では市場分割協定や、本件事件においては加入しなければ、事業活動が困難になるような団体についての加入強制は憲法の問題としてとらえることを最高裁判所は判決していることになる。

但し、日本では判例がこのような場合であっても、間接強制なのであるから、個々の事件には介入しないという方法を採用している。

しからば本件事件においては当然違法と見るのか、理由の原理とみるのかについての共同ボイコットの見方について、本件事件の最高裁判所判決において法令の適用において当然違法の判決であれば憲法違反を免れたような事件において、理由の原理によって判決することによって憲法違反となるような場合には法令の適用が違反であるという判決に最高裁判所の判決がなるべきである。

但し、これは強制加入団体の問題である税理士会の最高裁判所判決とは逆の論理構成をたどることになる。

税理士会事件においては、強制加入であるから、思想・信条が違う人が入ってくるのであるから、思想・信条の自由や政治的な自由や表現の自由は守られなくてはならないという論理である。

本件事件は強制加入であるべきであって、差止を行うということが最後の結論となる。

その理由が問題であり、ある意味では税理士会事件において最初の強制加入団体であることの理由付けを述べているような事件である。

ドイツにおいては法定され、アメリカにおいては当然違法とされている法律事象を日本においてはどのような法律構成をするかという問題である。

特に本件事件においては上告人の自由競争という信条の自由の問題に限局すれば、何らの一般性を持たない信条の自由の問題となる。

一般に信条の自由を侵したり、職業選択の自由を侵したり、生存権を侵したりする様な場合においては当然違法の取り扱いをするべきであるという論理を組み立てるとするならば一般的な憲法の問題となる。

自由競争の信条を脅かす場合にだけ、当然違法の原理を採用すべきであるという論理構成は、生存権を侵す場合を含まないことになる。

自由競争の信条を侵す場合は、つまりは結果として価格を高止まりをさせるから、悪いということになる。

これは競争法上の悪性を考慮していることになる。

本件事件が他の事件に大きな影響を及ぼさないためには、自由競争の信条を侵す場合のみは憲法上の違憲の疑いがあるという判決は当然であるが、日本の場合には当然違法の原理をどのようにして確立するのかという問題は残ることになる。つまりはアメリカのノースウェスト判決に見られるような一般的な定式化は本件事件で可能であるのかという問題が残ることになる。

確かにアメリカ最高裁判所のノースウェスト判決やトイザらス事件と同様に当然違法の定式化に本件事件はぴったりと当てはまる。この際に理由としての手続き違反は別個に扱い、独占禁止法では扱わないというノースウェスト判決の趣旨にのっとれば、本件事件における自由競争を主張したからという理由の部分は取り扱わないでよいということになる。

これは当然違法のノースウェスト判決において述べられ、ポズナーが理由は扱わないと述べているところの趣旨である。

ところがたとえ述べたとしても、それが憲法違反であると述べることは理由があるであろうか。

理由は普通は違憲であることは滅多にない。ほとんどの場合が顔が嫌いという程度の好ききらいである。自由競争の原理についても同様である。

ここではサロンのような団体であれば、第二のサロンを形成することも可能であるが、被上告人の場合には「被上告人に加入しなければ、事業活動が困難になるような団体である。」ここは第二事業者団体を作ることも不可能であることを示している。

先に述べたように税理士会のような団体のように加入が強制されうるとした場合に、理由をつぶして価格固定のためであるということを証明する必要があるのか問題がある。

これまでの主張のように赤坂弁護士の主張のとおりに、共同ボイコットについては原則違法であるとの(合法的目的に付随する場合や競争促進的である場合を除いて)主張を維持し、そうではない原審判決は法令適用の誤りであるとするのであるが、日本には原則違法の概念が存在しないとの少数意見もあるので反論する。

日本では「正当な理由なく」という文言に原則違法であるとの解釈が行われるという主張が慶応義塾大学の石川教授ほか多数説である。一方の少数説ではまだ判例が存在しないのであるから、それは確立されていないという。

多数説が勝っている理由は、すでにほとんどの独占禁止法の理論はアメリカの判例法をも受け継いでいるとの解釈から成り立っている点にある。

正当な理由の理由には、理屈は含まれず、競争を促進するような理由のことを述べているのであるから、理屈であるところの自由競争を主張したという信条の自由は含まれないということになる。

このように解釈すれば、憲法の下位規範である独占禁止法によって、その解釈によってこの本件事件は解けることになる。当然に憲法に自由競争の概念が入っていなければ、独占禁止法は違憲ということになるが、憲法に自由競争の概念が含まれている故に、独占禁止法は違憲ではないと解釈されている。

すると法令の解釈の誤りという理屈によって上告理由および上告受理申し立て理由となると考えられる。法が継受されてから半世紀以上が経過しており、その間に判決の集積がなかったのは差止請求が認められていなかったので、無効確認によっては当然に違法な理由によるのでなければ、無効とすることが不可能であったという理由による。

しかし差止によればそれが可能であったと考えられる。

しかし差止制度がなかったのであるから、その判例がないのは当然である。それは判例の歴史として当然である。

正当な理由なくの法令の解釈に誤りはなかったが、しかしそれによって差し止める法制度が存在しなかったということと混同してはならない。正当な理由なくを原則違法であると解釈してきたにもかかわらず、差止の法制度がなかったのであるから、その判例がなかったということになるのであって、正当な理由なくという法令文言は正しく解釈されてきたということになる。正当な理由なくという法律文言は違法ではあるとした判決は存在したが、無効確認という制度では無効とすることは意味がなかったということになるのである。

また不法行為法においては損害なければ差止なしの考え方がまかり通るのであるが、しかし独占禁止法は正当な理由がない場合には共同ボイコットを正当な理由なく違法であるとしているのであるから、先に共同ボイコットを正当な理由なく違法であると判決して、それから不安定になった法状態を考慮して民事訴訟法248条を適用する必要があると考えられるのである。

理由が屁理屈であるのかどうかの問題については、憲法を持ち出すまでもなくできるか。

思想・信条を理由とする拒否理由はよくない。

一方上告人山口節生個人に対しては、信条の自由により入会拒否することは可能であろうか。

個人業者として登録したのであるが、事業者としての活動であるのであるから、それはできないという主張もありうる。山口節生不動産鑑定士事務所が入会しているのであって、個人が入会しているのではない。

個人としては自由競争の思想信条を持っていることを批判することはできるが、事業者団体には事業者として入会しているのであるから、事業者に思想・信条があるわけがなく、営業方針があるのであって、営業方針は自由競争による安売りであったのであるから、その安売りを抑えようという行為は独占禁止法違反の公正競争阻害性が高い行為であるから、それと思想・信条の自由とは行動の根本原因である思想について規制するものであって、いわば「被上告人の頻繁に行っている検閲(価格警備活動の一部門)」に当たると考えられる。これについては安売り業者の三友という会社に対して清水文雄らや被上告人は非常に陰湿な方法で常に、あるいは、ほとんど常に検閲を行ってきている。安売りはだめであるというのである。

弁護士会は個人の入会であるが、不動産鑑定業は個人ではなく業者主義を採っているのであるから、業者は入れて、個人を入れないということはできるのであろうか。

これができないという仕組みになっているので、できないという被上告人の主張は採用することはできない。というのはサロンのような団体が個人の団体であるが、最高裁判所は被上告人はサロンのような団体ではなく事業者団体で、それも必須の施設と、独占的支配力と、公的な性格を持っている団体であるのであると述べて個人の集団としては見ていないからである。

確かに弁護士会も個人の催し物を開催して、ゴルフクラブを持っているし、マラソンランナーを雇っている会社もある。しかし会社がゴルフ部や茶道部を持っているからといって、その会社の事業者団体が事業に深刻な影響を及ぼすときに共産党に入党している幹部や社長がいるからといっても、その会社の入会を拒否することができるであろうか。

それは出来ない。事業者団体はその事業に関する部分のみを取り扱っているのであって、その他のサロンの部分はつけたしにしか過ぎない。

理由の原理はこのように絞っていけば、独占禁止法の部分のみに絞っていくことが出来る。競争制限か、競争促進かという議論である。

この場合に理由のうちで、信条に関わる部分のみを取り出して違憲であるということが出来るであろうか。確かに信条での入会拒否は、それも自由競争の信条での入会拒否は憲法違反であるが、そのような理由は許されないのみか、考慮に値しない。

考慮に値しないということはほぼ正当な理由なくというに等しいことになる。考慮に値しないということは当然に違法という論理と日本でも同様であるということになる。

思想信条を理由とする拒否理由は違憲であるという論理は、もっと厳格な基準によるべきであるという理論によっても違憲であるという結論になる。

表現の自由の確保に関する違憲の原則である厳格な基準によるべきであるという理論によっても、すべて自由競争を行おうとする上告人代表による、また上告人会社代表取締役の個人の自由競争の思想による訴訟やらの理由による事は許されないが、これまでの公正取引委員会の審決はそれを認めてきた。しかし公正取引委員会の審決は行政の判断であって判決ではなく、当時はまだ差止の制度が存在しなかった時代のものであって現在の状況とは違っている。現在はたとえそうであったとしても、差止の法的な制度が残っているといえるのである。従ってこれまでの行政の審決に倣った原判決は破棄を免れないといえる。

 

注:

「 Content-based な規制とcontent-neutral な規制 」

信条の自由の自由については、信じている内容が問題である。

「(1)  アメリカの判例理論  今日のアメリカにおける表現の自由に関する違憲審査基準論は、多彩な展開をとげているが、ごく大まかにいえば、規制の態様を二つに分け、それぞれに異なる審査基準を割り当てる、という考え方が基本になっているように思われる。」

LRAの基準のRは政府による個人の自由の規制の意味であり、何ら経済的自由とは関連がない。ところが個人の信条の自由を抑える事業者団体の制限的行為が、事業活動が困難となる場合には、そのような信条を理由として事業活動を妨害してはならない。

「それは、表現の内容に基づく(content-based) 規制と、表現の内容とは無関係な(content-neutral, もっと直訳して、「表現内容中立的な」といってもよい。) 、表現の時、場所、態様の規制とである。

 Content-based な規制とは、好ましくない(と立法府が考える)内容の表現が、公衆に伝わることを防止するために、当該表現の内容のゆえになされる規制のことである。例えば、

   わいせつな文書・図画などを販売した者を刑罰に処する

   時の内閣の政策を批判した国家公務員を懲戒処分に付する

   外国公館の周辺では、その国を批判するようなデモ行進を禁止する

   テレビ局に対して、番組の中でA党の主張を紹介した場合には、不公平のないようにB党の主張も紹介することを義務づける

   鉄道の駅の構内で、公衆に寄付を求めるビラの配布を禁止する

といった規制を内容とする法律があったとすれば、これらの規制は、content-based な規制に当たる。  これに対してcontent-neutral な規制としては、公道を一定程度、また一定時間以上占拠しようとする者や、公民館を使用しようとする者が、当局の許可を得なければならない結果、デモ行進をする自由や集会を開催する自由に制限を受けるような例が挙げられよう。

 Content-based な規制は原則として違憲であって、例外的に、

 1 その立法目的が極めて重大な(やむにやまれぬ)公共の利益(compelling interests)を達成しようとするものであり、

 2 かつ規制の手段がその目的達成のために必要最小限度であるとき

に限って、当該法律は合憲となる。

 このような、いわば本来の意味での厳格な基準がとられるのは、国家は、何が真理であるか、何が正しい意見であるかの判定者ではなく、思想の自由市場の判定に任せるべきだ、という考え方によるものである。

 これに対して、content-neutral な規制の場合には、多少(最近では、かなり)緩和した基準が用いられる。具体的にいえば、

 1 当該法律が重要な公共の利益(substantial governmental interests)を達成しようとするものであり、

 2 規制の手段がその目的を達成するようにできており、かつ、

 3 代替的なコミュニケーションの手段(alternative avenues of communication)を不合理に制限するものではない

ときに、合憲となる。

 しかし、content-based な規制か content-neutral な規制かがつねにはっきりと識別できるとは限らない。住宅地区等から近接した区域に成人映画館を開設することを禁止した市の条例は、このいずれに当たるのか。City of Renton v. Playtime theatres, Inc., 475 U.S. 41 (1986) は、同条例が、成人映画館の開設をすべて禁止しているわけではなく、その場所を規制しているにすぎないから、 content-neutral な規制であるという。

  7.3.2. 二分論の実際−−Low-value speech

 アメリカの判例においても、content-based な規制であれば当然に厳格な基準が適用されているわけではない。実は、厳格な基準に行き着くまでにはかなりの道のりがある。

 まず、アメリカの判例法には、伝統的に、表現の自由を保障した憲法第一修正(修正第一条)の保護を受けないとされてきた表現の諸類型がある。これらの類型の表現は、表現の自由の枠内で保護される表現ではないという考え方なのであるから、それを規制しても、表現の自由を侵害したかどうかは、そもそも問題にもならない(もちろん、憲法の他の条項に違反するかどうかは、別問題である)。伝統的には、犯罪の煽動、名誉毀損的表現、闘争的言辞(fighting words)、わいせつな表現、チャイルド・ポルノなどが、第一修正の保障の枠外にある表現類型であると考えられてきた。例えば、わいせつ文書を頒布・販売した者を処罰することは、まさに表現の内容(つまり、わいせつな表現であるという内容)によって表現行為を規制することになるはずであるが、厳格な基準の適用は問題にならないのである。これらの表現も、最近では、憲法上まったく保護されないのではなく、他の、いわばまじめな表現に比較して低くしか保護されないlow-value speechのだ、という考え方が出てきているが、そうだとしても、例えば政治的言論などと比較すると、はるかに低い保護しか与えられない(ただし、名誉毀損的表現あるいはプライバシー侵害的な表現については、かなり厚い保護がなされている)。これらの表現類型では、それぞれの分野に特有の基準論が展開されている。これまでに説明したように、この点は日本でも同じであるといえよう。

 次に、営利的言論(commercial speech. 典型的には商品・サービスの広告)は消費者保護の要請ゆえに、また、放送はメディア(周波数帯)の有限性のゆえに、content-based な規制を施しても、厳格な基準は適用されないと考えられている。

 かくして、いろいろ枝葉を切り落として残った表現(それは結局のところ、伝統的な媒体を通してなされる、政治的、宗教的、芸術的な表現が中心になろう)に厳格な基準が適用されることになるのである。

 さて、このように、厳格な基準が適用されるのは、実は案外に狭い範囲なのではあるが、いったん適用されるとなると、厳格な基準の名にふさわしい結果をもたらすようである.つまり、この基準を適用されれば、当該法律が合憲なものと判断される可能性はまずないといわれている。例えば、Police Department of the City of Chicago v. Mosley, 408 U.S. 92 (1972)は、表現内容による規制について、これまで述べてきた意味での厳格な基準が適用された最初期のものと考えられている。これは、小学校の校舎の周辺でピケッティングまたは示威運動をすることを禁止した市の条例の合憲性が争われた事例である。問題は、同条例が、労働争議にかかわる平和的なピケッティングを、禁止の対象から除外していたことであった。最高裁は、許されるピケッティングとそうでないピケッティングとを、その主題によって区別する(つまり労働争議にかかわる主張をなすピケッティングか、それ以外の主張をなすピケッティングか)ことは違憲であるとした。政府が、好ましい言論あるいは表現と、好ましくない言論あるいは表現とを、差別的に扱うことは許されないからである。

 もっとも、conten-based な規制に当たるとしても、実際に厳格な基準を適用するに当たっては、なお議論しなければならない問題が残っている。

 第一に、compelling interest とは何か、という問題である。生命や健康はそれに当たるであろうが、表現の自由を制限しないと生命や健康が損なわれるという場合が本当にあるのかは、疑問である。ある判例は、法人の豊富な資金力が政治的言論のプロセスをねじ曲げないようにすることは、compelling interest に当たると述べている(Austin v. Michigan Chamber of Commerce, 494 U.S. 652 (1990))。

 次に、規制の手段が目的達成のために必要最小限度のものである必要がある。いいかえれば、同程度の規制の目的・効果が達成できるときには、表現の自由を制限する程度の最も少ない規制手段を選択しなければならないのである。

 もちろん、同程度の目的・効果を達成するための最小限度の手段が何かを決定することは、多くの場合非常に困難である。しかし、次のようにいうことはできよう。いまXという立法目的を達成するために、m1という規制手段をとっている法律の合憲性が争われているとしよう。かりに、m1と同じだけの効果を上げることができるが、表現の自由を制限する程度のより少ないm2という規制の手段も可能であれば、m1は違憲と判定される。なぜなら、m1は立法目的を達成するための必要最小限度の規制手段ではないからである。すなわち、ある規制手段は、同じ立法目的を達成することができ、しかも、表現の自由を制限する程度がより少ない規制手段(「より制限的でない他の選び得る手段」、less restrictive alternative; less drastic means; etc.)が考えられる場合には違憲となる。日本では(そして、日本でだけ)これを、「LRAの基準」と呼んでいる。

  7.3.3. 規制類型二分論と日本の判例

 以上に述べたように、アメリカの判例は、表現の自由に関する違憲審査基準として、少なくともある種の類型の規制については、「厳格な基準」を採用していると考えられる。これに対して、日本の最高裁判例は、厳格な基準を採用したことがない。

 確かに日本の最高裁判例にも、表現の自由の規制を二つの類型に分けるという発想が見られないわけではない。それを示すのが百選13事件(猿払--さるふつ--事件)である(戸別訪問禁止の合憲性に関する163事件もほぼ同様)。ここでは、表現の自由に対する規制が、「意見表明そのものの規制」と、「その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止する……間接的、付随的な制約」とに二分されている。

 しかし、この二分法は、アメリカのそれとは異なる。

 第一に、「意見表明そのもの」とは何を意味するのか明らかでないために、「意見表明そのものの規制」という言葉の意味がはっきりしないし、その後の最高裁判例を見ても、これに当たるから当該規制は違憲である、としたものはもちろん存在しない。

 第二に、百選6事件で扱われていたのは、公務員が政治的意見を表明する自由の限界という問題であり、そこで規制されていたのは、特定の内容をもった言論であった。その意味でこの事件は、アメリカ的な理解からすれば、content-based な規制に当たる事例であったと思われる。しかし、最高裁は、問題となっている規制を、「その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止する……間接的、付随的な制約」に分類したのである。

 最高裁の二分法は、後者の類型の規制の場合には、違憲審査基準が極めて緩やかなものになる、という結論を導くことがその最大の目的なのである。したがって、再々述べるように、アメリカの判例理論によっては、日本の判例の現状を説明できないことに注意しなければならない。」

いわゆる人権問題について。

「図書館員が制約された状況のなかで判断するのではなく、市民の広範な意見を聞く。 3) とりわけ人権侵害にかかわる問題については、偏見と予断にとらわれないよう、問題の当事者の意見を聞く。 3 利用制限の方法について。知る自由を含む表現の自由は、基本的人権のなかで優越的位をもつものであり、やむをえず制限する場合でも、「より制限的でない方法」(less restrictive alternativeの基準)によらなければならない。裁判所が人権を侵害するとして著者らに公表の差し止めを命ずる判断を行った資料についても、図書館は被害を予防する措置として、当該司法判断の内容を告知する文書を添付するなど、表現の自由と知る自由を制限する度合いが少ない方法を工夫することが求められる。 4 人権の侵害は、態様や程度が様々であり、被害の予防として図書館が提供を制限することがあっても、時間の経...

...して取り入れた。(1)各図書館に資料検討のための委員会を設けること、(2)全職員の意見を反映すること、(3)当事者および市民の意見を反映すること、(4)職員に図書館の自由に関する情報の提供と研修・研究の機会を設けること、である。 ?Bの利用制限の方法については、いろいろ論議した末、具体的に書けば、かえって前後を無視して閲覧制限の口実を与えるという結論に達し、単に「より制限的でない方法」(less restrictive alternative)によらなければならないというにとどめた。 最後に、たとえ提供制限をすることがあっても、時間の経過と状況に応じて制限の解除を再検討すべきであることを書いた。

●著作権問題と資料提供の自由に関わる問題。 図書館の大量貸出しに対する著作者や出版社からの批判、著作権侵害の判決が確定した資料の図書館での対応、著作権が障害者にとって障壁になっている現状など、著作権が強化される方向での動」

「従って、「表現の自由」(及びそれと表裏一体の関係をなす「知る権利」)を規制しようとする立法に対しては、法文に対する「明確性の原理」(漠然性のゆえに違憲の法理、過度に広汎性のゆえに違憲の法理)、表現の事前抑制(検閲等)の禁止、「明白かつ現在の危険」基準の適用、「LRAの基準」(less restrictive alternative、制限的でない他の手段)の適用等の他、訴訟手続き上も規制立法の合憲性推定の排除、挙証責任の転換、当事者適格の要件の緩和などが認められている。

しかし、以上のように手厚く保障されている「表現の自由」ではあるが、それはあくまで「人権」という名の「権利」の一種である以上、当然に限界が存在する。憲法第12条後段は「又、国民は、これ(この憲法が国民に保障する自由及び権利を濫用してはならない)」

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(3)

平成17年5月9日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

上告理由(追加)

 明白な危険かつ現在の危険によっていない思想・表現の自由の制限は、憲法二一条違反のそしりを免れえず、破棄は免れない。 

 憲法第21条によって保障されるべき、表現などの自由(以下、ここでは一括して表現の自由とする)を支える価値は、自己実現の価値(個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させる)および自己統治の価値である(言論活動によって国民が政治的意思決定に関与する)。

また、表現の自由について、思想の自由市場論が主張される。これは、各人が自己の意見を自由に表明し、競争することによって、真理に到達することができる、という議論であり、アメリカ合衆国連邦最高裁判所のHolmes裁判官によるものである。

 学説においては「明白かつ現在の危険」の基準が説かれている。

その内容は、(a)或る表現行為が、近い将来、或る実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白であること、

(b)その実質的な害悪が極めて重大であり、その重大な害悪の発生が時間的に切迫していること、

(c)当該規制手段がその害悪を避けるのに必要不可欠であること。

これらが論証されて初めてその表現行為を規制できる、というものである。

LRA(less restrictive alternatives)の基準

立法目的は表現内容に直接関わりのない正当で十分に必要なものであるが、規制手段が広汎であるために問題である法令について、立法目的を達成するために規制の程度のより少ない手段が存在するかどうかを具体的・実質的に審査する、という基準。もし、そのような手段があると判断されると、その規制立法は違憲である。

 思想・表現の自由について、その信条が現在の危険があるのか、将来の危険のおそれを予測しているのみではないか。それも自由競争を主張してすぐに会長選挙に出馬するのを恐れたのではないか、そのようなおそれは現在の危険ではなく、憲法違反である。信条の自由を侵すものである。そのようなおそれで実際に独占禁止法違反による損害が発生している。

 判例 H07.03.07 第三小法廷・判決 平成1(オ)762 損害賠償(第49巻3号687頁)において示されたように、「(2) 本件集会が開催された場合、中核派と対立する団体がこれに介入するなどして、本件会館の内外に混乱が生ずることも多分に考えられる状況であった。(3) このような状況の下において、泉佐野市総務部長が、本件集会が開催されたならば、少なからぬ混乱が生じ、その結果、一般市民の生命、身体、財産に対する安全を侵害するおそれがある、すなわち公共の安全に対する明白かつ現在の危険があると判断し、本件条例七条一号の「公の秩序をみだすおそれがある場合」に当たるとしたことに責めるべき点はない。」の趣旨は、現在の危険の必要性が信条・思想・表現の自由の制限に対しては求められると考えられ、将来の危険ではこのような重大な違反を犯す理由にはなりえない。現在の危険が存在するわけでもなく、上告人が入会したからといっても、会長選挙などに出て、「自由競争による価格競争を主張するであろう。」という円滑な業務の執行に支障を来すおそれのみによって、このような事件を引き起こしたのであるから、それを是認した原判決は憲法二一条違反のそしりを免れえず、破棄は免れない。

最高裁判所第三小法廷平成8年3月19日民集50巻3号615頁

法人が強制加入の団体である場合には、会員の思想・信条の自由との関係で特別の考慮が必要であり、会員が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断に基づいて決定すべき事柄について、多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動すべき協力義務を負わすことには限界があるとする最高裁判所判例においても明確に表明されている(最高裁判所第三小法廷平成8年3月19日民集50巻3号615頁)。これは本件と同趣旨である。

南九州税理士会事件 熊本地方裁判所昭和61年2月13日判決

最高裁判所民事判例集50巻3号869頁 福岡高等裁判所平成4年4月24日判決

最高裁判所民事判例集50巻3号955頁 最高裁判所平成8年3月19日第3小法廷判決 最高裁判所民事判例集50巻3号615頁

[税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり、その会員である税理士に実質的には脱退の自由が保障されていないことからすると、その目的の範囲を判断するに当たっては、会員の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である。

 税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。]

平成17年(  )第183号・平成17年(  )第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(4)

平成17年5月9日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

上告理由書兼上告受理申立理由書(目次)

はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

第1 原判決には、独占禁止法8条1項3号、5号および19条の解釈の誤りがあり、それは判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反であるから原判決は破棄を免れない。よって原判決は、最高裁判所の判例等に相反し、その他法令の解釈に関する重大な事項を含む判断がなされているものとして、上告受理決定がなされるべきものである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・4

第2 原判決の判断は、最高裁判所の判例と抵触する誤りがあり、それは判決に影響を及ぼすことが明らかな判例違反であるから原判決は破棄を免れない。よって原判決は、最高裁判所の判例等に相反し、その他法令の解釈に関する重大な事項を含む判断がなされているものとして、上告受理決定がなされるべきものである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6

第3 原判決には、憲法の解釈の誤りがあり、原判決は破棄されるべきものである。よって上告に理由がある。 ・・・・・・・・・・・・・10

はじめに

1 本件の請求

 (1) 上告人山口は、不動産鑑定士であり、上告人会社は、不動産鑑定評価に関する法律(以下、「鑑定法」という。)に基づく不動産鑑定業者であるところ、上告人山口は、平成11年9月、被上告人に対し入会を申し込んだところ、被上告人から、平成12年3月13日、これを拒否され(以下、「第1入会拒否」という。)、上告人会社は、平成13年1月19日、被上告人に入会を申し込んだところ、被上告人において、その理事会で、同月24日、同申込みを受理しないことを決議し、現在に至るまで上告人会社の入会申込みに対して回答をしていない(以下、「第2入会拒否」という。)

 (2) 本件は、上告人会社が、埼玉県内の鑑定業務、受託を独占している被上告人において、固定資産税の標準宅地の鑑定業務、公共事業用地等についての不動産鑑定業務及び路線価の鑑定業務について鑑定評価員等の推薦又は働きかけ等をし、被上告人会員と競争関係にある上告人会社を市場から排除し、かつ、被上告人の入会金を不当に値上げして被上告人への入会を阻害するなどしたことに基づき、これらの推薦又は働きかけ、入会金の値上げ等の行為につき、不公正な取引方法(昭和57年6月18日公正取引委員会告示第15号。以下、「一般指定」という。)2項又は5項に該当し、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下、「独占禁止法」という。)8条1項1号、3号及び5号並びに19条に違反すること、また、被上告人において、資料閲覧及び業務補助者証明書の交付に関して、被上告人の会員と非会員を差別的に取り扱った行為につき、同じく一般指定2項、3項又は5項に該当し、独占禁止法の8条1項5号及び19条に違反すること、第2入会拒否が上告人会社を不当に排斥し、もって不動産鑑定業者として事業を行うことを困難にするものであるから、第2入会拒否につき、一般指定5項に該当し、独占禁止法の上記規定に違反すること、並びに、被上告人が、埼玉県内の市町村と業務委託契約を締結することによって、上告人らを埼玉県内の市町村との鑑定評価業務受託取引から排除していること、上記の行為は、一般指定1項2号又は2項に該当することを理由に、被上告人に対し、独占禁止法24条に基づき、第2入会拒否、鑑定評価員等の推薦又は働きかけ、入会金の徴収及び資料の閲覧等に係る差別的取扱い等の差止めを求めるとともに、上告人らが、第1入会拒否及び第2入会拒否(以下、「本件各入会拒否」という。)について、上記のとおり、一般指定5項に該当し、独占禁止法8条1項5号及び19条に反するものであり、これらの入会拒否により、上告人らは営業権を侵害され損害を蒙ったことに基づき、被上告人に対し、不法行為に基づき、上告人らが蒙った損害金(弁護士費用を含む)及びその遅延損害金の各支払を求めているところ、本理由書は、この内、本件各入会拒否の違法を理由とする上告人らの各請求に関する原審判断の誤りを述べる。

第1 原判決には、独占禁止法8条1項3号、5号および19条の解釈の誤りがあり、それは判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反であるから原判決は破棄を免れない。よって原判決は、最高裁判所の判例等に相反し、その他法令の解釈に関する重大な事項を含む判断がなされているものとして、上告受理決定がなされるべきものである。

 1 原判決の引用する第一審判決は、次のとおり判示する。

 原判決は、「挙示の証拠に照らし、入会拒否に社会通念上合理的理由があるとした原判決の認定判断は正当として是認することができ、本件各入会拒否が被控訴人(被上告人:引用者注)の利権を守るためにされたものであることを認めるに足りる証拠はなく、控訴人ら(上告人ら:引用者注)の主張は、採用することができない。」(原判決13頁)と判示する。

 すなわち、原判決は、本件入会拒否は、社会通念上合理的な理由があれば、独占禁止法8条1項3号及び5号、19条に該当しても違法性は阻却されると判示したものである。

 2 しかしながら、原審の上記判断は、独占禁止法8条1項3号及び5号、19条の解釈を誤ったものである。その理由は次のとおりである。

独占禁止法8条1項3号は、事業者団体が「一定の事業分野における現在または将来の事業者数を制限すること」を禁じている。その趣旨は、事業者団体がその決定を持って一定の事業分野にある事業者の数を制限することにより、新規事業者の市場の参入を阻止しあるいは既存事業者を排除し、許容された一定数の事業者においてのみ競争が行われるという条件を作り出すことは、市場の開放性を阻害し、独占禁止法が禁じる不当な取引制限に該当するからである。それゆえ、同号に規定する事業者数の制限は、競争の実質的制限にいたらない場合であっても禁止されている点に特徴があるのであり、同項に該当する場合には、その違法性が阻却されるような例外的な場合は認められないと解すべきである。仮に、「不当な取引制限」行為から除外されるような例外的な場合があるとしても、それは、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進するという」独占禁止法の究極の目的(一条)に実質に反しない」と認められる例外的な場合でなければならない。したがって、入会拒否が、違法行為でないとされるためには、その理由が、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進するという独占禁止法の究極の目的(一条)に実質に反しない」と認められる例外的な場合によるものでなければならない。

3 本件についてみれば、埼玉県における不動産鑑定士業の唯一の団体である被上告人は、事業者団体であるとともに、被上告人に加入しないで埼玉県下において不動産鑑定業務を行うことが、著しく困難な状況にあったものであるから、上告人山口の入会を拒否することは、上告人山口の参入を阻止し市場の開放性を阻害することは明らかであるところ、被上告人が入会拒否として挙げる理由の主なものは、被上告人以外の同様の団体に対して行われた上告人山口の言動に鑑みて、上告人山口が被上告人の健全な運営を阻害する虞があるとしているにとどまるのであり、被上告人の会員の業務を享受する一般消費者の利益確保という観点からの必要性は全く考慮されていないだけでなく、被上告人が問題とする言動は、その主なものは、被上告人及び他地域における同様の事業者団体が行っている不動産鑑定業務の独占行為に対する疑いに基づきこれを矯正して、不動産鑑定業務における自由競争原理の実現の観点から、これを批判していると認められる意思表明であり、むしろ一般消費者の利益確保と独占禁止法の趣旨目的に沿うものとも見られ得るものであり、これらを理由に入会拒否できる例外的場合には、到底該当し得ないものである。

以上と異なる見解に立って、被上告人の請求を退けた原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があり、原判決は破棄を免れない。

第2 原判決の判断は、最高裁判所の判例と抵触する誤りがあり、それは判決に影響を及ぼすことが明らかな判例違反であるから原判決は破棄を免れない。よって原判決は、最高裁判所の判例等に相反し、その他法令の解釈に関する重大な事項を含む判断がなされているものとして、上告受理決定がなされるべきものである。

1 原判決の引用する第一審判決は、次のとおり判示する。

 原判決は、「挙示の証拠に照らし、入会拒否に社会通念上合理的理由があるとした原判決の認定判断は正当として是認することができ、本件各入会拒否が被控訴人(被上告人:引用者注)の利権を守るためにされたものであることを認めるに足りる証拠はなく、控訴人ら(上告人ら:引用者注)の主張は、採用することができない。」(原判決13頁)と判示する。

 すなわち、原判決は、本件入会拒否は、社会通念上合理的な理由があれば、独占禁止法8条1項3号及び5号、19条に該当しても違法性は阻却されると判示したものである。

2 しかしながら、最高裁判所判例(最高裁判所判例集 第38巻第4号25頁)は、次のとおり判示する。

「独禁法の立法の趣旨・目的及びその改正の経過などに照らすと、同法2条6項にいう「公共の利益に反して」とは、原則としては同法の直接の保護法益である自由競争経済秩序に反することを指すが、現に行われた行為が形式的に右に該当する場合であっても、右法益と当該行為によって守られる利益とを比較衡量して、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する」という同法の究極の目的(同法1条参照)に実質的に反しないと認められる例外的な場合を右規定にいう「不当な取引制限」行為から除外する趣旨と解すべきであり、これと同旨の原判断は、正当として是認することができる。」

 同判決が認容した原審判決は、次のように述べている。

「・・・独禁法の改正等の経緯にかんがみ、同法を整合的に解すると、同法は、共同行為により一定の取引分野における競争を実質的に制限する行為であっても、その行為の実質において同法の趣旨、目的に反しないものがありうることを予定しているものと解されるが、前記の同法の目的をも考慮すると、「公共の利益に反して」とは、同法の趣旨、目的に反することをいい、原則としては同法の直接の法益である自由競争経済秩序に反することであるが、形式的に右に該当する場合であっても、右法益と当該行為によって守られる利益とを比較衡量して、全体的にみた前記の同法の趣旨、目的に実質的に反しないと認められるような例外的なものを公共の利益に反しないものとして独禁法の適用から除く趣旨で右構成要件が設けられたものであると解するのが相当である。」

 そして、事業者団体による競争の実質的制限行為を禁止する8条の規定の解釈において、同条所定の各行為であれば違法性が阻却されるような例外的場合は一切認められないとの立場を採るのであれば格別、そうでない限り、これらの行為についても、事柄の本質及び独占禁止法1条の立法趣旨からみて、2条5項・6項の「公共の利益に反して」という要件は類推適用されるとするのが一般であり(村上政博、独占禁止法第2版・67頁・平成12年・弘文堂)、この2条5項・6項類推適用説に拠る限り、8条所定の事業者団体の行為も、上記判例の射程範囲に属するものであることは疑いない。

 3 上記判例によれば、独占禁止法8条1項3号及び5号、19条は、自由競争経済は、需給の調整を市場機構に委ね、事業者が市場の需給関係に適応しつつ価格決定を行う自由を有することを前提とし、その努力による価格引下げ競争が、本来、競争政策が維持・促進しようとする能率競争の中核をなるものであるところ、事業者団体が、将来の事業者の数を制限する場合には、一定の事業分野の市場の開放性を妨げ、事業者の努力又は正常な競争過程を反映せず、競争事業者の事業活動を困難にさせるなど公正な競争秩序に悪影響を及ぼす虞が多いと見られるため、これを禁止しているものであり、同規定による違反行為がないとされるためには、これら判例による「公共の利益に反して」という基準に該当しないことが示されなければならないものである。したがって、事業者団体による入会拒否が同項に該当する違法なものでないとする理由としては、それが「公共の利益に反」するかどうか、換言すれば、事業者団体による入会拒否が専ら公正な競争秩序維持の見地に立ち、具体的な場合における行為の意図、目的、態様、競争関係の実態及び市場の状況等を総合して(参照、最高裁第一小法廷平成6年12月14日民集43巻12号2078頁)勘案し、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的な発達を促進するという独占禁止法の究極の目的に実質的に反しない」と認められるかどうかを基準として判断すべきである。

 4 しかるに、原審は、入会拒否の違法性を判断する際に「社会通念上の合理性」を基準として採用するのみで、これら判例による、独占禁止法の目的に基づく同法2条5項・6項の類推適用による同法究極目的に実質的に反しないと認められる例外的な場合についてのみ違法性が阻却される、との基準に一顧だにしていない。入会拒否基準としての「社会通念上の合理性」とは、会員の自発的意思によって結成される任意団体に適用される基準であって、独占禁止法により規制される事業者団体の入会・拒否基準とはなり得ない。このような基準をもって、独占禁止法8条1項3号及び5号、19条に該当しないとした原判決は、上記最高裁判所の判例に明らかに抵触する。

 5 本件についてみれば、埼玉県における不動産鑑定士業の唯一の団体である被上告人は、事業者団体であるとともに、被上告人に加入しないで埼玉県下において不動産鑑定業務を行うことが、著しく困難な状況にあったものであるから、上告人山口の入会を拒否することは、上告人山口の参入を阻止し市場の開放性を阻害することは明らかであるところ、被上告人が入会拒否として挙げる理由の主なものは、被上告人以外の同様の団体に対して行われた上告人山口の言動に鑑みて、上告人山口が被上告人の健全な運営を阻害する虞があるとしているにとどまるのであり、被上告人の会員の業務を享受する一般消費者の利益確保という観点からの必要性は全く考慮されていないだけでなく、被上告人が問題とする言動は、その主なものは、被上告人及び他地域における同様の事業者団体が行っている不動産鑑定業務の独占行為に対する疑いに基づきこれを矯正して、不動産鑑定業務における自由競争原理の実現の観点から、これを批判していると認められる意思表明であり、むしろ一般消費者の利益確保と独占禁止法の趣旨目的に沿うものとも見られ得るものであり、これらを理由に入会拒否できる例外的場合には、到底該当し得ないものである。

以上と異なる見解に立って、被上告人の請求を退けた原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな判例の違反があり、原判決は破棄を免れない。

第3 原判決には、憲法の解釈の誤りがあり、原判決は破棄されるべきものである。よって上告に理由がある。

 1 原判決は、本件入会拒否に関し、次のように判示した。

 原判決は、「挙示の証拠に照らし、入会拒否に社会通念上合理的理由があるとした原判決の認定判断は正当として是認することができ、本件各入会拒否が被控訴人(被上告人:引用者注)の利権を守るためにされたものであることを認めるに足りる証拠はなく、控訴人ら(上告人ら:引用者注)の主張は、採用することができない。」(原判決13頁)と判示する。

 そして、原判決が是認した原原判決は、被上告人の定款5条3項(本会への入会が会員の綱紀保持上不適当と認められる事由のある者)に該当すると認定した理由を次のように述べる。

「・・・原告山口(上告人山口:引用者注。以下同じ)が、鑑定協会や都士協会に対し、具体的根拠も客観的根拠もないのに、談合をしている等として訴訟を提起し、不当に同協会らの業務に支障を生じさせ、その信用を貶めたこと、選挙活動の一環であることを考慮しても著しく不適切な表現行為であるとの謗りを免れない文章を選挙公報やホームページに公然と掲載したこと、茨城県の市町村に対して、・・・の公正取引委員会の警告の対象とされた独占禁止法違反のおそれのある行為と同種の行為を依頼する内容の書面を配布したこと、そのうち・・・の書面は、茨城県士協会会長井坂の名義部分を棒線1本を引いて消しただけのものであり、同書面を受け取った一般人をして、上記井坂作成に係る文書であると誤信せしめ得るものであること等によれば、原告山口の入会により、被告(被上告人:引用者注。以下同じ)に対する社会一般の信頼・信用が低下し、被告や同会員の名誉が害され、被告内部に混乱を来し、被告の円滑な業務の執行に支障を来すおそれが高いと認められ、原告山口は、被告の定款5条3項(本会への入会が会員の綱紀保持上不適切と認められる事由のある者)に該当するものと認めることができる。」

 2 しかしながら、本件入会拒否の違法性を判断するにあたっては、入会拒否が憲法の基本権保障規定を侵害しないかどうかの判断が回避されてはならない。一般に、私人間における基本的自由の侵害や侵害の虞に関しては、憲法の直接適用がないとされる(最高裁判所昭和48年12月12日、民集27巻11号1536頁)。しかし、基本的自由の侵害や侵害の虞の態様・程度が社会的に許容される限度を超える場合には、基本的自由の利益を保護すべきことは言うまでもない。まして、私人間の関係であっても相互の社会的力関係の相違から、一方が他方に優越し、事実上後者が前者の意思に服従せざるを得ないような場合で、法的服従関係に準ずるような場合には、憲法基本権保障規定の適用ないしは類推適用が認められるべきである。

3 本件では、被上告人への加入は、実質的には強制加入であり、埼玉県下において不動産鑑定業務を営むためには被上告人に加入してその会員資格を得ることが必要であり、被上告人の会員資格を有しないで同県における不動産鑑定業務を営むことは不可能又は著しく困難であるから、被上告人と上告人山口の関係は、憲法の基本権保障規定の適用ないし類推適用を受けるべき服従関係にある。

4 本件は以下のとおり、実質的には強制加入の事業者団体である被上告人と上告人ら事業者との関係は、埼玉県における不動産鑑定業務においては、被上告人と上告人らとの間に法的服従関係に準ずる関係が成立していると言わざるを得ない。

(1) 上告人山口は、平成2年5月に不動産鑑定業者として開業し、平成11年9月に、埼玉県内に不動産鑑定士事務所を設けると同時に、埼玉県の不動産鑑定業者の登録を受けた。

(2) 埼玉県内における不動産鑑定評価業務は、東京都等と較べると、民間の会社及び個人からの鑑定依頼は約3割と少なく、国土交通省が発注する地価公示の鑑定評価、埼玉県が発注する用地買収等の鑑定評価並びに地価調査等の鑑定評価、国税庁が発注する路線価格の鑑定評価、裁判所が発注する裁定競売価格の評価及び訴訟・非訴訟上の鑑定評価、市町村が発注する固定資産税の課税標準を定めるための地価調査及び用地買収等の鑑定評価などの公的機関からの鑑定評価の依頼がその業務の約7割もの大部分を占める。

(3) 被上告人は、本部の社団法人日本不動産鑑定協会関東甲信会埼玉県部会がその前身であり、平成7年3月20日に社団法人となったものであり、不動産鑑定評価制度の普及等を目的とする公益社団法人であり、埼玉県における唯一の不動産鑑定業者の事業者団体である。

(4) 被上告人は、その前身である本部の関東甲信会埼玉県部会のときから、平成6年度から不動産鑑定士へ鑑定評価の委託がなされるようになった固定資産税の課税標準を定めるための地価調査に関し、平成7年度(平成9年度の評価替えのため)及び平成10年度(平成12年度の評価替えのため)及び平成13年度(平成15年度の評価替えのため)には、埼玉県内の各市町村との間で鑑定評価の業務委託契約をした。

(5) そして、固定資産税の課税標準を定めるための地価調査についての3年ごとの評価替えの年度である平成9年度については、「固定資産税評価における平成9年度評価替え意向の鑑定評価実施体制について」(平成6年10月12日自治評第43号)に基づいて埼玉県の行政指導により、平成12年度評価替え以降、上記自治省通知が廃止され行政指導がなくなった後は、埼玉県市町村税務協議会資産税(土地)部会と被上告人の申し合わせに基づき、被上告人において、埼玉県内全92の市町村(当時)において地価調査を希望する不動産鑑定士の名簿を提示することとされた。そこで被上告人は、会員から埼玉県下の各市町村の地価調査の希望を取りまとめて希望者名簿を作成し、これを各市町村に配布した。そして、平成10年3月19日には、一方で、平成9年度評価体制に準じ、被上告人と鑑定評価に関する委託契約を結ぶことで合意を得たとするとともに、他方で、被上告人に加入していない鑑定評価員並びに市町村に申し出た鑑定評価員の希望者の申し込みについても、被上告人が受け付けるべきものとされた。しかしながら、平成15年度評価替えにおいては、希望者の申し込みのとりまとめを、被上告人会員とそれ以外の者とを区別して実施し、後者の対象者には極めて短い回答期間を与えるにすぎないなど、不自然・不合理な方法により被上告人会員とそれ以外の者とを差別的に扱った。

(6) 相続税路線価の標準地評価に関しては、国税庁を委託者、社団法人日本不動産鑑定協会を受託者とする業務委託契約によっている。不動産鑑定士の選任手続は、本部が鑑定希望者を募り、その希望者名簿を国税庁に提出し、埼玉県内については、関東甲信越国税局及び各税務署が、鑑定士評価員に委託するというものであるが、平成13年分の相続税路線価の評価員として委嘱された者は、平成13年分は126名、平成14年分は127名、平成15年分は126名であるが、この中には、被上告人会員又は同関係者以外の埼玉登録業者で被上告人会員以外の者は一人も含まれてはいなかった。

(7) 以上を背景として、埼玉県では、固定資産の標準宅地の鑑定評価業務に関して、平成13年度において、平成15年度の固定資産鑑定評価員を希望した者が162業者(うち被上告人会員128業者、非会員34業者)であったところ、同評価員として選任されたのは127業者(うち被上告人会員106業者、非会員21業者。業者数に関する(以下同じ)会員比率83.4%)であり、公共事業用地等の不動産鑑定評価業務に関して、埼玉県浦和土木事務所が県内の物件について鑑定依頼を発注した業者は、平成11年度において、188業者、依頼件数合計140件(うち非会員1業者、依頼件数2件。会員比率99.5%)、平成12年度において、17業者、依頼件数合計122件(うち非会員ゼロ。会員比率100%)、平成13年度において、17業者、依頼件数合計117件(うち非会員ゼロ。会員比率100%)であり、さらに、国税庁は路線価の鑑定評価業務に関して、関東信越国税局が委嘱した鑑定評価員は、平成13年度において、のべ126名、鑑定地点総数597(うち非会員のべ16名、鑑定地点数59。評価員数に関する会員比率(以下同じ)87.3%)、平成14年度において、のべ127名、鑑定地点総数613(うち非会員のべ14名、鑑定地点数57。会員比率89%)であった。したがって、埼玉県下における不動産鑑定業務は、被上告人会員がほぼ独占している状態にあり、平成11年、平成12年、平成13年及び平成14年分の埼玉県登録業者の合計収入金額に占める被上告人会員の収入は、99.8%、99.8%、99.3%、100%を占め、これら全期間を通じて、被上告人会員以外の埼玉県登録業者で、国、地方公共団体、公社、公団、公庫等、裁判所から鑑定評価業務を受注した実績が零であった。

(8) 埼玉県において、不動産鑑定業者の被上告人への加入率はほぼ100%に近い。つまり、被上告人に加入していないのは、事業を行っていない者か又は何らかの特別な事情がある業者のみである。

  (9) 近隣他県(茨城県)における強制加入の実情

 このような状況は、埼玉県のみならず、同じ関東圏に属する茨城県においても同様である。

 不動産鑑定士の社団法人茨城県不動産鑑定士協会への入会に関して、入会に当たって会員2名の推薦を要件としていることが独占禁止法8条1項3号に該当し不法行為が成立する旨判断した東京地裁八王子支部も(同庁平成13年9月6日判決 判タ1116号273頁)も、茨城県内における不動産鑑定評価業界の実態に関して、

 「茨城県内における不動産鑑定評価業務は、国の行政機関、県、市町村、裁判所などの公的機関からの依頼がかなりの部分を占めるところ、茨城県内には、被告(社団法人茨城県不動産鑑定士協会:引用者注。以下同じ)に代わる不動産鑑定業者の組織が他になく、被告に対する公的機関からの信用力が高いため、依頼者である公的機関は、事実上、被告の会員である不動産鑑定業者に鑑定依頼する傾向にあり、具体的には、被告は、茨城県との間で、短期地価動向調査の鑑定評価の業務委託契約をしてその鑑定評価業務を各会員に割り当てている外、平成10年度の相続税路線価の標準地評価の鑑定及び平成12年度の固定資産税の課税標準を定めるための地価調査のための鑑定についても、茨城県内の税務署は、ほとんど被告の会員に委託をしているのであるから、以上の状況の下では、茨城県内に事務所を持つ不動産鑑定業者が被告に入会しないで不動産鑑定業務を行うことは実際には困難であるといわざるを得ない。」(判タ1116号279頁)

 と認定している。上記認定に係る不動産鑑定評価業界における実態は、埼玉県における実態と異なるところがない。

 (10) 被上告人への加入は実質的には強制加入であること

 埼玉県の不動産鑑定評価業務に関しても、原原審であるさいたま地方裁判所が、判決において、

 「結果的に鑑定評価員における被告(被上告人:引用者注。以下同じ)会員の占める割合が相当高くなっているとの現実に照らすと、被告に入会していないことにより信用に差が生じ、相対的に仕事が受注しにくい状況にあり、そのような意味において、被告に加入しなければ事業活動を行うことが困難となる状況にあるものと認めることができる。」(同判決45頁)

 と認定しているとおりの実態を有している。

 このように、被上告人の会員として被上告人に加入しなければ、埼玉県における不動産鑑定士として不動産鑑定評価業務に携り、それを稼業とすることはできず、被上告人への加入は、形式的には任意加入ではないものの、不動産鑑定士として業務を遂行する上では不可欠であり、強制加入としての実質を有する。

 5 上記の観点に立って本件各入会拒否理由を検討すると、まず第一に、被上告人が被上告人の健全な運営を害する虞があるとする上告人山口の言動は、主に、他地域における被上告人と同様の事業者団体が行っている不動産鑑定業務の独占行為に対する疑いに基づくものであり、被上告人が信条として保持する不動産鑑定業務における自由競争原理の観点からこれを批判していると認められる意思表明であり、これらは上告人山口の思想、信条に関係のある事実であることは明らかであるから、これらの言動を理由に入会拒否はできないものと解せられる。

 すなわち、人の思想・信条は身体と同様、本来自由であるべきものであり、その自由は憲法19条の保障するところであるから、本件のように、一定の事業活動について事実上独占状態にあり、その状態は、法的服従関係に準ずるような場合、優越した地位にある一方が他方に対しその意に反してみだりにこれを侵してはならないことは明白であり、人が信条において差別されないことは憲法14条の定めるところであるが、本件のように専門職業者の事業者団体においては、特定の経済思想、信条を有する者を会員にしたとしても、その思想・信条のゆえに事業の遂行に支障をきたすとは考えられないから、こうした思想・信条のゆえに不利益を課すことは許されない。

 この趣旨は、法人が強制加入の団体である場合には、会員の思想・信条の自由との関係で特別の考慮が必要であり、会員が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断に基づいて決定すべき事柄について、多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動すべき協力義務を負わすことには限界があるとする最高裁判所判例においても明確に表明されている(最高裁判所第三小法廷平成8年3月19日民集50巻3号615頁)。

 6 また、上告人らによる一連の訴訟提起や選挙公報等での言論活動は、不動産鑑定評価業界において、市町村等との間で被上告人が業務委託契約を締結したり、あるいは税務署長と社団法人日本不動産鑑定協会との間で業務委託契約が締結したりする等、自由競争が排除又は妨害され、ひいては公的機関を始めとする顧客が損害を蒙っている現状を改善するため、上告人らが自己の経済的思想を外部に表現したものであり、その経済的思想は、顧客が不動産鑑定士を自由に選別し、また、価格の面においても利益を受けることができるという自由競争に基づくものであって、規制緩和が叫ばれる昨今の経済の流れにまさしく合致する正当なものである。このように、自由主義を掲げる経済的思想は、埼玉県内の不動産鑑定業界のみならず日本全国における不動産鑑定業界、ひいては、不動産鑑定以外の資格に基づく事業に繋がるものであるし、さらにいえば、資格に基づかない事業一般の制度改革という政治思想に通ずるものである。このように、上告人らの表現行為は、上告人らの人格発展のみならず(自己実現)、民主制の過程を基礎付けそれを維持するためのものであり(自己統治)、それを行ったことが被上告人の健全な運営を乱すなどとして入会を拒否することは、憲法21条が保障する上告人らの表現の自由を侵害する行為として到底許されるものではない。さらに、上告人らのこのような思想は、既存の規制によって恩恵を被る不動産鑑定士が多く存在するであろう現在における不動産鑑定評価業界においては、少数派に過ぎないと思われる。本件各入会拒否は、少数派に属する上告人らの思想を弾圧し、蔑ろにするという意味においても、極めて重大な表現の自由の侵害行為にあたるのである。

 また、上告人らは、訴訟を通じてその思想を表現しているのであって、訴訟を起こしたが故に、被上告人の健全な運営を乱すとして入会を拒否することは、憲法32条が保障する上告人らの裁判を受ける権利の侵害そのものである

 7 また、本件各入会拒否は、憲法22条の定める職業選択の自由ないし同条の保障内容に含まれるものと解せられる営業の自由という点からも、憲法上許されないものである。すなわち、前述したように、埼玉県内の不動産鑑定士による被上告人への加入は、形式的には任意加入であるものの、不動産鑑定士としての業務を遂行する上で加入は不可欠であり、強制加入としての実質を有するものである。そうだとすれば、被上告人への入会を原則として認めることこそが、上告人らが不動産鑑定士としての業務を遂行し、その営業の自由が機能するために、最低限必要とされる(必要性)。

 他方で、被上告人への加入以前に上告人らは不動産鑑定士としての適性・知識等が国家試験によって十分に審査されているのであるから、原則として入会を認めたとしても、不動産鑑定士の業務に関連して被上告人の信用を毀損する危険性は極めて小さいものと考えられる(許容性)。

8 したがって、社団法人日本不動産鑑定協会及びその地域会は、不動産鑑定士の入会を原則として認められなければならず、当該不動産鑑定士の営業の自由を侵害することになる事前の入会拒否は、極めて消極的・例外的でなければならない。

 例外的に事前の入会拒否が認められるのは、不動産鑑定士や鑑定業者の登録欠格基準である「相当な注意を怠り、又は故意に不等な鑑定を行った者」など、当該会員の不動産鑑定士としての業務に関連して、過去に不祥事を惹起し、又は将来そのおそれの大きい者の入会を拒否するとしても、当該会員が不動産鑑定士としての業務を行うことによって、顧客が損害を蒙り、ひいては当会の信用が失墜するおそれも大きいと認められるなど、入会を拒否するための必要性及び合理性が認められなければならない。

 これに対し、当会の綱紀を保持するという目的を達成するために事前に入会を拒否する等、不動産鑑定士の業務に関わりのない事由によって入会を拒否する場合、入会を求めた不動産鑑定士の営業の自由を侵害することのないよう、より一層の慎重さ、消極性が求められる。すなわち、このような綱紀保持目的のために当該入会拒否が認められるためには、業務に関連した登録欠格基準に照らして、入会を拒否する必要性及び合理性を充たすことに加え、当会による事後的な諸対応等、よりゆるやかな対応をもってその綱紀保持の目的を十分に達成することができない、という事情を要するものである(薬局事件に関する最判昭和50年4月30日 判時777号8頁参照)。けだし、綱紀保持の目的は、不動産鑑定士としての業務との関連性に乏しく、これによって顧客が損害を蒙り、又は当会の信用が失墜することはない反面、当該不動産鑑定士の営業の自由を侵害するおそれが極めて高いからである。万一、当該会員の入会により、当会の信用を毀損したり綱紀を乱したりすることによって、その運営や所属する他の不動産鑑定士の業務遂行に不利益を及ぼすようなおそれがあるのであれば、当該会員の入会後に、事後的に当該会員に対し、適切な処分・措置を講じることによって予防又は回復すれば足りるからである。

9 本件では、上告人山口は、平成2年2月、不動産の鑑定評価に関する法律(平成11年法律160号による改正前のもの。)15条に基づき、不動産鑑定士名簿に登録を受け、同年5月、自ら代表者として有限会社日本経済研究所(組織変更前の上告人会社)を設立し、同社は、鑑定法22条1項に基づき、不動産鑑定業者登録簿に登録を受けた。そして、上告人会社は、平成3年6月から同11年9月までの間、東京都内に所在し、東京都の不動産鑑定業者登録簿に登録を受け、社団法人東京都不動産鑑定士協会(以下、「都士協会」という。)の会員となっていた。

 このように、上告人らは、平成3年6月から同11年9月までの間、東京都内において不動産鑑定士として稼動していたのであり、その間、不動産鑑定士業務に関連して、相当な注意を怠ったり、又は故意に不等な鑑定を行ったりするなど、不動産鑑定士や鑑定業者の登録欠格基準に該当するような業務を行ったことは一切ない。

 しかも、上告人らは、第1入会拒否の直後である平成12年4月から同13年1月までの間、都士協会は、上告人らが会員となることを認め、その会員として不動産鑑定業務を行っていたのである。まさに、被上告人の入会拒否にその必要性及び合理性がないことを表している。

 そして、被上告人は、上告人山口が、社団法人日本不動産鑑定協会や都士協会に対し、具体的根拠もないのに、談合している等として訴訟を提起し、不動に同協会らの業務に支障を生じさせ、その信用を貶めたこと、及び不適切ともとられかねない文章を選挙公報やホームページに公然と掲載したこと等をもって、上告人らの入会により、被上告人に対する社会一般の信頼・信用が低下し、被上告人や会員の名誉が害され、被上告人内部に混乱をきたし、被上告人の円滑な業務の執行に支障をきたすおそれが高いと判断し、入会を拒否したとするが、これらはいずれも、被上告人以外の社団法人日本不動産鑑定協会の地域会などの事業者団体に関わる言動であるとともに、当該事業者団体において綱紀上の措置の対象とされていなかったものであり、この点でも、被上告人の入会拒否にその必要性及び合理性がなかったことは明白である。

 10 なお、上告人山口は、平成11年6月4日付で、国土庁、国土庁土地鑑定委員会、社団法人日本不動産鑑定協会、都士協会、茨城県士協会及び公正取引委員会に対し、文書を配布しているが、その文書において、

「私儀、山口節生は、これまで平成11年度の固定資産税の標準地評価などについて公正取引委員会に相談したり申告しましたが、正しかった部分もあり、正しくなかった部分もあったと考えます。正しくなかった部分についてはお詫びいたします。

(中略)

以上の事に関して今までやってきたような裁判所や、公正取引委員会に関わるような行動派猛烈に反省しております。これまでの裁判や、公正取引委員会に関わる事によって公正取引委員会や、裁判所や、各業者団体に迷惑をかけたことについては寛大なこころでご容赦願いたい。今後は同じ独立した不動産鑑定業の業者同士として出来るだけ配分以外でも温和にことが進み、配分に関しては対立がないように業者の内部で努力に努力を重ね、今後は外部に対して裁判をしたり、公正取引委員会と関係するような常識のない行動を慎み、迷惑をかけないように努力いたします。」

 と自らの非を認め、今後は、温和に行動することを誓っているのである。

 このような重大な決意をした上告人らに対しては、被上告人への入会を認めた上で、万一、被上告人の健全な運営を乱すようなことがあれば、事後的にその時点において、協議、指導又は勧告等、適切な処置を講じれば足りるのである。

被上告人の入会拒否には、事後的に適切な対応をするなど、よりゆるやかな対応をもってその綱紀保持の目的を十分に達成することができたのである。

 以上により、被上告人による上告人らの本件各入会拒否には、事前の入会拒否を認める必要性及び合理性は認められず、かつ、事後的に適切な対応をするなど綱紀保持の目的を達成することができないなどの事情は存せず、上告人らの営業の自由を侵害する違憲・違法がある。のみならず、本件各入会拒否は、上告人らの表現の自由及び裁判を受ける権利を侵害する違憲・違法がある。

 11 被上告人がした本件入会拒否は、憲法19条及び14条、憲法22条並びに32条の規定ないしその保障内容に反し違憲であり、違憲な入会拒否を適法とした原判決には憲法違反がある。原判決は、破棄を免れない。

以上

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(5)

平成17年5月9日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

第一の入会拒否と、第二の入会モラトリアムとの関係(個人業者と、法人事業者とその代表者)及び既判力及び基本的人権の法令適用の誤り、違憲性

 上告人(債権者)会社は被上告人(債務者)の違法な行為により大きな会社になれなかったが、それがなければ大きな会社になっていたのであるから、それ故に個人業者と、自然人との同一性、会社と自然人の同一性があるとはいえない。事業者団体との関係においては事業を行っているのか、個人の趣味とかの問題であるかの違いであり、後者はサロンの様な団体であり、被上告人(債務者)の中にもそのような団体はあるが本件で問題としているのは、事業者としての上告人(債権者)である。

 第一の入会拒否が無効確認訴訟によるしか訴訟の対抗手段がなかった故に、敗訴したことを理由とする第二の会社に対する入会のモラトリアムは、第二の入会申し込みのすぐ後に差止の法制度が整備されたために、無効確認訴訟でなく差止訴訟に変更されることになった。このために手続法の変更は変更前から続いている継続中の違反を裁けるかという問題を発生させた。日本では画期的な差止訴訟が提起されることとなった。差止は現行犯に対してしか適用がないからである。

代表者個人の信条を理由とする、会社に対する独占禁止法上の共同ボイコットは可能であるか。

確認訴訟であったために、モラトリアムについては確認訴訟を起こす法的理由がなかった。そのために継続中の違反であるにもかかわらず、モラトリアムは法的対抗手段を持たなかった。一方差止は給付訴訟であるので、継続中の違反が継続している間、いつにても請求できた。

 但し、第一の無効確認についてはすでに個人の事業所はなく、第二の入会のモラトリアムに対してだけ現在も継続している株式会社の事業者であるので、差止が出き、第一の入会拒否には差止が出来ないかについて法令適用の誤りがある。原審は無効確認訴訟を既判力として認定して、差止給付訴訟については手続保障を行っていない。

 第二の入会拒否が第一を理由としているから出来ると考えられる。確かに当時株式会社日本経済研究所は個人の事業者とともに存在していたのであるが、不動産鑑定業を行っていなかった。個人の事業者が鑑定評価を行っていた。しかし同時に併存していた。

その場合代表者個人の信条によって入会拒否が出来るか。

既判力の法令適用の誤りと違憲性

 既判力は存在せず、差止なければ損害なしという被上告人(債務者)らの主張する公正取引委員会時代の考え方によれば、損害額は全額第一入会拒否の時から認められるべきである。

無効確認訴訟においては入会拒否が存在しないのであるから、何を無効とするのかという問題が生ずる。従って共同ボイコットが差し止められなければ、無効であるというだけでは損害額の認定が出来なかったのであるから、既判力は無効確認の実体が認定されなかったのであるから、当然に損害額については一部訴訟であるかどうかにかかわりなく、全額認められるべきである。

「既判力というのは、もはや紛争を蒸し返せない効力でしたよね。そして、紛争解決という点を強調すれば、既判力はもはや一切蒸し返すことができない効力という方向へ行くと思います。どんな事情があろうとも、あらためて争うことはできないことになるでしょう。

 ところが、手続保障という点を強調すると、なんらかの事情によって訴訟で十分に主張する機会が与えられなかった場合には、許容性が存在しないわけですから、既判力の正当化根拠が失われます。したがって、あらためて争う機会を与えるべきという方向へ行くでしょう。

 このような形で、既判力の制度的効力という側面と、手続保障による自己責任という側面のいずれを重視するのかが問題となってくるわけです。

両者の対立点

 ただ、制度的効力という面を強調するとしても、手続保障が正当化根拠である以上、まったく手続保障という面を無視することはできないでしょう。つまり、ごく例外的な場合には、あらためて争う余地を認めざるをえないのです。この例外的な場合を、どの程度広く考えるか、それともごくごく狭く考えるか、の対立といってもよいでしょう。」

本件の場合には、無効確認訴訟は差止請求が認められていなかった時代の訴訟であった。

ところが平成13年4月より、差止請求が認められたのであるから、なんらかの事情によって訴訟で十分に主張する機会が与えられなかった場合に該当する。差止は継続中の損害について差し止めるのであるが、確認訴訟は過去の行為の無効の確認のみが行われる。全く別の訴訟である。

「手続保障という点を強調すると、なんらかの事情によって訴訟で十分に主張する機会が与えられなかった場合には、許容性が存在しないわけですから、既判力の正当化根拠が失われます。したがって、あらためて争う機会を与えるべき」であり、「手続保障が正当化根拠である以上、まったく手続保障という面を無視することはできない」のであって、それ以前のさいたま地方裁判所における無効確認訴訟の結果、被上告人(債務者)の会員の地位は存在しないという判決を既判力として認めて、それを前提とした原審判決、及び、原原審判決は認められないといいうる。この点で法令解釈の誤りがあり、原審判決は破棄されるべきである。

また手続保障は憲法の要請するところであり、差止について無効確認という過去の制度に依拠した判決は法令の適用を誤り、憲法の手続保障規定にも違反するものと考えられる。これは憲法の裁判を受ける権利の保障の規定に違反する。アメリカでは正当な手続規定に違反することになる。

確かに本件においては手続規定が差止という新しい給付訴訟として認められたのであり、それまで同一の事実について無効確認訴訟での判決が本人訴訟であって、不十分ではあっても、存在したからといって、差止の給付訴訟がその無効確認訴訟の結果に既判力によって拘束されるとする原審及び原原審判決は憲法の裁判を受ける権利に違反して、違憲であり、破棄されるべきである。

既判力は手続保障が正当化根拠である以上、まったく手続保障という面を無視することはできない。既判力の解釈としては法令適用の誤りである。

本件の場合には無効確認訴訟でも再審を要求している訳ではなく、法制度が変更されたのであるから、手続法の変更によって可能になったので既判力はないといわざるをえない。(手続法の変更は、以前の実体にたいに対しての法手続を可能にする。)本件訴訟では無効確認訴訟と差止給付請求訴訟は似通っているから、既判力があると見えるだけであり、実体法上は全く別のものである。従って継続中の違反であり、現在も続いている場合には、手続法は改正前にまで及ぶといいうる。従って無効確認訴訟を既判力として認めている原審判決は法令の適用の誤りと、憲法32条違反の両方を侵していることになる。憲法32条が保障する上告人らの裁判を受ける権利の侵害そのものである。

その手続法の変更を無視して、既判力を持ち出すことは許されない。差し止めなければ損害なしと、丹宗昭信、伊従寛、厚谷譲二等の学者は言っており、そのテープもあり、特に伊従寛氏は「かっては批判する様な者は、礼をしに来なかった者は入れないという様な入会の拒否は、どのようなものでも無効確認訴訟では負けるに決まっていたので、入れなくて良かった。本件事件はそのような事件である。」と述べている。これでは本当にそれが理由でなくてもそのような理由を裁判所では言うに決まっているのであって、それは好き嫌いで入会拒否はどのようにでも出来るということである。これは非常におかしな理屈である。さてそれでも無効確認訴訟でしか対抗のしようがなかったので、どうしようもなかったのであり、公正取引委員会もそのような対応をしてきたのである。「親族法も一新し、家庭裁判所の創設をみ、法制全体の建前が改まつた今日、旧人事訴訟手続法の支配した時代の考え方をここに持ち込むことの妥当でない」のと同様に差し止め請求権の存在しなかった時代の考え方をここに持ち込むことは行政の最終決定を判決として引用することになり、違憲であるといわざるをえない。

ところがここに劇的な手続法の変更が行われた。差止制度の導入であった。従って実体法ではなくて、手続法の導入であるから、憲法における裁判を受ける権利によって再審が認められる様に、つまり既判力はないということになり法令違反及び憲法違反がある。

「判例 S40.06.30 大法廷・決定 昭和37(ク)243 生活費請求事件の審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告(第19巻4号1114頁)

要するに、多数意見は、婚姻費用の分担に関する審判と、その前提になる婚姻費用負担義務そのもの(補足意見にいう婚姻費用負担義務自体)とを区別して考えているが、この考え方がそもそも問題なのである。夫婦関係の存続を前提とする限り、婚姻費用負担義務そのものの存在は、法律の明定するところで、その義務の具体的内容は、すべて、家庭裁判所の審判による裁量的形成処分にまつべきであるというのが、現行法の建前とするどころであると、私は考える。そして、この審判に、判決のような既判力を生ずるものでないことはいうまでもない。また、親族法も一新し、家庭裁判所の創設をみ、法制全体の建前が改まつた今日、旧人事訴訟手続法の支配した時代の考え方をここに持ち込むことの妥当でないことは、松田裁判官の意見に明らかにされているとおりである。二 右のような私の考え方は、憲法八二条、三二条に牴触するであろうか。私は、右のような審判制度を設けたからといつて、決して憲法に牴触するものではないと考える。」

「右被上告人らが行政訴訟の方法により何らかの請求をすることができるかどうかはともかくとして、上告人に対し、いわゆる通常の民事上の請求として前記のような私法上の給付請求権を有するとの主張の成立すべきいわれはないというほかはない。

 以上のとおりであるから、前記被上告人らの本件訴えのうち、いわゆる狭義の民事訴訟の手続により一定の時間帯につき本件空港を航空機の離着陸に使用させることの差止めを求める請求にかかる部分は、不適法というべきである。そうすると、右請求を適法とした原判決は訴訟の適法要件に関する法令の解釈を誤つたものであつて、右違法が判決に影響を及ぼすものであることは明らかであるから、論旨は理由があり、その余の論旨について判断するまでもなく、原判決中右請求に関する部分は破棄を免れず、第一審判決中右請求に関する部分はこれを取り消したうえ本訴請求中右請求にかかる訴えを却下すべきである。」

これは反対解釈すれば差止請求権が創設されたのであるから、差止請求の理由があるという判断であるが、法制度が改正された場合には言及していない。即ちそのような差止請求権が創設され、その共同ボイコットが継続している場合に過去の事件に及ぶかの判断については類推適用により可能であるのに、判断しなかった原審判断には法令の解釈を誤つたものであつて、右違法が判決に影響を及ぼすものであることは明らかである。

「判例 S40.06.30 大法廷・決定 昭和36(ク)419 夫婦同居申立事件の審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告(第19巻4号1089頁)

民法は同居の時期、場所、態様について一定の基準を規定していないのであるから、家庭裁判所が後見的立場から、合目的の見地に立つて、裁量権を行使してその具体的内容を形成することが必要であり、かかる裁判こそは、本質的に非訟事件の裁判であつて、公開の法廷における対審及び判決によつて為すことを要しないものであるからである。すなわち、家事審判法による審判は形成的効力を有し、また、これに基づき給付を命じた場合には、執行力ある債務名義と同一の効力を有するものであることは同法一五条の明定するところであるが、同法二五条三項の調停に代わる審判が確定した場合には、これに確定判決と同一の効力を認めているところより考察するときは、その他の審判については確定判決と同一の効力を認めない立法の趣旨と解せられる。然りとすれば、審判確定後は、審判の形成的効力については争いえないところであるが、その前提たる同居義務等自体については公開の法廷における対審及び判決を求める途が閉ざされているわけではない。従つて、同法の審判に関する規定は何ら憲法八二条、三二条に牴触するものとはいい難く、また、これに従つて為した原決定にも違憲の廉はない。それ故、違憲を主張する論旨は理由がなく、その余の論旨は原決定の違憲を主張するものではないから、特別抗告の理由にあたらない。

 よつて民訴法八九条を適用し、主文のとおり決定する。

 この裁判は、裁判官横田喜三郎、同入江俊郎、同奥野健一の補足意見、裁判官山田作之助、同横田正俊、同草鹿浅之介、同柏原語六、同田中二郎、同松田二郎、同岩田誠の意見があるほか、裁判官全員の一致した意見によるものである。

 裁判官横田喜三郎、同入江俊郎、同奥野健一の補足意見は次のとおりである。

 旧民法(昭和二二年法律二二二号による改正前の民法)土の夫婦の同居を目的とする訴は旧人事訴訟手続法(家事審判法施行法による改正前のもの)一条一項により、人事訴訟事件として地方裁判所に訴を提起すべく、裁判所は対審(口頭弁論)、公開の手続により、判決の形で裁判をなすべきものとされていた。現行民法七五二条の夫婦の同居の義務も旧民法のそれと本質的に異るものではない。即ち、夫婦の同居の義務は多分に倫理的、道義的な要素を含むとはいえ、法律上の実体的義務であつて、これが存否につき争があり、これを終局的に確定するには公開の法廷における対審及び判決によつて裁判すべきものである。とくに現行憲法は、個人の尊重とその権利の保障を一つの根本精神とし、そのために、何人も裁判を受ける権利を奪われないこと(三二条)、すべて司法権は司法裁判所に属し、特別裁判所の設置を許さないこと(七六条)、裁判の対審と判決は公開法廷で行なうこと(八二条)を定めている。さらに、この精神にそつて、現行の訴訟法は対審公開の原則の下に、当事者が攻撃防禦を尽くし、厳格な証拠調を経た上で判決することとしている。これによつてはじめて真実が発見され、個人の権利が真に適正に保障されるからにほかならない。したがつて、いやしくも法律上の実体的権利義務の存否について争いがあれば、これを終局的に確定するには、司法裁判所において公開の法廷で対審の下に厳格な証拠調を経た上で判決することを要するのであり、そうでなければ、現行憲法の根本精神を無にするものといわなければならない。

 然るところ、家事審判法九条一項乙類は、夫婦の同居その他夫婦間の協力扶助に関する事件を審判事項として非訟事件手続法に準ずる手続により非公開の手続で審理し、決定の形式を以て裁判すべきものと規定している。しかし、同条項にいう「夫婦の同居に関する処分」とは、夫婦の同居義務の存否を終局的に確定する趣旨のものではなく、夫婦の同居義務の存することを前提として、その同居の具体的な態様、場所、時期等に関する処分であると解すべきである。けだし、民法は同居の具体的な態様、場所、時期等について一定の基準を規定していないのであるから、家庭裁判所がこれらの点について、裁量権により具体的にこれを形成する必要があり、かかる裁判は本質的に非訟事件の裁判であつて、公開の法廷における対審及び判決によることを要しないものであるからである。即ち、家事審判による処分には形成力は生じるが、その前提要件についての既判力はないと解する。この関係は、仮処分を命ずるには、一応本案の請求権の存することを前提として、仮処分の裁判をなすのであるが、その裁判が確定してもその基礎である請求権の存在は、本案の訴訟で確定されるものであるのと類似していると考える。若しこれに反し家事審判において、かかる形成的な処分の外に、基本たる同居の義務の存否までも終局的に確定するものとすれば、国民の裁判を受ける権利の剥奪となり憲法三二条、八二条に違反するものと言わざるを得ない。けだし、訴訟事件とするか非訟事件とするかは、単なる立法上の便宜の問題ではなく、実体的権利義務の存否の確定は飽くまで訴訟手続によるべきもので、これを回避するため非訟事件手続とすることは、前記憲法の規定上許されないところであるからである。(戦時民事特別法を想起すべきである。昭和三五年七月六日当裁判所大法廷決定(昭和二六年(ク)第一〇九号、民集第一四巻第九号一六五七頁)は戦時民事特別法一九条二項に関して、「若し性質上純然たる訴訟事件につき、当事者の意思いかんに拘らず終局的に、事実を確定し当事者の主張する権利義務の存否を確定するような裁判が、憲法所定の例外の場合を除き、公開の法廷における対審及び判決によつてなされないとするならば、それは憲法八二条に違反すると共に、同三二条が基本的人権として裁判請求権を認めた趣旨をも没却するものといわねばならない。」と判示している。)」

「判例 S31.10.31 大法廷・決定 昭和24(ク)52 家屋明渡調停事件の決定に対する再抗告につきなした決定に対する抗告(第10巻10号1355頁)判示事項:

  調停に代わる裁判の合憲性。

多数意見のように、本件決定は裁判所という機関でなされた一種の裁判であるから、憲法三二条に違反しないというならば、同条の保障は単に裁判所(最高裁判所のほかは立法で自由に定められる)でなされればよいという全く形式的なものになり、単にこれだけの保障なら、すべて司法権は裁判所に属するという憲法七六条だけで十分なはずである。また実体法的に厳正に法律を適用しなくともよい、訴訟手続において前記諸原則に従わなくともよいというのでは、法律をもつてしても裁判所の裁判を受ける権利を奪うことはできないとしている折角の憲法の保障は、実質的に内容がほとんど空疎なものになつてしまう。要するに、三権分立、司法権、法律上の争訟、法治国というふうに考えをめぐらしただけでも、憲法三二条の裁判を受ける権利の保障は、実質的な内容をもつべきものであることを理解するに足ると思う。

 しかるに、前記「調停に代わる裁判」は、実体法の面からいつても、訴訟手続の面からいつても、法律の厳正な適用による裁判ではなく、裁判所が職権により多分に主観的・便宜主義的・行政的に独裁するものたるに過ぎない。これは本質において憲法三二条にいわゆる裁判すなわち真の裁判ではなく、裁判という名を冒称する擬装の裁判であると言わなければならぬ。しかもかかる擬装の裁判の確定したときに、裁判上の和解と同一の効力、したがつて確定判決と同一の効力(金銭債務臨時調停法一〇条、民訴二〇三条)を認めるこの制度は、憲法三二条にいわゆる裁判所の裁判を受ける権利を奪うことになるものであつて、違憲な立法であると断ぜざるをえない。したがつてこれを適用しまたは、その適用を是認した原決定等は違憲である。それ故論旨は理由があり、本件名古屋高等裁判所の原決定、名古屋地方裁判所の抗告決定、中川簡易裁判所の調停に代わる決定は、何れも破棄するを相当とする。(その余の論旨については判断を略する)」

以上の判決からみれば、無効確認訴訟であった第一の入会拒否に対する判決が、入会拒否に対する当時の絶対に無効にはならないという前提の下でなされたものであって、実際にも入会拒否が無効確認された事例はないのであり、「手続保障という点を強調すると、なんらかの事情によって訴訟で十分に主張する機会が与えられなかった場合には、許容性が存在しないわけですから、既判力の正当化根拠が失われます。したがって、あらためて争う機会を与えるべき」であり、「手続保障が正当化根拠である以上、まったく手続保障という面を無視することはできない」のであって原審判決は憲法三二条にいわゆる裁判所の裁判を受ける権利を奪うことになるものであつて、違憲であるといいうる。従って既判力の判断には誤りがある。

第二、法人としての株式会社日本経済研究所と代表者個人の関係

次の最高裁判所の判例に違反する。

「憲法三章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものであるから、会社は、公共の福祉に反しないかぎり」、憲法三章に定める国民の権利および義務の各条項の保護を受けるものであるとするのに対して、本件事件においては一顧だにしていない。

従って違憲であり、上告理由となる。

但し、無効確認訴訟による個人とは、法人は異なっており、両者は併合して審理されるべきではなく、被上告人(債務者)が代表取締役の信条をもって差別し、経済的な営業の権利を脅かしていることについては、違憲であるといわざるをえない。

被上告人(債務者)が個人の無効確認訴訟においての判決をもって、法人に当てはめてすでに既判力があるかのように錯覚しているのは、法令の適用の誤りである。

法人と、個人とは違っており、個人は死亡と同時に法的能力がなくなるが、法人は代表者個人とは違い、永久に生き延びるのであって、その両者は異なっているのである。

被上告人(債務者)が故意に個人での事業者と、法人での事業者とについて、個人での事業者の行為をもって法人での事業者の行為としているのは故意であり、その入会のモラトリアムは違法性が強く、単独で株式会社日本経済研究所の法人のみでの訴訟も可能であると考えられる。

個人業者と法人とは同時に併存していたのである。

以上の通りに、個人業者と、法人業者とを混同している原審判決には法令適用の誤りがある。

「八幡製鉄事件最高裁判所判決(最大判昭和45年6月24日民集24巻6号625頁)

最 高 裁 判 所 判 例 集 判 決 全 文 表 示

◆ S45.06.24 大法廷・判決 昭和41(オ)444 取締役の責任追及請求

判例 S45.06.24 大法廷・判決 昭和41(オ)444 取締役の責任追及請求(第24巻6号625頁)

判示事項:

  一、政治資金の寄附と会社の権利能力

二、会社の政党に対する政治資金の寄附の自由と憲法三章

三、商法二五四条ノ二の趣旨

四、取締役が会社を代表して政治資金を寄附する場合と取締役の忠実義務

要旨:

  一、会社による政治資金の寄附は、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためになされたものと認められるかぎり、会社の権利能力の範囲に属する行為である。

二、憲法三章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものであるから、会社は、公共の福祉に反しないかぎり、政治的行為の自由の一環として、政党に対する政治資金の寄附の自由を有する。

三、商法二五四条ノ二の規定は、同法二五四条三項、民法六四四条に定める善管義務をふえんし、かつ、一層明確にしたにとどまり、通常の委任関係に伴う善管義務とは別個の、高度な義務を規定したものではない。

四、取締役が会社を代表して政治資金を寄附することは、その会社の規模、経営実績その他社会的経済的地位および寄附の相手方など諸般の事情を考慮して、合理的な範囲内においてなされるかぎり、取締役の忠実義務に違反するものではない。

参照・法条:

  民法43条,民法644条,商法166条1項1号,商法254条ノ2,商法254条3項,憲法3章

内容:

 件名  取締役の責任追及請求 (最高裁判所 昭和41(オ)444 大法廷・判決 棄却)

 原審  S41.01.31 東京高等裁判所

主    文

     本件上告を棄却する。

     上告費用は上告人の負担とする。

理    由

 上告代理人有賀正明、同吉田元、同長岡邦の上告理由第二点ならびに上告人の上告理由第一および第二について。

 原審の確定した事実によれば、訴外八幡製鉄株式会社は、その定款において、「鉄鋼の製造および販売ならびにこれに附帯する事業」を目的として定める会社であるが、同会社の代表取締役であつた被上告人両名は、昭和三五年三月一四日、同会社を代表して、自由民主党に政治資金三五〇万円を寄附したものであるというにあるところ、論旨は、要するに、右寄附が同会社の定款に定められた目的の範囲外の行為であるから、同会社は、右のような寄附をする権利能力を有しない、というのである。

 会社は定款に定められた目的の範囲内において権利能力を有するわけであるが、目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行するうえに直接または間接に必要な行為であれば、すべてこれに包含されるものと解するのを相当とする。そして必要なりや否やは、当該行為が目的遂行上現実に必要であつたかどうかをもつてこれを決すべきではなく、行為の客観的な性質に即し、抽象的に判断されなければならないのである(最高裁昭和二四年(オ)第六四号・同二七年二月一五日第二小法廷判決・民集六巻二号七七頁、同二七年(オ)第一〇七五号・同三〇年一一月二九日第三小法廷判決・民集九巻一二号一八八六頁参照)。

 ところで、会社は、一定の営利事業を営むことを本来の目的とするものであるから、会社の活動の重点が、定款所定の目的を遂行するうえに直接必要な行為に存することはいうまでもないところである。しかし、会社は、他面において、自然人とひとしく、国家、地方公共団体、地域社会その他(以下社会等という。)の構成単位たる社会的実在なのであるから、それとしての社会的作用を負担せざるを得ないのであつて、ある行為が一見定款所定の目的とかかわりがないものであるとしても、会社に、社会通念上、期待ないし要請されるものであるかぎり、その期待ないし要請にこたえることは、会社の当然になしうるところであるといわなければならない。そしてまた、会社にとつても、一般に、かかる社会的作用に属する活動をすることは、無益無用のことではなく、企業体としての円滑な発展を図るうえに相当の価値と効果を認めることもできるのであるから、その意味において、これらの行為もまた、間接ではあつても、目的遂行のうえに必要なものであるとするを妨げない。災害救援資金の寄附、地域社会への財産上の奉仕、各種福祉事業への資金面での協力などはまさにその適例であろう。会社が、その社会的役割を果たすために相当を程度のかかる出捐をすることは、社会通念上、会社としてむしろ当然のことに属するわけであるから、毫も、株主その他の会社の構成員の予測に反するものではなく、したがつて、これらの行為が会社の権利能力の範囲内にあると解しても、なんら株主等の利益を害するおそれはないのである。

 以上の理は、会社が政党に政治資金を寄附する場合においても同様である。憲法は政党について規定するところがなく、これに特別の地位を与えてはいないのであるが、憲法の定める議会制民主主義は政党を無視しては到底その円滑な運用を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定しているものというべきであり、政党は議会制民主主義を支える不可欠の要素なのである。そして同時に、政党は国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから、政党のあり方いかんは、国民としての重大な関心事でなければならない。したがつて、その健全な発展に協力することは、会社に対しても、社会的実在としての当然の行為として期待されるところであり、協力の一態様として政治資金の寄附についても例外ではないのである。論旨のいうごとく、会社の構成員が政治的信条を同じくするものでないとしても、会社による政治資金の寄附が、特定の構成員の利益を図りまたその政治的志向を満足させるためでなく、社会の一構成単位たる立場にある会社に対し期待ないし要請されるかぎりにおいてなされるものである以上、会社にそのような政治資金の寄附をする能力がないとはいえないのである。上告人のその余の論旨は、すべて独自の見解というほかなく、採用することができない。要するに、会社による政治資金の寄附は、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためになされたものと認められるかぎりにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為であるとするに妨げないのである。

 原判決は、右と見解を異にする点もあるが、本件政治資金の寄附が八幡製鉄株式会社の定款の目的の範囲内の行為であるとした判断は、結局、相当であつて、原判決に所論の違法はなく、論旨は、採用することができない。

 上告代理人有賀正明、同吉田元、同長岡邦の上告理由第一点および上告人の上告理由第四について。

 論旨は、要するに、株式会社の政治資金の寄附が、自然人である国民にのみ参政権を認めた憲法に反し、したがつて、民法九〇条に反する行為であるという。

 憲法上の選挙権その他のいわゆる参政権が自然人たる国民にのみ認められたものであることは、所論のとおりである。しかし、会社が、納税の義務を有し自然人たる国民とひとしく国税等の負担に任ずるものである以上、納税者たる立場において、国や地方公共団体の施策に対し、意見の表明その他の行動に出たとしても、これを禁圧すべき理由はない。のみならず、憲法第三章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものと解すべきであるから、会社は、自然人たる国民と同様、国や政党の特定の政策を支持、推進しまたは反対するなどの政治的行為をなす自由を有するのである。政治資金の寄附もまさにその自由の一環であり、会社によつてそれがなされた場合、政治の動向に影響を与えることがあつたとしても、これを自然人たる国民による寄附と別異に扱うべき憲法上の要請があるものではない。論旨は、会社が政党に寄附をすることは国民の参政権の侵犯であるとするのであるが、政党への寄附は、事の性質上、国民個々の選挙権その他の参政権の行使そのものに直接影響を及ぼすものではないばかりでなく、政党の資金の一部が選挙人の買収にあてられることがあるにしても、それはたまたま生ずる病理的現象に過ぎず、しかも、かかる非違行為を抑制するための制度は厳として存在するのであつて、いずれにしても政治資金の寄附が、選挙権の自由なる行使を直接に侵害するものとはなしがたい。会社が政治資金寄附の自由を有することは既に説示したとおりであり、それが国民の政治意思の形成に作用することがあつても、あながち異とするには足りないのである。所論は大企業による巨額の寄附は金権政治の弊を産むべく、また、もし有力株主が外国人であるときは外国による政治干渉となる危険もあり、さらに豊富潤沢な政治資金は政治の腐敗を醸成するというのであるが、その指摘するような弊害に対処する方途は、さしあたり、立法政策にまつべきことであつて、憲法上は、公共の福祉に反しないかぎり、会社といえども政治資金の寄附の自由を有するといわざるを得ず、これをもつて国民の参政権を侵害するとなす論旨は採用のかぎりでない。

 以上説示したとおり、株式会社の政治資金の寄附はわが憲法に反するものではなく、したがつて、そのような寄附が憲法に反することを前提として、民法九〇条に違反するという論旨は、その前提を欠くものといわなければならない。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用しがたい。

 上告代理人有賀正明、同吉田元、同長岡邦の上告理由第三点および上告人の上告理由第三について。

 論旨は、要するに、被上告人らの本件政治資金の寄附は、商法二五四条ノ二に定める取締役の忠実義務に違反するというのである。

 商法二五四条ノ二の規定は、同法二五四条三項民法六四四条に定める善管義務を敷衍し、かつ一層明確にしたにとどまるのであつて、所論のように、通常の委任関係に伴う善管義務とは別個の、高度な義務を規定したものとは解することができない。

ところで、もし取締役が、その職務上の地位を利用し、自己または第三者の利益のために、政治資金を寄附した場合には、いうまでもなく忠実義務に反するわけであるが、論旨は、被上告人らに、具体的にそのような利益をはかる意図があつたとするわけではなく、一般に、この種の寄附は、国民個々が各人の政治的信条に基づいてなすべきものであるという前提に立脚し、取締役が個人の立場で自ら出捐するのでなく、会社の機関として会社の資産から支出することは、結果において会社の資産を自己のために費消したのと同断だというのである。会社が政治資金の寄附をなしうることは、さきに説示したとおりであるから、そうである以上、取締役が会社の機関としてその衝にあたることは、特段の事情のないかぎり、これをもつて取締役たる地位を利用した、私益追及の行為だとすることのできないのはもちろんである。論旨はさらに、およそ政党の資金は、その一部が不正不当に、もしくは無益に、乱費されるおそれがあるにかかわらず、本件の寄附に際し、被上告人らはこの事実を知りながら敢て目をおおい使途を限定するなど防圧の対策を講じないまま、漫然寄附をしたのであり、しかも、取締役会の審議すら経ていないのであつて、明らかに忠実義務違反であるというのである。ところで、右のような忠実義務違反を主張する場合にあつても、その挙証責任がその主張者の負担に帰すべきことは、一般の義務違反の場合におけると同様であると解すべきところ、原審における上告人の主張は、一般に、政治資金の寄附は定款に違反しかつ公序を紊すものであるとなし、したがつて、その支出に任じた被上告人らは忠実義務に違反するものであるというにとどまるのであつて、被上告人らの具体的行為を云々するものではない。もとより上告人はその点につき何ら立証するところがないのである。したがつて、論旨指摘の事実は原審の認定しないところであるのみならず、所論のように、これを公知の事実と目すべきものでないことも多言を要しないから、被上告人らの忠実義務違反をいう論旨は前提を欠き、肯認することができない。いうまでもなく取締役が会社を代表して政治資金の寄附をなすにあたつては、その会社の規模、経営実績その他社会的経済的地位および寄附の相手方など諸般の事情を考慮して、合理的な範囲内において、その金額等を決すべきであり、右の範囲を越え、不相応な寄附をなすがごときは取締役の忠実義務に違反するというべきであるが、原審の確定した事実に即して判断するとき、八幡製鉄株式会社の資本金その他所論の当時における純利益、株主配当金等の額を考慮にいれても、本件寄附が、右の合理的な範囲を越えたものとすることはできないのである。

 以上のとおりであるから、被上告人らがした本件寄附が商法二五四条ノ二に定める取締役の忠実義務に違反しないとした原審の判断は、結局相当であつて、原判決に所論の違法はなく、論旨はこの点についても採用することができない。

 上告人の上告理由第五について。

 所論は、原判決の違法をいうものではないから、論旨は、採用のかぎりでない。

 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官入江俊郎、同長部謹吾、同松田二郎、同岩田誠、同大隅健一郎の意見があるほか、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

 裁判官松田二郎の意見は、次のとおりである。

 本件は、いわゆる八幡製鉄株式会社の政治献金事件に関し、その株主である上告人の提起した株主の代位訴訟(商法二六七条)に基づく訴であり、原審は、上告人の請求を排斥した。私は、その結果をば正当と考えるものである。しかし、その理由は、必ずしも多数意見と同様ではない。ただ、本件の一審判決以来、これに関する多くの批評、論文が発表されていて、細別するときは、意見はきわめて区々であるといえよう。私の意見は、次のとおりである。

 (一) 多数意見は、まず、会社の権利能力について、次のごとくいうのである。曰く「会社は定款に定められた目的の範囲内において権利能力を有するわけであるが、目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行するうえに直接または間接に必要な行為であれば、すべてこれに包含されるものと解するを相当とする」と。これは、用語上、多少の差異あるは別として、当裁判所従来の判例のいうところと同趣旨であるといえよう。そして、多数意見は、会社による政治資金の寄附について、曰く「会社による政治資金の寄附は、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果すためになされたものと認められるかぎりにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為であるとするに妨げない」と。これによると、多数意見は、会社による政治献金を無制限に許容するものでなく、「会社の社会的役割を果すためになされたものと認められるかぎり」との制限の下に、これを是認するものと一応解される。

 しかし、他面において、多数意見は、会社の行う政治献金が政党の健全な発展のための協力であることを強調するのである。曰く、「政党は議会制民主主義を支える不可欠の要素なのである。そして同時に、政党は国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから、政党のあり方いかんは、国民としての重大な関心事でなければならない。したがつて、その健全な発展に協力することは、会社に対しても、社会的実在としての当然の行為として期待されるところであり、協力の一態様としての政治資金の寄附についても例外ではないのである」(傍点は、私の附するところである)と。そして、多数意見がこのように、会社による政治資金の寄附の根拠を「会社の社会的実在」ということに置く以上、自然人もまた社会的実在たるからには、両者は、この点において共通の面を有することとなろう。そして、私の見るところでは、多数意見は、この面を強調して会社と自然人とをパラレルに考えるもののごとく思われるのである。多数意見はいう。「会社は、自然人たる国民と同様、国や政党の特定の政策を支持、推進しまたは反対するなどの政治的行為をなす自由を有するのである。政治資金の寄附もまさにその自由の一環であり……」と。かくて、多数意見は、会社による政治資金の寄附の自由を自然人の政治資金の寄附の自由と同様に解するがごとく思われる。しかして、自然人が政治資金の寄附のためその者の全財産を投入しても法的には何等とがむべきものを見ない以上、多数意見は、会社による政治資金の寄附をきわめて広く承認するもののごとくさえ解されるのである。

 この点に関連して注目すべきは、政治献金についての取締役の責任について多数意見のいうところである。多数意見はいう。「取締役が会社を代表して政治資金の寄附をなすにあたつては、その会社の規模、経営実績その他社会的経済的地位および寄附の相手方など諸般の事情を考慮して、合理的な範囲内においてその金額等を決すべきであり、右の範囲を越え、不相応な寄附をなすがごときは取締役の忠実義務に違反するものというべきである」と。思うに、取締役が会社を代表して政治献金をするについて、多数意見のいう右の諸点を考慮すべきことは当然であろう。しかしながら、多数意見が政治資金の寄附に関し、取締役に対し対会社関係において右のごとき忠実義務に基づく厳格な制約を課するにかかわらず、会社自体のなす政治献金について何等かかる制約の存在に言及しないのは、注目すべきことであろう。そして、多数意見のいうところより判断すれば、あるいは多数意見は、会社自体のなす政治資金の寄附については、取締役に課せられた制限とは必ずしも関係なく、ただ、「定款所定の目的の範囲内」なるか否かの基準によつて、その寄附の有効無効を決するとしているものとも思われる。しかし、判例上、会社の行為が定款所定の目的の範囲外として無効とされたものを容易に見出し難い以上、多数意見によるときは、会社による政治資金の寄附は、実際上、きわめて広く肯定され、あるいは、これをほとんど無制限に近いまで肯定するに至る虞なしといえないのである。私としては、このような見解に対して疑を懐かざるを得ないのである。

 思うに、会社は定款所定の目的の範囲内において権利能力を有するとの見解は、民法四三条をその基礎とするものであるが、右法条は、わが国の民商法が立法の沿革上、大陸法系に属するうちにあつて、いわば例外的に英米法に従い、そのいわゆる「法人の目的の範囲外の行為」(ultra Vires)の法理の流を汲むものとせられている。そして、もし、略言することが許されるならば、この法理は、法人擬制説によるものであつて、法人はその目的として示されているところを越えて行動するとき、それは効なしとするものといえよう。そこでは、「定款所定の目的」と「権利能力」との間に、深い関連が認められているのである。もつとも、理論的に考察するとき、「定款所定の目的の範囲」と「権利能力の範囲」とは、本来別個の問題であるべきであるが、わが国の判例がかかる理論に泥むことなく、法人は「定款所定の目的の範囲内」において「権利能力」を有するものとし、会社についてはその目的の範囲をきわめて広く解することによつて、会社の権利能力を広範囲に認めて来たことを、私は意味深く感じ、判例のこの態度に賛するものである。判例法とは、かくのごとき形態の下に形成されて行くものであろう。そして、他の法人に比して、会社についてその権利能力の範囲を特に広く認めるに至つたのは、会社の営利性と取引の安全の要請に基づくものと解されるのである。

 思うに、法律上、会社は独立の人格を有し、社員の利益とは異るところの会社自体―企業自体―の利益を有するものではあるが、営利法人である以上、会社は単に会社自体の利益を図ることだけでは足りず、その得た利益を社員に分配することを要するのである。株式会社について、株主の利益配当請求権が「固有権」とされているのは、このことを示すのである。ここに、会社の特質が存在するのであつて、いわば、会社は、本来はこのような営利目的遂行のための団体であり、そのため権利能力を付与されたものといえよう。それは本来、政治団体でもなく、慈善団体でもないのである。そして、会社が企業として活動をなすからには、その「面」において権利能力を広範囲に亘つて認めることが当然に要請される。けだし、これによつて、会社は、営利的活動を充分になし得るし、また、取引の安全を確保し得るからである。

 そして、近時、英米法上において ult a vires の法理を制限しまたは廃止しようとする傾向を見、わが国において、学説上、会社につき「目的による制限」を認めないものが抬頭しているのは、叙上のことに思を致すときは、容易にこれを理解し得るのである(この点に関し、a博士が明治の末葉において夙に民法四三条が会社に適用がないと主張されたことに対し、その慧眼を思うものである。もつとも、私が「目的の範囲」による制限を認めることは、既に述べたところである)。

 そして、叙上の見地に立つて、わが国の判例を見るとき、近時のもののうちにさえ、会社以外の法人、たとえば農業協同組合につき、金員貸付が「組合の目的の範囲内に属しない」としたもの(最高裁判所昭和四〇年(オ)第三四八号同四一年四月二六日判決、民集二〇巻四号八四九頁)を見るにかかわらず、会社については、たとえば、大審院明治三七年五月一〇日判決が「営業科目ハ……定款ニ定メタルモノニ外ナラサレハ取締役カ定款ニ反シ営業科目ニ属セサル行為ヲ為シタルトキハ会社ハ之ニ関シ責任ヲ有セス」(民録一〇輯六三八頁)という趣旨を判示したなど、きわめて旧時における二、三の判例を除外すれば、会社の行為をもつて定款所定の目的の範囲外としたものを大審院並びに最高裁判所の判例中に見出し難いのである。換言すれば、判例は、表面上、会社につき「定款所定の目的による制限」を掲げながら、実際問題としては、会社の行為につき、この制限を越えたものを認めなかつたことを示すものといえよう。これは、わが国の判例が会社については英米法上の ultra vires の制限撤廃に近い作用を夙に行つていたのである。

 しかし、会社に対してこのように広範囲の権利能力の認められるのは、前述のように、会社企業の営利的活動の自由、取引の安全の要請に基づくものである。したがつて、会社といえどもしからざる面――ことに営利性と相容れざるものともいうべき寄附――において、その権利能力の範囲を必ずしも広く認めるべき必要を見ないものといえよう。私は、アメリカ法について知るところが少ないのではあるが、そこでは、会社の寄附に関し、最初は、それが会社の利益のためになされた場合にかぎり、その効力を認め、慈善のための理由だけの寄附は認められなかつたこと、その寄附が会社事業に益し、または、従業員の健康、福祉を増進するためのものでもあればこれを認めるに至つたこと、そして、次第に慈善事業のための寄附が広く認められるに至つたとされることに興味を覚える。それは会社制度の発展に従い、会社企業の行動が社会の各方面に影響することが大となるに伴つて、会社がある種の寄附をすることが、いわば、その「社会的責任」として認められるに至つたものといい得よう。それは会社として義務を負担し得る範囲の拡大であり、この点で「権利能力」の拡大といい得るにしても、しかし、それは、会社が本来の企業としての性格に基づいて、広範囲に亘つて権利義務の主体たり得ることは、面を異にし、これとは別個の法理に従うものであり、そこには自ら制約があるものと思うのである。詳言すれば、会社の権利能力は企業としての営利的活動の面においては客観的、抽象的に決せられ、その範囲も広いのに対し、然らざる面、ことに寄附を行う面においては、会社の権利能力は個別的、具体的に決せられ、その範囲も狭小というべきであろう。そして、この後者について、会社は各個の具体的場合によつて「応分」の寄附が認められるに過ぎないのである。この点に関し、商法を企業法とし、この見地より会社法を考察したウイーラントが公共の目的や政治的プロパガンダなどのために、会社の利得を処分することは、営利会社の目的と合致しないとしてこれを否定しながら、業務上通常の範囲に属すると認められる贈与は許容されるとし、また、道義的、社会的義務の履行――たとえば、従業員や労働者のための年金や保険の基金をつくること――のため会社の利得を用いることは許される旨(Karl Wieland,Handelsrecht,Bd.II,S.219)の主張をしているのは、たとえ、彼の所説が既に旧時のものに属するにせよ、会社の営利性と会社による寄附との関係の本質に言及したものとして、意味深く覚えるのである。

 私の解するところによれば、会社の行う寄附は、それが会社従業員の福祉のため、会社所在の市町村の祭典のため、社会一般に対する慈善事業のため、あるいは、政党のためなど、その対象を異にするによつて、各別に考察すべきものであり、その間に段階的にニユアンスの差があるものと考える。そして、その寄附の有効無効は、その寄附の相手方と会社との関係、その会社の規模、資産状態等諸般の事情によつて、会社の権利能力の範囲内に属するや否や決せられるものである。私は、この点につき、多数意見――先に引用したところである――が、「会社は自然人たる国民と同様国や政党の特定の政策を支持、推進または反対するなどの政治的行為をなす自由を有するのである。政治資金の寄附も正にその自由の一環である」とし、会社と自然人の行う政治資金の寄附を同様に解するごとくいうことに対して大なる疑を持つ。けだし、自然人は、自己の有する全財産をある政党に寄附する自由があるにしても、会社についてはこれと同様に論ずべきではないからである。

 もつとも、私の叙上の見解に対し、かかる見解を採るときは、会社による寄附が「応分」なるか否かを具体的場合について決すべきこととなり、寄附の効力がきわめて不安定になるとの非難があるであろう。しかし、それは、従来、「正当の事由」ということが、各場合の状況により具体的に判断されるに類するといえよう。そして、会社による寄附の効力は、新しく提起された問題であるが、やがて判例の積み重ねによつてその基準が次第に明らかになつてゆくであろう(会社関係において画一的基準が明らかでないことは、望ましいことではない。しかし、止むを得ない場合には、かかることを生じるのである。たとえば、株式の引受または株金払込の欠陥がある場合、それがいかなる程度のもののとき会社の設立無効を来すかは、具体的に決める外はないのである)。そして、その献金が会社の権利能力の範囲外の行為として無効と認められる場合でも、相手方の保護を全く欠くわけではない。何となれば、これを約した会社の代表取締役は、民法一一七条により相手方に対しその責に任ずべきものだからである。かくて、叙上に照して多数意見を見るならば、それは会社がその企業としての営利的活動の面において認められた広範囲の権利能力をば、不当に会社の行う政治献金にまで拡大したもののごとく思われる。そして、多数意見によるときは、会社の代表者が恣意的に当該会社としては不相応の巨額の政治献金をしたときでも、それが有効となり、その事により会社の経営が危殆に陥ることすら生じ得るであろう。かかることは、企業の維持の点よりしても、また、社会的観点よりしても、寒心すべきはいうまでもないのである。

 (二) 会社による政治資金のための寄附の効力は、叙上のごとくである。しかし、会社の代表者として政治資金のための寄附をした取締役の会社に対する責任は、別個に考察すべき問題である。したがつて、会社の代表者として行なつたかかる寄附が無効であり、会社が既にその出捐を了したときは、その取締役は、これにつき会社に対して当然その責に任ずるが、たとえそのような寄附が会社の行為として対外的に有効のときであつても、その寄附をした取締役の対会社の責任は生じ得るのである。これは、会社の権利能力の問題と取締役の対会社関係における善管義務、忠実義務の問題とは、別個に考察されるべきものであるからである。たとえば、会社の代表取締役が自己の個人的利益のため政治資金を寄附したところ、それが会社の行為として有効と認められた場合において、かくのごときことを生じ得よう。

 (三) 今、叙上論じたところに照して本件をみるに、原審認定の事実関係の下では、被上告人らが訴外八幡製鉄株式会社の代表取締役として自由民主党に対してした政治資金三五〇万円の本件寄附は、右会社の目的の範囲内の行為であり、かつ、取締役の会社に対する善管義務、忠実義務の違反ともなり得ないものと解される。したがつて、訴外会社の株主たる上告人が株主の代位訴訟に基づき被上告人らに対して提起した訴につき、上告人の請求を棄却した原審の判断は正当であり、本件上告は理由なきに帰するのである。

 裁判官入江俊郎、同長部謹吾、同岩田誠は、裁判官松田二郎の意見に同調する。

 裁判官大隅健一郎の意見は、つぎのとおりである。

 私は、本判決の結論には異論はないが、多数意見が会社の権利能力について述べるところには、つぎの諸点において賛成することができない。

 (一) 多数意見は、会社の権利能力についても民法四三条の規定が類推適用され、会社は定款によつて定まつた目的の範囲内においてのみ権利を有し義務を負う、とする見解をとつている。これは、会社は、自然人と異なり、一定の目的を有する人格者であるから、その目的の範囲内においてのみ権利義務の主体となりうるのが当然であるのみならず、会社の社員は、会社財産が定款所定の目的のために利用されることを期待して出資するのであるから、その社員の利益を保護するためにも、会社の権利能力を定款所定の目的の範囲内に限定する必要がある、という理由に基づくものではないかと推測される。しかしながら、会社の目的と権利能力との関係の問題は、単に会社の法人たる性質から観念的、抽象的にのみ決するのは不適当であつて、会社の活動に関連のある諸利益を比較衡量して、これをいかに調整するのが妥当であるか、の見地において決すべきものと考える。そして、このような見地において主として問題となるのは、会社財産が定款所定の目的のために使用されることを期待する社員の利益と、会社と取引関係に立つ第三者の利益である。

 おもうに、会社が現代の経済を担う中核的な存在として、その活動範囲はきわめて広汎にわたり、日常頻繁に大量の取引を行なつている実情のもとにおいては、それぞれの会社の定款所定の目的は商業登記簿に登記されているとはいえ、会社と取引する第三者が、その取引に当たり、一々その取引が当該会社の定款所定の目的の範囲内に属するかどうかを確かめることは、いうべくして行ないがたいところであるのみならず、その判断も必ずしも容易ではなく、一般にはそれが会社の定款所定の目的といかなる関係にあるかを顧慮することなく取引するのが通常である。したがつて、いやしくも会社の名をもつてなされる取引行為については、それがその会社の定款所定の目的の範囲内に属すると否とを問わず、会社をして責任を負わせるのでなければ、取引の安全を確保し、経済の円滑な運営を期待することは困難であつて、いたずらに会社に責任免脱の口実を与える結果となるのを免れないであろう。事実審たる下級裁判所の判決をみると、多数意見と同様の見解をとる従来の判例の立場に立ちながらも、実際上会社の権利能力の範囲をできるだけ広く認める傾向にあり、中には判例の立場をふみ越えているものも見られるのは、上述の事情を敏感かつ端的に反映するものというほかないと思う。それゆえ、会社の権利能力は定款所定の目的によつては制限されないものと解するのが、正当であるといわざるをえない。公益法人については、公益保護の必要があり、また、その対外的取引も会社におけるように広汎かつ頻繁ではないから、民法四三条がその権利能力を定款または寄附行為によつて定まつた目的の範囲内に制限していることは、必ずしも理由がないとはいえない。しかし、商法は、公益法人に関する若干の規定を会社に準用しながら(たとえば、商法七八条二項・二六一条三項等)、とくにこの規定は準用していないのであるから、同条は公益法人にのみ関する規定と解すべきであつて、これを会社に類推適用することは、その理由がないばかりでなく、むしろ不当といわなければならない。もちろん、社員は会社財産が定款所定の目的以外に使用されないことにつき重要な利益を有し、その利益を無視することは許されないが、その保護は、株式会社についていえば、株主の有する取締役の違法行為の差止請求権(商法二七二条)・取締役の解任請求権(商法二五七条三項)、取締役の会社に対する損害賠償責任(商法二六六条)などの会社内部の制度にゆだねるべきであり、また、定款所定の目的は会社の代表機関の代表権を制限するものとして(ただし、その制限は善意の第三者には対抗できないが。)意味を有するものと解すべきであると考える。従来、会社の能力の目的による制限を認めていたアメリカにおいても、そのいわゆる能力外の法理(ultra vires doctrine)を否定する学説、立法が漸次有力になりつつあることは、この点において参考とするに足りるであろう。

 以上のようにして、会社の権利能力は定款所定の目的によつては制限されないものと解すべきであるが、しかし、すべての会社に共通な営利の目的によつて制限されるものと解するのが正当ではないかと考える。法は、営利法人と公益法人とを区別して、これをそれぞれ別個の規制に服せしめているのであるから、この区別をも無視するような解釈は行きすぎといわざるをえないからである。そして、このように解しても、客観的にみて経済的取引行為と判断される行為は一般に営利の目的の範囲内に属するものと解せられるから、格別取引安全の保護に欠けるところはないであろう。

 (二) 多数意見は、会社の権利能力は定款に定められた目的の範囲内に制限されると解しながら、災害救援資金の寄附、地域社会への財産上の奉仕、政治資金の寄附なども、会社の定款所定の目的の範囲内の行為であるとすることにより、これを会社の権利能力の範囲内に属するものと解している。それによると、会社は「自然人とひとしく、国家、地方公共団体、地域社会その他(以下社会等という。)の構成単位たる社会的実在なのであるから、それとしての社会的作用を負担せざるを得ないのであつて、ある行為が一見定款所定の目的とかかわりがないものであるとしても、会社に、社会通念上、期待ないし要請されるものであるかぎり、その期待ないし要請にこたえることは、会社の当然になしうるところであるといわなければならない。そしてまた、会社にとつても、一般に、かかる社会的作用に属する活動をすることは、無益無用のことではなく、企業体としての円滑な発展を図るうえに相当の価値と効果を認めることもできるのであるから、その意味において、これらの行為もまた、間接ではあつても、目的遂行のうえに必要なものであるとするを妨げない。」というのである。私は、この所論の内容にとくに異論を有するものではないが、しかし、このような理論をもつて、右のような行為が会社の定款所定の目的の範囲内の行為であり、したがつて、会社の権利能力の範囲内に属するとする考え方そのものに、疑問を抱かざるをえないのである。

 多数意見が類推適用を認める民法四三条にいわゆる定款によつて定まつた目的とは、それぞれの会社の定款の規定によつて個別化された会社の目的たる事業をいうのであつて、これを本件訴外八幡製鉄株式会社についていえば、「鉄鋼の製造および販売ならびにこれに附帯する事業」にほかならない。それは、すべての会社に共通な営利の目的とは異なるのである。しかるに、多数意見によれば、災害救援資金の寄附、地域社会への財産的奉仕、政治資金の寄附などは、会社が自然人とひとしく社会等の構成単位たる社会的実在であり、それとしての社会的作用を負担せざるをえないことから、会社も当然にこれをなしうるものと認められるというのである。したがつて、それが会社の企業体としての円滑な発展をはかるうえに相当の価値と効果を有するにしても、定款により個別化された会社の目的たる事業とは直接なんらのかかわりがなく、その事業が何であるかを問わず、すべての会社についてひとしく認めらるべき事柄にほかならない。しかのみならず、そのような行為が、社会通念上、社会等の構成単位たる社会的実在としての法人に期待または要請される点においては、程度の差はありうるとしても、ひとり会社のみにかぎらず、各種協同組合や相互保険会社などのようないわゆる中間法人、さらには民法上の公益法人についても異なるところがないといわざるをえない。その意味において、多数意見のように、右のような行為についての会社の権利能力の問題を会社の定款所定の目的と関連せしめて論ずることは、意味がないばかりでなく、かえつて牽強附会のそしりを免れないのではないかと思う。

 多数意見のように定款所定の目的の範囲内において会社の権利能力を認めるにせよ、私のようにすべての会社に共通な営利の目的の範囲内においてそれを認めるにせよ、なおそれとは別に、法人たる会社の社会的実在たることに基づく権利能力が認めらるべきであり、さきに引用した多数意見の述べるところは、まさにかような意味における会社の権利能力を基礎づけるのに役立つものといえるのである。そして、本件政治資金の寄附が訴外八幡製鉄株式会社の権利能力の範囲内に属するかどうかも、かかる意味における会社の権利能力にかかわる問題として論ぜらるべきものと考えられるのである。

 (三) 以上のように、災害救援資金の寄附、地域社会への財産上の奉仕、政治資金の寄附のごとき行為は会社の法人としての社会的実在であることに基づいて認められた、通常の取引行為とは次元を異にする権利能力の問題であると解する私の立場においては、その権利能力も社会通念上相当と認められる範囲内に限らるべきであつて、会社の規模、資産状態、社会的経済的地位、寄附の相手方など諸般の事情を考慮して社会的に相当ないし応分と認められる金額を越える寄附のごときは、会社の権利能力の範囲を逸脱するものと解すべきではないかと考えられる。このような見解に対しては、当然、いわゆる相当(応分)の限度を越えてなされた行為は、相手方の善意悪意を問わず、無効であるにかかわらず、その相当性の限界が不明確であるから、法的安定を妨げる、とする批判が予想される。しかし、上述のごとき行為については、通常の取引行為におけるとは異なり、取引安全の保護を強調する必要はなく、むしろ会社財産が定款所定の目的を逸脱して濫費されないことについて有する社員の利益の保護が重視さるべきものと考える。

 叙上の点につき多数意見がどのように考えているかは必ずしも明らかでないが、多数意見が、「会社による政治資金の寄附は、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためになされたものと認められるかぎりにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為であるとするに妨げない。」と述べているところからみると、上述の卑見にちかい見解をとるのではないかとも臆測される。しかし、右引用の判文は、その表現がすこぶる不明確であつて、はたして、会社による政治資金の寄附は、会社の社会的役割を果たすため相当と認められる限度においてなされるかぎり、会社の定款所定の目的の範囲内、したがつて、会社の権利能力の範囲内の行為であるとする趣旨であるかどうか(このように解するには、「客観的、抽象的に観察して、」というのが妨げとなる。むしろ、「諸般の事情を考慮し具体的に観察して、」とあるべきではなかろうか。)、疑問の余地があるのを免れないのみならず、かりにその趣旨であるとしても、政治資金の寄附も、通常の取引行為とひとしく、会社の定款所定の目的の範囲内の行為であるとしながら、前者に関してのみその権利能力につき右のような限定を加えることが理論上妥当であるかどうか、疑問なきをえないと思う。この点においても、政治資金の寄附のごとき行為を会社の定款所定の目的との関連においてとらえようとする多数意見の当否が疑われる。

 いずれにせよ、私のような見解に従つても、本件の政治資金の寄附は訴外八幡製鉄株式会社の権利能力の範囲内に属するものと解せられるから、判決の結果には影響がない。

     最高裁判所大法廷

         裁判長裁判官    石   田   和   外」

八幡製鉄(現在の新日本製鉄)代表取締役が、同社の名前により某政党に政治献金をした。これに対し、株主は、この政治献金が同社定款第2条に定める所定事業の目的の範囲外にあるとして商法第266条第1項第5号違反を、および、取締役の行為について第254条ノ2(現在は第254条ノ3)違反を主張し、商法第267条に基づいて株主代表訴訟を提起した。

最高裁判所大法廷は、法人が基本的人権を享有する主体であることを是認する(ドイツ連邦共和国基本法第19条第3項は、法人の基本権享有主体性を明文で定める)。しかし、それは、基本的人権の性質にもよるのであって、選挙権、生存権、人身の自由(一定の範囲)などは認められない。また、認められる場合であっても、経済的自由権(財産権、営業の自由など)の場合、実質的な公平の観点から、自然人に対してよりも広範な(積極的)制約の余地はある。精神的自由権についても、自然人の場合と同様に解するとは言えない場合がある。

法人の基本的人権享有性などに関する判例を概観しておく。

「●八幡製鉄事件最高裁判所判決(最大判昭和45年6月24日民集24巻6号625頁)

八幡製鉄(現在の新日本製鉄)代表取締役が、同社の名前により某政党に政治献金をした。これに対し、株主は、この政治献金が同社定款第2条に定める所定事業の目的の範囲外にあるとして商法第266条第1項第5号違反を、および、取締役の行為について第254条ノ2(現在は第254条ノ3)違反を主張し、商法第267条に基づいて株主代表訴訟を提起した。

最高裁判所大法廷は、法人が基本的人権を享有する主体であることを是認する(ドイツ連邦共和国基本法第19条第3項は、法人の基本権享有主体性を明文で定める)。しかし、それは、基本的人権の性質にもよるのであって、選挙権、生存権、人身の自由(一定の範囲)などは認められない。また、認められる場合であっても、経済的自由権(財産権、営業の自由など)の場合、実質的な公平の観点から、自然人に対してよりも広範な(積極的)制約の余地はある。精神的自由権についても、自然人の場合と同様に解するとは言えない場合がある。

●住友生命政治献金事件

住友生命は、自民党などに約6800万円の政治献金を行った。これに対し、保険に加入している人々が、元社長2名に対し、献金した額を会社に返還するように求めた。一審判決は請求を棄却したため、原告である保険加入者が控訴したが、2002年4月11日、大阪高等裁判所は控訴を棄却した。

判決理由において、「政治献金は事業活動の一環であり、取締役は会社の規模に応じて政治献金できる」と述べられており、その上で「保険会社が政治献金することは違法ではない」とされている。

●三菱樹脂事件最高裁判所判決(最大判昭和48年12月12日民集27巻11号1536頁)

企業の経済的活動の自由と自然人の思想の自由との衝突という問題に関する代表的な判例である。

この事件においては、原告Tが、大学在学中に生協の理事になったことなどについて「説明不足のきらい」があり、また、学生運動に参加していたことなどについての回答をしなかったことによる解雇(この場合は、3ヶ月間の試用期間の後における本採用の拒否)が妥当であるか否かが問題となった。第一審判決(東京地判昭和42年7月17日判時498号66頁)は、被告会社側の解雇権濫用を認める。第二審判決(東京高判昭和43年6月12日判時523号19頁)は、憲法第19条・第14条(信条による差別の禁止)、労働基準法第3条を援用しつつ、特定の思想信条を有する者を雇傭することが直ちに事業の遂行に支障を来すものとは言えず、入社試験の際に応募者に政治的思想などに関係のある事項を申告させることが公序良俗に反する、として、本件の労働契約解約が労働基準法第3条に違反して無効であるとした。これに対し、最高裁判所は破棄差戻判決を下した。

判決理由において、憲法第19条・第14条が私人間における直接的な規律を予定されているものではないこと、憲法第22条、第29条などにおいて、財産権の行使、営業その他広く経済活動の自由も基本的人権として保障されており、企業は、経済活動の一環として契約締結の自由を有していること、営業のため、いかなる者をいかなる条件によって雇うかも原則として自由であるから、企業が特定の思想や信条を有する者を、それを理由として雇傭を拒否しても当然に違法ではないことをあげ、「労働者の採否決定にあたり、労働者の思想、信条を調査し、そのためその者からこれに関連する事項についての申告を求めることも」違法ではないと述べた。但し、本採用の拒否は雇傭後の解雇にあたるので、客観的合理性などについて審理を差し戻すべきであるとした(なお、差戻審において和解が成立し、Tは復職した)。

最高裁判所の判旨については、労働者が有する思想・信条の自由と企業の経済活動の自由を、単純に同一平面に乗せて議論しているところに疑問が残る。憲法の私人間効力について間接的効力説を採るとしても、両者を同一平面に乗せて議論することを正当化するものではない。むしろ、両者は全く別の次元における問題である。

●南九州税理士会事件最高裁判所判決(最三小判平成8年3月19日民集50巻3号615頁)

税理士会という強制加入団体において、多数決原理に基づいて特別会費を徴収して政治献金をした会の行為の是非が争われた事件。最高裁判所第三小法廷は、この税理士会の行為が税理士法第49条第2項に掲げられた目的の範囲外の行為であり、政治献金を団体の意思として構成員に強制することはできないとして、無効である、と判示した。政治献金の是非を巡る判断として、八幡製鉄事件最高裁判所判決と意味を異にするが、法人の経済的活動の自由と自然人の思想の自由との衝突という点においては、三菱樹脂事件最高裁判所判決と意味を異にする。

●三井美唄炭坑労働組合事件最高裁判所判決(最大判昭和43年12月4日刑集22巻13号1425頁)

労働組合とその加入者との自由の抵触に関する代表的な判決である。三井美唄炭坑労働組合役員は、市議会議員選挙に際して統一候補者を選出して支持する方針を立てた。しかし、別の組合員が独自に立候補しようとしたため、役員が説得を行ったが不調に終わったので、この組合員に対し、処分を行おうとした。これが公職選挙法第225条第3号違反に問われた。判決は、組合員に対する組合の統制権は憲法第28条に保障されてはいるが、公職選挙における立候補の自由は憲法第15条第1項が(自然人に対して)保障しており、組合員が立候補しようとしているのに、勧告または説得を超えて辞退を要求し、統制違反者として処分することは、統制権の範囲を超える、とした。」

法解釈の誤り

独占禁止法は次の通りに規定する。

「第七章 差止請求及び損害賠償

第二十四条 第八条第一項第五号又は第十九条の規定に違反する行為によつてその利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、これにより著しい損害を生じ、又は生ずるおそれがあるときは、その利益を侵害する事業者若しくは事業者団体又は侵害するおそれがある事業者若しくは事業者団体に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。」

このおそれ及び予防の概念は、緊急性を要するのであって、国民が裁判を受けるに当たっては、緊急に侵害の停止又はおそれに対する予防を請求する際に付帯的に継続している著しい損害について仮処分の請求が出来る。いわゆるアメリカでは略式判決を求めることが出来る様な事案である。この様な本件事件においては、裁判所は「憲法第三十二条何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」とするが、予防を緊急に迅速に行うべきであって、継続中の違反でさえも差止できない様な状況になっている現況を反省し、改めるべきは改めるべきである。確かに憲法上公正取引委員会は独立行政機関として重要な役割を負ってきたが、憲法第七十六条 2項では行政機関は、終審として裁判を行ふことができないし、同条3項ではすべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束されるのであるから、「独占禁止法第八十三条の三 裁判所は、第二十四条の規定による侵害の停止又は予防に関する訴えが提起されたときは、その旨を公正取引委員会に通知するものとする。2 裁判所は、前項の訴えが提起されたときは、公正取引委員会に対し、当該事件に関するこの法律の適用その他の必要な事項について、意見を求めることができる。3 公正取引委員会は、第一項の訴えが提起されたときは、裁判所の許可を得て、裁判所に対し、当該事件に関するこの法律の適用その他の必要な事項について、意見を述べることができる。」のではあるが、これまでの審決は判例とは相違しているのであり、また侵害の停止又は予防が緊急を要するような本件事件は、継続している違反が「事業活動を困難にしているのであるから」憲法第二十二条の営業の自由を侵すことがないように適切な手段を講ずる義務があると考えられる。そのような状態が継続している場合に裁判がいたずらに長く続くことは憲法が予定しているものではない。憲法三十二条にはそのような裁判の効率性の概念も含まれていると新しい説ではあるが主張するものであり、そのような考え方は憲法の自由競争を内包した思想から解釈できるものであり、そこからはいたずらに長い裁判は憲法三十二条違反となっており、違憲であると考えることが出来る。

損害の救済権に対する違憲性

被上告人(債務者)は本件事件においては独占禁止法違反による損害の救済について、公正取引委員会に対して申告したことをもって差別待遇を行っており、これは憲法第十六条に違反しており、違憲である。差別待遇とは共同ボイコットであり、ドイツの独占禁止法では不平等な取扱である場合には、入会を強制できるとしている。

第十六条【請願権】

 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

裁判の効率性

裁判がいたずらに長引くことは効率性の問題ではあるが、その間の損害について裁判官も認知しなければならない。

第十七条【国及び公共団体の賠償責任】

何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律(国家賠償法)の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

事業の継続が困難になることは放置できない憲法第三十二条違反であるがその救済策が独占禁止法第二十四条であるとすれば、犯罪被害と同様な意味で行政側が対応を怠ることは今後出来ないことになる。緊急を要する場合には裁判の側も証拠の取扱をやわらげ民事訴訟法248条の採用を行う等の対応をとるべきである。本件事件においては当然違法であるとしてすぐに裁判が終了すると考えられていたのに、最高裁判所の判断であっても事業活動の困難性があるので早急に結論が出ることが望ましいのであり、独占禁止法の第24条の趣旨からも緊急を要する事件である。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(6)

平成17年5月9日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

第一 

上告人の論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断については、248条を使用すべきであり、事実の認定については共同ボイコットについても入会金の値上げについても、公務員のテープについても90%の蓋然性で証明されているのにそれを採用しないという経験則違反があり、又原審の認定については入会拒否を行ったことについては両当事者に異議はないのであり、原審の認定にそった事実に基づいても原判決は不当であるので、採用することができる。これは原判決の事実認定には,著しい経験則違反ないし審理不尽の違法があるからである。

原審判決の所論の誤り

まず無効確認と、差止とを混同している。無効確認と差止は全く異なったものである。その理解が足りない。

確認訴訟と、差止給付訴訟との差異は、確認訴訟は法律上の関係を確認するものでしかない。この場合に問題となるのは、契約の存在であるが、契約は存在しないのであり、契約の存在を確認するのでなければ、何を確認するのか不明である。現代は契約社会であるから、そのように言えるのである。

この確認訴訟は過去の事実の確認であるが、一方の差止は現在および将来の公正競争阻害性がある行為の排除であり、全く別のものである。先に述べた通りに法哲学上妨害の排除は自由な主体が、自由に行動する場合の必要不可欠な行為であり、妨害の差止である。

一方の差止は逮捕に近い行為を行わせる行為であり、妨害の排除である。

本件事件は最初の契機は信条の自由を侵すというものであるが、その後の継続的な公正競争阻害を目的としたものであった。どちらが真の理由かは経験則によれば明白である。この経験則の採用に当たっては日本中すべての県において不動産鑑定士協会が公正競争阻害の目的で、取引事例を見せなかったり、入会金を上げたり、雇用において非会員を差別したりしている。

一般にはある行為の解釈においては本人が名目上心理上の合理化においては信条が嫌いだったというものであっても、その実は心の中で公正競争阻害を目的とするものであることがありうる。

しかし目的がどのようであったとして、結果として公正競争阻害性がある行為である。

本件事件は全国的に展開されている公正競争阻害性がある行為の一部分であるが、三重県の様に不動産鑑定士協会は結託して、他の県の事業者には一切取引事例の閲覧を許さないこと、福井県においても不動産鑑定士協会はそのような行為を行っている。

これらとともに参入制限を行っている。

これらの傾向は年々激しくなっており、程度の問題とはいえなくなってきている。

本件事件のうち、入会金の値上げは価格に影響を及ぼすほどの公正競争阻害性がある。取引事例へのアクセス制限はただ価格のみによるのではなく、フロッピーにより取引事例に被上告人は容易にアクセスできるのであり、一方会員ではない上告人の様な事業者はフロッピーによるアクセスが出来ないのである。

業務補助者に対する取引事例の閲覧の制限は、雇用に対する制限となっており公正競争阻害性があることは同様である。

本件事件は証拠の収集は、石油ヤミカルテル事件よりも容易であった。ほとんどが公務員による証言であるか、公務員による情報公開された文書である。

確かにこれまでの証拠によってもし最高裁判所から差し戻して来た場合でも、ほとんどの証拠はそろっているといいうるが、しかしその証拠の解釈においては証拠の優越の問題がある。

被上告人(債務者)は理事会においてこれらの共同ボイコットに該当する様な行為を決定している。

刑法犯であった石油ヤミカルテル事件の証拠と本件事件の証拠とを比較してみて、刑法犯と同様の証拠調べがいかに難しく、それ故に証拠の優越程度によって石油ヤミカルテル事件でも認定していることを証明して、独占禁止法の私訴事件における証拠の優越を採用しなかったことが、最高裁判所判決に違反していることを証明する。

まず市町村の担当者、県の担当者の発言は伝聞証拠とは言えず、刑法犯でいえば、犯罪類似行為への加担者の真実の話であって、誘導されたものではなく、自発的なものであるが、しかし犯罪の共謀が認定されるおそれがあると考えたために、以後犯罪事実として否認に回ったのである。石油ヤミカルテル事件でも証拠として認定しているものであって、何ら原審判決が述べるように証拠能力において認定できないものではない。もしアメリカの陪審員制度があれば、陪審員であれば認めたであろうと考える。

刑法犯の場合には伝聞証拠は採用できない。「カルテルはそもそも競争をなくすことが目的ですから、実際の認定では、私的独占の場合などと違って、市場構造基準等を詳しく調べるまでもなく「それ自体違法」とされています。」と船田立教大学は書いており、

慶應義塾大学産業研究所助教授 石岡 克俊 2004年7月2日は、

「(iii)事業者団体の取引拒絶については、事業者の共同行為として評価し得る場合を除き、独占禁止法8条1項5号(事業者団体の事業者に対する不公正な取引方法の勧奨)が適用される。このように、事業者が行う不当な取引拒絶には、基本的に共同の取引拒絶(一般指定1項)とその他の取引拒絶(一般指定2項)とがあるが、前者においては「正当な理由がないのに」という文言が用いられ、行為の外形から原則として公正競争阻害性が認められる行為類型であることが明示されている。また、後者においては「不当に」という文言が用いられ、個別具体的に公正競争阻害性の有無を判断する行為類型であることが示されている。また取引拒絶には、取引先事業者に対し直接行うものだけではなく、他の事業者をして間接的に取引を拒絶させるものもある。前者を通常「直接の取引拒絶」(一般指定1項1号、一般指定2項前段)といい、後者を「間接の取引拒絶」(一般指定1項2号、一般指定2項後段)という。なお、これらの根拠規定は、「直接の取引拒絶」については独占禁止法2条9項1号(不当な差別的取扱い)、「間接の取引拒絶」については独占禁止法2条9項4号(不当な拘束条件付取引)である。1

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1.1共同の取引拒絶共同の取引拒絶については、競争者が共同して取引拒絶をし、またはその取引先等の他の事業者に、ある事業者との取引を拒絶させるものであり、拒絶される事業者にとっては取引先を奪われ、市場から締め出されるおそれの強い行為である。かかる行為が行われると、相手方の事業者は事業活動に重要な制約を受けたり、市場から排除されたり、市場への参入が制限されることとなる。このように、共同の取引拒絶は、市場における競争を直接制約するような行為類型であって、原則として、公正競争阻害性を有する行為である。これは、当該行為が「自由な競争を減殺するおそれの強い行為」であり、とりわけ再販売価格維持行為のように市場での競争を直接制約する行為類型に属するので、競争減殺の程度を個別に判断する必要はなく、行為が実効性をもって行われるものであるか否かが判断の中心となる。「正当な理由がないのに」の文言は、このような意味において使われている。なお、1991年(平成3年)に公表された「流通・取引慣行に関する独占禁止法上の指針」によれば、一般指定1項に該当するような競争者との共同の取引拒絶や、取引先事業者等との共同の取引拒絶によって、取引を拒絶される事業者が市場に参入することが著しく困難となり、又は市場から排除されることとなることにより、市場における競争が実質的に制限される場合には、不当な取引制限に該当し独占禁止法3条の規定に違反することが明らかにされている。また、事業者団体による共同の取引拒絶については、取引を拒絶される事業者等が市場に参入することが著しく困難となり、又は市場から排除されることとなることにより、市場における競争が実質的に制限される場合には、独占禁止法第8条1項1号の規定に違反し、また市場における競争が実質的に制限されるまでには至らない場合であっても、原則として独占禁止法第8条1項3号、4号又は5号の規定に違反することが明らかにされている。1.2その他の取引拒絶共同の取引拒絶が、原則として違法にされるのに対し、単独の取引拒絶は原則として適法な行為であり、例外的に「不当性」つまり「公正競争阻害性」のある場合にのみ違法となる。そもそも事業者がどの事業者と取引するかは、基本的に事業者の取引先選択の自由の問題である。事業者が、価格、品質、サービス等の要因を考慮して、自己の判断によって、ある事業者と取引し、あるいは取引しないとしても基本的に独占禁止法上問題となるものではない。取引拒絶の意図・目的を総合的に考慮して、公正競争阻害性の有無を個別具体的に判断しなければならない。先の「不当に」の文言は、このような意味において使われている。1991年(平成3年)に公表された「流通・取引慣行に関する独占禁止法上の指針」によれば、単独の取引拒絶は、当該行為により、「自己又は自己と密接な関係にある事業者の競争者が、取引拒絶の対象となった商品・役務と同種又は類似の商品・役務につき容易に他の取引先を見出し得ないか、又見出し得ても、取引条件が不利なため、競争者として十分に機能し得ない等当該競争者の取引の機会を排除し、その事業活動を困難にさせるおそれがある場合」に「不当な」取引拒絶となる。同指針には、より具体的に取引拒絶が「公正競争阻害性」を有する例として2つの場合を明示している。すなわち、事業者が(i)独占禁止法上違法な行為の実効を確保するための手段として取引を拒絶する場合、(ii)競争者を市場から排除するなど独占禁止法上不当な目的を達成するための手段として取引を拒絶する場合である。前者は、再販売価格維持行為や排他条件付取引など独占禁止法上違法な目的の達成の手段として実施される場合には、当該違法行為だけでなく、実効性確保手段として用いられた取引拒絶も違法となる。後者は、市場における有力な事業者が、競争者を市場から排除するなどの独占禁止法上不当な目的を達成する手段として、取引拒絶を行い、その結果取引を拒絶される事業者の通常の事業活動が困難となるおそれがある場合には、違法となる。なお、ここでいう「市場における有力な事業者」と認められるかどうかについては、市場におけるシェアが10パーセント以上又はその順位が上位3位以内であり、「競争者の取引の機会が減少し、他に代わり得る取引先を容易に見いだすことができなくなるおそれがある場合」であるか否かを検討した上で判断される。3

原文

不公正な取引方法の禁止[1](不当な取引拒絶)「取引拒絶」とは、商品・役務等の供給または買入れを拒絶することである。ここでいう「取引」には、物資・資金等の経済上の利益を供給することまたは供給を受けることを意味し、購入・販売といった売買の形をとるものだけにとどまらず賃貸借も含まれ、その形態を問わない。また、拒絶の対象となる経済上の利益には、商品・役務・資金等のすべてが含まれ、取引において付随的に無償で提供されるものであっても、主たる取引と関連がありその拒絶が有意な影響を及ぼす場合において、かかる経済上の利益の供給は「取引」に含まれる。また、取引の「拒絶」には、継続的な取引関係の停止だけではなく、新規の取引の申込みを拒絶する場合も含まれる。取引そのものを拒絶しなくても、相手方が必要とする数量を供給しないというように取引を制限することも、相手方の事業活動の遂行を妨げる効果を有し、取引自体の拒絶と同様の効果をもつことから、商品の数量ないしは役務の内容を制限することも禁止の対象となる。「不当な取引拒絶」には、(i)事業者が共同して行う共同の取引拒絶、(ii)事業者が単独で行う単独の取引拒絶及び(iii)事業者団体が事業者をして取引拒絶をさせる場合がある。(i)の共同の取引拒絶のうち競争関係にある他の事業者と共同して行うものは一般指定1項が適用され、(i)以外の共同の取引拒絶(例えば、取引先事業者との共同の取引拒絶等)及び(ii)のような場合にはその他の取引拒絶として一般指定2項の適用がある。そして、(iii)事業者団体の取引拒絶については、事業者の共同行為として評価し得る場合を除き、独占禁止法8条1項5号(事業者団体の事業者に対する不公正な取引方法の勧奨)が適用される。このように、事業者が行う不当な取引拒絶には、基本的に共同の取引拒絶(一般指定1項)とその他の取引拒絶(一般指定2項)とがあるが、前者においては「正当な理由がないのに」という文言が用いられ、行為の外形から原則として公正競争阻害性が認められる行為類型であることが明示されている。また、後者においては「不当に」という文言が用いられ、個別具体的に公正競争阻害性の有無を判断する行為類型であることが示されている。また取引拒絶には、取引先事業者に対し直接行うものだけではなく、他の事業者をして間接的に取引を拒絶させるものもある。前者を通常「直接の取引拒絶」(一般指定1項1号、一般指定2項前段)といい、後者を「間接の取引拒絶」(一般指定1項2号、一般指定2項後段)という。なお、これらの根拠規定は、「直接の取引拒絶」については独占禁止法2条9項1号(不当な差別的取扱い)、「間接の取引拒絶」については独占禁止法2条9項4号(不当な拘束条件付取引)である。1

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1.1共同の取引拒絶共同の取引拒絶については、競争者が共同して取引拒絶をし、またはその取引先等の他の事業者に、ある事業者との取引を拒絶させるものであり、拒絶される事業者にとっては取引先を奪われ、市場から締め出されるおそれの強い行為である。かかる行為が行われると、相手方の事業者は事業活動に重要な制約を受けたり、市場から排除されたり、市場への参入が制限されることとなる。このように、共同の取引拒絶は、市場における競争を直接制約するような行為類型であって、原則として、公正競争阻害性を有する行為である。これは、当該行為が「自由な競争を減殺するおそれの強い行為」であり、とりわけ再販売価格維持行為のように市場での競争を直接制約する行為類型に属するので、競争減殺の程度を個別に判断する必要はなく、行為が実効性をもって行われるものであるか否かが判断の中心となる。「正当な理由がないのに」の文言は、このような意味において使われている。なお、1991年(平成3年)に公表された「流通・取引慣行に関する独占禁止法上の指針」によれば、一般指定1項に該当するような競争者との共同の取引拒絶や、取引先事業者等との共同の取引拒絶によって、取引を拒絶される事業者が市場に参入することが著しく困難となり、又は市場から排除されることとなることにより、市場における競争が実質的に制限される場合には、不当な取引制限に該当し独占禁止法3条の規定に違反することが明らかにされている。また、事業者団体による共同の取引拒絶については、取引を拒絶される事業者等が市場に参入することが著しく困難となり、又は市場から排除されることとなることにより、市場における競争が実質的に制限される場合には、独占禁止法第8条1項1号の規定に違反し、また市場における競争が実質的に制限されるまでには至らない場合であっても、原則として独占禁止法第8条1項3号、4号又は5号の規定に違反することが明らかにされている。1.2その他の取引拒絶共同の取引拒絶が、原則として違法にされるのに対し、単独の取引拒絶は原則として適法な行為であり、例外的に「不当性」つまり「公正競争阻害性」のある場合にのみ違法となる。そもそも事業者がどの事業者と取引するかは、基本的に事業者の取引先選択の自由の問題である。事業者が、価格、品質、サービス等の要因を考慮して、自己の判断によって、ある事業者と取引し、あるいは取引しないとしても基本的に独占禁止法上問題となるものではない。取引拒絶の意図・目的を総合的に考慮して、公正競争阻害性の有無を個別具体的に判断しなければならない。先の「不当に」の文言は、このような意味において使われている。1991年(平成3年)に公表された「流通・取引慣行に関する独占禁止法上の指針」によれば、単独の取引拒絶は、当該行為により、「自己又は自己と密接な関係にある事業者の競争者が、取引拒絶の対象となった商品・役務と同種又は類似の商品・役務につき容易に他の取引先を見出し得ないか、又見出し得ても、取引条件が不利なため、競争者として十分に機能し得ない等当該競争者の取引の機会を排除し、その事業活動を困難にさせるおそれがある場合」に「不当な」取引拒絶となる。同指針には、より具体的に取引拒絶が「公正競争阻害性」を有する例として2つの場合を明示している。すなわち、事業者が(i)独占禁止法上違法な行為の実効を確保するための手段として取引を拒絶する場合、(ii)競争者を市場から排除するなど独占禁止法上不当な目的を達成するための手段として取引を拒絶する場合である。前者は、再販売価格維持行為や排他条件付取引など独占禁止法上違法な目的の達成の手段として実施される場合には、当該違法行為だけでなく、実効性確保手段として用いられた取引拒絶も違法となる。後者は、市場における有力な事業者が、競争者を市場から排除す2

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るなどの独占禁止法上不当な目的を達成する手段として、取引拒絶を行い、その結果取引を拒絶される事業者の通常の事業活動が困難となるおそれがある場合には、違法となる。なお、ここでいう「市場における有力な事業者」と認められるかどうかについては、市場におけるシェアが10パーセント以上又はその順位が上位3位以内であり、「競争者の取引の機会が減少し、他に代わり得る取引先を容易に見いだすことができなくなるおそれがある場合」であるか否かを検討した上で判断される。3

第2 共同ボイコット

1 考え方

市場における公正かつ自由な競争の結果、ある事業者が市場から退出することを余儀なくされたり、市場に参入することができなかったとしても独占禁止法上問題となることはない。

しかし、事業者が競争者や取引先事業者等と共同して又は事業者団体が、新規参入者の市場への参入を妨げたり、既存の事業者を市場から排除しようとする行為は、競争が有効に行われるための前提条件となる事業者の市場への参入の自由を侵害するものであり、原則として違法となる。

共同ボイコットには、様々な態様のものがあり、それが事業者の市場への参入を阻止し、又は事業者を市場から排除することとなる蓋然性の程度、市場構造等により、競争に対する影響の程度は異なる。共同ボイコットが行われ、行為者の数、市場における地位、商品又は役務の特性等からみて、事業者が市場に参入することが著しく困難となり、又は市場から排除されることとなることによって、市場における競争が実質的に制限される場合には不当な取引制限として違法となる。市場における競争が実質的に制限されるまでには至らない場合であっても、共同ボイコットは一般に公正な競争を阻害するおそれがあり、原則として不公正な取引方法として違法となる。また、事業者団体が共同ボイコットを行う場合にも、事業者団体による競争の実質的制限行為又は競争阻害行為(一定の事業分野における事業者の数を制限する行為、構成事業者の機能活動を不当に制限する行為又は事業者に不公正な取引方法に該当する行為をさせるようにする行為)として原則として違法となる。

2 競争者との共同ボイコット

(1)

競争関係にある事業者が共同して、例えば次のような行為を行い、これによって取引を拒絶される事業者が市場に参入することが著しく困難となり、又は市場から排除されることとなることによって、市場における競争が実質的に制限される場合(注2)は、当該行為は不当な取引制限に該当し、独占禁止法第3条の規定に違反する。

[1] 製造業者が共同して、安売りをする販売業者を排除するために、安売り業者に対する商品の供給を拒絶し、又は制限すること

[2] 販売業者が共同して、競争者の新規新規参入を妨げるために、取引先製造業者をして新規新規参入者に対する商品の供給を拒絶させ、販売業者は新規参入者に対する商品の供給を拒絶すること

[3] 製造業者が共同して、輸入品を排除するために、取引先販売業者が輸入品を取り扱う場合には商品の供給を拒絶する旨通知して、当該販売業者をして輸入品を取り扱わないようにさせること

[4] 完成品製造業者が共同して、競争者の新規参入を妨げるために、取引先原材料製造業者が新規参入者に対し原材料を供給する場合には取引を拒絶する旨通知して、当該原材料製造業者をして新規参入者に対する原材料の供給を拒絶させること

(2)

競争関係にある事業者が共同して、上記(1)[1]〜[4]のような行為を行うことは、これによって市場における競争が実質的に制限されるまでには至らない場合であっても、原則として不公正な取引方法に該当し、違法となる(独占禁止法第19条違反)(一般指定1項(共同の取引拒絶))。

3 取引先事業者等との共同ボイコット

(1)

事業者が取引先事業者等と共同して、例えば次のような行為を行い、これによって取引を拒絶される事業者が市場に参入することが著しく困難となり、又は市場から排除されることとなることによって、市場における競争が実質的に制限される場合には、当該行為は不当な取引制限に該当し(注3)、独占禁止法第3条の規定に違反する。

[1] 複数の販売事業者と複数の製造業者とが共同して、安売りをする販売業者を排除するために、製造業者は安売り業者に対する商品の供給を拒絶し、又は制限し、販売業者は安売り業者に対し商品を供給する製造業者の商品の取扱を拒絶すること

[2] 製造業者と複数の販売業者とが共同して、輸入品を排除するために、販売業者は輸入品を取り扱わず、製造業者は輸入品を取り扱う販売業者に対する商品の供給を拒絶すること

[3] 複数の販売業者と製造業者とが共同して、販売業者の新規参入を妨げるために、製造業者は新規参入者に対する商品の供給を拒絶し、販売業者は新規参入者に対し商品を供給する製造業者の商品の取扱を拒絶すること

[4] 複数の原材料製造業者と完成品製造業者とが共同して、輸入原材料を排除するために、完成品製造業者は輸入原材料を購入せず、原材料製造業者は輸入原材料を購入する完成品製造業者に対する原材料の供給を拒絶すること

(注3)不当な取引制限は、事業者が他の事業者と共同して「相互にその事業活動を拘束」することを要件としている(独占禁止法第2条第6項)。ここでいう事業活動の拘束は、その内容が行為者(例えば、製造業者と販売業者)すべてに同一である必要はなく、行為者のそれぞれの事業活動を制約するものであって、特定の事業者を排除する等共通の目的の達成に向けられたものであれば足りる。

なお、取引先事業者等との共同ボイコットにより、市場における競争が実質的に制限されると認められる場合の例については、上記(注2)を参照されたい。

(2)

事業者が取引先事業者等と共同して、上記(1)[1]〜[4]のような行為を行うことは、これによって市場における競争が実質的に制限されるまでには至らない場合であっても、原則として不公正な取引方法に該当し、違法となる(一般指定1項(共同の取引拒絶)又は2項(その他の取引拒絶))。

4 事業者団体による共同ボイコット

事業者団体が、例えば次のような行為を行い、これによって取引を拒絶される事業者等が市場に参入することが著しく困難となり、又は市場から排除されることとなることによって、市場における競争が実質的に制限される場合(注4)には、当該行為は独占禁止法第8条第1項第1号の規定に違反する。また、事業者団体が次のような行為を行うことは、これによって市場における競争が実質的に制限されるまでには至らない場合であっても、原則として独占禁止法第8条第1項第3号、第4号又は第5号(一般指定1項(共同の取引拒絶)または2項(その他の取引拒絶))の規定に違反する。

[1] 販売業者を構成事業者とする事業者団体が、輸入品を排除するために、構成事業者が輸入品を取り扱うことを禁止すること(独占禁止法第8条第1項第1号又は第4号)

[2] 販売業者及び製造業者を構成事業者とする事業者団体が、構成事業者である製造業者をして構成事業者である販売業者にのみ商品を供給し、アウトサイダーには商品を供給しないようにさせること(独占禁止法第8条第1項第1号又は第4号)

[3] 販売業者を構成事業者とする事業者団体が、アウトサイダーを排除するために、構成事業者の取引先である製造業者に対し、アウトサイダーに対し商品を供給しないよう要請する等によって圧力を加えること(独占禁止法第8条第1項第1号又は第5号)

[4] 販売業者を構成事業者とする事業者団体が、構成事業者の競争者の新規参入を妨げるために、構成事業者の取引先である製造業者に対し、新規参入者に対し商品を供給しないよう要請する等によって圧力を加えること(独占禁止法第8条第1項第1号又は第5号)

[5] 販売業者を構成事業者とする事業者団体が、事業者団体への新規加入を制限するとともに、構成事業者の取引先である製造業者をして、アウトサイダーに対する商品の供給を拒絶させること(独占禁止法第8条第1項第1号、第3号又は第5号)

[6] 役務を供給する事業者を構成事業者とする事業者団体が、当該事業者団体に加入しなければ事業を行うことが困難な状況において、事業者の新規加入を制限すること(独占禁止法第8条第1項第1号又は第3号)

(注4)事業者団体による共同ボイコットにより、市場における競争が実質的に制限されると認められる場合の例については、上記(注2)を参照。

(注2)共同ボイコットによって、例えば、次のような状況となる場合には、市場における競争が実質的に制限されると認められる。

[1] 価格・品質面で優れた商品を製造し、又は販売する事業者が市場に参入することが著しく困難となる場合又は市場から排除されることとなる場合

[2] 革新的な販売方法を採る事業者などが市場に参入することが著しく困難となる場合又は市場から排除されることとなる場合

[3] 総合的事業能力が大きい事業者が市場に参入することが著しく困難となる場合又は市場から排除されることとなる場合

[4] 事業者が競争の活発に行われていない市場に参入することが著しく困難となる場合

[5] 新規参入しようとするどの事業者に対しても行われる共同ボイコットであって、新規参入しようとする事業者が市場に参入することが著しく困難となる場合」

と引用しながら述べている。

 共同ボイコットもカルテルもどちらも原則違法であるという概念が、学会においては通説であるのに、本件事件においてはどうして信条の自由にもかかわっているのに、通説に従わなかったのかについては、入会拒否を行ったことについては両当事者に異議はないのであり、原審の認定にそった事実に基づいても原判決は不当である、これは原判決の事実認定には,著しい経験則違反ないし審理不尽の違法があるからである。

最高裁判所の判決違反について

「最 高 裁 判 所 判 例 集 判 決 全 文 表 示

判例 S59.02.24 第二小法廷・判決 昭和55(あ)2153 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律違反(第38巻4号1287頁)

判示事項:

  一 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独禁法」という。)八五条三号の規定と憲法一四条一項、三一条、三二条

二 独禁法八五条三号の規定と憲法七七条一項

三 石油製品の値上げの上限に関し通産省の了承を得させることとする行政指導がある場合と石油製品価格に関する不当な取引制限行為の成否

四 不当な取引制限行為が事業者団体によつて行われた場合と事業者の処罰

五 独禁法二条六項にいう「相互にその事業活動を拘束し」にあたる場合

六 独禁法二条六項にいう「公共の利益に反して」の意義

七 法人の従業者が法人の業務に関して独禁法八九条一項一号違反の行為をした場合と右従業者及び法人の処罰

八 独禁法八九条一項一号の罪の既遂時期

九 石油製品価格に関する行政指導の許される範囲

一0 適法な行政指導に従つて行われた行為と違法性の阻却

一一 独禁法九六条二項所定の告発状の方式

一二 刑訴規則五八条違反の瑕疵のある告発状の効力

一三 清算の結了による株式会社の法人格消滅の要件

一四 株式会社の吸収合併が不成立ないし不存在とはいえないとされた事例

一五 会社の吸収合併と刑事責任の承継

「目録:私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独禁法」という)八五条三号の規定と憲法一四条一項、三一条、三二条

独禁法八五条三号の規定と憲法七七条一項

石油製品の値上げの上限に関し通産省の了承を得させることとする行政指導がある場合と石油製品価格に関する不当な取引制限行為の成否

不当な取引制限行為が事業者団体によって行われた場合と事業者の処罰

独禁法二条六項にいう「相互にその事業活動を拘束し」にあたる場合

独禁法二条六項にいう「公共の利益に反して」の意義

法人の従業者が法人の業務に関して独禁法八九条一項一号違反の行為をした場合と右従業者及び法人の処罰

独禁法八九条一項一号の罪の既遂時期

石油製品価格に関する行政指導の許される範囲

適法な行政指導に従って行われた行為と違法性の阻却

独禁法九六条二項所定の告発状の方式

刑訴規則五八条違反の瑕疵のある告発状の効力

清算の結了による株式会社の法人格消滅の要件

株式会社の吸収合併が不成立ないし不存在とはいえないとされた事例

会社の吸収合併と刑事責任の承継−いわゆる石油ヤミカルテル事件−」

要旨:

  一 独禁法八九条から九一条までの罪に係る訴訟につき二審制を定めた同法八五条三号の規定は、憲法一四条一項、三一条、三二条に違反しない。

二 独禁法八九条から九一条までの罪に係る訴訟の第一審の裁判権を東京高等裁判所に専属させた同法八五条三号の規定は、憲法七七条一項に違反しない。

三 石油製品の値上げの上限に関し通産省の了承を得させることとする行政指導が行われており、右行政指導が違法とまではいえない場合であつても、石油製品元売り会社の従業者等が、値上げの上限に関する通産省の了承を得るために右上限についての業界の希望案を合意するに止まらず、その属する事業者の業務に関し、通産省の了承の得られることを前提として、了承された限度一杯まで各社一致して石油製品の価格を引き上げることまで合意したときは、右合意は、独禁法三条、八九条一項一号、九五条一項によつて禁止・処罰される不当な取引制限行為にあたる。

四 独禁法上処罰の対象となる不当な取引制限行為が事業者団体によつて行われた場合であつても、これが同時に事業者団体を構成する各事業者の従業者等によりその業務に関して行われたと観念しうる事情があるときは、右行為に対する刑責を事業者団体のほか各事業者に対して問うことも許される。

五 各事業者の従業者等が、事業者の業務に関し、その内容の実施に向けて努力する意思をもち、かつ、他の事業者もこれに従うものと考えて、製品の価格をいつせいに一定の幅で引き上げる旨の協定を締結したときは、協定の実効性を担保するための制裁等の定めがなくても、独禁法二条六項にいう「相互にその事業活動を拘束し」にあたる。

六 独禁法二条六項の「公共の利益に反して」との文言は、原則としては同法の直接の保護法益である自由競争経済秩序に反することを意味するが、現に行われた行為が形式上これに該当するものであつても、右法益と当該行為によつて守られる利益とを比較衡量すれば「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する」という同法の究極の目的に実質的には反しないと認められる例外的な場合を、同項にいう「不当な取引制限」行為から除外する趣旨を含む。

七 事業者たる法人の従業者である自然人が、法人の業務に関して、独禁法八九条一項一号に違反する行為をした場合には、行為者たる自然人及びその所属する法人は、いずれも、同法九五条一項及び同法八九条一項一号により処罰される。

八 事業者が他の事業者と共同して対価を協議・決定する等相互にその事業活動を拘束すべき合意をした場合において、右合意により、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争が実質的に制限されたものと認められるときは、独禁法八九条一項一号の罪は直ちに既遂に達し、右決定された内容が各事業者によつて実施に移されることや決定された実施時期が現実に到来することなどは、同罪の成立に必要でない。

九 石油業法に直接の根拠を持たない石油製品価格に関する行政指導であつても、これを必要とする事情がある場合に、これに対処するため社会通念上相当と認められる方法によつて行われるものは、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する」という独禁法の究極の目的に実質的に抵触しない限り、違法とはいえない。

一0 価格に関する事業者間の合意は、形式的に独禁法に違反するようにみえる場合であつても、適法な行政指導に従いこれに協力して行われたものであるときは、違法性を阻却される。

一一 独禁法九六条二項所定の告発状の方式には、刑訴規則五八条の適用ないし準用があり、公正取引委員会委員長の署名押印が必要である。

一二 告発状の方式に刑訴規則五八条違反の瑕疵がある場合でも、その体裁・形式・記載内容などから告発人の真意に基づいて作成されたものであることが容易に推認されうるときは、告発状の訴訟法上の効力は否定されない。

一三 清算の結了により株式会社の法人格が消滅したというためには、商法四三〇条一項、一二四条所定の清算事務が終了しただけでは足りず、清算人が決算報告書を作成してこれを株主総会に提出しその承認を得ることを要する。

一四 解散後清算事務を終了したが商法四二七条一項所定の手続が未了であつた甲株式会社につき会社継続の手続をしたうえ、乙株式会社をこれに吸収する合併契約をする等の手続を履践して行われた本件吸収合併(判文参照)は、これを不成立ないし不存在ということはできない。

一五 乙会社の従業者が会社の業務に関して価格協定に参加したのち、同会社が甲会社との吸収合併により消滅したときは、合併当時甲会社が清算事務を終了しており、かつ、右合併が乙会社の株式の額面金額の変更のみを目的としたものであつたとしても、現に存在する甲会社に対し右従業者の行為を理由としてその刑責を追及することは許されない。

参照・法条:

  私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律1条,私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律2条6項,私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律8条1項,私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律33条,私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律85条3号,私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律89条1項(昭和52年法律63号による改正前のもの),私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律95条1項(昭和52年法律63号による改正前のもの),私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律96条,憲法14条,憲法31条,憲法32条,憲法77条1項,商法124条,商法406条,商法408条,商法415条,商法427条,商法430条1項,刑訴法239条,刑訴法241条,刑訴法339条1項4号,刑訴法490条1項,刑訴規則58条,刑法35条,通商産業省設置法3条2号,石油業法3条,石油業法4条,石油業法7条,石油業法15条,法人ノ役員処罰ニ関スル法律「目録:独禁法85条3号,独禁法89条1項(昭52法63条による改正前),独禁法2条6項,独禁法95条1項,独禁法8条1項,独禁法1条,独禁法33条,独禁法96条,憲法14条,憲法31条,憲法32条,憲法77条1項,通産省設置法3条,通産省設置法2条,石油業法3条,石油業法4条,石油業法7条,石油業法15条,刑法35条,刑訴法239条,刑訴法241条,刑訴法339条1項4号,刑訴法490条1項,刑訴規則58条,商法124条,商法427条,商法430条1項,商法415条,商法406条,商法408条」

内容:

 件名  私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律違反 (最高裁判所 昭和55(あ)2153 第二小法廷・判決 一部破棄自判一部棄却)

 原審  東京高等裁判所

主    文

     原判決中、被告人P1株式会社、同P2株式会社及び同P3に関する部分を破棄する。

     右被告人らは、本件各公訴事実につき、いずれも無罪。

     その余の被告人らの本件各上告を棄却する。

理    由

 〔凡   例〕

 一 左に掲げる略称を用いることがあるほか、日常使用される略称を用いることがある。

  略   称     正 式  名 称

 独  禁  法  私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律

 公  取  委  公正取引委員会

 通 産 省    通商産業省

 通産大臣     通商産業大臣

 石     連  石油連盟

 オ ペ ツ ク  石油輸出国機構

 オアペ ツ ク  アラブ石油輸出国機構

 上告趣意(一)  弁護人眞子博次ほか三七名連名の上告趣意

 上告趣意(二)  弁護人澤田隆義ほか二名連名の上告趣意

 上告趣意(三)  弁護人八木良夫の上告趣意

 上告趣意(四)  弁護人福島幸夫ほか三名連名の上告趣意

 二 左の上段の文言は、下段の意味である。

 業    界   石 油 業 界

 元売り会社 石油製品元売り会社

 三 株式会社名については、名称中「株式会社」を単に(株)と表示する。

 四 被告人中自然人たる被告人は、例えば「被告人P4」又は単に「被告人P4」と表示し、法人たる被告人は、例えば「被告会社P1」と表示する。また、単に「被告人ら」というときは、原則として自然人たる被告人らを指すが、自然人たる被告人らと法人たる被告人らを総称して「被告人ら」ということもある。

 第一 上告趣意(一)第一点、第二点について

 所論は、独禁法八九条から九一条までの罪に係る訴訟の第一審の裁判権を東京高等裁判所に専属させ、右各罪につき二審制を定めている同法八五条三号の規定は、憲法一四条一項、三一条、三二条に違反する、というのである。

 しかしながら、裁判権及び審級制度については、憲法八一条の要請を満たす限り、憲法は法律の適当に定めるところに一任したものと解すべきことは、当裁判所の判例(昭和二二年(れ)第一二六号同二三年七月一九日大法廷判決・刑集二巻八号九二二頁、同二三年(れ)第一六七号同年七月一九日大法廷判決・刑集二巻八号九五二頁、同二七年(テ)第六号同二九年一〇月一三日大法廷判決・民集八巻一〇号一八四六頁)のくりかえし判示するところである。もつとも、右各判例も裁判権及び審級制度に関する定めにつき、立法機関の恣意を許すとする趣旨ではなく、ある種の事件につき他と異なる特別の審級制度を定めるには、それなりに合理的な理由の必要とされることを当然の前提としていると解すべきであるが、独禁法八九条から九一条までの罪については、これらの対象とする行為がわが国の経済の基本に関するきわめて重要なものであつて、これに対する判断が区々に分れその法的決着が遅延することは好ましくないこと等の特殊な事情があることなどに照らすと、独禁法が、右各罪に係る訴訟につき、その第一審の裁判権を東京高等裁判所に専属させ裁判官五名をもつて構成する合議体により審理させることとして、審級制度上の特例を認めたことには、それなりに合理性がないとはいえないというべきである。そうすると、同法八五条三号の規定が憲法一四条一項、三一条、三二条に違反するものでないことは、当裁判所の前記各大法廷判例の趣旨に徴して明らかであつて、所論は、理由がない。

 第二 同第三点について

 所論は、独禁法八五条三号の規定は、本来裁判所の自主的な規則によつて定められるべき刑事訴訟の管轄等の定めを法律によつて規定したものであるから、最高裁判所の規則制定権を定めた憲法七七条一項に違反する、というのである。

 しかし、法律が一定の訴訟手続に関する規則の制定を最高裁判所規則に委任してもなんら憲法に違反するものでないことは、当裁判所の判例(昭和二四年(れ)第二一二七号同二五年一〇月二五日大法廷判決・刑集四巻一〇号二一五一頁)の示すところであり、右判例が、法律により刑事訴訟の管轄等を定めることができるものであることを前提としていることはいうまでもない(最高裁昭和二八年(あ)第五三九号同三〇年四月二二日第二小法廷判決・刑集九巻五号九一一頁参照)。そうすると、独禁法八九条から九一条までの罪に係る訴訟の第一審の裁判権が東京高等裁判所に属することを定めた同法八五条三号の規定が憲法七七条一項に違反するものでないことは、当裁判所の前記大法廷判例の趣旨に徴して明らかである。所論は、理由がない。

 第三 同第四点について

 所論は、独禁法八九条一項一号の規定は、その定める構成要件があいまい不明確であるから、憲法三一条に違反する、というのである。

 しかし、独禁法八九条一項一号所定の罪の構成要件については、合理的な解釈によつてその意義を明確に理解しうるのであり(後記第五及び第六参照)、これが所論のようにあいまい不明確であるとはいえないから、所論は前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。第四 同第五点ないし第九点について

 所論は、多岐にわたるが、その主張の要旨は、原判決が、石油製品価格に関する通産省のガイドライン行政指導は本件当時慣行として定着していたとはいえないとしている点、本件の行為主体が石連の営業委員会とは別個の「価格の会合」であつたとしている点、被告人らの行為の性格につき「業界における主体的・自発的値上げの合意」であつて、行政指導に対する協力行為ではないとしている点はすべて誤りであり、かかる誤つた事実認定を前提として、被告人らが石油製品価格に関し独禁法三条、八九条一項一号、九五条一項によつて禁止・処罰される不当な取引制限行為(共同行為)を行つたと認めた原判決には、重大な事実誤認がある、というのである。

 所論は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

 所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、原判決のうち、本件当時における石油製品価格に関する通産省の行政指導の認定評価に関する説示部分及び本件各行為の主体等に関する認定部分には一部首肯しえない点があるが、被告会社らの従業者である被告人らが、その所属する被告会社の業務に関し、石油製品価格を各社いつせいに引き上げる旨の合意をしたものと認めた原判決の結論は、証拠上これを是認することができる(但し、後記説示のとおり無罪とする被告人らの関係を除く。第一五及び第一六参照)。その理由は、次のとおりである。

 一 原判決は、本件当時、石油製品価格に関し通産省によるおおむね次のような行政介入が行われていたとしており、これらの事実は、記録上いずれもこれを肯認することができる。

 1 オペツクの第一次ないし第三次原油値上げに伴い、業界による石油製品の値上げが予測された昭和四六年二月ころ、通産省鉱山石炭局長は、石連会長に対し、原油の値上がりを石油製品価格に転嫁する場合の基本方針を示すとともに、値上げする場合には、業界で勝手にこれを行わず、通産省に事前に連絡するように指示した。

 2 同年三月から四月にかけて、通産省担当官は、業界に対し、原油値上がり分のうち一バーレル当り一〇セントを業界に負担させることを内容とする、いわゆる「一〇セント負担」指導を行つて平均値上げ幅を示すとともに、これを油種別に展開した油種別値上げ幅の数字を示してその遵守を要請し、種々の折衝ののち、業界は、最終的に通産省の意向に副う値上げ案を作成し、その実行をした。3 同年一〇月から一一月にかけて、通産省は、石連会長らに対し、民生の安定上重要であるとして、元売り各社の白灯油価格を同年冬は引き上げずに、前需要期の各社それぞれの平均価格以下にするよう各社を指導する措置を講ずる旨通知した。4 同四七年二月、業界による「一〇セント負担」の解除の要請及び市況悪化を理由とする値上げの要請は、通産省担当官によつていずれも拒否されたが、同省鉱山石炭局幹部と業界首脳との会談ののち、業界の作成した油種別値上げ案が、結局において同省により了承された。5 その際、通産省鉱山石炭局石油計画課長P5は、石連営業委員長P6に対し、今後値上げの必要が生じたときは、予め話しに来るように指示した。6 本件第一回の値上げに際し、同年一二月、業界による「一〇セント負担」解除の要請が同局石油計画課総括班長角南立によつて拒否されたため、業界は、「一〇セント負担」を前提とする修正案を作成し、担当官の了承を得た。7 その後の第二回ないし第五回の値上げに際しても、通産省担当官は、業界による値上げの実施前に、その作成した値上げ案に対する了承を与えた。8 同四八年六月一八日の営業委員会においては、角南総括班長らが、文書に基づき、新ジユネーブ協定による原油値上がり分は、円高による差益とほぼ相殺となるので、その分の製品値上げをしてはならないこと等を内容とする価格指導方針を説明し(いわゆる「チヤラ論指導」)、なお、その際、市況調整値上げ分の製品値上げは、十分説明のつくもの以外は認めない旨付言した。9 その直後、石連重油専門委員会(スタデイ・グループ)の出光昭が、被告会社P7の社内資料に基づき中間留分についての値上げ案の内容を説明して意向を打診したが、角南総括班長は、業界全体の資料による説明でなければ困るとして、その回答を留保した。

 10 同月末、P5課長は、業界の七月値上げ案をいつたん了承したが、国会が開会中であることなどを理由に、その実施を一か月延期するよう要請し、業界は右指導に従つた。

 11 同年九月、資源エネルギー庁石油部長P8は業界に対し、家庭用灯油値上げの撤回を申し入れたが、石連営業委員長の被告人P4はこれに応ぜず、結局、石連P9理事のあつせんにより、家庭用灯油価格を九月末の時点で凍結することで落着した。

 12 同年一一月の値上げの際にも、角南総括班長は、被告会社P7の社内資料に基づき値上げ案の説明をした右被告人P4に対し、業界全体の資料を要求した。

 二 以上によると、通産省は、昭和四七年以降の本件を含む一連の石油製品の値上げに際しては、業界の値上げ案作成の段階において基本的な方針を示して業界を指導し(前記一、4、6、8)、これによつて、業界作成の値上げ案に通産省の意向を反映させたことが認められるが、同四六年の値上げの際と異なり、業界が作成してきた値上げ案に対しその値上げ幅をさらに削減させたり、自ら油種別値上げ幅の数字を示したりするような積極的・直接的な介入は、できる限りこれを回避していこうとする態度であつたことが窺われる。

 しかし、通産省がこのような基本的態度をとつていたということは、当時の行政指導が必ずしも弱いものであつたことを意味するものではない。前記のとおり、業界は、昭和四六年のいわゆる「一〇セント負担」を内容とする一連の行政指導によつて、石油製品の油種別上限価格を抑えられていたのであり(前記一、2)、その後の値上げの際には、通産省担当官から事前に話しに来るように指示されており(5) (なお、前後の経緯からすると、これは、値上げの上限に関し業界が事前に通産省担当官の了承を得るように指示されていたことを意味すると認められる。)、また、業界の値上げの希望は、同省の基本方針と抵触する限り事実上許容されなかつた(4、6)ばかりでなく、時には、同省が積極的に示した方針を値上げ案に反映させられたり(8)、いつたん了承を得た値上げ案の実施時期を延期せざるをえなかつたこともある(10)。また、業界が通産省の了承を得るには、必ず業界全体の資料に基づく説明が要求された(9、12)のであつて、当時のこのような通産省の行政指導(なお、右行政指導が違法とまではいえないことは、後記第一〇に説示のとおりである。)を前提とする限り、石油製品価格を、通産省の指導を無視して各社がその個別的判断によつて引き上げることは、事実上きわめて困難なことであつたといわなければならず、この点からすると、値上げに関する通産省の了承を得るための業界の価格に関する話合いないし合意が独禁法上一切許されないと解することは、業界に難きを強いる結果となつて、妥当とはいえない。したがつて、オペツク及びオアペツク等による原油値上げという石油製品の客観的値上げ要因を抱え、値上げの必要に迫られていた業界において、値上げの上限に関する通産省の了承を得るために、各社の資料を持ち寄り価格に関する話合いを行つて一定の合意に達することは、それがあくまで値上げの上限についての業界の希望に関する合意に止まり、通産省の了承が得られた場合の各社の値上げに関する意思決定(値上げをするか否か、及び右上限の範囲内でどの程度の値上げをするかの意思決定)をなんら拘束するものでない限り、独禁法三条、二条六項の禁止する不当な取引制限行為にあたらないというべきである。しかしながら、これと異なり、各事業者の従業者等が、値上げの上限に関する右のような業界の希望案を合意するに止まらず、その属する事業者の業務に関し、通産省の了承の得られることを前提として、了承された限度一杯まで各社一致して石油製品の価格を引き上げることまで合意したとすれば、これが、独禁法三条、八九条一項一号、九五条一項によつて禁止・処罰される不当な取引制限行為(共同行為)にあたることは明らかである。そうすると、本件における被告人らの行為が同法によつて処罰されるべきものであるかどうかは、それが証拠上右のいずれの場合にあたると認められるかによることとなる。

 三 そこで、この点につき検討するに、各被告会社の営業担当役員である被告人らが、オペツク及びオアペツク等の原油値上げに対応して、昭和四八年一月から一一月にかけ五回にわたり、石油製品価格の引上げを行うに際し、油種別の値上げ幅とその実施時期について一定の合意に達したことは、記録上明らかなところである。所論は、被告人らは、値上げの上限に関する通産省の了承を得るための業界の希望案について合意したにすぎないと主張するが、原判決が共同行為の存在を推認させるものとして指摘する多くの客観的事実関係の中には、被告人らが、通産省の了承の得られることを前提としてではあるが、各社いつせいに石油製品価格の引上げを行うこと及びその際の油種別の値上げ幅と実施時期についてまで合意したと考えるのでなければ合理的に理解することのできないものが多数存在し(例えば、原判決第三、三、(二)、1、(2)のニ、ホ、ト、チ、ヌなど)、これらの点については、所論によつても的確な反論がなされているとは認め難い。さらに、本件各合意の直後に、各被告会社においてほぼ一致して、合意された価格と実施時期におおむね対応する値上げの指示が支店等に対してなされていること、さらには、一致して共同行為の存在を認めた被告人らの検察官調書の内容(なお、被告人らの検察官調書は、証拠上否定し難い通産省の前記のような行政指導にほとんど全く触れておらず、捜査に欠けるところがあつてこれを全面的に措信することには問題が残るにしても、少なくとも前記一連の客観的事実関係とあいまつて、共同行為を認定するための資料とはなりうるものと解する。)等記録上明らかな証拠関係に照らすと、被告人らは、油種別の値上げの上限に関する業界の希望案を合意するに止まらず、右希望案に対する通産省の了承の得られることを前提として、一定の期日から、右了承の限度一杯まで石油製品価格を各社いつせいに引き上げる旨の合意をしたと認めざるをえないのであつて、所論は採用し難い。

 四 次に、右のような合意をしたのが石連の営業委員会とは別個の「価格の会合」であつたとする原判決の認定には、前記のとおり疑問がある。たしかに、原判決の指摘するとおり、右会合には、営業委員会の本来の構成員であるP10(株)及びP11(株)の各代表が出席していないことが明らかであり、また石連事務局員の列席がなく、議事録の作成もなされなかつたことも事実と認められるが、他方、右会合が右両社を除くその余の元売り会社を代表する営業委員又はその代理人(これは、当時の営業委員会の現実の構成員のほぼ全員である。)によつて構成されていたこと、右会合の責任者は営業委員長自身であり、営業委員長の交代とともに右会合の責任者も交代していること、右会合においては、営業委員会の下部機構である重油専門委員会(スタデイ・グループ)を使つて基礎計算及び値上げ原案の作成を行わせていること、右会合における合意の内容は、営業委員会によつて行われたことに争いのない昭和四六年の値上げの際の合意と実質において異なるところがないこと、P10とP11の代表の欠席は、両社が外資系の会社であるところから、公取委の摘発を恐れてのことであるが、会合における合意の結果は、その都度責任者から両社に連絡されていたこと、石連事務局員の欠席も、石連自身が公取委に摘発された昭和四六年の値上げの際の経験にかんがみ、累が石連に及ぶことを回避するため、右会合が石連とは無関係であるとの外観を作出しようとしたことの結果にすぎないことなどの点も、証拠上明らかなところであつて、これらの諸点を総合して考察すると、本件各合意の行われた会合は、やや変則的な構成ながら、石連の営業委員会とその実体を同じくする会合であつたと認めるのが相当である。たがつて、本件における石油製品価格引上げに関する合意が、石連という事業者団体の機関ひいては石連自身によつて行われたという一面は、これを否定することができない。

 しかしながら、独禁法上処罰の対象とされる不当な取引制限行為が事業者団体によつて行われた場合であつても、これが同時に右事業者団体を構成する各事業者の従業者等によりその業務に関して行われたと観念しうる事情のあるときは、右行為を行つたことの刑責を事業者団体のほか各事業者に対して問うことも許され、そのいずれに対し刑責を問うかは、公取委ないし検察官の合理的裁量に委ねられていると解すべきである。

これを本件についてみると、前認定のとおり、各被告会社の営業担当役員である被告人らは、P10とP11を除くその余の全元売り会社の営業担当役員によつて事実上構成される石連の営業委員会において、石油製品価格の油種別の値上げ幅と実施時期を定め、通産省の了承を前提として各社いつせいに値上げを行う旨合意をしたものであるところ、かかる事実関係のもとにおいては、被告人らの右行為は、石連の営業委員としての行為であると同時に、その所属する各事業者の業務に関して行われたものと認めるのが相当であるから、右合意をした会合を、原判決の認定と異なり石連の営業委員会であると認定したからといつて、その点は、各被告会社の刑責になんら消長を及ぼすものではない。

 五 以上のとおりであつて、本件価格協定の存否をめぐる原判決の認定には、前記のとおりその行為主体を石連の営業委員会ではないとしている点等において一部首肯しえないところもあるが、被告人らがその所属する被告会社の業務に関し石油製品の価格をいつせいに引き上げる旨の価格協定を締結したとするその結論は相当として是認することができるから、原判決の右事実誤認は、判決に影響を及ぼすものとはいえない。

 第五 同第一〇点について

 所論は、価格に関し独禁法三条にいう「不当な取引制限」行為が行われたといえるためには、その違反を防止する有効な手段を伴つた拘束力ある価格協定が締結される必要があるのであつて、右拘束力を事実上不要であるかのごとき説示をした原判決は、法令の解釈を誤り、憲法三一条、三九条に違反する、というのである。

 所論は、違憲をいう点を含め、実質は独禁法三条、二条六項の解釈を争う単なる法令違反の主張にすぎず、適法な上告理由にあたらない。

 所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、原判決の認定したところによれば、被告人らは、それぞれその所属する被告会社の業務に関し、その内容の実施に向けて努力する意思をもち、かつ、他の被告会社もこれに従うものと考えて、石油製品価格を各社いつせいに一定の幅で引き上げる旨の協定を締結したというのであり、右事実認定はさきに説示した意味において当審としても是認しうるところ、かかる協定を締結したときは、各被告会社の事業活動がこれにより事実上相互に拘束される結果となることは明らかであるから、右協定は、独禁法二条六項にいう「相互にその事業活動を拘束し」の要件を充足し同項及び同法三条所定の「不当な取引制限」行為にあたると解すべきであり、その実効性を担保するための制裁等の定めがなかつたことなど所論指摘の事情は、右結論を左右するものではない。したがつて、これと同旨の原判断は、正当である。

 第六 同第一一点について

 所論は、独禁法二条六項にいう「公共の利益に反して」とは、同法の定める趣旨・目的を超えた「生産者・消費者の双方を含めた国民経済全般の利益に反した場合」をいうと解すべきであるから、これと異なる見解に依拠した原判決は、法令の解釈を誤つたものである、というのである。

 所論は、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

 所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、独禁法の立法の趣旨・目的及びその改正の経過などに照らすと、同法二条六項にいう「公共の利益に反して」とは、原則としては同法の直接の保護法益である自由競争経済秩序に反することを指すが、現に行われた行為が形式的に右に該当する場合であつても、右法益と当該行為によつて守られる利益とを比較衡量して、一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する」という同法の究極の目的(同法一条参照)に実質的に反しないと認められる例外的な場合を右規定にいう「不当な取引制限」行為から除外する趣旨と解すべきであり、これと同旨の原判断は、正当として是認することができる。

 第七 同第一二点について

 所論は、原判決は「公共の利益に反して」という構成要件に該当するか否かの判断の前提となる事実の認定を誤つたものである、というのである。

 所論は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

 また、記録を調べても、原判決に、所論のような事実誤認があるとは認められない。第八 同第一三点について

 所論は、事業者たる法人の従業者によつて事実上独禁法違反の行為が行われた場合には、右法人はもとより自然人たる従業者についても、これを処罰すべき罰則が同法上存在しないから、被告人らを同法違反の罪に問擬した原判決は、法令の解釈適用を誤り、憲法三一条、三九条に違反する、というのである。

 所論は、違憲をいう点を含め、実質は単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

 所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、本件におけるように、事業者たる法人の従業者である自然人が、その所属する法人の業務に関して、独禁法八九条一項一号に違反する行為をした場合には、行為者たる自然人及びその所属する法人は、いずれも、同法九五条一項及び同法八九条一項一号により処罰されると解すべきである(最高裁昭和五四年(あ)第一四五一号同五五年一〇月三一日第一小法廷決定・刑集三四巻五号三六七頁、同三三年(あ)第一五一二号同三四年六月四日第一小法廷決定・刑集一三巻六号八五一頁各参照)。この点に関する原判決の説示中には、措辞やや適切を欠く点もあるが、被告人らが独禁法八九条一項所定の刑罰(但し、法人については罰金刑のみ)に処せられるべきであるとしたその結論は、正当である。第九 同第一四点について

 所論は、独禁法八九条一項一号の罪の既遂時期は、共同行為によつて合意された内容が現実に実施に移されたときと解すべきであるから、合意の時点又はその実施時期の到来した時点において右罪が既遂に達するとした原判決は、判例(東京高等裁判所昭和三一年一一月九日判決・行政事件裁判例集七巻一一号二八四九頁)に違反し、同法の解釈を誤つたものである、というのである。

 所論のうち、判例違反をいう点は、所論引用の判例は、共同行為が行われても合意の内容が実施に移されない限り独禁法八九条一項一号の罪は成立しないという趣旨まで判示したものとは認められないから、前提を欠き、その余は単なる法令違反の主張であつて、いずれも適法な上告理由にあたらない。

 所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、事業者が他の事業者と共同して対価を協議・決定する等相互にその事業活動を拘束すべき合意をした場合において、右合意により、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争が実質的に制限されたものと認められるときは、独禁法八九条一項一号の罪は直ちに既遂に達し、右決定された内容が各事業者によつて実施に移されることや決定された実施時期が現実に到来することなどは、同罪の成立に必要でないと解すべきである。原判決の記載も、これを全体としてみれば、結局右に説示したところと同趣旨に帰着すると認められるので、原判決に所論のような法令解釈の誤りがあるとは認められない。

 第一〇 同第一五点、第一七点について

 所論は、被告人らは、通産省による適法な行政指導に従つて行動していたのであるから、その行為は、全体としての法秩序に反せざるものとして違法性が阻却されるというべきであつて、右違法性の阻却を認めなかつた原判決は、事実を誤認し、法令の解釈適用を誤つたものである、というのである。

 所論は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

 所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、物の価格が市場における自由な競争によつて決定されるべきことは、独禁法の最大の眼目とするところであつて、価格形成に行政がみだりに介入すべきでないことは、同法の趣旨・目的に照らして明らかなところである。しかし、通産省設置法三条二号は、鉱産物及び工業品の生産、流通及び消費の増進、改善及び調整等に関する国の行政事務を一体的に遂行することを通産省の任務としており、これを受けて石油業法は、石油製品の第一次エネルギーとしての重要性等にかんがみ、「石油の安定的かつ低廉な供給を図り、もつて国民経済の発展と国民生活の向上に資する」という目的(同法一条)のもとに、標準価格制度(同法一五条)という直接的な方法のほか、石油精製業及び設備の新設等に関する許可制(同法四条、七条)さらには通産大臣をして石油供給計画を定めさせること(同法三条)などの間接的な方法によつて、行政が石油製品価格の形成に介入することを認めている。そして、流動する事態に対する円滑・柔軟な行政の対応の必要性にかんがみると、

石油業法に直接の根拠を持たない価格に関する行政指導であつても、これを必要とする事情がある場合に、これに対処するため社会通念上相当と認められる方法によつて行われ、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する」という独禁法の究極の目的に実質的に抵触しないものである限り、これを違法とすべき理由はない。そして、価格に関する事業者間の合意が形式的に独禁法に違反するようにみえる場合であつても、それが適法な行政指導に従い、これに協力して行われたものであるときは、その違法性が阻却されると解するのが相当である。

 そこで、本件についてこれをみると、原判決の認定したところによれば、本件における通産省の石油製品価格に関する行政指導は、昭和四五年秋に始まるオペツク及びオアペツク等のあい次ぐ大幅な原油値上げによる原油価格の異常な高騰という緊急事態に対処するため、価格の抑制と民生の安定を目的として行われたものであるところ、かかる状況下においては、標準価格制度等石油業法上正式に認知された行政指導によつては、同法の所期する行政目的を達成することが困難であつたというべきである。また、本件において通産省が行つた行政指導の方法は、前認定のとおり、昭和四六年の値上げの際に設定された油種別価格の上限を前提として、値上げを業界のみの判断に委ねることなく事前に相談に来させてその了承を得させたり、基本方針を示してこれを値上げ案に反映させたりすることにより価格の抑制と民生の安定を保とうとしたものであつて、それが決して弱いものであつたとはいえないにしても、基本的には、価格に関する積極的・直接的な介入をできる限り回避しようとする態度が窺われ、これが前記のような異常事態に対処するため社会通念上相当とされる限度を逸脱し独禁法の究極の目的に実質的に抵触するものであつたとは認められない。したがつて、本件当時における通産省の行政指導が違法なものであつたということはできない。

 しかしながら、すでに詳細に認定・説示したところから明らかなとおり、本件において、被告人らは、石油製品の油種別値上げ幅の上限に関する業界の希望案について合意するに止まらず、右希望案に対する通産省の了承の得られることを前提として、一定の期日から、右了承の限度一杯まで各社いつせいに価格を引き上げる旨の合意をしたものであつて、これが、行政指導に従いこれに協力して行われたものと評価することのできないことは明らかである。したがつて、本件における被告人らの行為は、行政指導の存在の故にその違法性を阻却されるものではないというべきであり、これと同旨に帰着する原判断は、正当である。第一一同第一八点について

 所論は、被告人らは、通産省担当官の行政指導に従つて行動していたのであつて、違法性の意識を欠き、かつそのことに無理からぬ事情があつたのであるから、被告人らには独禁法違反の犯意がないというべきであり、したがつて、被告人らの犯意の阻却を認めなかつた原判決は、事実を誤認したものである、というのである。

 所論は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

 所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、被告人らの本件各行為が通産省担当官の行政指導に従つて行われたと認められないことは前説示のとおりであり、また、記録によれば、被告人らに違法性の意識があつたことはこれを否定し難いのであつて、これと同旨の原判断は、正当である。なお、所論は、原審において無罪の確定している石油連盟ほか二名に対する独禁法違反被告事件の判決(東京高等裁判所昭和四九年(の)第一号同五五年二月二八日判決、いわゆる生産調整事件判決)の判示を援用して、本件についても右事件におけると同様犯意の阻却を認めるべきであると主張するが、右事件と事案を異にする本件において被告人らの犯意の阻却を認めないことは、なんら右判決の判示と矛盾・抵触するものではない。第一二同第一六点について

 所論は、本件において公取委から検事総長に提出された告発状には、独禁法三三条一項、刑訴規則五八条一項に違反する方式上の瑕疵があり、右告発はその効力を有しないというべきであるから、これを有効と認めた原判決には、法令の解釈を誤つた違法がある、というのである。

 所論は、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

 所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、独禁法九六条は、同法八九条から九一条までの罪につき、公取委の文書による告発を訴訟条件としているほか、告発の方式につきなんら定めるところがないが、公取委が合議体の行政官庁であつて、委員長がこれを代表するとされていること(同法三三条一項)、及び右告発状が起訴後は当然に裁判所への提出を予定されたものであることなどに照らすと、右告発状の方式には、刑訴規則五八条の適用ないし準用があり、委員長の署名押印が必要であると解すべきである。ところで、本件において検察官が訴訟条件の立証のため提出した告発状等の書面には、公取委の記名と庁印の押捺はあるが、委員長の署名押印がないのであるから、右告発状等には、刑訴規則五八条に違反する方式上の瑕疵があるといわなければならない。

 しかしながら、告発状に刑訴規則五八条違反の方式上の瑕疵がある場合でも、その体裁・形式・記載内容などから、これが告発人の真意に基づいて作成されたものであることが容易に推認されうるときは、右告発状の訴訟法上の効力は否定されないと解すべきである。右の観点から本件告発状等をみると、昭和四九年二月一五日付の検事総長あて告発状の一枚目には、作成名義人として「公正取引委員会」の記名と庁印の押捺があるほか、右告発状の二枚目以下に添付・契印されてその内容をなすと認められる同日付の告発状と題する書面には、告発人として「公正取引委員会、右代表者委員長P12、右指定代理人P13」、被告発人としてP7株式会社ほか二四名の各表示及び本件一連の告発事実の各記載があり、また、やはり同日付の告発代理人指定書と題する「公正取引委員会委員長P12」の記名押印ある文書には、告発人公取委が被告発人P7株式会社ほか二四名に対する告発事件につき復代理人選任以外の一切の告発に関する権限を公取委事務局勤務の検事兼総理府事務官P13に委任する旨の記載があるのであつて、これらの書面を全体として観察すれば、本件告発状が公取委の真意に基づき作成されたものであることを容易に推認することができるから、右告発状に関する前記のような方式上の瑕疵は、その訴訟法上の効力に影響を及ぼすものではないと解すべきである。したがつて、この点に関する原判断は、正当である。

 第一三 同第一九点について

 所論は、被告会社P14の営業担当役員であつた被告人P15及び同P16孝重は、本件各価格協定に参加した事実がないのであるから、右被告人両名及び被告会社P14を有罪と認めた原判決は、事実を誤認したものである、というのである。

 所論は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

 所論にかんがみ、職権をもつて記録を調査すると、右被告人両名が被告会社P14の業務に関し、本件各価格協定の行われた会合に加わり(被告人P15は第一回ないし第三回、同P16は第四回、第五回。但し、第五回は電話連絡による。)、その余の被告人らと共同して石油製品価格の値上げに関する合意をしたと認めた原判決に、所論の事実誤認があるとは認められない。第一四 同第二〇点について

 所論は、被告会社P17の営業担当役員であつた被告人P18は、本件各価格協定に加わつておらず、少なくとも、違法性の意識がなかつたのであるから、右被告人両名を有罪と認めた原判決は、事実を誤認したものである、というのである。

 所論は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

 また、所論にかんがみ、職権をもつて記録を調査しても、被告人P18の行動等に関する原判決の認定に、所論の事実誤認があるとは認められない。第一五 上告趣意(二)、(三)について

 所論は、被告人P3は、被告会社P1の業務に関し、その余の被告人らと共同して石油製品価格のいつせい引上げを行う旨の合意に加わつていないから、右合意への参加を肯定した原判決は事実を誤認したものであり、また、原判決が、被告会社P1の元売りしていないガソリン及びジエツト燃料油の両油種の価格協定についてまで被告人P3の共謀による加担を肯定した点は、判例(最高裁昭和二九年(あ)第一〇五六号同三三年五月二八日大法廷判決・刑集一二巻八号一七一八頁)に違反し、法令の解釈適用を誤つたものである、というのである。

 所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、原判決中被告人P3及び被告会社P1に関する部分は、次の理由により、破棄を免れない。

 一 原判決は、被告会社P1の営業担当役員である被告人P3が、本件五回の価格協定の行われた会合に終始加わつていたこと(但し、第五回については、電話連絡による。)、同被告会社においては、右各協定ののち、合意された値上げの実施時期にほぼ見合う時期に、ガソリン及びジエツト燃料油を除くその余の油種について、支店等に対し値上げの指示を行つていることなどの事実を認定して、右両油種以外の油種につき被告人P3が同被告会社の業務に関し独禁法三条、二条六項所定の不当な取引制限行為にあたる価格協定に加わつたと認めたほか、本件においては、全油種平均値上げ幅を計算したうえ、これを各油種に展開して各油種の値上げ幅が決定されたものであつて、右両油種の各値上げ幅が同被告会社の取り扱うその余の油種の値上げ幅に影響することを重視して、同被告人が同被告会社の業務に関し、右両油種に関しても、他の被告人らと共謀して、同被告会社を除くその余の被告会社らによる本件価格協定に加わつたものと認定した。

 二 しかしながら、原判決の認定した事実及び記録上明らかな事実を併せると、被告会社P1に関しては、その取り扱う油糧及び現実の値上げ指示の状況等に関し、他社と異なる次のような事情の存したことを指摘することができる。

 1 被告会社P1は、ジエツト燃料油を取り扱つておらず、また、ガソリンはその全量を被告会社P17に、日銀の卸売物価指数にリンクした価格で売り渡すことを契約上義務付けられているため、右両油種については他社と足並みを揃えて値上げすることが客観的に不可能であり、現に、本件当時被告会社P1において、右両油種に関する値上げの指示がなされたことは一度もないこと

 2 その余の油種については、同被告会社においてもある程度の値上げの指示がなされているが、その状況は、合意された内容と金額及び実施時期の点で、かなりのくいちがいがあること(例えば、原判決が第一回値上げに照応するものとして認定した同被告会社の値上げ指示の内容は、その実施時期が合意されたそれより一月遅れであつて、ナフサ、C重油についての指示を欠くほか、軽油、A重油、B重油の値上げ幅も合意と相当大幅に異なるものであり、第二回値上げに照応するものとして原判決が認定したところも、実施時期が二月遅れであつて、C重油についての指示を欠き、その余の油種の値上げ幅も合意と大幅に異なるものである。原判決の認定にかかる第三回値上げに照応する同被告会社の値上げの指示は、昭和四八年六月、七月、八月の三回に分けて小きざみになされていて、他社が値上げを見送つた七月にも一部値上げが断行されているほか、三回分の値上げ指示額の合計は、いずれも合意された価格とかなりの相違を来たしている。第四回、第五回値上げについても、多かれ少なかれ、同様の事情を指摘することができる。)

 三 また、右二に指摘した被告会社P1の特異な行動と関連する事実として、証拠上明白な次の諸点を指摘することができる。

 1 同被告会社は、業界におけるシエアがわずかに一・三ないし一・五パーセントの後発の元売り会社であり(業界最下位の第一四位)、ガソリン及びジエツト燃料油に関し前記二1のような特殊な事情があるほか、その余の油種についても、その約三分の二をP19(株)、P20(株)、P21(株)及びP22(株)の四商社に売り渡しており、支店等において同被告会社が独自に販売しているのは、残り約三分の一にすぎず、右支店等における一般売りの販売価格も、基本的には右四商社と取り決めた価格によつていること

 2 したがつて、同被告会社における石油製品価格は、同社において一方的に決定することができず、四商社との協議に委ねられていること

 3 同被告会社と四商社との値上げ交渉は、原価主義に基づき、年間一〇億円の利益を同被告会社に留保するという商社側との了解のもとに行われるのであり、現に本件においてもそのような交渉による商社側との合意に基づき値上げが実行されたのであるが、同被告会社が原油の相当量を右商社から購入している関係上、商社側は原油値上りの状況を知悉しているため、商社への売渡し価格に関する交渉の余地は、大きくないこと

 4 同被告会社は、現に合意の内容と大幅に異なる値上げ指示をしているにもかかわらず、他社から協定違反の抗議を受けたことは一度もなく、また、通産省においても、第三回値上げに際して行つた一か月延期の行政指導に従わない同被告会社の行動を黙認していること

 四 以上の二及び三各指摘の事実関係に照らして被告人P3の行動をみると、同被告人は、営業委員会における合意の内容に従い他社と足並みを揃えて石油製品価格の引上げを行うことが被告会社P1にとつて事実上不可能であるだけでなくそれほど必要性の強いことでもなかつたところがら、合意の内容の実施に向けて努力する意思を有しておらず、また、他社においても、同被告会社のかかる特殊性にかんがみ、そのことを暗黙のうちに了解していたのではないかという合理的な疑いがいまだ払拭されないというべきである。もつとも、原判決の認定するとおり、被告人P3は、本件一連の価格協定の行われた会合に出席しているのであり、少なくともこれに反対する意見を述べた形跡は証拠上見当らないのであるが、右協定の行われた会合がやや変則的な構成ながら石連の営業委員会であつて、右会合における被告人らの行為の中に、石油製品価格引上げの上限に関する通産省の了承を得るための業界の希望案の作成という性格のものがあつたと考えられることは、前説示のとおりであり、右希望案の作成については同被告会社といえども利害関係を有していたものと認められ、被告人P3が右希望案の作成のみに関与する趣旨で会合に出席したということも考えられるのであるから、被告人P3が右一連の会合に出席していたということから、直ちに、同被告人が同被告会社の業務に関して、本件各価格協定に参加したと認めることはできない。したがつて、右被告人両名に対する本件各公訴事実については、犯罪の証明がないと認めるほかはない。

 五 そうすると、これと異なり、被告人P3及び被告会社P1を、本件各公訴事実につき有罪と認めた原判決には、重大な事実誤認の違法があり、右違法は判決に影響を及ぼし、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。第一六上告趣意(四)について

 所論は、本件起訴状によつて起訴された被告会社P2は、被告人P23がその業務に関して本件各価格協定に参加したP2(株)とは法人格を異にする別個の会社であり、被告会社P2は右犯行とは無関係なのであるから、これを有罪と認めた原判決は、事実を誤認し、法令に違反し、かつ判例(最高裁昭和三八年(あ)第一九八号同四〇年五月二五日第三小法廷決定・刑集一九巻四号三五三頁)にも違反する、というのである。

 所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、原判決中被告会社P2に関する部分は、次の理由により、破棄を免れない。

 一 原判決は、被告会社P2の刑責の有無を判断するにあたり、おおむね次のような事実を認定している。

 1 商号をP2(株)とし、本店を東京都千代田区a町b丁目c番地に置き、資本金を三〇億円とする株式会社が、昭和三五年一二月二〇日に設立され(以下、右会社を「千代田区のP2」という。)、被告人P23は、同会社の業務に関し、本件各価格協定に参加したものである。

 2 右「千代田区のP2」は、その発行する額面株式一株の金額を五〇〇円から五〇円に変更してこれに市場流通性を持たせる目的で、登記簿上のみ存在し実体を欠くいわゆる休眠会社に吸収合併されることを企図し、P24を介して、休眠会社の売買を行つていたP25にそのあつせんを依頼した。3 右P25は、昭和三七年ころ、清算人であるP26から買い取つてあつた休眠会社P27(株)(昭和一六年六月に設立され、同一九年七月に解散の決議をし、同年一〇月その登記をする一方、残余財産の分配を終えて清算事務を終了したが、商法四二七条一項所定の決算報告書の作成・承認及び清算結了の登記は未了のまま放置されていたもの)につき、昭和四六年一月二六日、会社継続を内容とする株式会社継続登記、商号 本店等の変更登記(変更後の商号はP28(株)、同本店は東京都江東区e町f丁目g番h号)手続を経たうえ、吸収合併の準備として、同年六月三〇日、P28(株)の商号をP2(株)に、その目的を石油精製及び石油製品の販売等にそれぞれ変更し(以下、同社を「江東区のP2」という。)、P28(株)の全取締役及び監査役が辞任し、代わつて「千代田区のP2」の社員がこれに就任したことを内容とする株式会社変更登記手続を行つた。

 4 「千代田区のP2」は、その後、株式上場の準備を進め、昭和四八年五月一〇日、株式の額面金額の変更のみを目的として、「江東区のP2」との間で、後者が前者を合併することを内容とする合併契約書を作成したうえ、所要の手続を経て、同年一二月一日株式会社合併登記手続を完了し、同年一二月一七日には、「千代田区のP2」の解散登記及び「江東区のP2」の本店を「千代田区のP2」の本店所在地に移転する旨の変更登記手続をそれぞれ行つた。

 二 右の事実関係を前提とし、原判決は、「江東区のP2」は、その前身であるP27(株)が清算事務の終了により消滅して以来登記簿上のみ存在する不存在の会社であつたというべきであるから、これと「千代田区のP2」との合併は成立せず、「千代田区のP2」は合併及びこれに基づく解散の登記にもかかわらず、引き続き存在する(すなわち、被告会社P2がそれである)と解して、被告会社P2の刑責を肯定したのである。

 三 しかしながら、清算の結了により株式会社の法人格が消滅したといえるためには、商法四三〇条一項、一二四条所定の清算事務が終了したというだけでは足りず、清算人が決算報告書を作成してこれを株主総会に提出しその承認を得ることを要し(同法四二七条一項)、右手続が完了しない限り、清算の結了によつて株式会社の法人格が消滅したということはできない。本件についてこれをみると、原判決は、「江東区のP2」の前身たるP27(株)が解散して清算事務を終了したとの事案を認定するが、他方において、同会社につき、同法四二七条一項所定の手続が終了していなかつたと認めているのであるから、右の事実関係のもとにおいては、同会社はいまだ清算の結了によつて消滅したとはいえない。したがつて、同会社に対する会社の継続及び「千代田区のP2」との間の合併契約等所定の手続を履践して行われた本件吸収合併は、これを不成立ないし不存在と観念することは許されないのであつて、合併無効の訴えによりその効力を否定されない限り、商法上有効であるといわざるをえない。右のとおりであるとすると、被告人P23がその業務に関して本件価格協定に加わつた「千代田区のP2」は、その後「江東区のP2」に吸収合併されてその法人格を喪失したものというべきであり、したがつて、右合併後現に存在するP2(株)は「江東区のP2」であつて「千代田区のP2」とは別個の法人であるといわざるをえない。

 四 ところで、本件起訴状にいう被告会社P2が現に存在するP2(株)を意味すると解すべきことは、原審における検察官の主張及び記録上明らかな本件訴訟の経過等に照らして明らかであるところ、右P2(株)は、被告人P23がその業務に関して本件価格協定に参加した「千代田区のP2」とは前記のとおり法人格を異にする会社であるといわざるをえなしうえ、刑事責任については民事責任とは異なり合併による承継を理論上肯定し難いのであるから、合併後現に存在するP2(株)に対し、吸収合併により消滅した「千代田区のP2」の刑責を追及することは許されず、結局、他に特段の事情の認められない本件においては、被告会社P2については、その犯罪の証明がないことに帰着する。(なお、本件起訴状の公訴事実中には、被告人P23が被告会社P2の常務取締役として、その業務に関し本件各価格協定に参加した旨の記載がある。しかし、原審第一回公判期日における検察官の意見などによれば、検察官は、被告人P23が、本件当時石油製品元売りの営業活動をしていたP2(株)すなわち「千代田区のP2」の業務に関し本件各価格協定に参加したものとしてその刑責を追及していると認められるのであり、同被告人が右検察官主張の立場において本件各価格協定に参加したこと自体は証拠上明らかなところであるから、被告会社P2に対する場合とは異なり、被告人P23に対する本件各公訴事実は、その証明が十分であるといわなければならない。)

 五 そうすると、これと異なり、「千代田区のP2」と「江東区のP2」との合併が成立しないとして、被告会社P2を本件各公訴事実につき有罪と認めた原判決には、清算結了による株式会社の法人格の消滅等に関する商法の規定の解釈を誤り、ひいて刑罰法規の適用を誤つた違法があるというべきであり、右違法は判決に影響を及ぼし、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。

 第一七 結   論

 以上のとおりであつて、原判決のうち、被告会社P1及び被告人P3に関する部分を刑訴法四一一条三号により、被告会社P2に関する部分を同条一号により、それぞれ破棄したうえ、犯罪の証明がないものと認めて、同法四一三条但書、四一四条、四〇四条、三三六条により、右被告人三名に対しいずれも無罪の言渡しをすることとするが、その余の被告人らの本件各上告はその理由がな、いので、同法四一四条、三九六条により、いずれもこれを棄却することとする。

 この判決は、裁判官全員一致の意見によるものである。

 検察官川島興 公判出席

  昭和五九年二月二四日

     最高裁判所第二小法廷

         裁判長裁判官    木   下   忠   良

            裁判官    宮   ア   梧   一

            裁判官    大   橋       進

            裁判官    牧       圭   次

最 高 裁 判 所 判 例 集 判 決 全 文 表 示

判例 S62.07.02 第一小法廷・判決 昭和56(行ツ)178 損害賠償(第41巻5号785頁)

判示事項:

  民生用灯油につき石油元売事業者が行つた元売仕切価格の値上げ協定によつて一般消費者が損害を被つたとはいえないとされた事例

要旨:

  石油元売事業者が民生用灯油について元売仕切価格を値上げする価格協定を実施した場合において、その当時、原油の値上がり、需要の増加など灯油について顕著な値上がり要因があつたほか、民生用灯油の元売仕切価格について価格抑制指導をしていた通商産業省がその値上げを了承しており、右協定が実施されなかつたとしても、その元売仕切価格は現実のそれと径庭のない状態に至つたであろうと推認され、ひいてはその小売段階における価格も現実の小売価格を下回つたと認められないときは、灯油を購入した一般消費者は、右協定の実施によつて損害を被つたということができない。

参照・法条:

  私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律25条

内容:

 件名  損害賠償 (最高裁判所 昭和56(行ツ)178 第一小法廷・判決 棄却)

 原審  S56.07.17 東京高等裁判所

主    文

     本件上告を棄却する。

     上告費用は上告人らの負担とする。

         

理    由

 上告代理人上田誠吉、同宮本康昭、同佐々木恭三、同西村昭、同田岡浩之、同藤本斉、同平岩敬一、同関一郎、同脇山淑子、補佐人岩佐恵美の上告理由第一について

 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「法」という。)二五条の規定による損害賠償に係る訴訟については、法八〇条一項のような規定を欠いており、また、いわゆる勧告審決にあつては、公正取引委員会による違反行為の認定はその要件ではないから、本件審決の存在が違反行為の存在を推認するについて一つの資料となり得るということはできても、それ以上に右審決が違反行為の存在につき裁判所を拘束すると解することはできない(最高裁昭和五〇年(行ツ)第一一二号同五三年四月四日第三小法廷判決・民集三二巻三号五一五頁)。右と同旨の原審の判断は正当であり、論旨は採用することができない。

 同第二ないし第四について

 所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原審の認定にそわない事実に基づいて原判決の不当をいうものにすぎず、採用することができない。

 同第五について

 一 原審が確定した事実関係のもとにおいて、本件値上げ協定が上告人らの購入した灯油の購入価格の形成に影響を及ぼしたとすれば、それは本件第三の協定のうち民生用灯油に係る部分の実施による民生用灯油の元売仕切価格の変動を通じてのみであるとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。

 二 元売業者の違法な価格協定の実施により当該商品の購入者が被る損害は、当該価格協定のため余儀なくされた余計な支出であるから、本件のような最終の消費者が右損害を被つたことを理由に元売業者に対してその賠償を求め得るためには、当該価格協定に基づく元売仕切価格の引上げが、その卸売価格への転嫁を経て、最終の消費段階における現実の小売価格の上昇をもたらしたという関係が存在していることのほかに、かかる価格協定が実施されなかつたとすれば、右現実の小売価格よりも安い小売価格が形成されていたといえることが必要であり、このことはいずれも被害者たる消費者において主張立証すべき責任があるというべきである。もつとも、この価格協定が実施されなかつたとすれば形成されていたであろう小売価格(以下「想定購入価格」という。)は、現実には存在しなかつた価格であり、一般的には、価格協定の実施前後において当該商品の小売価格形成の前提となる経済条件、市場構造その他の経済的要因等に変動がない限り、協定の実施直前の小売価格をもつて想定購入価格と推認するのが相当であるといえるが、協定の実施以後消費者が商品を購入する時点までの間に小売価格の形成に影響を及ぼす顕著な経済的要因の変動があるときは、協定の実施直前の小売価格のみから想定購入価格を推認することは許されず、右小売価格のほか、当該商品の価格形成上の特性及び経済的変動の内容、程度その他の価格形成要因を検討してこれを推計しなければならない。

 原審の確定したところによれば、本件第三の協定の実施当時、民生用灯油について、元売仕切価格形成要因の変動としてとらえ得る事実及び価格上昇の要因があれば現実の上昇と結び付きやすい事情として、(1) 通商産業省(以下「通産省」という。)は、昭和四六年四月、民生用灯油の元売仕切価格について同年二、三月の価格に据え置くよう元売会社を指導し、以後この指導を継続していたが、昭和四八年六、七月ころ、各社それぞれの元売仕切価格を一キロリツトル当たり一〇〇〇円値上げすることを了承しており(その後、昭和四八年一〇月からは、同年九月末の価格で凍結するよう指導した。)、このような場合、石油製品の元売仕切価格は右行政指導に極めて誘導されやすい、(2) 昭和四五年以降いわゆるOPEC(石油輸出国機構)攻勢による原油の値上がりがあつたが、民生用灯油の価格抑制に特に腐心していた通産省が右元売仕切価格の値上げを了承したことは、当時少なくとも右値上げを必要やむを得ないとする程度のコスト上昇があつたことを推認させるものであり、現に原油の輸入価格は上昇の一途をたどつていた、(3) 当時、公害規制強化に伴う産業用燃料油の油種転換により灯油の需要が増加し、業界は通産省の指導で灯油の増産備蓄を行つたが、灯油の増産は、連産品である他の石油製品の在庫量の増大等によるコストの上昇につながる、(4) 当時、灯油価格は他の家庭用熱源に比較して低廉であつたから、価格上昇要因があるときは現実の値上げと結び付きやすい、(5) 灯油は、他の石油製品に比較してその精製に余分なコストを要するだけでなく、季節性の強い商品であり他の製品に比し備蓄等に余分なコストを要する、との事実があつたというのであり、右事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができ、その過程に所論の違法はない。

 右事実関係によれば、本件第三の協定の実施当時は、民生用灯油の元売段階における経済条件、市場構造等にかなりの変動があつたものであり、右協定の実施の前後を通じ、その小売価格の形成に影響を及ぼすべき経済的要因に顕著な変動があつたというべきであるから、前示のとおり、本件においては協定の実施直前の小売価格をもつてそのまま想定購入価格と推認することは相当でないといわざるを得ない。したがつて、原審が、上告人らの損害の有無を判断するに当たり、協定の実施直前の小売価格をもつて想定購入価格と推認する方法をとらなかつたことに所論の違法はない。

 三 そして、原審は、本件第三の協定の実施後に上告人らが購入した灯油の想定購入価格について、次のとおり認定判断した。すなわち、前記各事実からすれば、当時灯油について顕著な値上がり要因があつたというべきで、通産省の前記一〇〇〇円値上げの了承及び昭和四八年九月末の価格での凍結指導は、右要因をふまえた上で、元売各社の値上げ要望に一部こたえるとともに、民生用灯油の元売仕切価格を自由に形成される価格よりも低く押さえることを意図してされたものであり、昭和四八年一〇月以降昭和四九年三月までは、仮に本件第三の協定の実施がなかつたとしても、その元売仕切価格は右凍結価格と径庭のない状態に至つたであろうと推認でき、ひいてはその小売段階における想定購入価格も現実の小売価格を下回つたと断定することはできず、また昭和四八年八月及び九月における想定購入価格が現実の小売価格を下回つたか否かも不明である、というのである。

 原審の右認定判断は、前記値上がり要因等の事実を含め原審の確定した本件事実関係のもとにおいて是認し得ないものではなく、原判決に所論の違法があるということはできない。

 四 そうすると、本件においては、本件第三の協定に基づく元売仕切価格の引上げが、卸売段階での価格転嫁を経て現実の小売価格の上昇をもたらしたという関係が存するかどうかはともかく、右協定が実施されなかつたならば、現実の小売価格よりも安い小売価格が形成されていたといえないのであるから、結局、上告人らは本件第三の協定の実施によつて損害を被ったということができないことに帰するのであつて、上告人らの本件請求を理由がないとした原審の判断は正当であり、原判決に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原判決の結論に影響のない点についてその不当をいい、あるいは原審の認定にそわない事実若しくは独自の見解に基づいて原判決を論難するものであつて、採用することができない。

 同第六について

 法八四条一項に基づく公正取引委員会の意見は、裁判所が損害の存否、額を判断するに当たつての一つの参考資料にすぎず、裁判所の判断を何ら拘束するものでないことはいうまでもなく、また、裁判所が右意見と異なる判断をするに際し所論のような手続を必要とするものでないことも明らかである。原判決に所論の違法はなく、論旨は、独自の見解に基づき原判決の違法をいうものであつて、採用することができない。

 同第七について

 原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

     最高裁判所第一小法廷

         裁判長裁判官    大   内   恒   夫

            裁判官    角   田   禮 次 郎

            裁判官       島   益   郎

            裁判官    佐   藤   哲   郎

            裁判官    四 ツ 谷       巖

      選定者目録(一)

    川崎市多摩区菅一〇六一番地      A1外

    

判例 H01.12.08 第二小法廷・判決 昭和60(オ)933、昭和60(オ)1162 損害賠償(第43巻11号1259頁)

判示事項:

  一 独占禁止法二五条一項に定める違反行為によつて損害を被つたことと民法上の不法行為に基づく損害賠償請求

二 消費者が独占禁止法三条にいう「不当な取引制限」に当たる価格協定による損害の賠償を民法上の不法行為に基づき請求する訴訟において価格協定の実施直前の小売価格をもつていわゆる想定購入価格と推認することができるための要件

要旨:

  一 独占禁止法二五条一項に定める違反行為によつて損害を被つた者は、その行為が民法上の不法行為に該当する限り、同法の規定に基づき損害賠償の請求をすることができる。

二 消費者が事業者に対し、独占禁止法三条にいう「不当な取引制限」に当たる価格協定による損害の賠償を民法上の不法行為に基づき請求する訴訟において、価格協定の実施直前の小売価格をもつていわゆる想定購入価格と推認することができるのは、価格協定の実施当時から消費者が商品を購入する時点までの間にその商品の小売価格形成の前提となる経済条件、市場構造その他の経済的要因等に変動がないときに限られる。

参照・法条:

  民法709条,私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律2条6項,私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律2条9項,私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律3条,私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律19条,私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律25条1項

内容:

 件名  損害賠償 (最高裁判所 昭和60(オ)933、昭和60(オ)1162 第二小法廷・判決 破棄自判)

 原審  S60.03.26 仙台高等裁判所

主    文

     一 原判決中被上告人A1及び同A2に関する部分並びにその余の被上告人らについての上告人ら敗訴部分を破棄し、右各部分につき右被上告人らの控訴をいずれも棄却する。

     二 別紙選定者目録(一)から同(一七)までに選定当事者として表示された各被上告人らは、それぞれ上告人出光興産株式会社に対し、各同目録記載の各選定者ら負担に係る同目録返還金額欄記載の各金員及びこれに対する昭和六〇年三月三〇日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

     三 第一項に関する控訴費用及び上告費用は同項掲記の被上告人らの負担とし、前項の裁判に関する費用は同項掲記の被上告人らの負担とする。

         

理    由

 第一 上告人日本石油株式会社代理人各務勇、同鎌田久仁夫、上告人出光興産株式会社代理人梶原正雄、同梶原洋雄、上告人共同石油株式会社代理人吉田太郎、同塚本重ョ、同堤淳一、同安田彪、上告人三菱石油株式会社代理人日沖憲郎、同田中慎介、同久野盈雄、同今井壮太、訴訟承継前の上告人丸善石油株式会社代理人佐野隆雄、同近藤良紹、同釜萢正孝、上告人大協石油株式会社(現商号コスモ石油株式会社)代理人樋口俊二、同相良有一郎、同鶴田岬、同高野康彦、上告人ゼネラル石油株式会社代理人馬場東作、同高津幸一、同高橋一郎、上告人昭和シェル石油株式会社代理人藤井正博、同梶谷玄、同梶谷剛、同田邊雅延、同岡正晶、上告人キグナス石油株式会社代理人井本台吉、同長野法夫、同宮島康弘、同熊谷俊紀、同富田純司、同布施謙吉、上

告人九州石油株式会社代理人輿石睦、同松澤與市、同寺村温雄、上告人太陽石油株式会社代理人澤田隆義、同八木良夫、同梅澤良雄の上告理由についての判断

 一 同上告理由第一点について

 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独占禁止法」という。)の定める審判制度は、もともと公益保護の立場から同法違反の状態を是正することを主眼とするものであって、違反行為による被害者の個人的利益の救済を図ることを目的とするものではなく、同法二五条が一定の独占禁止法違反行為につきいわゆる無過失損害賠償責任を定め、同法(昭和五二年法律第六三号による改正前のもの。以下同法の条文のうち右法律による改正のあるものは改正前の条文である。)二六条において右損害賠償の請求権は所定の審決が確定した後でなければ裁判上これを主張することができないと規定しているのは、これによって個々の被害者の受けた損害の填補を容易ならしめることにより、審判において命ぜられる排除措置とあいまって同法

違反の行為に対する抑止的効果を挙げようとする目的に出た附随的制度にすぎないものと解すべきであるから、この方法によるのでなければ、同法違反の行為に基づく損害の賠償を求めることができないものということはできず、同法違反の行為によって自己の法的利益を害された者は、当該行為が民法上の不法行為に該当する限り、これに対する審決の有無にかかわらず、別途、一般の例に従って損害賠償の請求をすることを妨げられないものというべきである(最高裁昭和四三年(行ツ)第三号同四七年一一月一六日第一小法廷判決・民集二六巻九号一五七三頁参照)。

 被上告人らは、上告人らの独占禁止法三条(二条六項)違反の行為(不当な取引制限)が民法七〇九条所定の要件を充たすものであることを主張し、上告人らに対し、これによって被ったとする損害の賠償を求めて本訴を提起したものであるから、所論のような理由でこれを不適法とすべきものでないことは右の説示に照らし明らかというべきである。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

 二 同第二点一ないし四について

 所論は、独占禁止法三条違反の行為(不当な取引制限)の被害者として不法行為による損害賠償を請求できるのは、不当な取引制限をした事業者の直接の相手方に限られるとし、不当な取引制限をした事業者であるとされる上告人らの直接の相手方ではない被上告人らは原告適格を欠くという。しかしながら、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟においては、訴訟物たる当該損害賠償請求権を有すると主張している者である限り原告適格に欠けるところはないのであり、また、その者が主張する事実関係からは当該損害賠償請求権を有するものではないと解される場合であっても、その者の主張はその点において理由がないことになるために請求が棄却されるだけであって、その訴えが原告適格を欠き不適法とされるものではない。

 本訴において、被上告人らは、上告人らの前記独占禁止法違反行為によって自己の権利を侵害され損害を被ったことを主張していること、すなわち、本訴における訴訟物である同法違反行為に基づく損害賠償請求権を有することを主張しているものであることは明らかであるから、右に説示したところに照らし、本訴における原告適格に欠けるところはないものというべきである。また、前記のような独占禁止法違反行為(不当な取引制限)を責任原因とする不法行為訴訟においては、その損害賠償請求をすることができる者を不当な取引制限をした事業者の直接の取引の相手方に限定して解釈すべき根拠はなく、一般の例と同様、同法違反行為と損害との間に相当因果関係の存在が肯定できる限り、事業者の直接の取引の相手方であると、直接の相手方と更

に取引した者等の間接的な取引の相手方であるとを問わず、損害賠償を請求することができるものというべきであるから、本訴における被上告人らの主張をもって、それ自体理由がないものということもできない。したがって、右と同旨に帰する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

 三 同第三点について

 1 独占禁止法四八条は、公正取引委員会は、同法の規定に違反する行為があると認める場合において、審判手続を開始するに先立ち、まず、当該違反行為をしている者に対して右違反行為を排除するために適当な措置(以下「排除措置」という。)をとるべきことを勧告し、その者がこれを応諾したときは、審判手続を経ないで、勧告と同趣旨の排除措置を命ずる審決(以下「勧告審決」という。)をすることができるものとしている。この勧告審決の制度は、独占禁止法の目的を簡易迅速に実現するため、同法の規定に違反する行為をした者がその自由な意思によって勧告どおりの排除措置をとることを応諾した場合には、あえて公正取引委員会が審判を開始し審判手続を経て独占禁止法違反行為の存在を認定する必要はないものとし、ただ、その応諾の

履行を応諾者の自主的な履行に委ねることなく、審決がされた場合と同一の法的強制力によってその履行を確保するために、直ちに審決の形式をもって排除措置を命ずることとしたものであり、正規の審判手続を経てされる審判審決(同法五四条一項)が公正取引委員会の証拠による違反行為の存在の認定を要件とし、同意審決(同法五三条の三)が違反事実の存在についての被審人の自認を要件としているのに対し、勧告審決は、その名宛人の自由な意思に基づく勧告応諾の意思表示を専らその要件としている点にその法的特質を有するのである(最高裁昭和五〇年(行ツ)第一一二号同五三年四月四日第三小法廷判決・民集三二巻三号五一五頁参照)。

 このように、勧告審決は、勧告の応諾を要件としてされるものであって、独占禁止法違反行為の存在の認定を要件とするものではなく(公正取引委員会による違反行為の認定は勧告の要件にしかすぎない。)、したがって、勧告審決によって、右違反行為の存在が確定されるものではないのであるが、勧告の応諾は、違反行為の排除措置を採ることの応諾なのであるから、独占禁止法違反の行為を不法行為の責任原因とする損害賠償請求訴訟において、右違反行為の排除措置を命ずる勧告審決があったことが立証された場合には、違反行為の存在について、いわゆる事実上の推定が働くこと自体は否定できないものというべきである(前記第三小法廷判決参照)。そして、勧告審決の審決書には、排除措置との関係において排除されるべき違反行為を明確にす

るとともに審決の一事不再理の効力との関係において事実を特定するために、同法五七条一項にいう審決書に示すべき公正取引委員会の認定した事実として、勧告に際し公正取引委員会が認めた事実(同法四八条一項)、すなわち、勧告書に記載された事実(公正取引委員会の審査及び審判に関する規則二〇条一項一号)を示さなければならないのであり(前記第三小法廷判決参照)、前記勧告審決の法的特質と右の勧告審決書において独占禁止法違反の事実が示される意義にかんがみると、勧告審決の存在が立証されたことに基づく前記の事実上の推定は、当該勧告審決書の主文と審決書に示された同法違反の事実を実質的に総合対照し、勧告審決の主文の排除措置と関連性を有しない違反行為を除き、主文において命じられた排除措置からみて論理的に排除

措置がとられるべき関係にあると認められるすべての同法違反行為の存在についても働くことを否定することはできない。

 しかし、勧告審決は勧告の応諾を要件とするものであって、違反行為の存在の認定は要件とされていないものであることからみて、その有する事実上の推定の程度は、違反行為に関する公正取引委員会の証拠による事実認定を要件とする審判審決や被審人の違反行為事実の自認を要件とする同意審決に比して、相対的に低いものであり(前記第三小法廷判決、最高裁昭和五六年(行ツ)第一七八号昭和六二年七月二日第一小法廷判決・民集四一巻五号七八五頁参照)、また、勧告の応諾が、審判手続や審決後の訴訟等で争うことの時間的、経済的損失あるいは社会的影響に対する考慮等から、違反行為の存否とかかわりなく行われたことが窺われるときは、勧告審決が存在するとの事実のみに基づいて、その審決書に記載された独占禁止法違反行為が存在する

ことを推認することは許されないものと解するのが相当である。

 2 これを本件についてみるに、原審は、(一) 公正取引委員会は、昭和四九年二月五日、上告人ら石油元売一二社(当時)に対し、上告人らが共同して石油製品の販売価格(元売仕切価格)の引上げを決定しこれを実施したことは、独占禁止法二条六項の不当な取引制限に該当し、同法三条に違反するとして、上告人ら石油元売一二社が昭和四八年一一月上旬ころに行った値上げ決定の破棄を求めるなどの勧告を行ったところ、上告人らがこれを応諾したので、昭和四九年二月二二日、これと同趣旨の勧告審決をした(以下「本件勧告審決」という。)、(二) 本件勧告審決書には、公正取引委員会が認定した事実として、上告人ら石油元売一二社は、(1) 昭和四七年一一月下旬ころ、いずれも昭和四七年一〇月価格比で、揮発油、ジェット燃料油各一〇〇

〇円、ナフサ三〇〇円、灯油、軽油、A重油各五〇〇円、B重油四〇〇円、C重油一〇〇円(各一キロリットル当たり。以下同じ。)を目標にして、揮発油については昭和四八年一月一六日から、その余の石油製品については同年一月一日から販売価格を引き上げる旨の決定を、(2) 昭和四八年一月上旬ころ、いずれも昭和四七年一〇月価格比で、揮発油三〇〇〇円、ナフサ三〇〇円、ジェット燃料油、灯油、軽油、A重油各一〇〇〇円、B重油五〇〇円、C重油二〇〇円を目標にして、揮発油については昭和四八年二月一六日から、その余の石油製品については同年二月一日から販売価格を引き上げる旨の決定を、(3) 昭和四八年五月一四日、いずれも同年六月価格比で、灯油、軽油、A重油各一〇〇〇円、B重油三〇〇円を目標にして、同年七月一日か

ら(その後検討の上、同年八月一日からに変更)販売価格を引き上げる旨の決定を、(4) 昭和四八年九月上旬ころ、いずれも同年六月価格比で、揮発油三〇〇〇円、ナフサ、民生用灯油各一〇〇〇円、工業用灯油、軽油、A重油各二〇〇〇円、B重油六〇〇円、C重油二〇〇円を目標にして、同年一〇月一日から(揮発油は同年一一月一日から)販売価格を引き上げる旨の決定(なお、同年一〇月上旬ころ、C重油の引上げ額を四〇〇円に改めた。)を、(5) 昭和四八年一一月上旬ころ、同年六月価格比で、揮発油一万円、ナフサ、ジェット燃料油各五〇〇〇円、工業用灯油、軽油、A重油各六〇〇〇円、B重油、C重油各三〇〇〇円を目標にして、同年一一月中旬から(揮発油は同年一二月一日から)販売価格を引上げる旨の決定を、それぞれした旨の記

載がある(以上これらの決定を、以下「本件各協定」という。)、との事実を確定した上、所論指摘のような事由を根拠に、勧告審決がされたことをもって、その余の審決との間には審決に至る過程の相違により推定の程度に強弱があるにしても、独占禁止法違反行為の存在につき事実上の推定を働かせることができ、また、審決書の記載から明らかに単なる事情として記載されたものを除き、審決書全体を通じて公正取引委員会が認定したものと認められる違反行為のすべてについて右事実上の推定が及ぶとの見解のもとに、上告人らに対し右のような本件勧告審決がされたことによって、反証のない限り、右審決書に示されたように、上告人らが本件各協定の価格協定をしたものと事実上推定することができるものであり、右事実を否定する上告人らの主張

に沿う証拠も右事実上の推定を動かすに足る反証とはならない、と判断した。

 3 勧告審決の存在に基づく独占禁止法違反行為の存在についての事実上の推定及びその推定の及ぶ範囲については、前記1のように解すべきところ、本件において、前記2のとおり、本件勧告審決がされたことに基づいて上告人らによる本件各協定全部の存在について事実上の推定を及ぼすことができるとした原審の判断は、その根拠として、勧告審決もその実質に着目すれば他の審決と同様、公正取引委員会の認定した事実に基礎を置くものと解されること等を挙げている点において、その措辞必ずしも適切とはいい難いものがあるが、原審の確定した本件勧告審決書の主文と審決書に示された前記独占禁止法違反の事実を実質的に総合対照すると、本件各協定は、主文において命じられた排除措置からみてすべて論理的に排除措置がとられるべき関係に

あるものということができるから、事実上の推定が働くとしたことは、その限りにおいて是認することができる。

 しかしながら、記録によると、上告人らは、原審において、本件勧告審決の前提としての勧告の応諾がされた当時の石油業界をめぐる経済的社会的情勢を詳細に主張し、上告人ら石油元売一二社としては、決して独占禁止法違反行為を認めたために勧告を応諾したのではなく、右の情勢からみて勧告の応諾を拒否して審判・訴訟で争うのは石油業界の置かれた状況を悪化させることになって得策ではなく、勧告を応諾したとしても同法違反行為を認めることにはならないから勧告を応諾したほうがよいという通産省当局による強力な慫慂があり、また、同法違反行為の存否を長い時間、多大の費用をかけて争うことによるデメリットを考慮し、その結果、勧告を応諾したものであることを主張し、かつ、これに沿う証拠を提出しているが、この証拠によれば、

右主張事実、すなわち、上告人らのした勧告の応諾は、違反行為の存否とかかわりなく行われたことが窺われるから、前記1の説示に照らし、本件勧告審決が存在するとの事実のみに基づいて、審決書に記載された上告人ら石油元売一二社による本件各協定の締結という独占禁止法違反行為が存在することを推認することは許されないことになるものというべきである。しかるに、原審は右事情の存否につきなんら判断を加えることなく、前記のとおり事実上の推定を働かせて同法違反行為の存在を推認しているのであるから、この点において、原判決は、法令の解釈適用を誤り、ひいては理由不備の違法を犯したものというべきである。右の違法をいう論旨は理由があり、原判決中被上告人A1及び同A2に関する部分並びにその余の被上告人らについての上告

人ら敗訴部分は、この点において破棄を免れないものというべきである。

 四 同第九点について(勧告審決の存在のみによって事実上の推定を働かせて本件各協定の存在を確認した原審の判断が是認できないことは、三に説示したとおりであるが、この論旨との関係では、本件各協定の存在の有無はひとまずおいて判断する。)

 1 本件のような石油製品の最終消費者が、石油元売業者の違法な価格協定の実施により損害を被ったことを理由に石油元売業者に対してその賠償を求めるためには、次の事実を主張・立証しなければならないものと解される。

 まず、(一) 価格協定に基づく石油製品の元売仕切価格の引上げが、その卸売価格への転嫁を経て、最終の消費段階における現実の小売価格の上昇をもたらしたという因果関係が存在していることが必要であり、このことは、被害者である最終消費者において主張・立証すべき責任があるものと解するのが相当である(前記昭和六二年七月二日第一小法廷判決参照)。

 次に、(二) 元売業者の違法な価格協定の実施により商品の購入者が被る損害は、当該価格協定のため余儀なくされた支出分として把握されるから、本件のように、石油製品の最終消費者が石油元売業者に対し損害賠償を求めるには、当該価格協定が実施されなかったとすれば、現実の小売価格(以下「現実購入価格」という。)よりも安い小売価格が形成されていたといえることが必要であり、このこともまた、被害者である最終消費者において主張・立証すべきものと解される。もっとも、この価格協定が実施されなかったとすれば形成されていたであろう小売価格(以下「想定購入価格」という。)は、現実には存在しなかった価格であり、これを直接に推計することに困難が伴うことは否定できないから、現実に存在した市場価格を手掛かりとして

これを推計する方法が許されてよい。そして、一般的には、価格協定の実施当時から消費者が商品を購入する時点までの間に当該商品の小売価格形成の前提となる経済条件、市場構造その他の経済的要因等に変動がない限り、当該価格協定の実施直前の小売価格(以下「直前価格」という。)をもって想定購入価格と推認するのが相当であるということができるが、協定の実施当時から消費者が商品を購入する時点までの間に小売価格の形成に影響を及ぼす顕著な経済的要因等の変動があるときは、もはや、右のような事実上の推定を働かせる前提を欠くことになるから、直前価格のみから想定購入価格を推認することは許されず、右直前価格のほか、当該商品の価格形成上の特性及び経済的変動の内容、程度その他の価格形成要因を総合検討してこれを推計しなければならないものというべきである(前記第一小法廷判決参照)。更に、想定購入価格の立証責任が最終消費者にあること前記のとおりである以上、直前価格がこれに相当すると主張する限り、その推認が妥当する前提要件たる事実、すなわち、協定の実施当時から消費者が商品を購入する時点までの間に小売価格の形成に影響を及ぼす経済的要因等にさしたる変動がないとの事実関係は、やはり、最終消費者において立証すべきことになり、かつ、その立証ができないときは、右推認は許されないから、他に、前記総合検討による推計の基礎資料となる当該商品の価格形成上の特性及び経済的変動の内容、程度その他の価格形成要因をも消費者において主張・立証すべきことになると解するのが相当である。

 2 しかるに、原審は、右1(二)の想定購入価格を算定するに当たり、次のとおり判断した。販売競争の激しい石油業界では、仮に原価上昇等の値上がり要因があったとしても石油元売会社の個別的な判断と努力によっては容易に値上げをなしえないのが実状であり、この実状にかんがみれば、価格変動(値上がり)要因があったとしても、価格協定の締結がない場合には通常、価格協定直前の価格、すなわち、価格協定の影響を受ける直前の元売仕切価格、したがってまた小売価格がそのまま継続するものと考えられるとし、元売段階あるいは流通段階に顕著な値上がり要因があり、価格協定の締結がない場合でも具体的な値上げ時期及び値上げ幅の割合をもって価格の上昇が確実に予測されるごとき特段の事情のない限りは、価格協定直前の元売仕切価格をもって想定元売仕切価格と、価格協定直前の小売価格をもって想定購入価格と解するのが相当であるとした上、右特段の事情の存否につき、まず、元売段階につき、(1) 石油製品は精製による付加価値が低いところから、製品の総合原価に占める原油価格の割合が高く、したがって、一般に原油価格の値上げがあれば石油製品価格の引上げの原因となることは明らかであり、現に、昭和四八年一月以降、いわゆるOPEC攻勢による原油CIF価格は上昇の一途をたどっていた、しかし、商品の価格は市場における競争のうちに形成されるものであるから、原価の値上がりがあっても直ちに商品価格の値上がりに結び付くものではないし、結果的には商品価格の値上げをもたらすものとしても、市場における商品の価格形成に至る過程は単純かつ一様ではな

いのみならず、石油製品は連産品であって、個々の製品の原価はなく、コスト上昇の製品への転嫁額は各会社の価格政策によって決定されるのであるから、仮に価格協定の締結なしに原価上昇を理由とする石油製品の値上げが現実に行われたとしても、白灯油(民生用灯油)を始めとする各製品の値上げの有無及びその時期、値上げ幅などを確定することはできない、(2) 昭和四八年初め頃から需要の軽質化が進んで次第に白灯油の需要が増加し、不需要期に入った同年四月から同年九月までの灯油の販売量は、昭和四六、四七年の同期に比し飛躍的に増加している、一般に需要の増加は、供給量を一定とした場合、価格の上昇をもたらすものであるが、業界では昭和四八年四月から同年八月にかけて通産省の指導により灯油の増産が行われ、その間の生産量、在庫量とも前年、前々年に比しいずれもかなりの増加を示しており、灯油の供給量ないし供給可能量が需要量に比例して伸びているものということができるから、右の経済原則は文字通りには働かない、また、原油処理量を増加させたことにより灯油以外の他の石油製品の増産をもたらし、その備蓄費用の増大を招いたとか、より高価な軽質原油を輸入することにより灯油の増産を図ったとかの事実は認められない、(3) 昭和四八年秋以降四九年春にかけて、いわゆる狂乱物価と呼ばれる時期があり、この時期において一般消費生活物資が全般的に非常に値上がりしたことは公知の事実であり、これが原油価格の高騰をその主たる契機として生じた現象といわれていることから、当時元売段階に顕著な価格変動要因が存していたことは否めないが、この要因が、白灯油はじめ各石油製品の価格値上げの時期及び値上げ幅の割合につき具体的にどの程度の影響を及ぼしたかは明らかでない、(4) 通産省の設定した元売仕切価格についての指導上限価格は、当時の価格指導の基本方針とその指導の経緯に照らせば、業界の石油製品の値上げに際し、その定めた製品の値上げ幅につき十分検討を加えた上で相当として承認を与えたという性質のものではないから、右上限価格の設定をもって、右にいう顕著な値上がり要因の存在と協定で定めた値上げ幅の相当性を示す証左とすることはできない、とし、次いで流通段階について、(5) 需要の軽質化傾向を原因とする白灯油の需要の増加の実態は工業用灯油に対する需要の増加に基づくもので、民生用灯油に対する需要の増加によるものではないから、流通(小売)段階

における値上げを必然的にもたらす要因となるものではない、また、仕入価格の引上げも結局元売仕切価格の引上げに起因するものであり、元売仕切価格の引上げをもたらす経済的必然性の認められない以上、これも流通段階における価格変動要因とはならない、(6) 昭和四六年以降の消費者物価指数、卸売物価指数、名目賃金指数の逐年の上昇と小売段階における人件費の占める割合(およそ五〇パーセント)からみて、人件費の上昇は特に小売価格の上昇を直接もたらすものであるが、生協関係において人件費の上昇の有無程度を具体的に知ることはできないし、また、灯油販売業は、兼業副業が圧倒的に多く、諸物価の騰貴、人件費の上昇を灯油関係費のみに結び付けることはできないし、その影響の程度も定かでない、(7) アポロ月山から鶴岡生協に対する昭和四八年一〇月及び一一月の販売数量が前年同期に比較して著しく増加しているが、同年度下期と前年度下期とでは販売数量そのものが激増しているのであるから、右販売数量の増加をもって仮需要の発生ということはできないし、一般取引の関係で仮需要の発生が認められるとしても、その販売価格に対する具体的な影響の有無程度を確定できない、(8) 昭和四八年一一月二八日に通産省は家庭用灯油の小売価格につき三八〇円(一八リットル当たり、店頭渡、容器代別)の指導上限価格を設定した、この価格設定は通産省において全石商、全石協等関係筋の意見を徴してされたものであるが、結局現状を追認した上での価格指導であって、価格協定の存在しない場合の小売価格を示唆するものではない、とそれぞれ説示して、元売段階、小売段階における値上がり要因とされる右事由は、いずれも前記の具体性をもって確実に予測される特段の事情たりえない、と判断し、鶴岡生協の組合員として同生協から白灯油を購入した被上告人ら(被上告人A3(ただし、別紙選定者目録(一)整理番号251ないし274の選定者に係る部分)、同A4及び同A2を除くその余の被上告人ら)の請求に関し、昭和四八年一〇月二一日以降の登録制による購入分についての想定購入価格は、協定直前の小売価格である二八〇円(一八リットル当たり。以下同じ)であり、同年一〇月二〇日までの現金供給分についての想定購入価格は、同じく三二〇円(前同)である、と推認し、一般小売店等から購入した被上告人A3(ただし、別紙選定者目録(一)整理番号251ないし274の選定者に係る部分)、同A4及び同A2の

請求に関し、昭和四八年一月以降の想定購入価格は、二八〇円を越えない、と推認した。

 3 しかしながら、直前価格をもって想定購入価格と推認することができる場合については前記1(二)のとおりに解するのが相当であるから、右の点に関する原審の判断を是認できないことは明らかである。のみならず、原審が指摘する前記2の(1)ないし(8)のうち、事実の評価に関する部分には、直ちにそのように判断してよいか問題の部分があるばかりでなく、原審も、(1)の原油価格の顕著な上昇の継続、(2)の白灯油の需要の飛躍的な増加、(3)のいわゆる狂乱物価の時期における一般消費生活物資の顕著な値上がり、(4)及び(8)の通産省の元売仕切価格についてされた指導上限価格の設定、(5)の流通段階における仕入価格の上昇、(6)の流通段階における人件費の上昇の各事実については、その存在を肯定しているのであり、また、原審は、通産省

が昭和四六年四月のいわゆる一〇セント負担の行政指導以来物価対策及び民生対策上の見地から特に白灯油への価格転嫁による一般消費者への影響を考慮し、強力な価格抑制政策をとっていたこと、すなわち、同年一〇月各元売会社に対し各社の白灯油元売仕切り価格を同年冬は値上げせず、同年二、三月の平均価格以下とするよう指導したこと、業界が昭和四七年一月のオペック第四次値上げに伴う原油の値上がりに対処するため通産省に対し一〇セント負担の解除を前提として石油製品値上げの意向を伝えたところ、通産省の担当官は、はじめ一〇セント負担の解除の要請を拒否したが、結局は一キロリットル当たり平均約三〇〇円の値上げとする油種別値上げ案を了承したこと、また通産省の担当官は、昭和四八年七月ころ同年八月一日を実施期日とする

業界の値上げ案につき了承を与えたが、同月三日その了承した値上げ案のうち一般家庭用に使用される白灯油についてはその値上げ幅を七〇〇円ないし八〇〇円に減らして欲しい旨申し入れ、これに応じない業界との間にしばらく応酬があったが、結局同年一〇月以降は、同年九月末の時点の価格で据え置く価格凍結指導を行うに至ったこと、このように、通産省の白灯油に対する価格指導は、上限価格を設定し、その範囲内での価格の変動を認めるという内容のものであったことを認定しているのであるから、以上の各事実を合わせ考慮すれば、本件各協定の実施当時から被上告人らが白灯油を購入したと主張している時点までの間に、民生用灯油の元売段階における経済条件、市場構造等にかなりの変動があったものといわなければならない(原審も、元売

段階に顕著な価格変動要因があったことは否めないとして、これを認めている。)。そうすると、直前価格をもって想定購入価格と推認するに足りる前提要件を欠くものというべきであるから、直前価格をもって想定購入価格と推認した原判決には、法令の解釈適用を誤った違法があり、右違法が判決に影響することは明らかであり、したがって、論旨は理由があり、この点について原判決は破棄を免れない。そして、原審は、白灯油の原価を基準としてその価格を推計する方法については、石油製品がいわゆる連産品であって、石油製品全体の価格はあっても製品別の原価はなく、かつ製品別の原価を算定する方法はないと認定しているのであり、また各協定に影響を受けない元売会社の同種製品から想定購入価格を推計する方法については、当時わが国内に

おいて右協定の影響を受けない製品価格の存在を認めることができないと認定しているから、このような推計方法もいずれも不可能であることが明らかであり、更に記録にあらわれた本件訴訟の経過に照らすと、被上告人らは、本件訴訟において、直前価格を想定購入価格として損害の額の算定をすべきであって、その方法以外には、損害の額の算定は不可能であると一貫して主張し、1(二)で説示した前記推計の基礎資料とするに足りる民生用灯油の価格形成上の特性及び経済的変動の内容、程度等の価格形成要因(ことに各協定が行われなかった場合の想定元売価格の形成要因)についても、何ら立証されていないのであるから、本件各協定が実施されなかったならば現実の小売価格よりも安い小売価格が形成されていたとは認められないというほかなく(なお、前記昭和六二年七月二日第一小法廷判決参照)、結局、被上告人らの請求は、この点において理由がなく(原判決は前記三に説示した違法によっても破棄を免れないが、この破棄理由によるまでもなく)、右請求を棄却した第一審判決は、結論として正当というべきである。

 五 以上の理由によれば、原判決中被上告人A1及び同A2に関する部分並びにその余の被上告人らについての上告人ら敗訴部分を破棄し、右各部分につき右被上告人らの控訴をいずれも棄却すべきである。

 第二 上告人出光興産株式会社の民訴法一九八条二項の規定による裁判を求める申立についての判断

 同上告人は、本判決添付の別紙申立のとおり、別紙選定者目録(一)から同(一七)までに選定当事者として表示された各被上告人らに対し、民訴法一九八条二項の裁判を求める申立をした。同上告人がその理由として陳述した同申立記載の事実関係は、同被上告人らにおいて明らかに争わないところであり、原判決中同上告人の敗訴部分が破棄を免れないことは前記説示のとおりである。

 したがって、以上の事実関係によれば、右各被上告人らは、同上告人に対し、右各被上告人らをそれぞれ選定当事者として選定した同各目録記載の各選定者が負担すべき金員として、右各選定者において原判決の仮執行宣言に基づいて給付を受けた金員及び同上告人が負担を余儀なくされた執行費用の合計額(その内訳は、別紙計算書その一及びその二の該当欄記載のとおりである。その合計額を同各目録の返還金額欄に記載した。)及びこれに対する右取立完了の日の翌日である昭和六〇年三月三〇日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があるものというべきであるから、右各被上告人らに対し、それぞれその支払を求める同上告人の申立は正当として認容すべきである。

 第三 結論

 よって、前記第一記載の各上告人ら代理人の上告理由のうちその余の論旨及び上告人太陽石油株式会社代理人澤田隆義、同八木良夫、同梅澤良雄が別途提出した上告理由に係る論旨に関する判断を省略し、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、一九八条二項、九六条、八九条、九三条に従い、裁判官島谷六郎の補足意見、裁判官香川保一の意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

 裁判官島谷六郎の補足意見は、次のとおりである。

 本件訴訟は、石油元売業者の価格協定の実施により、石油製品の購入者が損害を被ったとして、民法七〇九条による損害の賠償を求めるものであるが、その価格協定が実施されなかったとすれば形成されたであろう想定購入価格と消費者が現実に購入した際の小売価格との差額、価格協定の実施と現実購入価格の形成との間の相当因果関係の存在等についての主張立証の責任は、消費者において負担するものであること、多数意見において詳細に説示したとおりである。そして、現実の小売価格の形成には、経済的、社会的な幾多の要因があり、これら諸要因が複雑に競合して現実の小売価格が形成されるのであるから、想定購入価格の算出、小売価格と価格協定の実施との間の因果関係の有無等については幾多の難問が存在し、これらを消費者が主張立証す

ることは、極めて困難な課題であるといわなければならない。しかし、不法行為法の法理からすれば、まさに右説示のとおりであって、いまにわかにこの原則を変えるわけにはいかない。

 ところで、独占禁止法は、第二五条を設けて私的独占若しくは不当な取引制限をし、又は不公正な取引方法を用いた事業者に対し、損害賠償の責任を課しているのであるが、同条の訴訟においても、損害の発生、因果関係の主張立証については、民法七〇九条による訴訟におけると全く同様のことが消費者に求められている(前掲昭和六二年七月二日第一小法廷判決参照)のであって、やはりその主張立証は消費者にとって容易な業ではないのである。もし独占禁止法二五条に基づく訴訟について、消費者の被った損害の額につき何らかの推定規定を設けたならば、消費者が同条に基づく訴訟を提起することが容易となり、同条の規定の趣旨も実効あるものとなるであろうと考えられる。たとえば、事業者に対し、価格協定において定めた値上げ額を基準とし

て、一定の方式をもって算出される額を損害額と推定し、その賠償を命ずるが如きである。その算出方式については、立法過程における十分な検討によって、合理的な方式が見出されるべきものである。そのようにして、はじめて同条による訴訟が容易となり、独占禁止法の精神も実現されることになるであろう。そして消費者の被った損害の額について右のような推定規定をもつことによって、同条による訴訟が容易になるとするならば、消費者は民法七〇九条による訴訟を選んで困難な主張立証の責任を負うよりは、むしろ独占禁止法二五条の訴訟を選択することにより、その目的を達成することができるようになるものと思料する。

 裁判官香川保一の意見は、次のとおりである。

 私は、結論において多数意見と同じであるが、その理由については、次のとおり異にする。

 独占禁止法二五条は、同法にいう私的独占若しくは不当な取引制限又は不公正な取引方法を用いた事業者(以下これらの方法を用いた事業者の行為を「違反行為」という。)は、被害者に対しいわゆる無過失損害賠償責任を負うものとし、その被害者には、違反行為に基づく事業者との直接の取引の当事者には限らず、違反行為により間接的に不利益となる取引によって損失を受けた一般消費者等の間接の被害者も含まれるのであるが、このいわゆる無過失損害賠償責任を課することにより、間接の被害者の保護をも図るとともに、事業者の違反行為を抑止する効果を所期しているものというべきである。そして、これらの違反行為は、独占禁止法の制定により禁止され、違法とされることとなったものであり、右の独占禁止法二五条は、従来民法七〇九条に

よっては不法行為とされない違反行為について、これを特殊な不法行為として損害賠償の責に任ずるものとする特別規定を創設したものとみるべきである。そして、右の損害賠償請求権に関しては、その消滅時効の規定を設ける(同法二六条二項参照)ほか、その請求権の裁判上の行使、すなわち訴訟に関し、その出訴時期(同法二六条一項参照)、管轄裁判所及びその構成(同法八五条二号、八七条参照)並びに損害額についての公正取引委員会の意見聴取について規定が設けられている(同法八四条参照)のであるが、このような趣旨に徴すれば、違反行為による損害賠償請求権に関しては、民法七〇九条の適用はなく、実体上も訴訟上も独占禁止法の規定によるべきものと解するのが相当である。

 しかるところ、多数意見は、違反行為による損害賠償は、民法七〇九条による一般の不法行為の損害賠償としても請求することができるものとして、必ずしも独占禁止法二五条に基づくものとして請求することを要しないものとしているのであるが、かかる解釈は、前述したところにより果たして相当であり、妥当であるか甚だ疑問である。違反行為による損害賠償請求訴訟を事業者との直接の取引の当事者が提起する場合はともかく、間接の取引の当事者が被害者として右の訴えを提起する場合には、その損害の発生とその損害額さらには違反行為との相当因果関係が最も問題となるのであるが、民法七〇九条に基づく請求である限り、同条の不法行為一般の法理に従って、主張、立証がなされなければならず、確定審決による推定力も多数意見のとおり自

らいわば弱いものとならざるを得ないのも当然であり、審決の存しない場合はもちろん、確定審決の存する場合でも、損害の立証は極めて困難というよりも殆ど不可能であろう。

 これに反し、違反行為による損害賠償は、すべて独占禁止法二五条に基づいてのみ請求し得るものと解すれば、立法的には必ずしも充分の措置が講ぜられていないことは否定し難いけれども、民法七〇九条のいわば特則的なものとして、合理的な解釈により右の立法的不備を補い、当該損害賠償制度の趣旨に相応する運用をなし得るのである。裁判所は、独占禁止法八四条一項の公正取引委員会の損害額についての意見聴取の義務付けの法意に則して、同委員会のより適切な意見提出が励行されるならば、その意見を尊重すべきであるが、本件のように違反行為が価格値上協定である場合には、事業者の反対証明がない限り、最小限その協定による値上額相当の損害が違反行為により生じたものとするのが相当である。

 以上のとおり、違反行為による損害賠償請求については、独占禁止法二五条に基づく請求のみによるべきものであって、一般の民法七〇九条に基づく本件請求は、実体法上理由がないものとして棄却すべきものと解する。

     最高裁判所第二小法廷

         裁判長裁判官    島   谷   六   郎

            裁判官    牧       圭   次

            裁判官    藤   島       昭

            裁判官    香   川   保   一

            裁判官    奧   野   久   之

      当事者目録

    東京都港区a丁目b番c号

          上  告  人     日本石油株式会社

          右代表者代表取締役   B1

          右訴訟代理人弁護士   鎌   田   久 仁 夫

    同  千代田区a丁目b番c号

          上  告  人     出光興産株式会社

          右代表者代表取締役   B2

          右訴訟代理人弁護士   梶   原   正   雄

                      梶   原   洋   雄

    同  港区a丁目b番c号

          上  告  人     共同石油株式会社

          右代表者代表取締役   B3

          右訴訟代理人弁護士   吉   田   太   郎

                      塚   本   重   ョ

                      堤       淳   一

                      安   田       彪

    同  港区a丁目b番c号

          上  告  人     三菱石油株式会社

          右代表者代表取締役   B4

         右訴訟代理人弁護士   日   沖   憲   郎

    同  港区a丁目b番c号

          上告人兼丸善石油株式会社訴訟承継人

                      旧商号大協石油株式会社

                      コスモ石油株式会社

          右代表者代表取締役   B5

         右訴訟代理人弁護士   樋   口   俊   二

    同  港区a丁目b番c号

          上  告  人     ゼネラル石油株式会社

          右代表者代表取締役   B6

         右訴訟代理人弁護士   馬   場   東   作

    同  千代田区a丁目b番c号

          上告人兼シエル石油株式会社訴訟承継人

                      旧商号昭和石油株式会社

                      昭和シェル石油株式会社

          右代表者代表取締役   B7

         右訴訟代理人弁護士   藤   井   正   博

    同  中央区a丁目b番c号

          上  告  人     キグナス石油株式会社

          右代表者代表取締役   B8

         右訴訟代理人弁護士   井   本   台   吉

    同  千代田区a丁目b番c号

          上  告  人     九州石油株式会社

          右代表者代表取締役   B9

         右訴訟代理人弁護士   輿   石       睦

    同  千代田区a丁目b番c号

          上  告  人     太陽石油株式会社

          右代表者代表取締役   B10

         右訴訟代理人弁護士   澤   田   隆   義

    山形県鶴岡市a町b丁目c番d号

                      選定当事者

          被 上 告 人     A3

                      (選定者は別紙選定者目録(一)記載のとおり)

    同  鶴岡市a丁目b番c号

                      選定当事者

          被 上 告 人     A5

    山形市a丁目b番c号

          被 上 告 人     A1

    同 a町b番c号

          被 上 告 人     A2

          右一九名訴訟代理人弁護士

                     脇   山       弘

          右補佐人        A20

最 高 裁 判 所 判 例 集 判 決 全 文 表 示

判例 S57.03.09 第三小法廷・判決 昭和52(行ツ)113 審決取消(第36巻3号265頁)

判示事項:

  私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律八条一項一号にいう競争の実質的制限とその後これに関して行われた行政指導との関係

要旨:

  事業者団体がその構成員である事業者の発意に基づき各事業者の従うべき販売価格の引上げ基準額を団体の意思として協議決定し私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律八条一項一号にいう競争の実質的制限をもたらした場合においては、その後行政指導(引上げ幅圧縮)があり各事業者が事実上これに従つたとしても、当該事業者団体が右の決定を明瞭に破棄したと認められるような特段の事情がない限り、右行政指導があつたことにより当然に競争の実質的制限が消滅したものとすることはできない。

参照・法条:

  私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律8条1項1号

内容:

 件名  審決取消 (最高裁判所 昭和52(行ツ)113 第三小法廷・判決 棄却)

 原審  S52.08.15 東京高等裁判所

主    文

     本件上告を棄却する。

     上告費用は上告人の負担とする。

理    由

 上告代理人入江一郎名義、同加藤一芳、同藤堂裕の上告理由について

 一 論旨は、まず、上告人の行つた昭和四六年二月二二日の石油製品価格の引上げ決定(以下「本件決定」という。)は、その後行われた通商産業省の行政指導によりその効力を失い、各元売業者は右行政指導の枠内で自主的に価格の引上げ額を決定することが可能となつたのであつて、それは、とりも直さず、行政指導の枠内での価格競争が回復されたことにほかならないから、本件決定による競争の実質的制限はなくなつたものと解すべきである、と主張する。

 1 この点に関し、原判決が本件審決認定事実につき実質的証拠があるものとして適法に確定した事実は、おおむね次の(一)のとおりであり、上告人の主張する行政指導なるものと本件決定との関係に関する原審の認定判断は、次の(二)のとおりである。

 (一) 昭和四六年二月二二日上告人の機関として一般石油製品の販売に関する事項等につき決定権を有する営業委員会(上告人の会員元売業者各社の営業を担当する常務取締役らをもつて構成されている。)は、三菱石油株式会社会議室において、委員長a以下一四委員出席のもとに会合を開き、「原油FOB(価格)UPに対する(石油製品の油種別)値上げ幅の水準決定」を議題とし、石油製品の販売価格の引上げについて協議した。その席上、重油専門委員長bが、第一次から第三次までの原油値上り(原油FOB値上げ単価、製品換算一キロリツトルあたり一一一三円)にともなう石油製品の油種別値上げ額の設定について、かねて作成されていた試算表等に基づき、昭和四六年度石油供給計画中の内需向け生産量と日本銀行昭和四五年一二月石油製品卸売価格ほか四計算基礎を用い、ケース一から五までの各油種別値上げ必要額を算出し、さらに、ケース一を基礎にこれらを総合し、石油製品の油種別値上げ目標額として、ケース「A」及びケース「B」の両案を算定する旨説明した。この説明があつた後、同委員会において、検討の結果、第一次原油値上り直後の同四五年一二月の石油製品販売価格に対し、ケース「A」すなわち、一キロリツトルあたり、揮発油二〇〇〇円、ナフサ八〇〇円、ジエツト燃料油一五〇〇円、灯油二〇〇〇円、軽油一五〇〇円、A重油一五〇〇円、B重油一〇〇〇円、C重油九〇〇円を値上げ目標とし、同四六年三月一日以降、それぞれ石油製品の販売価格を引き上げること、ただし、揮発油は、同年三月一日から、まず一〇〇〇円引き上げることを決定した。

 (二) 上告人の主張する行政指導なるもの(以下「行政指導なるもの」という。)は、上告人の主張するところによつても、通商産業大臣が法律上の強制権限に基づいて行うものではなく、通商産業省当局の単なる指導にとどまるものであるとともに、その内容においても、原油コスト・アツプに伴う負担増分の全額を需要者に転嫁することは適当でないが、製品換算一キロリツトルあたり八六〇円の限度で、これを需要者に転嫁することはやむをえないとするもので、販売価格の引上げを指導したものではなく、その販売価格の引上げを決定した本件決定とはその内容を異にするものであつて、もとより本件決定を消滅させ、準拠すべき新たな価格を設定したものではないから、行政指導なるものに従いつつ本件決定に従うことも不可能ではなく、仮に個々の上告人会員元売業者各社(以下「元売業者各社」という。)が行政指導なるものの事実上の強制力によりこれに従うことを余儀なくされたため、本件決定に基づく値上げの目標を完全に達成できなかつたとしても、その達成した範囲内では、それが本件決定に基づく値上げでないとはいえないし、もとより元売業者各社が行政指導なるものに事実上従つたからといつて、そのため本件決定の拘束力が消滅し、元売業者各社のその後の価格行動が右決定に基づくものでなくなるものともいえない。のみならず、元売業者各社は、行政指導なるものが行われる以前において、すでに本件決定に基づき、石油製品の値上げ額をその取引先に通告し、おおむね、石油製品の販売価格を引き上げているうえ、さらに行政指導なるものが行われた後の同年五月中旬ないし六月中旬現在においても、元売業者各社の各支店、営業所等においては、その値上げ未了分の値上げ達成のため市況等をみながら可能な範囲で努力中であることが明らかであつて、その間及び本件審判開始決定のときまでに上告人が本件決定を破棄し、あるいは値上げの申入れを撤回させるなど破棄に準ずる措置をとつた形跡はなく、他に本件決定が消滅したとすべき特段の事情も認められない。

 2 ところで、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独占禁止法」という。)八条一項一号にいう競争の実質的制限が成立するための要件としては、事業者団体の行動を通じ事業者間の競争に実質的制限をもたらすこと、これを本件に即していえば、上告人の機関決定により上告人所属の事業者らの価格行動の一致をもたらすことがあれば足りるものと解するのを相当とする。したがつて、事業者団体がその構成員である事業者の発意に基づき各事業者の従うべき基準価格を団体の意思として協議決定した場合においては、たとえ、その後これに関する行政指導があつたとしても、当該事業者団体がその行つた基準価格の決定を明瞭に破棄したと認められるような特段の事情がない限り、右行政指導があつたことにより当然に前記独占禁止法八条一項一号にいう競争の実質的制限が消滅したものとすることは許されないものというべきである。

   これを本件についてみるのに、原審の前記認定判断によれば、事業者団体である上告人の行つた本件決定後、その実施の過程において、主務官庁の通商産業省当局が本件決定における引上げ幅圧縮のガイドラインを示したところ元売業者各社が事実上これに従つたにすぎず、本件決定がいかなる形式であれ明瞭に破棄されたと認めるに足りる特段の事情は何ら見当たらないというのであるから、前記競争の実質的制限が成立するための要件は十分みたしているものとみるのを相当とする。仮に、本件において事業者団体である上告人により決定された原油の製品換算一キロリツトルあたり一一一三円の引上げが行政指導なるものに従つた結果八六〇円の引上げにとどめられたとしても、行政指導なるものは価格引上げの限度を示したにすぎないものであるから、これによつてさきに行われた上告人の価格引上げ決定の効力に影響を及ぼすものとみることはできないといわなければならない。

 二 論旨は、現実の市場において各事業者が、その製品価格や希望価格(交渉値)を決定するに当たつては、各事業者によつて異なるいわゆる油種構成比を考慮する必要があり、他方、事業者団体の示す油種別価格は製品の油種別構成とは関係なく決められるものであるため、各事業者の具体的販売価格を拘束する意味に乏しいかのごとく主張する。確かに、石油のようないわゆる連産品にあつては、各事業者それぞれの販売事情により、製品の油種構成比が重要な経営上の要因となることは否定できない。しかし、本件決定は、原審の認定又は推認するところによれば、昭和四六年度石油製品供給計画中の内需向け生産量を販売数量とし、日本銀行昭和四五年一二月石油製品卸売価格を販売単価として、前記一一一三円をいわゆる等価比率で割り振る方法により算定したものであり、事業者である元売業者各社は、本件決定に基づき各自自社の石油製品の値上げ額を定め、おおむね本件決定所定の期日から、揮発油については本件決定による価額のとおりに、その他の石油製品については右価額を目標として販売価格を引き上げているというのである。したがつて、本件決定自体は所論の油種構成比とは関係がなく、また元売業者各社が、それぞれの販売事情に応じた油種構成比を勘案することにより元売業者各社間において値上げ額に多少の相違が生ずるとしても、それは原審が認定した程度にとどまるものであるから、いずれにしても、所論の理由により本件決定が独占禁止法八条一項一号にいう競争の実質的制限にあたらないとすることはできないものというべきである。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。

 よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

     最高裁判所第三小法廷

         裁判長裁判官    横   井   大   三

            裁判官    環       昌   一

            裁判官    伊   藤   正   己

            裁判官    寺   田   治   郎」

以上の最高裁判所の判決をよりどころとして、現判決の審理不尽や経験則違反について論ずる。

「かかる価格協定が実施されなかつたとすれば、右現実の小売価格よりも安い小売価格が形成されていたといえることが必要であり、このことはいずれも被害者たる消費者において主張立証すべき責任があるというべきである。もつとも、この価格協定が実施されなかつたとすれば形成されていたであろう小売価格(以下「想定購入価格」という。)は、現実には存在しなかつた価格であり、一般的には、価格協定の実施前後において当該商品の小売価格形成の前提となる経済条件、市場構造その他の経済的要因等に変動がない限り、協定の実施直前の小売価格をもつて想定購入価格と推認するのが相当であるといえるが、協定の実施以後消費者が商品を購入する時点までの間に小売価格の形成に影響を及ぼす顕著な経済的要因の変動があるときは、協定の実施直前の小売価格のみから想定購入価格を推認することは許されず、右小売価格のほか、当該商品の価格形成上の特性及び経済的変動の内容、程度その他の価格形成要因を検討してこれを推計しなければならない。」

推認するのが相当であるといえる、その他の価格形成要因を検討してこれを推計しなければならない、この価格協定が実施されなかつたとすれば形成されていたであろう小売価格等の事実認定の仕方は、これまでの事実認定の仕方とは異なっており、これは推認というのは解釈すれば50%程度の証拠の優越に関する理論を取り入れた判決であったのである。酒匂悦郎事件ではこれは99%の証拠を要求しており、これまでの日本におけるすべてのうべかりし利益事件はそのような証拠の認定を行っていたのである。

従って本件判決はそれを踏襲した判決であり、これまでの判例違反がある。当然にどちらも独占禁止法違反の判決であり、踏襲すべきものである。従って判例違反があるので破棄し差戻すべきである。

「所論は、被告人らは、値上げの上限に関する通産省の了承を得るための業界の希望案について合意したにすぎないと主張するが、原判決が共同行為の存在を推認させるものとして指摘する多くの客観的事実関係の中には、被告人らが、通産省の了承の得られることを前提としてではあるが、各社いつせいに石油製品価格の引上げを行うこと及びその際の油種別の値上げ幅と実施時期についてまで合意したと考えるのでなければ合理的に理解することのできないものが多数存在し(例えば、原判決第三、三、(二)、1、(2)のニ、ホ、ト、チ、ヌなど)、これらの点については、所論によつても的確な反論がなされているとは認め難い。」

共同行為の存在を推認させるものという言葉も、独占禁止法事件における判決のあり方を示しているにもかかわらず、そのような言葉は原審判決には一切でて来ず99%の証明を要求している。これは公取委の摘発を恐れてのことであるがとの認定があるように、いかに不法行為事件である酒匂悦郎事件とは異なった事実認定が独占禁止法事件においては行われてきたのかを理解していない判決であり、審理不尽、事実認定の誤りであり、判決の重大な影響を及ぼしているので破棄されるべきである。

「右協定の実施の前後を通じ、その小売価格の形成に影響を及ぼすべき経済的要因に顕著な変動があつたというべきであるから、前示のとおり、本件においては協定の実施直前の小売価格をもつてそのまま想定購入価格と推認することは相当でないといわざるを得ない。したがつて、原審が、上告人らの損害の有無を判断するに当たり、協定の実施直前の小売価格をもつて想定購入価格と推認する方法をとらなかつたことに所論の違法はない。」

想定購入価格と推認する方法とは、本件事件においては入会拒否が行われなかった場合の(つまり価格合意が行われなかった場合の)推定される事態を一切検討していないことからくる推定の誤りであるということが出来、このように違反を行わなかったことによって自然な形とは被上告人(債務者)が違った自然ではない市場にしてしまったのであるから、その責任は被上告人(債務者)が負うべきであるという挙証責任の分担原則を採用しなかった故に、加害者に有利な判決を導き出す結果になったものと考えることが出来る。これは経験則違反であり、破棄されるべきである。

「当該価格協定に基づく元売仕切価格の引上げが、その卸売価格への転嫁を経て、最終の消費段階における現実の小売価格の上昇をもたらしたという関係が存在していること」

この因果関係についはこれまでの相当因果関係とは違った、独占禁止法が公取委の摘発を恐れてのことであるが、行われていることを理解して初めて関係が立証され、認定されることになる。

「本件各合意の直後に、各被告会社においてほぼ一致して、合意された価格と実施時期におおむね対応する値上げの指示が支店等に対してなされていること、さらには、一致して共同行為の存在を認めた被告人らの検察官調書の内容(なお、被告人らの検察官調書は、証拠上否定し難い通産省の前記のような行政指導にほとんど全く触れておらず、捜査に欠けるところがあつてこれを全面的に措信することには問題が残るにしても、少なくとも前記一連の客観的事実関係とあいまつて、共同行為を認定するための資料とはなりうるものと解する。)等記録上明らかな証拠関係に照らすと、被告人らは、油種別の値上げの上限に関する業界の希望案を合意するに止まらず、右希望案に対する通産省の了承の得られることを前提として、一定の期日から、右了承の限度一杯まで石油製品価格を各社いつせいに引き上げる旨の合意をしたと認めざるをえないのであつて、所論は採用し難い。

 四 次に、右のような合意をしたのが石連の営業委員会とは別個の「価格の会合」であつたとする原判決の認定には、前記のとおり疑問がある。たしかに、原判決の指摘するとおり、右会合には、営業委員会の本来の構成員であるP10(株)及びP11(株)の各代表が出席していないことが明らかであり、また石連事務局員の列席がなく、議事録の作成もなされなかつたことも事実と認められるが、他方、右会合が右両社を除くその余の元売り会社を代表する営業委員又はその代理人(これは、当時の営業委員会の現実の構成員のほぼ全員である。)によつて構成されていたこと、右会合の責任者は営業委員長自身であり、営業委員長の交代とともに右会合の責任者も交代していること、右会合においては、営業委員会の下部機構である重油専門委員会(スタデイ・グループ)を使つて基礎計算及び値上げ原案の作成を行わせていること、右会合における合意の内容は、営業委員会によつて行われたことに争いのない昭和四六年の値上げの際の合意と実質において異なるところがないこと、P10とP11の代表の欠席は、両社が外資系の会社であるところから、公取委の摘発を恐れてのことであるが、会合における合意の結果は、その都度責任者から両社に連絡されていたこと、石連事務局員の欠席も、石連自身が公取委に摘発された昭和四六年の値上げの際の経験にかんがみ、累が石連に及ぶことを回避するため、右会合が石連とは無関係であるとの外観を作出しようとしたことの結果にすぎないことなどの点も、証拠上明らかなところであつて、これらの諸点を総合して考察すると、本件各合意の行われた会合は、やや変則的な構成ながら、石連の営業委員会とその実体を同じくする会合であつたと認めるのが相当である。」

検察官調書については「被告人らの検察官調書は、証拠上否定し難い通産省の前記のような行政指導にほとんど全く触れておらず、捜査に欠けるところがあつてこれを全面的に措信することには問題が残るにしても、少なくとも前記一連の客観的事実関係とあいまつて、共同行為を認定するための資料」となるとしているが、本件事件においては私訴であるために、検察官の様に自白を強制したりすることは出来ず、あたかもそうであるようにいう原審判決は、経験則違反、また、審理不尽があり破棄されるべきである。

公取委の摘発を恐れてのことであるがとの認定は、いかにこれまでの判決とは違った事実認定を行っているかを理解することができる。

「右のような事実上の推定を働かせる前提を欠くことになるから、直前価格のみから想定購入価格を推認することは許されず、右直前価格のほか、当該商品の価格形成上の特性及び経済的変動の内容、程度その他の価格形成要因を総合検討してこれを推計しなければならないものというべきである(前記第一小法廷判決参照)。更に、想定購入価格の立証責任が最終消費者にあること前記のとおりである以上、直前価格がこれに相当すると主張する限り、その推認が妥当する前提要件たる事実、すなわち、協定の実施当時から消費者が商品を購入する時点までの間に小売価格の形成に影響を及ぼす経済的要因等にさしたる変動がないとの事実関係は、やはり、最終消費者において立証すべきことになり、かつ、その立証ができないときは、右推認は許されない」

その他の価格形成要因を総合検討してこれを推計しなければならないものというべきである(前記第一小法廷判決参照)というように、推計という手法を採用しているにもかかわらず、本件判決は一切そのような考え方からはほど遠く、ほぼ酒匂悦郎事件の99%の証拠主義を採用しているが、一般の契約とは違い、同じ合意や共謀であっても、公取委の摘発を恐れての合意であり、共謀であるから、検察官の様に権限を持っていても、証拠上否定し難い通産省の前記のような行政指導にほとんど全く触れておらず、捜査に欠けるところがあるのに、捜査段階での口裏合わせもあるのであろうから、いかに証拠の収集が難しいかを理解した上で、証拠の判断を行うべきかを最高裁判所の判決が示しており、これが理由で民事訴訟法第248条が法定された事情を省みない原審判決は法令適用の誤りがあり、破棄されるべきである。

これまでの50ギガにも及ぶ証拠の調査によって、たまたまではなく常に、ほとんど常に国、県、市町村、公社公団、民間、裁判所のすべてについて損害を立証したのであるから、これまでの上記判決に従った事実認定が行われていないのは、事実認定に関する誤りがあり、経験則違反である。破棄は免れない。

なお、正規の審判手続を経てされる審判審決(同法五四条一項)が公正取引委員会の証拠による違反行為の存在の認定を要件とし、同意審決(同法五三条の三)が違反事実の存在についての被審人の自認を要件としているのに対し、勧告審決は、その名宛人の自由な意思に基づく勧告応諾の意思表示を専らその要件としている点にその法的特質を有するのであるが、これまで判決として最高裁判所の判決があるのは以上の通りであり、またアメリカにおける入会金の高騰を抑える同意審決やらも判決ではないのであるから、これらは判決として確定すべきである。赤坂裕彦弁護士は入会金の値上げも、他の都道府県の入会金の値上げと同様に違法であるのならば、いうべきであるとして、入会拒絶以外のものについても申し述べているのである。その違法性よりも即刻必要なのは入会拒否に対する最高裁判所の判断である。モラトリアムについても同様である。入会拒否の判断についてはサマリージャッジメントのような緊急性がある。

「勧告審決の制度は、独占禁止法の目的を簡易迅速に実現するため、同法の規定に違反する行為をした者がその自由な意思によって勧告どおりの排除措置をとることを応諾した場合には、あえて公正取引委員会が審判を開始し審判手続を経て独占禁止法違反行為の存在を認定する必要はないものとし、ただ、その応諾の履行を応諾者の自主的な履行に委ねることなく、審決がされた場合と同一の法的強制力によってその履行を確保するために、直ちに審決の形式をもって排除措置を命ずることとしたものであり、正規の審判手続を経てされる審判審決(同法五四条一項)が公正取引委員会の証拠による違反行為の存在の認定を要件とし、同意審決(同法五三条の三)が違反事実の存在についての被審人の自認を要件としているのに対し、勧告審決は、その名宛人の自由な意思に基づく勧告応諾の意思表示を専らその要件としている点にその法的特質を有するのである(最高裁昭和五〇年(行ツ)第一一二号同五三年四月四日第三小法廷判決・民集三二巻三号五一五頁参照)。」

これまでの入会拒否に関する判断は正当な理由のない共同ボイコットに対する判断ではなかったのに、原審はその主張を踏襲したのであり、法令の適用の誤りがある。当然公正取引委員会の意見を聞いてのことだった。最高裁判所は良心に従うべきであった。

憲法違反である。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(7)

平成17年5月9日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

現代社会は所有権から、債権の時代に変動しつつあるとは、我妻栄の名論文である。我々の社会においては債権が所有権に近い状態になりつつあるというのである。

なぜにここから論をはじめるか。それは浴場業の事業規制、薬局事件の事業規制、本件事件においては事業実績報告書による事業規制がすべて所有権と関わりを持っているからである。

税理士会の事件においては、各納税者の納税地が所有権と関わっている。但し税理士会の場合には国家の土地支配権と関係しており、国家的な意味合いが強い。弁護士会も同様である。

ところが不動産鑑定業の場合には、不動産業と同様な株式会社制度が制度制定の立法趣旨においてとられた。

不動産は土地が固定性があるので、その土地で生まれた人がその土地で開業することが多い。そのためにその土地で生まれて、その土地で開業できない様な事態にでもなれば、非常に事業を継続することが困難になる。

これは浴場業、薬局業と似ている。税理士会とは異なっている。

ところが独占禁止法上税理士会事件を本件事件においては引用して、違憲であるとするのであるから、何故か筋違いの様な雰囲気もある。しかしそうではないということを所有権になぞらえて論を進めていこうというのである。

この所論について、最も重要なことはこの三つの組合がいずれも事業者団体であるということである。

確かに最初は本件事件は当然違法であるような事件であると思った。しかし共同ボイコットにおいては理屈でこれまで一切無効確認訴訟でも無効の確認の判決が出てきていなかった。

そこで様々な定式化によって当然違法である時の要素の確定が試みられた。

本件事件においてはアメリカの最高裁判所のノースウエスト事件と、トイザラス事件の双方において確定された当然違法の定式化に見事に合致していたが、アメリカ人が人種の坩堝の中で自由と平等のコモンローと平衡法のなかで形成してきた考え方は日本にはなかった。そこで税理士会の事件に飛びついたのである。

現代ドイツ法においては法律で入会の強制を認める。但しそれは独占禁止法上公正競争阻害性の観点からである。

それを日本では、共同ボイコットではなくて、憲法違反として解こうというのか。ということはドイツ法の入会の強制もそのような意味があったのか。

そこで次の判決を参考にすべきであると考えられる。

「昭和四三年(オ)第九三二号

       判     決

  上  告  人 三菱樹脂株式会社

  右代表者代表取締役 杉  山  徳  三

  右訴訟代理人弁護士 鎌  田  英  次

被上告人 高野達男

右訴訟代理人弁護士 別紙被上告代理人目録記載のとおり。

 右当事者間の東京高等裁判所昭和四二年(ネ)第一五九〇号、同年(ネ)第一六八二号労働契約関係存在確認請求事件について、同裁判所が昭和四三年六月一二日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があり、被上告人は上告棄却の判決を求めた。よつて、当裁判所は次のとおり判決する。

憲法の右各規定は、同法第三章のその他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もつぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない。このことは、基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革に徴し、かつ、憲法における基本権規定の形式、内容にかんがみても明らかである。のみならず、これらの規定の定める個人の自由や平等は、国や公共団体の統治行動に対する関係においてこそ、侵されることのない権利として保障されるべき性質のものであるけれども、私人間の関係においては、各人の有する自由と平等の権利自体が具体的場合に相互に矛盾、対立する可能性があり、このような場合におけるその対立の調整は、近代自由社会においては、原則として私的自治に委ねられ、ただ、一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、法がこれに介入しその間の調整をはかるという建前がとられているのであつて、この点において国または公共団体と個人との関係の場合とはおのずから別個の観点からの考慮を必要とし、後者についての憲法上の基本権保障規定をそのまま私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用すべきものとすることは、決して当をえた解釈ということはできないのである。

 (二) もつとも、私人間の関係においても、相互の社会的力関係の相違から、一方が他方に優越し、事実上後者が前者の意思に服従せざるをえない場合があり、このような場合に私的自治の名の下に優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがあることは否み難いが、そのためにこのような場合に限り憲法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用を認めるべきであるとする見解もまた、採用することはできない。何となれば、右のような事実上の支配関係なるものは、その支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難であるばかりでなく、一方が権力の法的独占の上に立つて行なわれるものであるのに対し、他方はこのような裏付けないしは基礎を欠く単なる社会的事実としての力の優劣の関係にすぎず、その間に画然たる性質上の区別が存するからである。すなわち、私的支配関係においては、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能であるし、また、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである。そしてこの場合、個人の基本的な自由や平等を極めて重要な法益として尊重すべきことは当然であるが、これを絶対視することも許されず、統治行動の場合と同一の基準や観念によつてこれを律することができないことは、論をまたないところである。

 (三) ところで、憲法は、思想、信条の自由や法の下の平等を保障すると同時に、他方、二二条、二九条等において、財産権の行使、営業その他広く経済活動の自由をも基本的人権として保障している。それゆえ、企業者は、かような経済活動の一環としてする契約締結の自由を有し、自己の営業のために労働者を雇傭するにあたり、いかなる者を雇い入れるか、いかなる条件でこれを雇うかについて、法律その他による特別の制限がない限り、原則として自由にこれを決定することができるのであつて、企業者が特定の思想、信条を有する者をそのゆえをもつて雇い入れることを拒んでも、それを当然に違法とすることはできないのである。憲法一四条の規定が私人のこのような行為を直接禁止するものでないことは前記のとおりであり、また、労働基準法三条は労働者の信条によつて賃金その他の労働条件につき差別することを禁じているが、これは、雇入れ後における労働条件についての制限であつて、雇入れそのものを制約する規定ではない。また、思想、信条を理由とする雇入れの拒否を直ちに民法上の不法行為とすることができないことは明らかであり、その他これを公序良俗違反と解すべき根拠も見出すことはできない。・・・

 右のように、企業者が雇傭の自由を有し、思想、信条を理由として雇入れを拒んでもこれを目して違法とすることができない以上、企業者が、労働者の採否決定にあたり、労働者の思想、信条を調査し、そのためその者からこれに関連する事項についての申告を求めることも、これを法律上禁止された違法行為とすべき理由はない。もとより、企業者は、一般的には個々の労働者に対して社会的に優越した地位にあるから、企業者のこの種の行為が労働者の思想、信条の自由に対して影響を与える可能性がないとはいえないが、法律に別段の定めがない限り、右は企業者の法的に許された行為と解すべきである。・・・

これらの事実関係に照らして、被上告人の秘匿等の行為および秘匿等にかかる事実が同人の入社後における行動、態度の予測やその人物評価等に及ぼす影響を検討し、それが企業者の採否決定につき有する意義と重要性を勘案し、これらを総合して上記の合理的理由の有無を判断しなければならないのである。

 第三、結  論

 以上説示のとおり、所論本件本採用拒否の効力に関する原審の判断には、法令の解釈、適用を誤り、その結果審理を尽さなかつた違法があり、その違法が判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は、この点において理由があり、原判決は、その余の上告理由について判断するまでもなく、破棄を免れない。そして、本件は、さらに審理する必要があるので、原審に差し戻すのが相当である。

 よつて、民訴法四〇七条にしたがい、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。」

とする三菱樹脂事件は信条の自由に関する最高裁判所の判決として参考になる。

価格維持行為として安売りの業者の排除でなければ、独占禁止法は関係がないということになるか。

そうはならない。

税理士会の事件は強制加入団体であったので、思想・信条の自由があったのである。

逆に、思想信条を理由とする事業者団体への共同ボイコットは許されない、特に自由競争を信条とするものへの共同ボイコットは価格に対する影響も大きく、公正競争阻害性が大きいから許されない。

これは独占禁止法上の共同ボイコットであるのか、憲法違反の差別であるのか。

「私人間の関係においては、各人の有する自由と平等の権利自体が具体的場合に相互に矛盾、対立する可能性があり、このような場合におけるその対立の調整は、近代自由社会においては、原則として私的自治に委ねられ、ただ、一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、法がこれに介入しその間の調整をはかるという建前がとられているのであつて、この点において国または公共団体と個人との関係の場合とはおのずから別個の観点からの考慮を必要とし、後者についての憲法上の基本権保障規定をそのまま私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用すべきものとすることは、決して当をえた解釈ということはできないのである。」

自由が矛盾対立する可能性があるという概念は現代法哲学上はとられていないが判決はこのように述べる。

「他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、法がこれに介入しその間の調整をはかる」という概念も同様である。

侵害が自由の妨害であるととらえられる時には妨害の排除が認められる。

差止は憲法での概念を個別的な法によって実体法によって規定したものであり、独占禁止法においては平成13年4月導入された。

明白かつ現在の危険に関する日本の最高裁判所の判決の趣旨は、現在の危険、及び、明白な危険が存在する時を例外として、その時にのみ信条の自由は制限されるべきであり、それ以外の場合には破壊的な学説・信条も許容されるべきであるというのが破壊的な学説に対する認容の理論である。

本件事件においては税理士会の事件がもっとも近い論旨を持っている。

但し、入会の強制の事件ではなく、強制入会の事業者団体においては思想・信条の自由は守られなくてはならないという事件である。ところが法に従って瞬時に入会が認められている事業者団体についていえば、その時点から思想・信条の自由は守られているのであるから、

一審、二審においてすでに認めている様に独占禁止法上加入しなければ事業活動が困難となるような事業者団体においては、

思想・信条の自由は守られなければならないのであるから、思想・信条の違いによる入会の拒絶は認められないことになる。

この論理は独占禁止法によっているのか、あるいは、憲法のみからも導かれるのか。

一審でも、二審でも強制加入に近い団体であること、即ち加入しなければ事業活動が困難になるような団体であることを認めている。また酒匂悦郎事件では最高裁判所はそのように認定している。

これは茨城県でも、東京都でも同様であると考えられる。

他の職種に移らない限りは生活が出来ないということである。このことは独占禁止法上において認定されているのではなく、差止として認定されているのではなく、独占禁止法上の結果からも、必須の取引事例へのアクセスからも、被上告人(債務者)の市場支配力からも認定されている。従って、ノースウエスト判決を越えていることになる。そして思想信条の自由の観点から思想信条を理由とする入会拒否は認められないから、差止が相当であるということになる。一事不再理の原則によって原審に差し戻したとしても、加入しなければ事業活動が困難となる様な事業者団体であるという点については審理せずに、思想信条による加入制限は許されないという論理から出発して独占禁止法上の損害額の認定に移り、事業実績報告書を使った損害額の認定を独占禁止法の趣旨によって行うことになる。その際には民事訴訟法第248条を使うべきであるということになる。

事業者団体ではあるが、加入しなければ事業活動を行うことが出来ない様な事業者団体であるという認定は独占禁止法に従っているのであるが、しかし明確に独占禁止法上の認定の要件を示していないことになる。この点では独占禁止法の事業者団体の存在意義と、理由について十分に考察していることになる。ただ日本のノースウエスト判決にはならなかったのである。この点では残念である。ある意味では三菱樹脂事件と、税理士会の事件の間隙を埋めるものである。間接適用の問題も発生していない。理由の問題は原則違法の原理を補完するものであったからである。

以上の通り原審の判断には、法令の解釈、適用を誤り、その結果審理を尽さなかつた違法があり、その違法が判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れない。そして、本件は、さらに審理する必要があるので、原審に差し戻すのが相当であると考える。

 

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(8)

平成17年5月9日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

憲法の問題も含まれており重要であるが、損害の点においては独占禁止法の問題が本質である。

 確かに日本には安売りは良くないという空気がある。しかし上告人の安売りはただその後に入りたいというのではない。一回一回正しい答えを書くのが鑑定である。

 しかし所有権を持ちながら、営業が出来ないということは、妨害排除の請求権と同様の排除の法的な効果が差止においては働くべきである。

 憲法22条1項,公衆浴場法2条2項,大阪府公衆浴場法施行条例2条について判例 H01.01.20 第二小法廷・判決 昭和61(あ)1140 公衆浴場法違反(第43巻1号1頁)は次の様に述べる。

「公衆浴場業者が経営の困難から廃業や転業をすることを防止し、健全で安定した経営を行えるように種々の立法上の手段をとり、国民の保健福祉を維持することは、まさに公共の福祉に適合する」

「積極的、社会経済政策的な規制目的に出た立法については、立法府のとつた手段がその裁量権を逸脱し、著しく不合理であることの明白な場合に限り、これを違憲とすべきであるところ(最高裁昭和四五年(あ)第二三号同四七年一一月二二日大法廷判決・刑集二六巻九号五八六頁参照)、右の適正配置規制及び距離制限がその場合に当たらないことは、多言を要しない。」これはある意味では廃業しないでよいように社会的規制を認容した判決である。

 

 

 独占禁止法と憲法との関係が最後に論じられて、突然憲法問題が入ってきたので、これは大問題になった。独占禁止法の当然違法の定式化の問題であったのに、思想信条で論じることになった。独占禁止法はどこにいったのか。論点整理が必要である。

三菱樹脂事件において労働法において思想信条が論じられた様に、独占禁止法において本当に憲法を論じることが可能であるか、しかし一度差し戻した後はまた独占禁止法に戻るのは、労働法の場合と同様である。

しかし違法行為の継続性の問題が残っている。

「H 9.12.24 東京高裁 平成9の1 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律違反被告事件」においては

「不当な取引制限の罪の解釈

 <要旨第一>独占禁止法八九条一項一号の不当な取引制限の罪は、事業者が他の事業者と共同して相互にその事業活動を</要旨第一>拘束し、又は遂行することにより、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争を実質的に制限することを処罰の対象とし(同法二条六項)、一定の取引分野における競争を実質的に制限することとなる事業活動の相互拘束行為とその遂行行為とを共に実行行為と定めている。また、その罪は、明らかに自由競争経済秩序を維持することを保護法益としている(最高裁昭和五九年二月二四日判決・刑集三八巻四号一二八七頁参照)。

 さらに、事業者が不当な取引制限行為をした場合に課する課徴金は、原則として、その行為の実行としての事業活動を行った日からその行為の実行としての事業活動がなくなるまでの期間を基礎としてこれを算定するものと定められている(同法七条の二第一項)。

 これらのことからすると、その罪は、右のような相互拘束行為等が行われて競争が実質的に制限されることにより既遂となるが、その時点では終了せず、競争が実質的に制限されているという行為の結果が消滅するまでは継続して成立し、その間にさらに当初の相互拘束行為等を遂行、維持又は強化するために相互拘束行為等が行われたときは、その罪の実行行為の一部となるものと解するのが相当である(東京高裁平成八年五月三一日判決・高刑集四九巻二号三二〇頁は、これと同旨と解せられる)。

 また、別の相互拘束行為等が行われた場合において、新たな罪が成立するか、なお従来の罪が継続しているかは、その行為によって競争を実質的に制限する新たな事態が生じたか、それとも、従前の行為によって生じている競争を実質的に制限する効果を維持するなどの効果を持つにとどまるかにより判断するのが相当である。」と判示している。

 本件事件も明らかに自由競争経済秩序を維持することを保護法益としている(最高裁昭和五九年二月二四日判決・刑集三八巻四号一二八七頁参照)法において、競争が実質的に制限されることにより既遂となるが、その時点では終了せず、競争が実質的に制限されているという行為の結果が消滅するまでは継続して成立し、その間にさらに当初の相互拘束行為等を遂行、維持又は強化するために相互拘束行為等が行われたときは、その罪の実行行為の一部となるものと解するのが相当である(東京高裁平成八年五月三一日判決・高刑集四九巻二号三二〇頁は、これと同旨と解せられる)とする事件と同様であると理解できる。本件は刑事事件でもある。しかし私訴事件でもある。

 本件事件の特殊性は、この継続性が私訴において起こっており、上告人(債権者)は損害を与え続けられているので、事業活動を行うことが困難となる状況にあるという事実があるということである。このために資金がなく裁判さえも継続が困難になっていることを裁判所において認めて、緊急に対処して欲しい事件であるということである。継続性の問題は刑法犯における罪の問題ではなく、本件の場合にはいかに早急に事業活動が再開できるのかに影響を及ぼしているという点に特質がある。最高裁判所の判決が、3年もかかれば、その間事業を継続できない場合には仮処分によって仮の判決を求める必要があるが、憲法問題をそのように緊急に仮処分で決定できるのかについては疑問があるので、最高裁判所の審理を早めてもらいたいのである。つまり共同ボイコットに対して仮処分を行うことが必要な事件である。それはアメリカのサマリージャッジメントに似ていると考えられる。

 共同ボイコット事件において、価格維持を理由としている場合にはカルテルの一部分ととらえられる場合もあるが、信条の自由を理由としている場合には、価格維持を直接の目的としていない場合においても、そうである場合においても、当然違法の「正当な理由なく(公共の利益に合致する例外を除いて)」の法理が働くはずである。それにもかかわらずこれだけ日本の裁判においては長引いているのである。審理を早めてもらうことが出来ないかと請願する。

 所有権の妨害排除請求権と同じく、不動産鑑定業の様に所有権と深く関わっている業種においては、浴場業や、薬局業と同じく所有権に妨害排除の請求権があるのと同様の差止権が在るとの推定が強く働く。税理士業やらについても同様である。

 そのような意味の差止が日本ではじめて本件事件においては認められることを希望し、アトーニーゼネラルプライベートとしてのこれまでの活動が実を早く結べるようにして頂きたい。

 確かに本件は水道メーターカルテルのようにカルテルの調査を行っているのではない。捜査はできないので調査(捜査)と書いた訳である。

 しかし共同ボイコットにおいてはカルテルを疑わせる多くの事実がある。それが本件事件の共同ボイコットをカルテルの一部分ではないかと疑わせるのである。

 安売り排除のトイザラス事件はしかしノースウエスト判決を受け継いでいる。しかし安売り業者とカルテルとの価格差こそは損害の大きさに比例している。上告人(債権者)は将来の受注のために安売りをしているのではない。本当の費用からそのようにしているのである。したがって次の受注もすべて自由競争にして欲しいと考えている。

ART3-LANDE 5/24/04 5:28 PM 329

Why Antitrust Damage Levels Should Be Raised  By Robert H. Lande?

によれば、

 

I am not aware of even a single case where a cartel’s total payouts have ever exceeded three times the damages involved?if these damages are figured properly. This is true because, if one examines antitrust’s so-called“treble” damages remedy carefully, from the perspective of optimal deterrence, one will find that it is really at most only single damages. The “threefold damages” that the antitrust world takes for granted is a myth.

もし損害額が正しく計算されるならば、カルテルにより得られた超過利潤の三倍をカルテルによる全体の支払いが超える事件を見たことがない。反トラスト法のいわゆる「三重の」損害賠償の制度を充分に注意して研究すれば、現実的にはもっとも適切な抑止力という観点からすればせいぜいほとんど損害額と等しくなっていることに気がつくであろう。「三倍額の損害賠償」という反トラスト法の常識は神話にしか過ぎない。

If these were added to the totals from the private damages actions, the actual overall level of payouts would rise dramatically,  but would still rarely reach the true threefold level.  The criminal penalties imposed almost always utilize the statutory maximum of “twice the gross gain or twice the gross loss,”  which the DOJ almost

 もし私訴における損害賠償の請求による損害賠償の金額を全体の金額に加えれば、現実の支出の水準は劇的に上昇するであろうが、しかしまだ三倍額のレベルに到達するには程遠い。ほとんどすべての場合において刑法による罰金は制定法による最高限度の「総利潤の2倍あるいは総損失の2倍」という規定を利用している。

The states (and private plaintiffs) could help to fill the void, and would provide a counterbalance that would help avoid sharp swings in antitrust policy. Second, the federal enforcers’ judgment might

 国も(私訴における原告も)役に立たないと言う喪失感をなくすのに手助けになるであろうし、反トラスト法の政策の反対勢力に対する非常に重い重しとして機能することになろう。第二に連邦の独占禁止法の強化の判断は・・・

See also Joseph F. Brodley, Antitrust Standing In Private Merger Cases:Reconciling Private Incentives And Public Enforcement Goals, 94 MICH. L. REV.1, n.91 (1995)

参照Joseph F. Brodley, Antitrust Standing In Private Merger Cases:Reconciling Private Incentives And Public Enforcement Goals, 94 MICH. L. REV.1, n.91 (1995)

(“In fact, treble damages turn out to be closer to single damages when current losses, litigation costs, and future recovery are discounted to present value.”).

(「事実としては現在の損失と、弁護士費用と、将来の回復費用のすべてを現在の価値に還元割引を行った時の総体としての損害額を計算すれば、三倍額とほぼ同じになる。」)

See also Carlson & Erickson Builders v. Lampert Yards, 190 Wis. 2d 650, 667 (1995).

For discussions of the deterrence and compensation nature of treble damages, see, e.g., Lande, supra note 8 (positing that “‘treble damages’ actually awarded are probably at most as large as the damages caused by the violation”).

三倍額の抑止力効果と、慰謝料的な性質についての議論については、Lande, supra note 8を同様に参照(現実に「三倍額」の補償はおそらく現実に違反によって引き起こされた損害額とほとんど同じ金額になっていると肯定している)

Moreover, we know that some of their clients keep trying to fix prices, risking significant jail terms, fines, and private damages actions. Are these otherwise rational business people crazy? Or is collusion often profitable?

更に言えば、重大な刑期や、罰金や、私訴による損害賠償の請求を受けるという危険をおかしながらも、価格固定し続ける訴訟依頼人も少なくないということが知られている。これらの反対の意味での合理的なビジネス人は精神的におかしいのだろうか。あるいはそんなにいつでも癒着の共謀は非常に儲かるものだろうか。

Atypically, this was a case where the private plaintiffs took the lead and the government followed. There would have been no deterrence, no compensation, and no beneficial future effects on the market, if not for the actions of the plaintiffs and their lawyers.

このようなことが当てはまるのは、典型的には私訴の原告がリードを取り、政府がその後を追う場合である。もし原告とその弁護士の行為がなければ、市場に対して抑止力も、損害補償も、将来に利益を与える効果も生じなかったであろう。

 これが本件私訴の社会的な効果である。

 

 審理を尽くさなかったというよりも、審理を尽くすことについて、共同ボイコットの解釈の相違により当然違法の疑いがあったが、当然違法の法理の適用がこれまでの日本の例からすれば判例が無く、出来なかったということである。憲法判断が必要であったのである。

 とにかくもう調査すべき最高裁判所の判決はないと思うが、今後出てくるならば追加せざるをえないといえる。ただ期限が5月13日までなので今日の所はここまでの最高裁判所の判例しか見いだしていない。外国の、特にアメリカの判例やドイツの判例についてはわが国においては今後の事件待ちであるが、独占禁止法制定の経緯、わが国への継受の経緯を見てみれば、わが国にただそのような事件がなかったか、対応が遅れたというにしか過ぎないと思われ、わが国の方が多くの事例を持ち合わせているとも考えることが出来る。今後裁判所においても独占禁止法の運用において適用が厳格になり、強化されることを強く望む。

 多くの日本の最高裁判所の判例を引用したが、本件事件においては憲法違反の原審判決はまた、最高裁判所のこれまでの判決とも違背している。

以上の通り原審の判断には、法令の解釈、適用を誤り、その結果審理を尽さなかつた違法があり、その違法が判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れない。そして、本件は、さらに審理する必要があるので、原審に差し戻すのが相当であると考える。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(9)

平成17年5月17日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

入会拒否と、モラトリアムの違法性についての審理不尽

モラトリアムは入会を許可するについて待機期間を設けることである。

その程度によって信条の理由によるのはいけない。

モラトリアムはこれまでも被上告人においては行われてきた。

この場合差止は認められる猶予期間においては認められるが、それ以降については違法であることになる。

つまり独占禁止法は公正競争阻害性を認定し、被上告人の行為に悪性があると認定し、あるいは(かつ)、上告人に損害を与え続けているときに、差止を認めるのである。

この場合には最初の理由が6ヶ月の待機期間を猶予として認めるにたる理由であると考えられる時には、その間のみを適法とし、それ以降を違法であるとすることができることになる。

この連続性の問題は、最後においては認められることになる。

この解決法によれば、新規に入会することを申請してから6ヶ月間を要することになるが、いまだに申請していない入会金の値上げによる被害者は6ヶ月間のみは猶予されることはありうることになり、それ以降は違法であるということになる。

従って、このように6ヶ月の猶予を認める場合には、差止は6ヶ月以降はできることになる。

しかしながら、現在も違法な行為が継続(進行)中であるという点ではどちらの法律的な論理を構築しようとも差止が可能であるという点ではかわりはないのであって、差止が可能であるという一点では両方の論理は一致した結果をもたらしている。

ということはこれは損害額の累計が違うということだけであって、その他については全く同じ法律構成であるということになるであろうか。損害額の累計が違うということは著しい損害に該当するかどうかという点に該当するのであろうか。

アメリカにおいてモラトリアムを設けることについて合意審決によって独占禁止法において禁止した例がある。これは不動産の売り買い物件情報の会社であるマルティリスト事件であるが、この場合にはモラトリアムを設けないことを前提として合意がなされているが、この場合であっても調査に時間がかかるときには6ヶ月を限度としてモラトリアムを設けるということはありうると考えられるが、しかしそれが法の穴になっていつでも待たされるという結果になりかねない。一方では本件事件においては最初の理由がなんであれ、それが自由競争の信条を理由とするものであるから、強制加入に近い団体である場合には入会拒否はいけないとするということは妥当であると考えられる。

本件事件の場合には最初から入会拒否が違法であるということになるのであって、次の様に6ヶ月か、一年程度の欠格条項に法的に該当した場合とは違うのであるから、6ヶ月や一年のモラトリアムを設けるという論理にはならないと考えられる。

但し、本件事件の場合にはいつにても刑法犯に近い行為を中止する機会があったのであるから、自由意志は未必の故意であれ、故意であれ、現在も正常な自由意志を有するのであれば、継続中の違反行為をやめるにつき、自由であるから、平成16年12月2日以降の分についての差止はその期間に限定すれば可能であると考えることができる。モラトリアムの問題をこのように期間の問題に限定すると問題の本質を見失うことになりかねない。

というのは原則として思想・信条の理由によって実質的に審理することは、安売りをしないかということの査問を許すかどうかの問題と同様に、時間がかかるが、法的に営業の免許制をとることでさえも職業選択の自由に対する大きな制約であるのに、法的な免許等については非常に短期に、形式的に審理できるにもかかわらず、モラトリアムを認めることは実質審理を許すことになり、あるいは、それが参入を一時的にでも妨害することになる口実になるかもしれないからである。

以上についての審理が行われていない原審判決は審理不尽の違法がある。

参照:1. The Multi-List agrees that is, whether acting unilaterally or in concert or agreement with any other person, shall not:

マルティ・リスト(不動産売買物件情報サービス)は、片務的にあるいは他のものと共同してあるいは合意によって行為をするとを問わず、

(A) Establish any initial membership fee in excess of the actual costs of new member admission to the Multi-List;

マルティ・リストに対する入会許可のために現実に一般的にかかる費用を超過した入会金を決めることはしないことに合意する。

IV. Initial Membership Fee入会金

5. The Multi-List agrees that no later than September 30, 2002, it shall remove all bylaw provisions relating to an initial membership fee in excess of Two Hundred Fifty Dollars ($250.00), except as set forth herein:(包括的な合意において、2,002年9月30日までに、これからの入会金においては、250ドル(約3万円)を超える入会金に関係するすべての会費規定を廃止すべきである

(A) Within then (10) days of the date of this Agreement, the Multi-List may make a written proposal to the Office of Attorney General of a new initial membership fee;

この合意の日から10日以内に、新しい入会金の金額を公正取引委員会に文書で提出しなければならない。

(B) The Multi-List shall document the actual costs of new member admission and provide such documentation in its proposal above; 包括的な合意において新しい会員を審査するための現実にかかる費用について記録し、上記の新規会員の申し出に対して情報公開をしなければならない 

(C) Upon receipt of the approval of the Office of Attorney General, the Multi-List may adopt the new initial membership fee. The Office of Attorney General will not unreasonably withhold its approval, provided, however, that the Office of Attorney General may request further documentation from the Multi-List before approving or denying the new initial membership fee.新しい入会金は、公正取引委員会による許可がなければ包括的合意がなされたとは言えない。合理的ではない金額については公正取引委員会は許可をしないが、もし公正取引委員会は新規の入会金について許可、不許可を与える前に包括的合意によって更なる文書の提出を求めることがあり得る。

(D) For a period of ten (10) years from the date of this Agreement, if the Multi-List

desires to increase its initial membership fee, it shall follow the procedure in this section.この合意の日から10年の期間の間に、入会金を増額する必要を包括的合意により希望するならば、この章の手続きに従わなくてはならない。

(E) Nothing in this Paragraph shall prohibit the Multi-List from adopting bylaws

requiring reasonable training requirements for new members, nor shall this Paragraph prohibit the Multi-List from adopting bylaws requiring new members from paying actual and reasonable costs for such training.

(F) Establish any moratorium on new memberships to the Multi-List service;

(不動産売買物件サービスへの新規の入会にどのような猶予期間をも設けなこと)

ANTITRUST COMPLIANCE AGREEMENT

This Antitrust Compliance Agreement ("Agreement") is made as of the 30th day of

October, 2002, by and between the Commonwealth of Pennsylvania, acting by the Attorney General

D. Michael Fisher, through the Antitrust Section, Strawberry Square, Harrisburg, Pennsylvania

17120 ("Office of Attorney General") and Indiana Real Estate Corporation d/b/a Multi-List of

Indiana Area (the "Multi-List"), a Pennsylvania corporation with its principal place of business at

200 South 7th Street, Indiana, Pennsylvania 15701,

 このモラトリアム概念は、LRAの憲法原則と一致している。これを独占禁止法におけるLRAの原則とすることも可能である。競争制限行為は民間の事業者団体が行っている行為であるが、薬事法事件最高裁判所判決を考慮してもわかる通りに、国が薬事法を通じて職業選択の自由を制限することと同じ効果を有している。

 このことは薬事法事件においてLRAの憲法原則を採用したのと同じ意味において、独占禁止法におけるLRAの原則とすることも可能であることを意味している。

 この際に独占禁止法におけるLRAの原則は、すなわち独占禁止法の適用である司法の判断においてLRAの原則を採用することでもある。

 それであれば、法の適用におけるLRAの憲法原則を採用したことになるのであるから、間接適用になることになる。

 すなわち、LRAの憲法原則あるいは独占禁止法におけるLRAの原則を採用することによって、モラトリアムを違憲あるいは違法とすることは、入会拒否を違憲あるいは違法とする事よりもLRAの憲法原則あるいは独占禁止法におけるLRAの原則によるより制限的ではない競争制限を採用するように差止することになり、つまりは、入会拒否を差し止めるほうがより競争促進的であり、競争制限的ではないが、一方では一部モラトリアム期間を設けることによって入会拒否を差し止めるよりもより競争制限的ではあるが、それを認めることによって、競争制限を認めるということもありうるとしても、競争制限を認めるということがより競争制限的であるということも認めるということも考えられる。6ヶ月間のみは認めるということは付随的な請求となり、それは一審、二審では請求していないのであるから、このモラトリアムの理論は請求の趣旨としては不可能であるといわざるをえない。入会金の値上げの公正競争阻害性と同様に公正競争阻害性の問題として研究されるべき問題ということになる。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(9)

平成17年5月17日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

差止は違反が継続していることが必要であるという論理がデジコン事件において示されているのであるから、東京高等裁判所における差戻し審理において口頭弁論が開かれた場合には上告人が埼玉県に営業登録を行っていない場合には訴えの利益がないとすればこれまでの審理が無駄になるので最終判決が出るまでは、埼玉県から営業の拠点が動かせないことになる。これは事業活動が困難になっているにもかかわらずそうなのであるから、憲法上も許されないことになる。

差戻し審理における口頭弁論において、終結日が動くのであれば、その際には損害賠償の最終日が変動することになるが、入会後10年間の損害の継続する期間の損失については別途請求することにする。

これについてはまだ請求していないが、東京高等裁判所においてやっておくべきだった。

これは最初の上告人本人訴訟においては確実に要求していたのに、それが弁護士による訴訟に変更された時点でカットされたが不動産鑑定業においては特に影響が大であるので、損害賠償請求に加えることにする。

モラトリアムの論理を使用するならば、法律的に一年以上の業務停止は認められていないにもかかわらず、一年以上の私的な事業者団体による事業の継続を困難にするような共同ボイコットはより制限的ではない代替的な手段がないかという憲法上の原則を、経済的自由において適用した場合には違法となるのであるから、本件事件における共同ボイコットは違法であることになる。一年以上の分については特に非常に高い程度において差止めるように請求することが憲法上できるという論理に組み換える。

現在は一年以上になっているのである。従って現在差止ができるし、それでもって損害についてはその後に考えればよいことである。

このことは先に引用した

「アメリカにおいても、より制限的ではない代替手段の問題により解決されると見る見解がある。 ii. Fashion Originators [group boycott of retailers who distributed goods of “style pirates”] a social purpose of limiting style piracy was heavily outweighed by the dangers extra-governmental guildファッション・オリジネーターズ事件(「スタイルを盗用」した製品を配給された販売業者のグループによるボイコット事件)スタイルの盗用を制限するという社会的目的よりもギルドが自己において統治する危険性の方がずっと上回っているとした

1. 1. Some have read this as applying a per se test to group boycotts, but it seems to be a narrow rule of reason or limited per se approach. The court considers the group’s power and purpose, as well as less restrictive alternatives.

グループによるボイコットに対して当然違法の原理を適用したものであるとファッション・オリジネーターズ事件を読み解くものもいるが、狭い意味の合理性の基準か、限定された当然違法の原理であると思われる。裁判所はグループの支配力や目的を考慮すると同時に、より制限的ではない代替手段がないかどうかを考慮している。」としたアメリカの裁判所の見解と類似するものである。

 アメリカにおいてはこのような判例が存在するが、日本では法令の違憲判断以外では存在しないのであって、これまで薬事法における経済的自由についての法令の違憲性に関する判断にしかLRAの法理は使用されていないのが日本の判例からは読み取れるのである。表現の自由においては下級審においてしか使用されていない。経済的自由についての判例については薬事法距離制限規定違憲判決があるが、これは法令の違憲判断であり、本件事件に使用するとすれば法令の適用における間接適用においてこの判例を使用することが出来る。法の執行の各場面においても憲法の適用が必要であるという部分を使用することができる。

 この薬事法判決からすれば、経済的自由についてもLRAの法理の原則は適用できるのであるから、日本の判例法に違反することになる。また憲法の判例であるから違憲でもある。

 日本において「自己において統治する危険性の方がずっと上回っている」とか「グループによるボイコットに対して当然違法の原理を適用したものであるとファッション・オリジネーターズ事件を読み解くものもいるが、狭い意味の合理性の基準か、限定された当然違法の原理であると思われる。裁判所はグループの支配力や目的を考慮すると同時に、より制限的ではない代替手段がないかどうかを考慮している。」というような判例は存在しないが、経済的自由についてLRAの法理の原則を適用している判例があるのであるから、間接適用をしなかったという点で違憲であり、判例違反であるということはいいうる。しかしもしこの原理を採用すれば「自己において統治する危険性の方がずっと上回っている」つまり公正競争阻害のために使用する危険性のほうがずっと上回っているとか、法律が定めている以上の罰則を事業者団体が規定するとかの危険性の方が法律の社会公共的目的よりも上回っているということ、より制限的ではない代替手段がないかどうかを考慮していないことについては薬事法判例からも導き出すことが出来ると考えられる。

 「自己において統治する危険性の方がずっと上回っている」という観点や、「グループの支配力や目的を考慮すると同時に、より制限的ではない代替手段がないかどうかを考慮して」いないという観点については日本の判例ではないが、本件事件に適用できると考えることが出来る。但し間接適用ではあるが独占禁止法への適用は始めてであるということになる。

 このような意味で原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があり、原判決は破棄を免れない。原判決の判断は、最高裁判所の判例と抵触する誤りがあり、それは判決に影響を及ぼすことが明らかな判例違反であるから原判決は破棄を免れない。よって最高裁判所の判例等に相反し、その他法令の解釈に関する重大な事項を含む判断がなされているものとして、上告受理決定がなされるべきものである。

 

注:シカゴ大学のPicker教授による2000年秋期の反トラスト法講義録におけるFashion Originator’s Guild v. FTC事件の解説におけるLRAの原則

VI. PARTICULAR PRACTICES

a. Refusals to Deal

i. Fashion Originator’s Guild v. FTC

1. Garment manufacturers aimed to curb competition from copiers of their designs.

2. Group boycott is per se illegal under the Clayton Act, which limits the ability to refuse to deal.

3. Output is reduced and consumers are likely harmed ? there are some aspects of a limited rule of reason here. The Court considers the market power, the purpose, availability of less restrictive alternatives (civil suits), and the offensive elaborate private government.裁判所は市場の支配力、目的、より制限的ではない代替的方法の可能性(民事訴訟)、度を越した攻撃的な私的な組織について判断した。

その他におけるより制限的ではない原理の応用例

Antitrust law often considers whether efficiency goals might be achieved with less competitively restrictive alternatives. What factors must participants in competitor collaborations take into account (other than potential antitrust liability) in determining the breadth of a competitive restraint? Are there real-world examples in which relatively narrow restraints  were ineffective in achieving efficiency goals? To what extent has non-exclusivity -- the ability of the participants in a competitor collaboration to compete with the collaboration -- reduced the anticompetitive effects of competitor collaborations? What factors tend to demonstrate that a competitor collaboration is non-exclusive in fact as well as on paper? Policy

In assessing what is objectively necessary, the EC Guidelines state that “The question is not whether the parties in their particular situation would not have accepted to conclude a less restrictive agreement, but whether given the nature of the agreement and the characteristics of the market a less restrictive agreement would not have been concluded by undertakings in a similar setting.”

In this paragraph the EC Guidelines impose a significant burden on parties to search for less restrictive alternatives (and to comprehend the sequence of double negatives). この章でヨーロッパ共同体のガイドラインはより競争制限的ではない手段を探すという意義のある責任を両当事者に課している。

The Guidelines also note that Page 8 8 “Claims that in the absence of a restriction the supplier would have resorted to vertical integration are not sufficient.” 10 The US Guidelines also consider whether licensing restrictions can be justified in light of less restrictive alternatives.

The US Guidelines, however, impose a lower burden on the parties to justify a licensing restriction:

The existence of practical and significantly less restrictive alternatives is relevant to a determination of whether a restraint is reasonably necessary.

現実的で意味のあるより競争的ではない代替手段が存在することと、ある競争制限が合理的であり、必要であるかを決定することとは関連性がある。

If it is clear that the parties could have achieved similar efficiencies by means that are significantly less restrictive, then the Agencies will not give weight to the parties' efficiency claim. In making this assessment, however, the Agencies will not engage in a search for a theoretically least restrictive alternative that is not realistic in the practical prospective business situation faced by the parties. 11 Instead of the Commission’s requirement that a restraint be “objectively necessary”, the US Guidelines use the term “reasonably necessary” and state that “the Agencies will not engage in a search for a theoretically least restrictive alternative that is not realistic in the practical prospective business situation faced by the parties.” The list of hardcore restrictions in the EC Regulation includes

3. Role of less restrictive alternatives. These Guidelines clarify that less restrictive alternative is part of an analysis of whether a per se or rule of reason analysis is appropriate. Thus, efficiency-enhancing integration is described as one "reasonably necessary to achieve its pro-competitive benefits." There seems no point to engage in an extensive analysis of purported efficiencies if those very efficiencies could be achieved without the restraint at issue. The Guidelines do acknowledge, as I believe the law is beginning to do, that an agreement may be "reasonably necessary" without being essential. Enforcement officials should of course not be in the business of second-guessing reasonable expectations of parties that initiated joint ventures. In that respect the Guidelines indicated in Section 2.4 that assessment should be "sensitive to the reasonable expectations of participants." These Guidelines would defeat their own purpose if they undermine the incentives of joint venturers to initiate risky collaborations because of unnecessary fears that subsequent review, under changed circumstances, would undermine their efforts. Some might question whether this treatment of less restrictive alternatives is consistent with my opening remark that Guidelines follow and clarify the law but do not introduce significant new interpretations. I believe this approach is not a new interpretation. A focus on reasonable necessity is usual agency practice, as already reflected in Health Care Statements 8 and 9, and it flows from Supreme Court case law. For example, in Maricopa, (9) the Court concluded that even if a maximum fee schedule were desirable, it could be set by insurers rather than an agreement among the doctors, so there was a practical less restrictive alternative. In BMI, the Court asked the same question but reached a different answer, finding "a bulk license of some type a necessary consequence of the integration necessary to achieve these efficiencies," and then determining that a necessary consequence of an aggregate license was that a price must be established. I believe, also, that a fair reading of the Supreme Court's decision in Topco (10) is consistent with this approach. In Topco, an association of small and medium size regional super market chains joined forces to purchase, store and distribute grocery products to its members. As a condition of membership, the grocery chains agreed not to sell Topco brands outside an assigned marketing territory, and members were also given the right effectively to veto new members who might offer actual or potential competition. I would describe Topco as an efficiency-enhancing integration, but would also conclude that provisions dividing markets and protecting incumbents from challenge were not reasonably necessary to achieve those efficiencies. Indeed, it seems reasonable to expect that additional members of the Topco collaboration would have made the joint venture more efficient, not less efficient, by aggregating additional purchasers. Conclusion I have only scratched the surface in discussion of relevant aspects of these Guidelines. I did choose the particular issues that I think were at the heart of debates over drafting, and raised the most challenging issues. Other speakers during the rest of this workshop will, of course, raise and discuss an array of additional subjects treated in this draft. Endnotes: 1. Chairman of the United States Federal Trade Commission. The views expressed are my own and do not necessarily reflect the views of the Commission or other Commissioners. 2. FTC Staff Report, Competition Policy in the New High-Tech, Global Marketplace (1996). 3. U.S. Dep't of Justice, Vertical Restraints Guidelines, 4 Trade Reg. Rep. (CCH) カ 13,105 (1985). 4. Phillip Areeda, The "Rule of Reason" in Antitrust Analysis: General Issues 37-38 (Federal Judicial Center, June 1981). 5. Broadcast Music Inc. v. Columbia Broadcasting System, Inc. 441 U.S. 1 (1979). 6. See, e.g., Northern Pac. Ry v. United States 356 U.S. 1, 5 (1958); NCAA v. Bd. of Regents 468 U.S. 85, 103-04 (1984); Catalano Inc. v. Target Sales Inc. 446 U.S. 643, 647 (1980). 7. In BMI, the Court concluded that a blanket license fee was not per se illegal price-fixing, in part because the product would not have existed in the absence of the joint pricing. But the Court did not conclude that the restraint would have been per se illegal if cooperation had not been "essential" to the creation of a new product. Under the Guidelines, an efficiency-enhancing integration does not result solely from the creation of a new product, nor must the restraint be essential to achieve such integration. 8. FTC v. Indiana Fed'n of Dentists, 476 U.S. 447 (1986). 9. Arizona v. Maricopa County Med. Soc'y, 457 U.S. 332 (1982). 10. United States v. Topco Associates, Inc. 405 U.S. 596 (1972).

2. Before implementing a nonprice restriction on its dealers, a seller should determine:

販売者は、ディーラーの非価格競争に制限を加える前に、次のことを決定しなくてはならない:

a. The vitality of interbrand competition in the market.

市場におけるブランド間の競争の活発性

b. The effects the restraint might have on the market.その制限が市場に与えるであろう効果

c. The availability of less restrictive alternatives.

より制限的ではない代替手段の利用可能性

III. Some Final Notes A. Keep in mind that vertical conduct can have horizontal implications as well, particularly when your distributors are "vertically integrated" (i.e., they produce their own videos and are therefore your competitors too) ? this could mean more trouble!

A restraint on the scope of competition with a joint venture may not fare as well if less restrictive means can effectively achieve the purpose of the restraint.

もしより競争制限的ではない手段が競争制限の目的を効果的に達成できるとするならば、共同事業の競争の分野に制限を加えることは公正とはいえない

In Chicago Professional Sports L.P. v. National Basketball Ass地,[38] the Seventh Circuit invalidated an NBA rule that restricted the number of basketball games that individual teams could broadcast on cable superstations to twenty (in an eighty-two-game season). Judge Frank Easterbrook opinion concluded that because the rule directly restricted output, NCAA mandated a truncated rule-of-reason analysis that bypassed a market power inquiry and proceeded directly to weigh pro- and anticompetitive effects.

 

さて以上の注に基づいても本件事件について考察する。これまでの議論は独占禁止法上のLRAの法理と、憲法上のLRAの法理を混同してきたのでここで修正することとする。

FEDERAL TRADE COMMISSIONによる COMMENT AND HEARINGS ON JOINT VENTURE PROJECTによれば、

「共同事業についてのコメントと聴聞」(アメリカ連邦取引委員会)

Have there been any circumstances in which antitrust standards regarding less restrictive alternatives, including burdens of proof, have failed to take into account the difficulty in practical terms of fashioning and implementing a theoretically less restrictive alternative?

より制限的ではない代替的手段に関連する、独占禁止法上の挙証責任を含む基準に即してより制限的ではない代替的手段を理論的に構築し、実行することが現実的に実際には困難であることを考慮することを怠ったという状況がなかったか。」が問題であり、これは義務に近いとみることができる。

しかし、独占禁止法上の競争制限のより競争制限的ではない代替手段を探索しておく義務の問題と、憲法上のより人権制限的ではない代替手段を探索する義務の問題とを一緒にすることは出来ない。前者は犯罪類似行為の問題であるが、後者は人権の問題であるからである。犯罪類似行為が他の代替的な犯罪方法がないかと問うことはよいことではないことの他の方法を問うのであるが、人権はもっとよい方法がないかを裁判所は問うているのであるから、全く別の観念である。そこでモラトリアムは悪いが、入会拒否はもっと悪い。どっちかというとモラトリアムがより競争制限的ではないという変な理屈になってしまったので、おかしな論理だなとこのような場合に適用すると考えられるのがLRAの原理である。しかし人権については非常に評価すべき法理ということになり、確かに薬事法距離制限違憲判決においては効果を発揮したし、人権についてはアメリカでも効果を発揮していると聞くのである。

独占禁止法においてはより競争制限的ではない代替手段を探索しておくのではなくて、ファッション事件の場合や、本件事件の場合のように全く競争制限的ではない代替手段があるか、人権を侵害しないような代替的な手段があればその手段を使用する義務があるというのである。同じく競争阻害的な行為ではあるが、そのうちでより公正競争阻害性を少なくしようというのではない。全くなくすために使われる法理であるのである。本件では競争制限的な共同ボイコットを行うのではなくて、全く独占禁止法に違反しないような「裁判に個々に訴える方法をなぜにとらなかったか」ということである。もしその方法によれば負けると考えたのであると上告人は主張する。

というのは競争制限の場合にはそれ自体が違法であるし、公正競争阻害性があるのであるから、犯罪性がより少ない犯罪は犯してもよいという理論になってしまうからである。これは著しい損害論において1,000円の盗みはよいが、1,000万円の盗みは悪いということで両者をより窃盗ではないというより制限的ではないという基準で結びつけるがごときものである。

 一方憲法においては全く人権制限的ではない代替手段がないかどうかを探索する義務が存在するのではなくて、より少なく人権制限的である代替手段がないかどうかを探索すべき義務があり、もしあればより少なく人権制限的である代替手段によって政府は規制を行うべきであるという理論である。このような自由を規制するための法律について述べているからである。これは自由が相隣関係にあるがごとき印象を与えるが、所有権のような妨害排除請求権が認められている絶対的な権利については、自由から発生しているものではあるが、相隣関係ではなく絶対的なものと見られている。独占禁止法が差止めようとしている権利についても同様であると解釈する。

 

 ところが本件事件において使用すべき理論は、事業活動を困難にさせるような競争制限は憲法の営業の自由を侵すものであるから、そうしないようなより人権制限的ではない代替的手段がないかという論法である。営業の自由は職業選択の自由の規定によるのであるが、生存権と深く関わっており、人権の中でも経済的自由とよばれているものである。

 この場合にファッション事件では、民事訴訟でやればよいのであって、独占禁止法違反によって競争制限をして消費者や、供給を減らす必要はないという論理であるから、憲法問題にはなっていない。

 しかし本件事件においては薬事法事件と同じように制限的代替案は人権そのものさえも犯すようなものであり、本件事件においては特にひどい事件であり、事業活動を継続するのを困難にするような事件であるから、薬事法事件におけるよりもより深く憲法に関わっているのである。

 一方ではより人権制限的ではない代替案であり、裁判所が強制すべきであると考えられる代替案は、民事訴訟を行えというようなものではなくて、綱紀によって競争制限をするな、入会したあとに会長選挙に出させて、人格の陶冶において自由な表現の競争を行えというものである。またちゃんと民事裁判をひとつひとつについて行えというものである。

 この点では本件事件はファッション事件(Fashion Originator’s Guild v. FTC事件)と非常に似通った事件であるが、入会しなければ事業活動が困難となるような非常に独占的な市場支配力を持った事業者団体で必須の取引事例も管理しているような事業者団体が対象であるという点では似通っておらず、信条の自由や、表現の自由の確保という憲法問題をも税理士会事件におけると同じように発生させているのである。本件事件において採用された手段は人権そのものを否定するような人権制限的な代替案であるのである。そのような代替手段をより人権制限的ではない方法があるにもかかわらず行っており、行い続けているという点に本件事件の人権上の憲法問題が存在するのである。

 表現の自由においてより人権制限的ではない代替案を考察せよという義務は、ほぼ本件事件と同様の義務であるということになる。

 したがって本件事件におけるより競争制限的ではない代替案の理論は、独占禁止法上のそれではなく、憲法上のより人権制限的ではない代替案の理論であるということに結論としていたるのである。

憲法判断の間接適用の必要性

事業活動を困難にすることは憲法32条1項との関係において違憲である。その解釈としては「職業は、ひとりその選択、すなわち職業の開始、継続、廃止において自由であるばかりでなく、選択した職業の遂行自体、すなわちその職業活動の内容、態様においても、原則として自由であることが要請されるのであり、したがって、右規定は、狭義における職業選択の自由のみならず、職業活動の自由の保障をも包含しているものと解すべきである。」(前記薬事法距離制限違憲判決)であり、事業を困難にして埼玉から出て行かざるをえなくする行為は職業活動の自由を制限するものである。この制限が違憲であるのかどうかについての裁判所は判断することができるであろうか。「具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによって制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない。この場合、右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであって、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。」とする同判決は「具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべき」としている点に重点があるのであって、立法府の判断のみならず、個々の行為についての法律判断についても「具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべき」こと、また「許可制の採用自体が是認される場合であっても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならない」と判断している。この事件と同様の判断を行わなくてはならないことは憲法上の要請であり、本件事件についても適用できると考えられる。法令の違憲審査の場合とは違っており、「このような綱紀保持目的のために当該入会拒否が認められるためには、業務に関連した登録欠格基準に照らして、入会を拒否する必要性及び合理性を充たすことに加え、当会による事後的な諸対応等、よりゆるやかな対応をもってその綱紀保持の目的を十分に達成することができない、という事情を要するものである(薬局事件に関する最判昭和50年4月30日 判時777号8頁参照)。」と主張するのは、「許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によっては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであって、許可制の採用自体が是認される場合であっても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである。」という判例によるのであるが、本件事件は許可制の問題ではないが、「業務に関連した登録欠格基準に照らして」という部分は許可制に該当しており、許可制度と同程度に効力のある憲法上の職業活動の自由を制限するような「綱紀保持目的のために当該入会拒否が認められる」ことについて「入会を拒否する必要性及び合理性を充たすことに加え、当会による事後的な諸対応等、よりゆるやかな対応をもってその綱紀保持の目的を十分に達成することができない、という事情を要するものである」というように主張しているのであって、これが私人間に憲法の適用を行ったことになるのかが問題となる。

前記牛島税理士訴訟判決で、牛島税理士が私人なのはいうまでもないが、南九州税理士会も、一定の公共性をもつとはいえ、国や公共団体の機関ではない。憲法上の位置づけでは私人にすぎないのである。この私人相互の関係において、税理士会の目的の範囲という中間項を媒介としながら憲法一九条の適用を認めたことは前述のとおりである。これは最高裁が私人間への憲法の間接適用を承認したことにほかならないのである。三菱樹脂事件では認めなかったのは法人である株式会社が任意の団体である事を強調しているのであって、法人の性格からしてそのような結論となったのであろう。

本件事件における事業者団体の意義と、性格は公的なものであり、かつ独占禁止法上加入の強制が出来うる様な団体である。

本件事件は私人間の私訴の事件であり、もし憲法の条項が私訴の故に適用できないということになれば、大問題である。私訴ではあるが事業者団体の意義と、性格からして強制加入の税理士会と同様の憲法の適用が行われるべきであるということになる。

三菱樹脂判決においては「国または公共団体と個人との関係の場合とはおのずから別個の観点からの考慮を必要とし、後者についての憲法上の基本権保障規定をそのまま私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用すべきものとすることは、決して当をえた解釈ということはできないのである。

 もつとも、私人間の関係においても、相互の社会的力関係の相違から、一方が他方に優越し、事実上後者が前者の意思に服従せざるをえない場合があり、このような場合に私的自治の名の下に優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがあることは否み難いが、そのためにこのような場合に限り憲法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用を認めるべきであるとする見解もまた、採用することはできない。何となれば、右のような事実上の支配関係なるものは、その支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難であるばかりでなく、一方が権力の法的独占の上に立つて行なわれるものであるのに対し、他方はこのような裏付けないしは基礎を欠く単なる社会的事実としての力の優劣の関係にすぎず、その間に画然たる性質上の区別が存するからである。すなわち、私的支配関係においては、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能であるし、また、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである。そしてこの場合、個人の基本的な自由や平等を極めて重要な法益として尊重すべきことは当然であるが、これを絶対視することも許されず、統治行動の場合と同一の基準や観念によつてこれを律することができないことは、論をまたないところである。

ところで、憲法は、思想、信条の自由や法の下の平等を保障すると同時に、他方、二二条、二九条等において、財産権の行使、営業その他広く経済活動の自由をも基本的人権として保障している」株式会社とは本件事件の被上告人は違って独占禁止法の規定による事業者団体である。

共同の取引拒絶の制限はまさにここに意義があり、本件事件においては一方では税理士会事件判決に準じて信条の自由が考慮される必要があるのである。また共同の取引の拒絶はまさにこの「二二条、二九条等において、財産権の行使、営業その他広く経済活動の自由をも基本的人権として保障して」いる内容を制限し、事業者団体については取引の拒絶の自由を制限し、二二条、二九条等において、基本的人権としての財産権の行使、営業その他広く経済活動の自由をも制限するものである。

その判例法上の根拠は先に述べたとおりに

「・・・独禁法の改正等の経緯にかんがみ、同法を整合的に解すると、同法は、共同行為により一定の取引分野における競争を実質的に制限する行為であっても、その行為の実質において同法の趣旨、目的に反しないものがありうることを予定しているものと解されるが、前記の同法の目的をも考慮すると、「公共の利益に反して」とは、同法の趣旨、目的に反することをいい、原則としては同法の直接の法益である自由競争経済秩序に反することであるが、形式的に右に該当する場合であっても、右法益と当該行為によって守られる利益とを比較衡量して、全体的にみた前記の同法の趣旨、目的に実質的に反しないと認められるような例外的なものを公共の利益に反しないものとして独禁法の適用から除く趣旨で右構成要件が設けられたものであると解するのが相当である。」

 そして、事業者団体による競争の実質的制限行為を禁止する8条の規定の解釈において、同条所定の各行為であれば違法性が阻却されるような例外的場合は一切認められないとの立場を採るのであれば格別、そうでない限り、これらの行為についても、事柄の本質及び独占禁止法1条の立法趣旨からみて、2条5項・6項の「公共の利益に反して」という要件は類推適用されるとするのが一般であり(村上政博、独占禁止法第2版・67頁・平成12年・弘文堂)、この2条5項・6項類推適用説に拠る限り、8条所定の事業者団体の行為も、上記判例の射程範囲に属するものであることは疑いない。」

本件事件においては「私人間の関係においても、相互の社会的力関係の相違から、一方が他方に優越し、事実上後者が前者の意思に服従せざるをえない場合があり、このような場合に私的自治の名の下に優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがあることは否み難いが、そのためにこのような場合に限り憲法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用を認めるべきであるとする見解もまた、採用することはできない。何となれば、右のような事実上の支配関係なるものは、その支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難であるばかりでなく、一方が権力の法的独占の上に立つて行なわれるものであるのに対し、他方はこのような裏付けないしは基礎を欠く単なる社会的事実としての力の優劣の関係にすぎず、その間に画然たる性質上の区別が存するからである。すなわち、私的支配関係においては、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能であるし、また、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである。そしてこの場合、個人の基本的な自由や平等を極めて重要な法益として尊重すべきことは当然であるが、これを絶対視することも許されず、統治行動の場合と同一の基準や観念によつてこれを律することができないことは、論をまたないところである。」とする。

「その支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難であるばかりでなく、一方が権力の法的独占の上に立つて行なわれるものであるのに対し、他方はこのような裏付けないしは基礎を欠く」のであるが、本件の場合には強制加入団体の場合の法的独占の場合には当たらないが、実質的に法的な加入強制のできる団体に当たるのである。

この判決において「公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難であるばかりでなく、一方が権力の法的独占の上に立つて行なわれるものであるのに対し、他方はこのような裏付けないしは基礎を欠く単なる社会的事実としての力の優劣の関係にすぎず、その間に画然たる性質上の区別が存するからである。」ことが重要であるので検討を加える。

事業者団体は独占禁止法の規定に服することになるのであって、一般の任意の団体や、株式会社とは異なった団体である。従って共同ボイコットが原則違法とされている状況にあるのであって、税理士会の多数決と同様な「権力の法的独占の上に立つて行なわれる」支配と同様のものであるということができる。

第二点では「その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能であるし、また、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである。そしてこの場合、個人の基本的な自由や平等を極めて重要な法益として尊重すべきことは当然であるが、これを絶対視することも許されず、統治行動の場合と同一の基準や観念によつてこれを律することができない」ことが重要である。

「その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能である」のであって、独占禁止法はまさにその立法措置であり、その解釈において、すなわち法の適用においては「基本的な自由や平等」を尊重する必要があるのである。

もし即座に強制加入が妥当であるとすれば、即座に、「統治行動の場合と同一の基準や観念によつてこれを律する」必要があるのであるから、本件事件においては表現の自由や、職業活動の自由(営業の自由)は憲法上の「重要な法益として尊重すべきことは当然である」という結論を得ることになるといえる。

憲法の適用が可能である理由はここに存するのである。三菱樹脂事件が直接適用を認めない理由は株式会社という制度からくる、会社が持つ性質からくるのであって、本件事件において事業者団体の意義と、特質から認められるのが上記の結論であるということになる。

しからば独占禁止法によるのみで解ける問題であるかというと、信条の自由や、表現の自由や、職業活動の自由に関わっているゆえに、原則違法の独占禁止法の原理のみでは解くことができず、憲法の問題となり、その適用の問題であるということになる。

注:薬事法距離制限違憲判決

「憲法22条1項の職業選択の自由と許可制

 (1) 憲法32条1項は、何人も、公共の福祉に反しないかぎり、職業選択の自由を有すると規定している。職業は、人が自己の生計を維持するためにする継続的活動であるとともに、分業社会においては、これを通じて社会の存続と発展に寄与する社会的機能分担の活動たる性質を有し、各人が自己のもつ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有するものである。右規定が職業選択の自由を基本的人権の一つとして保障したゆえんも、現代社会における職業のもつ右のような性格と意義にあるものということができる。そして、このような職業の性格と意義に照らすときは、職業は、ひとりその選択、すなわち職業の開始、継続、廃止において自由であるばかりでなく、選択した職業の遂行自体、すなわちその職業活動の内容、態様においても、原則として自由であることが要請されるのであり、したがって、右規定は、狭義における職業選択の自由のみならず、職業活動の自由の保障をも包含しているものと解すべきである。

 (2) もっとも、職業は、前述のように、本質的に社会的な、しかも主として経済的な活動であって、その性質上、社会的相互関連性が大きいものであるから、職業の自由は、それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力による規制の要請がつよく、憲法22条1項が「公共の福祉に反しない限り」という留保のもとに職業選択の自由を認めたのも、特にこの点を強調する趣旨に出たものと考えられる。このように、職業は、それ自身のうちになんらかの制約の必要性が内在する社会的活動であるが、その種類、性質、内容、社会的意義及び影響がきわめて多種多様であるため、その規制を要求する社会的理由ないし目的も、国民経済の円満な発展や社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的なものから、社会生活における安全の保障や秩序の維持等の消極的なものに至るまで千差万別で、その重要性も区々にわたるのである。そしてこれに対応して、現実に職業の自由に対して加えられる制限も、あるいは特定の職業につき私人による遂行を一切禁止してこれを国家又は公共団体の事業とし、あるいは一定の条件をみたした者にのみこれを認め、更に、場合によっては、進んでそれらの者に職業の継続、遂行の義務を課し、あるいは職業の開始、継続、廃止の自由を認めながらその遂行の方法又は態様について規制する等、それぞれの事情に応じて各種各様の形をとることとなるのである。それ故、これらの規制措置が憲法22条1項にいう公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによって制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない。この場合、右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであって、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。

 (3) 職業の許可制は、法定の条件をみたし、許可を与えられた者のみにその職業の遂行を許し、それ以外の者に対してはこれを禁止するものであって、右に述べたように職業の自由に対する公権力による制限の一態様である。このような許可制が設けられる理由は多種多様で、それが憲法上是認されるかどうかも一律の基準をもって論じがたいことはさきに述べたとおりであるが、一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によっては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであって、許可制の採用自体が是認される場合であっても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである。」

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(10)

平成17年5月17日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

本件事件においては、共同ボイコットをさせる行為として、入会拒否を論じているのであって、8条1項3号ではなくて、8条1項5号における一般指定1項に該当する行為を「させる」行為のみを問題としており、それが共同ボイコットになっているかどうかは構成要件として問題としていない。

要約

「また5号については、させることだけでも公正競争阻害性がなくとも、正当な理由なく違法であるとされているのであることについては、「独占禁止法 第2版」(村上政博著、弘文堂、2000年、153頁)において「8条1項5号については、・・・・・事業者団体が不公正な取引方法に該当する行為をさせるという内容の決定(決議)を行ったことにある。・・・・・実体要件については公正競争阻害性であると解釈されているが、働きかけられた事業者が不公正な取引方法に該当する行為を実施すること(不公正な取引方法を用いること)までは必要ではないと解釈されており、8条1項5号と不公正な取引方法の実体要件である公正競争阻害性とが結びつくのかについても疑問がある。」と記載されている。これは公正競争阻害性の問題ではなくて、私訴の損害賠償請求の問題が、公正競争阻害性がなくてもありうるという規定であると考えられ、本件事件においてはまさにその場合に該当するということがいえる。

村上政博教授は後に書かれた「独占禁止法と差止・損害賠償」においては、公正競争阻害性がなくても、損害が認められる判決となることがあるとされているのであり、その点では先の服部育夫説と結論が同じであるが、「本来典型的な水平的制限である共同の取引拒絶については、不当な取引制限に該当し違法となるか否かで決着をつければよい」との結論は、いまだ差止給付訴訟の実体法上の制度が存在していなかった時代には、共同ボイコットをアメリカの当然違法とほぼ同じ扱いにするためには、5号についてはそのようなことができず、日本においては「放置することができない」悪質な状態が放置されているので、より強力な当然違法に近い「不当な取引制限に該当し違法となるか否かで決着をつければよい」とされているのであると考えられる。確かに不当な取引制限としない限りは、当然違法に近づけることはできない。カルテルにおいて準当然違法の原則を打ち立てられようとしている努力は正しい。しかしアメリカのように共同ボイコットを事業者団体に適用していく場合に、ノースウェスト事件におけるように本件事件において共同ボイコットの違法性基準を設定することのほうが大切であろう。」

また将来においては入会規制自体がカルテル(価格固定)に利用されているので、それ自体を違法とするようなドイツの競争制限禁止法第20条6項に類似した規定を設けるべきである。これは入会制限を共同ボイコット、あるいは、共同の取引拒絶として独占禁止法の中に特別な規定を設けることでもある。

従って、8条1項5号における一般指定1項に該当する行為を「させる」行為に該当するので、本件入会拒否を差止める。

信条を理由として共同ボイコットをさせる行為は法的に認められないので、本件入会拒否を差止める。

との最高裁判所の判決を求めるものである。あるいは破棄差戻しを求めるものである。

共同ボイコットと入会制限の共同ボイコット性

「日本の独占禁止法」(村上政博著、2003年、株式会社商事法務、300頁)では

「8条1項3号については単純に余分な規定である。現在、8条1項3号に定める「一定の事業分野」は8条1項1号に定める「一定の取引分野」よりも狭いものと解釈されている。しかし、8条1項3号の「一定の事業分野」についても、8条1項1号の「一定の取引分野」を意味する関連市場としても画定できるものと考えられる。したがって、8条1項3号違反は8条1項1号に含まれる。」とされている。

この不要なものとされている8条1項3号について論ずる。

「比較独占禁止法第5版」、服部育夫著、105−106頁によれば「事業者団体による事業者数の制限行為は・・・法条競合の問題を生ずる。」「3号適用説と3号5号双方適用説とが鋭く対立する。」「3号が市場閉鎖を防止する規定であるのに対し、5号は事業者団体の圧力によって不公正な取引方法が用いられ、圧迫を受ける事業者を救済する規定である。保護法益が異種類のものである以上、両号は併せて適用されることになろう。すなわち3号のほか、手段としての外部行為に5号も適用される(公取委勧告審決平3・1・16審決集37巻54頁)。数の制限までに至らないケースでは、5号のみが適用される。」

仙台港輸入木材調整協議会

平成2 年(勧)第16号仙台港輸入木材調整協議会

H3.1.16 勧告審決@仙台港での木材の輸入販売に係る事業分野における事業者の数を制限 A正当な理由がないのに,会員木材輸入業者に対し,共同して港湾運送事業者に非会員との輸入木材の荷役に関する取引を拒絶させる行為を行わせている

@規約のうち,会員である木材輸入業者の資格を宮城県輸入木材協同組合の組合員に限定している部分の削除A会員港湾運送事業者に,非会員の輸入木材の荷役業務を行わせない旨の決定の破棄 B会員への通知及び非会員の木材輸入業者への周知 C非会員の木材輸入に係る将来の不作為

基本的構造

本件事件の場合、ある事業者が入会を拒絶されて、東京からの事業の移動をあきらめて東京にいる場合には、参入制限に該当するが、これとは違い埼玉県で登録を行って、埼玉県で開業をしても、入会させずに埼玉での事業の継続が困難になるようにしているのであるから、8条1項3号ではなくて、同5号共同ボイコットを「させる」に該当する。

日本独占禁止法における8条1項3号を3号とよび、同5号を5号とよび、検討する。

3号は事業分野に対する参入の制限であるが、5号は一定の取引分野に対する競争制限といわれている。参入制限の禁止は公正取引委員会の仕事であり、実際の取引における損害の発生の差止は私訴の仕事分野である。

しかし参入制限とは、公正取引委員会が禁止すべき規制であり、事業そのものに対する規制するための条文であるが、それでは個別的なすでに参入している事業者に対する排除や、取引拒絶や、その他あらゆる経済的な便宜を与えないことになるような入会の拒絶は、参入の制限ではなくて、個別企業に対する競争制限行為であるということになる。

この場合競争制限行為と、公正競争阻害行為とは分けて考えることが出来る。前者は個別企業にいくらの損害を与えているかということであり、後者は個別企業にではなく社会全体に対してどれ程の損害を与えているかということである。カルテルは公正競争阻害の側面が強く、入札においてだれにチャンピョンの資格を与えるかについての仲間割れの場合以外には個別企業にたいして損害を与えることはない。皆が示し合わせているからでる。それは各社が以前の通り分け前が来ると信じており、そうなるということで実行に移されるから、全体が価格固定の合意によって高い価格になっていたとしても、各企業に対しては損害を与えない。但し、一般消費者には損害を与えている。

本件事件はこの定義に従っても一定の取引分野である「事業実績報告書のうちの鑑定評価に関する法律に従った鑑定評価書の分野」における取引を制限しているのであるから、共同ボイコットをさせることに該当する。

多くの事業者は埼玉には余剰利潤があり、東京には余剰利潤がないにもかかわらず、被上告人(債務者)が入会金を16倍に上げたとか、埼玉に行っても配分されるわけがないと思い込み、東京にいたままであれば、事業者数の制限になっているのであるから、3号に該当する。

参入制限は一定の事業分野において「事業者数の人為的な操作」を意味する。一方共同ボイコットはその手段とはなっても、埼玉県にすでに移っていて共同で取引拒絶された事業者が東京に移るまでの間は継続して取引拒絶をされていることになる。

既存の事業者であっても、配分を行ってもらえずに、東京に帰ってしまった場合には、事業者数の制限に該当するが埼玉にいる場合には、共同ボイコットに該当する。

確かに本件事件のように「事業者団体に加入していないことが事実上の参入障壁となるような制度的要因が存在している場合」には事業者数が実効性をもって制限されているが、しかしこれは入会金の値上げによって心理的にも、実際的な支払能力の点においても実際に入会をしなけれ事業活動が困難である(多くのテープがある)ことを知っているので、埼玉県に一度事業を行っても逃げていくか、実際に意志はあっても、逃げていっている場合には事業者の数が実効的に制限されているといいうる。このような状況にあるような市場というのは被上告人のように市場支配力を持っているか、必須の資源に対するアクセス権を持っている場合である。

本件事件においては専任鑑定士の制度を設けているので、埼玉の事業者は実際に競争入札でもないかぎりは、他の都道府県の多くが一本釣りで、発注情報でさえも明らかにせずに発注している状況においては他の県の事業者と競争することは不可能な状況であり、また入会金の値上、必須の施設である取引事例へのアクセスの差別、従業員の雇用における取引事例へのアクセスの差別など非常に多くの状況からして、「団体に加入しなければ事業活動の展開が困難になる状況」として一審、二審において認定されている。

また医師会におけるように学校医に推薦が受けられず、また各種の便益も受けられず、あるいは、木材輸入業者のように保税上屋を利用させず、荷役業務引受を拒絶させることになる場合には、「団体に加入しなければ事業活動の展開が困難になる状況」として認定されている。

共同ボイコットは、一般指定1項における行為をさせることである。入会拒否を、共同の取引拒絶と理論構成ができる。アメリカではやっている。

日本の場合は、3号をなしにして、公正取引委員会が3号抜きで適用していくことができるであろうか。という問題となっている。3号に該当しないのに、5号に該当するか。1号に該当するならば、5号に該当する。

この際に重要なのはガイドラインである。ガイドラインについては、法律としての位置づけではなくあくまでも指針である。しかし佐藤謙一氏や、伊従寛氏が公正取引委員会にいたときの平成3年の流通・取引慣行に関する独占禁止法上の指針を検討する。現在では全く経済状況が変化しているといえる。両方の取材テープをもらってきている。

ほとんど使用できない状況になっている。

「流通・取引慣行に関する独占禁止法上の指針

第2 共同ボイコット

1.考え方

市場における公正かつ自由な競争の結果,ある事業者が市場から退出することを余儀なくされたり,市場に参入することができなかったとしても独占禁止法上問題となることはない。

しかし,事業者が競争者や取引先事業者等と共同して又は事業者団体が,新規参入者の市場への参入を妨げたり,既存の事業者を市場から排除しようとする行為は,競争が有効に行われるための前提条件となる事業者の市場への参入の自由を侵害するものであり,原則として違法となる。

共同ボイコットには,様々な態様のものがあり,それが事業者の市場への参入を阻止し,又は事業者を市場から排除することとなる蓋然性の程度,市場構造等により,競争に対する影響の程度は異なる。共同ボイコットが行われ,行為者の数,市場における地位,商品又は役務の特性等からみて,事業者が市場に参入することが著しく困難となり,又は市場から排除されることとなることによって,市場における競争が実質的に制限される場合には不当な取引制限として違法となる。市場における競争が実質的に制限されるまでには至らない場合であっても,共同ボイコットは一般に公正な競争を阻害するおそれがあり,原則として不公正な取引方法として違法となる。また,事業者団体が共同ボイコットを行う場合にも,事業者団体による競争の実質的制限行為又は競争阻害行為(一定の事業分野における事業者の数を制限する行為,構成事業者の機能活動を不当に制限する行為又は事業者に不公正な取引方法に該当する行為をさせるようにする行為)として原則として違法となる。

2.競争者との共同ボイコット

3.取引先事業者等との共同ボイコット

4.事業者団体による共同ボイコット

事業者団体が,例えば次のような行為を行い,これによって取引を拒絶される事業者等が市場に参入することが著しく困難となり,又は市場から排除されることとなることによって,市場における競争が実質的に制限される場合(注4)には,当該行為は独占禁止法第8条第1項第1号の規定に違反する。また,事業者団体が次のような行為を行うことは,これによって市場における競争が実質的に制限されるまでには至らない場合であっても,原則として独占禁止法第8条第1項第3号,第4号又は第5号(一般指定1項(共同の取引拒絶)又は2項(その他の取引拒絶)の規定に違反する。」

以上がガイドラインの要約である。作成当時の委員であった佐藤謙一弁護士に会って、証言をもらったが、いまだ事業者団体についてはドイツ、アメリカについての理解はなかった。

この例示においては、ただこれに限定しているのではなく、また法条競合についても問題がある。国会を通っていないので、法律としての権威はない。あくまでも当時のガイドラインである。

日本における事業者団体の性格

判例一

「判例 S57.03.09 第三小法廷・判決 昭和52(行ツ)113 審決取消(第36巻3号265頁)

判示事項:

  私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律八条一項一号にいう競争の実質的制限とその後これに関して行われた行政指導との関係

要旨:

  事業者団体がその構成員である事業者の発意に基づき各事業者の従うべき販売価格の引上げ基準額を団体の意思として協議決定し私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律八条一項一号にいう競争の実質的制限をもたらした場合においては、その後行政指導(引上げ幅圧縮)があり各事業者が事実上これに従つたとしても、当該事業者団体が右の決定を明瞭に破棄したと認められるような特段の事情がない限り、右行政指導があつたことにより当然に競争の実質的制限が消滅したものとすることはできない。

参照・法条:

  私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律8条1項1号」

判例二

「判例 S57.03.09 第三小法廷・判決 昭和52(行ツ)113 審決取消(第36巻3号265頁)」

「本件各合意の行われた会合は、やや変則的な構成ながら、石連の営業委員会とその実体を同じくする会合であつたと認めるのが相当である。たがつて、本件における石油製品価格引上げに関する合意が、石連という事業者団体の機関ひいては石連自身によつて行われたという一面は、これを否定することができない。

 しかしながら、独禁法上処罰の対象とされる不当な取引制限行為が事業者団体によつて行われた場合であつても、これが同時に右事業者団体を構成する各事業者の従業者等によりその業務に関して行われたと観念しうる事情のあるときは、右行為を行つたことの刑責を事業者団体のほか各事業者に対して問うことも許され、そのいずれに対し刑責を問うかは、公取委ないし検察官の合理的裁量に委ねられていると解すべきである。」(判例 S59.02.24 第二小法廷・判決 昭和55(あ)2153 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律違反(第38巻4号1287頁))

また「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独占禁止法」という。)八条一項一号にいう競争の実質的制限が成立するための要件としては、事業者団体の行動を通じ事業者間の競争に実質的制限をもたらすこと、これを本件に即していえば、上告人の機関決定により上告人所属の事業者らの価格行動の一致をもたらすことがあれば足りるものと解するのを相当とする。したがつて、事業者団体がその構成員である事業者の発意に基づき各事業者の従うべき基準価格を団体の意思として協議決定した場合においては、たとえ、その後これに関する行政指導があつたとしても、当該事業者団体がその行つた基準価格の決定を明瞭に破棄したと認められるような特段の事情がない限り、右行政指導があつたことにより当然に前記独占禁止法八条一項一号にいう競争の実質的制限が消滅したものとすることは許されないものというべきである。

   これを本件についてみるのに、原審の前記認定判断によれば、事業者団体である上告人の行つた本件決定後、その実施の過程において、主務官庁の通商産業省当局が本件決定における引上げ幅圧縮のガイドラインを示したところ元売業者各社が事実上これに従つたにすぎず、本件決定がいかなる形式であれ明瞭に破棄されたと認めるに足りる特段の事情は何ら見当たらないというのであるから、前記競争の実質的制限が成立するための要件は十分みたしているものとみるのを相当とする。仮に、本件において事業者団体である上告人により決定された原油の製品換算一キロリツトルあたり一一一三円の引上げが行政指導なるものに従つた結果八六〇円の引上げにとどめられたとしても、行政指導なるものは価格引上げの限度を示したにすぎないものであるから、これによつてさきに行われた上告人の価格引上げ決定の効力に影響を及ぼすものとみることはできないといわなければならない。」(判例 S57.03.09 第三小法廷・判決 昭和52(行ツ)113 審決取消(第36巻3号265頁))

判例三

三豊郡医師会事件高裁判決

 審決異議の棄却。

以上の通りに事業者団体についても、判例法が発達してきている。「八条一項一号にいう競争の実質的制限が成立するための要件としては、事業者団体の行動を通じ事業者間の競争に実質的制限をもたらすこと」との判断は、させるだけでも違法性があるとの認定である。

 しかし本件事件は特殊であるので、特に次のようなことにも注意を要する。

「III. Some Final Notes  A.

Keep in mind that vertical conduct can have horizontal implications as well, particularly when your distributors are "vertically integrated" (i.e., they produce their own videos and are therefore your competitors too) ? this could mean more trouble!

水平的な行為が、同時に垂直的であることはありうる、特に供給者が「垂直的に統合されている」(たとえば、供給者が自ら自ら販売するビデオを生産して、従って供給者同士が競争的な関係が発生するような)場合には。このことはもっと多くの問題を発生させる。」

特に本件事件のような「特殊な」事件についてガイドラインが予期しえていたとは、ガイドラインの性格上考えられない。あくまで例示を行ったまでに過ぎない。

本件事件においては水平的と、垂直的とが統合されている状態にある事業の形態において、その両者が一つの事業者団体を形成しているゆえに、水平垂直両方の規定に違反していることになる。これはアメリカの弁護士会事件と似ている。この不動産鑑定評価業においては三友という一社のみが販売のみに専念して、製造は行っていない会社があるが、この会社は価格破りとして目の敵にされており、清水文雄は副会長のときにそれを目の敵にした。

資格者団体であっても、不動産鑑定業者の場合には製造者と販売者が統合されている。その割合は99%である。

統合された業態において、更に事業者団体は製造者、販売者両者が99%入っていることになる。

そこでアメリカの独占禁止法の体系に注目する。以下全体系を理解するために、シカゴ大学のPicker教授による2000年秋期の反トラスト法講義録要旨全文を掲載して、日本の独占禁止法と比較検討の材料とする。当然に継受法であるから法の趣旨は完全に一致するが、国際化の波に乗って今後はその運用(法の適用)において、憲法とかをも使いながら、世界の潮流に日本も合わせていくことが今後の課題である。

「日本の独占禁止法」(村上政博著、2003年、株式会社商事法務、198−199頁)によれば「日本のカルテルに対する準当然違法原則は、アメリカ反トラスト法上の当然違法原則とは以下の3点で異なっている。第一に「公共の利益に反して」という違法性阻却事由が存在する。第二に、現行判例法上、カルテル参加者の合計市場占有率が50%超であることが必要である。これはカルテルの形成時におけるカルテル協定の実効性を担保するためのものである。将来的には入口基準としての合計市場占有率50%は低下していくものと予想される。第三に、入札談合に関して、個別の入札談合は3条違反にならない。一定の取引分野要件のために、一定の入札について受注予定者を決定する旨の合意又は一群の入札について受注予定者を決めるためのルールの決定が不当な取引制限に該当する。ただし、入札談合についての取扱いは多少他のカルテル行為の取扱いと異なる。例えば、価格協定では、対象商品が自動的に関連市場を形成する。」

「日本の独占禁止法」(村上政博著、2003年、株式会社商事法務、199頁)によれば「従来、共同の取引拒絶については、19条(一般指定1項)が適用されてきた。しかし1991年に公取委の公表した流通・取引慣行ガイドラインは、競争の実質的制限をもたらす一定の共同の取引拒絶が3条(不当な取引制限の禁止)にも違反することを認めている。」としている。このガイドラインはアメリカにおいてノースウェスト判決が示した共同ボイコットが当然違法に該当する場合、つまり市場支配力の問題と、必須のアクセスの必要性の問題を従来よりの判例・経験の集成として示して例示しようとしたものであると考えられるが、共同ボイコットの性格上例示だけでは網羅することが不可能であったのではないかと考えることができ、また同じ例示に該当する場合でも「不当な取引制限」に該当する場合が膨大な数存在しているのであるから、この例示はガイドラインとしては不適当であったといわざるをえない。理論的な構築の不手際から起こったガイドラインの不備であったと考えられる。

またデジコン事件については「日本の独占禁止法」(村上政博著、2003年、株式会社商事法務、200頁)によれば「この判決は、事業者による共同の取引拒絶(二次ボイコット)が3条(不当な取引制限の禁止)と19条(一般指定1項)により同等に規制されることを物語る。しかしながら、同一行為について同時に両規定を適用する必要性については疑問がある。いずれか一方の規定の適用で十分である。」としている。

「シカゴ大学のPicker教授による2000年秋期の反トラスト法講義録」の中のデジコン事件と同趣旨のRadiant Burners事件においては共同ボイコットとしてのみとらえられており、8条1項5号に該当させていることになり、この方が妥当であるということができる。

公正競争阻害性の観点から見れば、確かに1号説が効力を発揮するが、これは公正取引員会のみが独占禁止法の運用を担っていた時代の考えかたであり、今後私訴による裁判が多くなるにつれて、5号の意味は重要になると考えられる。事業者団体( trade association)あるいは品質基準設定組織(standard setting organization)について言及しており、an illegal boycottであるとの判断はアメリカにおいては「 Concerted Refusals to Deal

1. 1. NW Wholesalers [member of office supplies cooperative expelled b/c it expanded activities from retail to wholesale] a modified per se rules for boycotts: “Unless the coop possesses market power or exclusive access to an element essential to effective competition, the conclusion that expulsion is virtually always likely to have nticompetitive effect is not warranted.”」という原則があるので、共同Concerted性が認められ、かつ、合意が認められるような理事会の決定があるのであるから、共同ボイコット(共同の取引拒絶)と認められるからである。

そうすると憲法問題は必要ないように思われるが、本件事件においては日本人の裁判嫌い(憲法の放送大学の授業では芦部氏が「裁判したので、近所中から袋叩きにあった」という被害者本人のビデオテープを流していたが、これは裁判を受ける権利の問題であり、本件事件においても同様なことを被上告人においては行った)からきているのであるから、憲法問題が中心となっている。

すべての裁判は自由競争を要求することついてのみの裁判であるから、信条の自由を侵すものであり、これは日本では独占禁止法を言うものは談合体制を破るものとして思想・信条を侵されているので特に日本的な現状であろうが、アメリカにおいてもある、あったのが見受けられる。アメリカではコンプライアンスが行き届き現在は少なくなっている。

一方日本では談合体制が非常に強く、かつ、公正競争阻害性のある入会拒否を放置してきたというあしき伝統があったので、事業活動が困難になるケースが多かったので、これが経済的自由との関連で職業活動の自由や、生存権との関連での憲法問題となって、より制限的ではない代替的な手段がないかどうかという問題となったのである。

但し憲法問題として本件事件が取り上げられるべきなのは、事業活動が困難になっている場合のみであり、職業活動の自由、例えば埼玉に移れないという移動の自由が侵されたというだけでは問題にはならなかったと考えられるが、本件事件の場合には事業活動そのものが不可能になっており、その意味では純粋に憲法の問題となっている。

もしPicker教授の言うより競争制限的ではない代替的な手段がないかどうかの問題であれば、これは当然違法が日本でも可能かどうかの問題になると考えられる。もし憲法問題として判断すれば、日本では事業の継続が困難となっている場合には当然違法という論理が定着するかという問題であるが、これについては明確ではなく、当然違法はすべてが事業の継続性や、より制限的ではない代替的な手段の問題とはいえないのであり、もっと広い概念であるから、本件事件は本当に特殊な憲法問題にまで発展した事件であるといいうる。

この場合には直接適用に近い適用ではなくて、法の適用(運用)における間接適用であるということになり、税理士会事件が認めた間接適用が本件事件において活かされることになる。税理士会事件も私的な団体における憲法問題であった。

「iii. Radiant Burners

1. Use of a trade association or standard setting organization to test products and give seals of approval may constitute an illegal boycott if nonobjective tests are used to drive out competitors.

事業者団体( trade association)あるいは品質基準設定組織(standard setting organization)を使って、製品をテストさせ、許可のシールを発行したことが、もしその行為が客観的ではないテストであり、競争事業者を排除するための手段に使われた場合には、違法な共同ボイコットを構成すると判断した。

2. This organization could very well be legitimate but Court uses Klor’s to decide, but there is no verticality here.

    この団体は非常に適法な団体であったが、裁判所の判断はKlor’s事件と同じであった。この事件は垂直的なボイコットではなかった。」

ちなみにKlor’s事件では、「3. Defendant’s offered no justification for their conduct and there may be a less restricted alternative to their actions.

自らの行為に対する弁明もなく、また、より制限的でない代替的な行為の可能性が存在したであろう証拠を提出しなかった。」とされており、LRAの原則が使われている。

以下においても

「IV. PRICE FIXING AND PER SE VIOLATIONS ? SHERMAN ACT §1

価格固定と、当然違法の違反−シャーマン法第一条

a. Justification for the Per Se rule

当然違法の原理の正当性の根拠

i. Practice results in significant adverse competitive effects, rarely justified by redeeming virtues, and when less restrictive alternatives are available, no reason for extended trial before practices will be condemned. ある行為が競争を制限する顕著な効果を結果としてもたらすときには、その行為がもっている価値によって正当化されることはほとんどありえない。またより制限的ではない代替的な手段が利用可能であるときには、実際の審理を行わずとも、そのような多くの行為が違法であると宣言される。」

「より制限的ではない代替的な手段が利用可能であるときには」という概念を当然違法の概念に使用している。

当然違法であるためにはより制限的ではない代替的な手段が利用可能であるのに、それを使わないということは当然違法ではあるが、逆により制限的ではない代替的な手段が利用不可能であることのみが当然違法ではなくて、当然違法の概念は市場支配力や、必須施設へのアクセスの拒否も必要である。しかしその場合でもより制限的ではない代替的な手段が利用可能であるのに、より制限的ではない代替的な手段を使わないということによって市場支配力や、必須施設へのアクセスの拒否も表現できるとするならば、これは十分条件であるということになる。

このような独占禁止法の法の趣旨の具体的な適用方法が日本で確立されていないので、8条について3号か、5号かという鋭い意見対立にすり替えられているのである。

法的には、この議論でよいと思うが、法体系の理論としては、公正競争阻害の禁止と、損害の差止とのどちらを目指したものであるのか、公法と私法とのかって丹宗教授らの行ってきた議論の結論がどうなるのか、今回最高裁判所で議論を行うについて、その決着をすべきであるのか、最高裁判所は破棄差戻しをすべきか、破棄自判をすべきかという問題が残っていることになる。

最高裁判所とは何をすべきところであるのか、自判をして日本で最初の差止の判決をするべきであるのか、実体法として差止制度が設けられたのはどのような意味があるのか、それは公正競争阻害性の禁止を行うのか、個別企業に対する個別具体的な救済であるのかの問題を解かなくてはならないことになる。

5号の解釈の問題であれば最高裁判所は破棄自判できるという結論になる。

一方、もし公正取引委員会の審決の破棄かどうかであれば、最高裁判所は差止の判決はできないことになる。破棄自判は出来ないことになる。しかしこの本件事件は一審からして差止の事件である。

しかし本件事件の行為は、すべて公正競争阻害の効果と、損害を発生させるという効果を両方持っている。

但し上告人(債権者)に対しては入会のモラトリアムのみが損害を与えており、入会金の値上げはまだ損害を与えていない。しかし入会のモラトリアムも公正競争阻害性はあるが、入会金の値上げのほうが公正競争阻害性は多い。多いというよりも誰に対しても行われる行為である。

注「シカゴ大学のPicker教授による2000年秋期の反トラスト法講義録 要旨

I. ANTITRUST STATUTES

a. General Comments

i. Don’t say much; thus, antitrust is more of common law subject

ii. Goal of US antitrust laws is said to be consumer oriented

1. Mixed record on this acc/to Picker

iii. EU is more producer oriented (GE-Honeywell, e.g.)

b. SHERMAN ACT

i. Common law statute requiring interpretation, broad language

ii. Creates felony

iii. §1 ? Every contract, combination in the form of trust or otherwise, or conspiracy, in restraint of trade or commerce among the several states, or with foreign nations, is declared to be illegal…[contracts/agreements]

iv. §2 ? Every person who shall monopolize, or attempt to monopolize, or combine or conspire with any other person or persons, to monopolize any part of the trade or commerce among the several states, or with foreign nations, shall be deemed guilty of a felony…[can be individuals]

c. CLAYTON ACT

i. 15 USC §12-27 declaring four practices illegal but not felonious

1. §2 ? selling a product at different prices to similarly situated buyers

2. §3 ? tying and exclusive dealing contracts ? sales on condition that the buyer stop dealing with the seller’s competitors

3. §7 ? corporate mergers and acquisitions of competing companies

4. §8 ? interlocking directorates ? common board members among companies

ii. Each section qualified by the condition that the practice is illegal only “ where the effect may be substantially to lessen competition” or “tend to create a monopoly in any line of commerce”

iii. Robinson Patman Act ? new version of §2 but not clear.

iv. Enforcement shared between DOJ and FTC

d. FEDERAL TRADE COMMISSION ACT

i. 15 USC §45 ? “unfair methods of competition in or affecting commerce, and unfair or deceptive acts or practices in or affecting commerce are hereby declared unlawful”

ii. No criminal penalties and limits FTC to issuing decrees

iii. §5’s ban on unfair methods of competition includes Sherman Act offenses ? FTC can attack Sherman Act violations.

iv. Creates overlapping jurisdiction b/t DOJ and FTC

II. HISTORICAL CASES

a. Trans Missouri Freight Association (1897): reads SA § 1 literally

i. Early price-fixing case: the freight (RR) association claimed that their fixed rates were reasonable (had to recover high fixed costs) and therefore not in violation of the Sherman Act.

ii. PECKHAM reads statute literally ? condemns “every” restraint of trade, no exceptions.

iii. Consideration of goals of antitrust ? should we be concerned with protecting the structure of production (i.e. protect small dealers). What about the tension between price-fixing and industry stability (the empty core problem)?

1. Here, Concerned w/ driving out small businesses (focused on production, not prices)

2. Criticism: higher prices would help smaller business because they could keep costs low, creates such a broad scope that anything is within the Act

iv. High-fixed costs and low marginal costs create situations like railroads where natural monopolies may develop. Pricing structures are difficult to create and regulation may not be a perfect solution, so the economic situation is tricky.

b. Addyston Pipe and Steel Co. (not covered in class)

i. Contracts whose sole purpose is the restraint of trade are per se illegal.

ii. Court differentiates between naked and ancillary restraints: naked restraints (like price fixing) are per se illegal, while ancillary restraints will facilitate the contract (may be pro-competitive and market facilitating). This weighs the benefits and losses to society.

iii. Agreement here has main purpose of restraining trade and therefore illegal

c. Standard Oil Co. of New Jersey v. United States (1911): SA §1 should not be read literally

i. Case brought under §§1,2. Rejects the plain meaning argument from Trans-Missouri

ii. Combination agreements, unlike price fixing, may have pro-competitive justifications that must be balanced against the possibility of public injury arising from the exercise of market power. A Rule of Reason must be used to analyze cases.

1. Odd Case to adopt the Rule of Reason because Standard Oil is likely within Peckham’s constraints from Trans-Missouri, but suggests that Rule of Reason is clear ? consider however the extreme difficulties of economics and sophistication involved in determining reason.

iii. Court breaks up monopoly that Rockefeller had created thru merger

d. Alcoa (1945, Hand)

i. Monopoly does not mean one has monopolized in violation of § 2

III. ECONOMICS

a. Competitive outcome ? everyone who wants to buy at a socially justified cost is able to buy and we can solve for a competitive quantity

b. Monopoly Outcome ? monopolist focuses on the change in revenue in order to maximize profits. The consumer surplus becomes much smaller and a dead weight loss appears.

i. Beneficial transaction that could have taken place (person would have paid $6, cost is $4) in competitive market (b/c monopolies focus only on MR) doesn’t occur

ii. Cost/Harm is reduced output

IV. PRICE FIXING AND PER SE VIOLATIONS ? SHERMAN ACT §1

価格固定と、当然違法の違反−シャーマン法第一条

a. Justification for the Per Se rule

当然違法の原理の正当性の根拠

i. Practice results in significant adverse competitive effects, rarely justified by redeeming virtues, and when less restrictive alternatives are available, no reason for extended trial before practices will be condemned. ある行為が競争を制限する顕著な効果を結果としてもたらすときには、その行為がもっている価値によって正当化されることはほとんどありえない。またより制限的ではない代替的な手段が利用可能であるときには、実際の審理を行わずとも、そのような多くの行為が違法であると宣言される。

b. Chicago Board of Trade (Rule of Reason Test)シカゴ商業会議所事件(合理性の原則)

i. Multiple markets and rules of trade ? Brandies sets out test for the Rule of Reason.

1. The true test of legality is whether the restraint imposed is such as merely regulates and perhaps thereby promotes competition or whether it is such as may suppress or even destroy competition.

2. To determine that question the court must ordinarily consider the facts peculiar to the business to which the restraint is applied; its condition before and after the restraint was imposed; the nature of the restraint and its effect, actual or probable.

3. The history of the restraint, the evil believed to exist, the reason for adopting the particular remedy, the purpose or end sought to be attained, are all relevant facts.

悪が存在すると信じられている、競争制限の時間的経過や、救済策を特に採用するための理由付け、また達成しようとしている目的や、目標はすべて関連事実である。

ii. These rules are attempting to create a marketplace ? must look at all of the consequences of the rule to make a §1 judgment as rules could have beneficial effect (police cartels, enhance market efficiency, etc.)

c. United States v. Socony Vacuum Oil Co. (Price Fixing is per se illegal)

i. Another multi-market case ? the oil companies are altering the supply curve

ii. Any combination which tampers with price structures is illegal per se ? determined without regard to the traditional criteria for unreasonable restrain determination; regardless of whether they are successful.

iii. Court distinguished §1 from §2

1. Under §1, do not have to show market power to fix prices in order to show price-fixing conspiracy.

V. CHARACTERIZING HORIZONTAL AGREEMENTS

a. California Dental Association (1999, Supp. 1)

i. Quick Look analysis serves as intermediary between per se and Rule of Reason. Rule of Reason is cumbersome and expensive, but per se has been narrowed.

1. Spectrum of categories of analysis: done on case-by-case basis where considerations include market analysis, detailed investigations. Focus becomes on how to filter these situations.

ii. Non-price Advertising ? hard to characterize restrictions based on quality and unverifiable claims, so question is how to characterize the antitrust issue

1. Court claims these were output restrictions

iii. Price advertising ? restrictions are verifiable and prices are easy to understand

1. Class discussion seemed to present quick look and had trouble coming up with pro-competitive arguments

2. Full Rule of Reason places burden on FTC to present justification for complaints before burden switches to CDA.

3. In quick look proceeding, is it enough to have FTC make allegations to force CDA to illustrate pro-competitive results? Actors unsure of being able to make this showing will not ac; process will alter decisions for new practices.

iv. Government regulation v. private regulation

1. We might be more suspicious when group of competitors set restrictions

a. G is more likely to act in public interest

b. BMI v. Columbia Broadcasting System

i. Blanket license is alleged to be price fixing and per se illegal.

ii. Court concludes that the pricing method here (blanket license) is not plainly anticompetitive or without justification (thus, Not per se illegal)

1. Sherman Act’s flexibility in dealing with complex market situations like those found here

2. Virtues of blanket license

a. There is utility in acting as an agent (enforcing IP rights), but pricing may be abstracted; instantaneous market may retain competitive market.

iii. Intellectual Property products that have zero marginal cost. We still want composers to create and cannot equate the private cost with social cost. The blanket license may exercise market power because it is impossible to over-consume.

iv. Court suggests that ASCAP and BMI have created a new product that expands market offerings without subtracting from the market. Cannot use per se analysis ?requires rule of reason.

v. There is no suggestion as to how to control an exercise of the market power ? i.e. if ASCAP or BMI become monopolies.

vi. Court makes explicit a process of evaluation in determining whether a situation involves price-fixing. If a per se rule reaches desirable activity, then is the rule’s cost too high?

c. Alternative Pricing Structures

i. Average Cost Pricing

1. Fixed costs will not be recovered when the average cost is higher for some uses forcing the consumer to not buy. If price is too high, the zero marginal cost item will be underutilized.

2. Introducing a marginal cost, we no longer want infinite use (compared to intellectual property)

ii. Two Part Pricing

1. Need to recover fixed costs ? license fee is the device

2. Want to line up consumer’s incentives to use with the costs of use (when marginal cost is not zero)

d. Finding the Agreement

i. Two categories ? direct inside evidence (Christies, etc.) and no direct evidence. Without direct evidence, you must determine what to use to find violation.

1. Direct inside evidence

a. The ideal price differential for fungible goods in a certain market is zero. Prices will be moving together and synchronicity tells nothing about collusion.

b. Inquire about information that competitors have about one another (booksellers).

c. How does DOJ determine what is going on? Need simple filters ? measuring marginal cost would be great, but too complex. Must be simple.

d. Output ? the single most important antitrust factor. Determining effect of prices on output is tricky. Baseline of competitive profits would help but extremely difficult to do.

e. Barriers to Entry

2. American Column & Lumber Co.

a. Trade association cases devoted to sharing information, anticipating demand.

b. Held to violate §1 ? restricted output to maintain prices, despite no agreement to limit production or charge fixed prices

c. Dissent: facilitate the transparency of operations, facilitate the market

3. Interstate Circuit

a. Core is price discrimination; exhibitors of first runs sent letter attempting to drive the size of the price separation between the 2 markets.

b. Is it monopolistic profit increasing or free-riding elimination?

c. Agreement ? Court assumed the inference that lack of contrary evidence shows that defendants established agreement through the letters.

d. Compare to Theater Enterprises where conscious parallelism is not sufficient.

4. Theater Enterprises

a. Actions brought under §4 and 16 of Clayton Act

i. § 4 provides for treble damages for violations of antitrust laws (here Sherman Act §1) [interesting contrast to straight §1 violation found in Interstate Circuit, i.e. no treble damages]

ii. §14 provides for liability for directors and officers of the corporation

b. Distributors of first-run films did not agree to deny first-run rights to a suburban exhibitor:

i. D advanced economic reasons why each D took same action

ii. No evidence that all D knew other received or rejected offer

iii. D denied collusion

c. “‘Conscious Parallelism’ has not yet read conspiracy out of the Sherman Act entirely.”

VI. PARTICULAR PRACTICES

a. Refusals to Deal

i. Fashion Originator’s Guild v. FTC

1. Garment manufacturers aimed to curb competition from copiers of their designs.

2. Group boycott is per se illegal under the Clayton Act, which limits the ability to refuse to deal.

3. Output is reduced and consumers are likely harmed ? there are some aspects of a limited rule of reason here. The Court considers the market power, the purpose, availability of less restrictive alternatives (civil suits), and the offensive elaborate private government. 本件事件と同趣旨。

ii. Klor’s Inc. v. Broadway-Hale Stores

1. No evidence of altered output or harm to consumers, yet Supreme Court says that this is an antitrust issue ? concerted refusal to deal is per se illegal.

2. Group boycotts are not redeemable by a showing of reasonableness.

3. Defendant’s offered no justification for their conduct and there may be a less restricted alternative to their actions.

4. Court does not give idea of how Broadway could have used monopoly power to drive Klor’s out of the market when there were many local competitors not being refused dealings with the manufacturers, but suggests that a wide combination of manufacturers, distributors, and retailers was involved.

5. Perhaps this is another Trans-Missouri reading of the antitrust laws to protect structures of production and not just consumer welfare.

iii. Radiant Burners

1. Use of a trade association or standard setting organization to test products and give seals of approval may constitute an illegal boycott if nonobjective tests are used to drive out competitors. デジコン事件と同趣旨。

2. This organization could very well be legitimate but Court uses Klor’s to decide, but there is no verticality here.

iv. Northwest Wholesale Stationers

1. Cooperative purchasing agency expelled a member without a hearing, which allegedly created a competitive disadvantage to the plaintiff as a nonmember. Defendant claimed economies of scale and reduced transaction costs.

2. The Court concluded that the per se standard is acceptable only if the boycotting cooperative possesses market power or if it has exclusive access to either supply or an essential element so that competition is affected. In other words, the Rule of Reason should be used.ノースウエスト判決

b. Joint Ventures

i. Definition ? the formation of a single entity by two or more independent firms for the purpose of engaging in research, production or marketing activities. Costs: potential for price fixing, output restrictions, market divisions, increased monopoly power.

ii. Associated Press v. United States

1. Newspaper publishers formed newsgathering organization with restrictive membership rules giving each member exclusive rights to AP stories in its locale, authorizing each member to exclude competitors from membership.

2. Court holds that by-laws, on their face, constitute restraints of trade even though market power is not great enough to suppress competition.

3. Exclusive dealing is typically analyzed using Rule of Reason, but here, the Court says that it is being used to hamper and destroy existing competition.

4. Without market power, exclusive dealing provisions should be upheld ? the Court seems to ignore this.

5. The powerful rules of exclusion create huge barriers to entry, but tremendous asset to consumers. There could be a huge free-riding problem.

6. Solution to free-riding ? no access to news gathered by direct competitor.

7. Is the result a natural monopoly / public utility?

c. Efforts to Influence the Government

i. Noerr-Pennington Doctrine

1. Eastern R.R. Presidents Conference v. Noerr Motor Frieght, Inc.

a. Railroaders attempted to obtain favorable legislative and executive action unfavorable to competing trucking firms.

b. Held that the RRs had immunity from Sherman Act violations as political activity, right to petition under First Amendment.

c. Immunity may be withheld when the activity is a sham to interfere directly with a direct competitor.

d. United Mine Workers v. Pennington ? extended the principle of immunity to efforts to influence governmental administrative processes.

e. There is clear monopolization purpose and agreement in restraint of trade ? likely violation without petitioning.

f. Individual versus collective action ? banning collective action probably wouldn’t be that bad, as individual petitioning is more successful.

g. Wide safe-harbor protection regarding anticompetitive petitioning ? count on political check to operate as a check on producers.

2. Allied Tube and Conduit Corporation v. Indian Head Inc.

a. Producer of steel conduit and sales agents packed trade association meeting with steel company employees solely to vote against rival product, disregarding product merits, when trade association sets performance standards adopted by states.

b. Court says no immunity for efforts to shape standard setting activities of private associations. Defendant’s conduct was commercial not political, despite indirect effect on governmental policies.

c. Political check weak here because national electrical code will never likely be campaign issue.

ii. Parker v. Brown

1. CA pro-rationing mechanism permitting cartelization of raisin industry subject to oversight by the state; statute was weighted in favor of small producers, but costs born mainly on the outside of CA.

2. Court holds that the state adopted the program and enforces it ? federalism precludes the application of antitrust laws. Must rely on the general common law.

3. Sherman Act silence requires assumption of immunity ? federalism requires federal government to invade the arena of the state only expressly.

4. We cannot rely on the political process internally because consumers are not CA ? a standard issue of federalism and not for federal antitrust inspection.

iii. California Retail Liquor Dealers Association v. Midcal Aluminum

1. Wine-producer’s cartel (vertical and horizontal retail price maintenance and fixing) authorized by the state. It is possible to let the internal political process take care of it.

2. Test has two features for determining Parker immunity:

a. Clearly articulated state policy

b. Actively supervised state policy (state failed to exercise the requisite supervision in Midcal’s case)

iv. Southern Motor Carriers Rate Conference v. United States

1. “State policy that permits but does not compel anticompetitive behavior may be “clearly articulated” within the meaning of Midcal”

2. Enough that the state policy authorizes but does not command departures from competition

3. Government conceded supervision ? these cases are about who controls things and the zone of operations. Midcal test does not clarify influence on out of state harms.

v. FTC v. Ticor Title Insurance Co.

1. Title insurance companies set fees for title searches through rate bureaus subject to rate regulation. Proposed rates took effect unless state regulators exercised “negative option”

2. Court withheld immunity on the basis of lack of supervision. The supervision test requires inquiry into the State exercising independent judgment and control so that prices are established as a result of state intervention and not simply by agreement among private parties.

3. Sought to define when nominal state oversight might fall short of active supervision.

4. Ticor has created unclear lines and vast uncertainty with regard to the proper amount of supervision ? the task has become evaluative in scope. We need something more than just inaction, but not clear whether this is for political accountability.

d. Vertical Arrangements

i. Structure

1. Manufacturer needs to get product to consumer through wholesalers and retailers, or just retailers. Also could totally integrate and do all functions.

2. Vertical Integration

a. Assume integrated monopoly ? M controls manufacturing and retailing. M maximizes profits with marginal revenue curve.

b. Stacked monopolies ? reduced the social welfare and the dead weight loss. Monopolists are not doing better. Double marginalization ? everyone is worse off. The monopoly is an externality.

c. Vertical integration can be valuable ? rule of reason is necessary

3. Price restrictions

a. Resale Price Maintenance

i. Dr. Miles Medical Co. v. John D. Park & Sons Co.

1. M sues W for inducing other W to breach price agreements with M.

2. Court rules that M who sells goods to W may not restrict resale by constraining the buyer’s pricing decisions (relying on chattel common law)

3. Per se Illegality for minimum RPM agreements

ii. Colgate & Co. v. United States

1. Unilateral Resale Price Maintenance ? no agreement means no Sherman Act violation.

4. Non-price Restrictions

a. Schwinn

i. Location of title will control the legality of the arrangement.

1. If title passes, non-price restriction will be per se violation.

2. No title, retailer is agent of M and rule of Reason is implemented.

b. Continental TV v GTE Sylvania

i. Non-price vertical restraints must be evaluated by Rule of Reason

1. Looking at market share, Sylvania has no meaningful power. Use market power as a simple filter (difficult when the market power filter is not enough, i.e. Microsoft)

2. Court recognizes the trade-off between intra and inter-brand competition ? interbrand competition is more important here.

3. Better to internalize the layered monopolies by combining.

ii. Per se rule only where challenged conduct poses grave competitive dangers ? economic analysis

iii. Injected price theory into the mainstream of antitrust analysis.

iv. Frail distinction between RPM and non-price restraints

v. Tension between efficiency and the well-being of small retailers ? illustrates the rivalry among antitrust goals.

5. Monsanto Co. v. Spray-Rite Service Corp.

a. Dealer termination case ? terminated dealer alleges that M has terminated in order to fix prices with other dealers.

b. Assessing evidence ? must decide where the case falls between Dr. Miles and Colgate.

c. If facing Dr. Miles, M will remain in inefficient vertical systems. Court wants to protect the Dr. Miles ? Colgate distinction.

d. Plaintiff must meet burden of proving that there is an agreement ? cannot infer agreement merely from complaints. Court holds that Spray-Rite has met this higher evidentiary standard.

e. Fixing prices allows vertical arrangements to solve free-riding problem ? cannot eliminate with a per se rule.

6. Business Electronic Corp. v. Sharp Electronics Corp.

a. Sharp terminated BEC on the recommendation of another retailer.

b. Presumption in favor of the Rule of Reason standard and any departure requires justification through economics. Do not want to deter legitimate and useful activity with per se rule that may change M behavior

c. No longer a distinction between non-price and price restraints ? remaining dealers after non-price termination may charge higher prices.

d. Benefits to the consumer of conduct recognized by Sylvania and Monsanto.

7. State Oil v. Kahn

a. Overrules Albrecht

b. Maximum Resale Price Maintenance is subject to Rule of Reason

VII. SINGLE FIRMS

a. Monopolization

i. Sherman Act §2

ii. Strategic Deterrence and Alcoa

1. Alcoa enjoys powerful market share in virgin ingot, building very large plants, anticipating demand and running to meet it. Court focuses on the virgin ingot market. Alcoa achieves monopoly and no enters market.

2. Natural monopolies ? if we find Sherman Act violation, chill competition. How do you get from natural monopoly to impermissible monopolization?

3. Strategic Entry

a. Game theory solution gives two equilibriums when two players move simultaneously.

b. With prior information of the other mover, backwards induction gives us outcome

c. By moving first, Alcoa will expand and know that entry will be deterred through these strategic investments.

4. Monopolization Plus ? the plus is exclusivity contracts prior to 1912 consent decree and after 1912, plus is the expansion and investment in capacity. This in spirit of protecting monopoly

iii. Monopoly, Market Definition and United States v. Du Pont

1. Similar background to Alcoa with patents and license; cellophane begins as expensive product

2. Elasticity of demand ? how much does quantity demanded change as the price changes, how responsive are consumers to change in price. # allows us to assess monopoly power

a. Inelastic demand ? demand curve vertical (medical care)

b. High elastic demand ? demand curve horizontal

c. Lerner Index ? inverse of the elasticity of demand. Positive if monopolist price is above marginal cost. If good price information, we can assess this directly (Price minus marginal cost divided by price)

3. Cross-elasticity of demand ? how much does a rise in price of one good change the quantity consumed of another good. Helps establish whether two products are close substitutes only if both are sold at competitive prices.

4. Defining the market

a. Calculate market share, calculate market power?

b. Court does analysis with Du Pont having power to set prices for cellophane. Some items will look like substitutes because of the chosen price, not because of a cross-elasticity of demand for the product (the dollar bill example). This makes cross-elasticity very difficult to apply in monopoly situations.

c. Look at a product, look at prices and how they function when price of product fluctuates

5. Dissent suggests looking at three areas for determining what the monopoly plus is:

a. Illegal agreements dividing the world market

b. Concealing and suppressing technological information

c. Restricting licensees’ production

6. Patent and trade secrets ? how might these make a difference?

b. Predatory Pricing

i. Two essential stages

1. Below-cost pricing (using some appropriate measure of baseline to compare)

a. Control the competition in the industry

b. Cost allocation is determinative in establishing predatory pricing (fixed costs, shared common costs ? may subsidize low prices for one business with income from another)

2. Recoupment ? pushing erstwhile competitors out of market and raising prices

ii. Brooke Group v. Brown & Williamson

1. Introduction of generic cigs by Liggett causes B&W loss, respond with generics and price war erupts. Lawsuit brought alleging Robinson-Patman violation ? Court treats as Sherman Act §2 predatory pricing.

2. Oligopoly ? mechanism for sustaining prices is collusion, recoupment unlikely.

3. Price above marginal cost does not necessarily recoup prices but price below marginal price cannot gain fixed costs even, so more suspicious; what cost to use as a guide for determining whether prices are too low.

4. Jury could conclude that below-cost prices are present, but there is no sign of recoupment. B&W will face a second stage oligopoly.

5. Antitrust to protect competition not competitors. Consumers are the measure of welfare.

6. Caselaw indicates a rule of per se legality with respect to oligopoly situations because below cost pricing will be impossible to recoup without collusion.

7. B&W behavior seems insane and Ligett will not introduce innovation another time. Perhaps B&W wants reputation of being insane entrant.

c. Tying and Forcing

i. Clayton Act §3 addresses tying directly, but overlap in §§1,2 of Sherman Act

ii. Fixed Proportions Case ? Monopolist can extract full monopoly profits in single market without dipping into second market for more profits. If you see tying in fixed proportions case, reason is not profit maximization.

iii. Variable Proportions Case ? two different demand curves. Tying may increase profits and increase social welfare, be socially useful. Can also create situations where increase profits but reduce social welfare. Cannot be a per se rule.

iv. Jefferson Parish

1. Alleged tying agreement between hospital service and anesthesiological services

2. Market information ? Court says per se rule if substantial volume of commerce is foreclosed ? refuse to embrace full rule of reason.

3. Arrangement was upheld after determining the products were separate, but the hospital lacked enough market power to trigger the per se rule, there was no showing of adverse effect on competition.

4. Concurrence by O’Connor states that the two products were not separate ? this has become the importance now. Separate consumer demand test is difficult to apply.

5. Test: Do consumers want to create the combined product themselves or do they just want to purchase an integrated package (See Wald’s dissent in Microsoft II)?

v. Eastman Kodak Co. v. Image Technical Services

1. Original product with aftermarket ? complementary goods. Entrants come in to provide service and Kodak cuts them off from access to parts. Claims under §§1,2 for monopolization of the service market.

2. Tie in is between the service and the parts ? fixed proportions case.

3. Summary Judgment reversal ? Court rejected Kodak’s branding/quality control arguments, and rejected K’s argument that competition for new equipment sales precludes them from excessive pricing in the aftermarkets: difficulty with life-cycle costs makes some purchasers vulnerable.

4. Expands the reach of tying law ? firm may have market power over the aftermarket for parts and service of equipment over which it has none.

5. Recognized the branding/quality control defense for tying as providing entry.

6. Attempted monopolization claim ? turns on market definition; Court finds that single brand can be a market. Kodak could set standards and not just require parts; bar free riding by ISOs ? aftermarket is easy to enter.

7. Court gives Xerox right to sell parts and manuals to ISOs as long as anticompetitive effect is not extended beyond patent grants ? won’t inquire into subjective motivation

8. Test: Did Consumers demand each product or service separately?

d. Exclusive Dealing

i. Standard Fashions

1. SF controls 40% of pattern agencies, enter into exclusive agency contract with retailer. Retailer sells only SF patterns and cannot sell McCall patterns. Retailer breaches contracts and SF sues for performance.

2. Court finds violation of §3, but 40% doesn’t seem dominant. Court is protecting small town from single retailer who might prevent consumers from getting the patterns they want.

3. Principle Agent Problem ? alternative is a principle with shared or common agents

ii. Tampa Electric Co. v. Nashville Coal Co.

1. Coal supplier alleged that requirements agreement violated §3. Court upholds contract after assessing the market impact of the arrangement. Lists number of factors for making §3 determination on anticompetitiveness.

a. Weigh probable effect of contract on relevant area of competition, taking into account:

i. Strength of the parties

ii. Proportionate volume of commerce involved in relation to the total volume of commerce in the relevant market area

iii. Probable immediate and future effects which preemption of that share of the market might have on effective competition therein.

iii. FTC v. Brown Shoe Co.

1. Court held that competitive effects need not to be shown ? condemned under FTC §5 a franchise plan for dealers promising to not carry competitor to supplier even though there was no evidence of market share being affected or that of foreclosure of competing shoe suppliers.

2. FTC can find violations of §5 for matters within scope of Sherman and Clayton Acts even before these acts are violated. Incipiency.

3. Analyzing at earlier stage has a cost ? less informed, risk of killing valuable processes.

e. Attempted Monopolization

i. Lorain Journal

1. Radio station moves into newspaper town, newspaper locks in advertisers. No legitimate business reasons for newspaper behavior, thus naked attempt at monopolization.

ii. Aspen Skiing

1. Ignore price fixing possibilities of All-Aspen tickets

2. AS offers no business justification for the exclusivity arrangement ? behavior destroys competition.

3. What is scope of cooperation among competitors?

iii. Spectrum Sports

1. Three part test for attempted monopolization

a. Predatory or anticompetitive conduct

b. Specific intent to monopolize

c. Dangerous probability of achieving monopoly power

VIII. HORIZONTAL MERGERS AND ACQUISITIONS

a. Hart-Scott-Rodino ? passed in 1976. Antitrust practice became agency driven instead of court driven.

i. Potential merger partners have to give advance notice to DOJ and other agencies. Agencies require information and begin negotiation over terms of merger.

ii. Market Power ? reduction in quantity created by market power will drive assessment.

1. Concentration Ratios ? older method: add market shares for given number of firms.

2. Herfindahl-Hirschman Index ? markes shares are squared (much better look at competition in the market)

a. Does not capture collusion in a market well

b. Does capture an incremental boost due to merger ? good proxy for tradeoff between savings and dead-weight-loss

b. DOJ/FTC Guidelines

i. Two factors: Post-merger HHI (absolute position of the industry after merger) and increase in post-merger concentration (changes in the industry over time)

1. Unconcentrated industries (HHI < 1000) ? agencies will not challenge; no risk to market power, no merger worries

2. Moderately concentrated (1000-1800) ? increases of less than 100 points will have zero challenge. This means that the 2(S1)(S2) boost must be less than 100 ? captures small mergers.

3. Highly concentrated industries ? moderate mergers given high scrutiny and larger mergers presumed unlawful.

ii. Soda industry ? merger policy has resulted in bulking up smaller competition but larger firms increase internally. Merger policies cannot control the concentration in an industry.

iii. Identifying markets and assessing concentration

1. Consider one product and draw the concentric circles with price increases. Or define the market geographically. Focus on uncommitted entrants and the capacity to enter.

2. Assess competitive problems ? to what extent will concentration in this industry enhance coordination (tacit collusion?)

3. Look at potential entrants and how they may exert substantial control over prices, exercise market power.

4. Assess efficiency benefits

a. Merger must be specific and not achieved by other means (given consequence of increased market power)

b. Market-by-market (Clayton Act §7) ? is there any market where competition will be diminished?

i. Will guide how the merger is structured, negotiated, and possible divestitures in markets where problems arise to preserve competition and allow merger to go forward.

5. Guidelines provide limited defense for failing firms:

a. Impending failure would cause assets of one party to leave the market if the merger does not occur

b. Parties must show that the failing firm cannot

i. Meet financial obligations

ii. Reorganize in bankruptcy

iii. Find another buyer whose purchase would pose lesser anticompetitive risks

iv. Without merger, assets will exit market

iv. AOL/Time Warner

1. 6 markets

2. Forecasting potential competition ? puts FTC in difficult position

c. FTC Divestiture Study

i. Three main findings:

1. Most divestitures create viable competitors

2. Sellers look for weak purchasers and make like tougher for them

3. Buyers don’t have enough information, don’t do due diligence

ii. Managing of ongoing relationship between buyer and seller become difficult

iii. Selling business substantially better than dividing into pieces and selling

iv. Problems:

1. Strategic Sellers ? sell as little as possible and look for weak buyers. FTC embracing penalties (crown jewel), more regulatory posture to deal with this.

2. Strategic Buyers ? buyer not looking for competition but money

3. Winner’s Curse ? under-informed buyers, believe have little bargaining power. What about market response to rush in to purchase?

IX. ROBINSON-PATMAN ACT AND PRICE DISCRIMINATION

a. Statute intends to capture protection of mom and pop companies; bars price discrimination that lessens competition and tends to create a monopoly. Three types of discrimination

i. Primary Line Discrimination ? Price discrimination injures competitors when the purpose or effect of seller’s selective price cut is to drive rivals out of business.

1. Generally arise when national seller charges different prices for the same product in different geographic areas.

2. Utah Pie v. Continental Baking Company

a. Mom and Pop company suing large bakers for price discrimination under R-P.

b. Court finds despite increasing sales, existence of predatory intent and injury to competition. Strong dissent suggests that anticompetitive effect must be present to give injury

c. Predatory Pricing

i. National firms could use profits in other markets to support local losses

ii. Oligopoly situation ? Court in Brooke requires much more information on injury to competition

iii. Where is recoupment?

ii. Secondary Line Discrimination ? Favorable price given to one buyer who competes with other buyers who cannot receive the lower price (typically large chains and small stores who get differing prices from manufacturers or wholesalers)

1. FTC v. Morton Salt Co.

a. Salt company was giving substantial volume discounts to large volume buyers, Court says discriminating against the small purchaser.

b. Substantial price differential could influence resale prices

c. Injury to competition established by prima facie with proof of substantial price discrimination ? rebuttal with evidence breaking the causal connection between the differential and lost sales or profits

2. Borden

a. Detail on establishing a cost defense under R-P

b. Categorization for prices are based on size, but actually differences in use, services, etc, but separate pricing may not fix

iii. Tertiary Line Discrimination - Discrimination affects customers of customers

1. Falls City v. Vanco Beverage Co.

a. Brewer sells to two different wholesalers in IN and KY. IN state law required level prices for all sales, so brewer must charger higher price there, lower price to KY wholesaler. State law prevented W from selling to Rs in other states, but retail customers crossed state lines.

b. IN sales to Rs impacted by high prices: not by competition with KY distributor directly, but by indirect retail customer purchase in KY.

c. Test: Unless evidence of seller bad faith, the seller only has to show that a reasonable and prudent businessman would believe that the lower price that he charged was generally available from his competitors throughout the territory and throughout the period in which he made the lower price available.

b. Defenses

i. Discrimination based on cost differentials ? relatively weak

ii. Meeting competition ? useful framework for insulating price discrimination challenges but weak

1. If national companies have strong defense, there is no incentive to give up monopoly

2. Have to ask if collusion is facilitated by maintaining monopoly prices even in local markets

X. ANTITRUST INJURY AND STANDING

a. Injury

i. Brunswick Corp. v. Pueblo Bowl-O-Mat

1. Bowling equipment manufacturer acquired bankrupt bowling alleys in competition with plaintiffs ? injury flowed from competition itself, not a reduction in competition.

2. Court held that a private plaintiff in a treble damage action must show its injury resulted from the anticompetitive effects of the defendant’s conduct.

3. Must show antitrust injury of the type the laws were intended to prevent

b. Standing

i. Hanover Shoe Co. v. United States Machinery Corp.

1. Manufacturer claimed that purchaser “passed on” the illegal overcharges to customer and purchaser suffered no injury

2. Court rejected “passing on” defense ? direct purchasers may sue

ii. Illinois Brick Co. v. Illinois

1. Indirect purchasers attempted to sue under §4 of Clayton Act

2. Court found that indirect purchasers lack standing ? avoid multiple recovery by indirect and direct purchasers, avoid allocation issues

3. Cost-Plus contract exception ? fixed quantity, pre-existing where direct purchaser passes on overcharge without having sales decrease

iii. Kansas v. Utilicorp United Inc.

1. Missouri and Kansas brought suits against D as parens partiae for citizens who paid increased prices D passed along to them from manufacturer.

2. States lacked standing ? the utility company and not citizens suffered the direct antitrust injury.

3. No exception to Illinois Brick

iv. Concerns

1. Multiple recovery risk

2. Incentive to bring suits

3. Relative costs

XI. MICROSOFT

a. Operating System Economics

i. Large fixed costs, low marginal costs ? classic natural monopoly

ii. Network Externalities ? collective adoption issues, risk to players of remaining old or moving too quickly to new

b. Microsoft I

i. Government concedes no actual antitrust violations ? lessen of Alcoa ? having monopoly not enough

ii. Non-disclosure agreements ? MS allegedly using NDAs to strategically restrict development of software for competing OS

iii. Licensing Practices - minimum commitment, lump sum pricing, and per processor licensing. Some issues:

1. Fixed Cost Allocation ? zero marginal cost product but per copy licenses created marginal cost capitalization

iv. §16(e) of the Tunney Act ? entry of consent judgment must be in the public interest

1. Competitive impact

2. Provisions for enforcement and modification

3. Duration or relief sought

4. Anticipated effects of alternative remedies

5. Other consideration based on adequacy

v. Sporkin refuses to enter the decree ? neglects items he believes important (NT and vaporware); DC Circ reverses as Sporkin not privy to the consent decree negotiations, internal deliberations of DOJ. Seems to empty the Tunney Act

c. Microsoft II ? Bundling and Integration

i. District Court takes IV(e) of the consent decree and applies it to Internet Explorer and Windows 95 ? barred MS from forcing OEMs to license both browser and OS.

ii. DC Cir reverses. Majority test ? “‘Integrated Product’ understood as product that combines functionalities in a way that offers advantages unavailable if the functionalities are bought separately and combined by the purchaser”. These products may also be marketed separately and operated together.

1. Shouldn’t be about physical relationship between code and hardware or code and code, but about superior functionality of one object with a second.

2. The real question is who achieves the superior functionality.

iii. Wald Dissent ? bothered that MS has unfettered choice to make product and majority opinion gives few restrictions once this choice has been made. The solution is to have judges play bigger rule in software design through balancing test: Look for synergies from integrating two products, look for evidence of separate demand for two products, then balance.

1. Greater evidence of distinct markets, more a showing of synergy required.

2. Clearly distinct markets, MS must demonstrate substantial synergies in order to integrate products.

d. Microsoft III

i. Jackson’s Findings of Fact

1. Relevant Market

a. Licensing of all Intel-PC operating systems worldwide

b. Exclude Mac as unviable alternative, new products undeveloped and excluded

c. Barriers to entry caused by positive feedback loop (users go to software, developers go to users)

2. MS Market Power

a. MS could charge higher price than that found in competitive market if it chose to

b. Share of the market is large and stable

c. High barrier to entry

d. Customers lack commercially viable alternative to Windows

3. Middleware Threats ? MS afraid of applications that rely largely or wholly on middleware APIs (like Navigator or Java)

4. Browser Threat

a. MS offers Netscape agreement to not create an independent API base on Win platform; offer rejected, MS restricted Netscape access to software and information

b. MS pressure other firms (Intel, Apple) to halt software development

c. MS maximized IE share of browser market at Navigator’s expense: high fixed costs to create IE, but gave product away free

d. IE and OS separate products ? MS bundling to preserve applications barrier to entry

5. Consumer Consequences

a. Competitive advantages that emerge from competition with Netscape ? improved quality, lower prices.

b. Harms to consumers:

i. Confusions, frustration, increased tech support costs for

ii. Deprived consumers of innovations through exploitation of market share

ii. Jackson’s Conclusions of Law

1. Monopoly plus ? MS tried to protect monopoly through contracts with OEMS, ISPs, etc. - meets Spectrum Sports criteria

a. Alleged offer to Netscape to divide browser market

b. MS wanted to divide browser market and achieve monopoly on Windows 32.

c. Line between attempted monopolization and competition turns on the market division allegation.

2. Microsoft does not need to tie browser to increase profits ? it can extract full profits from the first monopoly (i..e. Windows); the tying analysis turns on crucial design decisions. Jefferson Parish integration does not describe the software industry; need other formulations.

3. Violations

a. Sherman Act §1 ? unlawful tying of web browser to OS (rejects Microsoft II)

b. Sherman Act §2 ? monopolization of the OS market

c. Sherman Act §2 ? attempted monopolization of web browser market

d. No unlawful exclusive dealing ? Sherman Act §1

iii. Remedies

1. Structural Remedy

a. Assigns people and software of MS to two companies: MSOS and MSApps.

i. Overlap IP

ii. IE quarantined from MSOS

iii. Limits on joint projects and contacts

iv. Separate ownership of two companies

b. Double Marginalization ? Jackson does not address

2. Conduct Remedy

a. To help sequentially ? limitations on MS, non-discrimination rules ? uniform pricing, published price list, limit ability to play OEMS against one another.

b. Continued licensing of older versions ? huge cost if slows development, but may have MS compete with itself.

法条競合の問題

デジコン事件では、8条1項1号と8条1項5号(共同ボイコット)の双方を認めた。

この場合上告人(債権者)は8条1項5号(共同ボイコットをさせる)の規定を利用することを要請しているのであるが、菅原弁護士が一審においても共同ボイコットを主張するようにしているとのことであったが、一審では赤坂弁護士は共同ボイコットを主張しなかった。

ここで最も重要なのは、枝葉末節ではなくてアメリカのノースウェスト判決というアメリカの独占禁止法体系のなかですべてを総括した判決と、ドイツの競争制限禁止法第20条6項と、日本の薬事法距離制限違憲判決に共通してみられる核の概念は法哲学的にも、法学的にも何であるのかということである。The Court concluded that the per se standard is acceptable only if the boycotting cooperative possesses market power or if it has exclusive access to either supply or an essential element so that competition is affected.この結論を出すのに、アメリカの最高裁判所は何を考えたのか。またドイツの法律家は第20条6項を法定するにあたり何を根拠にしたのか、日本でLRAの原則を採用するに当たり何を考えたのか。そしてそれらに共通するものがあったのかである。

アメリカ人は市場の支配力に注目し、ドイツ人は不平等性に注目し、日本人は立法政策上の制限的ではない代替的な立法政策について注目した。

各人種の性格上の差であろうか。日本人は行動する前に考えて立ち止まり、憲法の段階にとまり、個別具体的には踏み込まないと考えた。ドイツ人は同じことを個別具体的な事案に限定すれば使用できる原理であると考えて、法定した。そして当然にドイツ人も他の代替的な制限的ではない手段についても考えての法律案の作成であったはずである。最後にアメリカ人の場合には当然違法ルールという様々な個別具体的な事案に適用できるようなルールの作成に力を注いだ。そして多くの事案に共通するルールを見出した。日本では共同ボイコットのガイドラインにおいても事案が多くなかったのであるから、例をいくつか示すにとどまり、それも共同ボイコットの事案はゼロに等しかったので、共通してのルールを定めるまでにはいたらずに、カルテルの例を応用したものになったので、学説も混乱したままで推移していて5号だ3号だという鋭い対立のままである。

しかしよく考えると必ず共通する原理原則があるはずである。

これが次の学説かもしれない。

「Practice results in significant adverse competitive effects, rarely justified by redeeming virtues, and when less restrictive alternatives are available, no reason for extended trial before practices will be condemned. ある行為が競争を制限する顕著な効果を結果としてもたらすときには、その行為がもっている価値によって正当化されることはほとんどありえない。またより制限的ではない代替的な手段が利用可能であるときには、実際の審理を行わずとも、そのような多くの行為が違法であると宣言される。」

「より制限的ではない代替的な手段が利用可能であるときには」という概念を当然違法の概念に使用しているのである。これは日本の薬事法判決と、アメリカのノースウェスト判決を結び付けている。

日本ではLRAの原則は薬事法違憲判決で使用した。アメリカではノースウェスト判決の基礎であるとPicker教授は言う。ドイツでもおそらく事業者団体に入らなければ不平等な取扱いになる時にはというのは、他の民事訴訟のような制限的ではない代替案がないか、競争制限や、人権制限を行わなくてもそちらの代替案をとる義務があると考えているのではないか。

ということはPicker教授の言っていることは、すべてを総括したものであるといいうる。従って事業者団体の性格である強制入会の問題(税理士会違憲事件)であるばかりではなく、「より制限的ではない代替的な手段が利用可能であるときには」(薬事法違憲事件)の問題であるといいうるということである。ヨーロッパの競争制限禁止法では「より制限的ではない代替的な手段が利用可能であるときには」の概念は多く使用されているが、第20条6項を法定するにあたりそれを根拠にしたのかについては明言してはいないが、ヨーロッパ競争制限法の「より制限的ではない代替的な手段が利用可能であるときには」という概念は、概念法学の国ドイツにおいては抽象的であるがゆえに多くの学者が採用しているはずである。アメリカのように市場支配力や、必須施設の概念よりも制限的という概念の方が抽象的である。アメリカ人の中にもドイツ出身の学者もいるであろうから、ヨーロッパ的な学説に共鳴した学者もいるはずである。

ここにはヨーロッパとアメリカの競争制限法における統合の問題が潜んでいる。日本ではそれを憲法問題を手がかりに解決し、世界の潮流に追い越し、追い越そうという波に乗ることが出来るかもしれない。日本でもその統合の問題の最先端を行くことが出来るかもしれない。

とにかくPicker教授の説は重要である。

参入制限と、共同ボイコットについては、服部教授は「事業分野と、取引分野の違いである。」と解釈している。これも小手先の問題ではなく、加入制限を行わなくても、他の代替的な手段がなかったか、共同ボイコットを行わなくても他の代替的な手段がなかったかという問題としてとらえれば、3号、5号の意見対立は同じ問題としてとらえることができて、憲法問題とすることが出来るのである。これまで個別企業が事業活動が困難となるときという言葉を多用してきた日本のガイドライン、日本の判例の流れからすると、個別企業の損害について多く述べてきているのであるから、5号の問題であるということが出来る。これは日本では公正競争阻害性のある行為でも放置されてきたので、事業活動が困難になる多くのケースがあったということの現れである。全体的に公正取引委員会が入会制限の規定を設けていけないという禁止をするときには不公正な取引方法による個別企業の行為について述べてはいないのであるから、入会規制を強化してはいけないという公正取引委員会の禁止の問題である入会金の値上げについては禁止という問題となるであろう。

さてそこで独占禁止法の母国アメリカおよび片方の母国ドイツの独占禁止法の体系をも参考に日本の独占禁止法の体系における本件事件においては共同ボイコットをさせる行為に該当していることについて証明して、法令の適用の誤りがあることを証明する。

差止めは私訴において用いられるものであり、個別企業の保護を目的としている。給付の概念であり、現行犯逮捕と同様の意味を持つ概念である。

一方の公正競争阻害性の概念は価格維持の効果を持ち、一般消費者の役に立たず、ひいては国家の経済を脅かすという意味である。

「比較独占禁止法第5版」、服部育夫著、105−106頁によれば「事業者団体による事業者数の制限行為は・・・法条競合の問題を生ずる。」「3号適用説と3号5号双方適用説とが鋭く対立する。」「3号が市場閉鎖を防止する規定であるのに対し、5号は事業者団体の圧力によって不公正な取引方法が用いられ、圧迫を受ける事業者を救済する規定である。保護法益が異種類のものである以上、両号は併せて適用されることになろう。すなわち3号のほか、手段としての外部行為に5号も適用される(公取委勧告審決平3・1・16審決集37巻54頁)。数の制限までに至らないケースでは、5号のみが適用される。」

この解釈は妥当であるが、公正取引委員会の政策としては3号、個別企業の保護の観点では5号が法条競合していると考えれば、流通・取引慣行に関する独占禁止法上の指針

第2 共同ボイコットにおいて「[6] 役務を供給する事業者を構成事業者とする事業者団体が、当該事業者団体に加入しなければ事業を行うことが困難な状況において、事業者の新規加入を制限すること(独占禁止法第8条第1項第1号又は第3号)」の例示は、法条競合を間違っているか、あるいは、1号に該当する以上は5号に該当することは当然ということであろうということであろう。例示としては1号に該当するような場合だけを例示したのであって、それに該当しないような「数の制限までに至らないケースでは、5号のみが適用される。」という文言が当然に含まれていると考えられる。

これは概念に含まれる要素の集合の問題であり、1号ならば、3号、3号ならば5号というように「数の制限までに至らないケースでは、5号のみが適用される。」という概念は文理解釈上は集合の概念を用いているということになる。三段論法によれば1号であれば、5号は当然含まれていることになる。

ごくまれなケースとして例えば価格は同じであっても、二社あるうちの一方が他方を市場支配力でつぶしてしまったが、消費者や国民には一切影響を与えなかったという場合には、公正競争阻害性はないが、個別企業は保護しなくてはならないという場合があり、この場合には独占禁止法ではなく不法行為や刑法の問題になってしまうことがあるが、一般には公正競争阻害性がなければ個別企業を保護する必要があり、私訴によって損害賠償請求が可能になるという事件が起こるという想定はほとんど不可能に近い。先の事例でも一社になればその行為単独では公正競争阻害の問題は発生していないように見えるが、実際にはその後の一社の行動においては単独独占企業になったので、良心がなければ、公正競争阻害行為に及ぶ危険性(おそれ)が大であるのであるから、公正競争阻害性がないというわけではないともいえるであろう。

村上政博教授は「独占禁止法 第2版」(村上政博著、弘文堂、2000年、156頁)において「共同の取引拒絶について、不公正な取引方法に該当する場合の違法性基準のみを示せば足りることになりかねず、指針のように共同の取引拒絶を不当な取引制限に該当する要件を示すこと自体が全く無意味になる。

カルテルが不公正な取引方法に該当するとされないように、本来典型的な水平的制限である共同の取引拒絶については、不当な取引制限に該当し違法となるか否かで決着をつければよい。」とされている。

また5号については、させることだけでも公正競争阻害性がなくとも、正当な理由なく違法であるとされているのであることについては、「独占禁止法 第2版」(村上政博著、弘文堂、2000年、153頁)において「8条1項5号については、・・・・・事業者団体が不公正な取引方法に該当する行為をさせるという内容の決定(決議)を行ったことにある。・・・・・実体要件については公正競争阻害性であると解釈されているが、働きかけられた事業者が不公正な取引方法に該当する行為を実施すること(不公正な取引方法を用いること)までは必要ではないと解釈されており、8条1項5号と不公正な取引方法の実体要件である公正競争阻害性とが結びつくのかについても疑問がある。」と記載されている。これは公正競争阻害性の問題ではなくて、私訴の損害賠償請求の問題が、公正競争阻害性がなくてもありうるという規定であると考えられ、本件事件においてはまさにその場合に該当するということがいえる。

村上政博教授は後に書かれた「独占禁止法と差止・損害賠償」においては、公正競争阻害性がなくても、損害が認められる判決となることがあるとされているのであり、その点では先の服部育夫説と結論が同じであるが、「本来典型的な水平的制限である共同の取引拒絶については、不当な取引制限に該当し違法となるか否かで決着をつければよい」との結論は、いまだ差止給付訴訟の実体法上の制度が存在していなかった時代には、共同ボイコットをアメリカの当然違法とほぼ同じ扱いにするためには、5号についてはそのようなことができず、日本においては「放置することができない」悪質な状態が放置されているので、より強力な当然違法に近い「不当な取引制限に該当し違法となるか否かで決着をつければよい」とされているのであると考えられる。確かに不当な取引制限としない限りは、当然違法に近づけることはできない。カルテルにおいて準当然違法の原則を打ち立てられようとしている努力は正しい。しかしアメリカのように共同ボイコットを事業者団体に適用していく場合に、ノースウェスト事件におけるように本件事件において共同ボイコットの違法性基準を設定することのほうが大切であろう。

確かにドイツの競争制限禁止法20条6項や、アメリカの当然違法の法理に倣うためには、この方法がもっとも良いであろうが、差止制度の創設において19条不公正な取引方法と8条1項5号のみが対象となったということを考慮すれば、8条1項1号であり、それゆえに8条1項5号である場合や、差止を行う必要がある程度に損害がある場合には、8条1項5号のみの程度に公正競争阻害性があり、かつ、私訴による損害が大きい場合には差止を認めることが妥当であると考えられる。ここに著しい損害論を持ち出すまでもないと考えられる。

本件事件は上記Picker教授によるアメリカの独占禁止法の体系においても、ドイツの競争制限禁止法の体系上も、わが国が継受した法体系の両母国においても当然違法や、法定違法として規定されている以上は、このような結論を出すことが妥当であると考えられるのであり、以上の観点からも原審の判決には法令の解釈に誤りがあり、破棄すべきものである。

なお「1号と3号との関係については1号が優先する。競争の実質的制限に至る以上、1号が適用される。」としている。これも先の概念の集合論によって、優先関係を証明することができる。

注:公取委勧告審決平3・1・16審決集37巻54頁の原文は次の通り。

仙台港輸入木材調整協議会

11 平成2 年(勧)第16号仙台港輸入木材調整協議会

H3.1.16 勧告審決@仙台港での木材の輸入販売に係る事業分野における事業者の数を制限 A正当な理由がないのに,会員木材輸入業者に対し,共同して港湾運送事業者に非会員との輸入木材の荷役に関する取引を拒絶させる行為を行わせている

@規約のうち,会員である木材輸入業者の資格を宮城県輸入木材協同組合の組合員に限定している部分の削除A会員港湾運送事業者に,非会員の輸入木材の荷役業務を行わせない旨の決定の破棄 B会員への通知及び非会員の木材輸入業者への周知 C非会員の木材輸入に係る将来の不作為

本件事件における適用

法条の適用において、本件事件は特殊性を有する。

まず事業者団体であるが、その特質上強制加入団体で、価格が法定してある資格者団体をまねようとしており、しかし一般の商業事業者団体として法律上は認定されている。

このために過去にも様々な独占禁止法違反の行為で茨城県、岐阜県の事業者団体が公正取引員会および最高裁判所によって警告や、不法行為による損害賠償の認容を受けている。

商業事業者団体(trade association)であり、資格者団体でない理由は業法制定の経緯からそのようにいえる。

従ってこの経緯から三友鰍フように販売のみを行い、生産を行わない事業者が現れても違法ではないといえることになった。しかし被上告人(債務者)は三友株式会社に対しても価格維持活動による競争制限強化を行っている。また広告についてもであるし、その他の価格維持についてもである。価格固定はなしえないはずであるし、従って、かつ価格の決定は価格が法定されていた弁護士法とかの場合よりも法的に自由であり、ゆるやかに決定すべきであるといえる。

生産者と、販売者が同一の事業者団体に所属しているゆえに、共同ボイコットにおける「ボイコットを行え」という指令が紙に残らず、外部に対して例えば「住宅新報社」に対して「価格を明示しての広告はいけない」というような場合にのみ、紙に残る結果となった。但しテープによってしか残っていない。

しこうして、8条1項1号と、3号、5号の問題が一般の場合とは違ったものとなった。

もし資格者団体の場合には、但し被上告人(債務者)は資格者団体には数えられていないが、8条1項1号と、3号に該当するようにみえる行為が、5号の問題となった。

役務を供給する事業者団体の場合にも、必須施設の問題や、市場支配力の問題がある場合には「第2 共同ボイコットにおいて、[6] 役務を供給する事業者を構成事業者とする事業者団体が、当該事業者団体に加入しなければ事業を行うことが困難な状況において、事業者の新規加入を制限すること(独占禁止法第8条第1項第1号又は第3号)」の例示のような状態にみえる。ところがこれは一見すると5号にみえないが、というくらいの例示であり、法条競合の問題が常にこのようであるというのではない。特に「必須施設の問題や、市場支配力の問題がある場合には」というような特定を行っていない点においては不十分な例示であるといわざるをえない。役務を供給する事業者を構成事業者とする事業者団体に対する警告程度の意味であるといってよい。

一般には埼玉県においては県においても、各市町村においても99.9%の市場において不動産鑑定業は「役務を供給する」業者であるとは分類されておらず、役務、建設関連事業、物品の三つ分類の中では建設関連の事業に分類されている。但し今回の平成18年度の固定資産税の標準宅地の鑑定評価からのみは川口市のみは独占禁止法による摘発を恐れて役務に変更している。物品での分類が一市であり、鶴ヶ島市であったかと思う。90市町村のうちの考え方としてはこのような考え方である。

「共同ボイコットによって、例えば、次のような状況となる場合には、市場における競争が実質的に制限されると認められる。

[1] 価格・品質面で優れた商品を製造し、又は販売する事業者が市場に参入することが著しく困難となる場合又は市場から排除されることとなる場合

[2] 革新的な販売方法を採る事業者などが市場に参入することが著しく困難となる場合又は市場から排除されることとなる場合

[3] 総合的事業能力が大きい事業者が市場に参入することが著しく困難となる場合又は市場から排除されることとなる場合

[4] 事業者が競争の活発に行われていない市場に参入することが著しく困難となる場合

[5] 新規参入しようとするどの事業者に対しても行われる共同ボイコットであって、新規参入しようとする事業者が市場に参入することが著しく困難となる場合」

本件事件においては、

[4] 事業者が競争の活発に行われていない市場に参入することが著しく困難となる場合

に近い状況であるが、この表現は8条1項5号の共同ボイコットによって、8条1項1号にいたるという表現である。

確かにこのことはいえるのであって、共同ボイコットをさせ、入会させないことによって競争の実質的制限にいたるということである。ということは共同ボイコットは個別企業あるいは事業者の取引分野全体への脅威であって、競争の実質的制限とは公正取引委員会が公共の利益という観点から見て、社会全体が損害を被っているという概念であり、数の制限とは社会全体において事業分野全体が損害を被っているという概念であり、個別具体的な行為については数の制限とはいっていないといいうる。個別具体的な行為を規制しているからこそ、5号は個別企業を保護しているようにみえるが、その実一般指定の最初の意味は個別具体的な行為の規制であるといえる。個別具体的とは個別の企業に対するものであり、入会金を値上するような行為は、誰に対しても行われるのであるから、不公正な取引方法というよりも公正競争阻害性が強い数の制限の行為に含まれるということができる。

そこでアメリカの判例をPicker教授の講義録から引用し検討する。

ii. Klor’s Inc. v. Broadway-Hale Stores

1. No evidence of altered output or harm to consumers, yet Supreme Court says that this is an antitrust issue ? concerted refusal to deal is per se illegal.

 生産量を減少させたとか、消費者に害を与えたとかの証拠がなかったにもかかわらず、最高裁判所は共同の取引拒絶は当然に違法であり、この事件は反トラスト法違反であるとした。

2. Group boycotts are not redeemable by a showing of reasonableness.

 共同ボイコットは合理的な理由を示すだけでは、救うことができない。

3. Defendant’s offered no justification for their conduct and there may be a less restricted alternative to their actions.

自らの行為に対する弁明もなく、また、より制限的でない代替的な行為の可能性が存在したであろう証拠を提出しなかった。

4. Court does not give idea of how Broadway could have used monopoly power to drive Klor’s out of the market when there were many local competitors not being refused dealings with the manufacturers, but suggests that a wide combination of manufacturers, distributors, and retailers was involved.

5. Perhaps this is another Trans-Missouri reading of the antitrust laws to protect structures of production and not just consumer welfare.

そこでAssociated Press v. United Statesをも検討する。

1. Newspaper publishers formed newsgathering organization with restrictive membership rules giving each member exclusive rights to AP stories in its locale, authorizing each member to exclude competitors from membership.  

2. Court holds that by-laws, on their face, constitute restraints of trade even though market power is not great enough to suppress competition.

裁判所は、競争を制限するのに十分な市場支配力がなかったとしても、付随条項は、外見的に、取引の制限に該当するとした。

3. Exclusive dealing is typically analyzed using Rule of Reason, but here, the Court says that it is being used to hamper and destroy existing competition.

4. Without market power, exclusive dealing provisions should be upheld ? the Court seems to ignore this.市場支配力がなかったら、排除的な取引条項は正当化されるべきである−裁判所はこのことを無視しているように思われる。

5. The powerful rules of exclusion create huge barriers to entry, but tremendous asset to consumers. There could be a huge free-riding problem.

6. Solution to free-riding ? no access to news gathered by direct competitor.

7. Is the result a natural monopoly / public utility?」

という二つの判決である。ノースウェスト判決の前の判決である。

AP通信事件における排除の違法性を考慮して、それが共同ボイコットであるのかどうかを考慮する。排除とメンバーシップ(入会権)についてはアメリカの判例は駒澤大学元教授江口勲論文におけるように長期の積み重ねがあり、目が覚めるが、日本の場合にはまだ入り口であり、8条1項3号か、同5号かの議論は入り口にさえ入っておらず、無視しても良いと思われるが、しかし以上の通り法令の解釈について述べろといわれれば述べざるを得ないことになる。

ノースウェスト判決の最高裁判所判決は外国の判決ではあるが、その趣旨である市場支配力の問題と必須取引事例施設へのアクセスの事実上の問題として、条理に基づいて、本件事件については8条1項3号か、同5号かの議論を整理する法令の解釈として主張するものである。

その際に薬事法最高裁判所判決は、私が学生当時教育権の家永教科書裁判における判決同様に、学生にも重要な示唆を与えるものと考えられる。

本件事件はこのような事件を上回る憲法上の特質を持っている。

実際には多くの団体において人権はないがしろにされていると考えられる。しかしそれが本当に憲法上の判断がなされているとは言いがたい。憲法上の判断は常に先送りされている。ところが本件事件においては独占禁止法上の事業者団体というものの性格からして、強制加入に近い独占禁止法上の市場状況の中で行われた行為であったので、職業の許可制を私的な団体が法の枠を超えて、価格維持活動の警察行動として行い続けているという事件である。そこで薬事法最高裁判所違憲判決が使用できる余地が出てきたのである。

その中では職業の許可制は、「法定の条件をみたし、許可を与えられた者のみにその職業の遂行を許し(登録)、それ以外の者に対してはこれを禁止するもの(登録欠陥条項)であつて、右に述べたように職業の自由に対する公権力による制限の一態様(不動産鑑定評価に関する法律)である。このような許可制が設けられる理由は多種多様(専任不動産鑑定士制度など)で、それが憲法上是認されるかどうかも一律の基準をもつて論じがたいことはさきに述べたとおりであるが、一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置(登録欠陥条項)である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制(民事裁判など)によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであつて、許可制の採用自体が是認される場合であつても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである。」

(判例 S50.04.30 大法廷・判決 昭和43(行ツ)120 行政処分取消請求(第29巻4号572頁))

この事件の判決におけるよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制(民事裁判など)を私的な事業者団体が行えるにもかかわらず行っていないことが、憲法の議論の中で行われるべきか、独占禁止法の議論の中で行われるべきかという問題が発生する。アメリカでのPicker教授の判断では独占禁止法の当然違法の一断面であると考えている。本上告状においては上告受理申し立てにおいては違う。アメリカでのPicker教授の判断は当然違法の原理を、憲法によって正当化したに過ぎないと考えられる。そのような一学説である。学生が当然違法を理解するための一つの手段であるということができる。競争制限的か、人権制限的課の問題であるが、事業活動が困難になっているという事実からすればすでに独占禁止法を離れて、憲法の問題となっているのである。信条の自由についてはすでに憲法の問題である。しかし職業の私的団体による許可制の問題は、すでに憲法の問題となっているのであって、それが国家による許可制の問題ではなくて、事業者団体による許可性の問題になっているとしても、よりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制(民事裁判など)についての判断は

「憲法二二条一項は、何人も、公共の福祉に反しないかぎり、職業選択の自由を有すると規定している。職業は、人が自己の生計を維持するためにする継続的活動であるとともに、分業社会においては、これを通じて社会の存続と発展に寄与する社会的機能分担の活動たる性質を有し、各人が自己のもつ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有するものである。右規定が職業選択の自由を基本的人権の一つとして保障したゆえんも、現代社会における職業のもつ右のような性格と意義にあるものということができる。そして、このような職業の性格と意義に照らすときは、職業は、ひとりその選択、すなわち職業の開始、継続、廃止において自由であるばかりでなく、選択した職業の遂行自体、すなわちその職業活動の内容、態様においても、原則として自由であることが要請されるのであり、したがつて、右規定は、狭義における職業選択の自由のみならず、職業活動の自由の保障をも包含しているものと解すべきである。

もつとも、職業は、前述のように、本質的に社会的な、しかも主として経済的な活動であつて、その性質上、社会的相互関連性が大きいものであるから、職業の自由は、それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力による規制の要請がつよく、憲法二二条一項が「公共の福祉に反しない限り」という留保のもとに職業選択の自由を認めたのも、特にこの点を強調する趣旨に出たものと考えられる。このように、職業は、それ自身のうちになんらかの制約の必要性が内在する社会的活動であるが、その種類、性質、内容、社会的意義及び影響がきわめて多種多様であるため、その規制を要求する社会的理由ないし目的も、国民経済の円満な発展や社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的なものから、社会生活における安全の保障や秩序の維持等の消極的なものに至るまで千差万別で、その重要性も区々にわたるのである。そしてこれに対応して、現実に職業の自由に対して加えられる制限も、あるいは特定の職業につき私人による遂行を一切禁止してこれを国家又は公共団体の専業とし、あるいは一定の条件をみたした者にのみこれを認め、更に、場合によつては、進んでそれらの者に職業の継続、遂行の義務を課し、あるいは職業の開始、継続、廃止の自由を認めながらその遂行の方法又は態様について規制する等、それぞれの事情に応じて各種各様の形をとることとなるのである。それ故、これらの規制措置が憲法二二条一項にいう公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによつて制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない。この場合、右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。」

とする前記判決の結論部分の前段に書いている「一定の条件をみたした者にのみこれを認め、更に、場合によつては、進んでそれらの者に職業の継続、遂行の義務を課し、あるいは職業の開始、継続、廃止の自由を認めながらその遂行の方法又は態様について規制する等、それぞれの事情に応じて各種各様の形をとることとなるのである。それ故、これらの規制措置が憲法二二条一項にいう公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによつて制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない。この場合、右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。」の部分が重要な手がかりになる。

この場合、「これらの規制措置が憲法二二条一項にいう公共の福祉のために要求されるもの」との判断は、民間の事業者団体が行う規制であっても、憲法によらなければ、判断することが出来ず、「これらの規制措置が憲法二二条一項にいう公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによつて制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない。この場合、右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。」の部分を重要な手がかりとして考察すれば、立法府の判断は欠格条項のみであるのに、私的な事業者団体が価格維持行為の為に更なる規制措置を設けることができるのか、できないとすればそれは憲法によって規制されるのか、独占禁止法の運用によって規制されるのかの問題である。これはPicker教授の説が競争制限にのみ限定されているのか、事業活動が困難になる場合には憲法の職業活動の自由によっても規制ができるのかの問題である。独占禁止法は経済の憲法であり、公共の福祉や、公正競争阻害性を問題としているのであるから、憲法の構造と非常に似通った構造を持っている。従って憲法抜きでもこの問題は解けそうにも思われる。

しかし独占禁止法は事業活動が困難になることについて、より制限的ではない代替的手段の問題は設けておらず、日本の判例法は世界に先駆けてこれを憲法の解決手法と捉えていることからすれば、日本では薬事法最高裁判所違憲判決を使用せざるを得ないのであって、それからすればこの事件は憲法の問題とならざるを得ないということができる。

一方被上告人(債務者)には今後ともに岐阜県事件においてあの朝日新聞が指摘するような受注調整のおそれがあるし、その一環として外部からやってきたものには、受注を行わせないという規則を励行しているのであるかのような、本件事件の入会拒絶を行っているのであるから、今後もおそれが存在するのであるから、将来に向かっても差止を行う必要があるということが出来る。

H16. 4.23 東京高裁 平成15行ケ335 審決取消請求事件において「担当官等から情報の提示を受けることが違反行為の重要な前提条件となっているのであるから,情報の提示がされなくなった場合でも,なお原告らが郵政省の行う上記の一般競争入札について受注調整を行うおそれが存在する」という審決がいうような違反行為のおそれの存在は、本件事件のような継続的に損害を与え続けている時以外には容易に見出すことが出来ず、本件事件が最初にして最後の判決となるであろうと思われる。

是非現行犯を逮捕していただきたいのである。そのような要求を日本では簡単にはねのけてきた。これからはそういうことは許されない。

「独占禁止法 第2版」(村上政博著、弘文堂、2000年、154−155頁)において「昭和57年当時共同の取引拒絶が不当な取引制限に該当するという解釈はとられておらず、しかも違法行為類型に定めないで放置するわけにもゆかないため、一般指定において指定したものと考えられる。」とされている。「平成3年の・・・・・少なくとも共同の取引拒絶により有力事業者の事業活動が困難となる場合には、市場における競争が実質的に制限されると認めてよく、前記@ないしDの要件は狭すぎる。」と記載されている。

この場合に事業活動が困難となる場合を法的に特定したのがアメリカ最高裁判所のノースウェスト判決であると考えられる。

また「カルテルについての判例法と同等に、多数の事業者が参加し、(正当化事由のない)当然に関連市場での競争に悪影響を及ぼすことが予想される共同の取引拒絶は、合意時に不当な取引制限が成立し、実施行為、実施状況等を問わないと解釈していくことが相当であろう」(「独占禁止法 第2版」(村上政博著、弘文堂、2000年)154−155頁。)と記載されている。しかしこの場合にはアメリカ最高裁判所のノースウェスト判決に見られる様に自由競争の場での共同の取引拒絶は関連市場での競争に悪影響を及ぼすと予想されることが少ないためにアメリカ最高裁判所のノースウェスト判決のような判断は必要であり、かつ、ドイツの競争制限禁止法第20条6項に見られるように、入会拒絶が(入会禁止ではなく)その手段として使用された場合には、当然に入会の強制という命令的な差止が必要になるということが出来る。本件事件はアメリカ最高裁判所のノースウェスト判決の市場の状況を満たし、かつまたドイツの競争制限禁止法第20条6項に見られる条件を満たした入会の拒絶であり、更に日本国憲法上の強制入会に近い団体における入会の拒絶であり、信条の自由を侵し、更には事業活動を困難にすることによって営業の自由をも侵している事件であるので、LRAの原則を使用した上での最高裁判所の自判をお願いするものである。

参照裁判例:H16. 4.23 東京高裁 平成15行ケ335 審決取消請求事件において、

「上記の本件違反行為の内容から明らかなように,本件では,担当官等から情報の提示を受けることが違反行為の重要な前提条件となっているのであるから,情報の提示がされなくなった場合でも,なお原告らが郵政省の行う上記の一般競争入札について受注調整を行うおそれが存在するとすることは,原告らの受注調整行為が長期間にわたって行われてきたこと,原告らが受注調整行為を取りやめたのは原告らの自発的意思に基づくものでないこと,区分機類の市場はいまだ寡占市場であること等の,被告の主張する諸事情があるとしても,認め難いといわなければならない。被告の裁量は,「特に必要があると認めるとき」という要件の存在が認められるときに,排除措置を執るか否か及びその内容について認められるのであって,この要件が存在しないときにまで,排除措置を命ずることが許されることにはならない。

(5) 【要旨】以上のとおりであって,本件審決書の記載(被告の認定した事実)からは,被告が原告らに対して本件排除措置を命じた理由,すなわち法54条2項の適用の基礎となった事実関係を当然に知り得るものということができないのみならず,上記の検討に照らせば,被告の認定した事実からは,同条2項にいう「特に必要があると認めるとき」の要件を認めることもできないといわざるを得ない。そうすると,本件審決は,法57条及び法54条2項に違反するものであるから,法82条2号により,取消しを免れない。

  2 したがって,その余の争点について判断するまでもなく,原告らの請求は理由があるので認容することとし,主文のとおり判決する。」

注:判例 S50.04.30 大法廷・判決 昭和43(行ツ)120 行政処分取消請求(第29巻4号572頁)

判示事項:薬事法六条二項、四項(これらを準用する同法二六条二項)と憲法二二条一項

要旨:

  薬事法六条二項、四項(これらを準用する同法二六条二項)は、憲法二二条一項に違反する。

参照・法条:

  憲法22条1項,薬事法6条2項,薬事法6条4項,薬事法26条2項

内容:

 件名  行政処分取消請求 (最高裁判所 昭和43(行ツ)120 大法廷・判決 破棄自判)

 原審  S43.07.30 広島高等裁判所

主    文

     原判決を破棄する。

     被上告人の控訴を棄却する。

     控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。

         

理    由

 上告代理人・原隆一の上告理由二について。

 所論は、要するに、本件許可申請につき、昭和三八年法律第一三五号による改正後の薬事法の規定によつて処理すべきものとした原審の判断は、憲法三一条、三九条、民法一条二項に違反し、薬事法六条一項の適用を誤つたものであるというのである。

 しかし、行政処分は原則として処分時の法令に準拠してされるべきものであり、このことは許可処分においても同様であつて、法令に特段の定めのないかぎり、許可申請時の法令によつて許否を決定すべきのではなく、許可申請者は、申請によつて申請時の法令により許可を受ける具体的な権利を取得するものではないから、右のように解したからといつて法律不遡及の原則に反することとなるものではない。また、原審の適法に確定するところによれば、本件許可申請は所論の改正法施行の日の前日に受理されたというのであり、被上告人が改正法に基づく許可条件に関する基準を定める条例の施行をまつて右申請に対する処理をしたからといつて、これを違法とすべき理由はない。所論の点に関する原審の判断は、結局、正当というべきであり、違憲の主張は、所論の違法があることを前提とするもので、失当である。論旨は、採用することができない。

 同上告理由一について。

 所論は、要するに、薬事法六条二項、四項(これらを準用する同法二六条二項)及びこれに基づく広島県条例「薬局等の配置の基準を定める条例」(昭和三八年広島県条例第二九号。以下「県条例」という。)を合憲とした原判決には、憲法二二条、一三条の解釈、適用を誤つた違法があるというのである。

 一 憲法二二条一項の職業選択の自由と許可制

 (一) 憲法二二条一項は、何人も、公共の福祉に反しないかぎり、職業選択の自由を有すると規定している。職業は、人が自己の生計を維持するためにする継続的活動であるとともに、分業社会においては、これを通じて社会の存続と発展に寄与する社会的機能分担の活動たる性質を有し、各人が自己のもつ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有するものである。右規定が職業選択の自由を基本的人権の一つとして保障したゆえんも、現代社会における職業のもつ右のような性格と意義にあるものということができる。そして、このような職業の性格と意義に照らすときは、職業は、ひとりその選択、すなわち職業の開始、継続、廃止において自由であるばかりでなく、選択した職業の遂行自体、すなわちその職業活動の内容、態様においても、原則として自由であることが要請されるのであり、したがつて、右規定は、狭義における職業選択の自由のみならず、職業活動の自由の保障をも包含しているものと解すべきである。

 (二) もつとも、職業は、前述のように、本質的に社会的な、しかも主として経済的な活動であつて、その性質上、社会的相互関連性が大きいものであるから、職業の自由は、それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力による規制の要請がつよく、憲法二二条一項が「公共の福祉に反しない限り」という留保のもとに職業選択の自由を認めたのも、特にこの点を強調する趣旨に出たものと考えられる。このように、職業は、それ自身のうちになんらかの制約の必要性が内在する社会的活動であるが、その種類、性質、内容、社会的意義及び影響がきわめて多種多様であるため、その規制を要求する社会的理由ないし目的も、国民経済の円満な発展や社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的なものから、社会生活における安全の保障や秩序の維持等の消極的なものに至るまで千差万別で、その重要性も区々にわたるのである。そしてこれに対応して、現実に職業の自由に対して加えられる制限も、あるいは特定の職業につき私人による遂行を一切禁止してこれを国家又は公共団体の専業とし、あるいは一定の条件をみたした者にのみこれを認め、更に、場合によつては、進んでそれらの者に職業の継続、遂行の義務を課し、あるいは職業の開始、継続、廃止の自由を認めながらその遂行の方法又は態様について規制する等、それぞれの事情に応じて各種各様の形をとることとなるのである。それ故、これらの規制措置が憲法二二条一項にいう公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによつて制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない。この場合、右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。

 (三) 職業の許可制は、法定の条件をみたし、許可を与えられた者のみにその職業の遂行を許し、それ以外の者に対してはこれを禁止するものであつて、右に述べたように職業の自由に対する公権力による制限の一態様である。このような許可制が設けられる理由は多種多様で、それが憲法上是認されるかどうかも一律の基準をもつて論じがたいことはさきに述べたとおりであるが、一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであつて、許可制の採用自体が是認される場合であつても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである。

 

このような予防的措置として職業の自由に対する大きな制約である薬局の開設等の地域的制限が憲法上是認されるためには、単に右のような意味において国民の保健上の必要性がないとはいえないというだけでは足りず、このような制限を施さなければ右措置による職業の自由の制約と均衡を失しない程度において国民の保健に対する危険を生じさせるおそれのあることが、合理的に認められることを必要とするというべきである。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(11)

平成17年5月27日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

公法か、私法かの問題はただ単にLRAの基準が採用されるかどうかの問題ではない。人権を侵すまでになっている場合には、憲法問題であるが、より人権制限的ではない代替手段があるかどうかの問題である。それは独占禁止法上の事業者団体に突きつけられた憲法問題である。事業活動の禁止を私的な事業者団体が法以上に出来るのかという経済的自由の問題であると同時に、強制加入団体に近いからこそ信条の自由が守られるべきであるという憲法問題になったのである。

本件事件が多くの他の憲法事件とは違っていて、たとえば三菱樹脂事件とは違って、世界的な判決となろうとしている理由は、第一に独占禁止法が公正競争阻害という公的な問題を取り扱っていながら、それにもかかわらず、私訴であり、しかしそれにもかかわらず、あくまでも公法の問題であって、純粋に私法の問題ではなく、強制入会という言葉の示すとおりに強制という非常に国家的な問題を含んだ問題、それもそれによって公正競争阻害性を回復させようという大問題を含んでいる。ということは公法、私法問題、憲法と独占禁止法の関連の問題、更には国家と国家内組織の問題のすべてを含んでいるということによる。

この大問題を最後に解く必要がある。

独占禁止法と憲法との関係については次の通りの見解がある。

「他の法文化(憲法、民商法など)との関係

(1)市民社会を規律する法が私法、国家の組織活動等を規律するのが公法という伝統的な二分法。この私法と公法が次第に相互浸透し、その中間領域に現れたのが経済法であるとも言える。

(4)憲法と経済法の関係。

 憲法22条1項の「職業の自由」は、一般的な経済的自由、すなわち職業選択の自由だけでなく、職業活動の自由も含むと拡大されて解されている。しかし、「公共の福祉に反しない限り」という限定がつき、法律・行政による自由の制限が認められる。」(立教大学教授船田正之氏のホームページより)

この船田氏の意見は憲法第22条1項との関係は、経済的自由との関連において、競争制限の自由の制限は認められるという見解があったものと解される。

最高裁判所判決においては、以下の判決において「独占禁止法は,公正かつ自由な競争経済秩序を維持していくことによって一般消費者の利益を確保するとともに,国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とするものであり,同法20条は,専門機関である公正取引委員会をして,取引行為につき同法19条違反の事実の有無及びその違法性の程度を判定し,その違法状態の具体的かつ妥当な収拾,排除を図るに適した内容の勧告,差止命令を出すなど弾力的な措置をとらしめることによって,同法の目的を達成することを予定しているのであるから,同法条の趣旨に鑑みると,同法19条に違反する不公正な取引方法による行為の私法上の効力についてこれを直ちに無効とすることは同法の目的に合致するとはいい難い」として無効ではないが、「同法の目的を達成する」ために「違法状態の具体的かつ妥当な収拾,排除を図るに適した内容の勧告,差止命令を出すなど弾力的な措置をとらしめる」必要があるとして差止命令を活用すべきであるとしている。ひっきょう差止命令は独占禁止法違反事件において妨害を排除するという目的のためになされる法哲学上重要な国家の主たる役割であり、現行犯逮捕にも等しい、給付の概念であるからである。

岐阜商工信用組合事件:最高裁昭和52年6月20日判決によれば無効と差止の相違は明白である。無効は取引関係に影響を及ぼすが、差止は妨害を排除するものであるから、取引関係には影響を及ぼさない。

 

○岐阜商工信用組合事件:最高裁昭和52年6月20日判決(抜粋)(昭和52年6月20日 民集31巻4号449頁)

 「独占禁止法19条に違反した契約の私法上の効力については,その契約が公序良俗に反するとされるような場合は格別として,上告人のいうように,同条が強行法規であるからとの理由で直ちに無効であると解すべきではない。けだし,独占禁止法は,公正かつ自由な競争経済秩序を維持していくことによって一般消費者の利益を確保するとともに,国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とするものであり,同法20条は,専門機関である公正取引委員会をして,取引行為につき同法19条違反の事実の有無及びその違法性の程度を判定し,その違法状態の具体的かつ妥当な収拾,排除を図るに適した内容の勧告,差止命令を出すなど弾力的な措置をとらしめることによって,同法の目的を達成することを予定しているのであるから,同法条の趣旨に鑑みると,同法19条に違反する不公正な取引方法による行為の私法上の効力についてこれを直ちに無効とすることは同法の目的に合致するとはいい難いからである。」無効判決の取引の安全に対する悪影響を懸念している最高裁判所判決である。

「憲法」の教科書には税理士会違憲最高裁判所判決と、株式会社における違憲最高裁判所判決の中間にある事業者団体が、まだ最高裁判所判例はないが、存在すると予測していた。酒匂悦郎事件では茨城県の士協会は茨城県の唯一の事業者団体であってサロンのような団体でないとして、加入しなければ事業活動が困難になるという点のみを使用するように用意されている。

 そして最高裁判所の永久の判例にするとすれば本件判決はどのようになるべきか。

本件事件は独占禁止法違反事件である。だからこそ、憲法問題が発生する余地があったのである。もし公法と私法が混在した独占禁止法に関連性がなかったならば、ここまで国家内国家に近い団体として憲法の問題にはならなかった。独占禁止法は公共性を重視する。独占禁止法は公法と、私法の中間に位置した。もし民法の私企業間の契約のみによって支配されるような団体である株式会社であった場合にはライブドア事件のように差止は認められても、憲法の問題にはならなかった。独占禁止法である故に公正競争阻害性をなくすために、公共の利益のために憲法の問題として差止を、本件事件の場合には入会強制を認めるのである。弁護士会が強制入会であることも大部分はこの独占禁止法が理由である。あるいは最初から独占禁止法の理由を意識せずに、結果のみを受容していたのかもしれない。しかし弁護士会においては強制の程度が強いのは価格固定がある程度まで認められてきたことによってもわかる。

もし株式会社であれば任意団体であるので、強制入社の制度はなかったはずである。ライブドア事件は商法での差止ではあるが、憲法の問題ではなく、税理士会事件が比較されることはなかった。

株式会社は私企業であるので利益追求を認めるが、事業者団体は共通の利益と、公正競争を求められているという点において株式会社とも、強制入会の弁護士会とも違っている。但しアメリカの判例では強制加入の弁護士会でも独占禁止法違反で当然違法の共同ボイコットが認定された最高裁判所判決がある。公正競争維持のために入会の強制が認められているのである。公正競争とは価格維持を認めないという、カルテルを認めないという意味において公共性を有している。従って本件事件が憲法問題となったのである。

ただ単に以前に行った私的な契約に違反しているかどうかの無効確認の事件であれば、憲法問題とはならなかった。商法上の差止は株式を買う段階で、株主のために経営を行うとの契約があったと考えているので差止を認めるのであって、公共性があり、憲法の問題として差止を認めるのではない。あくまでも私企業内の問題であって、憲法の問題ではない。

事業者団体が公正競争阻害性を通じて、社会公共性を有していたからこそ、憲法問題となったのである。公正競争阻害性は常に独占禁止法の問題である。そして価格維持の問題でもある。それが国家に悪影響を及ぼすという公共性の問題であり、私訴のみの問題ではないのである。

しかし公共的に社会的効率を増大させようという公共性と同時に私企業の保護という側面を持っているのが、独占禁止法の特徴である。この理由から逆から言えば独占禁止法においては私訴が認められたのである。

私訴と同時に本来は公正取引委員会が本件事件についても、その公正競争阻害性について課徴金とかの制裁を課すべきである。ところがそれを怠っているので、本件事件においては制裁金として私訴のアトーニー・ゼネラルに対してその公正競争阻害の分の制裁金も私訴の原告に与えられるべきかという問題がある。

独占禁止法事件でなかったら、強制というものがない。ということは憲法問題であったのである。任意団体ではあるが憲法上特殊な位置を有していたのである。

私訴は、不法行為による損害賠償を請求するものである。差止は、と同時に公正さを求めて公正競争阻害性をなくす役目を持っている。そこに憲法による公正さを求める場合には更に公法的な要素が必要である。アメリカにおいて3倍額請求が認められる理由は公的な理由によるのか。これは憲法違反であるのか。私訴の相手方に損害賠償するのではなくて国家社会に対して公正競争を阻害したという理由で損害金を支払うべきなのではないのか。憲法は公法なのであるが、行政法と同じように、国家組織との関係においてのみ、すなわち国家による許可制か、届出制かという問題にのみ適用されるべきであるのか。しかし本件事件は個人の生存権や、職業活動の自由が集団による行為か、集団によって侵されることに憲法を間接的に使用するべきかという問題である。間接的に憲法の定める人権が達成されるならば、それが憲法の制定の理由であることには異論がないであろう。直接的に人権の規定が実体法の規定として、差止や損害賠償請求権を認めているとすることはやはり、読みにくい。憲法は生存権の場合のようにプログラム規定であるとする極端な説はとらない説によったとしても、実体法に対して憲法が影響を及ぼす程度については難しい問題が残る。本件事件においては、強制加入が日本で認められるかどうかの国家的な問題が含まれている。この問題は3項、5項併用説のような解釈の問題以上の問題を含んでいる。法解釈においては憲法の規定に即した解釈をするべきであろう。これを憲法の間接適用による解釈と呼ぶのであれば憲法は活きていると解釈されるであろう。本件事件が難しい事件であると考えられている理由は、強制という言葉の意味にある。「強制」は自由と反対の意味である。国家がこれを行うには、法哲学的に確固たる理由が必要である。確かにすべての法は強制である。ねばならないとは強制である。差止の本旨は強制ではあるが、その他もすべて強制であり統制であるからそんなに迷う必要がないのに、なぜに本件事件では迷っているのか。差止は実体法になったが、独占禁止法では差止の経験がないので、そのために最高裁判所の判例となり、今後に影響を及ぼすことが大であるからであろうか。憲法であってもこれからもずっと守らなくてはならないものであるのに、それも回避されてきている。憲法判断の回避は個々の法規に任せようというものである。

 しかし本件事件における事業者団体が強制加入に近い事業者団体であることに変わりはない。

 税理士会事件の逆解釈を採用する場合に「強制加入に近い」ということが先か、信条の自由を侵しているからそれが先にあり、結論として強制加入であることを導き出すこととの関係はどうなるのか。逆の解釈においては逆は必ずしも真ならずという論理学上の定理がある。

 これを徹底的に整理する。

@ 人はさまざまな信条を持つ。これは自由論の定理である。

A ある団体が強制加入団体である。

B その団体の内部においては信条の自由は確保されなくてはならない。

 国家の場合

@ 人はさまざまな信条を持つ。これは自由論の定理である。

A 国家という団体は、強制加入である。

B その団体の内部においては信条の自由が、確保されなくてはならない。明白な危険や現在の危険がなければ信条の自由が、確保されなくてはならない。破壊活動防止法の表現するような団体も、その信条も明白な危険や現在の危険がなければ確保されなくてはならない。「中核派と対立する団体がこれに介入するなどして、本件会館の内外に混乱が生ずることも多分に考えられる状況」にある様な場合の判断は別であるが。。

以上この二つはほぼ同じ論理により成り立っている。

次に本件事件ではこの中に独占禁止法を挿入する方法が論理的に三つある。

第一の手法は憲法を最重点に考える論理である。

@ 人はさまざまな信条を持つ。これは自由論の定理である。

A 被上告人の団体は、強制加入ではなく任意団体である。

B その任意団体は、独占禁止法によって強制加入団体に近い。その理由は「市場支配力」と「必須の施設へのアクセスが独占されている」からである。

C その団体の内部においては信条の自由が、確保されなくてはならない。

D なのに信条の自由を許さないような強制加入に近い事業者団体は、一般的に言ってもゆるされない。

E したがって強制加入にすべきである。

 第二に次の論理学はこれよりもよいであろうか。 

@ 人はさまざまな信条を持つ。これは自由論の定理である。

A 上告人の団体は、強制加入ではなく任意団体である。

B その任意団体は、独占禁止法によって強制加入団体に近い。というのは加入せずに事業活動を行うことが困難であるからである。より制限的ではない代替的な手段がないかという憲法の原理が採用することが出来、それ故に強制加入団体に近いという論理を組み立てる。(第一の場合とは違って、強制加入に近いという論理を加入せずに事業活動を行うことが困難であるからである。より制限的ではない代替的な手段がないかという憲法の原理が採用することが出来るという論点のみを分離して判断の材料にして、信条の自由の問題は強制加入の問題とは切り離し、最後の強制加入であるとこのより制限的ではない代替案の原理により確定してから、ましてやそのような団体であるからこそ、信条の理由による場合には許されないとの論陣をはるのである。)

C 独占禁止法の適用において、原則違法の原理を採用せずに理由の原理を採用したとしても、理由は強制加入団体に近いのであるから、信条の自由によるものではいけない。

D 従って信条の違いの理由による場合には違法となる。

E その場合には強制入会が認められる。

 この場合には原則(当然)違法を日本においては採用せずに、またより制限的ではない代替手段の原理を憲法において採用することにより、強制入会に近いことを結論とすることが出来る。しかしこれは中間までの結論であり、本当の結論は最後の信条の自由による結論となる。判例としては憲法の判例であって、独占禁止法上は当然違法の原理を採用せずに、理由の原理を採用したことになる。独占禁止法によって強制入会を結論付けたのではなく、憲法によって強制加入を認めている。主に憲法論であり、独占禁止法は従の役割である。したがってある論者によればこれは任意団体に憲法を適用して、強制加入団体としての役割を与えるのであるから、任意団体を憲法の適用によって強制入会にするものであり、憲法の条項を媒介項とするものであり憲法が主であり、憲法によって強制性を認めているようであるが、様々な理由の原理の中での理由に適用したのであるから、憲法論としては法の適用における憲法の適用であるから間接適用として日本の判例法には合致しているという見解になる。この第二の論理は、思想・信条の自由という厳格な基準の原理と、経済的自由の原理であるより制限的ではない代替案の原理とを分けた点において優れた論理であるといえる。ほかの論理はこの二つの自由の違いを分離していないのである。

 第三に、原則違法の原理を採用する論理構成が論理学的に考えられる。これは独占禁止法が主な役割を演じているのであって、憲法は最後に副次的に強制加入団体の言論の自由も、事業活動の自由も確保されるようになるという論理である。この論理は憲法上の自由を最後に適用し、使用しているという難点がある。この論理構成においては原則違法という独占禁止法の論理が先に来る。

@ 人はさまざまな信条を持つ。これは自由論の定理である。

A 被上告人の団体は、強制加入ではなく任意団体である。

B その任意団体は、独占禁止法によって強制加入団体である。

C 独占禁止法の適用において、原則違法の原理を採用し、理由の原理を採用せず、強制加入であるということを先に論じて、更には理由は信条の自由によるものはもってのほかで憲法に違反するという論理を組み立てる。

D 従って独占禁止法によって当然違法であり、強制加入が認められているのであるから、そのような団体であるからこそ信条の違いの理由による場合にも違法となる。その他の理由はポズナーのいうように独占禁止法上は聞くに値しない。公共の利益や消費者の利益や国民の利益のような理由でなくては。

E 信条の自由を侵すような理由の場合には、その他の理由の場合には他の代替的なより制限的ではない代替案があるのであるから、更にもってのほかで強制入会が認められる。

 この論理構成を採る場合には、独占禁止法の違反の判例としても、世界的に認められている「市場支配力」と「必須の取引事例へのアクセス」の両問題が最高裁判所において述べられることとなる。もってのほかのところでの信条の自由の考察と、事業活動が困難になるという論理において他のより制限的ではない代替案の論理が薬事法距離制限違憲判決の判例により考察されることとなる。この論理は当然違法の法理や、法定違法の法理が判例法や実定法として成熟しているアメリカや、ドイツの概念法学の国においては可能であるが、日本の国においては判例がなく、最高裁判所が「正当な理由なく」の法令の解釈として「市場支配力」と「必須の取引事例へのアクセス」の両問題をアメリカのように判例化し、あるいは、ドイツの概念法学の国のように判例法かする意図がある場合には可能であろう。このような意図があるかどうか。しかし差止制度を作った法制定の経緯をこれまで考察してきたがそれによれば当然法的にそのような意図が国家にあったということが出来る。

現在も弁護士会のように強制加入の団体は数多くある。ということはすでにそこでは憲法は遵守されてきたことになる。ところが被上告人においては守られてこなかった。これは独立したのでしめしめ他の北関東連絡協議会のように東京から来るのを締め出し、追い出せという論理であった。

このことが加入の強制が差止によって可能になった実体法が制定されたので、大問題となったのである。

行政書士会などでは更に暴力沙汰以上のたちまわりが行われてきたらしい。これらは事業者団体・職業者団体であった。ギルド的に職を配っていたのである。

そこで本件事件が起こったのである。その際に公法か、私法か、憲法か、独占禁止法かという大問題が発生する。独占禁止法の公法性も問われることとなった。憲法を使うということは公法の原則を使用するということである。公法を使用する理由は、強制があるからである。するとやはり当然違法によって強制するということが大前提となっている。それならば強制でなければ公法を使用する必要がないということであろうか。強制に近いという理由でよいのであろうか。日本では当然違法は法定されていない。しかし共同ボイコットさえ認めれば、すなわち5号であれば、「正当な理由なく」の文言を使用している。従って、当然違法に近い法令がある。

しかし実体法としての差止制度が存在しなかったために、実際に使用されてこなかった。ところが実際に使用できるこの本件事件においては何と著しい損害という要件にひっかかった。ところが事業活動が困難であるという状況は正確に証明された。これは著しい損害として認定するに足りる状況である。

従って使えるのである。

そこにまた使ったとしても、憲法という日本では憲法判断回避の原則がある難しい問題を回避できないかという問題が起こった。もし当然違法の原理が確立していれば憲法判断回避ができた可能性がある。しかし日本にはそれが存在しない。独占禁止法はそれを定式化してこなかった。またノースウェスト判決もない。更にはドイツのように法定もしてこなかった。法定していればそれができたし、ノースウェスト判決があれば独占禁止法のみで可能であった。日本ではそれがなかったが、それと同じ状況であることは証明した。しかしそれは外国の判例であり、外国の法であった。従って法がないから憲法を使用するという消極的なものになった。憲法判断の回避が不可能であったのである。なぜに憲法判断を回避しようとするのか。それは仕事をしたくないということであろうか。責任を負いたくないということであろうか。憲法の責任はそれぐらいに大きいのであろうか。しかし憲法は日常の問題である。国家の強制力を使用すべきか、そうではないという問題であろうか。

独占禁止法上は日本でも「「より制限的でない、他の代替的手段」(less restrictive alternatives. LRA基準とも呼ばれる。教科書242頁参照)は、抱き合わせについての説明であるが、この観点は他の不公正な取引方法についても採用されるべきであり、おとり廉売を防止するためにすべての販売業者に対する再販が必要か、それ以外の「より制限的でない、他の代替的手段」がないかを個別具体的に検討すべきである。」

「本当に安全のために必要不可欠であり、「より制限的でない、他の代替的手段」がないのであれば、公正競争阻害性はない。

しかし、本件では安全のためではなく、独立系保守業者を排除するための口実として使われた論理に過ぎないと認定された。

東芝昇降機サービス事件=大阪高判平成5・7・30判例百選(第6版)122頁、教科書197,240,282 。」

審決においても「(9)総括

被審人は,上記のとおり,既存の事業者である会員医師の利益を守るための利害調整や合理性のない制限を行っており,これは競争制限行為に当たる。

被審人の行為について,地域医療行政の補助者としての役割を考慮しても,その実現のための措置は権限を有する行政機関によって行われるべきであって,事業者団体の私的統制に委ねられるべきものではない。地域医療行政への協力行為が独占禁止法違反とならないためには,現行のような審議システムではなく,より制限的でない他の方法とそれにふさわしい手続を選択すべきである。

被審人の行為は,審議システムを前提として個別の審査を行うものであり,これは,医師会ガイドラインにいう単なる情報の提供ないし助言にとどまるものとはいえないから,右ガイドラインに照らしても違法である。」(「社団法人観音寺市三豊郡医師会に対する審判審決について」平成11年10月28日 公正取引委員会)という考え方が示されているが、これらは競争制限について述べられているのであって、憲法問題とはなっていない。すなわち人権の制限にはいたっていないと考えられているのである。



Randal C. Picker

Randal C. Picker Leffmann Professor of Commercial Law Senior Fellow, The Computation Institute of the University of Chicago and Argonne National Laboratory The University of Chicago Law School 1111 East 60th Street Chicago, IL 60637 Phone: (773) 702-0864
Fax: (773) 702-0730 Email: r-picker@uchicago.eduLaw School Web Site: http://picker.uchicago.edu/

Randal C. Picker currently teaches classes at the Law School in Network Industries, Bankruptcy and Copyright and a seminar on antitrust and intellectual property policy. In prior years, Professor Picker has taught Antitrust; Secured Transactions, Technology, Innovation and Society; Corporate Reorganizations, Commercial Law and Civil Procedure. He has also taught seminars on Game Theory and the Law and The Legal Infrastructure of High-Tech Industries. In Fall, 2004, he is also teaching The Legal Infrastructure of Business at the Graduate School of Business. In Spring 2002, he co-taught a seminar on Enron with Douglas Baird.

そこで、このシカゴ大学教授に次の質問をしました。

Hello T am a Japanese who are the appraiser of real estate in Japan and suffering the exclusion from the membereship of the trade association ,and the plaintiff of the private attony's case in Japan.

In Japan all of the exclusion from the trade association was legal, because there was no injunction law, so this is the first injunction case in Japan. This case is now in the supreme court of Japan.

I witnessed your phrase

Practice results in significant adverse competitive effects, rarely justified by redeeming virtues, and when less restrictive alternatives are available, no reason for extended trial before practices will be condemned.

I want to ask you a few questions.

I will very appreciate your answering from America.

Does this less restrictive phrase mean restricting consititutional living right or antitrust competion restriscting conduct?

In Japan in this first injunction case , the reason to exclude the membership from the appraisal institute of Saitama prefectural district was the denial of the antitrust philosophy. You see that in Japan there exist anti-antitrust trend. So to deny the reason we want to less restrictive alternative approach in the constitutional right than restrictive mean of competition.

Do you think can we use this LRA approach in the case?

What do you think of the difference of the LRA approach in the antitrust law and the LRA approach in the constitutional law ?

アメリカに行って本当の答えを聞きたいと思っています。

憲法によって解き、最高裁判所で自判をするのか、破棄し憲法問題には関わっているが、しかし独占禁止法の問題であるとするのか。最高裁判所はこのどちらを選択すべきか。

これはひとえに強制入会であることが、信条の自由と関わっているのかという問題によるのであって、LRAの原則が憲法問題であるかということとは関連性がない。LRAの原則は同じ規制という意味では、独占禁止法の中にも存在したからである。ということは信条の自由が理由の原理において理由と認められているかどうかという問題である。要するにこれまで同様に理由の問題における信条の理由が本当に問題になっているのである。

「瞬時に」強制加入となる。したがって破棄するにせよ、自判するにせよその時には最初からずっと強制入会ということになるのであるからやはり以上の@からの順番は全く問題にならないということが出来る。

つまり以上の原理はすべて瞬時にすべてが最高裁判所判例の中に出てくることになって、その順番、その因果関係が一切問題とはならないということになり、つまりはそれらすべての判例となりうるということである。

つまりこの最高裁判所判例は、国会以外での憲法と、独占禁止法のすべての判例を含んだ判例ということになる。

LRAの原則は職業活動の自由と関わるときにだけ憲法問題となるが、しかしそれは私人間において強制加入かどうかというときだけであるから、ついには強制入会の問題に行き着くことになる。

しからば本件事件においては事業活動が困難になるという事態に陥っている。これは経済的自由の中でも、届出制にするのか、許可制にするのかという同じ規制でもより緩やかにしようという選択の問題ではなく、経済的自由を完全にゼロにまで規制してよいかという問題である。これは生存権や、職業選択の自由にまで及んでいるから、やはり届出制か許可制かという問題よりもより大きな憲法問題となっている。

するとやはり本件事件は憲法問題であろうか。

本当に当然違法の問題は憲法問題を含んでいるのであろうか。

当然違法はノースウェスト判決を見てみれば分かるとおりに、事業活動が困難になっていることを必要としていない。ただ競争が制限されているか、減殺されているか、抹殺されているかが問題となっている。これは損害の問題ではなくて、公正な競争を阻害しているのかを問題としているのである。

ただ損害が起こる場合は、市場支配力という状況と、必須の資源へのアクセスが競争制限行為によって制限されているという状況を必要として、その場合にこそ損害が多いといっているのである。

この場合に損害が起こっていることを必要な要件としているけれども、それが事業活動を困難にすることまでは要求していない。事業活動を困難にすることは著しい損害というのに当たるが、著しい損害とは事業活動を困難にすること以外の場合もありうるであろう。

憲法の体系において営業の自由を憲法上認める理由は、ただ国家の許可制のみならず、事業者団体による事業の妨害や、事業者団体という私的な集団の事業活動の妨害を含むであろうか。それは独占禁止法の問題であろうか。憲法の問題であろうか。

もしファッション事件のように考えると独占禁止法の事件である。民事訴訟でやればよいという訳である。LRAの原理である。

その場合でも信条の理由を強制入会に近い団体では、理由の原理の理由にすることはできないことになる。

この二つの自由は明らかに異なっている。しかし同じ事件の中に入っている。

ミルが「自由論」の中で論じた自由は、思想・信条の自由であり、バーリンがその後継として述べた自由は経済的自由である。ハイエクやフリードマンが述べた自由も、経済的自由に近い。

しかしこれらは基本的には同じ自由の問題である。入札の自由は札を自由に入れる自由である。思想・信条の自由はそうではない。したがってより厳格な基準によるべきである。これは明白の基準である。

ところが入札の自由は、経済政策的に自由が社会政策論によって規制されることがある。原則自由競争を原理とするような魚市場のような市場においては、しかし警察的な場合にだけ自由が制限されることになる。

この警察的な規制の場合にはより制限的ではない代替的な手段がある場合にはその手段を採用すべきであるという理論が成立する。

社会政策的な規制の場合には、本件事件の様に事業活動が困難になっているような場合には、そのようなことを価格維持活動のために行っているかもしれない事業者団体に対しては憲法のメスがはいるべきであろう。その憲法のメスはどのような場合に、どのようにして入れるべきであろうか。

これが許可制か、届出制の問題と同じように、LRAの基準である。そうであるとすれば、この立法の基準の場合である薬事法違憲判決の場合と同様に、本件事件の場合にも事業者団体の価格警察活動の規則の定立に対しても応用できることになる。というのは本件事件の場合の事業者団体は競争を正常にさせるために強制加入の団体に近く、それ故に国家と同様な推定が働き、思想・信条の自由のみならず、事業活動の自由も本件事件の中の事業者団体の中で、国家同様に論ずることができるからである。

つまり国家の主要なメルクマールは、領土・国民・主権なのであるが、それらは強制的に生まれたら入らなくてはならないという点に特質があるからである。

以上のような理由から更に世界の、特にヨーロッパとアメリカの憲法、条約体系におけるこれらの位置について考察し、更に公法と私法の関係についてのこれまでの日本の学説の考え方を概観しておく必要がある。

ヨーロッパにおいては次のMr Jens-Peter Bonde, member of the Convention Brusselsの意見に耳を傾ける。

Contribution by Mr Jens-Peter Bonde, member of the Convention Brussels, 18 September 2002 CONV 276/02 CONTRIB 95

2002年9月18日ブラッセルにおける総会のメンバーである、Mr Jens-Peter Bondeの寄稿

True Subsidiarity Contribution to the Convention on Subsidiarity

補完性原理に関する条約への補完性についての寄稿

The 3 principles in art.

三つの原則手法

5 of the treaty now has to be taken seriously.

5つの条約が現在では重要であると考えられている。

The principle of legality means that the EU can only take a decision if there is a proper legal base for the decision in the treaty.

EUは条約による決定のための正当な法的基礎がある場合にだけ、決定を行うことができるという原則が適法性の原理である。

The principle of subsidiarity means that decisions shall be taken as close to the people as possible.

(欧州連合における)補完性原理とは、民衆にできるだけ近い決定を行うべきであるということである。

The principle of proportionality means that no EU decision can be defended if it is possible to fulfil the purpose with a less restrictive measure. 釣合いの原則は、EUの決定はすべてある目的を達成するのに、より制限的ではない手段によって可能な場合にだけ擁護されるという原則である。

It means that directives shall be preferred for regulations. 命令によって規制を行う理由は、望ましいものでなくてはならないという意味であろう。

Recommendations should be preferred before directives. 命令を出す前に勧告が行われなくてはならない。

Deliberate and voluntary standards shall be preferred before harmonisation.

調和は、自ら考えて、自発的な基準が尊重されてから後にもたらされるべきである。

That minimum-harmonisation shall be preferred before total harmonisation.

全体的な調和よりも、最低限の調和が望ましい。

The scope of the problems

The existing acquis shall be tested towards the 3 strong principles. The European Commission shall be asked to deliver a report. Every GD shall be asked to define what part of their acquis they would prefer to get rid of if they should reduce their part of the acquis to the half. The Regional committee should have the same parallel task. The working group of subsidiarity could then put forward a proposal for slimming the existing acquis. This exercise is paramount if we want to be in dialogue with the citizens. The majority of citizens in all European countries except Luxembourg and Ireland would ignore or even be happy if the EU was dissolved. Rightly or wrong, Peoples across Europe feels that the EU decides too much. Referendums can have No-majorities in any country in Europe unless all EU institutions adapt to the 3 fundamental limitations in art. 5. The former Commission president Jacques Santer was aware of the fundamental problem of lack of popular support when he proposed that the EU should work "Less and better" in order to apply to the principle of subsidarity. For a lot of reasons he could not deliver less and better. President Prodi has suggested the same cure, and even former president Jacques Delors has criticised too much centralisation in Brussels. Since we now have an EU, with a degree of centralisation that no one wanted, we have to adopt new procedures to avoid unwanted centralisation in the future.

We are all Sinners

All Members of the European Parliament are sinners to the principles of legality, subsidiarity and proportionality. The distribution of competencies invites to sin. When a Member of Parliament has a good idea or is asked to help for a good cause, they automatically try to do it through the EU system, instead of considering whether it should really be an EU affair or a national task. The European Parliament has no responsibility for taxing the citizens but a wide range of possibilities for inventing new expenditures leading to future taxation where the electorates do not hold them responsible. They can decide expenditure but has no responsibility for where the money comes from. The budget procedure is used in creative and even illegal manners to insert new expenditures for new purposes. Many projects start as pilot projects without proper legal base from a decision in the Council. The Commission is forced to use the non-obligatory money as decided by the Parliament. If the Commission refuses they can be punished through the decharge procedure.

The European Parliament shall no longer have a right to insert new expenditures before there is a proper legal base decided by legislative authority.

The European Commission shall have no right to finance any activity without a proper legal base.

Any citizen and institution shall have the right to question the lack of legal base before the Court. The right to initiate new legislation and activities is a monopoly of an institution in Brussels who would gain influence and power by using this monopoly to centralise activities. You cannot expect the Commission to act against their own narrow interest. We need a system of checks and balances where the monopoly of proposing legislation is modified by a body composed of others interests.

The national parliaments and regional parliaments with a legislative function shall control the Commission initiative right. Shall it be in a new institution as proposed by Joschka Fischer and Tony Blair? Can we establish a second chamber of elected national MPs to control subsidiarity? If we establish a new institution based in Brussels it will soon start thinking and working as the other centralising institutions in Brussels. A vast majority of speakers in the Convention clearly rejected the idea of a second chamber.

Jens-Peter Bonde

From Wikipedia, the free encyclopedia.

Jens-Peter Bonde

Jens-Peter Bonde (born on 27 March 1948 in Abenra) is a Danish politician and Member of the European Parliament with the Junibevagelsen, Chairman of the Independence and Democracy and sits on the European Parliament's Committee on Constitutional Affairs.

He is a substitute for the Committee on Budgetary Control.

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Education

1966: Advanced school-leaving certificate

1966-1974: Studied political science

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Career

1974-1979: Editor

1972: Co-founder of the People's Movement against the EC

1991: Co-founder of Denmark 92

Co-founder (1992) and spokesperson (since 1992) of the June Movement

since 1979: Member of the European Parliament

1992-1994: Chairman of the Delegation for relations with Iceland

Co-Chairman (1994-1997) and Chairman (1997-1999) of the EDN Group

1999-2004: Chairman of the Group for a Europe of Democracies and Diversities

Chairman of the Independence/Democracy Group

Co-founder of the Intergroup SOS Democracy

Co-founder of the Intergroup Eurosun

1992: Co-founder of TEAM

2004: Co-founder of Friends of Clean Accounts, The Referendum Group

See also: European Parliament election, 2004 (Denmark)

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External links

Official website of Jens-Peter Bonde: www.bonde.dk (http://www.bonde.dk) (in Danish)

http://www.bonde.com (in English)

European Parliament biography of Jens-Peter Bonde (http://wwwdb.europarl.eu.int/ep6/owa/whos_mep.data?ilg=EN&iucd=1275)

Declaration (http://wwwdb.europarl.eu.int/ep6-dif/1275_18-07-2004.PDF) of financial interests (in Danish; PDF file)

This MEP article is a stub. You can help Wikipedia by expanding it (http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Jens-Peter_Bonde&action=edit) using the personal web site of the MEP which could be found on the web site of the National Information office[1] (http://www.europarl.eu.int/addresses/offices/) and the MEP pages of the party which you can find by starting with the group of the MEP.

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Categories: 1948 births | Members of the European Parliament from Denmark | Members of the IND/DEM Group from Denmark | Extended MEP stubs

「違憲審査基準について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

違憲審査基準 (いけんしんさきじゅん) とは、ある事柄が、憲法に適合しているかを審査する際の基準。通常の場合、ある人の人権が規制・侵害された場合に、その侵害が許されるものであるかという問題形式に対する解答の形で与えられる。

二重の基準の理論

精神的自由権と経済的自由権を対比して、前者はより厳格な基準によるべきとする理論。精神的自由権に対する制約は、民主政の過程によって回復することが困難である点、経済的自由権に対する規制の適否の判断をする能力が裁判所には乏しい点、経済的自由権については政策判断を尊重すべきであるとする点などを理由とする。 経済的自由権の場合には社会政策的な政策による規制と、警察的安全的理由による規制とを分けているのが薬事法距離制限違憲判決における最高裁判所の判断である。かって1929年世界大恐慌は「自由主義の終焉」をもたらし、社会政策的な規制が採用された。それ以来社会経済政策的な規制に対しては厳格な基準によらないこととされたのである。同判決は「合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、また、それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によっては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。」と最高裁判所(薬事法違憲判決、昭和43年(行ツ)第120号)は述べている。いわゆるLRAの原則である。社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、との限定付でこの判決は述べていることに注意すべきであり、LRAの原則を採用しているが、これは厳格な基準を採用したものでもある。

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精神的自由権に関する基準

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LRAの基準

「より制限的でない他の選びうる手段の基準」(Less Restrictive Alternative)ともいう。人権規制立法の審査に関して用いられる基準で、規制目的が正当であり、当該目的を達成するためにより制限的でない他の選びうる手段が存在しない場合に合憲とするもの。 例えばデモ行進をするには役所の許可が必要、とする公安条例があった場合に、この制限は公衆の安全・秩序の確保を目的とするから目的は正当だが、許可制よりゆるい届出制でもその目的は達成できるので、この条例は表現の自由に対する過度の規制であり違憲である、という具合である。 表現の自由に対する内容中立規制、労働基本権の制限などの立法の審査基準として有用とされる。  日本では、裁判所においては表現の自由の規制の違憲審査に「より制限的でない他の選びうる手段の基準」(Less Restrictive Alternative)の基準が使用されたのは下級審の裁判例においてのみである。  日本では、このLRAの基準は薬事法距離制限違憲最高裁判所判決において経済的自由に対して採用された。 「社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく、自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によっては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要する」(最高裁判所判決昭和43年(行ツ)第120号)。この場合の「許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限」の原理は経済的自由に対して「より制限的でない他の選びうる手段の基準」(Less Restrictive Alternative)の基準を使用したものである。  

アメリカでは表現の自由に対する規制に対してこの基準は使われている。Sable Communicaitons v. FCC (1989): ・ SC invalidated a federal law which criminally prohibited sexually oriented prerecorded     phone messages ・ RULE: Indecent but nonobscene speech is protected by the 1st amendment and     presumptively cannot be banned. ・ Placing a phone call requires affirmative choice by the listener as to what he or she wants to hear, and there is less danger to kids here than in Pacifica….other less restrictive means could achieve the same end. ・ Congress cannot completely ban indecency on cable televions after this case.

Reno v. ACLU (1997): ・ SC invalidated provisions of the Communications Decency Act of 1996 prohibiting transmission of indecent communications to person under 18 on the itnernet. ・ RULE: Cyberspace is subject to normal 1st amendment precepts, which were automatically fatal to the Act’s content-based regulation of indecency. ・ The Internet is not as invasive as TV or radio, and users cannot come upon porn by accident or without prior warning. ・ So the act here was overbroad and the statutory goal could be achieved thru less restrictive means. の  二つの事件が憲法学上有名である。SCは連邦最高裁判所の略語。日本の最高裁判所判決では表現の自由にはこの原理は採用されていない。

 EUの立法基準には、3つの基準があり、The principle of legality means that the EU can only take a decision if there is a proper legal base for the decision in the treaty. EUは条約による決定のための正当な法的基礎がある場合にだけ、決定を行うことができるという原則が適法性の原理である。 The principle of subsidiarity means that decisions shall be taken as close to the people as possible. (欧州連合における)補完性原理とは、民衆にできるだけ近い決定を行うべきであるということである。 The principle of proportionality means that no EU decision can be defended if it is possible to fulfil the purpose with a less restrictive measure. 釣合いの原則は、EUの決定はすべてある目的を達成するのに、より制限的ではない手段によって可能な場合にだけ擁護されるという原則である。 It means that directives shall be preferred for regulations. 命令によって規制を行う理由は、望ましいものでなくてはならないという意味であろう。 Recommendations should be preferred before directives. 命令を出す前に勧告が行われなくてはならない。

 この原則はすべてある目的を達成するのに、より制限的ではない手段によって可能な場合にだけ擁護されるという原則である。 if it is possible to fulfil the purpose with a less restrictive measureとは、目的に適合した規制を行うべきであり、目的に比例して制限を行うべきであるということである。   以上のとおり、アメリカにおいて発達したこの原理は、現在では独占禁止法における企業結合の際には、より制限的ではない手段がないかを探索する義務をEU競争制限禁止法は定めており、憲法のみならず一般的に国家が制限を加えるときの基準に使用されている。 この原理が公的機関と、私人との間のみならず、私人と私人との関係について適用されるか否かは、私人である集団の性格にかかっており、強制加入団体である税理士会事件においては、政治献金をすることが、構成メンバーの思想・信条の自由を侵すものであるから違憲であるとされた。これはひっきょうすべての思想・信条を持つ人が強制的に入会してくることを前提に論理的に結論付けたものであった。それに対して三菱樹脂事件においては株式会社のように任意団体である場合には、思想・信条の自由は解雇の理由とはならないが、採用の自由はあるとした。但し、採用においても思想・信条の自由を尊重すべきとまでは言っていない。この事件では内定が人の雇用の自由さを奪っている以上、採用に等しく、解雇権の乱用にあたるとした。 独占禁止法上の事業者団体においてはドイツ競争制限禁止法においては入会の強制を一定の競争的条件の下では認めており、またアメリカで事業者団体の入会の拒否はメンバーシップの問題としてある一定の競争的条件の下では共同ボイコットとして当然違法(per se illegal:illegal by itself)とされており、このような場合には思想・信条を理由とする入会拒否は許されないことは、税理士会事件と同様の趣旨である。 独占禁止法は競争制限を禁止するものであるから、競争制限よりもほかのより制限的ではない代替的な手段が存在するならば違法であるとするLRAの基準とにた基準が使われている。

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経済的自由権に関する基準

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目的二分論

経済的自由権に対する規制を、その規制目的により消極目的規制と積極目的規制に二分し、前者にはより厳格な審査基準が妥当するという理論。消極目的規制とは、国民の生命、健康を守るための規制をいうが、このような事項に関してならば裁判所は充分に判断しうることなどを理由とする。

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合理性の基準

一般人の視点から、人権規制の目的とその手段の合理性を判断し、これが認められる場合には当該規制を合憲とする基準。通説によると、経済的自由権の積極目的規制(政策目的の規制)に妥当する基準。

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厳格な合理性の基準

 アメリカの判例においては、一般には表現の自由において厳格な基準が使われているとされる。そのような判例が数多くある。 その他経済的自由についても次のような判例では最高裁判所は厳格な基準を使用している。これは日本の学者においては無視されているが、重要な例外であり論点でもありうる。 ・ The SC subjects overt state or local discrimination against interstae commerce to STRICT SCRUTINY! 最高裁判所は州と州の間の取引に対する州の差別、あるいは地方ごとの差別は厳格な基準によるべきであるとしている。このことは差別によって非常に大きな差異が取引に影響を与えて、事業活動を阻害するというような場合にはめったなことでは差別してはならないというような一般的な観念が存在する場合には、違憲基準を設けることにやぶさかではないとして厳格な基準を設けているのであって、つまりは厳格な基準によっているのである。従ってそのような効果を持つ場合には多くの場合には違憲となるという結論に達することが多い場合には、経済的自由であっても簡単には行ってはいけない行為として違憲に厳格な基準が設けられることになる。 たとえば ・ State policies burdening commerce will be invalidated if the burden is clearly excessive compared to the legitimate local benefits.  取引に規制を設ける州の政策は、もしその規制が合法的な地方の利益に比較して明らかに過度である場合には違憲であるということになるという具合である。 Modern Dormant Commerce Clause Doctrine: これから施行される予定の取引の規制については現代では次の原則がある。 the regulation must pursue a legitimate state end      規制が合法的な州の目的の遂行に合致していること The Regulation must be rationally related to the legitimate end      規制が合法的な目的と関連して合理性があること The regulatory burden imposed by the state on interstate commerce, and any discrimination against interstate commerce, must be OUTWEIGHED by the state’s interest in enforcing its regulation.州と州の間の取引への州によって課される規制の内容が、つまり州と州の間での取引の差別的な違いはどのようなものでも、その規制を強制する州の利益を上回ったものでなくてはならない、 という原則である。  次の判例がある。 Kassel v. Consolodated Freightways Corp (1981): カッセル対コンソロデーティッド荷役会社 ・ Consolodated challenged Iowa’s statuet regulating length of trucks as an unconstitutoinal burden on interstate commerce コンソロデーティッドはトラックの長さを規制するアイオア州の法令が州と州の間の取引に対する違憲な内容であるとして訴えられた。 ・ Iowa defended on reasonable safety measure grounds アイオア州は長さの規制は安全の理由で合理的であると主張した ・ SC found for Kassel ? the statute violated Commerce Clause この法令は取引条項に違反して違憲であるとして最高裁判所はカッセルを勝たせた ・ SC conducted a fact-finding inquiry in making its decision. The concurrence says they shouldn’t do this, but rather look to legislative intent instead. ・ Although Iown presented a lot of evidence on safety, we have evidence that the safety purpose is invidious ?  アイアオ州は安全性に関する数多くの証拠を提出したが、安全性の目的はあいまいな不当なものであるという証拠がある。

we have the Governor’s statement that gives us the true purpose!

本当の目的を示す知事の言明がある ・ The invidious purpose triggers STRICT SCRUTINY! あいまいな不当な目的は厳格な基準によらなくてはならない! ・ Strict scrutiny is a way of “smoking out” what the real purpose is here! 本当の目的が本件の場合には何であるのかを「燻してあぶりだす」方法が厳格な基準である。 ・ The evidence on safety is statistical ? it doesn’t give info on the affect of double trucks on other people…why are the other facts irrelevant? Here, because we have the governor’s statement.  安全性の証拠は統計的であった−その証拠は人々にトラックの影響が二倍あるという情報を与えてくれるものではなかった・・・・それならばその他の事実は因果関係がないのであろうか。そこに知事の言明があったのである。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/

注:アメリカの憲法の体系・運用におけるより制限的ではない代替手段の取り扱い。

Less restrictiveを赤字で示す。

CONSTITUTIONAL LAW OUTLINE

JUDICIAL FUNCTION IN CONSTITUTIONAL CASES

Article III

Whenever a question involves action by an entity of the federal government, the action

will be valid only if it is authorized by the Constitution; federal courts shall have judicial

powers over all cases and controversies:

-arising under the Constitution, laws, or treaties of the United States

-of admiralty and maritime jurisdiction

-in which the US is a party

-between two or more states

-between a state and citizens of another state

-between citizens of different states

-between citizens of the same state claiming lands under grants of different states

-between a state or citizens thereof and foreign states, citizens or subjects

The Nature and Sources of the Supreme Court?s Authority

Judicial Review: The Bases and Implications of Marbury v. Madison

The Constitution does not explicitly state that the S/C may determine the constitutionality of acts of other branches of government, however, Marbury v. Madison established judicial review of other branches of federal government. The CON is "law" and it is the province and duty to the judiciary to declare what the law is-judiciary is final interpreters of the CON.

Marbury v. Madison (commission/writ of mandamus)

HELD: The S/C has the power, implied from Article VI, ?2 of the Constitution, to review acts of Congress and if they are found repugnant to the Constitution, to declare them void. Judicial review is a necessary inference from written constitution . The final decisional authority for questions of CON interpretation is the federal judiciary.

The Court will extend Marbury v. Madison to cases where state law can be determined to be unconstitutional or inconsistent with federal statutes.

The S/C can declare a law of Congress unconstitutional

Jurisdiction of the Supreme Court

Original (trial) Jurisdiction - Article III of the Constitution provides that the S/C

shall have original jurisdiction in all cases affecting ambassadors, other public

ministers and consuls, and where a state is a party. In all other cases, the S/C shall have appellate jurisdiction. Congress may neither restrict nor enlarge S/C original jurisdiction, but Congress may give concurrent jurisdiction to lo wer federal courts.

Appellate Jurisdiction ? Article III, Section 2 further provides that in all other cases before mentioned, the S/C shall have appellate jurisdiction, both as to Law and Fact, w/ such exceptions, and under such regulations, as Congress sh all make

Statutory Application of Appellate Jurisdiction ? Congress has provided 2 methods of invoking S/C appellate jurisdiction:

-writ of certiorari (discretionary) ?cases from highest state courts

where the constitutionality of a federal statute, treaty, or state statute is

called into question; or a state statute allegedly violates federal law and

all cases from federal courts of appeals

-appeal (mandatory)

Federal Review of State Acts ? established by the Marshall Court. The CON, Laws,

and Treaties of the US take precedence over state laws and that the judges of the state

courts must follow federal law, anything in the CON or laws of any state to the contrary

notwithstanding ? Supremacy Clause. The conflict in regulations need not relate to

conduct; it is sufficient if the states or local law interfere with achievement of a federal

objective- Judiciary Act of 1789 S/C review of state court decisions limited to federal questions decided by state courts.

National Powers and Local Activities: Origins and Recurrent Themes

Federalism ? Antiquarian Relic? Contemporary Value?

Enumerated and Implied Powers

Necessary and Proper ? Grants Congress the power to make all laws necessary and proper for carrying into execution any power granted to any branch of the federal government. The Necessary and Proper Clause is not itself a basis of power; it merel y gives Congress power to execute specifically granted powers.

-Limitation: Congress cannot adopt a law that is expressly prohibited by another

provision of the Constitution

Taxing Power ? Congress has the power to lay and collect taxes, but they must be uniform throughout the US.

Spending Power ? Congress may spend to provide for the common defense and general welfare. The spending may be for any public purpose ? not merely the accomplishment of other enumerated powers. Congress can use its spending power to "reg ulate" areas, even where it otherwise has no power to regulate the area, by requiring entities that accept government money to act in a certain manner (i.e. attaching strings to government grants).

Commerce Power ? Article I, Section 8, Clause 3 empowers Congress to regulate commerce with foreign nations and among the several states, and with Indian tribes.

Commerce is every species of commercial intercourse which concerns more states that one and included with the concept virtually every form of activity involving or affecting two or more states

Transportation and Traffic ? the Court has consistently regarded transportation or traffic as commerce, whether or not a commercial activity is involved.

"Substantial Economic Effect"- The S/C has sustained congressional power to

regulate any activity, local or interstate, that either in itself or in combination with

other activities, has a substantial economic effect upon or effect on movement in

interstate commerce. (Wickard, Lopez)

War and Related Powers ? Congress has the power to declare war, raise and support armies, provide for and maintain a navy, make rules for the government and regulation of the armed forces, and organize, arm, discipline, and call up the militia . Of course, several other congressional powers may have direct or indirect application to military purposes.

During war ? regulatory power of Congress, especially in economic matters and mobilization of troops, in support of war effort is pervasive (as limited by Bill of Rights)

Postwar ? the regulatory power may be extended into post-war periods both to remedy wartime disruptions and cope with cold war exigencies.

Investigatory Power ? The power to investigate to secure information as a basis for potential legislation or other official action; a very broad power .

Property Power ? Congress has the power to dispose of and make all needful rules and regulations respecting the territory or other property belonging to the US.

McCulloch v. Maryland (Bank)

HELD: Certain federal powers giving Congress the discretion and power to choose and enact the means to perform the duties imposed upon it are to be implied from the Necessary and Proper clause. Congress has the power to charter banks since that power is appropriate to exercising Congress? enumerated powers.

-As long as the end is legitimate and within the scope of the Constitution,

any means which are appropriate, are plainly adapted to that end, and

which are not prohibited by the Constitution, but are consistent with its

spirit, are constitutional.

The federal Constitution and the laws made pursuant to it are supreme and control the Constitutions and the laws of the states, and cannot be controlled by them. The states have no power, by taxation or otherwise, to impede, burden, or in any manner or control the operations of constitutional laws enacted by Congress.

-if a state is allowed to tax a national bank, it is effecting all the people of the US,

people who did not participate in that states elections a taxation without

representation.

The success of federalism depends upon maintaining the balance between the need for the supremacy and sovereignty of the federal government and the interest in maintaining independent state government and curtailing national intrusion into intrastate a ffairs. The US federal structure allocates powers between the nation and the states by enumerating the power delegated to the national government and acknowledging the retention by the states of the remainder.

If Congress says its Necessary and Proper, Court will defer to Congress as long as there is a

minimum rationale basis because there are no judicially manageable standards.

The Commerce Power

Regulation of Commerce by Congress ? this power is nonexclusive ? it is shared with the states to some degree ? concurrent federal and state power

Power of Congress to supersede or preempt State Regulation ? Supremacy Clause ? if a state law regulating commerce conflicts with a federal law, the state law will be void. If Congress desires, it may preempt an entire are of regulation, t hus preventing states from making any laws concerning the area preempted.

Power of Congress to permit or prohibit State Regulation ? Congress may allow the state to adopt legislation that would otherwise violate the CC.

-limitation: while Congress may permit this, such consent will not obviate other

constitutional objections to the regulation

State regulation of Commerce in the absence of Congressional Action ? If Congress has not enacted laws regarding the subject, a state or local government may regulate local aspects of interstate commerce if the regulation:

does not discriminate against out-of-state competition to benefit local economic interests

-state or local regulations that discriminate against interstate commerce to

protect local economic interests are almost always invalid

-regulations requiring local operations ? if a state law requires a business

to perform specific business operations in the state to engage in other

business activity within the state, the law will normally be held invalid as

an attempt to discriminate against other states where the business

operations could be performed more efficiently.

is not unduly burdensome.

United States v. Lopez

HELD: The 1990 federal Gun-free School Zones Act exceeded Congress?s Commerce

Clause regulatory powers. The federal government is one of limited, enumerated powers.

The Court held that possession of a firearm in a school zone is not an economic activity

that might have a substantial effect on interstate commerce, and the law contained no

jurisdictional element that ensured an effect on movement in interstate commerce

-For Congress to legislate, it must do so under an express constitutional

provision. If the concept of limited federal government is to have any

meaning, Congress?s legislative power must be cut off somewhere. That

somewhere is the point at which a regulated activity does not substantially

affect interstate commerce.

-The statute is found unconstitutional because it does not fall w/in the CC in Article I

section 8 ? it does not regulate any commercial activity. Commerce means business

and this statute does not prohibit and economic activity

-When argued that guns may be used for illegal economic activity, Rhenquist argues that

if say just because sometimes something is used for economic transaction it is under

the power of Congress, then Congress would have unlimited power.

-Rhenquist assumes that enumerated powers means judicially definable powers ?

written in judicial language. He feels that the CC has to be judicially enumerable which

is a strict definition. Whatever definition give it, has to separate cases and the

governments definition does not separate cases.

The development of Commerce Power doctrine from 1824 ? 1936

Gibbons v. Ogden

HELD: If a state law conflicts with a congressional act regulating commerce, the congressional act is controlling ? supremacy clause

-Congress has the power to regulate navigation within the limits of every

state and, therefore, the regulations which Congress passed controlling

navigation within the state boundaries were valid.

-"All America Knows" ? the CON was written so everyone can understand

Marshall defines navigation as the power to regulate ? to prescribe the rule by which commerce is to be governed; defined commerce as every species of commercial intercourse which concerns more states than one and included within the concept virtually every form of activity involving or affecting two or more states.

Cherokee Nation v. Georgia

HELD: The Cherokee Nation is not a foreign state as defined under the CON and therefore the S/C does not have original jurisdiction.

Cherokee Nation turns out not to be the protection of the states rights, but an assertion of the standpoint of the US ? the US CON is written on the perspective of the US and is the starting point of everything else. From the perspective of Georgia, t hey are foreign. To the US they are not ? the words of the CON make makes the US perspective right.

United States v. E.C. Knight Co

HELD: The CON only allows Congress to regulate commerce and not manufacturing

Doubtless the power to control the manufacture of a given thing involves a certain sense

the control of its disposition, but this is secondary and not the primary sense; and

although the exercise of that power may result in bringing the operation of commerce

into play, it does not control it, and affects it only incidentally in indirectly.

-direct and indirect distinction: manufacturing is indirect while selling/buying

might have been direct ? nothing to do with eachother

Houston E & W Texas RY v. US - The Shreveport Rate Case

Congressional authority extending to interstate carriers as instruments of interstate

commerce, necessarily embraces the right to control their operations in all matters

having such a close and substantial relation to interstate traffic that the control is

essential or appropriate to the security of that traffic, to the efficiency of the interstate

service, and to the maintenance of conditions under which interstate commerce may be

conducted upon fair terms and without molestation or hindrance.

-The "stream of commerce" theory: the consequences for transportation

intrastate are so obvious for interstate that can regulate. If local trade effects

national trade, then can regulate

-Supremacy Clause ? whenever the interstate and intrastate transactions of

carriers are so regulated that the government of the one involves the control of

the other, it is Congress, and not the State, that is entitled to prescribe the

dominant rule.

Stafford v. Wallace

HELD: Stockyard business leads to shipment for interstate commerce ? in the middle of

the current of commerce

Champion v. Ames (The lottery case)

HELD: Under the CC, Congress may prohibit interstate sale of lottery tickets to protect

commerce and people?s morals, in the same manner that a State can within its

boundaries. Lottery tickets are subject of traffic and therefore are subjects of commerce

and that the prohibition of commerce lay within the regulatory power of Congress.

-Majority said it is enough that the activities address interstate commerce ? fact

that the purpose of legislation is not economic does not matter

-Impure Foods

Hipolite Egg Co. v. US

Articles which are outlaws of commerce can be seized wherever they are found. The

power to do so is certainly appropriate to the right to bar them from intestate commerce

and completes its purpose, which is not to prevent merely the physical movement of

adulterated articles, but the use of them, or rather to prevent trade in them between the

States by denying to them the facilities of interstate commerce.

b. The Mann Act

Hoke v. US

The facility of interstate transportation can be taken away from the systematic

enticement to and the enslavement in prostitution ad debauchery of women.

Hammer v. Dagenhart (The child labor case)

Overt interstate transportation, or its incidents, the regulatory power of Congress is ample, but the production of articles, intended for interstate commerce, is a matter for local regulation.

HELD: Congress has no power to make States prevent unfair competition ? State laws must prevent the local evil. Cannot have something that would give Congress authority and power as to a purely local matter as to which federal authority does n ot exist. The manufacture/commerce differentiation Congress could, by simple device by saying that the goods are manufactured under certain circumstances, Congress would have no limits

-the Act is repugnant to the CON ? it transcends the authority delegated to

Congress over commerce and also exerts a power at to a purely local matter to

which the federal authority does not extend.

RR Retirement Board v. Alton RR Co.

The law establishing compulsory retirement was not in purpose of effect a regulation of interstate commerce within the meaning of the CON.

Carter v. Carter Coal Co.

HELD: CC only gives Congress power to regulate interstate commerce and States were

left to regulate their local businesses ? mining coal is not commerce. The general

purposes of the Act are beyond the power of Congress except so far as they may be

realized by an exercise of some specific power granted by the CON.

The Decline of Limits on the Commerce Power: The Era Beginning in 1937

NLRB v. Jones & Laughlin Steel Corp.

Although activities may be intrastate in character when separately considered, if they have such a close and substantial relation to interstate commerce that their control is essential or appropriate to protect that commerce from burdens and obstructions, Congress cannot be denied the power to exercise that control.

HELD: Under CC, Congress has power to regulate any activity, even intrastate manufacturing, if it has any direct or indirect affect on interstate commerce. The acts which directly burden or obstruct interstate commerce, or its free flow, are w ithin the reach of the congressional power.

-affectation doctrine: practical effect on congress

-manufacture/commerce distinction gone, indirect/direct distinction gone

Wickard v. Filburn

HELD: Federal may regulate local activity that has potential to have substantial effect on interstate commerce. The stimulation of commerce is a use of the regulatory function quite as definitely as prohibitions or restrictions thereon.

-aggregation: close and substantial test is not individualized but rather applied

by looking at aggregation of similarly situated individuals

US v. Darby

HELD: Congress, following its own conception of public policy concerning the restrictions which may appropriately be imposed on interstate commerce, is free to exclude from the commerce articles whose use in the states for which they are desti ned it may conceive to be injurious to the public health, morals or welfare, even though the state has not sought to regulate its use.

-interstate commerce should not be made the instrument of competition in the

distribution of goods produced under substandard labor conditions, which

competition is injurious to the commerce and to the states from and to which the

commerce flows

-Reverses Hammer v. Dagenhart - Congress can now act on basis of

substantial economic activity individually and in the aggregate as well as

denying access to interstate commerce to any objects it thinks is bad to public

policy. If Congress wants to prohibit from interstate commerce they can. So

long as it has a reason to do so, if something is a matter of commerce when

disruption of production, and even if basis is fairness, can regulate

Jones, Wickard, Darby:

substantial economic effect on interstate commerce than can address ? no longer believes in indirect/direct distinction (Jones)

aggregate affect (Wickard)

butterfly affect ? small manifests itself into larger effect

aggregation ? of everyone does the same thing, it has an effect, whereas individually it would not have the same effect ?aggregate individual instances and there will be enough to create a substantial economic effect.

Darby Bootstrap

Jones said substantial economic effect, Wickard relaxes subject of case to allow for aggregation, Darby says don?t need to be motivated solely by supply/demand. May be motivated by other concerns such as public policy (morals). Whether or not the e conomy is hurt or helped, it is for Congress to decide because matters of public policy are not for the courts to decide

the activities in Darby are economic activities. Congress was regulating substantial economic activites, but now not promote economic activity, but regulating for public policy independent of economic reasons.

Perez v. US

Even where extortionate credit transactions are purely intrastate in character, they nevertheless directly affect interstate and foreign commerce.

HELD: Congress may regulate entire class of activity if it affects interstate commerce.

a. The implications of the federal system as a restraint on statutory interpretation

US v. Bass

Because the statutes sanctions are criminal, and because, under the Governments

broader reading, the statute would mark a major inroad into a domain traditionally left to

the States, the Court refuses to adopt the broad reading in the absence of clearer

direction from Congress. Unless Congress conveys its purpose clearly, it will not be

deemed to have significantly changed the federal-state balance.

b. The "affecting commerce" rationale at the end of the Wickard era

Maryland v. Wirtz

HELD: Coverage that had been limited to employees engaged in commerce or in the production of goods for commerce was extended to include every employee who is employed in the enterprise engaged in commerce or in the production of goods for com merce.

Where a general regulatory statute bears a substantial relation to commerce, the de minimus character of individual instances arising under that statute is of no consequence.

Hodel v. Virginia Surface Min & Recl. Assn.

HELD: The commerce power is broad enough to permit congressional regulation of activities causing air or water pollution, or other environmental hazards that may have an effect on more than one state. When Congress has determined that an acti vity affects interstate commerce, the courts only need inquire whether the finding is rationale.

Heart of Atlanta Motel v. US

HELD: Congress may regulate a local business if it affects interstate commerce ? only requires rational basis & reasonable means to the end. The power of Congress to promote interstate commerce also includes the power to regulate the local incidents thereof, including local activities in both the States of origin and destinations, which migh have a substantial and harmful effect upon that commerce.

The determinative test of the exercise of power by the Congress under the CC is simply whether the activity sought to be regulated is commerce which concerns more States than one and has a real and substantial relation to the national interest.

-a rational basis for finding that racial discrimination affected commerce and the

means are appropriate

Katzenbach v. Mc Clung

HELD: Congress has broad power and may pass any law to regulate commerce even if it affects business that only tangentially touches interstate commerce

Wickard relation? while the focus of the legislation was on the individual

restaruants relation to interstate commerce, Congress appropriately

considered the importance of that connection with the knowledge that the

discrimination was but representative of many others throughout the country, the total incidence of which if left unchecked may bell become far reaching in its

harm to commerce.

Once an economic measure of the reach of the power granted to Congress is the CC is

accepted, questions of federal power cannot be decided simply by finding the activity in

question to be "production" nor can consideration of its economic effects be foreclosed by

calling them "indirect." Even if appellee?s activity be local and thought it may not be regarded as

commerce, it may still, whatever its nature, be reached by Congress if it exerts a substantial

economic effect on interstate commerce, and this irrespective of whether such effect is what

might at some earlier time have been defined as "direct" or "indirect."

External Limits on the Commerce Power: The State autonomy and Sovereignty Concerns Reflected in the 10th and 11th amendments

The Tenth Amendment limit on congressional authority

Whereas the federal government has only those powers granted to it by CON, the state governments are governments of "unlimited" powers, having all powers not prohibited to them by the CON. This is recognized by the 10th amendment , which provides that all powers not delegated to the federal government by the CON are reserved to the states.

US v. California

There is no limitation upon the plenary powers in federal regulation for activities in which

the States have traditionally engaged. The state can no more deny the power if its

exercise has been authorized by Congress that can an individual.

Maryland v. Wirtz

Court rejected challenge to federal regulations allegedly interfering with state autonomy

Fry v. US

HELD: in this case, the federal law was an emergency measure. But, the 10th amendment expressly declared the CON policy that Congress may not exercise power in a fashion that impairs the States? integrity or their ability to functio n effetively in a federal system.

National League of Cities v. Usery

HELD: The law could not be applied to state employees performing traditional governmental functions. The law would impermissibly interfere with integral governmental functions: it would significantly alter or displace the States? abilities to structure employer-employee relationships .

Hodel v. Virginia Surface Min & Recl. Assn.

HELD: The law did not commandeer the legislative processes of the States by directly compelling them to enact and enforce a federal regulatory program.

--National League of Cities standard: has to meet all three criteria

there must be a showing that the challenged statute regulates the "States as States"

the federal regulation must address matters that are indisputably attributes of state sovereignty

it must be apparent that the States? compliance with the federal law would directly impair their ability to structure integral operations in areas or traditional governmental functions

even if a 10th amendment challenge satisfied this three-part test, it might not succeed because the federal interest advanced may be such that it justifies state submission.

United Transportation Union v. LI RR Co.

Rejected the state autonomy challenge because there was no interference with traditional state functions: operation of railroads has traditionally been a function of private industry.

EECO v. Wyoming

The degree of federal intrusion in this case is sufficiently less serious than it was in National League of Cities - no showing of a potential impact of the federal scheme on States? ability to structure operations and set priori ties over a wide range of decisions.

Ferc v. Mississippi

Upheld the mandatory consideration requirement on the ground that Congress could have pre-empted the field entirely; Congress adopted a less intrusive scheme and allowed the states to continue regulating in the area on the condition that they c onsider the suggested federal standards.

Garcia v. San Antonio Metro Transit

The Court rejects as unsound in principle and unworkable in practice, a rule of state immunity from federal regulation that turns on a judicial appraisal of whether a particular governmental function is integral or traditional. State sovereign interests are more properly protected by procedural safeguards inherent in the structure of the federal system than by judicially created limitation on federal power.

-overruled National League of Cities ? effort to articulate boundaries of state

regulatory immunity in terms of "traditional governmental functions" was

unworkable

South Carolina v Baker

Where, as here, the national political process did not operate in a defective manner, the 10th amendment is not implicated.

New York v. US

While Congress has substantial power under the CON to encourage the States to provide for the disposal of the radioactive waste generated within their borders, the CON does not confer upon Congress the ability simply to compel the States to do so. The CON enables the federal government to pre-empt state regulation contrary to federal interests, and it permits the federal government to hold out incentives to the States as a means of encouraging them to adopt suggested regulatory s chemes. It does not, however, authorize Congress to simply direct the States to provide for the disposal of the radioactive waste generated within their borders-federal manipulation of state administrative procedures ? commandeering state legislature

Prinz v. US

The federal government may not compel the States to implement, by legislation or executive action, federal regulatory programs. The CON line is crossed only when Congress compels the States to make law in their sovereign capacities. Congress cannot use the states as a front to accomplish its own objective

Affect on Lopez ? Congress is choosing not to commandeer a state legislator, instead it is choosing to act like a state legislature and ordering officers to act under the statute. Congress cannot itself decide to legislate wherever it wa nts and can?t deploy federal officials to act randomly ? there must be something in the statute that indicates Congress sees that he problem is interconnected

The Eleventh Amendment as a protector of state sovereignty and a curb on congressional

powers; a jurisdictional bar that modifies the judicial power by prohibiting a federal court from hearing a private party?s or foreign governments claims against a state government.

the 11th amendment protects only state government, not local

Native American tribes are treated as other private parties, and so they are barred from bringing an action against a state government in federal court.

Seminole Tribe of FL v. FL

HELD: Congress has no power under the Commerce Clause ? either to regulate commerce "among the States" or with the "Indian Tribes" ? to abrogate state immunity under the 11th Amendment. The 11t h amendment restricts the judicial power under Article III and Article I cannot be used to circumvent the CON limitations placed on federal jurisdiction.

Federalism-Based Restraints on Other National Powers in the 1787 Constitution

The taxing power as a regulatory tool

Bailey v. Drexel Furniture Co. (Child Labor Tax Case)

There comes a time in the extension of the penalizing features of the so called tax when it loses its character as such and becomes a mere penalty with the characteristics or regulation and punishment.

-tax or penalty: the difference between a tax and a penalty is sometimes difficult

to define and yet their consequences of that distinction in the required method of

their collection often are important

-Pre-text passage (McCulloch)

US v. Kahriger

A federal excise tax does not cease to be valid merely because it discourages or deters the activities taxed. Unless there are penalty provisions extraneous to the tax need, court are without authority to limit the exercise of the taxing power .

The spending power as a regulatory device

United States v. Butler

The Court held that the Act was not a valid exercise of the power to spend for the general welfare. The grant of power to tax and spend for the general national welfare must be confined to the enumerated legislative fields committed to the Con gress. The power of Congress to authorize expenditures of public monies for public purposes is not limited by the direct grants of legislative power found in the CON. But the adoption of the broader construction leaves the power to spend subject to limi tations.

Charles Steward Machine Co. v. Davis

The statute does not call for a surrender by the states of powers essential to their quasi-sovereign existence. A wide range of judgment is given to the several states as to the particular type of statute to be spread upon their books. What th ey may not do if they would earn the credit, is to depart from those standards which in the judgment of Congress are to be ranked as fundamental.

Helvering v. Davis

Only a power that is national can serve the interests of all. When money is spent to promote the general welfare, the concept of welfare or the opposite is shaped by Congress, not the States ? congressional authority is the General Welfare Cla use

South Dakota v. Dole

Incident to the spending power, Congress may attach conditions on the receipt of federal funds to further broad policy objectives by conditioning receipt of federal moneys upon compliance by the recipient with federal objectives. The Conditio n imposed by Congress is directly related to one of the main purposes for which highway funds are expended ? safe interstate travel.

Test for limits on Congress? power to attach conditions on federal money that

would require states to adopt their own law:

exercise of spending power has to do with the general welfare

if attaches a condition, must do so unambiguously

restriction might be illigitimate if not related to the federal interest in national projects

War, Foreign Affairs, and Federalism

a. The War Power

Woods v. Cloyd W. Miller Co.

The war power includes the power to remedy the evils which have arisen from its rise and progress ? the war power does not necessarily end with the cessation of hostilities.

b. Treaties, Foreign Affairs, and Federalism

Missouri v. Holland

A treaty can broaden the scope of Congress? affirmative authority. Here a national interest of very nearly the first magnitude is involved. It can be protected only by national action in concert with that of another power. Since the governmen t can make a treaty for any purpose it wants, then Congress is free to do what it wants under the treaty clause, within the restraints of the CON.

Reid v. Covert

No treaty could confer on Congress authority to act in a manner inconsistent with any specific provisions of the CON. The court has never held a treaty unconstitutional, but it is conceivable that the treaty power extends only to subjects plau sibly bearing on our relations with other countries.

Federal Limits on State Power to Regulate the National Economy

State Regulation and the Dormant Commerce Clause

Did the state intend to discriminate against interstate commerce? If yes, the state act is no good. If no:

Balance

-factors in favor of the state:

-if the regulation in an arena of traditional state interest such as

safety

-factors against the state:

-is there a discriminatory effect of state act

-are there alternatives less restrictive of interstate commerce

available

-if there is a potential for multiple burdens, real or hypothetical

(Bibb)

The source of the dormant commerce clause

a. Early developments

Gibbons v. Ogden

b. The Modern Court?s Approach

Pike v. Bruce Church

Where the statute regulates evenhandedly to effectuate a legitimate local public interest,

and its effects on interstate commerce are only incidental, it will be upheld unless the

burden imposed on such commerce is clearly excessive in relation to the putative local

benefits. If a legitimate local purpose is found, then the question becomes one of

degree. And the extent of the burden that will be tolerated will of course depend on the

nature of the local interest involved, and on whether it could be promoted as well with a

lesser impact on interstate activities.

-Facial Discrimination against out-of-state commerce by States

Philadelphia v. NJ

Whatever NJ ultimate purpose, it may not be accomplished by discriminating against articles of commerce coming from outside the state unless there is some reason, apart from their origin, to treat them differently. Both on its face and in its plain effect, the law violates this principle of nondiscrimination.

-protectionist purpose

-social welfare

Chemical Waste Management Inc. v. Hunt

A state may not prohibit private landfill or waste disposal facilities from accepting out-of-state garbage or waste or surcharge such waste unless Congress authorizes such discrimination.

Oregon Waste Systems v. Dept. of Environmental Quality

The differential surcharge was facially discriminatory and thus subject to the strictest scrutiny or a virtually per se rule of invalidity. In-state producers? payment of general taxes did not justify the higher fee to out-of-state waste, for the two forms of taxation did not pertain to substantially equivalent economic events.

West Lynn Creamery v. Healy

A State may not benefit in-state economic interests by burdening out-of-state competitors. The paradigmatic example of a law discriminating against interstate commerce is the protective tariff which taxes goods imported from other states, but does not tax similar products produced in State.

Foster-Foundation Packing Co. v. Haydel

The practical operation and effect of the provisions complained of will be directly to obstruct and burden interstate commerce.

Dean Milk Co. v. Madison

In thus erecting an economic barrier protecting major local industry against competition from without the State, the State plainly discriminates against interstate commerce. This it cannot do, even in the exercise of its unquestioned power to protect the health and safety of its people, if reasonable nondiscriminatory alternatives, adequate to conserve legitimate local interests, are available

-interstate and intrastate discrimination

-not facially discriminatory a provides burden to those not within that area

Fort Gratiot Sanitary Landfill v. Michigan Dept. National Resources

A State may not avoid the strictures of the CC by curtailing the movement of articles of commerce through subdivisions of the state rather than through the state itself.

C&A Carbone Inc. v. Clarkstown

a law requiring all locally produced solid waste to be processed at a local waste processing business was held to violate the CC because it was a trade barrier against competition from out-of-state waste processors

-Protectionist Purpose and Effect

Baldwin v. Seeling

States may not protect local economic interests by limiting access to local markets by out-of-state sellers ? even in the absence of facial discrimination. Restrictions so contrived are an unreasonable clog on the mobility of commerce.

Henneford v. Silas Mason Co.

Local retail sellers will be helped to compete upon terms of equality with retail dealers in other states who are exempt from a sales tax; local buyers will no longer be tempted to place their orders in other states to escape the local sales ta x.

-De facto discrimination

Bacchus Imports, Ltd. v. Dias

The Court invalidates facially neutral statutes that actually appear to exist solely in order to protect a particular in-state interest or target a particular out-of-state interest. Because the exemption was motivated by an intent to confer a benefit upon local industry not granted to out-of-state industry, the exemption was held invalid.

Hunt v. Washington State Apple Advertising

When such state legislation comes into conflict with the CC?s overriding requirement of a national "common market" we are confronted with the task of effecting accommodation of the competing national and local interests. The law had the practical effect of not only burdening interstate sales, but also discriminating against them.

-Limits of inferring protectionism from discriminatory effect rather than from motive

Breard v. Alexandria

The Court does not always infer discrimination against out-of-state interests from practical burdens upon them.

Milk Control Board v. Eisenberg Farms

The Court has upheld application to out-of-state buyers of local price and production controls when it finds their effects on interstate commerce merely incidental to regulation of a local market - state barriers to out-of-state buyers

HP Hood & Sons v. DuMond

The distinction between the power of the state to shelter its people from menaces to their health or safety and from fraud, even when those dangers emanate from interstate commerce, and its lack of power to retard, burden or constrict the flow of such commerce for their economic advantage is one deeply rooted both in history and law

-DCC is meant to protect free trade common market ? let supply and demand

work without state interruption.

Legislation which discriminates on its face is almost always unconstitutional. Economically protectionist ( Hood, Washington) legislation, even if not discriminatory on face, is unconstitutional.

Cities Service Gas Co. v. Peerless Oil

The price regulation applies to all gas taken from the field, whether destined for interstate or intrastate consumers. The Court cannot say that there is a clear national interest so harmed that the state price-fixing orders here employed are barred by the CC

Hughes v. Oklahoma

A state could not prohibit export of live baitfish to out-of-state purchasers because the sale of such fish to out-of-state purchasers would not impair any interest of the state, except the interest of protecting local purchasers of baitfish fr om competition by out-of-state purchasers. States may promote a legitimate purpose only in ways consistent with the basic principle that our economic unit is the Nation and that when a wild animal becomes an article of commerce, its use cannot be limited to citizens of one state to the exclusion of citizens of another.

state restraints on exports of natural resources

NE Power v. New Hampshire

The agency has made it clear that its order is designed to gain an economic advantage for NH citizens at expense of Company?s customers in neighboring states. Agencies exportation ban places direct and substantial burdens on transactions in IC.

Sporhase v. Nebraska

The Court while acknowledging some state authority to restrict export of water, it refused

to accept the State?s broadest claims

Pike v. Bruce Church

Where the statute regulates even-handedly to effectuate a legitimate local public interest, and its effects on interstate commerce are only incidental, it will be upheld unless the burden imposed on such commerce is clearly excessive in relatio n to the putative local benefits. If a legitimate local purpose is found, the question becomes one of degree - the modern balancing test

SC State Highway Dept. v. Barnwell Bros

There are matters of local concern, the regulation of which unaviodably involves some matters of local concern, the regulation of which unavoidably involves some regulation of interstate commerce but which, because of their local character and their number and diversity, may never be fully dealt with by Congress. Few subjects of state regulation are so peculiarly of local concern as is the use of state highways.

Barnwell test: rational basis

Has the state acted via a means rationally related to a legitimate end?

Has the state intentionally discriminated against interstate commerce?

State is almost always going to win so long as the legislation is not discriminatory on its face because there is almost always a reason for a state interest

Southern Pacific Co. v. Arizona

The State?s regulation of train lengths, admittedly obstructive to interstate train operations, and having a seriously adverse effect on transportation efficiency and economy, passes beyond what is plainly essential for safety since it does not appear that it will lessen rather than increase the danger of accident. The state interest is outweighed by the interest of the nation in an adequate economical and efficient railway transportation service, which must prevail.

-Purest form of Interest balancing test: (Barnwell alone is not balancing)

-Added a third element to Barnwell test:

Do the burdens on IC resulting from the state regulation outweigh the local

benefits of the regulation? a balancing test

Stone changes mind from Barnwell: shifts from rational basis to interest balancing test

Bibb v. Navajo Freight Lines, Inc.

Safety measures carry a strong presumption of validity. Unless the court can conclude on the whole record that the total effect of the law as a safety measure in reducing accidents and casualties is so slight or problematical as not to outweig h the national interest in keeping interstate commerce free form interferences which seriously impede it, the court must uphold the statute. This is a case where local safety measures that are nondiscriminatory place an unconstitutional burden on interst ate commerce.

Kassel v. Consolidated Freightways

The total effect of the law as a safety measure in reducing accidents and casualties is so slight and problematical that it does not outweigh the national interest in keeping intertstate commerce free from interferences that seriously impede it . Regulations designed for the salutary purpose of safety may further the purpose so marginally and interfere with commerce so substantially, as to be invalid under the CC.

-balancing test: weight and nature of state regulatory concern in light of the

extent of the burden imposed on the course of interstate commerce

Exxon Corp. v. Governor of Maryland

The Act creates no barriers whatsoever against interstate independent dealers; it does not prohibit the flow of interstate goods, place added costs upon them, or distinguish between in-state and out-of-state companies in the retail market. So long as not trying to wreck a market but trying to deal with inequities w/in a market w/in a state, then ok.

-state burdens on trade

Minnesota v. Clover Leaf Creamery Co.

A non discriminatory regulation serving substantial state purposes is not invalid simply because it causes some business to shift form a predominantly out-of-state industry to a predominantly in-state industry. Only if the burden on interstate commerce clearly outweighs the State?s legitimate purpose does such a regulation violate the CC.

Lewis v. BT Investment Manages Inc.

The Law prevents competition in local markets by out-of-state firms with the kinds of resources and business interests that make them likely to attempt de novo entry and found the law parochial in the sense that it overtly prevents foreign ente rprises form competing in local markets.

-state burdens on business entry

Edgar v. Mite Corp

The Act imposes a substantial burden on interstate commerce which outweighs its

putative local benefits

-shift from barriers on business entry to restraints on takeover effects

CTS Corp. v. Dynamics Corp. of America

The Act does not prohibit any entity ? resident or nonresident ? from offering to purchase, or from purchasing, shares of Indiania corporations, or from thereby attempting to gain control. It only provides regulatory procedures designed for th e better protection of the corporations shareholders.

The "Market Participant" Exception to the Dormant Commerce Clause

South Central Timber v. Wunnicke

If a state is acting as a market participant rather than as a market regulator, the dormant CC places no limitation on its activities.

-Market participant doctrine: the limit of the doctrine must be that it allows a

State to impose burdens on commerce w/in the market in which it is a

participant, but allows it to go no further. The State may not impose conditions,

whether by statute, regulation, or contract, that have s substantial regulatory

effect outside of that particular market. Unless the market is relatively narrowly

defined, the doctrine has the potential of swallowing up the rule that States may

not impose substantial burdens on interstate commerce even if they act with the

permissible state purpose of fostering local industry..

Discriminatory Regulations:

-Regulations protecting local businesses ? laws designed to protect local businesses

against interstate competition will be invalidated

-Regulations requiring local operations ? if a state law requires a business to perform

specific business operations in the state to engage in other business activity w/in the state,

the law will normally be held invalid as an attempt to discriminate against other states where

the business operations could be performed more efficiently.

-Regulations limiting access to in-state products ? a state law that makes it difficult or

impossible for out-of-state purchasers access to in-state products is likely to be held invalid

Exceptions:

-Necessary to Important State Interest ? a discriminatory state or local law may be valid if

it furthers an important, non-economic state interest and there are no reasonable

alternatives available

-State as Market Participant ? The CC does not prevent a state from preferring its own

citizens when the state is acting as a market participant

SUMMARY OF THE DORMANT CC

WHAT DOES NOT WORK WITHIN POST 1937 PERIOD:

Jacksons approach in Hood as stated ? do not think it is easy to distinguish between health and safety regulation on one hand and economic regulation on the other. Jackson seems to suppose that can engage in a straightforward categoriza tion. This does not work because if it is in the CON scheme, then those who are looking to economic legislation will disguise as health and safety regulation.

Stone in Southern Pacific v. Arizona does not work ? interest balancing if pursuing seriously will involve judiciary too much and cause judges to make difficult determinations. Unless prepared to do things like that, it is hard to inter est balance even if could place a value on health and safety. Can?t get to the stage where say responsibly balancing. It did not read literally requires us to state something that ought to take seriously

Clark in Dean Milk ? less restrictive alternatives pursued rigorously will cause problems ? how do know will serve interests just as well, what is less restrictive? I becomes hard to figure out.

Powell in CTS case ? part of problem in Kassell ? Iowa was legislating differntly than other staes and that is what made in unconstitutional. Would Kassell have come out differently if it varied from state to state? If Po well says what Iowa is doing is out of synch, that what is the difference in Kattrell?

Barnwell rational basis ? so long as a legislation does not discriminate on its face, it is not unconstitutional. The Court does not like this test.

Discrimination rule ? is a puzzle even though can understand the rule ? can?t discriminate against interstate commerce. Care about discrimination in practice or on face of statute?

Not including market participation ? Wunnicke - the Court is not interested

Even though may not know how to balance interests, can spot spurious interests ? Arizona, Bibb ? no safety gain. The Court makes reference to Raymond that it is difficult to show safety restraint [1] 24; less restrictive analysis in a lesser form to show something is spurious

Able to show real interests ? Baitfish case ? courts were genuinly persuaded that there was an environmental interest at stake

DORMANT COMMERCE CLAUSE

did the state intend to discriminate

against interstate commerce?

(facially neutral)

yes: Act is no good no

Factors in favor of state: if the regulation is in arena of traditional state interest

Factors against state:

-is there a discriminatory effect of state act

-are there less restrictive alternatives

-is there potential for multiple burdens

The Privileges and Immunities Clause of Article IV

There are two P & I Clauses: The 14th Amendment P & I Clause and the Interstate P & I Clause of Article VI.

Article IV ? Privileges of State Citizenship

Citizens of each state shall be entitled to all P & I of citizens in the several states. Thus it prohibits discrimination by a state against nonresidents ? only "fundamental rights" ? those involving important commercial activities or civil liberties - corporations are not citizens of state for purpose of P & I

Substantial Justification Exception

a state law discriminating against nonresidents may be valid if the state has a substantial justification for the different treatments. It must show that nonresidents either cause or part of the problem it is attempting to solve, and there is a l ess restrictive means to solve the problem.

United Building & Construction v. Mayor and Council of Camden

Camden may, without fear of violation of CC, pressure private employers engaged in

public works projects funded in whole or in part by the city to hire city residents. That

same exercise of power to bias the employment decisions of contractors against out-of-

state residents may be called to account under the P & I clause. A city ordinance was an apparent violation of the Article IV P & I Clause because it gave a preference in private sector employment to city residents.

SC of New Hampshire c. Piper

The clause does not preclude discrimination against nonresidents where: (I) there is a substantial reason for the difference in treatment; and (ii) the discrimination practiced against nonresidents bears a substantial relationship to the State? s objective. In deciding whether the discrimination bears a close or substantial relationship to the State?s objective, the Court has considered the availability of less restrictive means.

Edwards v. California

The majority opinion relied solely on the commerce clause.

-a right to personal mobility

Congressional Ordering of Federal-State Relationships by Preemption and Consent

Preemption of State Authority

Pacific G & E v. State Energy Resources

Even where Congress has not entirely displaced state regulation in a specific area, state

law is preempted to the extent that it actually conflicts with federal law. Such a conflict

arises when compliance with both federal and state regulations is a physical

impossibility.

-it would be an easy case if thought what the state law would do would disrupt or

relax federal enforcement of safety standards ? actual conflict ? state law

makes it impossible for federal law to govern in its own terms. Harder cases

occur in occupying the field ? the feds say that they mean to be the only ones

to regulate. Therefore, any state regulation, even though it did not come

obvious conflict with federal regulation, state law is preempted because federal

law was meant to be the only law.

Rice v. Santa Fe Elevator

The question in each case is what the purpose of Congress was. The Court requires a

clear showing that Congress meant to occupy a field.

Hines v. Davidowitz

Where the federal government, in the exercise of its superior authority in this field, has enacted a complete scheme of regulation and has therein provided a standard for the registration of aliens, states cannot, inconsistently with the purpos e of Congress, conflict or interfere with, curtail or complement, the federal law , or enforce additional or auxiliary regulations.

Florida Lime & Avocado Growers

There is neither such actual conflict between the two schemes of regulation that both cannot stand in the same area, nor evidence of congressional design to preempt the field.

Gade v. National Solid Wastes Mgt.

The Court found conflict preemption, reading the federal scheme to forbid duplicative regulation.

Consent to State Laws

Leisy v. Hardin

Inasmuch as interstate commerce is national in its character, and must be governed by a

uniform system, so long as Congress does not pass any law to regulate it, or allowing

the States so to do, it thereby indicates its will that such commerce shall be free and

untrammeled.

Wilkerson v. Rahrer

No reason is perceived why, if Congress chooses to provide that certain designated subjects of interstate commerce shall be governed by a rule which divests them of htat character at an earlier period of time than would otherwise be the case, i t is not within it competency to do so.

The McCarran Act

Prudential Insurance v. Benjamin

Congress can consent to any variety of state legislation impinging on commerce: in the

exercise of the national commerce power, it can permit state laws the Court would

otherwise consider unconstitutional under the dormant CC. Under the Act Congress is

understood that the continued regulation of insurance by the states is important ? state

law is the Congressional choice and Congress has the power to regulate interstate

commerce and also has the power to delegate its authority to the states. Therefore, if

Congress can regulate insurance, then it can give the states the power to regulate

insurance.

Metropolitan Life Ins. Co. v. Ward

The States aim to promote domestic industry is purely and completely discriminatory, designed only to favor domestic industry within the state, no matter what the cost to foreign corporations also seeking to do business there.

-equal protection as a limit on state protectionism

Separation of Powers

The CON separates governmental powers among the branches of government. This doctrine prohibits the legislature from interfering with the courts? final judgements.

The Authority to Make National Policy: The Conflict Between Executive Authority and Legislative Power

The entire "executive power" is vested in the President by Article II, Section I of the CON. Various executive functions may be and are delegated within the "executive branch" by the President or by Congress.

Domestic Affairs

Appointment ? Under Article II, Section 2, the President is empowered "with the advice and consent of the Senate" to appoint officers of the US, whose appointments are not herein otherwise provided for ? but the Congress may by law vest the appointment of such inferior officers, as they think proper, in the President alone, in the courts of law, or in the heads of departments.

Removal ? The CON is silent as to removal of appointees.

by President ? Under the Court?s decision, the President can remove high level, purely executive officers at will, without interference from Congress. Congress may provide statutory limitations on the President?s power to remove all other exec utive appointees

by Congress ? Congress cannot give itself the power to remove an officer charged with the execution of laws except through impeachment. Congress cannot give government employee who is subject to removal from office by Congress any powers that are truly executive in nature.

Youngstown Sheet & Tube v. Sawyer (the steel seizure case)

Presidential authority to set policy on foreign relations through executive agreements. Without such approval, power could only stem from CON ? the power cannot be implied.

In the framework of our CON, the President?s power to see that the laws are faithfully executed refutes the idea that he is to be a lawmaker. The CON limits his functions in the law-making process to the recommending of laws he thinks wise and the vet oing of laws he thinks bad. And the CON is neither silent nor equivocal about who shall make laws which the President is to execute. Commander in chief power is limited to military functions of strategy and do not apply when possibility of war is too re mote.

Black: Congress? job is to make the laws and the President enforces ? the

President is making law here. The executive order looks like a statute and if it

does what a statute does, then it has to be followed. If it looks like legislation,

then it is legislation - Model of law making form statutes and looking at executive

order to see if looks like a statute.

Frankfurter: Saying don?t just read document, must look further. The practice

gives meaning to terms. All law/legislation take content and language from the

larger legal tradition from which they are just one product. To make sense, have

to look at tradition as a whole ? previous cases

Douglas: Since President could not act constitutionally unless prepared to pay

for what took, and he could not pay without congressional approval, the

President needed to involve Congress based on back compensation issue ? Bill

of Rights protections of individual rights and discern from SOP

Jackson : "zone of twilight" ? these categories organize cases, not decide:

Tripartite analysis:

President has most power when he has Article II powers and delegated power

President has less power when he has Article II powers, but Congress has not spoken (zone of twilight)

President has least power when he acts in contravention of set national policy. He can only have article II powers minus power limited by Congress

Jackson places this case in #3 because it is an issue that has been previously decided. Concurrancy ? the President and Congress act together in addressing issues on CON agenda. Where choose to act unilaterally, the CON must speak specifically.

Dames & Moore v. Regan

Congress cannot anticipate and legislate with regard to every possible action the

President may find it necessary to take or every possible situation in which he might act.

Such failure of Congress specifically to delegate authority does not, especially in the

areas of foreign policy and national security, imply congressional disapproval of action

taken by the Executive.

-Rhenquist argument looks like Frankfurter argument: a lot of statutes which

seem to suppose authorization of President and asserting some level of

Congressional involvement as well.

Separation of Powers: Congressional Encroachments on the Executive?s Domain

Congress has broad discretion to delegate its legislative power to executive officers and/or administrative agencies, and even delegation of rulemaking power to the courts has been upheld.

to be delegable, the power must not be uniquely confined to Congress; e.g. the power to declare war cannot be delegated, nor the power to impeach

Separation of Powers Limitations ? while Congress has broad power to delegate, the separation of powers doctrine restricts Congress from keeping certain controls over certain delegates. Congress cannot give a government employee who is subject to rem oval by Congress purely executive power.

Veto Power

every act of Congress must be approved by the President before taking effect unless passed over his disapproval by 2/3 vote of each house.

The President has 10 days to exercise his veto power. If he failed to act within that time, 1) the bill becomes law if Congress is still in session; or 2) the bill is automatically vetoed if Congress is not in session

INS v. Chadha

Congress made a deliberate choice to delegate to the Executive Branch the authority to

allow deportable aliens to remain in this country in certain specified circumstances.

Congress must abide by its delegation of authority until that delegation is legislatively

altered or revoked. Congress passes a statute which gives authority to an agency, byt

not wanting to give it all authority takes some back

-One house veto

Bowsher v. Synar

Congress and the presidential power to appoint and remove subordinates. To allow an

officer who is subordinate to execute a law that Congress enacted would effectively

permit Congressional veto, which is not allowed. Once Congress makes its choice in

enacting legislation, its participation ends. Congress can therefore control the execution

of its enactment only indirectly ? by passing new legislation. By placing the

responsibility for execution of the Act in the hands of an officer who is subject to removal

only by itself, Congress in effect has retained control over the execution of the Act and

has intruded into the executive function.

Meyers v. US

It was a reasonable implication from the President?s power to execute the laws that he should select those who were to act for him under his direction in the execution of the laws. As his selection of administrative officers is essential to th e execution of the laws by him, so must be his power of removing those for whom he can not continue to be responsible.

Humphrey?s Executor v. US

In view of the functions of the agency, Congress could limit the Presidents power of removal. The Meyers principle is limited to purely executive officers.

Wiener v. US

As to officers who are not purely executive, power to remove existed only if Congress may fairly be said to have conferred it. This differentiation derives from the difference in functions between those who are part of the Executive establishme nt and those whose tasks require absolute freedom from Executive interference.

Morrison v. Olson

Because the IC may be ternimated for "good cause" the Executive, through the AG, retains ample authority to assure that counsel is competently performing his statutory responsibilities in a manner that comports with the provisions of the Act. The Act does not undermine the powers of the Executive branch or disrupt the proper balance between the coordinate branches by preventing the Executive Branch from accomplishing its constitutionally assigned functions.

-Federal law does not encroach on Executve or violate SOP.

Metropolitan Wash. Airports v. Citizens for Abatement

The majority continues to insist on a quite stringent, rigid review under separation of powers principles. Congress?s conditioning of the airport?s transfer on the creation of the Board of Review violated the separation of powers.

-Delegation of Legislative Powers of Congress

Mistretta v. US

Since substantive judgment in the field of sentencing has been and remains appropriate of the Judical Branch, and the methodology of rulemaking has been and remains appropriate to that Branch, Congress considered decision to combine these funci tons in an independent Sentencing Commission and to locate that Commission withih the Judicial Branch does not violate the principle of separation of powers. Foreign affairs: Judicial rule-making falls within a constitutional twilight area where governm ent branches merge ? Congress gave commission sufficient policy guidelines as to relevant considerations and purposes their guidelines should serve. Delegation of rulemaking power to the courts has been upheld.

US v. Curtiss-Wright Export

The unwisdom of requiring Congress in this field of governmental power to lay down narrowly definite standards by which the President is to be governed.

HELD: Federal government always exclusively controlled foreign affairs.

Jones v. Clinton

The doctrine of separation of powers does not require federal courts to stay all private actions against the President until he leaves office. If Congress deems it appropriate to afford the President stronger protection, it may respond with ap propriate legislation.

Executive Privilege and Immunities

The executive privilege is not a CON power, but an inherent privilege necessary to protect the confidentiality of presidential communication.

extent of privilege ? presidential documents and conversations are presumptively privileged, but the privilege must yield to the need for such materials as evidence in a criminal case to which they are relevant and otherwise admis sible.

executive immunity

absolute immunity for President ? the President has absolute immunity from civil damages based on any action that the President took within his official responsibilities.

US v. Nixon

Neither the doctrine of separation of powers nor the need for confidentiality of high level

communications, without more, can sustain an absolute, unqualified Presidential

privilege of immunity form judicial process under all circumstances. The impediment that

an absolute unqualified privilege would place in the way of the primary constitutional

duty of the Judicial Branch to do justice in criminal prosecutions would plainly conflict

with the functions of the court under Article III.

-Judiciary may interfere within a purely interbranch dispute of the executive if the

executive if preventing the system of checks and balances from functioning

Nixon v. Administrator of General Services

-Impeaching the President

Nixon v. Fitzgerald

President is immune from action for damages in a civil suit.

power over external affairs

War ? although lacking the power to declare or initiate a formal war, the President has extensive military powers.

actual hostilities ? the President may act militarily under his power as commander in chief of the armed forces, under Article II, Section 2 , in actual hostilities against the US w/o a congressional declaration of war. But Cong ress may limit the President under its power to enact a military appropriation every two years

treaty powers ? the treaty power is granted to the President by and with the advice and consent of the Senate, provided 2/3 of the Senators present concur.

supreme law ? all treaties which shall be made under the authority of US are the supreme law of the land. Thus, it is clear that any state action or law in conflict with a US treaty is invalid.

-no treaty has this supremacy status unless it is expressly or impliedly self-executing,

i.e. without necessity for congressional implementation

-some treaties require the signatory nations to pass legislation to effectuate their ends ? independent source of congressional power.

-assuming that an act of Congress is within its powers, a conflict between such act and a valid treaty is resolved by order of adoption

-treaties are not co-equal with CON, but they can broaden the scope of Congress?

affirmative authority.

executive agreements ? do not require the consent of the Senate ? can be on any subject as long as they do not violate the CON

Constitutional and Prudential Limits on CON adjudication

Standing to litigate ? the requisite personal interest

the P have suffered a concrete and particularized injury-in-fact that is actual or imminent ? must not be generalized injury (not shared by everyone), no third party claims, can be monetary or aesthetic

the injury is fairly traceable to the challenged action of the D

a favorable decision by the court is likely to redress the plaintiffs injury.

If a case does not meet the Article III minimum of case and controversy a federal court cannot hear the case and Congress cannot authorize the court to hear the case unless an amendment is passed.

Third party claim exceptions:

the P that is raising the claim is under a legal duty that violates the third partys rights (Dr. in an abortion case)

If failing to allow the third party claim would nullify a right itself

If it is hard for the proper party to raise the claim for themselves

Prudential considerations ? a case may meet the Article III minimum, but the court may exercise their discretion and refuse to hear a case based on prudential considerations. Congress may mandate that the court hear such a case since Article II I limits have been met.

-there is no third party standing ? can?t assert other parties rights.

exception: person not able to assert rights self ? "no use terti"

Warth v. Seldin

A plaintiff who seeks to challenge exclusionary zoning practices must allege specific concrete facts demonstrating that the challenged practices harm him, and that he personally would benefit in a tangible way from the court?s intervention.

Allen v. Wright

The links in the chain of causation between the challenged Government conduct and the asserted injury was far too weak for the chain as a whole to sustain P standing. The Court emphasizes the importance of demonstrating adequate causation by requiring that the allegedly unlawful conduct cause P injury in fact and that the injury was likely to be redressed by a favorable decision.

Lujan v. Defenders of Wildlife

A P raising only a generally available greivance about government ? claiming only harm to his and every citizen?s interest in proper application of the CON and laws, and seeking relief that no more directly and tangible benefits him than it doe s the public at large ? does not state an Article III case or controversy. Generalized grievance cases have typically involved Government violation of procedures assertedly ordained by the CON rather than the Congress.

-Scalia says citizen suit provision is unconstitutional action by Congress

Baker v. Carr

Political question doctrine. The case supposes that judges can make law out of

constitutional provisions

Bennett v. Spear

The Court says suit is alright ? only a few individuals have the same interest, rather

than a generalized grievance

Additional Barriers to adjudication: questions of timing

Mootness ? applies when a claim ceases to be a live controversy or when the parties to a suit no longer have legal interests in the outcome. The doctrine ensures that the federal courts address only issues that they can successfully resolve or re dress. Mootness requires more than merely the D cessation of the violating activity ? the D must show that the activity, for one reason or another, cannot be reasonably expected to recur.

Exceptions where if a case becomes moot, it is still capable of judicial resolution

continuing harm to P (threat of prosecution ? threat is a harm)

case is capable of continuing reoccurrence

Civil cases ? similar case arises in the future but will always evade judicial review (challenges to abortion laws)

Ripeness - timing

To figure out whether a case is judticiable:

situation of the other party who is raising the defense/claiming the right ? the situation at hand

the legal instrument invoking ? CL rule or CON provision

a. third party problems when invoking an instrument that does not apply to individual

SEPARATION OF POWERS

The carefully crafted system of enumerated powers in the CON is a checks and balances adopted to forestall excessive concentrations of power and the corruption of tyranny which such power inevitably begets. The CON contemplates an internally b alanced, self-correcting system of checks and balances on separation of powers and reservation of rights.

Marbury v. Madison 1803 MARSHALL

"There exists a universal body of principles the which the laws of men must conform. Since judges are best qualified by skill and training to find and discover this law, and since the CON precluded legislative law finding in CON cases, it follows that the proper branch to determine the legitimacy of the legislative enactments is the judiciary"

Judicial Review

Article III provides that the judicial power of the US shall extend to all cases and controversies arising under the CON, and vests that judicial power in the S/C

Article I vests in Congress all legislative powers granted by the CON

10th amendment reserves to the states or people all powers not delegated to the US

The CON clearly contemplates that the judiciary shall, in the exercise of judicial power, determine whether a particular piece of legislation is within the legislative power of the Congress, and that in making that determination the Court shall ground its decision in the CON.

INS v. Chadha 1983 BURGER

The court struck down a legislative veto proposition of the Immigration and Naturalization Act which reserved to either house of Congress the power to override the AG?s suspension of a deportation order. The Court held unconstitutional the one-hou se veto provision in the Act.

The prescription for legislative action represents the Framers decision that the

legislative power of the Federal Government be exercised in accord with a single,

finely wrought and exhaustively considered, procedure.

the Court reacting to perceived congressional aggrandizements of power by insisting upon an exceedingly strict adherence to the divisions of functions between the 3 branches set by the CON.

Congress could not condition agency actions on the subsequent approval of the legislature alone. The CON requirements of bicamerality and presentment to the President reflect "the Framers" decision that the legislative power o f the Federal Government to be exercised in accord with a single, finely wrought and exhaustively considered, procedure.

These provisions expressly mandate both bicamerality (passage by majority of both houses) and presentment to the President for possible veto, not simply when Congress purports to be legislating but whenever it takes actions that must be regarded as legislative. Because the congressional veto was legislative action not conforming with presentments clause, it was unconstitutional. More importantly, it interfered with an executive branch decision to execute immigration laws.

Dissent ? WHITE: This case resolved that the Article II mandate for the President to execute the law is a directive to enforce the law which Congress has written. Under this amenment, as long as Congress does not interfere with or encroach upon the CON powers of the executive, Congress may condition its delegation s of power through the legislative veto device.

Bowsher v. Synar ? Burger 1986

The Court?s exploration of how to characterize government agency officers and the permissible extent of congressional control over officers performing executive functions. The court again adopted a formalistic approach, striking down the central provis ion of the Balanced Budget and Emergency Deficit Control act of 1985. The Court invalidated the Comptroller Generals power to shape budget deficit reduction plans.The Court forbade an officer removable by Congress to perform executive functions.

-The CH is nominated by the President from a list of candidates complied by the

Speaker of the House and the President of the Senate. The nomination is then

confirmed by the Senate.

The Court held that the Act violated the principle of separation of powers by assigning executive powers to a legislative agent (Comptroller General), thus impermissibly allowing Congress to retain control over the executio n of the Act.

The CG post and the General Accounting office he directs were established by an Act. The Act vests the CG with authority to investigate the receipt and disbursement of public funds and to settle and adjust all claims and accounts of the federal gover nment. The CG is appointed by the President subject to senatorial approval and is removable by Congress for statutorily specified cause.

The Act was found to be unconstitutional, violating the constitutionally mandated separation of powers by vesting executive powers in an officer removable by Congress. To permit Congress to reserve for itself the power of removal of an officer charge d with the execution of the laws would, in practical terms, reserve in Congress control over the execution of laws. Congress therefore controls the CG and, as a legislative officer, the CG may not execute the law.

Chadha ? the removal power would operate as a "congressional veto" permitting Congress to remove the CG if he executed the laws in ways that Congress found unsatisfactory.

The CG is subservient to Congress because the removal provision of the Act creating the CG office is sufficiently vague and broad to allow removal for any number of actual or perceived transgressions of the legislative will. The CG is subject to cong ressional pressure because historically he has considered himself an agent of Congress.

the Court equated removal power with control of an officer for separation to power purposes ? once an officer is appointed, it is only the authority that can remove him, and that the authority who appointed him, that he must fear and, in the performan ce

of his functions, obey.

The Court labeled the CG an executive actor in spite of the genesis and intended function of his office. His duties under the Act, in the Court?s view, constituted the very essence of the execution of the law, and the power to remove an officer so ch arged with the execution of the law could not be reserved for Congress. A government constituted under separation of powers principles denies the legislative branch active control over the executive branch that such power of removal implies.

STEVENS: concurring ? By delegating its budget-cutting power to one of its agents, Congress had evaded the constitutionally mandated procedures for formulating national policy that had been articulated in Chadha. Because Congress could perform this function only through a joint resolution, it could not authorize a "lesser representative" ho was not subject to similar constraints to do so.

WHITE: dissent ? Because the removal power is substantively limited, and because the veto power secures for the President a principle role in the removal process, the CG cannot realistically be considered a mere pawn through which Congress cold usurp the executive branch?s functions.

BLACKMUN: dissent ? A functional separation of powers analysis that examines a particular arrangement in terms of how it contributes to or detracts from the maintenance of these desirable tensions among the three branches best reflects the separation of powers concept. Tribe ? interdependence, not functional independence, underlies the separation of powers concept.

Youngstown Sheet & Tube Co. v. Sawyer 1952

Jackson: concur - There are three situations in which the S/C might be called upon to officiate between the two political branches and concluded that when there was a direct conflict, any actual test of power is likely to depend on the imperatives of events and contemporary imponderables

COMMERCE CLAUSE

To see if a commerce clause question:

If Congress has acted, does it have the power it claims? Check for intended purposes of federal statute.

Rational basis test ? Modern CC ? permits federal regulation of any activity that Congress reasonably concludes has a substantial effect on interstate commerce.

Gibbons v. Ogden 1824 MARSHALL

The Court held that the state cannot regulate commerce among the states, while Congress is regulating it.

Marshall gave an expansive meaning to "commerce" defining it as every species of commercial intercourse which concern more states than one

Congress, pursuant to the CC, had enacted a constitutionally valid law, regulating the same subject matter as the NY act, and that therefore the federal act controlled under the supremacy clause

Marshall appears to have believed that the state and federal governments possessed very different powers over interstate commerce. When each government (state and federal) exercise a power, neither is exercising the power of the other. But, when a S tate proceeds to regulate commerce among the several states, it is exercising the very power that is granted to Congress, and is doing the very thing which Congress is authorized to do.

Following Gibbons, the Court developed a view of the CC which contrasted greatly with Marshall?s view. For example, the court narrowly interpreted the CC by distinguishing commerce form "mining" and "manufacturing" an d refused to allow Congress to regulate the latter activities, even if those activities products subsequently entered interstate commerce. According to the Court, these activities were inherently local in nature and protected by the 10th amend ment.

US v. Lopez 1995 GARWOOD

Federal laws prohibiting firearm possession all require the government to prove connection to commerce. The legislative history of the Gun-Free School Zones Act makes no mention of the impact on commerce of firearms in school, and thus, unlike prior g un control acts, fails to honor the traditional division of functions between the states and the federal government.

Unconstitutional extension of congressional power under the CC.

Under our federal system of government, the framework w/in which Congress may legislate is defined by the powers granted to congress and enumerated in the CON. Although the CON allows for a strong national government, it nonetheless reserves for the states those powers not delegated to Congress.

Although the 10th amendment does not define the limits of the CC power, it assumes that the reach of that power is not unlimited.

Congress intended to make the possession of a firearm near a school a federal crime, but it has not shown that such an exercise of power is within the CC.

The Court did not attempt to define the boundary between the states? sovereignty and the federal commerce power; rather the court opined, the states and the people must rely on their representatives in Congress to draw the line fairly. ? political pro cess. The court agrees with Garcia view that Congress can be trusted with defining the boundary between the 10th amendment and the CC.

United States v. Bass ? relying on this case, the court refused to interpret the statute to cover the mere possession of firearms with no connection to commerce because Congress did not clearly state its intention to change the federal-s tate balance.

Since the beginning of CC expansion during the New Deal Era, the courts have consistently relied on congressional findings, legislative history, and the wording of statutes themselves to determine whether Congress had a rational basis for finding a com merce nexus.

congressional regulation for the public welfare

Champion v. Ames (Lottery Case) 1903 ? Harlan

Regardless of its motives for doing so, Congress may regulate any article being transported interstate. The CC delegates complete control to the federal government over the facilities of inter state commerce

Congress must have the power to protect public morals and health in situations in which the states can not. (Harlan disapproved of lotteries)

Gibbons ? if Congress exceeded the scope of powers granted to it, the courts had a duty to invalidate the statute. However, if Congress acted within its power but the action was unwise or injurious, the political process would take over< /LI>

Hipolite Egg Co. v. US; Hoke v. US;

regulation and the national economy

NLRB v. Jones & Laughlin Steel 1937

The court sustained the National Labor Relations Act, claiming it constitutional as applied.

Congressional power is plenary and may be exerted to protect interstate commerce no matter what the source o f the dangers which threatens it. The Court abandoned the distinction between national commerce and local commerce. Although activities may be intrastate, if they have such a close and substantial relation to interstate commerce that their control is essential or appropriate to protect that commerce from burdens or obstructions, Congress cannot be denied the power to exercise th at control.

The CC gave Congress the power to protect interstate commerce from burdens and obstructions whenever they might arise. The Commerce power, therefore, can support congressional control over intrastate activities if the purpose is to protect and facili tate interstate commerce.

The stoppage of Jones & Laughlin?s activities due to labor unrest would have an immediate and perhaps catastrophic effect on interstate commerce

Carter v. Carter Coal Co

Since Jones, the Court has deferred to Congress?s express or implied findings that regulated activities have a substantial economic effect whenever Congress has a rational basis for such findings.

US v. Darby 1941

All aspects of the Fair Labor Standards Act were properly within the scope of the commerce power. The Court rejected the view of the 10th Amendment as an independent restriction on congressional power.

Overruled Hammer stating that employers with lower labor standards possess an unfair advantage in interstate competition, and only the national government can deal with the problem.

Congress may regulate any article which is transported interstate and may exercise that power by choosing any means reasonably adapted to achieving that end. Complete prohibition of production under substandard working conditions was a means reasonab ly adapted to keeping article produced under substandard conditions out of interstate commerce.

The manufacture of goods under nonconforming conditions was detrimental to the interstate commerce of goods manufactured under better conditions ? the Act is thus directed at the suppression of a method or kind of competition in intersta te commerce which it has in effect condemned as unfair.

Jones ? the FLSA regulated activities had a substantial effect on interstate commerce and therefore, was constitutional.

Wickard v. Filburn 1942

There was sufficient evidence for Congress to conclude that home consumed wheat substantially influenced price and market conditions by competing with wheat in commerce. Congress has the power to regulate local activity if, taken as a class and in the aggregate, such activities substantially affect interstate commerce.

broad interpretation of the CC

The distinction between direct and indirect economic effects was discarded in favor of the substantial effect on interstate commerce standard.

The Court admitted that the wheat was trivial by itself but the aggregate effect of home-consumed wheat was far from trivial.

Even though the AAA regulated a purely intrastate activity, Congress could CON reach that local activity because the separate states were incompetent to protect the wheat supply

Jones & Laughlin; Darby ? congress may regulate any activity having a substantial effect on interstate commerce.

Gibbons ? Marshall intended for power under the CC to be absolute w/in its sphere, subject only to the CON affirmative prohibitions on the exercise of federal authority. The Court relied on the expansive interpretation of the CC in Gibb ons to hold that federal power under the CC is plenary.

After 1945, the Court had provided Congress with 2 broad CC interpretations:

Based on the holdings of Champion, Hipolite, and Hoke ? Congress could regulate any article being transported interstate

Based on the holdings of Jones & Laughlin, Darby, and Wickard ? Congress could regulate any activity that had a substantial effect on interstate commerce or the national economy. The only limitation was that the means employed must b e reasonably related to the congressional objective.

regulation for local welfare

Heart of Atlanta Motel v. US 1964

Every aspect of the Civil Rights Act was within congressional commerce power, giving Congress virtually unlimited power to regulate activity under the CC. Interstate commerce was affected by the motel?s discriminatory policies.

Civil Rights Act of 1964 ? racial discrimination

While the commerce power was being pushed to the extreme, the Court implicitly limited its deference to Congress by requiring findings or legislative history indicating a nexus between the regulated activity and interstate commerce ? blacks were unabl e to obtain lodging when traveled nationwide and that discriminatory practices impaired and discouraged travel by blacks.

Katzenbach ? congressional legislation, after Darby, was no longer restricted to the commercial sphere ? it was applied to Civil Rights.

Perez v. US 1971

There was a rational basis for the congressional finding that loan sharking had a substantial effect on interstate commerce.

In regulating a class of activities, Congress should consider the aggregate effect on interstate commerce

Congress used commerce power to bring certain local crimes within the jurisdiction of federal law enforcement agencies.

STEWART: dissent ? all criminal activity when aggregated affects interstate commerce. The Framers did not intend the CC to empower the national government to enact federal criminal laws over purely local matters.

Test for determining the constitutionality of federal regulation enacted as an exercise of the commerce power:

when Congress determines that an activity affects interstate commerce, the only limitation on its regulatory power is that there be a rational basis for that finding.

if there is a rational basis, the court then inquires whether the means are reasonably adapted to the permitted end.

As a practical matter, the rational basis test, in combination with the aggregate effect principle, brings all activities within the scope of the commerce power.

the national league of cities

The National League of Cities v. Usery

The Congress adopted the position that the 10th amendment operated as an independent bar to congressional regulation of states and their political subdivisions.

The amendment, insofar as it regulated the states as states and displaced the states? freedom to structure traditional government operations, was beyond the scope of Congress? commerce power.

Congressional regulations cannot operate to directly displace the States? freedom to structure integral operation in the areas of traditional governmental functions

In Hodel, in order to succeed, a claim that congressional commerce power legislation is invalid under the reasoning in National League, it must satisfy each of three requirements:

there must be a showing that the challenged statute regulates "states as states"

the federal regulation must address matters that are indisputably attributes of state sovereignty

it must be apparent that the States? compliance with the federal law would directly impair their ability to structure integral operations in areas of traditional governmetn functions

overruled by Garcia v. San Antonio in 1985

DORMANT CC:

The S/C has used the dormant CC to invalidate a myriad of state regulations affecting interstate commerce. Despite the extension of the commerce power, Congress has left numerous areas free from federal statutory regulation. The grant of power to Congress enables Congress to override state regulation of interstate commerce, and if necessary, to preempt state regulation of commerce under the supremacy clause. Absent such affirmative congressional action, the states are free to regulate interstate commerce.

The CC in its dormant state is thought to invalidate state regulation, although it is accepted that Congress may choose to overrule the judicial invalidation of a particular state regulation by statutorily authorizing it

Pike v. Bruce Church ? Although Congress has failed to enact legislation preempting state commerce regulation, the S/C nevertheless has invalidated state regulation as a violation of the CC.

Southern Pacific v. Arizona ? Congress has undoubted power to permit the states to regulate the commerce in a manner which would otherwise not be permissible. The states could neither impede the "free flow" of commerce nor regulate elements of interstate commerce requiring national uniformity.

Maine v. Taylor ? State statute banning importation of baitfish upheld as serving legitimate local purpose of preventing parasitic infection of native fish.

South-Central Timber ? state statute requiring timber from state lands to be partially processed in-state unconstitutionally burdened commerce.

Garcia v. San Antonio Metropolitan Transit Authority Blackmun

The 10th amendment was no longer an independent limitation on federal regulation to state activity. The only limit on the federal commerce power is found in the procedural safeguards of the political process provided through state participa tion in federal governmental action.

State immunity from federal regulation based on a judicial determination of traditional or integral functions would stifle state legislative experimentation and evolution of policy because innovation might comprise intergovernmental immunity.

The attempt in National League to draw the boundaries of state regulatory immunity in terms of traditional government function is unworkable

Departed from traditional CON interpretation when it declared the political system a primary restraint on federal power.

The political process was a built-in restraint on Congress, but nowhere in the CON was the power of the people invoked to restrict the exercise of congressional power. Instead, the built-in restraint is the CON separation of powers.

The court relied on the states? political influence in Congress to justify the effective exclusion of judicial review in interfederal constitutional disputes

Blackmun cited 2 reasons for overruling National League:

The "traditional governmental function test" adopted by the court, whereby the Court attempted to define substantively areas traditionally controlled by the states, was too difficult to apply

More importantly, the test was inconsistent with established principles of federalism and had no CON basis.

Dissent ? O?Connor: predicted the revitalization of the 10th amendment ? she authored the opinion in NY v. US which reinstated the 10th amendment as a substantive limit on congressional power to regulate interstate commerce

New York v. United States 1992 O?CONNOR

The 10th amendment confirms that the power of the Federal government is subject to limits that may, in a given instance, reserve the power to the states.

an attempt to reconcile post-New Deal concepts of national power with the existence of legal limitation on that power derived from federalism

The scope of the federal government?s authority with respect to the states has changed over years, but the constitutional structure underlying and limiting that authority has not.

Garcia seemed to remove the Court altogether from the business of protecting state autonomy. The Courts decision in NY , which established that there are at least some means that are unavailable to Congress to exert control over state governments, may limit the sweeping breadth of Garcia, even if there are no tradidional functions reserved wholly to the states.

ability to provide for local diversity

Kassel v. Consolidated Freightways Corp 1980

The law substantially burdened interstate commerce without significantly increasing safety.

The burden on commerce was not outweighed by the significance of he counterveiling state interest

Brennan ? concur ? the statute was not motivated by safety concerns at all; the actual purpose was protectionist and per se unconstitutional.

Barnwell Brothers ? some issues are best left to state determinations.

Bibb v. Navajo Freight Lines 1959

The court can invalidate a state regulation as a violation of the CC even though Congress has failed to enact legislation preempting state commerce regulation

The Court has done so when it has found that such regulation either discriminates against out-of-state interests or unduly burdens the free flow of commerce among the states.

The statute was invalid under the dormant CC, noting that the state did not attempt to rebut the showing that the statute in question severely burdens interstate commerce despite the fact that the statute was clearly nondiscriminatory

1995 Lopez

1937

1922 Stafford

1914 Shreeveport

1905 Swift & Co.

1899 Addison

1895 E.C. Knight

1824 Gibbons

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10

Narrow Broad (most leeway)

PRIVILEGES AND IMMUNITIES CLAUSE

The Citizens of each State shall be entitled to all P & I of Citizens in the several States.

The P & I Clause was designed to promote interstate harmony and cooperation in order to prevent the dissolution of the Union. Each state was to be constitutionally prohibited from placing out-of-state citizens at a disadvantage.

United Bldg. & Constr. Trades v. Mayor of Camden 1984 Rehnquist

The P & I Clause imposes a direct restraint on state action in the interests of interstate harmony.

The CC acts as an implied restraint upon state regulatory powers. Such powers must give way before the superior authority of Congress to legislate on (or leave unregulated) matters involving interstate commerce. The P & I Clause i mposes a direct restraint on state action in the interests of interstate harmony. It is discrimination against out-of-state residents on matters of fundamental concern which triggers the Clause, not regulation affecting interstate commerce.

the constitutional exercise of federal police power

Since 1937, Congress has exercised its power over interstate commerce to promote and protect the public health, welfare, and morality. The S/C has held that as long as such regulations of commerce do not infringe upon any CON prohibitions, they are wit hin Congress? commerce power, regardless of their motive or purpose.

US v. Darby 1941

EXECUTIVE PRIVILEGE

Executive Privilege can be defined broadly as the presidential prerogative to withhold information or records from either Congress or the judiciary. The doctrine allows the President acting in the public interest, the discretion to withhold informatio n acquired through or necessary to the faithful execution of the law. Executive privilege becomes a tool for cutting off congressional inquiry into issues over which the legislative and executive departments disagree.

A reading of Article II reveals no explicit reference to authority vested in the chief executive to withhold or protect information which accrues through the performance of his duties.

CON justification for executive privilege relies upon separation of powers theory which accords each of the three branches of government supremacy within its assigned province, free from interference by either of the other two branches.

US v Nixon 1974

The Court upheld the fragmentation of authority over a pending prosecution within the executive, rejecting the Presidents claim that he possessed exclusive CON authority to decide whether governmental evidence needed in a pending prosecution should be supplied

Stands for the proposition that appropriate exceptions to plenary executive branch control of prosecution can be crafted, at least in situations presenting disabling conflicts of interest

Separation of powers theory insulates the President from being compelled to disclose confidential communications between himself and his advisors and subordinates.

The presumptive privilege can be overborne by more important, competing CON values such as the integrity of the judicial system, the due process rights of the criminally indicted, and first amendment rights of speech and assembly.

Nixon v. Fitzgerald 1982

Immunity from damages liability is a functionally mandated incident of the presidency. The President, judges, and prosecutors enjoy absolute immunity from tort damages for actions within the scope of their official responsibility

The President is entitled to absolute immunity from civil claims predicated on his official acts, while presidential advisors are entitled only to qualified immunity. Absolute presidential immunity rests upon the President?s unique CON status, disti nct from that of other executive branch officials, and the wide-ranging, broad-impact decision-making responsibilities the President exercises.

INDEPENDENT COUNSEL AND THE CONSTITUTION 独立検察官と憲法

The Act directs the AG to conduct a preliminary investigation upon receipt of information sufficient to constitute grounds to investigate whether a covered official has committed a serious federal crime. If the AG determi nes that there are reasonable grounds to belirve that further investigation is warranted, she must apply to a Special Division of the Court, which consists of three judges, one of whom must be from the DC Circuit Court of Appeals, for the appointment of i ndependent counsel. If she concluded that there are no reasonable grounds to warrant further investigation, she so notifies the Special Division and no appointment can be made. The AG may remove the counsel for "good cause" and the Special Div ision may terminate the office on grounds that the investigation has been substantially completed. Judicial review of the AG decision not to conduct a preliminary investigation is barred. Although the Special Division may not overrule the AG determination , it may return the matter to the AG for further explanation of the reasons for such determination.

Appointments clause ? authorizes the appointment of unspecified inferior Officers by the President alone, the heads of departments, or courts Because the Act calls for judicial appointment of independent counsel, controversy surrounds whether they are inferior officers in the CON sense.

-The S/C has held that inferior officers include any officers inferior to those

specifically mentioned in Article II as requiring nomination by the President and

confirmation by the senate. The IC is not listed in Article II and is inferior to the

AG

The problem lies in the dual nature of the Atty. Generals role. On the one hand, she is the nation?s chief law enforcement officer, expected to investigate and prosecute federal crimes dispassionately. On the other, as the administration?s highest r anking legal advisor, she is ordinarily a political and personal confidant of the President and his circle, providing advice on both law and policy.

Prosecution is traditionally classified as an executive function and therefore within the executive power that Article II vests in the President. The CON command that the President take care that the laws be faithfully executed has been thought to pl ace supervision of prosecution at the very core of executive power. A powerful reason for allocating prosecution to the executive lies in the purposes of the scheme of separation of powers: tyranny might ensue if legislators could both define and prosecu te crime, or if judges could both charge and adjudicate guilt.

The IC is an independent prosecutorial officer whose sole function is to investigate and, if necessary, prosecute alleged illegalities perptrated by high government officials.

The statute has three mechanisms to guarantee the independence of IC. First, a court selects the individuals who serve as IC. Second, the scope of the IC inquiries is defined by the court and the conduct of their investigation is placed outside the direct control of the DOJ. Finally, IC, unlike most other executive branch officials, are removable from office only for good cause and not at the President?s will.

Opponents of the independent counsel often imply that prosecutorial discretion is ordinarily exercised under highly centralized control in the executive branch. 1) the Act deeply invades the core executive responsibilities. It usurps the Presidents p lenary power to faithfully execute the law of the land, because it places unfettered prosecutorial power in an officer who need not answer to the President or subsequently to the public. 2) the statutory requirement that the IC be appointed by a special p anel of judges violates the Presidents power to appoint federal officials. 3) the provision providing for removal of the IC by the AG "for good cause" is an unconstitutional prescription on the Presidents; unlimited power to remove executive off icials.

The court?s power to appoint and define inquiries of IC is a minimal intrusion into the executive?s law enforcement authority, especially when compared to the powers retained by the executive branch under the IC law. Only the AG can request appointme nt of an IC. The court cannot appoint one without such a request and the AG decision in this matter is final and unreviewable by any court or legislative body. Thus, there can be no IC unless the executive branch determines there is a need for one.

Neither the courts or Congress may control or influence the IC?s exercise of discretion once an appointment is made. Thus, the IC is a truly independent entity. No branch of government loses power which is CON committed to it, and all gain by confide nce that a fair policing of the conduct of the highest officials will occur.

Morrison v. Olson 1988

The Act that was found unconstitutional provides for the appointment of "special prosecutors" independent of the Justice Department to investigate and prosecute serious crimes committed by high officials in the executive branch.

if the appointment of inferior officers were not restricted to their own branch, no principle limits could be stated, so that the court could not be authorized to appoint the Secretary of State

The IC was an inferior officer whose appointment could properly be invested in the judiciary. Thus, the IC appointment provisions did not violate the appointments clause.

HOW THOSE WHO SEEK TO DERAIL IC BENEFIT FROM THESE CASES:

Chadha ? Congress may only oversee or influence executive action by passing legislation. Executive officials are otherwise free to carry out the law in keeping with their judgment about what the law in question requires.

Bowsher ? the CON does not contemplate an active role for Congress to execute the laws; it follows that Congress cannot grant to an officer under its control what it does not possess.

-presents the model of separation of powers more accepted by those who seek to do

away with the IC: the fundamental necessity of maintaining each of the three general

departments of government entirely free for the control or coercive influence, direct or

indirect, of either of the others has often been stressed and is hardly open for serious

question.

The Court has made it clear that a complete separation of powers is CON required. Going to court to prosecute alleged criminal wrongdoing is an executive function, at the core of Article II responsibilities. Because Congress has sought to alter the t raditional role of AG in deciding when and whether to go to court, the Act provision for the IC violates the separation of powers doctrine. Both Congress and the courts would be usurping executive power; the courts in appointing the IC and Congress in pl acing restraints on the AG prosecutorial discretion and in conditioning the IC removability.

Problem with analysis: The Framers did not intend complete or absolute separation. The absence of an explicit textual rule requiring complete separation is harmonious with the Framers efforts to insert a system of checks and balances. The IC mechani sm is different from legislative veto and congressional removability of CG in one fundamental respect: Congress does not control the IC.

JUSTICIABILITY

Whether justiciability exists has most often turned on evaluating both the appropriateness of the issues for decision by courts and the hardship of denying judicial relief

Specific categories:

Standing ? Standing focuses on the interest of the party who brings the action. For federal courts, the parameters of standing are derived from Article III of the CON. While Article III does not contain explicit "standing" requirements, that requirement has been defined through the S/C interpretation of Article III?s case or controversy. Lack of standing defeats jurisdiction, even though the issues tendered clearly would be justiciable in an action by a more directly affected plaintiff . Standing questions have two parts: constitutional requirements and prudential requirements.

The elements of standing from the case or controversy requirement are:

P have suffered a concrete and particularized injury-in-fact that is actual or imminent

injury is fairly traceable to the challenged action of D

a favorable decision by the court is likely to redress the P injuries.

Constitutional element: without an injury in fact, there is not case or controversy and hence no federal court jurisdiction. In order to have a personal stake in the question, the prospective P must be among those affected by the action. A g eneralized interest in a topic, no matter how strong, cannot suffice for standing without injury. An injury in fact to the P provides the minimum indicia of Article III standing. Nevertheless, the S/C has enumerated prudential limitations on standing wh ich Congress may eliminate by legislatively granting standing.

Prudential element: designed to meet the needs of the judiciary itself. Through the prudential inquiry, the court determines whether the party is the appropriate one to assert the substantive issue. Standing will be denied prudentially if th e injury is a generalized grievance, if the P is asserting the rights of third parties, or the injury is not within the "zone of interest" of the "relevant statute"

Some rulings reflect a refusal to exercise the judicial power even in cases within the reach of Article III, invoking prudential principles for wise administration of the power.

Certain issues are not appropriate for judicial resolution. The reluctance for courts to engage themselves in the resolution of such issues stems in part from the restriction on judicial power to cases and controversies and in part from policy conside rations.

Types of plaintiffs seeking judicial review: Statutory and nonstatutory review

those with complaints analogous to a CL cause of action

those granted the right of appeal by being among the parties classified as "aggrieved" within the particular statute

Injury ? The S/C has rooted its Article II jurisprudence firmly in the particualrized injury standard ? it is the bedrock principle of modern standing law, an essential element of case or controversy. Determining injury is not a straight-forwa rd factual inquiry. It is based on a normative judgment about what ought to constitute a judicially cognizable injury in the particular context.

-does not have to be economic; it can also include damage to P aesthetic or

environmental well being.

-characterizing an injury either broadly or narrowly may manipulate the causation

and redressability requirements to reach a seemingly sensible result

linguistically

Redressability ? if court action is not likely to redress the P individual injuries (that is, injury that goes beyond harm to the general public), then the P have lost a personal stake in the outcome of the case, and the case becomes moot

Standing includes the questions of:

advisory opinions

mootness

ripeness ? developed to identify appropriate occasions for judicial action

political question - separation of powers ?

Mootness ? integrally related to standing; mootness is the doctrine of standing set in a time frame. The requisite personal interest that must exist at the commencement of litigation (standing) must continue throughout its existence (mootness) . Ensures that the federal courts address only issues that they can successfully resolve or redress.

Ripeness ? its basic rationale is to prevent the courts, through avoidance of premature adjudication, from entangling themselves in abstract disagreements over adminsitrative policies, and also to protect the agencies from judicial interference until an adminstrative decision has been formalized and its efffects felt in a concrete way by challenging parties.

Exception: capable of repetition yet evading review

In determining whether an action is ripe for judicial review, must inquire: the evaluation of "both fitness of the issues for judicial decision and the hardship to the parties of withholding court considerations

Justiciability and its various catagories mean that a court will not decide a question unless the nature of the action challenged, the kind of injury inflicted, and the relationship between the parties are such that judicial determination is consonan t with what was, generally speaking the business of the courts ? the jurisdiction of federal courts can be invoked only under circumstances which constitute a "case or controversy"

Case or controversy:

controversy ? a justiciable controversy must be one that is appropriate for judicial determination ? distinguished from a difference or dispute or a hypothetical or abstract character; from one that is academic or moot. The controversy mus t be definite and concrete, touching the legal relations of the parties having adverse legal interests. It must be a real and substantial controversy admitting of specific relirf through a decree of conclusive character, as distinguished from an opinion advising what the law would be upon a hypothetical state of facts. Where there is such a concrete case admitting of an immediate and definitive determination of the legal rights of the parties in an adversary proceeding upon the facts alleged, the judici al function may be appropriately exercised through the adjudication of the rights of the litigants may not require the award of process or the payment of damages.

Justiciability identifies appropriate occasions for judicial action, both as a matter of defining the limits of the judicial power created by Article III of the CON and as a matter of justifying refusals to exercise the power even in cases w/in reach of Article III. Whether jusiticiability exists has most often turned on evaluating both the appropriateness of the issues for decision by courts and the hardship of denying judicial relief.

-Concern with the appropriateness of the issues for decision is most obviously

reflected in doctrines defining political and administrative questions. The same

concern also affects decisions on standing, ripeness, mootness, and political

question.

The judicial power of the federal courts is constitutionally restricted to "cases and controversies." Those words limit the business of federal courts to questions presented in an adversary context and in a form historically viewed as c apable of resolution through the judicial process. The also define the role assigned to the judiciary in a tripartate allocation of power to assure that the federal courts will not intrude into areas committed to the other branches of government.

Justiciability rulings often are attributed to the limits on judicial power created by Article III of the CON, reflecting the premise that this power is not an unconditioned authority to determine the constitutionality of legislative or executive acts .

Other rulings reflect a refusal to exercise the judicial power even in cases w/in reach of Article III, invoking prudential principles for wise administration of the power.

Most of the concern with limiting judicial power through justiciability concepts arises from the role of courts in determining the CON of congressional action or the legality of executive action.

-Marbury: the justification for judicial review is that it arises from the duty of a court to determine the law applicable to a case properly before it for decision.

Standing and citizen suits:

Requiring a P to show injury in fact to obtain standing could have a very restrictive effect on citizen access to the courts, depending on what types of interests are recognized as capable of being injured in fact.

Lujan ? Prior to Lujan, although the Court had recognized that Article III imposed a barrier on Congress? power to create standing, it had not required the showing of an injury other than a violation of the statute containing the citizen suit provision.

Terry Campbell v. Louisiana 1988 KENNEDY

Issue: Whether a white criminal D has standing to object to discrimination against black persons in the selection of grand jurors?

Held: The Court finds that he has the requisite standing to raise equal protection and due process claims.

PH: A grand jury indicted P on count of second degree murder of another white man. P filed to quash the indictment on the grounds the grand jury was constituted in violation of his equal protection and due process rights under the 14th amendment and in violation of the 6th amendment fair-cross section requirement. Evidence of racial discrimination is that from 1976-1993 no black person served as a grand jury foreperson in the town, even though more than 20% of registered voters were black. The trial judged denied P motion stating that he lacked standing to complain where are the forepersons were white. P was then convicted and he renewed his challenge to the grand jury foreperson selection procedures in a motion for a n ew trial, which was denied. The Court of Appeals reversed stating P had standing and remanded. The LA S/C reversed holding that the role of the grand jury foreman in LA appears to be ministerial such that any discrimination has little, if any, effect on the D due process right of fundamental fairness.

D claims that the discrimination shapes the composition of the jury itself; it is more than a simple discrimination claim. In the federal system, the foreperson is from the existing jurors without any change to the grand juries composition. In LA, t he judge selects the foreperson form the grand jury venire before the remaining members of the grand jury have been chosen by lot. As a result, when the judge selected the foreperson, he also selected one member of the grand jury outside of the drawing s ystem used to compose the balance of the body.

In Powers v. Ohio a white D was found to have standing to challenge racial discrimination against black persons in the use of preemptory challenges.

In order to assert rights of a third-party for own standing:

The D suffered an "injury in fact"

he had a close relationship with excluded jurors

there was some hindrance to the excluded jurors asserting their own rights

Injury - Discrimination at the jury selection phase casts doubt on the integrity of the judicial process and places the fairness of a criminal proceeding in doubt.

-strikes at the fundamental values of judicial system because the grand jury is a central

component of the criminal justice process

-The grand Jury acts as a vital check against the wrongful exercise of power by the

state and its prosecutors

If the process is tainted by discrimination, doubt is cast over the fairness of all subsequent decisions

Relationship ? a common interest in eliminating discrimination

-and because conviction may be overturned

Hindrance ? because of the cost/benefit, a juror dismissed because of race will probably leave the courtroom with no incentive to vindicate own rights.

6) Due Process ? A D has standing to litigate whether his conviction was procured by means or procedures which contravene due process.

The D suggests that there is no harm when a single grand juror is selected based on racial prejudice because the discrimination is invisible to the grand jurors on the panel.

-counter: the impartiality of the judge would be called into question

The D says that there is no connection to the excluded class of jurors

-counter: P intends to prove exclusion, not to assert the third-party rights

Dissent in part/concur in part: THOMAS & SCALIA

Powers third-party doctrines was misguided - how can the rights of blacks excluded form jury service be vindicated by letting a white murder go free? In addition, the doctrine does not apply to the case at bar. The court, in recognizin g that the D could not claim that his own equal protection rights had been denied, held that the D had standing to assert the equal protection rights of venirement excluded from the jury ? the three criteria for standing had been met.

-using Powers is a misguided effort to remedy a general societal wrong by using the

CON to regulate the traditionally discretionary exercise of preemptory challenges.

-rather than helping to ensure the fairness of criminal trials, serves only to undercut that

fairness by emphasizing the rights of excluded jurors at the expense of the traditional

protections accorded criminal D of all races

Injury in fact: failure to demonstrate that the alleged discrimination had any effect on the outcome of the trial. Although the court held that the D suffered a cognizable injury because racial discrimination in jury selection casts doubt on the inte grity of the judicial process, there was no injury in fact. Additionally, there is no reason why a violation of third party rights to serve on a jury should be grounds for reversal when other third party rights are not.

Close relationship: There is no close relationship between a white defendant and black veniremen. Whether black venirement wish to serve on a particular jury, they do not share the white D interest in obtaining reversal of his conviction. The court fails to identify the specific rights holders.

Hindrances: Cost is insufficient to justify third party standing.

The cases use to support the majority are factually different then the facts here. Even if discriminatory, the judge selection of a single member of the grand jury could hardly constitute an "overt wrong" that would effect the remainder of t he grand jury proceedings.

Lujan v. Defenders of Wildlife 1992 SCALIA

In Lujan, the Court for the first time analyzed congressionally imposed standing in light of the separation of powers doctrine and determined that it was beyond Congress?s power to create sweeping citizen suit provisions that granted standing to the pu blic at large. The case dealt with access to the judiciary for review of agency action.

-the mood of the court was to decrease access to the judiciary. The Court believes that

a judge should not freely make law but should allow the politically accountable

legislature and executive to handle majoritarian interests ? restricting standing may

enforce not only the idea of separation of powers, but also sovereign immunity . It may

also implicate the nondelegation duties.

Issue: Whether respondents here, plaintiffs below, have standing to seek judicial review of the rule(standing)? Whether there was a final agency action subject to review (ripeness)?

Held: (1) P did not assert sufficiently imminent injury to have standing, and (2) P claimed injury was not redressable

-respondents did not demonstrate that they suffered injury in fact. Assuming they

established that funded activities abroad threatened certain species, they failed to show

that one or more of their members would thereby be directly affected apart from the

members special interest in the subject.

-an intent to revisit project sites at some indefinite future time, at which time they will

presumably be denied the opportunity to observe endangered animals, do not suffice,

for they do not demonstrate an imminent injury.

Justice Scalia insisted on a clear and unequivocal injury in fact that would distinguish P and thus prove that judicial intervention on their behalf was justified. This requires a showing that the P were harmed more than the rest of us thus en abling a basis for concern that the majority is supressing or ingnoring the rights of a minority that wants protection. Scalia also took the APA reference to an "agency action" as a precursor to judicial review and elevated it to the point tha t agency action now presents an overriding requirement of particularity that must be met before a court can intervene.

PH: The case involves a challenge to a rule promulgated by the Sec. of the Interior interpreting ?7 of the Endangered Species Act in such fashion as to render it applicable only to actions w/in the US or on the high seas. The Court of appeals erred in holding that respondents had standing on the grounds that the statute?s citizen-suit provision confers on all persons the right to file suit to challenge a secretary?s failure to follow the proper consultative procedure.

As to the parties invoking federal jurisdiction, respondents bear the burden of showing standing by establishing that they have suffered injury in fact, i.e. a concrete and particularized, actual or imminent invasion, of a legally protected interest. To survive summary judgment motion, they must set forth by affidavit or other evidence specific facts to support their claim. Standing is particularly difficult to show here, since third parties, rather then the respondents, are the object of the Gov ernment action or inaction to which respondent objects.

-The impact on P is plainly undifferentiated and common to all members of the public

Whether the public interest in proper administration of the laws can be converted into an individual right by a statute that denominates it as such, and that permits all citizens, who suffer not distinctive/concrete harm, to sue.

-when Congress passes an Act empowering administrative agencies to carry on

governmental activities, the power of those agencies is circumscribed by the authority

granted. This permits the courts to participate in law enforcement entrusted to

administrative bodies only to the extent necessary to protect justiciable individual rights

against administrative action fairly beyond granted powers.

Case or Controversy ? A P claiming only a generally available grievance about government, unconnected with a threatened concrete interest of his own, does not state an Article III case or controversy.

Separation of powers: Vindicating the public interest is the function of the Congress and Chief Executive. To allow that interest to be converted into an individual right by a statute denominating it as such and permitting all citizens to sue, regardless of whether they suffered any concrete injury, would authorize Congress to transfer from the President to the courts the Chief Executive?s most important constitutional duty to "take care that the Laws be faithfully executed" Article II, ?3.

-The CON central mechanism of separation of powers depends largely upon common

understanding of what activities are appropriate to legislatures, to executives and

courts

-Article III refers to cases and controversies that are of the justiciable sort, to be

appropriately resolved by the judiciary ? the doctrine of standing

The parties complaint is that officials of the executive department of the government are executing and will execute an act of Congress asserted to be unconstitutional. To do so would be not to decide a judicial controversy, but to assume a po sition of authority over the governmental acts of another and co-equal department, an authority which plainly the Court does not possess.

Whether the court were to act on their own, or at the invitation of Congress, in ignoring the Courts concrete injury requirement described in cases, they would be discarding a principle fundamental to the separate and distinct CON role of the third br anch ? one of the essential elements that identifies those cases and controversies that are the business of the courts rather than that of the political branches. The CON as interpreted in Lujan limited the power of Congress to create citizen suit standi ng. Scalia aligns with the belief that standing and ripeness are designed to keep courts in the realm of deciding individualized rights in particularized settings. The doctrines are used to prevent what he would term governance by the judiciary.

Standing ? though some of its elements express merely prudential considerations that are part of the judicial self government, the core component of standing is an essential and unchanging part of the case-or-controversy requirement of Article III.

The irreducible CON minimum of standing contains three elements:

P must have suffered an injury in fact ? an invasion of a legally protected interest which is (a) concrete and particularized and (b) actual or imminent, not conjectural or hypothetical. (particularized ? injury must affect P in a personal and individ ual way)

There must be a causal connection between the injury and the conduct complained of ? the injury has to be fairly traceable to the challenged action of the D, and not the result of an independent action of some third party not before the court.

it must be likely as opposed to merely speculative, that the injury will be redressed by a favorable decision

-"Zone of interest test" : Designed to look at the relationship between the alleged

harm and the statutes purpose

posed no barrier; the environmental interests claimed were

exactly the type of interests both NEPA and FLPMA were to protect. Generally,

bystanders should not have standing. Close examination of congressional intent under

a revitalized "zone of interest" test will restrict standing to those who are either the

regulated or the primary beneficiaries of a regulated statute.

When the suit is one challenging the legality of government action or inaction, the nature and extent of facts that must be proved in order to establish standing depends considerably upon whether P is himself an object of the action at issue. When a P asserted injury arises for the governments allegedly unlawful regulation/lack of regulation of someone else, much more is needed. Causation and redressability ordinarily hinge on the response of the regulated third party to the government action/inactio n. The existence of one or more of the essential elements of standing depends on the unfettered choices made by independent actors not before the courts and whose exercise of broad and legitimate discretion the courts cannot presume either to control of to predict and it becomes burden of P to adduce facts showing that those choices have been or will be made in such a manner as to produce causation and permit redressabilty of injury.

Scalia argued that the distinct and palpable injury standard should be used not only to limit the justiciability of generalized CON claims. but also to curb the power of Congress to grand standing. The law of standing should be employed to restrict co urts to their traditional undemocratice role of protecting minorities against the imposition of the majority, and to exclude them from the even more undemocratic role of prescribing how the other two brances should function in order to serve the interest of the majority itself. Even the creation of "concrete" statutory rights, therefore, might not suffice to mark out a subgroup of the body politic requiring judicial protection.

Under Scalia?s view, classifuing a statute ascertains who would have standing. For the NEPA and environmental concerns, Congress may have intended to give standing to everyone impacted. He doubted that Congress always would have meant to make other l arge universes of persons private AG simply because of their concern with a statute?s generalized benefits. Therefore, the statute is of the type so that there are direct and immediate beneficiaries and not the more generalized indirect beneficiaries wo uld have standing. Even if the indirect beneficiaries have interests within the disputed acts purpose, they should rely on those interests which their claims derive for judicial enforcement.

Standing claim - Injury: The lack of consultation w/ respect to certain funded activities abroad increases the rate of extinction and the desire to use or observe an animal species is undeniably a cognizable interest for purposes of standing

-Injury in fact test requires more that an injury to a cognizable interest: "some-day"

intentions without concrete plans, do not support a finding of the actual or imminent

injury that cases require

-although Imminence is an elastic concept, it cannot be stretched beyond its purpose,

which is to ensure that the alleged injury is not too speculative for Article III purposes ?

that the injury is certainly impending.

-it goes beyond the limit and into pure speculation to say that anyone who observes or

works with an endangered species, anywhere in the world, is appreciably harmed by a

single project, affecting some portion of that species with which he has not more

specific connection.

-The Court found that the type of injury alleged, namely environmental and aesthetic

harm, could be cognizable, but there was no injury in fact to the members

-"procedural injury" due to the citizen-suit provision. This is not a case where P are

seeking to enforce a procedural requirement the disregard of which could impair a

separate concrete interest of theirs.

-the person who has been accorded a procedural right to protect his concrete

interests can assert that right without meeting all the normal standards for

redressability and immediacy.

Ripeness:

-To Scalia, judicial review must be deferred until a concrete action is taken which would

apply the regulation in a manner that would harm or threaten harm to the Federation.

The need for a concrete act, which is essentially a ripeness requirement, may not be an

easy test for beneficiaries of agency action to meet. Scalia therefore ignores the

immediacy of harm that the court of appeals recognized.

-Unless Congress specifically provides for earlier review, a regulation cannot be

judicially reviewed until concrete effects are felt.

Redressability

-Suits challenging, not specifically identifiable government violations of law, but the

particular programs agencies establish to carry out their legal obligations are, even

when premised on allegations of several instances of violation of law, rarely if ever

appropriate for federal-court adjudication

-Since the agencies funding the projects were not parties to the case, the DC could

accord relief only against the Secretary. But, this would not remedy respondents

alleged injury unless the funding agencies were bound by the Secretaries regulation,

which it is deemed they are not.

-even if the DC could resolve the issue of the Secretaries authority as a

necessary part of the standing inquiry, this would still not have remedies

respondents alleged injury because it would not be binding on the agencies.

Redress of the only injury in fact respondents complain of requires action (termination of funding until consultation) by the individual funding agencies; and any relief the DC could have provided in this suit against the Secretary was not likely to pr oduce that action.

-A further impediment to redressability is the fact that the agencies generally supply only

a fraction of the funding for a foreign project. Respondents have produced nothing to

indicate that the projects they have named will either be suspended or do less harm to

listed species if that fraction is eliminated. It is entirely conjectural whether the

non-agency activity that affects respondents will be altered or affected by the agency

activity they seek to achieve.

Concur in part: KENNEDY AND SOUTER ? The respondents have not demonstrated a concrete injury sufficient to support standing. Congress has the power to define injuries and articulate chains of causation that will give rise to a case or controve rsy where none have existed before. Congress must at the very least identify the injury it seeks to vindicate and relate the injury to the class of persons entitled to bring suit. The concrete injury requirement preserves the vitality of the adversarial process by assuring both that the parties before the court have an actual, as opposed to professed, stake in the outcome, and that the legal question presented will be resolved in a concrete factual context conducive to a realistic appreciation of the co nsequences of judicial action.

Concur on judgment: STEVENS ? agree with the meaning of the act that it is not intended to include foreign countries, but do not agree with Courts conclusion that respondents lack standing because the threatened injury to their interest in prote cting the environment and studying endangered species is not imminent. The likelihood that respondents will be injured by the destruction of the endangered species is not speculative. If generally interested in preservation and an intent to study or obs erve, the injury will occur as soon as the animals are destroyed.

Dissent: BLACKMUN & OCONNOR ? The court used the wrong standard in denying summary judgment. A reasonable finder of fact could conclude, not only on statement of intent to return, but on past visits as well as professional backgrounds, tha t it was likely there would be a return trip, therefore satisfying the actual or immanent injury standard. This case differs from other cases in which the imminence of harm turned largely on the affirmative actions of third parties beyond a P control. P etitioner has officially and publicly taken the position that his regulations regarding consultation under the Act are binding on action agencies. The majority cannot be saying that procedural injuries as a class are necessarily insufficient for purposes of Article III standing. Most governmental conduct can be classified as procedural. The principle efffect of foreclosing judicial enforcement of such procedures is to transfer power into the hands of the Executive at the expense ? not of the courts ? b ut of Congress, from which that power originates and eminates. It is hoped over time the Court will acknowlege that some classes of procedural duties are so enmeshed with the prevention of a substantive concrete harm that an indivudal P may be able to de monstrate a sufficient likelihood of injury just through the breach of that procedural duty. In all events, the separation of powers analysis does not turn on the labeling of an activity as substantive as opposed to procedural. There is no room for a per se rule or presumption excluding injuries labled procedural in nature.

Analysis: The outcome of this case did not change traditional standing doctrine, nor did it create too onerous a barrier to judicial access. It did place a substantial limitation on the scope of citizen suits which Congress may provide. For the first time, the court explicitly held that Congress was unable to legislatively remove the requirement of injury in fact.

It only directly requires that the P employ specificity when expressing use of the particular land affected by agency action. This would enable the P to be counted among those with an injury in fact and therefore entitled to standing. Is there an is sue of ripeness? The court appears to be involved with a hypothetical ? determinations of the scope and constitutionality of legislation in advance of its immediate adverse effect in the context of a concrete case involves too remote and abstract and inq uiry for the proper exercise of the judicial function.

Lujan requires P to delineate harm that is both specific and immediate. The dual requirements may make it difficult for those seeking system-wide relief, namely across-the-board protection of wildlife and natural resources. This decisio n reflects Scalia?s deep-rooted belief in the nature of the judicial role and the requirements of the separation of powers.

Warth v. Seldin

P brought suit against town and members of board claiming that town?s zoning ordinance effectively excluded persons of low and moderate income from living in the town, in contravention of P constitutional rights and in violation of the Civil ri ghts statute.

Held: whether the rules of standing are considered as aspects of the CON requirement that a P must make out a case or controversy w/in the meaning of Article III, or as prudential limitations on the courts? role in resolving disputes involving generalized grievances, or third parties legal rights or interests, none of the P met the threshold requirement of such rules that to have standing a complainant must clearly allege facts demonstrating that he is a proper party to invoke judicial resoluti on of the dispute and the exercise of the court?s remedial powers.

Relief must be guaranteed by requested remedy.

The question of standing involves both CON limitations on federal-court jurisdiction and prudential limitations on its exercise

The Court narrowly characterized the P injury claim as actually obtaining housing, rather than as a broader interest being given the opportunity to obtain housing (which would have been redressible). The Court also refused to consider P alleged inter est in interracial association as capable of sustaining injury in fact.

Here the P rely on little more than the remote possibility, unsubstantiated by allegations of fact, that their situation might have been better had respondents acted otherwise, and might improve were the courts to afford relief.

The claim falls squarly within the prudential standing rule that normally bars litigants from asserting rights or legal interests of other in order to obtain relief from injury to themselves.

Prudential considerations strongly counsel against according individuals, where the complaint is that they have been harmed indirectly by the exclusion of others, thus attempting, in the absence of a showing of any exception allowing such a cla im, to raise the putative rights of third parties.

Apart from the minimal CON mandates for standing, the Court has recognized other limits on the class of persons who may invoke the courts? decisional and remedial powers.

when the asserted harm is a generalized grievance shared in substantially equal measures by all or a large class of citizens, that harm alone normally does not warrant exercise of jurisdiction

even when the P has alleged injury sufficient to meet the case or controversy requirement, the Court has held that the P generally must assert his own legal rights and interests, and cannot rest his claim to relief on the legal rights or interests of third parties.

P must allege and show that they personally have been injured, not that the injury has been suffered by other, unidentified members of the class to which they belong and which they purport to represent.

Dissent: The protest against the creation of the segregated community expresses the desire of their members to live in a desegregated community ? a desire which gives standing to sue under the Civil Rights Act. As the allegations show, these petitioners have alleged precisely what the cases require ? that because of the exclusionary practices of respondents, they cannot live in Penfield and have suffered harm. These parties, if their allegations are proved, certainally have a personal stake in the outcome of this contraversy, and the Court?s conclusion otherwise is only a conclusion that this contraversy may not be litigated in federal court.

Allen v. Wright 1984

The S/C did not permit a group of parents to challenge an IRS policy that the parents claimed allowed private non profit schools which discriminated against African-Americans to retain tax-exempt status.

According to the S/C, the injury to the plaintiffs? rights to attend desegregated schools was not fairly traceable to the challenged action. Requiring IRS to lift tax exempt status from racially discriminatory private schools may not achieve desired goal of public school desegregation.

The Court applied an extra level of analysis because the activities of third parties in response to IRS policies would actually be required for a concrete remedy. No one could predict whether these third party actions would assist the P. Standing, th erefore, could be denied because a favorable ruling would not redress the harm.

Separation of powers ? only the President has the power to "take care that the laws by faithfully executed."

Bennett v. Spear 1997 SCALIA

Issue: Whether petitioners, who have competing economic and other interests in the Project, have standing to seek judicial review of the biological opinion under the citizen suit provision of the ESA?

Held: The petitioners have standing to seek judicial review. The judicially imposed prudential zone of interests that normally serve as a limitation to standing does not do so under the citizen suit provision because Congress intended the prov ision to apply to any person.

PH: The district court dismissed complaint of petitioners concluding that they lacked standing because they asserted recreational, aesthetic and commercial interests that did not fall within the zone of interests sought to be protected by the ESA . The Court of Appeals affirmed stating that only P alleging an interest in the preservation of endangered species fall w/in the zone of interests protected; it limits the class of persons who may obtain judicial review under the citizen-suit provision o f the ESA. Neither court addressed whether petitioners satisfied the d the zone of interest test to be dispositive.

Prudential standing principles are judicially self-imposed limits on exercise of federal jurisdiction requiring that plantiff?s grievance arguably fall w/in zone of interests protected or regulated by statutory provision or CON guarantee invoke d in suit, but unlike CON standing requirements, prudential standing principles can be modified or abrogated by Congress

In addition to the standing requirements of Article III, the federal judiciary has also adhered to a set of prudential principles that bear on the question of standing. These judicially self-imposed limits on the exercise of federal jurisdiction are founded in concern about the proper and properly limited role of the courts in a democratic society.

The S/C said the Court of Appeals erred in using the zone-of-interest test because, since it is a prudential standing requirement of general application that applies unless expressly negated by Congress, by providing that any person may commence a civ il suit, negates the test.

Zone of interest test ? requires that a P?s grievance arguably fall within the Zone of interests protected or regulated by the statutory provision or CON guarantee invoked in the suit ? limits the class of persons who may obtain judicial review not only under the Act, but also under the ESA?s citizen-suit provision.

Among these prudential requirements is that a P grievance must arguably fall w/in the zone of interests protected or regulated by the statutory provision or CON guarantee invoked in the suit.

The Court finds that the ESA?s citizen suit provision negates the zone-of-interest test (or expands the zone of interests). The first operative portion of the provision, "any person may commence a civil suit" is an authorization of remarka ble breadth when compared with the language Congress ordinarily uses. The Courts readiness to take the term "any person" at face value is greatly augmented by the consideration:

the overall subject matter of this legislation is the environment ( a matter common to think all persons have an interest)

The Court cites Trafficante which deals with discriminatory housing practices ? the subject of the legislation makes the intent to permit enforcement by everyman even more plausable.

Although Bennett gives more persons standing to allow their interests, including economic interests, to be addressed in court, the case does nothing to guarantee whether economic claims will prevail.

Differences:

Campell was based on a protected class; Lujan allowed suit by any person

Lujan marked a significant departure by the S/C from the notion that Congress could create statutory standing in the public at large.

Similarities:

Injury component

-in Lujan, the injury standard was particularly ill-suited to provide a comprehensible

barrier against the expansive use of statutory standing. The weakness of the standard

is in the nature of the injury determination itself ? injury to what?

Warth and Campbell both dealt with racial segregation

-Warth: court found lack of racial integration no injury

-Campbell: court found racial discrimination on grand jury injurous

Bennett and Lujan: Similar fact patterns

CHIEF JUSTICE JOHN MARSHALL

Marshall played a significant role in constitutional interpretation and the development of the role of the S/C. Under his leadership, the Court emerged as the principle guardian of the CON, supporter for individual rights , and the ultimate arbitrator of legal conflicts within the federal system. During this era, CON supremacy, judicial independence and dedication to the rule of law characterized the philosophy of the Court. His legacy was to legitimize judicial revie w in a democratic republic and preserve the courts preeminent role in CON interpretation.

Marshall regarded the CON as the fundamental law of a nation in which the people retained ultimate political control in a federal system that allocated authority between the states and the federal government. Marshall construed the CON as a specia l kind of statute, aware that his principle objective was to interpret it as the fundamental law of the nation and not from the short term perspective of political expediency. He understood the CON as a document that reflected the will of the people to p rotect individual liberty through limitations upon both state and federal governments. Marshall believed in a CON democracy in which limited government was essential to the protection of individual rights.

While Marshall recognized that the coordinate branches of the federal government and

the state courts themselves could review the CON of government actions he believed the S/C had the solemn duty of preserving the CON and its inherent values from the whims of transient democratic majorities and the political factions which controlled t hem. The Court alone had the authority to decide cases from which there could be no appeal. Marshall readily sustained federal court jurisdiction in cases arising under the CON, federal laws, or the nations treaties, and in particular, insisted that the S/C?s authority to review the CON of state laws was an essential component of the federal system.

Marbury v. Madison; McCulloch v. Maryland ? it was popular sovereignty that compelled the S/C to invalidate federal and state laws that conflicted with the CON. The Marshall court employed judicial review to preserve the separati on of powers on the national level to prevent the centrifugal forces of the states from destroying the country in the early years. The decisions about judicial review not only asserted the independence of the federal judiciary to interpret the CON but re cognized limits upon federal courts based upon separation of powers and the constraints on federalism.

Marbury ? Marshall clearly perceived the controversy over Madison?s refusal to deliver Marbury?s commission as a political one. He also realized that the legal remedy sought by Marbury, a writ of mandemus issued by the Court as an exerc ise of its original jurisdiction, required the Court to review the CON of the federal law that created this remedy. This Marshall considered within the province of the Court.

Marshall articulated the CL distinction between the judicial function and those of political branches of government when he remarked: "the province of the court is solely to decide on the rights of individuals, not to inquire how the executive, or executive officers perform duties in which they have discretion."

-Marshall made the opinion more difficult an longer than would have thought

necessary ? He invents the long opinion

-Marshall uses the CON to draw distinctions - "he has already demonstrated

that the CON is law because he has already demonstrated that it is"

-This case is a political play and Marshall plays his game with legal reasoning to

achieve political results. It works because he conspicously conceals the act.

Two rabbits out of the hat:

Because the commission was signed by the President and sealed by the Sec. of State, the document is Marbury?s. To withhold the commission is an act deemed by the court not warranted by law, but violative of a vested right.

But, this case cannot be seen before this court. It was not an appeal, but a case for original jurisdiction. To issue a writ is in effect the same as to sustain an original action.

The Court will extend Marbury v. Madison to cases where state law can be determined to be unconstitutional or inconsistent with federal statutes.

McCulloch ? The court broadly interpreted the necessary and proper clause in sustaining the CON of the US Bank. Marshall interpreted this CON provision as he would a statute, and used his reasonable discretion as a judge to concl ude that nothing in the CON precluded the federal government from implementing its enumerated powers through implied means. "we must never forget that it is a CON we are expounding" and explaining that the Court should exercise broad discretion in construing Congress? enumerated powers under the CON.

-Marshall says that Congress has the power to create a bank, even though it is

not enumerated in the CON.

-The CON is a legal document and should expect only general categories ? it is

an outline of the agenda in large general terms. Must develop a theory of

interpretation that will realize there are just a few general terms. The CON

would become unreadable if put everything in it.

-The power to tax is the power to destroy ? it interferes with the government ?

can?t draw the line between little tax and big tax

Gibbons v. Ogden ? Marshall expressly acknowledged that states could regulate purely local commerce pursuant to their 10th amendment police powers even though the CON prohibited their restriction of interstate co mmerce. Marshall refused to interpret the CC as conferring an exclusive power upon the federal government to regulate commerce among the states because neither the precise language of he CON nor its internal structure indicated the existence of such broa d authority. However, Marshall did not go so far as to rule that NY had concurrent power over interstate commerce. Instead he simply held that because NY steamboat licensing law conflicted with a federal act, CON supremacy required the court to in validate the local measures in order to prevent the state from infringing upon national power.

-Marshall says we are all one and the CON was written so everyone can

understand it ? it was written for the people

-"All America knows"

-Because Congress regulates interstate commerce, navigation includes things

that begin in one state and end in another. Therefore, it is within Congress?s

contemplation under the CC.

-Marshall defines "navigate" as the power to regulate ? to proscribe a rule by

which commerce is governed

Cherokee Nation v. Georgia ? held that because Indian tribes were not foreign nations within the meaning of CC, the Court lacked jurisdiction to hear their disputes with Georgia

-Marshall says S/C has no original jurisdiction because Indians not a foreign

state; he decides to avoid direct confrontation with Jackson and Georgia ? he

includes the last paragraph and brings about the dissent which is designed to

provide the outline for the next case where he does rule for the Cherokees

-From the prospective of the State, the Indians are foreign. To the US they are

not. The words of the CON make the US perspective right.

-This case turns out not to be the protection of State?s rights, an assertion of the

standpoint of the US, Marshall uses this to show that the CON is a document

that can decide cases

-Like Marbury: original jurisdiction problem, political foreground, Marshall?s

opinion is that P has rights that can?t be enforced

Sable Communicaitons v. FCC (1989):

・ SC invalidated a federal law which criminally prohibited sexually oriented prerecorded phone messages

・ RULE: Indecent but nonobscene speech is protected by the 1st amendment and presumptively cannot be banned.

・ Placing a phone call requires affirmative choice by the listener as to what he or she wants to hear, and there is less danger to kids here than in Pacifica….other less restrictive means could achieve the same end.

・ Congress cannot completely ban indecency on cable televions after this case.

Reno v. ACLU (1997):

・ SC invalidated provisions of the Communications Decency Act of 1996 prohibiting transmission of indecent communications to person under 18 on the itnernet.

・ RULE: Cyberspace is subject to normal 1st amendment precepts, which were automatically fatal to the Act’s content-based regulation of indecency.

・ The Internet is not as invasive as TV or radio, and users cannot come upon porn by accident or without prior warning.

・ So the act here was overbroad and the statutory goal could be achieved thru less restrictive means.

CONSTITUTIONAL LAW OUTLINE

Larue, Fall 1998

TYPES OF ARGUMENTS TO MAKE:

(1) Textual Arguments: try to cross reference difficult problems to solve them within the text.

・ Applied by Marshall in Marbury for example

・ Basically gets analysis and conclusion from the exact concrete text of the Constitution.

(2) Historical Arguments: historical meanings of the words, the history of Congress passing the law, the meaning of community at large…

(3) Doctrinal Arguments: look at precedent on point; this is a classic argument ? very popular ? BASED ON PRECEDENT

(4) Structural Arguments: (1) look at the text (2) make inferences re: structure (3) to reach a result

(5) Pragmatic Arguments: “good social policy” arguments

(6) Ethical Arguments: NOT based on morality ? ethical arguments talk about what is and what isn’t in your CHARACTER!

(7) Moral / Natural Law Arguments: Very rare in SC opinions.

CHAPTER 2: INTRO TO CONSTITUTIONAL DECISIONMAKING:

I. SEGREGATION:

Strauder v. West Virginia: (1879)

The SC overturned a WV statute excluding any by “white male persons” from juries.

The court reasoning came from the “true spirit and meaning” of the 14th amendment, its protect-the freed-slaves purpose.

The SC said excluding black men from juries was like affixing a brand upon them by the law, asserting their inferiority, and a stimulant to racial prejudice that impedes securing to individuals of the race that equal justice that the law aims to secure to all others.

Plessy v. Ferguson: (1896)

Plessy was prosecuted in LA for refusing to leave a railway car reserved only for whites.

He sued, claiming he was deprived of Equal Protection under the 14th amendment.

SC ruled that the statute creating separate railway cars was PK because it merely created a legal distinction b/w the races, and had no tendency to destroy the legal equality of the races.

SC said that the 14th amendment was not meant to abolish all distinctions based upon color or force social equality.

SC distinguished b/w laws that interfered with political equality and those which merely required social separation ? deciding that the latter was OK

Harlan’s Dissent: said the statute was invalid because it only encouraged beliefs that the 2 races are not equal, and this was not the purpose of the amendment. Harlan said the Constitution is COLOR BLIND!

・ Plessy created the SEPARATE BUT EQUAL doctrine ? the SC said that separate but equal facilities do NOT violate EPC of 14th amendment.

Brown v. Board of Education: (1954)

Considered the constitutionality of statutorily created separate public schools for the races. Did such segregation deny the kids EP under the 14th amendment?

・ SC focused on the intangible benefits, not just the tangible facilities of the schools.

・ SC found that the separate schools generated inferiority feelings that cannot be fixed by providing equal tangible facilities. SC said they created psychological harm and resulted in a caste system.

・ SC HELD: Separate But Equal has NO PLACE in public education because they are INHERENTLY UNEQUAL.

・ The decision here was based primarily on sociological data, rather than pure law.

・ The SC also focused on the recent graduate school cases to show the changing atmosphere regarding segregation.

・ This decision changes the precedent of Plessy by rejecting Separate but Equal!

・ Justice Warren rejected any historical analysis of the 14th amendment here because he said it doesn’t matter what the framers were thinking, but what matters is what is happening NOW!

Sweatt v. Painter: (1950)

The SC recognized the importance of intangible differences between separate but equal facilities (here, segregated TX law schools).

SC held that the separate law school for blacks in TX was NOT EQUAL to the UT law school and ORDERED Sweatt to be admitted to UT at once!

In Davis v. County School Board of Prince Edward County, a VA court found differently than the SC in Brown based on a different group of psychological data.

In Bolling v. Sharpe, decided same day as Brown, the SC said that the federal government couldn’t operation SBE public schools either b/c it violated 5th amendment Due Process Clause.

II. THE SUPREME COURT’S ROLE IN OUR POLITICAL SYSTEM

Marbury v. Madison (1803)

The SC ruled that the appointment of Marbury was complete when the commission was “signed and sealed.”

The question of judicial review of the constitutionality of an act of congress comes up here. Marshall’s best argument on this issue is that the if no judicial review, the legislature would be the final power over the Constitution. It would make the constitution fruitless if the congress had ultimate and unlimited power over law making without checks.

・ The constitution limits the powers of all 3 branches f govt., and if any of the branches has final say so, then it has the power to alter the constitution. BAD!

・ The constitution, instead, gives the PEOPLE the power to change the Const.

・ HOW DO WE KNOW WHEN A CHANGE IN AN INTERPRETATION CHANGES THE CONSTITUTION? (Ex: Brown’s new interp. Of 14th Am. EPC)

・ We can change the application of words without changing the meaning, but sometimes if the application is drastically changed, the actual interpretation changes, and in effect, you change the meaning.

・ Larue thinks that the change in interpretation in Brown is NOT a change in meaning!

・ The line b/w changing application and changing meaning is a fine one and it is hard to draw…

・ Marshall writes this opinion the way he does b/c of political reasons ? he too, is a midnight judge! So, in effect, Marshall loses the Battle, but wins the War!

Brown II (1955)

The SC remanded Brown cases to the lower courts to fashion equitable relief ? injunctions requiring the school boards to make “prompt and reasonable” starts towards full compliance with Brown.

・ Gave federal district courts primary responsibility for supervising desegregation.

・ Directed DC to use general equitable principles

・ Provided for “all deliberate speed” in providing a plaintiff with immediate relief.

For a while after Brown, the SC rarely intervened in the desegregation process, leaving this up to the DC’s and local politics. However, in Cooper v. Aaron, the SC got involved again!

Cooper v. Aaron (1958)

Governor and Arkansas legislature claimed they didn’t have to obey federal court orders.

SC said that little Rock must integrate its schools and follow the SC ruling!

Swann v. Charlotte-Mecklenburg (1971)

Black students sued b/c they were still attending a 99% black school. The TC rejected the school board’s plan of desegregation and instead, accepted a plan which included extensive bussing of students to create schools with 9-39% minority populations.

・ The SC said that once a violation and a right have been shown, the scope of a DC’s equitable powers to remedy the wrong is BROAD, for breadth and flexibility are inherent in equitable remedies.

・ However, the SC said there are LIMITS as to how far a court can go in ordering remedial relief, but those limits are not fixed or definable.

・ The SC concluded that the remedial techniques applied by TC were within the DC’s power to provide equitable relief.

Keyes v. School District #1 (1973)

Northern segregation and desegregation issues…..

SC refused to hold that de facto school segregation, absent proof of discriminatory intent, required equitable relief. No de facto segregation could be redressed by court action!

・ Must have de jure segregation, that is a purpose or intent behind the segregation, in order for courts to take action and provide equitable relief!

DE FACTO SEGREGATION: No purpose to segregate exists

DE JURE SEGREGATION: a purpose or intent exists to segregate

Milliken v. Bradley (1974):

The TC here tried to enforce inter-district bussing between 2 different school districts as an equitable remedy to segregation.

・ The SC said the TC order went too far in enforcing Brown!

・ SC said: Interdistrict bussing is only justified when racially discriminatory acts of the state or local school districts, or of a single school district have been a substantial cause of the interdistrict segregation! We must first prove that there has been a constitutional violation within one district that produced a significant segregative effect in the other district in order to justify interdistrict remedial plans!

・ RULE: The remedy must be tailored to the violation!

・ IN general, interdistrict remedies are not within the TC power!

Board of Education v. Dowell (1991):

SC ruled that the principle of local control of education requires a DC to dissolve a remedial decree after the local authorities have operated in good faith compliance with it for a reasonable period of time.

Freeman v. Pitts (1992):

Atlanta school district was under a Brown consent decree starting in 1969. In 1988, the TC found that the plan desegregated students but didn’t desegregate teacher assignments and funding, so reflective of the dual system.

TC found that continued segregation was a result of “white Flight” and NOT a result of any action or inaction of the local govt.

TC relinquished jurisdiction over the students, but not teacher assignments and funding.

・ SC remanded to the TC to determine whether the school district had shown a good faith commitment to the entirety of a desegregation plan.

・ A federal court in a desegregation case has the discretion to order an incremental or partial withdrawal of its supervision or control.

・ RULE: When the imbalance is attributable neither to the prior de jure system nor to a later violation by the school district, but rather to independent demographic forces, no decree of the court is required.

・ Once the effects of official segregation have been even temporarily remedied, later imbalances cause by changing residential patterns (white flight) or other non-official conduct MAY NOT be cured by federal court order!

・ Racial balance is NOT to be achieved for its own sake. It is to be pursued when racial imbalance has been caused by a constitutional violation!

CONSOLODATING THE CASES:

・ Each case involves a difference in racial composition of the different schools

・ We next need to know WHY we have a difference

・ We need to figure out WHO caused the difference ? the govt? the private citizens?

・ If we can say the GOVT. is the root or cause of the difference…..then Brown situation!

・ In Swann, the TC rezoned the districts to created better racial balance, and in Milliken the TC ordered interdistrict bussing. However, private citizens will reach to the rezoning in making homebuying decisions, and so the segregation will begin again , but this time it is caused by private action, not the govt.

・ In Brown, the SC main arguments are policy and ethical arguments, but in Swann, the SC moves to rely on doctrinal arguments…

Footnote 4, Carolene Products: this footnote fits Brown like a glove, and helps get over the inconsistency of Brown with the original intent of 14th am. Argument. This resolves the inconsistency between the EPC interpretation of Brown with the historical argument that the framers didn’t intend for the 4th am. EPC to be applied in the way Brown interprets and applies it. “…Discrete and insular minorities…” Justice Stone!

CHAPTER 3: THE CONSTITUTION & RACIAL DISCRIMINATION

The Slaughter House Cases (1872)

The SC said that it doubted very much whether any action of a state NOT directed by way of discrimination against the negroes as a class, or on account of their race, will ever be held to come within the purview of the 14th am. EPC.

Hirabayashi v. US (1943):

SC upheld the criminal conviction of an American citizen for refusing to obey a curfew order requiring all persons of Japanese ancestry to remain in their homes from 8-6.

Korematsu v. US (1944):

SC upheld the criminal conviction of an American citizen who refused to leave the West Coast and be relocated.

STRICT SCRUTINY APPROACH TO RACIAL DISCRIMINATION:

General rule is that suspect classifications are subject to STRICT SCRUTINY!

The main forms of suspect classification are: RACE and NATIONAL ORIGIN -- but ALIENAGE is also considered a suspect classification in some cases!

Strict Scrutiny Test:

(1) Is the suspect classification necessary to promote

(2) A compelling state/governmental interest?

I. FACIAL RACIAL CLASSIFICATIONS:

Loving v. Virginia (1967):

Statute made it illegal to marry interracially in Virginia.

・ SC held the statute UNCONSTITUTIONAL because it violated the EPC of 14th Am. By being based solely on racial classification.

・ The state argued that the statute was NOT discriminatory and didn’t violate the EPC because it treated both races equally ? that is, it punished whites and blacks alike for marrying interracially. The SC didn’t buy it b/c the court said that “equal application” was not enough to circumvent strict scrutiny application.

・ The SC emphasized the fact that Strict Scrutiny is a very heavy burden!

・ SC upheld Swann however and the govt. action there was based on a racial classification to accomplish equality thru bussing ? but based on racial classification to balance the racial-makeup of schools…..OK ? necessary to promote a compelling state interest.

・ SC used STRICT SCRUTINY ? the govt. had to prove that the classification was necessary to accomplish a permissible state objective that was independent of the racial discrimination. The govt. couldn’t do this ? so unconstitutional!

・ The SC here speaks of a CLASSIFICATION (who), a MEANS (what does the statute do), and an END (why they do it).

・ We look to the relationship between the CLASS and the END, as well as the MEANS and the END.

・ Here: Classification= blacks /whites (race); Means=illegal to marry; End=keep races pure and maintain white supremacy.

・ Classifications can be INVIDIOUS and ARBATRARY ? this is BAD!

Applying the Class, Means, End Analysis to Brown:

CLASSIFICATION: race ? blacks/whites different schools

MEANS: separate schools for the races created by statute

END: what is the end? Whose version do we buy? Good? Bad?

Strauder case seems to shed some light here because it is squarely on point regarding the stigma that is created by racial classifications and the fact that the stigma issue is BAD.

Strauder involved the exclusion of black men from juries and the SC ruling that it violated EPC of 14th amendment.

Palmore v. Sidoti (1984):

State judge awarded custody of child to mother upon divorce of parents under the “best interest of the child” standard. Later when mother remarried a black man, the court reconsidered the best interest of the child and gave her to the father.

SC ruled that the TC’s order violated EPC because the “state interest” claimed were not permissible considerations for the state judge.

STRICT SCRUTINY:

(1) racial classification must be justified by a COMPELLING GOVT. INTEREST

(2) and they must be NECESSARY to the accomplishment of their legitimate purpose.

II. FACIALLY NEUTRAL CLASSIFICATIONS (Discrim. Intent & Effect)

Yick Wo v. Hopkins (1886):

A San Francisco ordinance provided that you must obtain a permit from the Board to operate a laundry in a building constructed of materials other than brick or stone. The City claimed the ordinance was aimed at promoting safety in laundries.

Although the classification was facially neutral, the Board used the permit system to effectively discriminate against Chinese laundries who were mostly located in wooden buildings. The evidence revealed that all of the 200 Chinese applicants for permits were DENIED. Further, all of the non-Chinese applications were approved, except one.

・ Here, the statute was neutral on its face, but there was discrimination in its ADMINISTRATION, and this discrimination violates the EPC!

・ The application of the neutral statute was discriminatory, so BAD!

・ The SC looked back and saw that there was a different “end” in mind when creating the statute here ? an end that was discriminatory against Chinese.

・ This case differs from Loving because here, the class. is NOT suspect, rather it seems OK and neutral….in Loving, the class. was discriminatory and so was the end.

・ Loving = racial classification and racial end

・ Yick Wo = neutral classification but racial end

・ Here we infer the discriminatory/ racial intent from the application of the statute.

Washington v. Davis (1976):

Plaintiff sued claiming that the test administered by the police department was discriminatory to exclude blacks from the police department. The Plaintiff also claimed that the test wasn’t a good predictor of job performance. The SC found no discrim. Purpose on the part of the police force….

・ This is different from YickWo because here a smaller percentage of blacks fail the test, rather than the 100% of Chinese that were discriminated against in YickWo.

・ Also, the test here was OBJECTIVE ? the decisions of the board in YickWo were subjective and purely discretionary.

・ However, even though the test here is objective, it is not necessarily FAIR.

・ The SC said that this situation did NOT trigger strict scrutiny because the plaintiffs only show discriminatory effect. No EPC violation!

・ RULE: DISCRIMINATORY EFFECT IS NOT ENOUGH TO SHIFT THE BURDEN OF PROOF TO THE DEFENDANT AND TRIGGER STRICT SCRUTINY OR EPC ANALYSIS!

・ You must be motivated by discriminatory purpose ? at least in part ? in order to prove violation of EPC. It is not merely enough to know or be aware of discriminatory consequesnces ? you must be motivated at least in part by these discriminatory consequences.

・ YOU MUST HAVE SOME DEGREE OF INTENT, NOT MERELY KNOWLEDGE

・ The Discriminatory End or Intent is what triggers strict scrutiny!

・ How do we know what kind of evidence we need to satisfy this test?

REMEMBER: A demonstration of disproportionate impact or effect is a FACTOR in the Equal Protetion analysis, but that alone can NEVER suffice -- proof of intentional or purposeful discrimination is REQUIRED!

Arlington Heights v. Metro Housing Corp (1977):

SC concluded that although a discrim. Purpose is required to trigger Strict Scrutiny, such a purpose need not be the SOLE purpose of the statute. It is enough that the purpose was a motivating factor in the legislature’s decision.

Personnel Admin. v. Feeney (1979):

The plaintiff filed a sex discrim. Case b/c the Mass. Civil service statute gave an absolute hiring preference to veterans.

・ SC said that the sttute must have been enacted “because of” a desire to bring about a discriminatory impact, “not merely in spite of” the probability of such an impact.

・ SC reasoned that too many men were affected by the statute to permit the inference that the statute is but a pretext for preferring men over women.

Three Ways to Show Intent or Purpose:

(1) the law discriminates on its FACE (Strauder)

(2) the law is facially neutral, but is ADMINISTERED in a discrim. Way (Yick Wo)

(3) the law is facially neutral and is applied in accd. with its terms, but was ENACTED WITH A PURPOSE OF DISCRIMINATING as shown by legislative history, statements by legislators, the law’s disparate impact, or other circumstantial evidence of intent. (Arlington Heights)

III. LIMITS ON JUDICIAL & CONGRESSIONAL POWER TO ADDRESS RACIAL DISCRIMINATION: The State Action Doctrine & Congressional Power to Enforce Constitutional Rights

A. Establishing State Action and Congressional Power

Nearly all the rights guaranteed by the Constitution to individuals are protected only against interference by GOVERNMENT ENTITIES. This is called the requirement of “STATE ACTION.” However, sometimes even a private individual’s actions are found to be “state actions,” and are thus subject to the Constitution.

Only the 13th amendment’s prohibition on slavery includes private as well as governmental conduct.

Thus the only time a court can grant an individual relief on a claim that his constitutional rights have been violated is when there has been a STATE ACTION ? that is, some sort of participation by a govt. entity sufficient to make the particular const. provision applicable.

The term govt. is BROADLY defined for purposes of State Action doctrine. Thus, even a corporation will be treated as a govt. entity if its set up by the govt, remains under govt. control, and furthers govt. objectives.

The SC has in essence said that each case must be judged on its own facts in order to determine whether state action exists. Therefore, the line of cases is difficult to reconcile and impossible to predict future case outcomes.

The Civil Rights Cases (1883):

These cases involve the Civil Rights Act of 1875 that prohibited all persons from enying on the basis of race, any persons’ equal access to inns, public trans, theaters, and other public accommodations. The statute was clearly applicable to private conduct ? the issue was whether Congress had the power to enact such a statute.

・ The SC main holdings here:

・ The SC held that the guarantees of EPC and DPC apply ONLY TO STATE ACTION.

・ The SC held that the grant to Congress in §5 of 14th amendment of the power to enforce these guarantees did NOT authroize congress to regulate solely private conduct. (maybe not good law anymore)

・ The SC held that the statue could NOT be justified as an exercise fo the 13th amendment. Although that amendment is applicalbe to private conduct, but it bars only slavery and involuntary servitude ? and the refusal to allow blacks to use public accommodations was not a BADGE OF SLAVERY.

・ State action is narrowly defined and does not include activity of govt-chartered, govt-regulated, quasi-public establishments such as common carriers or places of public amusement.

・ State action concerns only positive govt. activity and not passive activity as when the state acquiesces in discrim. Private conduct.

・ Since there was no satisfactory constitutional basis for the Civil Rights Act of 1875, the act was INVALIDATED BY THE SC.

・ This case took an extremely narrow view of congressional power ? and it had a devistating effect on Congress’s ability to prevent the emergence of virtual apartheid in the South.

・ Harlan’s Dissent: uses the word “citizenship” in the 14th amendment to connect it to the 13th amendment and argue that congress can directly and primary legislate to prohibit anyone from infringing on another’s citizenship.

・ Harlan argued that freedom from slavery entailed the erradicaiton of all burdens and disabilities suffered by blacks b/c of race. Broad interp. Of 13th amendment.

STATE ACTION: THE PUBLIC / PRIVATE DISCTINCTION TODAY:

The Court began to broaden state aciton doctrine in the 1940’s, with the result tha tvarious acts that were carried out by private persons, not state officials, were nonetheless attributed to the state. The SC says that some conduct is so closely linked to official conduct that it should be considered state action: Two main groups:

(1) Those in which the private activity is attributable to the govt. b/c the private actor is fulfilling a public function

(2) Those in which the various connections (Nexus) between the state and the private actor are sufficiently great that the state can be said to be involved in, or even encouraged, the private activity that is being complained of.

State Encouragement of or Entanglement with Private Actors:

The White Primary Cases (1940’s): DISCRIM. BY POLITICAL PARTIES

These cases involved state attempts to delegate more and more of the nominating process to private political parties, the entire electoral process is a public fxn and the political parties are acting as agents of the state. Therefore, they may NOT practice racial discrimination.

・ One case involved the TX democratic party rule that only whites could vote in the TX Democratic Primary ? this violated the 15th amendment b/c the democratic party, although technically private, was acting as an agent of the state! Smith v. Allwright.

Marsh v .Alabama (1946): COMPANY TOWNS

Marsh involved a COMPANY TOWN ? owned by a corp. Marsh was a Jehova’s Witness who was arrested for trespassing for distributing religious materials on the sidewalk near the post office of this corp. town.

The SC held that Marsh’s conviction violated her 1st amendment rights, made applicable to the state action doctrine by virtue of the DPC of the 14th amendment.

・ The SC said that the more an owner opens up his property for use by the public in general, the more do his rights become circumscribed by the statutory and constitutional rights of those who use it.

・ The SC reasoned that since the facilities here were built and operated primarily to benefit the public and since their operation is essentially a public fxn, it is subject to state regulation.

・ Whether a corp .or a municipality owns or runs the town, the public in either case has an identical interest in the fxning of the community in such a manner that the channels of communicaiton remain free.

・ The SC here performed a BALANCING TEST: balnaced the private rights of owners of property versus the right of people to enjoy freedom.

Hudgens v. NLRB (1976): SHOPPING CENTERS

Established that Shopping Centers WERE NOT engaged in public func10

iton and therefore, were not subject to 1st amendment challenges.

・ SC held that a private, large scale shopping center is not the equivalent of the corp. town in Marsh, and therefore, no 1st amendment guarantees are applicalbe to activities in it.

Shelly v .Kramer (1948): Nexus Theory ? Conduct of the Government

Here, the CL established a racial classification and exclusively recognized racial covenants. Property owners entered into a racially restrictive covenant. A few years later, blacks bought a house in the area and the covenant members sued alleging that the Shelly’s purchase was void b/c of the covenant. The State court granted relief and upheld the covenant.

・ SC held that judicial enforecement of the restrictive convenant would constitute STATE ACTION, and would therefore violate the 14th amendment. The state court actively intervened, supported by the full panoply of state power….

・ This court stressed the fact that the state actor didn’t merely stand back and remain inactive; rather, here, there were willing buyers and sellers, and thus the active role of the court in enforcing the covenant caused the discrimination to occur.

・ Shelly is meant to be read narrowly in that it is meant to apply to cases where there are “willing buyers and sellers” and the state is asked to use its power affirmatively to prevent them from consummating their sale.

Moose Lodge No 107 v. Irvis (1972): State Action Through Licensing

A private club refused to serve a black guest of a member. The guest claimed that since thestate had given the club on of a limited # of liquor licenses, the act of licensing was sufficient to render the club’s discrimination a state action.

・ SC said that state action here isn’t “real” enough or direct enough for a finding of a constitutional violation.

・ RULE: The mere fact that a state grants a license to an entity does not transform the latter’s conduct into state action, even when the # of licenses is limited.

・ TEST: Whether the state was significantly involved with invidious discrimination.

Towards a New Synthesis in State Action Case Law?

Edmonson v. Leesville Concrete Co. (1991):

Civil case where there was a black plaintiff and the defense counsel used 2 of his 3 peremptory challengs to remove blacks from the jury.

・ Where does the govt sphere end and the private sphere begin?

・ The court has held that when a private litigant uses peremptory challenges to exclude jurors on racial grounds, this conduct constitutes state action and therefore violates the EPC of 14th amendment.

・ The Court applies the Lugar test here:

(1) whether the claimed constitutional deprivation resulted from the exercise of a right or privilege having its source in state authority?

(2) Whether the private party charged with the deprivation could be described in all fairness as a state actor?

・ Look at the extent to which the actor releis on govt. assistance and benefits

・ Whether the actor is performing a traditional govt. function

・ Whterh the injury casued is aggrivated in a unique way by the incidents of govt. authority

・ Here, the act was the peremptory challenges ? they have no significance outside a court of law. The challenges were exercised under a federal statute.

・ The SC also said the exercise of peremptory challenges by the Defendant in the TC was pursuant to a course of state action because the private party made extensive use of state procedures with the overt, significant assistance of state officials.

・ O’Connor Dissent: She dissented because she thought that the power here came from government, but the decision wasn’t made by the government. She says that the state isn’t involved here in the defendnat’s decision to exclude jurors.

Congressional Authority to Enforce Civil Rights:

Although the SC in the Civil Rights Cases said that congress can only redress violations under §1 when : (1) there is a state action (2) there is discrimination. Recent cases have expanded congressional authority to enforce the Civil War Amendments (13th, 14th, and 15th amendments) beyond the narrow power accorded Congress by the Civil Rights Cases.

・ Congress can prohibit purely private discrimination under the 13th amenmdment, if it finds that the discrimination is a badge or incident of slavery.

・ Congress doesn not have the power to define the scope of the post-Civil War amendments ? only the FEDERAL COURTS can do this.

・ Congress cannot EXPAND the meanings of these amendments, and congress cannot REDUCE the scope of these amendments.

Congressional Civil Rights Enforcement Power fits into 3 categories:

(1) congressional regulation of state action in race cases

(2) congressional regulation of state action in religion cases

(3) congressional regulation of private action

Regulating State Action: The RACE CASES

Considers the relationship between judicial and congressional power under the 14th and 15th amendments in the context of racial discrimination.

McCulloch v. Maryland:

・ Justice Marshall provides a test for congressional power to legislate under the Necessary and Proper Clause:

・ Let the end be legitimate

・ Let it be within the scope of the constitution

・ And all means which are appropriate, which are plainly adapted to that end, which are not prohibited, but consist with the letter and the spirit of the constitution, are constitutional!

The Voting Rights Act of 1965: Congress adopted this act with two essential goals:

(1) to remove barriers to registering and voting by racial minoritites

(2) to to protect the minorities against future attempts to dilute their new voting power

This Act was adopted to respond to evidence that blacks were being discriminated against in voting by being required to take test to vote, etc….

・ Congress can pass legislation that deals with or prohibits, punishes discriminatory state action.

・ Here, the SC reasoned that its means to the end = suspend the literacy tests

・ The end = punish or prohibit discriminatory state action

South Carolina v. Katzenbach (1966): Voting Rights

・ SC upheld the constitutinality of the Voting Rights Act against a facial challenge.

・ Warren relied upon the McCulloch test for congressional power above.

・ SC concluded that the statute’s remedies, which apply without the need for prior adjudicaiton, were an appropriate response to the demonstrated ineffectiveness of case-by-case adjudicaiton.

・ This Act suspended the application of “literacy tests”

・ However, the SC ruled that the act could only apply to certain regions of the courtry in light of the local evils found there.

・ The SC construed Congress’s power to enforce the 15th amendment BROADLY ? holding that any rational means could be used to enforce the amendments ban on racial discrimination in voting.

Lassiter Case:

If a literacy test seems fair on its face, it may be employed to perpetuate that discrimination which the 15th amendment was designated to uproot and that is BAD!

Katzenbach v. Morgan (1966):

・ § 40 of the VRA is under dispute because literacy or english literacy test is discriminatory against Pureto Ricans.

・ This Act or section was unconstitutional because the Puerto Ricans were being denied their right to vote ? a right they are entitled to!

City of Rome v. United States (1980):

・ City of Rome wanted to change the election scheme of city commisioner which would have a discriminatory effect on blacks, even though tehre was NO evidence that the changes were motivated by a discriminatory purpose.

・ SC rejected all of the City’s claims ? it applied the VRA of 1965’s “bail out” provision. This represents a broad view of Congress’s remedial powers under the 15th amendment.

・ The SC held that Congress had the constitutional power to ban practices that were discriminatory ONLY IN THEIR EFFECT, not their purpose, under its §2 enforecement powers!

・ Gives a generous reading to congress’s powers to remedy past or anticipated discrimination.

Regulating State Action: The RELIGION CASES:

City of Boerne v Flores (1997):

BOTTOM LINE: Congress MAY NOT define the scope of Constitutional Rights ? this is for the Court alone to do, not Congress!

・ SC held that congress could not use its 14th amendment enforecement powers to prevent local govts. From unintentionally burdening individuals’ religious freedom in certain ways. This decision effectively prevented Congress from overruling a prior SC decision.

・ Congress passed the RFRA that was its interpretaiton of the 14th amendments application to religious freedom

・ SC here held that the RFRA was UNCONSTITUTIONAL!

・ Kennedy said that congress has been given the power to enforce, not the power to determine what constitutes a constitutional violation!

・ SC cited Marbury v. Madison in makings its ruling that allowing congress to interpret and define the scope of the constitution would be to effectively weaken the constitution and make it like any other legislative act…

・ Congress can legislate to respond to or prevent the states from engaging in unconstitutional behavior (ex: VRA of 1965). But the act here, was so out of proportion to any supposed rememdial or preventitive ogject that it cannot be understood as a responsive to, or desidned to prevent, unconst. Behavior. Instead, it appears to attempt to substantively change the constitutional protections ? BAD!

Regulating Private Conduct:

Jones v. Alfred H. Mayer Co. (1968):

・ P complained that D, a private developer, refused to sell him a house because they were black.

・ SC held that Congress has the power, under the 13th amendment rationally to determine what are the badges and incidents of slavery.

・ SC held that Congress’s definition of those badges and incidents could rationally be a very BROAD ONE, broad enough to encompass private racial discrimination in REAL ESTATE TRANSACTIONS.

IV. THE AFFIRMATIVE ACTION CONTROVERSY:

University of California v. Bakke (1978):

・ Admissions of UC Davis med school reserved 16 of 100 seats for disadvantaged minority students. Allan Bakke, a white guy, sued claiming that the admissions scheme violated EPC and Title 7.

・ 4 Justices held that the plan was completely constitutional.

・ 4 other Justices held that the plan was unlawful on statutory grounds, Title 7, and didn’t touch the constitutional issue

・ Justice Powell agreed with the first 4: He concluded that a univerisyt should be permitted to take into account an applicant’s membership in a racial minority as part of the adimissions process. BUT, he believed that a racial quota system was unconstitutional!

・ Thus, the mechanical UC Davis approach was struck down.

・ Powell felt that all racial and ethnic based classifications were subject to strict scrutiny.

・ Powell also felt that only finding that there was discrimination by the university itself could suffice for the purpose of redressing past discrimination.

・ Powell found that the state objective of obtaining the educaitonal benefits that flow from an ethnically-diverse student body was a constitutionally-permissible goal.

・ The Brennan 4 applied intermediate scruitny here instead of strict scrutiny…

City of Richmond v. JA Croson Co. (1989):

・ City plan requiring that non-minority city contractors sub-out at least 30% of their work to oone or more minorities. This plan required ANY minority sub, not just minority subs from the Richmond area.

・ SC said the city didn’t show enough SPECIFICITY of discriminaiton. The city also failed to prove that the plan undoes the harm in the area.

・ The ordinance here cannot be justified as a remedy for past discrimination.

・ Any race-based claissifciaion will clearly face a presumption of unconstitutionality, even if it is motivated by affirmative action concerns.

・ Probably the only govt. objective that will ever support race-based affirmative action is the redressing of clear past discrimination.

・ For a race-based affirmative action plan to succeed there must:

(1) be quite specific and strong evidence of past discrimination a/g the group that the plan is helping.

(2) The past discrimination must be by the particular governmetnal entity in question or in the same general domain or industry.

・ BIG: The mere fact that there has been general “societal” discrimination is not enough to justify race-conscious measures.

・ ALSO: Virtually all race-based quotas will be STRUCK DOWN, even when the govt. is trying to eradicate the effects of past discrimination ? more flexible goals can do this job and the quotas are not necessary…

・ SC held that all race-based classificaitons will receive the same strict scrutiny whether the classification is suposedly “benign” or invidious.

CHAPTER 4: GENDER DISCRIMINATION & OTHER EPC CONCERNS:

I. Minimal Equal Protection Scrutiny: The Rational ?Basis Test

Railway Express Agency v. New York (1949):

・ Traffic regulation in NY permitted some ads on cars and trucks, but only if it was the ad of the owner of th truck. No outside ads were allowed because the legislature said the purpose was to promote public safety and decrease distraction in the streets. However, stationary ads were permitted on bus stops, etc.

・ Classification = only ads of owner of truck are allowed on truck

・ Means = prohibiting certain ads ? outside ads

・ End = safety on streets and decrease in distractions

・ The Plaintiff said the classification was more economic and had no relation to the traffic problem b/c the violation turns on whose truck carries the ads, not what the ads contain. Thereofre, this doesn’t further the purpose of decrasing distraciton.

・ SC applied a Rational Basis Test: the means must be rationally related to the end desired.

・ SC ultimately ruled that the classification was OK! But, Larue thinks the SC didn’t even apply any scrutiny, but rather just announced the test.

・ Justice Jackson’s argument ehre is similar to the argument in fn. 4 of Carolene Products…..

FCC v. Beach Communicaitons (1993):

・ SC upholds a regulatory statute that requires cable TV systems to be franchised by LG’s, but exempts facilities servign only in one or more multi-unit dwellings under COMMON OWNERSHIP, mgt, or control.

・ Classification = single owner or control

・ TEST APPLIED: Rational Relation

・ To win an attack under rational basis test ? the plaintiff must negate every conceivable basis which might support a classification.

・ Here the SC says it is OK ? b/c the legislature must “draw lines” in regulating things and someone has to be on the other side of the line.

・ HOW DOES THE LEGISLATURE DRAW LINES?

・ What are the effects?

・ What are the benefits?

・ What are the disadvantages?

・ We don’t want to and can’t give the courts this job thru judcial review because too much work, no sep. of powers, etc.

・ SC says, the legislature doesn’t have to give reasons for what it does or justify its actions b/c each separate legislator can have a different reason for a vote. If we needed one overall legislative reason, nothing would get passed.

・ Consequence: constitutional norms will be UNDER INFORCED by the judiciary

II. Sex and Gender-Based Discrimination:

・ Can one do so by drawing an analogy to race ? or do we have to fight on totally different grounds?

・ Are women a “discrete and insular” minority? They are discrete minority, but not insular!

・ The SC applies intermediate scrutiny to gender cases!

Reed v. Reed (1971):

・ Statute gives preference to males as executors of wills over females…

・ SC applied rational basis test and struck down the statute

・ The Defendant said such a statute was created to provide ease of administration, but the SC said this rationale or purpose was arbitrary and forbidden by the EPC.

Frontiero v. Richardson (1973):

・ Statute in question allows men to claim wives as dependants, but wives cannot claim husbands automatically unless it is proven that the husband is TRULY dependent on the wife’s income.

・ SC struck down the statute by an 8-1 majority…but there is no majority opinion of the court.

・ 4 justices say that “strict scrutiny should apply” and 4 say that “rational relation” should apply here

Craig v. Boren (1976):

・ Oklahoma statute forbade the sale of 3.2% beer to males under the age of 21, and to women under the age of 18. The plaintiff claimed that the classification in the statute denied equal protection to males 18-21.

・ The SC first introduced the Intermediate Scrutiny Test:

・ The classification by gender must serve important governmental objectives and

・ Must be substantially related to the achievement of those objectives.

・ The defendant claimed the statute promoted traffic safety, since males 18-20 were arrested for DUI much more often then girls of the same age group.

・ The SC found this statistically-based defense INSUFFICIENT.

・ The SC said there was poor overall fit between the means of regulation selected and the end sought to be achieved was simply to tenuous to constitute the required substantial relation b/w means and end.

・ Imtermediate Scrutiny: Must have an important end and a substantial relationship between the classificatoin and the end.

Califano v. Webster (1977):

・ SSA old age benefits policy giving woemn a more favorable formula than men.

・ SC said the government goal was to reduce the disparity in economic condition between men and women.

・ SC viewed this as an IMPORTANT GOVT. OBJECTIVE

・ SC said that there was no benign compensatory purpose; but rather, the purpose was legitimate ? to redress society’s longstanding disparate treatment of women.

・ Here Congress was trying to redress general social discrimination and it is OK in this situation because this is not a strict scrutiny case, but rather an intermediate scrutiny!

・ Women can get a different calculation than men here and its OK

JEB v. Alabama (1994):

・ SC held that the use of peremptory challenges to exclude all women from a jury CANNOT survive mid-level reivew, and this violates the EPC!

Mississippi Univ. For Women v. Hogan (1982):

・ This state school only enrolls women, including its nursing school. Men could audit nursing courses, but could not take them for credit. The plaitiff was denied admission b/c he’s a man and sued under EPC.

・ SC struck down the women-only policy of the nursing school. The SC applied intermediate scrutiny.

・ BIG: Justice O’Connor added that an exceedingly persuasive jsutification must be shown for any sex-based classification. The statue above couldn’t survive this scrutiny.

・ The SC felt that the women-only policy perpetuated a stereotype about proper roles for women and had nothing to do with compensating for past discrimination because nursing was a field traditionally employed by women.

・ SC also rejected a diversity argument …..

US v. Virginina (1996): The VMI Case

・ here, the SC looked deeper than in Beach by requiring the actual purpose behind a classification ? rather than any purpose that could be seen as valid.

・ SC held that VMI policy of men-only admission was a violation of women’s EPC rights. The SC also held that the program for women at Mary Baldwin was not sufficiently comparable to the VMI program to redress the injury.

・ SC ruled that gender-based classificaitons must NOT rely on overbroad generalizations about the differnces between the sexes.

・ Gender-based classifications cannot be used to create or perpetuate the inferiority of women!

・ Ginsburg focused on women who would like to attend ? the women with the capabilities to withstand the riggor of the VMI program ? not merely all women in general!

・ VMI defended on grounds of diversity, but the SC rejected this argument by saying that the ACTUAL PURPOSE must be given, not merely any purpose that could justify the classification.

・ RULE: To remedy an EPC violation, the solition would have to place the victims in the position that they would have occupied in the absence of the discriminaiton, and to eliminate the discriminatory effects of the past, so far as possible.

・ The SC opinion contained a strickter tone ? it created SKEPTICAL SCRUTINY!

・ Skeptical Scrutiny Test: uphold a gender-based classification as long as the state demonstrated an exceedingly persuasive justificaiton for any gender based govt. action!!! Further, the Govt. must demonstrate the actual state purpose, not rationalization for actions differently grounded.

Deference to Traditional Gender Classificaitons Based upon REAL DIFFERENCES

Parham v. Hughes (1979):

・ A GA law allowed the mother but not the father of an illegitimate child to bring suit for the child's wrongful death.

・ SC upheld the statute against a charge of sex discrimination.

・ The SC reasoned that the mother and father of an illegitimate child are not SIMILARILY SITUATED.

・ SC said the statute didn’t discriminate against fathers as a class, but instead distinguished between fathers who have legitimated their children and those who have not! Therefore, the statute only required a rational basis test, and it passed!

Michael M v. Superior Court of Sonoma County (1981):

・ The Plaintiff challenged CA’s statutory rape stautute which made men criminally liable, but not women.

・ the SC held that California could constitutionally make men but not women liable for sexual interxourse with a partner under the age of 18.

・ The state’s asserted purpose was to protect against teen pregnancy ? which the SC deemed to be important.

・ Punishing the man and not the woman was deemed to be “substantially” related to achieving that end ? only women get pregnant, so a criminal penalty for men equalized the deterrence on the sexes.

・ The SC said that the statute needed to pass intermediate scrutiny and could do this only if men and women were not similary situated in a way that was relevant to the statutory purpose in this case. This was what happened!

Rostker v. Goldberg (1981):

・ Congress was permitted to require that only men register for the draft.

・ SC reasoned that since the purpose of draft registration was to facilitate eventual drafting of combat troops, and since only men were eligible for combat, the male-only registration schoeme was “closely related” to the purpose of the statute.

・ The SC applied intermediate scrutiny here…and gave defernece to Congress in the area of military affairs.

Classifications that have a Disparate Impact Upon Women

Geduldig v. Aiello (1974):

・ CA’s disability insurance program paid benefits to persons temp. disabled from work, but excluded pregnancy-related disabilities from coverage.

・ SC upheld the statute, finding the exclusion rationally related to the insurance programs’s self-supporting goals; Another example of “line drawing”

・ A legislature’s use of biological factors may cause a disparate effect upon the 2 sexes. ONLY IF THERE IS PROOF THAT THE DISPARATE EFFECT WAS INTENDED BY THE LEGISLATURE, WILL THE STATUTE BE STRUCK DOWN B/C OF EPC.

・ The legislature’s choice of conditions to be covered or not only needed to satisfy rational relation test because there was no evidence that the distinction was a pretext designed to effect invidious discrim. Against women.

Personnel Administrator v. Feeney (1979):

・ the SC held that Massachusettes’s absolute veteran’s preference for civil service jobs DID NOT violate EPC, even though over 98% of veterans were men.

・ RULE: Only purposeful discrimination against women could give rise to an EPC violation ? the 14th amendment guarantee equal laws, not equal results.

・ The fact that the legislators may have forseen that the statute would operate against women was not enough; an EPC claim could be valid only upon proof that the legislature acted in part because of and not merely in spite of adverse effects on women.

Bray v. Alexandria Women’s Health Clinic (1993):

・ SC, led by Scalia, held that women seeking abortion did not qualify as a class for purposes of the statutory protection of the Civil Rights Act

・ He also ruled that the abortion clinics had presented no right that is constitutionally protected against private as well as public action.

SEXUAL ORIENTATION:

Romer v. Evans (1996):

・ Colorado ordinance that was passed which forbids state and local govt. from passing laws favoring gays

・ SC applied rational basis review and justice Kennedy ruled that this failed rational basis review because (1) the statute is too broad and (2) it is too narrow and (3) animus ?prejudice.

・ Too broad b/c gays are being denied the protection of any laws

・ The majority and dissent have different interpretations of thestatute:

・ Majority ? denied protection for gays

・ Dissent ? denied special treatment for gays

・ Can the state regulate sexual conduct? If so, what fort of lines can be drawn?

・ Kennedy says this ordinance is an example of bad animus:

・ Too broad and too narrow, so no legitimate purpose except to prejudice the class

・ Look to intent or mens rea ? this is judged by the circumstances, results, history, classification used, etc.

・ A bare desire to harm a politically unpopular group can’t constitute a legit govt. interest

Baehr v. Lewin (1993):

・ Plaintiffs claimed that Hawaii’s Marriage Law was unconstitutional because it denied same-sex couples the same marriage rights as different sex couples.

・ Hawaii SC ruled that the state action was sex discrimination requiring strong justificaiton under the equal rights amendment to the Hawaii Constitution.

・ SC found that the Hawaii law had discriminated agaist the plaintiffs because of their sex, one of the classifications in the state EPC that triggers heightened scrutiny.

・ The Hawaii SC held that the Hawaii marriage law is presumed to be unconstitutional, unless the statutes sex based classification is justified by compelling state interests and the statue is narrowly drawn to avoid unnecessary abridgements of the aplicant couples’ constitutional rights.

・ Ultimately held that on its face and as applied, the law denied same sex couples access to the marital status and its concomitant rights and benefits, thus implicating the EPC of the state const.

CHAPTER 5: PROTECTING FUNDAMENTAL RIGHTS:

I. Should the Courts Ever Enforce Unenumerated Rights?

The Privileges and Immunities Clause: Article 4, Section 2, Clause 1

The Slaughter House Cases (1873):

・ A LA law banned slaughter houses within the NO city limits but made an exception for the Crescent City Company, which was thereby given a monopoly.

・ SC rejected a broad-guage attack on the statute brought by NO Butchers and based on the Privileges and Immunities Clause of 14th amendment, which they argued protected their fundamental right to work at their trade

・ SC held that this clause protected only a limited number of national privileges, such as the right of access to federal agencies, and the right to use navigable waters…

Palko v. Connecticut (1937):

・ Palko was indicted for 1st degree murder and convicted of 2nd degree murder

・ State appealed because of an error and a new trial was had at which the D was convicted of 1st degree murder.

・ Palko argued that they couldn’t do this “double jeopardy” thing because of the 14th amendment DPC.

・ SC says that this allowing the state to appeal when acquital given because of a legal error is NOT a violation of any fundamental principles of justice

・ Cardozo reasons that it is rectitude of decision

・ Cardozo said the test is

(1) whether the Bill of Rights guarantee in question is of the very essence of a scheme of ordered liberty

(2) whether it is one of those fundaental principles of liberty and justice which lie at the base of all of our civil and political institutions.

* This case is an example of selective incorporation or fundamental rights view

Adamson v. California (1947):

・ The issue is whether silences are as significant as speakings in the realm of trial and a defendant’s refusal to take the stand in his own defense.

・ The Majority ruled that protection against self-incrimination was not a privilege or immunity of national citizenship.

・ The SC concluded that, although the DPC of the 14th amendment forbade compulsion to testify through torture or other coersion, the CA procedure at issue here did not violate the concept of ordered liberty.

・ DISSENT: Justice Black contended that the procedural guarantees applied to the federal govt. by the 5th amendment were automatically rendered applicable to the states via the 14th amendment ? Total Incorporation View

・ Black also contended that the majority’s fundamental rights approach permitted the court to roam at large in the broad expanses of policy and morals and to trespass, all too freely, on the legislative domain of the states as well as the federal govt.

Skinner v. Oklahoma ex rel. Williamson (1942):

・ The SC invalidated a statue which provided for compulsory sterilization of persons convicted 3 times of felonies showing moral terpitude, but this didn’t apply to white collar crimes…like embezzlement.

・ The SC objected to the discrimination between typical white collar and blue collar crimes, but it emphasized that its reason for strictly scrutinizing the discrimination was that “marriage and procreation are fundamental to the very existence and survival of the race.”

II. THE RISE AND DECLINE OF LIBERTY OF CONTRACT AND SUBSTANTIVE DUE PROCESS REVIEW

Allgeyer v. LA (!897):

・ SC used substantive due process review to invalidate a state statue which prohibited anyone from obtaining insurance on LA property from any company not licensed in LA

・ The SC said the statute violated 14th am. DPC b/c it prevented the defendant from exercisng his freedom of contract. The SC said the guarantee of liberty in 14th amendment protected not only physical liberty, but also intangibles such as the right to live and work where one wishes, to earn a living by any lawful calling, and to enter into contracts necessary to accomplish these goals.

Lochner v. New York (1905):

・ a New York laws limited the hours which a bakery employee could work to 10 per day and 60 per week.

・ The SC struck down the law as an abridgement of liberty of contract, and therefore a violation of DPC.

・ The defendant claimed the law was a valid labor law, but the SC struck down this argument because the police power of a state extends only to protection of the “public welfare” - this was more an issue of private welfare

・ The defendants also claimed the law protected the helath and safety of the workers. The SC didn’t buy this either because it didn’t find bakers to be an especially endangered group. Also, long working hours didn’t affect the public health and safety.

・ The SC reasoned that the law’s natural effect was to regulate labor conditions, not to protect anyone’s health and safety. The SC thus implied that only the actual motive of the legislature would be looked to in evaluating a statute subj. to substantive due process attack

・ The SC also refused to defer to legislative findings of fact ? instead, it insisted on reaching its own conclusions on the factual issue of whether the health and safety of bakers needed special protection.

・ THE LOCHNER TEST:

(1) required very close fit between the statute and its objecives ? there must be a real and substantial relationship b/w the statute and the goals it was to serve.

(2) Only certain legislative objectives were acceptable. For example, regulation of heath and safety was permissible, but readjustment of economic power or economic resources was not.

West Coast Hotel v. Parrish (1937):

・ The SC upheld a state minimum wage law for women.

・ The SC gave substantial weight to the state’s interest in redressing women’s inferior bargaining power and also mentioned the state’s interest in protecting the health of women

・ The SC conceded that the minimum wage law interfered with freedom of contract, but the court concluded that a readjustment of economic bargaining power in order to enable workers to obtain a living wage was a legitimate limitation on that freedom of contract.

Williamson v. Lee Optical (1955):

・ the SC upheld an Oklahoma statute which prevented opticians from fitting eyeglasses lenses into frames without a perscription from an eye doctor.

・ The SC said it was a rational health measure because the legislature MIGHT HAVE CONCLUDED that in some instances prescriptions were necessary to permit accurate fittings, etc.

・ The SC hypothesized reasons that the legislature might have had in passing certain laws that were purely economic legislation.

THE TAKINGS CLAUSE:

The ban on taking of private property for public use with out just compensation.

Two major issues here:

(1) what is the borderline between a taking and a mere regulation?

(2) When is a taking made for private rather than public use, so that there is no right of eminent domain, even if compensation is paid?

Penn Coal v. Mahon (1922):

・ A landowner bought the surface rights to land and the house on it but left the right to mine coal on the land to a coal corp.

・ PA enacted a statute preventing subsurface mining where a house might be caused to sink ? the effect of the statute was to bar the coal company completely from mining under the owner’s land.

・ The SC held tha the regulaiton so utterly impaired the right to mine coal that it was nerely the equivalent of an appropriation or destrution of the coal. Therefore, the regulation was a TAKING which couldn’t be carried out without compensation.

・ RULE: The government can effectuate a “taking” if the govt. goes too far in regulating the uses of private property, even though the govt. did not physically invade or take title to the property.

Penn Central Transportation Co. v. City of New York (1978):

・ Plaintiff owned Central Station and it was designated a landmark so the outside was required to be kept in “good repair” and administrative approval was necessary for any alteration. Plaintiff wanted to build a skyscraper, but the administration didn’t approve it because it would clash with the old facade

・ the SC found that the NYC Landmarks Preservation Law did NOT effect a taking of the plaintiffs property. So long as landmark preservation is carried out as part of a comprehensive preservation scheme, developmet of individual landmarks ma be curtailed without effecting a taking. The SC found that the NYC statute met the requiremetn of comprehensiveness.

・ The SC found landmark preservation schemes to be comparable to zoning laws ? not a taking!

Miller v. Schoene (1928):

・ SC upheld a VA statute requiring owners of blighted cedar trees to cut down their trees to protect apple trees that might be infected by the blight.

・ SC Stone reasoned that this was a regulation, not a taking! The SC said the state had a right to conclude that apple orchards were more important to the state economy than cedars, and its decision to sarcrifice the latter to save the former did not violate due process. If you have inconsistencies (competing interests ) the legislature can decide what is more valuable.

・ The SC discusses harm v. benefit and the fact that the distinction lies in the eye of the beholder. Whoever defines it ? wins!

Nollan v. California Costal Commission (1987):

・ The land use regulation prevented the plaintiffs from rebuilding their house on the beach from property unless they first gave the public an easement across a sandy strip of the porperty adjacent to the ocean.

・ The defendants concern was that if the plaintiffs replaced their small house with a bigger one, several types of harm would occur, including blocking the ocean view, difficulty of public getting to and from the beach, and private use of the shore front would increase.

・ TEST: The SC required that the means chosen by the government substantially advance the governmental objective being pursued.

・ The SC held that the commission’s refusal to issue the building permit except upon transfer of the easement amounted to a TAKING, for which compensation must be paid!

・ SC reasoned that if the govt. had simply required the plaintiffs to give the public an easement, then it would have been a taking.

・ Also, an outright refusal by the govt. to grant the permit would not constitute a taking if it substantially advanced a legit state interest, and did not deny an owner economically viable use of his land.

・ Finally, the conditions attached to the permit must be evaluated by the same std., so that only if those conditions substantially advanced the legitimate state interests being pursued would the conditions be valid.

・ RULE: The SC ruled that when a city conditions a building permit on some give back by owner, there must be a rough proportionality between the burdens on the public that the bldg. Permit would bring about and the benefit to the public from the give back.

Dolan v. City of Tigard (1994):

・ Plaintiff was a property owner who wanted to enlarge the store she ran on the property she owned. The city issued her a permit to do it, but conditioned it on her willingness to convey a 15 foot strip of land to the city to be used as a bike pathway.

・ The city claimed that plaintiff would be worsening the danger of flooding from a nearby creek b/c of paving her land and that her bigger store would increase car traffic to her site and the bike path might decrease the car traffic.

・ Plaintiff said the 15 foot strip was an unconstitutional taking without comp.

・ SC said the trade-off here was an unconstitutional taking of her property.

・ The SC said there must be an essential nexus between the permit condition exacted and the legitimate state interest being pursued. The SC also required that any permit condition must meet a requirement that there be a rough proportionality between the trade-off demanded and the burden to the public from the plaintiff’s development.

・ The SC found that the city satisfied the nexus requirement, but did not satisfy the rough proportionality standard because the city failed to show that the bike path would offset some of the traffic demand.

TODAYS SCHEME REGARDING TAKINGS:

(1) The means chosen by the LG must substnatially advance a legitimate aim

(2) Any “give up” required of a property owner must be roughly proportional to the harm caused by the new land use.

US Trust Co. v. New Jersey (1977):

・ SC invalidated a state law on Contract Clause Grounds!

・ The SC found that the repeal of a bond covenant violated contract clause.

・ TEST: An impairmetn of contractual objigatons will be constitutional ONLY if it is reasonable and necessary to support an important public purpose.

・ A contractual impairment was NECESSARY only when the state’s public interest objectives could not be met by LESS DRASTIC modificaiton of the contract.

・ Here alternative means existed for improving mass transit other than repealing the bond covenant.

・ The Court said an impairment was REASONABLE only if the modification was induced by unforeseen developments occurring after the original contract was made.

Lucas v. South Carolina Coastal Council (1992):

・ SC, in order to protect its coastline from erosion, enacted the Beachfront Mgt. Act which defines certain critical areas of erosion dangers and bars any owner in the area from building any permanent habitable structure on the land.

・ P bought 2 lots before the BMA was enacted and now is prevented from bldg. Houses on the land. P contends the “regulation” deprives him of all economic use of his property and thus is a TAKING.

・ SC held that if the plaintiff has truly been deprived of all economically viable use of his property, a taking has occurred. The SC said it was up to the SC state courts to determine whether a taking has occurred; and a taking exists even though the state is trying to protect public health and safety.

DISCRIMINATION ON THE GROUNDS OF WEALTH:

Laws drawn on the basis of wealth or property have a disparate impact upon the poor but do not single them out explicitly usually.

MLB v. SLJ (1996)

・ Mississippi court terminated the paternal rights of MLB who was unable to appeal because she couldn’t afford the filing fees and other costs of appeal.

・ SC ruled that the state could not constitutionally apply the fee requirement to MLB.

・ The SC focused on the EPC basis for the appeal because the DPC doesn’t require the state to provide an appeal on civil matters.

・ TEST: The SC considered the character and intensity of the individual interest at stake, on the one hand, and the State’s justification for its exaction on the other hand.

・ MLB’s stakes here, the loss of her kids, were most severe and greatly outweighed the state pecuniary interest.

BASIC RIGHTS FOR THE LEAST ADVANTAGED:

San Antonio School District v. Rodriguez (1973)

・ State system of funding public education is challenged

・ Plaintiff claims the system discrimates against poor people who live in low property value areas. Poor areas are taxed high, but low property value, so less money is raised there for their schools

・ SC said that equal educaiton is NOT a fundamental constitutional right, so only applied rational basis test here instead of strict scrutiny

・ The courts rational basis analysis found the system to be OK

・ SC also said the plaintiff failed to show wealth-discrimination.

・ SC rejected a challenge to Texas’s funding of public education on the grounds that it distinguished between rich and poor neighborhoods and areas.

・ The SC said that these plaintiffs were not a suspect class, and the SC said equal educaiton is not a fundamental right

・ FUNDAMENTAL RIGHTS = the rights explicitly or implicitly guaranteed by the Constitution.

Edgewood School District v. Kirby (1989):

・ The TX Supreme Court overturned the policy upheld in Rodriguez because they used the TX state constitution rather than the US Const.

Plyer v. Doe (1982):

・ TX statute refused to provide state funds to local schools for education of illegal alien children. Plaintiffs sued claiming violaiton of EPC.

・ SC agreed that the system violated EPC, basing its logic on the fact tha thte state is punishing the wrong people here, the kids of the aliens, not the aliens themselves.

・ Here, Brennan doesn’t want to go all the way to strict scrutiny, but doesn’t think that rational basis is enough here.

・ Rational basis is an economy of resources argumetn.

・ Ultimately Brennan found no rational basis or legitimate state interest for the law.

THE RIGHT TO TRAVEL:

Shapiro v. Thompson (1969):

・ here a statute discriinates against poor people by requiring a residence requirement to get welfare benefits.

・ The SC applies STRICT SCRUTINY because the right to travel is a fundamental right and found that the waiting period was not necessary to achieve a compelling state interest.

・ Requires a compelling state interest to justify the residence requrement, and the SC says that here there is no compelling state purpose.

・ The court thus invalidated the denial by 2 states and the DC of welfare benefits to residents who had not resided in the jurisdiction for at least a year.

・ By requiring the 1 year waiting period, the states were impairing the fundamental right of itnerstate movement.

FUNDAMENTAL PRIVACY RIGHTS:

Myer v. Nebraska (1923):

・ NE law prohibited teaching kids any language other than English.

・ SC ruled that this law violated the LIBERTY protected by the DPC

・ This case was decided during the Lochner era, so it comes out of the same body of ideas as Lochner (p. 420).

・ RULE: This liberty may not be interfered with by legislative action which is arbitrary or without reasonable relation to some purpose within the competency of the State to effect. The individual has certain fundamental rights which must be respected.

I. Contraception and Marriage:

Poe v. Ullman (1961):

・ Plaintiffs had a medical need for birth control advice but couldn’t get it because of a statute.

・ Brennan wrote for the majority and ruled that he was not convinced that the plaintiffs, as individuals, are truly caught in an inescapable dilemma.

・ HARLAN’S DISSENT:

・ Finds the statutory regulation ARBITRARY and feels that the govt. cannot regulate the intimacies of marriage.

・ Marriage privacy is an aspect of the privacy of the home, expressly protected against certain govt. intrusions by the 3rd and 4th amendments and also protected under a series of precedents, principles of liberty found in the DPC.

・ Harlan makes a series of different arguments, including the arbitrary argument, the tradition argumetn, the legal consistencies argumetn, and the liberty argument to arrive at his conclusion.

Griswold v. Connecticut (1965):

・ The statute at issue was a law that forbade the use of contraceptives, making it a criminal offense. It also forbade the aiding or counseling of others in their use.

・ The Defendants were the directors of a Planned Parenthood clinic who were convicted of counseling MARRIED PERSONS in the use of contraceptives.

・ The SC struck down the statute in an opinion written by Douglas

・ The SC majority said that the several of the Bill of Rights guarantees protect the privacy interest and create a penumbra or zone of privacy. The SC said the right of married persons to use contraceptives fell within this penumbra!

・ Douglas’s opinion based on the 4th and 5th amendments right to privacy and also the 9th amendment. He also said these enumerated rights are also deeper and broader than their text.

・ Goldberg’s Opinion: Concurrence:

・ Uses the 9th amendment as a key to interpret the 14th amendmetn, but almost makes an argumet that there are rights that are above the constitution ? this is a natural law argument.

・ Privacy goes beyond belief, choice, or consent, it goes to conduct too!

Eisenstadt v. Baird (1972):

・ SC struck down a law prohibiting the sale of birth control to unmarried people. The Majority applied RATIONAL BASIS equal protection test!

・ IF the right of privacy means anything, it is the right of the individual, married or single, to be free from unwanted govt. intrusion into matters so fundamentally affecting a person as the decision whether to bear or beget a child.

Carey v. Population Services Intl (1977):

・ SC considered the sale of contraception to minors.

・ The SC concluded that the restriction on such sale infringed upon minor’s right to privacy.

・ Stevens said it is as though the state had decided to dramatize its disapproval of motorcycles by forbidding the use of safety helmets.

Abortion:

Roe v. Wade (1973):

・ The SC held that a woman’s right to privacy is a fundamental right under the 14th amendment, therefore, the legislature has only a limited right to regulate aboortions.

・ The court divided pregnancy into 3 trimesters and prescribed a different rule for each trimester:

・ First trimester: a state may NOT ban, or even closely regulate abortions in the first trimester. These decisions are to be left to the woman and her doctor. The SC reasoned that the state’s interest in protecting a woman’s health is not valid here b/c the chances of death here are very low….

・ Second trimester: the state may protect its interest in the mother’s health here by regulating the abortion procedure in ways that are REASONALBY RELATED TO HER HEALTH. The state cannot protect the fetus here, only the mother’s health.

・ Third trimester: the fetus becomes VIABLE in this trimester, therefore, the state has a compelling interest in protecting the fetus at this stage. Therefore, the state may regulate OR EVEN PROSCRIBE abortion. But, abortion must be permitted when it is necessary to preserve the life or health of the mother.

・ This decision is premised on the RIGHT OF PRIVACY that is part of the liberty guaranteed by the 14th amendment.

・ The SC held that a woman’s interest in deciding this issue herself was a fundamental one, which could only be outweighed if there was a compelling state interest in barring or restricting abortion, and the state statute was narrowly drawn to fulfill only the legitimate state interest.

Doe v. Bolton (1973):

・ The SC invalidated a more modern abortion statute that required abortions to be performed in hospitals and set up special procedures for hospital approval of abortions, on the ground that such procedures unduly restricted the exercise of the Roe riths.

Webster v. Reproductive Health Services (1989):

・ A Missouri law required doctors to determine the viability before performing an abortion after the 20th week of pregnancy.

・ SC concluded that the testing requirement is reasonalby designed to ensure that abortions are not performed where the fetus is viable ? an end which all concede is legitimate ? and that is sufficient to sustain its constitutionality.

Hodgson v Minnesota (1990):

・ 38 states enacted laws requiring notification or consent of one or both parents before a minor could obtain an abortion. Minnesota’s law required the notification of BOTH parents.

・ SC upheld the parential notificaiton and consent requirements that had opportunities for judicial bypass.

・ Justice O’Connor concurred, arguing that the 2 parent notification was AN UNDUE BURDEN on the minor woman’s rights to abortion, but agreed with the Court that the availability of a judicial bypass saved the statute.

Planned Parenthood of SE Pennsylvania v. Casey (1992):

・ A majority of the court declined to overrule Roe explicitly, however important asects of Roe ? including abortions’ status as a fundamental right, the state’s almost complete inability to regulate 1st trimester aboritions, and in fact the whole trimester framework of Roe were all OVERTURNED!

・ CASEY RULE: The states may restrict abortion, so long as they do not place undue burdens on the woman’s right to choose.

・ A PA statute placed a number of big restrictions on abortion, and was challenged as being contrary to Roe.

・ The majority of the SC decided to keep Roe as a precedent, but decided to allow states to regulate more strictly than Roe and its progeny had allowed.

・ This PA statute called for a 24 hour waiting period, notificaiton of husband by married women, etc..

・ In place of the trimester framework, the SC here articulated a new UNDUE BURDEN STANDARD: “Only where state regulation imposes an undue burden ona woman’s ability to make the decision whether to abort does the power of the state reach into the heart of liberty protected by the DPC.

・ Undue Burden = a state regulation that has the purpose or effect of placing a substantial obstacle in the path of a woman seeking an abortion of a nonviable fetus.

・ This case rejected the idea that abortion is a fundamental right as well as the strict scrutiny test applied in Roe.

・ The SC applied the undue burden test to the PA statute and upheld all of its restrictions except the spousal notification restriction because the court found it to be an undue burden.

CONSENSUAL SEXUAL ACTIVITY:

Bowers v. Hardwick (1986):

・ Hardwick was charged with violating GA’s sodomy law by committing the act with another adult male in the defendant’s own bedroom of his home.

・ Defendant sued, challenging the constitutionality of the statute because it criminalized consensual sodomy.

・ The question here involves identifying the liberty interest here - does the US constitution confer a fundamental right upon homos to engage in sodomy?

・ The SC failed to recongize a fundamental right to engage in homo activity. The majority relies on history a lot here! It uses history as a baseline for liberty here.

・ The dissent says that the issue is the right to be “let alone”

Kentucky v. Wasson (1992):

・ KY statute criminalizing homo sex.

・ KY constitution textually gives the state citizens more liberty rights than the US constitution!

・ The KY invalidated the statute as a violation of the state right to privacy and EP guarantees in the state Const.

THE RIGHT TO DIE:

Washington v. Glucksberg (1997):

・ Washington State has a prohibition against causing or aiding a suicide. The suit was brought by Drs. Who treat terminally ill patients in extreme pain, as well as 3 patients who died while on appeal.

・ The majority of the SC saw the issue as whether the liberty of the DPC includes a right to commit suicide which also includes a right to assisatence in doing so.

・ SC looked at history in making this decision ? both CL and today statutory laws

・ SC concluded that the DP liberty interest in committing suicide was NOT A FUNDAMENTAL interest

・ Fundamental interest = interests and rights that are deeply rooted in this Nation’s history and tradition.

・ Because of the universal past history of the ban on assisted suicide, this is not a fundamental right.

・ SC then applied the rational relation test and concluded that the ban was rationally related to the state’s interests in preserving humna life, intergrity of the medical profession, protecting vulnerable groups, and the fear that legalizing physician assisted suicide would set it down a SLIPPERY SLOPE towards voluntary and involuntary euthenasia.

PROCEDURAL DUE PROCESS:

Goldberg v. Kelly (1970):

・ state cannot terminate welfare benefits being provided to a recipient without affording the opportunity for an evidentiary hearing prior to termination.

・ Welfare intitlements are similar to property interests rather than mere gratutities.

Board of Regents v. Roth (1972):

・ Plaintiff was given a non-tenured one-year contract to teach at Wisconsin state university. The university declined to hire him after that year, without giving him reasons.

・ SC held that plaintiff’s interest in being rehired was NOT an interest in LIBERTY OR PROPERTY, and therefore, he had no right to procedural due process.

・ The nature of the interest is what matters, not the weight of the interest.

・ The plaintiffs interest was not a liberty interest because the decision not to rehire him didn’t bar him from a broader class of employment.

・ He also didn’t have a property interest because he didn’t have a legitimate claim of entitlement to the job.

・ RULE: The 14th amendment DPC of property applied to interests that a person has ALREADY ACQUIRED in specific benefits.

Defining What Process is Due?

Mathews v. Eldridge (1976):

・ Holding disability benefits can be terminated without a prior evidentiary hearing.

・ BALANCING TEST ANNOUNCED:

・ Balance the strength of the private interest affected by the action

・ the risk of an erroneous deprivation of such interest through the procedures used

・ the probable value of additional or substitute safeguards

・ with the government’s interest involved ? including the fxn involved and the fiscal and administrative burdens that the addl. Procedures would entail

・ Here the SC applied this test and determined that no additional procedures were necessary. The SC reasoned that disability payments are not one’s sole income, so what is at stake is lower than in Kelly.

・ Also, oral testimony not needed here because the evidence was simply medical documents…etc…

・ Burden on govt. would be substantial ? costly, time, etc.

・ Thus, no evidentiary hearing is necessary.

CHAPTER 6: THE FIRST AMENDMENT:

Text of First Amendment: “congress shall make no law….” This is a distinction from the depravation and denial notions in the DPC and EPC.

“Abridging….freedom of speech” You can abridge speech, but not the freedom of speech, conduct, etc.

Texas v. Johnson (1989):

・ Flag burning statute in question. Plaintiff says the statute is unconstitutional because of 1st amendment.

・ SC agrees ? UNCONSTITUTIONAL!

・ The court applied TRACK ONE analysis here ? the majority determined that the prosecution of the plaintiff was directly related to expression!

・ The SC reviewed the 2 objectives advanced by Texas in enacting the statute, but the court wasn’t swayed with either of the state’s reasons.

・ The statute was content based because particular conduct was covered only if an observer’s likely reaction would be to seriously offend….

・ THE SC APPLIED STRICT SCRUTINY because the plaintiff was prosecuted only because of the content of the particular message he conveyed.

・ RULE: The govt. can’t prohibit the expression of an idea simply because society finds the idea offensive or disagreeable.

・ The means chosen here were not necessary to achieve the state’s goal of preserving the flag as a national symbol of unity.

・ Content Discrimination = presumptively invalid EXCEPT:

・ Defamation

・ Obscenity

・ “Fighting Words”

・ Viewpoint Discrimination = cannot pick and choose one viewpoint in the content ? ex. Viewpoint, that is based on “race, color, creed, religion, gender…”

・ THE MORE INDIVIDUALIZED THE THREAT, THE REATER THE STATE INTEREST IN PROHIBITING THE THREAT.

RAV v. City of St. Paul (1992):

・ RAV involves a cross-burning inside the fenced yard of a black family. The D was prosecuted under an ordinance that forbid burning crosses and Nazi swastikas, to arouse anger on the baisis of race, color, creed, etc…. He contended that the law was overbroad and impermissibly content-based.

・ SC agreed that the ordinance, on its face, violated the 1st amendment.

・ Scalia concluded that the ordinance was impermissibly content-based, because it prohibited otherwise permitted speech solely on the basis of the subjects the speech addresses.

・ Scalia asserted that even when the govt is regulating a supposedly unprotected category, it may not do so in a content-based manner.

・ There is an exception that even unprotected categories enjoy complete freedom from content-based regulation when the basis for the content discrim. Consists entirely of the very reason the entire class of speech at issue is proscribable, no significant danger of idea or viewpoint discrim. Exists and the content discrim. Is allowed. (EX: the most obscene or the most dangerously violent) see p. 471 Emanuel

・ This ordinance was unconstitutional even though it was applicable to generally unprotected fighting words because it was content based in that it applied only to fighting words that insult or provoke violence on the basis of race…

・ The SC applied STRICT SCRUTINY and found that although the state had a compelling interest, the means used here were not necessary to achieve this interest

US v. O’Brien (1968):

・ Involves draft card burning.

・ SC upheld the conviction of O’Brien for burning his draft card on the grounds that the govt. had a valid reason for protecting draft cards that had nothing to do with O’Brien’s message.

・ The SC applied a 4 part test here to be applied when speech and non-speech elements are combined in the same course of conduct:

(1) a govt. regulation is sufficiently justified if it is within the constitutional power of the governemtn

(2) if it furthers an important or substantial govt. interest

(3) if the govt. interest is unrelated to the suppression of free expression

(4) and if the incidental restriction oon alleged 1st amendment freedoms is no greater than is essential to the furtherance of that interest.

REGULATION OF HARMFUL MESSAGES:

Illegal Advocacy:

Masses Publishing Co. v. Patten (1917):

・ Learned Hand Opinion ? the post office refused to mail a magazine called the Masses on the ground that its content would hamper the war effort. The espionage act barred publications from the mail if they made false stmts with the intent of hindering the war effort…..

・ Hand construed the statute narrowly to criminilize only speech or writings that: TEST: on its face, constitute a DIRECT INCITEMENT to violent resistance to the law.

・ This is a narrow construction to leave room for criticism.

Abrams v. US (1919):

・ Abrams charged with violating the Espionage Act by publishing a leaflet that attacked the US produciton and supplying of arms that might be used against Russia. One leaflet was violently against germany ? none were for germany

・ Main issue: Whether the defendants had the requisite intent to interfere with the war effort against Germany?

・ SC said that if people believed the stmts contained in the Abrams leaflet, they would do illegal acts….that men msut be held to have intended the effects which tehir acts were liekly to produce.

・ The SC majority says that all they need is a BAD INTENT to find the defendants guilty ? and this they did!

・ HOLMES’ DISSENT: holmes gave us the CLEAR AND PRESENT DANGER standard!

・ Holmes said: It is only the present danger of immediate evil or an intent to bring it about that warrants congress in setting a limit to the expression of opinion where private rights are concerned.

・ Holmes says here there is NO PRESENT DANGER of IMMEDIATE EVIL.

・ Holmes says we need an ACTUAL INTENT ? that constitutes an attempt!

Gitlow v. New York (1925):

・ The SC held that the guarantees of the 1st amendment were applicalbe to the states as protections assured by the 14th amendment DPC.

・ SC said: utterances inciting to the overthrow of organized govt. by unlawful means present a sufficient danger of substantive evil to justify legislative prohibitions.

Brandenburg v. Ohio (1969):

・ The SC combined the most speech-protective aspects of by the “clear and present danger” test ad the “advocacy / incitement” distinction to formulate the CURRENT TEST FOR FIRST AMENDMENT ISSUES!

・ Defendant was a KKK leader who was charged with violating Ohio statute that forbade the advocacy of crime or violence as a means of accomp. Industrial or political reform.

・ SC struck down the statute and articulated a new test which a statute proscribing speech must meet

・ THE NEW TEST FOR SPEECH CASES:

Speech advocating the use of force or crime could only be proscribed where two conditions were satisfied:

(1) the advocacy is directed to inciting or producing imminent lawless action

(2) the advocacy is also likely to incite or produce such action

Libel:

New York Times Co. v. Sullivan: (1964)

・ The P was a public official who supervised the Montgomery Police Dept. He alleged that the Times had libeled him by printing an ad that stated that the Montgomery Police had attempted to terrorize MLK and his followers. P wasn’t even named in the ad, but under AL law, criticism of the dept of which he was in charge was deemed to reflect on his reputation.

・ The Times lost because AL had strict liability libel.

・ SC reversed the damage award. SC ruled that state defamation rules are limited by First Amendment principles.

・ The SC said this case was about criticism of govt. policy, not merely factual stmts. About an individual.

・ Debate on public issues must be UNINHIBITED, ROBUST, AND WIDE OPEN, and may often include VEHEMENT, CAUSTIC, and sometimes unpleasantly sharp attacks on govt. and public officials.

・ Requiring critics of official conduct to guarantee the truth of all their factual assertions would lead to SELF CENSORSHIP, rather than free debate.

・ RULE: Criticism of govt. public officials could not be curtailed here, without violating the First Amendment.

・ FORMAL RULE: The First Amendment prohibits a public official from recovering damages for a defamatory falsehood relating to his official conduct unless he proves that the statement was made with ACTUAL MALICE ? that is, “with knowledge that it was false” or “with reckless disregard of whether it was false or not.”

・ This case establishes a CONSTITUTIONAL PRIVILEGE FOR GOOD FAITH CRITICS OF GOVT. OFFICIALS

Gertz v. Robert Welch, Inc. (1974):

・ The NY Times rule above doesn’t apply to non-public figures or officials.

・ In cases involving non-public individuals, the SC set out these rules:

・ The States may define for themselves the appropriate std. of liability for a publisher or broadcaster of defamatory falsehood injurious to a private individual. The plaintiff need only prove negligence, not malice….But, states cannot impose strict liability!

・ It is necessary to restrict defamation P’s who do not prove knowledge of falsity or reckless disregard for the truth to compensation for ACTUAL INJURY. To recover punitive damages, the P must satisfy the NY Times test.

・ Here, the P was a well know local lawyer, but still found to be a private figure.

・ PUBLIC FIGURE: One who achieves general fame or notoriety in the community

Hustler Magazine v Falwell (1988):

・ Jerry Falwell sued Hustler for IIED for printing a fake ad insinuating that the minister had had sex with his mother.

・ RULE: A public figure CANNOT recover damages for IIED without satisfying the NY Times test.

・ The P here failed to prove that the parody constituted a false STATEMENT OF FACT!

・ SC held that a malicious motive was not enough basis for liability. And outrageousness was not a standard for liability.

・ SC discussed the impact that such a ruling would have on political satirists and cartoonists.

WHO IS A PUBLIC FIGURE?

・ The SC said that candidates for public office fall into this category, but low level public functionaries, like janitors, do not fall within the rule of NY Times.

・ Further, even if you are not a “government” figure, the SC said that some other individuals were covered by the rule. (Ex: State school basketball coach, retired general….) But, involvement in well-publicized litigation is not enough to make a person a public figure.

・ “THOSE WHO VOLUNTARILY STEP INTO THE FOREFRONT OF A PUBLIC DEBATE” are public figures.

WHAT IS DEFAMATORY?

・ SC test is : Whether a statement has provably false factual implications, and whether it used language in a loose, figurative, or hyperbolic sense which might dispel the factual implicaitons. Further, just because something is phrased in the form of an opinion doesn’t affect the essence of the defamation.

WHAT IS MALICE?

・ To prove malice, a P must prove by clear and convincing evidence that the defendant knew the statement was false or acted with reckless disregard of the truth. Reckless means something more than a high degree of negligence here.

・ The media enjoys no special privileges under libel law. Or does it?

Obscenity and Indecent Speech:

Roth v. US (1934):

・ SC held that obscenity was not protected by the 1st amendment.

・ SC defined obscenity as material that, if considered as a whole, predominantly appeals to prurient interest (a shameful or morbid interest in sex or excretion, elicits lustful thoughts.)

Miller v California (1973):

・ Gives us a new definition of obscenity!

・ THREE PART TEST FOR OBSCENE MATERIAL REQUIRING BANNING:

(1) The average person, applying contemporary community standards would find that the work, taken as a whole, appeals to the prurient interest.

(2) The work depicts or describes, in a patently offensive way, sexual conduct specifically defined by the applicable state law , and

(3) The work, taken as a whole, lacks serious literary, artistic, political, or scientific value.

・ What counts here are the standards of the LOCAL COMMUNITY, not the nation as a whole!

・ Also, states may ban as obscene ONLY depictions or descriptions of HARD CORE sexual conduct.

Paris Adult Theartre v. Slaton (1973):

・ SC rejected the argument that the 1st amendment protects the right of consenting adults to purchase obscene materials by claiming that the govt. had a valid reguatory interest, including the interest of the public in the quality of life and total community environment…

・ SC concluded that the legislature was entitled to assume that obscene materials were harmful.

・ SC also concluded that there was an arguable link between obscene material and crime.

Stanley v. Georgia (1969):

・ SC held that the regulations for regulating obscenity do not reach into the privacy of the home: If the 1st amendment means anything, it means that a state has NO business telling a man, sitting alone in his own home, what books he may read or what films he may watch.

・ The mere private possession of obscene material by an adult may not be made criminal!

New York v. Ferber (1982):

・ SC upheld a statute banning child pornography b/c it found the state’s interest in protecting children from participating in the production of these materials was strong enough to justify the banning of the materials themselves.

City of Renton v. Playtime Theaters (1986):

・ A city ordinance prohibited adult movie theaters within 1,000 feet of any residence, church, park or school. P had purchase 2 theaters, intending to show porno.

・ The SC said that this ordinance didn’t ban adult theaters altogether, just merely provides that such theaters may not be located within 1000 feet of certain places. Thus the ordinance is properly analyzed as a TIME, PLACE, AND MANNER REGUALTION.

・ RULE: Content neutral time, place, and manner regulations are acceptable so long as they are designed to serve a substantial govt. interest and do no unreasonably limit alternative avenues of communicaiton.

・ RULE: Content based statutes, those which restrain speech on the basis of its content, presumably violate the 1st amendment.

・ This SC found that the city’s pursuit of its zoning interests here was unrelated to the suppression of free expression. These interests were to prevent crime, protect the city’s retail trade, maintain property values, and protect and preserve the quality of life in the city. If the city had been concerned with restricting the message purveyed by adult theaters, it would have tried to close them or restrict their number rather than circumscribe their choice as to location.

・ CONCL: The Renton ordinance is completely consistent with the SC’s definition of “content neutral” speech regulations as those that are justified without reference to the content of the regulated speech.

・ Also, the SC found that the Renton ordinance was narrowly tailored to affect only that category of theaters shown to produce the unwanted secondary effects.

Barnes v. Glen Theater (1991):

・ Indiana had a ban on public nudity to barroom dancing.

・ SC said that nude dancing is sufficiently expressive to receive SOME 1st amendment protection.

・ SC ultimately found that the state interest in preventing public nudity was CONTENT NEUTRAL, and upheld the ordinance under the O’BRIEN TEST: (“govt. interest unrelated to the suppression of free expression”)

Fighting Words, Captive Audiences, and Hate Speech:

Cohen v. California (1971):

・ RULE: Profane, offensive language is nonetheless 1st amendment speech, and may NOT be suppressed under the guise of regulating the “manner” of speech.

・ Cohen wore a jacket reading “Fuck the Draft” in the LA Courthouse, where women and kids were present. He was convicted of violating a statute prohibiting “the intentional disturbing the peace or quiet of any person by offensive conduct.”

・ SC reversed the conviction on 1st amendment grounds, finding that the jacket was NOT obscene. SC found that an expression is obscene only if it is in some significant way, erotic. They reasoned that no erotic psychic stimulation could reasonably have been expected to result when anybody read the jacket.

・ SC found that the courthouse visitors were not a captive audience because they could have avoided further bombardment of their senses simply by averting their eyes.

・ SC stressed that the 1st amendment’s general function is to remove governmental restraints for the arena of public discussion. Only when speech falls within relatively narrow pre-established categories may govt. regulate its form or content.

・ SC says to leave matters of taste and style to the individual, especially since one man’s vulgarity is another’s lyric.

・ The constitution protects the emotional function of speech just as much as the cognitive content of expression.

・ One cannot forbid particular words without also running a substantial risk of suppressing ideas in the process.

GET NOTES ON FIGHTING WORDS AS COMPARED TO PROFANITY!

・ Citizens in public places have no right to be protected from unwelcome noises and utterances. But, noisy sound trucks could be regulated in residential settings, lest a captive audience in their homes be incommoded by unwanted expression.

Beauharnais v. Illinois (1952):

・ Libel is not speech protected by the 1st amendment

・ Collectivities as well as individuals can be libeled

・ It was within the realm of reasonalbe legislative choice to create a law to erase racial tensions in the state.

Wisconsin v. Mitchell (1993):

・ D directed a group of blacks to beat a white guy after seeing a racially insighting movie. They did. Convicted of aggrivated battery and his sentence was increased under a statute providing for extra time for “hate crimes”

・ SC affirmed the enhanced sentence, holding that the statute in this case is aimed at conduct that is unprotected by the 1st amendment.

FCC v, Pacifica Foundation (1978):

・ George Carlin said the 7 dirty words on the airwaves ? but in different contexts….

・ The FCC ruled it “patently offensive” ? but not obscene and banned it .

・ The SC upheld the FCC action ? emphasizing the special nature of radio transmissions.

・ SC said patently offensive, indecent material presented over the airwaves confronts the citizens, not only in public, but also in the privacy of the home, where the individual’s rights to be left alone plainly outweighs the 1st amendment rights of an intruder.

・ SC also acknowledged the access to children…..

Sable Communicaitons v. FCC (1989):

・ SC invalidated a federal law which criminally prohibited sexually oriented prerecorded phone messages

・ RULE: Indecent but nonobscene speech is protected by the 1st amendment and presumptively cannot be banned.

・ Placing a phone call requires affirmative choice by the listener as to what he or she wants to hear, and there is less danger to kids here than in Pacifica….other less restrictive means could achieve the same end.

・ Congress cannot completely ban indecency on cable televions after this case.

Denver Area Educational TV v. FCC (1996):

・ SC adopted a balancing approach to legislation authorizing the FCC and cable operators to bar sexually explicit as well as obscene material on leased access and public access channels, for which such operators normally have no editorial discretion.

Reno v. ACLU (1997):

・ SC invalidated provisions of the Communications Decency Act of 1996 prohibiting transmission of indecent communications to person under 18 on the itnernet.

・ RULE: Cyberspace is subject to normal 1st amendment precepts, which were automatically fatal to the Act’s content-based regulation of indecency.

・ The Internet is not as invasive as TV or radio, and users cannot come upon porn by accident or without prior warning.

・ So the act here was overbroad and the statutory goal could be achieved thru less restrictive means.

Commercial Speech:

VA Board of Pharmacy v. VCCC (1976):

・ P said that pharmacists ban on price advertising violated 1st and 14th amendments

・ SC said Commercial speech is protected by the 1st amendment

・ The SC balanced the reasons for allowing free access to this speech or info with the reasons the state gave for regulating it.

・ The majority buys the romantic argument that this advertising will help the poor, ill, old….but there is a major public and societal interest in free flow of commercial information that the SC relies on here.

・ What about LOCHNER then?

・ In LOCHNER, there was a strong emphasis on economic autonomy and individual right to make own economic decisions. Mainstream law and economic ideas here and in Lochner.

Central Hudson Gas & Electric v. Public Service Comm’n (1980):

・ State regulation that banned public utility ads promoting use of electricity.

・ SC struck down the ban and gave us a 4 part test for regulaitons of commercial speech

・ 4 PART TEST FOR REGULAITON OF COMMERCIAL SPEECH:

(1) The speech, at least, must concern lawful activity and not be misleading

(2) Ask whether the asserted governmental interest is substantial

(3) If both above yes, they we determine whether the regulation directly advances the governmental interest asserted

(4) Whether it is not more extensive than is necessary to serve the itnerst.

・ The 1st amendment also covers advertising by lawyers…

Florida Bar v. Went For It (1995):

・ P challenged a florida rule that prohibited targeted mailings to accident victims until 30 days after the injury.

・ SC upheld the rule ? mostly on the basis of evidence about the effects of lawyer advertising on public opinion.

・ SC attached substantial weight to the purpose of the waiting period….

Posadas de Puerto Rico v. Tourism Company of PR (1986):

・ SC upheld a ban on local advertising of casino gambling, finding the ban justified by the goal of reducing demand for gambling among PR residents.

44 Liquormart v. Rhode Island (1996):

・ P challenged a RI statute banning price advertising of alcohol, except at place of sale.

・ SC struck down the law ? it failed the Central Hudson Test

・ The majority here also thought that Posado had been too hasty in accepting PR’s justificaitons without giving them the closer look tha twe have required since then…

What about knowledge of falsity, recklessness, or intent to harm ?

Motives didn’t seem to matter to the court in these cases…

・ VA Baord motive was $, but it didn’t matter to SC

Campaign Expenditures:

Buckley v. Valeo (1976):

・ The FEC Act restricted political contributions and expenditures that applied broadly to all phases of and all participants in the election process.

・ The expenditure is more like speech than a contribution is!

・ Congress CAN set limit on contributions, but not expenditures.

・ The laws differ for corporations because they make contributions on behalf of others and that is tough to adequately represent those people as a whole.

・ However, contributions are OK for referendums and not limited, but are limited as to specific candidates.

・ PAC’s were crerated to get around these rules.

・ Individuals are limited as to contributions, but interest groups can BUNDLE these amounts and pass them on to the candidates.

・ How is this like commercial speech? They are both paid for!

First National Bank v. Bellotti (1978):

・ MA passed a law prohibiting corps. from spending funds to influence the vote on any REFERENDUMS which didn’t materially affect the corp’s business.

・ SC struck down a MA ban on corporate political advocacy. The SC relied on the public’s right to know, rather than on the corporation’s right to speak.

・ The majority reasoend that the speech here, because it informed the public on a political matter, was protected by the 14th amendment regardless of whether its source was corporate or individual

・ However, the SC didn’t address whether corps always have 1st amendment rights identical to those of individuals.

・ The SC said this was content based discrimination, so it applied STRICT SCRUTINY.

Austin v. Michigan Chamber of Commerce (1990):

・ SC upheld a michigan prohibition on corp contributions or expenditures in political campaigns except through special Political Action Funds (PACs).

・ The SC upheld the statute because the compelling state interest of preventing corps from channeling funds obtained from consumers and investors into political campaigns.

Red Lion Broadcasting v. FCC (1969):

・ SC upheld the FCC fairness rule requiring broadcasters to give equal access to differing political views.

・ The SC reasoned that the collective interest of views and listeners in balanced info dissemination can justify state regulation here.

・ The 1st amendment’s purpose is to preserve an uninhibited marketplace of ideas in which truth will ultimately prevail, rather than to countenance monopolization of that market, whether it be by the Govt itself or a private licensee.

CBS v. FCC (1981):

・ SC upheld a statutory access right, created by a statute authorizing license revocation for willful failure to allow the use of a broadcasting station by a legally qualified candidate for federal elective office on behalf of his candidacy.

Miami Herald v. Tornillo (1974):

・ SC ruled that newspapers are exempt from access mandates by striking down a Florida “right to reply” statute requiring papers to give criticized candidates space to defend themselves after an attack/criticism.

・ SC said that because of the cost of dedicating space to a response, a paper might be inhibited in attacking candidates in the first place, resulting in a less vigorous debate over public issues.

・ Second, the SC said that a newspaper is more than just a passive recepticle for news, comment, and advertising….

・ Thus, red lion seemed to be based on the special curcumstances of the broadcasting industry.

SPEECH WITH A GOVERNMENT NEXUS:

Speech on Government Property and the Public Forum Doctrine:

The Pbulci Forum Doctrine: State property traditionally open for expressive purposes may not be closed off or abridged for reasons relating to the content of the proposed expression. But the state may impose reasonable “time, place and manner” restrictions on the use of public property.

United States v. Grace (1983):

・ ISSUE: whether a statute prohibiting the display of any flag, banner or device designed or adapted to bringing into public notice any party, organization, or movement in the US SC Building and on its grounds violates the 1st amendment.

・ SC concluded that the sidewalk surrounding the outer boundaries of the SC Bldg. are indistinguishable from any other sidewalks in Washington DC, and there is no reason to treat that sidewalk differently - that sidewalk is a public forum!

・ SC also ruled that the prohibitions in the statute do not sufficiently serve the purposes presented by the govt. ? not a sufficient nexus to sustain the statute.

・ NO ban can be placed on the displaying of banners, etc b/c sidewalks are public forums, but it is OK to place reasonable time, place, and manner rxns. On the sidewalks.

Frisby v Schultz (1988):

・ SC ruled that even though a residential street is a public forum, the govt. CAN ban all focused picketing taking place solely in front of a particular residence.

Lloyd v. Tanner:

・ SC said that citizens may not exercise general rights of free speech on property privately owned, and that it would be an unwarranted infringement of property rights to require them to yield to the exercise of the 1st amendment rights.

Ward v. Rock Against Racism (1989):

・ NYC attempted to regulate the volume of amplified music at the bandshell in Central Park so the performances are satisfactory to the audience without intruding upon those who use the Sheep Meadow or live in Central Park West or its vicinity.

・ The P challenges the volume control technique under 1st amendment principles.

・ Music is protected by the 1st amendment and the city’s regulations must meet 1st amendment standards to be valid.

・ The city says its purpose is to limit and control noise by requiring the volume control.

・ RULE: Even in a public forum, the govt. can impose reasonable time, place, and manner restrictions on protected speech, provided the restrictions are justified without reference to the content of the regulated speech. The restrictions must also be narrowly tailored to serve a significant govt. interest and leave open ample alternative channels for communication of the information.

・ SC said the regulaiton here was content ? neutral and the govt’s purpose was a significant govt. interest. This is a time, place, and manner rxn!

・ RULE: Rxns on time, place, and manner of protected speech are not invalid simply because there is some imaginable alternative that might be less burdensome on speech.

・ RULE: A regulation of the time, place, or manner of protected speech must be narrowly tailored to serve the govt.’s legitimate content-neutral interests but that it need not be the least restrictive or least intrusive means of doing so.

・ Content-neutral regulaitons receive lower scrutiny.

Perry Educ. Ass’n v. Perry Local Educators Assn (1983):

・ Can an insurgent faculty union have access to school mailboxes?

・ SC said that the faculty mailboxes were NOT a public forum and that restricting access to the recognized union was reasonable.

・ The SC created a 3 part framework for evaluating regulations of speech on govt. property: The degree of scrutiny depends on whether the ppoperty in Q is:

(1) a traditional public forum such as a park

(2) a “limited” forum that the govt. has expressly dedicated to speech purposes OR

(3) other govt. property (“nonpublic forum”).

・ If traditional forum, TP&M rxns are allowed, byt the govt. cannot close the forum to expressive activities, and it has no more power to regulate on the basis of content than it has on private property.

・ The rules for a LIMITED forum are the same, except that the govt. can close the forum to expressive activity altogether if it chooses.

・ If nonpublic forum, the govt. can impose any reasonalbe regualtion so long as it avoids discriminating on the basis of viewpoint.

Intl. Society for Krishna Consciousness v. Lee (1992):

・ ISSUE: Whether an airport terminal operated by a public authority is a public forum and whether a regulation prohibiting solicitation in the interior of an airport terminal violates the 1st amendment.

・ A traditional public forum is property that has as a principal purpose the free exchange of ideas. A public forum is created whenever members of the public are permitted freely to visit a place owned or operated by the govt.

・ SC determined that an airport is NOT a public forum b/c they have not historically been made available for speech activity.

・ Thus, since this is not a public forum, the rxn must only satisfy a reasonableness test.

・ SC concluded that this rxn. Is reasonable!

・ The PERRY Test above has been criticized!

Speech by Public Employees:

Pcikering v. Board of Educaiton (1968):

・ A teacher had been fired for writing a letter in the newspaper criticizing the school board'’ fiscal policies.

・ SC ruled that because the letter was not shown to undermine his teaching duties or otherwise interfere with the operation of the schools, the school board had no more interest in restricting this speech than that of any other citizen. Thus the letter was PROTECTED SPEECH!

・ SC balanced the interests of the teacher as a citizen, and the state as an employer…

Connick v. Myers (1983):

・ Court analysis is principled on public concern v. personal, individual intersts

・ Here, the public interest is effective operation of the agency

・ SC concluded that the questionnaire touched upon matters of public concern in only a limited way and was mostly an employee grievance, therefore, the superior can refuse to put up with the action here that he believed would disrupt the office, undermine authority, or destroy close work relationships.

Waters v. Churchill (1994):

・ Nurse was fired for allegedly criticizing a hospital transfer policy

・ SC ruled that the govt interest in efficient operation is elevated from a relatively subrdiante interest when it acts as a soverign to a significant one when it acts as an employer ? someone who is paid a salary to contribute to an agency’s effective operation cannot expect to do or say things that detract from the agency’s effective operaiton.

・ SC seems to be drawing a line between internal matters and outside speech on public issues. The latter’s 1st amendment protections are large!

Political Conduct/ Status of Government Employees:

UPW v. Mitchell (1947):

・ Involves regulation of partisan involvement by govt. employees.

・ SC upheld a statute prohibiting federal employees from actively participating in political campaigns.

・ In a later case, the SC elaborated on this holding, explaining that the state could act to avoid the corrupt influence of a spoils system and the possible political domination by a political machine.

・ SC held that the regulations were narrowly tailored to the feared harm to pass relaxed 1st amendment muster.

Branti v. Finkel (1980:

・ SC held that plitical affilition is not normally a basis for discharging employees.

・ The SC said that to justify an exception to this rule, the govt. must show that party affilitaion is an appropriate requirement for the effective performance of the public office involved.

・ In 2 1996 cases, the SC extended this holding to independent contractors, such as companies supplying services to the govt.

Unconstitutional Conditions:

Rust v. Sullivan (1991):

・ Title 10 of the Public Health Service Act establishes funding for family-planning services, but a section of the act provided that none of the funds can be used in programs where abortion is a method of family planning.

・ SC says this is a case of a prohibition on a project grantee or its employees from engaging in activities outside the scope of the project.

・ SC says that we cannot hinder the belief in abortion, but we don’t have to help it!

・ Govt cannot prohibit abortion, but it doesn’t have to pay for abortions.

・ The general rule that the govt. may choose NOT to subsidize speech applies with full force to this case.

・ When a govt. appropriates public funds to establish a program it is entitled to define the limits of that program.

Rosenberger v. Rector and Visitors of UVA (1995):

・ UVA has a fund which is used to cover printing costs for various student groups. This fund is supported by student fees.

・ UVA refused to provide pmts of printing for a christian paper and a student challenged the restriction under free speech grounds

・ SC said that UVA engaged in viewpoint based regulation by disfavoring treatment to those student journalistic efforts with religious editorial viewpoints.

・ SC thus struck down the funding ban, concluding that fundamental free speech 1st amendment principles were at stake.

SPEECH WITHIN GOVERNMENT INSTITUTIONS:

Hazelwood School District v. Kuhlmeier (1988):

・ The school principal wouldn’t allow certain articles to be published in school paper regarding pregnancy in high school.

・ SC says this is OK because the school paper is not the same as an ordinary newspaper...

・ Here, the SC says you can’t limit or take away a student’s freedom of speech UNLESS school authorities have reason to believe that such expression will substantially interfere with the work of the school or impinge upon the rights of other students.

・ Educators do not offend the 1st amendment by exercising editorial control over the style and content of student speech in school-sponsored expressive activities so long as their actions are reasonably related to legitimate pedagogical concerns.

PRISONERS:

・ Like school kids, prisoner’s 1st amendment rights can be compromised by rules reasonably related to legitimate penological standards.

Parker v. Levy (1974):

・ The different character of the military community and of the military mission require a different application of 1st amendment protections.

・ Thus, disrespectful and contemptuous speech about political issues may be prohibited in the military context because it may undermine the effectiveness of the response of command.

Finley Case (p. 41 supp):

・ Can the govt. impose restrictions or take into consideration certain concerns in deciding to fund art?

・ Is this viewpoint discrimination?

・ Congress imposed a decency and respect requirement in NEA funding of the arts…

・ The SC upheld the statute requirement that decency and respect be considered in grant applications, stressing that the statute imposed no categorical requirement ? but was merely advisory and suggestive of factors to be considered, not treated as dispositive.

・ Thus, the SC concluded that it did not perceive a realistic danger that the provision would compromise 1st amendment values.

・ Also, the SC hinted that the govt. has significantly wider scope for viewpoint discriminaiton when it acts as spender rather than as regulator.

PROCESS-BASED PROTECTIONS FOR SPEECH

Prior Restraints and Permit Systems:

Near v. Minnesota (1931):

・ Leading case on prior restraints

・ Govt obtained an injunction forbidding a paper from circulating any publication whatsoever which is a malicious, scandalous, or defamatory paper.

・ SC emphasized that unless the owner or publisher is able and disposed to bring competent evidence to satisfy the judge that the charges are true and are published with good motives and for justifiable ends, his paper is suppressed and futher publication is made punidshable as a contempt.

・ This the SC said was the equivalent of a LICENSING SYSTEM and is of the essence censorship!

・ SC expressed a rule against prior restraints, but it had a few exceptions…

Shuttlesworth v. City of Birmingham (1969):

・ Civil rights marchers were convicted under an ordinance that gave complete discretion to city officials over parade permits. SC reversed the convictions.

・ RULE: A law subjecting the exercise of 1st amendment freedoms to the prior restraint of a license, without narrow, objective, and definite standards to guide the licensing authority, is unconstitutional!

・ SC said that a person facing an unconstitutional licensing law may ignore it and engage in impuity in the exercise of the right of free expression.

Walker v. Birmingham (1967):

・ SC upheld contempt-of-court citations for violating an injunction against the same demonstrators above.

・ SC said that an unconstitutional injunciton must be obeyed until it is reversed on appeal, it cannot simply be ignored.

NY Times v. USA (1971):

・ NY times got a hold of the classified “Pentagon Papers” and sought to print them.

・ The govt. sought an injunction against publicaiton of the papers.

・ SC rejected the govt’s argument and denied the injunction!

・ SC said any system of prior restraints of expression comes to this court bearing a heavy PRESUMPTION AGAINST ITS CONSTITUTIONAL VALIDITY. The govt. thus carries a heavy burden of showing justificaiton for the imposition of such a restraint.

Madsen v. Women’s Health Center (1994):

・ Anti abortion demostrators picketed outside a FL abortion clinic. A state court permanently enjoined them from blocking access or physically abusing people entering or leaving the clinic.

・ The TC found the first injunciton to be ineffective, so it issued a more restrictive injunction creating a 36 foot buffer zone around the clinic in which picketing was banned, limiting the noise level, and prohibiting any uninvited approach to clinic patients within 300 ft.

・ P claimed this was a viewpoint based injunciton b/c it only restricts the activities of anit-abortion activists. The SC rejected this contention, concluding that there is nothing in the record to suggest that FL law would not equally restrain similar conduct directed at a target having nothing to do with abortion.

・ None of the restrictions imposed by the TC were directed at the content of the P’s speech! This was a content-neutral regulation!

・ TEST: Whether the govt has adopted a regulation of speech without reference to the content of the regulated speech.

・ Because content-neutral, the injunciton questioned doen’t demand heightened scrutiny.

・ Because this is an injunciton and not merely an ordinance, the test of Ward v. Rock agaisnt Racism (time, place & manner test) cannot be applied here because injuncitons carry a greater risk of censorship and discriminatory application than do general ordinances.

・ TEST FOR EVALUATING A CONTENT-NEUTRAL INJUNCTION:

・ Ask whether the challenged provisions of the injunction burden no more speech than necessary to serve a significant government interest.

・ SC applied this test and concluded that parts of the injunction here were OK but other parts were not OK under this test.

Schench v. Pro-Choice Network (1997):

・ Involves an injunciton against abortion picketing.

・ The injunction banned demonstrations within 15 feet of the clinic or anyone seeking to enter the clinic. It also required the counselors to cease and desist their counseling if the patient wanted them to.

・ SC held that Madson was controlling precedent, and struck down the floating buffer zones of this injunction b/c they burdened more speech than necessary.

・ As to the cease and desist order, the SC upheld the prohibition on the ground that it actually broadened 1st amendment rights of the protestors by allowing them to approach individuals who would otherwise have been within the fixed buffer zone.

Due Process Vagueness and the 1st amendment:

・ In general, the SC has repeatedly invalidated, on due process “vagueness” grounds, statutes that are not sufficiently clear for citizens and police to know precisely what conduct is prohibited or regulated by law.

・ Most of the vagueness cases involve criminal statutes that potentially deprive citizens of their physical, walking-around liberty, but the same concerns are at least as important for statutes that potentially deprive citizens of their freedom of expression.

Gentile v. State Bar of Nevada (1991):

・ court disciplined an atty who held a press conference after his client’s indictment.

・ SC reversed the disciplinary order against the atty, holding that the state rule was valid on its face but one exception of the rule makes it, as a whole, unconstitutionally vague.

・ The lawyer had no principle for determining when his remarks pass from the safe harbor of the general to the forbidden sea of the elaborated. This was a trap for the wary as well as the unwary.

Equal Protection, Overbreadth and the 1st Amendment:

The rationales for the overbreadth doctrine are similar to those of the vagueness doctrine:

・ minimizing official discretion in the enforcement of statutes that might curtail speech

・ expanding the range of people who can bring constitutional challenges

・ minimizing the chilling effect of rules on people’s willingness to engage in expression.

Board of Airport commissioners v. Jews for Jesus (1987):

・ The BAC in LA adopted a resolution banning all 1st amendment activities within the central terminal area at LAX. An airport official told a minister with JFJ to stop distributing religious materials, the minister commenced this action, claiming the resolution was unconstitutional on its face.

・ RULE: Under the 1st amendment “overbreadth” doctrine, an individual whose own speech or conduct may be prohibited is permitted to challenge a statute on its face because it also threatens others not before the court ? those who desire to engage in legally protected expression but who may refrain from doing so rather than risk prosecution or undertake to have the law declared partially invalid.

・ RULE: A statute can be invalidated on its face, only if the overbreadth is SUBSTANTIAL!

・ TEST: there must be a realistic danger that the statute itself will significantly compromise recognized 1st amendment protections of parties not before the Court for it to be facially challenged on overbreadth grounds.

・ Here, the SC said the regulaiton is so overbroad that such a ban cannot be justified even if LAX were a nonpubic forum because no conceivable governmetnal interest would justify such an absolute prohibition of speech.

・ The SC found no apparent saving construcion of the reslution ? it expressly applies to all 1st amendment activities and the words leave no room for a narrowing construciton.

・ Thus the resolution violates the 1st amendment!

FREEDOM OF ASSOCIATION:

NAACP v. Alabama (1958):

・ SC ruled that the NAACP couldn’t be required to turn over its membership list to the state.

・ Freedom to associate!

Abood v. Detroit Bd. Of Ed (1977):

・ SC held that school teachers could not be forced to join a union as a condition of employment.

・ Freedom not to associate!

NAACP v. Claiborne Hadware Co. (1982):

・ boycott of white stores by blacks in Claiborne, MS to force businesses and civic leaders to agree to a series of civil rights demands.

・ SC concluded that liability cannot be imposed simply because an individual belongs to a group that also contained some violent members.

・ RULE: It is necessary to establish that the group itself possessed unlawful goals and that the individual held a specific intent to further those illegal aims.

Board of Directors of Rotary Intl. V. Rotary Club of Durante (1987):

・ The D local chapter of Rotary admitted women, so the national organization pulled its charter.

・ The women members filed suit challenging the action as a violation of CA’s Unruch Civil Rights Act.

・ TWO TYPES OF FREEDOM OF ASSOCIATION: Private and Expressive

・ First, the Court has held that the Const. protects against unjustified govt. interference with an individual’s choice to enter into and maintain certain intimate or private relationships. PRIVATE ASSOCIATION

・ Second, the SC has upheld the freedom of individuals to associate for the purpose of engaging in protected speech or religious activities. EXPRESSIVE ASSOC.

・ First amendment protects those relationships that presuppose deep attachments and commitments to the necessarily few other individuals with whom one shares not only a special community of thoughts, experiences, and beliefs but also distinctively personal aspects of one’s life.

・ TEST: Careful assessment of where the relationship’s objective characteristics locate it on a spectrum from the most intimate to the most attenuated of personal attachments.

・ Consider factors such as size, purpose, selectivity, and whether others are excluded from critical aspects of the relationship.

・ SC concluded here that the relationship among Rotary members is NOT the kind of intimate or private relation that warrants constitutional protection.

・ Thus, the application of the CA Unruch Civil Rights Act doesn’t interfere unduly with the members freedom of private association.

Hurley v. Irish-American GLB Group of Boston (1995):

・ MA applied its public accomodations law to require the annual ST. Patrick’s Day Parade to include a gay rights group.

・ SC held that requiring inclusion of this group in the parade would infringe the organizer’s 1st amendment rights. The parade itself was an expressive activity, and for the state to require inclusion of gay group and its message conflicted with the right of the organizers to shape their own message.

・ The SC said the state had no business regulating speech in order to modify public attitudes.

THE RELIGION CLAUSES:

Free Exercise:

Stansbury v. Marks (1793):

・ D refused to be sworn in court because it was his sabbath.

・ The TC fined him, but then discharged the fine when the D waived his testimony.

Wisconsin v. Yoder (1972):

・ Amish parents refused to send their kid to high school because they believed it would corrupt them and destroy the amish way of life.

・ SC said this was OK ? it would corrupt the kids and they found no compelling state interest in requiring continued school attendance.

・ The SC also found that 8th grade educaiton was ample to prepare Amish kids for their way of life.

Sherbert v. Verner (1963):

・ SC held that the Free Exercise Clause was a limitation on state regulaiton independent of the other provisions of the 1st amendment.

・ This case involved the denial of unemployment benefits to a Sabbatarian who refused to work on Saturdays.

・ SC said the denial of benefits forced her to choose between following her religion and forfeiting benefits, and vice versa on the other hand. Govt. imposition of such a choice puts the same kind of burden upon the free exercise of religion as a would a fine.

・ The court here applied a COMPELLING INTEREST TEST.

Employment Division, dept. of Human Resources v. Smith (1990):

・ The Ps were fired by a private drug rehab organization because they used peyote at a ceremony of the Native American Church. In addition, the Oregon criminal statute was applied to their case.

・ BIG: If prohibiting the exercise of religion is not the object of the tax but merely the incidental effect of a generally applicable and otherwise valid provision, then the 1st amendment has not been offended.

・ Sherber Test: Governmental actions that substantially burden a religious practice must be justified by a compelling govt. interest. However, here, the SC declined to apply the Sherber Test outside of the unemployment field!!!!!

・ Here, the SC failed to allow an exception for the use of peyote for religious purposes.

・ The SC said that the right of free exercise does not relieve an individual of the obligation to comply with a valid and neutral law of GENERAL ACCEPTABILITY on the ground that the law proscribes conduct that his religion prescribes.

・ TEST: As long as the “ban on peyote” was generally acceptable, and not motivated by a governmental desire to affect religion, the law was fully enforceable despite the burden on the plaintiffs.

Church of the Lukumin Babalu Aye v. Hialeah (1993):

・ Hialeah, FL passes a series of ordinances that, though facially neutral, were targeted against the church’s use of animal sacrifice, a religious ritual central to the church’s religious practices.

・ SC concluded that the ordinances were unconstitutional.

・ SC found that the ordinances were not “neutral and of general applicability” but rather were enacted with the intention and had the effect of suppressing a religion, and accordingly applied STRICT SCRUTINY!

・ The ordinance failed strict scrutiny!

The Establishment Clause:

Everson v. Board of Educaiton (1947):

・ NJ statute authorized local school districts to pay for transportation of kids to and from school ? both public and private.

・ ISSUE: Whether a local school district violated the Establishment Clause by reimbursing parents for transportaiton of their kids to Catholic parochial schools.

・ SC refused to find that the 1st amendment prohibits NJ from spending tax-raised funds to pay the bus fares of catholic school kids as a part of a general program under which it pays the fares of kids attending public and other schools.

・ This service here is so separate and so indisputably marked off from the religious function that it is OK

・ The 1st amendment requires the state to be a neutral in its relations with groups of religious believers and non-believers; it doesn’t require the state to be their adversary!

・ State power is no more to be used so as to handicap religions, than it is to favor them.

Wallace v. Jaffree (1985):

・ Involves a state law mandating a moment of silence for meditaiton or voluntary prayer in the public classrooms.

・ SC held the statute unconstitutional, rejuecting the argument that the Establishment Clause prohibits only govt. discrimination b/w various sects.

・ The individual freedom of conscience protected by the 1st amendment embraces the right to select any religious faith or none at all.

Marsh v. Chambers (1983):

・ SC upheld a challenge to the practice of opening state legislature sessions each day with a prayer by a state paid chaplain because of the unique historical roots….

Lemon v. Kurtzman (1971):

・ RI statute provided for a salary supplement for teachers at private schools to equalize spending on secular education with that of public schools.

・ SC struck down the statute b/c it required too much govt. supervision of the teaching in parochial schools, thereby entangling religious and govt. institutions.

NEW 3 PRONG TEST FOR ESTABLISHMENT CLAUSE CLAIMS:

(1) Statute must have a secular legislative purpose

(2) The statute’s principal or primary effect must be one that neither advances nor inhibits religions

(3) The statute must not foster an excessive government entanglement with religion.

County of Allegheny v. ACLU (1989):

・ This case involves 2 religious displays: a nativity schene on courthouse steps and a menorah outside a govt. bldg. next to a Christmas tree.

・ SC upheld the menorah, but rejected the nativity scene.

・ SC concluded that the nativity scene did convey a religious message and the banner above the scene saying “glory to god in the highest” was an endorsement of religion.

・ The SC thought the menorah was merely a noncoercive display of a conventional religious symbol.

・ SEE EMANUEL ON THIS CASE ? NOT SURE!!!!

Capitol Square Review v. Pinette (1995):

・ the KKK requested to place an unattended cross on the public square during the 1993 holiday season, but was denied on Establishment Clause grounds.

・ SC found in favor of the KKK, but on mixed grounds.

・ One group found that the endorsement test doesn’t apply at all to private relitious expression in a public forum.

・ Another group thought the endoresement test did apply here, but that a reasonable observer would not have believed that the govt. was endorsing the KKK’s message ? given the fact that the square is a public forum.

Lamb’s Chapel v. Center of Moriches Union Free School District (1993):

・ The SC struck down a school district practice of routinely opening its facilities for after-hours use for essentialy all but religious purposes, such that a film on family values could be shown by a civic group, but not a religious group.

・ SC said that under the circumstances there would have been no real danger that the community would think that the district was endorsing religion or any particular creed, and any benefit to religion or the Church would have been no more than incidental.

・ SC applied the LEMON TEST here ?

Rosenberger v. Rector and Visitors of UVA (1995):

・ UVA authorized payments from its student activity fees to cover printing costs of various student groups. The university refused to cover printing of a religious group’s paper, claiming it was required in order to comply with the Establishment Clause.

・ SC was divided on the issue…..but the majority stressed that the scheme for funding student publications was completely neutral in its application, didn’t involve the use of general tax revenues, and paid only for the discrete activity of printing for otherwise eligible groups. Futher, it stressed that no public funds flow directly to the religious group’s coffers.

・ Thus, no Establishment Clause violation was present.

Engel v. Vitale (1962):

・ SC struck down a NY law requiring students to recite a nonsecretarian prayer.

・ The prayer was still struck down even though students were allowed to remain silent or leave the room ….

Lee v. Weisman (1992):

・ Involves prayer as party of the graduation ceremony from public school.

・ SC held that even a completely non-denominational school prayer would violate the Establishment Clause if it were state-sponsored.

・ SC found that the state effectively coerced students into participating in or supporting the prayers ? the graduation ceremony was a state sponsored event, so prayer is in violation of Estab. Clause.

Board of Educaiton of Kiryas Joel Village School Dist. V. Grument (1994):

・ This case illustrates the difficulty of identifying the limits of permissible accomodaiton.

・ State govt passed special legislation to accommodate the needs of Orthodox-Jew disabled kids that authorized them to form their own public school district, so that the kids would not have to attend county schools.

・ SC held that the special school district was unconstitutional because it was a delegation of govt. power to a religious group.

Bob Jones University v. US (1983):

・ Baptist school finally allowed blacks to attend but prohibited interracial dating or marriage, which the school’s religious doctrine considered sinful.

・ The IRS denied the school tax exempt status b/c it engaged in invidious racial discriminaiton.

Gay Rights Coalition of Georgetown Law v. Georgetown University (1987):

・ DC Human Rights Act makes it an unlawful discrim. Practice for an educaitonal institution to deny the use or access to any of its facilities or services to a person for a discrim. Reason…..

・ 2 student groups petitioned for university recognition by which Gworgetown would grant them official status and access to facilities.

・ The school declined because it’s a catholic school and the group’s goals are at odds with the Catholic doctrine….what outcome?

CHPATER 7: FEDERALISM

・ The US system is a federalist system ? the national govt. and the state govts. Coexist

・ Federal govt. has limited, enumerated powers. The 3 branches may only assert those powers specifically granted by the Constitution.

・ There is NO general federal police power ? no right to regulate for the health, safety, or general welfare of the citizenry.

・ But, Congress does have the power to make all laws that are “Necessary and Proper” for carrying out its enumerated powers. Congress may use any means that is rationally related to the objective being sought, as long as that objective falls within the specifically enumerated powers.

FOR A FEDERAL ACTION TO BE VALID:

(1) The action must fall within one of the powers specifically enumerated in the Constitution as being given to the federal govt.

(2) The action must not violate any particular limitation on federal power given in the Constitution.

Mcculloch v. Maryland (1819):

・ The US created the 2nd bank of the US, but it encountered political opposition and the states enacted Anit-Bank measures.

・ One anti-bank measure was in Maryland where the state imposed a tax upon all banks operating in the state that were not chartered by the state. This was intended to diecriminate against the national bank. The state then brought suit against the National Bank and its cashier, Mcculloch, to collect the tax.

・ SC held that the Maryland tax was INVALID.

・ The SC held that the chartering of the federal Bank was within the federal govt. power, and since the bank was constitutionally chartered, the MD tax upon it was unconstitutional.

・ Marshall said the power of the federal govt. comes from the people, not the states.

・ Second, Marshall concluded that particular powers could be IMPLIED from the explicit grant of other powers in the constitution. They need not all be explicit.

・ Marshall found that Congress had the power to create a corporation ? here, a bank, if this was incidental tot he carrying out of one fo the constitutionally-enumerated powers, such as the power to raise revenue.

・ He relied on the NECESSARY AND PROPER clause as a justification for Congress’s right to create a bank or corp. even though such a power was not specifically granted in the Constitution.

・ Marshall rejected the notion that “necessary” means absolutely necessary or indespensible. Rather, he said : “let the end be legitimate, lwt it be within the scope of the constituion, and all means which are appropriate, which are plainly adapted to that end, which are not prohibited, …are constitutional.

・ TEST: As long as the means are rationally related to a constitutionally specified object, the means is also constitutional.

・ Concl: the act chartering the national bank was valid, and the maryland tax was invalid because it interfered with the exercise of a valid federal activity.

・ Also, when applying this test, the SC will show great deference to Congress, and will generally not inquire into the legislator’s motives.

US Term Limits Inc, v. Thornton (1995):

・ Arkansas voters modified the AK State Constitution to prohibit any person from appearing on the ballot for Congress from that state if he or she had previously served 3 terms in the House or 2 in the senate.

・ The question arose as to whether the Qualifications Clauses in the Constitution stated the EXCLUSIVE requirements for membership in congress, or are they merely “minimum” requirements that the states may supplement?

・ SC struck down the AK provision as being beyond the states’ constitutional authority.

・ Permitting individual states to formulate diverse qualifications for their congressional representatives would result in a patchwork of state qualifications, UNDERMINING THE UNIFORMITY AND THE NATIONAL CHARACTER that the Framers envisioned and sought to ensure.

・ SC said Congress CANNOT add additional qualfications for membership in Congress to those in the Qualificaitons Clauses, so SC argued that this illustrated that the Frames intended that the Constitution should establish fixed qualifications. Thus if Congress can’t add qualifications, the states cannot either.

・ Here the vote was soooo close (5-4) that it shows how tenuous the once-settled view of federal authority is on today’s court…

・ Each decade’s cases have overruled the immunities cases of the preceeding decade ? total flip flopping…..

The Powers Delegated to the National Government:

The Commerce Power:

・ TEST FOR COMMERCE POWER:

(1) The activity being regulated must substantially affect commerce

(2) The means chosen by Congress is reasonably related to Congress’s objective in regulating.

・ Generally, when Congress thinks what it is doing is within the commerce power, the Court rarely disagrees, especially when the activitiy being regulated is commercial…

・ However, the 19th amendment occasionally limits Congress’s ability to use its commerce power to regulate the states.

・ When congress passes a GENERALLY APPLICABLE LAW, the fact that the regulation affects the states has no significance.

・ But, the 10th amendment does prevent Congress from interfering in certain ways with a state’s law making processes. Thus, Congress may not directly compel states to enact and enforce a federal regulatory program.

Gibbons v. Ogden (1824):

・ Ogden acquired a monopoly right to operate steamboats b/w NY and NJ. Gibbons began operating steamboats b/w NY and NJ in violation of Odgen’s monopoly. Gibbons boats were licensed under federal statute however. Ogden got a NY state court to grant an injunction ordering Gibbons to stop operating his boats in NY waters.

・ SC found the injunction against Gibbons INVALID because it was based on a monopoly that conflicted with a valid federal statute, so it violated the Supremacy Clause.

・ Marshall took a broad view of Congress’s power under the commerce clause ? congress can legislate with respect to ALL commerce which concerns more than 1 state. Commerce, he said, included not only buying and selling, but ALL commercial intercourse.

・ Marshall also concluded that NO AREA OF INTERSTATE COMMECE IS RESERVED FOR STATE CONTROL.

US v. EC Knight (1895):

・ Federal govt sued under the Sherman Antitrust Act to force a major sugar refiner to divest itself of other refiners that it had recently acquired.

・ SC held that congress could NOT, under the Commerce Clause, forbid a monopoly in “manufacture.” The refinery was a manufacturing operaiton, and was therefore for the state to control.

・ RULE:: What is required is a DIRECT LOGICAL RELATIONSHIP to commerce. So the fact that refined sugar is eventually sold in commerce was irrelevant, since the manufacturing operation’s relation to commerce was merely incidental and indirect.

・ This type of thinking is known as “Dual Federalism”

Champion v. Ames (The Lottery Case) (1903):

・ Congress passed a Federal Lottery Act which prohibited the interstate shipment of lotto tickets

・ SC upheld the statute, reasoning that lotteries were clearly an “evil” which it was desireable for Congress to regulate

・ Since congress only regulated the interstate shipment of these evil articles, it could not be said to be interfering with interstate matters reserved for state control.

・ This is an example of Congerss using the technique of prohibiting interstate transportation of certain items in order to flex “police power” or moral regulation.

Swift & Co. v. US (1905):

・ An activity could be regulated under the commerce power not because it had an effect on commerce, but rather, because the activity itself could be viewed as being in commerce or as being part of the current of commerce.

・ This is known as the “current of commerce” rationale.

Houston E&W Texas Railway v. US (the Shreveport Rate Case) (1914):

・ Example of the “substantial economic effect” approach ….

・ Here, the ICC, after setting rates for transport of goods b/w Shreveport and Texas, sought to prevent railroads from setting rates for hauls totally within TX which were less per mile than the T-Shreve rates.

・ The SC rejected the challenge to this action and upheld the ICC’s right to regulate intrastate charges, at least of interstate carriers.

・ SC held that the commerce power necessarily included the right to regulate all matters ahving such a close and substantial relation to interstate traffic that control is essential or appropriate to the security of that traffic.

・ SC reasoned that the fact that the activity being regulated was intrastate did not place it beyond congressional control, since the ultimate object was protection of interstate commerce.

Hammer v. Dagenhart (The Child Labor Case) (1918):

・ SC struck down a federal statute which prohibited the interstate transport of articles produced by companies which employed kids younger than certain ages or under certain conditions.

・ SC said the goods here are harmless, it was only the employment of kids that was an evil, and this employment was not directly releated to interstate commerce. SC tried to distinguish this case from the other “police power” cases.

・ HOLMES DISSENT: He said that so long as the congressional regulation falls within power specifically given to the Congress, the fact tha tit has a collateral effect upon local activities otherwise left to state control does not render it unconstitutional.

The New Deal’s Early Difficulties Meeting Commerce Clause Scrutiny:

RR Board v. Alton RR (1935):

・ SC struck down the RR retirement Act which established a mandatory retirement plan for RR workers.

・ SC said that although Congress had the power to regulate RR transporation under the CC, that power did not extend to establishement of a mandatory retirement age….because this was essentially related to the social welfare of the worker and remote from any regulation of commerce as such.

Schecter Poultry Cortp. V. US (1935):

・ SC invalidated the Natl. Industry Recovery Act’s labor rules for the NY poultry market.

・ SC held that the poultry code ? prohibiting child labor, setting min. wage, etc. ? was an excessive delegation and beyond CC power.

・ SC reasoned that the flow of itnerstate commerce involving the chickens here had ceased.

・ It is not the province of this Court to consider the economic advantages or disadvantages of such a centralized system. It is sufficient to say that the Fed. Constitution doesn’t provide for it.

Carter v. Carter Coal Co. (1936):

・ SC struck down the Coal Conservation Act, relying on Schecter…

NLRB v. Jones & Laughlin (1937):

・ this case tested the NLRB Act of 1935 involving the attempt to prevent J&L from engaging in unfair labor practices by discriminatory firing of employees for union activity

・ SC said the NLRB Act as applied to J&L here was within the commerce power.

・ The SC noted that although J&L manufactured iron and steel only in PA, it owned mines in 2 other states, and sent 75% of its product out of PA.

・ Because of this multi-state network of opwerations, the SC concluded that a labor stoppage of the PA intrastate manufacturing operations whould have a substantial effect on interstate commerce; therefore, labor relations at the PA plant could constitutionally be regulated by Congress.

・ Here the SC expressly abandoned the “current of commerce” theory….

・ CURRENT RULE: So long as the regulated activity has a substantial economic effect upon interstate commerce, that activity may occur substantially before the interstate movement or even long after the interstate commerce.

US v. Darby (1941):

・ the SC upheld the Fair Labor Standards Act which set minimum wages and max hours for employees engaged in the production of goods in interstate commerce.

・ The SC ruled that the 10th amendment will no longer act as an independent limitation on congressional authority over itnerstate comerce.

・ Thus, congress is free to impose whatever conditions it wishes upon the privilege of engaging in an activity that substanitally affects interstate commerce, so long as the conditions themselves violate no independent constitutional prohibition.

・ Further, the motive and purpose of a regulation of interstate commerce are matters for the legislative judgment upon the exercise of which the Constitution places no restriction and over which the courts are given no control. Thus, legislative intent or motive is irrelevant.

・ Congress can choose the means reasonably adapted to the attainment of the permitted end, even though they involve control of INTRASTATE activities.

・ Darby thus reverses the Child Labor Case.

Wickard v. Filburn (1942):

・ This case involved the Agricultural Adjustment Act of 1938 which permitted the Sec. Of Ag. To set quotas for the raising of wheat on every farm in the country. The quotas also applied to wheat which would be consumed on the very farm where it was raised.

・ Filburn owned a small farm in Ohio and he challenged the govt’s right to set a quota on the wheat which he raised and consumed on his own farm, on the grounds that this was a purely local activity beyond the scope of federal control.

・ SC upheld the statute, even as it applied to home-consumed wheat.

・ SC reasoned that home-grown wheat is a large and variable factor in the economics of the wheat market. The more wheat that is consumed on the farm where it is grown, the less wheat that is bought in commerce….whether interstate or not.

・ SC said the cumulative effect of people’s decisions to grown their own wheat is far from trivial because it interferes and competes with interstate commerce.

・ SC concluded that the regulation of home grown wheat is reasonably related to the protection of the inteerstate commercial trade in wheat.

Heart of Atlanta Motel v. US (1964):

・ P was a motel in Atlanta that refused to rent rooms to blacks.

・ The hotel was near 2 interstate highways and derived 75% of its business from out-of-town guests, and solicited business nationally thru the media.

・ SC held that the motel could constitutionally be reached by the Civil Rights Act under the Commerce Clause.

・ SC held that the power of Congress to promote interstate commerce also includes the pwer to regulate the local incidnets thereof, including local activities in both the States of origin and destination, which might have a substantial and harmful effect upon that commerce.

・ If it is interstate commerce that feels the pinch, it doesn’t matter how local the operation that applies the squeeze!

・ Congress’s motive here, which was moral and social, was of no concern to SC.

・ MOTIVE Doesn’t matter!

Katzenbach v. McClung (1964):

・ this involved a Birmingham restraunt that discriminated against blacks. This restaurant was NOT near an interstate highway, there was no evidence that any appreciable part of the business was in serving travelers….But 46% of the food purchased by the restaurant was bought from a supplier who had bought it from out of state.

・ SC upheld the Civil Rights Acts’s application to this restaurant!

・ SC observed that unavailabilty of accomodations dissuaded blacks from traveling in interstate commerce.

・ RATIONALE: Even though the restaurant itself was small and the value of food purchased from out of state had only an insignificant effect on commerce, the discriminatory conduct was representative of a great deal of similar conduct throughout the country, and this conduct in the aggregate clearly had an effect on interstate commerce. (Wickard v. Filburn theory) Thus, congress could regulate this individual case.

US v. Lopez (1995):

・ The SC invalidated the statute here because they concluded that it was beyond Congress’s commerce power.

・ The Statute was the Gun Free School Zone Act of 1990 that made it a federal crime for any individual knowingly to possess a firearm at a place that the individual knows is a school zone.

・ SC said this statute has little connection to interstate commerce.

・ Further congress didn’t explicitly find that the activity here affected commerce.

・ The statute did not include a jurisdictional nexus ? b/c it banned even posssession of a gun that had never traveled in, or even affected interstate commerce.

・ SC held that it is not enough that the activity being regulated merely affects interstate commerce. The activity must substantially affect interstate commece.

・ Here, the SC found the requisite substantial effect missing!

・ The SC also stressed that the activity being regulated here was not itself a commercial activity!

SIGNIFICANCE OF LOPEZ:

(1) The activity being regulated must be one that significantly affects commerce ? an incidental effect on commerce is NOT enough.

(2) Where the transaction being regulated is clearly a commercial or economic transaction, the SC will probably continue to allow Congress to regulate it, even if it is a completely intrastate one, as long as it’s part of a CLASS that in the aggregate substantially affects commerce.

(3) Now the SC will not give much deference to the fact that Congress believed the activity has the requisite substantial effect on interstate commerce ? it will decide the issue from scratch!

Taxing and Spending Powers:

Taxing Power: under the taxing power, congress is given a far-reaching ability to tax in order to raise revenue.

・ Congress may also REGULATE via taxation. So even if Congress’s main motive is to regulate rather than to tax, so long as the tax produces some meaningful revenue and any regulatory provisions accompanying the tax are reasonably related to the tax’s enforcement, the tax will probably be upheld.

Spending Power: Congress may provide for the common Defense and general welfare under the spending power.

・ congress can place conditions on its spending power as a kind of regulation.

・ Conditions placed on the dolling out of federal funds are usually justified under the Necessary and Proper clause.

・ There is no independent congressional power to pursue the general welfare.

US v. Butler (1936):

・ this case involves the validity of the Agricultural Adjustment Act which sought to raise farm prices by cutting back agricultural production.

・ SC concluded that the power to tax and spend for the general welfare existed as a power separate and distinct from the other powers enumerated in the const.

・ SC rejected the contention that Congress had an independent power to provide for the general welfare apart from the power to tax and spend.

・ RULE: Congress may not regulate in a particular area merely on the gound that it is thereby providing for the general welfare; it is only taxing and spendign which may be done for the general welfare.

・ SC concluded that congress has no right to REGULATE areas of essentially local control, including agriculture.

Stewart Machine Co v Davis (1937):

* SC upheld the unemployment comp. Provision of the SS Act because the provision was not coersive, it merely induced the states to adpot progressive laws.

US v. Kahriger (1953):

・ SC upheld the provisions of the IRS Code that levied a special tax on bookies.

・ SC said that this was an excise tax that had a regulatory effect, but it still produced revenue, so it was valid.

South Dakota v. Dole (1987):

・ Congress withheld federal highway funds from states that permitted individuals under 21 to drink, in order to prevent drivers under 21 from drinking…

・ South Dakota claimed the statute interfered with its own exclusive powers under the 10th amendment an dthe 21st amendment.

・ SC held the statute VALID. Congress’s indirect use of its conditional spending power to achieve this result is permissible.

・ Only if , by the use of that conditional spending power, Congress induced the states to pass laws that would THEMSELVES violate the constitutional rights of individuals would that congressional act be unconstitutional.

The Treaty Power:

Missouri v. Holland (1920):

・ Congress attempts to regulate the killing of migratory birds within the US, but the statute is struck down b/c not within the enumerated powers. So, Congress enacts a treaty b/w US and Great Britian, governing migration of birds between US and Canada. The act prohibits the killing or capture of certain birds w/in the US.

・ MO claims that the treaty invades the rights guaranteed to it under the 10th amendment.

・ SC held the treaty and its regulations VALID ? they do not violate the state’s 10th amendment rights.

・ The treaty power is explicitly given to Congress, and thus furnished authority for this particular treaty.

INTERGOVERNMENTAL IMMUNITIES AND CONGRESSIONAL POWER:

State Immunity from Direct National Regulation:

・ Each decade’s immunities cases have overruled the preceeding cases ? it is a total flip flopping!

National League of Cities v. Usery (1976):

・ SC held that the 10th amendment barred congress from making federal minimum wage and overtime rules applicable to state and municipal employees

・ SC said that Congress may not exercise power in a fashion that impairs the States intergrity or their ability to function effectively in the federal system.

・ The wage/hour rule impaired the state’s ability to funciton effectively purely as a matter of cost. Also, the rule stripped the states of their discretion to decide how they wished to allocate a fixed pool of funds available for salaries.

Garcia v. San Antonio Metro Transit Authority (1985):

・ Fed. Govt. was trying to force SAMTA to comply with minimum wage and overtime standards of FLSA.

・ SC said it is difficult to draw the line s to what are traditional governement functions and what are not…

・ SC said that the National League of Cities test is too subjective ? it invites an unelected federal judiciary to make decisions about which state policies it favors and which ones it dislikes.

・ SC determined that nothing in the FLSA requirements was destructive of state soverignty or violative of any constitutional provision, as applied to SAMTA.

・ SC relied on the political process to ensure that laws that unduely burden the states will not be promulgated. SC said that state soverign intersts are protected by procedural safeguards inherent in the structure of the federal system, not by judicially created limits on federal powers.

PRESENT STATE OF THE LAW:

(1) Congress can use conditional grants ? but condition may have to be rationally related to purpose of grant ? but that is dicta…

(2) Regulation of state instrumentalities if the state instrumnetality is being regulated in the same way in which private instrumnetalities are being regulated.

New York v. US (1992):

・ SC struck down a federal law which required states to take title to waste sites and be responsible if any problems arose there.

・ SC said that congress violated the 10th aemndmetn here ? congress may not simply commandeer the legislative process of the States by directly compelling them to enact and enforce a federal regulatory program.

・ RULES: Congress cannot create an enforceable legal duty on the state legislature to pass a statute.

・ The constitution doesn’t give congress the authority to require the states to regulate ? no matter how powerful the federal interest involved.

・ This prohibition doesn’t come from the text of the 10th amendment, but from a combination of the structural interpretaiton and original intent arguments.

Printz v. US (1997):

・ THIS IS ONE OF THE BIG 1997 CASES!!!!

・ Congress enacted the Brady Bill gun control law and this law ordered local law enforcement officials to conduct background checks on prospective purchases, until a national system could be phased in.

・ Printz, a local sherriff, objected to the law requirement, claiming that congress couldn’t force them to conduct background checks on the federal govt’s behalf.

・ SC agreed with Printz because in NY v. US the SC held that the federal govt. may not compel the States to enact or administer a federal regulatory program. The SC concluded that the background check provision violated this rule.

・ It is an essential attribute of the State’s retained sovereignty that they remain independent and autonomous within their proper sphere of authority.

・ The SC has rethought Federalism as a limit on Congressional power.

State Immunity From Federal Court Jurisdiction:

Hans v. LA (1890):

・ P sues state to enforce terms of a state debt.

・ Here the 11th amendment text doesn’t bar this claim because it doesn’t mention citizens of the state being sued, only citizens of a foreign state.

・ Now, Hans need to find Article 3 jurisdiction ? which court?

・ Contracts Clause basis in Art. I § 2. How do we translate this into article 3 terms…?

・ What is the logical relationship between 11th amendment and Article 3?

・ 11th amendment could be read as a proviso or bar to Article 3, § 2.

・ Proviso on Art.3 § 2, cl. 1…

・ Where we fit in 11th amendment into art 3 § 2 makes a difference!!!

・ BOTTOM LINE: Hans cannot sue Louisiana

・ The SC here doesn’t adopt a narrow or broad view ? it stood in the middle.

・ 11th amendment bars suits by a citizen against his or her own state!

Ex Parte Young (1908):

・ Just because you are suing an officer of a state doesn’t mean you are suing the state!

・ It also makes a difference as to what kind of remedy you are seeking ?

・ Money is hard to get

・ Injunction is easy

・ 11th amendment immunity can be waived!

・ BOTTOM LINE: The 11th amendment doesn’t bar suits against officers of a state for an injunciton for violating a federal law.

・ The 11th amendment also allows suits against officers for money damages, as long as the money is paid out of his own pocket.

Seminole Tribe of FL v. FL (1996):

・ Congress passed a statute to regulate gaming operations by indian tribes.

・ SC held that this statute violated the 11th amendment because even when the constitution vests in congress complete law-making authority over a particular area, the 11th amendment restricts the judicial power under Article 3….so even though Article I give Congress full power to regulate commerce with indian tribes, Congress cannot allow a tribe to sue a state in federal court.

・ RATIONALE: The 11th amendement embodies state soverignty which limits the Article 3 jurisdiction of the federal courts, and congress cannot expand those limits just because it wants to..

THE COMMERCIAL CONSTITUTION AS A LIMIT ON STATE REGS.

Negative / Dormant Commerce Clause:

Textual: Art. I, 10, [1]; Art I, 10 [2,3]; Art. 6, [2] ? preemption

Nontextual: Structure Argument and Policy Argument

・ Structure Issue: If we have a grant of power to Congress, should we infer a negative as to the states? NO ? ex: taxing power

・ Congress gets power to tax under 16th amendment, yet this specific grant of power to the federal govt doesn’t forbid or prohibit the states from taxing as well.

Gibbons v. Ogden (1824):

・ Marshall says that the power to regulate commerce is NOT like the power to tax because the states would be and cannot exercise a power granted to congress only.

・ Marshall draws the difference between taxing and commerce by saying that in taxing, the purpose of Fed. Govt and state govt. are the same.

・ He says that in regulating commerce, the purpose a state may have can be inconsistent with congress’s purpose.

・ SC concludes that the state regulation of commerce is REPUGNANT to the Constitution and therefore, VOID.

・ Thus the SC held that the NY monopoly was invalid because it conflicted with the federal commerce power.

・ Marshall insinuated that a state could regulate commerce in a particular way if there was no actual conflict between the state regulation and an act of Congress. However, here, there was an actual conflict!

Cooley v. Board of Wardens of The Port of Philadelphia (1851):

・ SC determined that the validity of exercise of power by state over commerce turned on whether the subject matter of the regulation was so local in character as to justify the differing treatment around the country, or so national in character as to suggest that a uniform rule is necessary.

・ TEST: Whether the subject matter being regulated was local or national.

・ The court has consistently recognized that it will strike down any exercise of power that was inconsistent with explicit grants to congress.

Modern Dormant Commerce Clause Doctrine:

(1) the regulation must pursue a legitimate state end

(2) The Regulation must be rationally related to the legitimate end

(3) The regulatory burden imposed by the state on interstate commerce, and any discrimination against interstate commerce, must be OUTWEIGHED by the state’s interest in enforcing its regulation.

・ The SC subjects overt state or local discrimination against interstae commerce to STRICT SCRUTINY!

・ State policies burdening commerce will be invalidated if the burden is clearly excessive compared to the legitimate local benefits.

Foster fountain Packing v. Haydel (1928):

・ LA forbid export of shrimp until heads and hulls were removed.

・ SC said the purpose of this law was to discriminate against MS shrip process plants an dkeep them from competing with LA companies.

・ Thus, the SC invalidated the law!

City of Philadelphia v. NJ (1978):

・ Garbage Case ? NJ law prohibited importation of waste that originted outside of the state.

・ SC said this was invalid because of the Dormant Commerce Clause.

・ State Laws that block the flow of interstate commerce are invalid.

・ When legislation advances credible objectives and there is no patent discrimination against interstate trade, SC will take a flexible approach…

・ TEST: Whether the statute is basically a protectionist measure or whether it can be fairly viewed as a law directed to legitimate local concerns with effects upon interstate commerce that are only incidental.

・ LOOK AT:

・ Purpose of the law

・ Does the law discriminate against outside articles of commerce?

・ The state cannot afford in state folks preferred rights over consumers in other states.

・ DISSENT: Says this situation is similar to quarantine cases.

・ Majority says the state laws don’t address the quarantine problem at all, so not a real purpose of the law. In state garbage presents the same risk to NJ as out of state garbage….

・ SC applies STRICT SCRUTINY here because facially discriminatory!

・ Compelling state interest

・ Least restrictive means used to pursue the state interst

C&A Carbone v. Town of clarkstown (1994):

・ the town of clarkstown enacted a flow control ordinance that required that any trash generated in the town be taken to a particular waste transfer station which charged a tonage fee for all trash processed.

・ SC held that the flow control ordinance violated the Comemrce Clause. The purpose of the ordinance was to hoard trash processing jobs within the town. Thus it discriminated against interestate commerce because it deprived out of state firms the opportunity to do the processing.

Note on Interstate Taxation ? p. 878

・ NOW THERE IS A 4 PART TEST (BASICALLY)

(1) Tax must be applied to an activity with substantial nexis with the taxing state

(2) Must be fairly apportioned

(3) Must not discriminate against interstate commerce

(4) Must be fairly related to services provided by the state

・ the 3rd and 4th prongs collapse into one when the discrimination is in the statute’s effect and not on its face!!!

South Carolina v. Baranwell Bros (1938):

・ SC reversed an invalidation of a South Carolina statute forbidding truck widths to exceed 90 inches.

・ SC said that state regulation was OK because it was at least, fairly debatable.

South Pacific v. Arizona (1945):

・ SC struck down an AZ statute forbidding train length of more than 70 cars.

・ SC said the purpose here wasn’t safety but rather creating more jobs for AZ citizens.

・ SC balanced the safety concerns with the burden on interstate commerce and the state safety interest LOST because not really the actual purpose.

・ SC said truck width seemed to be a bona fide safety interest, but the train length didn’t

・ Also, truck weight and width also concerns conditions and wear and tear on the roads paid for and built with state dollars. RR’s not built by the state, so not a state concern

・ Also, the SC reiterates the POLITICAL CHECK ? p. 865 quoting Barnwell case

・ QUESTION: Does the burden of legislation fall on those inside the state as well as those outside the state, or does the burden fall only on those outside the state?

・ If we apply this Q to these facts, the truck rule affected local truckers but the AZ RR rule didn’t affect local railroads because there were no local railroads!

・ TEST: where the statute regulated evenhandedly to effectuate a legitimate local public interest, and its effects on interstate commerce are only incidental, it will be upheld unless the burden imposed on such commerce is clearly excessive in relation to the putative local benefits.

Kassel v. Consolodated Freightways Corp (1981):

・ Consolodated challenged Iowa’s statuet regulating length of trucks as an unconstitutoinal burden on interstate commerce

・ Iowa defended on reasonable safety measure grounds

・ SC found for Kassel ? the statute violated Commerce Clause

・ SC conducted a fact-finding inquiry in making its decision. The concurrence says they shouldn’t do this, but rather look to legislative intent instead.

・ Although Iown presented a lot of evidence on safety, we have evidence that the safety purpose is invidious ? we have the Governor’s statement that gives us the true purpose!

・ The invidious purpose triggers STRICT SCRUTINY!

・ Strict scrutiny is a way of “smoking out” what the real purpose is here!

・ The evidence on safety is statistical ? it doesn’t give info on the affect of double trucks on other people…why are the other facts irrelevant? Here, because we have the governor’s statement.

Grant of Power Can Be:

(1) concurrent or (2) exclusive

・ Today, the power to regulate commerce is a mixture of BOTH!

West Lynn Creamery Inc v. Healy (1994):

・ MA imposed a nondiscriminatory tax on wholesale milk transactions and used the reslut to fund cash payments to the state’s struggling dairy farmers.

・ SC held that this scheme was analogous to a tariff.

・ Its avowed purpose and its undisputed effect are to allow higher cost Mass. Dairy farmers to compete with lower cost dairy farmers in other States. The premium payments are effectively a tax which makes milk produced out of state more expensive.

・ When a nondiscriminatory tax is coupled with a subsidy to one of the groups hurt by the tax, a state’s political processes can no longer be relied upon to prevent legislative abuse, because one of the in-state interests which would otherwise lobby against the tax has been mollified by the subsidy.

Should the Dormant Commerce Clause be Laid to Rest?

Camps Newfound/Owatonna v. Town of Harrison (1997):

・ Maine provides a general exeption from RE taxes for charitable institutions incorporated in the state.

・ SC held that the camp service is clearly in commerce and so it triggers the Dormant Commerce Clause jurisprudence, that jurisprudence is fully applicable to not-for-profit as well as profitmaking enerprises, and the statutes facial discrimination agaist interstate commerce brought it witin the rule that: The Commerce Clause precludes a state from mandating that its residents be given a preferred right of access, over out-of-state consumers, to natural resources located within its borders or to the products derived therefrom.

United Bldg & Construction Traders council v. Mayor of Camden (1984):

・ The SC held that there is no market participant exception to the Privileges and Immunities clause.

・ SC held that this clause might be violated by an ordinance providing that at least 40% of any work force on a city-funded construction project must consist of city residents.

SEE BOOK PGS. 899-902 NOTES……

CHAPTER 8: SEPARATION OF POWERS:

・ On every important subject, we have a mixing of powers….

・ Legislation , appointment officers, making of treaties….

Issues of the Executive

Youngstown Sheet & Tube Co. v. Sawyer (Steel Seizure Case) (1952):

・ Pres. Truman was trying to seize the private steel mills and keep them running thru the impending workers strike.

・ Are the problems that are present in Dormant Commerce Clause cases present here?

・ Federalism

・ Prisoner’s dilema

・ black’s opinion: goes thru what the president can and cannot do, and rejects the bases of power the Pres. advances for his actions. FORMALIST/TEXTUAL ARGUMENT

・ Vinson’s Dissent: Uses historical argumetn and sort of a precedent argument dealing with emergencies and historical practice. Also, sort of a prudential argument that the president can act, but Congress can decide after the president acts that he shouldn’t have acted and then the president has to back down.

・ The problem with Vinson’s theory is that here the president will always racket up power, but not go down ? scary!

・ Vinson’s theory was advanced by the SC in McCulloch case by Marshall.

・ In article 2, the const. uses floaty language in speaking about the powers vested in the president, whereas in article1, speaks of the powers of congress as being “herein granted”

・ The president cannot seize the steel because he doesn’t have the power to do this under the Constitution. This was an unconstitutional exercise of the lawmaking authority reserved to Congress.

・ The president may not make laws ? he may only carry them out.

Foreign Relations:

The Constitution gives the President substantially greater authority with respect to foreign affairs than with respect to domestic ones.

US v. Curtiss-Wright Export Co. (1936):

・ Here a joint resolution of congress authorized the presidnet to ban the sale of arms to courntries engaged in a particular conflict. The president proclaimed such an embargo, and Curtiss-Wright was charged with conspiring to sell arms to Bolivia.

・ Curtiss-Wright challenged the embargo as being an unconstitutioanlly broad delegation of legislative power to the president.

・ SC upheld the resolution and the embargo, stressing the very delicate, plenary, and exclusive power of the President as the sole organ of the federal govt. in the field of international relations.

・ Here the president is in a better position than congress to determine if Bolivia was In fact engaged in the conflict, so the delegation to the Pres. was not unconstitutionally broad, regardless of whether such delegation would be permissible with respect to a domestic issue.

The Prize Cases (1863):

・ The SC held that president lincoln could blockade southern ports following the confederate attack on Fort Sumter.

・ The SC reasoned that the President could resist an attack by a foreign nation; the fact that the attack came from an internal part of the union rather than from a foreign power did not strip the president of his power to take unilateral action.

・ The president can commit our armed forces to repel a sudden attack upon the US.

Dames & Moore v. Regan (1981):

・ As part of the settlement of the hostage situaiton, President Carter took a number of actions affecting the claims of American creditors against Iran. The action which posed the most difficult constitutional issue was his suspension of all contractual claims against Iran then pending in American courts; such claims were to be later arbitrated by an international tribunal.

・ SC found the suspension was WITHIN the President’s constitutional authority. While congress didn’t explicity delegate this power to the President, it had IMPLICITY AUTHORIZED that practice by a long history of acquiescing in similar presidential conduct.

・ However, the court stressed the limited scope of this holding ? this was just a necessary incident to the resolution of a major foreign policy dispute and congress had acquiesced to this type of presidential action.

Executive Privileges and Immunities:

United States v. Nixon (1974):

・ The SC recognized in general terms a constitutionally based doctrine of executive privilege, but held that the privilege was only a qualified one, which was overcome by the facts of Nixon by the needs of a pending criminal investigation.

・ Here, the SC held that the executive privilege didn’t apply and ordered the president to produce the Watergate Tapes.

・ The privilege is one of confidentiality of Presidential communications in the exercise of Article II powers.

・ But, the SC said the privilege was a qualified one, and here was outweighed by the need to develop all relevant facts in a criminal case.

Nixon v. Administrator of General Services (1977):

・ SC held that Nixon could assert executive privilege with respect to his presidential papers, which were to be entrusted to succeeding administrations for archiving under congressionally-prescribed guidelines.

Nixon v. Fitzgerald (1982):

・ Fitzgerald contended that he had been fired from his Defense Dept job in retaliation for testimony in which he had criticized military cost overruns. He charged Nixon with violating his 1st amendment and statutory rights.

・ SC held that the President it entitled to ABSOLUTE IMMUNITY from civil damage actions for all acts within the OUTER PERIMETER of his authority.

・ Thus, Nixon was immune from liability for the firing of Fitzgerald even if he caused it maliciously or in an illegal manner, because the president has authority to prescribe the manner in which the business of the armed forces will be conducted, including the authority to dismiss personnel.

Clinton v. Jones (1997):

・ Private damages suit against Clinton, while in office.

・ SC rejected Clinton’s claim that he should have “temporary immunity” while in office from all civil claims arising out of events that occurred before he took office.

・ SC said that the rationale behind immunity for official acts of the President and other officials was that such immunity serves the public interest in enabling such officials to perform their designated funcitons effectively without fear that a particular decision may give rise to personal liability. This rationale didn’t apply to the President’s unofficial acts!

ISSUES OF LEGISLATIVE OVERREACHING

The Decline and Fall of The Nondelegation Doctrine

The NonDelegation Doctrine ? the legislature cannot, consistent with Article I, delegate essential lawmaking powers to other groups (the executive, agencies, courts, private parties) without providing specific standards by which the implementers shall administer the delegation or without laying down an intelligible principle to which the implementers must conform.

Mistretta v, US (1989):

・ SC unanimously rejected a nondelegation challenge to the sentencing reform act.

・ Here congress set forth its goals on the face of the statute, set limits on the Commission, etc.

・ Although Congress granted the Commission substantial discretion in formulating guielines, in actuality it legislated a full heirarchy of punishment ?from near max. imprisonment, to substantial imprisonment, to some, to alternatives ? and stipulated the most important offenses and offender characteristics to place defendants within these categories. That level of detail easily satisfies the test

・ TEST: Only if we could say that there is an absence of standards for the guidance of the Administrator’s action, so that it would be impossible in a proper proceeding to ascertain whether the will of Congress has been obeyed, would we be justified in overriding its choice of means for effecting its declared purpose.

INS v. Chadha (1983):

・ Chadha was an alien to whom the House of Reps used its veto power to reverse the AG’s suspension of deportation.

・ SC struck down the legislative veto as a violation of the constitution in 2 ways.

・ First, the veto violated the presentment clause which requires that every bill be presented to the Pres. for his signature so he can veto it if he wished.

・ Second, it violated the bicameral requirement by which both the house and senate must pass a bill before it can become a law.

・ Thus, Congress could only reverse a decision of the AG by passing a law and this can only be done by a bicameral action with presentment to the president.

・ This case makes the one-house legislative veto completely unusable!

Clinton v. NY (1998):

・ This case involves the Line Item Veto Act which gave the president the power to Cancel any of several types of provisions contained in new statutes enacted by congress.

・ The act allowed the Pres. to sign the entire bill into law, and then to cancel any individual spending or limited-tax benefit item he wished, within 5 days of enactimetn.

・ SC struck down the Act because it violated the Presentmet Clasue because it failed to follow the Presentment Clause’s method of enacting or repealing statutes.

・ The SC concluded that the only way the president could enact or repeal a bill was in the way laid out in the Presentment Clause.

・ The SC said the net effect of the Act was to let the President write a new bill basically, a truncated version of the bill that had passed the house and senate. The resulting bill would not be the product of the finely wrought procedure that the framers designed.

Congressional v. Presidential Power to Control Executive Officials:

Myers v. US (1926):

・ SC invalidated a statute preventing the President from discharging postmasters without the consent of Senate.

・ The SC said that the executive is a unitary branch, heirarchially arrayed with the President in command of subordinate officers.

・ Thus all executive powers were vested in the president and none in Congress.

・ If there is any point in which the separation of powers of the Legislative and Executive ought to be maintained with great caution, it is that which related to officers and offices.

Humphrey’s Executor v. US (1935):

・ The SC upheld a provision of the FTC act which allowed removal by the President, but only for “inefficiency, neglect of duty, or malfeasance in office.”

・ SC reasoned that this limitation was needed to accomplish the goal of the statute.

・ Myers was distinguished because it involved removal of an executive officer with purely executive funcitons.

・ Here, the SC characterized the FTC as an administrative body created by congress to carry out quasi-legislative and quasi-judicial duties. Thus, Congress can limit the conditions of removal to assure their independence of the President.

Buckley v. Valeo (1976):

・ the FEC was created which was given investigating, sanctioning, and rulemaking duties. Members were appointed (2 by Pres, 2 by House, 2 by Senate).

・ The SC found that the appointment structure violated the Appointment Clause because the members were appointees exercising significant authority pursuant to the laws of the US, and thus were officers of the US and had to be appointed according to the Appointment Clause ? thus by the president only!

Bowsher v. Synar (1986):

・ The Gram-Rudman Act gave a key role to the Comptroller General of the US in carrying out the uatomatic cut provisions of the balance budget act.

・ The SC struck down the automatic-reduction provision of the act.

・ The SC reasoned that the retention by Congress of the right to remove an executive officer for certain specified types of cause converts that officer into an agent of Congress.

・ The SC also reasoned that the act uses the CG’s executive powers and executive powers may not be vested by Congress in itself or its agents, because Congerss is limited to legislative funcitons. Because congress can remove the Comptroller, he is an agent of Congress; therefore, the CG cannot constitutionally exercise the executive powers given to him in the Act. Thus, the automatic budget reduction mechanism, which is based on the CG’s exercise of his executive powers must be invalidated.

Morrison v. Olsen (1988):

・ The independent counsel statute is involved here. Once a special prosecutor is appointed, she can only be removed by the AG, and only for good cause….

・ It is at issue whether the special prosecutor is an “inferior” officer or a principal officer. They decided she is an inferior officer, so the president doesn’t have to appoint or remove….

・ SC held that neither the removal provisions nor the act taken as a whole so restricted the President’s powers as to violate the separation-of-powers principle. B/c the AG could terminate the special prosecutor for good cause, the executive branch retains ample authority to assure that the counsel is competently performing her staututory responsibility.

・ The Act, taken as a whole, did not unconstitutionally take away the President’s executive powers, even though his freedom to control the special prosecutor was somewhat limited.

取引と公序−法令違反行為効力論の再検討(下)」

 (大村 敦志 ジュリスト1025号 1993年)

 わが国では,明治以来,競争の価値は軽視されてきた。 … しかしごく最近,周知のように,このような価値観は変容をはじめている。 … 市場の確保,競争の維持ということに価値を置くという立場が広く受容されつつある。…

 このような変化を前提として,次のように考えることはできないだろうか。すなわち,市場の確保,競争の維持は,独占禁止法や証券取引法によってのみ実現されるべき価値ではない。これらの価値が真に追究されるべきものであるとするならば,可能な限り,私法においてもこれらの価値の擁護が試みられるべきである,と。そして,そのためには,独占禁止法や証券取引法に違反する取引の効力を否定するということも必要である。

・・・もともとは秩序維持のための法規範であっでも,それが権利実現のために役立ちうるものであるならば,かならずしもその援用を拒む必要はないのではないか。法令は個人の権利実現を援護するものにはなりえないだろうか。公法の領域に属する法令をより積極的に私法上の公序に組み込むべきではないか。・・・私法上の公序は法令の目的実現をサポートするものとして機能するはずである。

 ・・・とりわけ,法秩序実現のために,消極的に取引の効力を否定するだけではなく,より積極的に個人のイニシアティブに期待するという発想が有益である。たとえば,行政訴訟における私人(特に消費者)の原告適格や独占禁止法違反の損害賠償訴訟における証明の緩和などについて,このような発想から再検討する余地があるのではないかと思われる。

 

 

○「独占禁止法違反の効果(違反行為の私法上の効力)」

 (高津 幸一  独占禁止法講座Z 商事法務研究会)

 独占禁止法に違反する法律行為がなされ,又は独占禁止法に違反する事実行為が存する場合に,法が付与しうる効果として,その法律行為を私法上無効とすること,それらによって生じた損害について被害者からの賠償請求を承認すること,その行為者を処罰すること,そのような状態または結果を除去する行政的な措置をとること,の4つが主要なものとして考えられる。独占禁止法は,そのうち,行政的な措置であるところの,公正取引委員会による排除措置命令を,独占禁止法を実効あらしめる最も重要な手段と考えて,これについて詳細な規定を設けている。かくして国家は,公正取引委員会の手続きを通じて,独占禁止法によって定められた権限を行使して,公正かつ自由な競争の保持につとめる。しかし,これは違反行為による被害者の救済を目的としたものではないし,かりに被害者の救済に役立つことがあっても,それでは十分できないことが多い。…

 そこで,被害者を救済し,違反行為による不当な利益の享受を防止し,さらには独占禁止法の目的を達成するための重要な手段として民事訴訟が注目されることとなる。民事訴訟は独占禁止法違反行為によって被害を受けた者を一方の当事者として追行されるのであるから,民事訴訟において被害者を救済することは,違反行為の発見,ひいては違反行為そのものの続発の防止にも役立つこととなるであろう。 

○「独占禁止法違反行為の私法上の効力」

 (服部 育生 民商法雑誌94巻4号 1986年)

 独占禁止法は,自由競争経済を促進するための法であるが,我が国では … 経済民主化政策を恒久化するための措置として制定され,制定当初には経済憲法たるの性格を有するものであることが誇称された。このような時代背景の下で,初期の判例が,「本法は,その目的とする一切の事業活動の不当な拘束を排除し,国民経済の民主的で健全な発達を促進するため,本法違反の行為があった場合には,,単にその違反状態の事実上存在ないし出現を排除するのみでなく,さらに右違法状態を形成せしめた私法上の法律行為の効力をも否定しようとするものである」(東京地判昭和28年4月22日)と判示したことは十分理解できる。 

 … にもかかわらず,次第に判例・学説が相対的無効説または有効説に近い立場へ推移してきたのはどうしてであろうか。

 第一に考えられる理由は,独占禁止法は法目的実現のための手段として独立の行政機関たる公正取引委員会による排除措置命令の制度を設けていることである。有効説の論者によれば,違反行為を無効とすることは法目的達成上不必要かつ不十分のみならず法の特に考慮した運用機構の精神を没却し無益有害であり,違反行為に悩まされる者は裁判所に無効を争う迂路を経るまでもなく直接公正取引委員会の門をたたき職権発動を促せばよいと解かれる。

 … たしかに独占禁止法は排除措置命令によって違法状態を直接除去する建前になっており,その意味では他の法に比し法目的の実現のために違反行為を私法上も無効とすべき要請がそれだけ弱くなるといえるであろう。しかし,公正取引委員会は事件を不問処分に付すこともあり,… また仮に排除措置が命じられたとしても,それによって当事者が違反行為の無効を主張できなくなるいわれはない。ただ,いずれにせよ,排除措置制度が存在することによって,私法上無効の制裁に頼る実際的必要性がいくらか減少することは確かである。

 第二に考えられる理由は,独占禁止法違反行為の一般的性格である。独占禁止法違反行為は,「一定の取引分野における競争の実質的制限」あるいは「公正な競争を阻害するおそれ」といった対市場効果要件の下で成立する。すなわち独占禁止法はある一定の行為を無条件に禁止するのではなく,市場の競争に及ぼす影響度の如何によりこれを違法としているに過ぎない。したがって,同じ行為でありながら,企業規模や市場占拠率などの違いによってAが実施すれば合法,Bが実施すれば違法とされることがある。…

 不当廉売や差別対価はそれぞれ独占禁止法上1個の違法行為であるが,これは実際には長期的かつ広い地域にわたる多数の取引行為の集合体である。したがって,これを無効とすることの影響は時間的にも場所的にもきわめて大規模広範囲に及ぶ。私的独占にいう排除・支配行為もまた,性格を異にする多種多様な行為の集合体である。しかもそれを構成する個々の行為は一つ一つを分離して観察すれば,合法的なものが多い。違反行為の基礎となり,不可分の関係にあるすべての法律行為を無効と扱うことには,当然慎重な考慮を必要とする。有効説の論者によれば,独占禁止法上の違法行為概念と私法上の法律行為概念との間における「ずれ」は,価格統制法や物資統制法などの場合に比し,はるかに大きいものであるから,広範な私法関係に混乱が及ぶのを防ぐためにも有効と解すべきであるという。

○「消費者取引と公序良俗」

 (長尾 治助 NBL460号)

 

 (消費者関連行政法規との私法上的効力の諸要因について)

(1)行政法規が一定の要件を定め,ある行為を許容する形式をとっている場合であっても,

その行為が社会で実践された経緯を踏まえ,当該法規の立法趣旨が,同行為を実質的に禁止することにあると解される場合がある。これについて,その行為をするにあたり法規で要求される相手方保護のために定められた事項を行為者が遵守しない場合,当該行為の私法的評価としては無効として扱うのが妥当である。

(2)違反行為に対して向けられる倫理的非難は,その行政法規が保護すべき直接的,間接的利益の重要性によって測ることができるとともに,違反行為により消費者が奪われる価値か,人としての存在,生活の上にある意味により測ることが可能である。

(3)次に,行為を有効と信じた第3者の期待を否定してまでも,無効と扱わなければならない理由があるかどうかである。・・・無効の主張を許すことが信義則に反しないか,という点では,消費者取引の特徴が浮き彫りにされ,むしろ信義則の要求するところである場合が少なくない。・・・ちなみに,投資契約においては,「勧誘の違法性のみを根拠に公序良俗違反を肯定したならば,当事者間に信義に反するような結果」が生じるのではないかが懸念されている。つまり,被勧誘者がした契約で利得した場合には公序良俗を主張しないでいて,損失が生じたときのみ勧誘の反公序良俗性を理由に無効を主張するという懸念である。公序則を損失を被る者の救済手段と解するとき,右の結果が生じることは止むを得ない。事業者との立場を著しく失するというのであれば,公序則違反効果として,両当事者の損益を調節する別個の法理を導入することに関心が向けられていくことになろう。

公法・私法論をめぐる学説等 

1 公法・私法2元論

「○法学の基礎 (団藤 重光 有斐閣 1996年)

 問題となっている法律関係が公法上のものか,私法上のものかを議論するのは,民事訴訟法の適用を受けさせるのがよいか行政事件訴訟法の適用を受けさせるのがよいか・・・という法解釈的な合理性の問題に帰着する。したがって,その場合に得られた基準が,公法・私法の区別に関する一般的な基準になるわけではなく … かようにして,実定法上の解釈論における公法・私法の区別は,多分に技術的・相対的なものである。

 … 公法・私法の区別を論じてみても,それ自体に実益がある訳ではない。まして,公法・私法の中間領域ないし混合領域が非常にひろくなってきている以上,むしろ,問題となっている当の法領域自体の性格を突きつめることによって端的にそこに支配する原理を見出すことの方がはるかに重要で・・・」

この考え方によれば、判例としては本件事件は混合領域に属する原理の発見ということになる。 

「○「公法と私法」 (塩野 宏 法協百年論文集2巻 1983年)

 … 公法概念の実用性,説明的機能を全く否定するには至らずとも,行政法解釈学における公法概念の比重が低下していることは,おそらく,学説の一致して認めるところであろうし,それはまた,日本の行政法解釈学が意識的にたどってきた道でもあった。しかして,それがある段階まで至ると,行政法は行政に関する国内公法である,という,行政法解釈学の基本的前提もゆるがすに至る。

 すなわち,日本の行政法学は,ドイツのそれにならって,右のように,行政法と公法を等置させて,その学問の対象範囲を限定し,かつその中での解釈学説を展開することを主眼としてきた。その際,その公法とは,実体法・訴訟法に共通するわが国実体法制度としてのそれであった,ということができよう。しかしながら,一方における公法秩序と私法秩序の相対化は,他方において,私法秩序の中における行政に特殊な法をも,行政法として把握することを,容易ならしめると言えるであろう。昨今我が国においても主張されることのある行政私法論は,このような形で日本の公法・私法学説史の中に位置づけることができるように思われる。… 」

実体法としての行政法は日本やドイツの特有のものであった。それはドイツ、日本、イタリアの産業革命の遅れ、憲法の導入の遅れから来る歴史的なものであったが、実はこれも日本やドイツが昨今の自由競争化への風潮の中では完全に崩れ去りつつある。

「○法の実現における私人の役割 (田中 英夫・竹内昭夫 東大出版会 1987年)

 われわれがここで指摘したいことは,私人による裁判所の利用は,単に被害の救済を求めるという消極的な面においてだけではなく,法の目標を実現するという積極的な役割を果たすものとして評価されるべきではないか,ということである。したがって,私人による訴訟が不純な動機による場合をしばしば含むからといって,そのような不純な動機による訴訟を防止するために,一般予防的な立法政策的配慮をすることは,いわば,「角をためて牛を殺す」結果をもたらすのではないか,ということである。」

この考え方は本件事件における裁判を受ける権利と深く関わっている。

「○民法総則 第4版 (四宮和夫  弘文堂 1986年)

 私法と公法とを区別する標準に対しては,おおよそ,法の規律する生活関係を標準とする考え方と法の指導原理を標準とする考え方とが対立する。だが,両法の対立は,実は,これら2つの要素を含んでいるのである。

 … しかるに,一方では私法原理が国家・公共団体をめぐる法律関係にも浸透していくとともに他方では,資本主義の高度化とともに資本主義の矛盾・欠陥があらわになり,それを是正するために,個人的な生活関係に対しても国家の干渉がしばしば行われるようになって(社会法・経済法の誕生),個人的生活関係を支配した私的自治の原則は広範な制限を受けるようになる(私法の公法化)。 … 現在ではある生活関係に対して法規を適用するには,公法・私法の区別にとらわれないで,その問題となっていることがらに最もふさわしい法規を発見する必要がある。」

本件事件はこのさきがけになりそうである。 

「○行政法要論 第3版 (原田 尚彦 学陽書房 1994年)

 在来の通説は,現在でもなお,公法と私法の区分は実定解釈上有意味であると解している。しかし,現在の判例などの扱いをみると,公法と私法の二元論的論理はほとんど放棄されており,これを維持すべき理由は認められないとおもう。

 (1) まず,訴訟手続における行政事件と民事事件の区分の問題であるが,たしかに行政事件訴訟法は,抗告訴訟のほかに,「公法上の法律関係に関する訴訟」(4条)として公法上の当事者訴訟を設け,公権に係る訴えを私権に係る民事訴訟と区別している。…

だが,訴訟の実際を見ると,この当事者訴訟は現実にはほとんど利用されておらず,またその手続は,民事訴訟の手続と実質的にはほとんど違わないから,両者の区分を論じる実益はあまりない。…

 (2) 第2に,従来,公法関係には私法の適用はないなどといわれてきたが,租税の滞納処分に民法177条が適用される(最判昭和35年3月31日民集14巻4号663号)など,利益状態が類似で特別の法の規定がなく,かつその性質に反しない場合には,公法関係にも民法の規定が適用されるのが今日ではむしろ常識となっている。…

 (3) 第3は,消滅時効の問題であるが,これも仔細にみると,会計法30条はその文言よりみる限り,通常説かれているような,公法上の金銭債権の時効に関する一般規定ではなく,むしろ,国に対する債権のうち時効に関し他に適切な適用法条のないものに準用される補足的性質の規定であるにすぎない。… その意味で,会計法30条は, … 伝統的意味での公権と私権の区分に厳格に対応した規定と解すべき必然性は認められない。(参考) 会計法第30条 金銭の給付を目的とする国の権利で,時効に関し他の法律に規定がないものは,5年間これを行わないときは,時効に因り消滅する。国に対する権利で,金銭の給付を目的とするものについても,また同様とする。」

 2 競争法と民法の関係

 「○「競争的利益」(田村 善之 ジュリスト1126号 1998年)

 最近になって,… 公法と私法は相互に依存しあっており,規制目的の実現のために違反行為の効力を否定するという発想を採りうることが指摘され,特に,法令自身が取引を念頭において規制を行っている場合には,その規制は,私法とは切断されたものではありえないし,またあるべきではないと主張されるに至っていることは必然的な流れということができよう。その結果 … 競争法に関しても,市場の確保,競争の維持という独禁法の価値が真に追求されるべきものであるならば,可能な限り,私法においてもその価値を擁護することが試みられるべきであり,そのためには独禁法違背の効力を否定することが必要であると説かれることになる。」

違反行為の効力を否定するという考え方は、まだ差止を考慮していない。 

「○「民法と独占禁止法」(根岸 哲 法曹時報46巻1号,2号 1994年)

 近年,民法と独占禁止法の関係に係わる問題状況に変化が見られる。一つは,民法学の側で競争秩序との係わりを意識的に取り上げるに至っており,競争秩序を私法上の公序に組み込むなど私法上も消極的に擁護するべきことが説かれてもいる。他の一つは,裁判例においても,民法上の判断が独占禁止法上の判断に取り込まれている事例や,民法(ないし私法)上の問題処理において独占禁止法上の判断が重要な影響を与える事例が登場していることである。

 このような変化は,競争秩序ないし競争秩序の維持を図ろうとする独占禁止法に対する社会的な価値評価の軽視から重視へという近年における大きな変化を反映しているものとみることができるかもしれない。」

以下の審決は本件事件とは違って差止事件ではないが、佐藤元公取委員が引用していたので、引用する。この中では学校医以外はすべて民間からの受注である点で、本件事件とは根本から異なっている。

「社団法人観音寺市三豊郡医師会に対する審判審決について

平成11年10月28日

公正取引委員会

第1 はじめに

公正取引委員会は,被審人社団法人観音寺市三豊郡医師会(以下「被審人」という。)に対し,平成9年2月7日,審判開始決定を行い,以後,審判官をして審判手続を行わせてきた。その結果,公正取引委員会は,平成11年10月26日,被審人による医療機関の開設の制限は,香川県観音寺市及び三豊郡の区域の開業医に係る事業分野における現在又は将来の事業者の数の制限(独占禁止法第8条第1項第3号)に,医療機関の診療科目の追加,病床の増床及び増改築,老人保健施設の開設の制限は,構成事業者の機能又は活動の不当な制限(独占禁止法第8条第1項第4号)にそれぞれ該当するとして,独占禁止法第54条第1項の規定に基づき,別添審決書のとおり審決を行った。

本件の経緯及び審決の概要は,次のとおりである。

第2 経緯

勧    告                平成8年12月25日

審判開始決定               平成9年  2月 7日

審判の経過

第1回審判                               3月18日

   ↓

第11回審判(審判手続終結)    平成11年3月19日

審決案の送達                             7月24日

審決案に対する直接陳述の申出                  8月 6日

委員会に対する直接陳述                       9月24日

審    決                              10月26日

第3 審決の概要

1事実及び証拠

香川県観音寺市及び三豊郡の区域(以下「観音寺三豊地区」という。)を地区とする医師会である被審人が,将来の患者の取合いを防止する目的で,@昭和54年8月14日の医療機関の開設及び病床の増床の制限に関する「観音寺市三豊郡医師会医療機関新設等相談委員会規程」(以下「相談委員会規程」という。)及び「観音寺市三豊郡医師会医療機関新設等相談委員会施行細則」(以下「相談委員会細則」という。)の決定,A昭和60年6月11日の診療科目の追加の制限に関する相談委員会規程及び相談委員会細則の改定,B平成3年11月12日の医療機関の増改築の制限に関する決定,C平成5年1月12日の老人保健施設の開設の制限に関する決定を行ってきた(なお,これらの医療機関の開設等の可否についての審議及び決定手続を総括して,「審議システム」という。)。

2審査官の主張とこれに対する被審人の主張

審査官は,観音寺三豊地区においては,被審人に加入しないで開業医となることは一般に困難な状況にあるとした上,前記各決定(改定を含む。)は,将来の患者の取合いを防止することを目的とする競争制限行為であり,このことは具体的事例においても認められると主張している。

これに対し,被審人は,そもそも,医療機関,医師の不足している観音寺三豊地区の現状に照らして,将来の患者の取合い防止というような目的はなく,被審人の行為は,医師会ガイドラインで認められている,他の医療機関に関する情報の提供ないし合理的な範囲内の助言にとどまるものであり,特に,医療法の改正(昭和60年)により導入された医療計画に基づく地域医療行政への協力行為として,また,患者や地域住民の利益を守るため,医師のモラルという観点から行われている旨主張し,具体的事例についても争っている。

3双方の主張に対する判断

(1)観音寺三豊地区においては,医師会に入会することにより広範な便宜の供与を受けることができるところ,医師会に入会しなければこれらの便宜の供与を受けることができず,会員医師間の協力関係も得られない等,事業上不利となるおそれがあることから,被審人に加入しないで開業医となることが一般に困難な状況にあると認められる。

(2)昭和50年以前から,将来の患者の取合いを防止する目的で,4つの地区ごとの常会で,医療機関の開設等の可否について審議していたことが認められる。

(3)昭和54年8月14日,医療機関の開設及び病床の増床の制限に関して,上記と同様の目的で,相談委員会規程及び相談委員会細則を決定したこと及びこれに基づく実施を行ってきたことが認められる。

(4)昭和60年6月11日,診療科目の追加の制限に関して,上記と同様の目的で,相談委員会規程及び相談委員会細則を改定したこと及びこれに基づく実施を行ってきたことが認められる。

(5)平成3年11月12日,医療機関の増改築に関して,上記と同様の目的で,制限する決定をしたこと及びこれに基づく実施を行ってきたことが認められる。

(6)平成5年1月12日,老人保健施設の開設に関して,上記と同様の目的で,老人保健施設は市町行政が直接関与した機関が設置するものであるべきことを開設の条件とする等の制限をする決定をしたこと及びこれに基づく実施を行ってきたことが認められる。

(7)新規開業医の医師会への入会については,医療機関の開設の制限の実効確保のため,入会申込者に医療機関の開設に係る理事会の同意を待って入会申込書を提出させ,その可否を理事会において決定していることが認められる。

(8)全般についての被審人の主張について

被審人は,地域医療行政の補助者としての役割があり得るとしても,法律上,行政の遂行者としての地位を付与されているわけではない。本件審議システムは,医療計画の導入以前から運用されており,医療計画の導入により,そのシステムの性格が全く変わってしまったと認めることはできない。

被審人は,被審人の行為は,専門性のない医師の開業を認めるべきでない等,患者・住民のため,あるいは医師のモラルの観点から,助言を行っている旨主張するが,実際の運用をみると,そのような事例はなく,むしろ,既存の会員医師の利益を守るための制限となっている。また,被審人は,医療市場は医療保険制度があるという特殊な市場であるとか,過疎の郡部においては競合する医者はいないとか主張するが,いずれも競争はあるといえる。

被審人は,事業者団体ガイドライン5−1−3を引用し,事業者団体に「加入をしなければ事業を行うことが困難であること」及び「不当に加入を制限していること又は構成員を除名していること」という要証事実は認められないと主張するが,本件において独占禁止法違反を問うているのは,医師会への加入制限そのものではなく,医療機関の開設等の制限であり,本件審議システムの存在及び具体的事例にみられる運用に照らして,競争制限行為と認定できる。

(9)総括

被審人は,上記のとおり,既存の事業者である会員医師の利益を守るための利害調整や合理性のない制限を行っており,これは競争制限行為に当たる。

被審人の行為について,地域医療行政の補助者としての役割を考慮しても,その実現のための措置は権限を有する行政機関によって行われるべきであって,事業者団体の私的統制に委ねられるべきものではない。地域医療行政への協力行為が独占禁止法違反とならないためには,現行のような審議システムではなく,より制限的でない他の方法とそれにふさわしい手続を選択すべきである。

被審人の行為は,審議システムを前提として個別の審査を行うものであり,これは,医師会ガイドラインにいう単なる情報の提供ないし助言にとどまるものとはいえないから,右ガイドラインに照らしても違法である。

4法令の適用

独占禁止法第8条第1項第3号,同第4号

独占禁止法第54条第1項

第4 主文

1被審人は,昭和54年8月14日に決定し,昭和6O年6月11日に改定した観音寺市三豊郡医師会医療機関新設等相談委員会規程及び観音寺市三豊郡医師会医療機関新設等相談委員会施行細則,平成3年11月12目に行った病院又は診療所の増改築の制限に関する決定並びに平成5年1月12日に行った老人保健施設の開設の制限に関する決定をそれぞれ破棄しなければならない。

2被審人は,次の事項を被審人の地区内の医師に周知徹底させなければならない。この周知徹底の方法については,あらかじめ,当委員会の承認を受けなければならない。

(1)前項に基づいて採った措置

(2)今後,病院又は診療所の開設,診療科目の追加,病床の増床及び増改築並びに会員の老人保健施設の開設を制限する行為を行わない旨

3被審人は,今後,病院又は診療所の開設,診療科目の追加,病床の増床及び増改築並びに会員の老人保健施設の開設を制限する行為を行ってはならない。

4被審人は,前3項に基づいて採った措置を速やかに当委員会に報告しなければならない。」

以上である。薬事法や、医事法とは違って、本件事件は不動産鑑定業である。

不動産鑑定の場合、事業分野は調査をも含むが、鑑定評価のみの市場については取引分野である。

従って、事業分野である数の制限は当たらない。

取引分野において、すなわち鑑定評価の市場において、競争の実質的制限と同様の行為を行っている。

すなわち、鑑定評価の取引分野において共同ボイコットを「させる」に当たっている。

独占禁止法事件の事実の問題の蒸し返し(しかし多くのテープがあるのに認めていない。)

約120事業者の団体が市場にいて、それが例えば東京から安売り業者が200事業者移動してこようとしている。約120の事業者が新規に入ってきた自由競争を主張する事業者に対して共同ボイコットを行ったという事件である。他の200事業者は判決を見守っているだけである。約320事業者になることを阻止するということを入会金の値上げや、入会拒絶によって行おうとした。約120事業者については全国鑑定協会の支部から埼玉県士協会になることによって、価格固定と配分をそれまでどおり固定することを決定した。(当時から現在まで価格固定の権限を持ち続けている。)約120事業者についてはそれまで100%の市場独占を行っていた。そこでその市場支配力を維持しようとした。残りそれ以降入ってきた事業者については会員権を与えないとかの方法によって5号違反をした。5号違反の手法としては新規の会員については割当を少なくするとかの手法を取ったが、これが実効性がないと考えた事業者、つまり一部過去に大きく東京都で事業を行ってきた事業者については入会拒否という手法によって取引を拒絶した。「東京都で事業を行ってきた事業者が、住所が埼玉であるとかの理由でも、埼玉に来ること」は事業者団体の暗黙の内規で禁止されていた。

差止と損害賠償による救済の二者択一性

差止の定義

契約の履行における差止の概念において述べるように契約違反の理由による差止は強制執行とほぼ同趣旨である。履行の強制である。

一方公共の利益のための差止は違反行為に対する差止であり、逮捕とほぼ同義語である。著しい損害を要件とすることは個別企業の損害を要件としているのであって、社会公共的な公正競争阻害性を問題としていない。著しい損害の要件を独占禁止法第24条から抹消せよということは公正競争阻害性があれば差止を認めよというに等しく、私訴における差止の場合には個別企業の損害のみを問題としているのであるからそれとの違いが明確ではない。日本の独占禁止法第24条においては社会公共の損害が著しい場合を含んでいると解釈すればこの著しい損害は公正競争阻害性と同時に、個別企業の損害を同時に証明する必要があることになる。カルテルを証明するのとほぼ同様の証明を私訴における原告が行う必要があることになる。しかし本件事件は私訴でありその証明は必要ないという見解を赤坂弁護士は採用している。私訴は個別企業に対する損害の発生の証明だけで充分であるという見解である。しかし公正競争阻害性の問題は私訴とは全く別の損害額の認定を必要としてそこから公正競争阻害性が認定される。「配分に身をまかせる」、つまり価格談合は認めるという念書をとって本件事件では入会を認めているのであるから、その場合には公正競争阻害性はもっとも大きなものになるが、個別企業に対する損害は全く存在しないのはこれまでも述べてきたことである。

個別企業に対する損害は、公正競争阻害による損害の一部であるから公正競争阻害性は個別企業に対する損害を証明することでたりると言う論理学上の証明が出来るならばそれでこの問題は決着したことになる。

公共の利益のための差止は違反行為に対する差止は社会契約の理由によるという論理を立てている弁護士がいる。社会契約説は上告人の専門分野である。逮捕や独占禁止法上の公正競争阻害性の問題から生ずる刑事責任は国家からの強制である。したがって生まれながらにして国家に強制加入させられていることからくる国家社会、公共一般に対する罪の概念から生まれるものである。これには契約書が存在していないが国家への加入は強制である。

しかしその契約書が存在しないので法律的には憲法によるしか方法はない。人は生まれながらにしてどこかの国家に強制的に所属している。この強制は強制加入団体の場合と同義であるが、ただ職業活動の自由を確保するためという特定の憲法上の目的において所属するのが強制加入団体の性格である。強制はつまり人権を保護するという基本的人権の保障も及んでいることになるし、国家組織の法である憲法の規定も生まれるとすぐに及ぶことになる。

したがって社会公共に対する罪である独占禁止法違反の罪が憲法の問題になっているというのが本件事件における国家内国家としての事業者団体の論理であると考えることができる。

次のように記載した教科書があった。原文どおり。

「Paralegal Textbook Summary 1/2002 Chp. 1

法律家補助員の教科書

Introduction to Litigation

訴訟への導入

Law comes from constitutions, case law, and statutes.

法は憲法、判例法、法令からなる。

An injunction is a subset of equitable relief.

差止は衡平法上{こうへい ほう じょう}の救済{きゅうさい}の補集合である。

Equitable relief is sought if compensatory damages are not enough.

衡平法上{こうへい ほう じょう}の救済{きゅうさい}は損害賠償による補償が充分ではない場合に行われる。

Injunctions are to stop someone from doing something.

差止とはある行為者がある行為をなすことをやめさせることである。

Declatory relief* DECLARATORY RELIEF regards the rights and obligations of parties.

確認的救済は両当事者の権利と義務についての確認である。

Civil litigation is the resolution of disputes between private parties through the court system.

民事訴訟は私的な当事者の争いを裁判のシステムを通じて解決することである。」

上記のなかでも次の考え方がもっとも重要である。

「An injunction is a subset of equitable relief.

差止は衡平法上{こうへい ほう じょう}の救済{きゅうさい}の補集合である。

Equitable relief is sought if compensatory damages are not enough.

衡平法上{こうへい ほう じょう}の救済{きゅうさい}は損害賠償による補償が充分ではない場合に行われる。」

これは読み方によっては損害賠償による補償が充分ではない場合にのみ差止は認められるというコネチカットの最高裁判所判決につながっている。

日本の独占禁止法上の差止とその要件

先に示したとおりに、

While this is the only case I have found which states that such an injunction is mandatory, there is no question that a court may consider lingering efforts as a factor.

この事件(AMA事件)はその差止が命令的であるとされた私の知る限り唯一の事件であるが、裁判所が継続してきているこれまでの多くの成果を一要素として考慮しているかもしれないことは疑いがないと考えた。

このようにアメリカ医師会事件のみが命令的差止を認めた。

一方では命令的差止を認めなかったが、認めなかった理由を明らかにした判例がある。この中でも反トラスト法のアメリカの判例においてはCheryl Terry Enterprises, Ltd. v.City of Hartford事件がもっとも有名であるようであるので、この事件から最初に検討する。

Cheryl Terry Enterprises, Ltd. v.City of Hartford事件において、コネチカット州の最高裁判所の判決によれば、「著しい損害」を要件とせずに、only under compelling circumstances強制の必要な状況においてだけを要件としている。

‘A mandatory injunction . . . is a court order commanding a party to perform an act.’’

「命令的差止は・・・一方の当事者にある行為を行うように命令する裁判所の命令である。」

注:Case Style: Cheryl Terry Enterprises, Ltd. v.City of Hartford

Cheryl Terry Enterprises, Ltd. v.City of Hartford事件

Case Number: SC 17067

最高裁判所 17067

Judge: Katz

カッツ判事

Court: Connecticut Supreme Court

コネチカット州最高裁判所

Plaintiff's Attorney: Ralph J. Monaco, with whom was Thomas J. Londregan, for the appellant (plaintiff).Defendant's Attorney:Ann F. Bird, assistant corporation counsel, with whom, on the brief, was Alexander Aponte, corporation counsel, for the appellee (defendant). Richard D. O’Connor, with whom, on the brief, was George J. Kelly, Jr., for the appellee (Laidlaw Transit, Inc.).

Description:

In Cheryl Terry Enterprises, Ltd. v. Hartford, 262 Conn. 240, 242, 811 A.2d 1272 (2002), the plaintiff, Cheryl Terry Enterprises, Ltd., appealed from the judgment of the trial court setting aside the jury’s verdict for the plaintiff on its antitrust claim against the defendant, the city of Hartford. We concluded therein that the plaintiff had not appealed from a final judgment because the trial court had not yet resolved the plaintiff’s remaining claim for permanent injunctive relief. The case thereafter was reclaimed to the trial list and, following additional hearings and briefing from the parties, the trial court denied the plaintiff’s request for a mandatory injunction. Thereafter, the plaintiff appealed from the judgment of the trial court to the Appellate Court, and we transferred the appeal to this court pursuant to General Statutes § 51-199 (c) and Practice Book § 65-1.

In the present appeal,

控訴審においては

the plaintiff claims that the trial court improperly:

事実審における判決の違法性は次の通りであると原告は主張した:

(1) set aside the jury’s verdict on its antitrust claim on the ground that, under our decision in Lawrence Brunoli, Inc. v. Branford, 247 Conn. 407, 722 A.2d 271 (1999),

 反トラスト法上の請求を原審は陪審員の評決を無視して退けたこと、またその理由はLawrence Brunoli, Inc. v. Branford, 247 Conn. 407, 722 A.2d 271 (1999)における最高裁判所の判決によっていたこと、

(2) the plaintiff, an unsuccessful lowest bidder in a municipal bidding process, lacked standing to bring an antitrust claim against the defendant;

原告は地方公共団体の入札の執行において最低価格による入札者であったが、入札資格を欠くとして不適格とされたので、被告に対して訴訟を起こした

(3)determined that it could effectively repeal Connecticut’s antitrust statute in cases involving municipal bidding;

地方公共団体の入札を規定するコネチカットの反トラスト法を適用しないことが効率的であると決定した

(4) set aside the jury’s verdict on the plaintiff’s antitrust claim on the ground that the plaintiff had failed to present sufficient proof of damages;

   原告が損害額について充分な証拠を提出できなかったという理由で、原告の反トラスト法の主張についての陪審員の評決を破棄した

(5)

directed a verdict for the defendant on the plaintiff’s equal protection claims;and

原告の(法の下の)公平平等な保護の主張について被告に有利な指示評決を行った

(6) failed to award the plaintiff mandatory injunctive relief.

原告に対して命令的差止の救済を行うことを拒否した

We conclude that the trial court improperly set aside the verdict on the ground that the plaintiff lacked standing to bring an antitrust claim for damages against a municipality arising out of the municipal bidding process.

We conclude further that the trial court improperly set aside the verdict on the ground that the plaintiff had not proved its damages to a reasonable certainty.

In light of that conclusion, we need not address the plaintiff’s claim that the trial court improperly granted the defendant’s motion for a directed verdict on its equal protection claims. Finally, we conclude that the trial court properly denied the plaintiff’s request for injunctive relief. Accordingly, we reverse in part the judgment of the trial court.

The relevant facts and procedural history are set forth in our opinion in Cheryl Terry Enterprises, Ltd. v. Hartford, supra, 262 Conn. 240. ‘‘The plaintiff is a school bus company based in Hartford. The president of the company, Cheryl Terry, has worked in the school transportation business for more than thirty years. The plaintiff was one of three vendors who had submitted sealed bids to the defendant in response to an invitation to bid for a proposed five year contract to provide bus transportation services for the Hartford public schools, commencing with the 1998?1999 school year. The plaintiff’s bid was lower than either of the other vendors, Laidlaw Transit, Inc. (Laidlaw), and Dattco, Inc. (Dattco). Despite being the highest bidder, Laidlaw was awarded the five year contract.

・・・・・・・

Because the jury’s damage award of $500,000, or approximately 8.5 percent in lost profits, was well within this range; see footnote 14 of this opinion; the trial court abused its discretion in setting aside the jury’s verdict.

陪審員が50万ドル(約6000万円)の損害金、あるいは、逸失利益の概算で8.5%の支払いを認めたことはこの範囲にあるので正当である;この意見は注14を参照;この陪審員の表決を採用しなかった事実審は自由裁量権の乱用にあたる。

・・・・・・・・

Laidlaw21 claims that, because the 1998 contract has terminated, and it already is performing work under a new five year contract awarded in 2003, issuance of the mandatory injunctive relief sought by the plaintiff would severely harm Laidlaw. We agree with the defendant.

‘‘A mandatory injunction . . . is a court order commanding a party to perform an act.’’ Tomasso Bros., Inc. v. October Twenty-Four, Inc., 230 Conn. 641, 652, 646 A.2d 133 (1994).

「命令的差止は・・・一方の当事者にある行為を行うように命令する裁判所の命令である。」Tomasso Bros., Inc. v. October Twenty-Four, Inc.事件、 230 Conn. 641, 652, 646 A.2d 133 (1994).

‘‘Relief by way of mandatory injunction is an extraordinary remedy granted in the sound discretion of the court and only under compelling circumstances.

「命令的差止による救済は、裁判所の適正妥当な自由裁量による特別の救済措置であり、それは強制の必要な状況においてだけ認められるものである。

. . . Ordinarily, an injunction will not lie where there is an adequate remedy at law.’’

・・・・法律によって適正な救済方法があれば差止は執行されないのが普通である。」

(Citation omitted; internal quotation marks omitted.)

引用省略、文内の引用符号省略

Monroe v. Middlebury Conservation Commission, 187 Conn. 476, 480, 447 A.2d 1 (1982);

モンロー対ミドゥルベリー・コンサーベーション・コミッション事件、最高裁判所判決187 Conn. 476, 480, 447 A.2d 1 (1982);

accord Harvey v. Daddona, 29 Conn. App. 369, 377, 615 A.2d 177 (1992)

同趣旨Harvey v. Daddona, 29 Conn. App.事件、369, 377, 615 A.2d 177 (1992)

(‘‘[i]njunctions should not be issued when damages can adequately protect the injured party’’).

(被害を受けた当事者が損害を適正に防衛できる場合には、差止は行われるべきではない)

Moreover, ‘‘[w]here the granting of the injunction would cause damage to the defendant greatly disproportionate to the injury of which the plaintiff complains, it may be held inequitable to grant a mandatory injunction and the plaintiff may be remitted to her remedy by way of damages.’’

更に「差止を認めることによって原告が請求している損害額に比してとてつもなく不釣合いである損害を被告に与える場合には、命令的差止を認めることが不公平であるとみなされて、原告への救済は損害賠償金の支払いという救済手段によることになるであろう。」

Moore v. Serafin, 163 Conn. 1, 6?7, 301 A.2d 238 (1972).

モアー対セラフィン事件, 163 Conn. 1, 6?7, 301 A.2d 238 (1972).

In sum, ‘‘[m]andatory injunctions are . . . disfavored as a harsh remedy and are used only with caution and in compelling circumstances.’’

要約すれば、「命令的差止は・・・厳し過ぎる救済策であり、採用できない、命令的差止は慎重に使用されるべきであり、強制的な状況においてだけ使用されるべきである。」

42 Am. Jur. 2d 560, Injunctions § 5 (2000).

Am. Jur. 2dの本の § 5 第5章差止(2000年)。

We conclude that the trial court properly determined that the present case failed to present the ‘‘ ‘compelling circumstances’ ’’ required for the issuance of a mandatory injunction.

事実審の裁判所が命令的差止を発するのに要求される「強制するに値する状況」が現出されているとしないとこの事件では決定したことは正しいと結論を得る。

Monroe v. Middlebury Conservation Commission, supra, 187 Conn. 480.

モンロー対ミドゥルベリー・コンサーベーション・コミッション事件、最高裁判所判決,187 Conn. 480.

The plaintiff had an adequate remedy under the act, namely, an action for damages against the defendant, on which she prevailed.

原告は、被告に対して損害賠償請求を行うというような普通頻繁に使われている法令によって適正な救済を受けることができた。

Moreover, even if the plaintiff had not had the ability to collect damages, we would conclude that the trial court properly exercised its discretion in denying the relief requested.

更に付け加えると、たとえ原告が損害額を回収する能力がない場合であっても、事実審が請求された救済を否定することによって自由裁量権を行使することが正当であると結論できるであろう。

See id.

同上、最高裁判所判決参照。

(‘‘mandatory injunction is an extraordinary remedy granted in the sound discretion of the court’’ [internal quotation marks omitted]).

(「命令的差止による救済は、裁判所の適正妥当な自由裁量による特別の救済措置である」(文内の引用記号省略))

The plaintiff was requesting that the trial court award a new contract to the plaintiff, for a term of five years, and for a total value of cost plus a guaranteed profit of 10 percent.

The plaintiff has failed to cite, before both the trial court and this court, any authority for such a broad use of the extraordinary remedy of a mandatory injunction.

Indeed, the contract underlying the present case has expired, and the defendant already has entered into a new five year contract with Laidlaw.

Thus, if that contract, which is not challenged in the present case, remained in effect, and the plaintiff’s request for a new contract was granted, the result would be that two contracts would be in effect for the same project.22 This court previously has rejected such a bizarre result. See Blesso Fire Systems, Inc. v. Eastern Connecticut State University, 245 Conn. 252, 257, 713 A.2d 1283 (1998). Consequently, we conclude that the trial court did not abuse its discretion in denying the plaintiff’s request for a mandatory injunction.

The judgment is reversed in part and the case is remanded with direction to reinstate the judgment for the plaintiff in accordance with the jury’s verdict.

In this opinion SULLIVAN, C. J., and BORDEN, PALMER and ZARELLA, Js., concurred.

1 This case was argued on May 19, 2004, before a panel of this court consisting of Chief Justice Sullivan and Justices Norcott, Katz, Vertefeuille and Zarella. Thereafter, the court, pursuant to Practice Book § 70-7 (b), sua sponte, ordered

命令的差止は連邦最高裁判所においてはアメリカ医師会事件において使用された。

商法上の差止、独占禁止法による差止、私法上の差止と公法上の差止

契約書に基づいて契約があるのに、その契約を履行しなかったので契約によって決められた行為を行うように請求する行為も差止と呼ばれている。これは上記のアメリカの商法の学者もそのようにクライン事件を読んでいる。

私法上の差止である。商法上、民事上の差止は契約上の差止であり、契約不履行によるものが多い。

ところが本件事件においてはそのような契約があるわけではない。独占禁止法上の差止である。ただ入札の自由を妨害する行為を差止ようというのである。それによって入札の自由を確保しようというのである。入札の自由が確保されれば価格は一件当たり39,000円に下がるはずである。これは日高市の事例であるが他においても同様である。そうしたいという業者の応援は多い。

これは公正競争阻害という公法的な概念によってしか理解できないであろう。公法的に公正競争阻害性を強制によって克服するそのための命令が差止であると考えられる。したがって公法なのである。公法であるからこそ、憲法が使えるのである。最初から基本的人権を侵してよいという契約は、私的な企業のように行ってはいない。更に生存権や、営業の権利を侵してよいという契約をしているわけではない。したがって憲法第22条に関係があるということは公正競争阻害性と関係があるということになる。

憲法第22条が原因であるからといっても、独占禁止法が関係がなく、憲法問題のみが最高裁判所で取り扱われればそれで解決するというわけではない。信条の自由が理由であってはならないという論理は、独占禁止法にいたる発端でしかない。それ故に独占禁止法上の差止が、実体法があるゆえにできるということになる。強制加入と差止は同一物である。その強制加入の際に少数派である自由競争主義者の信条の自由も守るべきであるという憲法上の(公法上の)論理が使われるというだけである。ファッション事件のように「より競争制限的ではない代替案」の原則が使用されてもよいのである。民事訴訟という代替案を提示していないというファッション事件の論理は憲法問題ではないが、より競争制限的ではなく、かつ人権制限的でもない入ってからの議会主義などというのは提示されていないのであるから、使われた手法が違憲であるという結論は、つまり競争制限的でもなく人権制限的でもない代替案が使えたではないかということである。

公正競争阻害性は税金の使い方が荒くなり、商品の価格が値上がりし、一般消費者に損害を与えるだけではない。それに関わっている事業者のうち安売りを経済的合理性によって行おうとしている事業者のうち排除されている事業者や、ギルドから排除されているので、親方並みの仕事ができるようになっているのにギルドが弟子たちに仕事をさせないということにより仕事をさせてもらえない事業者に、社会公共に対する損害とともに、当該事業者にも莫大な損害を与えていくことになる。確かに近代の資本主義が発達するとこの共同のボイコットは垂直的と、水平的に分解されて販売業者が製造業者に間接的に安売りの販売業者には原材料を売るな、供給するなという形態をとるようにはなるが、原始的にはおそらくコモンローの最初の段階から存在した不法行為はギルドからの排除、つまり本件事件のようにギルドそのものに入れないという形態のものであったと考えられる。

したがって本件事件は非常に典型的な共同ボイコットである。事業者団体が共同ボイコットを「させる」行為に該当している。

日本の法制度の中における差止制度の今後の動向

Recommendations of the Justice System Reform Council - For a Justice System to Support Japan in the 21st Century - June 12, 2001 The Justice System Reform Council

の中では、次のような損害額の緩和の問題と、差止の記述がある。

(4) Effective Relief for Victims

a. Determining the Amount of Damages

With regard to determining the amount of damages, in light of the criticism that, viewed overall, the amount of damages is too low, it is desirable that necessary institutional studies be made and that damage determinations continue to be made in line with the circumstances of each individual case without being bound by the so-called "market rate" of past cases.

Under the Japanese system for compensating damages caused by torts, when a person suffers a loss caused by the unlawful act of another person, the actual loss (including mental damage) suffered by the victim is assessed in monetary terms and the perpetrator must compensate for these damages so that the victim will be restored to the condition he or she was in before the unlawful act was committed.

With regard to determining the amount of damages, in light of the criticism that, viewed overall, the amount of damages is too low, it is desirable that necessary institutional studies be made and that damage determinations continue to be made in line with the circumstances of each individual case without being bound by the so-called "market rate" of past cases. (In this connection, the new Code of Civil Procedure states that, when proving the amount of damages is extremely difficult, the court may decide the amount deemed as appropriate at its own discretion, and has thus reduced the burden of proof.)

Incidentally, the United States and some nations adopt a punitive damages system under which a court can order a perpetrator who committed an especially bad act to pay damages exceeding the amount the victim actually suffered, for the purpose of deterring similar acts in the future. However, since it has been pointed out that the punitive damages system does not align with the Japanese legal system, which rigidly separates civil liability from criminal liability, the system should be further studied as a future possibility.

b. Measures for Cases in which the Number of Victims Is Large but the Amount of Damages Suffered by Each Victim Is Small

As to the possible introduction of the right of group action and, in case of introduction of the right, the method for determining qualified groups, these matters should be studied for each field of law individually by taking into account the purpose of each respective substantive law and the rights and interests that the law is designed to protect.

When the number of victims is large but the amount of damages suffered by each victim is small, it is generally not economically feasible for each victim to take an individual legal action. In order to make it easy to file a suit in such a case, in Germany, under laws such as the unfair competition prevention law and the law concerning general contractual conditions, the right of group action to seek a court injunction against such illegal acts is granted to organizations whose purpose is to protect the interests of victims, and in the United States, the class action system, in which the damages for multiple victims may be consolidated into a single claim, has been established.

In Japan, as to the possible introduction of the right of group action and, in case of introduction of that right, the method for determining qualified groups, these matters should be studied for each field of law individually by taking into account the purpose of each respective substantive law and the rights and interests that the law is designed to protect. Incidentally, with regard to the class action system, the new Code of Civil Procedure has reinforced the chosen party (sentei tojisha) system so that it can perform a kind of function similar to the class action system. This matter should be further studied as a future task, paying attention to the circumstances of utilization of the chosen party system.

U.S. 9th Circuit Court of Appeals GORBACH v RENO

We must decide whether the power to confer citizenship through the process of naturalization necessarily includes the power to revoke that citizenship. We conclude that it does not.

の中に次の記述がある。

II.[3] The government also urges that the district court did not properly apply the ordinary requirements of balancing hardships and requiring bond for a preliminary injunction. The government urges that the injunction imposes the hardship that it cannot do what is enjoined, revoke naturalization administratively, without filing actions in court, a proposition that is obvious and true. But the district judge was within her discretion in concluding that that hardship was outweighed by the hardship to all the new citizens who might otherwise be subjected to burdensome and threatening administrative proceedings not authorized by law. Where it is important to commence proceedings to revoke naturalization promptly, as where evidence may disappear, the injunction does not impose delay, because the government is free to proceed in district court under the explicit and unchallenged provisions of the statute. The government argues that the district judge abused her discretion by not requiring a bond, but the purpose of such a bond is to cover any costs or damages suffered by the government, arising from a wrongful injunction, and the government did not show that there would be any. 28

検察官が差止めるのと似ているのが、本件事件の差止は独占禁止法上の差止であって、ライブドア事件における民事上の差止とは違っている。したがって所有権の妨害排除請求権に似ているとともに、犯罪の現行犯逮捕ともよく似た法哲学によっていると考えられる。しかし商業上の差止でもあるので、商法からまず入る。

Business Law : Principles, Cases, and Policy-US-5TH Edition

Roszkowski, Mark E. /Roszkowski, Christie L. /Publisher:Prentice Hall Published 2001/08

においては、その292ページにおいて、Klein v. PepsiCo, Inc.事件を差止の事例としてあげている。

Injunction Against Breach, and Reformation

Specific Performance

Case: Klein v. PepsiCo, Inc. 292 (2)

Injunction

Reformation

ここでは差止と述べているが、契約違反による債務不履行に対する強制のことである。

付録として挙げている法令は次の通り。

Appendix A The Constitution of the United States 37 (7)

Appendix B Uniform Commercial Code (2000 44 (131)

Official Text)

Appendix C Revised Uniform Partnership Act 175 (14)

(1994) [Including the Uniform Limited Liability

Partnership Amendments (1997)]

Appendix D Revised Uniform Limited Partnership 189 (8)

Act (1976) with 1985 Amendments

Appendix E Revised Model Business Corporation 197 (42)

Act (1984) (As Amended Through May 2001)

次に、反トラスト法の教科書においては差止の判例は次の通り。

確かに数が少ないので、憲法の判例とするほうがいいのだろうか。

日本では今でも反独占禁止法が根強いという憲法問題とすることは世界的にも妥当な判決となるかもしれない。しかしその場合には独占禁止法の差止にもなる。これが真実であるから、世界的な判決となるのである。反独占禁止法の思想とはただ独占禁止法違反によって儲かっているから独占禁止法違反はよいことだと言っているに過ぎない。

アメリカでは私的当事者によるInjunctive relief under § 16 of the Clayton Actクレイトン法第16条の差止救済事件が日本の独占禁止法第24条による差止救済に該当する。

ZENITH RADIO CORP. v. HAZELTINE RESEARCH, INC., ET ALがこれまでではクレイトン法第16条の私的当事者による差止事件ではもっとも有名であった。次にアメリカ医師会事件が起こっている。

SUPREME COURT OF THE UNITED STATESアメリカ連邦最高裁判所 判決

Syllabus 判決要旨

ZENITH RADIO CORP. v. HAZELTINE RESEARCH, INC., ET AL.

ゼニスラジオ会社対ハーゼルタイン調査会社事件

395 U.S. 100

395ページ、 U.S. 100

CERTIORARI TO THE UNITED STATES COURT OF APPEALS FOR THE SEVENTH CIRCUIT.No. 49.

高等裁判所への破棄差戻事件 第7巡回裁判所 49号事件

Argued January 22, 1969 -- Decided May 19, 1969

1969年1月22日討議、1969年5月19日決定。

4. Injunctive relief under § 16 of the Clayton Act is available even though the plaintiff has not suffered actual injury as long as he demonstrates a significant threat of injury from an impending antitrust violation or from a contemporary violation likely to continue or recur. Pp. 129-133.

クレイトン法第16条による差止による救済は、請求されている反トラスト法違反行為からの損害のおそれがあることが有意に証明されている限りは、あるいは、現在行われている違反が継続していくか、再発する傾向がある場合その違反からの損害のおそれが有意に証明されている限りは原告が現在も損害を受け続けていない場合であっても使用することができる、

(a) Injunctive relief against HRI with respect to the Canadian market was wholly proper, as the trial court found that HRI and the Canadian patent pool were conspiring to exclude Zenith and others from the Canadian market, and there was nothing to indicate that this clear violation of the antitrust laws had terminated or that the threat to Zenith would cease in the foreseeable future. Pp. 131-132.

カナダの市場に関連するHRIに対する差止の救済措置はまさに正当であった、その理由は事実審はHRIとカナダの特許プールはゼニス社及び他の会社をカナダの市場から排除するために共謀していることを認めていたからである。またこの反トラスト法の明白な違反が行われなくなっていたこと、あるいは、予見できる将来においてゼニス社へのおそれがなくなるということを示す証拠は何もなかった。

(b) The injunction which barred HRI from conspiring with others to restrict or prevent Zenith from entering any other foreign markets is also reinstated, in light of HRI's antitrust violation by its conspiring with the Canadian pool, its participation in similar pools in England and Australia, and Zenith's interest in expanding its foreign markets. Pp. 132-133.

HRIがカナダの特許プールで共謀するという反トラスト法違反に鑑みて、英国、オーストラリア、および、外国の市場へ拡大しようというゼニスの関心に照らして、他のどのような外国の市場へもゼニスが参入するのを制限し、妨害するどのような謀議をも他の会社と行わないようにHRIに対して禁止する差止をもまた再度認められた。Pp. 132-133.

・ ・・・・・

7. The matter is remanded to the Court of Appeals for it to consider whether the trial court correctly determined that HRI conditioned the grant of licenses upon the payment of royalties on unpatented products, and, if so, whether such misuse embodies the ingredients of a violation of either § 1 or § 2 of the Sherman Act, or whether Zenith was threatened by a violation so as to entitle it to an injunction under § 16 of the Clayton Act. Pp. 140-141. 388 F.2d 25,

この事件は控訴審へ差し戻し、HRIが特許が与えられていない製品に対してロイヤリティーの支払いによる特許を認めるときの条件を事実審が正しく決定しているかを審理させるとした。そしてその上でシャーマン法第1条か、第2条かの違反にそのような特許の不正使用が該当していないかどうか、あるいは、ゼニス社は違反のおそれにさらされていないのかを審理し、クレイトン法第16条の私訴における差止の権利を与えるのが妥当ではないかを審理するために控訴審に差し戻す。Pp. 140-141. 388 F.2d 25,

affirmed in part, reversed in part, and remanded.

一部認容、一部破棄、差し戻し

Mr. Justice White delivered the opinion of the Court.

ホワイト判事が裁判所の見解を述べた。

 このゼニス事件は共同ボイコットの事例として損害賠償請求事件の先例となった事件である。日本では共同ボイコットを第19条で取り扱い、事業者団体が共同ボイコットをさせ、公正競争阻害を発生「させる」行為は8条1項5号で規定しているのであるから公正競争阻害という実質要件を8条1項1号で計ることが妥当であるとしても本件ゼニス事件は日本の法令においては8条1項5号に該当するといえる。

 アメリカ医師会の事件も同様の取り扱いになろう。以前引用したように

Because the AMA has never made any attempt to publicly repair that damage, the court found that chiropractors will continue to suffer injury to reputation from the boycott.

the AMA(アメリカ医師会)はその損害を公的に修復するどのような試みも行って来なかったので、ボイコットは評判に対する損害を発生させて、与え続けるだろうと裁判所は認定した。

これが直接の理由である。

先に引用した

平成16年 (ネ)第2179号独占禁止法違反行為に対する差止請求控訴事件

控  訴 人 エアポートプレスサービス株式会社

被 控 訴人  関西国際空港新聞販売株式会社 外5名

控 訴 理 由 書

においては著しい損害を「控訴人は空港島内における全国紙の販売については、いわゆる「ジリ貧」の状況に追い込まれており、いつ撤退してもおかしくない事態に陥っているのである。

  又、原判決は、控訴人が蒙っている損害について、控訴人が「5パーセントとはいえマージンを得ている」ことを理由に「著しい損害」に当たらないというが、控訴人が蒙っているのは、卸売5社から仕入れることができれば得られるはすの10%のマージンが、「なんばミヤタ」からしか仕入れることができないために、5%のマージンしか得ることができないために、実に得べかりし利益の半分を失っているのであるから、たとえその「額」が少なくとも控訴人にとっては「著しい損害」である事を看過するものであり、零細企業である控訴人にとって死活問題であることの認識を欠く不当な判決であると判断せざるを得ない。

7   以上述べた理由により、控訴人には独禁法24条の「著しい損害」があるというべきであり、この点の判断を誤った原判決は破棄されるべきである。」という論理によって控訴しているが、それは著しい損害論としては不十分であると考えられる。たしかにこのエアポートプレスサービス株式会社事件の場合には損害賠償請求が妥当であると考えられる。このように考えるとこのエアポートプレスサービス株式会社事件で損害賠償請求を付け加えなかったのは間違いであるようであるし、一方本件差止損害賠償事件においても損害について認容しなかったのは法令の明らかな適用において誤りがあると考えられる。これは本件事件での上告理由となる。

次のような理由やその他の理由によって差止が出来ないとしても、損害賠償請求のみが一円も認められなかったのは明らかに法令の適用違反である。

先に引用したコネチカットの最高裁判所の次の判断は法的に参考になると考えられる。

「‘‘A mandatory injunction . . . is a court order commanding a party to perform an act.’’ Tomasso Bros., Inc. v. October Twenty-Four, Inc., 230 Conn. 641, 652, 646 A.2d 133 (1994).

「命令的差止は・・・一方の当事者にある行為を行うように命令する裁判所の命令である。」Tomasso Bros., Inc. v. October Twenty-Four, Inc.事件、 230 Conn. 641, 652, 646 A.2d 133 (1994).

‘‘Relief by way of mandatory injunction is an extraordinary remedy granted in the sound discretion of the court and only under compelling circumstances.

「命令的差止による救済は、裁判所の適正妥当な自由裁量による特別の救済措置であり、それは強制の必要な状況においてだけ認められるものである。

. . . Ordinarily, an injunction will not lie where there is an adequate remedy at law.’’

・・・・法律によって適正な救済方法があれば差止は執行されないのが普通である。」

(Citation omitted; internal quotation marks omitted.)

引用省略、文内の引用符号省略

Monroe v. Middlebury Conservation Commission, 187 Conn. 476, 480, 447 A.2d 1 (1982);

モンロー対ミドゥルベリー・コンサーベーション・コミッション事件、最高裁判所判決187 Conn. 476, 480, 447 A.2d 1 (1982);

accord Harvey v. Daddona, 29 Conn. App. 369, 377, 615 A.2d 177 (1992)

同趣旨Harvey v. Daddona, 29 Conn. App.事件、369, 377, 615 A.2d 177 (1992)

(‘‘[i]njunctions should not be issued when damages can adequately protect the injured party’’).

(被害を受けた当事者が損害を適正に防衛できる場合には、差止は行われるべきではない)

Moreover, ‘‘[w]here the granting of the injunction would cause damage to the defendant greatly disproportionate to the injury of which the plaintiff complains, it may be held inequitable to grant a mandatory injunction and the plaintiff may be remitted to her remedy by way of damages.’’

更に「差止を認めることによって原告が請求している損害額に比してとてつもなく不釣合いである損害を被告に与える場合には、命令的差止を認めることが不公平であるとみなされて、原告への救済は損害賠償金の支払いという救済手段によることになるであろう。」

Moore v. Serafin, 163 Conn. 1, 6?7, 301 A.2d 238 (1972).

モアー対セラフィン事件, 163 Conn. 1, 6?7, 301 A.2d 238 (1972).

In sum, ‘‘[m]andatory injunctions are . . . disfavored as a harsh remedy and are used only with caution and in compelling circumstances.’’

要約すれば、「命令的差止は・・・厳し過ぎる救済策であり、採用できない、命令的差止は慎重に使用されるべきであり、強制的な状況においてだけ使用されるべきである。」

42 Am. Jur. 2d 560, Injunctions § 5 (2000).

Am. Jur. 2dの本の § 5 第5章差止(2000年)。

We conclude that the trial court properly determined that the present case failed to present the ‘‘ ‘compelling circumstances’ ’’ required for the issuance of a mandatory injunction.

この事件では事実審の裁判所が命令的差止を発するのに要求される「強制するに値する状況」が現出されていないと決定したことは正しいとの結論を得る。

Monroe v. Middlebury Conservation Commission, supra, 187 Conn. 480.

モンロー対ミドゥルベリー・コンサーベーション・コミッション事件、最高裁判所判決,187 Conn. 480.

The plaintiff had an adequate remedy under the act, namely, an action for damages against the defendant, on which she prevailed.

原告は、被告に対して損害賠償請求を行うというような普通頻繁に使われている法令によって適正な救済を受けることができた。

Moreover, even if the plaintiff had not had the ability to collect damages, we would conclude that the trial court properly exercised its discretion in denying the relief requested.

更に付け加えると、たとえ原告が損害額を回収する能力がない場合であっても、事実審が請求された救済を否定することによって自由裁量権を行使することが正当であると結論できるであろう。

See id.

同上、最高裁判所判決参照。

(‘‘mandatory injunction is an extraordinary remedy granted in the sound discretion of the court’’ [internal quotation marks omitted]).

(「命令的差止による救済は、裁判所の適正妥当な自由裁量による特別の救済措置である」(文内の引用記号省略))」

本件事件についてみるに、差止がなくても損害額が認定されるべきであるが、損害額の認定だけでは、アメリカにおいてAMA(アメリカ医師会)事件やゼニス事件において認定されているように「the AMA(アメリカ医師会)はその損害を公的に修復するどのような試みも行って来なかったので、ボイコットは評判に対する損害を発生させて、与え続けるだろうと裁判所は認定した。」のと同様の損害を発生させ、与え続けるだろうと認定されており、そのことは著しい損害を与え続けていると評価できるのであるから「命令的差止を発するのに要求される「強制するに値する状況」」にありそれなくしては今後も同様の状況が継続していくであろうと考えることができるのであり、命令的差止を発するべきであると考えられる。

但し、著しい損害とは「損害賠償請求を行うというような普通頻繁に使われている法令によって適正な救済を受けることができない場合にonly with caution and in compelling circumstances注意深く、強制に値する状況でだけ差止が使用されるべきである」

という見解は一理はあるが、強制に値する状況という言葉は、差止の強制をするのに強制に値するという言葉を使ってトートロジーに陥っており、その要件として遊戯銃協会事件(デジコン事件)において使用されたように現在及び将来への継続性の問題が本件事件やアメリカ医師会事件やゼニス事件におけるように認められる必要があるといわなくてはならない。この件について認定がなされれば最高裁判所において破棄自判は可能であろう。本件事件において事業活動を困難にしていることが継続していること、それを自分で認識してそれを矯正する自由があるのにそれをしていないこと、今後将来的にもそれを自分の自由意志でする矯正可能性がないこと、更には本件事件の被害者からみれば被害を受け続けるおそれがあること、以上のような認定が可能であれば最高裁判所の自判は可能であろうと考えることが出来る。最高裁判所の自判は入会拒否の一点においては両当事者に異存はなくその点については事実に関する争いがないという一点、そしてそれが続いており、その他の公正競争阻害の多くの点からすれば合わせて公正競争阻害が認められるという一点に絞られているからである。

本件事件の場合の差止は社会公共のための差止でもあり、公法と私法の中間領域に位置し公法でもあり私法でもある独占禁止法によっているからこそ差止という強制が可能であるのであってそれ故に憲法問題として取り扱われるのである。強制があるからこそ信条の自由と職業活動の自由の問題が憲法問題として取り上げられる価値があるのである。たしかに今後ゼニス事件と同様に日本ではじめての独占禁止法違反による損害賠償請求の審理が差止が認められてから始まるのであり、最高裁判所は早急に判決を出すべきであると考えられる。

継続的か否かは状況の問題であり、「強制に値するcompelling」よりも「状況circumstances」に力点をおいてコネチカットの最高裁判所が書いているとすればノースウェスト判決に言う状況において共同ボイコットが続いているという状況はまさに「強制に値するcompelling」「状況circumstances」に該当しているといいうるのである。

 

公共の利益のための差止と、公共の利益に反してと民事上の差止

独占禁止法上の差止は契約によるものではないので、民法上の差止ではないようである。独占禁止法上の差止は公共のための逮捕に近いが、強制を要する状況が認定基準であれば個別企業を保護するだけのための差止を認める余地が残っている。ドイツにおいて禁止と、差止を区別するがごときである。刑法においては公共の法益のために逮捕が行われるのと似ているのが独占禁止法においては公正競争阻害がある場合に公共の法益のための逮捕に近い刑法犯の場合であるが、一方窃盗犯や強盗犯のように個人の所有権をまもる法益のための逮捕の場合もあるように個別の企業の保護のための差止もある。

商法上の差止はクライン対ペプシコ事件では次のとおりである。すなわち差止は契約における特定債務の問題であると考えられている。

「Klein v. PepsiCo, Inc. (US Ct of App 4th Cir 1988)

P wanted to buy D’s jet.

原告はジェットを買おうとした。

2-716 allows nonbreaching buyer to seek SP if goods are unique. BUT No Specific Performance when money damages are adequate. Substitute goods can be purchased to satisfy the original K.

もし事物が特定的であれば違反していない買い手は特定の行為を請求できる。しかし金銭による損害が適当ではないときの特定債務の履行。もともとのKを満足させられるならばその代替的な事物を買うことが出来る。」

と要約しているものもいるし、

「Contracts Outline 契約一般 Goods?movable, personal property

Unless it is a sale for goods, apply common law

8, Specific performance?is awarded when damages are shown not to be an adequate and just remedy. See Klein v. Pepsico. The p can seek specific performance if the good is unique, etc. See UCC §2-716.

特定の行為の履行が命じられる・・損害賠償が適切に行われていると考えられないうえに正当な救済がなされていないと考えられる場合。クライン対ペプシコ事件を参照。原告は事物が特定的などであるときには特定の行為の履行を求めることができる。」

「Though there are some instances wherein lack of an adequate remedy need not be shown to maintain a cause of action for unjust enrichment, the general principle adhered to in Maryland is that a plaintiff must demonstrate the lack of adequate legal remedy before seeking an equitable remedy. 不正な利得を得たことに対する訴訟の訴因を維持するためには適切な救済がなかったことを証明するまでの必要性はないが、メリーランドに課された一般的な原理は公平法上の救済を求める前に適切な法律上の救済がなかったことを原告は証明しなければならないということである。Manning v. Potomac Electric Power Co., 230 Md. 415, 422, 187 A.2d 468 (1963); Klein v. Pepsico, Inc., クライン対ペプシコ事件参照845 F.2d 76, 80 (4th cir. 1988).

IN THE CIRCUIT COURT FOR BALTIMORE CITY STATE OF MARYLAND, Plaintiff, v.PHILLIP MORRIS INC., et al.Defendants. Case No. 96122017/CL211487 May 21, 1997 OPINION AND ORDER OF COURTの判決より引用」

「WHAT THE REMEDY FOR BREACH?Understanding the Calculation of Damages

Damages versus SpecifPerformance Klev. Pepsico, Inc., pp.113-15

契約の不履行に対する救済 損害の計算の理解 

損害対特定の履行 Klev. Pepsico, Inc., pp.113-15」

このように商法上は差止は債務不履行の問題である。

ところが同じ経済法でありながら、独占禁止法は強制的な差止を債務不履行の問題としてではなく公共の利益の観点から命令するのである。これとはまた別にギルド制度の場合には入札が出来なかったことについて損害賠償請求がなされるのである。これは個別企業の保護である。

ところが独占禁止法においては被告の事業者団体は強制加入に近いのであって契約によって加入する任意団体ではない。これは公共の利益との関連でそのようになっているのである。

公共の利益のために差止を認めるにはどうしても公正競争阻害性をなくし自由競争秩序を回復させるという公共の利益に言及せざるをえなくなる。政治学上はここに社会契約と国家への強制加入の仮説問題を導入するのであるが法律学上はそれが公共の利益の問題である。

独占禁止法上の自由は所有権の妨害排除請求権に近いものである。が、絶対的なものではなくて強制に値する状況においてのみ妨害排除の請求権が存在するような妨害排除の請求権であるという結論になる。これは公共の利益の問題が存在したのである。独占禁止法上の妨害の排除の研究は現在の自由論の研究の最先端であるといいうる。

これが法哲学上の問題である。

強制に値する状況においてのみ妨害排除の請求権があるという法律的な積み重ねはアメリカにおいては発展してきているが、日本ではまだ差止の観念そのものがほとんど存在しなかったという意味において福沢諭吉がフリーダムという西洋の言葉を訳すときにその絶対的に善なる意味を日本人が理解できるであろうかと迷ったときに迷った信条と同じものがあるようである。日本では現在でもその迷いがのこったままである。ところが日本においてもバブルの崩壊後にはそれがいけないということに気が付きだした。これが日本の状況である。これが経済的状況である。

そのような社会経済的状況の中で独占禁止法に差止の制度が設けられることとなった。

そこにはやはり信条の自由の問題が憲法の問題として必要であったのであり、更には営業の自由の問題が存在したのであった。

実感としてそのように感じている。憲法は公法上の問題である。しかし公正競争阻害の問題とは違う。憲法は本当は私企業においても守られるべきである。しかし私的自治の故にそれが及んでいないのである。もし本当に及んでいかないというのであればもう一度ホロコーストが起こってもよいということになる。それは論理的にはありえないからやはり私的自治に対しても憲法は及んでいることになる。ということは本件事件は憲法問題であるから、公法の問題になっているのではなくて独占禁止法の問題であるから憲法が問題になっているということの方が正しい。公法に近いから憲法問題が正面きって論じることが可能であるということである。独占禁止法が公法に近いのであって、憲法が公法に近いという訳ではないであろう。憲法であっても以上のとおりに私法の上に成り立っている株式会社のような私企業に対しても憲法の人権規定が及んでいるとするならば、憲法問題であるから公法であるとはいえない。同じように独占禁止法であっても自由競争市場にまかせられている業界においては公法というよりも私法に近いのである。その場合にはこのような問題は発生してこない。本件事件が公法的な要素を有しているのは、強制的に入会させるという公法的な要素がノースウェスト判決によっても当然違法であり、ドイツでは法定違法であるという特殊性から起こってきたものである。

事業者団体による市場からの排除という観点からとらえれば、すべてが含まれるのであって、それが8条1項5号に含まれるというように考えることが出来る。一つ一つの行為はそれに該当するのであるが、全体として概観すれば独占禁止法の全体の趣旨の問題としてとらえることができる。インターネットで諸外国の競争制限法を検索ソフトによって検索する場合にもそれがもっとも多くの判例を探し出せる。

したがって自由競争を主張する信条の自由を侵すような入会拒否の理由は認められないとするもっとも独占禁止法に近い論理がよいようである。それは競争市場からの排除という意味では独占禁止法の問題であり、理由の部分が法律文言的には憲法の問題であるということである。また事業活動を困難にするという行為自体のなかにも私企業の集団がそのようなことをする、事業者団体としてはそのような行為(共同ボイコット)を「させる」ことが憲法上の文字通りの問題であったのである。しかしその論理の奥には人類の思想を揺るがす程度に重要な問題が含まれていたというのが真実であるようである。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(12)

平成17年6月7日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

合衆国政府対ボーデン会社最高裁判所判決は、アメリカのFTCに相当する日本でいう公正取引委員会の審決は、私訴に対する判決とは違った法益を擁護しているとしたもので、両者を区別している画期的な判決であろう。一方が公共の利益の為に行われるということに対して他方は個別企業に関わる公正競争阻害の金額を問題にしている。ある個別企業に関わる公正競争阻害の金額については個別企業に対する損害の金額である得べかりし利益が減ることによって生じた金額と、公正競争阻害の結果発生した損害の金額が違うという点に法律上の取り扱いの違いが発生する。差額説と、得べかりし利益が減ることによって生じた損害との違いは法律論だけの違いだけではなくて、法律論の構成の違いにも現れている。得べかりし利益が減ることによって生じた損害の賠償請求訴訟は私訴の原告が求めるものであり、この公正競争阻害の結果生じた公共の利益を保護する場合には政府による訴訟を起こすのであって、私訴の原告はそれへの関心はない。しかし同じ行為による公正競争阻害の金額は私訴の原告が競争上の損害を受けているうちの一部分である。69,000円と39,000円との差額はその対象個別企業に関わる公正競争阻害の得べかりし利益が減ることによって生じた金額のうちの一部分であるということについては誰も疑いようがないが、いまだ訴訟を起こしていない昭和鑑定法人の社長が起こすであろう個別企業に関わる公正競争阻害の金額についてはいまだ考慮する必要がないことになる。この企業の場合には潜在的な損害の予測とすることができるし、もしこの企業が第12分科会の脅迫に耐えられずに東京に逃げていっていなかったならば、その分の個別企業に関わる公正競争阻害の金額については加わって公正競争阻害の社会全体に対する損害の金額に加えなくてはならないことになる。しかし参入が禁止されることが完全に成功してしまったのであるから、彼の分は計算に含まれないことになる。

ところが西園を入会させたことを非常に間違ったことをしたと反省している河田昭彦にとっては既に入会させてしまったのであるから、西園と山口の両者と競争をしなければならない市場における競争上の地位にある。そのために西園の取引の制限を行おうとしたし、上告人についてもそれを行い続けているのである。これは被上告人が共同して価格維持行為を行っているということによって「共同ボイコット」をさせることをしていることになるのである。昭和鑑定法人の場合とは違っている。

本件事件は私訴における原告の訴訟である。本件事件はしたがって当事者以外には既判力は及ばない。ところが全体としてはその個別企業に関わる公正競争阻害はカルテルに近い行為の一部であるとしてとらえられるならば、本件事件は公正競争阻害性のある行為であり公正取引委員会の排除措置が適切であるような事件である。富山県不動産鑑定士協会には北陸郵政局から価格が漏れていた。また北関東連絡協議会は茨城県不動産鑑定士協会の一事業者に安く入れさせて後でその穴埋めをさせた。

このように本件事件には公正取引委員会が取り扱うべき多くの事実がある。ほとんどがカルテルそのものであり、カルテルを本件事件において私訴における原告の訴訟ではどのように処理すべきであろうか。

この本件事件は緊急性を要する上に公法・私法問題があまりにも複雑に絡み合っている上、さらにドイツ法における入会強制の法定や、アメリカにおいても法的な規則を作るという判例法の1940年までの流れ、そしてその後も一貫して独占禁止法においては証拠が証拠の優越程度に存在すれば当然違法との判例法の形成に努力してきたという歴史がある排除に対する長い流れがある事件である。それもアメリカ法においてもドイツ法においても最も典型的な事件である。ただし日本では長い間放置されてきた事件である。さらに事業実績報告書という典型的な市場の確定が可能な事件である。

この本件事件が民法・商法事件でないにもかかわらずもし独占禁止法の差止が衡平法の差止の手続きと同じ厳密さで行われなくてはならないとするならば、どこか不都合な感じがする。それは民法・商法の証拠である契約の不存在の問題であり、公共の利益を保護するための差止であるからである。公共の利益を守るための公共性の故に衡平法の手続きは証拠の挙証責任の分担という意味では平等ではなく、100%の証明は必要ではないということになり、また公共の利益を守るために行われるプライベート・アトーニー・ゼネラルの事件であり、そこには証拠の収集の難しさなどが存在するのであるから、逆に衡平法上の手続きは必要ないという論理になるのである。

独占禁止法上の差止とは何か。

差止とは何か。特に独占禁止法上の差止にはどのような法的特徴があるのか。

本件事件は(差し止め訴訟における)本案的差し止め命令, 終局的差し止め命令permanent injunction を求めるのである。これはドイツ法において法定を行ったことと同じことである。

次に例を出す行政法上の都市計画法や、消費者訴訟、行政訴訟とは全く違った差止訴訟である。

差止できれば妨害が排除された業者には損害が発生しし続けてきてきた個別企業に対して行われてきた本件事件は問題としてきた個別企業に関わる公正競争阻害はなくなり自由競争をすることができるようになる。公正な自由競争ができるならば与えられた摂理である配分が自由に決まることができ、それまで阻害されてきた状況は妨害の排除から立ち直ることができる。

この保護法益は行政や都市計画においては次のような論理がある。同じ行政上のものである日照権の保護、騒音からの保護、既存不適格建築にならないようにすることなどを目的として差止請求が行われるのとは明らかに相違している。また消費者が無限連鎖講に入会しないようにとか、クーリングオフするために差止を行うとか、競争業者が不正競争防止法で差止をするとか、商法で契約したのに履行しないので差止するとかいうのとは相違している。保護法益が自由経済という市場そのものである。それ故に事業活動そのものができなくなるという憲法の第22条に直接関わっている。他のものは契約によっておおむね解決できるのであって、無限連鎖講に入会しないように契約する、クーリングオフの契約を守る、日照権を守るように設計変更する、騒音がでないよう変更する、既存不適格建築については建替え時に設計変更する、特定履行を行う、株主を優遇するというような代替的な手段によって解決がつく。これらは民事訴訟か、少なくとも行政上の契約上の瑕疵担保責任に近いものである。ところが独占禁止法においては公法的な契約方法そのものに関する規約と関係しているので、談合などの証拠が少ないにもかかわらず差止しなければ事業活動そのものが困難になるという結果が生ずるのである。もともと社会経済的な性格を持つものであった。個別企業の自由を保証しながらも社会経済的な制作でもあったのである。

最高裁判所の本案判決で本案の差止を行う場合にはその前に仮処分ができるであろうか。しかし緊急性を要する継続犯の事件においてである。継続性がある故に仮処分が必要である。現行犯に対して放置するようなものである。現在判決が遅れている理由がおとり捜査であるならば確かに遅らせることに一理がある。しかし被害者にとっては損害が増すのみであって何らの利益もない。損害は一日一日増大している。それが明らかな場合には本件事件は緊急性を要するのでa "preliminary" injunction which the court issues pending the outcome of a lawsuit or petition asking for the "permanent" injunctionを要求する権利があるといえるであろう。それもpermanent injunction a final order of a court that a person or entity refrain from certain activities permanently or take certain actions (usually to correct a nuisance) until completed.なのである。但し日本ではこのような意味での命令的仮処分はやったことがないので、両者の関係をどのように関連づけるのかという問題が発生する。早めに入会強制の仮処分を行ったのに実際は本案の結論まで待つということになる。入会拒否の禁止と、入会強制とはどのように違うか。

但し両者の関係をどのように関連づけるのかという問題が発生する。ある独占禁止法上の条件の下において入会の取引拒絶を永久に行わないようにさせるということと、終極判決までの間の損害の継続を一時的にでも中止させることにはどの程度に違いがあるのか。

事典によれば永久的差止の意味は次の通りであり、仮差止との区別があろう。

permanent injunction永久の差止 a final order of a court that a person or entity refrain from certain activities permanently or take certain actions (usually to correct a nuisance) until completed.人あるいは企業体がある種の行為を永久にしないようにする裁判所による終極命令。 あるいは(一般には妨害を排除するために)妨害の排除が完成するまである行為をするように命令する裁判所の終極命令。 A permanent injunction is distinguished from a "preliminary" injunction which the court issues pending the outcome of a lawsuit or petition asking for the "permanent" injunction.

終極差止は裁判所が「永久の」差止を求めての訴訟や請求の結論が未決の状態にある場合に発される予備的差止と区別される。

差止に対して確認訴訟は次の通りである。

declaratory judgement  宣言的判決,確認判決(法律問題についての裁判所の意見を述べるだけで何ら措置を命じない判決)

declaratory precedent  宣明的先例(既存の法則を単に宣明しただけの判例)

 以上の字義の意味から考えれば、本件事件の場合には(一般には妨害を排除するために)妨害の排除が完成するまである行為をするように命令するという命令的な判決が、仮であっても継続性がある故に仮処分が必要である。

 法の趣旨に則れば法は現行犯を逮捕しないでよいという法はない。ということは禁止するというdeclaratory judgement  宣言的判決,確認判決(法律問題についての裁判所の意見を述べるだけで何ら措置を命じない判決)だけでは本件の場合には何も法的な解決にはなっていないことになる。では強制について実効力のある制裁措置があるかといえば、実効を確保するまでの期間の損害額についての金銭的な損害賠償請求における損害額の決定は含まれるのであるからそれで実効性は確保されるということになろう。Decree判決はjudgementに対し衡平裁判所の判決をいうのであるから本件の差止はアメリカではDecree判決ということになるかもしれない。

注:decree  判決(judgementに対し衡平裁判所の判決をいう)

consent  decree 同意判決

注:都市計画争訟研究会報告「米国の都市計画争訟」(岩橋健定一2004年11月29日)は都市計画においては次のような論理があるという。

「時折職務執行令状が与えられる場合がある。この他、差別などを理由とした訴訟の場合、より積極的な措置が取られることもある。(二)インジャンクション(injunction) ゾーニングの過程が立法的であった場合に広く用いられる救済である。都市計画に関するインジャンクションは消極的(←→積極的)救済であることが一般的である。(三)宣言的判決(declaratory judgment) 権利の有無についての宣言をする判決である。現実の損害が発生する前でも可能とされる。原告が不利益を受けていることが「確認の利益」(justiciable controversy)として必要だが、この要件は比較的緩やかに解されている。(四)職務執行令状(mandamus) 行政官の何らかの行為を強制する判決。羈束行為(ministerial act)を命じることが通常だが、裁量行為(discretionary act)について裁量の行使を命じたり、裁量の行使を無効としたりすることもできる(裁判所が変わって裁量を行使することはできない)。裁判所が裁判所書記官に令状の発布を命じ、それを受けた行政機関は定められた期間内にその令状に対して対処した内容(もしくは上訴した旨)を裁判所に返答しなくてはならない。裁判所は、インジャンクションや宣言的判決として訴えられた訴訟をマンデイマスであると扱う裁量を有している(CA)。(五)立法的行為を強制するような特定的救済(specific relief:ある地域をあるクラスにゾーニングすることを強制する判決など)は一般的には認めないのが多数である。但し、この点は、排除的ゾーニング(Exclusionary Zoning)に対して差別を理由として提起される訴訟において、極めて大きく修正されている。代表例として、マウント・ローレルII訴訟がある14。

5.判決の後始末  

ゾーニングを変更する決定を市が行い、それを裁判所が違法と判断して差し止めた場合、前のゾーニングに戻るのか、ゾーニングがなされていない地区になるのかについては必ずしも明らかではない。但し、裁判所はこの問題が生じることを認識しており、しばしば一定期間差止を保留し、市に再度決定する時間を与えることが行われる。もしくは、裁判中に中間判決を下し、市に何らかの措置を取らせることもある。救済を形成することを裁判所の権限と捉える米国の法理の下では、十分な対応策があると思われる。6.その他 (一)「授権」問題(vested right) (二)「既存不適格」(nonconforming use) (三)「公的参加抑圧戦略的訴訟」(SLAPP) 14Southern Burlington County NAACP v. Township of Mt. Laurel, 456 A.2d 390 (N.J. 1983).日本語によるマウント・ローレル訴訟の紹介としては、福川裕一『ゾーニングとマスタープラン』(学芸出版社・1997 年)94 頁以下、大野輝之『現代アメリカ都市計画』(学芸出版社・1997 年)184 頁以下。6

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四 調停・仲裁151.調停紛争や訴訟に伴いコストを回避・減少させるものとして、開発業者と付近住民の間で調停が行われることもしばしばある。中立の専門家が調停者となることが多い。州によっては明文で土地利用紛争への調停の導入を定めているところもある(CA, FL)。調停の結果は、法律で定められたものであっても完全に自主的なものであっても、政府を拘束しない。2.仲裁「事実上の収用」の際の土地価格を算定するといった場面以外では余り用いられていない。五 計画間調整1.適合性要件(一)SSZEA 時代から、授権法の中に、ゾーニング条例について「全体計画への適合」(in accordance with a comprehensive plan)の要件が定められている。これは適合性要件(consistency requirement)と呼ばれる。ゾーニング改正についての判断においては、全体計画との適合性が重要な考慮要素になる。(二)全体計画の策定の義務づけはSSZEAではなされておらず、何がここで言う「全体計画」に当たるかは解釈の余地があった。ほとんどの裁判所は、ゾーニング条例以外の物理的存在としての「全体計画」を要求していない16。(三)現在では、文書としての全体計画を作成することを義務づけている州や、そのような全体計画とゾーニング条例との適合性をより明確に求めている州も少なくない(OR, CA)。オレゴン州では、ゾーニング条例が先に制定され、それと矛盾する全体計画が後に制定された場合でも、ゾーニング条例が全体計画に適合するように改正されなくてはならないとする裁判例がある17。2.その他 六 環境アセスメント1.環境アセスメントの一般論(一)連邦政府自らが事業を行う場合、もしくは連邦政府が許認可や補助金の支出を行う場合には、連邦環境政策法(National Environmental Policy Act, NEPA)の適用がある。州際高速道路(Interstate Highway)や大規模な飛行場などは、事業主体は州だが、連邦の補助金が支出された15Juergensmeyer & Roberts, Land Use Planning and Development Regulation Law 156-157(2003). 16Kozesnik v. Montgomery Twp., 131 A.2d 1(N.J. 1957) 17Baker v. City of Milwaukie, 533 P.2d 772 (Or. 1975) 7

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り連邦の許可が必要だったりするために NEPA の適用がある。(二)しかし、連邦政府は土地利用規制権限をそれ自体としては持たないので、都市計画において主に問題となるのは州の環境アセスメント法である。20程度の州が自らの一般的環境アセスメント法を有している。2.ゾーニングと環境アセスメント(一)一般論ゾーニング条例の制定・改正、全体計画、ゾーニング条例の下での条件使用許可・特例許可等に環境アセスメントが必要か否かは、各州の環境アセスメント法に明文があればそれに従い、そうでなければ解釈問題となる。」とされている。

一方では行政訴訟においては

「「行政訴訟に関する外国事情調査結果(イギリス)」(

名古屋経済大学教授 榊原秀訓)

司法と行政との関係一般 まず、イギリスといっても、法制度はイギリス国内で一律ではないので、ここでは、イングランドとウェールズを想定している。

・・・・・

司法審査請求制度には、短期の出訴期間等が規定されており、こういった制限のない司法審査請求制度外における宣言的判決や差止命令を用いるには、一定の制約があり、司法審査請求制度の利用強制と例外的にその外での私法的救済手段の利用許容性が、後述する排他性の問題であって、大権的救済手段と私法的救済手段の間における排他性の問題ではないことに注意しておきたい。 司法審査請求制度は、「許可段階」と「聴聞段階」という二段階からなっている。「聴聞段階」へ進む前に、裁判所から「許可」を得る必要がある(規則第 54 号第4条)。この二つの段階は、「訴訟要件審理」と「実体審理」に対応するものではなく、例えば、原告適格は、両方の段階で審査される。「許可段階」は、いわば一見明白に認容の可能性がないようなケースを却下(棄却)するためのものであるということができる。 訴訟類型について若干の説明を加える。行政機関が法に従うことを強制するためには職務執行命令・(命令的)差止命令、行政機関が違法行為を行う(継続する)ことを抑止するためには禁止命令・(禁止的)差止命令、行政機関による違法な決定を取消すためには取消命令、法の状況を宣言するためには宣言的判決といったものを求めることになる。職務執行命令訴訟において、決定が行われた後になってのみ命令を求めるべきとする主張が否定され、宣言的判決においては、裁判所は、移送命令(取消命令)で攻撃され得るならば、宣言的判決を得られないという判例はないとして、行政が第一次判断権を行使しなければならないという主張を否定しており、事実について争いがなく、一般的な法的重要性をもつ問題であれば利用可能とされる。 行政機関が原告となって、他の行政機関を被告として、例えば、中央省庁と自治体との間や、性差別禁止委員会と他の行政機関の間において、司法審査請求が利用されることも少なくない。イギリスにおいては、機関訴訟のような客観訴訟を設けず、通常の司法審査請求を利用しているわけである。行政機関が私人に対して訴訟を起こすことについては、例えば、都市計画の領域での執行について、法務総裁が、また、自治体の一般的な訴訟当事者性を認める 1972 年の地方自治法以後は、自治体が、私人の義務履行を求め

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4る差止訴訟を提起している。また、行政機関が、自らの権限の確認等を求める「助言的(advisory)宣言的判決」が認められることもある。 判例11(長野勤評訴訟)のケースは、事実について争いがなく、一般的な法的重要性をもつ問題であると理解されれば、宣言的判決が認められるケースであると思われる。 (2)「取消訴訟の排他的管轄」に類する議論 先に述べたように、イギリスにおける排他性の議論とは、司法審査請求の排他性の議論のことであり、判例上、原告が公法上においてのみ認識される権利または利益の保護を求める場合には、司法審査請求を利用しなければならないとされた。これには、訴訟の過程を濫用しないものとして、当事者にいかなる反対も存在しない場合、私法上の権利侵害を理由とする請求において違法が間接的争点として提起される場合といった二つの例外が示されたが、もちろん、重要であるのは、後者の例外であって、判例において、請求が契約または不法行為上のものとしてなされている場合、または、それが私法上の権利にかかわるものである場合、司法審査請求によって争われる必要はないとされた。また、私法上の権利が問題になっていない場合は、司法審査請求のみが利用可能であって、私法上の権利が問題になっている場合には、司法審査請求外の訴訟で争うことが可能として、例外を広く認める「広義アプローチ」、私法上の権利が関与している幾つかの例外を除いて、公法上の行為または決定が(間接にすら)争われているすべての手続において司法審査請求の利用が必要として、例外を狭く解釈する「狭義アプローチ」が示されるとともに、「私法上の権利」をキーワードとしつつも、契約も存在せず、制定法上の権利だが私法上の権利と判断するなどの操作を加えて、例外を広く認める「広義アプローチ」が支持されてきた。判例は、さらに、より一般的に、「手続が裁判所の過程の濫用を構成している」かをキーワードにするに至っており、例外を認めるために、なんらかの種類の私法上の権利の存在すら要求しないものとなってきた。「当事者、公衆または裁判所にとっていかなる重大な不利益も有しないならば、通常、過程の濫用とはみなされない」という判断も示されている。 司法審査請求の排他性が要求されてきた根拠は、主要には以下の点にある。第1に、許可の要求であり、それが許可に値しない訴訟の洪水を防止しており、行政機関を保護しているとされる。第2は、短期の出訴期間である。司法審査の請求は、迅速かつ3ヶ月以内になされなければならず(規則第 54 号第5条第1項)、長期間にわたって不安定な状況におかれることを防止することによって、行政機関が保護されるとする。第3に、行政事件を「行政法裁判官」の担当にすることによって、専門的判断が確保されるとする。さらに、改革によって、文書開示や反対尋問等の利用が改善されたので、司法審査請求を強制することが可能であるとされた。しかし、このような理由による司法審査請求の強制には、学説の多数は反対のようである。第1に、許可の要求に対しては、許可が必要ではなかった制度改革前の宣言的判決や差止命令に関する判例や文献から支障はうかがわれないし、また、審査に値しない訴訟の洪水という問題は単なる仮定上の問題であって、実際上も存在しない。敗訴者にたいする訴訟費用負担という制裁規定や、被告側が訴えの却下(棄却)を求めること、正式事実審理を経ないでなされる判決(summary judgement)で足

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5りる。訴訟当事者が交渉による解決ではなく、許可を待って交渉を開始することになるので、訴訟件数は、減少せず、むしろ増加するなどとする。第2に、出訴期間についても、制度改革前の短期の出訴期間を有しない宣言的判決や差止命令には支障がなく、立法論的解決としては、不当な遅延が、他者に実質的な侵害または困難を引き起こすか、適正な行政に有害である場合に、救済は与えられないとすれば足りる。被告側が訴えの却下(棄却)を求めること、正式事実審理を経ないでなされる判決を求めることで十分である。必要ならば、幾つかの領域で、制定法上の短期の出訴期間を定めればよいとする(例えば、計画法領域においては6週間の出訴期間が規定されている)。第3は、専門的裁判官についてであるが、人数の増加もあり、専門的審判所のような行政領域ごとの専門化を行っているわけではないので、現在の「行政法裁判官」が専門性を有しているか疑問であるとされる。以上の3つについては、排他性の例外を認めることによって、各々の論拠が掘り崩されているとも指摘されている。最後に、事実認定手続にかかわっては、従来の問題点は解決されたと説明されたが、実際には、迅速性等の理由で手続の使用を制限し、裁判にとって重要な適切かつ公正な事実審理を犠牲にして司法審査請求の排他性を認めているとされる。このように、学説の多数は、排他性原則に批判的であり、私法的救済手段の方向に統一した単一訴訟手続が必要であり、そのことによって技術的問題による原告敗訴の防止も可能とする。 裁判所が、例外を広く認めつつも排他性の原則を維持しようとする背景には、先にみた訴訟件数の急増(特に特定の分野における急増)に対応しようといった政策的意図があるようにも思われる。我が国と比較すると、イギリスにおける排他性の問題とは、まず、大権的救済手段と私法的救済手段の間における排他性の問題ではなく、司法審査請求の利用強制の問題であることに注意が必要である。したがって、いわば民事訴訟を活用すること自体が問題にされているわけではなく、また、司法審査請求の利用強制について、判例上、「私法上の権利」や「手続が裁判所の過程の濫用を構成している」かをキーワードに、例外を広く認めようとしており、さらに、学説の多数は、こういった排他性そのものに批判的であるところに特徴があると考えられる。判例13(大阪国際空港訴訟)の場合、差止命令の請求がなされると考えられるが、先に述べたように、司法審査請求においても差止命令の請求が可能である。しかし、この場合の権利は私法上の権利であるとして、司法審査請求の外における差止命令を求めることができると思われる。 (3)行政に対する司法審査の対象 規則上(規則第 54 号第 1 条第2項第 a 号)は、法令(enactment)と、公的機能(public function)の行使との関係で、決定(decision)、作為(action)または不作為(failure to act)の違法性を争うことができるとされているが、この規定が、訴訟の直接の対象を規定するものかは明確ではなく、直接的には決定を対象として、その中で法令を争うことを認めるもののようでもある。個別に判例をみていくと、司法審査請求の対象は、司法審査請求制度の中にある私法的救済手段も含めると相当に広いと考えられる。例えば、通達の違法性についての宣言的判決が求められ、例えば、看護婦(師)にとっての苦痛である中絶の扱いについての法を解釈する通達、医師による避妊の助言の取り扱い

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6についてのガイダンスの違法が争われている。また、データ会社による、医者・薬剤師から患者名以外のデータを収集し、一定の謝金を支払い、医療会社へのデータを販売しようとする行為について、省がそれらの行為を守秘義務違反とする政策文書に対してデータ会社が宣言的判決を求めたものもあるが、これは、行政指導的なものを争ったものと評価可能であると思われる。法規命令を争うことも認められている。従来、宣言的判決で争われたようであるが、現在、取消命令も利用されている。例えば、住宅手当計画策定の際に、住宅当局の意見を聴く義務があるが、短期で不十分な意見聴取を行うにすぎなかったため、結果として規則の違法の宣言的判決がなされた。これは、手続的権利の侵害であるが、命令を争うことを認めたものである。また、たばこ会社が公的機関との交渉を経て、かぎ煙草の販売を開始したが、数年後にそれを禁止する法規命令が施行されたのに対し、規則の取消を求める移送命令(取消命令)(宣言的判決も求められる)が求められ、規則の取消が認められている。裁判所は、禁止の法規命令自体は、道徳的義務の観点からは問題があるとしつつも、適法とするが、意見を聴く機会を設けなかったことを違法としており、個別的な手続的利益の侵害を認めたものであるといえる。さらに、植民地に、同意に基づきイギリスが米軍基地をつくるために、市民が居住し、戻ること禁止する規則を、そこで生まれたものが争い、裁判所は取消を認めた。さらに、後の納税者訴訟にもかかわるが、納税者が、ECへの高額の金銭支出を認める、国会での承認に服す枢密院令(法規命令)について、承認前において争うことを認めるものもある。この場合には、対象は効力が発する前の法規命令案であり、また、個別的利益が問題になっているわけではないが、対象とされているわけである。さらに、先に述べたような制定法上の提訴が都市計画法関係では、計画を争うために認められており、実際に、多数の訴訟が提起されている。また、税金についてはわが国でいう不当利得返還請求で争われるのに対して、他方で、公的機能を行使するとされれば、行政機関以外の行為等に対しても司法審査請求が認められている。これは、司法審査請求の外で、私法的救済手段が利用できず、他にいかなる請求権もない場合や、私法的救済手段はあるものの、司法審査請求の方が、より効果的な救済を与えることができる場合に利用されることになる。対象の判断基準として、学説においては、公法的義務を果たす規制システムを構成する一部として機能すること等が示されている。判例においては、単に公的機能ではなく、政府機能であること等が求められてきている。判例1(ごみ焼却場設置条例無効確認など請求事件)、2(盛岡広域都市計画用途地域指定無効確認請求事件)、3(大阪都市計画事業等事業計画決定取消請求事件)、4(道路判定処分無効確認請求事件)については、まず、計画にかかわるものは、制定法によって計画に対する提訴が認められることから、それを利用して訴訟を起こすことになると考えられる。その他の場合、対象が広く認められる現在の状況に照らすと、宣言的判決(取消命令)でもって争うことが可能であり、また、1のケースでは、司法審査請求の外の宣言的判決が利用可能であると思われる。」

としている。

本件事件での請求である強制的入会の強制的という言葉には強制的差止の強制の意味が込められている。強制入会は弁護士会の強制入会と同じ意味の言葉である。Compellingな状況というのは強制が公正競争阻害の観点からは必要ということであろう。強制にもっとも重点が置かれた差止ということになる。ここには自由論上の法哲学的な意味がある。強制とは自由の反対の概念である。任意団体であるから自由な意志決定ができるというのが最初の被上告人の出発点であった。

今回強制差止とは強制入会の強制である。

株主訴訟においては、要するに本当に株主を保護するという契約があったかどうかとことが問題となるがそれと同様の、自由競争をしてもよいという契約があったかということである。このような社会契約が存在したのかである。この場合の社会契約とは公共の利益を認めるかどうかということにかかっている。公共の利益とは独占禁止法上の主たる目的である。そうすれば公共の利益は正当な信条であり、特に明白な危険があるのではない。

アメリカ医師会事件やゼニス事件同様に取引拒絶を永久に行わないということを命令できるのかという意味で重要である。

独占禁止法においては証拠が少ない。それも契約がない。契約があると信じているのは公共の利益を認めるかどうかということになるので、信条上の問題が残っている。社会契約を信じるかということは、刑法の目的となっている社会公共の利益を信じるのかという問題である。

注意しなくてはならないのは、本件差止においては独占禁止法違反行為において民法における金銭賠償(damages)と特定履行(specific performance)・差止命令 (injunction)の問題と同様の言葉を使用するにもかかわらず、民法や商法にいう契約書が存在せずに、かえって合意や共謀の契約や念書が必ず存在しているのに犯罪の場合と同様に独占禁止法においては証拠の隠蔽の問題があり、民法、商法の問題とは違って、公法の領域においてどのような法的な規則を作り罰するのかの社会法的な問題が存在するということである。日本では談合はまだ放置されたままであり、談合した方が儲かる商売であるという観念が強い。実際に談合した業者のみが儲かっている。官公庁もそのような傾向を見逃している。独占禁止法においては証拠は違反の発覚を恐れて隠される。一方契約においては積極的に提示される。この証拠の問題についても本件事件の最高裁判所の判決は先例となることになる。

しかし独占禁止法においては証拠が少ないにもかかわらず、独占禁止法違反行為を予防し、競争制限行為をやめさせるという法的措置が行われるということに変わりはない。

差止できるのは上告人と被上告人がCompellingな状況にあるのか、強制できる、強制すべき状況であるのかどうかが重要な基準となるのであって、損害賠償請求とは法益が違うのであるから、その判断が必要であろう。

強制的入会の強制的には強制的差止の強制の意味が込められている。強制入会は弁護士会の強制入会と同じ意味の言葉である。これが憲法の問題となったのである。

本件事件は緊急性を要する強制の問題を含んでいるが入会の強制である。入会するか、しないかで影響がああるのは証拠の通り「利益」を与えるかどうか、利益を与えることを取引拒絶するかどうかである。そこにおいては集団としての決定を行うかどうかの問題である。集団としての事業者団体の決定はその定款の範囲内の決定でなければならない。政治献金をおこなうことに関する八幡製鉄事件、税理士会事件におけるような問題が発生する。法人においては特に事業者団体においては特別に独占禁止法違反行為においては証拠をのこしてはならないであろう。証拠を残さないでも、証拠を残しても、独占禁止法違反行為は行ってはならないであろう。

証拠を残していたからといってもそれを公正取引委員会に申告してはならない、裁判所に提訴してはならないというのは信条の自由に反することになる。証拠は集めにくいのであるから、証拠はあっても隠されていて集められない場合、証拠を隠滅されている場合、証拠が残っているけれども隠している場合には申告者は申告による被上告人からの被害を免れるというべきである。「談合罰則を強化、改正独禁法が成立(読売オンライン 2005/4/20)

 談合などへの課徴金の引き上げや、違反の自主申告で課徴金を減免する制度を盛り込んだ独占禁止法改正案が20日の参院本会議で賛成多数で可決、成立した。

 早ければ2006年1月にも施行される見通しだ。

 課徴金の算定率は、業種や規模で異なるが、製造業の大企業の場合、違反対象の取引で得た売上高の6%としている現行水準を10%に引き上げる。製造業の中小企業は3%から4%、小売業では大企業が2%から3%、中小企業では1%から1・2%にそれぞれ引き上げる。再犯企業には算定率を5割加算し、製造業の大企業では15%となる。

 一方、談合などの不正行為の当事者自らが、公正取引員会に談合などの情報を提供した場合は課徴金を減免し、自主申告した先着3社に100―30%を免除する。」というような制度が現在では設けられた。

本件差止においてはこの証拠の単価契約というのは、一般の単価契約とは違い市場割り当てにおいて単価とはカルテルにおいて被上告人が決定し、購買者にも守らせることを決めた金額を守ることを制約させた念書、カルテルの契約のことである。このような市場の状況においての差別的(ドイツ法)あるいはアクセスができないこと(アメリカ法)あるいは取引の実質的制限(日本法)の状況にあることに対する国家による強制である。それを本件差止においてはこの最も典型的な意味での強制的差止と呼んでいるのである。

本件事件は緊急性を要する強制にもっとも重点が置かれた差止ということになる。継続的に連続しているからである。ここに本件事件の普遍的な意味がある。自由論においては強制とは自由の反対の一般的な概念である。強制とは弁護士会の強制入会の強制の意味である。普通は何の気持ちもなしに使われている言葉ではあるが、自由の歴史の中では非常に重要な意味を持つ、絶対的意味を持つ言葉である。

おそらく本件事件は独占禁止法違反行為に対しての差止判決では日本では初めてということになる。それも強制的なある行為を命ずることになる差止においては最初で最後の差止になるかもしれない。それもpermanent injunction (差し止め訴訟における)本案的差し止め命令, 終局的差し止め命令を求めるのであるから、さらに重要である。本件事件は入会強制という強制的な差止mandatory injunctionと同時に、(差止訴訟における)本案的差し止め命令, 終局的差止命令permanent injunction をも求めるものである。

しかしそのような強制的な差止mandatory injunctionであり審理に時間を要するかもしれないのに、本件事件は緊急性を要するので、次のようなアメリカの差止制度についても考慮すべきである。「本案について完全な審理をする前に出されるinterlocutory injunctionである。これにつき、連邦民事訴訟法規則は、interlocutory injunctionとして相手方当事者に予め通知(notice)をしなければこれを発することができないpreliminary injunction(予備的インジャンクション 六五条a項)と、そのような通知が不要なtemporary restraining order(暫定的制止命令、 b項)の二つを規定している。preliminary injunctionは、緊急性がある場合の仮の救済とされており、原告に保証金を積ませ、被告に通知を与えて、インフォーマルな審尋(hearing)の後に発される*7。」このようなことが本件事件は緊急性を要するので必要である。しかしこのアメリカの考え方は民法・商法事件を念頭に置いており、強制の原因となる契約が確実に存在する場合を念頭に置いている。ところが独占禁止法違反行為においてはその契約の記載が明確ではない。後に引用する最高裁判所の判決においては「Under 16 of the Act, 15 U.S.C. 26, a private plaintiff may obtain injunctive relief against such violations only on a showing of "threatened loss or damage"; and this must be of a sort personal to the plaintiff, Beegle v. Thomson, 138 F.2d 875, 881 (1943).

クレイトン法の第16条15 U.S.C. 26によって、私訴における原告は「損害の驚異(おそれ)あるいは損害」を証明するだけでそのような違反に対して差止の救済を受けることができる;これは一種の原告個別企業の問題である、ベーグル対トムソン事件, 138 F.2d 875, 881 (1943).」と述べており、先の「an antitrust plaintiff need not meet all of the requirements for an injunction imposed by traditional equity jurisprudence. Commodity Futures Trading Comm. v. Hunt, 591 F.2d 1211, 1220 (7th Cir. 1979).

反トラスト法訴訟における原告は伝統的な衡平法の法手続きによって課されている差止の救済のすべての要件に合致する必要はない。Commodity Futures Trading Comm. v. Hunt, 591 F.2d 1211, 1220 (7th Cir. 1979)。」

の第7巡回裁判所7th Cir. 1979の判決にみられるように、おそらく確定した契約書の存在を否定し、社会契約書のようなものを想像しているのであろうが、このような見解がある。

伝統的な衡平法の法手続きによって課されている差止の救済のすべての要件と、反トラスト法訴訟における差止の救済のすべての要件の違いは上記の通りの公法的な要素を持っているからである。現行犯を逮捕するのにその人物が社会契約としての罪刑法定主義を知っている必要はあるに越したことはないが、公共的な教育がそこまで完全に行き届いていて、無知は犯罪の違法性の阻却になるという法の格言を作ってはいないということである。無知でなくても独占禁止法違反行為の否定や、証拠隠滅や、独占禁止法反対思想はさらにそうである。

更には逮捕に非常に厳格な証拠を必要とするということはほとんど証拠の隠滅、逮捕のおそれのなかで行われる行為であるから、あまり現実的ではない。刑法においては伝聞証拠は否定される。逮捕に必要な証拠が隠蔽されてしまっているということになることが50%以上の確率で起こっているのであろうから、結果が起こっているのに犯罪の結果を見逃すことは現実的な選択ではない。

一方契約による差止は現実の契約があったこと、すなわち自らその義務を認めていたこと、今も間違いなく認めていることを要件とするのであるから、厳密な要件を必要とする。

ところが社会契約説のような政治学的で、あいまいな契約をもとに罰するのであるから、厳格にそのような契約上の規定(民事商事の契約に匹敵する)を認めているかどうかは証明ができない。そのような規則を知らないというかもしれない。しかし公正競争阻害について構成要件を定めておけばそれが契約のようなものになり、それを社会契約と呼ぶかは別としても、それが刑法の罪刑法定主義という社会契約のようなものとなり、判決が可能になるのである。

ところがその社会契約説においても今回のようにドイツ法では法定違法としているのに、もし日本でだけ法定が欠けている場合には、法の欠缺によって判決が可能ではない場合が発生する。本件の場合日本においては差止の強制的な執行方法を定めておけばよかったのであるが、差止の規定以上の強制方法までは定めていなかった。特に強制的な差止の場合には強制する方法がないという法の欠缺があった。ただ民事訴訟法の規定を応用するしかない。独占禁止法独自の規定は使用すべきであろう。特に民事訴訟法248条の規定は。

但しアメリカにおいても次のような判例があり、衡平法の手続きとは違った合衆国政府対ボーデン会社最高裁判所判決には法定侮辱の考え方があった。 

これは民事の考え方を独占禁止法違反行為においても導入したものと考えることができる。

アメリカにおいて民事においては伝統的な衡平法の法手続きによって課されている差止の救済のすべての要件については裁判所侮辱に関する規定が整えられていた。

逮捕や独占禁止法違反行為においては民事の衡平法とは違った手続きが採られるのと同様に、それなりの規定を定めておくべきであったであろう。しかし民事の規定よりも、刑事の規定の方が以上の証拠の考え方からすればより独占禁止法違反行為に親和性があったと考えることができる。ところが本件事件では民事の考え方を民事訴訟法248条と、民法708条を使用することになるのであるからより重視して考察しなければならないことになる。しかし民事訴訟法248条の考え方は証拠の考え方としては刑法に近いということがいえるが、証拠の考え方については損害額の算定が難しいときには原告に有利にという原則を、被上告人が作り出した現在の不確定な市場であるので、採用しているのである。

先に引用したとおり差止については要件が必要である。

しかし再度引用するが「an antitrust plaintiff need not meet all of the requirements for an injunction imposed by traditional equity jurisprudence. Commodity Futures Trading Comm. v. Hunt, 591 F.2d 1211, 1220 (7th Cir. 1979).

反トラスト法訴訟における原告は伝統的な衡平法の法手続きによって課されている差止の救済のすべての要件に合致する必要はない。Commodity Futures Trading Comm. v. Hunt, 591 F.2d 1211, 1220 (7th Cir. 1979)。」この判決の意味をどのようにとらえるのかは重要である。

 社会契約的な認識について

 

株主代表訴訟などの差止事件において、要するに本当に株主を保護するという契約があったかどうかというのと同様の、自由競争をしてもよいという契約があったかということである。

このような社会契約が存在したのかである。

この場合の自由競争の社会契約をするかどうかは自由競争を公共の利益として認めるかどうかということにかかっている。そういう社会では自由競争は正当な信条であり、特に明白な危険があるのではない。

本件事件は違法性の確認訴訟でもある。それでも契約関係の確認ではないので、社会公共の利益による違法性の確認訴訟であるということになる。

アメリカにおいてもシャーマン法第1条は「is declared to be illegal違法であると確認される」として、違法行為の確認訴訟を認めている。

「Trusts, etc., in restraint of trade illegal; penalty

Every contract, combination in the form of trust or otherwise, or conspiracy, in restraint of trade or commerce among the several States, or with foreign nations, is declared to be illegal.」

更には、公正取引委員会に相当する司法長官は、クレイトン法の第15条においては

it shall be the duty of the several United States attorneys, in their respective districts, under the direction of the Attorney General, to institute proceedings in equity to prevent and restrain such violations.

司法長官の監督の下で、合衆国の地方の各司法長官は、地方毎の管轄の中での反トラスト法の違反を予防し、排除するための衡平法の手続きを制定しなければならない。」

と定められている。

日本においても違法性の確認はできると考えられる。

注:クレイトン法第15条の原文は次の通りである。

Sec. 25. Restraining violations; procedure (§ 15 of the Clayton Act)

The several district courts of the United States are invested with jurisdiction to prevent and restrain violations of this Act, and it shall be the duty of the several United States attorneys, in their respective districts, under the direction of the Attorney General, to institute proceedings in equity to prevent and restrain such violations. Such proceedings may be by way of petition setting forth the case and praying that such violation shall be enjoined or otherwise prohibited. When the parties complained of shall have been duly notified of such petition, the court shall proceed, as soon as may be, to the hearing and determination of the case; and pending such petition, and before final decree, the court may at any time make such temporary restraining order or prohibition as shall be deemed just in the premises. Whenever it shall appear to the court before which any such proceeding may be pending that the ends of justice require that other parties should be brought before the court, the court may cause them to be summoned whether they reside in the district in which the court is held or not, and subpoenas to that end may be served in any district by the marshal thereof.

注:インジャンクションとは、衡平法上の救済方法で、被告に一定の行為を為すことを禁じたり、既に生じた違法行為の排除のために一定の作為を命じる裁判所の命令をさす*5。このうち、不作為を命じるものをprohibitory injunction、作為を命じるものをmandatory injunctionという*6。

 インジャンクションについては、連邦と州のそれぞれが独自に要件などについて法律・規則で定めている。インジャンクションは、さらにインジャンクションを出すための手続の違いにより、いくつかに分かれている。そのうち、本稿における関心は、日本法における仮処分に相当すると思われる、本案について完全な審理をする前に出されるinterlocutory injunctionである。これにつき、連邦民事訴訟法規則は、interlocutory injunctionとして相手方当事者に予め通知(notice)をしなければこれを発することができないpreliminary injunction(予備的インジャンクション六五条a項)と、そのような通知が不要なtemporary restraining order(暫定的制止命令、 b項)の二つを規定している。preliminary injunctionは、緊急性がある場合の仮の救済とされており、原告に保証金を積ませ、被告に通知を与えて、インフォーマルな審尋(hearing)の後に発される*7。他方、temporary restraining orderはそれよりも救済の必要性が高い場合、相手方に審尋していては回復しがたい被害・損失・損害が生じるような極めて緊急の場合における救済処分である。被告の審尋なくして発令されるが、そのために有効期間も一〇日間以内であるのが通常であり、発令後被告は相手方は二日の期間内に、右命令の取消・変更のための審尋をするように裁判所に申し立てることができる*8。両者を比較すると、前者は、相手方に対する通知と審尋がなされた後で出され、通常は訴訟の最終的解決までの暫定的な措置を定めるものであり、後者は、相手方に対する通知もなく一方的な申立に基いて出される緊急的性格のものである。これらのうち、わが国の差止仮処分に近いのはpreliminary injunctionの方であるといえるだろう。

 そして、インジャンクションの実効性は裁判所侮辱(contempt of court)により担保される*9。インジャンクションはエクイティ上の救済方法であるから、equity act in personamという法格言どおり*10、対人的に働き、その執行(enforcement)は裁判所侮辱を構成する。つまり、preliminary injunctionの違反は、裁判所侮辱の制裁をもたらす。

 裁判所侮辱は、刑事侮辱(criminal contempt)*11と民事侮辱(civil contempt)とに分けることができるが、インジャンクションの執行のための裁判所侮辱は、両者が存在する。民事侮辱の場合は、命令を得た当事者やその訴訟代理人等から、命令に違反した当事者、その訴訟代理人、当事者たる法人の役員に対して行われる訴訟手続により、インジャンクションの訴訟手続の一部として申請(motion)をもって行われるものであり、これにより、拘禁(inprisonment)・罰金(fine)を強制することができる。ただ、右処分はあくまでも相手方を命令に服せしむるためのものだから、拘禁は相手方が命令に服するまでの不定期間、罰金は侮辱行為により生じた損害となる。そして罰金は当事者に対し支払われる。他方、刑事侮辱はこれとは異なり、合衆国により提起される独立の訴訟による。処罰は拘禁・罰金であるが、民事侮辱の場合と異なり刑罰であるから、拘禁は定期刑であり、罰金は連邦等に対して支払われる。

 このように民事侮辱と刑事侮辱とでは手続が異なる。両者の区別の基準については、簡単ではないが、制裁を課す際の手続的保障を決定するという点で重要であり、さまざまな判例の変遷がある*12。

 この点につき、従来は制裁の性質が重視されていたが、近時の判例*13は裁判所の命令の性質についても考慮を払っているようである。裁判所侮辱に関する民事と刑事の区別につき制裁の性質を基準とする判例に対しては、侮辱行為について審理をしなければ、制裁を決めることができないにもかかわらず、制裁の性質・目的が決まらないと裁判所侮辱の審理で用いる手続が決まらないという問題点も指摘されているが*14、いずれにせよ区別の基準として、先ほどのべた制裁の性質が考慮されることはたしかなようである。

 このようにアメリカ法においては、injunctionに対して、その違反に対するサンクションが整備されており、履行の強制方法が確保されている*15(なお、このように裁判所の差止命令の違反につき制裁を課す例はアメリカ法(及びイギリス法)だけではない。強制執行についてであればドイツ法、オーストリア法*16、フランス法*17にも存在する。例えば、ドイツ民事訴訟法(ZPO)八九〇条は、差止違反に対し、秩序金・秩序拘禁を科す旨規定する*18。)。このようなインジャンクションによる実効性の確保は、本稿で検討した差止仮処分を執行する方法とほぼ同様のアプローチであると考えてよいであろう。

【語根】

ju(n)g-, junct-【語根の基のラテン語(L.)・ギリシア語(Gk.)】L.jugare=to bind together, connect(つなぐ)

. injunct (話)禁止する、抑止する injunction 命令、さしず(裁判所の)強制(禁止)命令

各州AG事務所の規制権限

* AG:Attorney General 通常、(各州)司法長官 と訳される。

@ 営業登録(の受付)

A “a Guardian for the Public”

B Injunction(差止め命令)申立、Cease and Desist Order(行政処分)

C Consumer Hotline

D 開業弁護士への事件送致(Reference)

昭和7年3月 論説 英法に於ける差止命令(Injunction) 田中和夫

who fought for the injunction in Federal Court ... The injunction granted yesterday by

次のような著作がある。

Injunctions in Particular Cases

L.A. Sheridan (著)

憲法の問題では次のような著作がある。ドイツ法の入会の強制においては平等という言葉が用いられているのはこの衡平法の影響であろう。

Equity Rights Protected by Injunction

L A Sheridan (著), George Williams Keeton (著)

mandate   : 命令(する)、権限、委任統治領に指定する

 order   : 命令(する)、注文(する)、順序、秩序、整える

 command   : 命令(する)、指揮(する)、支配(する)

 injunction : (裁判所の)強制命令

 decree   : (裁判所の)決定、神意、命ずる

 tyranny   : 専制政治、抑圧

 rehash   : 作り直す

伝統的な救済手段として、大権的救済手段である移送命令(certiorari)、職務執行命令(mandamus)、禁止命令(prohibition)、私法上の救済手段でもあるものが公法領域で救済のために使われてきたものとして、宣言的判決(declaration)、差止命令(injunction)がある。前三者は司法審査の申請を必ず経ることとし、宣言的判決、差止命令は司法審査の申請か、通常の民事訴訟のいずれかの形をとる。進め方としては、予め裁判所の許可(leave)を得て、司法審査の申請をし、裁判所は審理の上、上記の救済手段のいずれかを与える。第一段階の許可は一方当事者の申立のみにもとづいて裁判所が判断する(8)。その許可を得て次の審理に入った後、相手方当事者が原告の適格を争うことはありうる(9)。

 第三者が地方計画行政体の計画許可を争う場合、上記のように、都市農村計画法上の訴えを提起することはできず、この司法審査の申請によることとなる。わが国の取消訴訟に近いものは移送命令であるが、計画許可の付与を争う場合もこれが使われることが多い(10)。

差止判決は日本では初めてということになる。

ただし注意しなくてはならないのは、民法における金銭賠償(damages)と特定履行(specific performance)・差止命令 (injunction)の問題と同様の言葉を使用するにもかかわらず、独占禁止法においては証拠の隠蔽の問題があり、民法、商法の問題とは違って、公法の領域においてどのような法的な規則を作るのかの問題が存在する。独占禁止法においては証拠は違反の発覚を恐れて隠される。一方契約においては積極的に提示される。

「不作為を命じるものをprohibitory injunction、作為を命じるものをmandatory injunctionという*6。

 インジャンクションについては、連邦と州のそれぞれが独自に要件などについて法律・規則で定めている。インジャンクションは、さらにインジャンクションを出すための手続の違いにより、いくつかに分かれている。そのうち、本稿における関心は、日本法における仮処分に相当すると思われる、本案について完全な審理をする前に出されるinterlocutory injunctionである。これにつき、連邦民事訴訟法規則は、interlocutory injunctionとして相手方当事者に予め通知(notice)をしなければこれを発することができないpreliminary injunction(予備的インジャンクション六五条a項)と、そのような通知が不要なtemporary restraining order(暫定的制止命令、 b項)の二つを規定している。preliminary injunctionは、緊急性がある場合の仮の救済とされており、原告に保証金を積ませ、被告に通知を与えて、インフォーマルな審尋(hearing)の後に発される*7。他方、temporary restraining orderはそれよりも救済の必要性が高い場合、相手方に審尋していては回復しがたい被害・損失・損害が生じるような極めて緊急の場合における救済処分である。被告の審尋なくして発令されるが、そのために有効期間も一〇日間以内であるのが通常であり、発令後被告は相手方は二日の期間内に、右命令の取消・変更のための審尋をするように裁判所に申し立てることができる*8。両者を比較すると、前者は、相手方に対する通知と審尋がなされた後で出され、通常は訴訟の最終的解決までの暫定的な措置を定めるものであり、後者は、相手方に対する通知もなく一方的な申立に基いて出される緊急的性格のものである。これらのうち、わが国の差止仮処分に近いのはpreliminary injunctionの方であるといえるだろう。」

who fought for the injunction in Federal Court ... The injunction granted yesterday by

Injunctions in Particular Cases

L.A. Sheridan (著)

Equity Rights Protected by Injunction

L A Sheridan (著), George Williams Keeton (著)

Wikipediaより

 「現在の実務では、通常法とエクィティとの間の最も重要な違いは、おそらく双方が与える救済の違いにある。」

「通常裁判所が付与し得る最も一般的な救済は、金銭賠償である。これに対して、衡平法裁判所は、ある行為をすること又はこれを自制することを直接禁止したり命じたりするのである。こうした形式の救済の方が、実務的な用語でいえば、当事者にとってより実効的という場合がしばしばある。例えば、自分が所有する唯一の乳牛なのに、隣人の土地に迷い込んだが最後、どうしても返してもらえないような場合、原告としては、まさに乳牛を引き渡して欲しいのであり、金銭的価値の返還を受けることは望みではないといえよう。通常裁判所も、「動産引渡令状(writs、リット)」(人身保護令状(a writ of habeas corpus、ヘイビアス・コーパス)と同様である。)と呼ばれる命令を発することがあるが、差止命令(injunction、インジャンクション)と比較すると、柔軟性に欠けるし、簡単には得られない。

もう一つの違いは、エクィティ独特の訴えの利益にある。エクィティ上の救済は、それが法律上の問題であり、事実認定者(trier of fact)として陪審が関与すべきものではないときに限って、裁判官が付与するのである。法律上の救済とエクィティ上の救済との違いには、アメリカ合衆国の法制度の重要な一面が現れている。民事訴訟において陪審の審理を受ける権利は、憲法修正7条により保障されているが、そこでいう民事訴訟とは、伝統的に通常裁判所においてコモン・ローを適用して処理されてきたものに限るのである。ある事件が陪審が評決すべき事件であるかどうかは、概ね原告が求める救済の形式によって決まる。もし原告が金銭の形で賠償を求めたり、その所有する特定の物の返還などの形式で救済を求めるのであれば、その救済は法律上のものとみなされ、アメリカ合衆国憲法によって陪審による審理を受ける権利が保障される。他方、原告が差止命令や宣言的判決(declaratory judgment、日本の行政事件訴訟法31条所定の事情判決がこれに近い。)、特定履行(specific performance、日本の義務付けの訴え(義務付け訴訟、平成16年法律第84号による改正後の行政事件訴訟法3条6項など)や、いわゆるなす債務の給付判決を想像すればよかろう。) や契約条項の修正、その他非金銭的な救済を求めるのであれば、その訴えは通常エクィティに属するであろう。

通常法とエクィティとの間の重要な違いはもう一つある。それは、判決を左右する法の源−法源−である。通常法であれば、各種の法原理と制定法を参照して判決が作成される。これに対して、エクィティでは、公平と柔軟性とに重点が置かれ、衡平法格言(maxim of equity)として知られる一般的な基準があるのみである。実際、エクィティ発展の歴史の中では、エクィティには固有の固定した法規は存在せず、大法官(伝統的に国王を代理して衡平法裁判所を総理していた。)がめいめい自分勝手な良心に従って判決をしているという批判を浴びたこともあった。17世紀きっての法学者であるジョン・セルデンは、こう言い切った。「エクイティは、大法官の足の長さに応じて変わる。」

今日のアメリカ合衆国では、連邦裁判所とほとんどの州裁判所では、同じ裁判所が通常法とエクィティの双方を管轄する。それゆえ、原告は、一回の手続で通常法上及びエクィティ上の双方の救済を得ることができる。これは、1873年から1875年の裁判所法によって通常法とエクィティとの融合が大いに進められた当時のイングランドの状況を反映している。しかし、特にデラウェア州など、今もなお通常法とエクィティとで管轄する裁判所を分けている州もある。デラウェアの大法官部裁判所は、デラウェア企業が関係するほとんどの事件を裁判している。その他、一つの裁判所の中に別々の部を設けて、通常法とエクィティとを管轄させている州もある。信託法から発展した会社法のほか、伝統的に大法官部裁判所が管轄してきた分野には、遺言とその検認、養子縁組と後見、婚姻と離婚などがある。

アメリカ合衆国では、通常法とエクィティとが統合されると、通常裁判所は衡平法裁判所の手続の多くを取り入れた。衡平法裁判所の手続は、コモン・ローの裁判所と比較して、はるかに柔軟である。アメリカ合衆国の実務でいえば、併合(joinder)、反訴(counterclaim)、共同被告間訴訟(cross-claim)、競合権利者確定手続(interpleader)といった手続が、衡平法裁判所に起源を持つ。」

民法における金銭賠償(damages)と特定履行(specific performance)・差止命令 (injunction)間には、どのような機能上の相違があるか。

インジャンクションについて簡単にみてみる*4。

 インジャンクションとは、衡平法上の救済方法で、被告に一定の行為を為すことを禁じたり、既に生じた違法行為の排除のために一定の作為を命じる裁判所の命令をさす*5。このうち、不作為を命じるものをprohibitory injunction、作為を命じるものをmandatory injunctionという*6。

 インジャンクションについては、連邦と州のそれぞれが独自に要件などについて法律・規則で定めている。インジャンクションは、さらにインジャンクションを出すための手続の違いにより、いくつかに分かれている。そのうち、本稿における関心は、日本法における仮処分に相当すると思われる、本案について完全な審理をする前に出されるinterlocutory injunctionである。これにつき、連邦民事訴訟法規則は、interlocutory injunctionとして相手方当事者に予め通知(notice)をしなければこれを発することができないpreliminary injunction(予備的インジャンクション六五条a項)と、そのような通知が不要なtemporary restraining order(暫定的制止命令、 b項)の二つを規定している。preliminary injunctionは、緊急性がある場合の仮の救済とされており、原告に保証金を積ませ、被告に通知を与えて、インフォーマルな審尋(hearing)の後に発される*7。他方、temporary restraining orderはそれよりも救済の必要性が高い場合、相手方に審尋していては回復しがたい被害・損失・損害が生じるような極めて緊急の場合における救済処分である。被告の審尋なくして発令されるが、そのために有効期間も一〇日間以内であるのが通常であり、発令後被告は相手方は二日の期間内に、右命令の取消・変更のための審尋をするように裁判所に申し立てることができる*8。両者を比較すると、前者は、相手方に対する通知と審尋がなされた後で出され、通常は訴訟の最終的解決までの暫定的な措置を定めるものであり、後者は、相手方に対する通知もなく一方的な申立に基いて出される緊急的性格のものである。これらのうち、わが国の差止仮処分に近いのはpreliminary injunctionの方であるといえるだろう。

 そして、インジャンクションの実効性は裁判所侮辱(contempt of court)により担保される*9。インジャンクションはエクイティ上の救済方法であるから、equity act in personamという法格言どおり*10、対人的に働き、その執行(enforcement)は裁判所侮辱を構成する。つまり、preliminary injunctionの違反は、裁判所侮辱の制裁をもたらす。

 裁判所侮辱は、刑事侮辱(criminal contempt)*11と民事侮辱(civil contempt)とに分けることができるが、インジャンクションの執行のための裁判所侮辱は、両者が存在する。民事侮辱の場合は、命令を得た当事者やその訴訟代理人等から、命令に違反した当事者、その訴訟代理人、当事者たる法人の役員に対して行われる訴訟手続により、インジャンクションの訴訟手続の一部として申請(motion)をもって行われるものであり、これにより、拘禁(inprisonment)・罰金(fine)を強制することができる。ただ、右処分はあくまでも相手方を命令に服せしむるためのものだから、拘禁は相手方が命令に服するまでの不定期間、罰金は侮辱行為により生じた損害となる。そして罰金は当事者に対し支払われる。

注:以下はCopyleft 1995, KAGAYAMA Shigeru による。

用語解説

差止請求

 本稿では、差止請求の意味を、四宮和夫『不法行為』(1990年)456頁に従い、「将来『権利』侵害が生じないように一定の行為を禁止しまたは命令するよう求める権利」という意味で用いる。

 この点で、差止請求と過去の損害の除去に関する「原状回復」とは一応区別している。しかし、差止めの方法が原状回復の結果を生じさせる場合には、両者を含めて考えることにする。

不法行為の規定と差止請求との関係

 平井・不法行為106頁によれば、不法行為の一般的効果として差止請求権を認める学説は少数であり、判例理論もこれを否定していると解されるとされている。

 たとえば、最判昭43・7・4裁判集民91号567頁は、溜池に瑕疵がある事例につき、「いまだ損害が発生していないにかかわらず、将来損害を生ずるおそれがあることを理由として、その予防のため右工作物の修復を求め、さらにその修復をおえるまでその使用の差止を求めることは、同条[民法717条]の規定に基づいてなしえないものと解すべきである」として、不法行為の事実だけでは差止請求ができない旨判示している。

 これに対して、伊藤高義「差止請求権」398頁、さらに、四宮・不法行為477 - 478頁は、「不法行為の効果に関する民法の規定(709条)は差止請求についてふれるところがないが、また、同時に、それを否定する趣旨を含んでいるわけでもない。したがって、不法行為の効果として差止請求権を認めることも(裁判官による法創造として)も、決して不可能ではない」と述べている。

差止請求を認めるべき場合の侵害行為の違法性

 不法行為法上の差止請求権を認める学説においても、伊藤・差止請求権415頁は、「差止が認められるためには、損害賠償の場合にくらべてより強い違法性が必要である」とし、四宮・不法行為(注\ref{foot:Sinomiya})478頁も、「事前に活動を阻止することに対しては、事後に損害を賠償させることよりも慎重でなければならない」と述べている。これに対して、沢井裕・テキストブック115--116頁は、「差止訴訟が、『原告の個人的利益のために提起され、個人の利益において差止めの可否が判断されるにかかわらず、その結果、直接、多くの市民の利益(公益)に影響するが故に、差止めの判断に公共性の配慮は欠かせない』という限度でのみ正当化される。したがって、一般論として、差止は賠償より難しいと決めつけることは妥当ではない」と指摘している。

不法行為に基づく差止請求が認められる要件

平井・不法行為107 - 108 頁によれば、不法行為の効果として差止請求権を認めるべき場合というのは次のように整理されている。

被侵害利益の重大さの程度が高い場合には、物権的請求権または人格権に基づき差止を認めるべきである

被侵害利益の重大さが大きくなくても、特別法に基づく差止請求の趣旨を拡張して保護されるべき場合には、その解釈問題として差止請求が認められるべきである

それ以外の場合で差止請求が認められるべき場合

現在において損害が生じており、そのことが将来において損害発生の高度な蓋然性の基礎となるべき場合

過去の損害の発生につき行為者に故意のある場合

その他、差止を命じなければ回復できないような性質の被侵害利益である場合

独禁法と事業者規制法との関係

 独占禁止法と消費者契約における事業者規制法とを競争秩序の中でどのように位置づけるかは困難な問題である。

 わが国の独占禁止法は、(1)私的独占の禁止、(2)不当な競争制限の禁止、(3)不公正な取引方法の禁止の三本柱から成り立っているが、特に第3の「不公正な取引方法」と不正競争防止法にいう「不正競争」との関係が問題となる。さらに、消費者被害の多発している訪問販売等の販売方法をどのように位置付けるかについての明確な指針が与えられていない。

 この点、フランスの競争法は、(1)自由競争を阻害する競争制限の禁止と(2)公正な競争を阻害する不公正競争の禁止の二本柱から成り立っており、第1の「競争制限」の概念の中にわが国における私的独占の禁止と不当な競争制限が位置づけられるとともに、第2の「不公正競争」の概念の中にわが国における不公正な取引方法、不正競争、職業倫理に反する取引方法が明確に位置づけられ、クーリング・オフ等の消費者保護の問題もその中で論じられている(Cf. Y. CHAPUT, Le droit de la concurrence, (1991) <<Que sais-je?>>; J-J. BURST, Concurrence deloyale et parasitisme, (1993), Dalloz.)。

 そこで、本稿では、行政規制法もフランス流の考え方によって分類し直している。

不正競争防止法と消費者保護との関係

 不正競争防止法が、事業者の保護のみならず、「公正な競争の確保によって消費者の保護をも目的とするものである」こと、しかし、わが国の不正競争防止法が一般条項を欠いており、消費者保護の観点からは、「非常に時代遅れのものとなっている」ことに関しては、浜上「訪問販売法における基本問題」295頁参照。

電話契約  事業者が電話による申込をし、消費者が電話で承諾することによって成立してしまう契約。訪問販売の要件に合致しないため、クーリング・オフはできないと理解されている(浜上・訪問販売法295頁。

 ただし、浜上・訪問販売法299頁は、「ドイツの連邦最高裁判所の判決が明らかにしているように、電話広告はフェア・プレイに反し、自由競争の範囲を逸脱した行為であるということはわが国でも変わりはないように思われる。」と主張している。

憲法による差止

先の憲法判決集のなかに出てくる差止は本件事件と同様に公法的な要素を持っているといえないだろうか。

公法的な要素を持っている限りは契約上の規定を探し出すまでもなく、社会契約としての憲法の規定を国民の契約として認めることによって強制を行うことができる。この場合の強制入会の強制は公共の福祉から演繹的に導かれる概念であり、憲法が強制法規であるのか、任意のプログラム規定であるのかとはほとんど関連性がない。朝日訴訟における保護の強制はプログラム規定であるのかとはほとんど関係なく、憲法の公共の利益の規定から生まれたものである。

憲法と独占禁止法の両法における公共の利益と、私訴における原告の差止と私訴における原告の(三倍額)損害賠償請求訴訟

憲法と独占禁止法は公共の利益を守るために制定されている。しかし私訴における原告の訴訟は私的な利益を守るためであり、一方8条1項5号は個別企業の保護を目的としている。

例えば法令の違憲審査の請求においても差止の救済を求めた例がある。「COPAは、1998年10月21日に一般歳出法案の一部として成立した。すでに COPAの違憲性は指摘されていたところだったので [21]、翌22日には ACLU 等の諸団体・諸個人が、 COPAの違憲性に関する確認判決および差止命令による救済 (declaratory and injunctive relief) を求めてペンシルヴァニア東部地区連邦地裁に提訴した [22]。 」(「誰をどのように護るのか-- CDAの目的と効果について --」白田 秀彰。 この論文のAbstractでは「本論は、情報品位法とオンライン児童保護法の内容と問題点について検討しし、これらの法律の目的と効果を考察するものである。」としている。白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授)

この場合にはinjunctive reliefが求められており、より民事的であるということができる。

一方憲法訴訟においても以下のように確認の救済と、差止の救済および個人が損害賠償請求を求めた事件がある。

このように憲法による訴訟も確認の救済と、差止の救済、損害賠償請求を求めることができるが、本件事件においては独占禁止法との関連で憲法が問題となっているだけであり、本質的には同様の事件であるということになる。

「Civil Rights Complaint for Declaratory Relief, Injunctive Relief, and Damages seeks declaratory relief, compensatory and punitive damages, and injunctive relief to prevent future illegal discrimination by Northwest Airlines.

確認の救済と、差止の救済および損害賠償請求を求めた人権訴訟の原告は、確認の救済と、慰謝料の請求、懲罰的損害賠償請求、ノースウェスト航空による将来の違法な差別の予防のための差止の救済を求めた。 

INTRODUCTION

はじめに

Federal law leaves no doubt that an airline cannot refuse to permit an individual to fly because of that person’s race, color, religion, or national origin.

連邦法は航空会社は個人の人種、宗教あるいはうまれを理由とする搭乗の拒否を行ってはならないとしていることは疑いがない。

その判決の結論部分は次の通りである。

Enter a permanent injunction prohibiting the defendant and its directors, officers, agents, and employees from engaging in the illegal discriminatory conduct described herein and requiring defendant and its directors, officers, agents, and employees to take all steps necessary to remedy the effects of such conduct and prevent similar occurrences in the future;

(3) Award plaintiff compensatory damages in an amount to be determined at trial for the plaintiff’s loss and injury including, but not limited to, fear, humiliation, embarrassment,

Civil Rights Complaint for Declaratory Relief,Injunctive Relief, and Damages emotional distress, and a deprivation of his constitutional right to informational privacy;

(4) Award plaintiff punitive damages in an amount to be determined at trial that would

punish defendant for its intentional, malicious, willful, callous, wanton, and reckless disregard for plaintiff’s rights that would effectively deter defendant from engaging in similar conduct in the future;(5) Award plaintiff prejudgment interest;(6) Award reasonable attorneys’ fees and the costs incurred in this action under 42 U.S.C.§ 1988 and Cal. Civ. Code 52 (b); and (7) Award such other relief as the Court deems appropriate and just.

Respectfully submitted,」

差止の手法としては憲法の手法を使うべきであろうか。憲法は基本的人権を守るためのものである。独占禁止法違反行為は基本的人権を侵す恐れがある。日本の薬事法距離制限違憲判決においてはより制限的ではない代替手段が論じられている。それは職業選択の自由という基本的人権を確保するためであった。これは本件事件においても同じく事業活動そのものを困難にして基本的人権を侵している。これは独占禁止法においてもより制限的ではない代替手段の手法が用いられている審決があるので使えるであろう。

憲法と独占禁止法との関係について、アメリカにおいても次のような判例がある。

この判決の場合には独占禁止法の問題ではなく、通商そのものの規制であるが、職業活動の制限とみなすことができるので独占禁止法との関連で憲法第22条の問題であるといえる。

職業活動の制限においてはアメリカにおいても次のような判例がある。

先に引用した違憲審査基準のなかに出てくる

「Kassel v. Consolodated Freightways Corp (1981):

カッセル対コンソロデーティッド荷役会社

・ Consolodated challenged Iowa’s statuet regulating length of trucks as an unconstitutoinal burden on interstate commerce

コンソロデーティッドはトラックの長さを規制するアイオア州の法令が州と州の間の取引に対する違憲な内容であるとして訴えられた。

・ Iowa defended on reasonable safety measure grounds

アイオア州は長さの規制は安全の理由で合理的であると主張した

・ SC found for Kassel ? the statute violated Commerce Clause

この法令は取引条項に違反して違憲であるとして最高裁判所はカッセルを勝たせた

・ SC conducted a fact-finding inquiry in making its decision. The concurrence says they shouldn’t do this, but rather look to legislative intent instead.

最高裁判所は決定を行うにあたっては事実の発見の手法を採用した。両当事者は行為をなすべきではなく、むしろその代わりに法的な意図を探求すべきことで一致した。

・ Although Iown presented a lot of evidence on safety, we have evidence that the safety purpose is invidious ?  アイアオ州は安全性に関する数多くの証拠を提出したが、安全性の目的はあいまいな不当なものであるという証拠がある。

we have the Governor’s statement that gives us the true purpose!

本当の目的を示す知事の言明がある ・ The invidious purpose triggers STRICT SCRUTINY! あいまいな不当な目的は厳格な基準によらなくてはならない! ・ Strict scrutiny is a way of “smoking out” what the real purpose is here! 本当の目的が本件の場合には何であるのかを「燻してあぶりだす」方法が厳格な基準である。 ・ The evidence on safety is statistical ? it doesn’t give info on the affect of double trucks on other people…why are the other facts irrelevant? Here, because we have the governor’s statement.  安全性の証拠は統計的であった−その証拠は人々にトラックの影響が二倍あるという情報を与えてくれるものではなかった・・・・それならばその他の事実は因果関係がないのであろうか。そこに知事の言明があったのである。」

これまで挙げた他の憲法の教科書によれば次のような説明となる。

「Kassel v. Consolidated Freightways

カッセル対コンソロデーティッド荷役会社

The total effect of the law as a safety measure in reducing accidents and casualties is so slight and problematical that it does not outweigh the national interest in keeping intertstate commerce free from interferences that seriously impede it .

事故を減少させることと、事故減少との相当因果関係からすれば、法律を制定することの安全のための手段としての全体的な価値が、あまりにも少なすぎ、問題があるので州際の商業を強く妨げる妨害物を取り除くという公共の利益を上回っているのである。

Regulations designed for the salutary purpose of safety may further the purpose so marginally and interfere with commerce so substantially, as to be invalid under the CC.

ある制限が安全の目的のため価値があるとされるためには、主目的を無価値であるとさせない程度に、その目的をわずかに達成するものであり、かつ主目的を無価値であるとさせない程度の実質において商業を妨害するものでなくてはならない。

-balancing test: weight and nature of state regulatory concern in light of the

extent of the burden imposed on the course of interstate commerce

州際の商業の動向に課される制限の程度を考量して州の制限的な懸念の重さと性質をテストするバランス比較の手法」

これは通商の制限について連邦最高裁判所が下した判決である。憲法の教科書に載っている重要な判決である。憲法と独占禁止法との関係では職業活動の制限においてはアメリカにおいても「ある制限が安全の目的のため価値があるとされるためには、主目的を無価値であるとさせない程度に、その目的をわずかに達成するものであり、かつ主目的を無価値であるとさせない程度の実質において商業を妨害するものでなくてはならない」として、必要最小限の規制が求められている。安全や警察的な規制の場合である。これはより制限的ではない代替手段の考慮の義務と同様の趣旨であると考えることができる。

妨害排除の請求訴訟

何を妨害し、何を阻害しているのか。その妨害行為を差止るにしても法哲学的には何が差し止められるのかが特定されなくてはならない。差止は国が行うのであるが、私訴における原告の訴訟においては私人のために差止が行われる。一方公正取引委員会の排除措置は公的な公正競争阻害性をなくし、公共の利益を守るために行われる。

以下のアメリカのUNITED STATES v. BORDEN CO.判例においては政府の反トラスト法違反に対する行為はto prevent and restrain violations of certain of the antitrust laws, including price discrimination反トラスト法違法を予防し、違反を制限するためであるという言葉を使用している。本件事件は緊急性を要するが日本においてもアメリカにおいてもこれと同様の法目的が、私訴の原告による損害賠償請求における訴訟、但し差止を含むのであるが、本質は差止ではなくて損害賠償請求であり、差止は損害が継続している故に損害賠償請求では補い得ない部分についての請求である。日本では阻害の防止とか阻害性の禁止という言葉を使っている。これこそは差止である。社会全体の公共の福祉のための阻害の防止というものとともに、当該競争制限行為に対する阻害の防止が私訴の原告による損害賠償請求であり、社会全体に対する差止と損害賠償請求が公正取引委員会の行為である。公正競争阻害の阻害の概念がもし阻害が妨害であれば妨害行為を差止るのであるから妨害排除の請求訴訟というこれまでの所有権に関する概念が適用可能である。

アメリカの法律の下では予防的preventive救済の権利があるかどうかについてはアメリカ医師会事件においては被告医師会は異議を唱えたのは先に述べたとおりである。将来の件についてはもう絶対にしないという誓約書が絶対的に守られるという心証がえられれば日本でも「おそれ」に対する予防措置としての差止は必要ないが、現在も継続している違反に対しては予防措置としての差止ではなく、現在の差止(現行犯逮捕に刑法犯では相当する)が必要であるということになる。

Preventの言葉は予防すること以外に阻止する、妨害を排除するという意味を含むので現在の差止にも、将来の差止にも使える可能性のあるもっとも重要な言葉である。

先の憲法のアメリカの判例集の中にはPrevent、injunction、mandateなどの言葉がでてくる。それらは憲法上の意味を持っているということになる。それはすべからく公共の福祉のための差止であり、過去の契約違反による差止ではない。独占禁止法違反行為は過去の契約違反による差止ではない。カルテルの合意はそれによって拘束されていて差止が行われるのではない。逆にその効力が残っている間中ずっと独占禁止法違反行為は過去から現在まで、あるいは将来まで続いていることになる。

本件事件はプライベート・アトーニー・ゼネラルの事件であり、そこでカルテルの証明をどの程度行うべきかという問題が残っている。私訴における原告の訴訟遂行においてはどこまでそれを行うべきかということである。

その際に私訴に対する判決が日本では存在しないゆえに公正取引委員会の排除行為と、私訴における原告の差止訴訟との違いについての日本では判決は存在しない。

このことに対するアメリカの判決は非常に明確な判断を下しているのでアメリカの判決を引用する。

「U.S. Supreme Court合衆国最高裁判所 

UNITED STATES v. BORDEN CO., 347 U.S. 514 (1954) 347 U.S. 514

合衆国政府対ボーデン会社事件., 347 U.S. 514 (1954) 347 U.S. 514

UNITED STATES v. BORDEN COMPANY ET AL.

合衆国政府対ボーデン会社など事件

APPEAL FROM THE UNITED STATES DISTRICT COURT FOR THE NORTHERN DISTRICT OF ILLINOIS. No. 464.

イリノイ州北部合衆国地方裁判所からの控訴

Argued April 27, 1954. 1954年4月7日 討議

Decided May 17, 1954. 1954年5月17日 決定

・・・・・

Section 15 of the Clayton Act, 15 U.S.C. 25, charges the United States district attorneys, under supervision of the Attorney General, with the duty of instituting equity proceedings to prevent and restrain violations of certain of the antitrust laws, including price discrimination.

クレイトン法第15条15 U.S.C. 25は価格差別を含む反トラスト法の諸違反を防ぎ、制限するために司法長官の監督の下で合衆国の地方の司法長官は衡平法の手続きを制定する義務を課している。

Under 16 of the Act, 15 U.S.C. 26, a private plaintiff may obtain injunctive relief against such violations only on a showing of "threatened loss or damage"; and this must be of a sort personal to the plaintiff, Beegle v. Thomson, 138 F.2d 875, 881 (1943).

クレイトン法の第16条15 U.S.C. 26によって、私訴における原告は「損害の驚異(おそれ)あるいは損害」を証明するだけでそのような違反に対して差止の救済を受けることができる;これは一種の原告個別企業の問題である、ベーグル対トムソン事件, 138 F.2d 875, 881 (1943).

The private-injunction action, like the treble-damage action under 4 of the Act, supplements government enforcement of the antitrust laws; but it is the Attorney General and the United States district attorneys who are primarily charged by Congress with the duty of protecting the public interest under these laws.

クレイトン法第4条による三倍額損害賠償請求訴訟と同様に私訴による差止訴訟は、政府による反トラスト法の執行を補完しているが、反トラスト法によって公共の利益を守るための義務を国会によって課されているのは、原初的には司法長官であり、合衆国の地方の司法長官である。

The Government seeks its injunctive remedies on behalf of the general public; the private plaintiff, though his remedy is made available pursuant to public policy as determined by Congress, may be expected to exercise it only when his personal interest will be served.

政府は公共の利益のために差止の救済を行おうとしているのであって、個別企業が救済を受けることが国会によって決定された公共の政策の遂行に役に立つにもかかわらず、原告の個別企業は個々の利益に合致する場合にだけ私訴を行うと期待するのが妥当であろう。

These private and public actions were designed to be cumulative, not mutually exclusive.

私的な行為と公共の行為とが互いに排斥し合うのではなくて、加重されていくように計画されている。

S. Rep. No. 698, 63d Cong., 2d Sess. 42; cf. Federal Trade Comm'n v. Cement Institute, 333 U.S. 683, 694 -695 (1948). ". . .

S.参照 第63回国会第2期698回レポート,42; cf.参照 FTC対セメント協会事件, 333 U.S. 683, 694 -695 (1948). ".

[T]he scheme of the statute is sharply [347 U.S. 514, 519] to distinguish between Government suits, either criminal or civil, and private suits for injunctive relief or for treble damages.

民事訴訟あるいは刑事訴訟による政府による訴訟と、差止の救済を求める私訴による訴訟あるいは三倍額損害賠償請求訴訟の私訴とを法令は厳格に[347 U.S. 514, 519] 区別する構造をとっている。

Different policy considerations govern each of these.

これらのそれぞれの根底では違った政策考慮が支配している。

They may proceed simultaneously or in disregard of each other."

この両輪は同時に進行する場合もあるが、相互に関連していない状態で進行する場合もある。

United States v. Bendix Home Appliances, 10 F. R. D. 73, 77 (S. D. N. Y. 1949).

合衆国政府対ベンディックス家電会社事件, 10 F. R. D. 73, 77 (S. D. N. Y. 1949).

In short, the Government's right and duty to seek an injunction to protect the public interest exist without regard to any private suit or decree.

簡潔にいえば、政府が公共の利益を守るために行う差止の権利と義務は、私訴あるいは私訴に対する判決とは関連していない。

To hold that a private decree renders unnecessary an injunction to which the Government is otherwise entitled is to ignore the prime object of civil decrees secured by the Government - the continuing protection of the public, by means of contempt proceedings, against a recurrence of antitrust violations.

政府にもう一方の公的側面で権限が与えられている政府が行う差止を私訴の判決は不必要にすると考えることは政府によって獲得された民事の判決の主要な目的を無視することになる、つまり政府は反トラスト法違反の再発に対して、法定侮辱の不服従に対する手続きによって、公共の利益を守りつづけることが義務である。

Should a private decree be violated, the Government would have no right to bring contempt proceedings to enforce compliance; it might succeed in intervening in the private action but only at the court's discretion.

もし私訴の判決に従わず違反が行われるならば、法令遵守しないことに対して政府が何らの権限を持たないことになる。つまりはそれは裁判所に決定権があっても、私的な行為を妨害することには成功することになる。

The private plaintiff might find it to his advantage to refrain from seeking enforcement of a violated decree; for example, where the defendant's violation operated primarily against plaintiff's competitors.

私訴における原告は違反であるとの判決を執行することを差し控えることに利益を見出すかもしれない、たとえば被告の違反は元々は原告の競争業者たちに対するものであった場合である。

Or the plaintiff might agree to modification of the decree, again looking only to his own interest.

あるいは原告は判決の修正に合意するかもしれないが、これもまた自分自身の利益に照らしてだけのためである。

In any of these events it is likely that the public interest would not be adequately protected by the mere existence of the private decree.

これらの事件のどれを見ても、私訴の判決が存在するというだけでは公共の利益を守るために充分で適切であるとは思われない。

It is also clear that Congress did not intend that the efforts of a private litigant should supersede the duties of the Department of Justice in policing an industry.

またある産業を取り締まる時に個別企業の訴訟当事者が司法省の取締義務にとって代わるだけの努力をすべきであると議会が意図していたのではないことは明白である。

Yet the effect of the decision below is to place on a private litigant the burden of policing a major part of the milk industry in Chicago, a task beyond its ability, even assuming it to be consistently so inclined.

だがシカゴにおける牛乳産業の主要な部分を取り締まる責務を私訴の原告に負わせることは、たとえ責務を負わせる様になる傾向が一般的には常に想像されるとしても、私訴の原告の能力を越えている。

We agree with appellees that the statute confers on the Government no absolute right to an injunction upon a showing of past violation of the antitrust laws by [347 U.S. 514, 520] defendants.

過去におきた反トラスト法違反が被告によって証明されたからといって、現在では何らの差止の権利も現在法令によって政府には全く与えられていないという被上告人の見解は正しい。

As we said in United States v. W. T. Grant Co., 345 U.S. 629, 633 (1953):

合衆国政府対W. T. グラント社, 345 U.S. 629, 633 (1953)事件において最高裁判所が次のように決定している、

". . . the moving party must satisfy the court that relief is needed.

「・・・提訴する当事者は裁判所に救済が必要であることを満足できる程度に示さなくてはならない。

The necessary determination is that there exists some cognizable danger of recurrent violation, something more than the mere possibility which serves to keep the case alive.

違反の再発が起こる危険がいくらかでも裁判によって認識でき、そのような危険が存在するならば、その事件を活かし続けることが役に立つ可能性があるということであり、それは単なる可能性以上のものであると決定する必要がある。

The chancellor's decision is based on all the circumstances; his discretion is necessarily broad and a strong showing of abuse must be made to reverse it."

委員長の審決はすべての審理を行った結果すべての状況を考慮したものであるから、委員長の審決は必然的に広範に適用可能であり、その審決を覆すためには職権乱用を強く証明する必要がある。」

The Government contends that it has "an independent right to relief against violations of the Clayton Act, without regard to whether such violations previously have been enjoined by a decree in a private antitrust suit."

「その同じ違反に対して私訴に対する判決が以前に命じられていたかどうかに関わりなく、それとは独立して政府にはクレイトン法違反に対する救済を求める権利がある」と政府は強く主張する。

But we cannot say that the existence of the private decree warrants no consideration by the chancellor in assessing the likelihood of recurring illegal activity.

しかしながら私訴に対する判決が存在していることによって違法な行為が再発する可能性があるかどうかについての価値判断を委員長が考慮しないでよいのかどうかは保証の限りではない。

We hold only that, in view of the difference in the respective interests sought to be vindicated by the Government and the private litigant, the district judge abused his discretion in refusing the Government an injunction solely because of the existence of the private decree.

政府と、私訴の訴訟当事者が疑惑を追求している場合の両方の疑惑は法益が異なっていることに鑑みると、私訴に対する判決があるという理由だけで政府による差止を拒否するという地方裁判所の裁判官の裁量は裁量権の乱用である。

The judgment of dismissal as to the Sherman Act allegations is affirmed; as to the Clayton Act allegations the case is remanded to the District Court for further consideration, and such further proceedings as may be necessary, in accordance with this opinion.

シャーマン法による疑惑についての却下の判決は支持し控訴棄却するが、クレイトン法の疑惑についてはこの意見にしたがって事件を地方裁判所へ差戻し再審理し、必要な更なる手続きを行うべきである。

MR. JUSTICE BLACK and MR. JUSTICE JACKSON took no part in the consideration or decision of this case.

ブラック判事と、ジャクソン判事はこの事件においては考察にも、決定にも参加しなかった。」

政府による差止と、私訴の原告による差止は同じ行為による公正競争阻害の発生に対して訴訟を起こすのであって、一部分に対して訴訟を起こすのか社会公共に対する罪に対して訴訟を起こすのかの違いである。

その後もこの判決を引用している地方裁判所のマイクロソフト判決がある。

STATE OF NEW YORK, et al., Plaintiffs, v. MICROSOFT CORPORATION, Defendant. 原告ニューヨーク州等対被告マイクロソフト事件

において(IN THE UNITED STATES DISTRICT COURT FOR THE DISTRICT OF COLUMBIA April 15, 2002)

2002年4月15日、コロンビア州合衆国地方裁判所

The United States is hardly indifferent as to the wisdom or propriety of granting such relief in this case.

合衆国はこの事件においてそのような救済を認めることに対する知識や、正当性についてはほとんど全く無関心である。

But under existing law, the non-settling States may pursue relief in their separate case.

解決できない州は、現在の法律の下では別の訴訟で救済を求めるであろう。

It is the Court's exercise of equitable discretion that must provide protection from these dangers.

裁判所が衡平法の判決を執行することによって、これらの危険からの防衛を行わせなければならない。

Relevant case law supports this conclusion. In United States v. Borden Co., 347 U.S. 514, 518-19 (1954), the Court noted that "private and public actions were designed to be cumulative, not mutually exclusive. . . . 'They may proceed simultaneously or in disregard of each other.'" (quoting United States v. Bendix Home Appliances, 10 F.R.D. 73, 77 (S.D.N.Y. 1949)).(7)

これと関連する判例法がこの結論を支持している。合衆国政府対ボーデン会社最高裁判所判決においては、最高裁判所は「These private and public actions were designed to be cumulative, not mutually exclusive. 私的な行為と公共の行為とが互いに排斥し合うのではなくて、加重されていくように計画されている。・・・」「They may proceed simultaneously or in disregard of each other."

この両輪は同時に進行する場合もあるが、相互に関連していない状態で進行する場合もある。」

(quoting United States v. Bendix Home Appliances, 10 F. R. D. 73, 77(S.D.N.Y. 1949) )

(合衆国政府対ベンディックス家電会社事件, 10 F. R. D. 73, 77(S.D.N.Y. 1949)を引用して).」

としている。また

「If the evidence indicates that remedial proposals benefit particular commercial interests rather than protecting the public's interest in competition, such remedies would be inappropriate for inclusion in an equitable decree pursuant to Clayton Act Section 16.

もし救済的な提案が競争における公共の利益を保護するよりもむしろ、個別企業の商業上の利益に役に立つことが証拠によって証明されているならば、そのような救済はクレイトン法第16条に準拠した衡平法の判決に含まれるとすることは適切ではない。」

このように判決している。

注:上記マイクロソフト判決該当部分。But under existing law, the non-settling States may pursue relief in their separate case. It is the Court's exercise of equitable discretion that must provide protection from these dangers.

Relevant case law supports this conclusion. In United States v. Borden Co., 347 U.S. 514, 518-19 (1954), the Court noted that "private and public actions were designed to be cumulative, not mutually exclusive. . . . 'They may proceed simultaneously or in disregard of each other.'" (quoting United States v. Bendix Home Appliances, 10 F.R.D. 73, 77 (S.D.N.Y. 1949)).(7) Microsoft also argues that because the Tunney Act procedures are the means for determining whether entry of a consent decree in a government antitrust case would be in the public interest, the non-settling States should be limited to that forum for arguing that other relief is appropriate.

・・・・

If the evidence indicates that remedial proposals benefit particular commercial interests rather than protecting the public's interest in competition, such remedies would be inappropriate for inclusion in an equitable decree pursuant to Clayton Act Section 16.

In exercising its equitable discretion to determine what remedy, if any, to grant in this case, the Court can also properly consider the proceedings in No. 98-1232. Upon a determination pursuant to the Tunney Act that entry of the proposed judgment in that case would be in the public interest, the SRPFJ necessarily bears on whether the non-settling States would be threatened with loss or damage with respect to their quasi-sovereign interests absent remedial provisions departing from the relief in No. 98-1232. This is consistent with Borden, which points out that public and private actions are cumulative and may proceed "in disregard of each other." 347 U.S. at 518-19 (quotation marks omitted). The Borden Court was careful to note that it could not "say that the existence of the private decree warrants no consideration by the chancellor in assessing the likelihood of recurring illegal activity," id. at 520 (emphasis added), and therefore government's entitlement to an injunction in that case despite the prior existence of an injunction granted to a private party.

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・・・・・・・・

In 1914, Congress modified this remedial scheme by enacting the Clayton Act. While it included in Section 15, 15 U.S.C. § 25, a provision virtually identical to the Section 4 of the Sherman Act, the Clayton Act also included a separate provision, Section 16, 15 U.S.C. § 26, allowing private parties to seek injunctive relief when faced with prospective injury resulting from antitrust violations:

Any person, firm, corporation, or association shall be entitled to sue for and have injunctive relief, in any court of the United States having jurisdiction over the parties, against threatened loss or damage by a violation of the antitrust laws . . . when and under the same conditions and principles as injunctive relief against threatened conduct that will cause loss or damage is granted by courts of equity, under the rules governing such proceedings.

Section 16, however, is narrower in scope than the Clayton Act and Sherman Act provisions for equitable relief in actions brought by the United States. While the United States may sue to restrain violations of either Act without any showing of injury, and courts may grant injunctions restraining such violations, others may sue only under Section 16, and only to protect against "threatened loss or damage by a violation." They have no authority to seek an injunction merely on account of a violation of the antitrust laws. See, e.g., Louisiana v. Texas, 176 U.S. 1, 19 (1900) ("the vindication of the freedom of interstate commerce is not committed to the State of Louisiana") (quoted in Alfred L. Snapp & Son, Inc. v. Puerto Rico, 458 U.S. 592, 602-03 (1982)). Moreover, not all threatened loss or damage suffices; rather, "antitrust injury" must be threatened -- "threatened loss or damage 'of the type the antitrust laws were designed to prevent and that flows from that which makes defendants' acts unlawful.'" Cargill, Inc. v. Monfort of Colo., Inc., 479 U.S. 104, 113 (1986) (quoting Brunswick Corp. v. Pueblo Bowl-O-Mat, Inc., 429 U.S. 477, 489 (1977)). Finally, unlike Section 15, Section 16 explicitly emphasizes that such relief can only be granted under the same conditions and principles considered by courts of equity. 15 U.S.C. § 26.

The States Occupy the Position of Private Parties, Not Sovereigns, When Seeking Injunctive Relief Under Section 16 of the Clayton Act

It was not through oversight that the Clayton Act relegates States seeking injunctive relief to the status of "[a]ny person" pursuant to Section 16. Georgia v. Pa. R.R. Co., 324 U.S. 439, 447 (1945). During floor consideration of the Clayton Act, Senator Reed offered an amendment that would have added a new section to the bill: "That the attorney general of any State may, at the cost of the State, bring suit in the name of the United States to enforce any of the antitrust laws." 51 Cong. Rec. S14,476 (daily ed. Aug. 31, 1914), reprinted in 3 Earl W. Kintner, The Legislative History of the Federal Antitrust Law and Related Statutes 2288 (1978) ("Kintner"). Had it become law, this provision would have placed state attorneys general on a par with the Attorney General of the United States as fully-fledged enforcers of the antitrust laws pursuant to Section 15 of the Clayton Act and Section 4 of the Sherman Act. As Senator Reed explained, "I believe it to be a wholesome thing that, instead of the enforcement of this great law being reposed simply in one overworked office, the attorneys general of the various States might utilize the law." Id. But the Senate rejected the Reed amendment by a vote of 21 to 39. 51 Cong. Rec. S14,526 (daily ed. Sept. 1, 1914), reprinted in Kintner at 2323.

Accordingly, state authority to seek injunctive relief under Section 16 of the Clayton Act is not based upon the sovereign interest in law enforcement. Rather (apart from protection of a State's proprietary interests, which is not at issue here), state standing is limited to assertion of its "quasi-sovereign" interests as parens patriae on behalf of it citizens. Georgia, 324 U.S. at 447-52. While the Supreme Court has not fully defined the quasi-sovereign interests upon which suit may be based, see Alfred L. Snapp & Son, Inc. v. Puerto Rico, 458 U.S. 592, 602 (1982) ("Snapp"), it has given some guidance.

On the one hand, "the State must articulate an interest apart from the interests of particular private parties." Id. at 607. Thus, a State may not appear as a "nominal" party to advance the interests of a single private interest or commercial enterprise, or of a single industry constituent. Id.; Land O'Lakes Creameries, Inc. v. La. State Bd. Of Health, 160 F. Supp. 387, 389 (E.D. La. 1958).(2) On the other hand, because it does not act as a sovereign law enforcer, a State -- unlike the United States -- may not as parens patriae be a mere volunteer seeking to vindicate an interest in compliance with the law. Snapp, 458 U.S. at 602-03 (quoting Louisiana, 176 U.S. at 19). Rather, a State acting as parens patriae asserts the "quasi-sovereign interest in the health and well-being -- both physical and economic -- of its residents in general." Snapp, 458 U.S. at 607.

In Pennsylvania v. New Jersey, 426 U.S. 660, 666 (1976), Pennsylvania's parens patriae claim for injunctive and other relief on account of an allegedly unconstitutional New Jersey tax on the New Jersey-derived income of nonresidents was held to be "nothing more than a collectivity of private suits against New Jersey" involving no "sovereign or quasi-sovereign interests of Pennsylvania" and therefore improper. This case must be viewed in light of the fact that it involved the Supreme Court's desire to limit its original jurisdiction docket, but nonetheless may provide some general guidance. There appears to have been no allegation of harm to the Pennsylvania economy apart from the harm to Pennsylvania residents with New Jersey-derived income, who paid an allegedly unconstitutional tax.

Related to the prohibition upon advancing the interests of private parties as a nominee, the interest at stake must be one substantial enough to merit the State's protection. In making this determination, "the indirect effects of the injury must be considered as well in determining whether the State has alleged injury to a sufficiently substantial segment of its population." Snapp, 458 U.S. at 607. Decided cases indicate that "[o]ne helpful indication in determining whether an alleged injury to the health and welfare of its citizens suffices to give the State standing to sue as parens patriae is whether the injury is one that the State, if it could, would likely attempt to address through its sovereign lawmaking powers." Id.

公共の利益を考慮する政府による差止と、私訴の原告による差止とは確かに両方が全く違っているように見える。

ところが実は両者は同じものである。

それを証明する。

本件合衆国政府対ボーデン会社最高裁判所判決において

「The private plaintiff might find it to his advantage to refrain from seeking enforcement of a violated decree; for example, where the defendant's violation operated primarily against plaintiff's competitors.

私訴における原告は違反であるとの判決を執行することを差し控えることに利益を見出すかもしれない、たとえば被告の違反は元々は原告の競争業者たちに対するものであった場合である。」

と述べているのは、例えば「原告が価格カルテルを認める被告への念書に印鑑を押して価格カルテルに合意すれば、原告は何らの損害賠償請求を求める理由を失うが、政府にとってはその念書によって非常に大きな公正競争阻害性が増大するという結果をもたらすというような場合」を考慮しているものと考えられる。

 これは非常に重要であるので深く研究する必要がある。

「the defendant's violation operated primarily against plaintiff's competitors被告の違反は元々は原告の競争業者たちに対するものであった」という条件においては、つまり原告の競争業者の行為を競争制限することによって例えばカルテルを行わせるような場合には、自由競争が一般的な契約方法となっているような市場においては、原告は競争に勝って莫大な利益を得ることができるであろうから原告はそのようなカルテルの公正競争阻害を放置するであろうという意味である。この場合にはカルテルや、市場割り当てに対抗している。市場割り当ての場合には自由競争ではないので自らに対して割り当てがないのに対して自由競争が一般的な契約方法となっているような市場ではあっても割り当てがある地域には自由に公正に競争できるわけがないのであるから、市場割り当ての公正競争阻害性を放置することにはならないであろう。

 つまり市場割り当てと、カルテルは全く違ったものであって、市場割り当ては非常に悪性が強いことがこれによって証明されることになる。市場割り当てにおいては購入者は価格が高くても買ってしまう様な購入者と販売者が魔術にかかったような状況に置かれているのである。これが現在の被告の不動産鑑定業界の状況である。

 これは「原告が価格カルテルを認める被告への念書に印鑑を押して価格カルテルに合意すれば、原告は何らの損害賠償請求を求める理由を失うが、政府にとってはその念書によって非常に大きな公正競争阻害性が増大するという結果をもたらすというような場合」には原告がそのカルテルに加入している。あるいは市場割り当てにある強制的な規則(魔術)によって加入しているのである。これは強制的な規則に魔術を解く鍵がある。カルテルに合意しなければ市場から追い出すという規則である。これは公然と行われている。

 一方カルテルは隠然と隠れて行われている。公然と行われる場合にだけ念書という公表される文書が残される。しかしそれが次第に違法性のある市場割り当ての行為であるということが理解されると市場割り当ては、次第に価格カルテルのみの行為に変化する。こうなると自由競争になるのであるから、被上告人らはカルテル内部の警察活動を強化し、カルテ累犯者に対してはリンチ等の非常に思い罰を加えるようになるであろう。発注者である各市町村に対しても非常に思い罰を加えるようになるであろう。こうなったら戦争状態になる。これが現在のカルテルによる鉄による橋の建設談合事件であり、マスコミの応援なければもとのもくあみとなるであろう。

これは同じカルテル事件であっても、ところが、本件事件は私訴の原告による損害賠償請求であり緊急性を要し、一日一日増大している個別企業に関わる公正競争阻害の金額について終局判決までの間の損害の継続をどのように取り扱うのかが最大の焦点である。仮処分を出すのか、終局判決を急ぐのかである。

ここには市場割り当てにおいては顧客に対する強制や、魔術があるということであり、契約方法やその他において顧客に対する何らかの契約がなりたっているということを示している。本件事件においてはそれは顧客である県との間の価格協定であろう。つまり公共工事に関する価格の固定が成立していること、これはカルテルではなくて市場における購入者と販売者の価格の協定である。単価契約による価格の固定である。いわゆる公共工事に関する報酬基準はこのようにカルテルが販売者同士で成立し、更には購入者にもそのカルテルを認めさせているということでありこれは市場割り当てを行っていることにつながりやすく、完全に自由な公正競争を抹殺しているということである。

これまでこのことについて実際の事件になってきたことはなかったとFTCは(市民への通報の要請文において)書いていたが、日本のほとんどの契約方法はこのような方法によって発注者と、販売者との間でこのような市場割り当ての合意が成立しているといえる。国土交通省の発注者が「最近の受注は落札者が安値受注をしすぎる。」「予定の業者が受注していない。」という言葉を録音されているくらいだからである。

今図式的に考えてみよう。

まず69,000円のカルテルと、それを各市町村に命令する入札談合などが成立しているとした場合を考えてみよう。もし念書を取って共同ボイコットを行わずに入会させた場合を考えてみよう。これは被上告人が西園を入会させたことを非常に間違ったことをしたと思っていることからくる行動である。

この場合には69,000円の一件当たりのカルテルは維持されることになる。この場合にはもし入会させなかった場合よりもその分だけ公正競争阻害の金額が市町村や間接的に納税者に発生することになる。

一方念書を書くことに納得しなかった業者を入会させなかった場合にはその分だけ当該排除された業者に損害が発生することになる。しかしそれは差額ではなくて利益が減ることになる。

もしもその業者が自由競争に参加し39,000円で入札した場合にだけ公正競争阻害性は少なくなる。本来はその業者は安売りによって大きくなるはずであるが、もし契約方法とかで妨害をするならば、一部日高市のみが入札による利益を得ることになる。もしそうでなければ入札にした市町村がすべてか、あるいは、その事業者のキャパッシティーの範囲内において公正競争阻害は回復することになる。公正競争阻害性が少なくなり市町村や間接的に納税者に利益がその差額分が発生することになる。

この場合西園と山口の二業者がそのような自由競争を望んでいる業者であるから、その二業者が大きくならない限りはその二業者のキャパッシティーの範囲内において公正競争阻害は少なくなっている。

私訴の原告は得べかりし利益が減ることによって生じた損害を賠償するように要求するのである。これは公正競争阻害が市町村に与えた金額とは違っている。これは不法行為の金額である。

ボーデン最高裁判所の判決が言おうとしているのはこの両者の差異である。独占禁止法においては証拠が少ないにもかかわらず公正競争阻害を認知し、差額を公正競争阻害の金額として認識はできる。上記の両方ともに違っているように見えるが実は同じものであるということを言いたいのだろうと思われる。

69,000円でのカルテルによる受注の量は、念書事件の場合にはxとしておこう。もし念書を書かなかった業者が自由競争を行い、39,000円で受注した量をyとすれば、(x−y)×(69,000円−39,000円)が公正競争阻害の金額として認定できる。一方念書を書かなかった事業者に無理やり念書を書かせて入会させた場合には、(x+y)×(69,000円−39,000円)が公正競争阻害の金額として認定できる。したがってその差は2y×30,000円であるということになる。これが公正競争阻害の金額の問題であり、

念書を書くことに納得しなかった業者を入会させなかった場合にはそのyの分だけは総受注量が減ることになる。したがって本来は69,000円よりも高くなるはずであるが、カルテルによっている場合にはおそらく競争はないのでそのままであろう。実は39,000円が妥当であるからである。したがってxで総量を割るわけでありx+yで割る必要がなくなり一人当たりの分け前は多くなることになる。

一方すでにどのようなことがあってもその市場に入ってくることを禁止する場合にはこのような割り当てが減らないことが目的であると考えらる。

ただ私訴の原告が行っていることは全体の公正競争阻害の金額の証明ではなくて、そのうちの一部分である自分の個別企業に関わる公正競争阻害の金額のみについて述べているのであって、この場合にはyあるいはキャパッシティーの範囲内においての公正競争阻害のみを述べているのであって、集合的には公正取引委員会が公正競争阻害の金額をとらえた金額に、個別企業がとらえた公正競争阻害の金額は含まれることになり、ということは言葉の概念としても含まれるということになります。

個別企業の場合には39,000円で入札ができなかったことについての得べかりし利益が減ることによって生じた損害y×39,000円を賠償するように請求する訴訟を起こすのであって、それと同時にy×30,000円を各市町村に請求できるのであるが(x+y)×30,000円をクラスアクションとしてxの発注者である各市町村に請求するのではないだけであり、y×30,000円を請求するか、(x+y)×30,000円を請求するかはxの部分を請求するかどうかにかかっているのである。

以上の通りカルテルによる損害額に、本件私訴の原告による損害賠償請求における損害額は含まれるのであるから、カルテルを証明しその一部分であることを証明することは本件事件でも必要なことである。

私訴の原告による損害賠償請求であり、追加的に差止(現行犯逮捕)事件でもある本件事件は緊急性を要するので早急に終極判決、あるいは緊急の仮処分をお願いするものである。

AMA事件における差止・・事業者団体による共同ボイコットと私訴における原告による差止事件

「to very carefully read the current AMA Judicial Council Opinions to realize that there has been a change in the treatment of chiropractors and the court cannot assume that members of the AMA pore over these opinions*, and finally, the systematic, long-term wrongdoing and the long-term intent to destroy a licensed profession suggests that an injunction is appropriate in this case.

When all of these factors are considered in the context of this "private attorney general" antitrust suit, a proper exercise of the court's discretion permits, and in my judgment requires, an injunction. (Opinion pp. 11).

本件「プライベート・アトーニー・ゼネラル」による反トラスト法訴訟においてはこれらすべての要素がこの文脈の中で考慮されなくてはならないのであって、それによってのみ裁判所による自由裁量によって正当に差止が認められるのである。これは私の個人の判断によっても同様に請求したのである。

Evidence in the case demonstrated that the AMA knew of scientific studies implying that chiropractic care was twice as effective cis medical care in relieving many painful conditions of the neck and back as well as related musculoskeletal problems.

筋骨格系の疼痛などの問題に関係した首や背中の多くの疼痛から開放されるための惨事ストレス医療のケアーにカイロプラクティックは2倍効果的であることを示す科学的研究をアメリカ医師会は知っていたという証拠がこの事件では提出された。

The court concluded: There also was some evidence before the Committee that chiropractic was effective - more effective than the medical profession in treating certain kinds of problems such as workmen's back injuries.

裁判所の結論はこうである。カイロプラクティックは労働者の背中の障害のようなある種の傷を取り扱うときには医療の職業よりも効果的であること、効果的であることを証明するFTCに提出されたいくつかの証拠があった。」

先に述べた文章を再引用する。

「差止の性格について、学者間に違いがあるので、アメリカの場合を更に引用する。

命令的差止の前は次のような文章である。

「United States v. W.T. Grant Co., 345 U.S. 629, 633 (1953).

合衆国政府対W.T. グラント会社事件, 345 U.S. 629, 633 (1953).

Where a violation has been founded on systematic wrongdoing, rather than on isolated occurrence or event, the Seventh Circuit has observed that a court should be more inclined to issue an injunction.

違反が単に一回だけの発生であったり、事件であったりするのではなく、組織的な違反行為を行っている時、第7回巡回裁判所は裁判所は差止を行う傾向があるべきであると見てきた。

Commodity Futures, 591 F2d at 1220.

コモディティー・フューチャーズ事件, 591 F2d at 1220.

Relief is appropriate against a defendant which retains a financial interest in continuing antitrust violations and/or a position in the market which could enable it to carry out such anticompetitive activity.

競争制限的な違反を継続している時の金銭的な面での利益及び(あるいは)そのような競争制限的な行為を遂行することを可能にするような市場における地位を被告をそのままにしておくのをやめさせるのが正当である時に救済が行われる。Commodity Futures indicates that the defendant's acceptance of blame for its conduct is a factor tending to diminish the necessity of injunctive relief.

コモディティー・フューチャーズ事件によれば、違反行為に対して被告が責任を認めたことによって差止の救済の必要性が減少したその傾向の一つの要因になっていることがわかる。

Conversely, lack of contrition would also have some relevance.

これとは全く逆に改悛していないことというのもまた関連性を持っているだろう。

The plaintiffs urge that a court, once it has found a violation of the antitrust laws, has "the duty to compel action by the conspirators that will, so for as practicable, cure the ill effects of the illegal conduct, and assure the public freedom from its continuance."

原告の主張によれば、反トラスト法の違反がひとたび発見された場合には、裁判所は「実際に実行可能な範囲で、共謀者たちによる行為に対して強制を行い、違反行為による悪影響を取り除く義務があり、違反の継続から公衆の自由を守る義務がある」と主張している。

United States v. United States Gypsum Co., 340 U.S. 76, 88 (1950).

合衆国政府対合衆国ジプサム会社事件, 340 U.S. 76, 88 (1950).

While this is the only case I have found which states that such an injunction is mandatory, there is no question that a court may consider lingering efforts as a factor.

この事件(AMA事件)はその差止が命令的であるとされた私の知る限り唯一の事件であるが、裁判所が継続してきているこれまでの多くの成果を一要素として考慮しているかもしれないことは疑いがないと考えた。

As the Supreme Court stated in International Salt Co. v. United States, 332 U.S. 392, 400-01 (1947):

最高裁判所がInternational Salt Co. v. United States事件332 U.S. 392, 400-01 (1947)において次のように述べている、」

事業者団体と差止

「Wilk vs. the American Medical Association-Cults, Committees, and Anti-Trust…

ウィルク対AMA事件、宗教、公正取引委員会、反トラスト法」の論文から引用する。出典は後に明示。

Prior to 1975 it was commonly agreed in the legal community that anti-trust laws such as the Sherman Act and the Clayton Act were intended to regulate professions involved in “trade or commerce” and did not apply to “learned professions”, including the health profession… this would change with two important cases.

1975年まではシャーマン法およびクレイトン法のような反トラスト法は「取引と商業」に関連する職業を規制すると考えられていたのであって、健康に関する職業を含む「知的な職業」には適用しないことが法社会においては一般的な合意があったが、この合意が二つの重要な事件で変化した。

In 1975 the Supreme Court ruled against the Virginia State Bar Association’s establishment of a minimum fee schedule under the Sherman Act.

1975年に最高裁判所は安売りの最低価格の設定を行ったバージニア州弁護士協会に対してシャーマン法の規定を適用した。

The Bar was attempting to engage in an activity that was patently anti-competitive and counting on a sweeping exclusion of their profession from prosecution.

弁護士協会は明白に反競争的である行為を行使していたのであり、検察官からの告訴から弁護士協会を全体的に除かれれることを当てにしていた。

Three years later this precedent would be reinforced and broadened when the Supreme Court also ruled against the National Society of Engineers.

その3年後には全国技術者協会にも最高裁判所は適用したので、この最高裁判所の判例は強化され、より広い範囲に適用されるようになった。

Here the Society claimed its actions should be exempt from prosecution because it believed itself to be acting on behalf of its own reputation and public safety?the Court disagreed.

この事件においては協会は自らの評判と公共の安全のために行為したと信じているのであるから、協会の行為は告発から免れるべきであるという主張を行ったが、最高裁判所は認めなかった。

These two cases encouraged the Federal Trade Commission to vigorously enforce anti-trust regulations within the health field, prosecuting most notably the American Medical Association multiple times as well as the Michigan State Medical Society, the Indiana Federation of Dentists, and the Forbes Health System Medical Staff .

これらの二つの事件によって連邦取引委員会は健康産業の中における反トラスト法規制の強化を強力に押し進める力添えになった。ミシガン州の医師会、インディアナ州歯科医師協会、さらにはフォーブス健康システム医師同様にこれは有名であるがアメリカ医師会を何度も訴追した。

The legal precedent would be critical to this case?the sweeping exemption of health care professions from prosecution for anti-competitive practices had been eliminated.

この事件においては法律的な先例が決定的に重要な意味を持っている−反競争的行為に対する訴追から健康産業が全面的に免除されることがなくなったのである。

(Feldstein, Paul. Health Economics)

(ポール・フェルドスタイン「健康の経済学」)

事業者団体と契約の締結

市場割り当てにおいては本件事件において、埼玉県に対して見積もりを徴しないことを協定によって承諾させていることは重要なキー概念である。

次の規定を見ていただきたい。このような状況においては被上告人が市場割り当てを行っている状況がみてとれる。

「契約の締結は、一般競争入札が原則であるとし、随意契約については、政令で定める場合に該当するときに限って限定的に認めている。

その「政令の定め」であるが、地方自治法施行令(昭和22年政令第16号、以下「施行令」という)第167条の2第1項において、第1号は、別表により予定価格の限度額を定め、その範囲内で普通地方公共団体の規則に定める額を超えない場合に、随意契約ができるものとしている。

さらに、同項第2号には、「その性質又は目的が競争入札に適しないものをするとき」、同項第3号は、「緊急の必要により競争入札に付することができないとき」など、以下同項第7号までの規定があり、これに該当する場合は、第1号で示した限度額(普通地方公共団体が定めた規則の額)を超えても特例的に随意契約が認められるとしている。

この特例的な随意契約のうち、同項第2号から第5号を根拠として業者を指定して行う随意契約を一般的に「特命随意契約」と呼んでいる。

本報告書では、施行令第167条の2第1項(第1号から第7号)に規定するすべての随意契約を「随意契約」、同項第1号に基づき契約事務規則第39条に定める随意契約を「区規則に定める随意契約」、同項第2号から5号に基づく随意契約を「特命随意契約」と表した。

原文

平成16 年度 新宿区行政監査結果報告書

平成16年9月 新宿区監査委員 16新監査第348号

平成16年9月14日

新宿区監査委員 二 宮 忠

【意見に至る分析】

(1) 区全体の契約状況の分析(概要)

ア 区の契約の中で、随意契約の占める割合は契約件数で97.4%、契約金額では86.5%となっていた。

イ 随意契約のうち特命随意契約の件数は、全体では3.9%、随意契約の中だけで見ると4.0%であるが、契約金額では、全体では81.9%、随意契約の中だけで見ると94.6%もの高い割合を占めている。

ウ 随意契約を種別ごとに分類してみると、契約件数では、工事関係6.9%、物品関係79.7%、委託関係13.4%であるが、契約金額では、工事関係1.8%、物品関係4.1%、委託関係94.1%と、委託関係がそのほとんどを占めている。

エ 特命随意契約は、契約件数1018件で、工事関係4.8%、物品関係13.1%、委託関係82.1%となっている。契約金額では、工事関係0.5%、物品関係1.2%、委託関係98.3%となっており、特命随意契約は、委託関係に分類した昇降機保守等屋内業務、公園・道路の清掃等屋外業務、機器の賃貸借、調査委託などの業務により多く用いられている契約方法であるといえる。」

以上の通りに宇治市においても当社にもできるにもかかわらず、路線価の評価においては特命随意契約が用いられて当社は自由競争に参加できなかった。一社アジア航測株式会社に950万円で高い価格で契約されてしまったのである。

「最近のニュース

新潟市発注の公共工事を巡る官製談合事件で、偽計入札妨害罪に問われている市幹部4人に対する論告求刑が27日、新潟地裁(大谷吉史裁判官)であった。起訴状によると、4被告は2002年1月〜03年8月に実施された下水道建設課発注の下水道工事の指名競争入札9件について、業者側があらかじめ決めた業者に設計価格などを漏えいし、高落札率で工事を落札させた。

富山では富山県不動産鑑定士協会に国から設計価格が伝達されもれていた。

公正取引委員会が26日発表した2004年度の独占禁止法違反事件の審判件数は、前年度比7件増の167件と、2年度連続で過去最高を更新した。

 厳罰化で審決にかかる時間が長期化し、前年度から継続した審判が140件に上ったことが要因だ。

 04年度に支払いが確定した課徴金の総額は、111億5029万円で、1990年度の125億6214万円に次いで過去2番目となった。

談合罰則を強化、改正独禁法が成立(読売オンライン 2005/4/20)

 談合などへの課徴金の引き上げや、違反の自主申告で課徴金を減免する制度を盛り込んだ独占禁止法改正案が20日の参院本会議で賛成多数で可決、成立した。

 早ければ2006年1月にも施行される見通しだ。

談合などの不正行為の当事者自らが、公正取引員会に談合などの情報を提供した場合は課徴金を減免し、自主申告した先着3社に100―30%を免除する。

 同法改正案は昨年10月に臨時国会に提出された。

 罰則強化と談合破りを促す内容となっていたが、課徴金の重さを指摘する声が経済界などに強く、算定率や減免制度をめぐって民主党が対案を出すなどし、継続審議となっていた。」

富山県の郵政省の発注者である北陸郵政局から富山県不動産鑑定士協会に設計価格が漏れていたテープからすると入札談合等関与については日本の市場支配力の源泉になっていると考えることができる。以下のようにして市場支配力をAMA事件では認定している。

AMA事件における市場支配力の認定

アメリカの場合には消費者はほとんどすべてが個人である医業の世界において、以下にして市場支配力を認定したかは、後の弁護士業界における認定の場合と同様に興味がある。いずれも価格を中心として認定されている。

契約が被上告人と県との間で「見積もりを徴しない」と決められていること(これは埼玉県でのみであるので被上告人との間の協定である)は、被上告人のみのカルテルの問題ではなくて県との間での契約が成立していることが重要である。これはすごいカルテルであるといえる。いわゆる競争の完全なる抹殺(eliminate 、extermination)である。

AMA事件においては、AMAの市場支配力を次のような方法によって認定した。

「Wilk vs. the American Medical Association-Cults, Committees, and Anti-Trust…

ウィルク対AMA事件、宗教、公正取引委員会、反トラスト法」の論文から引用する。出典は後に明示。

Determining the market power of the AMA…

アメリカ医師会の市場支配力の決定

Using an elementary definition of market power?the ability of raise prices above the competitive level by restriction output?the first critical step to the case was to determine whether the AMA had sufficient market power in the health services market to cause significant damage to competition

供給量を制限することによって競争的な水準以上に価格を上昇させる力があったのかという、市場支配力の原始的な定義を使うことによって、競争に対して意味のある損害を健康サービス市場へ与えることができるほどにじゅうぶんな市場支配力を持っていたかどうかを決定することがこの事件の第一段階での重要な意味をもつ問題であった。

The finding of the district court, which was later used by the circuit court during the appeal, was supported by several determinations:

控訴審の間で巡回裁判所でも後に使用されることになる、地方裁判所の認定はいくつかの判定によって裏付けされていた。

The AMA’s members constituted a substantial force in the provision of health care services as well as a majority of medical physicians .

多くの医療関連の医師と同様に、AMAの会員は健康のサービスの供給において実質的な力を構成していた。

AMA members received a greater portion of fees paid to physicians than were paid to non-AMA members .

Evidence showed that AMA members received approximately 50% of all fees paid to health care providers

Other methods of determination

Other methods of determination have also been implemented, mainly in response to a more recent hypothesis that the AMA is partially responsible for rising healthcare costs

In an investigative article, Barry Seldon, Chulho Jung, and Robert Cavazoz employed the Bresnahan method and, using a statistical estimation of a supply relationship?a supply function if the industry acts competitively?employed data from the AMA and other sources from 1983 to 1991 to ascertain a level of market power held by the AMA

They concluded that price is maintained above marginal cost in the market of doctors’ services, suggesting the existence of market power

Figure 1: Monopoly or Oligopoly

Still more evidence…

A final observation about market power is that they may still be a shortage of physicians in the United States though some maintain there is a glut

A wait of days or weeks to see a physician with an appointment as well as long wait times spent on office waiting rooms is indicative of demand exceeding supply, rather than the other way around

Note, the only evidence used in the actual court decision were the first three determinations used in the district court case. I only mention the subsequent evidence because I was surprised by the court’s willingness to make decisions without more decisive evidence. The later evidence comes from articles and studies I found later while attempting to find evidence to counter the court’s determination.

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(13)

平成17年6月13日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

私訴とカルテル

カルテルの証明と私訴の原告による損害賠償請求は同一のものである。カルテルによる損害は公共に対してさがくのみが発生していると考えるのは間違いであり、もしカルテルがなければ入札において落札できる可能性があった事業者は得べかりし利益が減ることによって生じた損害の賠償請求訴訟はできると考えられる。この場合にはカルテルに参加しなかった業者の誰にその原告適格があるのかの問題は残るが、茨城において東京の業者がそのようにして得べかりし利益が減ることによって生じた損害の賠償請求訴訟はできると考えられる。一方私訴の原告による損害賠償請求事件として行われた事実から、差額説による公共の利益の損害額の算定も同様に可能となる。いずれも個別企業に関わる公正競争阻害の行為と社会全体への公正競争阻害の行為は集合的に社会全体の中に個別企業が含まれているように、公正競争阻害の額も、公正競争阻害の概念も含まれているということができる。したがって本件事件でもカルテルの証明は必要である。その一部分であるということになる。

カルテルによる入札談合は、購買者の財産権を奪うということ、現行犯による「強制的な」逮捕の判決が可能であることは次のような弁護士の説明によっても理解されている。

The antitrust injury caused by a bid-rigging scheme is the denial of the purchaser’s property right to choose the lowest responsible bidder and to allocate its funds to that bidder.

入札談合が原因となって起こった反トラスト法違反による損害は、最低価格での責任ある入札者を選ぶ購買者の財産権を侵害し、かつその入札者にその資金を配分する購入者の財産権をも侵害するものである。

See County of Orange v. Sullivan Highway Products, Inc. and North Dakota Cement Co., 1989-2 Trade Cas. (CCH) # 68,815.

参照:County of Orange v. Sullivan Highway Products, Inc. and North Dakota Cement Co., 1989-2 Trade Cas. (CCH) # 68,815.

Those individuals found guilty of bid-rigging in a federal criminal case face a mandatory jail sentence of at least 90 days.

連邦の刑法犯の場合には、入札談合の罪が認められた個人には少なくとも90日の強制的な実刑判決が出される。

Recently, both the federal and state governments have prosecuted a number of antitrust cases involving bid-rigging.

連邦と州の政府はともに入札談合を含むいくつかの反トラスト法違反事件を最近訴追した。

See U.S. v. MMR Corp. (LA) and James B. Rutland [1990-2 Trade Cas. (CCH) # 64,136]; MMR Corp.

involved a conspiracy to rig bids on an electrical construction project.

電気設備プロジェクトでの入札談合の共謀が認定された。

In affirming the bid-rigging conviction of one company and its president, the Fifth Circuit Court of Appeals found that the fact that the company did not submit a bid for the project and then received a lucrative subcontract on the project provided convincing circumstantial evidence that the company had been involved in a bid-rigging conspiracy.

会社とそのが社長の入札談合を有罪であると決定するにあたり、第五巡回控訴裁判所は当該会社はそのプロジェクトにおいては入札には参加しなかったが、それによってそのプロジェクトにおける儲かる下請けを受け取ったという事実を、当該会社が入札談合の共謀に参加したという確実な状況証拠が存在するという条件の下で、認定した。

U.S. v. Dynalectric Co. [1988-2 Trade Cas. (CCH) # 68,238]. 674 F.Supp. 240 (1987).

U.S. v. Dynalectric Co. [1988-2 Trade Cas. (CCH) # 68,238]. 674 F.Supp. 240 (1987).

住所 3595 Sheridan St., Suite 200, Hollywood,

FL 33021 954-893-7300 Fax 954-893-7500 nasfm@nasfm.org  Copyright c 2005 NASFM( National Association of Store Fixture Manufacturers)という事業者団体の antitrust compliance programよりの引用。アメリカの事業者団体はこれほどまでにコンプライアンスが行き届いている。

また次のような事業者団体に関するアメリカの警告があるが、これらは日本でも通用すると考えられる。

・・rigging and other uniformly pernicious agreements among competitors.

Another significant feature of the Allied Tube & Conduit case is its insistence that industry standard-setting activities be conducted in a non-partisan manner. Id. at 507.

事業者が基準を設定する行為は党派を組まない方法によっても行われることがあるという点がAllied Tube & Conduit事件では強調されている。

That an association simply has a set of rules in place is no guarantee of fairness.

平たい説明によれば、事業者団体が一連の内規を持っていることは、公平性の保証になるものではない。

Rather, an association's rules must contain safeguards that prevent economically-interested parties from skewing the decision-making process.

ということはそれとは逆に事業者団体としての規則は、むしろ経済的に利益のある当事者が、意志形成過程の事実を曲げることを防ぐような安全装置を含んでいなくてはならないことになる。

The FTC's current chairman, Robert Pitofsky, has amplified on the benefits that fair procedures can contribute to the self-regulatory process.

ロバート・ピトフスキーFTC現長官は、正しい手続きを定めることによって自己による規制の過程を形成する手助けになるというメリットを強調してきた。

First, procedural safeguards signal that the self-regulatory activity is legitimate and that the organization is committed to proper regulatory goals.

第一に、

Second, when industry self-regulators hold hearings, and have written records of the evidence and reasons for their decisions, then members as well as reviewing tribunals know what was decided, and why.

第二に、

Third, requiring valid reasons to be presented for potentially anticompetitive activity before it is adopted encourages the regulatory organization to act in good faith and within its mandate.

第三に、潜在的に反競争的な行為が行使される前に意味のある理由を要求することによって、競争制限をする事業者団体として信義誠実にかつ法規の命令の範囲内で行為することを勧めることになる。

Fourth, procedures enabling, or even requiring, members to exchange views can lead to fair compromises or resolution of disputes without litigation.

第四に、会員に意見を交換する手続きを必要にすることによって、あるいはただ会員に意見を交換する手続きを要求することだけによっても、法にかなった示談や正しい解決案が討議によって成立し、起訴しないで済むことになる。

Fifth, an organization's record of past self-regulatory efforts may provide evidence that a current decision or motivation is reasonable and procompetitive.

第五に、事業者団体における過去の自己規制の努力の記録によって現在の決定や動機が合理的であり、競争促進的であることの証拠を提出できることになるかもしれない。

Thus, adequate procedures both ensure fairness in an association's internal decision making and help to safeguard industry actions from antitrust challenge.

このような理由から、適切な手続きを定めておくことによって事業者団体の内部の意思決定が公正な自由競争ができるようになるように規制しておくことができる上に、反トラスト法違反をしないように事業者団体の行為を守るための手助けの手段になる。

A second Supreme Court case that sheds light on the antitrust treatment of private sector self-regulatory activities is F.T.C. v. Indiana Federation of Dentists, 476 U.S. 447 (1986).

FTCとインディアナ州歯科医師協会事件476 U.S. 447 (1986)においては、競争制限を私的な事業者団体が自己規制で行う行為について反トラスト法上どのように処置すべきかについて最高裁判所は次に判決をした。

In that case, a dentists' Federation adopted a rule prohibiting its member-dentists from giving copies of patient x-rays to insurance companies.

この事件は、保険会社に対して患者のx線写真のコピーを提出することを禁止するという決定の規則をインディアナ州歯科医師協会が決めたという事件である。

The Federation did this even though patients wanted their dentists to provide the x-rays to insurers to facilitate appropriate benefits payments.

患者の側が正しい利益の算出に役立ててほしいとインディアナ州歯科医師協会からx線写真を保険会社に対して提出してほしいと要望したとしても、その提出を禁止した。

The FTC brought a case against the Federation and issued a decision finding the conduct unlawful.

FTCはこの事件ではインディアナ州歯科医師協会を負けさせ、この行為を違法であるという判決をした。

The Federation sought review in the court of appeals, which overturned the Commission's decision.

インディアナ州歯科医師協会は控訴審において、再審理を要求し、FTCの決定を覆した。

The Commission then won on review by the Supreme Court.

最高裁判所による再審理によってFTCは勝訴した。

In its opinion, the Supreme Court recognized that the dentists' joint refusal to provide the insurance companies with the x-rays resembled a group boycott, and that group boycotts traditionally have been viewed as per se illegal.

最高裁判所による判決書によれば、保険会社に対してx線写真を提供しないという歯科医師による共同の拒絶が共同ボイコットと共通点があると認識したのであり、それまでは伝統的に共同ボイコットは当然に違法であると見なされてきていた。

But the Supreme Court also recognized that this case did not present the typical boycott situation

しかしまた最高裁判所はこの事件は典型的な意味でのボイコットの状況を表現しているのではないと認定した。

-- it did not involve a group of firms using their collective market power to injure rivals by pressuring common customers or suppliers to refrain from dealing with those rivals.

というのは自らの競争事業者との取引から一般の顧客や供給者が手を引くように圧力をかけることによって、競争業者に損害を与える集団的市場支配力を一段のグループの事業者群が使用することにはなっていないからである。

Consequently, the Court agreed with the FTC's approach and opted to review the facts under the rule of reason.

そのような分析の結果、裁判所はFTCの取り扱い方法を認め、合理性の原則によって諸事実の再審理を選択した。

The Court then identified three questions that are relevant in assessing whether self-regulation is likely to cause competitive injury.

それから裁判所は自己による競争制限が競争上の損害を起こすのかどうかについて評価するにあたっては、三つの問題を特定した。

First, do members of the association have parallel or divergent economic interests?

第一に、事業者団体の会員が同じ経済的利益を享受しているのか、あるいは、相違する経済的利益を享受しているのかである。

In Indiana Federation of Dentists, all association members were dentists, and shared the same ec...

インディアナ州歯科医師協会においては、すべての事業者団体の会員は歯科医師であり同じ経済的・・・。

また本件に関連して次のような事件が起こっている。

February 8, 2005

(Letter to all Members of the Joint Legislative Audit and Review Commission)

Dear ______________:

立法監査報告合同委員会のすべてのメンバーへの手紙

In 1995, the Joint Legislative Audit and Review Commission (the "Commission") issued a report entitled "Review of the Virginia State Bar."

「バージニア州の弁護士会報」と題した報告を1995年に立法監査報告委員会(今後「委員会」と称する)は発表した。

Among the subjects covered was "Expansion of Virginia State Bar commercial activities raises concerns" (at pp 82-91).

本件の問題は「バージニア州司法委員会の商業上の活動の向上に関する展開」(82−91頁)に記載されている。

The Commission cautioned that the involvement of the Virginia State Bar (the "Bar") in certain commercial products and services "places other vendors at a competitive disadvantage due to the mandatory nature of the Bar's membership."

委員会はある種の商業上の製品やサービスにバージニア州の弁護士会が関わることによって「弁護士会が強制入会の性質を持っている故に、競争上の不利益を他の供給者たちに与える」ことになると警告した。

Despite these admonitions, at its October 15, 2004 meeting, the Virginia State Bar Council voted to proceed with a plan to purchase an online legal research system and to provide legal research services at no cost to every member of the Bar.

この警告があったにもかかわらず、2004年10月15日の会議において、バージニア州弁護士協会は採決し、オンライン法律判例検索システムを購入する計画を推進し、弁護士会のすべての会員に無料で法律判例検索サービスを提供すると決定した。

Shortly after that meeting, the Bar issued an RFP setting out the details of the system, and seeking proposals from vendors to provide such a system.

その会議のすぐ後で、業者リストにおいてRFPがこのシステムの詳細を提案し、それと同じようなシステム供給するように提案をし応募していると発表した。

The system as described in the RFP would compete directly with the legal research system we produce.

RFPの中で説明しているシステムは我々が構築する法律判例検索システムと直接競争できるでろう。

Bids are closed, finalists have been determined, and the Bar intends to enter into a contract with the winning bidder on February 21, 2005.

入札が全く行われておらず、最終落札者はすでに決定されており、弁護士会は2005年2月21日に入札において落札した業者と契約を締結する意向である。

Our company, Geronimo, believed then and believes now that such an arrangement would violate state and federal antitrust laws.

ゲロニモという当社は、そのような協定は州の反トラスト法と、連邦の反トラスト法とを侵していると当時信じていたし、今も信じている。

Prior to the deadline in the RFP for bids to be received, our attorney wrote the VSB to explain this antitrust violation and ask the VSB to withdraw the RFP (copy enclosed).

入札の最終受付日よりも前にRFPの入札の札を受け取ってもらえるように、我々の弁護士はバージニア州弁護士協会にこの反トラスト法違反について説明して、そのようなRFPを撤退させるように、バージニア州弁護士協会に頼みこんだ(コピーを同封)。

Seven weeks later, we received a response from the Virginia Attorney General's office, expressing the opinion that the Bar's plans do not violate the antitrust laws (copy enclosed).

7週間後に、弁護士会の処置は反トラスト法違反にはならないということを表明しているバージニア州司法長官の事務所から返事を受け取った(コピーを同封)。

We disagree with the findings of the Attorney General, for the reasons set out below.

以下に述べる理由から、司法長官による意見には賛成できない。

For fourteen years, Geronimo has produced a Virginia-specific computerized legal research system, "CaseFinderR," widely used throughout the Commonwealth.

14年間の間、ゲロニモは「判例の検索システムケースファインダーR」をコンピューターによる法律の検索システムとしてバージニア独自で作成して、バージニア州のなかで広く使用されてきた。

It is our only product; Virginia is our only market.

それはバージニア州だけのものであり、バージニア州のみが市場である。

CaseFinder provides an economical alternative for Virginia attorneys who do not need access to the huge databases contained in Lexis and WestLaw.

判例の検索システムケースファインダーRはバージニア州の法律家にとっては経済的な代替的な商品を供給している。但し、レクシスや西部の法律に含まれるような巨大なデータベースへのアクセスが必要ではない法律家にとってはである。

Those giants own the "premium" market segment; we compete with others in a "Virginia-specific" segment of the market.これらの巨大なデータベースは「増加分の」市場分野を有している。我々が競争しようとしているのは「バージニア州に特定」された市場の分野である。

The Bar intends to purchase one legal research system from one supplier and make that system available at no charge to every Bar member.

弁護士会は一つの供給者から、一つの法律的検索システムを購入するようにし、すべての弁護士会の会員に無料でこのシステムを利用できるようにするように意思決定をしているのである。

The proposed system will include fewer databases than Lexis or WestLaw, and thus will not be competitive in the premium market segment.

ここで提案されたシステムはレクシスや西部の法律よりもデータベースが少ない、したがってその増加分の市場の分野においては競争が存在していない。

However, the proposed system will contain almost every database that is in CaseFinder and will be in direct competition in the Virginia-specific market segment.

しかしながら、ケースファインダーのなかのデータベースとほとんど全く同じデータベースを提案されたシステムは含んでいるのであるから、バージニア州に特定された市場の分野においては直接的に競争的である。

But there will be no "competition."

だが「競争」は存在しないだろう。

The Bar's plan eliminates competition.

弁護士会のプランは競争を抹殺している。

Virtually every potential purchaser in the Virginia-specific segment of the market is a member of the Bar, so every one of them will receive the Bar's research system for free.

弁護士会の会員のみが実質的にはバージニア州の地理的に特定された市場における潜在的な購買者である。したがって弁護士会の会員のみが弁護士会の検索システムを無料で使用することができる。

CaseFinder is a good product, proven in a competitive marketplace for fourteen years, but neither Geronimo, nor anyone else, can compete with Zero.

14年間にもわたり、判例の検索システムケースファインダーRは競争的な市場の場において有利な商品であることが証明されているのに、ゲロニモも、他のどのような事業者も全く競争ができない。

Virginia attorneys are not regulated by any government agency; they regulate and govern themselves through the Virginia State Bar, an unincorporated association.

バージニア州弁護士協会は政府の機関によって統制されているのではない;法人として認可されていない協会であるバージニア州司法委員会を通じて自ら規制し、自ら統制している事業者団体である。

When the General Assembly and Supreme Court created the Virginia State Bar in 1938, they did not appoint any government officers to run the Bar.

1938年にバージニア州司法委員会を全体総会と最高裁判所が創ったときには、司法委員会の運営に政府の公務員があたるという規約は創らなかった。

Rather, the Bar was created as a democratic and representative association in which sovereignty was vested in the individual members.

Members of the Bar elect a representative body, the Bar Council, to whom they delegate their authority.

They are bound by the decisions made by a majority of those representatives.

When the Bar Council acts, it can only exercise the authority that the Bar members have delegated to it;

弁護士会が行動を行うことは、すべての弁護士会の会員が弁護士会への委任を行い、その権威によって行為を行うことが可能であるだけである。

it is exactly the same as if all 25,000 members of the Bar were sitting in one room, acting in concert.

それは明確に表現すれば25,000人の弁護士会の会員が一つの事務所を構えて、共同で行動を行っていることと同じようなものである。

As explained in greater detail in our lawyer's letter to the Bar, the goal of the antitrust laws is to promote competition.

我々の法律家が通知した弁護士会への文書に詳細に説明してある通りに、反トラスト法の目的は競争を促進することである。

When all of the buyers in a market, who ordinarily compete with one another, band together to buy collectively from one supplier at a set price, other suppliers are unable to compete and competition is destroyed.

ある市場における購買者すべてがある一つの供給者からある決められた価格で集団的に購入するように結束するならば、普通はお互いに競争するであろうのに、その他の供給者は競争することができず、競争は消滅してしまう。

As the U.S. Supreme Court has already held, the Bar constitutes a collection of lawyers who compete with one another, and any attempt to collectively fix prices is illegal.

合衆国最高裁判所がすでに判決を下している。弁護士会はお互いに競争すべき法律家たちの集団からなりたっている。したがって集団で価格を固定するのは違法であると。

The Commission warned in 1995 that "the involvement of the Virginia State Bar in certain commercial products and services places other vendors at a competitive disadvantage due to the mandatory nature of the Bar's membership."

委員会は1995年にある種の商業上の製品やサービスにバージニア州の弁護士会が関わることによって「弁護士会が強制入会の性質を持っている故に、競争上の不利益を他の供給者たちに与える」ことになると警告した。

We urge the Commission to take what steps it can to alleviate the harm that may follow from the Bar's refusal to heed that warning.

その警告を聞き入れることを拒絶することから生ずるであろう害悪を取り去るために委員会はどのような手段を採るように指示すべきなのか、我々は委員会を強く促していく。

If we can assist the Commission in any way, do not hesitate to call upon us.

もし委員会に対し何らかの方法で助言ができるならば、我々は召喚されることにはやぶさかではない。

Sincerely,

敬具

O. R. Armstrong  President

O・Rアームストロング 代表

Elizabeth J. Oyster  Vice-President

エリザベス・j・オイスター 副代表」

以上は、強制入会制度の下における競争の問題である。

次の事例はまたちがっている。

By Michele Derus マイケル・デルス

Milwaukee Journal Sentinel

ミルウォーキー・ジャーナルの特派員

RISMEDIA, Dec. 23 ? (KRT) ?

Wisconsin could become a test case of whether one of the nation's most powerful trade groups -- Realtors -- can require membership in its local, state and national affiliates to access its Multiple Listing Service databank of houses for sale and sold.

ウイスコンシン州は不動産業者という国家の中で最も有力な事業者団体が地方の、州の、国の加入会員が不動産売買情報のデータベースサービス、マルティプル・リスト・サービスにアクセスするためには入会を必要とするのかどうかについてのテストケースになりそうである。

At stake are "hundreds of millions of dollars" in annual dues paid to the National Association of Realtors, its state and local chapters, said San Francisco antitrust attorney David Barry.

問題とされているのは、国の宅建業協会や、州や地方支部へ支払われている「何億ドル」の年間の会費であるとサンフランシスコ反トラスト法司法長官デイビッド・バリーは述べている。

Barry represents Realtor Jay Reifert of Excel-Exclusive Buyer Agency in Madison, who late Tuesday sued the Realtors Association of South Central Wisconsin Inc. and its Multiple Listing Service affiliate in Madison's U.S. District Court for alleged antitrust violations.

サンフランシスコの反トラスト法司法長官バリーはマディソンの非常に支配力のある購買販売業者のジェイ・レイファートという不動産業者を代表して、昨火曜日に南中央ウィスコンシン宅建協会およびその不動産リストサービス会社を相手に反トラスト法違反行為であるとして訴訟をマディソンの合衆国地方裁判所に起こした。

The lawsuit challenges a longtime Realtor tradition: Buy trade group membership and get permission to tap into the Multiple Listing Service's detailed data on homes sold and listed for sale.

この訴訟は古くからの不動産業者の慣習の正当性に疑問を投げかけるものである。事業者団体に入会する権利を買い、販売された家屋の詳細データと、これから売りに出されている家屋のリストをもつ不動産リストサービス会社を有効に活用する許可をえるということについての疑問である。

The suit seeks class-action status on behalf of the estimated 3,000 Realtor members in that trade group chapter and up to $15 million in damages.

この訴訟ではこの事業者団体の支部のおおよそ3,000の不動産業者の会員をクラス(同一利益階層)として代表して訴訟が提起される。その損害賠償請求金額は15,000,000ドルにのぼる。

・ ・・・・・

Even if his side loses -- and Holmen is adamant that it won't -- the association attorney said his clients are confident most members won't bolt.

たとえ彼の側の当事者が負けたとしても、事業者団体の法律顧問ホルマン氏は絶対に負けるようなことはありえないと強く述べているが、その場合でも法律相談者のほとんどの会員は脱会しないと自信を持って言いはなった。

"There was no major exodus" in the four states where mandatory membership was outlawed, Holmen said.

強制的入会が法律違反であるとされている4つの州においても、「大量の離脱者はいない。」とホルマンは述べた。

 

 強制入会制度にするかどうかの境界はいかなるところに求められるのか。

 まず弁護士会がいかなる理由で強制入会になっているのかを考察する。

 宅建業界を強制入会を合法としているということは事業者団体に平等に扱えという法律を課している州であるということになる。つまり入会の拒絶を共同ボイコットとして違法としている州が46州あるということである。

 一方では強制入会制度を採用していない州においてはノースウェスト判決を使用することによって、入会の拒絶を当然違法の原則によって場合、場合によって決定していこうということである。

 一方では強制入会制度をとるにしても多くの独占禁止法違反行為は行われうる。強制入会させることによって、多くの入会金を取り念書をとった上で、カルテルを助長することがないようにする目的で、そのような傾向がある弁護士会のような価格固定の業界ではないということを知らしめるために、スーパーマーケット事件のような安売り業者や、日本でいえば仲介料をとらないエイブルのような業者を助長するために強制入会を合法ではないとしている州が4州あるようである。

 この場合には強制入会ではない方がより競争制限的ではないという結論になっていると考えることができる。

 一方強制入会を合法としている州はドイツ法において法定をして入会の禁止を認めているのと同じ理由によるものであると考えることができる。この場合の方が一般的であり、自由競争ができないと考えるのが妥当であり、先に述べたような合意判決のようにあまりに高くない入会金や、モラトリアムをなくすならば強制入会は妥当な競争法上の法的結論といえる。

 このようにアメリカでも不動産業者について4州が法的に違った規定を持っているということは、反トラスト法上の市場支配力や市場割り当てを可能にするような特別なアクセス権があるかないかによって、ノースウェスト判決に出てくるような憲法上の判断が違ってくるということを示している。

 ノースウェスト判決の最高裁判所判決としての優越性はここにある。この事件の場合にもノースウェスト判決は使用可能であるということになるし、同様の理論はドイツ法の理論も使えることになる。やはり地方裁判所の段階の論理をここに持ち出すと理論が混乱することになる。

The Alaska Bar Association is a Mandatory Bar

アラスカの弁護士会は強制入会の弁護士会である。

We provide services in the following areas:

当会は次の分野のサービスを提供している

Admissions & Licensing, including information about member demographics

会員の数の情報を含む入会と免許、

Ethics & Discipline

倫理と研修

Continuing Legal Education Programs & Annual Conventions

継続的法律教育プログラムと年次総会

Lawyer Referral Service

法律家の関係するサービス

Substantive Law Sections & Committees

主な法律の分野およびそれに関する委員会

Information for the Public: including information about complaints against attorneys

公共に対する情報の提供:弁護士に対する紛議に関する情報を含む

For more information, use the menus above or the Quick Links to the left to access the area you need.

もっと情報がほしい場合には、上記のメニューを使い、左の必要なリンクにアクセスすること

If you can't find what you are looking for, please contact us at info@alaskabar.org.

もし検索ができない場合には、info@alaskabar.orgにメールをして下さい。

・・・・・

 インテリアー・デザイナー業界における強制的ではない事業者団体

To be eligible to take the exam, an applicant must have at least 6 years of combined education and experience in interior design, of which at least 2 years constitute postsecondary education in design.

Because registration or licensure is not mandatory in all States, membership in a professional association is an indication of an interior designer’s qualifications and professional standing?and can aid in obtaining clients.

In fashion design, employers seek individuals with a 2- or 4-year degree who are knowledgeable in the areas of textiles, fabrics, and ornamentation, and about trends in the fashion world. Set and exhibit designers typically have college degrees in design. A Master of Fine Arts degree from an accredited university program further establishes one’s design credentials.

For set designers, membership in the United Scenic Artists, Local 829, is recognized nationally as the attainment of professional standing in the field.

Technologist member

Technologist membership has been created for any qualified healthcare professional who works as a nuclear medicine technologist. To apply for technologist membership, it is mandatory to provide a certificate from a senior EANM member.

 

Technologists have the possibility to apply for membership including and excluding the receipt of the monthly issue of the European Journal of Nuclear Medicine and Molecular Imaging (EJNMMI)

Society member

society membership is open to National Societies, or in the absence of such a society, by the official section of Nuclear Medicine, recognized by the Council of Europe. Society membership entitles two ordinary members of the country to voting rights at the Delegates Assembly.

 要するに、人間は自由である。

から取引拒絶を当然違法とは考えることはできない。

 入る側からは入りたいというであろう。

入会を拒絶する側からもである。できるだけ分け前を多くしておきたいからである。

 ところが入漁料という考え方がある。

 分け前をもらうまえに、入漁権というものがあるという考え方である。

 これは独占禁止法反対思想では活きている。

 

 団体を強制入会にするか、協同組合のように反強制団体にするか、株式会社のように任意団体にするかは政府の政策による。

 そこに独占禁止法反対思想と独占禁止法独自の思想との両方が入ってくることがある。

 ここでは独占禁止法上の事業者および事業者団体において強制入会制度を採用するか、任意入会制度をとっても強制入会が個別的に認められるべきなのはどのような場合かを考察する。

 強制入会制度のメリット

 国家におけると同様に信条の自由が守られる。

会員は平等にアクセスができる

 会員の間に市場支配力が発生しにくい

 デメリット

  強制入会制度であるので、合意が成立しやすく、

  価格固定が容易にできる。

  このためにアメリカ医師会事件や、アメリカの弁護士協会事件が起こった。資格者団体の事業者団体にも独占禁止法上違反があるかどうかが考察されるようになった。

 任意入会制度のメリット

  価格固定のための排除が行われやすい

  平等ではないアクセスについては独占禁止法により差止が裁判所か、政府によって命令的に強制されなくてはならない。この場合には強制入会が個別的に行われることになる。

  また市場支配力を持つ事業者および事業者団体そのものがその市場支配力を維持するために、弱小の個別企業に対して公正競争阻害の行為を行うことが考えられる。この場合には強制入会が個別的に行われることになる。

  

 さて独占禁止法違反行為は差止が可能である。

 

 但し強制入会制度を採用された場合中央集権が可能であるという側面もある。

On 3 May 1997 President Lukashenka issued Decree No. 12 ''On Several Measures on Improving the Practice of Lawyers and Notaries in the Republic of Belarus''.

「ベラルーシ共和国の法律家と公証人の業務の改善のためのいくらかの方策について」という12番目の命令を1997年5月3日にルカシェンカ大統領は発した。

The decree introduced severe restrictions on the independence of lawyers from the executive power by appointing the Ministry of Justice in charge of licencing lawyers and by introducing mandatory membership of all lawyers in a centralized system of lawyers collegia (state association of lawyers), whose activities are controlled by the Ministry of Justice.

この決定は法律家に免許を与えることを管理している司法長官の任命権によって行政権からの法律家の独立性に厳しい制限を加えた。また司法長官によって活動が統制される中央集権化された法律家の教会(国の法律家協会)のシステムにすべての法律家を強制的に入会させる制度を導入したので、法律家の行政権力からの独立に厳しい制限を加えた。

A number of human rights lawyers in Belarus have already lost their licences on charges such as, ''violation of the professional ethics'', and about 50 other lawyers have not been granted membership in the collegia and therefore are not allowed to practice law.

「職業上の倫理違反」があるという理由付の罪でベラルーシの人権派弁護士にはすでに免許を取り消されたものもいた。またその他にも約50人の弁護士も教会への入会を許されずそれ故に法律家の事業を行うことが許されなかった。

This decree violates a number of Constitutional articles.

この命令は憲法の条文のいくつかを侵していた。

It posed further restrictions on the access to legal assistance for detainees and accused persons (Article 62 of the Constitution) because the authorities in a number of cases stripped defence lawyers of their licence in the course of criminal cases and deprived the detainees from access to a lawyer of their own choice.

権力側は多くの事件で刑法犯の事件の場合では弁護している法律家の免許を奪っていたし、また被疑者が自ら選んだ法律家へのアクセスを奪っていたので、(憲法第62条)の抑留者および被疑者の法律的な支援を受ける権利を非常に制限していた。

One such example is the case of the Russian journalist Pavel Sheremet, adopted by Amnesty International as a prisoner of conscience.

良心の囚人としてアムネスティーインターナショナルによって指名されたパーベル・シェレメットのロシア人ジャーナリストのケースもそれと同じケースである。

AI Index: EUR 49/013/1998 30 November 1998 E-mail this page Printer friendly PDF

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 このような中央集権的な信条の自由の問題ではないが、合理(理由)の原則における理由において信条の自由によることは憲法違反であるとの原則を確立することは非常に意義深い。

しかしながら、営業の自由の問題としては憲法の問題ではなくて独占禁止法独自の思想によってバージニア州の最高裁判所の意見は次の通りである。

Below are pages 82 through 84 of the Joint Legislative Audit and Review Commission of the Virginia General Assembly Review of the Virginia State Bar, Senate Document 15 (1996 Session).

バージニア州一般議会の合同の法的監査と報告委員会による「バージニア州司法委員会会報」の82から84頁は以下の通り。

Click here for the full report.

完全な報告はここをクリック

EXPANSION OF VSB COMMERCIAL ACTIVITIES RAISES CONCERNS

バージニア州弁護士協会が商業的行為を拡大することは次の注意が必要である

The Bar’s growth has included the adoption of several commercial activities.

 弁護士会が発展するにつれて、いくつかの商業上の活動の選定に関与してきた。

These activities appear to be within the Bar’s authority as specified in Court Rules.

 これらの活動は裁判所規則により特定された弁護士会の権威の範囲内にあるようにみえる。

Nevertheless, VSB involvement in commercial activities is unusual for a State agency, particularly a professional regulatory agency.

しかしながら、バージニア州弁護士協会の商業活動への関与は、特に一専門職業家を規制する機関としての州の機関としては一般的ではない。

This makes it difficult to compare its performance with other professional and occupational regulatory agencies in Virginia.

このことによってバージニア州弁護士協会の行動とバージニア州の他の専門職業家や職業を規制する機関との比較を困難にする。

This expanded focus on commercial activities by the Bar creates the potential for conflicts, especially with respect to its regulatory functions.

弁護士会による商業上の活動に広く焦点を当てると、紛争の可能性があり、特に弁護士会の規制上の機能に関連して紛争の可能性がある。

Over time, the Supreme Court may find even greater difficulty in identifying the proper role of the Bar as an administrative agency of the Supreme Court due to its commercial relationships and the reluctance of members to relinquish the Bar’s role in providing these services.

これらのサービスを供給する場合において弁護士会が関与をしないことについておよび一部会員はその意志(信条)によって関与をしたがらないことがあるのであるから、最高裁判所により統制されている一機関として弁護士会の正しい役割を認識することは最高裁判所は商業上の関係に関連して長い間それよりも更に難しい難題であると見ている。

Review of the Bar’s current involvement in the provision of commercial products and services raises several questions which the Supreme Court of Virginia and the General Assembly may wish to examine such as:

弁護士会が商業上の製品や、サービスの供給において現在のように関与することを深く考察すると、バージニア州の最高裁判所と一般議会は次のようなことを深く調査する必要があるといういくつかの疑問点を列挙している:

・ What is the impact of the Virginia State Bar’s involvement in the sponsorship, endorsement, and/or promotion of commercial products and services on its ability to carry out its regulatory activities?

バージニア州弁護士協会が商業上の製品やサービスのスポンサーや、保証や、あるいは促進に関与することにより職業規制上の活動を遂行する能力に対しての影響はどのようなものであるのか。

・ Should a professional regulatory State agency be involved in the sponsorship or endorsement of commercial products and services?

 専門職業家を規制する州の機関が商業上の製品やサービスのスポンサーになったり、保証をしたりすることに関与すべきであろうか。

・ Does the Virginia State Bar’s involvement in certain commercial products and services place other vendors at a competitive disadvantage due to the mandatory nature of the Bar’s membership?

弁護士会の強制入会の性格によってバージニア州弁護士会がある種の商業上の製品やサービスの取り扱いにおいて、他の供給者の競争上の地位に不利益を与えたか。

・ What potential conflicts of economic interest are present in allowing the VSB to continue to be involved in sponsoring or endorsing commercial products and services?

 バージニア州弁護士協会が商業上の製品やサービスのスポンサーになり、保証することになるように関与し続けることが許される上で、どのような経済的利益の対立が潜在的に存在しているのか。

Interviews with Bar officers and members indicated that few saw any potential conflicts in having the Bar involved in the provision of commercial products and services.

However, the JLARC(Joint Legislative Audit and Review Commission) survey of VSB members indicated that there was generally less support for these types of activities than Bar involvement in regulatory activities.

JLARC staff review of VSB involvement in commercial activities identified several which are unusual for State agency involvement.

These include: (1) endorsing computerized legal research services for members, (2) endorsing a professional liability insurance product, (3) sponsoring personal insurance products, and (4) sponsoring vendor displays and memento sales (the lawyers expo) at the VSB annual meeting.

These activities are non-regulatory and do not clearly support the agency’s regulatory mission.

これらの活動は職業活動の規制のためではなく、また明らかに機関の規制の任務に資するものではない。

Product sponsorship and endorsement by the VSB may also present a conflict of interest because the Bar has benefited monetarily from these arrangements.

またバージニア州弁護士協会が製品のスポンサーになったり、保証をしたりすることによって、これらの契約から金銭的な利益を受けることになるのであるから、利益の紛争が起こるかもしれない。

Given its status as a State agency with mandatory membership requirements, it may be unsuitable for the VSB to negotiate commercial contracts which contain agreements to provide access to the VSB members through its mailing list or guarantee marketing efforts which will be supported by the agency.

州の機関としての強制的入会制度によって要求される地位を考慮すれば、バージニア州弁護士協会はその名簿のリストによってダイレクトメールをすることによってバージニア州弁護士協会の会員にアクセスする方法を供給する合意を含むような商業上の契約交渉をバージニア州弁護士協会が行うことは好ましくないであろう。あるいは機関決定によって市場の努力をサポートすることを保証することもバージニア州弁護士協会が行うことは好ましくないであろう。

This may disadvantage other commercial providers of these services and may be inconsistent with statutory and Supreme Court intent regarding the scope of the Bar’s activities.

この様な行為はそのようなサービスを供給する事業者に不利益を与えることになるであろうし、弁護士会の行為の射程に関する入会強制の法定化と最高裁判所の意図とに反することになるであろう。

Sponsorship of Computerized Legal Research Services May Be Unsuitable

法律判例コンピューター検索サービスのスポンサーになることは不適切である

The VSB became involved in sponsoring computer-assisted legal research services in January 1990.

バージニア州弁護士協会は1990年1月にコンピューターによる法律判例検索サービスのスポンサーとして関わるようになった。

Given its regulatory mission, VSB involvement in soliciting subscribers for these services does not appear suitable for a State agency for several reasons.

法規制上の特別任務からすれば、バージニア州弁護士協会がこれらのサービスの利用者を誘うことはいくつかの理由によって州の機関としては適切ではないように思われる。

First, it presents a potential conflict of interest for the VSB because: (1) the Virginia State Bar, as a state agency, benefits directly from soliciting these services by receiving commissions on services and products, (2) the Bar obtains free computerized legal research time for staff in its department of professional regulation, and (3) the seller of these products subsidizes a reception for Bar members at an official Bar function, its annual meeting.

第一の理由は、それによってバージニア州弁護士協会にとって潜在的な利益の衝突による紛争をもたらされる。その訳は(1)州の一機関としてのバージニア州弁護士協会はこれらのサービスを勧誘することから直接的にサービスと製品のコミッションを受け取るという形で利益が得られるからであり、(2)バージニア州弁護士協会は専門職業家の法的規制の部門においてスタッフが法律判例のコンピューターによる検索の機会を無料で得ることができるからであり、また(3)これらの製品の販売者は年一回の総会という公的な弁護士会の機関において弁護士会の会員のために接待されるという助成を受け取っていることになる。

In addition to potential conflicts of interest, other concerns with the Bar’s involvement in this type of commercial activity exist.

潜在的な利益の衝突による紛争に加えて、この種の商業的な行為にバージニア州弁護士協会が関わることは他の懸念も存在する。

The provision of these services has no direct link to the Bar’s central mission of regulating the legal profession.

これらのサービスの提供は法律的な職業を規制するという弁護士会の基本的使命とは直接的には関連性がない。

Involvement in selling products or soliciting customers for a private company by a State agency is unusual and raises potential issues regarding unfair competition.

州の機関が私的な事業者のために製品を販売したり、顧客を勧誘したりすることに関与することは普通ではなく、潜在的には不公平な競争を関わるという問題を含んでいる。

Moreover, the provision of the Bar’s mailing list for commercial purposes may also violate statutory intent regarding the use of this list.

In the early 1990s, the VSB entered into an agreement with a private company to begin offering a group discount for computerized legal research activities to its members (mostly those practicing in small firms or in solo practices).

In 1992, the VSB agreed to act as an authorized sales agent of this company with the right to solicit subscriptions to the company’s membership group program for providing computerassisted legal research and information retrieval services, and CD-ROM products licensed by another company.

The current agreement between the VSB and this company requires the VSB to ?assist....in soliciting third parties (?Subscribers?) to subscribe to the Services.?

Currently, the Bar receives a quarterly royalty payment of $1,200 plus an additional amount for each new subscription agreement and each CD-ROM product sold. The VSB receives $10 per each new sale, up to 120 sales per quarter. For each sale greater than 120 per quarter, the VSB receives $20. Table 18 illustrates the net program revenues received by the Bar for its program sponsorship over the past three fiscal years.

Table 18

Virginia State Bar Revenue and Expenditures

for the Computerized Legal Research Subscription Endorsement

Fiscal Year Program Receipts Paid to Company Amounts Received From Subscribers Commissions Net Program Revenues

1993 $216,624 $200,669 $18,054 $2,099

1994 $313,446 $285,749 $47,113 $19,416

1995 $156,042 $193,511 $34,354 $71,823

Total . . . . . . . . . $93,337

Source: Virginia State Bar, Summary Ledger, FY 1991 to FY 1995 and data provided by the fiscal department,November 28, 1995.

Exhibit 6 summarizes the VSB’s current obligations under its sponsorship agreement for these services and benefits it receives. As mentioned above, one of the Bar’s obligations is to make available four full sets of mailing labels per year. In addition,the Bar must undertake a number of promotional activities to solicit customers for theservice and its products.

In accepting this agreement, the VSB may have thwarted statutory intent regarding access to the Bar’s mailing list. The Code of Virginia states:

When requested, copies of the Virginia State Bar membership address list shall be made available to Virginia professional legal organizations which operate not for profit and which regularly conduct continuing legal education programs in the Commonwealth (‘59.4-3918).

This specific language limiting the availability of the VSB mailing list suggests that the General Assembly did not intend for the VSB to make the mailing list generally available to commercial entities for marketing purposes. However, one of the VSB’s current obligations under its sponsorship agreement for these services is to make available copies of the Bar’s mailing list.

市場開放と憲法の構成の問題

This report on Enhancing Market Openness through Regulatory Reform analyses the institutional set-up and use of policy instruments in Germany.

規制緩和による市場の開放性を高める為の報告書はドイツにおける憲法構成およびドイツにおける政策の手段の使用方法の分析を行っている。

It also includes the country-specific policy recommendations developed by the OECD during the review process.

The report was prepared for The OECD Review of Regulatory Reform in Germany published in July 2004.

これは2004年7月発行のドイツの規制改革のOECD報告書のために準備された報告書である。

The Review is one of a series of country reports carried out under the OECD’s Regulatory Reform Programme, in response to the 1997 mandate by OECD Ministers.

OECDの大臣によって1997年に命令されたものへの返事として、OECD規制緩和計画の下での国の報告書の一部である。

 このように命令はOECD規制緩和計画の一部でもある。

ドイツの動向

(6) Trade and industry associations or professional organisations as well as quality-mark associations shall not refuse to admit an undertaking if such refusal constitutes an objectively unjustified unequal treatment and would place the undertaking at an unfair competitive disadvantage.

この条文の本当の意味が今回の事件を最終的に決定づけるようである。

 そこでドイツの判例などを引用する。

「January 23, 2003

2003年1月23日

Bundeskartellamt imposes fines totalling more than 4 million Euro for inducing a boycott in the waste management sector

ドイツ連邦カルテル庁は、ゴミ処理事業におけるボイコットを行った罪で400万ユーロ以上の罰金を課した。

・・

This project immediately triggered massive resistance from DSD and the business circles supporting it.

この計画はすぐにDSDとDSDを支えていた事業上の集団からの集団的な抵抗を引き起こした。

According to the Bundeskartellamt’s findings

連邦カルテル庁が事実認定したところによると、

DSD initiated a call for a boycott which was carried out by Metro AG and the Confederation of German Trade Associations (BDH).

DSDはボイコットを呼びかけて、首都AGとドイツ事業者団体連合会BDHによってボイコットが実行された。

The Trade Mark Association also called for a boycott of Belland’s concept several times.

またベランドの名前の品質保証協会も何度もボイコットに刈りだされた。」

 ここで20条6項の品質保証協会が表面に出てくる。しかし21条が使われている。

May 11, 2004

2004年5月11日

Bundeskartellamt prohibits administrative district from calling for boycott and exerting illegal pressure (paper disposal)

連邦カルテル庁は、地方公共団体がボイコットをするように要求し、不法な圧力を行使していることを禁止した。(紙廃棄事業)

The President of the Bundeskartellamt, Ulf Boge, stated: ?In both cases grave violations of competition law occurred,

特にDSDが擬似独占的地位を占めていた故に、両事件において競争法に対する重大な違反が行われたと、ベーゲ連邦カルテル庁長官は説明した。

ドイツでは、  prohibit をカルテル庁の行政罰の場合には使用している。そして差止については injunctionを使っている。日本でもinjunction を取り入れた。ドイツでも他国のinjunctionについて述べてもいる。

Dr. Ulf Boge, President of the Bundeskartellamt.

Dr. Ulf Boge、ベーゲ博士 連邦カルテル長長官

In Boge’s opinion there is no need for any fundamental change in the legal framework.

ベーゲ(博士 連邦カルテル長長官)の意見では法的な枠組みは基本的には変える必要はない。

・・・

In order to expedite the implementation of decisions based on cartel law it would in his view be desirable for the legislator to declare injunctions to be immediately enforceable.

カルテル法に基づく決定の遂行を迅速化するためには、早急に強制可能な差止を法律家が宣言できるようにすることが望ましいという見解である。

第33条の条文

Whoever violates a provision of this Act or a decision taken by the cartel authority shall, if such provision or decision serves to protect another, be obliged vis-a-vis the other to refrain from such conduct この法律の規定あるいはカルテル庁の行った決定に違反するものは何人も、もしその規定あるいは決定が他のものを保護する必要がある場合には、他のものに対してその行為をしないように義務を与えることができる; if the violating party acted wilfully or negligently, it shall also be liable for the damages arising from the violation. 違反をしている当事者が故意または過失によって行為を行っている場合にはその違反によって生じた損害を賠償する責任がある。The claim for injunction may also be asserted by associations for the promotion of trade interests provided the association has legal capacity.また商業上の利益を促進するために、法律上の権利能力を有する組織であるならば権利能力のある組織によっても差止の請求は主張することが出来る。

ゴミ処理業事件における適用条文は

Section 1 Prohibition of Cartels.

Agreements between competing undertakings, decisions by associations of undertakings and concerted practices which have as their object or effect the prevention, restriction or distortion of competition shall be prohibited.

Section 21 Prohibition of Boycott and Other Restrictive Practices.

(1) Undertakings and associations of undertakings shall not request another undertaking or other associations of undertakings to refuse to sell or purchase, with the intention of unfairly harming certain undertakings.

Section 81 Provisions Concerning Administrative Fines.

(1)An administrative offence is committed by whoever wilfully or negligently

1. violates a provision in Sections 1, […] 21 […],

[...]

この条文を適用している。

しかしconcertedとrefuseとの両方の言葉が含まれており、ということはほとんど共同ボイコットとして違法としていることになる。この場合のボイコットを拒絶の意味に使うことは、ボイコット伯爵の語源からして正しいことである。

 この場合に21条の取引拒絶と、共同ボイコットとを同じ意味に用いていること、20条6項ではボイコットをrefuseとしており、事業者団体をconcertとしていないことがどのような意味を持っているのか。それはおそらく20条6項の個別企業の保護の場合にはおそらく個別企業の差止を使用するであろうが、ドイツにはそのような例が存在しないことが原因であろうと考える。残念ながらその例はアメリカのゼニス事件や、AMA事件の様な私訴の事件が発見できないし、ドイツの学者に問い合わせても答えがこないし、ドイツの大きな弁護士事務所のホームページにも書いていないことがいかにこの本件事件が私訴の原告による損害賠償請求事件として重要であるかがわかる。本件事件は損害賠償請求事件であり、罰金の事件ではないということが重要である。しかしカルテルが関係しているのである。

注:上記のDr. Ulf Boge, President of the Bundeskartellamtによる引用statesは次の文章による。

July 31, 2001

New Decision Division for electricity market

On 1 August 2001 the Bundeskartellamt as announced set up an 11th Decision Division. This will be responsible for enforcing the abuse and discrimination ban, guaranteeing access to the network and examining whether the fees for network use in the electricity sector are appropriate.

“With the new operational unit we are sending out a clear signal that we at the Bundeskartellamt will not limit ourselves to test cases but will also take up a greater number of individual cases. We want to make sure that the advantages of competition reach the consumer,” stated Dr. Ulf Boge, President of the Bundeskartellamt.

The 11th Decision Division is manned with six members of staff and is headed by Dr Markus Wagemann as its Chairman. Merger control will continue to fall under the 8th Decision Division which is responsible for this sector. In future this will be headed by the former Chairman of the 5th Decision Division, Mr Reinhard Vieth. Mr Vieth will take over the functions of Mr Klaus-Peter Schulz, who is moving to the Ministry of Economics and Technology. The 5th Decision Division will be headed by Mr Detlev Fehrmann.

In Boge’s opinion there is no need for any fundamental change in the legal framework. In order to expedite the implementation of decisions based on cartel law it would in his view be desirable for the legislator to declare injunctions to be immediately enforceable.

 差止の確認を先に行い、それをすぐに強制するようにするとしており、二段階で考えており、これは差止について確認と強制の方法という二段階に分解して理解している点で、伝統的なコモンローと、衡平法という二分法とは違った概念法学的な要素を持っているといえる。

 しかしそれにもかかわらず概念法学によってもan objectively unjustified unequal treatment and would place the undertaking at an unfair competitive disadvantageという中にunequal treatmentをやめさせる(妨害を排除する)という概念を挿入している以上英米法系の差止概念を導入しなくてはならなくなっていることについてはベーゼ氏がカルテル法に基づく決定の遂行を迅速化するためには、早急に強制可能な差止を法律家が宣言できるようにすることが望ましいという見解を述べるときには、衡平法の影響であろうか、差止や逮捕の概念が独占禁止法独自の思想として必要という見解をしぶしぶながらも認めざるをえなくなっているドイツカルテル庁の行政罰中心主義の考え方の限界を、省庁として認識しての発言であろうと考えることができる。

 確かにミルは自由論を書くときにドイツの事情も考量に入れたかもしれぬが、と同時に注意と、妨害排除を考慮する時には英米法を中心にものを考えていただろうことはその後のバーリンやマッカラムへの自由論の発展における傾向を観るならば容易に推論できることである。

 

 

自由競争の信条と、その行使行為は一体であるが、信条性は次の様な講演要旨によっても理解できる。本件事件は独占禁止法反対思想の強い、独占禁止法違反行為は正当な行為であるという信条の強い日本における信条の対立のあった日本での憲法違反事件としての事件である。

内部告発 司法取引 日本経団連 ビジネス性悪説 抑止 

本間忠良の「技術と競争」ワークショップ

論文とエッセイ(日本語) Theses and Essays (in Japanese)

仮想マガジン「インターネット評論」試作号(日本語)INTERNET REVIEW (Trial Issue) (in Japanese)

情報革命についてのエッセイとゴシップ(日本語) Essays and News on Information Revolution (in Japanese)

Theses and Essays (in English)

カルテルはなぜ悪いか−−独禁法「措置体系」の見直し(講演録 更新04-4-20)

本間忠良 講演暦 03.10.07 03.10.08 山口 神戸

1.カルテルと「措置体系」

2.カルテル正当化論

3.「不当利得」と「死重損失」

4.「措置体系」の見直し

5.私たちの内なるカルテル

1.カルテルと「措置体系」

今日はカルテルについて話しますが、法律用語はなるべく使わないように、私がもとそうであったビジネスマンの言葉で話します。私はこの「カルテルはなぜ悪いか」というテーマで話すのははじめてなので、論文の定跡として、まず標準的な教科書を調べてみましたが、日本の教科書ではほとんど扱われていませんでした。そのかわりアメリカの判例がおおいに参考になりました。発展途上のテーマということで、私の考えが不十分なところがあると思いますので、どうぞご叱正をお願いいたします。

カルテルというのは、事業者がほかの事業者と共同して、値段や数量や技術や取引先を制限するなど、お互いに事業活動の自由を拘束することによって、公共の利益に反して、市場での競争を実質的に制限することをいいます。ここで事業者といったのは個人も会社もふくみますし、事業活動をやっているかぎり、学校や医師や弁護士もふくみます。

カルテルの制圧は公正取引委員会のいちばん重要な仕事といっていいでしょう。年30件以上のカルテルを摘発していますが、そのなかで圧倒的に多いのが入札談合です。

事業者の疑わしい行為をみつけたら、公正取引委員会は、まず審査をおこないます。ここでカルテルと決定したら、その行為をやめるよう勧告します。事業者が勧告を応諾すると審決になります。事業者が応諾しないと審判に進みますが、ここでもカルテルと決定したら審決になります。審決に不服であれば、事業者は東京高裁に審決取消訴訟を提起することができます。

カルテルに対して、法はいろいろなアクション(「措置」)を用意しており、これらをまとめて−−役人言葉ですが−−「措置体系」といいます。

一定のカルテルに対しては、原則としてその商品やサービスの売上高の10%(中小企業は4%)を課徴金として徴収します。過去10年内累犯企業は5割増です。

とくに悪質な場合は、公正取引委員会が検察庁に刑事告発して、会社は罰金、役員や従業員は罰金または懲役刑に処されることがあります。

ほかに、カルテルの被害者である顧客から損害賠償を請求されたり、入札談合の場合は自治体から指名停止を受けたりすることもあります。

ところで、最近、日本経済が多少持ち直してきているらしいのですが、不況の最中より景気回復期のほうがカルテルや独占が進むといわれており、公正取引委員会は警戒を強めています。こういう状況のなかで、私がみすごしにできないと思っているのが、いわゆるカルテル正当化論の台頭です。

私が委員に就任した5年前当時は、「カルテルは悪いことなのだけど、生きていくためには仕方がない」という声がありました。それが年を追うごとに、「カルテルのどこが悪いんだ」という言い方に変わってきました。

先日、私の古い友人から、「市場原理なんてアメリカのビジネス・モデルの押しつけだ−−日本はまねをすることはない」といわれました。この人は私と同年で、お互い1960年代の安保騒動の中で社会主義の洗礼を受けてきた世代なのですが、中堅企業の社長で資本家になったいまも、アンチ市場原理つまり統制経済を夢みているので驚きました。

最近のカルテル正当化論やアンチ・グローバライゼーションの動きは、私たちが時代の大きな曲がり角にさしかかっていることを示唆しているようです。といっても、私たち実務家は、歴史的な感傷にふけっているわけにもいきません。代わりになるよりよい世界モデルが示されていない現在、私は市場原理を判断基準にしないわけにはいきません。

昨年は、東大の先生が不況カルテル是認論を書いたり、経済産業省の審議会が設備廃棄カルテルを擁護したり、カルテル正当化論が表面にでてきました。

日本経済のいちばんの弱点は、生産性が低いことです。日本経済が強くみえた1980年代ですら、労働生産性でも資本生産性でもアメリカに30-40%引き離されていました。土地バブルのおかげでそれが目立たなかっただけなのです。

私は、これらのカルテル正当化論が、結局、日本の低い生産性を長期化し、下手をすると永久化するのではないかという危惧を持っています。私のような老人にとっては気楽でいいのですが、子供たちをそんな停滞した社会の中で朽ちさせたくはありません。私は、一人の委員として、私たちの子供たちのために、この日本の現実をなんとか変えなくては−−公正取引委員会の力だけでできることではありませんが−−という使命感にとらわれています。

2.カルテル正当化論

まず、一般によくいわれるカルテル正当化論のうち、いくつか代表的なものを−−重複をいとわず−−ご紹介しましょう。カルテル正当化論は、米国法廷での100年におよぶ判例のなかで克服されてきたものです。しかし最初の3つはとくに日本で強く主張されることが多いようです。

・「痛み」緩和:景気はよくなったり悪くなったりします。景気が悪くなると、効率の悪い企業が倒産したりして、失業者や遊休設備が出ます。これに対して、カルテルによって倒産を避け、景気循環による失業や倒産の「痛み」を緩和する−−産業の退出にともなう社会的コストを節約する−−ことができるという考え方があります。不況カルテルや設備廃棄カルテルなどがそうですね。

反論:自分に何の責任もない景気変動のせいで失業するというのは、いくら資本主義の宿命とはいえ心から同情します。しかし、だからといって、カルテルで非効率企業の延命を図るのは、社会全体としては不合理で、景気回復を遅らせることになります。当人にとっても、むしろ苦痛を長引かせ、再起する機会を失わせることになります。

長年のサラリーマン体験から言うのですが、私だったら、生命維持装置で延命させられている非効率企業にしがみついて、年を取ってからリストラされるより、もっと若いときにやり直しのチャンスを与えてもらった方がよかったと思います。

一方、潜在的な生産資源−−とくに労働力−−を、遠からずかならず帰ってくる景気回復まで保存するため、いわゆるセーフティ・ネットを張っておくことは、政府の重要な責任です。

・生存権:公共事業のように、仕事が減ってきているのに供給者が多すぎる場合、希少なビジネス・チャンスを協調的に分配するシステムとして、カルテルを正当化しようという考え方があります。

反論:少ない仕事をカルテルで分配すると、分配にありついた少数の者はいいのですが、カルテルによって価格が上昇し、もともとすくなかった仕事の総量はさらに減ります。だからカルテルは必然的にボス支配になります。

もっとも、いくら非効率でも人には生きる権利があるという「正義論」からの正当化論は説得的ですが、カルテルではなく、政府のもうひとつの責任であるセーフティ・ネットで対応すべきです。

・対抗:上流や下流でカルテルや独占がある場合はカルテルが許されるという考え方があります。たとえば輸入カルテルに対抗する輸出カルテルや、巨大商社に対抗するための小規模生産者カルテルなどがそうですね。団体交渉的発想で、日本ではかなり人気のある考え方です。

反論:悪には悪をもって対抗するという考え方で、これでは市場全体がカルテルと対抗カルテルで埋め尽くされます。資本主義とはべつの世界モデル−−アナルコ・サンディカリズムの考え方ですね。現代資本主義の世界モデルでは、上流や下流のカルテルや独占を独占禁止法で規制するのが本筋です。

・規模の利益:これはカルテル正当化論というより独占正当化論ですね。両者は本質的には同じものです。個々の事業者が競争して足の引っぱり合いをするより、協調して事業をしたほうが大きな仕事ができるし、規模の利益でコストも安くなる、大きいことはいいことだという発想で、アメリカで主張されることが多いのです。

反論:事業体の規模の利益はある程度までで、それ以上はマイナスというのが現在の通説で、大企業はいま逆に軽量化・敏捷化に向かっています。

合併には弊害もあるかわり効率性メリット−−たとえば経営統合−−があるといわれますが、カルテルにはこれがありません。

・投資促進:これもアメリカの判例に出てくる正当化論です。競争市場では変動コストしか回収できません。だから、鉄道、電力、通信、航空など巨大な固定投資を要する事業では、カルテルによって固定投資の回収を保証しないと、投資がおこなわれないという考え方です。

反論:アメリカの初期の判例は鉄道の運賃カルテルでした。トランス・ミズーリ運賃協会事件では、鉄道が運賃協定をして、西部の小麦生産者から搾取しました。法廷はこの正当化論を認めませんでした。鉄道も通信も長期的には競争にさらされ、結果的には大きな革新につながっています。投資の促進は、カルテルではなく政府の役割りによるべきだと思います。

・公共目的:カルテルによって、環境破壊や風俗などへの望ましくない投資や過剰な投資を抑制できる、公共目的のためならカルテルも許されるという考え方があります。たとえば、商店街の開業協定、休日協定、医師会、弁護士会などがそうですね。

反論:望ましい、望ましくないとか公共目的をだれがきめるのでしょうか。実態は公共の利益の名にかくれた価格維持カルテルや参入障壁が多いのです。市場は失敗することもありますが、カルテルや政府の失敗は、権力が絡むだけに、市場の失敗より有害といわれています。

公共目的の共同行動は、真に公共目的のために必要で、ほかにより競争的な方法がない場合は「競争の実質的制限」にならない−−カルテルにならない−−可能性があります。これはグレー・ゾーンなので、ケース・バイ・ケースで公正取引委員会に相談していただきたいと思います。

・品質安定:カルテルによって品質維持が可能になり、顧客の安全をはかることができるという考え方があります。国際航空の運賃協定が例ですね。

反論:価格カルテルをしても、非価格競争が起こって結局は同じになります。国際航空でいうと、有名な「サンドイッチ戦争」というのがあります。1950年代、エコノミー・クラスの食事はサンドイッチまでという協定がありましたが、ステーキをパンのスライスで挟んだものを出すエアラインが続出したので、内容から寸法までこまかい協定をしました。一般に、規制やカルテルは、抜け道をふさぐためどんどんこまかくなります。

ほかに、価格が制限されると数量を増やすという抜け道があります。国際航空ではオーバー・スケジューリングがいい例ですね。半分空席で操業し、消費者にそのコストを負担させています。

・研究開発:これもカルテル正当化論というより独占正当化論です。製薬会社やマイクロソフトがよくいうのですが、価格競争をやると研究開発にまわす利益が出ないから、ある程度の競争制限には、独占禁止法は目をつぶってもらいたいという考え方です。なお、シュムペーターも同じ発想で、R&Dは主として大企業が担っているといっています。

反論:研究開発のインセンティブは特許制度の仕事です。ただ、特許権は技術思想の独占なので、濫用されないように独占禁止法が見張っています。研究開発だからカルテルをやってもいいというのは本末転倒です。現実にはすでに過保護の弊害が出ています。

また、シュムペーター説に対しては有力な反論があります。大企業は商品化は得意ですが、そのもととなった20世紀の最重要発明の3分の 2は個人によるという調査もあります。大企業のR&Dは防衛的/インテグレーター的といわれます。GE会長が自認しているのですが、歴史的にGEのドル箱だったトースター、電子レンジ、冷蔵庫、乾燥機、食器洗い機、掃除機、洗濯機、フリーザー、アイロン、スチーム・アイロンは、もともと小企業が開発したものをGEが商品化したものだそうです。

・芸術振興:芸術は人間の本性を超えた精神的所産−−温室の花−−なので、価格競争という雑草の中では育ちません。これが著作物再販制の根拠としてよくいわれることです。

反論:芸術創作のインセンティブは著作権制度の仕事です。ただ、著作権は情報の独占なので、濫用されないように独占禁止法が見張っています。情報の独占が行きすぎると芸術は衰退します。現実にはすでに過保護の弊害が出ています。つぎに挙げる2例は、業界のほうにも言い分があるでしょうから、競争原理を説明するための仮設例として聞いてください。

再販制をやっている書籍では、製品−−というのは本や雑誌ですが−−がどこへいっても同じだ−−画一化ということがよく指摘されます。一人のスーパー・スターを作って大宣伝で何百万部も売るという重い商売になっているようです。店頭の陳列枠を占拠するための過剰生産による無駄が30-40%にもおよぶ返品をもたらしています。共通コストが高いので、部数のすくない学術書などは、私が書くようなもので1冊8000円ぐらいします。とても学生に薦められません。大宣伝のコストを吸収するため高値をつけるから、読者はみんな図書館へ逃げます。これが市場原理です。買取り制の洋書はリスクがあるのでふつうの書店では嫌われ、日本人が外国語にアクセスするチャンスを狭めています。

音楽CDも、再販制のおかげで均衡価格が形成されず、世界一の高値で動きが取れなくなっているうちに、ネットやケータイやゲームなど隣接市場との競争に負けて、市場が年々縮小しています。そのうえ、政府の知的財産推進会議を動かしてCD輸入(禁止)権を創設するなど、国際市場からも断絶した音楽鎖国をめざしており、ますます自滅への道を走っているようです。アメリカでは、逆に、最近、トップ・シェアのユニバーサルが史上最大の値下げを敢行して反撃に転じています。これが市場原理です。

・不安定システム:カルテルは裏切りで自滅するから、あまり心配しなくてもいいという考え方があります。

反論:実態をみると、けっこう長続きしています(時には何十年も)。「囚人のジレンマ」的な均衡解がありそうです。

独占禁止法はカルテルを原則として禁止していますが、ほかの政策目的のために、例外的に独占禁止法の適用を除外することがあります。かつてはこの適用除外が非常に多くて、おそらくそのために日本ではカルテルに対する容認的な空気ができてしまったのでしょうが、過去10年、この適用除外を次々に廃止して、現在ではきわめてすくなくなっています。中小企業のための一定の組合や知的財産権の行使などがまだ残っています。

カルテルはなぜ悪いのでしょうか。法律違反だから悪いというのは答えになりません。先ほど申し上げたように、このテーマが日本の教科書ではほとんどとりあげられていないというのも、法律とは国家権力の命令だからいいも悪いもない、従わなければ罰するだけだというドイツ法学的な割り切りの影響ではないでしょうか。納得づくでやっている英米法はもっと親切で、この疑問にちゃんと答えてくれています。

「悪法も法なり」というソクラテスの言葉がありますが、独占禁止法や知的財産法のような経済法は、それを守る人の確信がないと、すぐ空文化するだけでなく、経済の発展を妨げます。もう一度聞きます。カルテルはなぜ悪いのでしょうか。

第1に、カルテルは顧客から盗む行為なので、道徳的に責められるべき行為です。

第2に、カルテルは社会に損失を与えます。泥棒の被害者は盗まれた人だけですが、カルテルは、直接の被害者のほかに、どこへもツケを回せない損失を社会に与えます。

第3に−−というより本当はこれが第1なのですが−−、カルテルは、なによりも自分自身をだめにします。

3.「不当利得」と「死重損失」

図の説明をします。まず「需要曲線」です。たいていの物は、供給数量を増やすと価格が下がり、供給数量を減らすと価格が上がるので、需要曲線は右下がりになります。

つぎに「供給曲線」です。これは1個よけいに作るときかかる原価のことで、操業度が高い場合は、原材料が枯渇してくる、残業料を払わなければならないなどの事情(収穫逓減の法則)で、生産数量が多くなるにつれて増加するので、右上がりの曲線になります(操業度が低い場合のことは忘れましょう)。

需要曲線と供給曲線が交わる点を「均衡点」といい、社会的な需要と供給がここで一致し、均衡数量と均衡価格が決まります。

ただこれでは追加した原価が回収できるだけで超過利益が出ないので(といっても平均では利益が出ているのですが・・)、これに不満な談合グループは、価格を「談合価格」まで吊りあげ、数量を「談合数量」まで減らします。したがって、黄色の面積だけ、消費者から供給者へ所得(厳密には余剰)が移転します。供給者が儲けただけ消費者が損をするのです。談合による供給者の「不当利得」ともいいます。

ほかに、明るい赤色の面積−−これを消費者余剰の損失といいます−−が出ます。つまり、本来ならば買えたはずのものが買えなかったことで、消費者が損失を受けるのです。たとえば、道路建設の例でいえば、入札談合で高値になったために道路建設が遅れ、それによって、青果物の流通が妨げられ、材料の搬入が遅れ、高速道路を通らざるを得なかったために物流費がかさむなどの社会的な損失が出ます。

暗い赤色の面積−−これを供給者余剰の損失といいます−−も出ます。つまり、本来ならば供給できたはずのものが供給できなかったことで、供給者も損失を受けるのです。たとえば、談合で高値になったために公共工事の予算がなくなり、仕事の総量が減り、失業が出ます。この点、談合をやると、ボスだけが儲けて、下位の業者の仕事がなくなるとさっき言いましたが、このことがよくわかりますね。カルテルは、消費者から盗んで業界の利益を図る行為だといわれますが、この言い方は褒めすぎで、じつは、業界にとっても自殺行為なのだということがわかります。

もうすこしすっきりした仮設例を考えましょう。パソコン・メーカーがカルテルをやって値段を吊り上げました。おかげで、均衡価格なら買えたはずの人が買えなくなり、均衡価格なら完売できたはずのメーカーが在庫の山になりました。カルテルのおかげで、人類の歴史とともにあった「海の幸」と「山の幸」のあいだの「交換の利益」が失われて、経済が原始時代以前に戻ってしまったのです。

明るい赤と暗い赤の両方あわせて「死重損失」といいます。社会がこれだけの損失を受けるのですが、この分は、さっきの「不当利得」と違って、だれも儲けてはいません。

いまの独占禁止法「措置体系」では、このうち「不当利得」を「課徴金」として回収しているだけで、「死重損失」はお目こぼしになっているのです。

4.「措置体系」の見直し

いまの「措置体系」ができてから四半世紀以上たって、いろいろな問題点がはっきりしてきました。

なによりも、カルテルや談合はすくなくなるどころか、摘発されたのはほんの氷山の一角だと思える徴候がいろいろあります。全国規模の会社がいくつかの都市で同じような手口の談合をしていれば、ほかの都市でもやっているな・・とだれでも思いますが、直接証拠がなければ立件できません。

大企業による累犯−−しかも確信犯−−のケースが多くなっています。1991年以後だけで、ある大手電機メーカーは談合3件(2件クロ審決、1件審判中)、別の大手電機メーカーは談合2件(クロ審決)、別の大手電機メーカーは談合2件(1件クロ審決、1件審判中)と、世界に進出している電機メーカーでこのありさまです。私はかつて世界に雄飛したことのある電機メーカーに勤めていた人間として、いま海外市場で次々に敗退して日本へ逃げ帰っている電機メーカーが、「貧すれば貪する」カルテル体質に陥っていることを残念に思います。重厚長大の重機、重化学や大手ゼネコンもおなじです。中堅専門メーカーでは1社で4件、5件というのが数業種で各数社あります。

国際カルテルが増えています。日本の一流企業十数社−−どういうわけか産業史的にドイツ起源の化学や製薬が多いのですが−−が米国や欧州で挙げられて、1社何十億円という罰金や制裁金を払っています。日本の消費者も被害を受けているかもしれないのですが、日本の国庫には1銭も返してくれませんでした。最新のニュースでは、ソルベートの国際カルテルが欧州委員会に挙げられ、ドイツのヘキストが百億円超、日本のダイセル化学、上野製薬、日本合成化学がそれぞれ十億円超の制裁金をかけられました。

手口が巧妙かつソフトになって露見しにくくなっています。これはあまり話すとノウハウを教えてしまうことになるのでやめますが、昔は血判状を作って熊野権現に奉納したりするので物証をあげやすかったのです。いまはそうはいきません。逆に書き物がなくなって、あまり厳密なコントロールができなくなったために、カルテルがソフト化しているのかもしれません。ただ、いくらソフトでもカルテルはカルテルです。

いまの「措置体系」にはカルテルから離脱するインセンティブがないので、全員がいやがっていても、言い出す人がいないため、カルテルが存続してしまうというジレンマ状態があり、供述書を読んでいて同情してしまうことがあります。

このへんで「措置体系」を見直して、あたらしい状況に適合させておかないと、日本の「失われた10年」が「失われた20年」になります。

このような観点から、公正取引委員会の諮問機関である独禁法研究会が、年来「措置体系」の見直しについて議論していたのですが、2003年10月末に報告書を発表しました。これにもとづいて公正取引委員会が独占禁止法改正法案を起案しましたが、経団連などの反対などで2年かかり、2005年4月20日やっと改正法が成立しました(施行2年以内に見直し−−ということは、賛成派・反対派とも今回の改正に不満ということ)。

まず課徴金制度です。さきほどのグラフでは黄色の「不当利得」部分がいまの課徴金にあたるのですが、さらに、赤い「死重損失」も社会に返してもらうよう、算定率をいままでの6%から10%に引き上げました。さらに累犯企業(ほとんど大企業)に対して加算制度(5割増)を導入しました。

課徴金の対象も、いままでは売値・数量カルテルだけだったのですが、今度は、シェア・カルテル、取引先制限カルテル、購入カルテル、さらには私的独占にまで広げました。

課徴金強化と表裏の関係にあるのが措置減免制度です。事業者がカルテルから離脱するインセンティブを与え、カルテルにシステミックな不安定性を導入するため、一定の法定要件−−みずから公正取引委員会に情報提供をおこない、自発的にカルテルから離脱する−−を満足する事業者の課徴金を免除ないし減額することにしました。

以上のふたつ−−課徴金の強化と措置減免制度−−が最大のポイントです、ほかに、審査・審判手続きの合理化など、手続きについての見直し点もありますが、こまかくなるのでここでは省略いたします。

改正法は、消費者、学界、言論界、産業界など各方面のオピニオン・リーダーからなる独禁法研究会の多数意見にもとづいていますが、いくつかのポイントについて批判−−とくに大企業グループからの−−がありました。

課徴金強化案に対しては、まず、近年のデフレで利益率が低下しているので、いまの6%でも高すぎだという批判がありました。

反論:カルテルによる「不当利得」だけでも平均16.5%にも達します。公取委は、カルテル事件では、いつも審査開始前後の価格を調べています。審査の前後で、大きいのでは60%も下がったというのもあります。「死重損失」もかなりの率に達します(図1参照)。

課徴金強化と罰金が並存するのは、憲法39条が禁じる同一の刑事犯罪に対する二重処罰にあたるという批判がありました。

反論:課徴金と罰金では法目的が全く違います。これは損害賠償や指名停止などとの関係についてもいえます。交通事故をおこすと、免停になったうえ罰金をとられ、場合によっては賠償金まで取られますが、これを憲法違反だというでしょうか。いずれにしても、これは法律問題なので、財界の素人論議ではなく、研究会の主要メンバーである法学者の意見を尊重しなければなりません。

措置減免制度案に対しては、これが仲間に対する裏切りをすすめることになって、日本人の国民感情に合わないという批判がありました。

反論:泥棒仲間の仁義を重んじて、被害者や社会のことをまったく考えないのが日本人でしょうか(ヤクザ社会?)。国際カルテルでは、すでに日本の会社数社がアメリカと欧州で減免措置を受けています。さっきのソルベートもチッソが減免を受けました。

また、誤解もあります。まず措置減免は内部告発の奨励ではありません。減免を受けるのは企業ですから・・。また措置減免は米国のような司法取引きではありません。公取委の裁量は全くはいらず、法定の要件が自動的に適用されるのですから・・。

上の批判の底流には、日本のカルテルは、たとえば官製談合にみられるように、日本の政治経済全体に刷り込まれた体質なので、課徴金だけ引き上げても効果がないという−−いわゆる「カルテルあきらめ論」があるように思われます。この程度の改正で2年もかかったのですから・・。

5.私たちの内なるカルテル

独占禁止法は不十分ながら一応改正されましたが、これがほんとうに日本の経済を活性化するかどうかは、私たちの「こころ」にかかっています。この点ではっきりいうなら、お客や社会のことはともかく、いちばん大切なのは自分と自分の家族の生活です。私がいちばん言いたいことは、カルテルが自分をだめにするということです。カルテルは市場をどんどん縮小してしまうのですが、それでも、談合メンバーを生かさぬよう殺さぬよう考えてくれるボスのおこぼれをたまにもらえるので、追い詰められることもなく、いつまでも談合に協力しています。カルテルは甘い習慣性の毒薬です。

日本のことを「カルテル列島」とか、日本の産業界のことを「カルテル友の会」と自嘲的にいう人もいます。つまり日本ではカルテルが悪いことだとは意識されていなくて、「寛容と協調」の精神にもとづく村の掟や商慣習のようなものになっているという−−ある意味でのカルテル正当化論ーーというかカルテルあきらめ論です。

仲間うちだけで「協調」して、ぬくぬくとやっていけるうちはそれでもいいのですが、寒い外には飢えた狼が生きるためのえさを求めてさまよっているのです。カルテルをしている業界では、技術や経営革新のインセンティブがはたらかないので、いつまでも非能率な状態を続け、さいごには外の狼−−他業種や外国−−にパクリと食べられてしまいます。だからカルテル業界は、参入障壁を作ることにいつも熱心です。参入障壁はカルテルの徴候のひとつです。

このへんで気持ちを引き締めて、ビジネスの本質が、自分と自分の家族の生存がかかった戦いなのだということを再確認しないと、子供たちに未来がありません。

公正取引委員会の委員などやっていると、ビジネスマンのいろいろな行動を見聞きすることがあります。ある入札談合事件では、談合にはいるよう誘われたのに、最後まで回答しないでいたため、入札当日になって談合不成立、たたき合いの中で安値で仕事をさらってしまった人がいました。皆さんは、この人をどう思いますか。

私は立派な人だと思います。はげしく自分の利益を追求しているのです。企業者(アントレプレナー)の鑑です。ただし、この人は今後業界ゴルフには誘ってもらえなくなるでしょうね。

昔は、グループにはいっていないと、いろいろな情報が与えられないということがありました。業界とか学会とかの存在理由がこれでしたね。しかしIT革命のおかげで情報へのアクセスが自由になり、一匹狼でも必要な情報がいくらでも手にはいる時代になっています。

Menschen ist dem Menschen Wolf.

人は人にとって狼である。仕事仲間(あなたのライバルですよ)より家族を大切にしてください。いちばん重要なアドバイスを最後に申し上げて今日の講演を終わらせていただきます。仕事仲間(あなたの敵ですよ)より家族を大切にしてください。ゴルフは家族と行きなさい。あなたを裏切らないのは家族だけですよ。ご静聴ありがとうございました。

 以上  本間氏の演説論文

 

これだけの法律の判決の情報と、上告人の長年にわたる研究からすれば、差止の法哲学上の内容が最も重要である。自由は妨害なしにのみ成立するから、ある自由のためにその自由の妨害をしないようにさせる行為、これが差止である。

 以下の文章は一部契約による差止も含まれており、公共の利益のために逮捕するというような状況を考えていないのではあるが、参考にはなる。これらの契約上の要件は独占禁止法上は必要ではないであろう。被上告人にカルテルの契約書があったことを要求する一審、二審の判決は逆のものを要求していることになる。そのような合意の証明は排除されるべき合意であり、本当の合意はカルテルは悪いことを理解していることの合意である。その合意を作らせるための差止でもある。緊急を要するのである。

What is an injunction?

差止とは何か。

An injunction is an order of a court requiring a person, corporation, or government entity to stop doing something and refrain from doing that thing in the future.

現在ある妨害行為をしないように、自然人や、事業者や、政府の主体にさせる裁判所の命令、また更に将来同じことをすることがないようにさせる裁判所の命令が差止である。

In relatively rare cases, the court may issue a "mandatory injunction", compelling a person, company, or governmental unit take affirmative action to do something.

比較的には滅多に起こらない事件の際にではあるが、裁判所は「命令的差止」を執行することがある。これは何かをするというある積極的行為を自然人や、事業体や、政府の法的主体に強制することである。

Injunctions historically are issued, only "when the remedy at law is inadequate".

差止は歴史的には「法律上の救済が不適切な場合」に限って執行される。

For example, suppose you own a home surrounded by 100 year old trees

例えば、周囲が100年の樹齢の古木に囲まれているある家屋を所有している場合に

and your neighbor claims the trees are on his property

隣家の住人がその古木が自分の財産の上にかぶさってきていると主張し

and is planning on cutting them down.

それらの古木を切り落とすと計画しているとしよう。

While the dispute is pending,

この論争が係争の中途である間には

the court might well issue an injunction preventing the neighbor from cutting down the trees

裁判所はそれらの古木を切り落とさないようにその隣家の住人にさせる差止を執行することが妥当であろう

until the matter is heard and completely resolved.

この事件が審理され、完全に解決されるまでの期間は。

Otherwise there could be irreparable harm to the land,

そうしなければ、土地に対して取り返しのつかない損害があるであろうし、

money damages could not replace the trees,

金銭による損害賠償金によってはそれらの古木を取り返すことはできないであろう。

and the damages you would be entitled to could be speculative.

また請求権のある損害賠償金の金額も推測的なものにならざるをえない。

Another example of when an injunction may be issued is in the case of an ongoing course of conduct that violates your rights.

また別の例では差止が執行される場合は、人の多くの権利が妨害され続けている場合の妨害行為が継続し続いており進行形である場合である。

For example, assume you own a Web site and another firm keeps on coming back and copying the material on your Web site in violation of copyright notices, no trespass notices, and contractual provisions.

例えば、ある企業がウェブサイトを所有しており、他の企業が進入し続けて、著作権に違反しているとの注意に違反して、あるいは不法進入をしないようにという注意にも違反して、また契約上の条文にも違反してそのウェブサイトの材料をコピーし続けている場合を想定しよう。

A court will issue an injunction to prevent that conduct from recurring.

裁判所はその行為が再度起こることがないように防止する差止を発行するであろう。

In fact, courts did exactly that to prevent others from improperly using portions of a site published by the creators of FreeAdvice.

事実、裁判所は過去に誠実に差止を執行した。フリーアドバイスの制作者が発行したウェブサイトの部分部分を不正に使用する行為をしないようにという差止であった。

What is the difference between a temporary restraining order, preliminary injunction, and permanent injunction?

一時的差止、仮の差止、および永久の差止の違いは何か。

A temporary restraining order is typically issued in circumstances where immediate action is called for.

即座の行為が必要である場合にだけ、特に一時的妨害排除の命令が執行される。

Courts often issue "TRO’s" based on affidavits from a person whose interests are about to be harmed.

裁判所はしばしばある人の利益がまさに侵害されている時に宣誓供述書に基づいて「一時的妨害排除の命令TRO’s」を頻繁に執行する。

For example, if you people with chainsaws are about to cut down your trees,

例えば、ある人が所有する木を誰かがのこぎりでまさに切ろうとしている時に、

the court would be in a hurry to act ,sometimes before giving the other side a chance to reply.

裁判所は他の当事者に返答の機会を与える前に緊急に行為する必要がある。

A preliminary injunction is usually issued only after the other side has been given an opportunity to reply and be heard, and has either consented to maintain the status quo or not made a sufficient showing to defeat the plaintiff’s claims.

A permanent injunction is typically issued after a full trial of the merits, or on the consent or default of the other side.

Why might a court refuse injunctive relief?

裁判所が差止の救済を拒否する理由はあるか。

Persons seeking injunctive relief typically have to show some sense of urgency in order for the court to act.

差止の救済を求めるものは、特に裁判所が執行するためのある意味での緊急性を示さなくてはならない。

If you were aware of circumstances for a while and did nothing about it, the court will be inclined to deny your request for injunctive relief. もしある期間差止が必要な状況を知っていたにもかかわらず、それに対して何もしなかったとするならば、裁判所は差止の救済の請求を否定するであろう。

In another words, if you unreasonably delay in asserting your claim,

他の言葉で言えば、自らの法的主張をすることが遅れたことがもし合理的理由がない場合には、

particularly where the delay has prejudiced the other party, the defense of "laches" is applicable.

特に遅滞が他の当事者の権利を害してきた場合には、「懈怠の原則」による防御は適用可能である。

注:「doctrine of laches 《法律》懈怠{けたい}の原則{げんそく}、消滅時効{しょうめつ じこう}の原則{げんそく}◆一定の期間、権利を行使できたにもかかわらず怠慢によってあえて行使しなかった場合、その権利は放棄されたものと見なされるという法原則の一つ」

本件の場合には消滅時効にはなっておらず、二審では仮処分が証拠を出さずに終わったのは、100%本案で勝つと思ったからである。共同ボイコットはガイドラインでは原則違法となっている。(注終わり)

The period of "laches" may be much shorter than the legal statute of limitations.

「懈怠の原則」の期間は消滅時効の法定の期間よりもずっと短い。

The court in each case will determine whether the delay was sufficiently long and sufficiently unreasonable for "laches" to be operable.

どの事件の場合でも、遅滞の期間が充分に長く、かつ「懈怠の原則」が適用できる程度に充分な非合理性があるかどうかを決定するであろう。

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但し、これは衡平法上の差止について述べており、独占禁止法上は差止は別の意味の制度であろう。いわゆる妨害排除の命令が緊急時に執行されるのである。

次の書物でも差止はほとんど稀な例であるといえ、今後は法哲学的な意味が重要である。

Part II Private Civil Actions

Sub Part A: Pretrial Techniques

20. Alternatives to Litigation

21. Antitrust Pleadings

22. Discovery in Antitrust Cases

23. Pretrial of Antitrust Cases

24. Criminal Rights in Civil Antitrust Litigation: Grand Jury Secrecy and the Right Against Self-Incrimination

反トラスト法紛争予防と訴訟対策

Antitrust Counseling and Litigation Techniques

Julian O. Kalinowski (Editor)

5 vols. Looseleaf. 1984 to date.(追録年2回)

Matthew Bender. ISBN:0820510270

\149,961

反トラスト法問題の第一線で活躍する50人以上の弁護士が、その予防法務と訴訟に関する戦術・法務情報を関連資料を交えながら提供する実践的・実務的解説書。

【主な内容】

○Counseling

社内弁護士と外部の弁護士との関係 / 州法規定 / 文書管理 / 規制当局のエンフォースメントと遵守 / コンプライアンスプログラム / 価格と設定に関する分析 / M&A / フランチャイズ / 販売権の終了 / ヘルスケア産業 / 知的財産権 / 国際訴訟/ 国際訴訟におけるディスカバリー手続 / 米国法の域外適用に関する外国企業の予防法務 / 標準設定 / 産業団体 / 非価格水平的制限 等

○Litigation

私訴、FTC等の規制当局による民事訴訟、刑事訴訟について、審理前、公判、救済などの各段階ごとに手続と戦略を詳解

【Table of Contents】

Part I Counseling

1. The Relationship Between Inside and Outside Counsel

2. State Antitrust Enforcement

3. Document Control

4. Government Enforcement: Complying With Government Requests for Information

5. Antitrust Compliance Programs

6. [Reserved]

7. A Counselor's Guide to Analyzing Price and Pricing Practices

8. Corporate Mergers and Acquisitions

9. Franchising: Antitrust Considerations

10. Terminating Distributor Relationships

11. How To Analyze Dual Distribution Problems

12. Health Care and Antitrust

13. The Interface Between Antitrust Principles and Those of Intellectual Property Law

14. Litigating International Antitrust Cases: The Practitioner's Viewpoint

15. International Discovery in Antitrust Litigation

16. Counseling the Foreign Multinational On United States Antitrust Law

17. Standard-Setting, Trade Associations and Antitrust Liability

18. Merger and Acquisition Antitrust Fundamentals: A Practical Guide

19. Nonprice Horizontal Restraints

Part II Private Civil Actions

Sub Part A: Pretrial Techniques

20. Alternatives to Litigation

21. Antitrust Pleadings

22. Discovery in Antitrust Cases

23. Pretrial of Antitrust Cases

24. Criminal Rights in Civil Antitrust Litigation: Grand Jury Secrecy and the Right Against Self-Incrimination

Sub Part B: Trial Techniques

25. The Motion to Strike the Jury Demand in a Complex Case

26. Trial Organization and Management

27. Jury Selection: The Rules and Practicalities

28. The Use of Behavioral Science in Antitrust Litigation

29. The Future of Demonstrative Exhibits in Antitrust Cases

30. Trial Consequences of Burden of Proof

31. Use of Depositions at Trial

32. Circumstantial Evidence

33. The ''Business Records'' Exception to the Hearsay Rule

34. Coconspirators' Statements and Other Extra-Judicial Admissions

35. Presenting Technological Evidence in Antitrust Cases

36. Economic Evidence and Economic Experts in Antitrust Litigation

36A. The Use of Economists in Antitrust Litigation: Economist's Perspective

37. The Use of Experts in Antitrust Litigation

38. Cross-Examination 1.

39. The Use of State-of-the-Art Technology in Antitrust Litigation

40. Judgment as a Matter of Law in Jury Trials and Judgment on Partial Findings in Court Trials

Sub Part C: Remedies

41. [Reserved]

42. Antitrust Damages

Part III Government Civil Actions

Sub Part A: Enforcement by the Antitrust Division

43. [Reserved]

44. Civil Investigative Demands

45. Consent Judgments

46. [Reserved]

47. Defending Against a Government Motion for a Preliminary Injunction: A Case Study

Sub Part B: Federal Trade Commission Proceedings

48. Federal Trade Commission Investigations

49. FTC Non-Adjudicative Proceedings: Consent Order Proceedings and Rulemaking

50. Federal Trade Commission Antitrust Adjudicative Enforcement Proceedings

51. The FTC As a Federal Court Litigant

Part IV

Criminal Actions

Sub Part A: Introduction

52. Introduction to Criminal Antitrust Litigation

Sub Part B: The Investigation

53. Responding to a Grand Jury Investigation

54. Responding to a Subpoena Duces Tecum

55. Defending a Subject or Target of an Antitrust Grand Jury Investigation

56. Counseling the Antitrust Grand Jury Witness

57. Special Problems in Representing an Individual During an Antitrust Grand Jury Investigation

Sub Part C: Pretrial Procedure

58. Motion Practice During an Antitrust Grand Jury Investigation

59. Defense of a Criminal Case: Post-Indictment Pretrial Procedure

60. Defense of a Criminal Antitrust Case -- Discovery

Sub Part D: The Trial

61. Multiple Representation in a Criminal Trial

62. The Criminal Antitrust Trial

63-64 [Reserved]

Sub Part E: Post-Trial Procedures

65. Sentencing

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(14)

平成17年6月15日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

日本の最高裁判所の下にある裁判所は「命令的差止」を行うことができるのかについては次の判例がある。

「事件番号:昭和55年(オ)第1188号

事件名 :反論文掲載請求事件 裁判所 :最高裁判所第2小法廷

判決日 : 昭和62年4月24日

判決

所論のような反論文掲載請求権は、相手方に対して、自己の請求する一定の作為を求めるものであつて、単なる不作為を求めるものではなく、不作為請求を実効あらしめるために必要な限度での作為請求の範囲をも超えるものであり、民法七二三条により名誉回復処分又は差止の請求権の認められる場合があることをもつて、所論のような反論文掲載請求権を認めるべき実定法上の根拠とすることはできない。」

つまり、日本の判例は不作為請求を実効あらしめるために必要な限度での作為請求の範囲では相手方に対して、自己の請求する一定の作為を求めることは可能であるとしているといえる。

日本においても、ドイツの法定違法や、本件の場合には入会拒絶による取引の拒絶を妨害として、妨害排除の請求権を行使する目的で、その行為を禁止するだけではなく、入会を強制する強制的差止命令は「適用範囲が広すぎるということはない。」といえるのであり、それを認めなかった本件判決は法令の解釈に違法がある。

更には「不作為請求を実効あらしめるために必要な限度での作為請求の範囲をも超える」ものではなく、取引拒絶というものをさせることをするなという不作為請求を実効あらしめるための作為請求であり、その範囲を超えるものではない。

特に本件では実定法上の法定が差止について定められているのであるから、尚更可能であるということになり、上記判例に違背し、判例違反である。

その他の判例について、

事件番号:平成13年(受)第866号、平成13年(受)第867号

事件名 :製作販売差止等請求事件

裁判所 :最高裁判所第2小法廷

判決日 : 平成16年2月13日 (2004-02-13)

判示事項:

競走馬の所有者が当該競走馬の名称を無断で利用したゲームソフトを製作、販売した業者に対しいわゆる物のパブリシティ権の侵害を理由として当該ゲームソフトの製作、販売等の差止請求又は不法行為に基づく損害賠償請求をすることの可否

「上記各法律の趣旨,目的にかんがみると,競走馬の名称等が顧客吸引力を有するとしても,物の無体物としての面の利用の一態様である競走馬の名称等の使用につき,法令等の根拠もなく競走馬の所有者に対し排他的な使用権等を認めることは相当ではなく,また,競走馬の名称等の無断利用行為に関する不法行為の成否については,違法とされる行為の範囲,態様等が法令等により明確になっているとはいえない現時点において,これを肯定することはできないものというべきである。したがって,本件において,差止め又は不法行為の成立を肯定することはできない。」

「なお,原判決が説示するような競走馬の名称等の使用料の支払を内容とする契約が締結された実例があるとしても,それらの契約締結は,紛争をあらかじめ回避して円滑に事業を遂行するためなど,様々な目的で行われることがあり得るのであり,上記のような契約締結の実例があることを理由として,競走馬の所有者が競走馬の名称等が有する経済的価値を独占的に利用することができることを承認する社会的慣習又は慣習法が存在するとまでいうことはできない。

以上によれば,1審原告らは,1審被告に対し,差止請求権はもとより,損害賠償請求権を有するものということはできない。」

 契約の慣習法による成立は、株主(所有者)による差止請求権の場合と同様に、例えば本件事件においては埼玉県において賃借権あるいは所有権による営業登録を行っているのであるから、そこで営業を行う権利を持っているという慣習法上の権利を認め、その権利による妨害排除の請求権を認めるという法学的なフィクションを構築するのも一つの法学上の論理構成である。

 これが、先に述べた通りに私の実家である薬局や、不動産業や、浴場業においては特に判例が存在する理由といえる。しかし魚販売業におけるように遠くの遠洋漁業のような船で捕れた魚の方が安く手に入るというように商品の方に遠くからの代替品がある場合には、また木材のように外材の場合の方が安くいい木材が手に入るというような場合には、そちらの方からの制約がなく、顧客が容易に手に入るという場合には共同のボイコットが成立しにくい。しかし本件事件においては埼玉県に所在する不動産の鑑定評価においては埼玉県に所在する不動産の取引事例や賃貸事例を採用して鑑定評価を行うしか方法はなく、それに対するアクセスが競争的に制約されている状況においては、まさか他の県の不動産の取引事例との比較(比準)を行うわけにもいかず、やはり所有権と深く関わっているというので妨害排除の請求権と同様の妨害排除の権利が、自由競争という法の趣旨に限定して、考察されているのが独占禁止法上であるといいうる。

 先のバージニア州弁護士協会が商業的な活動を強制的な団体であるにもかかわらず援助することの独占禁止法上の適否の問題は、取引事例と判例との差によって、またそれとMLとの差によっても独占禁止法上の問題となっている。取引事例は必須的であり、公共性がなく個人の情報であり、ハイエクのいう個別的な位置情報の経済的な価値であり一個、一個の土地に特定された個別性から発生する価値情報である。一方アメリカの事業者団体のMLやアットホームの毎促情報はこれから売りに出されている家屋のリストでありいくらの価値があるのかは、これから決定されていくものであり、これまで売れた情報である確定情報である取引事例とは異なっているのであり、必須的な特定情報である。それなくしては不動産鑑定士は生活ができない。一方の判例法主義の国における判例は、成文法主義の国における法定された制定法と同じく法文と同様の価値を持っている。

 この論拠は経済法の法哲学的な定義からくるものであるからこそ、営業権に関する憲法の規定との関連で、憲法問題ともなりうるのであって、この故にこそより競争制限的ではない代替的な手段によって解決がつく場合にはそちらを考慮した上で行為をなさない限りは違憲であるという法理が成立するのである。

しかし本件事件の場合、法令に根拠がある。

「事件番号:平成4年(オ)第1180号

事件名 :福岡空港夜間飛行禁止等請求事件

裁判所 :最高裁判所第1小法廷

判決日 : 平成6年1月20日 (1994-01-20)

判示事項:

民事上の請求として運輸大臣の設置管理に係る第二種空港を民間航空機の離着陸に使用させることの差止めを求める訴えの適否

判決要旨:

民事上の請求として、運輸大臣が設置し、管理する空港設備法二条一項二号所定の第二種空港を民間航空機の離着陸に使用させることの差止めを求める訴えは、不適法である。」

「事件番号:昭和57年(オ)第902号

事件名 :自衛隊らによる合祀手続きの取消等請求事件

裁判所 :最高裁判所

判決日 : 昭和63年6月1日 (1988-06-01)

判決要旨:

閲覧させるなどした行為は、宗教とのかかわり合いが間接的で、職員の宗教的意識もどちらかといえば希薄であり、その行為の態様からして国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こし、あるいはこれを援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加える効果をもつものと一般人から評価される行為とは認められず、憲法20条3項にいう宗教的活動に当たらない。」

 以上は行為の作為請求の憲法上の規定の違憲性の有無であるが、小泉純一郎に対する不作為請求としての差止については次の通りである。

「事件番号:平成13年(ワ)第11468号の1

事件名 :靖国参拝違憲確認等請求事件

裁判所 :大阪地方裁判所

判決日 : 平成16年2月27日 (2004-02-27)

判示事項:

1 内閣総理大臣である小泉純一郎が平成13年8月13日に靖國神社を参拝した行為は、内閣総理大臣としての資格による参拝であって、国賠法1条1項の「職務を行うについて」した行為にあたり、また憲法20条3項の「国及びその機関」の活動にもあたるとされた事例

2 小泉純一郎が靖國神社を参拝した行為によって原告らの法的利益が侵害されたとは認められないとされた事例」

この事件においては被告、原告ともに差止の概念を使用している。この場合に差止は不作為請求であり、強制的にある行為をやめさせることを憲法が予定していて、直接的に憲法適用が可能かどうかという問題に帰着する。この際に「原告らの法的利益が侵害されたとは認められない」としたことは妥当ではなく、公共の利益に関する国家論の問題として解決すべく国家論を整備すべきであっただろう。こういうと統治行為であるから何してもいいんだ、国民から間接選挙により委任されているからという全体主義に陥りそうであるがそうではなくて、本件事件との類推においては公共の利益に違反する場合には差止の権限が憲法にはあるという論理が使えるかという問題を国家学上解決しておくべきであるといっているだけである。

独占禁止法上は差止は法定された権利であり、これらの問題とは関係がない。

アメリカにおいても

Under Bresgal and Bailey, the court may issue the Injunction without certifying a class. Cf. Wilk v. American Medical Ass'n, 895 F.2d 352 (7th Cir. 1990) (enjoining the AMA's boycott against chiropractors and ordering the AMA to mail the injunction to every AMA member and to publish it in the Journal of the American Medical Association(カイロプラクターに対するアメリカ医師会のボイコットを禁止する命令、および、AMAに対してAMAの会員に手紙を送ることを強制的に命令する差止命令、またアメリカ医師会の機関紙にそのことを掲載することを命令する差止命令の決定) even though 30,000 chiropractors who were never parties to the case would benefit from the injunctive relief), cert. denied, 496 U.S. 927, and cert. denied, 498 U.S. 982, 112 L. Ed. 2d 524, 111 S. Ct. 513 (1990).

との判決があり、このWilk v. American Medical Ass'n, 895 F.2d 352 (7th Cir. 1990)は命令的差止判決Mandatory injunctionが、私訴の原告による損害賠償請求事件においても可能であるとした事件である。

私訴においても可能としたのは下記の判決である。

下級審の裁判例IMAGE TECHNICAL SERVICE, INC., et al., Plaintiffs, v. EASTMAN KODAK COMPANY, etc., Defendant.

画像技術サービス社対イーストマンコダック社事件

NO. C 87-1686 AWT

UNITED STATES DISTRICT COURT FOR THE NORTHERN DISTRICT OF CALIFORNIA

カリフォルニア北部地区合衆国地方裁判所

 1996 U.S. Dist. LEXIS 2386; 1996-2 Trade Cas. (CCH) P71,624においてはKodak argues that the mandatory provisions of the injunction are inappropriate because they are unavailable to private antitrust litigants.コダックは私訴の原告による反トラスト法上の事件には強制的差止は利用できないので本件でも適用すべきではないと主張したが、The court found, in fact, there was ample precedent for issuing a mandatory injunction in a private antitrust case. 当裁判所は私訴の原告による反トラスト法上の事件として命令的差止を発行した多くの先例があることは事実である。Also, the defendant raised several objections to the mandatory sale provision of the injunction.そのために被告は差止による強制的販売の規定に対して多くの反論を提供した。 The court found mandatory sales, at non-monopolistic prices and as to nonparties, were appropriate to cure past illegal conduct. 裁判所は過去の違法な行為の救済として適切であるとして、独占的ではない価格でかつ両当事者に分け隔てないものであるとして、強制的販売を認めた。 Finally, the duration of the injunction was appropriate.結局差止の継続は妥当性があるとした。(OVERVIEW)との判決であった。

判決文は次の通り。

「I. THREAT OF INJURY REQUIREMENT

Eastman Kodak Company's ("Kodak") first objection to an injunction is that plaintiffs have made no showing of actual or irreparable injury. Kodak overlooks the jury's finding that plaintiffs have indeed suffered actual injury -- $ 24 million. Further, HN1injunctive relief under ァ 16 of the Clayton Act, 15 U.S.C. ァ 26, is "characteristically available even though the plaintiff has not yet suffered actual injury. . . . he need only demonstrate a significant threat of injury from an impending violation of the antitrust laws or from a contemporary violation [*3] likely to continue or recur." Zenith Radio Corp. v. Hazeltine Research, Inc., 395 U.S. 100, 130, 23 L. Ed. 2d 129, 89 S. Ct. 1562 (1969); United States v. Oregon State Medical Soc'y, 343 U.S. 326, 333, 96 L. Ed. 978, 72 S. Ct. 690 (1952).

II. MANDATORY EQUITABLE RELIEF IN A PRIVATE ANTITRUST ACTION

Kodak argues that the mandatory provisions of the injunction are inappropriate because they are unavailable to private antitrust litigants. n1 However, there is in fact ample precedent for issuing a mandatory injunction in a private antitrust case. In California v. American Stores Co., 495 U.S. 271, 109 L. Ed. 2d 240, 110 S. Ct. 1853 (1990), the Court noted that in a number of prior cases it had "upheld injunctions issued pursuant to ァ 16 regardless of whether they were mandatory or prohibitory in character." Id. at 283-84 (emphasis added) (citing Zenith Radio Corp., 395 U.S. at 129-33, and Silver v. New York Stock Exchange, 373 U.S. 341, 345, 365, 10 L. Ed. 2d 389, 83 S. Ct. 1246 (1963)). See also Pacific Coast Agricultural Export Ass'n v. Sunkist Growers, Inc., 526 F.2d 1196, 1200-01, 1208-09 (9th Cir. 1975), cert. denied, 425 U.S. 959, [*4] 48 L. Ed. 2d 204, 96 S. Ct. 1741 (1976).」

以下の通りに、第7巡回控訴裁判所が述べる判決は更に差止の範囲について妥当であるとしている。

以下は,DR. CHESTER A. WILK, D.C., DR. JAMES W. BRYDEN, D.C., DR. PATRICIA B. ARTHUR, D.C., and DR. MICHAEL D. PEDIGO, D.C., Plaintiffs-Appellees, Cross-Appellants, v. AMERICAN MEDICAL ASSOCIATION, Defendant-Appellant, Cross-AppelleeのUNITED STATES COURT OF APPEALS FOR THE SEVENTH CIRCUIT 895 F.2d 352; 1990 U.S. App. LEXIS 1931; 1990-1 Trade Cas. (CCH) P68,917 December 1, 1988, Argued February 7, 1990, Decided よりの引用。

「V.

Conclusion

結論

We affirm the district court's finding that the AMA violated ァ 1 of the Sherman Act by conducting an illegal boycott of chiropractors, and the district court's decision to grant an injunction against the AMA.

AMAはカイロプラクターを違法にボイコットすることによってシャーマン法第1条の規定をAMAが侵しているという地方裁判所の事実認定を追認するので、AMAに対する地方裁判所の差止の認定の決定を追認する。

In finding liability, the court did not improperly rely on evidence of conduct protected by the Noerr-Pennington doctrine.

責任の所在の発見においても、裁判所はノエアー・ペニングトン原理によって保護された行為の証拠に正当ではなく則っているとはいえない。

The district court's factual findings supported its finding that the AMA's boycott was illegal under the rule of reason, and those findings were not clearly erroneous.

地方裁判所の事実の認定からすれば、AMAのボイコットが理由の原理の下では違法であり、その事実の認定は明らかに間違っているとはいえない。

The district court also did not clearly err in finding that the AMA did not meet its burden of proving its patient care defense, and in finding that the AMA's boycott caused the plaintiffs past injury and the threat of future injury. また、AMAがその患者の処置についての防御の反論を証明する責任を果たさなかったのであるから、AMAのボイコットが原告の過去の損害と、将来の損害のおそれとを起こしてきた事実を見れば、地方裁判所が明白な誤りを侵したとはいえない。

The court did not abuse its discretion in imposing an injunction on the AMA. [**84] AMAに差止命令を発するについて、裁判所は自由裁量の範囲を超えていない。 The court's factual findings supported its exercise of equitable discretion, and the injunction was not overbroad. 裁判所の事実認定によると、衡平法上の裁量の行使とこの差止は適用範囲が広すぎるということはないことを認定できる。」

最後のこの差止は「適用範囲が広すぎるということはない。」という決定を行っている。

そこで、衡平法上の差止および実定法上の差止の比較についてアメリカにおいての判例を述べる。本件独占禁止法上は差止はアメリカ法の継受によるものであり、参考になるからである。

Injunction

From Network Live.

An injunction is an equitable remedy in the form of a court order that either prohibits or compels ("enjoins" or "restrains") a party from continuing a particular activity.

The party that fails to adhere to the injunction faces civil or criminal contempt of court and may have to pay damages or sanctions for failing to follow the court's order.

Contents

1 Basis of injunctions2 Temporary restraints3 Rationale behind injunctions4 Injunctions in U.S. labor law context

Basis of injunctions

At the very core of injunctive relief is a recognition that money damages can't solve every problem.

An injunction may be permanent or it may be temporary.

A temporary injunction (or preliminary injunction) is a provisional remedy granted to restrain activity on a temporary basis

until the court can make a final decision after trial.

It is usually necessary to prove the high likelihood of success upon the merits of one's case and a likelihood of irreparable harm in the absence of a preliminary injunction

before such an injunction may be granted;

otherwise the party may have to wait for trial to obtain a permanent injunction.

Temporary restraints

In United States law, a temporary restraining order (or TRO) may be issued on a short-term basis

until the court decides whether to issue a preliminary injunction.

Thus, the relationship between a TRO and a preliminary injunction is the same as the relationship between a preliminary injunction and a permanent injunction.

In some cases a TRO may be granted ex parte, i.e. without informing the party to whom the TRO is directed in advance.

Usually such ex parte orders are of a short term and are to prevent one's adversary from having notice of one's intentions.

Such notice may allow the eventual object of the application for an injunction from doing something that would make the court's granting of an injunction fruitless,

such as wasting or hiding assets as often occurs in dissolution of marriage

or in the disclosing of a trade secret that had been the subject of a non-disclosure agreement.

Rationale behind injunctions

This injunctive power to restore the status quo ante; that is, to make whole again someone whose rights have been violated, is essential to the concept of fairness (equity).

For example, money damages would be of scant benefit to a land owner

who wished simply to prevent someone from repeatedly trespassing on his land.

The ability of the landowner to use the courts to sue the trespasser for injunctive relief

is often the only practical way to end the trespass (the government may or may not bring criminal trespass charges at the landowner's urging;

the civil power is in the landowner's own hands).

Once the order is secured, the trespasser violates it at his own peril, risking fines and imprisonment for contempt of court.

Courts may also issue mandatory injunctions, also called mandatory orders, i.e. equitable relief to compel a person to do a specific act or acts or follow a course of conduct;

though in some jurisdictions

courts will not issue mandatory orders that require judicial oversight to ensure compliance with the judge's order.

INJUNCTIONS

[The following article was excerpted from John T. Blanchard's law school textbook, California Remedies: Commentary, Materials and Problems (3d ed. ゥ1997)]

Injunction is one of the oldest, and surely one of the historically classic, equitable remedies.

Its use is generally limited to tort claims;

however, it is also available to prevent to prevent breaches of certain specific types of contract.

As well developed as its jurisprudence is, it remains one of the most subtle and sophisticated remedies.

Its proper exercise requires the application of good common sense and judgment.

Injunctions are generally divided for analytic purposes by effect and by duration.

"Injunctions are generally divided for analytic purposes by effect and by duration."

「差止は一般にはその目的を分析して、効果と、継続期間によって分類される。」

The "effect" of injunctive relief is either mandatory or prohibitory;

差止の救済の「効果」は命令的か禁止的かである。

つまり、

that is, the equitable decree either requires a party to do something (mandatory)

衡平法上判決は(強制的に)一当事者に何かを行わせるように要求するか、

or to not do something (prohibitory).

あるいは、(禁止的に)何かをしないように請求する。

Mandatory injunctions are, by far, more rare and difficult to obtain than prohibitory orders.

強制的な差止は、禁止的な命令よりもより例が少なく、かつ発効されることが難しい。

The courts have historically been extremely reticent to "undo" parties' prior conduct with a mandatory injunction while the same misconduct, if suit were brought before it had been completed, might well be prohibited.

強制的差止によって裁判所は、当事者が以前行った行為を「元に戻す」ことに歴史的には非常に控えめであったが、同じ間違った行為であっても、もし訴訟がその行為が完成される前に提起されたならば、禁止することはやぶさかではなかったかもしれない。

The rubric conventionally employed by court when denying a request for a mandatory injunction is that "the law helps the vigilant, before those who sleep on their rights".

命令的な差止の請求を棄却する場合に裁判所は通常は赤書きで「権利の上に眠るものの前では、法律は慎重である。」と書いた。

The "duration" of injunctive relief refers to the time of its potential operation in relation to the lawsuit in which it is sought.

差止の救済の継続期間は提起された訴訟との関係において、差止の行使が可能な時間と関連する。

A "temporary restraining order" ("T.R.O.") is an emergency remedy, sought by ex parte application, that lasts only a matter of days, until there is time for a full, adversarial hearing on the merits. That hearing on the merits at an 'order to show cause" ("Order to Show Cause") hearing may lead to a "preliminary injunction", an order that remains in effect during the effective life of the litigation (unless by further court order); procedurally, a "preliminary injunction" may also be sought by a noticed motion. The conventional primary purpose of a "preliminary injunction" is to preserve the status quo pending a full trial adjudicating the parties' rights. Preliminary injunctions expire no later than the finality of the Judgment; that is, while they may be terminated earlier by special court order, they cannot remain effective after the Judgment becomes final (not further challengeable) on appeal. "Temporary restraining orders" and "preliminary injunctions" are often referred to as "provisional remedies"; as such they may be sought in actions that otherwise seek only legal relief (but where, based on the circumstances of the case, preservation of the status quo pendente lite is desirable). In an action that seeks equitable relief (but not in one that seeks only legal remedies) the court may enter a "permanent injunction". A "permanent injunction" is exactly what it says it is: a permanent order of the court that lasts (at least theoretically) forever (or until modified or vacated by further court action or the expiration of the Judgment). But, since further court action is not generally contemplated after a trial, modification or vacation will generally be ordered only on the request of the enjoined party.

As preliminary requirements for the entry of injunctive relief the court must have jurisdiction over both the person of the defendant and of the subject matter. Venue must, of course, also be proper. These considerations, basically matters of civil procedure, are given little attention here. In addition, injunctions against numerous types of activity are specifically allowed by statute. This article consider only general injunctive relief, otherwise unspecified by code. However, unless otherwise specified by specific statute, the factors relevant to the entry of general injunctive relief are the same as for conduct specifically proscribed by statute; in general, the only difference is that the complained of conduct is established by statute to be objectionable and, thus, properly subject to injunctive relief.

Provisional relief is generally governed by the provisions of the Code of Civil Procedure. 暫定的な救済は、一般的には民事訴訟法の手続き規定によって執行される。 However, if a prohibition of injunctive relief in a class of cases is stated in the Civil Code, the Civil Code governs. Permanent injunctions are governed by the Civil Code. While this may seem, and in some rare cases is, confusing, the statutes are very similar. In gist, far more types of conduct may be stayed pending full litigation than may be enjoined permanently. However, Civil Code section 3368 authorizes permanent injunctive relief "prohibiting a party from doing that which ought not to be done" and, thus, expands what would otherwise be the bounds of Civil Code section 3422 to the general grant of equity jurisdiction under the California Constitution.

"Injunction is such a powerful remedy that bonds (financial undertakings) are almost always required before the order becomes effective."

Injunction is such a powerful remedy that bonds (financial undertakings) are almost always required before the order becomes effective. In certain rare instances a trial court has the discretion to waive this requirement. Of course, if a party seeks and obtains multiple injunctive orders (e.g., a temporary restraining order, followed by a preliminary injunction, followed by a permanent injunction) multiple bonds are required. Bond are posted to compensate the enjoined party for damages or losses caused by the injunction should it later appear that the moving party was not entitled to an injunction. However, no matter how severe the actual damage or loss, the party damaged by the improper issuance of such relief may collect only from the bond.

"Despite the relatively thorough codification of injunctive principles, a court in equity is always possessed of substantial discretion as to whether to grant or withhold this 'extraordinary' remedy."

Despite the relatively thorough codification of injunctive principles, a court in equity is always possessed of substantial discretion as to whether to grant or withhold this "extraordinary" remedy. A court makes its determination by weighing the equitable factors favoring the issuance of the requested injunction with those militating against such an order. Since the court approaches each matter with this balancing process foremost, it is difficult to state firm rules as to when injunctive relief will be granted and when it will be denied; however, in addition to the statutory enumeration of factors to be addressed, it is possible to state, in general, the type of factors weighed by the court. The analysis of these factors is always addressed to the sound discretion of the trial court.

The "Likelihood of Success" and "Balance of Hardship" factors are generally considered to be the central elements in any analysis of whether to grant provisional injunctive relief while the existence of "Inadequacy of Legal Remedy" and "'Irreparable' Injury" factors predominate in the analysis of whether a permanent injunction is appropriate.

Inadequacy of Legal Remedy. As an equitable remedy, it is always necessary that the moving party's legal remedy be "inadequate" before equity may be invoked. Thus, if a legal remedy is available then permanent injunctive relief should always be denied. However, as noted above, provisional relief may, depending on the weighing of other factors, be available even when only legal relief is sought. However, provisional relief, though technically possible (that is, not jurisdictionally or otherwise improper), is often deemed unsuitable merely because a legal remedy would, assuming everything the claimant alleges is true, be available.

"Irreparable" Injury. Both the remedy statute and the common law provided for issuance of at least provisional relief in cases of so-called "irreparable" injury. The problem with this factor is not its general conception but in its specific definition. "Irreparable" does not mean "that which, if suffered, could not under any circumstances be repaired or compensated because all other remedies are utterly worthless"; such a definition (however appealing as a matter of "plain language") would unduly restrict the flexible powers of a court of equity. The term has often been defined as "that species of damages, whether great or small, that ought not to be submitted to on the one hand or inflicted on the other." However, especially when the reference to "small" is highlighted, suggests that any offense, however trivial, is a proper subject for injunctive relief. While it remains an unsatisfactory formulation, definition of "irreparable" as meaning wrongs of a "repeated and continuing character" and/or including "an overbearing assumption . . . of superiority and domination over the rights and property of others" is more workable (at least as long as care is taken not to equate personal offense, "overbearing", with "actionable -- personal offensiveness or arrogance is not, by itself, actionable).

Likelihood of Success. Though parties who succeed in obtaining provisional relief consistently brandish their success, and the judicial finding that it is "likely" that they will ultimately succeed in the action, throughout the balance of the litigation, all that a trial court need do to support issuance of the provisional remedy is find a "reasonable probability" of the moving party's ultimate success. Of course, the more likely it is that the moving party will ultimately succeed in the action (whether by complaint or cross-complaint), the more likely it is that provisional injunctive relief will be granted. Obviously, this factor applies only to provisional relief; permanent injunctive relief is granted only if it is not only likely that the moving party will succeed, it will (since such relief is granted only following trial) be a certainty.

Balance of Hardship. The tactical advantage of injunctive relief pendente lite is difficult to overestimate. Many provisional remedies (of which injunction is only one) operate as practical blackjacks in litigation. Thus, if the damage to the moving party if the injunction is not granted does not equal or outweigh the disadvantage or hardship to be visited on the opposing party if it is granted then the injunction will be denied.

In sum, before a full trial finally determines the respective rights of the parties an "inverse ratio" exists between the "Likelihood of Success" and the "Balance of Hardship": the more likely the claimant's success, the less the "Balance of Hardship" is likely to thwart a request for relief; the greater the "Balance of Hardship" in favor of the moving party, the less likely of ultimate success the underlying need be.

Copyright ゥ 2005 John T. Blanchard, P.C., All Rights Reserved.

INJUNCTIONS[The following article was excerpted from John T. Blanchard's law school textbook, California Remedies: Commentary, Materials and Problems (3d ed. ゥ1997)] Injunction is one of the oldest, and surely one of the historically classic, equitable remedies. Its use is generally limited to tort claims; however, it is also available to prevent to prevent breaches of certain specific types of contract. As well developed as its jurisprudence is, it remains one of the most subtle and sophisticated remedies. Its proper exercise requires the application of good common sense and judgment. Injunctions are generally divided for analytic purposes by effect and by duration. The "effect" of injunctive relief is either mandatory or prohibitory; that is, "Injunctions are generally divided for analytic purposes by effect and by duration."

the equitable decree either requires a party to do something (mandatory) or to not do something (prohibitory). Mandatory injunctions are, by far, more rare and difficult to obtain than prohibitory orders. The courts have historically been extremely reticent to "undo" parties' prior conduct with a mandatory injunction while the same misconduct, if suit were brought before it had been completed, might well be prohibited. The rubric conventionally employed by court when denying a request for a mandatory injunction is that "the law helps the vigilant, before those who sleep on their rights". The "duration" of injunctive relief refers to the time of its potential operation in relation to the lawsuit in which it is sought. A "temporary restraining order" ("T.R.O.") is an emergency remedy, sought by ex parte application, that lasts only a matter of days, until there is time for a full, adversarial hearing on the merits. That hearing on the merits at an 'order to show cause" ("Order to Show Cause") hearing may lead to a "preliminary injunction", an order that remains in effect during the effective life of the litigation (unless by further court order); procedurally, a "preliminary injunction" may also be sought by a noticed motion. The conventional primary purpose of a "preliminary injunction" is to preserve the status quo pending a full trial adjudicating the parties' rights. Preliminary injunctions expire no later than the finality of the Judgment; that is, while they may be terminated earlier by special court order, they cannot remain effective after the Judgment becomes final (not further challengeable) on appeal. "Temporary restraining orders" and "preliminary injunctions" are often referred to as "provisional remedies"; as such they may be sought in actions that otherwise seek only legal relief (but where, based on the circumstances of the case, preservation of the status quo pendente lite is desirable). In an action that seeks equitable relief (but not in one that seeks only legal remedies) the court may enter a "permanent injunction". A "permanent injunction" is exactly what it says it is: a permanent order of the court that lasts (at least theoretically) forever (or until modified or vacated by further court action or the expiration of the Judgment). But, since further court action is not generally contemplated after a trial, modification or vacation will generally be ordered only on the request of the enjoined party. As preliminary requirements for the entry of injunctive relief the court must have jurisdiction over both the person of the defendant and of the subject matter. Venue must, of course, also be proper. These considerations, basically matters of civil procedure, are given little attention here. In addition, injunctions against numerous types of activity are specifically allowed by statute. This article consider only general injunctive relief, otherwise unspecified by code. However, unless otherwise specified by specific statute, the factors relevant to the entry of general injunctive relief are the same as for conduct specifically proscribed by statute; in general, the only difference is that the complained of conduct is established by statute to be objectionable and, thus, properly subject to injunctive relief. Provisional relief is generally governed by the provisions of the Code of Civil Procedure. However, if a prohibition of injunctive relief in a class of cases is stated in the Civil Code, the Civil Code governs. Permanent injunctions are governed by the Civil Code. While this may seem, and in some rare cases is, confusing, the statutes are very similar. In gist, far more types of conduct may be stayed pending full litigation than may be enjoined permanently. However, Civil Code section 3368 authorizes permanent injunctive relief "prohibiting a party from doing that which ought not to be done" and, thus, expands what would otherwise be the bounds of Civil Code section 3422 to the general grant of equity jurisdiction under the California Constitution. Injunction is such a powerful remedy that bonds (financial undertakings) are almost always required before the order becomes effective. In certain rare instances "Injunction is such a powerful remedy that bonds (financial undertakings) are almost always required before the order becomes effective."

a trial court has the discretion to waive this requirement. Of course, if a party seeks and obtains multiple injunctive orders (e.g., a temporary restraining order, followed by a preliminary injunction, followed by a permanent injunction) multiple bonds are required. Bond are posted to compensate the enjoined party for damages or losses caused by the injunction should it later appear that the moving party was not entitled to an injunction. However, no matter how severe the actual damage or loss, the party damaged by the improper issuance of such relief may collect only from the bond. Despite the relatively thorough codification of injunctive principles, a court in equity is always possessed of substantial discretion as to whether to grant or withhold this "extraordinary" remedy. A court makes its determination by weighing the equitable factors favoring the issuance of "Despite the relatively thorough codification of injunctive principles, a court in equity is always possessed of substantial discretion as to whether to grant or withhold this 'extraordinary' remedy."

the requested injunction with those militating against such an order. Since the court approaches each matter with this balancing process foremost, it is difficult to state firm rules as to when injunctive relief will be granted and when it will be denied; however, in addition to the statutory enumeration of factors to be addressed, it is possible to state, in general, the type of factors weighed by the court. The analysis of these factors is always addressed to the sound discretion of the trial court. The "Likelihood of Success" and "Balance of Hardship" factors are generally considered to be the central elements in any analysis of whether to grant provisional injunctive relief while the existence of "Inadequacy of Legal Remedy" and "'Irreparable' Injury" factors predominate in the analysis of whether a permanent injunction is appropriate. ・ Inadequacy of Legal Remedy. As an equitable remedy, it is always necessary that the moving party's legal remedy be "inadequate" before equity may be invoked. Thus, if a legal remedy is available then permanent injunctive relief should always be denied. However, as noted above, provisional relief may, depending on the weighing of other factors, be available even when only legal relief is sought. However, provisional relief, though technically possible (that is, not jurisdictionally or otherwise improper), is often deemed unsuitable merely because a legal remedy would, assuming everything the claimant alleges is true, be available. ・ "Irreparable" Injury. Both the remedy statute and the common law provided for issuance of at least provisional relief in cases of so-called "irreparable" injury. The problem with this factor is not its general conception but in its specific definition. "Irreparable" does not mean "that which, if suffered, could not under any circumstances be repaired or compensated because all other remedies are utterly worthless"; such a definition (however appealing as a matter of "plain language") would unduly restrict the flexible powers of a court of equity. The term has often been defined as "that species of damages, whether great or small, that ought not to be submitted to on the one hand or inflicted on the other." However, especially when the reference to "small" is highlighted, suggests that any offense, however trivial, is a proper subject for injunctive relief. While it remains an unsatisfactory formulation, definition of "irreparable" as meaning wrongs of a "repeated and continuing character" and/or including "an overbearing assumption . . . of superiority and domination over the rights and property of others" is more workable (at least as long as care is taken not to equate personal offense, "overbearing", with "actionable -- personal offensiveness or arrogance is not, by itself, actionable). ・ Likelihood of Success. Though parties who succeed in obtaining provisional relief consistently brandish their success, and the judicial finding that it is "likely" that they will ultimately succeed in the action, throughout the balance of the litigation, all that a trial court need do to support issuance of the provisional remedy is find a "reasonable probability" of the moving party's ultimate success. Of course, the more likely it is that the moving party will ultimately succeed in the action (whether by complaint or cross-complaint), the more likely it is that provisional injunctive relief will be granted. Obviously, this factor applies only to provisional relief; permanent injunctive relief is granted only if it is not only likely that the moving party will succeed, it will (since such relief is granted only following trial) be a certainty. ・ Balance of Hardship. The tactical advantage of injunctive relief pendente lite is difficult to overestimate. Many provisional remedies (of which injunction is only one) operate as practical blackjacks in litigation. Thus, if the damage to the moving party if the injunction is not granted does not equal or outweigh the disadvantage or hardship to be visited on the opposing party if it is granted then the injunction will be denied. In sum, before a full trial finally determines the respective rights of the parties an "inverse ratio" exists between the "Likelihood of Success" and the "Balance of Hardship": the more likely the claimant's success, the less the "Balance of Hardship" is likely to thwart a request for relief; the greater the "Balance of Hardship" in favor of the moving party, the less likely of ultimate success the underlying need be.

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INTRODUCTION TO DECLARATORY RELIEF[The following article was excerpted from John T. Blanchard's law school textbook, California Remedies: Commentary, Materials and Problems (3d ed. ゥ1997)] Disputes regarding business transactions (including, of course, business transactions for household or personal purposes, a conventional definition of "consumer" transactions) often evolve over a period of time. Usually (it is to be hoped), people who make deals and then disagree about them will first attempt to adjust their differences privately, among themselves. Only after they have attempted to do so and failed and, further, deemed the controversy to be sufficiently substantial that legal counsel is needed to assist in the resolution of the controversy. Though seemingly more honored in the breach than the observance, the retained counsel should themselves attempt to resolve the matter through negotiation rater than rushing to file a lawsuit. Only if the attorneys are also unable to resolve the matter and the negotiation process has broken down completely should the controversy "The civil litigation process still remains thereafter a part of the negotiation process. However, once submitted to litigation, the negotiation process will, if it remains fruitless, ultimately be ended by a judicial decree."

be submitted to a court. The civil litigation process still remains thereafter a part of the negotiation process. However, once submitted to litigation, the negotiation process will, if it remains fruitless, ultimately be ended by a judicial decree. While the development of equity jurisprudence over the past few hundred years is well known to have been a response to the rigidity of the older law court system, it is less well known that this process is ongoing to this day. One of the frustrations and inefficiencies of the legal system as it existed at the end of the 19th century was its inability to act promptly. That is, even assuming that the parties negotiated reasonably, both between themselves and later with the assistance of their attorneys, if no amicable resolution was reached the courts adjudicated the dispute without reference to the parties' business needs and expectations. This problem was particularly acute if the dispute had arisen before a material breach of obligation had yet occurred. If the parties had anticipated a problem before it actually reached the stage of alleged material breach, the courts offered little or no help. Instead of assisting the parties in reaching a just solution to their controversy, the courts generally refused even to hear the case until it had ripened into what the courts legalistically termed a "case or controversy" and, thus, dismissed prospective (but often very real) disputes as "sham", "moot" or "nonjusticiable". However, without reference to hidebound historic precedent, it was obviously unsatisfactory to tell would-be litigants that they would get no help from the court until one party's side had suffered the damage of an actual breach. The analogy to the fossilization of the law courts in England in the Middle Ages is clear. To remedy this unsatisfactory situation in 1921 the California legislature enacted the Declaratory Relief Act, the forerunner of the existing Declaratory Relief statutes. Though previous statutes had provided for something much like Declaratory Relief in specific situations, the idea of the statute was to empower the court, in the event of an "actual controversy" to "declare" the parties' rights and obligations before the dispute had otherwise ripened into a full-blown action for, perhaps among other things, breach of contract. The rights and obligations of "any interested person" may, according to the statute be declared "under a deed, will or other written instrument, or under a contract", or "in respect to, in, over or upon property" and certain other specific, property-related matters. Since the provision "under a contract" is separate from "a deed, will or other written instrument" jurisdiction has been interpreted to include disputes as to oral contracts; the constitutionality of statutes and ordinances is also often tested with this remedy. Declaratory Relief is "cumulative"; it is available, in the same lawsuit, with other forms of relief. That is, a party may seek other appropriate relief (for example, an Accounting) in the same lawsuit Declaratory Relief is sought (for example, when a Declaration that the parties are partners is sought). Though the notion that such relief is "cumulative" seems straightforward, it is subject to several significant qualifications. First, in times of extremely congested courts clever counsel inserted a Declaratory Relief cause of action into the plaintiff's pleading along with other claims for relief; thus, would obtain a priority over virtually all other matters (matters that, by definition, had been pending longer) in the setting for trial. The statute was, therefore, amended to provide an automatic trial setting priority only if Declaratory Relief was the only claim stated by the plaintiff (trial setting priority was discretionary with the court, after hearing on a notice motion, if any other relief was sought). Second, Declaratory Relief operates only prospectively; that is, it declares the parties' rights and obligations in the future. The remedy is not available at all where no future relations were contemplated by the parties but, instead, all that confronted them was a completed act of alleged wrongdoing. In short, a litigant may not seek a declaration that another party's conduct constituted, for example, a breach of contract and then sue again (having at least collaterally estopped the opponent) for damages arising from that same conduct (breach). Such procedural maneuvering would violate the rule against "splitting" one's cause of action and would, if allowed, burden the courts with two lawsuits. However, nothing prevents a litigant who has received a decree that certain conduct would constitute, for example, a breach of contract from suing for damages or other relief after the opposing party again engages in the same conduct.

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INTRODUCTION TO DECLARATORY RELIEF

[The following article was excerpted from John T. Blanchard's law school textbook, California Remedies: Commentary, Materials and Problems (3d ed. ゥ1997)]

Disputes regarding business transactions (including, of course, business transactions for household or personal purposes, a conventional definition of "consumer" transactions) often evolve over a period of time. Usually (it is to be hoped), people who make deals and then disagree about them will first attempt to adjust their differences privately, among themselves. Only after they have attempted to do so and failed and, further, deemed the controversy to be sufficiently substantial that legal counsel is needed to assist in the resolution of the controversy. Though seemingly more honored in the breach than the observance, the retained counsel should themselves attempt to resolve the matter through negotiation rater than rushing to file a lawsuit. Only if the attorneys are also unable to resolve the matter and the negotiation process has broken down completely should the controversy "The civil litigation process still remains thereafter a part of the negotiation process. However, once submitted to litigation, the negotiation process will, if it remains fruitless, ultimately be ended by a judicial decree."

be submitted to a court. The civil litigation process still remains thereafter a part of the negotiation process. However, once submitted to litigation, the negotiation process will, if it remains fruitless, ultimately be ended by a judicial decree.

While the development of equity jurisprudence over the past few hundred years is well known to have been a response to the rigidity of the older law court system, it is less well known that this process is ongoing to this day. One of the frustrations and inefficiencies of the legal system as it existed at the end of the 19th century was its inability to act promptly. That is, even assuming that the parties negotiated reasonably, both between themselves and later with the assistance of their attorneys, if no amicable resolution was reached the courts adjudicated the dispute without reference to the parties' business needs and expectations. This problem was particularly acute if the dispute had arisen before a material breach of obligation had yet occurred. If the parties had anticipated a problem before it actually reached the stage of alleged material breach, the courts offered little or no help. Instead of assisting the parties in reaching a just solution to their controversy, the courts generally refused even to hear the case until it had ripened into what the courts legalistically termed a "case or controversy" and, thus, dismissed prospective (but often very real) disputes as "sham", "moot" or "nonjusticiable". However, without reference to hidebound historic precedent, it was obviously unsatisfactory to tell would-be litigants that they would get no help from the court until one party's side had suffered the damage of an actual breach. The analogy to the fossilization of the law courts in England in the Middle Ages is clear.

To remedy this unsatisfactory situation in 1921 the California legislature enacted the Declaratory Relief Act, the forerunner of the existing Declaratory Relief statutes. Though previous statutes had provided for something much like Declaratory Relief in specific situations, the idea of the statute was to empower the court, in the event of an "actual controversy" to "declare" the parties' rights and obligations before the dispute had otherwise ripened into a full-blown action for, perhaps among other things, breach of contract. The rights and obligations of "any interested person" may, according to the statute be declared "under a deed, will or other written instrument, or under a contract", or "in respect to, in, over or upon property" and certain other specific, property-related matters. Since the provision "under a contract" is separate from "a deed, will or other written instrument" jurisdiction has been interpreted to include disputes as to oral contracts; the constitutionality of statutes and ordinances is also often tested with this remedy.

Declaratory Relief is "cumulative"; it is available, in the same lawsuit, with other forms of relief. That is, a party may seek other appropriate relief (for example, an Accounting) in the same lawsuit Declaratory Relief is sought (for example, when a Declaration that the parties are partners is sought). Though the notion that such relief is "cumulative" seems straightforward, it is subject to several significant qualifications.

First, in times of extremely congested courts clever counsel inserted a Declaratory Relief cause of action into the plaintiff's pleading along with other claims for relief; thus, would obtain a priority over virtually all other matters (matters that, by definition, had been pending longer) in the setting for trial. The statute was, therefore, amended to provide an automatic trial setting priority only if Declaratory Relief was the only claim stated by the plaintiff (trial setting priority was discretionary with the court, after hearing on a notice motion, if any other relief was sought).

Second, Declaratory Relief operates only prospectively; that is, it declares the parties' rights and obligations in the future. The remedy is not available at all where no future relations were contemplated by the parties but, instead, all that confronted them was a completed act of alleged wrongdoing. In short, a litigant may not seek a declaration that another party's conduct constituted, for example, a breach of contract and then sue again (having at least collaterally estopped the opponent) for damages arising from that same conduct (breach). Such procedural maneuvering would violate the rule against "splitting" one's cause of action and would, if allowed, burden the courts with two lawsuits. However, nothing prevents a litigant who has received a decree that certain conduct would constitute, for example, a breach of contract from suing for damages or other relief after the opposing party again engages in the same conduct.

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以上の通りに実定法に法的な規定が存在しない場合の差止には、相当構成要件を厳しく考えなくてはならない。

ところが日本が継受した実定法の国であるドイツにおいては、競争制限禁止法を制定し、その20条第6項において強制入会を法定している国であるドイツにおいては判例によるよりも先に法律によって完全に規制されていると考えることができる。

日本においては独占禁止法上24条で法定したからには、判例は存在しなくてもドイツにおけるように厳しく法を運用する必要があり、これまでのようにほとんどのカルテルと、共同ボイコットと、共同の取引拒絶を見逃して、価格が固定されているのを見過ごすことができなくなってきたのである。ところが心理的には見過ごしてくれというのが被上告人のたっての願いであろう。しかしそれは不可能である。

強制的な差止が可能かについて検索したところ次の通りであった。

ドイツの判例は探すことができなかったが、次のような論文がある。

Damages; Claims for Injunctions APPENDIX 34 () Skimming- ...

... APPENDIX 60 () Preliminary Injunctions APPENDIX 61 () Completion of the ...

... Proceedings APPENDIX 68 () Mandatory Representation by Lawyers ...

12. Part IV Business Organizations , Stock Corporation Law , * Business Transactions in Germany The Stock Corporation, The Stock Corporation, Business Transactions in Germany Copyright 2005, Matthew Bender & Company, Inc., a member of the LexisNexis Group.

... 23 (3) or other mandatory legal provisions must be ...

... cancelled by means of mandatory redemption or acquisition by the company.

その企業が定期償還の手法や、買収をすることによって

A mandatory redemption may only be ...

定期償還はただ・・・で行われる。

... conditions governing a mandatory redemption and the respective procedure ...定期償還や、それに相当する手続きという条件・・・

... in the case of a mandatory redemption or an acquisition of shares ...

... cancelled. (6) If a mandatory redemption is prescribed by the ...

... In the case of a mandatory redemption prescribed by the ...

... become effective upon such mandatory redemption, unless the shareholders' ...

... in the case of a mandatory redemption prescribed by the ...

... ァ 397 Preliminary Injunctions in Connection with Dissolution If an ...

... measures by preliminary injunction. AktG ァ 397 ...

Source: Legal > Legal (excluding U.S.) > Germany > Commentaries & Treatises > Business Transactions in Germany

Terms: injunction & mandatory (Edit Search)

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Date/Time: Monday, June 13, 2005 - 11:07 PM EDT

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以上は、ドイツにおいては商業上の契約に基づく差止は一般の契約の履行の問題としてとらえられているし、仮処分も同様である。

ところが競争法による差止は異なっている。

コンペティション法においては特に次のような説明になっている。

Restrictions on the Freedom to Determine Prices and Business Terms (GWB Section 15)

価格および商業上の条件を決定する自由に対する競争制限

A general clause is, however, provided for in GWB Section 15, the intent of which is to prohibit all restrictions on the freedom of firms to agree on standard terms and conditions applicable to contracts with third parties.

しかしながら、企業が第三者との間で自由に適用すべき基準となる条件や、状況に関する合意についての個別企業の自由に競争制限を行うすべてのことを禁止することがGWB の第15章によって示されている法の趣旨である。

The purpose of Section 15 is not only to protect market competition as an institution, but also to protect the individual participants therein.

第15章の目的は、制度として市場の競争を守るということであるとともに、更にその競争市場に参加する個別企業を守ってやることでもある。

As such, Section 15 is deemed a so-called ''protective law'' within the meaning of GWB Section 35, thereby permitting injured market participants to seek damages.

第15章はGWBの第35章の意味の範囲内でのいわば「保護のための法律」とみなされている。

161(Footnote 161. Judgment of 7 July 1992, BGH, 46 NJW 789 (1993), WuW/E BGH 2813, 43 WuW 221 (1993) (Selbstzahler).)

The practical significance of the provision has considerably increased since vertical price-fixing, i.e., resale price maintenance, was prohibited by the Second Amendment to the GWB in 1973.

Section 15 is found in the section of the Act entitled ''Other Agreements'' (''sonstige Vertrage'').

These agreements are distinguished from those governed by Section 1 et seq. in that Section 15 agreements are not concluded for a ''common purpose''.

If one of the restrictions described in Section 15 is contained in an agreement that was concluded for a ''common purpose'', Section 15 is not applicable, since the agreement is then subject exclusively to Section 1.

Even where all the elements of Section 1 are not satisfied, there is no recourse to Section 15 as long as the agreement was concluded for a common purpose.

たとえすべての1章の要件が満足されていなくても、ある合意が公共の利益のために行われていると結論が出た場合には第15章に対しては適用する要因にはならない。

[a] Requirements of GWB Section 15.

Section 15 covers all agreements between firms with respect to goods or services (''primary contracts''), pursuant to which the freedom of one of the parties to the primary contract to contract with third parties, i.e., in ''secondary contracts'' is restricted with respect to price and terms. The secondary contract itself need be entered into in order for Section 15 to apply to the primary contract, rendering it void. Only the restrictions relating to the content of secondary agreements are subject to Section 15. Restrictions on the conclusion of secondary contracts are covered by Section 18.

Any contract for goods or services, as covered by Section 1, including, without limiting the generality thereof, service, brokerage, advertising and similar services, can be a ''primary contract''.

Although the statute addresses only restrictions relating to prices and business terms, these terms are to be interpreted as broadly as possible. Setting or restricting individual price elements or reductions, such as rebates and discounts, fixing lower and upper price limits, and the setting of other conditions in secondary agreements is also prohibited, even if the net effect of the restrictions contained in the primary agreement may be to reduce prices. The purpose of Section 15 is not to ensure lower prices, but rather that the parties to a contract retain the freedom to contract in subsequent contracts.162 There need not be a showing of a relationship between the primary and any secondary contract with respect to subject matter, and the primary contract need not contain a commercial nexus between the primary and the secondary contract.163

The legislative intent of Section 15 is the comprehensive protection of the freedom to bargain on the terms of secondary contracts. The primary and secondary contracts thus need not relate to the same goods or services. Any obligation imposed on a party with respect to any goods or services that it supplies to, or purchases from, third parties are prohibited.

[b] Exemptions.

Secondary contracts within the meaning of Section 15 are contracts that are entered into by a party that is bound, as principal, under the primary contract. Contracts by commercial agents thus do not fall within the scope Section 15, since they do not enter into the contract as principal.164 The foregoing also applies to contracts with so-called ''Commission Agents'' (Kommissionare) who indeed conclude contracts in their own name, but are bound by the instructions of their client (the ''Kommittent'').165 According to the BGH,166 this principle also applies to an agreement between the publisher of an advertising publication and an advertising broker (usually an advertising agency), pursuant to which the latter may not pass on any part of the brokering fee to the ultimate advertiser.

However, the mere existence of an agency relationship does not per se render Section 15 inapplicable. The application of Section 15 depends on whether the contract between the principal and the agent represents the true economic relationship between the two parties, i.e. that it is not being used to avoid the application of Section 15.167 The foregoing also applies in the converse case where a party appears to be a principal, but acting in an agent capacity. The test is whether the ''principal'' bears the business risk of the contracts with third parties.168

[c] Legal Consequences.

Unlike Section 1, pursuant to which contracts subject thereto are ''ineffective'', primary contracts that violate Section 15 are void. GWB Section 15, in conjunction with Section 38 (1) Number 1, constitutes a statutory prohibition: performing the terms of a contract void under Section 15 constitutes an administrative offence subject to fine pursuant to Section 38 (1) Number 1. In addition, pursuant to Section 37a, the Cartel Agency may enjoin the parties from performing under the agreement. The contract is void only to the extent that the restrictions of Section 15 are applicable; the effectiveness of the remaining terms is determined pursuant to BGB Section 139 169 . Parties to secondary contracts (which are not affected by the invalidity of the primary contract) can file suit for damages and/or an injunction on the basis of Section 35 in conjunction with Section 15. Competitors of the firm imposing the restriction170 and, at least theoretically, the party on whom the restriction is imposed also may make such claims. As to the measure of damages recoverable, see Section 35.08 infra.

[d] Application in Practice.

GWB Section 15 is frequently applied in cases involving so-called ''most favored buyer'' clauses,171 pursuant to which the beneficiary is to receive terms no less favorable than those granted to the most favored purchaser. In one case involving such a clause, an association of shoe retailers entered into standard form agreements with members' suppliers on the basis of which members placed individual purchase orders. The association processed invoices and payments and guaranteed payment of the purchase price, but did not itself make any purchases. The standard form agreement contained a provision requiring the supplier to supply the association and its members at prices and on terms that were no less favorable than those accorded to other customers for equivalent consideration. The supplier was also obligated to give notice of price changes.172

The BGH found the most favored buyer clause to be an impermissible restriction on the freedom of action of the supplier. Although the supplier was not restricted in setting prices for buyers not a party to the most favored clause, the clause was nonetheless deemed restrictive because in secondary contracts with the ''most favored buyers'' the supplier was required to give the lowest prices granted to any buyer of the same product.

The BGH left open the question of whether the agreement that all members of the association had to be treated equally also constituted a violation of Section 15. The lower court had rejected this view on the grounds that the association was simply an instrument of its members, and that therefore the relationship between primary contract and secondary contract necessary under Section 15 was absent.

The standard practice of the Federal Cartel Agency is to treat as terms and conditions all agreements pertaining to the content of a secondary agreement that do not relate to prices or price components.173 This also applies to standard terms and conditions within the meaning of the Standard Contract Terms Act (Gesetz uber die Allgemeinen Geschaftsbedingungen/AGBG). Examples of the foregoing would be prohibitions on purchasers from selling products to their customers without also offering them to parties to a primary agreement174 or obligations on purchasers to provide certain warranty services.175 A clause requiring the seller to give notice when it offers more advantageous prices or conditions to a third party is also generally considered to be a violation of Section 15; such an agreement could possibly have the effect of restricting the freedom of the seller to offer better prices and conditions to third parties lest the first buyer react negatively to the information.176

The principal areas of application of Section 15 today are the various tactics that have been adopted to replace resale price maintenance on branded goods, prohibited in 1973. Examples of the foregoing would be pricing procedures and guidelines, prohibition of sales at less than the wholesale purchase price, and the general prohibition of so-called fictitious offers.177

[3] Price Maintenance for Publications

An exception to the general rule of Section 15 is provided for in Section 16, which expressly permits resale price maintenance for publications. Section 16 permits only the maintenance of stated prices, but not restrictions on terms and conditions.178 The provision is based on public policy, the idea that the maintenance of fixed prices would avoid ruinous competition among, and result in a minimum return to, booksellers, leading to increased availability of publications to readers. The term ''publications'' includes the traditional subject matter of the book trade, i.e., books, periodicals, newspapers, calendars, sheet music, postcards, maps, globes, etc., irrespective of their perceived quality or lack thereof.179 Records, however, and, presumably, CDs, do not fall under the term ''publication.''180

The distinction between price and conditions is unclear and thus generally subject to dispute in the individual case; all terms and conditions have at least an indirect effect on price, as is the case with warranty or transportation terms. All terms resulting in an indirect price reduction, however, are considered together with ''prices'', and can be made the subject of a resale price maintenance agreement, e.g., all rebates and premiums, but not discounts, since they are granted as consideration for early payment. Nor do dividends paid by cooperatives constitute a price element, since the obligation to pay dividends arises under corporate law.181 Any distribution of profits by a commercial business to its customer-shareholders most likely would constitute a price element, since it is in the discretion of the participants whether or not to make such distributions.182

Resale price maintenance schemes result in obligations, not only for the purchasers/resellers on whom the restriction is imposed, but also on the publishers themselves. Publishers must impose the restriction on all of purchasers/resellers without exception, i.e., they may not, if the restriction is to be effective, grant preferences, for example, by waiving the price restraint (so-called ''notional or theoretical universality of application'' -- gedankliche oder theoretische Luckenlosigkeit). Moreover, they must act to defend the price maintenance scheme by taking appropriate action against violators, including both purchasers/resellers with whom they are in privity of contract and by others (so-called ''universality of application in practice'' -- praktische Luckenlosigkeit).

The requirement that price maintenance be universally applied has substantive law consequences.183 The courts regard it as unreasonable to expect the trade to maintain the resale price if the system is not universally applied. In the view of the BGH,184 the resale price maintenance obligation ceases to be enforceable if the system is not universally enforced.

GWB Section 34 provides that agreements imposing resale price maintenance must be in writing. Pursuant to GWB Section 17, the Federal Cartel Agency may declare an otherwise valid resale price maintenance agreement to be ineffective and may prohibit the enforcement of a new resale price maintenance agreement of the same type, if the agreement is being abused or if, by itself or together with other restraints on competition, it is likely to unreasonably increase the price of the goods affected or to restrict the production or distribution of such goods.

The BGH has found a violation of Section 16 where books subject to a resale price maintenance agreement were sold together with books not subject to a price maintenance agreement, and the price of those not subject to an agreement was set so low that the total sales profit corresponded only to the profit margin of those books that were subject to the agreement.185

これに対して、先に引用したコモディティー・フューチャーズ事件においては次のように述べているが、それと同趣旨の判例は多い。

「Actions for statutory injunctions need not meet the requirements for an injunction imposed by traditional equity jurisprudence. [**22]

独占禁止法の制定による差止の命令には、伝統的な衡平法上の法学により課される差止の構成要件は必要ではない。

Once a violation is demonstrated, the moving party need show only that there is some reasonable likelihood of future violations.

ある一つの違反が実際に証明されていれば、提訴した当事者は将来も違反が行われるであろうという合理的な蓋然性がいくらかでも存在するということだけを証明するだけで足りる。

SEC v. Advance Growth Capital Corp., supra, at 54;

Commodity Futures Trading Comm. v. British American Commodity Options Corp., 560 F.2d 135, 142 (2d Cir. 1977);

SEC v. Management Dynamics, Inc., 515 F.2d 801, 807 (2d Cir. 1975).

SEC対積極的経営社、 515 F.2d 801, 807 (2d Cir. 1975)。

While past misconduct does not lead necessarily to the conclusion that there is a likelihood of future misconduct, it is "highly suggestive of the likelihood of future violations."

過去の違法な非行が将来の違法な非行の可能性に関連性がないという結論に必ずしもならないのであるから、「将来の法律違反の可能性があることを示唆している蓋然性が高い」のである。

SEC v. Management Dynamics, Inc., supra, at 807.

上記、SEC証券取引委員会対積極的経営社、 515 F.2d 801, 807 (2d Cir. 1975)。

See also Commodity Futures Trading Comm. v. British American Commodity Options Corp., supra, at 142;

上記、コモディティー・フューチャーズ対英国米国商品オプション会社事件142頁。

SEC v. Advance Growth Capital Corp., supra, at 53.

上記、SEC証券取引委員会対 Advance Growth Capital Corp.事件, at 53.

In drawing the inference from past violations that future violations may occur,

過去の違反によって将来の違反が起こるかもしれないということを参考にして予測する場合には、

the court should look at the "totality of circumstances, and factors suggesting that the infraction might not have been an isolated occurrence are always relevant."

「その違反が完全に他とは隔離された状態で起こってきたのではないということを提示するような全体の状況や、多くの要素を」裁判所は発見すべきである。

SEC v. Management Dynamics, Inc., supra, at 807

上記、SEC証券取引委員会対積極的経営社、 515 F.2d 801, 807 ;

SEC証券取引委員会対Bausch & Lomb, Inc., 565 F.2d 8 (2d Cir. 1977). [**23]

Other circuit decisions analyzing the problem whether or not to grant statutory injunctive relief after a violation has been proven have looked to a variety of factors to determine whether there is a reasonable likelihood of future misconduct.違反が証明された後での救済を法定の差止によって認めるか、認めないかの問題を分析している他の高等巡回裁判所の多くの決定は、将来また違法な非行の蓋然性が合理的に考えてあるのかどうかについて決定する要素が様々に存在しているのかを決定してきた。」

アメリカは判例法の世界であり、以下の通りに上記のほぼ同じ文章を使った多くの判決があり、本件ではドイツの制定法主義を使った場合には100%強制的差止が使用でき、アメリカイギリスの判例法主義を使った場合でも、90%以上で強制的差止ができ、日本の制定法主義の国においても、共同ボイコットの法的規定を書いていたのであるから、これはアメリカの判例法を丸写ししていたのではあるが、90%以上で強制的差止が可能である。

日本で世界でも初めての強制的差止という自由競争では画期的な事件が起こったのである。

以下はLEXIS.Comからの判例である。

1. Commodity Futures Trading Com. v. Co. Petro Marketing Group, Inc., 502 F. Supp. 806, 1980 U.S. Dist. LEXIS 9586 (D. Cal., May 7, 1980) OVERVIEW: A company was not registered to conduct futures trading and therefore was enjoined from selling gasoline for future delivery where the buyer had the option to have the company resell the gasoline.HN5 - Actions for statutory injunctions pursuant to the Commodity Exchange Act, 7 U.S.C.S. ァ 1 et seq. (Act), need not meet the requirements for an injunction imposed by traditional equity jurisprudence. Once a violation of the Act has been shown, the moving party need only show the existence of some reasonable likelihood of future violations. Past unlawful conduct may be considered in the determination of likelihood of future violations. In drawing the inference from past violations that future violations may occur, the court should look at the totality of circumstances, and factors suggesting that the infraction might not have been an isolated occurrence are always relevant. More Like This Headnote

2. SEC v. Asset Mgmt. Corp., 1979 U.S. Dist. LEXIS 8080 (D. Ind., December 10, 1979.) OVERVIEW: An injunction was issued against the settlement non-participant, since it was proven that he had violated the federal securities laws, and his untruthfulness was indicative of a reasonable likelihood of future violations.HN21 - Actions for statutory injunctions need not meet the requirements for an injunction imposed by traditional equity jurisprudence. Once a violation is demonstrated, the moving party need show only that there is some reasonable likelihood of future violations. While past misconduct does not lead necessarily to the conclusion that there is a likelihood of future misconduct, it is highly suggestive of the likelihood of future violations. In drawing the inference from past violations that future violations may occur, the court should look at the totality of circumstances, and factors suggesting that the infraction might not have been an isolated occurrence are always relevant. Several elements are to be examined in reaching a determination on the question of "reasonable likelihood." These elements have been variously stated by different courts to include the nature and gravity of the offense, the violator's occupation or customary business activities, the extent of the defendant's recognition of his culpability, the recurrent nature of the conduct, and the degree of scienter. More Like This Headnote

3. Commodity Futures Trading Com. v. Hunt, 591 F.2d 1211, 1979 U.S. App. LEXIS 17799 (7th Cir., January 8, 1979, Decided) OVERVIEW: District court had power to compel violator of regulations promulgated under trading limit provisions of Commodity Exchange Act to disgorge illegally obtained profits.HN12 - Actions for statutory injunctions need not meet the requirements for an injunction imposed by traditional equity jurisprudence. Once a violation is demonstrated, the moving party need show only that there is some reasonable likelihood of future violations. While past misconduct does not lead necessarily to the conclusion that there is a likelihood of future misconduct, it is highly suggestive of the likelihood of future violations. In drawing the inference from past violations that future violations may occur, the court should look at the totality of circumstances, and factors suggesting that the infraction might not have been an isolated occurrence are always relevant. More Like This HeadnoteHN13 - The fact that a violator has continued to maintain that his conduct was blameless has prompted several courts to look favorably on injunctive relief. Similarly, when a defendant persists in its illegal activities right up to the day of the hearing in the district court the likelihood of futures violations, if not restrained, is clear. courts analyze the nature of the past misconduct and the violator's occupation or customary business activities to determine whether an injunction should be granted. When the violation has been founded on systematic wrongdoing, rather than an isolated occurrence, a court should be more willing to enjoin future misconduct. When a defendant, because of his professional occupation or career interest, will be in a position in which future violations could be possible, relief is appropriate. More Like This Headnote

4. United States v. Petrelli, 704 F. Supp. 122, 1986 U.S. Dist. LEXIS 29883 (D. Ohio, January 30, 1986, Filed) OVERVIEW: An injunction was granted to prohibit certain individuals and their affiliated corporations from engaging in a scheme to lease to investors artwork plates which did not exist or were grossly overvalued for the purpose of acquiring tax shelters.HN5 - Once a violation of the tax laws is demonstrated, the moving party need only show that there is some reasonable likelihood of future violations in order to justify injunctive relief. When an injunction is explicitly authorized by statute, proper discretion usually requires its issuance if the prerequisites for the remedy have been demonstrated and the injunction would fulfill the legislative purpose. Under 26 U.S.C.S. ァ 7408, the first requirement for injunctive relief is that a person has engaged in conduct which is subject to penalty under ァ 6700 or 6701. More Like This HeadnoteHN6 - The second requirement for injunctive relief under 26 U.S.C.S. ァ 7408 is that injunctive relief is appropriate to prevent a recurrence of the conduct in question. In determining whether there is a likelihood of the recurrence of the harmful conduct, the court may focus upon the past history of the person whose conduct is such to be enjoined to establish a likelihood of recurrence. In drawing the inference from past violations that future violations may occur, the court should look at the totality of circumstances, and factors suggesting that the infraction might not have been an isolated occurrence are always relevant. Specifically, in predicting the likelihood of future violations, a court must assess the totality of the circumstances surrounding the defendant and his violation, including such factors as the gravity of harm caused by the offense, the extent of the defendant's participation and his degree of scienter, the isolated or recurrent nature of the infraction and the likelihood that the defendant's customary business activities might again involve him in such transactions, the defendant's recognition of his own culpability, and the sincerity of his assurances against future violations. More Like This Headnote

5. United States v. Richlyn Labs., Inc., 827 F. Supp. 1145, 1992 U.S. Dist. LEXIS 15152 (D. Pa., October 1, 1992, Decided) OPINION: ... [*1150] Furthermore, while past misconduct does not lead necessarily to the conclusion that there is a likelihood of future misconduct, it is highly suggestive of the likelihood of future violations and the court should therefore look at the totality of the circumstances and any factors suggesting that the infraction might not have been an isolated occurrence. Commodity Futures Trading Commission v. Hunt, supra, 591 F.2d at 1220 citing, inter alia, SEC v. Management Dynamics, Inc., 515 F.2d 801, 807 (2nd Cir. 1975). ...

6. CFTC v. Wall St. Underground, Inc., 281 F. Supp. 2d 1260, 2003 U.S. Dist. LEXIS 15865 (D. Kan., July 18, 2003, Decided) OVERVIEW: Commodities and Futures Trading Commission (CFTC) was entitled to preliminary injunction enjoining violations of Commodities Trading Act where CFTC proved that violation of the Act by two corporations and three individuals was likely to continue.HN7 - Actions for statutory injunctions need not meet the requirements for an injunction imposed by traditional equity jurisprudence. Once a violation is demonstrated, the moving party need show only that there is some reasonable likelihood of future violations. While past misconduct does not lead necessarily to the conclusion that there is a likelihood of future misconduct, it is highly suggestive of the likelihood of future violations. In drawing the inference from past violations that future violations may occur, the court should look at the totality of circumstances, and factors suggesting that the infraction might not have been an isolated occurrence are always relevant. More Like This Headnote

7. SEC v. Ingoldsby, 1990 U.S. Dist. LEXIS 11383 (D. Mass., May 15, 1990) OVERVIEW: A trader violated insider trading rules and was subject to disgorgement and prejudgment interest. However, because there was no likelihood of future securities violations by the trader, an injunction was not imposed upon him.HN2 - The proper standard for the issuance of an injunction in securities fraud cases is the reasonable likelihood of future violations of the statutory provisions. The moving party must first prove that there exists some cognizable danger of recurrent violation, something more than the mere possibility which serves to keep the case alive. More Like This HeadnoteHN4 - When predicting the reasonable likelihood of future violations in order to determine the appropriateness of injunctive relief, the court must assess the totality of the circumstances surrounding the defendant and his violation of the securities laws. These factors encompass the degree of scienter involved, the defendant's recognition of wrongful conduct, the sincerity of his assurances against future violations, and the isolated or recurrent nature of the infraction. Other relevant criteria include the egregiousness of the defendant's actions and the likelihood that the defendant's occupation will present opportunities for future violations. While general equitable concerns such as the resultant adverse impact upon the defendant's professional reputation and business activity may also be considered, the public interest is paramount to any individual hardship. More Like This Headnote

8. CFTC v. Collins, 1997 U.S. Dist. LEXIS 1597 (D. Ill., February 6, 1997, Decided) OVERVIEW: The evidence supported a finding that a broker violated the Commodity Exchange Act when he made misrepresentations to commodity investors and issued false reports concerning their accounts.HN3 - In an action for a statutory injunction, once a violation has been shown, the movant need only show a reasonable likelihood of future violations to obtain relief. In predicting the likelihood of future violations, a court must assess the totality of the circumstances surrounding the defendant and his violation, including such factors as the gravity of harm caused by the offense; the extent of the defendant's participation and his degree of scienter; the isolated or recurrent nature of the infraction and the likelihood that the defendant's customary business activities might again involve him in such transaction; the defendant's recognition of his own culpability; and the sincerity of his assurances against future violations. However, injunctive relief is never automatic upon the showing of a statutory violation. While past misconduct is highly suggestive of the likelihood of future violations, it does not necessarily lead to the conclusion that future misconduct will occur. More Like This Headnote

9. SEC v. Allison, 1982 U.S. Dist. LEXIS 14326 (D. Cal., August 11, 1982.) OVERVIEW: The SEC was entitled to summary judgment and a permanent injunction against sellers of unregistered securities whose activities did not fall under any exemptions and who were likely to continue to violate the Securities Act.HN12 - Section 20(d) of the Securities Act (Act), codified at 15 U.S.C.S. ァ 77t(d), empowers the court to issue an injunction upon a proper showing that a defendant is engaged or is about to engage in acts or practices constituting a violation of the Act. Thus, the Securities and Exchange Commission must prove that there is a reasonable likelihood of future violations and must clearly establish the absence of any fact material to the granting of the injunction. The existence of past violations may give rise to an inference that there will be future violations; and the fact that the defendant is currently complying with the securities laws does not preclude an injunction. In predicting the likelihood of future violations, a court must assess the totality of the circumstances surrounding the defendant and his violations, factors such as the degree of scienter involved; the isolated or recurrent nature of the infraction; the defendant's recognition of the wrongful nature of his conduct; the likelihood, because of defendant's professional occupation, that future violations might occur; and the sincerity of his assurances against future violations. Thus, the "reasonable likelihood" analysis requires essentially three areas of inquiry: The nature of the past violations, the defendant's present attitude, and the objective constraints or opportunities for future violations. More Like This Headnote

10. SEC v. Lund, 570 F. Supp. 1397, 1983 U.S. Dist. LEXIS 13665 (D. Cal., September 16, 1983) OVERVIEW: Investor became a temporary insider upon receipt of material, nonpublic information, and breaching duty to abstain from trading on that information was actionable under Securities Exchange Act. It was an isolated incident not warranting injunction.HN10 - In order to obtain a permanent injunction, plaintiff has the burden of showing there is a reasonable likelihood of future violations of the securities laws. The existence of past violations may give rise to an inference that there will be future violations, and the fact that the defendant is currently complying with the securities laws does not preclude an injunction. More Like This Headnote

11. Casino v. Mahopac Cent. School Dist., 741 F. Supp. 1028, 1989 U.S. Dist. LEXIS 17105 (D.N.Y., December 5, 1989) OVERVIEW: An employee was not required to prove that handicap discrimination was the sole reason for his transfer in order to sustain a jury's verdict that a school district had discriminated against him in violation of the Rehabilitation Act of 1973.OPINION: ... [*1032] quite obvious that this Court cannot currently enjoin the District to employ a deceased person, either in the future or [*1033] nunc pro tunc. In view of the fact that injunctions operate prospectively, not as punishment for the past misconduct, the Court must decline plaintiff's request for an injunctive order. See N.Y.Jur.2d, Injunctions ァ 3 (injunctions are not the appropriate remedy for past injuries nor ...

12. SEC v. Profit Enterprises, Inc., 1992 U.S. Dist. LEXIS 17906 (D.D.C., November 16, 1992, Decided) OVERVIEW: Summary judgment and an injunction were granted in favor of the SEC when telemarketers had knowledge that they were making misrepresentations, they were selling unregistered securities, and they were likely to commit violations in the future.HN8 - The Securities and Exchange Commission is entitled to injunctive relief if it can establish past violations which indicate a reasonable likelihood that the wrong will be repeated. Factors to consider in assessing the reasonable likelihood of recurrent violations include: whether the violation is an isolated occurrence; the degree of scienter involved; whether defendants have demonstrated that they understand their conduct to have been wrongful; whether they have given sufficient assurances against future violations; and whether the nature of defendants' business activities present them with future temptations to violate the law. More Like This Headnote

13. SEC v. Commonwealth Chemical Secur., Inc., 410 F. Supp. 1002, 1976 U.S. Dist. LEXIS 15841 (D.N.Y., March 30, 1976) OVERVIEW: A broker, its officers and employees, were permanently enjoined from future violations of federal securities laws and ordered to disgorge profits because best efforts offering of 50,00 units or none manipulated market and was fraudulent self-dealing.HN16 - The crucial test for injunctive relief is whether there is a reasonable likelihood that the wrong will be repeated. And whether this inference should be drawn depends on the totality of the circumstances. A number of circumstances to be considered, including: the fact that a defendant has been found liable for illegal conduct; the degree of scienter involved; whether the infraction is an isolated occurrence; whether the defendant continues to maintain that his past conduct was blameless; and whether, because of his professional occupation, the defendant might be in a position where future violations could be anticipated. More Like This Headnote

14. Securities & Exchange Com. v. GSC Enterprises, Inc., 1979 U.S. Dist. LEXIS 9265 (D. Ill., October 10, 1979.) OVERVIEW: The personal financial condition of an individual involved with two business entities was relevant in an action by the SEC for injunctive relief as a totality of circumstances test was used to determine if securities violations would be repeated.HN2 - While it is true that the totality of the circumstances test is applied in determining whether a defendant is likely to repeat the wrong, there are no required circumstances which must be considered to the exclusion of other circumstances. Rather, any circumstance which suggests that the infraction might not have been an isolated occurrence is relevant. As the facts in each case vary, so must the circumstances which should be considered in each case. More Like This Headnote

15. SEC v. Lawbaugh, 359 F. Supp. 2d 418, 2005 U.S. Dist. LEXIS 4041 (D. Md., March 14, 2005, Decided) OVERVIEW: Where defendant diverted millions from corporations and misappropriated funds from investors, SEC was granted default judgment of injunctive relief, disgorgement, and civil penalty because egregious securities fraud violations were not isolated, indicating high degree of scienter, and there was nothing to indicate that his conduct would not recur.HN12 - The well established standard developed by the courts to determine if an injunction should issue in a case involving securities violations is based on a determination of whether there is a reasonable likelihood that the defendant, if not enjoined, will again engage in the illegal conduct. When examining the factors to be considered in reaching a determination under this standard, courts have looked to, among other things, the degree of scienter involved on the part of the defendant, the isolated or recurrent nature of the infraction, the defendant's recognition of the wrongful nature of his conduct, the sincerity of his assurances against future violations, and the likelihood, because of defendant's professional occupation, that future violations might occur. Essentially, a court makes a prediction of the likelihood of future violations based on an assessment of the totality of the circumstances surrounding the particular defendant and the past violations that were committed. More Like This Headnote

16. United States v. Philip Morris USA, 316 F. Supp. 2d 6, 2004 U.S. Dist. LEXIS 7969 (D.D.C., May 6, 2004, Decided) OVERVIEW: Defendants' motion for summary judgment was denied where the assessment of whether or not the U.S. had shown a reasonable likelihood of future RICO violations obviously required an evaluation of material factual issues that were clearly in dispute.HN9 - In the District of Columbia Circuit, to determine whether there is a reasonable likelihood of future Racketeer Influenced and Corrupt Organizations Act, 18 U.S.C.S. ァ 1961 et seq., violations, a court must evaluate the totality of circumstances. In particular, courts must consider: (1) whether a defendant's violation was isolated or part of a pattern, (2) whether the violation was flagrant and deliberate or merely technical in nature, and (3) whether the defendant's business will present opportunities to violate the law in the future. No one factor which bears on the reasonable likelihood of future violations can be dispositive; rather the court must look at the whole factual picture. More Like This Headnote

17. SEC v. Warner, 674 F. Supp. 841, 1987 U.S. Dist. LEXIS 10708 (D. Fla., November 18, 1987, Decided) OVERVIEW: In order to obtain injunctive relief in a case in which current violations of the securities laws were not alleged, the SEC had to show that there was a reasonable likelihood that defendant would engage in future violations of the securities laws.HN1 - In order to obtain injunctive relief in a case where current violations of the securities laws are not alleged, the Securities and Exchange Commission (SEC) must establish that there is a reasonable likelihood that the defendant, if not enjoined, will engage in future violations of the securities laws. The decision whether to grant or deny injunctive relief is addressed to the sound discretion of the district court. The court must, however, view the evidence in the light most favorable to the SEC and the SEC is entitled to the benefit of all reasonable inferences. In making its decision, the court must consider several factors, including the egregiousness of the defendant's actions, the isolated or recurrent nature of the infraction, the degree of scienter involved, the sincerity of the defendant's assurances against future violations, the defendant's recognition of the wrongful nature of his conduct, and the likelihood that the defendant's occupation will present opportunities for future violations. The SEC must also go beyond the mere fact of past violations and offer "positive proof" of the likelihood of further violations in the future. It is not a single factor, but rather the sum of the circumstances surrounding the defendant and his past conduct that governs whether to grant or deny injunctive relief. More Like This Headnote

18. SEC v. Prater, 296 F. Supp. 2d 210, 2003 U.S. Dist. LEXIS 22326 (D. Conn., November 25, 2003, Decided) OVERVIEW: The advisor and the corporation's motion to severely modify the injunction was denied because they made no factual showing suggesting that the harm the Securities and Exchange Commission sought to prevent in requesting the injunction had disappeared.HN6 - Under ァ 20(b) (15 U.S.C.S. ァ 77t(b)) of the Securities Act of 1933 courts can grant a preliminary injunction in an Securities and Exchange Commission (SEC) enforcement action upon a "proper showing" of securities law violations. 15 U.S.C.S. ァ 77t(b). The United States Court of Appeals for the Second Circuit has stated that that "proper showing" requires the SEC to demonstrate both a prima facie case of past violations, and a reasonable likelihood or propensity to engage in future violations. Among the factors a district court may consider in exercising its wide discretion to determine whether an injunction is proper are: (1) the likelihood of future violations; (2) the degree of scienter involved; (3) the sincerity of defendant's assurances against future violations; (4) the isolated or recurrent nature of the infraction; (5) defendant's recognition of the wrongful nature of his conduct; and (6) the likelihood, because of defendant's professional occupation, that future violations might occur. More Like This Headnote

19. Smith v. Sheahan, 189 F.3d 529, 1999 U.S. App. LEXIS 20279 (7th Cir., August 27, 1999, Decided) OVERVIEW: Summary judgment improper; the severe assault on plaintiff effectively altered the terms of her employment and defendant sheriff's department's negligent response to the harassment did not effectively remedy the problem.OPINION: ... [*534] Sheriff argues that only sexual assaults qualify as isolated occurrences severe enough to alter the conditions of a victim's employment without proof of additional incidents. This position, however, loses sight of the Court's admonition in Oncale that the only requirement is that the adverse action must be because of the victim's sex (or other protected characteristic). In a sex discrimination case, the action need not be inspired by sexual desire, assuming for the ...

20. SEC v. Kalvex, Inc., 425 F. Supp. 310, 1975 U.S. Dist. LEXIS 11560 (D.N.Y., July 7, 1975) OVERVIEW: Defendant's concealment of material facts on his proxy statements, such as kickbacks and false reimbursement payments, violated the Securities Exchange Act since a stockholder's vote would have been influenced by disclosure.HN9 - It has been determined that the critical question in issuing an injunction under the Securities Exchange Act of 1934, ァ 21(e) is whether there is a reasonable likelihood that the wrong will be repeated. More Like This Headnote

21. Securities & Exchange Com. v. Texas International Co., 498 F. Supp. 1231, 1980 U.S. Dist. LEXIS 17805 (D. Ill., September 30, 1980, Decided) OVERVIEW: In federal securities laws action, plaintiff SEC was granted summary judgment on count for defendant's failure to file statement since it was statutorily required, and summary judgment was granted to defendant on disclosure standards.HN32 - Although past illegal conduct is highly suggestive of the likelihood of future violations, the critical question is whether there is a reasonable likelihood that the wrong will be repeated. That inference requires an appraisal of the totality of the circumstances and factors suggesting that a violation may or may not have been an isolated occurrence. More Like This Headnote

22. SEC v. Bausch & Lomb, Inc., 565 F.2d 8, 1977 U.S. App. LEXIS 11325 (2d Cir., September 30, 1977, Decided) OVERVIEW: An SEC injunction against a corporation after it divulged certain inside information was not warranted because the corporation acted without scienter and because the reasonable likelihood of future wrongdoing was not established.HN8 - The Securities and Exchange Commission (SEC) cannot obtain relief without positive proof of a reasonable likelihood that past wrongdoing will recur. The SEC must show a cognizable risk of future violation. The inference that a defendant is likely to repeat his or her wrongs depends on the totality of the circumstances. More Like This Headnote

23. SEC v. American Realty Trust, 429 F. Supp. 1148, 1977 U.S. Dist. LEXIS 17232 (D. Va., February 24, 1977) OVERVIEW: Because the Securities and Exchange Commission failed to prove violations of the Securities Act of 1933 and the Securities and Exchange Act of 1934, the court was without jurisdiction to entertain the injunctive and ancillary relief sought.HN23 - Although past illegal conduct is highly suggestive of the likelihood of future violations, whether that inference is properly drawn depends on the totality of circumstances and factors suggesting that the infraction might not have been an isolated occurrence are always relevant. More Like This Headnote

24. State v. Clark, 499 So. 2d 332, 1986 La. App. LEXIS 8208 (La. Ct. App., November 14, 1986) OVERVIEW: The victims' failure to identify defendants at a later lineup when defendants' appearances had changed was not reversible error where the victims clearly identified defendants, charged with two armed robberies, at the scene and at the trial.HN1 - Courts apply several factors in determining the admissibility of identification evidence, including the following: the opportunity of the witness to view the criminal at the time of the crime, the witness's degree of attention, the accuracy of any prior description to the police, the level of certainty displayed at the confrontation, and the time between the crime and the confrontation. To suppress an identification, a defendant must show that it was suggestive and that a reasonable likelihood of misidentification existed. Identifications through one-on-one confrontations between a suspect and a victim are permissible when justified by the overall circumstances, especially when the accused is apprehended a short time after the event and is returned to the crime scene. A proper identification in such cases promotes accuracy and expedites the release of innocent suspects. More Like This Headnote

25. SEC v. Jakubowski, 1997 U.S. Dist. LEXIS 14575 (D. Ill., September 12, 1997, Decided) OVERVIEW: A permanent injunction against any future violation of securities laws, disgorgement of profits, prejudgment interest, and a civil fine against attorney was proper where there was a reasonable likelihood that he would again violate securities laws.HN1 - In an action for a statutory injunction, once a violation has been demonstrated, the moving party need only show that there is a reasonable likelihood of future violations in order to obtain injunctive relief. In predicting the likelihood of future violations, a court must assess the totality of the circumstances surrounding the defendant and his violation, including such factors as the gravity of harm caused by the offense; the extent of the defendant's participation and his degree of scienter; the isolated or recurrent nature of the infraction and the likelihood that the defendant's customary business activities might again involve him in such transactions; the defendant's recognition of his own culpability; and the sincerity of his assurances against future violations.In weighing these factors, the court may properly view a culpable defendant's continued protestations of innocence as an indication that injunctive relief is advisable. Moreover, the existence of past violations may give rise to an inference that there will be future violations; and the fact that the defendant is currently complying with the securities laws does not preclude an injunction. More Like This Headnote

26. SEC v. Solucorp Indus., 197 F. Supp. 2d 4, 2002 U.S. Dist. LEXIS 7438 (D.N.Y., April 26, 2002, Decided) OVERVIEW: In an SEC case, a chartered accountant's summary judgment motion was denied. Scienter was not a requirement of the charge and there was a genuine issue of fact as to whether an injunction was appropriate.HN12 - To obtain an injunction under ァ 21(d) of the Securities Exchange Act of 1934, the Securities and Exchange Commission must demonstrate that there is a reasonable likelihood that the defendant will engage in future violations. In making such a determination, a court will examine the following factors: (1) the fact that the defendant has been found liable for illegal conduct, (2) the degree of scienter involved, (3) whether the infraction is an isolated occurrence, (4) whether defendant continues to maintain that his past conduct was blameless, and (5) whether, because of his professional occupation, the defendant might be in a position where future violations could be anticipated. Furthermore, no single factor is determinative; instead, the district court should determine the propensity for future violations based on the totality of circumstances. More Like This Headnote

27. SEC v. Zale Corp., 650 F.2d 718, 1981 U.S. App. LEXIS 11357 (5th Cir.-OLD, July 16, 1981) OVERVIEW: Plaintiff was not entitled to summary judgment where he was required to establish scienter as an element of his civil enforcement action to enjoin defendants' violations of federal securities laws.HN4 - Relevant considerations in the "reasonable likelihood" analysis resolve into essentially three areas of inquiry: the nature of the past violation, the defendant's present attitude, and objective constraints on (or opportunities for) future violations of the securities laws. Such factors include the egregiousness of the defendant's actions, the isolated or recurrent nature of the infraction, the degree of scienter involved, the sincerity of the defendant's recognition of the wrongful nature of his conduct, and the likelihood that the defendant's occupation will present opportunities for future violations. More Like This Headnote

28. CFTC v. Standard Forex, 1993 U.S. Dist. LEXIS 19909 (D.N.Y., August 9, 1993, Decided) OVERVIEW: An action by the Commodity Futures Trading Commission alleging violations of the Commodity Exchange Act for marketing futures contracts to buy or sell British pounds was proper because the transactions were not exempt under the Treasury Amendment.HN38 - In determining whether there is a reasonable likelihood that violations of the Commodity Exchange Act will continue, the court considers the totality of the circumstances and factors which suggest that the past unlawful conduct was systematic as opposed to an isolated occurrence. A likelihood of future infractions may properly be inferred from the defendants' past unlawful conduct. More Like This Headnote

29. People v. Jones, 85 A.D.2d 50, 1982 N.Y. App. Div. LEXIS 17064 (N.Y. App. Div., February 18, 1982) OVERVIEW: Defendant's convictions for attempted murder and armed robbery were affirmed because the defense failed to show that withheld evidence was so material or relevant to defendant's case that defendant was deprived of a fair trial.OPINION: ... [*52] discretion must give way, and the duty to determine the merits of the request for disclosure then devolves on the trial court" ( People v Consolazio, supra, p 453). The evidence must be material to the defense and would have, in any reasonable likelihood, affected the judgment of the jury ( Giglio v United States, 405 U.S. 150, 154). Neither good faith nor negligence of the prosecutor is excusable for failure to disclose evidence found to qualify as highly ...

30. SEC v. Falbo, 14 F. Supp. 2d 508, 1998 U.S. Dist. LEXIS 11926 (D.N.Y., August 5, 1998, Decided) OVERVIEW: Electrical contractor violated securities laws when he improperly obtained information about takeover target, misappropriated that information, and invested in target's stock. The remedy included disgorgement of profit, interest and penalties.HN20 - A permanent injunction against future violations of the securities laws should issue when violations of the federal securities laws have occurred and there is a reasonable likelihood of future violations. Injunctive relief is permissible following summary judgment. A court should consider several factors in evaluating the likelihood of future infractions, including: the degree of scienter; the isolated or recurrent nature of the infractions; the defendant's recognition of the wrongful nature of his conduct; and the likelihood that the defendant will have the opportunity to commit future violations. More Like This Headnote

31. For Your Ease Only v. Natural Sci. Indus., 233 F. Supp. 2d 988, 2002 U.S. Dist. LEXIS 21230 (D. Ill., October 30, 2002, Decided) OVERVIEW: Because a competitor raised a valid question of whether the particular innovation of a patent, the removable bottom plate, was non-obvious, and therefore, whether the patent was valid, the motion for a preliminary injunction was denied.HN2 - The law of the Federal Circuit Court of Appeals governs the issuance of preliminary injunctions for patent infringement under 35 U.S.C.S. ァ 283. Under the law of the Federal Circuit, the decision to grant a preliminary injunction is within the sound discretion of the district court. The moving party has the burden of showing four factors: (1) a reasonable likelihood of success on the merits; (2) irreparable harm if an injunction is not granted; (3) a balance of hardships tipping in its favor; and (4) the injunction's favorable impact on the public interest. No single factor is a sufficient condition for an injunction, but the first two factors, a reasonable likelihood of success and irreparable harm, are necessary conditions. More Like This Headnote

32. In re National Credit Mgmt. Group, L.L.C., 21 F. Supp. 2d 424, 1998 U.S. Dist. LEXIS 6870 (D.N.J., March 25, 1998, Decided) OVERVIEW: Federal Trade Commission was entitled to preliminary injunction prohibiting credit company from engaging in prohibited credit monitoring services, as company failed in burden of showing that consumers did not rely on its credit repair advertisements.HN5 - Where an injunction is sought pursuant to a statutory provision, the moving party must establish probable cause exists to believe that the statute in question is being violated and that there is some reasonable likelihood of future violations. Additionally, the public interest must be examined. No immediate or specific showing of the exact way in which violations of the statute will result in public harm is necessary. More Like This HeadnoteHN7 - In determining whether a moving party has satisfied its burden of establishing a reasonable likelihood of future violations of the applicable statute in the absence of injunctive relief, the following factors, among others, are considered: (1) the degree of scienter involved on the part of the defendant; (2) the isolated or recurrent nature of the infraction; (3) the defendant's recognition of the wrongful nature of his conduct; (4) the sincerity of the defendant's assurances against future violations; and (5) the nature of the defendant's occupation. Additionally, it is important to consider the voluntary cessation by a defendant of challenged practices, the genuineness of the efforts of a defendant to conform to the applicable laws, the progress of a defendant towards improvement, and compliance by a defendant with any recommendations made by the government. More Like This HeadnoteHN8 - While past misconduct does not automatically lead to the conclusion that there is a reasonable likelihood of future violations, it is highly suggestive of the likelihood of future violations and the court should therefore look at the totality of the circumstances and any factors suggesting that the infraction might not have been an isolated occurrence. More Like This Headnote

33. Commodities Futures Trading Com. v. Commodities Fluctuations Systems, Inc., 583 F. Supp. 1382, 1984 U.S. Dist. LEXIS 17829 (D.N.Y., April 6, 1984) OVERVIEW: Although the company acted in good faith in establishing procedures enabling supervision and in retaining contractual rights to supervise its representatives, it failed in its obligation to carry out those supervisory rights and duties.HN5 - To obtain statutory injunctive relief the Commodity Futures Trading Commission must establish (1) a prima facie showing of violations of the Commodities Exchange Act and (2) a reasonable likelihood that the violations will continue unless enjoined. Mere cessation of the illegal activity is an insufficient basis for denying statutory injunctive relief. Rather, a court must look at the totality of the circumstances surrounding the particular defendant and the violations committed. More Like This Headnote

34. Commodity Futures Trading Com. v. Incomco, Inc., 580 F. Supp. 1486, 1984 U.S. Dist. LEXIS 19043 (D.N.Y., February 29, 1984) OVERVIEW: The Commodity Futures Trading Commission was denied a permanent injunction against a commodity futures trader and a merchant for violations of record-keeping requirements because it failed to show a reasonable likelihood of future violations.HN1 - To be entitled to injunctive relief against commodity futures traders, the Commodity Futures Trading Commission has to establish a reasonable likelihood that a wrong will be repeated. Factors that the court finds relevant include: the likelihood of future violations, the degree of scienter involved, the sincerity of defendant's assurances against future violations, the isolated or recurrent nature of the infraction, defendant's recognition of the wrongful nature of his conduct, and the likelihood, because of defendant's professional occupation, that future violations might occur. More Like This Headnote

35. Daniels v. Southfort, 6 F.3d 482, 1993 U.S. App. LEXIS 25106 (7th Cir., October 1, 1993, Decided) OVERVIEW: An arrestee failed to meet the prerequisites for injunctive relief because he failed to identify a "pervasive pattern of intimidation" flowing from a deliberate plan by police officers to violate his Fourth Amendment rights.HN6 - The award of injunctive relief is appropriate in those cases where the moving party can demonstrate that (1) no adequate remedy at law exists; (2) it will suffer irreparable harm absent injunctive relief; (3) the irreparable harm suffered in the absence of injunctive relief outweighs the irreparable harm respondent will suffer if the injunction is granted; (4) the moving party has a reasonable likelihood of prevailing on the merits; and (5) the injunction will not harm the public interest. In order to prevail, the moving party must satisfy each element of the five part test. More Like This Headnote

36. Sejnoha v. Bisbee, 815 F. Supp. 1300, 1993 U.S. Dist. LEXIS 3254 (D. Ariz., February 22, 1993, Decided) OVERVIEW: A citizen's claim that an officer conducted an impermissibly suggestive photographic lineup could not form the basis of a ァ 1983 complaint because there was no constitutional right to an unsuggestive lineup and the evidence wasn't used in a trial.OPINION: ... [*1302] question to be answered is "whether the evidence presents a sufficient disagreement to require submission to a jury or whether it is so one-sided that one party must prevail as a matter of law." Id., at 251-252. The initial burden is on the moving party to show that there is no genuine issue of material fact. Once satisfied, the burden shifts to the opponent to demonstrate through production of probative evidence that there remains an issue of fact to be tried. Celotex Corp. v. Catrett, 477 U.S. 317, 323-324, 106 S. Ct. 2548, 91 L. Ed. 2d 265 (1986). ...

37. Breest v. Perrin, 624 F.2d 1112, 1980 U.S. App. LEXIS 15788 (1st Cir., July 11, 1980, Decided) OVERVIEW: Testimony of fellow prisoner about promise of new identity if he testified about defendant's murder confession would not have affected jury's verdict in any reasonable likelihood when prisoner admitted he made a deal to protect his safety.OPINION: ... [*1117] More importantly, even if we assume that the jury could have perceived the promise of an identity change as a significant motive for Carita's testimony, we cannot see any reasonable likelihood that its judgment could have been affected. While, as we have said, Carita's testimony was by no means unimportant, it was, in terms of its impact on the jury, inherently credible within the context of the increasingly suggestive inferences raised by the circumstantial evidence. As a practical matter, testimony that fits ...

38. Orwick v. Seattle, 37 Wn. App. 594, 1984 Wash. App. LEXIS 2984 (Wash. Ct. App., May 21, 1984, Filed) OVERVIEW: A superior court did not have jurisdiction to consider injunctive or declaratory relief in motorists' contest of their municipal traffic cases, but it could find there was no malice to support their claims of malicious prosecution.OPINION: ... [*598] court mere evidentiary and procedural defenses available to litigants contesting traffic infraction cases. Generally, "equity will not enjoin enforcement of criminal laws, and an injunction will not be granted to stay criminal or quasi-criminal proceedings, whether the prosecution is for the violation of the common law or the infraction of statutes or municipal ordinances . . .". (Footnote omitted.) 43A C.J.S. Injunctions ァ 162 (1978); see Sandona v. Cle Elum, 37 Wn.2d 831, 835, 226 P.2d 889 (1951); ...

39. SEC v. Grossman, 1997 U.S. Dist. LEXIS 6225 (D.N.Y., May 6, 1997, Decided) OVERVIEW: A tipper and his tippees were liable for disgorgement and prejudgment interest due to their insider trading violations, but summary judgment and injunctive relief for the SEC were not warranted because of the unlikelihood of future violations.HN16 - A court has discretion to grant an injunction against a violator of the securities laws where there is a reasonable likelihood that the wrong will be repeated. In evaluating the likelihood of future wrongs, the court considers several factors, including, inter alia, the degree of scienter, the sincerity of the defendant's assurances against future violations, the isolated or recurrent nature of the infraction, defendant's recognition of the wrongful nature of his conduct, and the likelihood that because of defendant's profession, future violations will occur. More Like This Headnote

40. Gregory v. City of Louisville, 2004 U.S. Dist. LEXIS 7046 (D. Ky., March 24, 2004, Decided) OVERVIEW: A district court dismissed an innocent arrestee's constitutional claims and state law tort claims against police officers, except claims for withholding of exculpatory evidence and making the arrest without probable cause or valid identification.OPINION: ... [*23] Supreme Court has held that whether a defendant's due process rights are violated by the admission at trial of an unnecessarily suggestive lineup depends upon the totality of the circumstances surrounding the lineup or confrontation." Hutsell v. Sayre, 5 F.3d 996, 1005 (6th Cir. 1993). We turn, then, to the central question, whether under the "totality of the circumstances" the identification was reliable even though the confrontation procedure was suggestive. As indicated by our cases, the factors to be ...

41. United States SEC v. Ginsburg, 362 F.3d 1292, 2004 U.S. App. LEXIS 5184 (11th Cir., March 19, 2004, Decided) OVERVIEW: In an insider trading case, the district court erroneously vacated the judgment against the insider and granted his motion for a judgment as a matter of law. The insider's explanation of events was insufficient to overturn the jury's verdict.HN11 - In order to be entitled to injunctive relief, the Securities and Exchange Commission has to show a reasonable likelihood that defendant will violate the securities laws in the future. The proper factors to consider in making this determination are the egregiousness of the defendant's actions, the isolated or recurrent nature of the infraction, the degree of scienter involved, the sincerity of the defendant's assurances against future violations, the defendant's recognition of the wrongful nature of his conduct, and the likelihood that the defendant's occupation will present opportunities for future violations. More Like This Headnote

42. Gelfand v. Stone, 727 F. Supp. 98, 1989 U.S. Dist. LEXIS 13718 (D.N.Y., November 17, 1989, Decided) OVERVIEW: A preliminary injunction was issued ordering a client to pay part of a tax refund into the court's registry, where attorneys sought fees for their representation in tax court and the client had a history of deceptive and fraudulent practices.HN2 - The commission of past illegal conduct is highly suggestive of the likelihood of future violations. However, a court may not rest its finding of the likelihood of future harm solely on the past illegal conduct. Whether the inference that defendant is likely to repeat the wrong is properly drawn, however, depends on the totality of circumstances, and factors suggesting that the infraction might not have been an isolated occurrence are always relevant. More Like This Headnote

43. SEC v. Cavanagh, 2004 U.S. Dist. LEXIS 13372 (D.N.Y., July 15, 2004, Decided) OVERVIEW: SEC received summary judgment; defendants merged shell company with small unsuccessful operating company, created false impression of interest in stock, filed misleading registration statement, and drove stock price up, pocketing millions of dollars.HN27 - Injunctive relief is expressly authorized by Congress to proscribe future violations of federal securities laws. 15 U.S.C.S. ァ 78u(d). In order to obtain a permanent injunction, the Securities and Exchange Commission (SEC) must show that there is a substantial likelihood of future violations of illegal securities conduct. In making this determination, a court should look to: the fact that the defendant has been found liable for illegal conduct; the degree of scienter involved; whether the infraction is an "isolated occurrence;" whether defendant continues to maintain that his past conduct was blameless; and whether, because of his professional occupation, the defendant might be in a position where future violations could be anticipated. In analyzing whether a defendant has a propensity for future violations, courts should look to the "totality of the circumstances." In particular, the commission of past illegal conduct is highly suggestive of the likelihood of future violations. Past violations may in certain circumstances justify an inference that a defendant is likely to violate the law in the future if not enjoined. More Like This Headnote

44. United States v. Mason Tenders Dist. Council, 1995 U.S. Dist. LEXIS 17049 (D.N.Y., November 14, 1995, Decided) OVERVIEW: Permanent injunction sought by government and Secretary of United States Department of Labor under civil remedies of RICO to enjoin organized crime members, who dominated union council, from interactions connected with commercial matters was proper.HN7 - In deciding whether an injunction under RICO, 18 U.S.C.S. ァ 1964(a) is appropriate, a court is obliged to consider whether, in view of all the circumstances, it is an abuse of discretion for the district court to find a reasonable likelihood that the wrong will be repeated. Courts are free to assume that past misconduct is highly suggestive of the likelihood of future violations. When the violation has been founded on systematic wrongdoing, rather than an isolated occurrence, a court should be more willing to enjoin future misconduct. More Like This Headnote

45. SEC v. Hughes Capital Corp., 1994 U.S. Dist. LEXIS 21487 (D.N.J., December 9, 1994, Decided) OPINION: ... [*43] purpose of an injunction is not to punish the violator, but to deter him or her from the commission of future securities law violations. SEC v. Koracorp indus. inc., 575 F.2d 692, 697 (9th Cir.), cert. denied sub nom. Helfat v. SEC, 439 U.S. 953, 58 L. Ed. 2d 343, 99 S. Ct. 348 (1978). The standard for determining whether an injunction should issue is whether a reasonable likelihood exists that the ...

46. FTC v. Austin Galleries of Illinois, Inc., 1988 U.S. Dist. LEXIS 12380 (D. Ill., October 24, 1988, Decided; November 2, 1988, Filed) OVERVIEW: Although the FTC had established that art sellers fraudulently had sold graphic art in the past, because proof had not established that the sellers had sold non-graphic art fraudulently, a blanket injunction covering both art types was not allowed.HN1 - Regulatory agencies which bring actions to obtain an injunction pursuant to statute are not required to meet the requirements for an injunction traditionally imposed by equity. Once the moving party has demonstrated past violations, it need only show that future violations are reasonably likely to occur in order to obtain an injunction. In predicting the likelihood of future violations, and thus weighing the need for a preliminary injunction, a court must consider the totality of the circumstances surrounding the defendant and his violation. More Like This Headnote

47. Peterson v. United States, 2002 U.S. Dist. LEXIS 23411 (D. Ill., December 4, 2002, Decided) OVERVIEW: Magistrate's findings were adopted. Because attorney's injunctive relief request either related to a pending state matter or to a final order of the Illinois Supreme Court, he did not establish reasonable likelihood of success on complaint's merits.HN4 - When determining whether to issue a preliminary injunction, the court considers whether a plaintiff has established: 1) a reasonable likelihood of success on the merits, and 2) no adequate remedy at law and irreparable harm if preliminary relief is denied. If the moving party clears these hurdles, the court must then consider: 3) the irreparable harm the nonmoving party will suffer if the injunction is granted balanced against the irreparable harm the moving party will suffer and 4) the public interest. More Like This Headnote

48. Dunlop-McCullen v. Local 1-S, 149 F.3d 85, 1998 U.S. App. LEXIS 9471 (2d Cir., May 7, 1998, Decided) OVERVIEW: Union chairman's leave to file verified complaint against union and other officials was improperly denied where trial court utilized possibility of defense of unclean hands as dispositive element in determination of reasonable likelihood of success.HN6 - If a district court determines that a plaintiff seeking leave to file a complaint under the Labor-Management Reporting & Disclosure Act, 29 U.S.C.S. ァ 501(b), will likely be faced with the equitable defense of unclean hands, then the district court may factor this determination into its decision upon the plaintiff's reasonable likelihood of success. Therefore, a determination of a plaintiff's unclean hands is an appropriate factor--though not necessarily a dispositive one--to be used when deciding whether to grant a plaintiff leave to file a complaint under ァ 501(b). More Like This Headnote

49. Commodities Futures Trading Comm'n v. Heffernan, 274 F. Supp. 2d 1375, 2003 U.S. Dist. LEXIS 13463 (D. Ga., August 4, 2003, Decided) OVERVIEW: Individual was ordered to disgorge $ 275,000 in a Commodity Exchange Act action because that amount represented the amount of the individual's ill-gotten gain, and the individual had offered no evidence of substantial expenses.HN7 - In the context of issuing a permanent injunction to prohibit future violations of a remedial statute, determining whether a future violation may occur involves consideration of the totality of the circumstances. Thus, various courts have looked to (1) the nature of the past misconduct, (2) whether the defendant's business interests place him in a position where future violations are possible, (3) the persistence of the violating conduct, and (4) whether the defendant has maintained that his conduct was blameless to determine whether an injunction is appropriate. Importantly, past misconduct is highly suggestive of the likelihood of future violations. The purported cessation by defendants of their illegal activity does not necessarily eliminate the likelihood of future violations. More Like This Headnote

Synetics, Inc. v. United States, 45 Fed. Cl. 1, 1999 U.S. Claims LEXIS 233 (Ct. Cl., February 2, 1999, Filed) OVERVIEW: Absent a prejudicial statutory violation or an arbitrary decision by the contracting officer, a government contract could not be rescinded based on the mere appearance of impropriety.OPINION: ... [*13] even assuming that plaintiff demonstrated a clear violation of the Procurement Integrity Act, plaintiff has failed to show prejudice, as plaintiff did not establish that there was a reasonable likelihood that it would have been awarded the [*14] contract but for any such violation. See Data Gen. Corp., 78 F.3d at 1562 (requiring plaintiff to show that, but for improper communications between awardee and government, plaintiff had a reasonable likelihood of being awarded the ...

イギリスにおける命令的差止

「法務長官(Attorney General)とは別に、憲法相兼大法官(Secretary of State for Constitutional Affairs and Lord Chancellor)がいます。また上院(House of Lords)が最終上訴裁判所を兼ねており、その事実上の最高職にあたる常任上訴委員会首席判事(Senior Lord of Appeal in Ordinary)もトップの1人でしょう。

法務長官は政府の法律顧問、大法官は司法改革と人権・民主主義のための各種の職務、裁判所としての上院は日本の「最高裁判所」の役割を果たしているようです。

しかし、英国ではいま権力の分立を明確にするためにかなり大胆な司法改革が進められており、03年6月12日には大法官省(Lord Chancellor's Department)が廃止され憲法省が発足、今年4月1日からは上院傘下の裁判所を運営する執行機関(Her Majesty's Courts Service)が発足します。さらに日程は不明ですが、上院の最終上訴裁判所にかわる最高裁判所(Supreme Court)が設立されることになっています。」

 イギリスでも独占禁止法上は差止できるが、mandatory injunction & antitrust (Exit FOCUS?)

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1. Getmapping plc v Ordnance Survey, CHANCERY DIVISION, [2002] EWHC 1084 (Ch), [2003] ICR 1, (Transcript: Smith Bernal), 31 May 2002

... asking for an interlocutory mandatory injunction. Mr Barnes points ...

... considering whether to grant a mandatory injunction, the court must keep ...

... Thirdly, it is legitimate, where a mandatory injunction is sought, to consider whether the court does ...

... appropriate to grant a mandatory injunction at an interlocutory stage. Those circumstances ...

... assessment is accurate, a mandatory injunction is, in most cases, ...

... aspect of freedom of trade. US antitrust law, embodied in ...

2. BRITISH AIRWAYS BOARD RESPONDENTS AND LAKER AIRWAYS LTD. AND OTHERS APPELLANTS BRITISH CALEDONIAN AIRWAYS LTD. RESPONDENTS AND LAKER AIRWAYS LTD. AND OTHERS APPELLANTS LAKER AIRWAYS LTD. AND ANOTHER APPELLANTS AND SECRETARY OF STATE FOR TRADE AND INDUSTRY RESPONDENT [CONJOINED APPEALS], [HOUSE OF LORDS], [1985] AC 58, 19 July 1984, (c)2001 The Incorporated Council of Law Reporting for England & Wales

... United Kingdom airline's antitrust action in United ...

... U.K. and U.S. Governments - Antitrust action in United ...

... Trading Interests (U.S. Antitrust Measures) Order 1983 ( ...

... States and foreign nations (an "antitrust claim"), which had caused damage to ...

... Trading Interests (U.S. Antitrust Measures) Order 1983 ...

... Trading Interests (U.S. Antitrust Measures) Order 1983; ...

... Secretary of State). A mandatory injunction can properly be granted here. (The ...

... tort." The claim under the antitrust count is quantified at $1,050m., ...

... plaintiffs, particularly in antitrust actions, receive sufficient ...

... enough to say that the aim of the antitrust combination and conspiracy (and intentional ...

... offering to carry them at what in antitrust jargon are described as "predatory ...

... B.A. and B.C. under the antitrust law of the United States (viz. the ...

... kind so commonplace that he describes it as an antitrust action of "the garden variety," ...

... alternative way of pleading the antitrust cause of action as a ...

... unlawful under U.S. antitrust laws to charge fares to which the ...

... States includes the U.S. antitrust laws embodied in the ...

... agreement under the U.S. antitrust laws; but C.A.B. ...

... done in performance of it from the antitrust laws. In the instant ...

... Aviation Act from American antitrust laws can arise. ...

... prohibited under American antitrust laws. My Lords, ...

... law including American antitrust laws. In the circumstances as ...

... accrue to it under American antitrust laws as a result of what these ...

... relation to the enforcement of American antitrust laws against United ...

... specifically directed against antitrust actions brought in the ...

... Trading Interests (U.S. Antitrust Measures) Order 1983 that ...

... Trading Interests (U.S. Antitrust Measures) Order 1983 and ...

... Clayton Act ('the U.S. antitrust measures'); (2) has considered the effect of the U.S. antitrust measures on United Kingdom ...

... person pursuant to the U.S. antitrust measures in so far as such ...

... Trading Interests (U.S. Antitrust Measures) Order 1983. " ...

... Trading Interests (U.S. Antitrust Measures) Order 1983 ...

... States; (c) that civil antitrust proceedings of a penal ...

... produced in the civil antitrust proceedings may be utilised ...

... administration of justice, in antitrust civil actions in ...

... Lords, Laker's American antitrust suit against the British ...

... agreement from the provisions of the U.S. antitrust laws, but did not do so. If this ...

3. TITO AND OTHERS v WADDELL AND OTHERS (No. 2) [1973 R. No. 2013] TITO AND OTHERS v ATTORNEY-GENERAL [1971 R. No. 3670], [CHANCERY DIVISION], [1977] Ch 106, (c)2001 The Incorporated Council of Law Reporting for England & Wales

... terms such as "Brains Trust," "Antitrust," and "Trust Territories," though ...

... facts of the case a mandatory injunction to demolish the houses was refused, and ...

その判決はHouse of Lordsで2件、Supreme Courtでもある。

 

衡平法上のmandatory injunctionについては次の50件において言及されている。

1. Cetelem SA v Roust Holdings Ltd, COURT OF APPEAL (CIVIL DIVISION), [2005] EWCA CIV 618, [2005] All ER (D) 357 (May), (Approved judgment), 24 MAY 2005

... court - Grant of interim mandatory injunction - Cases of urgency - Preservation of ...

... order for an interim mandatory injunction. The defendant appealed. The defendant ...

... 2004 granting an interim mandatory injunction and continuing a freezing ...

... jurisdiction to grant an interim mandatory injunction under section 44 of the ...

... injunction and to grant an interim mandatory injunction in the terms set ...

... power to grant an interim mandatory injunction in circumstances such as the present. He ...

... Mr Dunning that the interim mandatory injunction in this case does not ...

... by the idea of a mandatory injunction. I am not persuaded that that is so. As ...

... power to grant interim mandatory injunctions, although the authorities make it ...

... power is to grant an interim mandatory injunction (my emphasis). The power does ...

... by granting the interim mandatory injunction. He thus submitted that in granting the ...

2. Latchman v Pickard and another, CHANCERY DIVISION, [2005] All ER (D) 169 (May), 12 MAY 2005

... court for a mandatory injunction requiring the defendants to allow her ...

3. R (on the application of Davey) v Aylesbury Vale District Council, QUEENS BENCH DIVISION (ADMINISTRATIVE COURT), [2005] EWHC 359 (ADMIN), [2005] All ER (D) 192 (Mar), (Approved judgment), 11 MARCH 2005

... Undertaking could be enforced by mandatory injunction if necessary. 56. Accordingly if, ...

4. R (on the application of Teleos plc and others) v Customs and Excise Commissioners, COURT OF APPEAL (CIVIL DIVISION), [2005] EWCA CIV 200, [2005] All ER (D) 40 (Mar), (Approved judgment), 2 MARCH 2005

... judge should have granted a mandatory injunction requiring the Commissioners to pay the ...

5. Harris v Williams-Wynne, CHANCERY DIVISION, [2005] EWHC 151 (CH), [2005] All ER (D) 180 (Feb), (Approved judgment), 11 FEBRUARY 2005

... lost any right to a mandatory injunction, he had not necessarily been guilty of such ...

... loses his right to a mandatory injunction requiring it to be pulled down. He has ...

6. Midtown Ltd v City of London Real Property Company Ltd; Joseph and others v City of London Real Property Ltd, CHANCERY DIVISION, [2005] EWHC 33 (CH), [2005] All ER (D) 164 (Jan), (Approved judgment), 20 JANUARY 2005

... by granting a mandatory injunction, to deliver over the defendants to the ...

... but to substitute for such mandatory injunction an inquiry before itself, ...

7. Midtown Ltd v City of London Real Property Company Ltd; Joseph and others v City of London Real Property Ltd, CHANCERY DIVISION, [2005] EWHC 33 (Ch), (Transcript), 20 JANUARY 2005

... by granting a mandatory injunction, to deliver over the defendants to the ...

... but to substitute for such mandatory injunction an inquiry before itself, ...

8. Tunbridge Wells Borough Council v Redford and another, QUEEN'S BENCH DIVISION, [2004] All ER (D) 173 (Dec), 13 DECEMBER 2004

... notice - Non-compliance - Mandatory injunction - Town and Country Planning ...

... 1990 for a mandatory injunction to restrain those breaches of planning ...

9. LauritzenCool AB v Lady Navigation Inc, QUEEN'S BENCH DIVISION (COMMERCIAL COURT), [2004] EWHC 2607 (Comm), [2005] 1 All ER (Comm) 77, 12 NOVEMBER 2004

... commercial entity to another. MANDATORY INJUNCTION [28] The owners also argued that any ...

... Lauritzen would amount to a mandatory injunction and that the appropriate criterion which had to be satisfied if the ...

... associated with the grant of a mandatory injunction. Mandatory injunctions generally carry a ...

... appropriate to grant a mandatory injunction at an interlocutory stage, namely where the ...

... case would not be a mandatory injunction, but even if it were to be so categorised, ...

10. LAURITZENCOOL A.B. v. LADY NAVIGATION INC., QUEEN'S BENCH DIVISION (COMMERCIAL COURT), [2004] EWHC 2607 (Comm),[2005] 1 Lloyd's Rep 260, 12 NOVEMBER 2004

... Lauritzen would amount to a mandatory injunction, and that the appropriate criterion which had to be satisfied if the ...

... commercial entity to another. Mandatory injunction 28. The Owners also argued that any ...

... Lauritzen would amount to a mandatory injunction and that the appropriate criterion which had to be satisfied if the ...

... associated with the grant of a mandatory injunction. Mandatory injunctions generally carry a ...

... appropriate to grant a mandatory injunction at an interlocutory stage, namely where the ...

... case would not be a mandatory injunction, but even if it were to be so categorized, ...

11. Wickramaratna v Cambridge University Chemistry Department, COURT OF APPEAL (CIVIL DIVISION), [2004] EWCA Civ 1532, (Transcript: Smith Bernal), 2 NOVEMBER 2004

... inappropriate to make a mandatory injunction requiring the continuation of a ...

12. Mortimer and another v Bailey and another, Court of Appeal (Civil Division), [2004] EWCA Civ 1514, [2005] 02 EG 102, 29 October 2004

Restrictive covenant -- Breach -- Mandatory injunction -- Covenant against building -- ...

... judge entitled to grant mandatory injunction as final relief

... judge granted a mandatory injunction requiring the building to be restored to its ...

... dismissed; it was necessary to comply with the mandatory injunction within four months. ...

... granter the respondents a mandatory injunction requiring the appellants to demolish the ...

... judge should have refused a mandatory injunction because of the respondents' delay in ...

... judge refused a mandatory injunction, awarded 」250 damages ...

... refused to interfere with the refusal of the mandatory injunction. Nourse LJ emphasised that the ...

... against the grant of a mandatory injunction was the fact that the claimant had been willing to ...

... equitable relief of a mandatory injunction to enforce their rights. 38. ...

13. Kangol Limited v Sports World International Limited, CHANCERY DIVISION, [2004] EWHC 3105 (Ch), (Transcript: Smith Bernal), 15 OCTOBER 2004

... damages or alternatively a mandatory injunction either requiring the Defendant to ...

14. NB Three Shipping Ltd v Harebell Shipping Ltd, QUEEN'S BENCH DIVISION (COMMERCIAL COURT), [2004] EWHC 2001 (Comm), [2005] 1 All ER (Comm) 200, 13 OCTOBER 2004

... making what is effectively a mandatory injunction. On normal principles, in any event, a mandatory injunction should not be granted at this stage. The ...

15. Perlman v Rayden and another, CHANCERY DIVISION, [2004] EWHC 2192 (CH); [2004] All ER (D) 108 (Oct), (Approved judgment), 8 OCTOBER 2004

... establish either that a mandatory injunction for their removal is a ...

... Court for a mandatory injunction requiring the Defendant to remove ...

16. Perlman v Rayden and another, CHANCERY DIVISION, [2004] EWHC 2192 (Ch), (Transcript), 7 OCTOBER 2004

... establish either that a mandatory injunction for their removal is a ...

... Court for a mandatory injunction requiring the Defendant to remove ...

17. R (on the application of Burke) v General Medical Council, QUEEN'S BENCH DIVISION, [2004] EWHC 1879 (Admin), [2004] 3 FCR 579, 30 July 2004

... J granted an interim mandatory injunction in the following terms: 'It is ...

... proper treatment, a mandatory injunction compelling the provision of treatment would ...

... thing, grant a mandatory injunction to enforce) an arrangement involving ...

... performance or to grant a mandatory injunction is not, of course, inconsistent with there ...

18. R (on the application of Burke) v General Medical Council, Queen's Bench Division, T[2004] EWHC 1879 (Admin), 79 BMLR 126, 30 July 2004

... J granted an interim mandatory injunction in the following terms ( ...

... proper treatment, a mandatory injunction compelling the provision of treatment would ...

... thing, grant a mandatory injunction to enforce) an arrangement involving ...

... performance or to grant a mandatory injunction is not, of course, inconsistent with there ...

19. R (BURKE) v GENERAL MEDICAL COUNCIL, Queen's Bench Division, [2004] EWHC 1879 (Admin), [2004] 2 FLR 1121, 30 July 2004

... J (as he then was) granted an interim mandatory injunction in the following terms: 'It is ...

... proper treatment, a mandatory injunction compelling the provision of treatment would ...

... thing, grant a mandatory injunction to enforce) an arrangement involving ...

... performance or to grant a mandatory injunction is not, of course, inconsistent with there ...

20. Badrick v British Judo Association, CHANCERY DIVISION, [2004] EWHC 1891(Ch), (Transcript: Smith Bernal), 1 JULY 2004

Injunctions - Interim injunction - Mandatory injunction - Order requiring defendant to ...

21. Tripp Ltd v Landor & Hawa International Ltd, CHANCERY DIVISION, [2004] EWHC 1564 (Ch), (Transcript: Audio and Verbatim), 24 JUNE 2004

... relief amounting to a mandatory injunction to return the marks - that is to say, to ...

22. Nicholas Piramal India Ltd v Roche Diagnostics, CHANCERY DIVISION, [2004] EWHC 1480 (Ch), (Transcript: Smith Bernal), 28 MAY 2004

Injunctions - Interim injunction - Mandatory injunction - Merits of claimant's case - ...

23. G & A Ltd v HN Jewelry (Asia) Ltd, COURT OF APPEAL (CIVIL DIVISION), [2004] EWCA Civ 674, (Transcript: Smith Bernal), 27 MAY 2004

... way. The claimant had sought mandatory injunctions against the defendants. The defendants had submitted that mandatory injunctions were inappropriate in that it was unclear ...

... reasons for ruling that mandatory injunctions with the words inserted should be granted as ...

... interlocutory relief. The issue is whether mandatory injunctions should have been granted against the first ...

... in particular whether the terms of those mandatory injunctions, with the words inserted by the ...

... case to grant a mandatory injunction, then the court must be careful to ...

... considering whether to grant a mandatory injunction, the court must keep ...

... Thirdly, it is legitimate, where a mandatory injunction is sought, to consider whether the court does ...

... appropriate to grant a mandatory injunction at an interlocutory state. Those circumstances ...

... relation to the granting of a mandatory injunction, which was the point in issue on that ...

... in many cases where mandatory injunctions have been considered. Although this injunction is ...

24. Slough Borough Council v Prashar and others, COURT OF APPEAL (CIVIL DIVISION), [2004] EWCA Civ 671, (Transcript: Smith Bernal), 14 MAY 2004

... notice - Non-compliance - Mandatory injunction - Injunction not confined to ...

25. Severn Trent Water Ltd v Barnes, COURT OF APPEAL (CIVIL DIVISION), [2004] EWCA Civ 570, (Transcript: Smith Bernal), 13 MAY 2004

... building on the land and a mandatory injunction for the demolition of buildings ...

26. Worth v Turner and another, CHANCERY DIVISION, [2004] All ER (D) 20 (May), (Approved judgment), 4 MAY 2004

... against the defendants, including mandatory injunctions requiring the defendants to remove so ...

... interference with the right, including mandatory injunctions requiring the Defendants to remove so ...

... relief claimed, including the mandatory injunctions. I remind myself that the ...

... time for complying with the mandatory injunctions. 134. I shall, if the ...

27. Vectone Entertainment Holding Ltd v South Entertainment Ltd and others, CHANCERY DIVISION, [2004] EWHC 744 (Ch), [2004] 2 BCLC 224, 2 APRIL 2004

... applied for an interim mandatory injunction requiring Middlesex to transfer the ...

... proceedings ...' [17] The interim mandatory injunction was eventually set down ...

28. Pleming v Hampton and another, COURT OF APPEAL (CIVIL DIVISION), [2004] EWCA Civ 446, (Transcript: Smith Bernal), 12 MARCH 2004

... further than that and sought a mandatory injunction requiring the Hamptons to remove the ...

29. HISCOX UNDERWRITING LTD. v DICKSON MANCHESTER & CO. LTD., QUEEN'S BENCH DIVISION (COMMERCIAL COURT), [2004] EWHC 479 (Comm), [2004] 2 Lloyd's Rep 438, 5 March 2004

... commencing arbitration and seeking mandatory injunction from Court ordering inspection - ...

30. Drury v Secretary of State for the Environment, Food and Rural Affairs, COURT OF APPEAL (CIVIL DIVISION), [2004] EWCA Civ 200, [2004] 2 All ER 1056, [2004] 1 WLR 1906, 26 February 2004

... timet injunctions as for mandatory injunctions used by Lord ...

... 652 at 665: 'A mandatory injunction can only be granted where the ...

31. Rahnema v Rahbari and another, CHANCERY DIVISION, [2004] All ER (D) 278 (Feb), 17 FEBRUARY 2004

... court had granted a mandatory injunction in respect of the payment of the ...

32. Frazer (Willow-Lane) Ltd v Nissan Motors (GB) Ltd, CHANCERY DIVISION, [2003] EWHC 3157 (Ch), (Transcript: Marten Walsh Cherer), 11 DECEMBER 2003

Injunctions - Interim injunction - Mandatory injunction - Specific performance.

... jurisdiction to grant a mandatory injunction on an interim application before ...

... met by a mandatory injunction for his reinstatement." [45] As that ...

... merits for a mandatory injunction at trial may yield to ...

33. Beale and another v Harvey, COURT OF APPEAL (CIVIL DIVISION), [2003] EWCA Civ 1883, [2004] 2 P&CR 318, (Transcript: Smith Bernal), 28 NOVEMBER 2003

... Beales sought a mandatory injunction requiring Mrs Harvey to ...

34. Kupfer and another v Dunne, COURT OF APPEAL (CIVIL DIVISION), [2003] EWCA Civ 1549, (Transcript: Smith Bernal), 7 NOVEMBER 2003

... premises of No 6 and his mandatory injunction required concrete posts ...

... 2003) cannot stand and the mandatory injunction requiring the appellants to remove ...

35. One Honest Man Inc v British Broadcasting Corpn, CHANCERY DIVISION, [2003] EWHC 2808 (Ch), (Transcript: Smith Bernal), 7 NOVEMBER 2003

... case in which an interlocutory mandatory injunction is sought, and there is also the question of interference with the ...

36. 1st Choice Recruitment v Hancock, QUEEN'S BENCH DIVISION, [2003] EWHC 2332 (QB), HQ03X02303, (Transcript: Beverley F. Nunnery), 11 SEPTEMBER 2003

Injunctions - Mandatory injunction - Breach of covenant - Application ...

37. Moneygram International Ltd v Davar and others, QUEEN'S BENCH DIVISION, [2003] EWHC 2368 (QB), S/03/0150, (Transcript: Smith Bernal), 10 SEPTEMBER 2003

Injunctions - Mandatory injunction - Breach of covenant - Application ...

38. R (on the application of Maali) v London Borough of LambethLOCAL GOVERNMENT: HOUSING, QUEEN'S BENCH DIVISION (ADMINISTRATIVE COURT), [2003] EWHC 2231 (Admin), CO/2436/2003, (Transcript: Smith Bernal), 14 AUGUST 2003

... prepared to grant a mandatory injunction to assess the Claimant in ...

39. Bargain Pages Ltd v Midland Independent Newspapers Ltd, CHANCERY DIVISION, [2003] EWHC 1887 (Ch), [2003] All ER (D) 500 (Jul), (Approved judgment), 30 JULY 2003

... remedy by way of mandatory injunction to enforce the terms of the compromise could be ...

... subsidiary and sought a mandatory injunction requiring the subsidiary to retransfer the ...

... remedy by way of mandatory injunction to enforce the terms of the compromise ...

... By contrast a mandatory injunction on MINL, would require it to do something which is ...

40. Telia Sonera AB v Hilcourt (Docklands) Ltd, CHANCERY DIVISION, [2003] All ER (D) 91 (Jul), 4 July 2003

... landlord sought a mandatory injunction requiring the tenant to carry ...

41. R (on the application of B) v London Borough of Southwark, QUEEN'S BENCH DIVISION (ADMINISTRATIVE COURT), [2003] EWHC 1678 (Admin), CO/2896/2003, (Transcript: Smith Bernal), 4 JULY 2003

... by the claimant was a mandatory injunction requiring the defendant local ...

42. Tracy and another v Jones, CHANCERY DIVISION, [2002] EWHC 1508 (Ch), (Transcript), 18 JUNE 2003

... other things a mandatory injunction requiring its removal. [3] Those ...

43. Chelsea and Westminster Healthcare NHS Trust v Redmond, QUEEN'S BENCH DIVISION, [2003] All ER (D) 87 (Jun), 9 June 2003

Injunctions - Mandatory injunction - Injunction to restrain trespass - ...

44. North West Estates Plc v Buckinghamshire County Council, COURT OF APPEAL (CIVIL DIVISION), [2003] EWCA Civ 719, (Transcript: Smith Bernal), 22 MAY 2003

... notice - Non-compliance - Mandatory injunction - Exercise of discretion - Town and ...

... a claim for mandatory injunctions against North West ...

45. Tonbridge and Malling Borough Council v Davis and others, QUEEN'S BENCH DIVISION, [2003] EWHC 1069 (QB), [2003] All ER (D) 177 (May), (Approved judgment), 14 MAY 2003

... notice - Non-compliance - Mandatory injunction - Showmen on green belt ...

46. Trumann Investment Group v Societe Generale SA and others, CHANCERY DIVISION, [2003] All ER (D) 124 (May), 9 May 2003

... court granted the claimant's mandatory injunction for the repayment of S545,000 ...

47. Youatwork Ltd v Motivano Ltd, CHANCERY DIVISION, [2003] EWHC 1047 (Ch), (Transcript: Smith Bernal), 2 MAY 2003

Injunctions - Interim injunction - Mandatory injunction - Respondent transferring hosting of ...

... propose first to consider the mandatory injunction. It seems to me that there are three possible ...

... I could decide to grant the mandatory injunction; I could decide to refuse it; ...

... prejudice if I refuse the mandatory injunction is correct, it could lead to serious ...

... issue today so far as the mandatory injunction is concerned. [38] What I am ...

... factors justifying the grant of mandatory injunction. I think it is also right to ...

... for having the grant of an ultimate mandatory injunction. [40] While it would be wrong ...

... claimants if I refuse the mandatory injunction? They do not have confidence in ...

... claimant to grant a mandatory injunction, it would seem to follow that the status ...

... I should grant the claimants the mandatory injunction they seek, essentially for the ...

... I propose to grant the mandatory injunction on the terms sought, save that ...

... propose to grant the claimants the mandatory injunction sought, but I do ...

48. Connors v Northampton Borough Council, QUEEN'S BENCH DIVISION (BIRMINGHAM DISTRICT REGISTRY), [2003] All ER (D) 196 (Jun), 11 April 2003

... associated with the grant of a mandatory injunction. Accordingly, the judge had reached ...

49. IBS Technologies (PVT) Ltd v APM Technologies SA and another, CHANCERY DIVISION, [2003] All ER (D) 105 (Apr), (Approved judgment), 7 APRIL 2003

... claim for a mandatory injunction for the delivery up or ...

50. Choudhry and others v Treisman, CHANCERY DIVISION, [2003] EWHC 1203 (Ch), (Transcript: Smith Bernal), 31 MARCH 2003

Injunctions - Interim injunction - Mandatory injunction - Claimants selected as Labour ...

... by the claimants is a mandatory injunction it is necessary also to follow the guidance ...

... considering whether to grant a mandatory injunction the court must keep ...

... Thirdly, it is legitimate where a mandatory injunction is sought to consider whether the court does ...

... appropriate to grant a mandatory injunction at an interlocutory stage. Those circumstances ...

... justify the granting of a mandatory injunction. [88] In addition, it ...

損害額の認定方法について

損害額の認定については、市場そのものが金額、単価そのものまで事業実績報告書によって報告されているのであるから、lost profit & antitrust & before after & market share & yardstickでレクシスによって検索した次のコンウッド事件の次の高裁の判決が重要である。

「We find particularly relevant the undisputed evidence that Leftwich examined the [***40] possible explanations that USTC's own expert suggested as possible explanations for Conwood's low market share.

第6巡回控訴裁判所はコンウッドのマーケットシェアーが低いことを説明可能であるとしてUSTCの側の専門家が提案した説明が可能かどうかをレフトウィッチが検証した、まさにその判決に記されなかった証拠との関連性を特に認定する。

Leftwich testified that he tested all "plausible explanations" for his results for which he had data.

レフトウィッチは、持っているすべてのデータから得られる結果についての「納得できる説明」をすべてテストした。

Employing a regression analysis, Leftwich analyzed whether these other factors could explain Conwood's laggard growth in non-foothold states and concluded that they could not. 回帰分析を使うことによって、足場のない州においてこれらの他の要因がコンウッドの成長が遅れたことを説明できるかどうかをレフトウィッチは分析した。そしてそれらの他の要因によっては説明できないという結論に達した。

CONWOOD COMPANY, L.P.; CONWOOD SALES COMPANY, L.P., Plaintiffs-Appellees, v. UNITED STATES TOBACCO COMPANY; UNITED STATES TOBACCO SALES AND MARKETING COMPANY, INC.; UNITED STATES TOBACCO MANUFACTURING COMPANY, INC.; UST, Inc., Defendants-Appellants.

UNITED STATES COURT OF APPEALS FOR THE SIXTH CIRCUIT

May 15, 2002, Filed

 本件事件においては、それまで足場のなかった宇治市においても、また当然に突然に一般競争入札であった栃木県、埼玉県、千葉県においても、北陸郵政局管内全県の石川県、福井県、富山県においても、また北海道、佐賀県、富山県においても一般競争入札であれば落札している。

 このことからすれば当然にコンウッド事件と同様のことがいえる。これをヤードスティク法と呼ぶかどうかは別としても上記の判例と同様のことがいえる。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(15)

平成17年6月17日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

本件事件においては、クリーンハンドの原則は「価格競争をするな。」と強制するときに、それは公正競争阻害をしろと命令するものであるから、犯罪に近い行為をしているときに「机をたたくなどの行為を」行ったと真実を暴露されたからといっても、その行為はその後酒匂悦郎事件判決として違法とされたのであるから、先に違法行為を行った側からの反論はできない。

殴りかかったものを仲間がとめたからといっても、障害未遂罪にいたろうとしなかったことにはならない。またほとんど99.9%の男は自分が強いと思っているから、勇気によってあるいは柔道の技術の受け身で暴行をよけるであろうが、それでも障害未遂罪にいたろうとしなかったことにはならない。障害にいたったことのみが暴行ではない。公正競争阻害をしろと命令するものは言葉による暴力の使用である。市役所は高い価格でも払ってくれているから、安売りはするな、騙しておけというのは言葉の暴力でもある。彼らは暴力以上のことを行い、公正競争阻害を行い、国家を傷つけ続けているのである。

正当な理由なく酒匂悦郎事件において酒匂悦郎を排除していることは明白であって、独占禁止法に敏感であったからこそ、酒匂悦郎らを応援したのである。

独占禁止法違反に敏感であるということは信条の自由の問題である。

これに対する独占禁止法違反は絶対的に正当であるとする立場からは反対が起こったのは先の独占禁止法違反の理由付けによるのであるが、これはクリーンハンド原則に違反する。

ここで酒匂悦郎事件において酒匂悦郎を排除し、われわれ東京の人間を排除するための監禁事件において行われた「価格を安くするな。」という暴力的な行為について酒匂悦郎から赤坂弁護士に届いたファックスと、私の自由主義と民主主義に関する書物を証拠として提出する。

酒匂悦郎事件において酒匂悦郎を排除するに当たっての、それは東京勢すべての排除であった。

「事件番号:平成12年(ワ)第734号

事件名 :損害賠償請求事件

裁判所 :東京地方裁判所八王子支部

判決日 : 平成13年9月6日 (2001-09-06)

判示事項:

不動産鑑定士協会の入会要件たる推薦制が県内の不動産鑑定業者の事業分野における事業者の数を制限するものとして独占禁止法で禁じられている事業者数の制限に該当するとされた事例

判  例: 判例を表示   (別ウィンドウで開く)

出  典:

金融・商事判例1129号36頁

--------------------------------------------------------------------------------

1 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)8条1項は、事業者団体か、一定の事業分野における現在または将来の事業者の数を制限すること(3号)を禁じている。本件は、この禁止行為があったと判断された事例である。

茨城県の不動産鑑定士協会(社団法人)は、入会要件として同協会会員2人の推薦を必要としている。これに対して、この推薦を得るのに難航した東京の不動産鑑定会社が、入会できなかった期間の不動産鑑定評価業務の受注か不能となったことについて、独占禁止法違反による損害賠償をYに請求した事案であり、判決は、請求の一部を認容した。

2(1) Xは、不動産鑑定業を主たる目的とする有限会社(不動産鑑定業者。不動産の鑑定評価に関する法律第3章。不動産鑑定業者は、事務所ごとに専任の不動産鑑定士を1人以上置かなければならない。同法35条1項)である。Yは、茨城県内における唯一の不動産鑑定業者の事業者団体であり、茨城県との間で、短期地価動向調査の鑑定評価の業務委託契約をしてその鑑定評価業務を各会員に割り当てる業務を行っている。

(2) Yは、前身である関東甲信会茨城県部会当時から、平成6年度から不動産鑑定士へ鑑定評価の委託かされるようになった固定資産税の課税標準を定めるための地価調査に関し、茨城県の行政指導により、平成6年度および平成9年度について、茨城県内の各市町村との間で鑑定評価の業務委託契約をして、各市町村からの鑑定評価の委託のとりまとめをした。

平成12年度の固定資産税の課税標準を定めるための地価調査については、茨城県の行政指導かなくなり、茨城県内の市町村が、独自に地価調査を委託する不動産鑑定士を選任するようになったか、ほとんどの市町村については、Yが、会員から茨城県下の各市町村の地価調査の希望をとりまとめて名簿を作成し、これを各市町村に配布した。この地価調査鑑定については、鑑定を希望したYの会員の鑑定業者ないし不動産鑑定士は、全員が鑑定の委託を受けることができたのに対し、鑑定を希望した非会員の不動産鑑定士17名のうち、鑑定の委託を受けることができたのは4名のみであった。

(3) 相続税路線価の標準地評価に関しては、平成8年ころから、不動産鑑定士に対して鑑定の委託がなされるようになった。その選任手続は、本部か鑑定希望者を募り、その名簿を国税庁に提出し、国税庁は、これを各地の国税局に配布し、茨城県内の税務署については、関東甲信越国税局長の委嘱状を、水戸税務署が、選任された不動産鑑定士に配布するというものである。平成10年度の相続税路線価の標準地評価については、鑑定を希望したYの会員は、全員が鑑定の委託を受けることかできたのに、鑑定を希望した非会員の不動産鑑定士17名のうち、鑑定の委託を受けることかできたのは2名のみであった。

(4) Xは、平成9年当時Yの会員ではなかったので、Yから、平成9年度の短期地価動向調査の鑑定評価の業務の割当てを受けられなかった。

3 以上のような点を始めとする事実関係のもと、本判決は、Xは、10人以上のYの会員に推薦の依頼をして断られ、本部の総務課長の斡旋でようやく推薦人を得ることが可能となったのであり、入会を希望したときから入会が認められるまで1年2か月近くの期間がかかっているのであるから、Yへの入会においては、推薦制か、事実上、新規の不動産鑑定業者の算入を阻害する手段として用いられているとし、独占禁止法2条2項に定める事業者団体であるYが、会員2名の推薦を入会の要件として、XのYへの入会を1年2か月近く遅らせたのは、茨城県内における不動産鑑定業者に係る事業分野における事業者の数を制限するものとして、同法8条1項3号に違反する行為というベきであると判断した。

そして、Yが、会員2名の推薦を入会の要件として、XのYへの入会を1年2か月近く遅らせたことによって、Xは、平成10年度の相続税路線価の鑑定評価の委託を受けることができず、また平成9年度の短期地価動向調査の鑑定評価の委託を受けることができなかったなどの損害が生じているのであり、私法上の違法性を阻却すべき特段の事情は認められないから、民法上の不法行為が成立するとした。

判決は、相続税評価関係、固定資産税評価関係、それに短期地価動向調査関係のそれぞれについて損害額を認定し、さらに、別の事実関係としてXを綱紀委員会の審査の対象としたことが不当であり、このために短期地価動向調査の鑑定評価員から外した行為が営業権侵害だとして、その損害も認定した。その総額623万円余りの請求を認容。

4 独占禁止法違反については、平成12年成立の改正法24条により、8条1項5号または19号違反の行為につき差止請求も可能となった(白石忠志「差止請求制度を導入する独禁法改正(上)(下)」NBL695号6頁、696号48頁)。これとは別に、従前から、同法25条による損害賠償請求のほか、一般的な不法行為の損害賠償請求が認められてきたが、これか認容された事案は少ない。同法8条1項3号の違反行為について判断した判決例も見あたらない。独占禁止法と損害賠償に関する裁判例の紹介、一般的な立論として、泉水文雄「独占禁止法と損害賠償」民商124巻4・5号527頁および同号453頁以下に掲載の「特集・独占禁止法と民事法」の座談会(根岸哲ほか)を参照のこと。

独占禁止法8条1項4号違反の行為に関してみても、福岡地小倉支判平成元・3・7判時1327号81頁が、市獣医師会が市から受託した狂犬病予防のための集合注射義務の実施を同会開業者部会に所属する開業獣医師のみに限定したのは、合理的な理由があり同部会に所属しない獣医師の機能または活動を制限したものとはいえないから、不合理な差別にはあたらないとして損害賠償請求を否定しているのが見あたる程度である。

なお、本件では争われていないか、事業者団体とは「事業者としての共通の利益を増進することを主たる目的とする2以上の事業者の結合体又はその連合体」をいい、社団法人、財団法人、任意組合など、その形態は問われていない(独占禁止法2条2項)。

本件は、独占禁止法違反の行為について損害賠償請求を認容した一事例であり、しかも、弁護士会など広い範囲の団体で行われている推薦制度の存在についての意義が問題となったものであり、各団体関係者を始めとする多方面からの議論を呼ぶことになろう。」

この事件においては東京からの営業の移動そのものが禁止されたのであり、そのための監禁事件であった。「この地価調査鑑定については、鑑定を希望したYの会員の鑑定業者ないし不動産鑑定士は、全員が鑑定の委託を受けることができたのに対し、鑑定を希望した非会員の不動産鑑定士17名のうち、鑑定の委託を受けることができたのは4名のみであった。」この4名はカモフラージュであったのであり、実は全員ゼロにするという通達からこの事件と、監禁事件から独占禁止法違反の行為は始まったのである。

さてさらに問題を複雑にしたのは、酒匂悦郎事件において酒匂悦郎を排除したいのはやまやまだったが、長くなると損害賠償金額が大きくなると思ったので最終的には入会させた。これが彼らにとってはその後裁判で負けるという痛手となった。そのために本当は入会させて妨害したかったが、本件事件においては最後まで入会させなかった。このことによって憲法の問題が発生して、教科書を絵に書いたような大事件に発展したのである。このことについては多くの証言テープがある。

強制的差止命令である強制的入会という憲法問題を含む大問題となったのである。

差止は時に衡平法上問題であり、つまり独占禁止法上の平等性の問題ではないが、先のベラルーシにおける中央集権化と職業活動との関係が、公正競争阻害とは関係がなくても多くの事件で起こっている。

強制的入会と、国家論の問題は国家そのものの問題となるので、以下は参考程度である。

Chassagnou and others v France (App nos 25088/94, 28331/95 and 28443/95) EUROPEAN COURT OF HUMAN RIGHTS 7 BHRC 151 16 DECEMBER 1998  29 APRIL 1999において次のような判決が出ている。

「Subsequently the applicants complained to the European Commission of Human Rights そういう経緯から、原告は人権ヨーロッパ会議に対してthat the obligation imposed by the Loi Verdeille to transfer the hunting rights over their land to the ACCAs ACCAへ自らの土地での狩猟の権利を移転するというロイ・フェルデイルが課した義務はand their compulsory membership of those associations その組織が強制的加入組織であることand inability to prevent hunting on their properties, notwithstanding their opposition to hunting on ethical grounds, 倫理的理由によって狩猟への彼らの抵抗感があったにもかかわらず自ら所有する財産において狩猟を妨害することはできないことviolated their rights to freedom of conscience and association良心の自由権および結社の自由権を侵すものであり、and to peaceful enjoyment of their possessions, また自らの所有権の平和的な享受権を侵すものである。これらはヨーロッパ条約9条、11条およびまた条約議定書第1条にも保障された権利である。guaranteed by arts 9 and 11 of the convention and art 1 of the first protocol thereto.」

また、ドイツでは「Deumeland v Germany (App. no. 9384/81)事件がある。EUROPEAN COURT OF HUMAN RIGHTS (1986) 8 EHRR 448, [1986] ECHR 9384/81 29 MAY 1986 は次のように判決している。

なお判事等は次の通りであった。PANEL: JUDGE WIARDA (PRESIDENT), JUDGES, RYSSDAL, CREMONA, THR VILHJLMSSON, GANSHOF VAN DER MEERSCH, BINDSCHEDLER-ROBERT, LAGERGREN, GLCKL, MATSCHER, PINHEIRO FARINHA, PETTITI, WALSH, SIR VINCENT EVANS, RUSSO, BERNHARDT, GERSING, SPIELMANN, MR M-A EISSEN, REGISTRAR, AND MR H PETZOLD, DEPUTY REGISTRARCATCHWORDSであった。

適用法令はHuman rights SYMBOL 45 f "Symbol" s 12 Fair trial SYMBOL 45 f "Symbol" s 12 Civil right SYMBOL 45 f "Symbol" s 12 Whether application determined in reasonable time SYMBOL 45 f "Symbol" s 12 European Convention on Human Rights, art. 6であった。

「HEADNOTE:

This judgment has been summarised by Butterworths' editorial staff.

判決はButterworthsの書記官によって要約された。

The applicant had sought a statutory widow's pension on behalf of his mother. The public law features of the applicant's case were: the fact that social security benefit industrial accident insurance law had been (i) state regulated with many differences from general insurance law; (ii) compulsory; and (iii) that the state had responsibility for ensuring social protection, whilst the private law aspects of the case were that: (i) the applicant's mother was affected in her personal capacity as a private individual (ii) the availability of benefits was determined by the applicant's mother's former contract of employment; and (iii) domestic insurance schemes were similar to private insurance schemes. The applicant complained that the application had not been heard within a reasonable time, the whole period including the appeal proceedings having taken eleven years in total. The case involved consideration of a question of fact with a few witnesses but not a difficult issue of law. At times, the applicant had displayed an attitude of non-co-operation during the proceedings and some of the challenges he had made were unfounded. Moreover the case had lain dormant for about a year during the period of the domestic court's responsibility. The applicant claimed that that had been in breach Article 6 of the European Convention on Human Rights.

The notion of industrial accidents, defined in s 548 of the Code, includes accidents on the way to or from work (s 550).

51. Employees (who are not civil servants) do not contribute to the accident insurance scheme, which is wholly financed by employers (s 723 of the Code). The amount of their contributions depends essentially on the salaries of the persons covered and on the likelihood of accidents (s 725(1)).

・・・・

52. For employees of private firms, the bodies (Trager) responsible for insurance against industrial accidents are the occupational associations (Berufsgenossenschaften); employees in the public sector are covered by the Federation, the Lander, the local authorities or the Federal Labour Office (Bundesanstalt fur Arbeit), as the case may be (ss 646-657 and 767 of the Code).

私企業の経営者にとっては、その企業体は (Trager) 産業事故に対して責任があるので、職業組合団体(Berufsgenossenschaften)である、また公共機関の経営者は連邦、ラント、地方公共団体、あるいは連邦労働事務所 (Bundesanstalt fur Arbeit)によってそれぞれの立場に応じて保険がかけられている。

Every occupational association has a compulsory membership extending to all undertakings, including those in the craft sector, whose activities are carried on in the same economic field and whose company or trading centre is based in the association's catchment area.

すべての職業組合団体は、職能別の組合を含んだすべての会社に拡張されている強制的入会制度を持っており、それは同一産業経済の分野において活動が行われ、その会社あるいはその取引センターは職業組合団体の受け持ち区域に基礎をおいたものである。

53. In Berlin, Land employees are covered by the Industrial Accident Insurance Office (Eigenunfallversicherung), a public body directly controlled by the Land authority.

ラントの権力によってベルリンでは産業別事故保険事務所によってラントの雇用者はカバーされている。

Its funds come chiefly from a sum included annually in the Land budget and otherwise from contributions paid by certain public concerns.

その基金はラントの予算案に経常的に含まれている予算から主に支払われており、そうでなければ、ある種の公共の企業によって支払われている拠出金から主に支払われている。

・・・・

The Deumeland case does not, in our view, involve putting in issue the German system for settlement of social insurance disputes concerning industrial accidents.

ドイムランドの事件は、裁判所の見解では、産業事故に関連する社会保険の議論の解決にとってドイツのシステムを問題点を提起していない。

The extremely interesting controversy - which is remarkably expounded in the separate opinion of the minority - surrounding the interpretation of the travaux preparatoires of the United Nations and the Council of Europe in connection with the expression "civil rights and obligations" does not necessarily furnish a crucial element of appraisal, having regard to the particular circumstances of the present case and to the predominant features of private law described above.

「市民の人権および義務」の表現に関連する国際連合とヨーロッパ会議の準備的な業績の解釈については少数意見に分かれて詳細に検討されてはいるが、完全に興味を引く議論があり、現在の事件の特別な環境に関連しては、また上記に詳述した私法の特色に関連しては必ずしもその評価が要素としてよい評価を受けているのではない。 」

・ ・・・

I conclude - by reason of the lack of dependence on the occupational associations, the connection with a public body under the direct control of the Land, and the funding of this industrial-accident insurance which was chiefly provided from the budget of the Land - that one cannot speak of a determination of a "civil right" and that Article 6 was not applicable and hence not breached.

職業団体には独立性が欠けているという理由から、ラントの統制が公共的な団体に直接及んでいるという関係から見れば、ラントの予算から主に支払われているこの産業事故保険の基金との関係から見れば、「人権」の一種として判決を述べることはできないから、それ故に人権宣言第6条は適用できないと私は結論づける。

CONCURRING OPINION OF JUDGES PETTITI AND RUSSO (Translation)

ぺチチとルソーの両判事による同意判決(翻訳)

Terms: living & business (Edit Search) Focus: membership & association & occupational association (Exit FOCUS?)」

最後のぺチチとルソーの両判事による同意判決にある通りに本件事件において被上告人は財政的には埼玉県によって主に支払われているのと同様であるという両者の関係からすれば、強制加入団体に近いという結論がどのような国においても出るということができる。

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アイスランドにおいてもシグルヂャー・ア・シグルジョンソン対アイスランドSigurdur A Sigurjonsson v Iceland (App. no. 16130/90)事件では、人権に関するヨーロッパ裁判所ではEUROPEAN COURT OF HUMAN RIGHTS(1993) 16 EHRR 462, [1993] ECHR 16130/90で次のような判決を行っている。

「However, the Court is not convinced that compulsory membership of Frami was required in order to perform those functions.

だが裁判所は、フラミの強制的入会制度はこれらの機能を執行するためには、絶対に必要であるという確信を持っているのではない。

Firstly, the main responsibility for the supervision of the implementation of the relevant rules lay with the Committee (see para. 20 above).

第一に、これと関係する規則が実施されているかどうかを監督する主な責任は委員会にある(上記20章を参照)。

Secondly, membership was by no means the only conceivable way of compelling the licence-holders to carry out such duties and responsibilities as might be necessary for the relevant functions; for instance, some of those provided for in the applicable legislation (see para. 22 above) could be effectively enforced without the necessity of membership.

第二に、特許の保持者達にそれと同じような機能をもたせるために必要であると考えられる、そのような義務と責任を遂行することを強制する方法として考えられる唯一の方法は強制入会のみでは必ずしもなかった、例えば会員であることが必要であると強制しないでも、登録条件の法整備によっても充分に効果をもたせることができる場合がある(参照:上記第22章)。

Lastly, it has not been established that there was any other reason that would have prevented Frami from protecting its members' occupational interests in the absence of the compulsory membership imposed on the applicant despite his opinions

最後に、メンバーがその意見にもかかわらず、申し込み者に課される強制的入会の制度がないのであれば、会員の職業的利益をフラミが守ってやることの妨害になってしまうというその他の理由があったのでなければ強制的入会制度は確立されてこなかったであろう。

(see, inter alia, the above-mentioned Schmidt and Dahlstrom judgment, p. 16, para. 36, and the above-mentioned Young, James and Webster judgment, pp. 25-26, para.64).

(参照:なかでも、 p. 16、36章の Schmidt と Dahlstrom判事による上記と同判断、pp. 25から26まで, 64章のYoungと James と Webster判事による上記と同判断)

CATCHWORDS:

Human rights - Association - Trade union - Compulsory membership - Revocation of trade licence - Whether statutory requirement to join trade union necessary for association to achieve purpose - European Convention on Human Rights, art. 11

この事件の場合には、上記のような単語が特筆されている。

アメリカではWOMEN IN CITY GOVERNMENT UNITED et al., Plaintiffs, v. The CITY OF NEW YORK et al., Defendants No. 75 Civ. 2868  1981事件の判決においてUNITED STATES DISTRICT COURT FOR THE SOUTHERN DISTRICT OF NEW YORK は次のように判示している。

「NYCERS is a compulsory membership retirement system whose benefits, according to its manual,"are financed by employer and employee contributions and from earnings on the invested funds of the System."

NYCERSは、強制的な会員の退職制度であり、そのマニュアルによれば、「雇用者と被雇用者との拠出金とこの制度が投資した基金から上がる利益によって財政がまかなわれている」。

In Manhart, the employer determined that its female employees would live a few years longer on the average than males, and increased their contribution rate accordingly.

マンハルトでは、雇用者は女性の被雇用者は男性の被雇用者よりも2、3年長く生きるのであるから、それに応じて拠出金率を増加させた。

NYCERS has calculated contribution and annuity rates based on actuarial tables that assume women live longer as a class than men by three years.

NYCERSは女性の方が社会的階層として3年間長生きすると推定している生命表に基づいて拠出金と年金支払義務率を計算した。」

判決の概要等は次の通り。

OVERVIEW: The actuarial tables adopted by defendants assumed that women as a class lived longer than men did. Reliance on those tables resulted in contribution and annuity rates that were different for individual men and women participating in the retirement system solely because of sex classifications. Those rates were employed to certify pay deductions and benefits to individual workers, both of which, in general, were different as between similarly situated employees of different sex. The court held that the retirement system plans were therefore illegal under Title VII. The trustees were proper defendants, but were not liable individually because they not employers or agents within the purview of Title VII. Certain options did not make the system noncompulsory. The court rejected defendants' contentions the system was fair and balanced, that any differences between men and women were de minimus, and relief was barred by the McCarran-Ferguson Act, 15 U.S.C.S. ァ 1212. Congress did not intend to shield the insurance industry from Title VII. However, special care was required fashioning relief in pension and insurance cases, which precluded awarding damages by summary judgment.

OUTCOME: The class' motion for summary judgment was granted with respect to defendants' liability for use of sexually discriminatory methods of calculating employee benefits. Defendants' motion for summary judgment was denied. The court deferred judgment as to the appropriate relief to be awarded to the class.

CORE TERMS: annuity, female, business of insurance, pension, male, actuarial tables, similarly situated, sex, sex-differentiated, retirement, regulation, guaranteed, retirement allowance, insurance industry, summary judgment, allowance, monthly, et seq, retirement benefits, interstate commerce, state regulation, employee benefit, calculating, salary, insurer, differential, regulating, actuarial, shield, intend

以上、どこの国においても財政的なものと、強制的入会制度には、人権上の義務が伴っており、良心の自由や、平等性が要求されていることがわかる。

「比較独占禁止法第5版」、服部育夫著によれば、強制入会についてドイツ法のみではなくて、ヨーロッパ競争制限法においても可能であるとしているが、この点についてはヨーロッパ条約の人権との関係で可能であることとすることが妥当である。

機械工国際組合対ストリート等事件INTERNATIONAL ASSOCIATION OF MACHINISTS ET AL. v. STREET ET AL.367 U.S. 740における合衆国最高裁判所SUPREME COURT OF THE UNITED STATESの判決によれば、次の通りである。

この場合には生活という事実を尊重しており、本件事件において生存権や、営業の自由を主張し、憲法上の経済的自由のほかに生存権を主張しているのと似たところがあるが、労働組合の事件においては衡平法上の平等の概念が優先して、営業の自由の概念は入ってこない。これは実定法上の概念構成の差によるものである。実定法上の法律構成に差はあっても、衡平法上概念であることは確かであり、経済法として双方ともにコモンローの損害賠償請求を求めることができない場合には差止ができるという概念に発達していったものと考えることができる。

「Once an association with others is compelled by the facts of life, special safeguards are necessary lest the spirit of the First, Fourth, and Fifth Amendments be lost and we all succumb to regimentation.

生活という事実によってある他の人々との組織への強制が行われれば、第一、第四、第五の憲法修正条項の精神が失われないようにするために、また我々すべてが組織に負けないためには、特別の保護が必要である。

I expressed this concern in Public Utilities Comm'n v. Pollak, 343 U.S. 451, 467 (dissenting opinion), where a "captive audience" was forced to listen to special radio broadcasts.

特別なラジオの放送を無理やり聞かされる「無理に聞かされる聴衆」の場合の、Public Utilities Comm'n v. Pollak, 343 U.S. 451, 467事件においてこのことを言及した(反対意見)。

If an association is compelled, the individual should not be forced to surrender any matters of conscience, belief, or expression.

もし組織が強制されるならば、個人は良心も、信念も、あるいは表現もそのようなものも強制的に明け渡されるべきではない。

{本件事件では無理やり念書を書くことに納得しなかった業者を入会させなかった場合にはその分だけ自由競争を認めるべきである。逆に信念の競争に付すべきである。}

He should be allowed to enter the group with his own flag flying, whether it be religious, political, or philosophical; 宗教的であれ、政治的であれ、あるいは、哲学的であれ、自らの信念を維持しながら組織に入ることが許されるべきである。

nothing that the group does should deprive him of the privilege of preserving and expressing his agreement, disagreement, or dissent, whether it coincides with the view of the group, or conflicts with it in minor or major ways; and he should not be required to finance the promotion of causes with which he disagrees.

組織は組織の見解に彼の合意、非合意あるいは異議が一致しようとしまいと、あるいは、その意見が小さな点であるいは大きな論点で摩擦があろうとあるまいと、それを保持し、表現する権利を奪うべきではない。ということは、自分が合意しない原因の促進のために資金を出すように要求されるべきではない。」

との判決がある。

同じく経済法における平等の問題を取り扱うが、自由競争の公正競争阻害については論じていない労働事件においては、アメリカ労働総同盟鉄道労働者部会対ハンソン事件351 U.S. 225では RAILWAY EMPLOYES' DEPARTMENT, AMERICAN FEDERATION OF LABOR, ET AL. v. HANSON ET AL. 351 U.S. 225,合衆国最高裁判所判決(SUPREME COURT OF THE UNITED STATES)は

「 Wide-ranged problems are tendered under the First Amendment. It is argued that the union shop agreement forces men into ideological and political associations which violate their right to freedom of conscience, freedom of association, and freedom of thought protected by the Bill of Rights.

憲法修正第1条の下で広い範囲の問題が提出される。組合への加入の義務付けの合意は加入者の良心の自由や、結社の自由や、思想の自由の権利を侵すイデオロギー的で政治的な結社へと強制すると論じられている。」

と判決している。

一方事業者団体ではないので、予備役訓練軍隊という事業者団体ではない団体の軍隊としての性格上、先のベラルーシにおける中央集権化の事例と同様に違法性の阻却の問題が発生している事件があるが、本件事件において公正競争阻害性については事業者団体であるから、その性格上違反を免れ得ない。

合衆国最高裁判所判SUPREME COURT OF THE UNITED STATESはハミルトン対カリフォルニア大学評議員会事件293 U.S. 245ではHAMILTON ET AL. v. REGENTS OF THE UNIVERSITY OF CALIFORNIA ET AL. 293 U.S. 245,では

「Compulsory membership and service in the Reserve Officers Training Corps abridges the privileges and immunities of appellants as citizens of the United States, in violation of the Fourteenth Amendment.

予備役訓練軍隊への強制加入と強制奉仕は、合衆国市民としての上告人の多くの権利を少なくして、修正第14条の違反を阻却する」

と判決している。

本件事件とよく似た弁護士会事件においてはミシガン州最高裁判所判決は次のように述べている。

原告アラン・フォーク対被告ミシガン州弁護士会事件 ALLAN FALK, Plaintiff, v. STATE BAR OF MICHIGAN, Defendant , 418 Mich. 270 では、ミシガン州最高裁判所Supreme Court of Michiganは次のように判決している。この事件はミシガン州の弁護士会の強制入会制度と良心の自由との関連で重要である。

「Because the individual seeks, in effect, to remain silent, the right of non-association cannot logically be based on the policy of maintaining a "free marketplace for ideas" which is usually advanced in connection with rights of unfettered expression.

その結果、各個人は黙するだけになり、結社に加入しない権利は自由な表現の権利と結合して普通は促進される「思想の自由市場」を維持する政策に論理的に基礎を置くことができなくなる。

However, compelled association can reasonably be seen as an infringement upon more personal individual interests such as freedom of conscience.

しかし強制的な組織は良心の自由のような個々人のもっと個人的な法益を侵すものとしてみるほうが合理的である。

See Gaebler, First Amendment Protection Against Government Compelled Expression and Association, 23 BC L Rev 995, 1004 (1982).

「政府が強制する表現と政府が強制する組織に対しての憲法修正第1条の保護」(Gaebler, 23 BC L Rev 995, 1004 (1982)を参照)

Professor Laurence Tribe has described this interest more completely:

ローレンス・トライブ教授はこの法益をもっと完全に表現した。それによると

"The Constitution has enumerated specific categories of thought and conscience for special treatment: religion and speech.

「憲法は宗教と表現という二つについては、思想と良心という特別なカテゴリーに列挙した。

Courts have at times properly generalized from these protections, together with the guarantees of liberty in the due process clauses of the fifth and fourteenth amendments, to derive a capacious realm of individual conscience, and to define a 'sphere of intellect and spirit' constitutionally secure from the machinations and manipulations of government."

憲法修正第五、第十四条の正当な手続き条項による自由の保障と相まって裁判所は何度もこれらの権利保護を一般的に定式化し、幅広い良心の自由の領域を取り出し、政府の策謀や操作から憲法によって防衛された「知性と精神の分野」を定義したのである。

Tribe, American Constitutional Law, ァ 15-5, pp 899-900.

「アメリカの憲法」(トライブ著、15-5章、899から900頁。)

Recognition of the nature of plaintiff's interest is the [***13] analytical sine qua non for resolution of the issues currently before the Court and also the appropriate vehicle for understanding and harmonizing the relevant United States Supreme Court [*284] decisions.

原告の法益の性質を認識することは、現在の諸問題の解決のための分析上の必要条件であるうえまた、関連する合衆国最高裁判所判決を理解し、それとの調和を図るための適切な手段となる。。

Once harmonized, these cases produce a test which can be applied to the facts of the case at bar.

一旦、これらの判決例の調和がとれれば、これらの判決例によって現在提訴されている事件の多くの事実に適用できる審理を行うことができる。」

イギリスの場合の差止においては、ヨーロッパ条約との関係で問題となっている。服部育夫氏はヨーロッパ条約の独占禁止法違反により入会の強制が可能であるのかどうかについて述べられているが、これは概念法学的なドイツ法の影響が強いヨーロッパ条約においてそれがイギリスの衡平法上の差止概念とどのように融合していったのかを知る手がかりとなる。

イギリスにおいてはバラー国際会社対アプリケーション・デス・ガズ及びE.P.I.レジャー事件 VALOR INTERNATIONAL LTD. v. APPLICATION DES GAZ AND E.P.I. LEISURE [1979] RPC 281, [1978] 3 CMLR 87

において法律の最高裁判所(控訴審)SUPREME COURT OF JUDICATURE -- COURT OF APPEALにおいてHIGH COURT OF JUSTICE -- CHANCERY DIVISIONは次のような判決を行っている。

[1979] RPC 281, [1978] 3 CMLR 87 HEARING-DATES: 6, 7, 8 June, 28 July 1978 14 February 1978 28 July 1978

CATCHWORDS:

Practice -- Motion to strike out statement of claim and endorsement on writ -- Whether pleadings disclosed no reasonable cause of action -- Whether pleadings embarrassing -- Claim for damages for breaches of Articles 85 and 86 of Treaty of Rome -- Claim for damages for conspiracy to break Articles 85 and 86 of Treaty of Rome -- Observations on pleading breaches of Articles 85 and 86 -- Observations on pleading conspiracy -- Impact of section 2 of European Communities Act 1972 on activities which in themselves were lawful before 1973 but which would have been unlawful under Common Market law if performed in a member state -- Appeal allowed after statement of claim re-drawn.

European Communities Act 1972, section 2.

R.S.C. Order 18, rule 19.

HEADNOTE:

The plaintiffs' claim was for an injunction and for damages for conspiracy and breach of Articles 85 and 86 of the Treaty of Rome in respect of acts done both in the United Kingdom and elsewhere in the E.E.C.

原告の主張は連合王国と、E.E.C.の他の国における行為がローマ条約の85条と86条の共謀と違反に該当するので、差止と損害賠償請求を求めるものであった。

The allegations were that the first and second defendants had, in concert, acted in breach of Articles 85 and 86, and further, as a result, that they had been guilty of an actionable conspiracy. A similar pleading to the present but directed against the first defendants only had been before the court on more then one occasion. The history of the matter is set out in the statement of facts which appears below. In brief, the first defendants had succeeded in striking out the original statement of claim. The plaintiffs had responded by bringing the second defendants into the action and by further particularising their allegations. The second defendants responded in turn by launching a motion to strike out the endorsement on the writ and the statement of claim against them on the grounds set out in Order 18, rule 19 and under the inherent jurisdiction of the court. The substance of the allegations related to acts done prior {282} to the accession of the United Kingdom to the E.E.C. (January 1st 1973). The plaintiffs alleged that these acts had continued after January 1st 1973, alternatively that section 2 of the European Communities Act 1972 enabled a plaintiff to sue for acts which, though lawful when performed, would have been unlawful if the United Kingdom had been a member of the E.E.C. at the date of their performance. Whitford, J. held that no cause of action had been pleaded against the second defendants which could form the basis for a claim in damages and observed that the possibility of any abuse of a dominant position contrary to Article 86 of the Treaty of Rome due to acts carried out before 1973 could not exist. He struck out the statement of claim and refused leave to appeal. The plaintiffs obtained leave to appeal and before the appeal was heard gave further particulars of their allegations by way of amendment. The statement of claim is discussed in detail in the judgments of Whitford, J. and Buckley, L.J.

On appeal, Held, (i) the statement of claim as it stood was deficient and (per Roskill, Goff, L.J.J.) embarrassing, but the plaintiff should be given an opportunity to recast it completely;

Marbury v. Madison (commission/writ of mandamus)

HELD: The S/C has the power, implied from Article VI, ?2 of the Constitution, to review acts of Congress and if they are found repugnant to the Constitution, to declare them void. Judicial review is a necessary inference from written constitution . The final decisional authority for questions of CON interpretation is the federal judiciary.

The Court will extend Marbury v. Madison to cases where state law can be determined to be unconstitutional or inconsistent with federal statutes.

連邦最高裁判所は、憲法に適合しているかどうかを解釈する最終の決定権を有する。

日本においても日本国最高裁判所は憲法上の問題を取り扱う最終の裁判所である。

憲法問題は事業者団体の性格にあった。

本件事件は集団の性格が事業者団体であり、それへの入会が正当な理由なく違法である場合にその強制入会と良心の自由の理由の問題となったのであり、憲法に違反する公正取引委員会への申告したこと、裁判所への提訴などを理由とした考えられないような事件である。

強制入会の意味と、当然違法に対立した理由の原理の意味という点で最重要の最高裁判所判決となる契機を持っているのである。

それは国家と同様の機能を果たしている任意団体という概念を独占禁止法違反行為により強制的に何らかの強制をすること自体が、いわゆる否定的自由という意味での法哲学上の自由、すなわち国家そのものと類似する強制的団体への性格の変更を伴うということができる。

しかしながら差止という「重大事件」を含んでいるので、アメリカ、イギリスにおける憲法上の、あるいはジュリスプルデンス上の歴史について述べる。

「エクィティ(衡平法、こうへいほう)とは、イングランドのコモン・ロー(普通法、あるいは共通法などと訳される。一国内の全市民に共通して適用される法をいう。一部の地域あるいは身分にのみ適用される法と対比される概念。)の伝統を継受した国々における法制度の分野全体をいう名称であり、公平と公正の原理に依拠して人と人との間の紛争を解決するというものである。当該紛争の当事者双方とも法令に抵触する点はないのに双方の権利や主張が矛盾してしまうような場合が、エクィティが機能する典型的な場合である。それゆえ、エクィティは「法」、すなわち、コモン・ローから導かれた法原理、法令、及び判例法(裁判所が事案に対する判断を示す際に決め手となる各種の法原理)とは著しい対照をなしている。

エクィティに対立するものとしての法という概念は、歴史が産み出した偶然の産物である。中世のイングランド全土で国王の制定法を適用していた裁判所を、当時「法廷」とか「法の庭」と呼んでいた。しかしながら、国王から直接得られる、あるいは王宮(すなわち大法官)が裁可して与える救済というものも存在した。こうした大法官が与える救済が発展して、大法官部裁判所、あるいは衡平法裁判所が成立したのである。」

さて、本件事件は差止請求事件ではあるが、衡平法上の差止ではなくて、独占禁止法上法定された差止である。更に損害賠償請求事件でもある。

将来の損害が差止がなければ続いていくという事件でもある。

差止は確認訴訟ではないので事情判決はできないはずであるが、もし最高裁判所において事情判決ができるとするならば、事情判決によるとすれば、損害賠償請求事件としては終結時までの分のみが審理されることになるが、破棄差し戻されれば差し戻し審においての終結時点までの損害の継続が認められる。

事情判決であれ、差し戻し審の終結時点での判決であれ、もしその時点で将来の損害が認められるとすれば、それは終結の時点以降の損害が終了する時点までの継続している損害に対するものである。

これは継続性の問題である。差止の継続時間の問題では、仮処分は差止の継続事件を本案の決定までであるとする。

損害の継続は差止の継続とは違っている。永久判決であり、かつその後に更に違反が行われれば、その時にも差止判決は使用できることになる。

独占禁止法上の差止は制定法である。実定法上根拠に基づいているのであるから、衡平という概念のみによって差止がなされるのではなくて、罪刑法定主義におけるように構成要件を決めておく必要がある。

これまでは判例はなかったが、法定されているのでその解釈が問題となっている。

アメリカの独占禁止法上の差止制度を模したものであるから、法の母国の判例は参考にすべきものではあるが、法定された以上は制定法主義のドイツにも見習うべきであるということになる。

但し法源が衡平法上の差止であって、コモンローとは少し違っている。コモンロー上は損害賠償請求のトート法、不法行為法しか存在しなかったのに、その後制定法として衡平法上の差止を認めたのである。

ところが日本では不法行為法の損害が、著しい時にのみ、衡平法上の差止を認めるという論理の法律を作った。

したがって、損害が認められないで差止のみが認められることがあるし、その逆もありうるという論理になってしまっている。

衡平法上の差止なくして、損害賠償請求のトート法がないという論理がまかり通っているのである。

本来はこの両者は別のものである。

確かに憲法の問題も含まれている。常木弁護士は憲法の裁判所への提訴権と公正取引委員会への申告権のみでこの事件はいいんだ。その他はいわなくてもといっていた。

これが憲法問題である。

しかしそれも事業者団体が入会を拒否するのに、そのような理由はいけない、信条の自由を理由とすることはいけないという理由の原理の憲法問題になっている。

しかしあくまでも差止は衡平法上の差止であり、損害賠償請求はトート法、不法行為法上の問題である。飛行機への搭乗拒否事件と同様に憲法問題によっても差止および損害賠償請求は可能であり、衡平法上の差止とトート不法行為法上の損害賠償請求と、憲法問題は両立できるということは先の判例で見た通りである。

更に本件事件は将来の損害の問題も含んでいる。独占禁止法上の本質も含んでいる。

非常に重要な事件となった。更に確認訴訟と、差止訴訟の違いの問題も含んでいる。両者の既判力の問題も含んでいる。これになると更に大問題を含んでいる。

自由競争を促進するための法であったので、自由の妨害の問題も含んでいる。法哲学上の妨害排除の問題も含んでいる。これはイングランドの法におけるホッブス、ミル、バーリンやマッカラムへのイギリスの伝統的な法の問題をも含んでいる。更に強制的命令による差止の問題も含んでいる。ドイツの概念法学による制定法主義の限界の問題も含んでいる。衡平法にいう平等と、コモンロー上の自由と損害の問題も含んでいる。

それ程に重要な事件となったのである。

私訴による原告の価値と、公共の福祉や消費者の利益のための強制入会と、公共の福祉や消費者の利益のための良心の自由

ペンシルベニア対デラウェアー渓谷空気浄化市民会議事件PENNSYLVANIA ET AL. v. DELAWARE VALLEY CITIZENS' COUNCIL FOR CLEAN AIR ET AL. 483 U.S. 711では、合衆国最高裁判所SUPREME COURT OF THE UNITED STATES は

In a similar vein, "if we want to encourage private attorney general suits, risky plaintiffs' test litigation, or claims for nonmonetary relief, forbidding the shifting of compensation for risk could deter the bringing of such cases." Rowe, The Legal Theory of Attorney Fee Shifting: A Critical Overview, 1982 Duke L. J. 651, 676.

同様の趣旨として「もし私訴による私的司法長官事件を奨励しようと思うならば、原告が告発する場合の危険性、あるいは、金銭に換算できない救済を求める訴訟の危険性、危険に対する保障を返還してやることを禁止するならば、そのような事件を提起することを思いとどまらせる。」Rowe, The Legal Theory of Attorney Fee Shifting: A Critical Overview, 1982 Duke L. J. 651, 676.

「弁護士費用の返還、批判的概観」(ローエ著、Duke L. J.、1982年、. 651, 676頁。)

と述べる。

なお、コンウッド事件は足場のない市場とヤードスティックの関係についてさらに次のように述べている。

コンウッド事件(CONWOOD COMPANY, L.P.; CONWOOD SALES COMPANY, L.P., Plaintiffs-Appellees, v. UNITED STATES TOBACCO COMPANY; UNITED STATES TOBACCO SALES AND MARKETING COMPANY, INC.; UNITED STATES TOBACCO MANUFACTURING COMPANY, INC.; UST, Inc., Defendants-Appellants.

UNITED STATES COURT OF APPEALS FOR THE SIXTH CIRCUIT

においては先の足場のない市場と、ヤードスティックの関係について次の通りに述べている。

「He concluded that but for USTC's exclusionary acts, Plaintiff's market share would have grown by these same amounts in non-foothold states.

レフトウィッチはもしUSTCの排除的な行為がなかったならば、原告の市場占有率は足場のない州と同じ量成長していたであろうと結論づけた。

Contrary to USTC's arguments, the record indicates that Leftwich ruled out the possibility that the statistical relationship was caused by factors other than USTC's conduct.

USTCの議論とは反対に、その記録の指し示すところによればUSTCの行為以外の多くの要素を原因としている可能性が全くないことをレフトウィッチは示した。

We find particularly relevant the undisputed evidence that Leftwich examined the [***40] possible explanations that USTC's own expert suggested as possible explanations for Conwood's low market share. Leftwich testified that he tested all "plausible explanations" for his results for which he had data. Employing a regression analysis, Leftwich analyzed whether these other factors could explain Conwood's laggard growth in non-foothold states and concluded that they could not.

(以上、既訳済)

Leftwich also employed a before-and-after test [**67] to investigate Conwood's claims. Specifically, he tested whether the relationship between Conwood's share of moist snuff sales in a state and the rate of growth in Conwood's share of sales in that same state was the same or different for the seven year period before 1990 as it was for the seven year period after 1990. He found that Conwood's moist snuff market share did not grow significantly more in foothold states in the seven year period before 1990. Thus, there was no correlation in the pre-1990 period between Conwood's [*794] foothold status and market share growth rate.

またレフトウィッチはコンウッドの主張を裏付けるために前後理論を採用した。特にレフトウィッチはある一つの州におけるコンウッドの湿式かぎタバコ市場においての売り上げの占有率とその同じ州でのコンウッドの売り上げの成長率との関係が1990年以前7年間と1990年以後7年間とで同じか、違うのかについてテストした。湿式かぎタバコ市場においてコンウッドの市場占有率は1990年以前の7年間に足場のある州において有意により多くの成長をしていないことをレフトウィッチは発見した。このような理由から、1990年以前の時期においてコンウッドの足場のある地位と、市場占有率の成長率との間には関連性がなかった。

Further, Leftwich employed a yardstick test to examine whether in the related loose leaf tobacco market, in which USTC does not participate, Conwood would always grow more in states where they started out with a high market share.

さらにレフトウィッチはUSTCが参加していなかった、関連するルーズリーフタバコ市場において、コンウッドは高い市場占有率でスタートした州におけるよりもより多く成長している州ばかりであったとヤードスティック法によって検定し、決定した。

He did not find a statistically significant relationship in Conwood's increase in market share in the loose leaf market between 1990 and 1997 and its share in 1990.

ルーズリーフタバコ市場において、1990年から1997年までの間のコンウッドの市場占有率の増加と、1990年の市場占有率は統計学的に有意な関連性をレフトウィッチは発見することができなかった。

In other words, where Conwood enjoyed a high market share or foothold in 1990 in the loose leaf market, it did not necessarily grow more in the period between 1990 and 1997.

換言すれば、ルーズリーフタバコ市場において、1990年に高い市場占有率と足場を持っていたにもかかわらず、コンウッドはそれによって1990年から1997年までの間により多く成長していたであろうとは必ずしもいえなかった。

(訳者注:本件事件においては市場占有率の増加は全く逆の現象であり、これは本件事件においては被上告人の配分や市場割り当てがあることを証明しているといえる。制度的に日本には前年実績主義があるとの主張は、公務員が談合等に関与しているという主張になり採用ができない。:注終わり。)

USTC complains that Leftwich failed to take into account [**68] any USTC "bad act."

レフトウィッチはUSTCの行った「独占禁止法違反の非行」をすべて考慮に入れていないとUSTC側は反論した。

However, this is not completely accurate.

しかしながらこの主張は全くもって正確ではない。

Using USTC's expert's own regression model, Leftwich used sworn affidavits compiled from 241 Conwood sales representatives detailing USTC's unethical activity in their areas.

USTC側の専門家自身の回帰分析モデルを使って、レフトウィッチは241番に綴じられた宣誓供述書を利用して、コンウッドの売り上げはそれらの多くの地域でのUSTCの非倫理的な行為を詳細に代弁していることを示した。

He used this information to construct three alternate measures of USTC's bad acts by state. (J.A. at 4415.) Thus, his damages study was relevant to the issues of [***41] this case.レフトウィッチは鑑定人としてこの情報をUSTCの独占禁止法違反の非行行為を代替的三手法によって構築した。(J.A. at 4415.)それによってレフトウィッチの損害額の算定が本件事件においては因果関係があるものとして認められた。

See Jahn v. Equine Servs, PSC, 233 F.3d 382, 388 (6th Cir. 2000)

Jahn v. Equine Servs, PSC, 233 F.3d 382, 388 (6th Cir. 2000) を参照のこと。

(HN27testimony is relevant where there is a valid connection to the pertinent inquiry).

(証言は、当面の事件に関係した研究と価値がある程度に有意に関連していれば因果関係があるといえる。)

USTC also complains that Leftwich's regression analysis ignored other market variables that could have caused Conwood's harm.

またUSTCはレフトウィッチの回帰分析は、コンウッドに損害を与える原因となった可能性のある他の市場要因を無視していると主張した。

However, as explained above, Leftwich ruled out all plausible alternatives for which he had data.

しかしながらレフトウィッチは上記で説明した通りに、彼が持っているデータからのすべての説得力のある代替的な可能性をすべて排除した。

Moreover, he accounted for all variables raised by USTC's own expert.

さらに、USTC側の専門家自身の提起したすべての変数を考慮した。

In any event, "HN28in order to be admissible on the issue of causation, an expert's testimony need not eliminate all other possible causes of the injury."

どのような事件においても「原因の問題において採用できるまでになるためには、ある一人の専門家の証言が損害の原因の他のすべての可能性を否定する必要はない。」

Jahn, 233 F.3d at 390 (emphasis added);

see also Bazemore v. Friday, 478 U.S. 385, 400, 92 L. Ed. 2d 315, 106 S. Ct. 3000 (1986) [**69]

(failure to include variables will normally affect the analysis' probativeness, not its admissibility).

In sum, after reviewing the record and giving due deference to the district court's decision, we believe that the district court did not abuse its discretion in concluding that Leftwich's study satisfied Daubert and allowing him to testify, subject to vigorous cross examination and an opportunity for Defendant to introduce countervailing evidence of its own. See Daubert, 509 U.S. at 596 (holding that "HN29vigorous cross-examination, presentation of contrary evidence, and careful instruction on the burden of proof are the traditional and appropriate means of attacking shaky but admissible evidence") (citation omitted).

Finally, USTC contends that Rosson's testimony regarding damages and Leftwich's study were speculative and failed to support the damages awarded. We disagree. USTC essentially argues that a more rigorous standard of proof of damages was warranted. However, it is undisputed that USTC did not object to the jury instructions regarding damages. The jury was instructed that it could not award damages for injuries caused by other factors. As HN30juries are presumed [**70] to follow the instructions given, we reject USTC's argument that Conwood failed to disaggregate the injury caused by USTC as opposed to that caused by other factors. See Aspen, 472 U.S. at 604-05.

[***42] In addition, HN31an award of damages may be awarded on a plaintiff's estimate of sales it could have made absent the antitrust violation. J. Truett Payne Co., v. Chrysler Motors Corp., 451 U.S. 557, 565, 68 L. Ed. 2d 442, 101 S. Ct. 1923 (1981). While USTC demands a more exacting standard, "the vagaries of the marketplace usually deny us sure knowledge of what plaintiff's situation would have been [*795] in the absence of the defendant's antitrust violation." 451 U.S. at 566. "The antitrust cases are legion which reiterate the proposition that, if the fact of damages is proven, the actual computation of damages may suffer from minor imperfections." South-East Coal Co. v. Consolidation Coal Co., 434 F.2d 767, 794 (6th Cir. 1970) (citation omitted).

We believe that there was sufficient evidence to support the jury's award of damages in this case. There was testimony that absent USTC's unlawful conduct, Conwood would have achieved [**71] market share in the mid-20s. For instance, Rosson testified that had Conwood not been subjected to USTC tactics, it would have had a national market share of approximately 22 to 23 percent. Rosson testified that he had carefully tracked the growth of Conwood's market share over the past 20 years, and its sharp decline in the 1990s was largely due to USTC's tactics. Williams, Conwood's national sales manager, also testified that in those stores where USTC practiced rack exclusivity, Conwood's market share was well below its national average. Such evidence supported Leftwich's damages analysis, and he estimated that Conwood's damages ranged between $ 313 million and $ 488 million. The jury awarded damages well within that range. Although USTC argues that there was evidence that undermined Rosson's testimony regarding whether USTC's conduct caused Conwood's injury, the jury heard all of the evidence presented to it, and apparently found other testimony supporting the award of damages more credible. South-East Coal Co., 434 F.2d at 794 (explaining that whether plaintiff's losses resulted from defendants' conduct or other market factors was for the jury to determine, as [**72] was witness credibility). In sum, we believe that there was sufficient evidence to sustain the award in this case.

[***43] CONCLUSION

The district court did not err in submitting this case to the jury and denying USTC's motion for judgment as a matter of law. Conwood presented sufficient evidence that USTC's conduct rose above isolated tortious activity and was exclusionary without a legitimate business justification. The evidence also sufficiently showed that USTC's actions injured Conwood and competition in the moist snuff market. Finally, the district court did not abuse its discretion in admitting the testimony of Conwood's damages expert, subject to cross examination and presentation of countervailing evidence. Therefore, we AFFIRM.

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(16)

平成17年6月22日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

未訳部分について訳文の追加をします。

Jahn, 233 F.3d at 390 (emphasis added);

ジャーン事件、233 F.3dの390頁(強調を付加した。)

see also Bazemore v. Friday, 478 U.S. 385, 400, 92 L. Ed. 2d 315, 106 S. Ct. 3000 (1986) [**69]

バゼモアー対フライデイ事件478 U.S. 385, 400, 92 L. Ed. 2d 315, 106 S. Ct. 3000 (1986)も参照のこと。

(failure to include variables will normally affect the analysis' probativeness, not its admissibility).

変数に含めなかったことは分析することを猶予しただけであるととらえられるのが普通であり、それが証拠として認められないということには影響しない)。

In sum, after reviewing the record and giving due deference to the district court's decision, we believe that the district court did not abuse its discretion in concluding that Leftwich's study satisfied Daubert and allowing him to testify, subject to vigorous cross examination and an opportunity for Defendant to introduce countervailing evidence of its own.

結論としては、記録を再度見る限りにおいては、地方裁判所の判断を正当に尊重すれば、レフトウィッチの研究がダウベルト判決の要件を満たしているので、レフトウィッチに証言を許し、反対尋問に付し被告側にも被告が持つ反対にことを証明する証拠を提出することを許すと結論付けることは自由裁量の乱用ではなかったと当裁判所も信ずる。

See Daubert, 509 U.S. at 596 (holding that "HN29vigorous cross-examination, presentation of contrary evidence, and careful instruction on the burden of proof are the traditional and appropriate means of attacking shaky but admissible evidence") (citation omitted).

ダウベルト事件509 U.S. at 596を参照のこと(次のように述べている。「活気に満ちた反対尋問、反対の証拠の提出、証拠の挙証責任の注意深い説明などによって不確実であるが、許容可能な証拠を攻撃することができる、これが伝統的で、適切な方法である」

Finally, USTC contends that Rosson's testimony regarding damages and Leftwich's study were speculative and failed to support the damages awarded. We disagree.

最後には、USTCは損害額に関するロッソンの証言とレフトウィッチの研究は予測主義的であり、認められることができる損害賠償金額としては支持することはできないと強硬に主張している。しかし当裁判所の考え方はそうではない。

USTC essentially argues that a more rigorous standard of proof of damages was warranted.

USTCが議論していることは損害額を認定するためには本質的にもっと蓋然性の高い証拠がこれからも基準としては保証されなくてはならないというものである。

However, it is undisputed that USTC did not object to the jury instructions regarding damages.

しかしながら、USTCであっても損害額の認定に関する陪審員への説明に反対はしていない。

The jury was instructed that it could not award damages for injuries caused by other factors.

陪審員はほかの要因によって起こされた損害について損害額を認定することはできないとは説明を受けていない。

As HN30juries are presumed [**70] to follow the instructions given,

陪審員はちゃんとあらかじめ与えられた説明に従ったと推定されるのであるから、

we reject USTC's argument that Conwood failed to disaggregate the injury caused by USTC as opposed to that caused by other factors.

ほかの諸要因によって引き起こされた損害に相反するが、USTCによって引き起こされた損害を集計しなかったことはコンウッドはしていないのではないかというUSTCの主張は当裁判所は受け入れることができない。

See Aspen, 472 U.S. at 604-05.

アスペン事件、472 U.S. at 604-05を参照のこと。

[***42] In addition,

それに加えて、

HN31

an award of damages may be awarded on a plaintiff's estimate of sales it could have made absent the antitrust violation.

もし反トラスト法違反が存在しないと仮定した場合原告が売り上げることができただろうと考える原告の販売額の予測の推計によって損害額の認定は認められることができるのである。

訳注:本件事件においては上告人は年間1億円の企業になろうとして埼玉県に営業を移転してきたのであるから、その販売額の予測は充分に尊重されるべきである。訳注終わり。

J. Truett Payne Co., v. Chrysler Motors Corp., 451 U.S. 557, 565, 68 L. Ed. 2d 442, 101 S. Ct. 1923 (1981).

J・ツルエット・ペイネ会社対クライスラー自動車会社、451 U.S. 557, 565, 68 L. Ed. 2d 442, 101 S. Ct. 1923 (1981)参照。

While USTC demands a more exacting standard, "the vagaries of the marketplace usually deny us sure knowledge of what plaintiff's situation would have been [*795] in the absence of the defendant's antitrust violation."

USTCはもっと証明の蓋然性が高い正確な証拠の基準を要求したが、「市場の状況の予測できない変化の浮き沈みがあるのであるから、一般的にいってもし被告の反トラスト法違反がなかったとした場合にはどのような状況に原告がいるのであろうかについて正確に知ることはできないのである。」

451 U.S. at 566.

451 U.S. at 566。

"The antitrust cases are legion which reiterate the proposition that, if the fact of damages is proven, the actual computation of damages may suffer from minor imperfections." South-East Coal Co. v. Consolidation Coal Co., 434 F.2d 767, 794 (6th Cir. 1970) (citation omitted).

「反トラスト法の事件とは、もし損害が事実として証明された時であっても、損害額の計算を現実にしようとすれば少しばかり完全性がないことによって悩まざるをえないということを何度も、何度も命題として繰り返し述べてきている多数の事件の集合である。」南東部炭鉱会社対炭鉱連盟会社事件、434 F.2d 767, 794 (6th Cir. 1970) (引用省略) 。

We believe that there was sufficient evidence to support the jury's award of damages in this case.

この事件においては、陪審員の評決が認定した損害額を支持している証拠は充分であると当裁判所は考える。

There was testimony that absent USTC's unlawful conduct, Conwood would have achieved [**71] market share in the mid-20s.

USTCの違法な行為がなかったならば、コンウッドは20%の半ばの市場占有率を達成していたであろうという証言もある。

For instance, Rosson testified that had Conwood not been subjected to USTC tactics, it would have had a national market share of approximately 22 to 23 percent.

例えば、コンウッドならばUSTCの策略にかからなかったならば、コンウッドは国全体で概略22%から23%の市場占有率を占めていたであろうとロッソンは証言した。

Rosson testified that he had carefully tracked the growth of Conwood's market share over the past 20 years, and its sharp decline in the 1990s was largely due to USTC's tactics.

コンウッドの市場占有率の成長率を過去20年以上にわたり注意深く追跡し、1990年代に非常に落ち込んだのはUSTCの策略によるものが大であるという証言を行った。

Williams, Conwood's national sales manager, also testified that in those stores where USTC practiced rack exclusivity, Conwood's market share was well below its national average.

その上、コンウッドの国全体のセールス部長ウイリアムスは、またUSTCが販売棚を排除する行為を行った店においては、コンウッドの市場占有率は国の全体の平均的市場占有率を下回ったのはそれによる当然の結果であると証言した。

Such evidence supported Leftwich's damages analysis, and he estimated that Conwood's damages ranged between $ 313 million and $ 488 million.

そのような証言がレフトウィッチの損害額の分析を支持している。そしてレフトウィッチはコンウッドの損害額を313百万から488百万ドルの間の範囲内であると推測した。

The jury awarded damages well within that range.

陪審員の評決がこの範囲内において損害額を認定していることは妥当である。

Although USTC argues that there was evidence that undermined Rosson's testimony regarding whether USTC's conduct caused Conwood's injury, the jury heard all of the evidence presented to it, and apparently found other testimony supporting the award of damages more credible.

USTCが行った行為によってコンウッドの損害が生じたのかどうかに関連してロッソンの証言には出てこなかった隠されている証拠があるとUSTCは主張している。陪審員はこの事件のために提出された証拠のすべてを聴聞して、損害額の認定を明らかに支持するもっと信頼できる他の証言も見つけ出した。

South-East Coal Co., 434 F.2d at 794

南東部炭鉱会社事件では、判決の794頁において次のように述べている

(explaining that whether plaintiff's losses resulted from defendants' conduct or other market factors was for the jury to determine, as [**72] was witness credibility).

(被告の行為の結果としてあるいは市場の他の要因によって発生した原告の損害を陪審員の評決が決定するかどうかについて説明するのは、証拠が信頼できるかどうかにかかっている)。

In sum, we believe that there was sufficient evidence to sustain the award in this case.

合計としては、この事件における損害額を維持するのに充分な証拠があったと当裁判所は判断する。

[***43] CONCLUSION

結論

The district court did not err in submitting this case to the jury and denying USTC's motion for judgment as a matter of law.

地方裁判所はこの事件を陪審員の評決に付託して、UTSCの行為を法律問題のみとしての判決に付さなかったことは間違いではない。

Conwood presented sufficient evidence that USTC's conduct rose above isolated tortious activity and was exclusionary without a legitimate business justification.

USTCの行為が不法行為としてのみの他の分野とは隔絶された行為以上の行為を行い、合法的なビジネス上の正当な理由のない排除行為を行ったという充分な証拠をコンウッドは提出した。

The evidence also sufficiently showed that USTC's actions injured Conwood and competition in the moist snuff market.

またその証拠はUSTCの行為が湿式かぎタバコ市場においてコンウッドと競争に対して損害を与えていることを充分に証明していた。

Finally, the district court did not abuse its discretion in admitting the testimony of Conwood's damages expert, subject to cross examination and presentation of countervailing evidence. Therefore, we AFFIRM.

結局、地方裁判所はこの事件においてコンウッドの損害額の証拠を専門家にゆだねたることを認め、それに対する反対尋問とそれに反する証拠の提出を行わせたことについて自由裁量の乱用があったとは認められない。従って、本件は認容される。」

このコンウッド事件は証拠と、損害賠償金額の認定の間の関係についてこれまでの証拠の優越の判例に更におおきく踏み込んだ判決である。

市場占有率、ヤードスティック法、前後理論を三つ共に採用した事件である。更に証拠の問題について更に緩くした。日本の民事訴訟法第248条を適用するに当たって非常に参考になる事件であるといえる。

クリーンハンドの原則

次のようなクリーンハンド原則があるが、しかしこれらは高等裁判所においてなされた裁判例であり、最高裁判所において判決されたものではない。

「しかし、被控訴人らと所属プロダクションとの関係はともかくとして、そもそも控訴人は、被控訴人らの固有する財産的権利を同人らに無断、かつ、無償で自己の営利目的に供し、利益を得ていたものであり、しかも、右行為は正当であるとの主張を維持していることはその主張自体から明らかであるから、かかる行為に対する被控訴人らの本訴請求がクリーンハンドの原則に反し許されないとは到底解されず、右主張は採用の限りではない。

 さらに、控訴人は、人格権としての排他性を根拠とする差止請求権等を、人格的利益と無関係な経済的利益の確保のために認めることは、権利の乱用であり、クリーンハンドの法理に反するとも主張するが、前記説示のとおり、人格権に基づく差止請求権等を肯定したものではないから、右主張は前提において失当である。」

「芸能人が有する顧客吸引力のもつ経済的な利益ないし価格を支配する財産権に差止請求権を肯定したからといって、右差止請求権等は著作権法上の権利とは関わりなく認められる性質のもので、これをもって無体財産権を創設したに等しいとはいえない。のみならず、著作権法をみてもかかる財産権の承認を妨げる法的根拠を見出すことはできないし、両者はその成立の基礎を異にするものというべきであるから、控訴人の右主張は採用てきない。」

事件番号:平成2年(ネ)第4794号

事件名 :損害賠償等請求控訴事件

裁判所 :東京高等裁判所

判決日 : 平成3年9月26日 (1991-09-26)

判示事項:

いわゆる芸能人について「パブリシティの権利」に基づく差止め及び損害賠償請求が認められた事例」

この事件はクリーンハンド原則とは関係ないと思われるが、控訴においてはそれが主張されたようである。

人格権といえども、それを商品としている芸能人には差止の権利があると考えられるが、商品としている点に重点を置いて経済的利益や価格を支配する財産権との見方である。私の顔を見て経済的利益があるとは思えないから特殊な論理ということができる。「芸能人が有する顧客吸引力のもつ経済的な利益ないし価格を支配する財産権」いわゆる芸能人について「パブリシティの権利」に差止請求権を肯定したとされているが、これが最高裁判所の判決ではない点において残念な判決である。もし最高裁判所の判決であれば引用できる。

先の禁止に付随する最小限度の強制的な作為の命令に入会承諾が含まれるとする判決は、もし出せれば、画期的なものになろう。そこでドイツでの判例を探しているのである。が現在までまだ未発見である。おそらく違法を確認し、その後に行政が強制するという考え方であり、命令的差止の事例はないのかもしれない。

次の事件も高等裁判所においてなされた裁判例であり、参考程度である。

「控訴人が本件各図書を再版する都度牧野に対してその旨を通知していれば、その段階で牧野は控訴人に本件出版権設定契約の履行を求めることができたのにかかわらず、控訴人に右契約を誠実に履行する意思がなく、意図的に右通知をしなかったのであるから、控訴人の除斥期間経過の主張はクリーンハンドの原則に反し許されない。事件番号:昭和62年(ネ)第308号 事件名 :損害賠償等請求控訴事件 裁判所 :東京高等裁判所

判決日 : 平成元年6月20日 (1989-06-20)判示事項:

出版社と著作者との間に図鑑の挿絵について著作権譲渡契約が成立したとされた事例」

この本件事件の場合には毎日入会審査をする自由が存在するにもかかわらず、その自由意志による決定を怠っており、未必の故意を装っているのは、責任は被上告人にある。未必の故意ではなくて故意を認定すべきであろう。

声が大きければ、鑑定協会総会で、福井県鑑定士協会の理事と、静岡県鑑定協会の理事が絶対に地元以外には取引事例を渡さないと叫んでいて、それで発言できないあの大声は暴力以外のなにものでもなかった。

「取引事例はみんなのものだ。日本人であれば鑑定はできるはずだ。」これが正しい。アメリカの事例は別だが。

次の事件も高等裁判所においてなされた裁判例であり、参考になる事件であるといえる。本件事件では上告人が独占禁止法に敏感であったという事実はあっても、独占禁止法違反を行ったという事実はないし、被上告人と共に行ったということもない。

「しかし、共同開発について自らも虚偽の試験資料を作成し、しかもその一部(前記(三)(四))については控訴人会社の協力を受けた被控訴人が、控訴人会社の側で行った前記の虚偽資料の作成が損害発生の直接の原因になったということから、あたかも無責無関係の被害者と同様の立場で控訴人会社の損害賠償責任を追及することは、損害の公平な負担の理念に照らして相当でない(クリーンハンドの原則に依拠する控訴人会社の主張も結局は同趣旨に帰するものと解される。)。したがって、過失相殺の趣旨に準じて、被控訴人に生じた損害の一部は被控訴人に負担させるべきてあり、既に認定した本件諸般の事情を勘案すれば、被控訴人の負担すべき損害の割合は全損害の三割と認めるのが相当である。

 そうすると、被控訴人が賠償を求めることができる損害額は四億九一一五万三〇八五円となる。

事件番号:平成元年(ネ)第411号、平成元年(ネ)第587号

事件名 :損害賠償、同反訴請求控訴、附帯控訴事件

裁判所 :東京高等裁判所

判決日 : 平成3年11月28日 (1991-11-28)

判示事項:

一 製薬会社の新薬共同開発契約において、臨床試験データを捏造した製薬会社に対する損害賠償請求に対し、当該請求をする製薬会社にも一部虚偽試験資料を作成したとして損害額の算定について過失相殺をした事例

二 前項の場合において臨床試験データを捏造した製薬会社代表者個人に対する商法二六六条ノ 三に基づく賠償責任の成否(消極)」

この事件における「無責無関係の被害者と同様の立場で控訴人会社の損害賠償責任を追及する」という判決はそのまま本件にも使用できる。但し公正競争阻害性という公共の福祉に関連することであるから、さらに悪質であるといえる。

次の事件も高等裁判所においてなされた裁判例であり、不正競争防止法(平成5年法律第47号による全部改正前)1条1項1号に基づく商品販売差止めの請求が、クリーンハンドの原則又は権利濫用禁止の法理に違反するものではないとされたものであり、差止事件としては参考になる。

「事件番号:平成3年(ネ)第1071号

事件名 :商品販売差止等請求控訴事件

裁判所 :大阪高等裁判所

判決日 : 平成5年11月30日 (1993-11-30)

判示事項:

1、いわゆるカマボコ型の8本のスポークから構成される一体成型のアルミホイールの形態が、不正競争防止法(平成5年法律第47号による全部改正前)1条1項1号の商品表示性(出所表示機能)及び周知性を取得したとされた事例

2、不正競争防止法(平成5年法律第47号による全部改正前)1条1項1号に基づく商品販売差止めの請求が、クリーンハンドの原則又は権利濫用禁止の法理に違反するものではないとされた事例」

「本訴請求は、商品形態が周知であり、これと誤認、混同を生じさせる商品の販売の差止め等を求めるものであるところからすると、その品質表示に誤解を与えるものであったとしても、このことだけから、原告の請求が許されないとすることはできないというべきである。もちろん、クリーンハンドの原則あるいは権利の濫用法理によって、請求権の行使が許されないことのあり得ることは否定できないとしても、「JWLマーク」が私的な取決めに基づくものであって、その意味が一般にどの程度知れ渡っているかは疑問であり、また本件原告商品の表示が商品そのものに付されたのではなく、包装に付されたにとどまること、本件原告商品の周知性が、JWLマークによって獲得されたものと認めるべき証拠はなく、前記認定事実によれば、形態によって取得されたものといえること(あるいは、本件原告商品の標章によるものとみる余地もある)、他方、本件被告商品の形態は、本件原告商品の独特の形態に酷似していることなどを総合勘案すると、原告の本訴請求権の行使が許されないとすることはできない。」

次に随意契約によってほとんどの公共団体が鑑定評価を行わせており、見積もりをとっていない。このことは競争に付する場合には価格が下がりすぎるからであるという理由であること、被上告人との間に協定が現在も結ばれ続けていることなどが原因である。協定とは合意であり、共同の合意であるということになる。

随意契約によってほとんどの公共団体が契約していることについては次のような判決がある。

「事件番号:昭和56年(行ツ)第144号

事件名 :売却処分無効確認等請求事件

裁判所 :最高裁判所第3小法廷

判決日 : 昭和62年5月19日 (1987-05-19)

判示事項:

一、普通地方公共団体が随意契約の制限に関する法令に違反して締結した契約の効力

二、普通地方公共団体が随意契約の制限に関する法令に違反して締結した契約の履行行為と地方自治法242条の2第1項1号に基づく差止請求の可否

判決要旨:

普通地方公共団体が随意契約の制限に関する法令に違反して締結した契約は、地方自治法施行令167条の2第1項に揚げる事由のいずれにも当たらないことが何人の目にも明らかである場合や契約の相手方において随意契約の方法によることが許されないことを知り又は知り得べかりし場合など当該契約を無効としなければ随意契約の締結に制限を加える法令の趣旨を没却する結果となる特段の事情が認められる場合に限り、私法上無効となる。」

「当該契約が仮に随意契約の制限に関する法令に違反して締結された点において違法であるとしても、それが私法上当然無効とはいえない場合には、普通地方公共団体は契約の相手方に対して当該契約に基づく債務を履行すべき義務を負うのであるから、右債務の履行として行われる行為自体はこれを違法ということはできず、このような場合に住民が法二四二条の二第一項一号所定の住民訴訟の手段によつて普通地方公共団体の執行機関又は職員に対し右債務の履行として行われる行為の差止めを請求することは、許されないものというべきである。」

なお、入会強制命令は入会差止と共に法的に自然に形成される権利であるのか、命令的差止であるのかについては次のような判例がある。

これについては入会拒絶に付随する必要最小限度の入会許可命令を発することができるとする判決が相当であろう。

例えば取引拒絶には二者択一でないので、どの様な取引を強制するのかについてスペシフィケーションが必要であるが、入会拒絶に対してはそのような特定は必要ではなく、入会拒絶の禁止は入会許可しかない。これはあれかこれかという二進法による二者択一の選択を迫られているときには、一方の禁止は両方ともがゼロにならない限りは他の選択の要求であるということになるからである。

上告人が東京に追い戻されない限りは、この様な結論になり、世界でも初めての命令的差止が可能になるのである。

これを赤坂弁護士は「東京に戻れば。」と進言した。これは迫っているように思えた。どうしても秩父・飯能への進出は許さないというのだろうか。超過利潤がある地域なのに。これは独占禁止法違反の行為と同じことになろう。

さて二者択一の場合には形成訴訟のように見えるが、そうではなく形成訴訟の場合には裁判所が独自に境界線を引く場合と同じように和解案を提示する場合を本件の場合にはいうのであろうが、二者択一であるので差止については裁判所は命令的差止を行うしか方法はないのである。

形成訴訟論については次の様な判決がある。これは最高裁判所においてなされた判決である。

事件番号:平成3年(オ)第1249号
事件名 :養親子関係存在確認請求事件
裁判所 :最高裁判所第1小法廷
判決日 : 平成5年12月2日 (1993-12-02)
判示事項:

訴え却下の判決に対する控訴審において訴えの変更が許されるとされた事例

判決要旨:

養子に協議離縁の意思及び届出の意思がなかったことを理由とする養親子関係存在確認の訴えを不適法として却下した判決に対する控訴審の第一回口頭弁論期日において、第一審口頭弁論期日に訴えの変更をしない旨の陳述をしていた控訴人(原告)から予備的に離縁無効確認の訴えを追加する旨の訴え変更の申立てがされた場合に、第一審裁判所が協議離縁の意思及び届出の意思についての当事者双方の申請に係る証拠のすべてを取り調べて本件の事実関係についての審理を遂げており、相手方が右訴え変更の申立てについて異議を述べることをしなかったなどの事情が認められ、相手方の有する審級の利益を害することがなく、訴訟手続を遅滞されるおそれもないときには、右訴え変更の申立ては許される。

協議離縁が本件のように、離縁の意思も、届出の意思も欠いている場合に即して言えば、

(第一説)この場合は、離縁は当然無効であり、従って、確認の訴えによるベきであるとしたうえで、離縁無効の訴えが確認の訴えであると考えて、同訴えによるべきであるとする見解。

(第二説)同じく、離縁は当然無効であり、従って、確認の訴えによるべきであるとしたうえで、離縁無効の訴は形成の訴えであると解されるので、本件の場合は確認訴訟である養親子関係存在確認の訴えによるべきであるとする見解。

(第三説)離縁の無効を形成無効と解し、従って、形成の訴えによるべきであるとし、離縁無効の訴えが形成の訴えであるとして、同訴えによるべきであるとする見解。

に大分される(注釈民法第二二巻七八七頁)。

本件事件においては入会拒否の差止であり、形成訴訟ではない。給付訴訟である。しかし次のように考えられる。形成訴訟に似ている部分があるが、会員の権利を即認めることにはならないがそれと同様の権利が認められることになる。これは実体的にそうなるという意味であり、最高裁判所判決の意味は大きい。

すなわち、土地の境界確定のように裁判所が、取引拒絶において取引をしなさいと命令することは、強制的差止命令であり、形成訴訟ではない。その上入会させなさいという命令は差止訴訟においては先に述べた通りに差止に必然的に合理的に付随する範囲内においてのみ認められることになる。入会拒絶の禁止が、入会強制になる場合は入会拒絶の差止に付随する範囲に入会強制が含まれていると考えられる場合でありその場合には入会強制を行うことができることになる。

これについては入会拒絶についての差止が、その他の選択肢として入会許可しかないという事実によって、入会許可の命令は必然的に合理的に付随するものであり、必要最小限度の必然的には広範too broadではない命令ということができる。

形成訴訟については次の意見がある。

「大審院大正12年6月2日判決が、境界確定訴訟においては、裁判所は当事者の主張する境界線に拘束されることなく、その真実なりと認めるところに境界線を定めるべきであるとして、形成訴訟説ないし形式的形成訴訟説の立場に立つことを明らかにした。

最高裁判所になってからも、

境界確定訴訟の性質を直接明言した判例はないものの、土地の境界は公法上のものであるから隣接土地所有者間の合意によって変動しないとした最判昭和31年12月28日判決、

境界確定訴訟における主文には係争土地の所有者を表示する必要はないとした昭和37年10月30日判決、

当事者の主張しない境界線を確定しても弁論主義には違反せず、控訴審で一審判決を変更する場合にも不利益変更禁止の原則(民事訴訟法385条)の適用はないとした昭和38年10月15日判決、

境界確定訴訟は隣接する土地の境界が事実上不明なため争いがある場合に裁判所によって新たにその境界を確定することを求める訴えであって土地所有権の範囲の確認を求めるものではなく、取得時効の抗弁の当否は境界確定に無関係であるとした昭和43年2月22日判決

などから、一般に、最高裁判所は、形成訴訟説ないし形式的形成訴訟説に拠っていると理解されている。

【最判昭和38年10月15日、最民集17巻9号1220頁】

「境界確定訴訟にあっては、裁判所は当事者の主張に覊束されることなく、自らその正当と認めるところにしたがって境界線を定むべきものであって、すなわち、客観的な境界を知り得た場合にはこれにより、客観的な境界を知り得ない場合には常識に訴え最も妥当な線を見いだしてこれを境界と定むべく、かくして定められた境界が当事者の主張以上に実際上有利であるか不利であるかは問うべきではないのであり、当事者の主張しない境界線を確定しても民事訴訟法186条の規定に違反するものではないのである。されば、第一審判決が一定の線を境界線と定めたのに対し、これに不服のある当事者が控訴の申立てをした場合においても、控訴裁判所が第一審判決を変更して、自己の正当とする線を境界と定むべきものであり、その結果が控訴人にとり、実際上不利であり、附帯控訴をしない被控訴人に有利であっても問うところではなく、この場合には、いわゆる不利益変更禁止の原則の適用はないものと解するのが相当である。」

この意見も必然的であり、広範ではないという点において合理的であり、かつ妥当である。形成訴訟と、命令的差止には共通性があるといえる。

将来の給付の訴え

現在はまだ未提出とされたが、上告人は将来給付の訴えを必ず追加するので、その件について先に述べる。特に団藤重光教授の意見はおそらくアメリカの憲法判例も考慮したものと考えられるがまだ探し出していない。

差止は一部将来の給付の訴えでもある。この場合に昭和51年(オ)第395号 大阪国際空港夜間飛行禁止等請求事件 最高裁判所判決は参考になるのでここに挙げる。

「継続的不法行為に基づき将来発生すべき損害賠償請求権についても、例えば不動産の不法占有者に対して明渡義務の履行完了までの賃料相当額の損害金の支払を訴求する場合」のように、本件事件において現在までの入会の延期がほぼ確実に将来発生する損害を与えていることが確実な場合には将来の損害を認めても民訴法二二六条の趣旨に反しないと考えることができる。足場のない市場においては自由競争が一般的な市場においては市場占有率の成長率が高いことをヤードスティック法によって主張することと、被上告人が配分権を市場において把握している時期においては 、将来も前年実績主義が続くであろうことを認め、将来の損害を認めることとは矛盾するものではない。

昭和51年(オ)第395号 大阪国際空港夜間飛行禁止等請求事件 最高裁判所判決は次のように述べる。

「民訴法二二六条はあらかじめ請求する必要があることを条件として将来の給付の訴えを許容しているが、同条は、およそ将来に生ずる可能性のある給付請求権のすべてについて前記の要件のもとに将来の給付の訴えを認めたものではなく、主として、いわゆる期限付請求権や条件付請求権のように、既に権利発生の基礎をなす事実上及び法律上の関係が存在し、ただ、これに基づく具体的な給付義務の成立が将来における一定の時期の到来や債権者において立証を必要としないか又は容易に立証しうる別の一定の事実の発生にかかつているにすぎず、将来具体的な給付義務が成立したときに改めて訴訟により右請求権成立のすべての要件の存在を立証することを必要としないと考えられるようなものについて、例外として将来の給付の訴えによる請求を可能ならしめたにすぎないものと解される。このような規定の趣旨に照らすと、継続的不法行為に基づき将来発生すべき損害賠償請求権についても、例えば不動産の不法占有者に対して明渡義務の履行完了までの賃料相当額の損害金の支払を訴求する場合のように、右請求権の基礎となるべき事実関係及び法律関係が既に存在し、その継続が予測されるとともに、右請求権の成否及びその内容につき債務者に有利な影響を生ずるような将来における事情の変動としては、債務者による占有の廃止、新たな占有権原の取得等のあらかじめ明確に予測しうる事由に限られ、しかもこれについては請求異議の訴えによりその発生を証明してのみ執行を阻止しうるという負担を債務者に課しても格別不当とはいえない点において前記の期限付債権等と同視しうるような場合には、これにつき将来の給付の訴えを許しても格別支障があるとはいえない。しかし、たとえ同一態様の行為が将来も継続されることが予測される場合であつても、それが現在と同様に不法行為を構成するか否か及び賠償すべき損害の範囲いかん等が流動性をもつ今後の複雑な事実関係の展開とそれらに対する法的評価に左右されるなど、損害賠償請求権の成否及びその額をあらかじめ一義的に明確に認定することができず、具体的に請求権が成立したとされる時点においてはじめてこれを認定することができるとともに、その場合における権利の成立要件の具備については当然に債権者においてこれを立証すべく、事情の変動を専ら債務者の立証すべき新たな権利成立阻却事由の発生としてとらえてその負担を債務者に課するのは不当であると考えられるようなものについては、前記の不動産の継続的不法占有の場合とはとうてい同一に論ずることはできず、かかる将来の損害賠償請求権については、冒頭に説示したとおり、本来例外的にのみ認められる将来の給付の訴えにおける請求権としての適格を有するものとすることはできないと解するのが相当である。」

以上が多数意見である。

「期限付請求権や条件付請求権のように、既に権利発生の基礎をなす事実上及び法律上の関係が存在し、ただ、これに基づく具体的な給付義務の成立が将来における一定の時期の到来や債権者において立証を必要としないか又は容易に立証しうる別の一定の事実の発生にかかつているにすぎ」ない場合にだけ将来給付を認めるというのである。しかしこれは権利発生の基礎をなす事実上及び法律上の関係が存在し、ただ、これに基づく具体的な給付義務の成立を前提とした契約上の差止における将来給付についてのみ論じているのであって、本件事件においては公共の利益のための差止であり、「既に権利発生の基礎をなす事実上及び法律上の関係が存在し」ていることを前提としていない。差止であっても契約上の義務を前提とした判決であるが、上告人が求めているのは契約上の義務を前提としない判決である。独占禁止法違反による差止においては将来のおそれや、将来について言及しているが、公共の利益を犯した被上告人に対する現在及び将来に対するものであるから、当然に契約に基づくものではないことは先に述べた通りである。将来までの損害の影響があるのならば、それは現在において予測した損害額を出し、それを現在の緩やかな証拠の原則によって認めることはできるであろう。この場合独占禁止法第24条にいう「著しい損害」の概念の中にそれが入っていないとは誰もいえないし、本条の損害の中にそれが入っていないとは誰もいえない。従って、差し戻し審においてはおそらく上告人は、再度さいたま地方裁判所へもう一度将来給付の請求を行うことなく、損害額の算定の中に将来10年間の追い越すまでの損害を請求できると考える。そうでなくてはさいたま地方裁判所へもう一度将来給付の請求を行う必要があろう。差し戻し審判決において「将来の10年間の元に戻り追い越すまでの損害の積分を含めてと書かれ場合には再度最高裁判所判決においてその是非を問う必要があることになろう。

ところで独占禁止法第24条の損害額を請求できるという趣旨は、過去の損害額とは限定していないのであるから、損害が将来にもわたって続くものである場合にはその損害額を排除していないと見るのが相当である。これは契約に則っている差止ではない場合には特にその公共の利益という観点からそのように言うことができるのである。

裁判官団藤重光の反対意見がある。

「〔将来の損害の賠償請求に関する個別意見〕

(16) 上告理由第六点の二、三についての裁判官団藤重光の反対意見は、次のとおりである。

上告人が上告理由第八点において指摘しているとおり、原判決が将来の給付を命じるについて明確かつ適当な終期を付しなかつたことは原判決の重大な瑕疵といわなければならず、わたくしもこの点で原判決は将来給付の請求に関するかぎり破棄差戻を免れないものと考えるが、もし前記のような最小限度の被害の発生が確実に継続するものとみとめられる期間を控え目にみてその終期を定めるならば、その期間内に特別の事態が生じたばあいに相手方に請求異議の訴によつて救済を求めさせることにしても――その特別の事態の発生によつて賠償額に影響を及ぼすことを立証しなければならないが――これに不当に不利益を課することにはならないというべきであろう。また、かような終期を付することによつて、既判力の範囲についても、疑点を解消することができるものと考える。要するに、わたくしは、本件将来給付の請求を不適法とする多数意見には賛成することができないのである。

なお、念のために付言すれば、多数意見によると、昭和五〇年六月一日以降に発生した本件損害賠償請求権については訴が却下されることになり、その中で発生後すでに消滅時効の期間(民法七二四条)が経過した分については、被上告人らはこの判決確定の日から六箇月以内に改めて訴を提起しなければ消滅時効が完成することになる(同法一四九条、一五三条参照)。この点でも、多数意見と私見とでは、実際上、かなり大きな差異が出て来るわけである。」(事件番号:昭和51年(オ)第395号 事件名 :大阪国際空港夜間飛行禁止等請求事件 裁判所 :最高裁判所 判決日 : 昭和56年12月16日 (1981-12-16))」

「かような終期を付することによつて、既判力の範囲についても、疑点を解消することができるものと考える。」とする団藤重光裁判官の見解は上告人が現在既判力について述べているのと同様に、公共の利益が侵されている期間の終期について述べており、それによってのみその終期までの期間にはたとえ入会拒否の影響が及ぼうと、及ぶまいと既判力が発生するが、そうでない場合には不動産の賃貸の将来の契約期間の賃料と同じように、その時点での賃料請求権が発生するということになるのである。本件事件の場合にも将来給付の訴えはできると考えられる。

以上の通りに本件事件では団藤重光裁判官の少数説に依拠して、将来給付の訴えも、高等裁判所において付け加える予定である。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(17)

平成17年6月23日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

不動産鑑定業においてはほとんど競争がなく、被上告人による秘密裏の取引であり、公開的なことをしないようにし(させ)、非公開で割当をする市場支配力の存在がある、またいわゆる市場割当の存在とその可能な状況証拠とその状況の結果の証明がなされている本件事件においてはドイツの競争制限禁止法第20条第6項の規定や、アメリカにおいてもノースウェスト判決におけるような状況があれば、憲法第14条第1項は経済的自由に関しても適用可能であると考えられること。

ドイツの競争制限禁止法の第20条6項の次の考え方は、憲法第14条第1項と同様の人権の概念を念頭に置いているとも考えることができる。特に日本の独占禁止法上入会強制の規定が存在しない以上は憲法の解釈としてドイツの競争制限禁止法第20条第6項と同様の結論を導き出すことは妥当である。違憲か、合憲かの論争としてこのような強制的加入団体に近い事業者団体の性格についての論争に憲法が割り込む余地があるのは、ただ法に欠缺がある日本の場合のみである。これを自然法論争と昔我々が大学を出るときは呼んでいたが、今はただの法哲学論争、あるいは、憲法の根本法論争と呼ばれている。これはドイツ式の概念法学と、英米法系のコモンローの損害賠償請求を求めることができない場合の衡平法上の差止概念との融合という問題としてとらえるならば、ラートブルッフのいうような自然法論争が大きな法学の流れの中で進化してきたと見てもよいであろう。ナチの時代の反省として出てきたラートブルッフのいうような自然法理論は現在では憲法論争として実定法的に考えてもよいであろう。しかし根本法としての憲法の性質によるのである。

ドイツの競争制限禁止法第20条第6項によれば、市場の状況として

if such refusal constitutes an objectively unjustified unequal treatment and would place the undertaking at an unfair competitive disadvantage.

であれば差止と損害賠償の請求ができるという規定である。日本では独占禁止法上の損害賠償の請求も民法の不法行為法によって取り扱われるが、ドイツでは損害賠償の規定は独占禁止法に違反に対する損害賠償を認める私訴の規定があるので、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項の中に盛り込まれている。もし日本の24条の規定の「著しい損害」の規定にはそれに対する損害賠償を認める規定が入っていると解釈できるならば、日本の法律上も差止と同時に損害賠償を認める規定が盛り込まれたという解釈が可能である。この解釈によれば民事訴訟法第248条の規定の「損害」という言葉と連動しているとすることが可能である。

「事業者団体ないしは職業団体、あるいは、品質保証団体が、もし参加を拒むことによって客観的に正当な理由なく平等的ではない取扱となり、ある事業者に競争上不当な不利益を与える場合には、入会を拒むことは許されない。」

この規定が存在しない日本において、法の欠缺として憲法や自然法の概念から導き出すことができるであろうか。

ドイツにおいてはunequal treatmentを行うことによってそれが objectively unjustified であってかつunfair competitive disadvantageが個別企業に発生する場合には取引拒絶が認められないという考え方は、実定法によって解決することができる。しかし日本においてはアメリカのように判例法として定立されてきていないのに、独占禁止法の不公正取引の概念そのものであると解釈して憲法第14条第1項を使用する必要はないといえるかどうかの問題がある。これは先に述べた信条の自由が尊重されなくてはならないことが本件事件においては憲法問題とされなくてはならないのかどうかという問題と似ている。特別法としての独占禁止法と、一般法としての憲法というとらえかたをすれば独占禁止法により解ける難問であれば独占禁止法によって解くべきであるというのがこの考え方である。

合理的な差別であるのかどうかについては、次の違憲判決における反対意見について検討する。

「裁判官田中二郎の意見は、次のとおりである。

私は、本判決が、尊属殺人に関する刑法二〇〇条を違憲無効であるとして、同条を適用した原判決を破棄し、普通殺人に関する刑法一九九条を適用して被告人を懲役二年六月に処し、三年間刑の執行を猶予した、その結論には賛成であるが、多数意見が刑法二〇〇条を違憲無効であるとした理由には同調することができない。すなわち、多数意見は、要するに、刑法二〇〇条において普通殺人と区別して尊属殺人に関する特別の罪を定め、その刑を加重すること自体は、ただちに違憲とはいえないとし、ただ、その刑の加重の程度があまりにも厳しい点において、同条は、憲法一四条一項に違反するというのである。これに対して、私は、普通殺人と区別して尊属殺人に関する規定を設け、尊属殺人なるがゆえに差別的取扱いを認めること自体が、法の下の平等を定めた憲法一四条一項に違反するものと解すべきであると考える。したがつて、私のこの考え方からすれば、本件には直接の関係はないが、尊属殺人に関する刑法二〇〇条の規定のみならず、尊属傷害致死に関する刑法二〇五条二項、尊属遺棄に関する刑法二一八条二項および尊属の逮捕監禁に関する刑法二二〇条二項の各規定も、被害者が直系尊属なるがゆえに特に加重規定を設け差別的取扱いを認めたものとして、いずれも違憲無効の規定と解すべきであるということとなり、ここにも差異を生ずる。ただ、ここでは、尊属殺人に関する刑法二〇〇条を違憲無効と解すべき理由のみについて、私の考えるところを述べることとする。それは、次のとおりである。

一 日本国憲法一三条の冒頭に、「すべて国民は、個人として尊重される」べきことを規定しているが、これは、個人の尊厳を尊重することをもつて基本とし、すべての個人について人格価値の平等を保障することが民主主義の根本理念であり、民主主義のよつて立つ基礎であるという基本的な考え方を示したものであつて、同一四条一項に、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定しているのも、右の基本的な考え方に立ち、これと同一の趣旨を示したものと解すべきである。右の条項には、人種、信条、性別などが列記されているが、多数意見も認めているように、これらの列記は、単にその主要なものの例示的列記にすぎず、したがつて、これらの列記事項に直接該当するか否かにかかわらず、個人の尊厳と人格価値の平等の尊重・保障という民主主義の根本理念に照らして不合理とみられる差別的取扱いは、すべて右条項の趣旨に違反するものとして、その効力を否定すべきものと考えるのである。

近代国家の憲法がひとしく右の意味での法の下の平等を尊重・確保すべきものとしたのは、封建時代の権威と隷従の関係を打破し、人間の個人としての尊厳と平等を回復し、個人がそれぞれ個人の尊厳の自覚のもとに平等の立場において相協力して、平和な社会・国家を形成すべきことを期待したものにほかならない。日本国憲法の精神もここにあるものと解すべきであろう。

もつとも、私も、一切の差別的取扱いが絶対に許されないなどと考えているわけではない。差別的取扱いが合理的な理由に基づくものとして許容されることがあることは、すでに幾多の最高裁判所の判決の承認するところである。問題は、何がそこでいう合理的な差別的取扱いであるのか、その「合理的な差別」と「合理的でない差別」とを区別すべき基準をどこに求めるべきかの点にある。そして、この点について、私は、さきに述べたように、憲法の基調をなす民主主義の根本理念に鑑み、個人の尊厳と人格価値の平等を尊重すべきものとする憲法の根本精神に照らし、これと矛盾抵触しない限度での差別的取扱いのみが許容されるものと考えるのである。したがつて、本件においては、尊属殺人に関し、普通殺人と区別して特別の規定を設けることが、右の基準に照らし、果たして「合理的な差別」といえるかどうかについて、検討する必要があるわけである。

二 ところで、多数意見は、(1)尊属殺人について、普通殺人と区別して特別の規定を設けることには合理的根拠があるから、憲法一四条一項には違反しないとし、ただ、(2)刑法二〇〇条の定める法定刑があまりにも厳しすぎる点において、憲法一四条一項に違反するというのである。しかし、右の(1)の見解は果たして正当といい得るであろうか、これはすこぶる問題である。また、かりに、(1)の見解が是認され得るとした場合において、(2)の見解が果たして十分の説得力を有するものといい得るであろうか。この点についても、いささか疑問を抱かざるを得ないのである。順次、私の疑問とするところを述べることとする。

(1) 刑法二〇〇条の尊属殺人に関する規定が設けられるに至つた思想的背景には、封建時代の尊属殺人重罰の思想があるものと解されるのみならず、同条が卑属たる本人のほか、配偶者の尊属殺人をも同列に規定している点からみても、同条は、わが国において旧憲法時代に特に重視されたといわゆる「家族制度」との深い関連をもつていることを示している。ところが、日本国憲法は、封建制度の遺制を排除し、家族生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を確立することを根本の建前とし(憲法二四条参照)、この見地に立つて、民法の改正により、「家」、「戸主」、「家督相続」等の制度を廃止するなど、憲法の趣旨を体して所要の改正を加えることになつたのである。この憲法の趣旨に徴すれば、尊属がただ尊属なるがゆえに特別の保護を受けるべきであるとか、本人のほか配偶者を含めて卑属の尊属殺人はその背徳性が著しく、特に強い道義的非難に値いするとかの理由によつて、尊属殺人に関する特別の規定を設けることは、一種の身分制道徳の見地に立つものというべきであり、前叙の旧家族制度的倫理観に立脚するものであつて、個人の尊厳と人格価値の平等を基本的な立脚点とする民主主義の理念と抵触するものとの疑いが極めて濃厚であるといわなければならない。諸外国の立法例において、尊属殺人重罰の規定が次第に影をひそめ、これに関する規定を有していたものも、これを廃止ないし緩和する傾向にあるのも、右の民主主義の根本理念の滲透・徹底に即応したものということができる。最近のわが国の改正刑法草案がこの種の規定を設けていないのも、この流れにそつたものにほかならない。

私も、直系尊属と卑属とが自然的情愛と親密の情によつて結ばれ、子が親を尊敬し尊重することが、子として当然守るべき基本的道徳であることを決して否定するものではなく、このような人情の自然に基づく心情の発露としての自然的・人間的情愛(それは、多数意見のいうような「受けた恩義」に対する「報償」といつたものではない。)が親子を結ぶ絆としていよいよ強められることを強く期待するものであるが、それは、まさしく、個人の尊厳と人格価値の平等の原理の上に立つて、個人の自覚に基づき自発的に遵守されるべき道徳であつて、決して、法律をもつて強制されたり、特に厳しい刑罰を科することによつて遵守させようとしたりすべきものではない。尊属殺人の規定が存するがゆえに「孝」の徳行が守られ、この規定が存しないがゆえに「孝」の徳行がすたれるというような考え方は、とうてい、納得することができない。尊属殺人に関する規定は、上述の見地からいつて、単に立法政策の当否の問題に止まるものではなく、憲法を貫く民主主義の根本理念に牴触し、直接には憲法一四条一項に違反するものといわなければならないのである。

(2) 右に述べたように、私は、尊属殺人に関し、普通殺人と区別して特別の規定を設けること自体が憲法一四条一項に牴触するものと考えるのであるが、かりに、多数意見が説示しているように、このこと自体が憲法一四条一項に牴触するものではないという考え方に立つべきものとすれば、尊属殺人に対して、どのような刑罰をもつて臨むべきかは、むしろ、立法政策の問題だと考える方が筋が通り、説得力を有するのではないかと思う。

多数意見は、「尊属の殺害は通常の殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとして、このことをその処罰に反映させても、あながち不合理であるとはいえない」としながら、「尊属殺の法定刑は、それが死刑または無期懲役刑に限られている点においてあまりにも厳しいものというべく、(中略)尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の維持尊重の観点のみをもつてしては、これにつき十分納得すべき説明がつきかねるところであり、合理的根拠に基づく差別的取扱いとして正当化することはとうていできない」というのである。しかし、もし、尊属殺害が通常の殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとしてこれを処罰に反映させても不合理ではないという観点に立つとすれば、尊属殺害について通常の殺人に比して厳しい法定刑を定めるのは当然の帰結であつて、処断刑三年半にまで減軽することができる現行の法定刑が厳しきに失し、その点においてただちに違憲であるというのでは、論理の一貫性を欠くのみならず、それは、法定刑の均衡という立法政策の当否の問題であつて、刑法二〇〇条の定める法定刑が苛酷にすぎるかどうかは、憲法一四条一項の定める法の下の平等の見地からではなく、むしろ憲法三六条の定める残虐刑に該当するかどうかの観点から、合憲か違憲かの判断が加えられて然るべき問題であると考えるのである。

三 日本国憲法の制定に伴つて行なわれた刑法の改正に際し、「忠孝」という徳目を基盤とする規定のうち、「忠」に関する規定を削除しながら、「孝」に関する規定を存置したのは、憲法の根本理念および憲法一四条一項の正しい理解を欠いたためであると考えざるを得ない。そして、昭和二五年一〇月一一日の最高裁判所大法廷判決(刑集四巻一〇号二〇三七頁)が、尊属傷害致死に関する刑法二〇五条二項は憲法一四条に違反しない旨の判断を示した(その趣旨は刑法二〇〇条にもそのままあてはまるものと解される。)のも、私には、とうてい、理解することができない。ところで、右に述べたような最高裁判所の指導的判決のもとで、刑法二〇〇条が実際上どのように運用されてきたかということも、右の規定の存在意義を反省するうえに若干の参考となるであろう。

そこで、尊属殺人事件についての第一審判決の科刑の実情をみるに、統計の示すところによれば、昭和二七年から昭和四四年に至る一八年間の尊属殺人事件総数六二一件のうち、死刑の言渡がされたものは僅かに五件(〇・八一%)、無期懲役刑の言渡がされたものは六一件(九・八二%)にすぎず、大多数は減軽措置により一五年以下の懲役刑の言渡がされており、なかでも、五年以下の懲役刑の言渡がされたものが一六四件(二六・四%)に達し、最高の率を示している。このことは、多数意見が、尊属殺人は一般殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとしているのにかかわらず、現実には、本件の場合ほど極端な例はないにしても、やむにやまれぬ事情のもとに行なわれた犯行として強い社会的道義的非難を加えることの妥当でない事例が少なくないことを示している。のみならず、刑法二〇〇条の存在が具体的事案に即した量刑を著しく困難にし、裁判官を苦慮させ、時には、あえて、同条の違憲無効を断ぜざるを得ない破目に陥らせているのが実情である。最高裁判所自体も、昭和三二年二月二〇日の大法廷判決(刑集一一巻二号八二四頁)において、冷遇に苦しめられ、亡夫の父母等を殺害しようとした未亡人に刑法二〇〇条を適用した原判決を破棄し、同条の「配偶者の直系尊属」とは現に生存する配偶者のそれを指すものとし、刑法二〇〇条の適用を否定せざるを得なかつたのである。その結論は妥当として支持すべきものであろうが、同条の解釈としては問題のあるところで、右の結論を引き出すためには、根本に立ち帰つて、刑法二〇〇条そのものの合憲性について検討を加えるべきではなかつたかと思う。たしかに、尊属殺人のなかには、天人ともに許さない悪逆非道なものがあり、極刑をもつて臨まざるを得ないような事案もあるであろう。しかし、それは、必ずしも尊属殺人なるがゆえをもつて特別の取扱いをすることを根拠づけ又はこれを合理化するものではなく、同様の事案は普通殺人についても、しばしば、みられるのであるから、その処罰には普通殺人に関する法定刑で事足りるのであつて、改正刑法草案が尊属殺人に関する規定を廃止しているのも、こういう見地に立つものにほかならない。

四 多数意見が尊属殺人について合理的な程度の加重規定を設けることは違憲でないとの判断を示したのは、それを違憲であるとする判断を示すことの社会的影響について深く憂慮したためではないかと想像されるが、殺人は、尊属殺人であろうと普通殺人であろうと、最も強い道義的非難に値いする犯罪であることはいうまでもないところであつて、尊属殺人に関する規定が違憲無効であるとする判断が示されたからといつて、この基本的な道徳が軽視されたとか、反道徳的な行為に対する非難が緩和されたとかと、受けとられるとは思わない。それは、むしろ、国民の一般常識又は道徳観を軽視した結果であつて、杞憂にすぎないといつてよいであろう。

五 最後に、下田裁判官の反対意見について、一言附け加えておきたい。

下田裁判官の反対意見は、その結論および理由の骨子ともに、私の賛成しがたいところであるが、そのことは、すでに述べたところがら明らかであるから、ここに重ねて述べることを省略し、ここでは、下田裁判官のとられる裁判所の違憲審査権に関する考え方についてのみ私の意見を述べることとする。

右の点に関する下田裁判官の意見は、国民多数の意見を代表する立法府が制定した実定法規はこれを尊重することが「憲法の根本原則たる三権分立の趣旨にそう」ものであり、裁判所がたやすくかかる事項に立ち入ることは、「司法の謙抑の原則にもとる」こととなるおそれがあるという考え方を基礎とするもので、刑法二〇〇条についても、昭和二二年に刑法の一部改正が行なわれた際、ことさらにその改正から除外されたのであつて、右は、「当時立法府が本条をもつて憲法に適合するものと判断したことによると認むべきである」とされ、その後種々の論議が重ねられたにかかわらず、「今日なお同条についての立法上の措置を実現していないことは、立法府が、現時点において、同条の合憲性はもとより、立法政策当否の観点からも、なお同条の存置を是認しているものと解すべきである」とし、「かかる経緯をも考慮するときは、司法の謙抑と立法府の判断の尊重の必要は、刑法二〇〇条の場合において一段と大であるといわなければならない」とされ、さらに、立法論としても、「将来いかなる時期にいかなる内容の尊属殺処罰規定を制定あるいは改廃すべきかの判断は、あげて立法府の裁量に委ねるのを相当と考えるものである」と述べておられる。

私も、事柄の性質によつては、立法府に相当広範な裁量権が認められる場合があること、そして、その裁量権の範囲内においては、立法政策の問題として、裁判所としても、これを尊重することを要し、これに介入することができないものとすべき場合が少なくないことを認めるに吝かではないし、裁判所が安易にそのような事項に立ち入つてその当否を判断すべきでないことも、下田裁判官の主張されるとおりであると思う。また、立法府が制定した法律の規定は、可能な限り、憲法の精神に即し、これと調和し得るよう合理的に解釈されるべきであつて、その字句の表現のみに捉われて軽々に違憲無効の判断を下すべきでないことも、かねて私の主張してきたところで、当裁判所の判例のとる基本的な態度でもあるのである。ところが、下田裁判官の意見は、「憲法の根本原則たる三権分立の趣旨」と「司法の謙抑の原則」をふりかざし、立法府の裁量的判断に委ねられるべき範囲を不当に拡張し、しかも、立法府が合憲と判断した以上、これに対する裁判所の介入は、もはや許されるべきでないかのごとき口吻を示されている。その真意のほどは必ずしも明らかではないが、本件について下田裁判官の主張されるところに限つてみても、私には、とうてい、賛成することができないのである。

およそ立法府として(行政府についても同様のことがいえる。)、その行為が違憲であることを意識しながら、あえてこれを強行するというようなことは、ナチ政権下の違憲立法のごとき、いわば革命的行為をあえてしょうとするような場合は別として、わが国においては、通常、あり得ないことであり、また、あつてはならないことである。しかし、現実には、立法府の主観においては合憲であるとの判断のもとにされた立法についても、これを客観的にみた場合に、果たして合憲といえるかどうかが問題となる場合もあり得るのであつて、その場合の合憲か違憲かの審理判断を裁判所の重要な権限として認めようとするのが裁判所の違憲立法審査制の本来の狽いなのである。したがつて、裁判所の違憲立法審査権が明文で認められている現行憲法のもとでは、立法府自体が合憲であると判断したということは、裁判所の違憲立法審査権の行使を否定しこれを拒否する理由となし得るものでないことはいうまでもない。殊に、現在のように、基本的人権の尊重確保の要請と公共の福祉の実現の要請とをどのように調整すべきかの問題について、政治的・思想的な価値観の対立に基づき、重点の置きどころを異にし、利害の対立もからんで、見解の著しい差異が見られる時代においては、国会の多数の意見に従つて制定された法律であることのゆえのみをもつてただちに常に合憲であると断定するわけにはいかないのである。もちろん、法律には、一応、「合憲性の推定」は与えられてよいが、それが果たして合憲であるかどうかは、まさに裁判所の審理判断を通して決せられるべき問題にほかならない。したがつて、司法の謙抑の原則のみを強調し、裁判所の違憲立法審査権の行使を否定したり、これを極度に制限しようとしたりする態度は、わが現行憲法の定める三権分立制の真の意義の誤解に基づき、裁判所に与えられた最も重要な権能である違憲立法審査権を自ら放棄するにも等しいものであつて、憲法の正しい解釈とはいいがたく、とうてい賛成することができないのである。

裁判官小川信雄、同坂本吉勝は、裁判官田中二郎の右意見に同調する。」

「刑法二〇〇条が、その法定刑として「死刑又は無期懲役」のみを規定していることは、厳に失するの憾みがないではないが、これとても、犯情の如何によつては、刑法の規定に従つて刑を減軽することはできるのであつて、いかなる限度にまで減刑を認めるべきかというがごとき、所詮は、立法の当否の問題に帰するもので、これがために同条をもつて憲法に違反するものと断ずることはできない。」とのそれまでの判決を覆した事件番号:昭和45年(あ)第2580号 事件名 :尊属殺人被告事件 裁判所 :最高裁判所 判決日 : 昭和48年4月4日 (1973-04-04)は、判決要旨 刑法200条は憲法14条1項に違反する(補足意見、意見および反対意見がある。)として、「刑法二〇〇条は、尊属殺を普通殺と区別してこれにつき別異の刑を規定している点ではいまだ不合理な差別的取扱いをするものとはいえないけれども、その法定刑を死刑または無期懲役刑のみに限つている点において、立法目的達成のため必要な限度を遙かに超え、普通殺に関する刑法一九九条の法定刑に比し著しく不合理な差別的取扱いをするものと認められ、憲法一四条一項に違反して無効であるとしなければならず、したがつて尊属殺にも刑法一九九条を適用するのほかはないことは、当裁判所昭和四五年(あ)第一三一〇号同四八年四月四日大法廷判決の示すとおりである。これと見解を異にし、刑法二〇〇条は憲法に違反しないとして「被告人の本件所為に同条を適用している原判決は、憲法の解釈を誤つたものにほかならず、かつ、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、所論は理由があることに帰する。」とした。

本件事件においてもドイツ競争制限禁止法の規定を参考にしてみても、平等ではない取り扱いが合理的か否かについて、憲法上の判断をする必要があり、「被告人の本件所為に同条を適用している原判決は、憲法の解釈を誤つたものにほかならず、かつ、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、所論は理由があることに帰する。」とした昭和45年(あ)第2580号と同様のことがいえるということを証明し、本件事件において独占禁止法第24条違反を適用する際に、受忍限度論を採用したり、民事訴訟法第248条を採用していない原判決は、憲法の解釈を誤つたものにほかならず、かつ、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、本件事件においては上告及び上告受理申し立ては理由があると考えることができる。

この場合には、「事業活動を困難にする」程度にすることが合憲かどうかの判断は必要かもしれない。

憲法一四条一項においては、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とするが、経済的又は社会的関係において差別してはならないという場合に該当する例としては、公的な事業者団体が市場支配力があり、かつ、取引事例を見せないというような行為ができる状況においては入会拒絶が合理的ではない差別に該当し、あるいはまた「事業者団体の性格によっては商業的事業を行う場合があり、その場合にはどのような状況において合理的な差別であるのかどうか」についての基準が設けられる必要がある。このような場合には憲法第14条第1項の経済的差別に該当する場合があり得る。

人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、差別されないとする本条は国家の立法においてのみならず、強制的加入団体に近い事業者団体においても強制加入にともなって生ずる義務として「信条、性別、社会的身分又は門地により」差別してはならないという憲法上の要請が事業者団体の性格によっては及ぶということができる。

経済的行為を行う事業者について、合理的な理由なく差別することはドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような規定が存在していなくても、憲法の規定によって任意的団体にも要請することが強制的加入団体に近い団体に対しては可能であると考えることができる。事業者団体の性格において独占禁止法との関係でそれがいえるのである。

これまで入会拒否については公正取引委員会への申告に対しても公正取引委員会は法的に無効確認が認められなかったが故に許可してきたという経緯がある。たとえ不法行為に該当するとしたとしても独占禁止法によって対処する方法がなかったので、放置してきた。なぜならば公正取引委員会は独占禁止法以外の法条は取り扱うことができなかったからである。しかし憲法の下にあるのであるから憲法違反という形で取り扱うことは本件事件においては入会拒否をそのように取り扱うことは可能である。

日本国憲法は、封建制度および戦前の経済的独占体制の遺制を排除し、家族生活及び経済生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を確立することを根本の建前とし(憲法二四条参照)、個人の尊厳と人格価値の平等の尊重・保障という民主主義の根本理念によっているのであるから、それに照らして不合理とみられる差別的取扱いは、違憲であるからドイツの競争制限禁止法第20条第6項の規定の趣旨を導き出すことが可能である。

自由競争において公平ではない不利益をもたらすような行為に対して独占禁止法そのものにそのような規定がないことにより多くの差別を生んでいるのであっても、憲法違反ではないが、独占禁止法が法に欠缺があり、実際に経済的に不平等な取り扱いになっていることを是正できないでいるのであるから、運用において違憲であるという論理が組み立てられないだろうか。 

強制的加入団体においては強制加入に近いのであるから信条の自由が尊重されなくてはならないと同時に、合理的な差別以外は認められないとする判決が必要である。信条の自由が尊重されなくてはならないのは入会の審査においてであり、また審査における市場条件として市場において不平等な取り扱いとなり、市場における競争において不利益になるかどうかについても審査が行われなくてはならないし、入会後の運営においても営業活動の禁止などにおいては憲法の両条項は守られなくてはならない。

「諸外国の立法例において、尊属殺人重罰の規定が次第に影をひそめ、これに関する規定を有していたものも、これを廃止ないし緩和する傾向にある」ことを理由とした本尊属殺刑法規定違憲判決をみても、諸外国の立法例や判例の動向が日本の憲法判断に影響を及ぼすことはありうることである。

この場合に憲法第14条第1項は経済的な事件においても適用が可能なのであるから、独占禁止法違反による行為においても損害額の査定や、損害の認定方法や、不平等な取り扱いについて憲法を適用して判例として諸外国と同様の方向付けを行うことが必ずしも本件事件においては司法の謙抑によって否定されるとも言い難い。

「個人の尊厳と人格価値の平等の尊重・保障という民主主義の根本理念に照らして不合理とみられる差別的取扱いは、すべて右条項の趣旨に違反するものとして、その効力を否定すべきものと考えるのである。」

この田中二郎裁判官の見解である反対意見は「すべて右条項の趣旨に違反するもの」とする立場のうち「すべて」については賛成しかねるが、本件事件においてはその例外に該当せず不合理かどうかの判断は妥当であるかどうかは別としても、もし共同のボイコットが個別企業に対して「正当な理由ない場合には」違法であると解釈しない場合においては「個人の尊厳と人格価値の平等の尊重・保障という民主主義の根本理念に照らして不合理とみられる差別的取扱い」となるのであれば、その効力を否定すべきものと考えるのである。埼玉県では仕事をさせない、埼玉県から東京都に帰れ等という言葉が常にまかり通っている社会があり、そのような社会が日本にはまだ封建時代のようにあるのであって、それが経済的な差別であれば生存権にも影響を及ぼすのであるから、当然にその効力を否定すべきものであると考えることができる。

「尊属殺人に関する規定は、上述の見地からいつて、単に立法政策の当否の問題に止まるものではなく、憲法を貫く民主主義の根本理念に牴触し、直接には憲法一四条一項に違反するものといわなければならないのである。」

とされた田中二郎裁判官の見解は、合理的ではない差別に該当する本件事件における差別的取り扱いについても合理的であるとはいえず、憲法を貫く民主主義の根本理念に牴触し、直接には憲法一四条一項に違反するものといわなければならないのである。これは一般的には法哲学論争における根本法の問題である。独占禁止法は経済の憲法であり、憲法第14条第1項の経済的差別に関する規定は独占禁止法にも含まれていると考えるのが妥当である。

これなくしては経済的にも今後の日本の国自体が存続できなくなってきている点において、諸外国の立法や判例の動向が日本の参考になるという点において、また日本の独占禁止法が更に世界中の独占禁止法に影響を与えるという点においてもそのように言わざるをえないのである。

憲法の問題と民法の問題その媒介項としての強制

憲法は公共の利益を取り扱い、民法は所有権に基づいた私的な個人の自由な権利関係について取り扱う。憲法第14条第1項を経済的な差別に対して適用する場合には独占禁止法はこの中間にあるということを理解しなくてはならない。市場を媒介にして憲法と民法が不平等や、不公正という言葉で結節されることになる。

独占禁止法は中間にあって、自由競争において営業する個別企業の権利と、社会公共の利益について取り扱っている。自由競争の市場の公共的な利益を守るのである。公正競争阻害性の排除のための法律である。

そこに憲法問題が強制的差止という大問題を介してのみ入ってくるのである。強制は国家に特有の現象であり、国家の基礎をなすものである。従って公的な意味合いを持たない場合には憲法の問題が 、自由競争を促進する目的があったとしても私法の中にはいってくることはないであろう。命令する目的は衡平のためであり、衡平である方が自由競争が可能となり公共の利益が確保されるからである。

本件事件は強制入会という、命令的強制的な差止請求事件である。世界でも初めての命令的差止が可能になる判決である。強制的命令の差止がいかに国家的なものであり、いかに重要な意味を持っているかということの証左である。だから憲法の問題が私的な事業者団体に対して、その事業者団体の性格によって発生してきたのではなかろうか。

ノースウェスト判決自体は事件は独占禁止法以外の所で争えという判決である。独占禁止法はこのような「私法上の事件」は取り扱わないという判決である。しかし当然違法のようなアメリカ独自の判例法について判例の考え方を整理した点に画期的な判決である重要な要素があるのである。

この点で本件事件においては入会拒否が共同ボイコットにあたり、入会強制ができるような市場であるのであって、独占禁止法が非常に大きな役割を果たしている。従って独占禁止法上強制入会の差止が可能である場合には、憲法第14条第1項を使用することが可能であるということになる。

従って本件事件においてもドイツ競争制限禁止法の規定に基づいても平等な取り扱いではないとか不公正な不利益があるという論理が使えるので、「憲法第十四条第1項  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」に照らして違憲であるという上告(及び上告受理申し立て)理由を追加する。「信条により経済的な関係において、差別されない」という規定は命令的差止が問題となっていない限りは問題とならない。

強制という国家的要素によってのみ憲法の問題がはじめて問題となりうるのであって、本件事件においては最高裁判所において憲法論は判断が可能であろう。

本件事件においては市場の構造が問題であり、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項による差止やアメリカにおいてもノースウェスト判決におけるような当然違法のようなアメリカの手法が日本においても認められることと、憲法問題が論じることができるかということとは関係があることとなる。もし共同ボイコットにあたる入会拒否を当然違法のような概念や、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項によらない場合には、法の欠缺を埋めるためには憲法問題を取り扱う必要があるということになる。憲法問題と独占禁止法上の市場問題が同時に論じられうるということは考えもつかなかったが、しかしどちらも公共の利益を追求しているという観点からすれば、それは当然の帰結ともいえる。つまり不平等な取り扱いであるから入会を強制できるというドイツの競争制限禁止法第20条第6項の概念は非常に憲法的な発想であるということができるのである。

まず本件事件においても排除の意志が明白である。故意が明白である。これも憲法上の問題である。あるいは市場の状況を知らずに入会拒否を行ったとすれば、過失が明白である。次に行為の証拠を明白に残した。稀に見る事件である。埼玉県には他県からは入れないという体制自体が存在するが、これは被上告人が市場支配力があり、排除を行うことが可能であるという実情によっている。そしてそのような市場を自ら作り出している。その故意も明白である。そこには公共的な利益に関する強制があるのであるが、それがそのまま不平等をなくすという憲法問題となっているのである。これは私法としては不思議な現象であり、私法の概念だけでは不平等ならば国が強制的な命令を出すということは 考えられないことになる。

不動産鑑定業においては自由競争が行われておらず、鑑定評価が非公開で配分される。不動産鑑定業においてはもし商品が公開されているとすれば、それを鑑定評価できる事業者が鑑定評価を行うがそこに競争が存在することが独占禁止法上要求されている。これはすべての業界で同じことである。これならば上告人はすべての鑑定評価を受注することができる。

一方の不動産鑑定業においては取引事例を隠すということは、どうも費用の問題だけではなさそうである。隠す本当の目的は、それによってどの業者が東京から埼玉県の物件を鑑定評価しているのかについて一部始終を情報公開させるのが目的であった。そして価格破りを行っていないかを警備活動を行うということに目的があった。このような次第であるから東京の人間はいくら近くても浦安の鑑定評価をするときにはごめんなさいという気持ちをもってやっていた。

隠す目的は単に費用を高くするというのではなくて、これはどうせ忙しくなるように各県の事業者団体がうまく配分しているのであるから他県からは絶対に入ってこないという自信がはじめはまだあった。各県が相互に市場割当で満足できるようにしていたのである。ところが東京において仕事が少なくなってからそういう訳にはいかなくなった。

各県が相互に参入障壁を設けて、法の目的である全国の鑑定ができるという業法の形態を妨げているのである。すなわち自由競争を妨害し、公正競争阻害性という独占禁止法違反が行われているのである。不動産鑑定業においては商品が公開されていないので、突然幹部が市町村と一緒になって競争させずに配るという行為を行い、その行為に従うことが下部会員の義務である。この配分に対しては「文句は言うな。」これが幹部の命令である。市場割当にはそのような厳しい警備活動が伴っている。

商品と取引事例があればすぐに鑑定評価ができる。しかしそれは配られているのである。それはあたかも会社の内部において部長が鑑定評価の物件を配るようなものである。不動産鑑定業においてはもし商品が公開されれば、すぐに、研究して答えを出せる。そういう資格を上告人は持っているのである。従って幹部には配る権利があり、それを配っているからこそ証拠のような偏った結果の配分結果が出ているのである。市場支配力が協会にあるということ、そして取引事例を事業者団体が管理しているからこそ、信用を得て市場支配力を有しているという点に強制の契機がある。取引事例に対するアクセスが事業者団体によって支配されているということである。この点に重要な点があるのであって、事業者団体にとっては取引事例の閲覧料を高くすることは、ただそれが配分権に影響するからこそしているのである。(それが価格に影響を及ぼしていることは確かに公正競争阻害性という違反性を持っているが、そしてそれが最も証明が簡単ではあるが、実態的にはそれよりも被上告人にとっては市場支配力がなくなること、自由に取引事例にアクセスされて宣伝されて、信用がなくなることの方が重要なのである。県もそのようなことを重視しなくなり、それが配分権に影響を及ぼさなくなった、その他の方法によっても信用を得て市場支配力を持つことができると考えた時点では閲覧の価格はどうでもよいのである。

県や、国に対して自分達が管理しているんだぞ、誰にもみせないぞ、だから自分たちに鑑定評価を配分しろ、それを協会が分配してやるぞという信用を県や、国にみせびらかすことが重要なことである。総会でもそのようなことを言っていた。

これがノースウェスト事件におけるアクセスと市場支配力問題ではなくて何であろうか。

不動産鑑定業においてはもし商品が与えられるならば千千である。百%の確率で代金を得ることができる。これを手離れがいいと業界用語ではいっている。鑑定評価を依頼されれば100%利益になるのである。受注した一週間後には利益があがっているのである。従って手離れしてすべて儲かるのである。ここが普通の業界の人には理解できないようである。

バージニア州弁護士会事件においても見られるように事業者団体である協会が商品を取り扱うとしたら、独占禁止法上の問題が生ずるのである。先のバージニア州弁護士会事件においても弁護士会の場合の判例や、法令や、判例法は、公開のものである。従って市場は自由競争であるが、公的な意味合いが強いので強制的加入団体になっているといえるのである。

ところが不動産鑑定業においてはもし商品にアクセスできて、それを配分してしまえば千千の確率で大きく儲かるのである。これが被上告人の代表者理事の会社においては年収で6000万円という巨大な売り上げをあげている理由である。費用は5%未満である。従って建設業における配分と同じように、高い価格で価格維持を行い、かつ配分を行おうとするのである。

不動産鑑定業においては取引事例を独占し、自由競争を行わせないようにしている。北陸の鑑定業者の団体は、郵政省の自由競争による発注で上告人が受注した直後には 「自由競争を今後はしないように」という申し入れを文書で正式に行っている。そして郵政省もしないと答えたそうである。この業種が役務ではなくて、建設業に似ているという理由はここにある。今後自由競争をしなさいと命令的な差止を行うとすれば、そこにこの業種における憲法問題が発生して、平等な取り扱いを信条について差別することなく行えという命令を出していることになるのである。

他の業種におけるような純粋なセールスが全く存在し得ない。商品そのものが公開されていない。どこに宣伝に行ってよいかわからず、行っても銀行において言われたように「この4つの事業者を推薦しています。」という正式の文書がきていますということを言われるだけである。

事業の発注の予定表がないのである。知っているのは被上告人だけである。

取引事例は皆が共通で作った施設である。商品ではなく原材料であり、商品は不動産鑑定評価地の発注の予定であり、その公開であり、その公開が行われることがないのである。

本件事件においては不動産鑑定業においてはほとんど競争がなく、競争者はゼロにされている。ほとんどが特命随意契約にされている。

本件事件における第一の事件の確認請求訴訟については、確認の利益がなく、不適法なものとして却下すべきものと判断するとしており、本件事件の無効確認訴訟はそれが正しい判断であったということになる。

不動産鑑定業においてはほとんど競争をしないで受注をしているのに対して、その競争も不動産鑑定業においては取引事例を県や、国が収集するしか個人情報であるためになく、そのためにそれに依存せざるをえず、そのために情報の競争もなくなっており、それ故に被上告人である事業者団体が市場支配力があり、そのような取引事例へのアクセスによる信用も独占しており、その拒絶は取引拒絶に該当していることになるのである。

日本では不動産鑑定業においては自由競争がない故に信用供与の団体としても被上告人は機能しているが、しかし入会していない上告人はそれが得られないことになる。

それが不公平なものであり、不平等を引き起こしているので、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項によれば不平等という言葉と、不公平という言葉が概念法学の国ドイツの法においても出てきてしまっている。一方のアメリカにおいてもノースウェスト判決におけるような当然違法のような共同ボイコットにあたる行為が行われている故に、当然違法の強制的差止、命令的差止を行うに当たっては衡平法上の差止概念が必要となるのである。衡平という観念を使用しているという意味においては、日本ではこの概念は憲法の中にしか存在していないので、憲法第14条第1項は経済的差別に対して使用する余地が残っているといえる。

 憲法と民法を結ぶ結節点に独占禁止法にはこの不平等という概念と、不公正なという概念が入ってきているので、法に欠缺がある場合にはそれを補う概念的な規定として憲法第14条第1項の経済的側面を主張することは可能であるということができる。

 

日本の違憲審査とアメリカの違憲審査

本件事件に対して憲法による違憲審査が行われるかどうかについての憲法上の問題について論ずる。まず先の憲法判例をアメリカの事例から引用する。

「Marbury v. Madison (commission/writ of mandamus)

マーベリー対マディソン事件(任命辞令か、任命辞令発給拒否に対する辞令書発給命令か)

HELD: The S/C has the power, implied from Article VI, ?2 of the Constitution, to review acts of Congress and if they are found repugnant to the Constitution, to declare them void. Judicial review is a necessary inference from written constitution .

最高裁判所は、憲法第二章6項に由来する、国会の作成した法令を審査する権限を有する。もし法令が憲法に違背することが発見されれば、法令は無効であると宣言される。法令審査権が必要なことは成文憲法から結論付けることができる。

The final decisional authority for questions of CON interpretation is the federal judiciary.

連邦の司法は、憲法の解釈問題について最終の決定権を有している。」

このMarbury v. Madison事件は、「合衆国憲法がその核心に人権規定(Bill of Rights)を置く以上、司法裁判所はこれを侵害する政治権力から人権を擁護する最後の砦となったということを意味した。こうして、司法的違憲立法審査制度は「法の支配」の原理つまり憲法・人権保障の不可欠な一部として、アメリカ合衆国憲法の中に定着することとなった。

辞令書発給拒否を国務長官(マディソン)の公務員としての職務不履行として、「誠実に辞令書を発給することを国務長官に命じる」職務執行令状(writ of mandamus)の発出を連邦最高裁判所(連邦派マーシャルが長官)に求め、提訴に及んだのであった。その根拠は、1789 年の裁判所法 13 条が、「連邦最高裁判所に公務員に対して職務執行令状(writs of mandamus)を発出する権限を付与」し、連邦最高裁判所に直接その発出を求め得るものとしていたことにあった。ジェファソン政権は辞令書の発出問題は、すぐれて政治的問題 political question であり裁判所つまり司法権の介入すべき問題ではないと言明し、判決の如何に拘らずその結論に従う意思のないことをすでに明らかにして、司法との対決姿勢を鮮明にしていた。?連邦派のマーシャル長官はこのような状況の中で判断を求められたのである。【3】判旨?全員一致の連邦最高裁判所の判断(マーシャル長官が代表して意見を述べた)を要するに , 次のようなものであった(11)。

原告は辞令書の交付を受ける権利 right to the commission を有する。けだし原告等の任命は辞令書に大統領が署名し、国務長官が国印を押捺したときに既に完全なものになっており、原告は職務に就く法的権利 legal right to the office をもっているからである。辞令の交付の保留は法の認めるところではない。動産返還回復訴訟 action of detinue が適切な救済とならない以上、原告は職務執行令状の発出を求め得る。各省の長官が大統領の命を受け、その裁量に属する行為をなす場合には、その責任は政治的のものに限定されるが、法が各長官に具体的な義務を課しており、かつ個人の権利がその義務の履行の如何に関わっているとき当該個人は法律上の救済を求める権利があるからである。?しかし、連邦最高裁判所が職務執行令状を発出するためにはそれが上訴管轄権 appellate jurisdiction を行使するものでなければならない。というのは、合衆国憲法第3条2節2項は連邦最高裁判所が第1審管轄権を有する事件を「大使その他の外交使節及び領事が関係する事件並びに州が当事者であるすべての事件」に限定し、その他の事件について同裁判所は上訴管轄権をもつのみとしているからである。1789 年の裁判所法 13 条は直接連邦最高裁判所に辞令の交付を強制する職務執行令状の発出を提起しうるものと定め、実質的に第1審管轄権を同裁判所に与えている。これは憲法と抵触する。?両法が抵触する場合、裁判所は憲法を尊重しなければならない。「憲法は議会の通常の法 ordinary act of the legislature よりも優位にある。そうした通常法ではなくまさに憲法が・・・本件には適用されねばならない」。それ故、当裁判所は本件において職務執行令状を発出することはできない。

・ ・・

裁判官の憲法に対する宣誓義務(合衆国憲法6条3項)などをその根拠に挙げるが、必ずしも十分ではない。結局のところ、司法権の管轄を定めた合衆国憲法3条2節1項に依拠して「憲法は裁判所によって解釈される法のうち最高法規である。したがって、連邦最高裁判所はこれを解釈する最高の権限をもつ」(The Constitutional Law Dictionary, Clio Press, at 90)」(『アメリカにおける平等権の史的展開と司法審査』 山?内?久?史著)のである。

辞書と辞典によれば、writについては「 written の古い形で、元の意味は、「書き物」「文書」。summons や subpoena が出頭だけを命ずるのに対し、writ はそれ以外にも何かをするように、あるいはやめるように命じるもの。」

「MANDAMUS

- The name of a writ, the principal word of which when the proceedings were in Latin, was mandamus, we command.

執行命令―原語の主要部分マンダマスはラテン語であり、マンダマスは訴訟手続きにおいて命令するの意味である。令状の一名前である。

It is a command issuing in the name of the sovereign authority from a superior court having jurisdiction, and is directed to some person, corporation, or, inferior court, within the jurisdiction of such superior court, requiring them to do some particular thing therein specified, which appertains to their office and duty, and which the superior court has previously determined, or at least supposes to be consonant to right and justice.

執行命令は、ある人、会社あるいは下級の裁判所に対してそのような最高裁判所の司法権の範囲内において、そこで特定された何らかの特殊なことをするように、ある人、会社あるいは下級の裁判所に対して要求する、司法権を持っている最高裁判所から最高の権力の名において発行されるそれらの事務と義務に付随している、そして最高裁判所がすでに決定した、あるいは少なくとも権利と正義に合致していると考えられる命令である。

Mandamus is not a writ of right, it is not consequently granted of course, but only at the discretion of the court to whom the application for it is made; and this discretion is not exercised in favor of the applicant, unless some just and useful purpose may be answered by the writ.

執行命令は、従って執行命令がなされる相手に対して、当然のこととして認められているのではなくて、裁判所の自由裁量においてだけ認められているのであり、権利の執行命令ではない。そしてこの自由裁量は令状によって求められた何らかの正当でかつ役に立つ目的を達成する場合ではない限りは、執行命令がなされる相手に対して利益をもたらすためになされるのではない。

This writ was introduced to prevent disorders from a failure of justice; therefore it ought to be used upon all occasions where the law has established no specific remedy, and where in justice and good government there ought to be one.

このような命令状は正義を踏みにじったことから生ずる秩序の混乱を防止するために発行される。従って、法律によって特別な救済が確立されていないすべての場合において、また正義と良好な統治の名において必要であると考えられるすべての場合において、使用されなくてはならない。

Mandamus will not lie where the law has given another specific remedy.

但し、法律によって他の特別な救済が与えられている場合には、執行命令は出されないであろう。

The 13th section of the act of congress of Sept. 24, 1789, gives the Supreme Court power to issue writs of mandamus in cases warranted by the principles and usages of law, to any courts appointed or persons holding office, under the authority of the United States.

1789年9月24日の第13議会の立法において、法律の原理と法の使用によって保証された事件においては合衆国の権威の名の下に任命されたどの裁判所に対しても、あるいは、事務を執行する事務官に対しても任命辞令発給令状を発する権力を最高裁判所に与えている。

The issuing of a mandamus to courts, is the exercise of an appellate jurisdiction,

裁判所に任命辞令を発給することは、控訴審の司法権の執行である。

and, therefore constitutionally vested in the supreme court;

従って、憲法によって権限が与えられている、しかし

but a mandamus directed to a public officer, belongs to original jurisdiction, and by the constitution, the exercise of original jurisdiction by the supreme court is restricted to certain specified cases, which do not comprehend a mandamus.

公的な公務員に指名する任命辞令は、元々は下級審の司法権に属する、従って憲法によれば最高裁判所による元々の司法権の行使はある特別な事件の場合に限定されるのであって、最高裁判所の任命辞令発給命令を考えて作られてはいない。。

The latter clause of the above section, authorizing this writ to be issued by the supreme court to persons holding office under the authority of the United States, is, therefore, not warranted by the constitution and void.

従って、合衆国の権威によって事務を行う官吏に最高裁判所によって発給するべきこの令状を権威付けている上記の章の後段の文章は憲法によって保証されていないので、無効である。

The circuit courts of the United States may also issue writs of mandamus, but their power in this particular is confined exclusively to those cases in which it may be necessary to the exercise of their jurisdiction.

また合衆国の巡回裁判所は任命辞令発給令状を発することができるかもしれないが、この特殊な場合においては権力はそれらの司法権の行使に必要であろうような事件に限って限定的に与えられている。」

マーベリー対マディソン事件において国家の統治機構の問題はこの通りに考えられている。独占禁止法に違反していることによる損害賠償請求においては、受注の機会が100%証明される必要はない。ということは受注の命令を出す出さないは別としても、市場を混乱に陥れた罪としてそれに対する損害賠償請求が行われうるのであって任命辞令発給の問題とは関連性が無いのが、独占禁止法に違反していることの証明の問題である。

防止するために発行される。従って、法律によって特別な救済が確立されていないすべての場合において、また正義と良好な統治の名において必要であると考えられるすべての場合において、使用されなくてはならない。

本件事件においては「法律によって特別な救済が確立されていないすべての場合」に該当する。

アメリカにおいてのようにこのような自由と権利を守るという歴史的経験がない日本では、自由と権利の意味が歴史的な認識ではほとんど理解されていない。

憲法上入会拒絶に対して命令的差止が独占禁止法違反に対して、書かれた差止制度においてできるのかどうかについては法的に「入会拒絶の違法性に厳密に付随する命令として」ならばできるという原則を作るものであるから、強制の必要な状況と、入会拒絶に合理的に付随するあまりに広くない範囲の命令ならば、公共の利益のための命令としてできると考えられるのである。それは憲法の人権の擁護という統治機構的な側面から発生する命令権であり、裁判所は命令を差し控えるべきではない。それによって積極的に立憲民主主義の擁護を行うべきである。

田中二郎裁判官の見解である「法律には、一応、「合憲性の推定」は与えられてよいが、それが果たして合憲であるかどうかは、まさに裁判所の審理判断を通して決せられるべき問題にほかならない。したがつて、司法の謙抑の原則のみを強調し、裁判所の違憲立法審査権の行使を否定したり、これを極度に制限しようとしたりする態度は、わが現行憲法の定める三権分立制の真の意義の誤解に基づき、裁判所に与えられた最も重要な権能である違憲立法審査権を自ら放棄するにも等しいものであつて、憲法の正しい解釈とはいいがたく、とうてい賛成することができない。」

という違憲審査に関する意見は反対意見ではあるが重要であり、日本では権利に眠るものは権利を失うという消滅時効に関する法諺くらいしか高校生には教えていない。このような意味で自由な主体が自由に行動するためには、自由を妨害する行為を排除しなくてはならないという法哲学上の観念も理解させていく必要があろう。このような意味では本件事件においては入会拒否をそのように命令的差止が可能となった稀有の例として、それも違憲審査の請求においても「司法の謙抑の原則のみを強調し、裁判所の違憲立法審査権の行使を否定したり、これを極度に制限しようとしたりする態度は、わが現行憲法の定める三権分立制の真の意義の誤解に基づき、裁判所に与えられた最も重要な権能である違憲立法審査権を自ら放棄するにも等しい」とする意見には賛成せざるを得ない。

本件事件においては入会拒否をそのように憲法の問題として考慮し、違憲審査に付し、憲法を適用する重大な判例作成となるであろう。この場合強制の契機をどのようにして人権や、平等権と結びつけるかが重要である。独占禁止法には公的な色彩が強い故に公共の利益のためにそのようなことが起こっているということは、つまり強制は公共の利益のためであるが、私訴における原告はその一部を担っているのであり、それ故に私訴であるのに公共の利益故に憲法の違憲審査に適合しているといえるのである。これがボーデン事件最高裁判所判決の意味でもある。

しかしボーデン事件最高裁判所判決は私訴であっても、公共の利益になっているというものであるが、しかしこの考え方は日本では一切存在していない。ボーデン事件最高裁判所判決を逆からよめば、公の利益が結果としては私訴の私益になるので、憲法を適用して公のものを私益に使うとはけしからん、違憲審査とは公のものであるという意見を述べるものが日本では出てくるであろう。時代も進んできたので独占禁止法の判例として諸外国と同様の結果にするのはいい、しかしそれは公共の利益のためであって私益のためではない、だから公共の利益のためにのみ憲法は使いたい、私人が私訴を行うために憲法はあるのではないという見解が日本では多いのであり、それが本件判決の基礎となる可能性が高い。そのようなことはわが現行憲法の定める三権分立制の真の意義の誤解に基づき、裁判所に与えられた最も重要な権能である違憲立法審査権を自ら放棄するにも等しい。三権分立制は日本の国家の礎であり、抑制と均衡は国家の基本的な機構の中心部分である。

日本の独占禁止法の考え方はこの程度である、カルテルはすべて社会公共のためであり、公共の利益のために行われているのであるから、憲法はカルテルを擁護するために使ってもらいたいという訳である。ボーデン事件最高裁判所判決はカルテルを行う側がカルテルの正当化のために逆から読めば私訴には公共性はないということであるということになる。

これに対して芦辺憲法学においては「付随的審査制といっても、日本の場合もアメリカと同じように、その実際(、、、、)の(、、)機能(、、、、)は、単に私権の救済につきるのではありません。それを通じて、むしろ立憲民主主義の擁護を図っていくことが期待されております。」(芦辺信喜著「日本の統治機構と人権保障」三六三頁。)とされている。この考え方は私益を公益に活かそうとしているボーデン事件最高裁判所判決と同じ 考え方である。憲法を私訴に適用することにより私権の救済を図ることを通じて、むしろ立憲民主主義の擁護を図っていくという考え方である。

近代憲法は所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めている点においてすでに私権と公共の利益とが常に二人三脚で歩を進めていることを前提として制定されている。憲法の執行においても同様であるということができる。立憲民主主義はこの下での運用がなされているということができるのである。

独占禁止法に対する国会の考え方は現在諸外国の法制に追いつき、法整備を図ろうということを努めている。裁判所も違憲審査制によって最高法規である憲法の原理を具体的事件において適用する義務を負っている。独占禁止法の適用における憲法違反に対しては厳正に対処することは裁判所の付随的違憲審査制の目的でもある。従って裁判所も独占禁止法違反に憲法を適用することについて謙抑の美徳を発揮する必要はない。憲法が適用されなければ、法が欠缺している分野では人権があらゆるところで守られなくなるとすれば憲法は存在意義を失うからである。憲法に基づき法律をつくって、その法律によって法の欠缺を埋めるようにすれば、裁判所は謙抑しているだけでよいではないかという見解は立法府や、司法府に信頼をおくものではあるが、国会の法令が次のような場合に該当する場合があるのであるから充分であるとはいえない。特に独占禁止法について多くの無知が存在するような場合には尚更である。「立法府として(行政府についても同様のことがいえる。)、その行為が違憲であることを意識しながら、あえてこれを強行するというようなことは、ナチ政権下の違憲立法のごとき、いわば革命的行為をあえてしょうとするような場合は別として、わが国においては、通常、あり得ないことであり、また、あつてはならないことである。しかし、現実には、立法府の主観においては合憲であるとの判断のもとにされた立法についても、これを客観的にみた場合に、果たして合憲といえるかどうかが問題となる場合もあり得るのであつて、その場合の合憲か違憲かの審理判断を裁判所の重要な権限として認めようとするのが裁判所の違憲立法審査制の本来の狽いなのである。」書かれた「成文憲法」を適用し、この法令審査による戦後の数件の違憲判決以外には憲法違反が本当に審理されるべきではなかったのであろうか。

独占禁止法に違反する行為を行っていたとしても、日本の社会ではそれが見過ごされてきた。このことは公正競争阻害性のある独占禁止法違反が公正取引委員会によっても見過ごされてきたことを伺わせる。公正競争阻害性のある独占禁止法違反が行政府の一部である公正取引委員会によっても、裁判所においても見過ごされてきたということになる。「ナチ政権下の違憲立法のごとき、いわば革命的行為をあえてしょうとするような場合は別として、わが国においては、通常、あり得ないことであり、また、あつてはならないことである。しかし、現実には、立法府の主観においては合憲であるとの判断のもとにされた立法についても、これを客観的にみた場合に、果たして合憲といえるかどうかが問題となる場合もあり得る」とされている。ところが個別企業の事業者が不公平な損失を被っている場合に、また平等ではない差別が行われている場合に合憲であるとの判断のもとにされた行政についても、これを客観的にみた場合に、果たして合憲といえるかどうかが問題となる場合もあり得るのであり、このような場合には憲法の適用を行うことを謙抑するのみでは司法府として「合憲か違憲かの審理判断を裁判所の重要な権限として認めようとするのが裁判所の違憲立法審査制の本来の狽い」なのであるから、本件事件におけるような法の欠缺による憲法違反の状態の現出に対しては、もし今後違憲の判断が出た後には行政がその違憲判決に従うことによって憲法違反の状態が現れなくなると考えられるならば、合憲か違憲かの審理判断を行い憲法に反するような状態を現出する法の欠缺がなくなるようにするための違憲判断を裁判所の重要な権限として行使する必要があると考えられる。

「信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」というのは差別を禁止する。経済的関係においての差別とは本件事件においては入会拒否による不利益な利益を生ずるような不平等な取り扱いをいう。憲法の適用によって平等ではない取り扱いによる不利益を是正されたから、私訴の原告が利益を得るであろう。それは事実である。これには憲法を使うことを憚るというのが謙抑の原理である。そこには抑制と均衡は国家の基礎であるという考え方がない。

本件事件は信条の理由による差別と、信条の違いを認めない事業者団体の問題である。事業者団体の性格において強制的な性格を持つ団体であるということは「デバイス憲法U人権」25頁13―14行において記されている通りである。「当該法人が強制加入か任意加入か、また任意加入でも公的性格の強いもの(協同組合等)か私的性格の強いもの(社交・娯楽団体や学術団体等)かによって、構成員の人権に対する制約が承認される限度は異なる。従って、構成員の人権が制約をうける限度が大きいものからいえば(団体の決定が尊重される場合から並べると)、「私的な任意加入の法人」、「公的な任意加入の法人」、「強制加入の法人」ということになる。

構成員の人権が優越的地位を有するものであれば、法人の権利・自由の主張は大幅に制約されることになる。

この点に関する参考判例として、税理士会事件がある。」

としている。

一方ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のように法文の文言が成文法として重視され、ドイツ型の憲法裁判所による違憲審査の制度によっても違憲審査は判例法が法令として定着するためには必要でありドイツの競争制限禁止法第20条第6項は充分にその審査を行った後での結果の成文であったと考えられる。

服部育夫教授は「比較 独占禁止法」104頁において「加入拒絶を禁止し、加入を命ずることができる。加入命令には負担(条件)を付すこともできる(Bechtold, 20 Rdnr. 80)。EU法には、これに対応する規定はない。しかし団体自体が事業目的を追求しており企業といえるならば、EU条約82条により加入強制を理論的に根拠づける余地はある。」とされている。

EU条約82条は

Any abuse by one or more undertakings of a dominant position within the common market or in a substantial part of it ………

「共通の市場、あるいは、共通の市場のある実質的に重要な一部において、支配的な地位を持つ一企業、あるいは、二以上の企業群が行うすべての乱用行為は、加盟国間の商業に影響を与える限りにおいては、共通の市場にはふさわしくなく、適法ではないものとして禁止される。

特に、そのような乱用行為には、次のような例がある。

・・・・」としており、

「支配的な地位を持つ一企業、あるいは、二以上の企業群が行うすべての乱用行為Any abuse by one or more undertakings of a dominant position within the common market or in a substantial part of it」が主語であるから、支配的な地位を持つ二以上の企業群に本件事件における被上告人は該当しており、加入強制を理論的に根拠づけることができると考えられる。二以上の企業群は事業者団体の定義そのものであり、性格において支配的な地位を持つというのはノースウェスト判決における一要因であり、かつ、競争上不利な立場におく場合が次のような例の中に含まれており、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項が理論的に根拠づける余地はあるとする服部育夫教授説は正しいと考えられる。

裁判を受ける権利については芦辺憲法学においては放送大学の授業では、裁判をして村八分にあった事例が紹介されていたが、そのような事例と同様の事例が日本において起こったのであり、当然に違憲の判断が必要であると考えることができる。これは先の田中二郎裁判官の見解であるナチの時代にも等しい事例であり、日本の封建社会を彷彿とさせるものである。これには信条の自由や、信条による差別以外にも統治機構としての司法権の執行において国民の権利と自由をどう考えて、憲法の本質をどうとらえるかという問題が含まれている。独裁に対する反省の思想の稀薄さは、独占禁止法における支配的地位に対する意識の稀薄さと重なり合っていると考えられる。独占禁止法は憲法解釈においては経済的な要因と、経済倫理的な要因がからまりあったものである。経済的に裕福なものにはまかれろという法律の経済的帰結と同様に法律の倫理的帰結も重視しなくてはならないのである。この条文は独裁や、支配的地位に対するものであり、それらから国民の権利という観点に立って統治機構の中における保護作用を言っているのである。

法令違憲とされた四判例すべてがからまりあった本件事件はこのような意味で、憲法判断を必要とする独占禁止法に違反する事件であるということができる。

将来の給付の訴え

将来給付の請求を行う際の理論付けについて更に付け加える。

「第二十四条 第八条第一項第五号又は第十九条の規定に違反する行為によつてその利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、これにより著しい損害を生じ、又は生ずるおそれがあるときは、その利益を侵害する事業者若しくは事業者団体又は侵害するおそれがある事業者若しくは事業者団体に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。」

民事訴訟法第248条「第五章 判決(損害額の認定)

第二百四十八条  損害が生じたことが認められる場合において、損害の性質上その額を立証することが極めて困難であるときは、裁判所は、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果に基づき、相当な損害額を認定することができる。」

この両条文から損害の認定において、将来給付の請求を認めているといえるか。

「利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、これにより著しい損害を生じ、又は生ずるおそれがあるときは、」の部分では現在の損害と、将来の損害を同様の立場で論じている。「相当な損害額を認定する」について将来の損害額について否定しているとはいえない。不法行為が将来も継続して損害を与え続けていくと予測することができるならば損害の認定ができるか。民事訴訟法第248条を採用したとしても、「損害が生じたことが認められる」と過去形になっているのでこの条文によっては将来給付の請求をすることはできないことになる。

但し現在時点の不法行為が将来においても個別企業に対して損害を与え続けていくと予測することができるならば何らかの給付は認められるべきである。

「第一章 訴(将来の給付の訴え)

第二百二十六条  将来ノ給付ヲ求ムル訴ハ予メ其ノ請求ヲ為ス必要アル場合ニ限リ之ヲ提起スルコトヲ得」

「第一章 訴え(将来の給付の訴え)

第百三十五条  将来の給付を求める訴えは、あらかじめその請求をする必要がある場合に限り、提起することができる。」

独占禁止法第24条違反による差止の際の損害は、将来の給料のようなものであると考えれば、将来給付の訴えが認められても違法とはいえない。

損害の性質の問題である。

今後10年間の間の損害を認めるにしても、東京に移っていれば、事情の変更により判決が将来の予測を誤ったことになるわけであり、確実に続いた期間の損害額しか請求できないという問題点は残ることになる。ということは将来給付の請求はできないことになり、そうすると制度的に日本に3倍額請求が必要であるということになる。

上告人が埼玉県から撤退しないという条件でのみ、請求が可能であるということになる。

これはのれんの棄損ということになって、酒匂悦郎事件におけると同様に次のような判決とならざるをえなくなる。

「被告が、平成10年11月ころ、原告を被告の綱紀委員会の審査の対象としたまま、平成11年10月まで約1年間これを放置し、その間、被告か、綱紀委員会にかけられている人物であることを主な理由として、平成11年の短期地価動向調査の鑑定評価員から外した行為が、原告の営業権を侵害する不法行為になるとしても、そのことに対する経済的損害か填補された場合には、そのことによる精神的損害も慰謝されたというべきであるから、原告の慰謝料の請求は理由がないといわざるを得ない。」

それは慰謝料の請求と似ているが、一般には懲罰的損害賠償請求と考えられている。

それを考慮すれば、平均的程度は当然の請求である。

多数意見は次の通りである。

「将来具体的な給付義務が成立したときに改めて訴訟により右請求権成立のすべての要件の存在を立証することを必要としないと考えられるようなものについて、例外として将来の給付の訴えによる請求を可能ならしめたにすぎないものと解される。このような規定の趣旨に照らすと、継続的不法行為に基づき将来発生すべき損害賠償請求権についても、例えば不動産の不法占有者に対して明渡義務の履行完了までの賃料相当額の損害金の支払を訴求する場合のように、右請求権の基礎となるべき事実関係及び法律関係が既に存在し、その継続が予測されるとともに、右請求権の成否及びその内容につき債務者に有利な影響を生ずるような将来における事情の変動としては、債務者による占有の廃止、新たな占有権原の取得等のあらかじめ明確に予測しうる事由に限られ、しかもこれについては請求異議の訴えによりその発生を証明してのみ執行を阻止しうるという負担を債務者に課しても格別不当とはいえない点において前記の期限付債権等と同視しうるような場合には、これにつき将来の給付の訴えを許しても格別支障があるとはいえない。しかし、たとえ同一態様の行為が将来も継続されることが予測される場合であつても、それが現在と同様に不法行為を構成するか否か及び賠償すべき損害の範囲いかん等が流動性をもつ今後の複雑な事実関係の展開とそれらに対する法的評価に左右されるなど、損害賠償請求権の成否及びその額をあらかじめ一義的に明確に認定することができず、具体的に請求権が成立したとされる時点においてはじめてこれを認定することができるとともに、その場合における権利の成立要件の具備については当然に債権者においてこれを立証すべく、事情の変動を専ら債務者の立証すべき新たな権利成立阻却事由の発生としてとらえてその負担を債務者に課するのは不当であると考えられるようなものについては、前記の不動産の継続的不法占有の場合とはとうてい同一に論ずることはできず、かかる将来の損害賠償請求権については、冒頭に説示したとおり、本来例外的にのみ認められる将来の給付の訴えにおける請求権としての適格を有するものとすることはできないと解するのが相当である。」

ここにいう

「将来具体的な給付義務が成立したときに改めて訴訟により右請求権成立のすべての要件の存在を立証することを必要としないと考えられるようなもの」を本件事件においては入会拒否が続いている期間のみに限定するのか、入会後元に戻るまでが終期と考えるのか。「たとえ同一態様の行為が将来も継続されることが予測される場合であつても、それが現在と同様に不法行為を構成するか否か及び賠償すべき損害の範囲いかん等が流動性をもつ今後の複雑な事実関係の展開とそれらに対する法的評価に左右されるなど」の場合には、すでに発生した損害の継続する期間の損害について述べているのであるから、該当しないと考えられる。例えどのように努力したとしても、前年度実績主義によれば損害は発生し続けるからである。

入会後元に戻るまでが終期であるとすれば、埼玉県から取引拒絶によって市場から退出してしまっていたらどうなるかという問題が発生する。ということは埼玉にいて自由競争しなければならなくなるということになる。

しかしこれは事件の性質上、継続犯であるためにいつまでもそれにこだわり、それから逃れて東京に逃げていった、昭和鑑定法人の社長のような場合には、損害の認定が受けられず、そうではなくて埼玉にいて埼玉で営業を行っている場合にだけ損害賠償請求の権利があることになり、営業の自由が認められないことになり、不都合な結果を発生させる。

国家の統治機構としての最高裁判所

先の税理士会事件では最高裁判所は次のように述べた。

「法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。」

一方三菱樹脂事件においては次の通りに述べる。

「私人間の関係においても、相互の社会的力関係の相違から、一方が他方に優越し、事実上後者が前者の意思に服従せざるをえない場合があり、このような場合に私的自治の名の下に優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがあることは否み難いが、そのためにこのような場合に限り憲法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用を認めるべきであるとする見解もまた、採用することはできない。何となれば、右のような事実上の支配関係なるものは、その支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難である(注:本件事件本当に憲法問題としての判断が行われるべきかどうかはこの判断如何にかかっている。注終わり。)ばかりでなく、一方が権力の法的独占の上に立つて行なわれるものであるのに対し、他方はこのような裏付けないしは基礎を欠く単なる社会的事実としての力の優劣の関係にすぎず、その間に画然たる性質上の区別が存するからである。すなわち、私的支配関係においては、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能であるし、また、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである。そしてこの場合、個人の基本的な自由や平等を極めて重要な法益として尊重すべきことは当然であるが、これを絶対視することも許されず、統治行動の場合と同一の基準や観念によつてこれを律することができないことは、論をまたないところである。

 (三) ところで、憲法は、思想、信条の自由や法の下の平等を保障すると同時に、他方、二二条、二九条等において、財産権の行使、営業その他広く経済活動の自由をも基本的人権として保障している。(注:独占禁止法に違反することによりそのような経済活動の自由が侵されているところに本件事件の憲法上の特色がある。注終わり。)それゆえ、企業者は、かような経済活動の一環としてする契約締結の自由を有し、自己の営業のために労働者を雇傭するにあたり、いかなる者を雇い入れるか、いかなる条件でこれを雇うかについて、法律その他による特別の制限がない限り、原則として自由にこれを決定することができるのであつて、企業者が特定の思想、信条を有する者をそのゆえをもつて雇い入れることを拒んでも、それを当然に違法とすることはできないのである。憲法一四条の規定が私人のこのような行為を直接禁止するものでないことは前記のとおりであり、また、労働基準法三条は労働者の信条によつて賃金その他の労働条件につき差別することを禁じているが、これは、雇入れ後における労働条件についての制限であつて、雇入れそのものを制約する規定ではない。また、思想、信条を理由とする雇入れの拒否を直ちに民法上の不法行為とすることができないことは明らかであり、その他これを公序良俗違反と解すべき根拠も見出すことはできない。」

また三菱樹脂事件においての最高裁判所の強制に関する判断と、税理士会事件における最高裁判所の判断は異なっている。これは所有権の絶対性についての日本国憲法の規定が最初に存するからであると思われる。営業の自由とはこのことを言っているのであって、逆に自由競争において営業する自由を侵されたという酒匂悦郎事件における判決が反対の意味で所有権の絶対性を侵されたといっているのである。

そこにはこの絶対性からくる二つの全く別の結論に驚かされる。これは絶対性からくる二つの結論である。内部に対しては絶対であるが、それを妨害するものに対しては絶対的な排除権を持つという作用である。この二つの一つが三菱樹脂事件においての採用の自由であり、逆に強制された加入においてはそのような妨害を排除する自由を持っているというのが、独占禁止法の憲法解釈であり、かつ、薬事法における職業選択の自由、営業の自由である。これは二つの相反する憲法上の結論を所有権の絶対性が与えているが、それは全く同じものである。

所有権と同様の絶対的な権利である故に、思想・信条の違いによる雇い入れの拒否は認めるが、その後の商売上の自由競争は絶対的に排除権を有しているほどに守るべきであるというのが憲法上の判断であったということができる。

さて強制的な命令である職務執行命令の事件であるマーベリー対マディソン事件は、国家機構の中においては命令は、裁判所の裁判官に対しても任命権は行政権の最高の長である大統領にあるのであって、最高裁判所には存在しないという画期的な判決である。

しかしいざ違憲判決を出すとすれば、最高裁判所には国民に対して公共の利益のために、捜査権と同様に、独占禁止法における支配的地位にあり、独自の施設に対する実質的アクセスを独占している事業者に対して命令を行うことができると考えるべきである。この命令は国家の組織体において上位者が下位者に命令を下せる職務命令権ではない。社会において公共の利益のために行われている命令であるから衡平や、差別の禁止と受け取られて信条の自由による差別の禁止が使用できることになるのである。

マーベリー対マディソン事件においては国家機構の中において行政が職務命令を出すのとは反対に、命令的差止は裁判所によってしか出せないであろう。これはマーベリー対マディソン事件において国家の統治機構としての両者の役割についてすでにアメリカの違憲審査において判断されたことである。排除命令の形で公正取引委員会も命令は出せるが、これは命令的差止ではない。歴史の最初の段階では命令は行政機関が出していた。ところが時代が変わるにつれて法の番人である最高裁判所によって命令的な行為が行われるべきであるという思想に変わりつつある。今後は裁判所で命令を出すのが命令的差止事件においては歴史的趨勢である。行政権が命令や、逮捕を独自で令状によって行うことよりも、司法権が命令や、逮捕状を出すことは命令的差止や、現行犯逮捕の場合には妥当であろう。法の支配の原則にも合致する。

その理由は憲法という書かれた理性による法の支配の原則による。ナチスの時代の反省とは田中二郎裁判官の見解である。しかしマーベリー対マディソン事件においては国家機構における職務執行命令による職務命令権は最高裁判所にではなく、下級審における事件に際してか、行政権にあるという憲法の解釈になったのである。

これと反対のことが違憲審査の制度についてはいえる。憲法の番人である最高裁判所判決においてのみ最高法規である憲法に基づいて具体的事件において最高裁判所は違憲判決により自由と権利を守ることができるのである。もし公正取引委員会によって命令的な差止ができるとしても、もし強制する方法が法定されていない場合には、それは強制的な命令として強制する方法がないのである。

しかし裁判所においては強制する方法は様々な方法がある。この意味ではマーベリー対マディソン事件においては国家機構における最高裁判所の役割としての違憲審査の役割をも明確にしたが、しかし国家の統治機構における職員の任命に関する職務執行命令については、任命状の発行の権利と同様に国家機構のもう一つの中核である行政権あるいは下級審の具体的事件の後の控訴審の司法権の執行である場合に譲ったのである。それは公共という名の下において国家の統治機構としての組織を作るうえで必須不可欠な命令服従関係であったからである。しかしそれはあくまでも制定憲法の無い国においては国家や公共のためであり、制定憲法を持つ国においては憲法という制定法のためである。

しかし例えもし裁判官の任命権が大統領にあったとしても、選ばれた最高裁判所の裁判官は憲法解釈においては最終的な司法権を持ち、憲法の番人、人権の番人として違憲審査の結果違憲判決を出すことをためらってはならないのである。これが「下田裁判官の意見は、「憲法の根本原則たる三権分立の趣旨」と「司法の謙抑の原則」をふりかざし、立法府の裁量的判断に委ねられるべき範囲を不当に拡張し、しかも、立法府が合憲と判断した以上、これに対する裁判所の介入は、もはや許されるべきでないかのごとき口吻を示されている。その真意のほどは必ずしも明らかではないが、本件について下田裁判官の主張されるところに限つてみても、私には、とうてい、賛成することができないのである。」とされ、「右の点に関する下田裁判官の意見は、国民多数の意見を代表する立法府が制定した実定法規はこれを尊重することが「憲法の根本原則たる三権分立の趣旨にそう」ものであり、裁判所がたやすくかかる事項に立ち入ることは、「司法の謙抑の原則にもとる」こととなるおそれがあるという考え方を基礎とするもの」であるとして下田裁判官に対する反対意見を述べられている理由である。

ところが「私的自治の名の下に優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがあることは否み難いが、そのためにこのような場合に限り憲法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用を認めるべきであるとする見解もまた、採用することはできない。何となれば、右のような事実上の支配関係なるものは、その支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難である」(三菱樹脂事件)との判決は、「支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難である」との点において司法の謙抑の美徳を発揮する日本の判例の動向と一致するものである。確かに所有権の絶対性が認められてその範囲内においては「優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがある」ことは否みがたい。これについては労働法が定め、独占禁止法における支配的地位の理論などはその限度について定めているということができる。

この下田理論は一般的にいう憲法判断回避の原則によるものである。憲法判断回避の原則の理由付けは普通はこの下田理論によるものであろう。

ところが憲法の番人は最高裁判所である。もしその機能を果たせない場合には憲法は何ら民間においては守られないことになる。憲法の番人として最高裁判所は与えられた権限を行使するならばよいが、そうでないならば番人のいない競技場となる。

公的に違憲な行為が行われる場合は「立法府として(行政府についても同様のことがいえる。)、その行為が違憲であることを意識しながら、あえてこれを強行するというようなことは、ナチ政権下の違憲立法のごとき、いわば革命的行為をあえてしようとするような場合」のナチの例のような場合を除いては存在しない、つまり一般には国家機構の中での公法の分野では、憲法は守られる。では私法の分野である民間においては公正競争阻害性という独占禁止法違反があったとしても憲法が守られなくてもよいのであろうか。

確かに民間においては憲法を守るという概念は稀薄である。三菱樹脂事件をみればわかる通りに、民間においては思想・信条の自由という概念は所有権に基づいた私的な個人の関係において所有権の範囲内においては他には及ばない場合があり得る。

従って「被上告人への加入は、実質的には強制加入であり、埼玉県下において不動産鑑定業務を営むためには被上告人に加入してその会員資格を得ることが必要であり、被上告人の会員資格を有しないで同県における不動産鑑定業務を営むことは不可能又は著しく困難であるから、被上告人と上告人山口の関係は、憲法の基本権保障規定の適用ないし類推適用を受けるべき服従関係にある。

4 本件は以下のとおり、実質的には強制加入の事業者団体である被上告人と上告人ら事業者との関係は、埼玉県における不動産鑑定業務においては、被上告人と上告人らとの間に法的服従関係に準ずる関係が成立していると言わざるを得ない。」

上告人のこの主張においては、強制加入に近い団体であり、公的な色彩の強い団体であるということだけで民間において加入の強制が行われうるのかについて、もし憲法のような公法的な要素が前面に押し出されないと、命令的差止は微妙な問題がある。特に独占禁止法における支配的地位とアクセスを独占している事業者団体に入会拒否の禁止がなされているドイツの競争制限禁止法第20条第6項や、アメリカの当然違法のような共同ボイコットにあたるとの概念が成立していなくてはならない。ということは本件事件における被上告人は該当しているのであるから、本件事件においては入会拒否をそのように憲法問題として学問的にも解くことができるのであり、実定法的にもそのように考えることができるのである。

ところがこれは命令が可能かという大問題を民間の事業者団体に持ち込むものであり、事業者団体の定義及び事業者団体の性格についての詳細な法哲学的な解決が必要である。入会を強制できるということは国家の統治機構としての機構内部における命令、あるいは、機構を維持するための命令服従関係として認定しているわけではないから、当然に法律侮辱が行われる可能性がありうる。この場合に損害金を認定していたとしても、その金額は当事者に対してしか発生しない法的効力しかないから、損害金や行政罰金は払ってもよいから入会させない方が公正競争阻害性という独占禁止法違反がもたらす利益の方が大きいならば、それでも法廷侮辱は行われるであろう。であるから、最高裁判所の権威に関わる大問題を含んでいるので、おそらくはそれを恐れて下田理論に匹敵するような最高裁判所の謙抑の理論が発生する可能性はある。その場合には憲法の人権が優越的であるかどうかの問題となり、謙抑の美徳が適用において違憲審査を回避させるのに成功すれば人権はないがしろにされるということになる。

つまりはマーベリー対マディソン事件においては国家機構の中における命令服従関係として国家の統治機構としての組織を維持するために、辞令発給拒否に対する辞令発給命令の可否の問題が論じられているのであるが、本件事件においては一般の命令的差止の事件である。ドイツの競争制限禁止法第20条第6項の規定があるにしても、イギリスにおける命令的差止の多くの判例があるにしても、イギリスにおいては独占禁止法においては差止自体の例が少いかもしれない。

民間は自由であるから憲法の問題でなければ、命令服従関係として法的な関係が発生している場合でなければ、命令はできないことになる。

本当に命令服従の法的な関係が成立している場合でなければ命令はできないということになるであろうか。公共の利益だけではだめであろうか。法

には強制性、命令性が常にある。法定侮辱の制度ができていない限りは強制や、命令ができないというのであれば法は最高裁判所においても存在しないことになる。憲法違反であれば命令ができるのに、憲法違反でなければ命令的差止はできないことになるのであれば、最高裁判所の権威さえ傷つくのであるから、当然に契約があったり、実定法的に制定法があれば、その解釈さえ妥当であれば、概念法学によっても強制や命令ができることになる。それは国家の名において、つまり国会の意志において強制や命令がなされているのである。その場合には憲法の人権が優越的であるかどうかの問題は憲法を制定法として制定するときにすべての法令や、法令の適用において違憲審査を行い、違憲ではない適用を行うことを前提として法が制定されているのであるから、そして憲法の最高法規としての性格を規定しているのであるから憲法違反であれば命令や強制がし易いというだけであり、法令によって強制や命令ができるのは現行犯逮捕の令状(writ)の場合と同様である。現行犯逮捕のときの令状は最高裁判所において認められたものである。

ところが差止が現行犯逮捕のような命令の令状を認めているのかという概念上の問題が発生する。当然にインジャンクションなる言葉は英語である。アメリカのクレイトン法から移入されてきた継受法における言葉をそのまま使用しているという意味においては、日本では同じ意味に解してよいと考えられる。マンダマスは命令状という意味であるが、この命令状は国家の統治機構としての組織内部のものであるが、マンダトリーな差止は国家の統治機構としての最高裁判所が発する人権が優越的であるとした場合に国家の統治機構としての組織の外部の国民に国家の統治機構としての最高裁判所が民間の事業者団体に対して発するものである。国家の統治機構としての組織には国家組織法としての憲法が規定を設けている。人権の規定は国家組織法とは別物であると考えられている。ところが民間と公共の境目は公共の利益という一点において結合されている。民間の事業者団体の性格において人権を守るべきであるというのが憲法上の規定であり、それは国家組織の中の公務員というものの組織と同程度に国家内の組織にも人権の規定が当てはまり、それによってこそ国家が国家内の組織をも含めて公共の利益のために存在しうるようになるということである。従って民間の事業者団体の性格についての規定が存在しなくても、公共の利益のためには憲法の人権の規定は当然に守られることが国家の内部の組織として当然に求められていることである。

一方人権が優越的であるとの規定は国家組織法にではなくて、人権の擁護という統治機構の機能に関する規定において書かれている。従って人権を守らないという私的な契約が有効であるのかという問題を本件事件においては入会拒否をそのように憲法違反であるとするときには先に法哲学的に解いていなくてはならないのかという問題が発生する。例えば監禁するということに合意しているという契約があれば何をしてもよいのかという問題があるのである。

信条による差別や、信条の自由という問題を憲法の側から論じないとドイツの競争制限禁止法第20条第6項や、日本の独占禁止法における支配的地位の問題や、アメリカにおいてもノースウェスト判決におけるような反トラスト法違反や、ヨーロッパ条約の独占禁止法違反により加入強制ができるかどうかの問題を法的に論じ、支配的地位や必須施設へのアクセスの自由の問題と、必須施設へのアクセスの自由の妨害の問題を論じて独占禁止法において加入強制が公正競争阻害性という独占禁止法違反があるので、加入強制できるという法的な強制はできないとはいえない。あるいは命令服従関係として認定される強制可能な状況がない限りは、信条による差別や信条の自由を論じることはできないとはいえないが、本件においては憲法の下位規範として独占禁止法があり、そこに命令的差止を制定法として規定して、更にそれによる強制が可能な独占禁止法における支配的地位の乱用のような独占禁止法に違反している状況にあるのであるから、独占禁止法の公的な利益を守るためにも、また憲法による違憲審査によって憲法の人権という公的なものを守るためにも憲法判断回避ではなくて、憲法判断を行い違憲判決を出す必要に迫られているのである。

独占禁止法の違反事件においては、建設業界において安売り業者を排除しても、談合していても、安売り業者が落札して何にもならなかったという事件がアメリカにおいて裁判例に残っている。

一方談合は社会に対して影響を及ぼしている。

鉄橋談合は社会に大きな影響を与えている。

一方本件事件は私訴において損害賠償請求が可能な稀有な例である。被上告人が置かれている立場による。またその他にも価格を固定するとか、情報を独占するとかの他の独占禁止法に違反する行為があったと考えているからである。あわせて独占禁止法違反事件として一本として考えられる。

そのように長引かせている被上告人の態度からしても、命令的差止を行わなければ自由競争を確保できないという、強制が必要な状況があると考えられることから、世界でも初めての命令的差止が認められるべきである。LingeringというAMA事件において指摘されている言葉はここにも応用できると思われる。

「While this is the only case I have found which states that such an injunction is mandatory, there is no question that a court may consider lingering efforts as a factor. この事件(AMA事件)はその差止が命令的であるとされた私の知る限り唯一の事件であるが、裁判所が継続してきているこれまでの多くの成果を一要素として考慮しているかもしれないことは疑いがないと考えた。」

命令は国家の統治機構の内部においてのみ認められているのではなくて、国家(公共)と個人の関係についても憲法を通じて認められるべきである。個人は人権の擁護という統治機構の対象でありうる。国家の統治機構の内部における命令においてのみ人権の擁護という統治機構の規範が認められているのであるとすれば、私的にはどのような憲法違反も認められることになる。

ドイツの憲法裁判所では法令が憲法に違背することが発見されれば先に法令に対して違憲判決を行っているのであるから、その法律を守りさえすればよいのであって、その法令の適用において違憲審査を行ってはならないという違憲審査の謙抑の美徳は適用において違憲である場合を全く想定していないことになる。概念法学の立場にたてば、法令が違憲ではなく法令の適用が概念法学によって行われれば、適用違憲ということはありえない。従って憲法が直接適用されなくてはならない例などありえないことになる。あるいは適用違憲ということはありえない。

しかし田中二郎裁判官の見解であるが、ナチの時代の例を出すまでもなく多くの違憲状態が違憲ではない法令によって、あるいは、まだ存在しない法の欠缺の状態にある場合には認められうる。そのような場合にも違憲審査を認めないとすれば、憲法は法令違憲のためにのみ存在し、適用違憲や、直接適用が認められないとすれば憲法違反が継続するという場合に憲法の適用ができないことになる。

アメリカでは陪審が付く場合が不法行為による損害賠償請求の事件であり、コンウッド事件がアメリカにおいて裁判例として残っている。一方の衡平法上の命令的差止は陪審員の評決が決定する必要はないと考えられている。裁判所の自由裁量の範囲内においてのみ可能な領域である。従って最高裁判所による命令的差止はその権威ある違憲審査の結果の判断であれば更に衡平法上の命令的差止の権威は増すことになる。それ故に私訴であるのに公共の利益がより一層守られることになり、裁判所に対して法廷侮蔑などは到底できないということになる。命令的差止は最高裁判所の権威ある判断に最も適していることになる。

もし日本的な公法と私法との区別の論理であれば、「私的自治の名の下に優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがあることは否み難いが、そのためにこのような場合に限り憲法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用を認めるべきであるとする見解もまた、採用することはできない。何となれば、右のような事実上の支配関係なるものは、その支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難である」という最高裁判所の判決にいう通りの論理になる。この場合には国または公共団体の支配と同視すべき行政に匹敵する場合に事業者団体の性格によっては命令服従関係として命令的差止は可能であり、公法的な要素が少ない場合には私法上の「私的自治の名の下に優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがあることは否み難い」がそれにもかかわらず自由の論理にいう他の人が侵害すべからざる所有権の絶対性が認めている領域内への侵犯になるので否定的自由を尊重すべきであるので「憲法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用を認めるべきである」ということにはならないという論理に逆からの解釈ではなるのである。公法的要素が少ないという基準は「支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難である」というようにどのような場合が命令服従関係として認定できるのかという判定を最高裁判所が最高法規としての憲法に基づいて行わなくてはならないことになるし、それによって私的な個人の関係について憲法によって信条の自由による差別の禁止が使用できるか、信条の自由をある団体が公共の利益故に守らなくてはならないかどうかについて判定しなければならないということになる。

ヨーロッパ条約の独占禁止法違反により加入強制ができるかどうかについてと同様に、ヨーロッパ条約の「人権裁判所」は先に見た通りに狩猟の自由を自所有地において信条の自由として強制的加入団体においても認めるかどうかについて人権の問題として考慮していた。

ヨーロッパにおいては概念法学によって強制や命令が可能かどうかが論じられているということであろう。これはドイツの概念法学の影響が強いということになる。この場合には信条の自由はアメリカにおいてノースウェスト判決におけるような当然違法の共同ボイコットにあたるかどうかについて人権の問題として考慮する必要がないのであり、当然違法のような概念によって当然違法であるから人権の問題を考慮する前に違法である、つまりそれ自体が違法であるから人権の問題として考慮する必要がないということになるのである。それ自体がというのが当然と訳されているが、このラテン語はとどのつまりは「事実上の支配関係なるものは、その支配力の態様、程度、規模等においてさまざまであり、どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難である」という問題を回避できるということであろう。ラテン語はローマの公用語であるからこの言葉をそのまま使用しているという意味においては、「ローマの法律」(ローマ法)という日本では概念法学と呼ばれているもののなかから、アメリカの当然違法のような概念を概念法学から離れるために採用したものと考えられる。一方のヨーロッパ条約の人権の裁判所は強制的加入団体と信条の自由による差別の禁止が使用できるかという問題としてこのような問題を概念法学として論じているものと考えられる。従ってヨーロッパ条約の独占禁止法違反により加入強制ができるかどうかについての服部育夫教授説は正しいと考えられる。

その場合には論理的にはどうしても不公平な損失とか、不平等な取り扱いについての不平等という概念との関連が指摘されなくてはならないから、アメリカの衡平法上の命令的差止の権威の場合と同様に、権威としての憲法の人権の解釈として強制的加入団体に対しては命令的差止は可能であるという判断になるのであろう。

人権が優越的であるかどうかの問題を制定法として制定するのではなくてヨーロッパ条約の人権の規定あるいはヨーロッパ条約の憲法の規定によって人権裁判所を通じて認められるべきであるという結論になるのであろう。

これが先に述べた通りに「「比較独占禁止法第5版」、服部育夫著によれば、強制入会についてドイツ法のみではなくて、ヨーロッパ競争制限法においても可能であるとしているが、この点についてはヨーロッパ条約の人権との関係で可能であることとすることが妥当である。」という結論に到達せざるを得ないのである。

命令的差止は命令服従関係として命令を行うというのではなくて、憲法の規定を権威として私人にも守らせるということに重点があり、否定的な自由は憲法の問題に対しては憲法を否定することはできない。つまりは憲法の条文はその最高法規としての重要性に鑑みて命令的差止や強制が可能であるという判断になるのであろう。

このように考えれば、当然違法のような概念であれ、衡平法上の命令的差止の権威の問題であれ、概念法学によっても強制や命令が可能であるかどうかの問題であれ、いずれの論法を使おうとも命令的差止は可能である。

が、命令服従関係として公法上の論理を使うのか、私法において司法権の執行として最高裁判所が最高法規としての憲法を適用するのか、当然違法のような概念構成を行うのかはただ法学上の論理をいかに構成するのかというフィクション上の問題にかかっているのであって、結論は同様であり命令的差止によって入会を強制できるという結論には変わりはないのである。強制的加入団体が存在する以上は加入を強制してもこの法的な構成にどれ程の特殊な状況をもたらすかについてはあまり影響はないが、法的に概念構成によって命令的差止を憲法によって認めるという点ではナチの時代の反省として出てきたラートブルッフのいうような自然法理論を凌駕するくらいに大きな法学上の進歩をもたらすことになり、支配的地位や命令服従関係の有無の判断以上の当然性や、憲法の最高法規としての位置づけに影響を与えることになる。支配的地位の問題や、必須施設に対する実質的アクセスを独占しているかどうかという問題はことのほか重要な要素となっているのである。

最高裁判所、東京高等裁判所殿

上申書

埼玉県においても、国においても指名は行われており、また市町村においても、

固定資産税の標準地の評価に関しては、平成17年1月1日に競争を導入した両神町、本庄市、松伏町においても、平成17年7月1日の時点修正においては随意契約にして競争を導入しなかったので、参加することができなかった。

このような状態においては損害の継続が更に続いているので、早急に最高裁判所において結論を出していただきたい。

以上

との上申書が出されている様な状況において緊急性をいかに満たすのか。

これに対して緊急性という要素をどのように判断するのかという問題は、現行犯逮捕を認めているのかという概念上の問題と同時に現行犯逮捕のときの令状は最高裁判所においてどのように認めるのか、それも控訴審としての最高裁判所が現行犯逮捕のときの令状を出しうるのかという問題となるのである。もし出すことができれば最高裁判所は破棄自判ができることになり、マーベリー対マディソン事件において国家の統治機構としての最高裁判所が任命辞令発給は権利としては認めても、控訴審としての最高裁判所においてしかその判断ができないとしたのと同様にそのように判断するのか、ただそのようなことは高等裁判所においてなされた裁判例とすべきであり、最高裁判所が最高法規としての憲法を使って破棄自判ができないのであり、破棄差戻しを相当とするのかという問題となるのである。

先の公法と私法の命令服従関係としての問題としてとらえる立場からすれば、そのどれが妥当であろうか。しかしいずれにしても緊急性を要していることだけは確かであり、アメリカの当然違法のような概念が成立した背景には継続性があり、ビジネスの問題であり緊急性を要する問題であることが認識され、緊急性を求められている故に当然違法のような概念構成を考え出したのである。憲法を使い概念法学によっても強制や命令ができるとすることについて緊急性が回避されたわけではない。

緊急性をいかに満たすのかという実際上の要請から生まれた当然違法のような概念構成もローマ法からの概念構成を使用しているが、当然に憲法を使用した差別をしないことを強制という概念に対して要請する場合にも実際上の要請から生まれた当然違法のような概念構成と同様に緊急性が要請されている。仮処分や予備的差止、予備的命令的差止、一時的差止についても同様な緊急性の要請から生まれたものである。

当然違法の原則は、理由の審理を拒絶するという目的があると同時に、緊急性を考慮したものでもある。アメリカにおいても理由の審理を拒絶する場合にはノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件が課されている。これは日本では憲法による違憲審査によって理由を否定するということも一つの方法となっている。ノースウェスト判決におけるような当然違法になるための2条件が存在しているということは日本や、あるいは直接的に法文によって規定されているドイツの概念法学によっては、それによって事業活動が困難になり、かつ、市場において差別的となり、かつ、不利益を生ずるような不平等な取り扱いとなるというのに等しいからである。

ノースウェスト判決は市場条件という原因の方を判例法によって特定したが、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項によればその結果が差別的となり、かつ、不利益を生ずるような不平等な取り扱いとなることを要請したのである。

本件事件においては入会拒否がノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件を満たしていることが証明されており、かつその結果としてを差別的となり、かつ、不利益を生ずるような不平等な取り扱いとなることを事業者団体の性格によって要請し、そうなっていることが証明されているのであるから、そのようなことが憲法違反であるとするときには先にその証拠の精査がなされていなくてはならない。一審、二審においてはそのような精査がなされており、事業活動が困難になっていることを認定しているのであって、従ってビジネスの問題であり緊急性を要する問題であることがはっきりしているのであるから、予備的命令的差止、一時的命令的差止が行われるべきである。

裁判における取引の安全性の問題

独占禁止法における支配的地位とか、独占している事業者にアクセスの権利が集中している問題は特にビジネスの問題であり緊急性を要する問題であることがはっきりしているのであるが、独占禁止法に違反していることと、民法商法上の取引の安全性の問題との関係について論じた論文は少ない。つまりは当然違法のような概念構成は民法商法上の取引の安全性の問題あるいは所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることとの間の関係については論じられていない。

確かに当然違法のような概念構成は緊急性との間に相関関係があることは言われている。

「1. Judicial Articulations

法律的な明確化

Over the course of the past forty years, the courts repeatedly have attempted to articulate what makes certain business conduct worthy of summary condemnation under the antitrust laws.

過去40年間の間を通じて、裁判所は反トラスト法のもとである種の事業上の行為のうちのどのような行為が即決での有罪に当たるのかを明確にするための試みを繰り返して行ってきた。」

(STAFF DISCUSSION DRAFT:FOR PURPOSES OF DEBATE AND DISCUSSION ONLY This discussion draft, prepared by a member of FTC staff,

PER SE ILLEGALITY AND TRUNCATED RULE OF REASON: THE SEARCH FOR A FORESHORTENED ANTITRUST ANALYSIS ;William E. Cohen Deputy Director, Policy Planning Federal Trade Commission November 1997 II. DETERMINING WHAT IS PER SE UNLAWFUL)

アメリカの差止の権威はアメリカの衡平法上の公平性の概念に頼っているが、即決での有罪summary condemnationの概念はビジネスの問題であることを考慮しているといえる。

「We want the standard to give guidance to business, deterring unlawful conduct without interfering with beneficial activities.

利益を求める諸活動を妨害しないで違法な行為を抑止することができるようなビジネスへの手引きを与えるような基準が求められているのである。

None of the standards thus far explored possesses all the ideal characteristics.

こういう見方からすれば、これまでの探求から求められる基準は、すべての理想的な諸特徴を持っているとは言い難い。」

(STAFF DISCUSSION DRAFT: FOR PURPOSES OF DEBATE AND DISCUSSION ONLY ;This discussion draft, prepared by a member of FTC staff, does not necessarily reflect the views of the Commission, any Commissioner, or any other FTC staff. PER SE ILLEGALITY AND TRUNCATED RULE OF REASON: THE SEARCH FOR A

FORESHORTENED ANTITRUST ANALYSIS William E. Cohen Deputy Director, Policy Planning Federal Trade Commission November 1997 )

「「In contrast, a categorical rule creates clarity for businesses and is more likely to be observed. As the Supreme Court has concluded, "[P]er se rules tend to provide guidance to the business community and to minimize the burdens on litigants and the judicial system of the more complex rule-of-reason trials . . . ."(15)

これとは対照的に構成要件の範疇を与えられた規則がビジネスに明確性を与えてきたし、明確性を与える傾向があるように思われる。最高裁判所が結論付けてきたように「当然違法の原則はビジネス社会に対して手引きを与えることになってきたし、訴訟の両当事者の負担を軽減し、合理性の基準による法的なシステム上の公開法廷の複雑さを緩和してきた・・。」

「Thus, even while acknowledging that per se rules may not achieve total precision, the Court has seen value in the deterrence, guidance, and resource savings that they provide.

そういう理由から、裁判所は当然違法の原則は完全な的確さを達成していないかもしれないことを認識しているにもかかわらず、抑止力と、ガイダンスと、資源の節約を当然違法の原則が提供していることに裁判所は価値を見いだしてきた。」

「"For the sake of business certainty and litigation efficiency, we have tolerated the invalidation of some agreements that a fullblown inquiry might have proved to be reasonable."(16)」

「本格的に追求することによって合理的であると証明されたかも知れないであろうということに賛成がいくらかはあってもビジネスの安定性(取引の安全)と、訴訟の効率性のために、本格的に追求する価値はないということを認めてきたのである」(16)

16. Maricopa, 457 U.S. at 344.

16の注は、マリコパ事件、457 U.S. at 344。

Section II explores various mechanisms for making this trade-off and for fixing the boundaries of per se status in such a manner that exceptions to its "broad generalizations about . . . social utility" are indeed "not sufficiently common or important to justify the time and expense necessary to identify them."

第二章は、「・・・や社会的な効用等についての幅広い一般的定式化」に対する例外は、確かに「特定するために必要な時間と費用を正当化するためには充分には一般的でも重要でもない。」という観点にたって、この両立しないものの間の妥協点と、当然違法の領域の境界線を確定するための様々な構造や装置を探求する。」

その他の少し趣を異にするがビジネスとの関係では次のような見解がある。

「Session II: Global Interface of Competition PoliciesSpeaker:Mr. Holger Dieckmann(International Affairs Unit, CompetitionDirectorate-General of the European Commission)Title: The Benefits of Cooperation between Competition Authorities

Abstract

パネル2 国際事業活動と競争政策【講演者】Holger Dieckmann 欧州委員会 競争総局 国際課【講演タイトル】競争当局による国際協力がもたらす利益【講演要旨】

It is also the key to avoiding contradictory or incoherent results and hence, offers business greater certainty as to the outcome of procedures.

またそれ(恒常的な協力)は、手続きの成果について取引の確実性をより高めるので、それ故に矛盾した結果、あるいは、一貫しない結果を避けるための鍵となる。」

http://www.jftc.go.jp/cprc/events/2003sympo/agenda15.pdfより

この欧州委員会の考え方も取引の安全に配慮したものである。

一般には取引は危険を覚悟の上で行われるが、その危険は金融上のものであり自由競争が確保されている状態においての危険性である。自由競争が確保されていない独占禁止法に違反していることの危険性を疑いながらもし取引しなければならないならば取引当事者にとっては危険を負担できないことであり、それは裁判所による私訴において損害賠償請求が矯正すべきであるか、公正競争阻害性という独占禁止法違反が公正取引委員会によって矯正すべきであるかのいずれかによって危険性を除去しておくべきであろう。確かにビジネスには危険性がつきものであるが、独占禁止法に違反していることを疑いながら取引を行うという状態が長く続くということは法的に許されることではない。

危険性と、安全性は同一の次元での反対の概念ではあるが、安全とは自由競争との関連では自由競争が確保されている状態において取引がなされており、公正競争阻害性という独占禁止法違反が存在しない状態での取引が保障されていることをいう。取引の危険性とは独占禁止法における支配的地位とかの状態において取引を行うことをいう。例えば日本の土地取引が独占禁止法における支配的地位とか、アクセスを独占している事業者団体によって「支配されている」状態においての取引であれば取引の安全性は確保されていない。

一般には取引の安全性の問題は民法上では取引が有効に成立していることが法律上強制されうる状態であることをいう。錯誤は95 条で「意思表示ハ法律行為ノ要素ニ錯誤アリタルトキハ無効トス但表意者ニ重大ナル過失アリタルトキハ表意者自ラ其無効ヲ主張スルコトヲ得ズ」と規定している。ここでは、表意者の保護と取引の安全との双方の調和がはかられている。

この取引の安全性の点では民法の問題は裁判を長期化させないという点で独占禁止法違反における当然違法の領域において一致することになる。

善良なる状態においては取引の安全性は確保されているべきであるという考え方である。

民法の場合とは違って、独占禁止法の違反を早急に是正すべき理由は公共の利益のためには憲法の行使が行われるべきであるという概念法学上の理由によるのであって、私法上の契約の有効性によるものではない。このような場合に概念法学上は法は定立されずに当然違法の原則が判例法として定立されてきているアメリカと、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項の制定法による場合との違いはどちらも公共の利益のためには憲法が必要であるという国家の統治機構としての最高裁判所の機能として行われるべきことは同一ではあるが、判例法と法の定立の問題の違いなのである。その場合に統治機構としての司法権の執行において国民の権利と義務を守るという観念と、行政権において国民に対して公共の利益の観点から行政権の行使として権力の行使が行われるべきであるという観念との違いはどこにあるのか。判例法が定立されている国においてはビジネス上のガイダンスの役割を判例法が果たすが、ビジネスにおけるガイダンスを行政指導ということで行政権に頼ることがあり得るという点において判例法として定立されてきているアメリカと、法が定立されているドイツとは違っていることになる。

日本においてはドイツの競争制限禁止法第20条第6項によらないで、差止の規定をアメリカのクレイトン法から移入されてきた継受法によっているのであるから判例法を確立していくことが求められているのであって、憲法による違憲審査によって本件事件においては入会拒否をそのように憲法違反であるとすることが要請されているということができる。

ビジネス上のガイダンスという概念機能を判例法が果たすように求めるのは、判例法として定立されてきているのでそれをコンプライアンスによって守るべきであるということである。

一方ドイツにおいては実定法は定立されているのであるから、それが守られていないとすれば法は存在しないことになるので、今後コンプライアンスという概念が必要であるというよりも法は守るべきであるという法学教育の必要性の問題でありただ遵法精神の問題である。

本件事件においては入会拒否を憲法違反であり、最高裁判所において違憲審査を受けるべきであり、最高裁判所において差止の判断をするべきであるという主張は、実定法において決められているドイツの競争制限禁止法第20条第6項による法規によるのであれば、必要ではないことが、判例法として定立しようという日本の裁判所には意図があるのであれば、やはり憲法問題であるということになる。破棄差戻しを相当とする違憲の場合にはまた最高裁判所において憲法判断を行うように再度の上告が必要となってしまう。損害賠償請求の判断は事実審の問題として破棄差戻しを相当とするであろう。

だからドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような規定が存在する場合か、日本においてもノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件について判例法が存在する場合には破棄差戻しを相当とするのであるが、そのような実定法か、判例法が存在せずに、判例法として定立すべきか、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような規定を設ける必要がある過渡期に位置する日本の独占禁止法の発展ステージにある場合においては違憲審査を行うことによって違憲状態であることを示すことは必要であるということになる。

この場合には緊急性の問題をいかに解くかという問題は残ったままである。

これも憲法上の問題であろうが、特に公共の利益が侵され続けているという問題をいかに解決するのかという問題が存在する。ここまでの公共の利益が侵され続けているという事態は容認するが、これより以上の公共の利益が侵され続けているという状態は許されることではないという論理は成立しないからである。憲法問題として処理するにしても、公共の利益が侵され続けているという事態の認識には変わりはないからである。仮処分や予備的差止の概念をどうするかという問題が発生している。憲法の違憲審査に時間がかかるという論理は正当化されうるであろうか。損害の継続性と緊急性の問題はそれだけでは避けて通れないと考えられる。

ビジネスの問題であり緊急性を要する問題であることがはっきりしているのであるが、憲法による違憲審査によって時間がかかっているとはいえないからである。憲法の人権概念が裁判官の中にしっかりと入っていれば、違憲審査には時間がかかるということはいえないといいうる。人権概念は感覚的に理解されうるものでもある。

最高裁判所の判決の意味

私訴において差止及び損害賠償請求が求められている故に当然違法のような概念構成なしに最高裁判所が矯正すべきであるとした場合には、ビジネスのガイダンスになることを予測することも重要であるが、法律の原理を当然違法のような概念構成によって判例法として定立すること、憲法による違憲審査によって憲法上の原理を判例として定立すること、法の欠缺を埋めるためにドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような法律の制定を促すこと等が求められている。これらを含んだ判決が司法権の執行として最高裁判所によって行われることになる。先例として重要な意味を持つ判決が出されることになる。

Equityの概念は憲法第14条の規定による違憲審査を行って命令的差止が独占禁止法違反事件において行われうるかという問題と似ている。憲法による違憲審査によって概念法学によっても強制や命令ができるかという問題である。確かにイギリスでは多くの命令的差止が命令服従関係が存在しないのに、民事訴訟においてなされてきている。これは契約関係の成立を認めてのことであろう。命令的差止が独占禁止法違反事件になじまないということがイギリスのこの様な判例において決定されているわけではない。独占禁止法の発展に伴ってイギリスにおいても独占禁止法違反事件においても差止が最高裁判所の権威において認められてくるようになることは考えられうる。

アメリカにおいてはマーベリー対マディソン事件において国家の統治機構の中における最高裁判所の法律上の権威が認められている。イギリスとの違いはここにある。アメリカの衡平法上の命令的差止の権威は最高裁判所にあるといいうる。アメリカにおいてノースウェスト判決におけるような当然違法の概念は共同ボイコットにおいては不平等な取り扱い、不公平な損失を被っている場合には憲法の問題として取り扱いを行っているということはいいうる。その権威が認められている。イギリスとの違いはそこにある。

ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文が法定されているドイツにおいては憲法裁判所が法令が憲法に違背することを発見していないのであるから、法文の適用において憲法が問題となることがあらかじめ避けられていることになる。

このように日本においてはドイツの競争制限禁止法第20条第6項によらないし、日本においてはアメリカのように判例法として定立されてきていないのであるが、日本では憲法による違憲審査によって理由をはねのけることによって最高裁判所が最高法規としての権威によって権威の行使を行うことができるのであるから、憲法を使い概念法学によっても強制や命令ができるということを判例によって確立すべきである。またイギリスでは多くの命令的差止が命令服従関係が存在する場合にも認められてきていないのである。これは衡平法の概念は公共の利益のためにはまだ行使されていないことを意味しており、衡平法上の命令的差止の権威は私法のように契約による証拠やらが必要であることを意味しており、まだドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような制定法が存在していないということしか意味していない。日本ではすでに差止の規定をアメリカのクレイトン法から移入されてきた継受法によって法定したのであるから、それと日本国憲法を使い概念法学によっても強制や命令ができるということを判例によって確立すべきである。

このような法律の状態において憲法と独占禁止法の解釈によって違憲審査を行い憲法問題として判断をすることは、独占禁止法の発展に伴って世界の競争当局が同一の次元での見方をして、独占禁止法の執行において協力していこうとしている現状に合致するのである。

「Holger Dieckmann 欧州委員会 競争総局 国際課【講演タイトル】競争当局による国際協力がもたらす利益【講演要旨】

It is also the key to avoiding contradictory or incoherent results and hence, offers business greater certainty as to the outcome of procedures.

またそれ(恒常的な協力)は、手続きの成果について取引の確実性をより高めるので、それ故に矛盾した結果、あるいは、一貫しない結果を避けるための鍵となる。」

Holger Dieckmannのこの言葉は、弁護士の段階においても、最高裁判所においても、競争当局においても、検察庁においても「矛盾した結果、あるいは、一貫しない結果を避ける」ということに重要な意味がある。

弁護士同士が協力し、最高裁判所が協力し、競争当局が協力し、検察庁が協力することにより、「矛盾した結果、あるいは、一貫しない結果を避ける」ことが世界中で求められているのである。これは共同ボイコットに対する処置についても同様である。

それは信条の自由による差別の禁止の規定が使用できるかという問題に最高裁判所が最高法規としての憲法を適用できるかという問題となったのである。マーベリー対マディソン事件のような国家の統治機構の論理を使うことができるかという問題でもある。それもヨーロッパ条約の人権の裁判所のような論理を使うことができるかという問題となったのである。そして憲法の最高法規としての論理によって命令服従関係に近い団体に対して命令的差止、あるいは、命令的差止に近い二者択一の論理を使うことができるかという問題となったのである。

マーベリー対マディソン事件判決において述べている通り「これは憲法と抵触する。両法が抵触する場合、裁判所は憲法を尊重しなければならない。「憲法は議会の通常の法 ordinary act of the legislature よりも優位にある。」」といえるのである。

これは法律の適用においても同様に、憲法は通常の法よりも優位にある。従って本件事件においては入会拒否をそのように憲法違反であるとすることができるのである。そしてそれは限りなく命令的差止に近い(命令的)差止が独占禁止法違反事件に適用される唯一の事件となりうるのである。

Equityの概念は憲法第14条に似ている。この場合に法哲学上の平等概念は有効である。機会の均等は近代憲法の根本理念である。確かに政府が給付を全面的に与えるという概念は妥当ではない。しかし働く機会を平等に与えるという概念は人一人を一人として取り扱うという平等原則に合致する。憲法第14条がそのような機会の均等を保障しているかどうかについては定説はないが、少なくとも信条の自由による差別の禁止の規定が使用できることについては憲法学者にも異存がないであろう。

本件事件においては日本において入会拒否をそのように憲法違反であるとすることが、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような制定法が制定されたことと同様の意味を持ち、アメリカにおいてもノースウェスト判決におけるような最高裁判所の判決が出たのと同様の意味を持ち、ビジネス上のガイダンスとなりうるであろうことは明白である。それなくしては日本の独占禁止法の発展はありえないともいえるのであり、それに期待するものである。

著しい損害という文言が、衡平法上の差止の規定の中に置かれたことについては法体系の中では次のようにいうことができる。これは日本の法体系のなかでもいえることである。日本でもアメリカの継受法における言葉としても、ドイツの概念法学をも継受した法体系の中の言葉としても次のように解釈することが妥当であろう。この解釈は自然であり独占禁止法第24条が制定された時の国の担当者の答弁とも一致している。日本国憲法はアメリカの法体系を継受している。また独占禁止法もアメリカの法体系を継受しているからである。不法行為法はフランスのナポレオン民法典を継受した。ドイツから継受した戦前の大日本国憲法とは現在の憲法は異なったものである。

「Civil law, not to be confused with the civil legal system, has several meanings:

市民の法は、市民の法の体系と混同すべきではないが、いくつかの意味がある。

Secular law is the legal system of a theocratic government, such as that in England, during the reign of Henry II

世俗の法とは、ヘンリー二世の統治の時代の英国におけるような神政の政府の法的な機構をいう。

Private law regulates relationships between persons and organizations including contracts and responsible behaviour such as through liability through negligence.

私法は人と人の間の、あるいは、組織と組織の間の、あるいは、人と組織の間の過失に因る法的責任のような契約ないしは義務を発生させるような行為を含む関係を規律する。

This body of law enforces statutes or the common law by allowing a party, whose rights have been violated, to collect damages from a defendant.

これにより権利を侵害された被害を受けた当事者に加害者への損害賠償請求を認めることによって法文やコモンローの体系によって強制を行う。

Where monetary damages are deemed insufficient, civil court may offer other remedies in equity; such as forbidding someone to do an act (eg; an injunction) or formally changing someone's legal status (eg; divorce).

金銭的な損害賠償の認定が充分ではないと見なされるときには、衡平の法によって他の救済法を裁判所は認める、つまりは (例えば差止のような)ある行為をなすことを誰かに禁止したりするような、あるいは、(例えば離婚のように)誰かの法的な身分を公的に変更するようなことを認める。

This body of law includes the law of torts in common law systems, or in civilian systems, the Law of Obligations.

コモンローの体系は不法行為法を含んでいる。更に言い換えれば、市民の法体系は義務の法を含んでいる。」

(注)

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Law

This article is about law in society. For other article subjects named law see law (disambiguation). For the legal paper size, see Paper size.

This article is concerned with laws of politics and jurisprudence: rules of conduct which mandate and/or proscribe specified relationships among people and organizations; as well as punishments for those who do not follow the established rules of conduct.

In ethics and moral philosophy this type of law is often called a "human legal code" to distinguish it from more fundamental laws applicable to all beings (metaphysics, ontology). Such a body of laws can be seen as a legally-enforced ethical code or as a "secular moral code" (to the degree that political leaders replace religious leaders as moral examples). Because lawyers and jurists more than other professions are self-regulating, almost by definition, they are often held to higher standards of behaviour or at least a stricter etiquette. These concerns are not part of this article, because those expectations and disciplines are specific to each legal code. This article takes an English-speaking point of view and deals with other legal traditions and codes by way of comparison only.

Table of contents [showhide]

1 Jurisprudence

2 Codification of law

3 Law as academic discipline and profession

4 Further discussion

5 Legal systems

6 Branches of law, a sampling

7 Legal subject areas

8 Subjects auxiliary to law

9 Terms, case law, legislation and other resources

10 Legal books

11 Further reading

12 See also

13 External links

Jurisprudence

Jurisprudence refers to two different things. First, in common law jurisdictions, it means simply "case law", i.e. the law that is established through the decisions of the courts and other officials. Second, it means the philosophy of law, or legal theory, which studies not what the law is in a particular jurisdiction (say, Turkey or the United States) but law in general--i.e. those attributes common to all legal systems.

Jurisprudence in the second sense is conventionally divided into two parts: descriptive, or analytic, jurisprudence, and normative jurisprudence. Analytic jurisprudence studies what law 'is', normative jurisprudence studies what law 'ought to be'.

Among the most important questions of analytic jurisprudence are these: What is a law? What is a legal system? What is the relationship between law and power? What is the relationship between law and justice or morality? Does every society have a legal system? How should we understand concepts like legal rights and legal obligations or duties? The most influential works of analytic jurisprudence include: Jeremy Bentham, Of Laws in General; Hans Kelsen, The Pure Theory of Law, H.L.A. Hart, The Concept of Law, and Ronald Dworkin, Law's Empire.

Among the most important questions of normative jurisprudence are these: What is the proper function of law? What sorts of acts should be subject to punishment, and what sorts of punishment should be permitted? What is justice? What rights do we have? Is there a duty to obey the law? What value has the rule of law? The most influential works of normative jurisprudence include all the classics of political philosophy. Among contemporary writers, the following have been particularly influential: John Rawls, A Theory of Justice H.L.A. Hart, Punishment and Responsibility; Joel Feinberg, The Moral Limits of the Criminal Law; Joseph Raz, The Morality of Freedom; Ronald Dworkin, A Matter of Principle

Codification of law

Law is the formal codification of customs which have achieved such acceptance as become the enforced norm. The process of acceptance is accelerated by the existence of legislative bodies which seek to impose laws.

Law codification involves the legislation and regulation of statutes; as well as the resolution of disputes. In the civil law system codification is also an attempt to structure the law according to fundamental ethical principles to create a sense of order and simplicity that all members of society can comprehend, not merely university trained jurists. Stating the law in simple, precise terms, understandable to the lay person without a specialized legal education, is the only way they can reasonably obey it or be fairly sanctioned for not obeying it.

This overlaps with the idea of a formal social legal code as understood in ethics. This may be understandable to the educated lay person but perhaps not to the ordinary lay person. For example, one can explain the idea of precedent more easily than that of the reasonable man, but it may be much harder to explain why precedent is "fair" to one without "higher education". The following are examples of such lay explanations of different branches of law, and theories of law.

Law as academic discipline and profession

In addition to being part of the societal framework law is also an academic discipline and a profession. Lawyers are sometimes called by other names, as in England where the profession is divided between solicitors and barristers or solicitor and advocate in Scotland. Sometimes they are also called notaries. (Do not confuse this term with notary public which is an individual who is licensed to act as a witness to certain transactions, take oaths and authenticate signatures.) They are professionally trained in the United States at graduate schools of law leading to the J.D degree (Juris Doctor). In other countries legal education is considered to start at the undergraduate stage taught in faculty of law leading to the LL.B or B.C.L degrees. NOTE: In Canada at least, the LL.B. requires a previous undergraduate degree to study. Law is an undergraduate degree mainly in civil law countries. Most of these schools also have advanced legal degrees such as the LL.M and the J.S.D degrees. Many persons who attend law school never practice law but use their knowledge of law in another profession. See Law (academic) and jurisprudence For law as a profession, see lawyer, jurist and practice of law.

Further discussion

Most laws and legal systems?at least in the Western world?are quite similar in their essential themes, arising from similar values and similar social, economic, and political conditions, and they typically differ less in their substantive content than in their jargon and procedures. Communication between legal systems is the focus of legal translation and legal lexicography, which deals with the principles of producing a law dictionary.

One of the fundamental similarities across different legal systems is that, to be of general approval and observation, a law has to appear to be public, effective, and legitimate, in the sense that it has to be available to the knowledge of the citizen in common places or means, it needs to contain instruments to grant its application, and it has to be issued under given formal procedures from a recognized authority.

In the context of most legal systems, laws are enacted through the processes of constitutional charter, constitutional amendment, legislation, executive order, rulemaking, and adjudication; within Common law jurisdictions, rulings by judges are an important additional source of legal rules.

However, de facto laws also come into existence through custom and tradition. (See generally Consuetudinary law; Anarchist law.)

Law has an anthropological dimension. In order to have a culture of law, people must dwell in a society where a government exists whose authority is hard to evade and generally recognised as legitimate. People forego personal revenge or self-help and choose instead to take their grievances before the government and its agents, who arbitrate disputes and enforce penalties.

This behaviour is contrasted with the culture of honor, where respect for persons and groups stems from fear of the disproportionate revenge they may exact if their person, property, or prerogatives are not respected. Cultures of law must be maintained. They can be eroded by declining respect for the law, achieved either by weak government unable to wield its authority, or by burdensome restrictions that attempt to forbid behaviour prevalent in the culture or in some subculture of the society. When a culture of law declines, there is a possibility that an undesirable culture of honor will arise in its place.

A particular society or community adopts a specific set of laws to regulate the behavior of its own members, to order life in its political territory, to grant or acknowledge the rights and privileges of its citizens and other people who may come under the jurisdiction of its courts, and to resolve disputes.

There are several distinct laws and legal traditions, and each jurisdiction has its own set of laws and its own legal system. Individually codified laws are known as statutes, and the collective body of laws relating to one subject or emanating from one source are usually identified by specific reference. (E.g., Roman law, Common law, and Criminal law.)

Moreover, the several different levels of government each produce their own laws, though the extent to which law is centralized varies. Thus, at any one place there can be conflicting laws in force at the local, regional, state, national, or international levels.

(See conflict of laws, Preemption of State and Local Laws.)

Legal systems

The civilian legal system or civil law system is the general typology of legal systems found in most countries. It is an alternative to common law system and has its roots in Roman law. It is employed by almost every country that was not a colony of the British Empire. In most jurisdictions the civil law is codified in the form of a civil codess, but in some, like Scotland it remains uncodified. Most codes follow the tradition of Code Napol駮n in some fashion. Notably, the German code was developed from Roman law with reference to German legal tradition. See also: Roman law, Scots law.

Common law is a system of law used in England, all of the states of the United States (except Louisiana) and other former British possessions such as in the Australia, Canada, India, and Ireland. See also English law

Islamic law (Sharia), is derived from the Koran and used in some Middle Eastern nations; such as in the Iran and Saudi Arabia.

Socialist law is the term for civil law as practiced within states of the former Soviet Union and its satellites; as well as within the Laws of China, Cuba, North Korea, and Vietnam. With the end of the Cold War, most of these nations are incorporating laws compatible with private property and capitalism.

Branches of law, a sampling

They are not comprehensive.

Administrative law refers to the body of law which regulates bureaucratic managerial procedures and is administered by the executive branch of a government; rather than the judicial or legislative branches (if they are different in that particular jurisdiction). This body of law regulates international trade, manufacturing, pollution, taxation, and the like. This is sometimes seen as a subcategory of civil law and sometimes called public law as it deals with regulation and public institutions.

Canon law refers to laws of the Anglican, Eastern Orthodox, Roman Catholic churches.

カノン法はアングリカン、東カトリック正教会、ローマカトリック教会の法のことをいう。

Case law (precedental law) regulates, via precedents, how laws are to be understood.

判例法(先例法)は法律をどのように理解するのかを先例を通じて規制している。

Case law, also called common law or judge-made law, is derived from the body of rulings made by a country's courts.

またコモンローと呼ばれている判例法、あるいは、裁判官が作り上げた法は、国の裁判官が形成した規則の全体から成立している。

In the United States, the primary source of case law relating to federal and constitutional questions is the Supreme Court of the United States.

アメリカ合衆国では連邦問題と憲法問題に関する具体的な判例法の第一次資料はアメリカ合衆国最高裁判所にある。

The states, each with its own final court of appeals, generate case law that is only binding precedent in that state.

各州は、それぞれ各州の最終控訴裁判所を持っているので、その州だけで集積されてきた判例法を持っている。

In countries that were once part of the British Empire

一時大英帝国の一部分であった国々においては、

the Judicial Committee of the Privy Council and the House of Lords are primary sources of case law,

判例法の第一次的法源は枢密院と、貴族院の法律委員会であるが、

though not necessarily binding precedent, as each country has its own court of last resort.

各国が各国の最終裁判所を持っているようには、必ずしも先例を文書化してはいない。

Civil law, not to be confused with the civil legal system, has several meanings:

Secular law is the legal system of a theocratic government, such as that in England, during the reign of Henry II

Private law regulates relationships between persons and organizations including contracts and responsible behaviour such as through liability through negligence. This body of law enforces statutes or the common law by allowing a party, whose rights have been violated, to collect damages from a defendant. Where monetary damages are deemed insufficient, civil court may offer other remedies in equity; such as forbidding someone to do an act (eg; an injunction) or formally changing someone's legal status (eg; divorce). This body of law includes the law of torts in common law systems, or in civilian systems, the Law of Obligations.

Commercial law, often considered to be part of civil law, covers business and commerce relations including sales and business entities.

商法は、司法の一部分であると考えられることが多いのであるが、売買や商業法人を含むビジネスや商業の関係を規律する。

Common law is derived from Anglo-Saxon customary law, also referred to as judge-made law, as it developed over the course of many centuries in the English courts.

コモンローはアングロサクソンの慣習法に由来する、かつ裁判所が形成してきた法をも付け加えてきたものであり、イギリスの裁判所において多くの世紀にもわたり発展してきたものである。

Criminal law (penal law) is the body of laws which regulate governmental sanctions (such as imprisonment and/or fines) as retaliation for crimes against the social order.

International law governs the relations between states, or between citizens of different states, or international organizations. Its two primary sources are customary law and treaties.

Procedural Law are rules and regulations found in an legal system that regulate access to legal institutions such as the courts, including the filing of private lawsuits and regulating the treatment of defendants and convicts by the public criminal justice system.

Within this field are laws regulating arrests and evidence, injunctions and pleadings.

この分野において多くの法律が逮捕と証拠、差止と訴訟手続を規律している。

Procedural law defines the procedure by which law is to be enforced.

手続法は法律が強制する場合の手続を定義している。

See criminal procedure and civil procedure.刑事手続と、民事手続を参照。

Space law regulates events occurring outside Earth's atmosphere. At present this is limited to several treaties against atomic testing in space.

Legal subject areas

Administrative law - Admiralty - Alternative dispute resolution - Appellate review ? Brehon(注終わり)

Equityがコモンローの体系においては不法行為法の修正の役割を果たしている。ところが独占禁止法の差止の規定においては、差止は著しい損害を要件としているがこのことをこの文脈で理解しようとすれば、西洋の場合と同様に著しい損害とは「金銭的な損害賠償の認定が充分ではないと見なされるときには、衡平の法によって他の救済法を裁判所は認める」という場合の「金銭的な損害賠償の認定が充分ではないと見なされるとき」であるということになる。著しいという言葉を損害賠償を認める規定によっては補うことができないときというように解釈すべきであるということになる。

「いずれにしろ、なぜ自前のもの、または、純資産を指して、equity と言うのでしょうか。わたしが昔、高名な弁護士から伺ったところではこういうことでした。昔、英国には判例法の体系であるコモン・ローを適用する普通法裁判所と、それと平行して、衡平法(equity)を適用する衡平法裁判所というものがあり、コモン・ローの形式的適用の結果生じる不都合を是正する役目を担っていたのだそうです(いまは司法裁判所ということで一本化されています)。そしてある時期までは、コモン・ロー上は100万の借金を払えなかった場合、担保として差し入れていた1000万の価値の物件が債権者に取り上げられてしまうという不条理がまかりとおっていました。ところが、衡平法裁判所が1000万から負債の100万を差引いた残額900万は債務者に返さねばならないという名判決を下しました。以来エクィティーつまり純資産という概念が定着したのだそうです。

 先に引き合いに出した株式も、考えてみれば、その株式を発行した企業に対して利益配当を請求でき、また、解散した場合は残余財産を分配せよと要求できる権利を表してはいますが、それはあくまでも負債を清算した上での話で、ほかに債権者がいれば、株主の権利より債権者の権利の方が優先しますから、結局、株主の権利というのも、会社の資産から負債を差引いた部分との関係でしか効力を有しません。こうした見地から、この純資産部分 net worth は、借入資本 debt capital との対比で、自己資本/株主資本 equity capital とも言われるのです。」(equity ビジネス英語講座 > 監修 日向清人 ***ビジネス時事コラム*** 第8話 equity の意味)

この例におけるような判決が必要なのが本件事件であり、その本件事件においては入会拒否をそのように憲法違反であるとすることが憲法14条に基づいた、また独占禁止法24条に基づいたequityに基づいた判決であり、それがマーベリー対マディソン事件において国家の統治機構としての最高裁判所が最高法規としての憲法に基づいて発すべき命令的差止になるのであり、命令服従関係であったマーベリー対マディソン事件とは違い、命令服従関係に準ずる関係にある事業者団体の性格によって公共の利益のためには憲法の行使が認められる理由である。

この「金銭的な損害賠償の認定が充分ではないと見なされるとき」という法諺は法体系全体の中における位置づけとも合致している。著しい損害という概念はコモンローの体系においては不法行為法の概念であるが、差止請求権はequityにおける概念である。クレイトン法から移入されてきた継受法としての独占禁止法第24条の条文に損害という概念を導入したからには損害賠償請求による救済と、差止による救済を関係付ける概念としてはコモンローとequity概念としての差止を結びつける法諺としてこの「金銭的な損害賠償の認定が充分ではないと見なされるとき」という法諺しか存在してきていないからである。

しかしこの法諺は判例で使う程に重要ではない。これは誰にでも条理で理解できる感覚的な法諺である。直感的に理解できるものである。これを最高裁判所が最高法規としての憲法を使う必要はないであろう。というのは憲法以前のアプリオリーな法諺であるからである。

本件事件においては著しい損害は明白であり、ノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件、それによって事業活動が困難になっているのであるからいわずもがなである。金銭的な損害賠償の認定のみでは充分ではないというのは誰にでも条理で理解できる。結果としてドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文でも認められているような不平等な取り扱いの不平等という概念とか、不公平な損失を被っている場合に該当することはノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件から明白であるので、この法諺、アメリカの当然違法のような概念と、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文での結果論の三つの条件をいずれも満たしており、その結果を救済するのに「金銭的な損害賠償の認定が充分ではないと見なされるとき」に該当するということになる。つまりノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件においてであるから不平等な取り扱いの不平等という概念に客観的に該当しており、不公平な損失を被っている場合に該当するのであるが、不平等を直すのには「金銭的な損害賠償の認定が充分ではないと見なされる」ので差止も認められ、不公平な損失を被っている場合に該当するので金銭的な損害賠償請求も認められるべきである。

ドイツの競争制限禁止法第20条第6項の条文でのconstitutes an objectively unjustified unequal treatment and would place the undertaking at an unfair competitive disadvantageの双方を満たしていることになる。この二つは結果について述べているがunequal treatmentは憲法第14条に該当するような場合を指しており、それも客観性を要求しているのであり、かつ後段のan unfair competitive disadvantageは損害について述べている。Disadvantageは金銭的な損害賠償の認定が認められることと、金銭的な損害賠償の認定が充分ではないと思われる場合には差止の救済も認められるべき不公平さを述べているものと考えられる。Unfairな行為は、不平等な取り扱いについての不平等という概念とは違って、違法なとか権利を侵害された当事者に対しての不公正な取り扱いという意味を含んでいると考えられるので、当然違法のような概念構成によっても理解できると考えられる。損害を生ずるような行為について違法なという場合と、Unfairな行為であるから損害を与えているし、それだけでは足りなくて また差し止められるべきであるという概念はコモンローの体系における不法行為法とequityにおける概念として差止が現行犯として認められるべきような不公平さを持っていることを述べているものと考えられる。

すなわちUnfairな行為と日本法の「著しい損害」という概念はほぼ同じものであり、また当然違法のような概念構成もほぼ同様の意味であると解することができる。Unfairな行為が生むものは公正競争阻害性という独占禁止法違反の状態であり、私訴において損害賠償請求が可能な状況であると同時に、かつ、衡平法equityにおける概念上も差止が可能な状況を言っていると考えられる。このように考えれば当然違法のような概念構成によっても、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文によっても、日本の著しい損害の概念によっても各国において同様の結論に到達することができるのである。著しい損害という概念は、「Unfairな」という概念とほぼ同様の意味に使われており、つまりは救済に値するすべての状態をいっており、それが差止による救済によるのか、損害賠償による救済によるのかを問わずすべてを含んでいるということになる。

当然違法のような概念構成によれば違法性は不法行為法によって取り扱われる違法性と、equityにおける概念により差止が現行犯として認められるべきであるという違法性との双方を含んだ概念であると考えられる。Unfairな行為という概念はほぼ当然違法のような概念構成と似ていることになる。

ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文では当然違法のような概念構成によれば判例法によって決定すべきconstitutes an objectively unjustified unequal treatment and would place the undertaking at an unfair competitive disadvantageという違法な行為の結果については事実審の問題として破棄差戻しを相当とするかどうかを最高裁判所が判断すべきことになるが、事実審においてすでに事業活動が困難になっていることを認定しているのであるから、最高裁判所において最高法規としての憲法を使用して破棄自判ができる事件であるとして上告するものである。

不公正なUnfair取引方法をさせるという独占禁止法第8条1項5号の要件については共同ボイコットをさせるという独占禁止法違反行為として事実審においてすでに審理されているが、不平等な取り扱いについての不平等という概念は憲法上の概念であり、いまだ事実審においては審理されていない憲法学上の判断である。

不平等な取り扱いについての不平等という概念は憲法上の概念であり、日本の場合にはドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文がないのであるから、憲法第14条によるべきであるということになる。

従って憲法判断が妥当であるということができる。

差止については、次のような考え方である。

Injunction差止

Concise Encyclopedia Article Page 1 of 1

簡単百科事典より

In civil proceedings, a court order compelling a party to do or to refrain from doing a specified act.民事訴訟においては、ある特定の行為を一方の当事者になすように強制する事、特定の行為をなすことを禁止する裁判所の命令。

It is an equitable remedy for harm for which no adequate remedy exists in law.

実定法に適切な救済策が存在しない危害に対する救済であり、衡平法の概念である。

Thus it is used to prevent a future harmful action

そういう理由から、将来の危害を与えるような行為を防止するために使用される。

(e.g., disclosing confidential information, instituting a national labour strike, or violating a group's civil rights)

そのような理由から(例を挙げると、極秘の情報を暴露され、国家規模の労働争議を企画され、あるいは、あるグループの市民の諸権利を侵されることによって)将来害を与えるおそれのある行為を排除するために差止は利用される。

rather than to compensate for an injury that has already occurred.

むしろ差止はすでに発生してしまった損害に対して補償をするためではない。

It also provides relief from harm for which an award of money damages is not a satisfactory solution.

また差止は金銭による損害賠償の認定によっては満足な解決法とはいえない場合の損害に対する救済策である。

A defendant who violates an injunction may be cited for contempt.

差止に違反した被告は裁判所侮辱罪によって出頭を命じられる。

See also equity.衡平法の概念をも参照の事。

in・junc・tion差止

Function: noun 品詞:名詞

Etymology:語源 Middle English 中世英語injunccion, from Middle French & Late Latin;中世フランス語及び後期ラテン語

Middle French injonction,from Late Latin injunction-, injunctio,

後期ラテン語のinjunction-, injunctioを語源とする中世フランス語injonction

from Latin injungere to enjoin -- more at ENJOIN

ラテン語のinjungereはenjoinの意味である・・ENJOINの項目も参照

1 : the act or an instance of enjoining : ORDER, ADMONITION

1、命令を発する行為、あるいは、命令を発した事例。命令、説諭。

2 : a writ granted by a court of equity whereby one is required to do or to refrain from doing a specified act

2、特定の行為をするように要求する衡平裁判所によって認められた令状。あるいは特定の行為をすることを禁止する衡平裁判所によって認められた令状。

Encyclopedia Article from Encarta

Encarta百科事典から項目

Injunction

差止

Injunction, generally, an order or decree in the law of equity, requiring a defendant to refrain from committing a specific act?either continuing or threatened?injurious to the plaintiff (the person who brought the case to court).

原告(裁判所に事件を提訴した者)に損害を与えている、現在も継続しているあるいはおそれがある特定の行為をすることを被告に禁止するように要求する衡平法上の命令あるいは法令を、一般的には差止という。

Injunctions are granted on the usual grounds for equitable actions, namely, that no adequate remedy exists in damages, and that the act complained of is causing, or will cause, irreparable damage to the plaintiff.

例えば損害賠償によっては適切な救済が行われ得ない理由とか、あるいは提訴されている行為が原告に回復不可能な損害を与え続けているか、与え続けるであろうという理由とかの一般的な理由付けによって衡平法上許される様々な行為のために差止は認められる。

Injunctions are generally preventive, restraining, or prohibitory in nature, but, on the same grounds, they may compel a defendant to undertake an affirmative act,

差止は、本質的には予防的であり、制限的であり、あるいは、禁止的である、しかしそれと同じ理由によって差止は積極的な行為を被告が行うように強制することができる。

for example, to destroy a wall that encroaches on the property of the plaintiff or to restore the course of a stream that has been diverted from the plaintiff's property.

それには例えば原告の所有物の上に進入している壁を取り壊させるとか、あるいは、原告の所有物から蛇行してきている川の流れを元の状態に戻させるような場合がある。

Such affirmative orders or decrees are called mandatory injunctions.

そのような積極的な命令あるいは法令を命令的差止という。

II Types 類型

Injunctions are temporary or permanent.

差止は一時的差止あるいは永久的差止である。

A permanent injunction is granted only after full hearing and adjudication of the case, and it is usually so phrased as to prohibit the defendant permanently from commission of the act complained of.

永久的差止は事件の完全な審理の後の判決としてだけ認められる。永久的差止は提訴されている行為の行使を永久的に被告が行わないように禁止するという文句が一般的には使用される。

When, however, the plaintiff's right is clear, a court may issue a temporary (interlocutory) injunction at the outset of the proceedings, to prevent the defendant from committing an act while the proceedings are pending. 法手続がペンディング中である間に、被告が行為をすることを妨害するために法手続の最初に一時的(短期の)差止を裁判所は執行することが可能である。

Such an injunction is granted if the plaintiff has an arguable case, and if, on balance, it would protect the plaintiff from more damage than it would cause the defendant. 原告の主張が議論できる事件である場合に、衡平の見地から、もし被告が原因となっていることによる多くの損害を原告が被る事を少しでも防止できる場合には、衡平の見地から、そのような差止は認められる。

III Uses

Because of the many instances in which it may be used to prevent or halt the commission of wrongs, the injunction has become perhaps the most important remedy of an equitable nature.

違反行為の行使を妨害し、止めさせるために多くの事例において差止は使用できる故に、差止はおそらく最も重要な衡平法上の救済制度であるといいうる。

Injunctions are employed, for example, to abate nuisances, prevent the violation of contracts, protect patent rights, and stay proceedings in a court of law.

例えば、不法な妨害を排除するために、契約の違反を予防するために、特許の権利を守るために、法廷において継続を停止させるようにして差止は利用される。

Failure to obey an injunction is a contempt of court, punishable by a fine, imprisonment, or both.

差止に従わないことは法定侮辱罪に該当し、罰金、ないしは禁固あるいは両罰によって罰せられる。

In recent years, considerable controversy has attended the use of injunctions in labour disputes.

最近、労働紛争において差止の利用に相当な論争が行われた。

In particular, in Britain injunctions will now be granted to prevent trade unions calling strikes unless they have first balloted their members.

イギリスにおいては現在では特に労働組合がストライキの指令を出す時にその構成メンバーによって投票にかけられていない場合にストライキの指令を出すのを防止するために認められる傾向にある。

In the 1980s several unions in the United Kingdom had their assets seized by the courts when they breached such injuctions.

1980年代にはイギリスにおいてはいくつかの労働組合がそのような差止に違反したので裁判所によってその資産を差し押さえられた。」

衡平の概念は日本においては衡平法とは関係なく使われている。日本には衡平法の概念がトート不法行為に対抗するものとしてはとらえられていないからである。

「ホテル側に故意又は重大な過失がある場合に、本件特則により、被上告人の損害賠償義務の範囲が制限されるとすることは、著しく衡平を害するものであって、当事者の通常の意思に合致しないというべきである。したがって、本件特則は、ホテル側に故意又は重大な過失がある場合には適用されないと解するのか相当である。

(事件番号:平成13年(受)第1061号 事件名 :損害賠償請求事件 裁判所 :最高裁判所第2小法廷 判決日 : 平成15年2月28日 (2003-02-28)) 」

とか、

「以上のような株主,会社及び先買権者の三者の利害得失を比較衡量するならば,指定請求を10日という考慮期間(承諾期間)が付与された株式売却の申込みに,売渡請求をこれに対する承諾に当たるものとみて,民法521条1項,524条の規定を類推適用して,抗告人による本件譲渡承認請求の撤回を許さないとした原審の判断は,衡平の観点からみて当を得たものであり,商法が詳細に定める譲渡手続を円滑に運用する見地からも相当である。事件番号:平成14年(許)第10号

事件名 :株式売買価格決定申請棄却決定に対する抗告審の取消決定に対する許可抗告事件 裁判所 :最高裁判所第1小法廷 判決日 : 平成15年2月27日 (2003-02-27)」

とか、衡平の意味を例えば「売渡請求をこれに対する承諾に当たるもの」として「譲渡承認請求の撤回」との間での衡平の観点から当を得たものとして認めている。すでに発せられた意思について当たると解釈して撤回との間での意思による契約の存在の有無を衡平の観点から論じているのである。一方公共の利益を公正競争阻害という自由競争の阻害要因を取り除く事によって回復させるという観点に立って、公の見地から本件事件においては衡平法の疑念は損害賠償請求が補う事が出来ない補償による救済を、差止や入会強制の命令的差止によって補おうという意味である。

命令的差止は継続的な観点から述べられているのであってこの点については古い判決であるが次のような判決がある。但しこれは差止の止めるという観念に重点を置いて述べている。命令が出来るかどうかについては新たな論点である。この点では服部育生教授の入会の強制が出来るかどうかについての判決は存在しない。

「住民訴訟によつて差止めうべき行為が訴提起の時にいまだ差止められ得べき段階にあることを要するということである。のみならず、たとい訴提起の時にいまだ差止められ得べき段階にあつたとしても、訴訟係属中に差止め訴訟の対象となつていた公金が支出されてしまい、差止めらるべき行為がもはや差止められ得ない状態に立至ったときは、その訴訟は結局は利益なきに帰するのである。本件事案は正にこの類に該当するものと私は考えるのである。

 本件において、原告たる上告人らの求めている判決、すなわち、その請求の趣旨は何んであるかと言うと、詮じつめれば「大阪府知事は昭和二九年六月三〇日大阪府議会の議決によつて成立した昭和二九年度追加予算中警察費(公安委員会費)九億五千九百七十三万五、九〇〇円の支出を差し止めよ、大阪府知事は、すでに支出した右金員につき原状に回復する措置を講ぜよ」という意味のものなのである。ところで、地方公共団体の予算はその会計年度内に実施され、その出納は翌年五月三一日を以て閉鎖されるを原則とする(地方自治法二四一条参照)。従つて右昭和二九年度の警察予算は遅くも翌三〇年五月三一日までに実施され、同日を以て一切の出納を了つたものと解さなければならない。然るに本件訴の提起の日は昭和二九年七月二八日であり、訴提起の時においては、いまだ支出されていない警察費の支出の差止めを請求する限りにおいて本件訴は適法なものであつたであろうが、本件控訴が大阪高等裁判所に係属中、前段説示のとおり昭和三〇年五月三一日に昭和二九年度予算はその会計年度を終つているのであるから、昭和二九年度の予算中警察費の支出の差止を請求する訴は利益なきに帰したものと言うの外はない。事件番号:昭和31年(オ)第61号

事件名 :地方自治法に基く警察予算支出禁止事件

裁判所 :最高裁判所

判決日 : 昭和37年3月7日 (1962-03-07)」

 指名競争入札等の機能と本件事件のような共同のボイコットについてはカルテルの一部ではなかったとしても、本件事件の共同のボイコットをするという合意については次のような判決と同様の事が言えるであろう。

「このような本件合意の目的、内容等に徴すると、本件合意は、競争によって受注会社、受注価格を決定するという指名競争入札等の機能を全く失わせるものである上、中小企業の事業活動の不利を補正するために本件当時の中小企業基本法、中小企業団体の組織に関する法律等により認められることのある諸方策とはかけ離れたものであることも明らかである。したがって、本件合意は、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する」という私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律の目的(同法一条参照)に実質的に反しないと認められる例外的なものには当たらず、同法二条六項の定める「公共の利益に反して」の要件に当たるとした原判断は、正当である。」(事件番号:平成10年(あ)第148号 事件名 :私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律違反被告事件[東京都水道メーター談合事件上告審決定]裁判所 :最高裁判所第2小法廷 判決日 : 平成12年9月25日 (2000-09-25))

更には本件事件においても判決として引用できるような最高裁判所の判決が最近出された。これはこれまで左翼系の信条に対する反感からの信条の差別のみではなくても、信条に対する差別は利用できるという事を示した画期的な判決であるという事が出来る。

「公立図書館の図書館職員が閲覧に供されている図書を著作者の思想や信条を理由とするなど不公正な取扱いによって廃棄することは、当該著作者が著作物によってその思想、意見等を公衆に伝達する利益を不当に損なうものといわなければならない」「公立図書館において、その著作物が閲覧に供されている著作者が有する上記利益は、法的保護に値する人格的利益であると解するのが相当であり」

最高裁判所第一小法廷判決 平成17年7月14日

この事件においては「著作物が閲覧に供されている著作者が有する上記利益は、法的保護に値する人格的利益であると解するのが相当」とされているのであって、酒匂悦郎事件でも自由競争のもとで自由に競争する利益とされている利益と同様のものである。

「昨日出されました船橋市立図書館蔵書廃棄事件最高裁判決ですが、今朝(7/14)の朝刊各紙にも掲載されていました。

・「蔵書廃棄 自由の番人でいる重さ(社説)」朝日3面

・「蔵書廃棄訴訟勝訴 原告「新しい権利」」朝日37面

・「図書独断廃棄 著作者の利益侵害 最高裁差し戻し 「つくる会」逆転勝訴」産経1面

(「図書館の公共性重視に意義(視点)」という赤堀記者による解説あり)

・「図書廃棄訴訟 多様な言論支える判決だ(主張)」産経2面)

「判例 平成17年07月14日 第一小法廷判決 平成16年(受)第930号 損害賠償請求事件

要旨:

 公立図書館の職員が閲覧に供されている図書の廃棄について不公正な取扱いをした行為が当該図書の著作者の人格的利益を侵害するものとして国家賠償法上違法となるとされた事例

内容:  件名 損害賠償請求事件 (最高裁判所 平成16年(受)第930号 平成17年07月14日 第一小法廷判決 破棄差戻し)

 原審 東京高等裁判所 (平成15年(ネ)第5110号)

主    文

       原判決のうち被上告人に関する部分を破棄する。

       前項の部分につき,本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理    由

 上告代理人内田智ほかの上告受理申立て理由について

 1 原審の確定した事実関係の概要等は,次のとおりである。

 (1) 上告人A会(以下「上告人A会」という。)は,平成9年1月30日開催の設立総会を経て設立された権利能力なき社団であり,「新しい歴史・公民教科書およびその他の教科書の作成を企画・提案し,それらを児童・生徒の手に渡すことを目的とする」団体である。その余の上告人らは,上告人A会の役員又は賛同者である(ただし,上告人Bは,上告人A会の理事であった第1審原告Cの訴訟承継人である。以下,「上告人ら」というときは,上告人Bを除き,第1審原告Cを含むことがある。)。

 (2) 被上告人は,船橋市図書館条例(昭和56年船橋市条例第22号)に基づき,船橋市中央図書館,船橋市東図書館,船橋市西図書館及び船橋市北図書館を設置し,その図書館資料の除籍基準として,船橋市図書館資料除籍基準(以下「本件除籍基準」という。)を定めていた。

 本件除籍基準には,「除籍対象資料」として,「(1) 蔵書点検の結果,所在が不明となったもので,3年経過してもなお不明のもの。(2) 貸出資料のうち督促等の努力にもかかわらず,3年以上回収不能のもの。(3) 利用者が汚損・破損・紛失した資料で弁償の対象となったもの。(4) 不可抗力の災害・事故により失われたもの。(5) 汚損・破損が著しく,補修が不可能なもの。(6) 内容が古くなり,資料的価値のなくなったもの。(7) 利用が低下し,今後も利用される見込みがなく,資料的価値のなくなったもの。(8) 新版・改訂版の出版により,代替が必要なもの。(9) 雑誌は,図書館の定めた保存年限を経過したものも除籍の対象とする。」と定められていた。

 (3) 平成13年8月10日から同月26日にかけて,当時船橋市西図書館に司書として勤務していた職員(以下「本件司書」という。)が,上告人A会やこれに賛同する者等及びその著書に対する否定的評価と反感から,その独断で,同図書館の蔵書のうち上告人らの執筆又は編集に係る書籍を含む合計107冊(この中には上告人A会の賛同者以外の著書も含まれている。)を,他の職員に指示して手元に集めた上,本件除籍基準に定められた「除籍対象資料」に該当しないにもかかわらず,コンピューターの蔵書リストから除籍する処理をして廃棄した(以下,これを「本件廃棄」という。)。

 本件廃棄に係る図書の編著者別の冊数は,第1審判決別紙2「関連図書蔵書・除籍数一覧表」のとおりであり,このうち上告人らの執筆又は編集に係る書籍の内訳は,第1審判決別紙1「除籍図書目録」(ただし,番号20,21,24,26を除く。)のとおりである。

 (4) 本件廃棄から約8か月後の平成14年4月12日付け産経新聞(全国版)において,平成13年8月ころ,船橋市西図書館に収蔵されていたDの著書44冊のうち43冊,Eの著書58冊のうち25冊が廃棄処分されていたなどと報道され,これをきっかけとして本件廃棄が発覚した。

 (5) 本件司書は,平成14年5月10日,船橋市教育委員会委員長にあてて,本件廃棄は自分がした旨の上申書を提出し,同委員会は,同月29日,本件司書に対し6か月間減給10分の1とする懲戒処分を行った。

 (6) 本件廃棄の対象となった図書のうち103冊は,同年7月4日までに本件司書を含む船橋市教育委員会生涯学習部の職員5名からの寄付という形で再び船橋市西図書館に収蔵された。残り4冊については,入手困難であったため,上記5名が,同一著者の執筆した書籍を代替図書として寄付し,同図書館に収蔵された。

 2 本件は,上告人らが,本件廃棄によって著作者としての人格的利益等を侵害されて精神的苦痛を受けた旨主張し,被上告人に対し,国家賠償法1条1項又は民法715条に基づき,慰謝料の支払を求めるものである。

 3 原審は,上記事実関係の下で,次のとおり判断し,上告人らの請求を棄却すべきものとした。

 著作者は,自らの著作物を図書館が購入することを法的に請求することができる地位にあるとは解されないし,その著作物が図書館に購入された場合でも,当該図書館に対し,これを閲覧に供する方法について,著作権又は著作者人格権等の侵害を伴う場合は格別,それ以外には,法律上何らかの具体的な請求ができる地位に立つまでの関係には至らないと解される。したがって,被上告人の図書館に収蔵され閲覧に供されている書籍の著作者は,被上告人に対し,その著作物が図書館に収蔵され閲覧に供されることにつき,何ら法的な権利利益を有するものではない。そうすると,本件廃棄によって上告人らの権利利益が侵害されたことを前提とする上告人らの主張は,採用することができない。

 4 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。

 (1) 図書館は,「図書,記録その他必要な資料を収集し,整理し,保存して,一般公衆の利用に供し,その教養,調査研究,レクリエーション等に資することを目的とする施設」であり(図書館法2条1項),「社会教育のための機関」であって(社会教育法9条1項),国及び地方公共団体が国民の文化的教養を高め得るような環境を醸成するための施設として位置付けられている(同法3条1項,教育基本法7条2項参照)。公立図書館は,この目的を達成するために地方公共団体が設置した公の施設である(図書館法2条2項,地方自治法244条,地方教育行政の組織及び運営に関する法律30条)。そして,図書館は,図書館奉仕(図書館サービス)のため,@図書館資料を収集して一般公衆の利用に供すること,A図書館資料の分類排列を適切にし,その目録を整備することなどに努めなければならないものとされ(図書館法3条),特に,公立図書館については,その設置及び運営上の望ましい基準が文部科学大臣によって定められ,教育委員会に提示するとともに一般公衆に対して示すものとされており(同法18条),平成13年7月18日に文部科学大臣によって告示された「公立図書館の設置及び運営上の望ましい基準」(文部科学省告示第132号)は,公立図書館の設置者に対し,同基準に基づき,図書館奉仕(図書館サービス)の実施に努めなければならないものとしている。同基準によれば,公立図書館は,図書館資料の収集,提供等につき,@住民の学習活動等を適切に援助するため,住民の高度化・多様化する要求に十分に配慮すること,A広く住民の利用に供するため,情報処理機能の向上を図り,有効かつ迅速なサービスを行うことができる体制を整えるよう努めること,B住民の要求に応えるため,新刊図書及び雑誌の迅速な確保並びに他の図書館との連携・協力により図書館の機能を十分発揮できる種類及び量の資料の整備に努めることなどとされている。

 公立図書館の上記のような役割,機能等に照らせば,公立図書館は,住民に対して思想,意見その他の種々の情報を含む図書館資料を提供してその教養を高めること等を目的とする公的な場ということができる。そして,公立図書館の図書館職員は,公立図書館が上記のような役割を果たせるように,独断的な評価や個人的な好みにとらわれることなく,公正に図書館資料を取り扱うべき職務上の義務を負うものというべきであり,閲覧に供されている図書について,独断的な評価や個人的な好みによってこれを廃棄することは,図書館職員としての基本的な職務上の義務に反するものといわなければならない。

 (2) 他方,公立図書館が,上記のとおり,住民に図書館資料を提供するための公的な場であるということは,そこで閲覧に供された図書の著作者にとって,その思想,意見等を公衆に伝達する公的な場でもあるということができる。したがって,公立図書館の図書館職員が閲覧に供されている図書を著作者の思想や信条を理由とするなど不公正な取扱いによって廃棄することは,当該著作者が著作物によってその思想,意見等を公衆に伝達する利益を不当に損なうものといわなければならない。そして,著作者の思想の自由,表現の自由が憲法により保障された基本的人権であることにもかんがみると,公立図書館において,その著作物が閲覧に供されている著作者が有する上記利益は,法的保護に値する人格的利益であると解するのが相当であり,公立図書館の図書館職員である公務員が,図書の廃棄について,基本的な職務上の義務に反し,著作者又は著作物に対する独断的な評価や個人的な好みによって不公正な取扱いをしたときは,当該図書の著作者の上記人格的利益を侵害するものとして国家賠償法上違法となるというべきである。

 (3) 前記事実関係によれば,本件廃棄は,公立図書館である船橋市西図書館の本件司書が,上告人A会やその賛同者等及びその著書に対する否定的評価と反感から行ったものというのであるから,上告人らは,本件廃棄により,上記人格的利益を違法に侵害されたものというべきである。

 5 したがって,これと異なる見解に立って,上告人らの被上告人に対する請求を棄却すべきものとした原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は,上記の趣旨をいうものとして理由があり,原判決のうち被上告人に関する部分は破棄を免れない。そして,本件については,更に審理を尽くさせる必要があるから,上記部分につき本件を原審に差し戻すこととする。

 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 横尾和子 裁判官 甲斐中辰夫 裁判官 泉 コ治 裁判官 島田仁郎 裁判官 才口千晴)」

上記判決は、「公立図書館である船橋市西図書館の本件司書が,上告人A会やその賛同者等及びその著書に対する否定的評価と反感から行ったもの」であるから、「公立図書館の図書館職員である公務員が,図書の廃棄について,基本的な職務上の義務に反し,著作者又は著作物に対する独断的な評価や個人的な好みによって不公正な取扱いをしたときは,当該図書の著作者の上記人格的利益を侵害するものとして国家賠償法上違法となるというべきである。」としている。

本件事件とは違っている点はやはり事業者団体の性格に帰する。公立図書館事件は国家の組織の一員に命令として憲法の公正さを要求している。ただし不公正な取り扱いをしたとしており、不平等な取り扱いとしていないのであるから、国家賠償法上の違法性があったと考えて認めた判決である。憲法上の平等な取り扱いを要請して憲法第14条に違反しているとはしていない。

本件事件においては不公正な不利益を与えていることは不法行為に当たるので損害賠償請求が認められる要因とはなるが、憲法第14条を使用しなければ「思想・信条の自由による不平等な差別」を禁止することができないのである。

私訴と公正取引委員会による排除措置との関連についてはボーデン事件最高裁判所判決に述べられている。私訴が個別企業の利益と自由競争を妨害される事により公共の利益が侵され続けているという事態を回避するという役割を担っている差止あるいは命令的差止を求めている。本件事件においては命令的に入会を強制する事により自由競争を回復させる事が出来るという効果を持つ点に特徴がある。私訴は司法であり、行政の動きと司法の役目は異なっている。行政には憲法問題を終局的に判断する権限はない。私訴はプライベート・アトーニー・ゼネラルが行う困難な公共の利益のために行われる行為であり、日本の独占禁止法に違反することが当然という世間の風潮からすれば、それによる信条の自由による差別の禁止や告発や、申告の禁止に対しては憲法の行使として憲法学上の判断が行われるべきであるということはこの事件の特色である。

この場合には営業の自由を侵すという行為についての判断である。「公務員が,図書の廃棄について,基本的な職務上の義務に反し,著作者又は著作物に対する独断的な評価や個人的な好みによって不公正な取扱いをしたときは,当該図書の著作者の上記人格的利益を侵害するものとして国家賠償法上違法となるというべきである。」この判決は独占禁止法においては次のように言い換えられる。「独占禁止法の規定により公的な正確を持つ事業者団体は、入会の審査について、独占禁止法の基本的な義務である公正競争阻害という違反行為をおかして、会員又は会員申し込み者に対する独断的な評価や個人的な好みによって不公正な取扱いをしたときは、当該会員又は当該入会申込者のこれまでの判決により認められてきた「自由競争の場において営業を行う権利」を侵害するものとして独占禁止法上違法となるというべきである。」この権利は「新しい権利」ではなく、法定されているが日本では完全に無視されているだけの権利であり、ただ酒匂悦郎事件とデジコン事件の二つの事件で認められているだけの権利である。ほとんどの不動産鑑定士は完全にこの権利は認めていない。自らも、会員の規定上も認められていない。

注、先に同様に示した通りに、デジコン電子(株)による損害賠償等請求事件判決は次の文言を使っている。

「自由な競争市場において製品を販売することができる利益を有しているのである。」としている。これによれば受忍限度の問題は出てこない。自由に営業する権利は天賦の営業権である。

信条による差別が憲法第14条の問題となった場合でも、不公正な取引に該当しない場合には損害賠償請求及び命令的差止の判決が出せない事になる。本件事件においては平等な取扱ではない場合と、不公正な不利益を与えているという二つのドイツ法における要件を充たしているが、もし信条による不平等な取扱のみが憲法違反であるとした場合に損害賠償請求が認められるか。これは図書館事件と同様に認められる事になる。「自由な競争市場において製品を販売することができる利益」が侵害されているからである。その場合にはどの程度に不公正な不利益を与えているかという問題は時間的に二次的な問題であるように思われる。ところが著しい損概論は損害は時間的に第一次の先に生ずる問題であると考えており、それは損害賠償請求が解決しうる損害も、差止が救済しうる損害も両方共に含んで考えているのである。ということは一般の場合には両方は憲法問題ではない事になる。本件事件の場合だけが憲法問題を含んでいるという事になる。従って一般の事件の場合には不平等の問題は配分上の正義としての平等が達成されていない不平等な状態にある事を指しており、これは憲法の問題ではなくて、独占禁止法の不平等概念で事足りることになる。ところが本件事件の場合には特殊的に憲法上の信条の自由を理由としたので、憲法上の問題が起ったのである。

例外的な事件であるのであるが、独占禁止法の問題でもあったのである。

信条による差別は独占禁止法上特殊な状況にある、つまりはノースウエスト判決にいう状況にある事業者団体に対してのみ要求されるのであって、憲法上適用可能であるのであって、その他の事業者団体においてはサロンのような団体であるので憲法上第14条の問題とするところとは本当にならないのであろうか。

信条によって差別するサロンではあるが、あるいは、信条によって差別する政党ではあるが、憲法上問題となる場合というのはどのような場合であろうか。これは政治学上の問題であるのでここでは取り上げない。極論すれば不法行為や犯罪となる場合であろう。が論の進め方は憲法学上とは違っている。ポズナーの法の経済学は法哲学上の議論ではあるが、政治学に近いと日本ではとらえられるであろう。例えば信条の自由を認めない事によって図書館の司書が蔵書を廃棄した場合には犯罪ではないが違法行為に該当し、国家賠償請求に要件になる。しかしこの場合民法上の私的な図書館の場合には不法行為の対象になるであろうか。それは不法である場合という事になる。独占禁止法の違反となる場合にはこれに該当するから、本件事件の場合には独占禁止法の違反になっていれば、差止の対象となっていない場合でも損害賠償請求ができるということになる。

損害のみが認められる場合があり得る事になる。

継続していない場合で、6カ月程度までは違法性を阻却しようという主張がなされた場合である。しかし本件事件の場合にはその主張が存在しない。

付随的主張として上告人側がその主張を行った場合にはどのような結論が得られるか。損害賠償請求のみが認定できる場合があるか。最高裁判所の判断として差止を判決の中に盛り込む必要があるか。

もしその主張をする場合には差止を認める必要はないが、共同ボイコットの違法性は認めなくてはならない、従って共同ボイコットは違法ではあるが差止を行う必要がある場合と、損害賠償請求が認められればそれによって救済が法によって(衡平法の概念によって)行われたと考えられる場合との二通りある事になる。

カナダへの共同の取引拒絶を認定したゼニス事件では「今後もしないように」という差止を認めている。しないようにという命令は現在の行為の差止ではあるが、おそれに対する差止でもある。AMA事件においては命令的差止も認めている。一般には共同のボイコットは差止を伴っている。日本の場合でさえもデジコン事件においては差止を考慮したという意味で「今は継続していない」という一文が加えられている。

すでに終わった共同ボイコットの場合には損害賠償請求のみが認められたデジコン事件の例があるということは、本件事件の場合には終結時点では差止が認められているべきであったが、最高裁判所において差止を行わない場合には差し戻した場合には事情判決を行う必要があるということになる。もし事情判決を行わないならば差し戻された高等裁判所においては差止は行う事が出来ずに、すでに終了した共同ボイコットであるとして損害賠償請求のみが認められる事になる。

これでは上告人は事業を最も拡大したい時期に拡大できない事になり、ビジネスの安定性・確実性を裁判所が損なっている事になるので、早急に判決を行うべきであろう。

またこのビジネスを不安定にしている責任は被上告人が全面的に負うべき事になる。しかしあまりにも長い裁判は平成10年4月11日の「茨城県の不動産鑑定士協会はすべて追い出すそうだ。」という伝聞からはじまって、それに対する会議、それに対する監禁、監禁に対する独占禁止法の違反としての不動産鑑定協会に対する綱紀委員会に対する提訴等の連続であった。今でも安い価格ではやるなという暗黙の強制が存在している。それから被上告人は7年以上も価格を安くするなと監禁強制しているのである。

すでに命令的差止は契機としては熟している。

注:すでに論じているところであるが、多くの弁護士が言った言葉について検討する。無効と差止の違いである。

これはこれまで法律上の間違いによる確信としてか言われてきた「差し止めなければ損害無し」という法律上の間違いによる確信とは異なっている。この法律上の間違いによる確信は色々な弁護士が述べていたのであるが、本当なのか疑問である。

疑問を解くのが本件事件の判決であるという事が出来るので放置しないでこの問題は解かれるべきである。継続的な行為が差止の対象であり、無効な行為は一回限りの行為である。監禁して合意を求めるのはカルテルの特徴であるが、監禁したが価格固定に失敗した暴行、監禁事件の一回限りの行為は無効を求めうる行為であるのか、差し止めできる行為であるのか。今東京移れば監禁して追い出す行為は成功したとする。その場合には継続していないので、損害のみが認められることになる。そうすると差止なければ損害無しという論理が崩れる事になる。

監禁・暴行・ぶっ殺すという言葉は合意を隠れて求める時の言葉である。これが表に漏れた時には大変なことになる。監禁については合意の下でカルテルが証明された時にはカルテルの行為に中に含まれるが、カルテルをするように要求する行為はカルテルには含まれず暴行罪や、監禁罪に該当する。

この事実は独占禁止法の問題であるが本当に独占禁止法の問題として取り上げられない場合があり得る。その場合には刑法犯という事になる。その差については最初から公正取引委員会に相談した時から葛西氏ほかの公正取引委員会の担当者が述べてきた事である。(注終わり)

独占禁止法上の当該不動産鑑定評価業界の法的状況

 国会答弁においては専任不動産鑑定士制度はただ不動産鑑定評価書の価値を担保するものであるとしている。けだし、物の価値にはマルクスの価値主義と、その他の使用価値主義など多くの経済価値論争があり、それらの鑑定評価を担保するものとしての専任不動産鑑定士制度であるという。

 もしそれが職業上の規制として薬局の距離規制のように他県の物件は取り扱えないという趣旨であれば憲法違反として訴えられる可能性がある。薬事法距離制限規定のようにより制限的ではない制限の代替可能性のないことはないのにそのような規制を行う事は憲法違反であると考える事が出来る。

 確かにそのような規制は被上告人士協会の幹部が割当が不平等な理由を正当化するのによい口実を与えるので制限は多い方が良いという事になるであろう。

 士協会の制度になったのは鑑定業法から、鑑定士法に変えようという法律改正の動きの前段階の組織変更であったのであり、自由競争の下では鑑定業法の下では不動産鑑定士協会とする事は意味がなかったのである。清水文雄は今回の協会会長選挙では不動産鑑定士法を不動産鑑定評価業法から法改正を行おうという主張で出馬した。が現会長はそれを法的に不可能であるとしていたと考えられる。上告人及び上告人会社は業法を独占禁止法によって本物にするように主張した。

 不動産鑑定評価基準を読めば地元に住んでいなければ鑑定評価が出来ないと考えられるところは全く存在しない。

 自由競争はいけないと述べており、自由競争の法学上の意味を研究していない林学科を卒業した渋谷正雄や、清水文雄にとって自由競争の蜘蛛の巣理論など意味のない世界であるようである。これは優秀とかそういう問題ではなく、価格には自信があるという事のみである。価格に集約するという事である。

 このような競争の状況においては国土交通省からの指導により専任不動産鑑定士制度が当初の国会答弁においては担保程度であったものが遂には不動産鑑定士法に等しい程度に価格固定を認める制度に運用されるならば、価格固定をやらされているのに等しくなるであろうと考えられ、競争主義を経済学的によりよく理解している経済学修士の西園哲治君や上告人の場合には、信条の故に競争から排除されて競争に参加して競争に勝てる場と機会という契機が存在しないので、食っていく事さえ出来ない事になる。西園君の場合には被上告人は組織が分裂分解するのを恐れて自由競争を割り当てたり、市場においての割当を行ったりするのであるが、外部の人間に対してはそれをも行わないのである。

 食えないというのは事業活動ができないという事である。

 自由競争が少ない事業分野においては自由競争主義であっても、食えないので、自由競争をやめるという念書に合意せざるを得ないのである。

 10年前から士協会に名前を変えだしたのは、10年前から固定資産税の評価が始まったので、その価格固定と配分体制を士協会が確立するためであった。

 これは価格体制が10年前から作ったことがいかに固定資産税の評価と関わっていたかという事を示している。

 これに対して酒匂悦郎事件でも出てくるように上告人は5万円の見積書を内容証明の郵便で出したのであって、これは神栖町の担当者が証言すれば一審判決の嘘がばれることである。

 士協会を作って本部から分離して、専任を強化する圧力をかけたり、自らも東京の業者が北海道に移ったりして行ったのである。国会答弁において行われた事を変えようとした。そういう場合は国会に働きかけて法律の修正を要求するのが正当な政治学上の行動である。独占禁止法違反の行為を行う事は妥当であるとは言えない。あるいは国土交通省に働きかけて自由競争から専任の強化を行うようにさせることは国家公務員に法に反する事をさせることであり、国会に対する働きかけが正当であるといいうる。自由競争が正当な業界の法的状況である。

 茨城県には東京から来るなとしたのが酒匂悦郎事件であり、本件事件の場合には甲号証拠のような価格固定の成功している埼玉県のような所に価格競争を信条とするような人物はくるなという意味である。

 士法への運動は自由競争を止めさせようという動きである。自由競争主義への反対である。自由競争主義に対する反抗や反対が事実として共同ボイコットになったのである。

 清水文雄と井坂雄は自由競争主義に対する反抗と反対を実行に移したのである。選挙活動を行ったのである。渋谷正雄も同様に主張している。清水文雄は自由競争主義は不動産鑑定業界をつぶすと考えているが、自由競争主義であっても不動産鑑定業界は繁栄するのであって潰れる事はないと考えられる。蜘蛛の巣理論によって価格は妥当なところに落ち着くし、分配は平等になる。但し本件事件の不動産鑑定業の業界の状況においては上告人は事業活動ができないという事であるのであって食えないのである。従って上告人は自由競争主義であってもよいと主張しているのである。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(18)

平成17年8月3日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

他の士業の真似と、価格固定の強要

価格固定しない方が報酬が安くなるが、総量としての需要は多くなるであろうというのが上告人の主張である。

被上告人は他の士業の真似を行おうとした事にたいしては批判を受けている。他の士業でも弁護士業界に習おうとしているグループが多い。弁護士業界を真似しようとしている。弁護士業界が先に襟を正すべきである。特に弁護士の割当についても法律相談による割当のみが行われており、各弁護士事務所では受任できない事になっている。丹宗昭信教授のように受任したら総スカンをくうようである。

弁護士会もそのようにしているではないかという理論だけでこの裁判は運営されている。

全国会会長は税理士でもあるので、自由競争に近く、税理士会事件も知っているので価格を固定しようという案には賛成していない。税理士業界も価格固定をしなくなっている。

土地家屋調査士会でもそのようになっている。但し最近になって価格固定が少なくなっている。建設業界に近い土地家屋調査士会にも属している渋谷正雄や清水文雄氏等は井坂雄とともにそのグループに所属している。

本件事件は一審で共同ボイコットの正当な理由なく違法である点を審理しなかった。これについては赤坂弁護士に騙された。

各国独占禁止法の相違

ドイツにおいては結果において不平等や不公正が存在する場合にグループボイコットを違法としているのに対して、アメリカにおいてはビジネスの指針となるように特定の市場の条件のもとにおいては当然違法であり、従ってドイツのように結果を見てみる必要はない、それがビジネスの指針となりかつ裁判の経済上も有効であると考えているのである。ある行動が違法であるかどうかについての判断が行動をする時点で分かるようにしている。従って指針となり、予防であることができる。

ドイツのように結果論で対応すればすでに結果が発生する程度にグループボイコットが行われた後にしか差止は可能ではなくなる。このことはドイツでも結果が出るまでは放置する傾向が強い事を示唆している。だが、アメリカの独占禁止法上の差止は先に市場条件が満たされていれば差止が仮処分によっても認められるようにしているのである。この点ではアメリカの指針を重視する政策態度は正しいといえる。

谷原修身教授によれば「日米構造協議問題・・・Eグループ・ボイコットや談合などの排他的取引慣行が横行しており、・・・・・Eは日本の経済社会に根付いた競争制限的な取引慣行であり、独禁法に直接的に関係する問題である。」(注:「現代独占禁止法要論(三訂版)」(谷原修身著、中央経済社、平成一〇年三月)七七−七八頁。)という指摘がある。

この要求に対する答えとしても本件事件は緊急性を要し、早急に判決が必要である。

グループボイコットについては事業者団体が入会拒否などを通じて行っていることが多く、ノースウェスト判決に出てくるような憲法上の判断がまだ日本では出されていないことから、差止が行われ得ず、これまでは無効確認で対応するしか法的手段がなかったので、従って法の執行機関である公正取引委員会がそれを制止できないことをいいことに事業者団体が違法を知りながら横行させているという認識がアメリカ側にあったと考えられる。アメリカ側はそのような日本の現状を憂えてのことであった。

カルテルとは違ってグループボイコットについては特に市場条件が必要である。これはグループボイコットが結果として不平等や、不公正さを引き起こさないことがありうるからである。グループボイコット自体は違法で、悪であるが、違法性が阻却される場合があるという様に解釈する方がこの事実は理解しやすい。

日本においては結果が出ていてもこれまでは理由さえ示せば、無効とはならないので、公正競争阻害のやり得ということになっていた。その上にビジネス上の指針もなかった。

確かに入会の問題は組織の規律の問題がありうる。ところがそれが理由の問題として無視すべき場合が多い。それが理由はどんなでも持ち出せるというポスナーの理論である。従って他の民事訴訟のような手段がないか考えよ、そうしないと公共の利益のために行ったことが無駄になるし、公共の利益を保護することができなくなるという訳である。

なのに日本ではそれを認めようとはしていない。

憲法問題について

「世界各地で民主化は進行し、自由権規約・社会権規約の二つの国際人権規約をはじめとする国際的な人権条約の批准は進んでいる。もはや本質的な変化は起こらない「歴史の終わり」(フクヤマ)に到達した考える人さえ生まれる。こうした中で、国際協調の新たな可能性の模索も始まり、国家や国際機関、市民社会の協働により地球的な問題を解決しようというグローバル・ガバナンスという考え方が論じられるようにもなっていく。」

法律および国家機構の決定は必ず憲法に合致しなければならない。

国家機構は人権のためにあるのであるという考え方もある。

「「フランス人権宣言(人および市民の諸権利の宣言)16条の「すべての権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、憲法を持つものではない」という表現に尽くされています。」この考え方は一部分では正しい。

しかし国家の統治行為は公共の利益のための部門もあるのであって、人権のためにのみあるのではない。次の議論を参照のこと。

「参議院憲法調査会会議録情報

第162回国会 参議院憲法調査会 第4号

平成十七年三月二日(水曜日)

○前川清成君 この調査の締めくくりに発言の機会を与えられましたので、各委員におかれては自明のことと承知しておりますし、私も各論に関して申し述べたい事項がございますが、議論の出発点と到達点を確認するために憲法の存在理由、すなわち何ゆえに憲法が制定されたのか、そして何ゆえに最高法規であるのかについて申し述べたいと思います。

 と申しますのも、過日の公聴会のように、憲法には権利ばかり列挙されていて義務が少な過ぎるとか、憲法は将来この国が進むべき方向を指し示すものとの発言に接するたびに、私は、私たちのこの国に法の支配を確立できるのは一体いつになるのだろうかと失望感さえ覚えるからです。

 まず冒頭、この調査会でも時折引き合いに出されます聖徳太子の十七条憲法は、今私たちが議論すべき対象である憲法とは似て非なるものであることを確認したいと思います。

 何ゆえ十七条憲法が憲法ではないのか。その答えは、フランス人権宣言十六条の、すべての権利の保障が確保されず権力の分立が定められていない社会は憲法を持つものではないという表現に尽くされています。すなわち憲法は、国家権力というリバイアサンを制限し、これによって国民の人権を保障するために、すなわち国家権力に対する制限規範として存在しています。国家権力に対する制限こそ憲法の存在理由ですから、憲法は決して政治の心構えや将来の目標を表現したものではありません。かかる意味での憲法は、十七条憲法などと区別するために近代憲法と呼ばれ、政治が近代憲法に基づいて行われることを立憲主義と呼んでいます。

第154回国会 憲法調査会 第5号

平成十四年四月二十四日(水曜日)

○参考人(戸松秀典君) 

・・・

ですから、国際的な影響というふうにいいましても、憲法より高い価値が日本国憲法秩序の中に入ってくるというよりも、日本国憲法の秩序内に取り込むにはどうしたらいいかという議論を経て、ピラミッド型の秩序の中に収めるようにしているという、こういうふうになっているというふうに見るべきじゃないかと。

 最高裁判所もそういうふうに判断しておりまして、人権規約違反とか、どうかという議論をする、そういう主張をするのもいいんだけれども、だけれども、日本の法秩序、憲法秩序の中に収まっているからあえて条約違反ということを言わなくても合憲、違憲の判断はできるという、こういうような態度を取っておりますので、私はそれでいいんじゃないか。諸外国も大体そういうふうになっているんじゃないかと。つまり、条約優位か憲法優位かなんという単純な議論じゃなくて、議論をしつつ秩序の中に取り込むという、こういうダイナミックな形成過程がなされていると、こう見ればいいんじゃないかと。

・ ・・

○野沢太三君 現在の日本の憲法に先立ついわゆる帝国憲法、明治憲法の人権条項というものがこれあるわけですが、これを見ると、十五か条にわたる、一通り、当時既に問題になっておりました自由民権運動等で要望のあったことは盛り込まれておるわけですね。いわゆる公職の平等、住居の不可侵、言論の自由、あるいは請願権、裁判の権利等々ございますが、これが法律上の留保、法律の範囲内で認められるという制約があったと思うわけです。それから、その上に天皇の非常大権というものがあり、統帥権というような問題が裏にあったということ、さらには人権保障制度の根本的ないわゆる思想というかそういったものがない。今の十三条にあるような考え方が当時はなかったという、そういったことが大きな問題点として指摘されて、結果的には軍部が台頭して治安維持法みたいなものができて人権が大変抑圧されたと、こういう結果になっておるわけです。

 また、ドイツの憲法、今、基本法になっていますが、その前にワイマール憲法というのが、当時としては大変な社会的人権、そういった面では進んだ憲法と言われながら、結果的にナチスの台頭を許して、ユダヤ人の虐待と、こういった問題を生んでしまった。

とすると、私どもはこの歴史の教訓を考えますと、やはり基本的人権といえども、それを支える国家の統治機構とかあるいは国民主権、そういった強い支えがないと人権の擁護も成り立たないのかなと、こういうイメージを持っておるわけでございます。

 その意味で、今後のこの基本的人権の更なる擁護拡大、これにはやはりそれに伴う国家の統治機構と、同時にこれを支える責任、義務、こういったものが国民に伴っていないと画餅に帰すという心配があろうかと思いますが、この辺の経過とそれから今後の我々の進むべき道について御意見ございましたら、よろしくお願いしたいと思いますが。

○参考人(戸松秀典君) 明治憲法のことを持ち出されましたけれども、明治憲法には基本的に人権規定の思想が、今御指摘のとおり法律の留保ということがありましたけれども、一応人権のカタログがあるじゃないかとおっしゃいましたけれども、根本的には平等原則に当たるものはございませんでした。ですから、国民が平等に扱われるという、そういう理念はなかったわけです。

 それからもう一つは、最大のものは、正に今おっしゃられました国家統治機構の仕組みの問題ですけれども、違憲な立法、違憲な国家行為に対して、国民が訴えてそれを是正する道がなかった。これを司法審査制と今、私呼んでいますけれども、現在の憲法八十一条の違憲立法審査権という言葉を使われるのが多いんですけれども、違憲の立法だけじゃなくて、違憲の国家行為すべてについて争う道ということで、違憲か合憲かどちらの結論でもいいんですけれども、一定の国家の機関で、これは裁判所ですけれども、裁判所で争って議論するという、こういう仕組みがなかったということであります。

 ですから、日本国憲法はその仕組みを備えておりますので、先ほど言いましたように、憲法訴訟、憲法裁判がなされる仕組みになっていますから、その点では新たに何かを付け加える、根本的に付け加えるということは必要ないんじゃないかと。ただ、違憲な立法を争うような機会をもう少し増やすような手続上の手だて、制度上の手だてが必要、これは更に立法で工夫するしかないというふうに思われます。そんなふうに考えております。

○野沢太三君 憲法と我々の日常生活、特に司法、行政、立法、我々立法府におるわけでございますが、絶えず憲法に適応するかどうかと、こういった問題を考えながら仕事をしているつもりではございますが、今、先生御指摘のように、憲法で決めてあっても、それを具体的に実行したり保障したりするそれぞれのレベルにおける機関が機能しないと意味がなくなると、こういった問題があろうかと思うんですが。」

憲法問題については人権条項と、国家機構の条文との関係はどのようなものであるか。

人権は基本的なものである。国家が人権を抑圧した歴史的経験から、人間は憲法によって人権の抑圧を阻止しようとした。しかしそれは憲法と憲法に似た人権の概念によって人権の抑圧を禁止するという国家機構を作るという方法によったのである。三権分立を考え出したし、違憲立法審査という手法を考え出した。憲法は人権を守るための国家機構の形成のための成文の法の形成であるといってよい。抑制と均衡は人権の抑圧からの自由のためであった。

ところが人権と国家機構の条文との関係はどのようなものであるか。

国家機構は人権保護以外のその他の部門も持っている。従ってその部門の統治の国家機構の命令服従関係の規則も持っている。この部門のみの見方からすれば命令服従関係がなければ命令的差止はできないことになる。

人権のためにも国家機構が存在し、国家機構は人権保護以外の分野における命令服従関係をも規定していると考えることができるならば、憲法は人権における命令服従関係を認めており、命令的差止を規定していると考えることができる。

本件事件では民事の問題である。民事の考え方を本件事件に持ち込もうというのではない。民事の問題は民事で解決せよ。民事と民事の関係や、民事と民事の間にある公共の利益については独占禁止法が取り扱い、独占禁止法違反行為は差止の対象となるという結論が法的に出されるべきである。

確かに各個別企業が持つ所有権は絶対である、しかし所有権と所有権の間にある関係については独占禁止法があり差止が許される。差止は公共の利益のために行われるのである。所有権が重視される一個の企業の単独の取引拒絶を当然違法とはしない。しかしノースウェスト判決に出てくるような憲法上の判断が可能な場合には共同の取引拒絶を当然違法とすることができるのである。

共同の取引拒絶を当然違法する時には各個別企業が持つ所有権の絶対性は共同であるが故に、所有権と所有権の間の公共的な部分を考慮しているのであるから当然違法等の概念が適用されることになるのである。これは所有権の絶対性とは異なった概念である。所有権の絶対性が否定され、それがなくなった部分である。

「立憲主義とは。人権を保障し、その保障のために権力を分立し、国家機構をその方向で整える考え方。」とされている。立憲主義は人権保障のみではなく、国家組織の形成や、財産権の保障や営業権の保障も行う。ただ信条の自由などの基本的な人権は最初に人権と国家機構の関係として保障されるべきである。

 三権の権力の関係については抑制と均衡の関係である。人権と国家機構の条文との関係は抑圧や謙抑であるというのが官僚機構の中の考え方であろうか。ひょっとしたら「その真意」とはここにあるであろうと推測したいというにとどめよう。下田理論は本質は謙抑であるとする。

 マーケットシェアーやらの考え方を入れなければ、国家機構の問題は任命と職務命令の関係であり、もし国家機構と国民の関係は国民を統治するという考え方であれば統治の関係である。

 すると統治が人権の目的であれば、人権は強制できることになる。一方抑圧が目的であれば人権は抑圧されることになる。

 そのどちらに本件事件は緊急性を要するのに落ち着くであろうか。

注:innjunctionと同義語であるとされているennjoinについては次のような動詞である。

en・join (past and past participle en・joined, present participle en・join・ing, 3rd person present singular en・joins)

transitive verb

1. command somebody: to command somebody to do something or behave in a particular way

were enjoined to be silent

2. impose something: to impose a condition or course of action on others

enjoined secrecy upon us

3. U.S. forbid something: to forbid or prohibit something forcefully

The terms of the contract enjoin the disclosure of trade secrets.

4. law forbid or command legally: to forbid or command somebody to do something by means of a legal injunction

en・join・ern

en・join・mentn

(注終わり)

クリーンハンドの原則によれば、被上告人は茨城における上告人らへの取引拒絶を理由としているが、独占禁止法違反行為であっても個別的な行為であれば処罰されないことを念頭に置いたものであり、何らクリーンハンドであるとは言えず、そのようなことを理由とすることはできない。それが三年続くことは相手は知っていた。これに対しては戒告の撤回を要求する事は可能であるし、上告人は被上告人を独占禁止法の違反で処分するように今でも要求している。

注:ある差止に関する論文では次のように説明している。

「(資料1) コモン・ロー(common law)

エクイティと対比される用法で、中世以来国王のcommon-law court(コモン・ロー裁判所)が発展させてきた法分野。ノルマン・コンクエストにより成立したノルマン王朝のもので、統治にあたっては古来のイングランドの慣習を尊重するという建て前をとりながら、王国全体に関する事柄については王国の一般的慣習を適用するものであるとして、漸次形成された。(1) 

(資料2) 衡平法(equity)

英米法の歴史的淵源のうちコモン・ローと並ぶ重要なもの。中世において国王裁判所が運用したコモン・ローでは救済が与えられないタイプの事件であっても、正義と衡平の見地からは当然自分に救済が与えられて然るべきであると考えた者は正義の源泉である国王にその旨の誓願を提出した。これらの誓願は国王の下で統治作用の全面に渡って作用していたcuria regisの重要メンバーであったLord Chancellor (大法官)に送付されるのが通常となり、更に後には直接大法官に提出されるようになった。このような誓願を受けた大法官は事件ごとに裁量で救済を与えていたが、そのような例が増加すると、人々の間に、ある事実関係があれば大法官ないしそのもとにあるChancery(大法官府)に行けば救済を得られるという期待が生じる。こうしてエクイティはコモン・ローと並ぶ一つの独立の法体系と見られるようになった。そして18世紀にはエクイティも コモン・ローと同じように先例を尊重して裁判するものであり、その技術性に於いてもコモン・ローと変わりないものになっていったとされる。エクイティの分野として発達したものとしては、trust(信託)、specific performance(特定履行)、injunction(差止命令)などがある。

イギリスでは長い間コモン・ローとエクイティは別々の裁判所で運用されてきた。アメリカでも一部の州はそのような制度をとっていた。また(裁判所がおなじときでも)手続法が異なっていた。しかし、イギリスでは1875年に、アメリカではニューヨーク州の1848年をはじめとして、「コモン・ローとエクイティの融合」(merger of law and eqity)が行われた結果、現在ではほとんどの法域で裁判所は一つに統一され、更に多くの法域では、手続も一本化されている。しかし、英米法が長年に渡って二つの流れで発展してきたことは、現行法にもその濃い影を落としている。テクニカル・タームがコモン・ローとエクイティで違ったため、日本語では一つの言葉でよいものに、それぞれ別の言葉が用いられていることもあり、さらにlegal interest(コモン・ロー上の財産権)、equitable interest(エクイティ上の財産権)、legal remedy (コモン・ロー上の救済手段)、 equitable remedy(エクイティ上の救済手段)等の表現を用いて法の準則が説明される事も少なくない。(2)

(注)

(1) 田中英夫「英米法辞典」東京大学出版社、1994年、165頁

(2) 同上、同書、302-303頁」

(注終わり)

日本の法体系の中に独占禁止法違反行為に対する不法行為法上の損害賠償請求以外に、差止を導入することの意義についてはAmicus Curiaeアミカス・キュリィ・法廷助言を大学教授か、経済法学会から得ることができれば、得たいと思っている。法廷助言の形式としては次のようなものが存在した。但しロビィイングととらえられたりするといけないので、提出を断念する事が大いにある。

「FSF's Brief Amicus Curiae, Eldred v. Ashcroft

エルドレッド対アシュクロフト事件へのFSFによる法廷助言者、裁判参加者

No. 01-618 IN THE Supreme Court of the United States

合衆国最高裁判所において01−618号事件

ERIC ELDRED, et al.,

Petitioners,

上告人 エリック・エルドレッドほか

v. 対

JOHN D. ASHCROFT, In his official capacity as Attorney General, Respondent.

被上告人 司法長官局ジョン・アシュクロフトおよび司法事務局

On Writ of Certiorari to the United States Court of Appeals for the District of Columbia Circuit

コロンビア地区巡回裁判所のための合衆国控訴裁判所への移送申立の令状を得るための

Brief  Amicus Curiae of the Free Software Foundation in Support of Petitioners

上告人を支援するための無料ソフト基金による簡易な法律助言

EBEN MOGLEN エベン・モグレン

Counsel of record 書記局

435 West 116th Street 西116番街435

New York, NY 10027 ニューヨーク

(212) 854-8382

Counsel for Amicus Curiae 法律助言委員会

Question Presented 与えられた質問

Did the Court of Appeals err in holding that, under the Copyright Clause, Congress may indefinitely extend the term of existing copyrights by seriatim adoption of nominally ``limited'' extensions?

控訴審において、現行著作権法の下で、名目的に「限定された」拡張に引き続いた期間に国会が適用を永久に拡張しているとした控訴審の判断は誤りであるのか。」

注:アメリカ連邦最高裁判所におけるAmicus Curiae

千葉大学法経学部助教授     金原 恭子 早稲田大学政治経済学部助教授  川岸 令和 社団法人自由人権協会会員弁護士 小町谷 育子

<目次>

定義

制度の沿革 

連邦最高裁判所規則 

地位・権能  

機能

弊害

弊害の防止

定義

Amicus Curiae(裁判所の友)とは、英米の裁判所において慣行上認められてきた制度であり、当事者(参加人を含む)以外の第三者が、事件の処理に有用な意見や資料を提出し裁判所を補助する制度である1 。

制度の沿革

Amicus Curiaeは、ローマの裁判制度にその起源を有し2、イギリス3そしてアメリカに継受されて発展をとげたといわれている。

連邦最高裁判所規則

  アメリカの裁判は、連邦と州の裁判制度の重層構造になっており、連邦4及び州のいずれにおいても、Amicus Curiaeが認められている5。このうち、Amicus Curiaeの意見書の提出が盛んであり、提出のための要件の厳格な6連邦最高裁判所のAmicus Curiaeを概観する。

当初、連邦最高裁判所は、当該事件に特別の関係もしくは利害があることを疎明しうるのみでAmicus Curiaeの申立てが許されるとしていたが、1939年にはじめて連邦最高裁判所規則に、Amicus Curiaeの意見書は事件の全当事者の同意があるときに提出できると規定され、Amicus Curiaeの意見書の提出が制限されることになった。その後、1949年に、当事者の同意がない場合の提出許可の手続が加えられ、数度の改正を経て7、現在、同裁判所規則37がAmicus Curiaeの意見書について以下のとおり規定している8。

当事者がまだ最高裁判所の注意を喚起していない関連事項について最高裁判所の注意を喚起するAmicus Curiae意見書は、最高裁判所に対する多いなる助力となる。この目的に貢献しないAmicus Curiae意見書は最高裁判所に負担をかけるものであり、その申立ては好意的に考慮されない。

(a)サーシオレーライCertiorariの令状の申立て、訴状提出許可の申立て、管轄についての陳述または特別令状の申立ての考慮前に提出されるAmicus Curiae意見書は、すべての当事者の書面による同意がある場合、または本規則2(b)に従い最高裁判所が提出を許可した場合には、提出が許される。意見書は、異議の意見書の提出もしくは却下または棄却の申立てをすることができる期間内に提出されなければならない。Amicus Curiae意見書は、同意が得られたかどうかを明示し、その表紙に支援する当事者を明記しなければならない。

(b)訴訟当事者が同意を拒んだ場合には、最高裁判所に対し、サーシオレーライの令状の申立て、訴状提出許可の申立て、管轄についての陳述または特別令状の申立ての考慮前に、Amicus Curiae意見書を提出する許可の申立てをすることができる。申立ては、規則33.1の要件に従い作成され、提出を求める意見書とともに1つの書類として、Amicus Curiae意見書の提出が許される期間内に提出されなければならず、同意を拒んだ当事者を明示し、申立人の利益の性質を説明しなければならない。当該申立ては好意的に考慮されない。

(a)最高裁判所に係属する事件において、口頭弁論に関するAmicus Curiae意見書は、全当事者の書面による同意のある場合または本規則3(b)に従い最高裁判所が提出を許可した場合には、提出を許される。意見書は、支持する当事者のための意見書提出期間内、または意見書がいずれの当事者も支持しない場合には上告人の上告趣意書提出期間内に提出されなければならない。Amicus Curiae意見書は同意が得られたかどうかを明示し、その表紙に支持する当事者名を明記するかまたは原判決是認・破棄のいずれかを提案しなければならない。最高裁判所書記官はAmicus Curiaeに対する答弁書若しくは、再審理の申立てを支持するまたは反対するAmicus Curiae意見書を記録に編綴しない。

(b)最高裁判所に口頭弁論のために係属する事件において、当事者が同意を拒んだ場合には、最高裁判所に対し、Amicus Curiae意見書の提出許可の申立てをすることができる。申立ては、規則33.1の要件に従い作成され、提出を求める意見書とともに1つの書類として、Amicus Curiae意見書の提出が許される期間内に提出されなければならず、同意を拒んだ当事者を明示し、申立人の利益の性質を説明しなければならない。

Amicus Curiaeの意見書の提出の許可の申立ては、訟務長官(Solicitor General)が合衆国のために意見書を提出した場合、法律上裁判所に出廷する権能を与えられている合衆国の機関がその正当な法律上の代表者によって意見書を提出した場合、州、準州、連邦領、占有地がその司法長官によって意見書を提出する場合、市、郡、町、これらと同様の主体がその正当な権限ある法務官吏によって意見書を提出する場合には、必要とされない。

本規則に従い提出された意見書または申立ては、規則29で必要とされる送達証明書を伴わなければならず、(意見書にはAmicus Curiaeの利益、議論の要旨、議論、及び結論が記載されていれば十分である、ということ以外の点については)規則21、24及び33.1の各関係規定に従わなければならない。提出許可の申立ては5ページを超えてはならない。申立ての送達を受けた当事者は、申立てに対し、同意を拒んだ理由を簡潔に記した異議を提出できる。異議は規則33.2に従い提出されなければならない。

規則37.4に列挙されたAmicus Curiaeを代表して提出された意見書を除き、本規則に従い提出された意見書は、当事者の代理人が意見書の全部または一部を作成したかどうかを記載しなければならず、Amicus Curiae以外で、意見書の準備または提出に対し金銭による寄付をした個人または団体、そのメンバー、あるいは代理人をすべて明らかにしなければならない。この開示は、意見書の最初のページの最初の脚注でなされなければならない。

このように、連邦最高裁判所規則は、Amicus Curiae意見書を提出するには訴訟当事者の同意が必要であり、同意が得られない場合には、裁判所に対し提出許可の申立てをする必要があるとしている。この許可は裁判所の全くの裁量に属するが、現在、連邦最高裁判所の運用は、Open Door Policyであり9、ほとんどの提出許可の申立てが認められている10。

地位・権能

Amicus Curiaeの法的地位は、裁判所に助力を与える地位であり、訴訟当事者ではない。すなわち、訴訟におけるAmicus Curiaeの意見書の通常の目的が、裁判所が見逃すかも知れない事実または事情を裁判所に知らせ、また裁判所が気づかず誤った解釈をする危険があると思われる法的事項を裁判所に示唆することにある11と解されているため、Amicus Curiaeの関与は権利ではなく特権にとどまっており、この特権は裁判所の裁量に依拠している。

そこで、Amicus Curiaeとしての関与を否定された場合でも、裁判所の判断に対し不服の申立てはできない。また、Amicus Curiaeは、意見書の提出によりその役割を終了し、書類の送達、書面の提出、手続上の申立て、証拠の提出、証人尋問、上訴のような訴訟当事者に認められている権利を行使できない。

機能

Amicus Curiaeは、裁判所の誤判を防止する機能を有していると指摘されている12。そもそも、当事者が自己の主張にたって相互に争うという当事者主義的訴訟構造によって正しい裁判が確保されるというのが英米の伝統的な考え方であるが、Amicus Curiaeの制度は、第三者が訴訟に関与する点で、この伝統的な考え方と逆行するものである。しかし、英米でAmicus Curiaeが認められたのは、より大きな公益を実現しうると考えられたからであり、その基底には2つの考慮が働いていたとされる12。

1つは、裁判の影響を受けるのは、直接にはその効力の及ぶ当事者であるが、実質的に考えた場合に、先例を形成することにより、将来の法に影響を及ぼし(判例法主義をとる場合、その考慮はいっそう大きい)、また紛争解決手段として裁判に訴える民衆の態度の基盤となる、裁判所に対する信頼感に影響し(このことは法への信頼の存否につながるであろう)、さらにもっと広く、裁判の内容によっては、政治的、社会的効果をもつ(違憲審査権を行使するときなどは、とくにそれが著しい)のであり、したがって当事者以外の者にとっても無関心でありえず、とくに誤った裁判によって影響を受けることを防止することは、それらの者の当然に望むところであるとする考え方である。

いま1つは、当事者が自己の利益をまもるために争うことが正しい裁判の実現のために有効であるという当事者主義のたてまえにもかかわらず、当事者の不注意、能力の不足14、ときには当事者間の馴合いによって、正しい裁判に必要な資料が出されないことがありうるのであり、その場合には、裁判所は職権により、あるいは申立てにより、第三者の意見や事実の陳述の助力をうることが必要になるという考慮である。

初期のAmicus Curiaeは、後者の裁判所への告知的機能に重点が置かれていたが、法令集、立法者の意思の資料となる議事録、判例集が整備され、刑事被告人に弁護人選任権が保障されるにしたがい、このようなAmicus Curiaeの告知的機能の必要性は減退していったとされる15。現在のAmicus Curiae意見書は前者の特に一定の社会的利益に対する裁判の結果の影響を明らかにする機能にその重点が移っている。すなわち、裁判の結果に直接又は間接に影響を受ける利益層が、裁判の持つ意味を社会状況のうちにとらえ、その重要性の指摘に立脚して、これらの裁判に影響する社会的、経済的効果を詳論し、裁判所の注目をひくためにAmicus Curiaeとして参与しようとする動きが顕著となってきている16。多くの人びとの利害にかかわる社会性を帯びている労働問題、人権問題、消費者問題、貧困問題等の分野のいわゆる公共訴訟17においては特にその傾向があるといえる。ここで、Amicus Curiaeとして参与しようとするものは集団的利益を代表する者となり、さらに特定の目的をもつ団体になっている。これらの団体は、労働団体や事業者団体などの職能団体と、アメリカ自由人権協会18、全米有色人種地位向上委員会19、アメリカ・ユダヤ人会議などの非職能的な公益を目的とする団体に大別することができる。

このような団体がAmicus Curiaeとして訴訟に積極的に関与した例として、表現の自由20、宗教の自由21、学校教育における人種差別の撤廃22、中絶の権利23、優遇措置(アファーマティブアクション)24、死ぬ権利25、ゲイの権利26などがあげられる27。

民間の団体のほかに、政府や行政機関が、私人間の訴訟において公的な利益に密接な関係のある事項が争われているとき、裁判所の判決のなかでその所管する法律の解釈を明確にするためにAmicus Curiae(いわゆるgovernment amicus)として訴訟に関与する場合がある28。ただし、このgovernment amicusを考えるうえで、日本の行政権の姿勢とアメリカの行政権の姿勢との間には大きな差異があることに注意が必要である。たとえば、アメリカ連邦政府の司法省には公民権部があり、国民の人権を守るために活動し、必要があれば「公共の利益」を代表して公民権訴訟に参加関与したり、場合によっては州や市などの公共団体を相手に人権侵害を理由に訴訟を提起するなどしており、「公共の利益」を代表することに行政が積極的に活動しているのである29。

弊害

Amicus Curiaeが、公正な助言者から特定の利益団体の主張者に変ってきたために、次のような弊害が指摘されるようになってきた30 31。

訴訟資料が膨大になり、裁判所の負担が増大する。

裁判官に対する圧力としての意味合いが強くなる。

裁判官がAmicus Curiaeの立場にとらわれると法と論理を軽視し具体的解決を誤る危険がある。

Amicus Curiaeのピケや大量の請願など行きすぎた行為が裁判所の正常な活動を困難にさせる。

Amicus Curiaeの意見書が単なるロビイングの一部であり感情の表明にすぎず有用でない場合も多い。

弊害の防止

上記の弊害の防止のために、連邦最高裁判所は規則を改正してきたといわれる32。1939年の改正で、Amicus Curiaeの意見書の提出は原則として当事者全員の同意が必要とし、Amicus Curiaeを訴訟に関与せしめるべきか否かの第一次的責任を当事者にゆだねている。また、1949年、1954年の改正では、当事者が同意しない場合のAmicus Curiaeの意見書の提出許可の申立ての規定を新設しながら、申立書を5頁に限定している。

これらの規定は裁判所の負担を軽減しようとして規定されたとされるが、このような規制が厳格すぎるとの反論もあるうえ33、当事者の同意が得られなかった場合の提出許可の申立てはほとんど許可されている現状からみて、上記の弊害を理由に裁判所がAmicus Curiaeの提出を制限していることはないと考えられる。実際、Amicus Curiaeの提出数は、1960年代後半から著しく増加しており34、その弊害を上回る有用性によって、Amicus Curiae意見書が最高裁判所の判断過程に大きな影響を与えていることは否定できない35 36 。

以上

Amicus Curiae(裁判所の友)制度導入の提言 声明・意見書の一覧 | ホームページ | 入会のご案内 pan_jouhou/nyuukai.html">入会のご案内

森川金寿「裁判所の友(アミカス・キュリアイ)」自由と正義1951年9月号33頁、34頁、森川金寿「裁判の民主的コントロール−アミカス・キュリィについて−」『裁判法の諸問題(上)兼子博士還暦記念』264頁、266頁(1969)、伊藤正己「Amicus Curiaeについて−その実際と評価−」『裁判と法(上)菊井先生献呈論集』129頁、132頁(1967)

小島武司『民事訴訟の新しい課題』65頁(1975)参照。ローマの顧問官(cousilium)は裁判所が任命する裁判所の官吏であり、裁判官が知らない事項について裁判官に助言を与える役割を担っていた。

同上65頁参照。イギリスにおいては、反逆罪や重罪で訴追された刑事被告人は弁護人の援助を受けることができなかった時代に、刑事被告人が法律の誤った適用によって不利益を受けないように裁判所の友の関与が許された。

連邦の裁判制度においては、連邦最高裁判所規則(Supreme Court Rules)37や連邦控訴裁判所規則(Federal Rules of Appellate Procedure)29は、Amicus Curiaeを規定しているが、連邦地方裁判所の連邦民事手続規則(Federal Rules of Civil Procedure)には、Amicus Curiaeについての規定がなく、裁判所の判断に委ねられている。

伊藤・前掲注(1)135頁は、連邦裁判所と州裁判所とがAmicus Curiaeについてかなり異なる態度を示しているとしている。

桜田勝義『「裁判所の友」について』法律時報39巻7号50頁、52頁(1967)は、裁判所の友を認めるための要件について、比較的要件の緩やかなペンシルバニア州最高裁判所型と要件の厳格な連邦最高裁判所型の2つの型があると指摘している。ペンシルバニア州の上訴手続きの規則は、当該訴訟に興味を有する人はだれでも、当事者でなくとも、裁判所の許可を得ずに、相手方の同意も要件とせず、Amicus Curiae意見書を提出することができるとしている。210 Pa. Code Rule 531. Participation by Amicus Curiae参照

1990年に37.1が、1997年に37.6が新たに設けられた。

規則の変遷についてはJoseph D. Kearney & Thomas W. Merrill, The Influence of Amicus Curiae Briefs on the Supreme Court, 148 U. Pa. L. Rev. 743,761-7, 775-9 (2000)参照

Lee Epstein, Interest Group Litigation During the Rehnquist Court Era, 9 J.L. & POL. 639, 650(1993) は、レーンキスト・コートは1990年にAmicus Curiaeの提出許可の申立てのあった115件のうちたった1件のみ許可しなかったことを報告している。

伊藤・前掲注(1)130頁には、最高裁判所は当事者の同意の拒否が不当と考える場合を除いて許可しないといわれているとの記述があるが、現在の運用ではほとんどが許可されている。

小島・前掲注(2)68頁.

伊藤・前掲注(1)143頁

同上143頁

小島・前掲注(2)72頁

伊藤・前掲注(1)143頁

同上146頁

廣瀬正幸「現代の米国特許訴訟における公正かつ公平な裁判のための第三者の役割−amicus curiaeとlegislative facts」『企業法学』5号292頁、294頁(1996)参照

http://www.aclu.org参照

http://www.naacp.org参照

Pacific Gas & Electric Co. v. Public Utilities Commission of California, 475 U.S. 1 (1986), Texas v. Johnson, 491 U.S. 397 (1989)など

Lemon v. Kurtzman, 403 U.S. 602 (1971), Lee v. Weisman, 505 U.S. 577 (1992)など

Brown v. Board of Education, 394 U.S. 294(1955)など

Roe v. Wade, 410 U.S. 113 (1973), Webster v. Reproductive Health Services, 492 U.S. 490(1989),Planned Parenthood of Southeastern Pennsylvania v. Casey, 505 U.S. 833 (1992)など

Regents of the University of California v. Bakke, 438 U.S. 265 (1978)など

Cruzan v. Director, Missouri Department of Health, 497 U.S. 261 (1990)など

Bowers v. Hardwick, 478 U.S. 186 (1986)など

Kearney & Merrill・前掲注(8)APPENDIXA参照

田中英夫・竹内昭夫『法の実現における私人の役割』103頁(1987)は、証券取引委員会が、Amicus Curiae意見書を提出し、ミューチャル・ファンドの株主による代表訴訟形式で損害賠償請求訴訟が法律的に可能であるとの解釈を示した例を紹介している。

小林秀之『新版・アメリカ民事訴訟法』334頁(1996)

小島・前掲注(2)76頁

連邦最高裁判所のジャクソン判事は、ある事件におけるAmicus Curiaeの意見書について消極的評価をしている。伊藤・前掲注(1)148頁参

伊藤・前掲注(1)149頁

連邦最高裁判所のブラック判事は、「本裁判所にくる事件の多くは、記録上の直接の当事者よりもはるかに多くの人びとに影響することがらを含んでいる。わたくしはAmicus Curiaeの意見書に対する規則を強めるよりは、それを緩和することによって、公の利益と裁判の運用にいっそう役立つことになるであろうと考える。」と主張し、Amicus Curiaeの価値を積極的に評価している。伊藤・前掲注(1)148頁−149頁参照

Kearney & Merrill・前掲注(8)766頁

Kearney & Merrill・前掲注(8)767頁注74は、最高裁判所の判断にAmicus Curiae意見書が影響を与えた例として、Miranda v. Arizona, 384 U.S. 436 (1966)の事件をあげている。桜田・前掲注(7)54頁もAmicus Curiaeの効果について述べている。

最近のAmicus Curiae意見書の内容については、http://law.cornel.eduを参照 ゥ書の内容については、http://law.cornel.eduを参照

注:FSF's Brief Amicus Curiae, Eldred v. Ashcroft

の内容の主要部分は次の通り。

Argument

The Framers Intended Copyright to Be a Statutory Monopoly Awarded to Works of Authorship For A Strictly Limited Time

The words ``for limited Times'' appear in the Copyright Clause, Article I, §8, cl. 8 as the result of long and bitter experience with the constitutional evil of state-awarded monopolies.

From the seventeenth century, the requirement of limitation in time was a basic constitutional mechanism for dealing with the potential for abuse of power inherent in the royal or statutory monopoly.

 The use by Queen Elizabeth of letters patent monopolizing certain trades as a means of raising money from bidders for monopoly profits gave rise to the case of Darcy v. Allen, (The Case of Monopolies), 11 Co. Rep. 84 (1603), in which a royal patent monopoly on the making and distribution of playing cards was held void.

Parliament followed in 1624 with the Statute of Monopolies, 21 Jac. I, c. 3, which declared that only Parliament might grant statutory monopolies, limited to new inventions, for a period not to exceed fourteen years.

See 4 William Blackstone, Commentaries on the Laws of England *159 (1769).

This constitutional limitation was evaded by Charles I during his period of despotic personal rule; the resulting royal monopolies formed a significant grievance in the years leading up to the English Civil War. See Cecily Violet Wedgwood, The King's Peace 156-62 (1955).

American colonists at odds with the government of Charles I perceived the evil of governmental monopolies; in the Massachusetts Bay Colony as early as 1641, the Colony's General Court decreed that ``there shall be no monopolies granted or allowed amongst us, but of such new inventions that are profitable to the country, and that for a short time.'' The Charter and General Laws of the Colony and Province of Massachusetts Bay 170 (Boston, 1814); see also George Lee Haskins, Law and Authority in Early Massachusetts 130 (1960).

When the Copyright Act of 1709, the famous ``Statute of Anne,'' was framed, the drafters insisted on a limited term far more stringent than authors, including John Locke, had proposed; they adopted the fourteen-year limit from the Statute of Monopolies. See Mark Rose, Authors and Owners: The Invention of Copyright 44-47 (1993). The term provided by the Statute of Anne, fourteen years with a renewal of fourteen years if the author survived the first term, was adopted by First Congress in the Copyright Act of 1790. See Copyright Act of 1709, 8 Anne, c. 19; Act of May 31, 1790, 1 Stat. 124-25.

The Framers of the Constitution unanimously accepted the idea of the limited term for copyrights in the drafting of Article I, without substantial discussion. See 2 Max Farrand, The Records of the Federal Convention of 1787, at 321-325, 505-510, 570, 595 (1937).[2] In doing so, as the subsequent employment in the Copyright Act of 1790 of the term of years from the Statute of Monopolies shows, the Framers and the First Congress acted in full awareness of the long history of attempts to control the harm done by statutory monopolies by limiting their term.

The constitutional importance of the ``limited Times'' restriction cannot be vitiated, as the Court of Appeals' reasoning would do, by affording Congress the opportunity to create perpetuities on the installment plan, any more than Congress can eliminate the constitutional requirement of originality. Feist Publications, Inc. v. Rural Telephone Service, Co., Inc., 499 U.S. 340, 346-347 (1991). The Court of Appeals erred fundamentally in its conclusion that there is ``nothing in text or in history that suggests that a term of years for a copyright is not a `limited Time' if it may later be extended for another `limited Time.'''

Eldred v. Reno, 239 F.3d 372, 379 (CADC 2001). In this regard, the CTEA should not be judged in isolation. The question is whether there is anything in text or history rendering constitutionally objectionable the eleven extensions of the monopoly term in the last forty years, resulting in a virtual cessation of enlargements to the public domain, capped by the statute before the Court, which postpones the reversion on every single existing copyright for decades.

(注終わり)

注:Darcy v. Allen事件も参考になる。

Darcy v. Allen

is frequently offered by reference to two events that occurred approximately 400 years ago: the common-law rejection of trade monopolies in the 1603 case of Darcy v. Allen , 5 and the passage of the Statute of Monopolies, 6 with its exception for invention patents, in 1624. 7 Many, including the Court itself, 8 have pointed out the ...

Evidence for the illegitimacy of the policies inherent in these expansions is frequently offered by reference to two events that occurred approximately 400 years ago:

the common-law rejection of trade monopolies in the 1603 case of Darcy v. Allen,5 and the passage of the Statute of Monopolies,6 with its exception for invention patents, in 1624.7 Many, including the Court itself,8 have pointed out the relationship between Darcy and the Statute of Monopolies on the one hand and the constitutional authority to grant exclusive rights on the other,9 and some have even argued that the English economic policy against trade monopolies exemplified by Darcy and the Statute of Monopolies is so fundamental that any attempt to grant broader exclusive trade privileges (by either Congress or the courts) is unconstitutional. 10 I have responded directly to such constitutional arguments elsewhere.11 Even ignoring constitutional claims, the pervasive sense in intellectual property law and scholarship is that these two events, or rather the rejection of state-sanctioned monopolies that they embody, define the legitimate scope of the governmentally sanctioned exclusive trading rights.12 This optimistic view of seventeenth-century English monopoly policy is not universal, particularly in fields outside of intellectual property.13 The less-sanguine view (of the Statute of Monopolies in particular) is that the events of the period were not so much the product of economic policymaking as they were the incidents of a conflict over financial (and therefore

98 See, e.g., Darcy, 77 Eng. Rep. at 1262-63; Davenant v. Hurdis (The Merchant Tailors’ Case),

72 Eng. Rep. 769 (K.B. 1599) (translation in Fox at 312) (argument of Moore).

99 Darcy, 77 Eng. Rep. at 1262.

100 See, e.g. Raynard v. Chase, 97 Eng. Rep. 155, 157 (K.B. 1756) (the Statute of Artificers

should be read restrictively because, among other reasons it is “in Restraint of natural Right; …

It is contrary to the general Right given by the Common Law of this Kingdom”) (opinion of

Mansfield, C.J.); Sandys, 10 St. Tr. at 523 (the right to manufacture “remain[s] within the most  liberty by the common law” compared to the right to conduct, inland or foreign trade, which are protected to declining degrees) (opinion of Jeffries, C.J.); Mayor of Winton v. Wilks, 92 Eng. Rep. 247, 248 (1705) (“every man at common law might use what trade he would without restraint”) (argument for defendant); The Case of the Tailors & Co. of Ipswich, 77 Eng. Rep. 1218, 1220 (K.B. 1614) (“without an Act of Parliament, none can be in any manner restrained from working a lawful trade”); Chamberlain of London's Case, 77 Eng. Rep. 150, 150 (K.B.1592) (argument of defendant).

19. See Robert P. Merges & Glenn H. Reynolds, The Proper Scope of the Patent and Copyright Power (Nov., 1998) (working paper on file with author). It has recently been argued that the report of one early case in this area may well have been distorted. See Jacob Corre, The Argument, Decision, And Reports of Darcy v. Allen, 45 E MORY L.J. 1261, 1266 (1996)

("[T]he opinion in Darcy v. Allen should not be viewed as a late-Tudor instance of the kind of explicit and concerted constitutional attack on the Crown that contributed so significantly to the Civil War forty years later.").

Darcy v. Allen and the Compromise of 1601

In 1602, Edward Darcy sued Thomas Allen in King’s Bench for infringement of a royal patent awarded to Darcy granting him the exclusive right to make, import, and sell playing cards in England. The court held in Darcy v. Allen that the royal grant to Darcy was void at common law. According to Coke’s report of the case, the court held that the monopoly granted for making and selling playing cards (which had formerly been widely available in England) was void under the common law as an abrogation of the right of all subjects to engage in a trade and as a harm to the public in the form of reduced employment and higher prices for playing cards. The royal 60 Assuming, of course, that others in the chain of production and distribution held no exclusive trade privileges of their own, else all the holders of exclusive trade privileges would divide the

economic rents between them. 61 Fred S. McChesney, Rent Extraction and Rent Creation in the Economic Theory of Regulation, 16 J. Legal Stud. 101 (1987). See also Harold Demsetz, Why Regulate Utilities, 9 J. L. Econ. 55, 65 (1968).

Monopoly, Mercantilism & Intellectual Property Working Draft 17 prerogative did not extend to the making of such grants.62 Darcy is a landmark case, although not for its impact on the common law. The case broke no new legal ground; the rule it applied had been widely established for some time. Nor did the Darcy signal the death of exclusive trade privileges or trade monopolies; common-law courts upheld those institutions for decades to follow.

Rather, Darcy’s significance is as evidence of an important political compromise between crown and parliament over the exercise of royal authority.

むしろ、ダーシー事件の意義は王の権威の行使に対する王と議会の間での重要な政治的妥協案の証拠としてである。(注:王は現在の行政権であり、議会は立法権であるが、現在に置き直せば司法も含む法の支配との抑制と均衡ととらえる事が出来る。従って議会の側が独占の主体であった王に対してその専制と独占に対して経済的にも政治的にも挑んだというように解釈できる。(注終わり))

From Parliament to the Common Law Courts 

The story of Darcy begins not in 1602, with Darcy’s commencement of the action against Allen, nor even in 1576, with Elizabeth’s grant of the playing-card monopoly.63

Rather, the course of events leading directly to Darcy begins in 1571 ? in the House of Commons.

It was on Saturday, April 7, 1571 that the subject of royal trade privileges was first raised in a way likely to gain notice by the Queen.

During a debate on the subsidy, Bell offered that,while a Subsidy was by every good Subject to be yielded unto; but for that the People were galled by two means, it would hardly be levied, namely, by Licences and the abuse of Promoters; for which, if remedy were provided, then the would the Subsidy be paid willingly; which he proved, for that by Licences a few only were enriched, and the multitude impoverished; and added, that if a burden should be laid on the back of the commons, and no redress

of the common evils, then there might happily ensue, that they

would lay down the burden in the midst of the way and turn to the

contrary of their Duty. 64

62 77 Eng. Rep. 1260, 1262-64 (K.B. 1603).

63 The monopoly was originally granted to Ralph Bowes and Thomas Bedinfield. After Bowes died, it was re- issued to Darcy. Davies at 399.

64 Simonds D’Ewes, A Compleat Journal of the Votes, Speeches and Debates, both of the House

of Lords and House of Commons Throughout the Whole Reign of Queen Elizabeth of Glorious

Memory 158 (Scholarly Resources 1974) (1693) [hereinafter D’Ewes, Elizabeth]. The

monopolies question had also been raised in 1567, but it was mentioned only briefly during the

Speaker’s speech and it occasioned neither debate in Parliament nor any real response from the

Queen. See D’Ewes, Elizabeth at 115-16 (House of Lords, Jan. 2, 1567); Hulme at 53.

Monopoly, Mercantilism & Intellectual Property

Working Draft 18

Others quickly jumped on the reform bandwagon, suggesting a host of abuses (ranging

from misuse of Crown funds by the treasurers to the practice of purveyance to the fees charged

by the Exchequer)65 that required redress, and a committee was formed to consider items of

reform. This is the first time in recorded memory that the subject of royal trade privileges was

expressly tied to that of the subsidy. Just how sensitive a topic Bell had raised became clear just

three days later, when Elizabeth responded to his suggestion by admonishing the Commons to

“spend little time in Motions, and to avoid long Speeches.”66

And so the matter rested for a quarter century. It was not until 1597 that monopolies per

se were raised again in Parliament. Depending on the source, monopolies were the subject either

of a draft bill that went nowhere or a committee that produced none,67 but they were at the very

least discussed in committee, with the result that the Commons voted to present a “Note” to the

Queen seeking “her Highness most gracious care and favour, in the repressing of sundry

inconveniences and abuses practiced by Monopolies and Patents of priviledge.”68 At the close of

Elizabeth’s ninth Parliament, the Speaker “shewed a Commandment imposed on him by the

House of Commons, which was touching Monopolies or Patents of Privilege, the which was a set

65 D’Ewes, Elizabeth at 158 (April 7, 1571). Bell’s questioning of the prerogative was, unlike the

other complaints raised that day, omitted from the Journal of the House of Commons.

66 1 H.C. Jour. 83; D’Ewes, Elizabeth at 159; (April 10, 1571). See generally Fox at 74; 4

William Holdsworth, A History of English Law 34 (3d. ed. 1945); Price at 20. Although the

rebuke was made generally, D’Ewes explains that it “grew out of somewhat spoken by Mr. Bell

the 7th day of this instant April, concerning Licenses granted by her Majesty, to do certain

matters contrary to the Statutes, wherein he seemed to (as was said) to speak against her

Prerogative … .” D’Ewes, Elizabeth at 159; see also 4 Parl. Hist at 154.

67 Compare Price at 20; 4 Parl. Hist. 416 (Nov. 8, 1597) (draft bill) and D’Ewes, Elizabeth at 554

(Nov. 9, 1597) (a motion “delivered yesterday” by Francis Moore) with Townshend at 103 (Nov.

9, 1597) (committee being chosen was postponed on Bacon’s request and no further mention of

the committee during that parliament).

68 D’Ewes, Elizabeth at 572 (Dec. 14, 1597) (report by Francis Moore of the committee’s

product with a vote to present it to the Queen).

Monopoly, Mercantilism & Intellectual Property

Working Draft 19

and penned Speech, made at a Committee.”69 This was a bold move, made doubly so by its

touching upon the Queen’s prerogative. It was unusual for substance to be included in the

speaker’s closing speech to the Queen (which customarily included the presentation of the “gift”

of the subsidy, thanks for the Queen’s pardon of free speech for the members, and a request for

personal pardon for anything he had done or failed to do), much less a suggestion that the

Commons had any business meddling in the Queen’s prerogative. But even more remarkable

(and likely indicative of what was going on outside of Parliament70) was Elizabeth’s response,

which was considerably more solicitous than it had been in 1571:

Touching the Monopolies, her Majesty hoped that her dutiful and

loving Subjects would not take away her Prerogative, which is the

chiefest Flower in her Garden, and the principal and head Pearl in

her Crown and Diadem; but that they will rather leave that to her

Disposition. And as her Majesty hath proceeded to Trial of them

already, so she promiseth to continue, that they shall all be

examined, to abide the Trial and true Touchstone of the Law. 71

Elizabeth’s response ? a suggestion that Parliament might have authority to restrain her

prerogative combined with a request that they indulge her ? was typical of her approach to

parliamentary relations. Both she and her father had pursued a policy of co-opting Parliament, a

policy that, by virtue of the unique circumstances facing the Tudor monarchs, heightened de jure

the Crown’s dependence on Parliament while at the same time producing de facto Crown

autocracy.72

Three years elapsed before the next parliament met, but that was long enough for the

Commons to figure out that Elizabeth’s 1598 promise was not being carried out. The Privy

Council and the Star Chamber continued to exercise jurisdiction over patent cases, even to the

69 4 Parl. Hist. 419 (Feb. 9, 1598).

70 On the depressed industrial conditions of the time, which placed pressure on the monopolies,

see 4 Holdsworth at 347.

71 4 Parl. Hist. 420 (Feb. 9, 1598).

注:Darcy v. Allen事件は著作権の問題ととらえる考え方と、独占禁止法の問題ととらえる(谷原修身著、前掲書は独占禁止法の見地からとらえて居る。)考え方がある。

白田の次の著作は著作権理論としてとらえる。

「アメリカ著作権理論の起源

-- アメリカにおけるイギリス法継受の一事例 --

白田 秀彰

1 イギリスにおけるコピーライト

1.1 書籍業者のコピーライト

イギリスにおけるコピーライトは、書籍出版を独占したギルドの内部的取り決めとして16世紀半ば頃から自然発生した。同ギルドは、1557年には法人化勅許を得て書籍業カンパニーとして改組される。ギルドが国家の公認を得たことを背景にして、ギルドの権利処理機構が公の制度と同様のものと考えられるようになった。この頃のコピーライトは、書誌学の用語では「書籍業者のコピーライト」と呼ばれている。国王大権あるいは営業独占を根拠として、出版業全体を私有財産として把握し、それを同業者間で割り振るための仕組であった。当然「著作者の権利」などはまったく考慮されていなかった。しかし、この書籍業者のコピーライトには、英米法系コピーライトの特徴であった (1) 登記を権利の発生要件とする考え方、(2)著作者本人ではなく、権利の保有者が保護されるとする考え方、(3)保護期間を7の倍数とする考え方が、がすでに組み込まれていた。

1.2 最初のコピーライト成文法

1710年に世界最初の成文コピーライト法が制定された。一般的には、この1710年法の歴史的意義は、初めて「著作者の権利」を明文で認めたことにあるとされる。しかしながら、その立法目的、立法過程を詳細に検討すると、実際にはそうでなかったことがわかる。1710年法は、書籍業カンパニーがふるっていた出版業における独占を廃止することを主たる目的としていた。この目的のために、(1) 移行期間すなわち21年間の猶予をおきながらコピーライトの独占を廃止すること、(2) 限定された期間すなわち14年間のみの排他的独占権を政策的に付与することがその内容となっていた。この1710年法に謳われた「著作者の権利」とは、こうした目的を達成するための大義名分として用いられたのにとどまる。このことは、次の三つの資料から判断できる。

まず、1710年法の立法過程において趣意文から削除された文言である。削除されたのは、著作者本人がコピーライトの保有者として第一の立場に立つべきことを強調した部分だった。この部分が書籍出版業界を支配していた独占的流通業者からの圧力で削除されたことが、議事録から伺える。

[手許資料 1709年法の制定過程において、趣意文から削除された文言 参照]

次に1710年法と1623年独占法の類似である。1623年独占法は、言うまでもなくエリザベス朝に横行した独占を禁止する目的で定められたものである。この法律では、無期限で与えられていた独占について21年間に限り法的保護を容認し、新規の発明特許についてのみ14年間の保護を与えるものとしている。これは、 1710年法の第1条と同じ構造である。

[手許資料 An Act concerning monopolies and dispensations with penall Lawes and the forfeyture thereof. 21 Jac.1, c.3 (1623). 及び A Bill for the Encouragement of Learning by Vesting the Copies of Printed Books in the Authors or Purchasers of Such Copies during the Time therein mentioned. 8 Anne, c.19. (1710). 参照]

最後に、1710年法制定前後の知識人の主張である。 1710年法制定以前にコピーライト独占の法的根拠となっていた検閲制度は1695年に廃止された。この検閲法の廃止に尽力したのがジョン・ロックである。彼は書籍業カンパニーの出版業の独占が学問に及ぼしている悪影響について批判した文書を貴族院議員に送るなどしている。

1.3 イギリスのコピーライト理論の確立

1710年法は独占を廃止する事を目的としていた。しかし、独占的書籍業者たちは、判例を作り出すことで、1710年法の保護期間を永久のものにしようと画策した。そうした一連の動きは、1710年法による出版物の全面的な保護が満了し始めた、 1730 年代以降頻発する裁判によってうかがうことができる。彼らは、馴合訴訟を演出してまでコピーライトの保護を永久のものにしようとしていた。

こうしたコピーライトを永久の権利として確立しようとする動きは、 1769年のミラー対テイラー事件で頂点に達した。こうして1769年から1774年までの5年間、イギリスではコピーライトはコモン・ローに基づく永久の権利であるとされた。

[手許資料 Millar v. Taylor, (1769) 4 Burr. 2303, 98 Eng. Rep. 201. 参照]

この裁判に大きく貢献したのが、ブラックストンとマンスフィールド卿なのである。このころ、1767年に、ブラックストンは『イギリス法釈義』を出版し、そのなかで法律書として最初にコピーライトについて解説した。当然、彼はコピーライトをロック流の自然権に由来するコモン・ロー上の権利であると読めるように説明していた。彼は1774年にミラー事件判決が覆されるとその記述を改めた。コモン・ロー上のコピーライトと制定法上のコピーライトの区別をより明確にしたのである。しかし、その区別はやはり技巧的でわかりにくいものだった。

[手許資料 Sir W. Blackstone, Commentaries on the Laws of England, 4th Ed. 1771 参照]

結果的に、こうした書籍業者たちの企みは、 1774年のドナルドソン対ベケット事件貴族院判決によって覆されることになる。そして、この判例が19世紀の英米法系コピーライトの基本構造を確定することになる。このドナルドソン事件判決で確立した19世紀までのイギリス著作権法の構造は次のようになった。

[手許資料 Donaldson v. Becket and Others (1774), 4 Burr. 2408, 98 Eng. Rep. 257. 参照]

ただ、この一連の裁判の過程で、コピーライト制度の原理がロック流の労働所有権説にあるということが、繰り返し主張された。このため、この考え方は、一定の社会的認知を得るようになった。

2 アメリカにおけるコピーライト

2.1 1770年頃までの概観

1672年にマサチューセッツ植民地において、最初のコピーライト保護法らしいものが制定された。しかし、それ以降1780年前後にいたるまで、アメリカではコピーライト法らしいものが作られた記録はない。 (1)1780年代以前においても、アメリカ人著作者の本は出版されていたが、ごく少数にかぎられ、ほとんどの書籍がイギリス人著作者のものであったこと (2) 当時のアメリカでは著作者が、編集者や出版者も兼ねており、出版社の間で「礼儀上のコピーライト」「相互の義務の感覚」と呼ばれた同業者間の不文律によって、海賊版出版の問題が回避されていたこと、(3) 地理的疎遠や地域間の出版社の経営基盤の対立を理由として、コピーライトに関する紛争が生じなかったこと、がコピーライト法が必要とされなかった理由と考えられる。

2.2 独立後のアメリカのコピーライト

独立戦争前後になると、アメリカはイギリスの文化的支配のもとからしだいに脱するようになった。そうした中で産業としての出版業もしだいに独立したものとなった。そこでアメリカに特徴的に生じた問題が、著作者本人の保護である。出版社は、相互に礼儀上のコピーライトで保護されていたが、著作者本人を保護する仕組みが全く欠けていた。このため、著作者は出版社よって貪られる結果となった。そこで幾人かの意識の高い著作者が自らの権利を保護するように、当時の政府に訴えるようになった。

[手許資料 Thomas Paine, Letter to the Abbe Raynal. 及び Noah Webster, Letter to the Hon. John Canfield. 及び Joel Barlow, Letter to the Hon. Elias Boudinot.参照]

この文脈におけるコピーライトは「著作者の権利」と同一のものとして理解された。伝統的かつ厳密な用語法にしたがうならば、彼らは「著作者の権利」を要求すべきであった。出版社のための権利であった「コピーライト」による保護を要求するべきではなかったのである。

ここで強調しておきたいことは、こうしたコピーライト保護を要求した人物たちや、その法律の成立に影響を与えうる立場にあった人々は、 1774年のドナルドソン事件貴族院判決に触れることができなかった。 1773年のボストン茶会事件以降、米英間の国交が回復する1783年までの間は、アメリカにとって動乱の時代である。この当時、コピーライトに関する判例の転換がアメリカには伝わっていなかったことが、資料等から推測できる。独立戦争を遂行している為政者たちにとって、コピーライトに関する判例の転換は、ごく些末な問題として把握されたことも考えられる。加えてこのころ、ドナルドソン事件判決以降の訂正が加えられていない1771年版の『イギリス法釈義』がアメリカで海賊出版されていた。そして、その1771年版の『イギリス法釈義』は法律家のための第一の教科書としてアメリカでベストセラーだったのである。

[手許資料 Sir W. Blackstone, Commentaries on the Laws of England, 4th Ed. 1771. 参照]

コピーライトという概念に馴染みの薄かったアメリカ人著作者たちが、ロック流の自然権の発想から、コモン・ロー・コピーライトの存在を観念し、それがそのまま制定法によって保護されているのだと理解したとしても無理はない。

こうして、1780年前後のアメリカでは、コピーライトの理論あるいは理念が、自然権思想に支配されていたと考えてもよいのである。しかし、立法者たちが実際にコピーライトを法文として構成するときには、イギリスとまったくような産業法として立法した。その路線を確定したのが、詩人ジョエル・バーロウの請願を受けてなされた 1783年5月2日の連合会議勧告である。

[手許資料 1783年5月2日の連合会議勧告 参照]

この勧告を受けて諸邦はぞくぞくとコピーライト法を制定するようになる。表は、制定年月日順にならべたもので、大雑把ではあるが、内容を整理したものである。

[手許資料 1783年1月から1786年4月までに制定された各邦コピーライト邦の内容一覧 参照]

注意していただきたいのは、メリーランド邦までの立法は、上記の連合会議勧告以前に制定されていることである。中でも、最初にコピーライトを「財産権」である、と規定したマサチューセッツ邦は、当時の出版業の中心地として特別な地位にあった。そして、このマサチューセッツ型の理念を受け継いだのが、マサチューセッツに近接する、ニューハンプシャーと、ロードアイランドであった。図では灰色で塗られている地域である。これらの地域では、宗教上の理由からイギリス法からの離反傾向が強かったとされているが、これがコピーライト法の内容にも現れている。

いくらかの論者によって、この時期のコピーライト法について「自然権思想に基づいた」理念が現れていると主張されたりもする。しかし実際には、権利の性質を自然権思想にもとめたのは上記3邦にとどまり、残りの諸邦はイギリスの制定法の内容をそのまま受け継いだのである。それらは、コピーライトを学問の振興のためにとくに許される独占的権利あるいは排他的権利と把握していた。

ただし、それらの邦のコピーライト法がイギリス1710年法の引き写しかというとそうではない。その法文を見る限り、サウスカロライナ邦を除き、立法者たちが 1710年法に直接依拠した形跡はほとんど見られない。最初に立法したコネチカットは、おそらく1710年法の内容を参考にしながら独自に立法したものと思われる。その内容が1783年の連合会議勧告へ影響し、このコネチカット法に依拠して他の邦が立法したと考えられる。地図で黒く塗りつぶされている地域がこのコネチカット型の邦である。

イギリスのコピーライト法は、その複雑な歴史的背景を受けて、複雑な構造を取っていた。しかし、本国を遠く離れ、また出版業が未発達なアメリカにおいては、そうしたイギリス型理論の複雑さを受け継がなかった。その代わりに理論的に単純な「自然権思想」をその根本理念に据えたのである。しかし、法律の実質的内容としてはイギリス型の仕組みをそのまま受け入れた。こうして、アメリカのコピーライト制度には、法理論としては「自然権理論」に依拠することが可能である一方、実際の運用においては「産業政策法」として機能するという、二重の構造が導入されることになったのである。

このことは、(1)合衆国憲法にいわゆる「知的財産権条項」を導入するにいたるまでに交わされた憲法制定会議での議論や、(2) アメリカ最初の著作権法である1790年コピーライト法の立法過程での議論、(3) そして、 1830年頃に展開されていた ケントやストウリの学説をみることで理解することができる。

「知的財産権条項」を導いた提案には二つあったとされている。一つはピンクニー案、もう一つはマディソン案である。ピンクニー案については論争があるところなので置くとことする。しかし「明確に限定された期間の排他的権利を保護する」としているところに注意されたい。ここでは、より大きな影響を与えたマディソン案を検討する。

[手許資料 憲法制定会議に提出された二つの案 参照]

マディソンは、合衆国憲法の知的財産権条項の父ともいわれている。このマディソンがコピーライトの性質についてどのように考えていたのかを示す資料として、しばしば『ザ・フェデラリスト』が挙げられる。

[手許資料 The Federalist No.43 参照]

『ザ・フェデラリスト』では、マディソンはコピーライトを自然権として把握しているように読める。しかしながら、ほぼ同時期にマディソンがジェファーソンに送った書簡の内容や、彼の死後刊行されたエッセイをみると疑問がでてくる。それらに見られるマディソンの独占に対する考え方から判断すれば、彼が伝統的なイギリスの「コピーライト」の考え方に依拠している事がわかる。すなわち、「限定された期間のみ容認される独占」としてコピーライトを把握していたことがあらわれている。

[手許資料 Madison, Letter to Hon. Jefferson, Oct. 17th 1788. 及び Madison, Essay. 参照]

マディソンが、コピーライトやパテントが必要不可欠かつやむを得ない独占であるということを明確に理解していながら、一般向けに書かれた『ザ・フェデラリスト』においては、「自然権思想」からの説明をしているのはなぜだろうか。一定の種類の独占の必要性を国民に訴えるよりも、その独占が自然権によって当然に認められる権利であると主張した方が、反独占的、反イギリス法的な国民一般にたやすく受け入れられるだろうことを考慮したのだろう。この時期のアメリカ国民が、貴族的・特権的内容の法を排除してコモン・ローを継受しようとしていたということはよく知られている。

為政者たちは、コピーライトの本質を「政策的に必要かつ容認されうる独占」であると把握していた。そして、そうした理念に適合的なイギリスのコピーライト法を参考にしつつも、よりアメリカの国情に適合するように改変を加えた。それがアメリカ合衆国最初のコピーライト法である1790年コピーライト法である。

[手許資料 A Bill for the encouragement of learning, by securing the copies of maps, books and other writings, to the authors and proprietors of such copies during the times therein mentioned, 1 Stat. 124. 参照]

この法律を一読して気がつくのが、権利の発生要件の厳しさである。初期の頃のコピーライト訴訟では、権利を主張するものが、制定法に記された要件を遵守していたかどうかがまず問題となった。実際の運用では、法に記されている権利の発生要件を完全に遵守することはなかなか困難であったようである。すなわち、この時期のコピーライト法は、権利を強く求める権利者が、相応の努力をしなければ保護を受けられないように立法されていた、と考える方が適切である。

その一方で、学説はどのような態度を取っていたのだろうか。初期アメリカ法に強い影響を与えたケントとストウリの説を検討する。

[手許資料 Kent, Commentaries on American Law (12th & 14th ed. 1873, 1896). 及び Story, Commentaries on the Constitution of the United States, (5th ed. 1891). 参照]

それらのいずれも、コピーライトの本質を、自然権もしくはそれと同じものであると考えられていたコモン・ロー上の権利として説明している。とくにケントは制定法上の保護を不満とし、コモン・ロー・コピーライトの理論を強調しながら、コピーライトをより強く保護しようと努めている。このため彼は、ミラー事件判決を強く支持し、ドナルドソン事件貴族院判決を事実上無視してしまっている。これが、アメリカの法律家の間でミラー事件が好まれ、ドナルドソン事件があまり言及されない伝統を作ったものと思われる。ストウリの説明は、あまりに簡略にすぎてコピーライトとパテントの間の法としての性質の違いが捨象されてしまっている。これは、合衆国憲法において、発明特許とコピーライトが同じ一文で説明されていることに影響されたのかもしれない。

このように見ると、アメリカのコピーライトの考え方は、法文と実務そして学説の間で二つに分裂しているように見える。すなわち、制定法ではイギリス法の理念を受け継ぎ、保護の拡張に消極的な態度が見られる。反対に、実務家や学者の間では、ブラックストンが説明したように、ロック流の自然権から導かれるコモン・ローコピーライトが存在し、制定法はこのコモン・ロー・コピーライトの保護を明文化しただけのものであるという考えが主流であったようである。

それでは判例における19世紀アメリカのコピーライト法は、どのようなものであったのだろうか。最初の連邦最高裁判決が1836年のウィートン対ピーターズ事件である。

[手許資料 Wheaton v. Peters (33 U.S. 591, 1836). 参照]

結論から言えば、連邦最高裁判所は制定法の文言を厳密に解釈し、コモン・ロー・コピーライトの存在を否定した。こうした制定法の文言に忠実であり消極的な最高裁判所は、 19世紀を通じての傾向であったようである。それがこの判決にも現れていると見ることもできるだろう。しかしながら、多数意見の最初の部分で示されている考え方は、コモン・ロー・コピーライトと制定法上の排他的独占権を分離したものである。このことからこの判例が、伝統的なイギリス型の理論に依拠していることが読み取れる。こうして、このウィートン事件はアメリカにおけるコピーライト判例法の基礎を確定した。この判例は、 1900年初頭に部分的に変更されるまで19世紀を一貫した裁判所の態度だったのである。

3 二つの理論

こうして、アメリカのコピーライト理論について考えるとき、二つの異なった基盤に立って解釈し、説明することが可能になった。

一つは歴史研究から、あるいは制定法の条文を厳格に解釈することから生じる態度である。彼らはコピーライトによる保護は、創作活動にインセンティブを与えるだけの最小限に止めるべきで、過剰なコピーライトの保護は、後進の著作者の創作活動を萎縮させ、学術の振興、言論の自由に悪影響をもたらすと考えている。こうしたコピーライトの保護の拡張に消極的な理論を「規制理論」と呼ぶ。

もう一つは19世紀に欧州型理論の影響を受けながら、学説を中心に形成された態度である。彼らは、コピーライトによる保護は、自然権から直接に導くことができる著作者の権利をそのまま保護したものであり、その権利を拡張することは基本的に著作者の利益に合致し、創作活動を奨励すると考える。そしてそれゆえ、コピーライトは他の法的価値に従属すべきでなく、少なくとも対等の価値を認められるべきと考えている。こうしたコピーライトの保護の拡張に積極的な理論を「財産権理論」と呼ぶ。

現在進行中の社会の情報化や著作物のデジタル化という事態を背景に、 1976年法改正以降のアメリカは、制定法においても「財産権理論」を採用しているようにみえる。そして積極的な知的財産権の保護強化を推進している。しかし、我が国ではあまり紹介されていないが、アメリカ国内にもこの知的財産権保護の積極策に対して疑問を投げかけ、利用者の利益も考慮にいれた知的財産権政策を唱えている論者が存在する。

我が国でも、私権を中心に構成する所有権的著作権理論が主流のようであるが、公益を中心に構成する規制理論についても同程度の目配りする必要があることをこの歴史研究から訴えたい。

Note

これは、1998年6月6日に同志社大学で催された 比較法学会 第61回総会 英米法部会報告で使用した草稿を整理したものです。同様の内容のものを同学会の学会誌「比較法研究」に掲載することになっていますが、同誌は字数が制限(200字詰め原稿用紙30枚以内)されていて資料などを掲げることができなかったので、できるだけ当日の報告内容に近いものとして新たに編集し直したものです。かならず「手許資料」と一組にして読んでください。

白田 秀彰 (Shirata Hideaki)

法政大学 社会学部 助教授

(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)

法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)

e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp

注:[Home Page] Copyleft 1995, KAGAYAMA Shigeru

「消費者被害と事故予防−消費者の差止請求権の法律構成−」加賀山 茂

によれば消費者被害については次のような差止の法律的な構成が考えられるとしている。

「差止請求

 本稿では、差止請求の意味を、四宮和夫『不法行為』(1990年)456頁に従い、「将来『権利』侵害が生じないように一定の行為を禁止しまたは命令するよう求める権利」という意味で用いる。

 この点で、差止請求と過去の損害の除去に関する「原状回復」とは一応区別している。しかし、差止めの方法が原状回復の結果を生じさせる場合には、両者を含めて考えることにする。

不法行為の規定と差止請求との関係

 平井・不法行為106頁によれば、不法行為の一般的効果として差止請求権を認める学説は少数であり、判例理論もこれを否定していると解されるとされている。

 たとえば、最判昭43・7・4裁判集民91号567頁は、溜池に瑕疵がある事例につき、「いまだ損害が発生していないにかかわらず、将来損害を生ずるおそれがあることを理由として、その予防のため右工作物の修復を求め、さらにその修復をおえるまでその使用の差止を求めることは、同条[民法717条]の規定に基づいてなしえないものと解すべきである」として、不法行為の事実だけでは差止請求ができない旨判示している。

 これに対して、伊藤高義「差止請求権」398頁、さらに、四宮・不法行為477 - 478頁は、「不法行為の効果に関する民法の規定(709条)は差止請求についてふれるところがないが、また、同時に、それを否定する趣旨を含んでいるわけでもない。したがって、不法行為の効果として差止請求権を認めることも(裁判官による法創造として)も、決して不可能ではない」と述べている。

差止請求を認めるべき場合の侵害行為の違法性

 不法行為法上の差止請求権を認める学説においても、伊藤・差止請求権415頁は、「差止が認められるためには、損害賠償の場合にくらべてより強い違法性が必要である」とし、四宮・不法行為(注\ref{foot:Sinomiya})478頁も、「事前に活動を阻止することに対しては、事後に損害を賠償させることよりも慎重でなければならない」と述べている。これに対して、沢井裕・テキストブック115--116頁は、「差止訴訟が、『原告の個人的利益のために提起され、個人の利益において差止めの可否が判断されるにかかわらず、その結果、直接、多くの市民の利益(公益)に影響するが故に、差止めの判断に公共性の配慮は欠かせない』という限度でのみ正当化される。したがって、一般論として、差止は賠償より難しいと決めつけることは妥当ではない」と指摘している。

不法行為に基づく差止請求が認められる要件

平井・不法行為107 - 108 頁によれば、不法行為の効果として差止請求権を認めるべき場合というのは次のように整理されている。

被侵害利益の重大さの程度が高い場合には、物権的請求権または人格権に基づき差止を認めるべきである

被侵害利益の重大さが大きくなくても、特別法に基づく差止請求の趣旨を拡張して保護されるべき場合には、その解釈問題として差止請求が認められるべきである

それ以外の場合で差止請求が認められるべき場合

現在において損害が生じており、そのことが将来において損害発生の高度な蓋然性の基礎となるべき場合

過去の損害の発生につき行為者に故意のある場合

その他、差止を命じなければ回復できないような性質の被侵害利益である場合

独禁法と事業者規制法との関係

 独占禁止法と消費者契約における事業者規制法とを競争秩序の中でどのように位置づけるかは困難な問題である。

 わが国の独占禁止法は、(1)私的独占の禁止、(2)不当な競争制限の禁止、(3)不公正な取引方法の禁止の三本柱から成り立っているが、特に第3の「不公正な取引方法」と不正競争防止法にいう「不正競争」との関係が問題となる。さらに、消費者被害の多発している訪問販売等の販売方法をどのように位置付けるかについての明確な指針が与えられていない。

 この点、フランスの競争法は、(1)自由競争を阻害する競争制限の禁止と(2)公正な競争を阻害する不公正競争の禁止の二本柱から成り立っており、第1の「競争制限」の概念の中にわが国における私的独占の禁止と不当な競争制限が位置づけられるとともに、第2の「不公正競争」の概念の中にわが国における不公正な取引方法、不正競争、職業倫理に反する取引方法が明確に位置づけられ、クーリング・オフ等の消費者保護の問題もその中で論じられている(Cf. Y. CHAPUT, Le droit de la concurrence, (1991) <<Que sais-je?>>; J-J. BURST, Concurrence deloyale et parasitisme, (1993), Dalloz.)。

 そこで、本稿では、行政規制法もフランス流の考え方によって分類し直している。

不正競争防止法と消費者保護との関係

 不正競争防止法が、事業者の保護のみならず、「公正な競争の確保によって消費者の保護をも目的とするものである」こと、しかし、わが国の不正競争防止法が一般条項を欠いており、消費者保護の観点からは、「非常に時代遅れのものとなっている」ことに関しては、浜上「訪問販売法における基本問題」295頁参照。

電話契約  事業者が電話による申込をし、消費者が電話で承諾することによって成立してしまう契約。訪問販売の要件に合致しないため、クーリング・オフはできないと理解されている(浜上・訪問販売法295頁。

 ただし、浜上・訪問販売法299頁は、「ドイツの連邦最高裁判所の判決が明らかにしているように、電話広告はフェア・プレイに反し、自由競争の範囲を逸脱した行為であるということはわが国でも変わりはないように思われる。」と主張している。

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「消費者被害と事故予防−消費者の差止請求権の法律構成−」加賀山 茂

注:憲法問題について次の条文違反を付け加えることも可能であるが、全体としては経済的自由論に含まれると考えられるので注とする。

「自由競争において利益を追求する権利」は幸福追求の権利である。

 所有権と所有権の間にある原理はビジネスの原理である。ビジネスの原理は利潤の極大化である。これは憲法上は営業の権利以外では幸福追求の権利であるとしかとらえられないのである。但しこれは通説ではない。

「日本国憲法第13条〔個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重〕すべて国民は、個 人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする 。」

「憲法は国の基本方針を定めたものであるが、日本国憲法には、「幸福追求の権利」の尊重がはっきり揚げられている(13条)。他国を見ると、イギリスでは王位継承法(1701年)に国民の幸福の保障についてふれているし、アメリカ独立宣言(1776年)における「幸福追求権が自明である」との宣言や、フランス革命(1789年)における人権宣言の中にも幸福が含まれている。隣国である韓国では、憲法の前文にも条文の中にも幸福の確保や追求権が揚げられている。国の方針として「幸福追求権」を揚げた以上、その意味が何であるとされているかが、判然としているべきであろうと考えられる。しかし、憲法についての2、3の書物を調べたところ、日本国憲法にいう「幸福追求権」は「基本的人権(第11条)」との区別において議論があるとされている。つまり、生存とか食べるとか、という誰にも判る基本的な人権を超えたものが、幸福であろうと考えることは容易だが、それでは、それはどんな権利かと定義することは、やはり難しいことと法律家の中でも(法律家だからこそ?)見られているようである。結局「幸福追求権」としてとり挙げられた判例は、プライバシーの権利としての肖像権に関するものが唯一の例のようである。法律として幸福を規定することは、このように中々難しいことのようであり、そのためか、中国、ロシア、ドイツ、スイス、イタリア、カナダ等の国々の憲法には幸福はふれられていない。」(「幸福論」BEATE CERTE OMNES VIVERE VOLUMUS                新宮秀夫 P. H. Shingu Graduate School of Energy Science Kyoto University, Yoshida Sakyo-ku, Kyoto 606, Japan )」

現在の憲法理論を総合した次のノートも参考になる。

  「第二編 基本的人権

  第2章 包括的人権

  1.個人の尊厳

  2.幸福追求権

  3.法の下の平等

1.個人の尊厳

    憲法13条前段は、個人の尊厳すなわち個人の平等かつ独立の

   人格価値を尊重するという個人主義原理を表明したものと一般

   に解されている        憲法24条・民法1条の二

2.幸福追求権

(1)個人の尊重・幸福追求権の法的性格

(2)生命・自由および幸福追求権の内容

◎憲法13条の後段は、前段と密接に結びついて、いわゆる幸福追求権

を宣言している。

(1)個人の尊重・幸福追求権の法的性格

(初期の学説)(a)一般原理説

            (b)基本的人権総称説

            (c)自然権宣言説

(a)「個人の尊厳」原理の別の表現(一般原理説)

(b)憲法で個別的に保障する基本的人権の総称(基本的人権総称説)

(c)憲法各条に具体的に保障されている各種基本権の根底に存する自

然法的権利の宣言(自然権宣言説)

(法的権利性を認める学説)

 今日では、具体的権利性を積極的に肯定する説が有力になり、通

説の地位をしめている。――⇒ 「裁判上の救済を受けること

                ができる具体的権利」(芦部)

   (学説)

   (d)一般的自由説

   (e)人格的利益説

   (f)人格核心説

(d)人の生活活動全般にわたって成立する一般的自由(一般的自由説)

(e)「個人の尊厳」原理と結びついて、人格的自律の存在として自己

を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自

由を包摂する包括的な主観的権利 (人格的利益説)

 「内実である人格的利益は、その対象法益に応じて、

     イ)身体の自由 (生命を含む) 、

     ロ)精神活動の自由、

     ハ)経済活動の自由、

     二)人格価値そのものにまつわる権利、

     ホ)人格的自律権 (自己決定権) 、

     へ)適正な手続的処遇を受ける権利、

     ト)参政権的権利、

         などに類型化することができる」 (佐藤幸治)

(f)通常の個別的基本権とは異なるところの、基本権の深奥に位置す

る人格の核心にかかわる独自の権利 (人格核心説)

                    (予防接種禍訴訟)

(2)生命・自由・および幸福追求権の内容

 元来、『幸福』には『私的幸福』のみならず、公的事柄について討

論し決議すること自体を楽しむ『公的幸福』をも含みうる

「人格価値そのものにまつわる権利」と「人格的自律権」

                 ――――広義のプライバシー権

(a)生命・身体の自由

(b)人格価値そのものにまつわる権利

 (c)一般的自由権

 (d)人格権・名誉権

 (e)プライヴァシーの権利

(f)環境権

 (g)適正な手続き的処遇を受ける権利

◎「一般的人格権」――人格価値の発現とともに生ずる根源的・統一的

な権利

    ドイツ憲法第1条(人間の尊厳) 、第2条(人格の自由な発展)

 「各人は、他人の権利を侵害せず、かつ、憲法的秩序または道徳律に

反しないかぎり、その人格の自由な発展の権利を有する」

(c) 一般的自由権

 「憲法の人権と自由の保障のリストは歴史的に認められた重要性のあ

るものだけを拾ったもので、網羅的ではない。したがって、それ以外に

権利や自由が存在せず、またそれらが保障されていないというわけでは

ない。我々が日常生活において享有している権利や自由は数かぎりなく

存在している。それはとくに名称が付されていないだけである。それら

は一般的な自由または幸福追求の権利の一部分をなしている」

(田中・下飯坂補足意見、旅券発給申請許否事件・最大判昭33.9.10)

◎「この憲法に一定の権利を列挙したことをもって、人民の保有する他

の諸権利を否定または軽視したものと解釈してはならない」

(合衆国憲法修正第9条)

(d)人格権・名誉権

 「各人の人格に本質的な生命、身体、健康のほか、名誉、氏名、肖像、

プライバシー、自由および生活等に関する諸利益は、広く人格権と呼ば

れ、私法上の権利として古くから認められてきた」

 「人格権としての他人の名誉の保護」

「京都府学連事件」(最大判昭44.12.24)

幸福追求権の具体的権利性を肯定

「夕刊和歌山時事事件」(最大判昭44.6.25)

「人格権としての個人の名誉の保護」

「北方ジャーナル事件判決」(最大判昭61.6.11)

     「人格権としての名誉権に基づき・・侵害行為の差止めを求

めることができる」

「氏名権」(最判昭63.2.16)

「氏名は……人格権の一内容を構成する」から「氏名を正確

      に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けう

      る人格的利益を有する」

(e)プライヴァシーの権利

「私生活をみだりに公開されないという法的保護ないし権利」

             ―――ひとりで放っておいてもらう権利

「自己の存在にかかわる情報を開示する範囲を選択できる権利」

          「自己に関する情報をコントロールする権利」

                    ―――情報プライバシー権

 (どのような情報をどの程度コントロールする権利なのか?)

◎肖像権をプライヴァシーの権利として認めた――大阪高判昭39.5.30

◎「宴のあと」判決 (東京地判昭39.9.28)

「近代法の根本理念の一つであり、また日本国憲法のよって立つところ

でもある個人の尊厳という思想は、相互の人格が尊重され、不当な干渉

から自我が保護されることによってはじめて確実なものとなるのであっ

て、そのためには、正当な理由がなく他人の私事を公開することが許さ

れてはならないことは言うまでもないところである。……それはいわゆ

る人格権に包摂されるものであるけれども、なおこれを一つの権利と呼

ぶことを妨げるものではない」

◎その他の判例

  京都市前科照会事件(最判昭56.4.14)

  ノンフィクション『逆転』訴訟(東京地判昭62.11.20)

  指紋押捺を強制されない権利 (名古屋高判昭63.3.16)

  『石に泳ぐ魚』事件(東高判2001.2.15)⇒最高裁判決(2002.9.24)     

(最近の学説)

   @「社会的評価からの自由」説

   A「自己イメージのコントロール権」説

(最近の論点)

    通信傍受法

    サイバー犯罪条約

    個人情報保護法

    住基ネットなど

(f)環境権

自然環境との関係で成立する人格権

 公害に対抗する身体的・精神的生活利益を中心とする権利

(判例)

 大阪国際空港公害訴訟 (大高判昭50.11.27)(大地判昭49.2.27)

               なお最大判昭56.12.16参照

◎基地の騒音公害と人格権 (最判平5.2.25)

◎ 個人は、一定の個人的事柄について、公権力から干渉されることなく、

自ら決定することができる権利を有すると解され、「幸福追求権」の一部

を構成する

 (私事に関する自己決定)

 イ. 長髪・ひげ・制服、合意ある成人の性的行動、結婚・離婚等のライ

  フスタイル

 ロ. 喫煙、スポーツ、登山等の危険への接近・冒険の自由

 ハ. 産む産まない自由、輸血拒否、安楽死、自殺等の生死に関する自己

  決定

(判例)

・丸刈り校則事件(熊本地判昭60.11.13)  ――13条についての判断なし

   ただ、「時代や風俗によって異なるものであるが、今日のわが国に

  おいて髪型の自由は、自己の人格生存に不可欠なものとして憲法13条

  によって保障されているものと解する」 (中村睦男)見解がある

・輸血拒否事件 (大分地決昭60.12.2)

 「個人の生命については、最大限に尊重されるべきものであり、社会な

 いし国家もこれに重大な関心をもち、個人においても、私事を理由に自

 らの生命を勝手に処分することを放任できない」

・青少年保護条例(名古屋高判昭53.10.25)

 「処罰の対象とされるのは、青少年に対して行う『みだらな性行為』及

 び『わいせつ行為』だけであって、婚姻能力のある女子に対する正常な

 性行為まで禁止されるわけではないから、これが、国民の性行為の自由

 を不当に制限し、憲法13条に違反する規定であるといいえず……」

・ 氏名権 (最判昭63.2.16)

 「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有す

 るものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重さ

 れる基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構

 成するもの」

・校則によるバイク制限 (最判平3.9.3)

・禁煙の自由(最大判昭45.9.16)

 「憲法13条の保障する基本的人権の一に含まれるとしても、あらゆる時、

 所において保護されなければならないものではない」

・新聞紙図書等の閲読の自由

 (g)適正な手続き的処遇を受ける権利

◎公権力が法律にもとづいて一定の措置をとる場合、その措置によって重

大な損失をこうむる個人は、その措置がとられる過程において適正な手続

き的処遇をうける権利を有すると解される

(判例)

・個人タクシー事件 (東京地判昭38.9.18)

    憲法13条・31条は、「国民の権利、自由が実体的のみならず手続

   的にも尊重さるべきことを要請する趣旨を含む」

 (参政権的権利)―― 国民の統治参加の方法

       直接的方法―公務就任と国家意志決定のための投票

       間接的方法――選挙など

◎「公務就任権の端的な根拠は、『幸福追求権』にあると解される」

                           (佐藤幸治)

3.法の下の平等

 (1)総説

 (2)自由と平等

 (3)平等原理の展開

 (4)法の下の平等と個別的差別禁止

(5)差別禁止の事由

 (6)差別の合理性の判断基準

 (7)違憲審査の方法と基準

 (8)憲法による平等原則の具体化

 (9)現代的諸問題

 (10)具体的事例

(1)総説

◎「神の前の平等」から「法の前の平等」、そして「法の下の平等」と

「法の平等」へ

◎アメリカ独立宣言(1776)

「すべての人は平等につくられ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦

の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求がふくまれる」

◎フランス人権宣言(1789)

「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」

                             (第1条)

◎世界人権宣言(1948)

「すべて人間は、生まれながらにして自由であり、尊厳と権利とにおいて

平等である」(第1条)

(2)自由と平等

◎「『条件の平等』は自然的なものではなく、公権力の積極的措置によっ

て実現するものであるから、自由との関係で緊張関係をもつことは避けら

れない。ただ、現代立憲主義憲法は、『条件の平等』観念に全面的に転換

したのではなく、むしろ『機会の均等』を実際に確保するための基盤の形

成に寄与する限りでの部分的転換にとどまっているものと解される。その

限りで、現代立憲主義の平等思想は、近代立憲主義の延長線上にあるとい

うことができよう」(佐藤幸治)

◎「平等とは差別をうけないことである。通俗用語としては、差別取扱い

といえば、不利益を課することをいうが、ここでいうのは、法の課する不

利益、たとえば刑罰において差別されないことのみでなく、法の与える利

益、たとえば教育を受ける権利について、合理的理由なしに一部の者を優

遇することを禁止する。およそ法的に取扱いが均等であることを要求する

のが法の下の平等である」(伊藤)

◎「私見によれば、現代国家における平等がこのような方向をたどること

は認められるし、憲法による平等の保護が、この実質的平等を実現するよ

うな政治の指針を含むものとして社会権的性格をもつと解する余地はある

けれども、14条 1項は裁判規範としては、あくまでも法的取扱いの不均等

の禁止という消極的な意味をもつと解すべきである」(伊藤)

      (『平等』の意味)

               ――形式的平等と実質的平等

               ――相対的平等と合理的区別

◎ 形式的平等とは、人の現実のさまざまな差異を一切捨象して原則的に

一律平等に取り扱うこと、すなわち基本的に機会均等を意味し、それに対

して実質的平等は、人の現実の差異に注目してその格差是正をおこなうこ

と、すなわち配分ないし結果の均等を意味する

  ――実質的平等の問題は、第一義的には社会権条項に託された課題で

   あり、結局は立法によって実現されるべきものであろう。それは、

   少なくとも裁判規範の意味においては、憲法14条の規定から直接に

   導かれる性質のものではないといわれている

  (相対的平等と合理的区別)

◎等しい法的取扱いを要求するものであり、裏返して言うと不合理な差別

を認めないということである

 ――合理性の問題は、それが不正な差別にあたるか、という点と、一定

  の立法目的に対して目的合理性があるかという点の二点に分けて考え

  ることができる

(3)平等原理の展開

◎ 現代積極国家――国家は差別してはならないだけでなく、社会に事実

上存在する不平等を除去しなければならない、という考え方が強くなって

きた

(平等権と平等原則)

◎ 憲法14条の規定は、国家は国民を不合理に差別してはならないという

原則を定めたものであり、その原則は直接的な法規範として、立法・行政

・司法のすべての国家行為を拘束するものである。そしてそれは同時に個

々の国民に対しては、平等権すなわち法的に平等に扱われる権利ないし不

合理な差別をされない権利を保障したものだと解されている

 「国家には問題の積極的な解決を行なう責務があり、平等原則は国政な

 いし立法の指導原理としての意味をもつ」(橋本)

(4)法の下の平等と個別的差別禁止

◎ 国民の法的平等を規定する14条 1項は、抽象的な原理の宣言ではなく、

具体的な権利を保障する裁判規範である。したがって、平等権は違憲審査

において大きな役割をもつものであり、裁判規範としての解釈が重要な意

味を持つのである

     (一項前段)              (一項後段)

   立法者非拘束説(法適用の平等)        制限列挙

   立法者拘束説 (法定立の平等)         例示

(5)差別禁止の事由

   a)人種 b)信条 c)性別 d)社会的身分 e)門地 f)その他

a)人種――人種とは、皮膚、毛髪、目、体型等の身体的特徴によって区別

    される人類学上の種類である

b)信条――信条は、歴史的には、主に宗教や信仰を意味したが、今日では

    さらに広く思想・世界観等を含むと解するのが通説である

 ※これを人間としての基本的な人生観、世界観、政治観に限り、単なる

 政治的意見や政治的所属などは含まれないとする見解がある。判例・通

 説は、14条にいう信条も原則として実践的志向をもつ以上、国の具体的

 な政治の方向についての政治的意見もそこに含まれると解している

         国家公務員法27条、38条 5号、労働基準法 3条

c)性別

      女子差別撤廃条約(国連1979年採択)

     「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女

      子労働者の福祉の増進に関する法律」(昭60法45)

d)社会的身分―― 一般に人が社会において占めている地位のことをさす

  (学説)

  A)出生によって決定され、自己の意思で変えられない社会的な地位

  B)社会において後天的に占める地位で一定の社会的評価を伴うもの

  C)広く社会においてある程度継続的に占めている地位

  (判例)

     人が「社会において占める継続的な地位」(最大判昭39.5.27)

e)門地――家系・血統等の家柄をさす

f)その他――列挙以外の事由

 (地域と平等権)

 「憲法が各地方公共団体の条例制定権を認める以上、地域によって差別

 を生ずることは当然に予期されることであるから、かかる差別は憲法み

 ずから容認するところであると解すべきである」(最大判昭33.10.15)

  青少年保護条例のうち、青少年に対する淫行処罰規定について

(最大判昭60.10.23)

  青少年保護条例の有害図書の規制について   (最判平1.9.19)

◎従来の「人種」などの概念ではとらえきれないもの―⇒エスニシティ

◎従来の「性別」の概念だけでとらえてよいのか?―⇒性同一性障害など

(6)差別の合理性の判断基準

(7)違憲審査の方法と基準

  a)列挙事由を手がかりとした手続き的な基準

  b)区別が「合理的」か「不合理」か――実体上の判断基準

          実体上の合理性があるか否かについて、立法府の判

         断を広く認める――『合理性の基準』

          裁判所が詳しく立ち入って「合理性」を審査する

                ――『厳格な合理性の基準』

 立法目的        手段            基準

  正当  ―――目的との合理的関連性 ――   合理性の基準

  重要  ―――目的との実質的関連性 ――  厳格な合理性の基準

  必要不可欠――  必要最小限度   ――   厳格審査基準

 (『平等原則についての二重の基準論』)

(8)憲法による平等原則の具体化

 (a)貴族制度の廃止

(b)栄典にともなう特権の禁止

 (c)公務員の選挙などにおける平等――憲法15条、44条

 (d)家族生活における平等

(e)教育の機会均等――憲法26条

(a)貴族制度の廃止  貴族とは、一般国民から区別された特権を伴う世

         襲の身分である

(b)栄典にともなう特権の禁止  国家や社会のさまざまな領域で功労の

あった者に、名誉の表彰をしたり、勲章を授けることは、昔からどこの

国でもおこなわれてきた

   ――禁止する『特権』か否か(違憲か否か)は、それが民主主義の

    観点からみて合理的な限度内のものかどうかにかかっている

  (文化勲章受賞者に対する年金支給)   文化功労者年金法

(d)家族生活における平等

◎憲法24条は、1項で婚姻の自由と夫婦の「同等の権利」を定め、2項で、

家族に関する法律は「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して」制定さ

れるべきことを要求している

(9)現代的諸問題

  (a)「機会の平等」と「結果の平等」

  (b)「優遇措置」と「逆差別」

◎「優遇措置」と「逆差別」

「社会の中の根強い差別意識のため、通常の社会経済過程から体系的に排

除されている少数者が存すると認められる場合に、国家は、少数者の平等

を保障するための措置をとる義務を負うとともに、その少数者を通常の過

程に参与せしめるため必要やむをえないと考えられるときは、一時的にそ

の少数者に対し一般の人に対すると異なる特別の優遇措置を講ずることも、

必ずしも禁じられていないとの考え方が登場する」(佐藤幸治)

  1)Affirmative Action

  2)フランスのパリテ

 3)インド憲法における少数者保護規定

(10)具体的事例

   (a)尊属殺重罰規定違憲判決(最大判昭和48.4.4)

(b)議員定数不均衡違憲判決(最大判昭和51.4.14)

その他

  (c)条例による地域的取扱いの不平等

   (d)租税立法上の不平等(サラリーマン税金訴訟)

   (e)障害福祉年金と児童扶養手当との併給禁止(堀木訴訟)

 非嫡出子差別(1995.7.5)

 再婚禁止期間 (最判1995.12.5)

 夫婦別性(東京地判1993.11.19)

 男女雇用機会均等法(1997), 男女共同参画社会基本法(1999)

 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発

に関する法律」(1997)

Copyright 孝忠延夫 」

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(19)

平成17年8月5日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

はじめに

本件事件においては入会拒否が問題となっているのであってカルテルではないが、建設業における自由競争の状態ではなくて市場が自由競争的ではないのでカルテルと同様の市場の条件と、市場の結果が存在している。

共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号の問題は、カルテルが直接的に価格を固定し、公共の利益が侵され続けているという事態を発生するのであるのに対して、個々の場合に応じて共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号の行為は逆に個別企業が安売りをし易くする場合があるし、あるいは、カルテルを生じさせる場合があるという点において特殊である。

従ってドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような制定法主義においてもノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件の場合に限ってカルテルと同様の状態が発生するので、カルテルと同様の当然違法のような概念構成によって処罰するべきであるということになる。この点からすればノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件とドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような制定法とは同一の結果を生んでいる。

本件事件においては入会拒否が結果と条件の両方から解かれるべきである

ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文による場合には公正競争阻害性という独占禁止法違反の結果をより重視している。一方の外形を重視するアメリカの当然違法のような概念はある市場の条件の下における公正競争阻害性という独占禁止法違反の行為の外形を重視している。

そのどちらの手法を使っても、罪刑法定主義の概念からすれば法はあらかじめ「外形的にであれ」、「結果的にであれ」先に法定していなければならない。独占禁止法違反事件は罪刑法定主義に近い概念を導入すべき法分野である。

日本においては独占禁止法に違反について行為の外形的に法律を解釈するのか、行為の結果的に法を解釈するのかはあらかじめ判例によって示しておく必要がビジネス的にもある。

ノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件は

「Cases to which this Court has applied the per se approach have generally involved joint efforts by a firm or firms to disadvantage competitors by "either directly denying or persuading or coercing suppliers or customers to deny relationships the competitors need in the competitive struggle."

当裁判所は当然に違法であるとの原理を適用してきた事件は、一般的に言えば「競争する上で競争者が必要な関係を直接的に拒絶したり、拒絶するように供給者や、顧客に間接的に説得したり、強制したりすること」によって競争者に不利益を与えるような単独の事業者あるいは共同の事業者による共同の行為をいうのである。」

というノースウェスト判決におけるような2条件の提示の前段が指摘するように一般的な規定を特定化するための市場の条件である。

独占禁止法に違反していることによる差止の判決の書き方

「ドイツにおいては結果において不平等や不公正が存在する場合にグループボイコットを違法としているのに対して、アメリカにおいてはビジネスの指針となるように特定の市場の条件のもとにおいては当然違法であり、従ってドイツのように結果を見てみる必要はない、それがビジネスの指針となりかつ裁判の経済上も有効であると考えているのである。

ドイツのように結果論で対応すればすでに結果が発生する程度にグループボイコットが行われた後にしか差止は可能ではなくなるが、アメリカの独占禁止法上の差止は先に市場条件が満たされていれば差止が仮処分によっても認められるようにしているのである。」

この上告人の主張は非常に重要であるので、更に詳述すべきであろう。

例を刑法の例に戻すと、法を定立するのに殺人の結果に対して罰を与えるのか、殺人の実行行為を行う前の準備的な着手行為にも罰を与えるのかという問題である。着手行為はもし殺人のためであるという内心が証明できなければ、外形的に罰するしか方法はない。殺人の予防は如何にしてするのかという問題である。もし殺人の予備や、未遂を事前にチェックできないのであれば結果が起こっていないと言い逃れをして逃れられてしまう。その場合には悪意あるいは故意が必要であるということになる。悪意のあるものはどのようなことでも行う。

ある条件においてある行為をなすことを禁じている場合に、当然であるとして常にあるいはほとんど常に違法であるとして、そのような条件においては結果がどうであろうと常に禁止する法律を与えるかの違いである。これは予防的であり、未遂罰的である。ドイツ型はどのような動機であろうとも、殺人の結果に対して罰を与えている。後者(アメリカ型)は結果よりも行為の外形を重視している。標準化がなされた結果であるといえる。

日本において、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文によるのと同じような結果についてのみ認めて違法であるとの判例を作るのか、アメリカのように結果が発生する前にでも差止が仮にでもできるような判決にするべきであるのか。その両方はかつで結ばれるべきであるのか、あるいはという片方だけでも差止ができるという判決を作るのか。これが問題である。

因果関係が100%証明できるような性質の事件については確かにどちらの手法を使っても同様の結論を得ることができる。しかし独占禁止法に違反していることによる差止が必要かどうかを判断しなければならないような事件においては因果関係の存在の有無の判断が非常に予測的であり100%の蓋然性による証明ができない。 そのためにノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件においては必ずドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような結果が発生するのかという因果関係の存在の有無は100%明白ではないことがある。そこにかかっている。これは独占禁止法違反事件の本質である。市場の問題であるからである。100%の蓋然性が証明できないことがことの性質上明らかな場合には50%以上の蓋然性でしか証明ができないことになる。経済学は価格理論である。価格と供給の競争の理論である。従って経済的自由の問題は経済学と密接に関わっている。

ことの性質上因果関係はよく外れることがあるという場合は別であるが、常にあるいはほとんど常に因果関係があり、違法としてもほとんど常に公共の利益が損なわれない場合には、当然違法としようというのがアメリカの当然違法のような概念である。従ってアメリカの定義が完全ではないという点はここに原因がある。

日本でも慶応大学の石川教授はそのようなとらえ方であり、公正取引委員会による行政指導では原則違法という考え方である。しかし結果について原則違法であるのか、市場条件による予防的な見地からの原則違法であるのかについては明白にはされていない。日本の場合にはガイドラインにおいて例示がなされている。この例示においては市場の条件がいくつか例示されているが、これが網羅的な例示であるのかどうかは不明である。一般指定は網羅的な例示であると考えられている。日本においてもガイドラインは指針であるから事前的な市場条件の提示と考えることは正しいとらえ方である。指針の言葉自体がアメリカ型の規制を目指していると考えられる。

しかしアメリカにおいては結果が起こらないことに重点を置いているので、ビジネスの問題であり緊急性を要する問題であることがはっきりしているのであるから2条件を先に提示したのである。そして仮処分が当然違法のような概念構成によって可能な法的な構成を作り上げているのである。

ドイツの概念法学によれば事後的な救済を中心に考えているのである。

本件事件においては入会拒否がその両方に該当しているのであるから、かつ、で結んで、両方があるから、憲法学的な解決が可能であるが、一般には概念法学上は結果が出ていることが差止の要件となろう。但しその原因としてノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件は必要であろう。市場が原因ではなくてそのような結果が起こっている場合があるからである。

かつ か あるいは か

2条件と結果は、かつで接続すべきか、あるいはで接続すべきか。これはアメリカ型とドイツ型ともに同じ結果にならない場合には問題となる。アメリカ型を選ぶのか、ドイツ型を選ぶのかという問題にも還元される。外形で罰するのか、結果で罰するのか、独占禁止法違反事件としてどちらが正しいのか。結果で罰する場合には公共の利益はもうすでに回復できない状況にまでいたっているという場合が考えられる。これがドイツ型のデメリットである。

 一方アメリカ型のメリットは、事前に独占禁止法に違反する行為を予防的に差し止めたり、罰したりすることができることになる。その場合には損害賠償できる程には損害が発生する前に差止が成立することになる。

「Northwest Wholesale Stationers provides the Supreme Court's most complete recent discussion of the issue:

最高裁判所はノースウエスト卸売事務用品会社判決で、この問題にほとんど完全な判断を行った。」

このアメリカ型の対応法のメリットは、事前に規制が可能であるという点にある。従って仮処分が市場条件によって可能である。おそれがあるのおそれによって規制が可能になる。

「For one thing, it tells us that per se condemnation can result from facial examination of the conduct, allowing the court to make its determination quickly, based on anticompetitive effects plausibly argued but not elaborately proved.(28)

一つには、当然に違法との判断は行為の外見を判断することで結論を導き出すことが出来るので、競争を制限する効果があることが丁寧に証拠によって示されなくても、論証されれば、裁判所は緊急に決定を下すことを可能にする。

The "always or almost always" portion of the formulation indicates the very high probability of anticompetitive effects required for finding a practice per se unlawful.

当然違法の定義における「常に、あるいは、ほとんど常に」という部分は、ある行為が当然に違法であると判断するために要求されるものは、反競争的な効果がある可能性が非常に高いということである。」

「and BMI, 441 U.S. at 19-20, asks whether a practice facially appears to always or almost always restrict competition and decrease output instead of being "designed to 'increase economic efficiency and render markets more, rather than less, competitive.'"

そしてまたBMI事件では, 441 U.S. at 19-20,「「経済的な効率性を増大させ、市場を反競争的にするのではなく、より競争的にする」ことを計画しているのではなくて、常にあるいはほとんど常に競争を制限して生産量を減少させるようにある行為が外形的に見えているかどうかについて審理している。」

日本では行為の外形による判決というのは罪刑法定主義の概念からすれば法はあらかじめ外形を定めている必要がある。しかし今回本件事件においては入会拒否がノースウェスト判決におけるような2条件に当たるとはやはりまだ外形を定めていなかったのではないかという主張がなされるであろう。法定されていたのはガイドラインにおいて例示がなされているだけであり、ただ市場の例示的条件だけであった。

但し「正当な理由なく」という文言は定めていた。

「General Principles: Quickly Eliminating Plainly Inadequate Justifications

一般原理:明白に不適切な正当化を即座に棄却する原理

The initial step under either form of analysis is intended to permit speedy per se condemnation in settings where justifications are absent or plainly inadequate.

そのどちらの種類の分析によっても、最初の段階で正当化の理由がないか、あるいは明らかに不適切であるような事件である場合には、時間を節約した当然に違法の判断による有罪判断が許されると結論することが出来る。」

「As Judge Posner has observed, "The per se rule would collapse if every claim of economies from restricting competition, however implausible, could be used to move a horizontal agreement not to compete from the per se to the Rule of Reason category."(73)

ポズナー判事が指摘するとおりに「競争を制限しようという水平的な合意を当然に違法の原理から、理由の原理に変換するためにもっともらしい理由付けが使用されることが可能になるならば、たとえどんなにもっともらしい理由であっても、競争の制限から経済を守ろうとするすべての訴訟に使用出来ることになり、当然違法の原理は崩壊してしまうことになる。」」

理由についてはこのようなポスナーの見解が有力である。

当然違法のような概念構成によって処罰した後に、万が一理由が合理性がある可能性があるにしても、訴訟の経済性及びビジネスの明確性(取引の安全)の観点からその可能性を無視するのであり、公共の利益を優先して、民事訴訟によりやれる場合には民事訴訟によるようにというLRAの原則が使用されるのである。ここでは純粋に公正競争阻害性という独占禁止法違反の部分のみが事実から抽出される。この抽出が当然違法の法律的な過程である。

この結論は日本の場合にも同様に、アメリカにおいても、ドイツにおいても、ノースウェスト判決はある市場の条件が満たされている場合には、つまりは通常はノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件の下では、共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号に該当する行為は外形的に違法であり(アメリカではこれを当然違法であると呼び、日本ではこれを原則違法であると呼び、ドイツではこれを法定違法であると呼んでいるが実質は同じであり)、従って万が一理由が合理性がある可能性があるにしても(公共の利益を促進する競争促進的な競争制限があるにしても)、訴訟の経済性及びビジネスの明確性(取引の安全)の観点からその可能性を無視するのであり、公共の利益を優先して、民事訴訟によりやれる場合には民事訴訟によるようにというLRAの原則が使用される、但し一般的には理由には合理性がない場合が多く、かつ憲法にも違反している場合も多い、更に言えばドイツの競争制限禁止法第20条第6項の条件を結果として満たしている場合が多いというように要約することができる。

この日本の「正当な理由なく」という概念は明らかにアメリカの当然違法のような概念と同様な事前的な措置を要求している。日本では正当な理由なくという文言を使用している法文の形式からすれば、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような制定法主義によらずに、アメリカの当然違法のような概念構成によって処罰しようと意図した法文であるということが分かる。国会における立法の経緯、一般指定の経緯、一般的定式化の努力を見てみてもアメリカ型のアメリカの当然違法のような概念を念頭においての立法であったとするのが至当であると考えられる。

一方ドイツ型のメリットは事後型であるのでその要件は結果であるから結果が出るまでは規制は不可能である。

「As the following discussion reflects, attempts to articulate standards that are both accurate in content and useful in implementation have not been entirely successful, at least for purposes of resolving relatively close cases.

以下の議論において述べるように、実際に適用する場合に内容的にも正確であり、かつ役に立つような基準を明確にする試みは、少なくとも比較的に似通った事件を解決する目的をもってみると、完全に成功してきたとはいえない。

We turn first to an examination of the courts' efforts to identify potentially per se unlawful conduct by its capacity for anticompetitive effect.最初に裁判所が行ってきた反競争的な効果を内包している故に当然に違法である可能性の高い行為を特定する努力を調べていくことにする。」

「実際に適用する場合に内容的にも正確であり、かつ役に立つような基準を明確にする試みは、少なくとも比較的に似通った事件を解決する目的をもってみると、完全に成功してきたとはいえない」という言葉からするとアメリカ型の規制によっても完全であるとは考えられていない。

アメリカ型の規制と同様に衡平法上の命令的差止の権威によってunfairなことや、Unjustifiedという判断を行わなくてはならないドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文によっても衡平法上の権威による判断が必要になる。従ってドイツ型の規制手法は裁判所に訴訟を提起し、それによって結果を厳格に審理し裁判官の裁定に任せるという衡平法上の命令による判断が重視されているといわざるをえない。

市場がノースウェスト判決におけるような2条件が存在していない場合には結果は生じないのであるから、アメリカ型、ドイツ型ともに同じ結果になる。

両者に因果関係が必ずあれば、どちらか一方でよいことになるがアメリカでも必ずそうであるとは考えていないのであって、完全に100%の因果関係の存在を認められないことを示している。 

従ってドイツ型はより結果を重視するものであるので、アメリカ型よりも厳格であるといわざるをえない。つまり「万が一理由が合理性がある可能性があるにしても(公共の利益を促進する競争促進的な競争制限があるにしても)」という条件を厳格に考えており、共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号違反が結果として競争を促進する競争促進的な競争制限がある万が一の場合を厳格に除こうとしているといえる。予測した場合に予測が外れた場合を厳格に除いているのである。従ってドイツ型はおそれを罰するのに非常に臆病であるといいうる。

アメリカの当然違法のような概念はもしその予測が外れたとしても、少しの公正競争阻害性という独占禁止法違反の部分が存在するのであるが、共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条違反が競争促進的な部分がより上回っていたとしても、公正競争阻害性という独占禁止法違反の部分を減少させることは一応は正しく、差し引きで競争促進的な部分が相対的に大きくなることに貢献するのみであるということを主張しているのである。

これが原則的には違法であるという概念であるという理解でもある。

必ず2条件があれば不平等で、不公正であるのか。

2条件は十分条件であって、必要十分条件ではない。また通常の場合という副詞句が付されているように必要条件でもない。通常の場合には十分条件であるということになる。

ビジネスという浮き沈みの激しい社会においては違うという主張を当然に被上告人はしてくるであろう。殺人と死亡との因果関係程には明確ではない。

 不平等で、不公正な場合は2条件の場合のみか。「通常の場合にはボイコットされた事業者が競争する場合に必要な供給や、施設や、市場にアクセスすることが出来なくなり、また通常の場合には当該市場においてボイコットを行った企業が独占的な地位を保有していることが非常に多い」のである。もしその2条件ではないのに競争が実質的に制限されている場合があるならば確かにノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件以外にも付け加える必要があることになる。

因果関係の存在については殺人と死亡との関係ほどには明白ではないので、民事訴訟法第248条の規定が設けられたのである。

事業者団体の法哲学上の地位

所有権は絶対であるが、事業者団体には所有権の絶対性はない。事業者団体が所有している経営体はほとんどない。このために事業者団体に単独の取引拒絶はほとんど存在しないという事が出来る。

国家のなかにおける国民の人権と同様に、事業者団体における各事業者は国民のごときものであり、両者の関係はほぼ同様のものとなる。

サロンのような団体であるのか、事業者の団体であるのかの違いは個人の趣味の追求であるのか、経済的な自由の問題であるのかの違いである。経済的な自由は生存権と関連を持っている。また幸福追求権と関連を持っているという見解もある。

事業の法哲学

各人(各個別企業)は利潤の極大化を目指している。従ってそれらの欲がぶつかり合う場としての事業者団体には独特の性格が生まれる。

そこには消費者もいる。事業を行っていることが要件である。利益を求める諸活動は結果として公共に対して利益を与えていると考えられる。毎日毎日取引の安全を信じてする行為の総称である。

一方のサロンにおいては共通の趣味が尊重されそれが要件となる。趣味が共通であればそれだけが要件となる。他の脱退の自由がある。

日本での私訴において損害賠償請求が可能な訴訟における独占禁止法に違反していることによる差止が必要な場合の判決の書き方について

ここまで考察してくればほとんど明白になったことがある。日本においてはアメリカのように判例法として定立されてきていないのであるが、また日本においてはドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような実定法によらないのであるが、日本においても私訴が法定されて、民事訴訟法第248条が制定された時点でアメリカの当然違法のような概念も、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項の概念もすでに継受したことになっていたのであって、日本の法体系の中にこれらが含まれていなかったと主張することはできなかったということである。判例がたまたまなかったというだけであったのである。その爲に先例に縛られている裁判官には書けなかったのである。

その先例となるべき判例を書くに当たって注意すべきことが上記の通りるる述べられてきただけであったといいうるのである。

しかしそれが日本においては余りにも新しきことに見えたのである。

差止と無効の相違について

不法行為による損害賠償請求の事件と衡平法上の命令的差止の事件との相違については英米法においてはその法の源泉において相違がある。損害賠償請求は不法行為によるものであるが、衡平法上の命令的差止の権威は衡平法の分野である。

憲法問題について

以上のような独占禁止法に違反していることによる差止が必要な事件において、特に本件事件においては入会拒否をそのように憲法問題として学問的に解く場合に事業者団体の性格が問題となっている。これは真実であり、告知権、告訴権の問題である。これは憲法学上も真実であるからこそ重要な意味を持った。

何回公正取引委員会に行ったか 、何回警察に電話したかの問題である。

以上の3点についてはアミカス・キュリーが必要かもしれない。しかしその論点は非常に難しい問題である。

質問設定

独占禁止法違反事件

事業者団体の性格によっては入会拒否は共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号に該当する場合があると考えられるがそれはどのような場合か。どのような法解釈によるのか。その解釈は妥当であると考えられるか。ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文や、アメリカにおいてもノースウェスト判決におけるような当然違法のような共同ボイコットにあたる入会拒絶との関係はどのようなものであるのか。

その場合に法の改正案としてはほとんどすべての条文はアメリカのように競争の実質的制限という公正競争阻害性という独占禁止法違反の実質的要件のみを審理するべきであると考えられるが、差止が事業者団体の性格によって独占禁止法第8条1項5号のみに限定されている場合に、競争の実質的制限と独占禁止法第8条1項5号とは法条競合になるのか、各条単独の適用になるのか。

入会拒否が共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号に該当するとした場合に、日本においては法的に共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号の行為においては、当然違法のような概念構成によって違法とすべきか。

外形によって違法とする場合にアメリカの場合の様に標準化がなされていなくて可能であるのか。

結果によって違法とする場合にはドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文による制定法が欠けているがその場合の対処方法はあるか。

差止の要件である「著しい損害」論をどのように位置付けるか。

憲法問題

強制加入団体における人権問題について。特に信条の自由や、裁判を受ける権利との関係や、内部情報の申告の禁止等について。

英米法

衡平法上の差止と法定された差止の要件について。差止と無効の英米法における差異について。

衡平法上の差止をフランス民法の継受であった日本の民法の体系に取り込むことは可能であるか

日本の独占禁止法に違反していることによる差止に該当する場合にはどの程度に衡平法上の差止との類似性を認めるべきか、あるいは、日本においては英米法と違った差止の概念が考えられうるか

憲法問題としては世界の人権の擁護の流れに適合しているのかどうかについて、自由と団体の問題は考慮されなくてはならない。

国際連合の人権規約の問題や、ヨーロッパ条約の人権の裁判所のようなところでも問題とされることができる重要な人権の擁護の流れに適合しているのかどうかについて考察する必要がある。

事業者団体に対して命令を行うことが個人の意思の自由と外的な強制の問題が発生するか。答えはしないである。事業者団体の性格からして強制加入ができうるような事業者団体の性格によってはしないということができる。

公共の中で生活するものには常に公共からの強制が存在する。それは法そのものの性質である。但し純粋な個人は法を形成するための一つ一つの個人として、自由である、平等な存在として衆議院議員選挙権の行使において平等や自由の存在するのと同様に最も尊重されなくてはならないものである。しかし一旦公共の側面になると事業者団体の性格からして個別企業の自由や機会の平等は最大限に尊重されなくてはならないものである。

命令的差止という差止の一形態は衡平法上の命令的差止の権威によってunfair な状態を是正するものであって、公共の利益のためには憲法の行使が可能であるということしか示しておらず、個人の意思の自由と外的な強制の問題とは関係がほとんどない。殺人を犯したものに殺人を侵すなという強制を行うのとほぼ同様のことが現行犯逮捕やらと同様に独占禁止法に違反していることによる差止の場合にもできるのかという問題である。被上告人は個人の意思の自由を持っている訳ではない。人権を抑圧できる事業者団体であり、事業者団体には事業者団体の性格がある。個人の意思の自由の問題にすり替えるためには士法が便利であるという意識は被上告人にはあるのかもしれない

この点では先に述べた通りに

「本件事件は信条の理由による差別と、信条の違いを認めない事業者団体の問題である。事業者団体の性格において強制的な性格を持つ団体であるということは「デバイス憲法U人権」25頁13―14行において記されている通りである。「当該法人が強制加入か任意加入か、また任意加入でも公的性格の強いもの(協同組合等)か私的性格の強いもの(社交・娯楽団体や学術団体等)かによって、構成員の人権に対する制約が承認される限度は異なる。従って、構成員の人権が制約をうける限度が大きいものからいえば(団体の決定が尊重される場合から並べると)、「私的な任意加入の法人」、「公的な任意加入の法人」、「強制加入の法人」ということになる。

構成員の人権が優越的地位を有するものであれば、法人の権利・自由の主張は大幅に制約されることになる。

この点に関する参考判例として、税理士会事件がある。」

としている記述が本件事件においては入会拒否をそのように憲法問題として学問的に解く場合の最も重要な意見であるということになる。

Unequalな取り扱いがunfairあるいはUnnjustifiedであるのかは裁判官の裁量によるのであるが、その際に所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めている点においては個人の自由や、個別企業の所有権は尊重されなくてはならないが、様々な所有権の間にある道路とか、その他の公共物については公共の利益のためには憲法の行使が認められるのと同様のことが起こるのである。

先に述べられているように「道路建設の例でいえば、入札談合で高値になったために道路建設が遅れ、それによって、青果物の流通が妨げられ、材料の搬入が遅れ、高速道路を通らざるを得なかったために物流費がかさむなどの社会的な損失が出ます。」

自宅の価格が高くなることは最終需要者の損失にはなるが、それ以上の影響は家計が圧迫されて、他の支出が少なくなることである。一クッション置かれている。

社会的な行為が社会的な影響を与えている点で、公共の利益に関係し個人が殺人を侵す場合よりも社会的影響が大きい。

逆から言えば独占禁止法に違反していることによる差止の権威は所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めている点から発生しているが、それは様々な所有権の間にある道路とか、その他の公共物についてはむしろ比較的には公共の利益のために行われるのであって、個別の企業のために行われる部分は少ないという事実から発生している。ボーデン事件最高裁判所判決に述べられているように両者の違いは微妙な法哲学上の問題を含んでいるのである。道路を修理することは共有物を修理することであり、そのためには所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めている点を認めたとしても、公共の利益のためには憲法の行使が認められるのである。

それと同様のことが独占禁止法に違反していることによる差止の命令性において言えることになる。

本件事件においては入会拒否をそのように憲法問題として学問的に解く場合には、本件事件においては入会拒否が認められないということは共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号の行為を予防的にも、現在の現行犯を妨害するためにも、個人の意思の自由ではなくて共同の意思を命令によって取り消させるか、差し止めるという命令を出すということに意味があるのである。

この際には刑法の外形主義で罰するのか、条件主義で罰するのか、意思主義で罰するのか、結果主義で罰するのかという問題が発生する。特に差止の場合には取り消しや、無効とは全く違った公共性の問題が起きてくるのである。

独占禁止法違反事件と罪刑法定主義の概念からすれば法はあらかじめ外形を構成要件として定める必要がある。

人権の擁護の流れに適合しているのかどうかについては、世界的にも最初の独占禁止法に違反していることによる差止が認められることにより人権意識を日本でも高める際に世界的な人権との関連を認めなくてはならない。

High Commissioner for Human Rights

人権に関する高等弁務官

Mandate

命令

The mandate of the Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights derives from Articles 1, 13 and 55 of the Charter of the United Nations, the Vienna Declaration and Programme of Action and Assembly resolution 48/141 of 20 December 1993, by which the Assembly established the post of United Nations High Commissioner for Human Rights.

国際連合の人権に関する高等弁務官事務所の命令は国際連合の規約Articles 1, 13 and 55 に由来し、人権に関する高等弁務官のポストが会議によって設立されたのは、1993年12月20日のVienna Declaration and Programme of Action and Assembly resolution 48/141によっている。

In connection with the programme for reform of the United Nations (A/51/950, para. 79), the Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights and the Centre for Human Rights were consolidated into a single Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights as of 15 September 1997.

国際連合の改革プログラム(A/51/950, para. 79)に伴って人権のための国際連合高等弁務官事務所と人権のためのセンターは1997年9月15日に国際連合の人権のための高等弁務官事務所として一つにまとめられた。

Functions and organization

機能と組織

The Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights:

国際連合の人権のための高等弁務官事務所の任務は

(a) Promotes universal enjoyment of all human rights by giving practical effect to the will and resolve of the world community as expressed by the United Nations;

国際連合によって表明された世界の共同体への意志と、決意に対して現実的な効果を与えることですべての人権の普遍的な享受を促進すること、

(b) Plays the leading role on human rights issues and emphasizes the importance of human rights at the international and national levels;

人権の問題で指導的な役割を果たし、国際レベル及び国のレベルで人権の重要性を強調すること、

(c) Promotes international cooperation for human rights;

人権のために国際的な協力を促進すること、

(d) Stimulates and coordinates action for human rights throughout the United Nations system;

国際連合システムを通じて人権のための活動を促進し、統合すること、

(e) Promotes universal ratification and implementation of international standards;

国際基準の普遍的な批准の承認と、実現を促進すること、

(f) Assists in the development of new norms;

新しい規範の発展を助言すること、

(g) Supports human rights organs and treaty monitoring bodies;

人権のための機関や、人権条約の評価機関を支援すること、

(h) Responds to serious violations of human rights;

人権の侵害が重大に行われた場合に対処すること、

(i) Undertakes preventive human rights action;

人権のための予防的な活動を行うこと,

(j) Promotes the establishment of national human rights infrastructures;

人権のための国家的な基幹施設の設立を促進すること、

(k) Undertakes human rights field activities and operations;

人権の分野における活動や、事業を引き受けること、

(l) Provides education, information advisory services and technical assistance in the field of human rights.

人権の分野における教育の提供、情報勧告サービスの提供及び技術的援助の提供を行うこと等である。

The Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights is divided into organizational units, as described below.

国際連合の人権のための高等弁務官事務所は次に示すような組織に分割されている。

The Office is headed by a High Commissioner with the rank of Under-Secretary-General.

それぞれの事務所は下位の書記局総務の階級の高等弁務官によって統括されている。

(注)国際連合の人権のための組織

United Nations High Commissioner for Human Rights (Under-Secretary-General)

The United Nations High Commissioner for Human Rights is accountable to the Secretary-General.

The High Commissioner is responsible for all the activities of the Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights, as well as for its administration, and carries out the functions specifically assigned to him or her by the General Assembly in its resolution 48/141 of 20 December 1993 and subsequent resolutions of policy-making bodies; advises the Secretary-General on the policies of the United Nations in the area of human rights; ensures that substantive and administrative support is given to the projects, activities, organs and bodies of the human rights programme; represents the Secretary-General at meetings of human rights organs and at other human rights events; and carries out special assignments as decided by the Secretary-General.

Deputy to the United Nations High Commissioner for Human Rights (Assistant Secretary-General)

The United Nations High Commissioner for Human Rights, in the performance of his or her activities, is assisted by a Deputy to the High Commissioner who acts as Officer-in-Charge during the absence of the High Commissioner. In addition, the Deputy to the High Commissioner carries out specific substantive and administrative assignments as decided by the High Commissioner. The Deputy is accountable to the High Commissioner.

Staff Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights

The Staff Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights is headed by a Chief who is accountable to the High Commissioner. The core functions of the Staff Office are as follows:

(a) Assisting the High Commissioner in the overall direction and supervision of the activities of the human rights programme; (b) Assisting the High Commissioner in the formulation, communication, implementation and evaluation of policies, practices and activities for the promotion and protection of human rights;

(c) Assisting the High Commissioner in maintaining relations with Governments, other United Nations agencies and entities, international organizations, regional and national institutions, non-governmental organizations, the private sector and academia;

(d) Assisting the High Commissioner in maintaining liaison on policy matters with the Executive Office of the Secretary-General and other relevant offices at Headquarters, as well as with the spokespersons of the Secretary-General at New York and Geneva and the media;

(e) Carrying out fund-raising functions and special projects as assigned by the High Commissioner;

(f) Assisting the High Commissioner in developing and maintaining a framework for the management and planning of the activities of the human rights programme and facilitating the development of the overall work programme, and in preparing annual management reports on activities and achievements;

(g) Representing the High Commissioner at meetings and making statements on his or her behalf.

Administrative Section

The Administrative Section is headed by a Chief who is accountable to the High Commissioner. The core functions of the Administrative Section, in addition to those set out in section 7 of Secretary-General's bulletin ST/SGB/1997/5, are as follows:

(a) Advising the High Commissioner on the budgetary, financial and personnel matters relating to the human rights programme; (b) Assisting the High Commissioner and appropriate staff in the discharge of their financial, personnel and general administrative responsibilities and administering the associate expert and internship programmes.

New York Office

The New York Office is headed by a Director who is accountable to the High Commissioner. The core functions of the New York Office are as follows:

(a) Representing the High Commissioner at Headquarters, at meetings of policy-making bodies, with permanent missions of Member States, at interdepartmental and inter-agency meetings, with non-governmental organizations and professional groups, at academic conferences and with the media; (b) Providing policy advice and recommendations on substantive matters to the High Commissioner;

(c) Supplying information and advice on human rights to the Executive Office of the Secretary-General;

(d) Providing substantive support on human rights issues to the General Assembly, the Economic and Social Council and other policy-making bodies established in New York;

(e) Providing materials and information to the permanent missions, United Nations departments, agencies and programmes, non-governmental organizations, the media and others regarding the human rights programme;

(f) Providing support to the High Commissioner and other officials, and to special rapporteurs and representatives when on mission in New York;

(g) Undertaking other specific assignments as decided by the High Commissioner.

Research and Right to Development Branch

The Research and Right to Development Branch is headed by a Chief who is accountable to the High Commissioner. The core functions of the Research and Right to Development Branch are as follows:

(a) Promoting and protecting the right to development, in particular by: (i) Supporting intergovernmental groups of experts on the preparation of the strategy for the right to development; (ii) Assisting in the analysis of the voluntary reports by States to the High Commissioner on the progress and steps taken for the realization of the right to development and on obstacles encountered;

(iii) Carrying out research projects on the right to development and preparing substantive outputs for submission to the General Assembly, the Commission on Human Rights and treaty bodies;

(iv) Assisting in the substantive preparation of advisory service projects and educational material on the right to development;

(v) Providing substantive analysis and support to the High Commissioner in his or her mandate to enhance system-wide support for the right to development;

(b) Carrying out substantive research projects on the whole range of human rights issues of interest to United Nations human rights bodies in accordance with the priorities established by the Vienna Declaration and Programme of Action and resolutions of policy-making bodies; (c) Providing substantive services to human rights organs engaged in standard-setting activities;

(d) Preparing documents, reports or draft reports, summaries and synthesis and position papers in response to particular requests, as well as substantive contributions to information materials and publications;

(e) Providing policy analysis, advice and guidance on substantive procedures;

(f) Managing the information services of the human rights programme, including the documentation centre and library, enquiry services and the human rights databases;

(g) Preparing studies on relevant articles of the Charter of the United Nations for the Repertory of Practice of United Nations Organs.

Support Services Branch

The Support Services Branch is headed by a Chief who is accountable to the High Commissioner. The core functions of the Support Services Branch are as follows:

(a) Planning, preparing and servicing sessions/meetings of the Commission on Human Rights, the Subcommission on Prevention of Discrimination and Protection of Minorities and related working groups and of the committees established by human rights treaty bodies and their working groups; (b) Ensuring that substantive support is provided in a timely manner to the human rights treaty body concerned, drawing on the appropriate resources of the human rights programme;

(c) Preparing state party reports for review by the treaty body concerned and following up on decisions and recommendations;

(d) Preparing or coordinating the preparation and submission of all substantive and other documents and the support from other management units to the activities of treaty bodies serviced, and following up on decisions taken at meetings of those bodies;

(e) Planning, preparing and servicing sessions of boards of trustees of the following voluntary funds: United Nations Voluntary Fund for Victims of Torture, United Nations Voluntary Fund on Contemporary Forms of Slavery, United Nations Voluntary Fund for Indigenous Populations and United Nations Voluntary Fund for the International Decade of the World's Indigenous People, and implementing relevant decisions;

(f) Processing communications submitted to treaty bodies under optional procedures and communications under the procedures established by the Economic and Social Council in its resolution 1503 (XLVIII) of 27 May 1970 and ensuring follow-up.

Activities and Programmes Branch

The Activities and Programmes Branch is headed by a Chief who is accountable to the High Commissioner. The core functions of the Activities and Programmes Branch are as follows:

(a) Developing, implementing, monitoring and evaluating advisory services and technical assistance projects at the request of Governments; (b) Managing the Voluntary Fund for Technical Cooperation in the Field of Human Rights;

(c) Implementing the Plan of Action of the United Nations Decade for Human Rights Education, including the development of information and educational materials;

(d) Providing substantive and administrative support to human rights fact-finding and investigatory mechanisms, such as special rapporteurs, representatives and experts and working groups mandated by the Commission on Human Rights and/or the Economic and Social Council to deal with specific country situations or phenomena of human rights violations worldwide, as well as the General Assembly's Special Committee to Investigate Israeli Practices Affecting the Human Rights of the Palestinian People and Other Arabs of the Occupied Territories;

(e) Planning, supporting and evaluating human rights field presences and missions, including the formulation and development of best practice, procedural methodology and models for all human rights activities in the field;

(f) Managing voluntary funds for human rights field presences.

(Source: ST/SGB/1997/10, 15 September 1997, SECRETARY-GENERAL'S BULLETIN, ORGANIZATION OF THE OFFICE OF THE UNITED NATIONS HIGH COMMISSIONER FOR HUMAN RIGHTS)

Sergio Vieira de Mello

High Commissioner for Human Rights since 12 September 2002.

Killed in Baghdad on 19 August 2003.

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(注終わり)

国際連合の高等弁務官事務所に呼応してかどうかは不明であるが、ヨーロッパ人権条約と、ヨーロッパ人権裁判所とが国際的な組織として存在する。

「The European Convention on Human Rights (1950) was adopted under the auspices of the Council of Europe to protect human rights and fundamental freedoms.

1950年のヨーロッパ人権条約は、人権と基本的自由を保護するためにヨーロッパ委員会の主催で採択された。

(This Council should not to be confused with the Council of the European Union, which is not a party to the Convention and has no role in the administration of the European Court of Human Rights.)

(この委員会はヨーロッパ・ユニオン(EU)の委員会とは混同されるべきではない。EUはこの条約においては当事者ではなく、EUはヨーロッパ条約の人権の裁判所の運営には一切役割を果たしていない。)

Most Council of Europe member states are party to the Convention;

ヨーロッパの委員の国家の委員会は会議の当事者であることが多い。

those that are not are required as a condition of their membership to accede to the convention at the earliest opportunity.

最も早い機会に条約を受け入れたことはメンバーの条件として必要とされていない。

The official name of the Convention is the Convention for the Protection of Human Rights and Fundamental Freedoms.

条約の正式名称は、人権と基本的権利の保護に関する条約という。

・・・・

The Convention establishes the European Court of Human Rights.

条約はヨーロッパ条約の人権の裁判所を設立する。

Any person who feels their rights have been violated under the Convention by a state party can take a case to the Court; the decisions of the Court are legally binding, and the Court has the power to award damages. 国家の当事者によって条約のもとで権利が侵されたと感じた者は誰でも裁判所に訴訟を提起でき、裁判所の判決には法的に拘束力がある上に、裁判所は損害の賠償させる権力を持っている。

State Parties can also take cases against other State Parties to the Court, although this power is rarely used.

又国家の当事者は他の国家の当事者に対して訴訟を提起することができるが、この権力が使われることは稀である。

Freedom of thought (also called freedom of conscience) is the freedom of an individual to hold a viewpoint, or thought, regardless of anyone else's view.

思想の自由は(又良心の自由とも呼ばれるが)他の人がどのような見解を持っていようとも、個人がある見解、あるいは思想を持っている自由である。

The supression of freedom of thought is a prominent characteristic of totalitarian and authoritarian regimes, while freedom of thought is one of the fundamental principles of most democracies.

 思想の自由の抑圧は全体主義や権威主義の体制の顕著な特徴であるから、多くの民主主義国家においては思想の自由は基本的原理の一つである。

Freedom of thought can be limited in several ways - through censorship, arrests, book burning, or, more subtly, through propaganda.

検閲や、逮捕、焚書あるいはもっと小さなことでは宣伝等の様々な方法で思想の自由は制限される。

Freedom of thought can also be stilfed without institutional interference when the views of the majority become so widely accepted that other ways of thinking are repressed.

また、多数派の見解が非常に広範に受け入れられるようになり、他の考え方が圧迫されれば憲法違反の妨害がなくても、思想の自由が抑えられる場合がある。

For this reason, some condemn political correctness as a form of limiting freedom of thought.

このような理由から、差別語の禁止(差別されている人を擁護すること)は思想の自由を制限する一形態であると非難する者もいる。

For instance, the Sapir-Whorf hypothesis, which states that thought is inherently embedded in language, would support the claim that an effort to limit the use of words of language (french fries to freedom fries) is a form of restricting freedom of thought.

例えばSapir-Whorf(言語相対論)の仮説は、思想は言語の中に本質的に埋め込まれていると主張するので、ある言語の単語を使用することを制限しようとすること(フレンチ・フライは自由を油で揚げる)は思想の自由を制限する一形態となるであろうという主張を支持することになるであろう。

Freedom of thought is closely related to freedom of speech and freedom of expression.

思想の自由は、言論の自由と表現の自由と深く関係している。

In the Universal Declaration of Human Rights it is listed under Article 20:

Everyone has the right to freedom of thought, conscience and religion

普遍的人権宣言においては第20条で、すべての人は思想、良心及び宗教の自由を持つと宣言している。

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Prior to the entry into force of Protocol 11, individuals did not have direct access to the Court;

11条の権威に頼る前には、個人は裁判所に直接訴訟で接近することはできなかった。

they had to apply to the European Commission on Human Rights,

ヨーロッパ条約の人権の委員会に申請しなければならなかった

which if it found the case to be well-founded would launch a case in the Court on the individual's behalf.

もしその委員会がその事件がより深く審理されなくてはならないと発見すれば、個人のためにある事件を裁判所で審理開始するであろう。

Protocol 11 abolished the Commission, enlarged the Court, and allowed individuals to take cases directly to it.

11条は委員会を廃止して、裁判所を拡大し、個人が直接的に事件を裁判所に提訴することを認めた。

同時解決か、損害賠償請求のみの解決か。

独占禁止法に違反することが証明されない限り、憲法問題となり憲法違反とはならない。つまり日本の憲法論においては支配服従関係が存在しなければ、マーベリー対マディソン事件において国家の統治機構として命令服従関係が存在しなければならないとされたように、命令的差止はできないとされているのである。独占禁止法に違反することが証明されていない限りは強制加入団体の問題は生じないのであるから、信条の自由の問題は生じない。

しかし差止がされなければ、損害賠償請求ができないということはない。

それは共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号を使用しない場合である。損害賠償請求のみでも可能である。

もし差止ができるようなドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような制定法主義の国における結果や、ノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件とが存在していれば、例えもし外形上独占禁止法に違反していることによる差止が認められなくても、独占禁止法に違反することが明白であるとするならば、憲法学的な不平等な取り扱いについての不平等という概念は憲法上の問題となりうる。つまり差止は衡平法上の命令的差止の権威によるものではあるが日本では損害賠償請求というコモンローの体系においては不法行為法に属する「著しい損害」という概念とを同時に内包させたので差止ができない場合でもドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文による市場の結果と、ノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件とが両方存在しているのであるから憲法学的な権威によって不平等な取り扱いについての不平等という概念は憲法上の問題となりうると考えられる。もしも差止という衡平法上の命令的差止の権威が最高裁判所に認められないのであれば、独占禁止法に違反することが独占禁止法に違反していることによる差止がなくても認められるべきであり、同時解決ということではないということになるが、もし差止が認められるということになれば、共同の取引拒絶の法令を使用する限りは、解決はほぼ同時ということになる。

これが判決としては世界的にも最初の独占禁止法に違反していることによる差止が認められることになり、法の支配における法の権威と最高裁判所の権威は増大することになる。

差止の衡平法上の命令的差止の権威と、信条の自由による差別の禁止が使用できる憲法学的な権威と、独占禁止法に違反していることによる差止が命令的差止としてできることとは同時に解決されることとなる。これは本件事件においては入会拒否が結果としてドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文による結果が生じているので、取引拒絶を使用する限りは強制加入団体の問題と、ノースウェスト判決におけるような2条件が存在しているという市場の条件と、ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような制定法主義の国における条文に習って、日本においてはアメリカのように判例法として定立されてきていないのであるが、ガイドラインにおいて例示がなされているので共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号を適用してアメリカのノースウェスト判決におけるような当然違法の共同ボイコットにあたるとして、また結果的に事業活動が困難になっているというドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような制定法主義の国の制定法を適用しても同様の判決ができるようにするべきである。

アメリカのノースウェスト判決におけるような当然違法のような共同ボイコットにあたるとすることは日本の法令がアメリカの法令を継受しているのでほぼ同様の結論が出る。ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような制定法主義の国の場合には厳格な結果を要請しているが、本件事件においては入会拒否が問題となっているが事業実績報告書という厳格な結果があるのであるからドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような制定法主義の制定法と同様の結論を出すことができるといえる。

これまで、テープを出し損なっていた分

1、規約があとで作られた分であるという県庁職員の証拠の会話

2、「すでに(相続税の割当は理事会で)決まっていたことだ」という言葉。

3、自由競争の結果による価格

日高市の固定資産税の鑑定評価報酬料(自由競争の結果)。 円単価。

山口 節生 39000

西園哲治 39800

鈴木 58000

同時点修正率の鑑定評価報酬料(自由競争の結果) 。 円総額 件数は順に75,76,75件でありほぼ同数。

山口 節生 390000

西園哲治 300000

鈴木 700000

4、座談会における国の機関の側からの「固定資産税の標準地の評価がもう少し安く節約できないか。」という話

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

差止損害賠償請求事件のための による法廷助言

上告法廷助言書兼上告受理法廷助言書

平成17年 月 日

最 高 裁 判 所 御中

上記事件において最高裁判所での破棄自判あるいは東京高等裁判所への破棄差戻しの令状を得るための上告人を支援するための法律助言

氏名

所属

住所(勤務先)

電話番号

上告人との金銭的関係の有無

有(内容

与えられた質問

控訴審において、現行独占禁止法の下で、共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号に該当しないとした控訴審の判断は誤りであるのか。

特に以下の点に留意されたい。

独占禁止法違反事件

事業者団体の性格によっては入会拒否は共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号に該当する場合があると考えられるがそれはどのような場合か。どのような法解釈によるのか。その解釈は妥当であると考えられるか。ドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文や、アメリカにおいてもノースウェスト判決におけるような当然違法のような共同ボイコットにあたる入会拒絶との関係はどのようなものであるのか。

その場合に法の改正案としてはほとんどすべての条文はアメリカのように競争の実質的制限という公正競争阻害性という独占禁止法違反の実質的要件のみを審理するべきであると考えられるが、差止が事業者団体の性格によって独占禁止法第8条1項5号のみに限定されている場合に、競争の実質的制限と独占禁止法第8条1項5号とは法条競合になるのか、各条単独の適用になるのか。

入会拒否が共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号に該当するとした場合に、日本においては法的に共同ボイコットをさせるという独占禁止法第8条1項5号の行為においては、当然違法のような概念構成によって違法とすべきか。

外形によって違法とする場合にアメリカの場合の様に標準化がなされていなくて可能であるのか。

結果によって違法とする場合にはドイツの競争制限禁止法第20条第6項のような条文による制定法が欠けているがその場合の対処方法はあるか。

差止の要件である「著しい損害」論をどのように位置付けるか。

憲法問題

強制加入団体における人権問題について。特に信条の自由や、裁判を受ける権利との関係や、内部情報の申告の禁止等について。

英米法

衡平法上の差止と法定された差止の要件について。差止と無効の英米法における差異について。

衡平法上の差止をフランス民法の継受であった日本の民法の体系に取り込むことは可能であるか

日本の独占禁止法に違反していることによる差止に該当する場合にはどの程度に衡平法上の差止との類似性を認めるべきか、あるいは、日本においては英米法と違った差止の概念が考えられうるか。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(20)

平成17年8月10日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

個人の自由と外的強制の問題は問題とせずに謝罪広告が認められた理由

国家論的にいって、AMA事件において謝罪広告の命令が認められた理由は個人の自由とは違ってAMAの団体の自由は強制によって侵されるものではないとされたからである。公共的な団体の自由に対する処置について外的強制の問題は問題となることはないであろう。謝罪広告が認められた理由はここにある。

Cf. Wilk v. American Medical Ass'n, 895 F.2d 352 (7th Cir. 1990) (enjoining the AMA's boycott against chiropractors and ordering the AMA to mail the injunction to every AMA member and to publish it in the Journal of the American Medical Association(カイロプラクターに対するアメリカ医師会のボイコットを禁止する命令、および、AMAに対してAMAの会員に手紙を送ることを強制的に命令する差止命令、またアメリカ医師会の機関紙にそのことを掲載することを命令する差止命令の決定) even though 30,000 chiropractors who were never parties to the case would benefit from the injunctive relief), cert. denied, 496 U.S. 927, and cert. denied, 498 U.S. 982, 112 L. Ed. 2d 524, 111 S. Ct. 513 (1990).

その理由は次のような理由であった。

「Under the Sherman Act, every combination or conspiracy in restraint of trade is illegal.

シャーマン法によれば、競争制限のすべての結合と共謀は違法である。

The court has held that the conduct of the AMA and its members constituted a conspiracy in restraint of trade based on the following facts: the purpose of the boycott was to eliminate chiropractic; chiropractors are in competition with some medical physicians; the boycott had substantial anti-competitive effects; there were no pro-competitive effects of the boycott; and the plaintiffs were injured as a result of the conduct.

医者の担当分野の一部とカイロプラクティック業界が競争的な関係にあったので、カイロプラクティックを排除しようとしたことがボイコットの目的であること、このボイコットは本質的に競争制限的な効果を持っていること、競争促進的な効果はなかったこと、また原告はその行為の結果損害を被ったこと、の4つの事実を基礎にしてアメリカ医師会とその会員の行為は、取引の制限の共謀となっていると裁判所は認定した。

These facts add up to a violation of the Sherman Act.これらの事実を総合してシャーマン法の違反となった。

The district court also found a continuing injury to chiropractors' reputation as a result of the boycott.

また地方裁判所はボイコットの結果として、カイロプラクティックの評判に対する継続的な損害を認定した。

Because the AMA has never made any attempt to publicly repair that damage, the court found that chiropractors will continue to suffer injury to reputation from the boycott.

その損害を公的に修復するどのような試みも行って来なかったので、ボイコットは評判に対する損害を発生させて、与え続けるだろうと裁判所は認定した。

671 F. Supp. at 1486-87.

    The AMA's publication of its changes and its settlements were not enough, in the eyes of the district court, to overcome these harmful effects.

アメリカ地方裁判所は、医師会による変更の表明と、和解条件ではこれらの損害を与えた効果を補うのに充分ではないと判断した。

The AMA has not convinced us that the district court was wrong in this assessment. アメリカ医師会によって、この和解条件については地方裁判所が悪かったということをカイロプラクティック側は理解していない。[88]

The AMA's strongest challenge comes to the district court's findings with respect to the lingering effects on chiropractors' incomes. カイロプラクティック業界に長引く効果を与え続けていることを地方裁判所は認めたことにアメリカ医師会は非常に強く異議を申し立てた。

The court found that the injury to chiropractors' incomes threatened to continue through the date of trial.裁判の公開中ずっとカイロプラクティック業界の収入に損害を与え続けていることについて裁判所は認定した。

671 F. Supp. at 1487.

For this it relied on plaintiffs' expert's analysis regarding chiropractic income levels through 1986.これは1986年のカイロプラクティック業界の収入の水準にについての専門家の分析によっている。

(Jt.App. 57.)

The court found this continuing harm existed, even though plaintiffs' expert's last data point showed that chiropractors' income in 1984 exceeded that of podiatrists and optometrists -- the comparable professions.原告側の専門家による最近のデータのポイントは、カイロプラクティック業者の1984年の収入は、比較できる職業である足専門医や検眼医の1984年の収入を上回っていたにもかかわらず、この継続的な損害を裁判所は認定した。

671 F. Supp. at 1487. 」

その理由は卑近な例で言えば、次のような理由が考えられる。

「道路を修理することは共有物を修理することであり、そのためには所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めている点を認めたとしても、公共の利益のためには憲法の行使が認められるのである。

それと同様のことが独占禁止法に違反していることによる差止の命令性において言えることになる。」こう書いたが、詳説する。

これまでの公正取引委員会による審決はこの点を無視して、事業者団体の性格によっては当然違法のような概念構成によって違法である場合があるのに、すべての理由を入会拒否に当たっては認めたきたのである。どのような理由であっても民法上の理由であっても、どのような屁理屈であってもである。これは事業者団体の自由を無制限に認めてきたということにほかならない。入会拒否はすべて認められてきた。これは事業者団体について深く哲学的に考察してくればほとんど明白であるのに公正取引委員会は全く考察することなく、事業者団体について事業者団体の性格によって憲法上の問題があるにもかかわらず、無制限の自由を認めてきたということである。

その哲学をここであらためて解釈するとすればカント的な個人の意志の自由と、外的な強制の問題を事業者団体における意志の決定に持ち込んだところに、道路を買収するときに外的な強制によって收用がなされる場合があるという点との相違を区別できなかった点があったのではないかと解釈できる。

憲法によって信条の自由による差別の禁止が使用できることはこのように公的な側面を持っていることだけで十分であるのか、強制加入ができうるような事業者団体の性格によって憲法の行使ができると考えられるのか。支配服従関係が存在しなければ命令できないとする説は公的な側面を重視し、強制加入団体でなければできないとする説は独占禁止法に違反していることによる差止の公的な性格に注目している。しかしその差は小さいといえる。どちらにしろ判決は可能である。

公的な側面を持っていることだけで十分であるのかは公的な側面が公共の利益が侵され続けているという事態を回避するために公共の利益を回復しようとしているという論理が形成されうるか、それが憲法の行使が憲法学的な権威によって可能かという必要十分条件の問題となっている。

一方では独占禁止法に違反する事件として公共の利益が侵され続けているという事態を回避するために独占禁止法上法的に命令的差止は公共の利益を回復するために行われるのであるという論理は、独占禁止法のみによってすべての経済的自由の憲法上の問題が解決できるという論理によって組み立てられている。これによれば命令的差止は独占禁止法のみによって国家によって命令することができることになる。これはLRAの原則が使用される場合に憲法上の問題が存在する故にLRAの原則が使用されるのであるという論理と、独占禁止法に違反していることによる差止が必要な場合にLRAの原則が独占禁止法のみによって適用されるという論理を採るのかという問題と似ている。個別法は一般法に優先するという法諺によって憲法を一般法、個別法を独占禁止法ととらえるならば、独占禁止法のみによって解ける事件であれば憲法を使用する必要はないということになる。

さて憲法を使用しようとする場合には事業者団体の性格が事業とは異なった公共的な側面を持っていることだけで十分であるのかは別としても、公共の利益が侵され続けているという事態を回避されなくてはならないことは重要な意味を持っている。公共の利益が侵され続けているという事態を回避する方法として公共の利益を守るために公共的な方法を使う必要があるという場合に、憲法と独占禁止法のどちらを使用するべきかという問題はやはり一般法と特別法の問題に還元される。

この法諺は一般法が広い範疇を持っているのであり、その範疇内にある特別法で解決できるのであればそれで充分ではないのかという法律適用の方法を原則として適用しているのであろう。

憲法適用の謙抑の姿勢であると考えることができる。

従ってこの謙抑の姿勢の現れとして一般法と特別法の議論が持ち出されるのであればそのような理論は憲法上の謙抑の姿勢であるとして切り捨てた方がよいと考えられる。事業者団体については独占禁止法において法的規定が設けられたのである。法定された差止の要件についてアメリカでは衡平法上の命令とは区別している。しかし法的議論は衡平法上の差止と法定された差止の要件について日本の法体系に取り入れるのであるから日本国憲法の基本的権利や国家の統治機構の論理は法的議論においては必要である。憲法を含めた日本の法的体系に衡平法上の差止と法定された差止の要件を取り入れるのであるからである。

注:憲法と競争あるいは独占禁止法の問題について述べているものは次のものがある。

樋口陽一「憲法論にとって「競争」とは――ひとつの覚え書き」(稗貫 俊文編「競争法の現代的諸相 厚谷襄兒先生古稀記念論集(上)(下)」信山社出版;大学図書〔発売〕 (2005-02-15出版)所収 )

向井久了「憲法と独占禁止法」(稗貫 俊文編「競争法の現代的諸相 厚谷襄兒先生古稀記念論集(上)(下)」信山社出版;大学図書〔発売〕 (2005-02-15出版)所収 )注終わり

事業者団体の性格が所有権の絶対が認められている個別事業者の共同の行為であるという点において、共同不法行為が認められるのである。

共同の行為でありかつ事業者団体が事業者の所有権の絶対が越えている範疇の事柄についてのみ取り扱うのであるから、その行為が個人の尊厳と所有権の絶対を侵さないように差止が認められるのである。

道路は一般的に言えば一般人すべての人が自由に使用可能な場合に道路なのである。

数人が使用するための共有物としての通路は道路ではない。数人はその他の人々に対して所有権の絶対性から生ずる妨害排除の請求権を有しているからである。しかしあくまでも共有の道路であり、共有者の意図に縛られる。共有者が所有権の絶対性を主張できるのはいつでも共有を解消して、所有に変更できるからである。共有は所有と同様の意味を持つ。ところが各個別企業は所有権の絶対性をそれぞれの企業において主張できるのであって、事業者団体が共有を行い、共有を解消して、所有権を主張しようという意図は全く存在していない。逆に各個別企業が共同の行為を行おうとする場合には独占禁止法に違反していることによる差止が可能となるような行為をみなされるのである。

独占禁止法においては公共の利益というものが独占禁止法を公法とみる場合には独占禁止法の存在の重要なメルクマールである。

逆に商法においては各事業者の所有権の絶対性は商法のメルクマールである。従ってこの両者の差止は一方は所有権から外れたところにある差止であるのに対して一方は所有権の絶対性による差止の救済であるからすぐ隣にあるが全く正反対であるということになる。所有権は絶対であるがすぐその隣にあるすべての人が使える道路は公共の福祉に適合しなければならない。

事業と事業者団体の性格はそこに大きな違いがある。被上告人はすべての構成事業者に100%の承諾によって合意して各企業の所有権の絶対性の延長上にあるようなものによって合意が形成されたのであるから、事業者団体の性格によっては所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めている点を事業者団体にも認めるべきであるという主張を行っている。

カルテルが行われ、市場割当が100%である社会においてはそれは妥当であるようにみえる。そして個人の絶対性からくる所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めている点を拡張したような自由な意志の許可を尊重しているように見える。しかしそれはナチスの時代ならばいざしらず、「違憲であることを意識しながら、あえてこれを強行するというようなことは、ナチ政権下の違憲立法のごとき、いわば革命的行為をあえてしょうとするような場合」は別として認められないのである。事業者団体の性格によって事業者団体の意志の完全な自由は所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めることはできない。

団体の意志決定の自由は所有権の絶対性や、個人の自由の絶対性には全く関係しないそれとは全く逆のそれとは隣にあるが道路とかと同様のものであるという点において事業者団体の性格によって事業者団体に課せられた責務の観点から制限されているのである。

「命令的差止という差止の一形態は衡平法上の命令的差止の権威によってunfair な状態を是正するものであって、公共の利益のためには憲法の行使が可能であるということしか示しておらず、個人の意思の自由と外的な強制の問題とは関係がほとんどない。殺人を犯したものに殺人を犯すなという強制を行うのとほぼ同様のことが現行犯逮捕やらと同様に独占禁止法に違反していることによる差止の場合にもできるのかという問題である。」

こう書いたがこの点は補充する必要がある。

事業者団体の性格によっては当然違法のような概念構成によって違法となるような行為があるにもかかわらず、自由な意志が存在し、個人の自由と同様の妨害排除の請求権があると考えている。個別的所有権である個別企業の自由については株式会社制度においては経営と所有が分離したが、株主の差止請求権が認められている。

被上告人においては支配力のあるものが共同の行為として、意志を形成し圧倒的多数によって意思決定しているため所有権から認められる意志の自由が存在するかのような口ぶりである。しかしそれは他の個別企業の所有権から生ずる妨害排除の請求権を無視している。

個人の自由と外的強制の問題は謝罪広告が認められた憲法21条は言論の自由を無制限に保障しているものではない。

個人の自由と個人の尊厳との関係はほとんどない。

理由は個人の自由に関する定義の問題である。

憲法上の議論をよんでいるのは事業者団体の性格によっては憲法に違反するおそれがあるということである。これは個人の尊厳という憲法上の理由から発生している。公共の利益が侵され続けているという事態を回避するためには憲法の公共的な権威によって差止が可能であるということになる。

だから個人の尊厳を述べたのである。個人の尊厳を理由として憲法上差別されている人を擁護することは憲法に合致している。

個人の自由という文言は公共の利益を守るという前には制限されなくてはならない。

信条の自由による差別の禁止が使用できることは個人の尊厳という平等の概念から発生するのであって、その場合にのみ差止は衡平法上の命令的差止の権威によって認めてきたということにほかならない。

田中二郎裁判官によれば「日本国憲法一三条の冒頭に、「すべて国民は、個人として尊重される」べきことを規定しているが、これは、個人の尊厳を尊重することをもつて基本とし、すべての個人について人格価値の平等を保障することが民主主義の根本理念であり、民主主義のよつて立つ基礎であるという基本的な考え方を示したものであつて、同一四条一項に、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定しているのも、右の基本的な考え方に立ち、これと同一の趣旨を示したものと解すべきである。右の条項には、人種、信条、性別などが列記されているが、多数意見も認めているように、これらの列記は、単にその主要なものの例示的列記にすぎず、したがつて、これらの列記事項に直接該当するか否かにかかわらず、個人の尊厳と人格価値の平等の尊重・保障という民主主義の根本理念に照らして不合理とみられる差別的取扱いは、すべて右条項の趣旨に違反するものとして、その効力を否定すべきものと考えるのである。

近代国家の憲法がひとしく右の意味での法の下の平等を尊重・確保すべきものとしたのは、封建時代の権威と隷従の関係を打破し、人間の個人としての尊厳と平等を回復し、個人がそれぞれ個人の尊厳の自覚のもとに平等の立場において相協力して、平和な社会・国家を形成すべきことを期待したものにほかならない。日本国憲法の精神もここにあるものと解すべきであろう。」ということになる。

日本国憲法一三条の冒頭に、「すべて国民は、個人として尊重される」べきことを規定して、それを基本的な考え方にして同一四条一項が規定されていると考えられているのである。個人の尊厳を認める故にこそ、差別されている人を擁護することは憲法上も許されるのであり、個人の尊厳を無視した本件事件においては入会拒否をそのように憲法問題として学問的に解くのであり、入会拒絶との関係では憲法にも独占禁止法にも違反していることによる差止が認められるのは公共の利益が侵され続けているという事態を回避することを憲法上も認めることになるのである。この場合の公共の利益の中には個人の尊厳と人格価値の平等をも含んでいると言うことができ憲法上も問題とすることができるのである。

事業者団体の性格は政治にも影響しているが、これは法律的判断には影響を与えるべきではない。法律は守られる必要がある。

事業者団体は怖いものである、選挙で応援を受けなければ当選できないと国会議員の多くが思っている。しかし事業者団体の意志が国会の意志であり、国会が代表している国民の意志であると思ってはならない。それによって消費者や国民の利益が損なわれるならば公共の利益が侵され続けているという事態を回避するために公共の利益を回復するために独占禁止法に違反していることによる差止が認められる必要がある。

確かに選挙のときには多くの事業者団体が応援を行う。しかし一方でアメリカによる構造協議も事業者団体によるものである。そのようなロビィイングの結果としての国会の法律と、憲法は守られる必要がある。それは競争上のルールのようなものである。

日本の独占禁止法に関する弁護士の状況

第二弁護士会では過去の研修記録によれば

U『独占禁止法に新設された差止請求制度』/小林覚・柄澤昌樹(二弁)があったが、柄澤昌樹弁護士の日常の弁護取り扱い分野は「民事事件全般、特に会社関係・債権回収・交通事故・民事介入暴力・労働・マンション等の不動産・相続・離婚等家族の問題など」であるとされており。やはり独占禁止法は公共の利益が侵され続けているという事態を回避するのが目的であり、日常の弁護取り扱い分野とは全く関係しないそれとは全く逆の分野の事件であるということができる。

借地・借家・金銭貸借などに関するご相談を芝信用金庫でされている小林覚弁護士についても同様である。平成17年2月10日現在

◎第二東京弁護士会法律研究会での研究活動は、外部研修として認定されています。経済法 研究会 渡邉 新矢 毎月 第2火曜 幹事・小林 覚 (esperanza-law@nifty.com)

活動概要(定例会テーマより一部抜粋)

・ 独占禁止法入門講座

・ 私的独占の禁止及び企業結合規制

・ 差止訴訟を巡る諸問題

・ 業界規格とパテントプール

ではあるが。従って現在はまだ独占禁止法と差止に関しては初歩の段階である。特にこれまでは損害賠償請求が認められたケースが3件しかなく独占禁止法の実務はほとんど皆無であったといってよい。アメリカにおいてはノースウェスト判決におけるような当然違法のような共同ボイコットにあたる独占禁止法に違反していることによる差止が必要な事件が多数取り締まられ、それを予防するためにコンプライアンス体制が確立されているために多くの弁護士が独占禁止法を職業として活躍している。

経済の価値に関する唯一の資格は不動産鑑定士試験である。一方で独占禁止法は経済に関して命令的に法的な公共的な理由で強制し、命令できる唯一の法である。この二つは不動産鑑定士試験においても学ばれ試験されなくてはならないであろう。

経済は自由経済であるから自由である。しかしだからといって独占をすることは許されない。競争制限することは許されない。カルテルを行うことが個人の意思の自由と外的な強制の問題があるにもかかわらず許されない。カルテルを許せば一円のものが一億円で売れるのである。

しかしこの分野においては法律家が少ない。いたとしても罰金をまけてやるという程度の弁護士しかいない。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(21)

訴訟の迅速化の申立書

平成17年9月26日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

仮処分の必要性については、法的な論理構成によって申し立てをすることができるか。訴訟の迅速の申し立ては法的に論理的に構成を行うことができるのか。この二つは同じ論理であるのか違っているのか。

大学院とかの教育的授業は基礎的な素養を学ぶものである。ここは大学院ではないが根本問題に至ったときには原理に戻って考慮するのも一つの方法論である。

本件事件においては入会拒否が問題となるとすれば、他の業界のことも考慮して、一般の他の事業の例から、取引の安全や、事業活動の予測可能性について述べることも解決の一つの手法である。。

「電力供給の安定性と公平性の確保」平成14年5月16日電 気 事 業 分 科 会 資 料http://www.enecho.meti.go.jp/denkihp/bunkakai/8th/8thsiryo3.pdf

について考察し、他の事業の例からも考慮することとする。

「1.電力系統の形成・運用ルールに対する社会的信頼の確保

・・・・・・

Aルールの内容(公平取扱い確保の要請の高まり)

 我が国の現行制度では、なお7割の規制部門が存在し、新規参入も当

面限定的と見られたこと等にかんがみ、送電部門における@新規参入者

の事業活動の予見可能性の向上、A一般電気事業者が新規参入者との関

係で不当な利益を上げないことの担保が、制度の主たる目的と考えられ、

一般電気事業者の自主的措置を基本として対応してきた。

 しかし、今後、上記のとおり新規参入が拡大し、或いは広域流通が活

性化し、供給区域間をまたいだ電力供給が広くなされるようになると、

大規模発電施設を擁する複数事業者間の調整が必要となる局面が増大。

 その場合、これまで以上に、社会的ルールの下で、新規参入者のみで

なく、全ての事業者が公平に取り扱われていることについても担保・確

認し得るようにすることが求められてきている。

公平性確保のポイント

 これまでの内外の事例を参考にすると、以下の4点に集約可能。

 なお、我が国においては、これまでは、限定的な新規参入を前提と

して、送電部門において@新規参入者の事業活動の予見可能性の向上、

A一般電気事業者が新規参入者との関係で不当な利益を上げないこと

を確保することに主眼。しかし、新規参入や供給区域をまたいだ電力

取引が拡大し、大規模発電施設を擁する複数の事業者による市場での

競合が進展することを想定すると、これに加え、市場に参加する全て

の事業者に対する取扱いの公平性確保に対する要請が増大。(前出p

3c)A参照)

事業者が予見可能性を持って将来の設備形成等の判断を適切に行うこと

により、効率的に電力の安定供給を確保するとともに公平・透明な競争

環境を整備し、競争を活性化するため、広く市場参加者が納得し得る全

国規模の「社会的ルール」の整備・充実の必要性が増大。」

「制度設計に当たっての基本的視点

我が国経済活動及び国民生活の基盤となる電力の安定供給を効率的に達成し得る公正

かつ実効性のあるシステムの構築に向けて、今後の電気事業制度はいかにあるべきかと

の諮問に基づき、本分科会では、これまで5回にわたり我が国現行制度や海外の自由化

事例の検証、我が国電力需給構造の検討等を行ってきた。」

「我が国においても、市場との対話を通じて合理的に行動する、

責任ある事業主体としての民間事業者の自主性を最大限活用することが、電力供給シス

テム全体の効率化(高コスト構造の是正)を進める上で重要ではないか。加えて、下記

の事項が確保されなければ、市場の評価が事業活動に的確に反映されず、却って電力供

給システムに大きな混乱をもたらすおそれがあるのではないか。

@制度改革の今後の見通しや個別運用に関する予見可能性の確保

事業者が合理的判断をなし得る前提として、予見可能性があることが重要。特に、

固定資本形成のウェートの高い電気事業の特性に鑑みれば、リスク算定を容易にす

る観点から、予見可能性の確保への要請は高い。

具体的には、@制度改革の将来見通しの明示、A規制等のルールの透明化・客観

化が重要ではないか。

A制度の公平性の確保

事業活動を行う場において制度の公平性が確保されなければ、公正な競争が阻害

され、効率的な電力供給システムの構築につながらないおそれがあるのではないか。

B自由な事業活動を制約する規制等の最小化

事業者の行動が、必要以上の規制等により制約されると、民間活力が十分発揮し

得ず、効率的な電力供給システムの構築に至らない可能性があるのではないか。」

第3回 電気事業分科会 基本問題小委員会 議事要旨◎日時:平成14年12月2日(月)14:00〜15:20場所:経済産業省 1120共用会議室(別館11階)においては次のように議論されている。

「○制度の実現時期に若干のズレがある。全部揃うまで一番後ろの方に合わせようというのではなく、整合性を保ちつつ、可能なものは出来るだけ早く実現して欲しい。

全面自由化について。今後、供給される需要家が低圧あるいは家庭用を含めてどうなるかは今後の電源計画を考える上で大きなウェートを占める。いつ全面自由化を行うかが明らかになれば予見性が高まる。それが無理だとしても、いつ頃までにその判断を下すのかを含めて全面自由化についてどう考えるか、をメッセージとしてきちんと出して欲しい。

○事務局に質問。この点は次回予定している分科会で相当具体的なものになるのか。

○どういう形で将来の予見可能性を高めるかは、当然考慮要因になる。分科会で、そこをどう固めるかという問題。現時点でどうするという方針はない。

○需要家による自由化範囲の拡大要請は、ひとつの大きな要件。また、全体制度の整合性、特に、消費者から、家庭用の自由化をする場合には十分な検証を行って欲しいという要請がある。加えて、事業予見性を明確にするために最終のところまではっきりして欲しいという要請が出ている。そこを十分に勘案してスケジュールをつくって欲しいという要望を本委員会から出したい。」

「将来の設備形成等の判断を適切に行う」と記載されているように電力事業は設備形成が必要であり、独占禁止法上は必須施設の問題が考慮されるべき事業分野である。「一般電気事業者が新規参入者との関係で不当な利益を上げないことの担保が、制度の主たる目的と考えられ」るとされているように必須施設の独占による独占的地位の確保及びそれによる不当な利益あるいはそれと同様の裏表の関係にある消費者の利益が損なわれるならば公共の利益が侵され続けているという事態を回避するために独占禁止法に違反していることによる差止が必要な事例が電気事業の分野においても存在すると考えられる。不動産鑑定事業の分野においても公共の利益を回復するために独占禁止法によって差止が事業者団体の性格によっては行われるべき場合として本件事件においては入会拒否事件として退けられる事業者団体の性格の概念が要求されているのであって、その概念とは事業者団体の性格の問題であり、憲法上の強制加入と道徳的倫理的な自由の問題ではあるが、客観的に見れば事業分野における事業活動の予測可能性や取引の安全の問題である。この問題は公共の利益の問題であり、個人の倫理的な自由の問題ではない産業政策の問題であり、消費者の利益を目的とした公共政策の問題である。この問題は商売が破壊されるまで待たされることが正当かどうかという問題と通じている。

商売の問題は公共の問題であり、破壊されるまで待つべきであるという論理は事業活動が困難であるという事態を裁判所が放置することが法的に問題がないということである。ここに必要なのは取引の安全というような消費者の側から見た論理である。取引の安全は取引相手の第三者の安全の確保の問題であるが、事業活動の破壊は広く一般消費者の利益を害することになるのである。これを憲法上の問題として 取り上げるとすれば広く職業選択の自由ということになるであろう。職業選択の自由は選択する側から見れば自由の問題であるが、逆に消費者の側から見れば一般消費者の利益の問題であるということになる。

競争を導入することについてのこのような観点は教育政策についても同様に言えることである。

「中央教育審議会 義務教育特別部会 (第20回)議事録・配付資料[資料2]

2, 将来にわたり確実に保障されること(確実性・予見可能性). 3, 地方の自由を縛るものではないこと(自由度) ... 総額8兆9357億円<うち、, 都道府県が事業主体であるもの,6兆4066億円. 市町村が事業主体であるもの, 2兆5291億円> ...」

「奨励的補助金と異なり、国の責任で優先的に予算措置されるものであり、財源確保の確実性・予見可能性については、地方案と比較して、国庫負担」

「規制緩和推進3か年計画−トラック事業関連抜粋

貨物運送取扱事業の運賃・料金規制, 貨物運送取扱事業の運賃・料金の事前届出制について、原価計算書の添付の廃止、事後届出 ... 契約に広く適用される明確で予見可能性の高い要件を備えた民事ルールの検討について結論を得て、所要の法的措置を講ずる。」

「特許裁判はスピード処理と判決の予見可能性が大切だ・・・・・知的財産の価値を生かすためには、紛争のスピード処理と判決の予見可能性を高めることが重要で、少なくとも特許紛争解決は欧米並みのスピードにすることが絶対条件です。」(株式会社東芝取締役 代表執行役社長 岡村 正 氏 Tadashi Okamura 1962年(昭和37年)東京大学法学部卒、東京芝浦電気(現東芝)入社。94年取締役、2000年取締役社長、03年6月取締役代表執行役社長就任。東京都出身。)※1/26付日本経済新聞朝刊に抄録を掲載。

本件事件においては入会拒否が問題となっているが、不動産鑑定は一種の知的財産権である。

東アジア経済統合と日米中関係─日本の戦略はどうあるべきか─ RIETI上席研究員 宗像直子(RIETI(独立行政法人経済産業研究所)とは、中長期的に戦略的な視点に立った世界的レベルの調査分析・政策研究に基づき、創造的かつ斬新な政策議論を誘発する新たなプラットフォームとして、2001年4月1日に設立された非公務員型の独立行政法人です。)

「貿易障壁を下げ、事業活動の自由を拡大し、予見可能性を高め、投資の利益を守る。海外の事業環境を改善したいのは、相手国も同じである。したがって、第2は、相手国の目線でみて、日本の事業環境を魅力的なものにすることだ。」

「事業用借地権制度の概要

旧借地法の下では、契約更新を拒絶できる事由が極めて制限されていることなどが借地の円滑な供給に当たっての障害となっていたこと等を踏まえ、平成3年に公布された借地借家法により、定期借地権制度が創設された。

 事業用借地権は、その一類型であり、

@事業の用に供する建物(居住の用に供するものを除く。)の所有を目的とすること

A存続期間が10年以上20年以下であること

B設定契約を公正証書によってすること

という要件を満たすことにより、契約更新に関する規定をはじめとする下記の規定が適用されないこととされた。

これにより、土地所有者にとって契約の終了と土地の返還について高い予見可能性が確保され、借地供給の拡大を通じて土地の有効利用の促進を図ることが期待されている。」

「日米投資イニシアティブ

2003-2004

写真提供:内閣広報室

小泉総理大臣とブッシュ大統領

対日直接投資は、昨年5月に設置した総合案内窓口を通じて780の投資案件が発掘されるなど、着実に進展しています。5年間での倍増目標に向け、外国企業にとって日本を魅力ある市場にしてまいります。

(2004年1月19日 小泉純一郎内閣総理大臣)

外国企業は、米国の労働者の質の高さを理解しており、多くの外国企業が米国を選択し、工場を建設している理由の一つとなっています。

(2004年3月10日 ジョージ・W.ブッシュ大統領)」(日米投資イニシアティブ)

「日本:高い潜在力とビジネスチャンス

● UNCTAD(国連貿易開発会議)による対内直接投資の潜在力指数の比較において、日本は140カ国中12位であり、投資先として高い潜在力が認められています。

● 特に、世界のGDPの約15%を有する巨大な市場、熟練した人材や高い技術力、安全・快適な生活環境、また、アジア市場を一体としてとらえた場合のビジネスのハブ機能といった面での魅力を有しています。さらには、投資先としての観点からは、高い知的財産権保護レベルをはじめとしたビジネス、経済インフラが整備されており、信頼性と予見可能性に優れた投資環境が提供されています。

● 日本の実質GDP成長率は、2002年第1四半期から8期連続でプラス成長を示しており、特に、2004年第1四半期のGDP成長率は年率換算で5.6%となっています。個人消費が堅調に伸び、設備投資が順調に回復しており、企業収益に関しては製造業及び非製造業の両方において上昇しています。これらは日本経済が長く続いた低迷から脱却しつつあることを示しており、国内市場でのビジネスの可能性を引き上げ、日本市場への参入に関心を有する企業に対しポジティブなメッセージとなっています。

米国:外国直接投資は米国経済に大きく貢献

● 米国は、世界各国から多くの直接投資を惹きつけています。投資誘致に関する米国の成功は、そのしっかりした法制度、開かれた経済、高い教育水準と生産性の高い労働力、FDIを歓迎する姿勢といった米国の投資環境に基づくものです。外資は米国経済に大きく貢献しています。米国における外国企業による雇用は640万人、経済規模は米国の民間GDPの約6.5%を担っており、このうち日本企業は80万人の雇用とGDPの約1%を占めています。

日米両国は外国直接投資を歓迎します」(日米投資イニシアティブ)

http://japan.usembassy.gov/pdfs/wwwf-invest20040609broc-j.pdf

予見可能性について差止を含めて経済犯の場合に、考察を行う必要がある。

大 塚  裕 史 神戸大学大学院法学研究科教授には次の論文がある。

(注) 大 塚  裕 史 (刑事法) ◆略歴 1950 年・神奈川県生まれ。1969 年・神奈川県立湘南高等学校卒業、1975 年・早稲田大学法学部卒業。1979 年・早稲田大学法学修士。1986 年・早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得満期退学。1986 年・早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程公法学専攻研究生、1991 年 〜1998 年・海上保安大学校法学講座助教授・教授、1998 年〜 2003 年・岡山大学法学部教授を経て、 2003 年・神戸大学大学院法学研究科教授。(注終)

・ 「監督過失における予見可能性論 (1) 〜 (4)」早稲田大学法研論集 48 号, 50 号, 52 号, 54 号 (1988 〜 1990),「同 (5) 〜 (10)」海上保安大学校研究報告法文系 37 巻 2 号, 38 巻 1=2 号, 39 巻 2 号, 41 巻 1 号, 42 巻 1 号, 43 巻 1 号 (1997 〜 1997)

・ 「予見可能性」中山研一 = 米田泰邦編『火災と刑事責任』 (成文堂)(1993)

・ 「アメリカ刑法における過失責任論と刑事制裁の限界」鈴木義男先生古稀祝賀『アメリカ刑事法の諸相』 (成文堂)(1996)

・ 「予見可能性の判断構造と管理・監督過失」刑法雑誌 36 巻 3 号 (1997)

・ 「予見可能性論の展開と今後の課題」刑法雑誌 38 巻 1 号 (1998)

・ 「「結果」の予見可能性―客体の特定性をめぐって―」岡山大学法学会雑誌 49 巻 3=4 号 (2000)

  ・ 「薬害エイズと具体的予見可能性」佐々木史朗先生喜寿祝賀『刑事法の理論と実践』 (第一法規)(2002)

● 翻訳

・ 破産犯罪―破産犯罪の経営学的原因の調査と発現形態―西原春夫 = 宮澤浩一監訳『クラウス・ティーデマン著・経済犯罪と経済刑法』 (成文堂)(1990)

・ 不作為犯西原春夫監訳『イェシェック = ヴァイゲンド・ドイツ刑法総論 [第 5 版]』 (成文堂)(1999) 

また、消費者契約法検討委員会では契約社会における公正な予見可能性について差止を含めて考察がなされている。

「消費者契約法検討委員会では,平成11年6月より合計11回の会合を開き,取引の実情やトラブルの実態等を踏まえ,公正で予見可能性の高いルールを策定するという観点から,立法によって措置するにふさわしいものを採用すべく検討を行った。

 こうした様々な観点からの検討を経て,本委員会は,消費者契約法を制定するに当たっての基本的な考え方について,次のような結論を得たので,報告する。

 今後,消費者契約法の制定に当たっては,本報告の趣旨を尊重して早急に立法が行われることを期待する。併せて,公正で予見可能性の高いルールを策定する観点から,法律の規定の仕方についてさらに検討し,その内容をできる限り明確なものとするよう一層の努力を行うとともに,その解釈を解説書等で明らかにするなど様々な工夫を通じて,法律の内容の周知徹底を図ることを期待する。特に, 本法の制定によって現在民法その他により消費者が持っている権利は何らの制約を受けないことについては,十分周知徹底する必要がある。さらに, 本法が趣旨通り機能するようにその具体的内容を踏まえて,必要な消費者教育の在り方などについて十分検討し,適切な対策がとられるべきである。」

独占禁止法に違反していることによる差止が必要な事件においては消費者の利益が一般的に阻害されていることが問題である。一消費者の保護ではなく全消費者の保護と事業活動の保護が目的とされている。

私訴と事業活動の回復しがたい損害

私訴においては事業活動が困難であるという点に着目してクレイトン法Section 16 "requires a showing only of ‘threatened’ loss or damage"「第16条は損失あるいは被害の「おそれ」だけを証明するように要求している」のであるし、日本の独占禁止法も「第24条・・・その利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者・・」として将来におけるおそれを強調して、「その侵害の停止又は予防を請求することができる。」としているのである。

この観念は仮処分を法的に要請しているとみることができるのである。

仮処分は本訴の確定までの一時的な回避の手段である。訴訟の迅速化も何らかの損害を防ぐためであることが多い。従って損害という一点においてはほぼ同様の原因で申し立てがなされるものである。クレイトン法Section 16 "requires a showing only of ‘threatened’ loss or damage"「第16条は損失あるいは被害の「おそれ」だけを証明するように要求している」のであるが、日本の独占禁止法も「第24条 第8条第1項第5号又は第19条の規定に違反する行為によつてその利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、これにより著しい損害を生じ、又は生ずるおそれがあるときは、その利益を侵害する事業者若しくは事業者団体又は侵害するおそれがある事業者若しくは事業者団体に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。」として全く同じ論理構成を採っている。

一方で民事保全法においては「(仮処分命令の必要性等)第23条 係争物に関する仮処分命令は、その現状の変更により、債権者が権利を実行することができなくなるおそれがあるとき、又は権利を実行するのに著しい困難を生ずるおそれがあるときに発することができる。」としている。

独占禁止法違反によって所有権の移動などができなくなるのであるから、日本国憲法では所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めている点に鑑みても憲法上も仮処分は本訴の確定までの一時的な回避の手段ではあるが、一時的な回避ができなければその期間の憲法上の権利が失われるのであるからその後に損害賠償請求が認められたとしても回復不可能な損害があると考えられ、自由競争が確保されなかった場合の期間的な損失の計算が不可能な以上は憲法上も法律上も仮処分の必要性については法的妥当性を主張することができると考えられる。おそれによって規制が可能に法的になっているということは将来に注目しているのであって過去のことをいっているのではない。予備的差止や仮処分の必要性については同様に将来における損害を差し止めることを要件とするであろう。

回復不可能な損害があるという場合の回復不可能性については差止の要件と類似している。金銭的な賠償によっては回復できないということがエクィティの法上の原則であるとした判決がアメリカにおいてはあり、先に紹介したが、この場合の回復できないとは不公平な損失を被っている場合に該当することは即ち不公平性故に憲法上の問題として回復不可能な損害が存在するといいうるのである。

それは憲法上の問題であり、金銭的な賠償によっては回復できないということがエクィティの原則である。憲法によってしか回復できないということである。差止は憲法と深く関係があることになる。

このように法的に主張する場合の憲法とは、統治機構ではない。人権である。回復が金銭によってできる場合というのは人権が否定されていないときである。人権は回復不可能である。人権の否定は死と同様の意味を持っている。

独占禁止法に違反していることによる差止が必要な事件においては特に仮処分や訴訟の迅速性が必要な理由は何であるのか。他の事件の場合との違いは何であるのか。

アメリカでは次のインターグラフ対インテル会社事件(アラバマ州裁判所1998年)においては「予備的救済の必要性」として次のように述べている。

Integraph Corporation vs. Intel Corporation Case : 1998 : S.D Alabama

インターグラフ対インテル会社事件、アラバマ州裁判所1998年

Intergraph Corporation, Plaintiff vs. Intel Corporation, Defendant

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In the United States District Court for the Northern District of Alabama Northeastern Division, CV 97-N-3023-NE

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Memorandum of Opinion and Preliminary Injunction

判決および予備的差止の要旨

H.

H章

Necessity of Preliminary Relief to Prevent Threatened Anti-Trust Harm.

反トラスト法上のおそれを防止するための予備的救済の必要性

Section 16 of the Clayton Act ("§16") specifically provides for preliminary injunctive relief for threatened antitrust law violations, stating as follows:

クレイトン法16条は、反トラスト法のおそれに対する予備的救済を特に認めているとして次のように述べている。

"Any person, firm, corporation, or association shall be entitled to sue for and have injunctive relief . . . against threatened loss or damage by a violation of the antitrust laws . . . ."

「個人、会社、企業あるいは組織は・・・反トラスト法の違反による損害あるいは損失のおそれに対抗して・・・差止の救済を求めて私訴を起こし、差止の救済を得る権利がある・・・」

15 U.S.C. §26;

15 U.S.C. §26

see also Cargill, Inc. v. Montfort of Colo., Inc., 479 U.S. 104, 111, 107 S. Ct. 484, 93 L. Ed. 2d 427 (1986)

カーギル社対モントフォルト社事件479 U.S. 104, 111, 107 S. Ct. 484, 93 L. Ed. 2d 427 (1986) をも参照。

(Section 16 "requires a showing only of ‘threatened’ loss or damage").

(「第16条は損失あるいは被害の「おそれ」だけを証明するように要求している」)

The legislative history of §16 clearly shows a strong Congressional policy supporting preliminary injunction because an antitrust plaintiff "does not have to wait to be ruined in his business before he has his remedy."

反トラスト法の16章の歴史においては反トラスト法の私訴の原告は「救済が行われることがなく商売が破壊されるまで待たされるべきではないので」、議会の政策は予備的な差止を強く支持していることを示している。

Id. at 112 n.8.

同掲書、112、注8。

注:同掲書はEastman Kodak, 504 U.S. at 484, 112 S. Ct.

A monopolist cannot use the pretext of protecting intellectual property in order to violate the antitrust laws. Image Technical Serv., 125 F.3d at 1218-1219 ("Neither the aims of intellectual property law nor the antitrust laws justify allowing a monopolist to rely upon a pretextual business justification to mask anticompetitive conduct.")(citing Eastman Kodak, 504 U.S. at 484, 112 S. Ct. at 2019).

Courts have granted preliminary injunctions when there is a serious antitrust issue, serious harm to an antitrust plaintiff and little or no harm to defendant.

反トラスト法上の違反があり、反トラスト法の原告に重大な損害を与えているにもかかわらず、被告にはほとんどあるいは全く損害を与えない時に裁判所は予備的な差止を認めてきた。

Bergen Drug Co. v. Parke, Davis & Co., 307 F.2d 725 (3d Cir. 1962);

ベルゲン薬品社対パークデービス社、307 F.2d 725 (3d Cir. 1962);

Stenberg v. Cheker Oil Co., 573 F.2d 921 (6th Cir. 1978);

ステンバーグ対チェッカーオイル社573 F.2d 921 (6th Cir. 1978);

Foremost Int'l Tours, Inc. v. Quantas Airways, Ltd., 379 F. Supp. 88, 97 (D. Haw. 1974),

フォアーモスト国際旅行社対カンタス航空社事件., 379 F. Supp. 88, 97(ハワイ地方裁判所。1974年)

aff’d 525 F.2d 281 (9th Cir. 1975),

認容525 F.2d 281 (9th Cir. 1975),

cert. denied, 429 U.S. 816, 97 S. Ct. 57, 50 L. Ed. 2d 75 (1976);

差戻し棄却、429 U.S. 816, 97 S. Ct. 57, 50 L. Ed. 2d 75 (1976);

Gilder v. PGA Tour, Inc., 936 F.2d 417, 422-24 (9th Cir. 1991)

ギルダー対PGA旅行社, 936 F.2d 417, 422-24 (9th Cir. 1991)

(preliminary injunction upheld prohibiting enforcement of rule banning type of golf club).

(予備的差止によってゴルフクラブの禁止条項の強制を禁止する差止を支持した)

Courts often grant mandatory injunctions when necessary to remedy an antitrust violation.

裁判所は反トラスト法違反を矯正する必要があるときには命令的差止を認めてきた多くの事例がある。

Bergen Drug Co., 307 F.2d at 726

ベルゲン薬品社, 307 F.2d at 726

(preliminary antitrust injunction granted based on rule of equity that a court may "by mandatory injunction compel a restoration of the status quo" pending final resolution of the case).

(裁判所は「命令的差止によって現状に回復を強制することが」できるという衡平法上の原理に基づいて反トラスト法上の予備的差止は認められた)

"District courts are invested with large discretion to model their judgments to fit the exigencies of the particular case."

「個別の事件における緊急性に応じて判断を形成するために地方裁判所には大きな裁量権が与えられている。」

United States v. Glaxo Group Ltd., 410 U.S. 52, 64, 93 S. Ct. 861, 35 L. Ed. 2d 104 (1973)

合衆国対グラクソグループ会社, 410 U.S. 52, 64, 93 S. Ct. 861, 35 L. Ed. 2d 104 (1973)

(stating that mandatory selling on specified terms or compulsory licensing of intellectual property are appropriate antitrust remedies);

(特別な条件で売るように命令する差止や、知的財産に対する強制的な免許は反トラスト法上の救済には適正であると述べている。);

Image Technical Serv., 125 F.3d 1195

イメージ・テクニカル・サービス事件, 125 F.3d 1195

(upholding a permanent injunction compelling Kodak to sell its spare parts and related equipment to plaintiffs for all existing copiers and all new model copiers Kodak introduced during the 10-year term of the injunction).

(差止の10年間の期間の間にコダックを需要するすべての現在のコピーする人々のために、また新規のモデルの需要者のコピーする人のために、コダックが原告にスペアーの部品や関連する機材を売るように強制する永久的差止を支持している。)

I. Public Interest in the Anti-Trust Laws.

T 反トラスト法における公共の利益

The Court concludes that Intergraph has antitrust standing to assert its antitrust claims against Intel as a former microprocessor competitor (the "Clipper technology") of Intel, as a current competitor of Intel in the graphics subsystem market, as a potential competitor in related markets utilizing CPUs, and as a long-standing customer/competitor of Intel, dependent on Intel as the sole source provider of high performance CPUs and related technical information necessary for Intergraph to compete. The Court is aware, and takes judicial notice, of the current Federal Trade Commission investigation of Intel involving claims of similar conduct toward others by Intel (such as withholding technical information). The Court is also aware of the pending government antitrust case against Microsoft involving claims of monopoly leveraging similar to those made against Intel in this case.

The court is also aware of the important public interest and policies in enforcement of the antitrust laws. Given the clear monopoly power of Intel in the market for high performance CPUs and in the market for its own CPUs, and given the evidence of joint action by Intel with some of Intergraph’s competitors to persuade Intergraph’s customers to boycott Intergraph, the Court concludes that Intergraph has established a likelihood of success in proving antitrust violations of Sections 1 and 2 of the Sherman Act.

In light of the strong purposes behind the antitrust laws, to prevent threatened harm to competition and to protect potential and actual competition, the court concludes that a preliminary injunction is necessary and appropriate to restore the status quo so that Intergraph will not be driven out of business or severely impaired pending trial.

 反トラスト法の背後の目的に照らしてみても、反トラスト法の背後には競争に対する損害のおそれを防止するという強い目的があり、潜在的な競争と現実の競争を保護しようという強い目的があるのであるから、本件事件によってインターグラフが商売の場から追放されるか、事業活動が困難とならないように現状を維持するために裁判所は予備的な差止が必要であり、適切であるとした。

これに対して命令的差止については別途考察すべきであるという見解もある。

UNITED STATES DISTRICT COURT DISTRICT OF CONNECTICUT

合衆国コネチカット地方裁判所

BRISTOL TECHNOLOGY, INC., Plaintiff, vs. MICROSOFT CORPORATION, Defendant.

原告ブリストル・テクノロジー会社、対、被告マイクロソフト会社事件。

Civil Action No.: 3-98-CV-1657 (JCH) December 30, 1998

1998年12月30日、市民訴訟No.: 3-98-CV-1657 (JCH)

MEMORANDUM OF DECISION ON MOTION FOR PRELIMINARY INJUNCTION

予備的差止のための申し立てについての決定の論旨

II. DISCUSSION

U 決定

A. Preliminary Injunction Standard.

予備的差止の基準

The fundamental purpose of granting preliminary injunctive relief has always been to preserve the court’s ability to later render a meaningful final decision on the merits by preventing irreparable harm in the interim.

差止の仮処分の認容の基本的な目的は、ほとんどの場合には回復不可能な被害を暫定的に予防することによるメリットがあるので、意味のある最終的な決定を将来行うことができるように裁判所が保全しておくことであった。

See United States v. Adler’s Creamery, Inc., 107 F.2d 987, 990 (2d Cir. 1939);

合衆国対アドラーズクリーメリー会社, 107 F.2d 987, 990 (2d Cir. 1939);

11A Charles Alan Wright et al., Federal Practice and Procedure, ァ 2947, at 121 (2d Ed. 1995).

11aチャールズ・アラン・ライト他著「連邦法の実際と手続」121頁(第2版、1995年編)

The issuance of a preliminary injunction rests in the sound discretion of the trial court. Doran v. Salem Inn, Inc., 422 U.S. 922, 931-32 (1975); American Express Fin. Advisors, Inc. v. Thorley, 147 F.3d 229, 232 (2d Cir. 1998).

予備的差止の執行は事実審の裁判所の妥当な裁量に信頼して、任されている。

In the often-cited language of Jackson Dairy, Inc. v. H.P. Hood & Sons, Inc., the second Circuit set forth the standard that normally must be met to warrant issuance of a preliminary injunction:

ジャクソンデアリー会社対HPフッドアンドサンズ会社事件判決から頻繁に引用されるように、第2巡回裁判所は予備的差止の実行を保証する一般的な基準を示している。

The standard in the Second Circuit for injunctive relief clearly calls for a showing of (a) irreparable harm and (b) either (1) likelihood of success on the merits or (2) sufficiently serious questions going to the merits to make them a fair ground for litigation and balance of hardships tipping decidedly toward the party requesting the preliminary relief.

第2巡回裁判所が差止の救済のために示した基準は、(a)回復することができない損害(b)(1)差止から得られる諸メリットが成功する可能性、あるいは(2)予備的差止を要求している当事者が確定的に困難に直面していることを、法的に正当な理由にしているメリットを充分に重大な問題であると論理化していることを明白に証明することを要求している。

596 F.2d 70, 72 (2d Cir. 1979).

596 F.2d 70, 72 (2d Cir. 1979).

Under the first prong of this standard, the movant " need not show that success is an absolute certainty…. The may remain considerable room for doubt."

この基準の第一の部分では原告側は「成功する事が100%確実であるという事を証明する必要はない。・・・疑わしい余地がある事を相当程度に残しておくことでも足りる。」

Abdul Wali v. Coughlin, 754 F.2d 1015, 1025 (2d Cir. 1985).

アブドゥル・ワリ対コーリン事件, 754 F.2d 1015, 1025 (2d Cir. 1985).

However, when the preliminary injunctive relief granted is deemed mandatory, rather than prohibitory, the Second Circuit has prescribed a higher standard.

しかしながら、予備的差止による救済が禁止的であるよりもむしろ命令的であるとみなされる時には、第2巡回裁判所はより高いハードルを基準として設定している。

16

Tom Doherty Assoc., Inc. v. Saban entertainment, Inc., 60 F.3d 27, 33-34 (2d Cir. 1995).

 トム・ドロシー協会会社対サバン・娯楽会社, 60 F.3d 27, 33-34 (2d Cir. 1995).

In both Abdul Wali and Tom Doherty, the Second Circuit has provided that "a mandatory injunction should issue only upon a clear showing that the moving party is entitled to the relief requested, or where extreme or very serious damage will result from a denial of preliminary relief."

アブドゥル・ワリ対コーリン事件とトム・ドロシー協会会社対サバン娯楽会社において、第2巡回裁判所は「命令的差止は事実審の当事者が要求している救済を受ける権利を非常に明白に証明しているか、あるいは、予備的救済が否定されるならば、完全な損害か、非常に重大な損害を結果として受けるだろうと明白に証明したときにだけ執行されるべきである」と判断した。

17

Tom Doherty, 60 F.3d at 34 (quoting Abdul Wali, 754 F.2d at 1025).

トム・ドロシー協会会社事件, 60 F.3d at 34(アブドゥル・ワリ事件の754 F.2d at 1025を引用している。)

Accordingly, in addition to establishing a likelihood of irreparable harm, a party seeking a mandatory injunction must make a clear or substantial showing of likelihood of success on the merits.

そのような理由から、回復不可能な損害の可能性を立証することに加えて、命令的差止を求める当事者は命令的差止から生ずるメリットの生ずる可能性を明白にかつ実質的に証明しなければならない。

18

Tom Doherty, 60 F.3d at 34.

トム・ドロシー協会会社事件, 60 F.3d at 34

(注)

これ以降は次のように判決が続けている。

Microsoft argues that an injunction compelling it to turn over intellectual porperty that Bristol has no contractual right to receive would be a mandatory injunction.

In response, Bristol argues that the preliminary relief it seeks would merely maintain the "status quo," continuing the WISE agreement by providing Bristol with the needed source code. However, the new NT product versions, numbered 4 and 5, contain new and different intellectual property than product version NT 3 that was provided under the 1994 WISE contract would obligate Microsoft to deliver the NT4 or NT 5 source code to Bristol. Moreover, Bristol acknowledges that the "status quo" it refers to is one of expectation, not reality. Bristol’s Reply Mem. At 42 ("Microsoft itself expected to extend WISE to NT4.0 and 5.0). The court is, therefore, persuaded that the preliminary relief sought is not "status quo" relief, but rather in the nature of a mandatory injunction. Thus, the heightened standard applies.

B. Irreparable Harm.

The court turns first to the issue of irreparable harm. Bristol must establish that there is a likelihood of irreparable harm "before the other requirements for the issuance of an injunction will be considered." Reuters, Ltd. V. United Press Int’l, Inc., 903 F2d 904, 907 (2d Cir. 1990). To satisfy this prong, Bristol must demonstrate that the injury "is neither remote nor speculative, but actual and imminent and that [it] cannot be remedied by an award of monetary damages." Shapiro v. Cadman Towers, Inc., 51 F.3d 328, 332 (2d Cir. 1995) (internal quotation marks omitted). "[T]he harm must be so imminent as to be irreparable if a court waits until the end of trial to resolve the harm." Rodriguez v. DeBuono, F.3d ---, No. 97-9152(L), 1998 WL 831899, at *5(2d Cir. Nov.16, 1998) (per curiam).

Microsoft argues that there can be no irreparable harm because Bristol has large cash reserves ($4 million). Thus, Microsoft claims, there is no threat of Bristol’s going out of business. This argument misses the essence of the harm here. That Bristol may have cash available, and may be willing to infuse that cash into a company with little or no product to sell, does not mean that Bristol would not be "out of business" as that phrase is used in the irreparable harm context. This court does not read "out of business" to be equivalent to Chapter 7 bankruptcy, but rather to refer to substantial loss of business accompanied by loss of good will.19 Compare Jack Kan Music Co. v. Baldwin Piano & Organ Co., 604 F2d 755, 763 (finding no irreparable harm) with Jacobson & Co., Inc., 548 F2d 438, 445 (2d Cir. 1997) and Interphoto Corp. v. Minolta Corp., 417 F2d 621,622 (2d Cir. 1969) (concluding that loss of goodwill is incalculable). Under this standard, Bristol has demonstrated irreparable harm.

Wind/U has been Bristol’s principal product and revenue generator since its creation.20 Although Bristol provides consulting services and sells a few other products, this case is not like others in which the plaintiff had many other lines or product to sell. See, e.g., Jack Kahn Music, 604 F.2d at 759 (noting that plaintiff sold numerous makes and models of pianos and organs in addition to defendant’s terminated line). Wind/U is almost the entirety of Bristol’s business.

The bulk of Bristol’s business will disappear without access to the new Microsoft source code before trial. Bristol’s ISV customers seek to release Windows and UNIX versions of their application programs when Microsoft releases NT 5. Therefore, Bristol must release its updated Wind/U product at about the time of Microsoft’s NT 5 release. Microsoft is likely to ship NT 5 toward the end of 1999. Bristol requires six to eight months from the time that it receives Microsoft’s source code to develop its product for use by ISVs.21 Thus, even if this case could be tried in June of 1999 and judgment was entered in Bristol’s favor, it would be too late for Bristol to develop a new Wind/U product to meet its customer’ needs.

Further, Bristol has demonstrated that it will clearly suffer significant if not complete loss of goodwill if it does not obtain the NT 5 source code immediately. See Tom Doherty, 60 F.3d at 38. Its reputation as a company capable of developing and maintaining a product that can port Windows-based applications to UNIX-based systems is presently being damaged. Without the preliminary relief it seeks, Bristol cannot assure its customers that it will, at the time NT 5 is released, have a Wind/U product that will port the NT 5 applications they are now writing.

Microsoft argues that, because Bristol has done well in its business over the last two years without having received any new code, it cannot now show irreparable harm. This argument is without merit. Over the past two years, Bristol, its customers and Microsoft all expected Bristol to receive NT 5 source code and to be able to develop a Wind/U product for NT 5 prior to its release date. So long as the issue date of NT 5 was at least six to eight months in the future, these expectations were reasonable because Bristol had sufficient time to receive the code and develop a Wind/U product for NT 5. Thus, no goodwill was being lost. This is not the situation today. The fact that any harm Bristol faced over the last year was not imminent and irreparable is not inconsistent with a finding that it now faces such harm. Contrast Rodriguez v.DeBuono, --- F.3d ---, No. 97-9152(L), 1998 WL 8731899, at *5 (2d Cir. Nov. 16, 1998) (per curiam) (holding that entry of preliminary injunction based on finding of irreparable harm, followed by entry of stay that required finding of no such harm, is error).

Finally, Microsoft argues that this court is required to find a lack of irreparable harm because Bristol delayed in commencing this action and is itself the cause of any harm that is now claims to suffer. The court agrees that either delay or self-inflicted harm can be fatal to a motion for a preliminary injunction. See Citibank, N.A. v. Citytrust, 756 F.2d 273, 277 (2d Cir. 1985) (holding that delay in prosecuting a claim of infringement vitiates an assertion of irreparable harm). But see Tom Doherty, 60 F.3d at 39-40 (finding irreparable harm despite some delay in plaintiff seeking to enforce its alleged rights). However, the facts do not support a finding of unreasonable delay or self-inflicted harm here.

First, whatever delay there was in commencing this case is explainable. There is evidence that Bristol began considering a lawsuit several months before eventually filing one. Given the complexity of the legal and factual issues raised by this litigation, however, this court does not find such a delay unreasonable. Satisfaction of their obligations under the Rules of this court could have taken counsel and plaintiff some significant period of time. Further, Microsoft was negotiating with Bristol into August to reach a new contract. Bristol is entitled to attempt to avoid the harm alleged here through negotiation instead of litigation. Tom Doherty, 60 F. 3d at 39.

Microsoft’s "self-inflicted" argument also fails. The fact that Bristol refused to accept the contract terms for an "apple core" of NT 5 source code cannot mean that Bristol caused itself the harm of which it complains. Bristol claims that, even if it signed the limited WISE extension offered by Microsoft, competition would have been injured because the offered terms have an anticompetitive intent and effect. Although the ultimate determination of the merits of that argument must await trail, Bristol’s assertion and evidence offered in support of it are sufficient to undercut any suggestion that Bristol caused itself the harm it complains of by not accepting the proffered contract terms.

Therefore, the court finds that Bristol has established that it is likely to suffer irreparable harm before this case can be tried. The court must now address whether Bristol has clearly shown a likelihood of success on the merits.22

C. Likelihood of Success on the Merits.

1. Antitrust Standing and Injury.

Before turning to the particular antitrust claims asserted by Bristol, the court must determine if Bristol has made a clear showing that it has antitrust standing to assert those claims, Automated Salvage Transport, Inc. v. Wheelabrator Environmental Sys., Inc., 155 F.3d 59, 78-79 (2d Cir. 1998); Calderone Enters. Corp. v. united Artists Theatre Circuit, 454 F. 2d 1292, 1295 (2d Cir. 1971), and that it claims an injury of the type the antitrust laws are designed to prevent. Cargill, Inc. v. Monfort of Colorado, Inc ., 479 U.S. 104, 109-11 (1986); Brunswick Corp. v. Pueblo Bowl-O-Mat, Inc., 429 U.S. 477, 489 (1977). Unless Bristol can demonstrate both standing and injury, it cannot maintain an antitrust claim.23

a. Antitrust Standing.

The Supreme Court has identified five factors to be considered in determining whether a party has antitrust standing:

(1) the causal connection between the antitrust violation and the harm to the plaintiff, and whether the harm was intended;

(2) the nature of the injury, including whether the plaintiff is a consumer or competitor in the relevant market;

(3) the directness of the injury, and whether the damages are too speculative;

(4) the potential for duplicative recovery, and whether the apportionment of damages would be too complex; and

(5) the existence of more direct victims.

Associated Gen. Contractors of California, Inc. v. California State Council of Carpenters, 459 U.S. 519, 538-544 (1983). 24 This articulation elaborated on a prior decision, in which the Court cautioned against "cabin [ing] ァ 4 in ways that will defeat its broad remedial objective." Blue Shield of Virginia v. McCready, 457 U.S. 465, 477 (1982). With this direction in mind, the court turns to the allegations in this case.

There can be little question of the causal connection between the alleged antitrust violation and the harm to Bristol. Bristol has challenged Microsoft’s refusal to license sufficient source code for NT 5 to make UNIX-plus-Wind/U a viable competitor to Windows NT 5. The harm to Bristol through loss of sales and goodwill in not merely causally connected; it is directly connected. See Crimpers Promotions, Inc. v. Home Box Office, 724 F. 2d 290, 294 (2d Cir. 1983). Moreover, there is ample evidence that Microsoft intended to harm Bristol with respect to limiting the effectiveness of its Wind/U product.

Therefore, not only is the first factor of Associated General Contractors present, but the third as well. Bristol’s injury is a direct result of Microsoft’s alleged antitrust behavior. It could be argued that the amount of lost Wind/U sales may be difficult to establish; it cannot be argued, however, that such damages are speculative.

In addition, there is no real risk of double recovery. This fourth Associated General factor rests on the concern addressed at length by the Supreme Court in Illinois Brick Co. v. Illinois, 431 U.S. 720 (1977). In that case, the consequence of the anticompetitive behavior was passed on by the direct purchaser to its customer in the form of a higher price. Thus, the same injury was suffered first by the original purchaser and then by subsequent purchasers. In the present case, as in McCready and Crimpers,.Bristol alleges an injury that is neither the same injury nor a "pass on" of any injury that other potential victims may suffer. See McCready, 457 U.S. at 465-66; Crimpers, 724 F. 2d at 293- 94. The destruction of Bristol’s entire cross-platform business is different in kind and degree from the loss of sales or market share that makers of UNIX-based operating system companies may face as a result of the conduct alleged. Thus, the potential for double recovery is virtually non-existent.

With regard to the fifth factor, there are clearly other victims, most obviously the makers of UNIX-based operating systems. However, the alleged anticompetitive behavior has no more direct victim than Bristol. Even if it is assumed that Microsoft’s behavior is part of its strategy to eliminate all UNIX-based operating systems, Microsoft has allegedly chosen the elimination or weakening of cross-platform makers, like Bristol, as a means to accomplish that end.

The last factor to be addressed, the nature of the injury, is the one most vigorously attacked by Microsoft. It argues that Bristol does not have standing because it is not a consumer or competitor of Microsoft’s. This court is not persuaded that only competitors and customers, as traditionally understood, have standing. See Crimpers, 724 F. 2d at 292 ("[A} plaintiff need not be a direct competitor in the market in which defendants operate."). However, based on the evidence before it at this time, the court finds that Bristol has clearly shown that it is indeed a competitor of Microsoft.

By providing an extension to the UNIX-based operating system, Bristol competes with Microsoft directly. 25 In selling Wind/U to OEMs and ISVs, Bristol theoretically makes all Windows applications operable on UNIX systems. Given that 60,000 applications will be available when the NT 5 operating system reaches market, and given the consumer acceptance generally of the Windows "environment", Bristol must be recognized as more than a mere supplier. 26 Bristol offers a product that makes a UNIX operating system competitive with Microsoft’s operating systems in a way that a UNIX operating system alone is not. See Image Technical Services, Inc. v. Eastman Kodak Co., 125 F. 3d 1195, 1204 (9th Circ. 1997), cert. denied, 118 S. Ct. 1560 (1998). Thus, Bristol has standing to assert its claims under the antitrust laws.

b. Antitrust Injury.

Antitrust injury is "injury of the type the antitrust laws were intended to prevent and that flows from that which makes defendants’ act unlawful." Brunswick, 429 U.S. at 697. Analyzing antitrust injury forces courts "to connect the alleged injury to the purposes of the antitrust laws." II Phillip E. Areeda & Herbert Hovenkamp, Antitrust Law カ 362, at 210 (rev. ed. 1995).

Assuming that a violation has occurred, 27 Bristol has made a clear showing that it has suffered an antitrust injury. The gravamen of Bristol’s claim is that Microsoft has used its monopoly power in one market to gain an unfair competitive advantage over Bristol in two other, related markets. Bristol further alleges that Microsoft’s refusal to license its full source code is an anticompetitive act that will serve to diminish the level of competition in those two markets.

The harm caused by a monopolist’s anticompetitive acts, such as those alleged here, constitute precisely the type of injury that the antitrust laws were designed to prevent. In addition, the harm from such acts flows directly from the anticompetitive effect of the challenged behavior. Unlike the plaintiff in Brunswick, Bristol does not seek damages for lost profits it would have received if competition had been reduced. Cf. 429 U.S. at 488. Rather, Bristol claims that competition with Microsoft will be lessened due to Microsoft’s allegedly anticompetitive refusal to license its complete source code. Bristol has thus shown a substantial likelihood that it will be able to prove antitrust injury at trial.

Microsoft’s arguments to the contrary misperceive Bristol’s claim and the concept of antitrust injury under Section 2.28 A Section 2 plaintiff need show only that the injury is "of the type the antitrust laws were intended to prevent and that flows from that which makes defendants’ acts unlawful." Brunswick, 429 U.S. at 697. "[T]he antitrust laws do not require a plaintiff to establish a market-wide injury to competition as an element of standing." Doctor’s Hosp. of Jefferson, Inc. v. Southeast Med. Alliance, Inc., 123 F.3d 301, 305 (5th Cir. 1997). Moreover, even if such injury to competition were required to establish antitrust injury in Section 2 claims, Bristol has demonstrated such injury. Bristol has alleged that Microsoft’s acts have not only injured Bristol, but have damaged competition in the operating systems markets generally. See Complaint at カ 70 ("The intended purpose and the effect of Microsoft’s course of conduct with regard to Bristol is to eliminate competition from UNIX and other non-Windows operating systems in the long run."). If Bristol prevails on its claims, then it will have proven harm of the sort the antitrust laws are designed to prevent, not just to itself, but to competition in general.

(注終)

反トラスト法―経済理論とコモンローの発展―Antitrust Law Economic Theory and Common Law Evolutionという本においてボストン大学Boston Universityの ヒルトン教授Keith N. Hylton は

「Third, Professor Hylton integrates a jurisprudential perspective into the analysis that looks at antitrust as a vibrant field of common law.

第三に、ヒルトン教授はコモンローの活気のある分野として反トラスト法を見る分析に統合できる一つの法学的見方を提示している。

This last perspective leads the author to address issues of certainty, stability, and predictability in antitrust law, and to examine the pressures shaping its evolution.

この最後の見方によって著者は反トラスト法における取引の安全と、法的安定性と、法的予見可能性の諸問題を取り上げることが可能となっている。

それによって反トラスト法の進歩発展に対する圧力を検証することが可能となっているのである。」

という論理を展開している。

学者の立場からはギリシャ・ローマ時代に価格カルテルがあって法的な問題であったとしている反トラストの教科書が多い。これからすると反トラスト法を独占禁止法形成期以前のコモンローから説明しようと試みようとするのは理の当然であろう。「コモンローの活気のある分野として反トラスト法を見」てそれまでにもコモンローの中にあった概念である「取引の安全と、法的安定性と、法的予見可能性の諸問題を」取り上げて統一性をもたせようとするのは理の当然であろう。しかし差止は衡平法上の命令的差止の権威として行われるとすればこれだけでは済まないというアメリカの最高裁判所が下した判決を考慮すれば、エクィティの法上の原則である差止をどのように扱うかも問題としなければならなかったといえるであろう。

本件事件においては入会拒否をそのように憲法問題として学問的に解くのはコモンローから説明しようと試みようとするのでは解けない問題をエクィティの法上の原則である差止を利用して解かなければエクィティの法上の原則である平等の原則にもとるということなのである。

(注):原文

Antitrust Law

Economic Theory and Common Law Evolution

Keith N. Hylton

Boston University

Paperback (ISBN-10: 0521793785 | ISBN-13: 9780521793780)

Also available in Hardback | eBook format

Published March 2003 | 430 pages | 228 x 152 mm

In stock (Stock level updated: 17:57 GMT, 30 September 2005)

£22.99

This book is an effort to consolidate several different perspectives on antitrust law. First, Professor Hylton presents a detailed description of the law as it has developed through numerous judicial opinions. Second, the author presents detailed economic critiques of the judicial opinions, drawing heavily on the literature in law and economics journals. Third, Professor Hylton integrates a jurisprudential perspective into the analysis that looks at antitrust as a vibrant field of common law. This last perspective leads the author to address issues of certainty, stability, and predictability in antitrust law, and to examine the pressures shaping its evolution. The combination of these three perspectives offers something new to every student of antitrust law. Specific topics covered include perfect competition versus monopoly, enforcement, cartels, section 1 doctrine, rule of reason, agreement, boycott, power, vertical restraints, tying and exclusive dealing, horizontal mergers, and conglomerates.

? Most up-to-date text on US antitrust law for law students and economics graduate students

? Book’s orientation is comprehensive in its coverage of topics; contains very little mathematics

? Professionals interested in law and economics will find this a useful resource; fills a real gap in the legal classroom

Contents

Part I. Economics: 1. Definitions; 2. Perfect competition versus monopoly; 3. Further topics; Part II. Law and Policy: 4. Some interpretations issues; 5. Enacting the antitrust law; 6. What should antitrust law aim to do?; Part III. Enforcement: 7. Optimal enforcement theory; 8. Enforcement provision of the antitrust laws; Appendix; Part IV. Cartels: 9. Cartels; 10. Conscious parallelism; 11. Conclusion; Part V. Development of Section 1 Doctrine: 12. The Sherman act versus the common law; 13. Rule of reason and per se rule; 14. Conclusion; Part VI. Rule of Reason and Per Se Rule: 14. The case for price-fixing; 15. Per se and rule of reason analysis: further developments; 16. Per se versus rule of reason tests: understanding the Supreme Court’s justification for the per se rule; Part VII. Agreement: 17. The development of inference doctrine; 18. Rejection of unilateral contract theory; Part VIII. Facilitating Mechanisms: 19. Data dissemination cases; 20. Basing point pricing and related practices; 21. Basing point pricing: economics; Part IV. Boycotts: 22. Pre-Socony; 23. Post-Socony; 24. Post-BMI/Sylvania; 25. Conclusion; Part X. Monopolization: 26. Development of section 2 doctrine; 27. Leveraging and essential facility cases; 28. Predatory pricing; 29. Conclusion; Part XI. Power: 30. Measuring market power; 31. Determinants of market power; 32. Substitutability and the relevant market: cellophane; 33. Multi-market monopoly and the relevant market: Alcoa; 34. Measuring power: guidelines; Part XII. Attempts: 35. The Swift formula and modern doctrine; 36. Dangerous probability requirement; Part XIII. Vertical Restraints: 37. Resale price maintenance; 38. Vertical non-price restraints; 39. Manufacturer retains title; 40. Agreement; Part XIV. Tying and Exclusive Dealing: 41. Introduction; 42. Early cases; 43. Development of the per se rule; 44. Tension between rule of reason arguments and per se rule; 45. Technological tying; 46. Exclusive dealing; Appendix; 47. Horizontal Mergers: 48. Reasons for merging and implications for law; 49. Horizontal merger law; 50. Conclusion; Appendix; Part XV. Mergers, Vertical and Conglomerate: 51. Vertical mergers; 52. Conglomerate mergers; 53. Concluding remarks; Part XVI. Antitrust and the state: 54. Noerr-Pennington doctrine; 55. Parker doctrine.

Reviews

‘… this book is, quite simply, the best I have ever encountered to deal with US law. It is, in a nutshell, superb, and I wish it had been published six months ago.’ European Competition Law Review

Advance praise: ‘This book is the single best one-volume discussion of modern antitrust law available. It is encyclopaedic in coverage, but deeper than a treatise because it is informed at every step with the best and most systematic of current economic and legal analysis. If you want to learn (or to learn more) about modern antitrust law, read this book.’ George Priest, Yale Law School

‘An excellent treatment of antitrust law. It should appeal to audiences in economics as well as law. The economic analysis will enable lawyers to understand and address all of the policy options, and to be able to analyze antitrust issues more completely and more persuasively. Keith Hylton is a well-known and respected scholar in this field.’ Joel P. Trachtman, Fletcher School of Law and Diplomacy, Tufts University

‘Hylton’s text provides an excellent account of antitrust and common law evolution. He extracts the essence of the landmark antitrust decisions to demonstrate their legal evolution in a very efficient way. His use of economics is not only appropriate to the subject matter; it is also appropriate for student readership in law and economics. The writing is clear and concise.’ Roger D. Blair, University of Florida.

(注終)

この本のいう予見可能性については法的な安定性という意味と、事業上の予見可能性という意味の二つが考えられる。法的に安定していなければ次(将来)の事業上の活動はできなくなるから二つは同じである場合もあるが一般には事業上の予見可能性という意味は法的な安定性は考慮せずに、将来の儲けに向かって積極的にダイナミックに突き進む自由という意味である。確かに儲かるかどうかわからないことに半分の確信しかなかったとしても、半分の確信があったとしても投資を行うのは事業上の予見可能性について賭の部分が存在するという意味である。だから日本では独占禁止法に違反していることによる差止が必要な事件でも更に独占禁止法違反は正当だと主張しながら突き進み、談合は必要悪だとして認容しろということは予見可能性についての問題である。

これは当局は絶対にこれぐらいの独占禁止法違反は見逃すという意味の予見可能性について差止はないという意味である。ところがもし罪刑法定主義が確定的に明白であり、予見可能性が高いのであるならば、捜査に協力も行うし、そのような独占禁止法違反は行わないという意味であろう。行ったとしても構成要件がはっきりとしており、予見可能性があり、構成要件が明白であるならばそもそもそのような独占禁止法違反そのものをやめてしまうから、取引の安全の問題も、更には捜査への協力の問題もおきないということであろう。

これに対して司法省は捜査の観点から予見可能性の問題を次のように述べている。「DEPARTMENT OF JUSTICE

司法省

TRANSPARENCY IN ENFORCEMENT MAXIMIZES COOPERATION FROM ANTITRUST OFFENDERS

矯正の透明性は反カルテルの違反者からの協力を最大化する。

Address by

GARY R. SPRATLING

Deputy Assistant Attorney General

Antitrust Division U.S. Department of Justice

合衆国司法省反トラスト局

ゲリー・スプラトリング発表

Presented at

Fordham Corporate Law Institute

26th Annual Conference on International Antitrust Law & Policy

Fordham University School of Law

New York, NY

October 15, 1999

1999年10月15日ニューヨーク州、ニューヨーク、フォードハム大学法学部国際反トラスト法及び反トラスト法政策第26回年次会議、フォードハム会社法基金での発表

I.AN EFFECTIVE ANTI-CARTEL ENFORCEMENT PROGRAM DEPENDS ON COOPERATION FROM OFFENDERS

T 違反者からの協力によって反カルテルの矯正プログラムは効果的になる。

Over the last several years, the Division has had unprecedented success in terms of cracking international cartels, securing the conviction of the major conspirators, and obtaining record-breaking fines. A critical component to this success has been our ability to obtain the cooperation of some companies and individuals against their fellow cartel members. This cooperation from offenders, in turn, has been dependent upon our readiness to provide transparency throughout our anti-cartel enforcement program.

Accordingly, our anti-cartel enforcement program is based on the following principles:

A robust, effective international anti-cartel enforcement program depends on cooperation from at least some of those who have engaged in the cartel activity.

そのような理由から、司法省の反カルテルの強化プログラムは次の原則を基礎として成り立っている、つまり確固とした、効果的な国際的反カルテルの矯正プログラムの遂行はカルテルの行為を行ったものの少なくとも数人からの協力にたよっている。

Prospective cooperating parties come forward in direct proportion to the predictability and certainty of their treatment following cooperation.

協力すると予測される両当事者が、協力した後でどのような取扱を受けるのかについて予測が可能であり、それが確実であるかどうかに直接的に比例して協力者は名乗り出る。

Therefore, prospective cooperating parties need to know the rules, how prosecutorial discretion will be exercised in applying the rules, and that they will be treated fairly and equitably.

従って、協力すると予測される両当事者が規則を知っている必要があり、その規則を適用した場合には訴追された場合には判決がどのように執行されるのか、また公平にかつ平等に取扱われることを知っている必要があるのである。

An anti-cartel enforcement program maximizes the incentives for cooperation from cartel members if it has transparency in the elements of its enforcement program discussed in Part II, and it ensures proportional and equitable treatment of offenders as discussed in Part III.

2章で議論される矯正プログラムの諸構成要件が明白であるならば、また第3章で議論されるように違反者の取扱が罪に比例しており、かつ平等であれば、反トラスト法の矯正プログラムに対してカルテルの当事者が協力する動機を最大化するであろう。

II.MAXIMIZING THE INCENTIVES FOR COOPERATION FROM ANTITRUST OFFENDERS: TRANSPARENCY IS THE KEY

U反トラスト法の違反者が協力するための動機を最大化する:透明性がキーである。

If transparency is to lead to predictability, the threshold consideration for prospective cooperating parties, then transparency must include not only explicitly stated standards and policies but also clear explanations of prosecutorial discretion in applying those standards and policies.

もし透明性が予見可能性につながり、協力を行うと予測される両当事者の基準となるかどうかを考慮されるのならば、その理由によってこそ透明性は明白に明文化された基準を含むだけではなくて、そのような基準と政策を適用する場合訴追する場合の判決も明白に示されていることが必要である。

Transparent Standards For Opening Investigations

開かれた捜査のための透明な基準

・ ・・・・」

また次のような事件も急ぐ必要がある事件である。商売は非常に早い速度で進んでいることは本件事件の特徴であり、迅速なる審理と、暫定的な取引の安全の確保が求められている。

「COMPETITIVE PROCESSES, ANTICOMPETITIVE PRACTICES AND CONSUMER HARM IN THE SOFTWARE INDUSTRY:AN ANALYSIS OF THE INADEQUACIES OF THE MICROSOFT-DEPARTMENT OF JUSTICE PROPOSED FINAL JUDGMENT

ソフトウェアー産業における競争的な諸過程、反競争的な行為、消費者の損害:マイクロソフト対司法省事件で示された最終判決の欠陥の分析

United States v. Microsoft Corp., Civil No. 98-1232 before Judge Colleen Kollar-Kotelly of the U.S. District Court for the District of Columbia

コロンビア地区合衆国地方裁判所のコリーン・コラー−コッテリー判事の面前での合衆国対マイクロソフト事件(市民クラス訴訟番号、98−1232号事件)

Consumer Federation of America アメリカ消費者連盟

Consumers Union 消費者組合

January 25, 2002 2002年1月25日

--------------------------------------------------------------------------------

The Tunney Act requires the Court to determine whether the Microsoft-DOJ proposal is in the "public interest."

ターニー法は裁判所はマイクロソフト、司法省の申し立てが「公共の利益」に合致しているかどうかを決定しなければならないと規定している。

To make that determination the Court must-- consider the competitive impact of the proposal, including:

・termination of alleged violations and prevention of future monopolization,

・provisions for enforcement and modification,

・duration or relief sought,

・anticipated effects of alternative remedies actually considered, and

any other considerations bearing upon the adequacy of such judgment.

その決定をするためには裁判所は

共謀の違反の中止及び将来の独占化の予防

実行及び改善の準備

その存続への努力がなされているかあるいは救済をしようとしているか

それに実際に考慮されているそれに代わりうるその損害賠償とかの救済が効果的であると期待できるのか

最後に

判決が適切であるのかに関係するすべての考察を含む申し立ての競争法上の効果を考慮しなければならない。

There is no need to accept a grossly inadequate quick fix when a strong, workable alternative remedy, advanced by the state attorneys general who continue to aggressively pursue the case, already has been submitted to the court for review.

州の司法長官が当該事件を攻撃的に追求し続けていけば代替的な強力な実効性がある救済が可能であり、その救済が審理されるように裁判所に救済がすでに求められてしまった場合には、著しく不適切な暫定的措置を受け入れる必要はない。

CONSUMERS ARE HARMED BY MICROSOFT'S ABUSE OF MARKET POWER

消費者はマイクロソフトによる市場支配力の乱用によって損害を受けていること

Indeed, Microsoft's practices, which the Microsoft-DOJ proposal fails to correct, harm consumers both qualitatively and monetarily.

確かに、マイクロソフト、司法省の申し立てによってもマイクロソフトの行為を矯正することができないならば、マイクロソフトの行為は質的にも、金銭的にも消費者に損害を与えることになる。

The harms are sufficiently great to require that the Court avoid a "quick fix."

その損害は非常に大きいので裁判所は「暫定的措置」を回避するべきではない。

It is much more important to devote a reasonable amount of time to get the final judgment right and protect consumers.

最終の判決が正しく決定され、消費者を守るためには相当の時間をかけることはもっと重要なことである。

Section VII presents a discussion of the past consumer harm inflicted by Microsoft's anticompetitive model.

7章はマイクロソフトの反競争的な典型例によってもたらされた過去の消費者の損害について論じている。

Estimating these costs demonstrates that settling for a quick, inadequate fix is not in the public interest.

これらの費用を推測すれば、迅速であるが、不適切な措置を決定することは公共の利益にならないということが証明されている。

Eliminating anticompetitive practices that give rise to consumer harm is a forward looking process.

消費者に損害をもたらす反競争的な行為を除去することは、将来を見据えた措置である。

The Court may look backward for instruction, it take steps "to ensure that there remain no practices likely to result in monopolization. ・・・・・・”

裁判所は過去の判例を昔にさかのぼって研究することができるであろうからそれによって、裁判所は「独占によって結果としてもたらされるであろう様々な行為が残っていないか確認するために」様々な措置を講ずる。

As the Court of Appeals noted, the remedy must prevent the recurrence of the monopoly.

高等裁判所が指摘したように、救済を行うことによって独占が再度起こらないように防止するという役目を持っている。

Microsoft illegally eliminated competition to defend and extend its monopoly and imposed a heavy price on the public.

マイクロソフトは独占を守り、拡大するために、競争を不法に排除していて、一般消費者に高い価格を押しつけている。

Consequently, application of traditional antitrust rules will achieve exactly the reverse of what Microsoft claims it would--it will promote innovation by allowing potential competitors, who would otherwise be quickly eliminated by the giant's anticompetitive behaviors, to have a fair chance to enter the market and eventually discipline the price and the quality of Microsoft products.

その結果として伝統的な反トラスト法の諸規定を適用することによってマイクロソフトが主張しているものと正反対の結果をもたらしているのである。潜在的な競争者の存在を許可し市場に参加できる公平な機会を与えてその結果マイクロソフトの製品の価格と品質を市場競争にさらさせれば技術革新を促進したであろうし、将来も促進するであろう。もし巨大なガリバーによる反競争的な行為が続くならばそのような競争者は即刻市場から退場させられることになる。

Microsoft is certainly intent on gaining a dominant position in id

マイクロソフトは・・・・における独占的地位を得ようという意志を確かに持っている。」

(注)

COMPETITIVE PROCESSES, ANTICOMPETITIVE

PRACTICES AND CONSUMER HARM

IN THE SOFTWARE INDUSTRY:

AN ANALYSIS OF THE INADEQUACIES OF THE

MICROSOFT-DEPARTMENT OF JUSTICE

PROPOSED FINAL JUDGMENT

United States v. Microsoft Corp., Civil No. 98-1232

before Judge Colleen Kollar-Kotelly of the

U.S. District Court for the District of Columbia

Consumer Federation of America

1424 16th Street, NW

Washington, DC 20036

www.consumerfed.org

Consumers Union

1666 Connecticut Ave. NW, suite 310

Washington, D.C.

www.consumer.org

January 25, 2002

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TABLE OF CONTENTS

I. EXECUTIVE SUMMARY

II. THE PROPOSED FINAL JUDGMENT IS NOT IN THE PUBLIC INTEREST

1. RESTORATION OF COMPETITION DEFINES THE PUBLIC INTEREST

2. A LONG HISTORY OF ANTICOMPETITIVE CONDUCT DEFINES THE SIZE OF THE TASK

3. ROADMAP TO THE COMMENTS

III. MONOPOLY IS THE WRONG MODEL FOR THE SOFTWARE MARKET

1. MICROSOFT'S IS AN UNNATURAL MONOPOLY PRESERVED BY ANTICOMPETITIVE ACTS

2. MICROSOFT'S CONDUCT DOES NOT HELP THE PUBLIC AND IT HARMS COMPETITION

IV. KEYS TO COMPETITION AND MARKET POWER IN THE PC SOFTWARE INDUSTRY

1. THE APPLICATIONS BARRIER TO ENTRY

2. COMPLEX COMPETITION IN COMPUTER PLATFORMS

V. MICROSOFT'S ANTICOMPETITIVE BUSINESS MODEL

1. THE WAR AGAINST THE BROWSER

2. OTHER PRODUCTS IDENTIFIED AT TRIAL THAT WERE VICTIMS OF ANTICOMPETITIVE CONDUCT

i) Intel

ii) IBM

iii) Apple

VI. THE LONG HISTORY OF ANTICOMPETITIVE CONDUCT

1. THE ANTICOMPETITIVE BUSINESS MODEL

2. OTHER MIDDLEWARE THREATS

3. OPERATING SYSTEM COMPETITION

VII. CONSUMER ARE HARMED BY THE ABUSE OF MARKET POWER

1. BARRIERS TO ENTRY AND MONOPOLY ABUSES

2. CONSUMER HARM

i) Qualitative Harm

ii) Monetary Harm

3. PRICING PATTERNS AND MONETARY HARM

VIII. A NEW THREAT TO CONSUMERS AND COMPETITION: WINDOWS XP/.NET

1. THE NEW CHALLENGE

2. THE ANTICOMPETITIVE ESSENCE OF WINDOWS XP/.NET

3. SPECIFIC ELEMENTS OF THE WINDOWS XP/.NET BUNDLE THAT VIOLATE ANTITRUST LAW

i) Computer Manufacturers

ii) Consumers

iii) Technology Practices Affecting Software Developers

4. THE PROBLEM OF AN EXCLUSIVE, PROPRIETARY PASSPORT TO THE INTERNET AS A NEW BASIS OF MONOPOLY POWER

IX. SOFTWARE INDUSTRY COMPETITION IS IN THE PUBLIC INTEREST

1. THE NATURE OF COMPETITION

2. THE COMPUTER PLATFORM PROVIDES ABUNDANT EXAMPLES OF NATURAL COMPETITION

3. THE REMANDED REMEDY

X. THE INADEQUACY OF THE PFJ

1. ANTICOMPETITIVE PRACTICES MUST BE ROOTED OUT AT ALL STAGES OF THE SOFTWARE VALUE CHAIN - CREATION, DISTRIBUTION AND USE

2. LAW ENFORCEMENT

i) Weak Enforcement Mechanisms

ii) Ambiguous Terms and Conditions

3. INDEPENDENT SOFTWARE DEVELOPERS

4. COMPUTER MANUFACTURERS

5. CONSUMERS

XI. DETAILED CRITIQUE OF THE PROPOSED FINAL JUDGMENT

1. ISV HELL

2. DETAILS OF STACKING THE DECK AGAINST ISVs

XII. CONCLUSION

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LIST OF EXHIBITS

EXHIBIT ES-1:

HOW MICROSOFT STOPS COMPETITION AND HARMS CONSUMERS

EXHIBIT ES-2:

SOFTWARE COMPETITION WILL NOT BE RESTORED BECAUSE THE SETTLEMENT DOES NOT CREATE A LEVEL PLAYING FIELD FOR INDEPENDENT SOFTWARE VENDORS.

EXHIBIT II-1:

ABUSIVE BUSINESS PRACTICES IDENTIFIED IN THE FINDINGS OF FACT AND CONCLUSIONS OF LAW UPHELD BY THE APPEALS COURT

EXHIBIT III-1:

THE ROLES OF APPLICATIONS AND MIDDLEWARE IN COMPUTER PLATFORMS

EXHIBIT V-1:

EXAMPLES OF ABUSIVE BUSINESS PRACTICES

EXHIBIT V-2:

HOW MICROSOFT STOPS COMPETITION AND HARMS CONSUMERS

EXHIBIT IX-1:

THE LOGIC OF FUNCTIONAL DIVESTITURE: APPLICATIONS PRODUCT SPACE

EXHIBIT XI-1:

SOFTWARE COMPETITION WILL NOT BE RESTORED BECAUSE THE SETTLEMENT DOES NOT CREATE A LEVEL PLAYING FIELD FOR INDEPENDENT SOFTWARE VENDORS

EXHIBIT XII-1:

THE LITIGATION STATES REMEDIAL PROPOSALS ARE AN EFFECTIVE REMEDY

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・・・(注終)

予見可能性の問題はビジネスから見ると事業活動が困難であるという問題と、それを解決する司法に対してもっと訴訟を迅速にしてビジネスの効率に資する司法であるべきであるという観点から、司法省の側から見ると捜査という観点から、更には学者の側から見ると取引の安全性という社会的な問題としてとらえられている。結局はそれぞれの立場から企業が損害を受けることがないようにという観点から、捜査が公平で平等なものになるという観点から、学者の側からは権利論の上にたった所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めている点においては妨害排除の請求権があるのと等しいのであるが、権利に上に眠るものは権利を失うという時効の観点と同様の観点からそれぞれが述べているが、迅速性という観点からは同様の結果になっていると見た方がよい。

学者の側から見ると所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めている点において時効の観点さえもなきにするような所有権の絶対性と同様の強い権利を独占禁止法が認めているという点において特殊な点があるのである。差止が事業者団体の性格によっては衡平法上の命令的差止の権威として認められているということが最も重要な点であり、共同のボイコットの当然違法のような概念構成によって違法性の認定が行われるのがこの点にあり、憲法上も職業選択の自由は認められているということが最も重要なメルクマールである。所有権はその移動の自由と共に認められてこそ、営業の権利として司法上の対象となり、憲法上の権利となりうるのである。

ビジネスの自由は所有権の絶対性とともに、所有権の移動の自由を認めてこそ海彦山彦の伝説から今にいたるまでの人間の生活の根本原理として憲法上の権利となりうるのであって、所有権の移動の自由がない場合には所有権の絶対性そのものが認められていないというに等しいのである。確かに社会権的自由権も存在するが、その生まれてくる前の根本にはこの所有権の絶対性と所有権の移動の自由の絶対性が存在するのであり、自由競争が確保された状態での所有権の移動の自由の憲法上の保障という概念は独占禁止法違反と独占禁止法をそのままの形で法哲学上論理構成しているといえるのである。

しかしすでに述べたように本件事件においては入会拒否を以上のように憲法問題として学問的に解く必要があるのは、コモンローから説明しようと試みようとするのでは解けない問題があり、つまりは差止は衡平法上の命令的差止の権威によってのみ行われるのであって所有権の絶対性が認められてそれに対する妨害を排除する自由を持っていることを認めているというコモンローの理論によっては差止が事業者団体の性格によっては行われるということが説明付かないからである。それはコモンローが認めている損害賠償請求の認定を超えたエクィティの法上の原則からのみ説く事ができるからである。

(注) 以下原文

DEPARTMENT OF JUSTICE

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TRANSPARENCY IN ENFORCEMENT MAXIMIZES COOPERATION FROM ANTITRUST OFFENDERS

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Address by

GARY R. SPRATLING

Deputy Assistant Attorney General

Antitrust Division

U.S. Department of Justice

Presented at

Fordham Corporate Law Institute

26th Annual Conference on International Antitrust Law & Policy

Fordham University School of Law

New York, NY

October 15, 1999

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I.

AN EFFECTIVE ANTI-CARTEL ENFORCEMENT PROGRAM DEPENDS ON COOPERATION FROM OFFENDERS

Over the last several years, the Division has had unprecedented success in terms of cracking international cartels, securing the conviction of the major conspirators, and obtaining record-breaking fines. A critical component to this success has been our ability to obtain the cooperation of some companies and individuals against their fellow cartel members. This cooperation from offenders, in turn, has been dependent upon our readiness to provide transparency throughout our anti-cartel enforcement program. Accordingly, our anti-cartel enforcement program is based on the following principles:

A robust, effective international anti-cartel enforcement program depends on cooperation from at least some of those who have engaged in the cartel activity.

Prospective cooperating parties come forward in direct proportion to the predictability and certainty of their treatment following cooperation.

Therefore, prospective cooperating parties need to know

the rules,

how prosecutorial discretion will be exercised in applying the rules, and

that they will be treated fairly and equitably.

An anti-cartel enforcement program maximizes the incentives for cooperation from cartel members if it has transparency in the elements of its enforcement program discussed in Part II, and it ensures proportional and equitable treatment of offenders as discussed in Part III.

II.

MAXIMIZING THE INCENTIVES FOR COOPERATION FROM ANTITRUST OFFENDERS: TRANSPARENCY IS THE KEY

If transparency is to lead to predictability, the threshold consideration for prospective cooperating parties, then transparency must include not only explicitly stated standards and policies but also clear explanations of prosecutorial discretion in applying those standards and policies.

Transparent Standards For Opening Investigations

The Antitrust Division Manual explains the criteria that will be considered in deciding whether to open a criminal or civil investigation.

In general, current Division policy is to proceed by criminal investigation and prosecution in cases involving hard-core, per se unlawful agreements such as price fixing, bid rigging and horizontal market allocation.

The Antitrust Division Manual provides examples of a number of situations where, although the conduct may appear to be a hard-core, per se violation of the law, criminal investigations or prosecutions may not be considered appropriate. These situations may include cases in which:

there is confusion in the law;

there are truly novel issues of law or fact presented;

confusion reasonably may have been caused by past prosecutorial decisions; or

there is clear evidence that the subjects of the investigation were not aware of, or did not appreciate, the consequences of their action.

See Antitrust Division Manual at page III-16 (Tab 1).

In a matter where the suspected conduct appears to meet the Division's standard for a criminal proceeding, the decision whether to open an investigation will depend on three questions:

The first of these is whether the allegations or suspicions of a criminal violation are sufficiently credible or plausible to call for a criminal investigation. This is a matter of prosecutorial discretion and is based on the experience of the approving officials; there is no legal standard.

The second question is whether the matter is "significant." Determining which matters are "significant" is a flexible, matter-by-matter analysis that involves consideration of a number of factors, including: volume of commerce affected; geographic area impacted (including whether the matter is international); the potential for expansion of the investigation or prosecution from a particular geographic area and industry to an investigation or prosecution in other areas or industries; the deterrent impact and visibility of the investigation and/or prosecution; the degree of culpability of conspirators (e.g., the duration of the conspiracy, the amount of overcharge, any acts of coercion or discipline of cheaters, etc.); and whether the scheme involved a fraud on the federal government. Because the Division's mission requires it to seek redress for any criminal antitrust conspiracy that victimizes the federal government and, therefore, injures American taxpayers, this last factor can potentially trump all of the others.

The third question -- what resources will be required to investigate and prosecute the matter -- is asked only for matters that are assessed as having lesser significance; the Division is committed to prosecuting all matters of major significance.

See Antitrust Division Manual at page III-3 (Tab 2).

Transparent Standards For Deciding Whether To File Criminal Charges

The Department of Justice's stated policy for commencing or recommending Federal prosecution is found in the Department of Justice's Principles of Federal Prosecution. The Principles state that the attorney for the government should commence or recommend Federal prosecution if he/she believes that the person's conduct constitutes a Federal offense and that the admissible evidence will probably be sufficient to obtain and sustain a conviction, unless, in his/her judgment, prosecution should be declined because

no substantial Federal interest would be served by the prosecution;

the person is subject to effective prosecution in another jurisdiction; or

there exists an adequate non-criminal alternative to prosecution.

See Principles of Federal Prosecution, U.S. Attorneys' Manual at 9-27.220 (Tab 3).

Practically, the Principles require that, in order to file criminal charges, the Division must believe it has a better than 50/50 likelihood of obtaining a conviction by a jury under the beyond-a-reasonable-doubt standard (the standard of proof in the United States for all criminal cases).

Transparent Prosecutorial Priorities

In 1995, the Division announced that it was reallocating its resources in order to make the investigation and prosecution of international cartels affecting American businesses and consumers one of the highest -- if not the highest -- priorities of the Antitrust Division, and has reconfirmed that priority in speech after speech.

See "The Clinton Administration: Trends In Criminal Antitrust Enforcement," remarks by Anne K. Bingaman, then Assistant Attorney General, Antitrust Division, before the Corporate Counsel Institute (November 30, 1995) (Tab 4).

See "Criminal Antitrust Enforcement Against International Cartels," speech by Gary R. Spratling, Deputy Assistant Attorney General, Antitrust Division, before ABA Advanced Criminal Antitrust Workshop (February 21, 1997) (Tab 5).

See "Anticipating The Millennium: International Antitrust Enforcement At The End Of The Twentieth Century," remarks by Joel I. Klein, Assistant Attorney General, Antitrust Division, before the Fordham Corporate Law Institute (October 16, 1997) (Tab 6).

See "Are The Recent Titanic Fines In Antitrust Cases Just The Tip Of The Iceberg?," speech by Gary R. Spratling, Deputy Assistant Attorney General, Antitrust Division, before ABA National Institute On White Collar Crime (March 6, 1998) (Tab 7).

See "International Antitrust Enforcement," statement by Joel I. Klein, Assistant Attorney General, Antitrust Division, before the Subcommittee on Antitrust, Business Rights, and Competition Committee on the Judiciary, United States Senate (October 2, 1998) (Tab 8).

See "Negotiating The Waters Of International Cartel Prosecutions," speech by Gary R. Spratling, Deputy Assistant Attorney General, Antitrust Division, before ABA National Institute On White Collar Crime (March 4, 1999) (Tab 9).

Transparent Leniency Policy

In August 1993, the Division revised and expanded its Corporate Leniency Policy to increase the opportunities and raise the incentives for companies to report criminal activity and cooperate with the Division. Leniency applications have increased more than twenty-fold since the new policy was announced, and the Leniency program is, by far, the most effective generator of large, international cartel cases. In the last two years, cooperation from amnesty applicants have resulted in dozens of convictions and over $1 billion in fines.

See Antitrust Division Corporate Leniency Policy (August 1993) (Tab 10).

See model letter for use in granting leniency to corporations pursuant to the Corporate Leniency Policy (Tab 11).

In August 1994, the Division instituted an Individual Leniency Policy to encourage individuals to come forward with information regarding criminal antitrust violations. The Individual Leniency Policy applies to all individuals who approach the Division on their own behalf, not as part of a corporate proffer or confession, to seek leniency for reporting illegal antitrust activity of which the Division has not previously been made aware.

See Antitrust Division Individual Leniency Policy (August 1994) (Tab 12).

See model letter for use in granting leniency to individuals pursuant to the Individual Leniency Policy (Tab 13).

The Division has published a number of papers in order to clarify the Division's application of its Corporate Leniency Policy.

See "The Corporate Leniency Policy: Answers To Recurring Questions," speech by Gary R. Spratling, Deputy Assistant Attorney General, Antitrust Division, before ABA Antitrust Section 1998 Spring Meeting (April 1, 1998) (Tab 14).

See "Making Companies An Offer They Shouldn't Refuse," speech by Gary R. Spratling, Deputy Assistant Attorney General, Antitrust Division, before Bar Association of the District of Columbia's 35th Annual Symposium on Associations and Antitrust (February 16, 1999) (Tab 15).

Transparent Policy On Plea Agreements

The explosion of international cartel prosecutions has been greatly assisted by the Division's ability to secure the cooperation of foreign companies and witnesses through plea agreements. Such plea agreements generate a number of complex policy issues that are not raised in domestic cases. The Division published a paper addressing these recurring issues. For each issue the paper provides the Division's policy and rationale, and, where appropriate, sample model plea agreement language, case history, and practical considerations relating to the issue.

See "Negotiating The Waters Of International Cartel Prosecutions," speech by Gary R. Spratling, Deputy Assistant Attorney General, Antitrust Division, before ABA National Institute On White Collar Crime (March 4, 1999) (Tab 9).

In March 1996, the Division entered into a Memorandum Of Understanding ("MOU") with the Department of Justice's Immigration and Naturalization Service ("INS") which establishes a protocol whereby the Division will advise cooperating aliens of their ultimate immigration status before they enter into a plea agreement. Prior to the MOU, the Division was unable to guarantee that a criminal conviction would not result in an alien's deportation and permanent exclusion from the United States. However, the MOU assures that cooperating aliens can receive written assurances in plea agreements that their convictions will not be used by the INS as a basis to deport or exclude them from the United States.

See Memorandum of Understanding Between Antitrust Division and the INS dated March 15, 1996 (Tab 16).

See explanation of procedures for obtaining immigration relief in "Criminal Antitrust Enforcement Against International Cartels," speech by Gary R. Spratling, Deputy Assistant Attorney General, Antitrust Division, before ABA Advanced Criminal Antitrust Workshop (February 21, 1997) (Tab 5).

See model plea agreement language for providing immigration relief in "Negotiating The Waters Of International Cartel Prosecutions," speech by Gary R. Spratling, Deputy Assistant Attorney General, Antitrust Division, before ABA National Institute On White Collar Crime (March 4, 1999) (Tab 9).

Transparent Policy On Sentencing Guidelines

The sentencing of organizations involves the calculation of fine ranges pursuant to a specific and detailed formula set forth in the United States Sentencing Guidelines. The maximum fine imposed under the Guidelines is capped by the Sherman Antitrust Act, 15 U.S.C. § 1, or the "double the gain or double the loss" provision of 18 U.S.C. § 3571(d), whichever is higher.

See United States Sentencing Guidelines §2R1.1 (Tab 17) and Chapter 8 (Tab 18).

The Division has provided guidance as to how the Sentencing Guidelines are applied to antitrust and related offenses, how mitigating and aggravating factors are weighed by the Division in calculating appropriate fines under the Guidelines, and how the statutory maximums affect Guidelines fines.

See "Corporate Crime In America: Strengthening The 'Good Citizen' Corporation - The Experiences And Views Of The Antitrust Division," speech by Gary R. Spratling, Deputy Assistant Attorney General, Antitrust Division, before National Symposium Sponsored By the U.S. Sentencing Commission (September 8, 1995) (Tab 19).

See "The Trend Towards Higher Corporate Fines: It's A Whole New Ball Game," speech by Gary R. Spratling, Deputy Assistant Attorney General, Antitrust Division, before ABA National Institute On White Collar Crime (March 7, 1997) (Tab 20).ab 18).

See "The Legal and Sentencing Guidelines Consequences of Destroying Foreign-Based Documents," ABA Section of Antitrust Law Criminal Practice and Procedure Committee Newsletter, March 1998 at 4-5 (Tab 21).ab 18).

The Division often publishes the actual fine calculation work sheets, submitted to the federal court at the time of sentencing, which breaks down the fine calculation, including any mitigating or aggravating factors that were taken into consideration. For example, the Division has made available the fine calculation work sheets for F. Hoffman-La Roche, BASF AG, SGL Carbon AG, UCAR International, and Archer Daniels Midland - the five corporate defendants with the highest criminal antitrust fines.ab 18).

See fine calculation worksheets, attachments to "Status Report: The New Era Of Criminal Antitrust Enforcement," by Gary R. Spratling, Deputy Assistant Attorney General, Antitrust Division, before The Antitrust Section's Criminal Practice And Procedure Committee at the 1999 ABA Annual Meeting (August 9, 1999) (Tab 22).

III.

PROPORTIONALITY AND EQUITY IN TREATMENT OF OFFENDERS

1. The Division goes to great lengths to treat offenders equitably vis-a-vis one another; that is, after taking into account all mitigating and aggravating factors, the Division attempts to ensure that each offender in each cartel is treated proportionately to others in that cartel, and that offenders across cartels also are treated proportionately. The timing and value of cooperation by offenders is given heavy weight in this analysis.

In presentations before bar associations, Division officials regularly commit to explaining the Division's application of the above principles of transparency and why a proposed disposition as to any defendant in any matter is proportional and equitable.

The Division publishes fine calculation work sheets for offenders (see above).

During plea agreement discussions, at the request of counsel for a putative defendant, the Division will discuss proportionality of that offender's treatment vis-a-vis others.

(注終)

(注)

http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j041.html

競争政策に関する米国政府の要望 1999年3月

「規制緩和及び競争政策に関する日米間の強化されたイニシアティブ」

競争政策についての米国の要望事項のファクト・シート

1999年3月

● 背景

規制を撤廃し日本経済に競争を導入するという日本全体の努力を成功に導くためには、独占禁止法の積極的な執行と競争政策の唱導が不可欠である。規制撤廃が構造的変化を促す中、競争政策の積極的な実施は、民間部門が改革の利益を逆手に取ることを防ぐために非常に重要である。そのために米国は、長年、日本に対し、公正取引委員会の組織構造、査察権限及び競争政策唱導者としての役割を強化するよう求めてきた。現在の「規制緩和及び競争政策イニシアティブ」協議において、米国は以下のような提言を行なっている。

● 要望事項

−− 公正取引委員会の独占禁止法執行能力を向上させるため、同委員会の査察権限(例えば、独占禁止法違反の被疑者に対し証拠を強制的に提出させる権限)を強化すべきである。日本政府は、公正取引委員会の強制的権限を改善する方法を調査するため、公正取引委員会主導の公聴会や審議会を開くべきである。

−− 日本企業の雇用者は、独占禁止法の要件についての理解が不完全あるいは不適切であるかもしれない。企業や雇用者が独占禁止法に則った行動をとるよう、公正取引委員会は、公正取引協会とともに独占禁止法遵守プログラムのモデルを制作し配布すべきである。

−− 公共事業における不正入札に対しより強力に対処するため、建設省は全ての入札参加者に、他の入札者と協議したり、連絡をとったり、共謀したりせず独自に価格を決定した旨を証明させるべきである。さらに、虚偽の証明の提出が犯罪となるように刑法を改正すべきである。

−− 米国は、公正取引委員会が、会社であれ個人であれ、私人が独占禁止法違反に対する差止請求や損害賠償を求めることを制限した現行の法的規制を審査するために、研究会を設立したことを歓迎する。現在、私人(個人あるいは会社)は独占禁止法訴訟において差止請求権を持っていない。さらに、独占禁止法違反に対して損害賠償を請求する場合、私人は公正取引委員会がまず公式な勧告を出すまで待たなければならない。そのため、いわゆる「私人救済」は、包括的な独占禁止法体制にとって絶対に必要な要件である。私人救済は、日本企業に対し、その企業慣行を独占禁止法に完全に沿ったものにすることの重要性を喚起するのに重要な役割を果たすことができる。米国は、公正取引委員会の審議会に対し、私人が差止請求を行えるように、また、現在求められているような公正取引委員会の公式な勧告なしに損害賠償請求を行えるように、独占禁止法を改正すべきであると提言することを求めている。

−− 独占禁止法の積極的な執行者としての役割に加えて、公正取引委員会は、競争を鈍らせ妨げるような規制を無くすことを公に推進することにより、競争政策や規制改革の唱導者としての努力を実質的に高めるべきである。他の工業国では、ほとんどの競争当局は競争政策唱導の重要性を認識し、その努力に多くの人材と資金を投入している。米国は、公正取引委員会に対し、この分野における将来の活動についての競争政策唱導計画を立てるよう勧めている。

−− 米国が公正取引委員会に対し競争政策唱導を強化するよう提言するのは、今回が初めてである。米国は、公正取引委員会が競争の唱導者としての権威を高め、規制撤廃過程での日本政府内での役割を強化できる例として、公聴会を開くことを提案する。公正取引委員会主催の公聴会は、重要な規制撤廃及び競争政策に関する問題を取り上げることができるであろう。

−− 過去において米国はまた、日本政府に対し、公正取引委員会に十分な職員及び予算を配分するよう提言している。同委員会の人的及び財政的資源の欠如の例をあげると、世界規模での合併の大きな波が押し寄せているにも拘らず、公正取引委員会で合併案件に常勤で当たっている職員はたった20名である。米国では、司法省だけでみても230以上が合併審査に常勤で当たっている。

[以下は非公式訳であり、正文は英文です]

米国、構造問題専門家協議で日本に一層の規制撤廃を要望

1999年11月17日

日米構造問題ワーキング・グループは11月16、17日の両日東京で会合を開き、日本経

済のすべての分野で効率を向上し、競争を促進し、市場を開放することを目指した流通、

法律業務、保険、競争政策、および政府慣行の透明性に関する規制撤廃および規制改革に

ついて協議を行った。本ワーキング・グループは、クリントン大統領と橋本首相(当時)

が1997年に始めた「規制緩和及び競争政策に関する強化されたイニシアティブ」に基づき

会合を開いた。

米国代表団は、小渕政権が継続して規制撤廃および規制改革に力を注いでいる点に鑑み、

日本が米国の提案に応じて、改革の力が真に日本経済に根づくようにすることを強く求め

た。日本経済は経済成長を始める兆候を見せつつあるが、市場を開放し、新規投資を促す

積極的な構造改革や競争促進的な措置を実施しない限り、成長を持続することはできない

であろう。米国では、規制撤廃が生産性を向上させ、長期にわたり雇用機会を増加させ、

競争力を回復させる手助けとなった。日本も同じ利益を享受することができるはずだ。

この2日間ワーキング・グループが行った協議は生産的であり、10月6日に米国が日本

に提出した以下の分野での必要な構造改革に関する要望に焦点を当てた。

流通

米国は、日本が大規模小売店舗の新設に対する規制を緩和するために講じた措置の結果

として、日本の小売および流通分野へ10億ドルを超える米国からの直接投資がなされ、多

くの新たな雇用が創出され、消費者の選択肢が増えたことを述べた。しかし、この流れを

後退させないためには、日本は必要なすべての措置を講じて、地方自治体による大店立地

法の公正で透明な運用を確保するよう強く求めた。通関分野に関しては、米国は、日本に、

貨物の通関手続の効率性を改善するよう要望した。日本貿易振興会(JETRO)の最近の報告

によれば、他の主要先進国に比べ、日本の輸入の通関手続は、非常に長い時間を要するこ

とが指摘されている。米国の提案は、具体的には、事前承認手続の簡略化、税関から貨物

が引き渡された後の関税支払い、輸入手続書類の同時処理、貨物の通関取扱時間の延長、

そして通関手続を迅速化し、輸入業者の負担を軽減するための諸措置の実施である。

法律業務

米国は、日本政府に法律業務の市場における障壁、とりわけ、日本の弁護士と外国法事

務弁護士(外弁)間の関係に関する規制を取り除くよう、日本政府に促した。これらの規

制は、日本において国際法律業務に関する人的資源および専門知識が不十分であることと

あいまって、潜在的な投資家の投資意欲を損ない、日本経済の再建コストを増加させ、主

要な金融センターとしての東京の発展を妨げるものとなる。これらの懸念に対処するため、

米国は、日本の弁護士と外弁がパートナーシップを認めて、顧客のニーズにより完全にか

つ効率的に応えることができるようにすることを日本に求めた。また、米国は、日本にお

いて増加する法律業務へのニーズに応えるべく、1年間に認可される弁護士の数を増やす

ことを勧めた。さらに、米国は、日本の弁護士または外弁に影響する規制の変更を検討す

る際には、パブリック・コメント手続の使用を日本弁護士連合会(日弁連)に義務づける

ことを日本政府に求めた。また、米国は、外弁が日弁連の規制活動に参加する機会がさら

に与えられるよう、日本政府に求めた。

保険

日本の保険市場の規制撤廃は、日本の消費者に広範囲な革新的で競争力のある保険商品

およびサービスにアクセスできる機会を与え始めているが、これは金融監督庁の業務の方

法の変更を必要とする。経団連や日本の規制改革委員会の要求と同様、米国は、金融監督

庁が職員の数を増やし、手続きの近代化を図り、保険会社がより速やかに、そしてより効

率的な方法で新商品を、ますます規制撤廃の進む市場へ送り出すことができるような、よ

り柔軟性に富んだ認可制度を採用すべきである旨提案した。さらに、米国は、金融監督庁

のシステムの透明性を高めるため、日本および外資系の保険会社との意思疎通をする際に、

書面によるガイドラインを当然のこととして活用することを強く勧めた。米国は、また、

日本が政府運営の簡易保険制度を既に強力な民間保険市場と競争している分野に拡大させ

る計画を止めることを求めるとともに、これらの計画の金融ビッグ・バンや行政改革の目

的との整合性に疑問のあることを述べた。

競争政策

規制撤廃および強力な独禁政策は、日本におけるダイナミックで開かれた市場を促進す

るために互いに手を取り合っていかなければならない。この目的のため、米国は、公正取

引委員会(公取委)の行政活動、過度な違反に対する刑事告発、および独禁法違反の犠牲

者による民事訴訟制度からなる日本の現在の独禁法執行制度の改善が必要であると考える。

最近の防衛庁の燃料調達、ごみ焼却場建設プロジェクトおよび北海道における公共事業に

かかわる入札談合事件はその必要性を示すものである。米国は日本が、刑事事件としての

談合を警察がもっと積極的に捜査することにより、談合を排除するための努力を強化し、

政府調達機関への超過請求分すべてを全額払い戻し、入札談合行為を支えたいかなる調達

担当職員も厳しく罰するよう求めた。公取委の独禁法違反行為を見つけて対処する能力を

高めるため、公取委・法務省合同委員会を創設し、公取委の調査手段や手続きの近代化や

調査妨害を防ぐ手段を考えることを勧めた。米国は、独禁法違反による被害者が差し止め

命令を獲得しやすくし、損害請求の主張を証明しやすくするために、日本に民事訴訟制度

の改善を求めた。米国は、また、公取委が合併が経済に与えうる影響をより注意深く分析

し、規制緩和・撤廃された経済において求められる今まで以上の役割を果たせるよう、公

取委の資源を増加することを日本に求めた。

透明性

米国は、日本が、各省庁が規制案を公表し、パブリック・コメントを募集するパブリッ

ク・コメント手続を今年前半に導入したことによって日本の規制制度の透明性が向上した

ことを歓迎する。同時に、米国は、新たに実施されるようになったパブリック・コメント

手続に関するいくつかの懸案事項を述べ、日本の審議会に対し中間報告書や提言を発表す

る際にパブリック・コメント手続を使用するよう義務づけることを、勧めた。また、米国

は、経済的影響の大きいと思われる規制変更については、そのコストと利益を評価するこ

とを義務づける政府全体のシステムの創設を、日本に促した。米国は、また、新しい規制

のメカニズム、つまり、規制プロセスの先見性および透明性を向上させ、省庁の負担を減

少させるものである「訴訟不要意見書」および「書面回答」の導入を勧めた。さらに、米

国は、原則として日本がすべての行政指導を書面にて提示することを義務づけることを提

案した。最後に、米国は、日本が民間部門の規制(いわゆる「民民規制」)につき、さらに

透明性を高めることを要請した。

構造問題ワーキング・グループは、強化されたイニシアティブの下にある6つのワーキ

ング・グループのひとつである。他の専門家グループは、電気通信、医療機器・医薬品、

金融サービス、エネルギー、および住宅の問題を協議するために、近い将来会合を持つ予

定である。両国政府は規制撤廃のための具体的な措置を打ち出し、日本経済全体に競争促

進を図る政策を進めるため、今後数カ月にわたって作業を続けていく。さらに、米国は、

強化されたイニシアティブの最初の2年間に日本が採択した措置の実施状況を引き続き注

意深く見守っていく。

米国と日本は、日本が採択する新しい措置を協議するため、来年早々に次官級会合を開

く予定である。この措置は、2000年3月末までに大統領および首相に提出される第3回共

同状況報告に盛り込まれることになる。

米国代表団は米国通商代表部日本通商政策課長エイミー・ジャクソンと司法省反トラス

ト局特別顧問スチュワート・シェムトムが共同議長を務め、国務省、商務省、米国関税局

および米国大使館の代表が出席した。日本代表団は外務省北米第二課羽田浩二課長が議長

を務め、通産省、大蔵省、法務省、建設省、郵政省、自治省、運輸省、公正取引委員会、

総務庁、国税庁、経済企画庁、警察庁、特許庁および金融監督庁からの代表が出席した。

なお、参考資料として、「日本における規制撤廃、競争政策、透明性及びその他の政府慣

行に関する日本政府への米国政府要望書」(1999年10月6日)を米国大使館のホームペー

ジ [www.usia.gov/posts/tokyo/] に掲載。

November 17, 1999

http://japan.usembassy.gov/txts/wwwt2268.txt

http://japan.usembassy.gov/e/p/tp-2502.html

日本における規制撤廃、競争政策、透明性及びその他の政府慣行に関する日本政府への米国政府要望書

1999年10月6日

 米国は、日本における規制撤廃、競争と規制制度改革の促進、より強力な競争政策の推奨と執行、そして規制手続における透明性の拡大について、それぞれの事項に深い、継続的、実質的な関心を抱いている。これらの分野において日本政府が大胆な措置を講じることは、日本経済において市場メカニズムが効果的に機能するうえでの構造的、統制的障害を取り除くために不可欠である。これらの分野で有意義な政策を採用し実施していくことは、日本における資本、人的資源の配分の効率を高め、そして日本の経済成長を長期的に持続させるために基本的に重要である。またそれは、米国やその他の外国企業による日本市場へのアクセスを阻害する構造的、制度的障害を改善する。

 日米両国政府は、1997年6月に「規制緩和及び競争政策に関する強化されたイニシアティブ」を確立した際に、これらの課題について継続的に両国の関心を集中していくことの重要性を認識した。「強化されたイニシアティブ」は、両国政府が特に注意を払うべき分野別及び構造的な主要課題を明らかにするものである。米国は、両国の指導者により1998年6月と1999年5月にそれぞれ発表された第1回および第2回の「共同現状報告」に詳述されている、「強化されたイニシアティブ」の下で今日までに達成された成果を歓迎すると同時に、日本がそれらの措置を完全に実施していくことを期待する。しかし、更に成し遂げる必要のある課題は多く残っている。

 米国政府は、日本政府に対し、日本における規制撤廃、競争政策、透明性及びその他の政府慣行に関する本要望書を提出できることを喜ばしく思う。本要望書は、「強化されたイニシアティブ」の下で取り扱われている全ての分野に関する多数の個別、具体的な要望のみならず、広範にわたる大胆な構造的イニシアティブを求めるものである。米国は、本要望書が、両国政府によって2000年3月末までに発表される第3回共同現状報告の基礎を成すべきものと確信する。

目 次

電気通信

医療機器・医薬品

金融サービス

住宅

エネルギー

流通

法律業務

その他の分野別課題

競争政策および独占禁止法

競争政策および独占禁止法

T. 公正取引委員会の独立性

独立している公正取引委員会(公取委)は、米国が保持すべきと強く感じる日本の独占禁止執行システムの長年の重要な柱であった。そのために、中央省庁再編の一環として公取委が2001年に総務省の下に置かれる際に、日本政府は公取委の独立性を引き続き確保するための追加的な措置をとるべきである。特に、郵政省も総務省に属することになるため、通信分野において公取委が独占禁止法(独禁法)を適用する場合に、郵政省または総務省が干渉しない、また公取委の人事制度と予算の独立性が維持されることを保証する政令を出す必要がある。

U. 反カルテル措置の執行

1998年3月25日のOECDの「中核的カルテルに対する効果的な措置に関する提言」は、「中核的なカルテルは、競争法に対するもっとも悪質な違反である」ことを認めている。この提言に従って、公取委、法務省ならびに関係省庁は、カルテル及び談合に対する取り締まりを強化するための措置を講ずるべきである。2000年4月までに、公取委は法務省と調整の上、公取委の調査権限を見直し、2001年4月までに法改正をすることを念頭において、改正案を提言する審議会を設立すべである。この審議会は以下の点を検討すべきである。

U-A.刑事捜査および刑事告発の権限

U-A-1. より多くの刑事告発を促すため、独禁法違反の刑事告発手続きおよび要件を改革する。

U-A-2. 公取委の調査権限を強化する。

U-A-3. 独禁法第10章(あるいは他の関係法令)を改正し、不当な取引制限などの独禁法第89条違反の規定期間は継続的な合意や共謀の最後の行為が行われた時からはじめて開始することを明確にする。

U-B.調査妨害への罰則

U-B-1. 独禁法第40条および第46条による調査に対する妨害(公取委あるいはその調査官への意図的な虚偽報告あるいは報告書の提示を含む)に対しより強い罰則を科す。これには、独禁法第94条および94条の2の違反に対する実刑としての懲役、罰金を含む。

U-B-2. 独禁法第92条の2、94条あるいは94条の2に規定されているように、調査を妨害する個人を積極的に告訴する政策を採用する。

U-C.行政課徴金制度の改革

U-C-1. 課徴金制度を以下の通り強化する。

U-C-1-a.独禁法第7条の2を改正し、違法なカルテル行為を公取委に通報し、公取委に十分協力する企業に対しては課徴金を減額したり、免除したりする権限を公取委に与える。

U-C-1-b.中小企業に対する特別な処置を廃止する。

V.談合に対する措置

中央政府および地方自治体調達における談合とのさらに戦っていくために、日本は2000年4月までに以下の措置を含む反談合計画を採用すべきである。

V-A.刑法第96条の3により、刑事上の談合を調査するため、警察庁および特に警視庁をはじめとする地方警察本部による新たな計画を発表する。

V-B.刑事上の談合行為を調査する上での協力を強化するために、公取委と警察庁及び警察本部との連携メカニズムを確立する。このような協力には、訓練プログラムやこの分野における効果的な調査テクニックに関する情報交換、またそのような犯罪を調査するのに役立つ研究機関の利用なども含まれるだろう。

V-C.政府契約における談合に関与したことが判明した会社に対する民法上の不法行為あるいは、不当利得に関する条項の下で、全ての政府調達機関は損害賠償をもとめる政策を採用する。

V-D.故意に談合故意を助けた政府職員、特に指定入札システムを利用したり予定価格を不当に漏らしたりした職員に厳しく対処するという政策および執行制度を政府全体で採用する。

V-E.刑事罰また行政処罰(課徴金を含む)などの効果的な抑止システムを発展させ、企業が談合に参加したり、あるいは補足的な入札をすることなどにより、談合行為に加わったり、談合行為を助けたりすることのないようにする。

W. 民事的救済措置

私訴による差止請求や損害賠償請求が現実的に利用可能であれば、独占禁止の法体系の効果および抑止力を高めることができる。このために、日本は2000年4月までに以下のような法律を導入すべきである。

W-A. 反競争的であり、独禁法第3条または第8条1の(1)の行為を含む独禁法違反行為に対して私人が差止請求を求める訴訟をおこすことを認める。

W-B. 独禁法違反民事賠償訴訟において、(i)損害額を証明する負担や(ii)独禁法違反と被った損害との間の因果関係を証明するという、原告の直面している法的障害を緩和する。

W-C. 関係地方自治体、そして、または関係政府系団体に対し、彼らの管轄内で独禁法違反のために消費者が被った損害を賠償するために独禁法または民法の下で、私的訴訟をおこせる権限を与える。

X.規制撤廃の促進

X-A.反競争的民間部門の規制排除

X-A-1. 閣議決定(1998年3月31日)および公取委による「公益法人の基準・認証に関する調査」(1998年7月)に従い、公取委は事業者団体および非営利団体が採用する反競争的民間部門の規制(民民規制)の撤廃を確保するために公取委がとった措置に関して2000年4月までに報告する(透明性およびその他の政府慣行、民間部門の規制も参照)。

X-B.公益事業における規制撤廃

X-B-1. 米国政府は、規制撤廃にあたり電気分野に独禁法を適用するための公取委によるガイドライン作成準備を支持する。これに関して、公取委は以下の措置を講ずるべきである。

X-B-1-a.1999年4月1日より施行されているパブリック・コメント手続きを使用し、一般の人と外国政府にガイドラインが完成する前にコメントする機会を与える。

X-B-1-b.これらのガイドラインに以下の一般的課題への対処も求める。

X-B-1-b-i.特に託送性能という時間に敏感な移行を鑑みた、適切な製品及び地理的市場概説アプローチ。

X-B-1-b-ii.引き続き完全または部分的規制の対象となる取引きや企業への独禁法適用の範囲に関する説明。

X-B-1-b-iii.託送接続における競争的調整と反競争的調整との区別。

X-B-1-b-iv.支配的な企業が市場での力を保持したり拡大するため反競争的慣行を行うことの防止。これには会社が市場での力を他の統合あるいは非統合競合者の市場アクセスを妨害するために利用しようとする動機(構造的あるいは他の方法によって)を排除することも含む。

X-B-2. 公取委は、健全な競争政策に沿った形で、電気・ガス分野における最大限の規制撤廃を促進するために、引き続き積極的な役割を果たしていく。

X-B-3. 公取委は、公益事業分やにおける規制撤廃および競争政策を現在検討している研究会が以下の事項を実行することを確保すべきである。

X-B-3-a.中間および最終報告書または勧告の発行予定を含む作業日程を公表する。

X-B-3-b.関係者が意見を表明できるヒアリングを開催する。

X-B-3-c.パブリック・コメント手続きあるいはそれに匹敵する手続きに基づいて、研究会の中間報告あるいは予備的勧告に対してパブリック・コメントの機会を提供する。

Y.独占禁止法適用除外

Y-A.日本は、鉄道、電気、ガス事業を含む自然独占に対する適用除外を定めた独禁法第21条を2000年4月までに廃止すべきである。

Y-B.産業再生法(法第131号、1999年)の第5条の適用に関して、日本は以下のことを実行する。

Y-B-1. この法律が何ら、独禁法に取って代わるものでもなく、公取委による独立した独禁法の執行を損なうものでないことを確認すること。

Y-B-2. 公取委が、この法律の下で提出される全ての申請、特に共同申請について通知を受け、見直す機会を与えられること。

Y-B-3. このような申請に対する公取委の全ての助言を出来る限り公表すること。

Y-C.日本は、公正取引協議会を実質的に独禁法の適法除外とする景品表示法第10条の5の必要性を廃止する方向で、見直すべきである。

Z.合併および株式・資産取得審査

日本は、いかなる形態によるものでも競争を実質的に制限する可能性をもつM&Aの申請に対し、積極的に独禁法を適用することを支持すべきである。これに関し、以下の措置を講ずるべきである。

Z-A.日本は、独禁法第10条にあてはまる株式その他の取得に関し事前報告を義務づけるよう独禁法を改正すべきである。

Z-B.日本は、複雑なM&Aのケースを適切に調査し、厳密な分析ができるように公取委の能力改善を促進する目的で、公取委の資源を増やすべきである。

Z-C.公取委は、M&A審査の透明性を高めるため以下のような措置を取るべきである。

Z-C-1. 事前協議期間中に申請された案件に公取委が変更を求める場合は、その根拠のより完全な説明を公表すること。

Z-C-2. ある特定の案件に求めた変更がいかに競争上の問題を排除するかを詳細に説明すること。

Z-C-3. 内容の変更後に申請された案件を承認する場合は、最終的に承認する前に、関係第三者または出来るだけ広く一般に考えを求め、それらのコメントの適切なものを公表する。

[.流通分野における競争の促進

流通分野の競争促進と効率向上という観点から、公取委は以下の措置を講ずるべきである。

[-A.「高度寡占産業」における製造業者ならびに流通業者を結び付けている財務上の相互関係の程度と形態に関する調査に着手する。このような調査は産業別に行い、株式の持ち合い、融資あるいはその他の資本提供、また従業員、設備・機器の共用状況を対象とする。

[-B.大規模小売店舗の設置の申請を検討中の地方自治体の活動を緊密に監視し、大規模店の競争促進的利便について、これらの地方自治体に提言を行う。

[-C.特に高度な集中状態にある分野の民間企業の独禁法遵守計画を、それらの計画が独禁法遵守の最も厳しい基準となることを促進するという観点で、見直すことの出来るメカニズムを構築する。

\.公取委の予算及び資源

\-A.日本は、2000年度における公取委の職員を大幅に(最低50名)増員するべきである。また、政府機関の再編を機に、公取委への他の機関からの永久移籍を認めるべきである。

透明性およびその他の政府慣行

 近年、日本政府は、行政手続法の施行、意見提出手続(パブリック・コメント手続)の採用、情報公開法の制定等を通し、透明性がより高く責任所在のはっきりした規制制度の基盤づくりに取り組んでいる。米国政府は、これらの措置を歓迎する一方で、日本が1999年のOECD報告書(Regulatory Reform in Japan)で必要とされているレベルの透明性と責任所在の明確化を達成するためには、更なる措置を講じる必要があると考える。OECD報告書は日本の規制制度について次のように述べている。「規制や行政プロセスの透明性が欠如していることは、日本国内の規制制度の大きな弱点である。すべての市場参入者と競争者にとって、規制に関する適切な情報を入手することは、潜在的費用、リスク、市場機会についての正確な事業判断を行うのに不可欠であり、規制の不透明性は、これらの事業判断に影響を及ぼし、特に、外国企業には余分な負担を課している」。同報告書はさらに、「投資、市場参入、イノベーションは規制の透明性の改善と責任所在の明確化を通じて促進されるべきである」と結んでいる。

 米国は、日本政に対し、規制制度の透明性の大幅な改善と責任所在の明確化を目的とした広範な規制改革プログラムを導入するよう要望する。プログラム導入における基本的前提は、各省庁が既存の規制の変更や継続、また、新たに規制を制定する際には、国民に対し正当な理由を説明する義務を負うことである。規制をルールとしてではなく、例外として位置づけるべきである。つまり、公共政策の利益に直接結びつかない規制は廃止するか、採用すべきではない。国民は規制の制定や評価過程に参加するための効果的な機会を与えられるべきである。当該改革プログラムは、公的規制と民間規制(いわゆる民民規制)の両者を対象とすべきである。

・ ・・・・・

(注終)

(注)昭和21年カムイ氏試案にはすでに私訴の制度(クレイトン法第4条による三倍額損害賠償請求訴訟と同様のものであり、クレイトン法第16条の差止をどのように扱うかについては挿入されていない)がはいっていた。但し、昭和21年の原始独占禁止法では公正取引委員会の審決前置主義に変わっていた。(注終)

1999年5月3日

規制緩和及び競争政策に関する

日米間の強化されたイニシアティブ第二回共同現状報告

(仮訳)

2.民事的救済制度

(1)私人による差止請求制度に関する通産省の研究会は,1998年6月、最終報告書を発表した。

同報告書は、私人に対し、不公正な競争行為に対する差止請求を認めることが必要であると結論

付けた。

(2)民事的救済制度に関する公正取引委員会の研究会は、1998年12月、私人による差止に関

する中間報告書を発表した。同報告書は、独占禁止法違反行為に対する私人の差止請求について

は、いくつかの具体的事項についてさらに検討することを条件として、独占禁止法の枠組におく

ことが「適当」であろうと結論付けている。

(3) 日本政府は,

(a)民事的救済制度について、公正取引委員会と通産省のそれぞれの研究会により発表された報

告書を踏まえつつ、独占禁止法違反行為を含む不公正な競争行為に対する民事的救済制度の整

備を図る方向で更に検討を積極的に進める。また、

(b)公正取引委員会の研究会の最終報告書を遅くとも1999年12月末までに得た上で、19

99年度中に結論を得ることを目指す。

3. 反カルテル執行

(1)日本政府は、

(a)1994年の「公共事業の入札・契約手続の改善に関する行動計画」におけるV.6(1)「入

札書への記載」の完全な遵守を確保するため、必要な措置をとった。この結果、中央公共工事

契約制度運用連絡協議会に参加している12省庁・16政府関係機関すべての入札書において、

入札参加者に、独占禁止法等に抵触する行為を行ってはならないと認識していること及び現に

行っていないことを確認させている。

(b)入札過程における透明性を高めるため、公共事業に関し落札者が公表された後に、予定価格

を公表することとしており、既にほとんどの発注機関で実施されている。

(2) 米国政府は、公正取引委員会が,1999年2月に、各社のシェアを決定する共謀行為でダク

タイル鋳鉄管製造業者3社を検事総長に刑事告発したことに留意する。1999年3月、公正取

引委員会は、当該製造業者の当該受注業務に従事していた10名を追加告発した。

(3) 米国政府は、公正取引委員会が、1998年度において、27件の独占禁止法違反事件に対し、

法的措置を採り、そのうち19件が価格カルテルや入札談合などの不当な取引制限であったこと

に留意する。

(4) ハードコア・カルテルに対する効果的な措置に関するOECD勧告(1998年3月25日)

を推進するために、日本政府は次の事項を実施する。

(a)公正取引委員会は、価格カルテルや入札談合などの独占禁止法違反に対し、積極的な独占禁

止法の執行を継続する。重大かつ悪質な独占禁止法違反に対し、積極的に刑事罰を求めて告発

を行うという1990年の公正取引委員会の方針に基づき、公正取引委員会は、こうした違反

に審査活動の努力を向け続け、積極的に刑事告発を行う。

(b)公正取引委員会は、関係方面の理解を得つつ、審査能力を強化するために、一層の努力を払

う。公正取引委員会は、審査局の職員に対する研修プログラムの改善,審査局の職員の専門技

術の向上、及び改善を図る観点からの審査手続に関する規則の見直しにより、審査能力を強化

するために一層努力する。

(c)入札心得は、発注者として公共事業の入札における入札条件を示したものであり、これに従わ

ないことが直ちに法令違反となるものではないが、入札心得に従わなければ当該入札を無効とす

ることがあり得ることについて、米国政府は理解する。

 建設省は、上記米国政府の理解を前提条件として、入札心得第4条の3に以下の2項を追加する。

「2 入札参加者は、入札に当たっては、競争を制限する目的で他の入札参加者と入札価格又は入札

意思についていかなる相談も行わず、独自に価格を定めなければならない。

 3 入札参加者は、落札者の決定前に、他の入札参加者に対して入札価格を意図的に開示してはな

らない。」

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/keizai/kanwa/pdfs/1998report_j.pdf

規制改革についての第2次見解 平成11年12月14日 行政改革推進本部 規制改革委員会

【競争政策等分野】競争政策における透明性の確保として、合併等の事前届出

に係る事前相談等の在り方を新たに取り上げている。このほか、独占禁止法

第21条及び第24条の見直し、著作物の再販売価格維持制度の見直し、民

事的救済制度の検討状況など独占禁止法関係の課題を取り上げるとともに、

消費者契約法(仮称)の動向を取り上げている。

http://www.kantei.go.jp/jp/gyokaku-suishin/9912kenkai2.pdf

(公正取引委員会)計画・競争EE民事的救済制度

制度の実施状況を注視しつつ、事例の蓄積を待って必要性が認められる場合には、私人による差止め請求ができる独占禁止法違反行為として、私的独占及び不当な取引制限を対象とすることを含めて、民事的救済制度を更に充実した制度とするための検討に着手する。

必要性が認められる場合、検討実施予定時期

事項名 措置内容当初計画等との関係 平成13年度 平成14年度 平成15年度

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kisei/kakugi/pdf/3-03.pdf

米国の要請によって日本国政府は独占禁止法による経済的自由論が重要であると認識し、国会もそれを受け入れたので独占禁止法違反に対する独占禁止法第24条が制定されたのである。アメリカではクレイトン法第16条の差止請求権とクレイトン法第4条による損害賠償請求権による法の執行は独占禁止法形成期から1945年までにはすでに多くのper se ruleによる判決がなされていた。それ以前及びそれ以後の両条項のアメリカにおける判決も参考にすべきであると考えるものである。米国以外の国についても米国の独占禁止法の解釈を参考にしており、日本も取り入れるべき時期にきていると考えられる。

クレイトン法第4条の損害賠償請求と同様のカイム氏試案の存在からその消滅まで独占禁止法第24条の制定までにただ4件のみの損害賠償請求の認容が行われているのみであるのは証拠の優越程度の証明でよいという証拠の要件の緩和が遅れていたためであり、独占禁止法による経済的自由論が重要でありかつ独占禁止法違反が特殊な公的なものであり、証明が難しいという点を考えれば、証拠の優越の判決の法理の問題こそ重要であろうと考えられる。

とにかく独占禁止法第24条がクレイトン法第4条の損害賠償請求の私訴及びクレイトン法第16条の差止の私訴を認めたのであるから、その運用に当たっては証拠の優越程度の証明でよいという証拠の要件の緩和を行っていくことは必要である。

世界の標準に従っていく必要があると考えられる。

アメリカ合衆国の日本国大使館のホームページhttp://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j041.htmlにおいては次の通りに公表されている。

競争政策に関する米国政府の要望 1999年3月

「規制緩和及び競争政策に関する日米間の強化されたイニシアティブ」

競争政策についての米国の要望事項のファクト・シート

1999年3月

● 背景

規制を撤廃し日本経済に競争を導入するという日本全体の努力を成功に導くためには、独占禁止法の積極的な執行と競争政策の唱導が不可欠である。規制撤廃が構造的変化を促す中、競争政策の積極的な実施は、民間部門が改革の利益を逆手に取ることを防ぐために非常に重要である。そのために米国は、長年、日本に対し、公正取引委員会の組織構造、査察権限及び競争政策唱導者としての役割を強化するよう求めてきた。現在の「規制緩和及び競争政策イニシアティブ」協議において、米国は以下のような提言を行なっている。

● 要望事項

−− 公正取引委員会の独占禁止法執行能力を向上させるため、同委員会の査察権限(例えば、独占禁止法違反の被疑者に対し証拠を強制的に提出させる権限)を強化すべきである。日本政府は、公正取引委員会の強制的権限を改善する方法を調査するため、公正取引委員会主導の公聴会や審議会を開くべきである。

−− 日本企業の雇用者は、独占禁止法の要件についての理解が不完全あるいは不適切であるかもしれない。企業や雇用者が独占禁止法に則った行動をとるよう、公正取引委員会は、公正取引協会とともに独占禁止法遵守プログラムのモデルを制作し配布すべきである。

−− 公共事業における不正入札に対しより強力に対処するため、建設省は全ての入札参加者に、他の入札者と協議したり、連絡をとったり、共謀したりせず独自に価格を決定した旨を証明させるべきである。さらに、虚偽の証明の提出が犯罪となるように刑法を改正すべきである。

−− 米国は、公正取引委員会が、会社であれ個人であれ、私人が独占禁止法違反に対する差止請求や損害賠償を求めることを制限した現行の法的規制を審査するために、研究会を設立したことを歓迎する。現在、私人(個人あるいは会社)は独占禁止法訴訟において差止請求権を持っていない。さらに、独占禁止法違反に対して損害賠償を請求する場合、私人は公正取引委員会がまず公式な勧告を出すまで待たなければならない。そのため、いわゆる「私人救済」は、包括的な独占禁止法体制にとって絶対に必要な要件である。私人救済は、日本企業に対し、その企業慣行を独占禁止法に完全に沿ったものにすることの重要性を喚起するのに重要な役割を果たすことができる。米国は、公正取引委員会の審議会に対し、私人が差止請求を行えるように、また、現在求められているような公正取引委員会の公式な勧告なしに損害賠償請求を行えるように、独占禁止法を改正すべきであると提言することを求めている。

−− 独占禁止法の積極的な執行者としての役割に加えて、公正取引委員会は、競争を鈍らせ妨げるような規制を無くすことを公に推進することにより、競争政策や規制改革の唱導者としての努力を実質的に高めるべきである。他の工業国では、ほとんどの競争当局は競争政策唱導の重要性を認識し、その努力に多くの人材と資金を投入している。米国は、公正取引委員会に対し、この分野における将来の活動についての競争政策唱導計画を立てるよう勧めている。

−− 米国が公正取引委員会に対し競争政策唱導を強化するよう提言するのは、今回が初めてである。米国は、公正取引委員会が競争の唱導者としての権威を高め、規制撤廃過程での日本政府内での役割を強化できる例として、公聴会を開くことを提案する。公正取引委員会主催の公聴会は、重要な規制撤廃及び競争政策に関する問題を取り上げることができるであろう。

−− 過去において米国はまた、日本政府に対し、公正取引委員会に十分な職員及び予算を配分するよう提言している。同委員会の人的及び財政的資源の欠如の例をあげると、世界規模での合併の大きな波が押し寄せているにも拘らず、公正取引委員会で合併案件に常勤で当たっている職員はたった20名である。米国では、司法省だけでみても230以上が合併審査に常勤で当たっている。

http://japan.usembassy.gov/e/p/tp-2502.html

日本における規制撤廃、競争政策、透明性及びその他の政府慣行に関する日本政府への米国政府要望書

1999年10月6日

 米国は、日本における規制撤廃、競争と規制制度改革の促進、より強力な競争政策の推奨と執行、そして規制手続における透明性の拡大について、それぞれの事項に深い、継続的、実質的な関心を抱いている。これらの分野において日本政府が大胆な措置を講じることは、日本経済において市場メカニズムが効果的に機能するうえでの構造的、統制的障害を取り除くために不可欠である。これらの分野で有意義な政策を採用し実施していくことは、日本における資本、人的資源の配分の効率を高め、そして日本の経済成長を長期的に持続させるために基本的に重要である。またそれは、米国やその他の外国企業による日本市場へのアクセスを阻害する構造的、制度的障害を改善する。

 日米両国政府は、1997年6月に「規制緩和及び競争政策に関する強化されたイニシアティブ」を確立した際に、これらの課題について継続的に両国の関心を集中していくことの重要性を認識した。「強化されたイニシアティブ」は、両国政府が特に注意を払うべき分野別及び構造的な主要課題を明らかにするものである。米国は、両国の指導者により1998年6月と1999年5月にそれぞれ発表された第1回および第2回の「共同現状報告」に詳述されている、「強化されたイニシアティブ」の下で今日までに達成された成果を歓迎すると同時に、日本がそれらの措置を完全に実施していくことを期待する。しかし、更に成し遂げる必要のある課題は多く残っている。

 米国政府は、日本政府に対し、日本における規制撤廃、競争政策、透明性及びその他の政府慣行に関する本要望書を提出できることを喜ばしく思う。本要望書は、「強化されたイニシアティブ」の下で取り扱われている全ての分野に関する多数の個別、具体的な要望のみならず、広範にわたる大胆な構造的イニシアティブを求めるものである。米国は、本要望書が、両国政府によって2000年3月末までに発表される第3回共同現状報告の基礎を成すべきものと確信する。

目 次

電気通信

医療機器・医薬品

金融サービス

住宅

エネルギー

流通

法律業務

その他の分野別課題

競争政策および独占禁止法

競争政策および独占禁止法

T. 公正取引委員会の独立性

独立している公正取引委員会(公取委)は、米国が保持すべきと強く感じる日本の独占禁止執行システムの長年の重要な柱であった。そのために、中央省庁再編の一環として公取委が2001年に総務省の下に置かれる際に、日本政府は公取委の独立性を引き続き確保するための追加的な措置をとるべきである。特に、郵政省も総務省に属することになるため、通信分野において公取委が独占禁止法(独禁法)を適用する場合に、郵政省または総務省が干渉しない、また公取委の人事制度と予算の独立性が維持されることを保証する政令を出す必要がある。

U. 反カルテル措置の執行

1998年3月25日のOECDの「中核的カルテルに対する効果的な措置に関する提言」は、「中核的なカルテルは、競争法に対するもっとも悪質な違反である」ことを認めている。この提言に従って、公取委、法務省ならびに関係省庁は、カルテル及び談合に対する取り締まりを強化するための措置を講ずるべきである。2000年4月までに、公取委は法務省と調整の上、公取委の調査権限を見直し、2001年4月までに法改正をすることを念頭において、改正案を提言する審議会を設立すべである。この審議会は以下の点を検討すべきである。

U-A.刑事捜査および刑事告発の権限

U-A-1. より多くの刑事告発を促すため、独禁法違反の刑事告発手続きおよび要件を改革する。

U-A-2. 公取委の調査権限を強化する。

U-A-3. 独禁法第10章(あるいは他の関係法令)を改正し、不当な取引制限などの独禁法第89条違反の規定期間は継続的な合意や共謀の最後の行為が行われた時からはじめて開始することを明確にする。

U-B.調査妨害への罰則

U-B-1. 独禁法第40条および第46条による調査に対する妨害(公取委あるいはその調査官への意図的な虚偽報告あるいは報告書の提示を含む)に対しより強い罰則を科す。これには、独禁法第94条および94条の2の違反に対する実刑としての懲役、罰金を含む。

U-B-2. 独禁法第92条の2、94条あるいは94条の2に規定されているように、調査を妨害する個人を積極的に告訴する政策を採用する。

U-C.行政課徴金制度の改革

U-C-1. 課徴金制度を以下の通り強化する。

U-C-1-a.独禁法第7条の2を改正し、違法なカルテル行為を公取委に通報し、公取委に十分協力する企業に対しては課徴金を減額したり、免除したりする権限を公取委に与える。

U-C-1-b.中小企業に対する特別な処置を廃止する。

V.談合に対する措置

中央政府および地方自治体調達における談合とのさらに戦っていくために、日本は2000年4月までに以下の措置を含む反談合計画を採用すべきである。

V-A.刑法第96条の3により、刑事上の談合を調査するため、警察庁および特に警視庁をはじめとする地方警察本部による新たな計画を発表する。

V-B.刑事上の談合行為を調査する上での協力を強化するために、公取委と警察庁及び警察本部との連携メカニズムを確立する。このような協力には、訓練プログラムやこの分野における効果的な調査テクニックに関する情報交換、またそのような犯罪を調査するのに役立つ研究機関の利用なども含まれるだろう。

V-C.政府契約における談合に関与したことが判明した会社に対する民法上の不法行為あるいは、不当利得に関する条項の下で、全ての政府調達機関は損害賠償をもとめる政策を採用する。

V-D.故意に談合故意を助けた政府職員、特に指定入札システムを利用したり予定価格を不当に漏らしたりした職員に厳しく対処するという政策および執行制度を政府全体で採用する。

V-E.刑事罰また行政処罰(課徴金を含む)などの効果的な抑止システムを発展させ、企業が談合に参加したり、あるいは補足的な入札をすることなどにより、談合行為に加わったり、談合行為を助けたりすることのないようにする。

W. 民事的救済措置

私訴による差止請求や損害賠償請求が現実的に利用可能であれば、独占禁止の法体系の効果および抑止力を高めることができる。このために、日本は2000年4月までに以下のような法律を導入すべきである。

W-A. 反競争的であり、独禁法第3条または第8条1の(1)の行為を含む独禁法違反行為に対して私人が差止請求を求める訴訟をおこすことを認める。

W-B. 独禁法違反民事賠償訴訟において、(i)損害額を証明する負担や(ii)独禁法違反と被った損害との間の因果関係を証明するという、原告の直面している法的障害を緩和する。

W-C. 関係地方自治体、そして、または関係政府系団体に対し、彼らの管轄内で独禁法違反のために消費者が被った損害を賠償するために独禁法または民法の下で、私的訴訟をおこせる権限を与える。

X.規制撤廃の促進

X-A.反競争的民間部門の規制排除

X-A-1. 閣議決定(1998年3月31日)および公取委による「公益法人の基準・認証に関する調査」(1998年7月)に従い、公取委は事業者団体および非営利団体が採用する反競争的民間部門の規制(民民規制)の撤廃を確保するために公取委がとった措置に関して2000年4月までに報告する(透明性およびその他の政府慣行、民間部門の規制も参照)。

[以下は非公式訳であり、正文は英文です]

米国、構造問題専門家協議で日本に一層の規制撤廃を要望

1999年11月17日

日米構造問題ワーキング・グループは11月16、17日の両日東京で会合を開き、日本経

済のすべての分野で効率を向上し、競争を促進し、市場を開放することを目指した流通、

法律業務、保険、競争政策、および政府慣行の透明性に関する規制撤廃および規制改革に

ついて協議を行った。本ワーキング・グループは、クリントン大統領と橋本首相(当時)

が1997年に始めた「規制緩和及び競争政策に関する強化されたイニシアティブ」に基づき

会合を開いた。

米国代表団は、小渕政権が継続して規制撤廃および規制改革に力を注いでいる点に鑑み、

日本が米国の提案に応じて、改革の力が真に日本経済に根づくようにすることを強く求め

た。日本経済は経済成長を始める兆候を見せつつあるが、市場を開放し、新規投資を促す

積極的な構造改革や競争促進的な措置を実施しない限り、成長を持続することはできない

であろう。米国では、規制撤廃が生産性を向上させ、長期にわたり雇用機会を増加させ、

競争力を回復させる手助けとなった。日本も同じ利益を享受することができるはずだ。

この2日間ワーキング・グループが行った協議は生産的であり、10月6日に米国が日本

に提出した以下の分野での必要な構造改革に関する要望に焦点を当てた。

流通

米国は、日本が大規模小売店舗の新設に対する規制を緩和するために講じた措置の結果

として、日本の小売および流通分野へ10億ドルを超える米国からの直接投資がなされ、多

くの新たな雇用が創出され、消費者の選択肢が増えたことを述べた。しかし、この流れを

後退させないためには、日本は必要なすべての措置を講じて、地方自治体による大店立地

法の公正で透明な運用を確保するよう強く求めた。通関分野に関しては、米国は、日本に、

貨物の通関手続の効率性を改善するよう要望した。日本貿易振興会(JETRO)の最近の報告

によれば、他の主要先進国に比べ、日本の輸入の通関手続は、非常に長い時間を要するこ

とが指摘されている。米国の提案は、具体的には、事前承認手続の簡略化、税関から貨物

が引き渡された後の関税支払い、輸入手続書類の同時処理、貨物の通関取扱時間の延長、

そして通関手続を迅速化し、輸入業者の負担を軽減するための諸措置の実施である。

法律業務

米国は、日本政府に法律業務の市場における障壁、とりわけ、日本の弁護士と外国法事

務弁護士(外弁)間の関係に関する規制を取り除くよう、日本政府に促した。これらの規

制は、日本において国際法律業務に関する人的資源および専門知識が不十分であることと

あいまって、潜在的な投資家の投資意欲を損ない、日本経済の再建コストを増加させ、主

要な金融センターとしての東京の発展を妨げるものとなる。これらの懸念に対処するため、

米国は、日本の弁護士と外弁がパートナーシップを認めて、顧客のニーズにより完全にか

つ効率的に応えることができるようにすることを日本に求めた。また、米国は、日本にお

いて増加する法律業務へのニーズに応えるべく、1年間に認可される弁護士の数を増やす

ことを勧めた。さらに、米国は、日本の弁護士または外弁に影響する規制の変更を検討す

る際には、パブリック・コメント手続の使用を日本弁護士連合会(日弁連)に義務づける

ことを日本政府に求めた。また、米国は、外弁が日弁連の規制活動に参加する機会がさら

に与えられるよう、日本政府に求めた。

保険

日本の保険市場の規制撤廃は、日本の消費者に広範囲な革新的で競争力のある保険商品

およびサービスにアクセスできる機会を与え始めているが、これは金融監督庁の業務の方

法の変更を必要とする。経団連や日本の規制改革委員会の要求と同様、米国は、金融監督

庁が職員の数を増やし、手続きの近代化を図り、保険会社がより速やかに、そしてより効

率的な方法で新商品を、ますます規制撤廃の進む市場へ送り出すことができるような、よ

り柔軟性に富んだ認可制度を採用すべきである旨提案した。さらに、米国は、金融監督庁

のシステムの透明性を高めるため、日本および外資系の保険会社との意思疎通をする際に、

書面によるガイドラインを当然のこととして活用することを強く勧めた。米国は、また、

日本が政府運営の簡易保険制度を既に強力な民間保険市場と競争している分野に拡大させ

る計画を止めることを求めるとともに、これらの計画の金融ビッグ・バンや行政改革の目

的との整合性に疑問のあることを述べた。

競争政策

規制撤廃および強力な独禁政策は、日本におけるダイナミックで開かれた市場を促進す

るために互いに手を取り合っていかなければならない。この目的のため、米国は、公正取

引委員会(公取委)の行政活動、過度な違反に対する刑事告発、および独禁法違反の犠牲

者による民事訴訟制度からなる日本の現在の独禁法執行制度の改善が必要であると考える。

最近の防衛庁の燃料調達、ごみ焼却場建設プロジェクトおよび北海道における公共事業に

かかわる入札談合事件はその必要性を示すものである。米国は日本が、刑事事件としての

談合を警察がもっと積極的に捜査することにより、談合を排除するための努力を強化し、

政府調達機関への超過請求分すべてを全額払い戻し、入札談合行為を支えたいかなる調達

担当職員も厳しく罰するよう求めた。公取委の独禁法違反行為を見つけて対処する能力を

高めるため、公取委・法務省合同委員会を創設し、公取委の調査手段や手続きの近代化や

調査妨害を防ぐ手段を考えることを勧めた。米国は、独禁法違反による被害者が差し止め

命令を獲得しやすくし、損害請求の主張を証明しやすくするために、日本に民事訴訟制度

の改善を求めた。米国は、また、公取委が合併が経済に与えうる影響をより注意深く分析

し、規制緩和・撤廃された経済において求められる今まで以上の役割を果たせるよう、公

取委の資源を増加することを日本に求めた。

透明性

米国は、日本が、各省庁が規制案を公表し、パブリック・コメントを募集するパブリッ

ク・コメント手続を今年前半に導入したことによって日本の規制制度の透明性が向上した

ことを歓迎する。同時に、米国は、新たに実施されるようになったパブリック・コメント

手続に関するいくつかの懸案事項を述べ、日本の審議会に対し中間報告書や提言を発表す

る際にパブリック・コメント手続を使用するよう義務づけることを、勧めた。また、米国

は、経済的影響の大きいと思われる規制変更については、そのコストと利益を評価するこ

とを義務づける政府全体のシステムの創設を、日本に促した。米国は、また、新しい規制

のメカニズム、つまり、規制プロセスの先見性および透明性を向上させ、省庁の負担を減

少させるものである「訴訟不要意見書」および「書面回答」の導入を勧めた。さらに、米

国は、原則として日本がすべての行政指導を書面にて提示することを義務づけることを提

案した。最後に、米国は、日本が民間部門の規制(いわゆる「民民規制」)につき、さらに

透明性を高めることを要請した。

構造問題ワーキング・グループは、強化されたイニシアティブの下にある6つのワーキ

ング・グループのひとつである。他の専門家グループは、電気通信、医療機器・医薬品、

金融サービス、エネルギー、および住宅の問題を協議するために、近い将来会合を持つ予

定である。両国政府は規制撤廃のための具体的な措置を打ち出し、日本経済全体に競争促

進を図る政策を進めるため、今後数カ月にわたって作業を続けていく。さらに、米国は、強化されたイニシアティブの最初の2年間に日本が採択した措置の実施状況を引き続き注意深く見守っていく。

米国と日本は、日本が採択する新しい措置を協議するため、来年早々に次官級会合を開く予定である。この措置は、2000年3月末までに大統領および首相に提出される第3回共同状況報告に盛り込まれることになる。

米国代表団は米国通商代表部日本通商政策課長エイミー・ジャクソンと司法省反トラスト局特別顧問スチュワート・シェムトムが共同議長を務め、国務省、商務省、米国関税局および米国大使館の代表が出席した。日本代表団は外務省北米第二課羽田浩二課長が議長を務め、通産省、大蔵省、法務省、建設省、郵政省、自治省、運輸省、公正取引委員会、総務庁、国税庁、経済企画庁、警察庁、特許庁および金融監督庁からの代表が出席した。

なお、参考資料として、「日本における規制撤廃、競争政策、透明性及びその他の政府慣行に関する日本政府への米国政府要望書」(1999年10月6日)を米国大使館のホームページ [www.usia.gov/posts/tokyo/] に掲載。

***

November 17, 1999

(注) 以下アメリカ反トラスト協会が11月8日November 8, 2005に予定している会議においても、Real Estate Brokerage Industryにおける反トラスト法上の問題が取り上げられる予定であるが、これは先に述べた通りの状況にある。

9/21/05

Conference on Competition in the Residential Real Estate Brokerage Industry

November 8, 2005

Washington, D.C.

In June, AAI announced the launch of a Real Estate Competition Project to examine the residential real estate brokerage industry. In addition to examining trade association restraints on competition at the federal, state, and local level, the project includes a broad review of real estate commissions and practices, including barriers to competition that may lead to higher costs for consumers. AAI will study real estate transaction costs and the relationship of the prices charged to the services provided. It will also examine controls over multiple listing services, membership and licensing requirements, regulatory structures, price-fixing and anti-rebate restrictions.

AAI has scheduled an invitational symposium on November 8 in Washington, DC for presentation of this research and discussion of these issues. Detailed agenda to come.

To request an invitation, please write to bfoer@antitrustinstitute.org.

TOP

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Copyright (c) 2003 American Antitrust Institute

2919 Ellicott Street, N.W. Suite 1000

Washington D.C. 20008-1022

Phone: 202-276-6002, Fax: 202-966-8711

この会議に上告人は出席し、独占禁止法の哲学と、被上告人の情報の独占が不可欠施設に該当するのではないかという意見を英語で述べた。特に被上告人の行為は悪質な当然違法のような概念構成によって違法性の追求がなされるべき行為であり、自由競争を前提とする不動産業とは違い特殊な状況にあるといいうるのである。

またワシントンでは独占禁止法による経済的自由を独占禁止法協会が日本でも主張すべきであると述べて、AAI協会の会長と握手を交わしてそのように述べてきた。

またホワイトハウスの現執行部に対しても今後日本に対して独占禁止法による経済的自由論が重要でありかつ日本においてはその強化が今後必要であると述べてきた。

不動産業と不動産鑑定業との違いは、1000に3つという確率での情報競争という側面を持つ不動産業は、1000に1000の100%の確率を持って事業となる不動産鑑定業とは割当の結果が100%必ず事業に結びついている点が異なっている。特に情報による入札がなく、客の情報さえもが被上告人によって左右されている場合にはすべてが被上告人の割当通りの結果となっている点が特に重要であり、必須施設と同じように事業に必須な情報が被上告人によって持たれているのである。マルチリストとしてはただ売り情報のみであるが、被上告人は入札情報、随意契約情報まですべてを握っていて、誰もそれを知らない、知らせない仕組みを作っているのである。

Dominantであれば、差止ができるというのがアメリカの判決の趣旨である。しかし不動産業と不動産鑑定業は違い、不動産業においては完全、それも非常に強い自由競争を行っており、dominantではないが、不動産業とは違い不動産鑑定業においては被上告人はdominantである。

ただ自由競争を前提とする不動産業の場合には、他の手段があるからである。不動産業とは違い本件事件においての不動産鑑定業については、被上告人のみが取引事例を管理を任されており、それ以外で取引事例を作りそれと競争することができない。取引事例は公的な性格を持つ故に被上告人にアクセスの権利が集中しているのであって、またマーケットにおいて独占的地位が確立されているのである。

先にあげた

PER SE ILLEGALITY AND TRUNCATED RULE OF REASON: THE SEARCH FOR A FORESHORTENED ANTITRUST ANALYSIS William E. Cohen*Deputy Director, Policy Planning Federal Trade Commission November 1997においても、I. THE PER SE CATEGORY: BACKGROUNDの章において、注7で

「7. Compare Northwest Wholesale Stationers, Inc. v. Pacific Stationery & Printing Co., 472 U.S. 284, 296-98 (1985) (requiring rule of reason treatment for analysis of expulsion from a joint buying arrangement "[u]nless the cooperative possesses market power or exclusive access to an element essential to effective competition"), with FTC v. Superior Court Trial Lawyers Ass'n, 493 U.S. 411, 432-36 (1990) ("SCTLA") (finding group boycott that achieved its price-fixing goal per se unlawful, without elaborate inquiry into market power). The Court's Northwest Wholesale opinion did not make clear whether or to what extent justifications would be heard if plaintiffs did show market power or the required exclusive access.

Lower courts have included an absence of plausible justifications as an additional requirement for per se condemnation of some group boycotts.

下級審では、ある種の共同のボイコットについて当然違法のような概念構成による違法性の決定のためには追加的に要請を満たす必要があるとして、説明可能な正当性が存在しないとしたものがある。

See, e.g., Thompson v. Metropolitan Multi-List, Inc., 934 F.2d 1566, 1579-80 (11th Cir. 1991), cert. denied, 506 U.S. 903 (1992);

トンプソン対首都マルチリスト会社事件、934 F.2d 1566, 1579-80 (11th Cir. 1991), cert. denied, 506 U.S. 903 (1992);

Hahn v. Oregon Physicians' Service, 868 F.2d 1022, 1030 (9th Cir. 1988), cert. denied, 493 U.S. 846 (1989).

ハーン 対 オレゴン医療サービス、868 F.2d 1022, 1030 (9th Cir. 1988), cert. denied, 493 U.S. 846 (1989)」としている。

本件事件においては仲介業務の様にアクセスした後に自由競争があって、1000に3つしか成約しない業界とは違って、1000に1000の業界であるので、被上告人にアクセス権があり、かつ市場において独占が成立しているのであるから、共同のボイコットが当然違法のような概念構成によって違法性の追求がなされるべき行為であり、自由競争の業界とは違っている。しかし参加の権利や参加の機会が奪われているのであるから不動産業においても完全な共同のボイコットが成立していると考えることができるが、自由競争の状態にあった建設業界の事件とほぼ同じく損害が発生していないといえば嘘になるのであって、参加の機会が奪われているのであるから不動産業においても損害の可能性が発生しているのであって、共同のボイコットが成立していると考えることができる。それは共同のボイコットが成立していると考えることができるが、損害の証明ができないので泣き寝入りという方法しか残っておらず、他の業界に転職した、つまり共同のボイコットが成功したということであろう。従って、公正取引委員会の禁止の範囲内ではあるが、私訴を起こすには難しいというだけであろう。

注:不動産業においてのアメリカの二つの判決をここに注として載せる。

Link to the Case Preview: http://justia.us/us/339/485/

Link to the Full Text of Case: http://justia.us/us/339/485/case.html

U.S. Supreme Court

UNITED STATES v. REAL ESTATE BOARDS, 339 U.S. 485 (1950)

339 U.S. 485

UNITED STATES v. NATIONAL ASSOCIATION OF REAL ESTATE BOARDS ET AL.

APPEAL FROM THE UNITED STATES DISTRICT COURT FOR THE DISTRICT OF COLUMBIA.

No. 428.

Argued March 31, 1950.

Decided May 8, 1950.

1. That no interstate commerce is involved is not a barrier to a suit to enjoin violations of 3 of the Sherman Act involving purely local conduct in the District of Columbia, since Congress specifically made 3 applicable to such conduct and had power to do so under Art. I, 8, Clause 17 of the Constitution. Atlantic Cleaners & Dyers v. United States, 286 U.S. 427. P. 488.

2. If the business of a real estate broker is "trade" within the meaning of 3 of the Sherman Act, evidence that the Washington Real Estate Board had adopted standard rates of commissions for its members, that its code of ethics required members to maintain such standard rates, that members agreed to abide by the code, and that the prescribed rates were used in the great majority of transactions, although the Board had invoked no sanctions for departure therefrom, is sufficient to show a price-fixing scheme violative of 3. Pp. 488-489.

(a) That such price-fixing may serve a worthy or honorable end is immaterial. P. 489.

(b) That no penalties were imposed for deviations from the price schedules is immaterial. P. 489.

3. The business of a real estate broker is "trade" within the meaning of 3 of the Sherman Act. Pp. 489-492.

(a) The services of real estate brokers cannot be assimilated to those of employees, nor can the present case be compared to those involving the application of the antitrust laws to labor unions - notwithstanding 6 of the Clayton Act declaring that "the labor of a human being is not a commodity or article of commerce" and exempting labor unions and their members from the antitrust laws. Pp. 489-490.

(b) The fact that the business of a real estate broker involves the sale of personal services rather than commodities does not take it out of the category of "trade" within the meaning of 3 of the Sherman Act, which is aimed at the fixing of prices and

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other unreasonable restraints in the case of services as well as goods. Pp. 490-491.

(c) The activity of a real estate broker is commercial and carried on for profit; and the competitive standards which the Sherman Act sought to preserve in the field of trade and commerce are as relevant to the brokerage business as to other branches of commercial activity. P. 492.

4. That appellees were acquitted in a criminal prosecution for conspiracy to violate 3 of the Sherman Act is no bar to this civil suit to enjoin the same conspiracy, since the doctrine of res judicata is not applicable. Helvering v. Mitchell, 303 U.S. 391. Pp. 492-494.

5. The finding of the District Court that the National Association of Real Estate Boards and its executive vice president did not in fact conspire with the Washington Board to fix and prescribe the rates of commission to be charged by members of the latter is sustained, since it was not "clearly erroneous" within the meaning of Rule 52 of the Federal Rules of Civil Procedure. Pp. 494-496.

84 F. Supp. 802, affirmed in part and reversed in part.

In a civil suit in a federal district court to enjoin a conspiracy to fix rates of commissions of real estate brokers in the District of Columbia in violation of 3 of the Sherman Act, judgment was entered for defendants. 84 F. Supp. 802. On appeal to this Court, affirmed in part and reversed in part, p. 496.

The Assistant to the Attorney General Ford and Victor H. Kramer argued the cause for the United States. With them on the brief were Solicitor General Perlman, Assistant Attorney General Bergson, Herbert N. Maletz and J. Roger Wollenberg.

Roger J. Whiteford argued the cause for the National Association of Real Estate Boards et al., appellees. With him on the brief was John J. Wilson.

William E. Leahy argued the cause for the Washington Real Estate Board et al., appellees. With him on the brief was William J. Hughes, Jr.

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MR. JUSTICE DOUGLAS delivered the opinion of the Court.

This is a civil action brought by the United States to enjoin appellees[Footenote 1] from engaging in a price-fixing conspiracy in violation of 3 of the Sherman Act, 26 Stat. 209, 15 U.S.C. 3.[Footenote 2] The core of the case is the charge that the members of the Washington Real Estate Board combined and conspired to fix the commission rates for their services when acting as brokers in the sale, exchange, lease and management of real property in the District of Columbia.

The same conspiracy was charged in a criminal proceeding.[Footenote 3] The criminal case was tried first. At the end of the Government's case the court granted the defendants' motion for a judgment of acquittal. 80 F. Supp. 350. Appellees then moved for summary judgment in this civil suit, contending that the judgment of acquittal in the criminal case is res judicata here. That motion was denied.[Footenote 4]

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The civil case was then tried. It was stipulated that the trial would be on the record in the criminal case, the United States reserving the right to offer additional exhibits. No evidence was offered by appellees. The court entered judgment for the appellees, holding that the agreement to fix the rates of brokerage commissions, which had been shown, was not a violation of the Act. 84 F. Supp. 802. The case is here on appeal. 32 Stat. 823, 62 Stat. 989, 15 U.S.C. 29.

First. The fact that no interstate commerce is involved is not a barrier to this suit. Section 3 of the Sherman Act[Footenote 5] is not leveled at interstate activities alone. It also puts beyond the pale certain conduct purely local in character and confined to the District of Columbia. That Congress has the power so to legislate for the District by virtue of Art. I, 8, Clause 17 of the Constitution and did so by 3 was settled by Atlantic Cleaners & Dyers v. United States, 286 U.S. 427, 432-435.

Second. The Washington Board has adopted standard rates of commissions for its members - charges which cover the wide range of services furnished by a real estate agent. The Board's code of ethics provides that "Brokers should maintain the standard rates of commission adopted by the board and no business should be solicited at lower rates." Members agree to abide by this code. The prescribed rates are used in the great majority of transactions, although in exceptional situations a lower charge is made. But departure from the prescribed rates has not caused the Washington Board to invoke any sanctions. Hence the District Court called the rate schedules "non-mandatory."

Enough has been said to show that under our decisions an illegal price-fixing scheme has been proved, unless the

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fixing of real estate commissions is not included in the prohibitions of 3 of the Act. Price-fixing is per se an unreasonable restraint of trade. It is not for the courts to determine whether in particular settings price-fixing serves an honorable or worthy end. An agreement, shown either by adherence to a price schedule or by proof of consensual action fixing the uniform or minimum price, is itself illegal under the Sherman Act, no matter what end it was designed to serve.

That is the teaching of an unbroken line of decisions.

See United States v. Socony-Vacuum Oil Co., 310 U.S. 150, 218 et seq.; United States v. Paramount Pictures, 334 U.S. 131, 142, 143.

And the fact that no penalties are imposed for deviations from the price schedules is not material.

だから価格の基準から離れても何らの罰も加えていないという事実は、重要ではない。

See Eastern States Lumber Assn. v. United States, 234 U.S. 600, 608-609; American Column Co. v. United States, 257 U.S. 377, 411; Federal Trade Commission v. Pacific Paper Assn., 273 U.S. 52, 62.

Subtle influences may be just as effective as the threat or use of formal sanctions to hold people in line.

人々を整列させるための形式的制裁の脅威及びその使用として効果を持っている故に、些細な影響であっても正当である。

Third. The critical question is whether the business of a real estate agent is included in the word "trade" within the meaning of 3 of the Act. The District Court thought not. It was of the view that where personal services are involved, a combination to fix the price or compensation is legal. It seemingly was influenced by the declaration in 6 of the Clayton Act, 38 Stat. 731, 15 U.S.C. 17, that "the labor of a human being is not a commodity or article of commerce . . . nor shall such [labor] organizations, or the members thereof, be held or construed to be illegal combinations or conspiracies in restraint of trade, under the antitrust laws." But we think it a misconception to assimilate the services involved here to those of employees or to compare the present case to those involving the application of the

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antitrust laws to labor unions. Cf. Apex Hosiery Co. v. Leader, 310 U.S. 469; United States v. Hutcheson, 312 U.S. 219. We do not have here any more than we did in American Medical Assn. v. United States, 317 U.S. 519, or United States v. Women's Sportswear Mfrs. Assn., 336 U.S. 460, cf. Columbia River Packers Assn. v. Hinton, 315 U.S. 143, an aspect of the employee-employer relationship to which the antitrust laws have made special concessions.

Members of the Washington Board are entrepreneurs. Some are individual proprietors; others are banks or corporations. Some may have no employees; others have large staffs. But each is in business on his own. The fact that the business involves the sale of personal services rather than commodities does not take it out of the category of "trade" within the meaning of 3 of the Act. The Act was aimed at combinations organized and directed to control of the market by suppression of competition "in the marketing of goods and services." See Apex Hosiery Co. v. Leader, supra, p. 493.

Justice Story in The Nymph, 18 Fed. Cas. 506, while construing the word "trade" in the Coasting and Fishery Act of 1793, 1 Stat. 305, said,

"The argument for the claimant insists, that `trade' is here used in its most restrictive sense, and as equivalent to traffic in goods, or buying and selling in commerce or exchange. But I am clearly of opinion, that such is not the true sense of the word, as used in the 32d section. In the first place, the word `trade' is often, and indeed generally, used in a broader sense, as equivalent to occupation, employment, or business, whether manual or mercantile. Wherever any occupation, employment, or business is carried on for the purpose of profit, or gain, or a livelihood, not in the liberal arts or in the learned professions,

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it is constantly called a trade. Thus, we constantly speak of the art, mystery, or trade of a housewright, a shipwright, a tailor, a blacksmith, and a shoemaker, though some of these may be, and sometimes are, carried on without buying or selling goods."

It is in that broad sense that "trade" is used in the Sherman Act. That has been the consistent holding of the decisions. The fixing of prices and other unreasonable restraints have been consistently condemned in case of services as well as goods. Transportation services (United States v. Freight Assn., 166 U.S. 290, 312; United States v. Joint Traffic Assn., 171 U.S. 505), cleaning, dyeing, and renovating wearing apparel (Atlantic Cleaners & Dyers v. United States, 286 U.S. 427), the procurement of medical and hospital services (American Medical Assn. v. United States, supra, 528), the furnishing of news or advertising services (Farmer's Guide Co. v. Prairie Co., 293 U.S. 268; Associated Press v. United States, 326 U.S. 1) - these indicate the range of business activities that have been held to be covered by the Act. In Atlantic Cleaners & Dyers v. United States, supra, 435, 437, the Court rejected the view that "trade" as used in 3 should be interpreted in the narrow sense which would exclude personal services. It held, speaking through Mr. Justice Sutherland, that 3 used the word in the broad sense in which Justice Story used it in The Nymph, supra. Chief Justice Groner made an extended analysis and summary of the problem in United States v. American Medical Assn., 72 App. D.C. 12, 16-20, 110 F.2d 703, 707-711, where the Court of Appeals for the District of Columbia held that the practice of medicine in the District was a "trade" within the meaning of 3 of the Act. Its conclusion was that the term included "all occupations in which men are engaged for a livelihood." We do

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not intimate an opinion on the correctness of the application of the term to the professions. We have said enough to indicate we would be contracting the scope of the concept of "trade," as used in the phrase "restraint of trade," in a precedent-breaking manner if we carved out an exemption for real estate brokers. Their activity is commercial and carried on for profit. The fact that no goods are manufactured or bought or sold in the process is as irrelevant here as it was in Atlantic Cleaners & Dyers v. United States, supra. No reason of policy has been advanced for reading 3 of the Act less literally than its terms suggest. The competitive standards which the Act sought to preserve in the field of trade and commerce seem as relevant to the brokerage business as to other branches of commercial activity.

Hopkins v. United States, 171 U.S. 578, and Anderson v. United States, 171 U.S. 604, are not opposed to this conclusion. It was held in those cases that commission merchants and yard traders on livestock exchanges were not engaged in interstate commerce even though the livestock moved across state lines (cf. Stafford v. Wallace, 258 U.S. 495), and therefore that the rules and agreements between the merchants and traders (which included in the Hopkins case the fixing of minimum fees) did not fall under the ban of the Sherman Act. But we are not confronted with that problem here. As noted, we are concerned here not with interstate commerce but with trade or commerce in the District of Columbia.

Fourth. Appellees claim that the judgment of acquittal in the criminal action is res judicata in this action. Helvering v. Mitchell, 303 U.S. 391, is contra and rules this case. There Mitchell had been tried and acquitted of a criminal charge of wilfully attempting to evade payment of his income tax. Thereafter suit was brought to

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collect the taxes owed plus a 50 per cent penalty for fraudulent evasion. The acquittal in the criminal case was held not to be a bar to the collection of the penalty.[Footenote 6] "The difference in degree of the burden of proof in criminal and civil cases" was held to preclude application of the doctrine of res judicata in the civil suit. 303 U.S. 397. In the present case the motions for judgment of acquittal raised the question whether the evidence overcame all reasonable doubt of the guilt of appellees.[Footenote 7] The ruling on them did not determine whether by the lesser degree of proof required in a civil case appellees might be found to have conspired to fix commissions. The civil action is independent of the criminal cause (Standard Sanitary Mfg. Co. v. United States, 226 U.S. 20, 52) and is remedial in nature. It has been repeatedly held that though the civil suit is bottomed on the same facts, it is

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not barred by the prior judgment of acquittal in the criminal case. See Stone v. United States, 167 U.S. 178; Murphy v. United States, 272 U.S. 630; Helvering v. Mitchell, supra. The result is not altered by the circumstance that the court in ruling on the sufficiency of the evidence may have started with an erroneous construction of the law.

Fifth. The District Court found that two of the appellees - National Association and Herbert U. Nelson[Footenote 8] - did not conspire with the Washington Board to fix and prescribe the rates of commission to be charged by the members of the latter. No more particularized findings were made. Appellant asks us to set aside that ruling. The question is whether we may do so in light of Rule 52 of the Federal Rules of Civil Procedure which provides in part:

"Findings of fact shall not be set aside unless clearly erroneous, and due regard shall be given to the opportunity of the trial court to judge of the credibility of the witnesses."

The National Association is a nationwide, incorporated trade association of which the Washington Board is a member. Active members of the Washington Board are also members of the National Association. The National Association has a code of ethics which includes an article stating that "the schedules of fees established by the various Real Estate Boards are believed to represent fair compensation for services rendered in their communities and should be observed by every Realtor." It is provided in the by-laws of the National Association (1) that each member board shall adopt the code of ethics of the National Association as a part of its rules and regulations for violation of which disciplinary action may

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be taken, and (2) that any member board that neglects or refuses to maintain and enforce the code of ethics with respect to the activities of its constituent members may be expelled from membership in the National Association. The appellant also points to evidence showing the activities of the National Association in developing a national schedule of commissions which, it is alleged, were influential in shaping the fees adopted by the Washington Board in 1944.

Appellant relies chiefly on the code of ethics and by-laws of the National Association, as it clearly may (Associated Press v. United States, supra, pp. 8, 12), to establish the restraint of trade. But we cannot say that the District Court was "clearly erroneous" in finding that the National Association and Nelson were not laced into the conspiracy to fix the commissions in the District of Columbia. The statement in the code of ethics that the schedule of fees "should be observed" is somewhat ambiguous. It may be advisory only. The provision of the by-laws that violations of the code of ethics of the National Association should be the basis of disciplinary action against both member boards and their constituent members is aimed at thirty-five articles of the code of ethics, not selectively at the fee provision. So we are left somewhat in doubt as to the extent if any to which the National Association and Nelson were architects of the fee-fixing conspiracy or participants in it. At best their relationship to it is, on this record, a somewhat attenuated one.

It is not enough that we might give the facts another construction, resolve the ambiguities differently, and find a more sinister cast to actions which the District Court apparently deemed innocent. See United States v. Yellow Cab Co., 338 U.S. 338, 342; United States v. Gypsum Co., 333 U.S. 364, 394-395. We are not given those

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choices, because our mandate is not to set aside findings of fact "unless clearly erroneous."

The judgment of the District Court is reversed except as to the National Association and Nelson; and as to them it is affirmed.

So ordered.

MR. JUSTICE FRANKFURTER and MR. JUSTICE CLARK took no part in the consideration or decision of this case.

Footnotes

Footnote 1 National Association of Real Estate Boards, a nation-wide incorporated trade association; Herbert U. Nelson, its executive vice-president; Washington Real Estate Board, an incorporated association of real estate brokers in Washington, D.C.; and 15 of its members individually and as representatives of a class consisting of all members of the Washington Board.

Footnote 2 "Every contract, combination in form of trust or otherwise, or conspiracy, in restraint of trade or commerce in any Territory of the United States or of the District of Columbia, or in restraint of trade or commerce between any such Territory and another, or between any such Territory or Territories and any State or States or the District of Columbia, or with foreign nations, or between the District of Columbia and any State or States or foreign nations, is declared illegal."

Footnote 3 The indictment was returned against the Washington Real Estate Board and the National Association of Real Estate Boards.

Footnote 4 An appeal from that order was dismissed. 85 U.S. App. D.C. 165, 176 F.2d 631.

Footnote 5 See note 2, supra.

Footnote 6 Since the Court ruled that the 50 per cent penalty was not a criminal penalty but a civil administrative sanction (303 U.S. 398-406), the case was considered distinct from Coffey v. United States, 116 U.S. 436, which held that the facts ascertained in a criminal case as between the United States and the claimant could not be again litigated between them in a civil suit which was punitive in character. The fact that in case of corporations dissolution can result from a civil suit under the antitrust laws does not make the proceeding any the less remedial. The civil suit aims to put an end to the restraint, not to impose punishment for past acts. See Schine Theatres v. United States, 334 U.S. 110, 128.

Footnote 7 The motions apparently were made under Rule 29 of the Federal Rules of Criminal Procedure which provides in part: "MOTION FOR JUDGMENT OF ACQUITTAL. Motions for directed verdict are abolished and motions for judgment of acquittal shall be used in their place. The court on motion of a defendant or of its own motion shall order the entry of judgment of acquittal of one or more offenses charged in the indictment or information after the evidence on either side is closed if the evidence is insufficient to sustain a conviction of such offense or offenses."

Footnote 8 See note 1, supra.

MR. JUSTICE JACKSON, dissenting.

If real estate brokerage is to be distinguished from the professions or from other labor that is permitted to organize, the Court does not impart any standards for so doing.

It is certain that those rendering many kinds of service are allowed to combine and fix uniform rates of pay and conditions of service. This is true of all laborers, who may do so within or without unions and whose unions frequently do include owners of establishments that employ others, such as automobile sales agencies. See, for example, International Brotherhood of Teamsters, etc. v. Hanke, ante, p. 470. I suppose this immunity is not confined to those whose labor is manual, and is not lost because the labor performed is professional. The brokerage which is swept under the antitrust laws by this decision is perhaps a borderline activity. However, the broker furnishes no goods and performs only personal services. Capital assets play no greater part in his service than in that of the lawyer, doctor or office worker. Services of the real estate broker, if not strictly fiduciary, are at least those of a trusted agent and, oftentimes, advisory as to values and procedures. I am not persuaded that fixing uniform fees for the broker's labor is more offensive to the antitrust laws than fixing uniform fees for the labor of a lawyer, a doctor, a carpenter, or a plumber. I would affirm the decision of the court below.

Page 339 U.S. 485, 497

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U.S. Supreme Court

合衆国最高裁判所

McLAIN v. REAL ESTATE BD. OF NEW ORLEANS,

マックレイン 対 ニューオーリンズ不動産業者協会事件

444 U.S. 232 (1980)

444 U.S. 232

McLAIN ET AL. v. REAL ESTATE BOARD OF NEW ORLEANS, INC., ET AL.

CERTIORARI TO THE UNITED STATES COURT OF APPEALS FOR THE FIFTH CIRCUIT.

No. 78-1501.

Argued November 6, 1979.

Decided January 8, 1980.

Petitioners, claiming individually and on behalf of a certain class of real estate purchasers and sellers, instituted this private antitrust action in Federal District Court against respondents, certain real estate firms and trade associations and a class consisting of real estate brokers who had transacted realty brokerage business in the Greater New Orleans area during the four years preceding the filing of the complaint.

Petitioners alleged, inter alia, that respondents had engaged in a price-fixing conspiracy in violation of 1 of the Sherman Act through an agreement to conform to a fixed rate of brokerage commissions on sales of residential property.

住宅の資産を売る場合の不動産業者の仲介手数料を固定の率に統一させる合意は、なかでも特に被告がシャーマン法第1条違反の価格固定の共謀を行っていることになるとして、原告は訴えた。

The complaint also included allegations that respondents' activities were "within the flow of interstate commerce and have an effect upon that commerce," and that respondents assisted their clients in securing financing and title insurance which came from sources outside the State.

Respondents moved to dismiss the complaint for failure to state a claim under the Sherman Act, contending that their activities were purely local in nature and did not substantially affect interstate commerce.

The District Court granted the motion to dismiss the complaint, holding that under Goldfarb v. Virginia State Bar, 421 U.S. 773, there must be a substantial volume of interstate commerce involved in the overall real estate transaction and the challenged activity must be an essential, integral part of the transaction, inseparable from its interstate aspects; and that here a broker's participation in the presumably interstate aspects of securing title insurance and financing was only incidental rather than indispensable.

The Court of Appeals affirmed, holding that under Goldfarb v. Virginia State Bar, supra, Sherman Act jurisdiction did not exist because petitioners had failed to demonstrate that real estate brokers are either necessary or integral participants in the interstate aspects of residential real estate financing and title insurance.

Held:

The complaint should not have been dismissed at this stage of the proceedings.

上告人はこの裁判手続の段階で棄却されることは誤りである。

Pp. 241-247.

(a) To establish jurisdiction under the Sherman Act, a plaintiff must allege the relationship between the activity involved and some aspect of

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interstate commerce and, if these allegations are controverted, must submit evidence to demonstrate either that the defendants' activity is itself in interstate commerce or, if it is local in nature, that it has an effect on some other appreciable activity demonstrably in interstate commerce.

Here, petitioners may establish the jurisdictional element of a Sherman Act violation by demonstrating a substantial effect on interstate commerce generated by respondents' brokerage activity, and petitioners need not make the more particularized showing of an effect on interstate commerce caused by the alleged conspiracy to fix commission rates, or by those other aspects of respondents' activity that are alleged to be unlawful.

Pp. 241-243.

(b) The courts below misinterpreted Goldfarb v. Virginia State Bar, supra, as requiring that petitioners demonstrate that real estate brokers are either necessary or integral participants in the interstate aspects of residential real estate financing and title insurance.

上記のゴールドハーブ 対 バージニア州弁護士協会事件の解釈を地方裁判所及び高等裁判所は次の通り行っていることは誤っている。上告人は不動産業者が住宅用不動産の金融あるいは所有権の保証という州際の事業の側面に参加している必要があるか、統合的に参加しているかを証明する様に要請されていると解釈していることは誤っている。

The Goldfarb holding was not addressed to the "effect on commerce" test of jurisdiction and in no way restricted it to those challenged activities that have an integral relationship to an activity in interstate commerce.

ゴールドハーブ事件の取り扱いは、「商業に対する効果」の法律審理の審査について述べられたのではなくて、州際の事業における活動との統一的な関連性を持っている提訴されている行為にそれを限定するものでもない。

Pp. 243-245.

(c) Here, what was submitted to the District Court shows a sufficient basis for satisfying the Act's jurisdictional requirements under the "effect on commerce" theory so as to entitle petitioners to go forward.

The record makes it clear that there is a basis for petitioners to proceed to trial where there will be opportunity to establish that an appreciable amount of commerce is involved in the financing of residential property in the Greater New Orleans area and in the insuring of titles to such property, that this appreciable commercial activity has occurred in interstate commerce, and that respondents' activities which allegedly have been infected by a price-fixing conspiracy have, as a matter of practical economics, a not insubstantial effect on the interstate commerce involved.

Pp. 245-247.

583 F.2d 1315,

vacated and remanded.

BURGER, C. J., delivered the opinion of the Court, in which all other Members joined, except MARSHALL, J., who took no part in the consideration or decision of the case.

C・J・バーガーは、他のすべての裁判官の同意の下で裁判所の判決を決定した。マーシャル判事は、本件事件において検討にも決定にも参加しなかった。

Richard G. Vinet argued the cause for petitioners.

With him on the brief was John P. Nelson, Jr.

Harry McCall, Jr., argued the cause for respondents.

With him on the brief for respondents Real Estate Board of New

Page 444 U.S. 232, 234

Orleans et al. were Arthur L. Ballin, Frank C. Dudenhefer, Edward F. Wegmann, Harry S. Redmon, Jr., Rutledge Clement, Jr., Charles F. Barbera, Moise S. Steeg, Jr., and William D. North. Edward F. Schiff, Paul B. Hewitt, and Moise W. Dennery filed a brief for respondent Latter & Blum, Inc.

Deputy Solicitor General Easterbrook argued the cause for the United States as amicus curiae urging reversal.

With him on the brief were Solicitor General McCree, Assistant Attorney General Shenefield, John J. Powers III, and Margaret G. Halpern.*

[Footnote *] William D. North and Valentine A. Weber, Jr., filed a brief for the National Association of Realtors as amicus curiae urging affirmance.

Ellen Broadman and Alan Mark Silbergeld filed a brief for Consumers Union of United States, Inc., as amicus curiae.

エレン・ブロードマン及びアラン・マーク・シルバーゲルドはアミクス・クリアエとして、合衆国消費者連盟を擁護する法律助言書を提出し記録された。

MR. CHIEF JUSTICE BURGER delivered the opinion of the Court.

最高裁判所判決は主席判事バーガーによって言い渡された。

The question in this case is whether the Sherman Act extends to an agreement among real estate brokers in a market area to conform to a fixed rate of brokerage commissions on sales of residential property.

この本件事件において問題となっていることは、住宅資産の売買における仲介業務の手数料の率の固定するために市場において基準に従った行動をとる不動産業者の間の合意についてシャーマン法の適用がなされるべきかどうかということである。

The complaint in this private antitrust action, filed in the Eastern District of Louisiana in 1975, alleges that real estate brokers in the Greater New Orleans area have engaged in a price-fixing conspiracy in violation of 1 of the Sherman Act, ch. 647, 26 Stat. 209, as amended, 15 U.S.C. 1.

No trial has as yet been had on the merits of the claims since the complaint was dismissed for failure to establish the interstate commerce component of Sherman Act jurisdiction.

The complaint asserts a claim individually and on behalf of that class of persons who employed the services of a respondent real estate broker in the purchase or sale of

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residential property in the Louisiana parishes of Jefferson or Orleans (the Greater New Orleans area) during the four years preceding the filing of the complaint.

The respondents are two real estate trade associations, six named real estate firms, and that class of real estate brokers who at some time during the period covered by the complaint transacted realty brokerage business in the Greater New Orleans area and charged a brokerage fee for their services.

被告は不動産の二事業者団体、不動産業の特定の6会社、ニューオーリンズ地域において原告によって指定された期間中のいずれかの時期に不動産業者として事業を行って取引を行い、そのサービスに対してサービスに対して仲介料を受け取った不動産業者のクラス全体。

The unlawful conduct alleged is a continuing combination and conspiracy among the respondents to fix, control, raise, and stabilize prices for the purchase and sale of residential real estate by the systematic use of fixed commission rates, widespread fee splitting, suppression of market information useful to buyers and sellers, and other allegedly anticompetitive practices.

The complaint asserts that respondents' conduct has injured petitioners in their business or property because the fees and commissions charged for brokerage services have been maintained at an artificially high and noncompetitive level, with the effect that the prices of residential properties have been artificially raised.

The complaint seeks treble damages and injunctive relief as authorized by 4 and 16 of the Clayton Act, 38 Stat. 731, 737, as amended, 15 U.S.C. 15, 26.

The allegations of the complaint pertinent to establishing federal jurisdiction are:

(1) that the activities of the respondents are "within the flow of interstate commerce and have an effect upon that commerce";

(2) that the services of respondents were employed in connection with the purchase and sale of real estate by "persons moving into and out of the Greater New Orleans area";

(3) that respondents "assist their clients in securing financing and insurance involved with the purchase of real estate in the Greater New Orleans area," which "financing and insurance are obtained from sources outside the State of Louisiana and move in interstate commerce into the State of Louisiana through the activities of the [respondents]"; and

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(4) that respondents have engaged in an unlawful restraint of "interstate trade and commerce in the offering for sale and sale of real estate brokering services."

Respondents moved in the District Court to dismiss the complaint for failure to state a claim within the ambit of the Sherman Act.

シャーマン法の領域で、訴えを起こすことは誤りであるとしてこの訴えを却下するように被告は地方裁判所に異議を申し立てた。

This motion was supported by a memorandum and by the affidavits of two officers of respondent Real Estate Board of New Orleans.

The affiants testified that real estate brokers in Louisiana were licensed to perform their function in that State only, that there was no legal or other requirement that real estate brokers be employed in connection with the purchase or sale of real estate within Louisiana, and that the affiants had personal knowledge of such transactions occurring without the assistance of brokers.

The function of real estate brokers was described as essentially completed when buyer and seller had been brought together on agreeable terms.

The affiants also stated that real estate brokers did not obtain and were not instrumental in obtaining financing of credit sales, save in a few special cases, nor were they involved with examination of titles in connection with the sale of real estate or the financing of such sales.

The memorandum in support of the motion to dismiss sought to distinguish this case from Goldfarb v. Virginia State Bar, 421 U.S. 773 (1975), in which we held that 1 of the Sherman Act had been violated by conformance with a bar association's minimum-fee schedule that established fees for title examination services performed by attorneys in connection with the financing of real estate purchases.

The respondents construed the applicability of Goldfarb as limited by certain language in the opinion that described the activities of lawyers in the examination of titles as an inseparable and integral part of the interstate commerce in real estate financing.

421 U.S., at 784-785.

In contrast, with respect to this case, respondents asserted on the basis of the affidavits that "the role of . . . real estate brokers in financing such purchases is neither integral nor inseparable."

Respondents

Page 444 U.S. 232, 237

contended (1) that the activities of respondent real estate brokers were purely local in nature; (2) that the allegation that respondents assisted in securing financing or insurance in connection with the purchase of real estate had been controverted by the affidavits; and (3) that the conclusory assertion in the complaint that respondents' activities "are within the flow of interstate commerce and have an effect upon that commerce" was insufficient by itself to establish federal jurisdiction.

Petitioners' response to the motion to dismiss asserted that since adequate pretrial discovery up to that time had been precluded pursuant to a pretrial order, petitioners had not had a full opportunity to substantiate the jurisdictional allegations of their complaint.

Petitioners advanced two independent theories to support federal jurisdiction:

(1) that respondents' activities occurred within the stream of interstate commerce;

and (2) that even if respondents' activities were wholly local in character they depended upon and affected the interstate flow of both services and people.

Accompanying the response was an affidavit stating that one of the named petitioners had employed the services of a respondent real estate broker to assist in an interstate relocation.

There was also an affidavit from a loan guarantee officer of the Veterans' Administration disclosing that VA-insured loans for residential purchases in the Greater New Orleans area for the years 1973-1975 amounted to $46.3 million, $45.9 million, and $53.5 million, respectively.

After briefing on the jurisdictional issue, the District Court heard oral argument and received postargument briefs.

The court then held a conference with counsel, the substance of which was carefully recorded in the minute entries by the District Judge:

"The Court advised counsel that it appears plaintiffs may satisfy said jurisdictional requirement only by bringing the facts of this case within the parameters of the

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Supreme Court's holding in Goldfarb v. Virginia State Bar. . . .

「ゴールドハーブ 対 バージニア州弁護士協会事件において最高裁判所が採用した限定された要素の範囲内に本件事件においての諸事実を適用することによってのみ原告の前記の法律判断を行う際の要請を満たすであろうと思えると裁判所は弁護団に忠告した。

It is recognized, however, that further discovery is needed on the issue of Goldfarb's applicability sub judice.

しかしながら、ゴールドハーブ事件の適用可能性の問題については、もっと深く考察する必要性があると認識されている。

More specifically, such discovery should determine whether, in the first place, there is the requisite interdependence between the brokerage activity of defendants and the financing and/or insuring of real estate transactions in the New Orleans area and, secondly, whether there is a substantial involvement of interstate commerce in such real estate transactions via the financing and/or insurance aspects thereof."

Following this conference, petitioners deposed nine witnesses, who produced various documents.

The deponents included government officials, real estate brokers, mortgage lenders, and real estate title insurers.

This evidence was directed to establishing that an appreciable amount of interstate commerce was involved in various aspects of the purchase and sale of residential property in the Greater New Orleans area.

The deposition testimony of the president of Security Homestead Association, one of nearly 40 savings and loan institutions in the Greater New Orleans area, revealed that during the period covered by the complaint the Association lent in excess of $100 million for local purchases of residential property.

The Association obtained loan capital from deposits by investors, some of whom lived out of state, and from borrowings from the Federal Home Loan Bank of Little Rock, Ark.

Toward the close of the relevant period, the Association entered the interstate secondary mortgage market, in which existing mortgages were sold to raise new capital for future loans.

Another deponent was the president of Carruth Mortgage Corp., an Arkansas corporation doing business in Louisiana, Mississippi, and Texas.

Its business was to originate home loans, then to sell the financial paper in the secondary mortgage market. The testimony showed that during the

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relevant period Carruth made in excess of $100 million in loans on residential real estate in the Greater New Orleans area.

The overwhelming proportion of these home loans was guaranteed by either the Federal Housing Administration or the Veterans' Administration.

これらの住宅ローンのほとんどすべての部分は、連邦住宅管理局あるいは退役軍人管理局かによって保証がなされている。

With respect to the FHA-guaranteed loans, Carruth collected and remitted premiums for the guarantee to the FHA in Washington, D.C., on a periodic basis for each account.

Both deponents testified that real estate brokers often play a role in securing financing information on behalf of a borrower and in bringing borrower and lender together, but that after the introductory phases the substance of the mortgage transaction progressed without the involvement of a real estate broker.

The president of Carruth testified that his company required title insurance on all the home loans it made.

This testimony was accompanied by the deposition of the president of Lawyers Title Insurance Co. of Louisiana, which revealed that each of the nearly 30 title insurance companies then writing coverage in the Greater New Orleans area was a subsidiary or branch of a corporation in another state.

Following the close of the discovery period and the filing of additional briefs the District Court took the matter under submission and, having considered the memoranda of counsel and the relevant documents of record, issued a memorandum opinion and order granting the motion to dismiss the complaint. 432 F. Supp. 982 (1977).

The court stated that the ground upon which respondents had challenged jurisdiction was that "brokerage activities are wholly intrastate in nature and, since they neither occur in nor substantially affect interstate commerce, are beyond the ambit of federal anti-trust prohibition."

Id., at 983.

In line with the view expressed at the earlier conference, see supra, at 237-238, the District Court viewed the jurisdictional inquiry as narrowly confined: the question was whether the facts of this case

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could be brought within the Goldfarb holding. In the District Court's view, "any inquiry based upon [Goldfarb] must be twofold: 1) whether a `substantial' volume of interstate commerce is involved in the overall real estate transaction, and 2) whether the challenged activity is an essential, integral part of the transaction and inseparable from its interstate aspects."

432 F. Supp., at 984.

The District Court assumed, arguendo, that the title insurance and financing aspects of the New Orleans residential real estate market were interstate in character, but ruled that federal jurisdiction was not established because in its view "the inescapable conclusion to be drawn from the evidence is that the participation of the broker in these (presumably interstate) phases of the real estate transaction is an incidental rather than indispensable occurrence in the transactional chain of events."

Id., at 985.

The United States Court of Appeals for the Fifth Circuit affirmed the dismissal of the complaint.

583 F.2d 1315 (1978).

Examining first the specific acts complained of in this case, the Court of Appeals concluded that they failed to satisfy the "in commerce" test.

Realty was viewed as a quintessentially local product, and the brokerage activity described in the pleadings was found to occur wholly intrastate.

Id., at 1319.

Second, that court rejected petitioners' "effect on commerce" argument.

The interpretation of Goldfarb that had guided the District Court's analysis was adopted by the Court of Appeals, which ruled that "unlike the attorneys in Goldfarb whose participation in title insurance was statutorily mandated, real estate brokers are neither necessary nor integral participants in the `interstate aspects' of realty financing and insurance."

583 F.2d, at 1321-1323.

The Court of Appeals noted that the District Court had styled its judgment as a dismissal under Federal Rule of Civil Procedure 12 (b) (6) for failure to state a claim upon which relief could be granted, to be treated as a summary judgment insofar as matters outside of the pleadings were considered.

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The Court of Appeals concluded that the appropriate designation of the dismissal was for lack of subject-matter jurisdiction under Rule 12 (b) (1), and affirmed the dismissal on that basis.

We granted certiorari. 441 U.S. 942.

II

A

The broad authority of Congress under the Commerce Clause has, of course, long been interpreted to extend beyond activities actually in interstate commerce to reach other activities that, while wholly local in nature, nevertheless substantially affect interstate commerce.

Wickard v. Filburn, 317 U.S. 111 (1942); United States v. Darby, 312 U.S. 100 (1941).

This Court has often noted the correspondingly broad reach of the Sherman Act.

連邦最高裁判所判決ではしばしばシャーマン法がそれ相応に広い射程を持っていることに言及してきた。

Hospital Building Co. v. Rex Hospital Trustees, 425 U.S. 738, 743 (1976);

病院建設会社 対 レックス病院連合事件、425 U.S. 738, 743 (1976);

United States v. Employing Plasterers Assn., 347 U.S. 186, 189 (1954);

合衆国 対 雇用左官工組合事件、347 U.S. 186, 189 (1954);

United States v. South-Eastern Underwriters Assn., 322 U.S. 533, 558 (1944);

Atlantic Cleaners & Dyers, Inc. v. United States, 286 U.S. 427, 435 (1932).

During the near century of Sherman Act experience, forms and modes of business and commerce have changed along with changes in communication and travel, and innovations in methods of conducting particular businesses have altered relationships in commerce.

シャーマン法の適用の歴史において短い世紀の歴史の期間においても、コミュニケーション手段や移動手段の変化に応じて、事業や商業の形態や態様は変化してきた。また、ある特定の事業を行う手段が革新されることによって商業上の諸関係が変化してきた。

Application of the Act reflects an adaptation to these changing circumstances.

シャーマン法の適用においてもこれらの環境の変化への適応することによって反映して変化してきている。

Compare United States v. E. C. Knight Co., 156 U.S. 1, 12-15 (1895), and Hopkins v. United States, 171 U.S. 578, 587-592 (1898), with Mandeville Island Farms, Inc. v. American Crystal Sugar Co., 334 U.S. 219, 231-235 (1948), and United States v. Employing Plasterers Assn., supra, at 189.

United States v. E. C. Knight Co., 156 U.S. 1, 12-15 (1895)事件や、Mandeville Island Farms, Inc. v. American Crystal Sugar Co. , 334 U.S. 219, 231-235 (1948) 事件に伴う Hopkins v. United States, 171 U.S. 578, 587-592 (1898) 事件や、United States v. Employing Plasterers Assn., supra, at 189事件やらをも比較参照せよ。

The conceptual distinction between activities "in" interstate commerce and those which "affect" interstate commerce has been preserved in the cases, for Congress has seen fit to preserve

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that distinction in the antitrust and related laws by limiting the applicability of certain provisions to activities demonstrably "in commerce."

州際の事業「における」諸活動と、州際の事業に「影響を与える」諸活動とを概念的に区別することは、そのような諸事件において遵守されてきたのである。なぜならば、議会は「商業における」諸活動であると実証的に見ることができるある種の条件を満たしているといえるかどうかによって区別し法的に制限することで行い、その区分を遵守することが、反トラスト法においても関連する法律においても、適切であるとみなされてきた。

United States v. American Building Maintenance Industries, 422 U.S. 271 (1975);

Gulf Oil Corp. v. Copp Paving Co., 419 U.S. 186 (1974);

FTC v. Bunte Bros., Inc., 312 U.S. 349 (1941).

It can no longer be doubted, however, that the jurisdictional requirement of the Sherman Act may be satisfied under either the "in commerce" or the "effect on commerce" theory.

しかしながら、もはや次のことは疑いの余地がない。シャーマン法の法的な要請によれば「商業における」と「商業に効果的な影響」を与えるという区別のどちらによっても満足のいくものではなくなっている。

Hospital Building Co. v. Rex Hospital Trustees, supra, at 743;

Gulf Oil Corp. v. Copp Paving Co., supra, at 194-195;

United States v. Women's Sportswear Manufacturers Assn., 336 U.S. 460, 464 (1949);

Mandeville Island Farms, Inc. v. American Crystal Sugar Co., supra, at 235-237.

Although the cases demonstrate the breadth of Sherman Act prohibitions, jurisdiction may not be invoked under that statute unless the relevant aspect of interstate commerce is identified; it is not sufficient merely to rely on identification of a relevant local activity and to presume an interrelationship with some unspecified aspect of interstate commerce.

これらの事件は、シャーマン法が禁止している射程を示してはいるが、州際の事業の関連する範囲が特定されない限りは、シャーマン法による法律の適用がなされることができなかった。あえて言えば、関連する地方の行為の特定に依存するだけでは充分ではなかったし、州際の事業のある範囲内であると特定できない範囲との関連性は推測するのみでは充分ではなかった。

To establish jurisdiction a plaintiff must allege the critical relationship in the pleadings and if these allegations are controverted must proceed to demonstrate by submission of evidence beyond the pleadings either that the defendants' activity is itself in interstate commerce or, if it is local in nature, that it has an effect on some other appreciable activity demonstrably in interstate commerce.

Gulf Oil Corp. v. Copp Paving Co., supra, at 202.

To establish the jurisdictional element of a Sherman Act violation it would be sufficient for petitioners to demonstrate a substantial effect on interstate commerce generated by respondents' brokerage activity.

シャーマン法の違反においては、法律判断の要素の確定においては、上告人は被告の仲介業務の行為によってもたらされた州際の事業に対する実質的な効果を証明するだけで充分であるといいうる。

Petitioners need not make the more particularized showing of an effect on interstate commerce caused by the alleged conspiracy to fix commission rates, or by those other aspects of respondents' activity that

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are alleged to be unlawful.

The validity of this approach is confirmed by an examination of the case law.

このような接近方法の価値は、判例法を調べることによって、裏付けられる。

If establishing jurisdiction required a showing that the unlawful conduct itself had an effect on interstate commerce, jurisdiction would be defeated by a demonstration that the alleged restraint failed to have its intended anticompetitive effect.

This is not the rule of our cases.

これは最高裁判所の諸事件に適用される規則ではない。

See American Tobacco Co. v. United States, 328 U.S. 781, 811 (1946);

アメリカタバコ会社 対 合衆国事件、328 U.S. 781, 811 (1946);

United States v. Socony-Vacuum Oil Co., 310 U.S. 150, 225, n. 59 (1940).

A violation may still be found in such circumstances because in a civil action under the Sherman Act, liability may be established by proof of either an unlawful purpose or an anti-competitive effect.

United States v. United States Gypsum Co., 438 U.S. 422, 436, n. 13 (1978);

see United States v. Container Corp., 393 U.S. 333, 337 (1969);

United States v. National Assn. of Real Estate Boards, 339 U.S. 485, 489 (1950);

United States v. Socony-Vacuum Oil Co., supra, at 224-225, n. 59.

Nor is jurisdiction defeated in a case relying on anticompetitive effects by plaintiff's failure to quantify the adverse impact of defendant's conduct.

被告の行為の反競争的ではない影響を原告が評価することができないために、反競争的な効果に頼る事件においても、法律判断を避けることはない。

See Zenith Radio Corp. v. Hazeltine Research, Inc., 395 U.S. 100, 123-125 (1969);

ゼニス事件 対 ハーゼルタイン調査会社事件、395 U.S. 100, 123-125 (1969)参照;

Bigelow v. RKO Radio Pictures, Inc., 327 U.S. 251, 265-266 (1946).

また、ビゲロー 対 RKOラジオ映画会社事件、327 U.S. 251, 265-266 (1946)も参照のこと。

Even where there is an inability to prove that concerted activity has resulted in legally cognizable damages, jurisdiction need not be impaired, though such a failure may confine the available remedies to injunctive relief.

共同の行為が法的に裁判手続の権限内にある損害を結果として発生させたことが証明できない場合でさえも、そのような証明不可能性が利用可能な救済方法を差止の救済に限定するにしても、法律判断が損なわれる必要はない。

See Georgia v. Pennsylvania R. Co., 324 U.S. 439, 452-463 (1945);

ジョージア 対 ペンシルバニア鉄道会社事件、324 U.S. 439, 452-463 (1945)参照。

Keogh v. Chicago & N. W. R. Co., 260 U.S. 156 (1922).

B

The interpretation and application of our holding in Goldfarb v. Virginia State Bar, 421 U.S. 773 (1975), has figured prominently in this case.

ゴールドハーブ 対 バージニア州弁護士協会事件での最高裁判所の取り扱い方法の解釈と適用は、本件事件において顕著に予測された通りとなった。

The District Court held that petitioners could establish federal jurisdiction only if the facts of

Page 444 U.S. 232, 244

this case could be brought within Goldfarb.

この事件の事実をゴールドハーブ事件の範囲内に収めることができた場合にだけ、上告人は連邦の法律判断を仰ぐことができると、地方裁判所は判断した。

As previously noted, as interpreted by that court, "any inquiry based upon [Goldfarb] must be twofold: 1) whether a `substantial' volume of interstate commerce is involved in the overall real estate transaction, and 2) whether the challenged activity is an essential, integral part of the transaction and inseparable from its interstate aspects." 432 F. Supp., at 984.

The Court of Appeals took a similar view of Goldfarb, holding that Sherman Act jurisdiction did not exist because petitioners had failed to demonstrate that real estate brokers are either necessary or integral participants in the interstate aspects of residential real estate financing and title insurance.

583 F.2d, at 1322.

It is with the second phase of the analysis of the District Court and of the Court of Appeals that we disagree.

The facts of Goldfarb revealed an application of the state bar association's minimum-fee schedule to fix fees for attorneys' title examination services.

Since the financing depended on a valid and insured title we concluded that title examination was "an integral part" of the interstate transaction of obtaining financing for the purchase of residential property and, because of the "inseparability" of the attorneys' services from the title examination process, we held that the legal services were in turn an "integral part of an interstate transaction."

421 U.S., at 784-785.

By placing the Goldfarb holding on the available ground that the activities of the attorneys were within the stream of interstate commerce, Sherman Act jurisdiction was established.

The Goldfarb holding was not addressed to the "effect on commerce" test of jurisdiction and in no way restricted it to those challenged activities that have an integral relationship to an activity in interstate commerce.

To adopt the restrictive interpretation urged upon us by respondents would return to a jurisdictional analysis under the Sherman Act of an era long past.

被告によって力説される制限的な解釈を採用することによって、非常に古い過去のシャーマン法の法律判断の分析に立ち返らなくてはならない。

It has been more than 30 years since this Court stated: "At this late day we are not

Page 444 U.S. 232, 245

willing to take that long backward step."

最高裁判所が「こんな時代になってまでずっと昔にさかのぼってしまうことはしたくない」と述べてからもう30年以上も経っている。

Mandeville Island Farms, Inc. v. American Crystal Sugar Co., 334 U.S., at 235.

C

On the record thus far made, it cannot be said that there is an insufficient basis for petitioners to proceed at trial to establish Sherman Act jurisdiction.

これまでに作成された記録によれば、シャーマン法の法律適用を確立するためには、上告人が公判を維持するために必要な基盤が存在しないということはできない。

It is clear that an appreciable amount of commerce is involved in the financing of residential property in the Greater New Orleans area and in the insuring of titles to such property.

広域のニューオーリンズ地域において住宅の資産に対する金融事業として、相当な量の事業が営まれていることは明白であり、また住宅資産の所有権の保証の事業についても同様である。

The presidents of two of the many lending institutions in the area stated in their deposition testimony that those institutions committed hundreds of millions of dollars to residential financing during the period covered by the complaint.

The testimony further demonstrates that this appreciable commercial activity has occurred in interstate commerce.

Funds were raised from out-of-state investors and from interbank loans obtained from interstate financial institutions.

Multistate lending institutions took mortgages insured under federal programs which entailed interstate transfers of premiums and settlements.

Mortgage obligations physically and constructively were traded as financial instruments in the interstate secondary mortgage market.

Before making a mortgage loan in the Greater New Orleans area, lending institutions usually, if not always, required title insurance, which was furnished by interstate corporations.

Reading the pleadings, as supplemented, most favorably to petitioners, for present purposes we take these facts as established.

At trial, respondents will have the opportunity, if they so choose, to make their own case contradicting this factual showing.

公判において、被告はもし選択すれば、この事実の証明に反するように自らの事件を形成する機会があったはずである。

On the other hand, it may be possible for petitioners to establish that, apart from the commerce in title insurance and real estate financing, an appreciable amount of interstate commerce is involved with the local residential real estate market arising out of the interstate movement of people, or otherwise.

それに対して、原告の方も所有権保険や不動産金融における商業とは別に、州際の事業の相当な量が人々の州際の移動から発生する地方の住宅市場にともなって惹起されるものであると組み立てることも可能であったかもしれない。あるいは逆の主張も可能であったはずである。

Page 444 U.S. 232, 246

To establish federal jurisdiction in this case, there remains only the requirement that respondents' activities which allegedly have been infected by a price-fixing conspiracy be shown "as a matter of practical economics" to have a not insubstantial effect on the interstate commerce involved.

本件事件において連邦レベルでの法律判断を確立するためには、価格固定の共謀によって悪影響を受けてきたと原告によって主張されてきた被告の諸行為が、本件事件において本件事件と関連性がある州際の事業に対して、実体の伴わないような本質的ではない効果を持っているのではなく本質的で実体のある様な「現実と関連がある経済問題として」法廷において証明がなされる必要があるという法律要件が残っている。

Hospital Building Co. v. Rex Hospital Trustees, 425 U.S., at 745; see Goldfarb v. Virginia State Bar, supra, at 784, n. 11; Burke v. Ford, 389 U.S. 320, 321-322 (1967).

病院建設会社 対 レックス病院連合 事件、425 U.S., at 745;

また次の判例も参照のこと、ゴールドハーブ 対 バージニア州弁護士協会事件、上記事件、784頁注11;バーク 対 フォード 事件、389 U.S. 320, 321-322 (1967).

It is clear, as the record shows, that the function of respondent real estate brokers is to bring the buyer and seller together on agreeable terms.

記録の証明するところによれば、被告の不動産業者の事業的な機能は売る人と買う人を引き合わせ条件的に合意のある状況に至らせるという機能である。

For this service the broker charges a fee generally calculated as a percentage of the sale price.

このサービスの提供の事業に対して販売合意価格のあるパーセントを計算して不動産業者は報酬を請求するのが一般的である。

Brokerage activities necessarily affect both the frequency and the terms of residential sales transactions.

必然的に仲介業務というものは住宅の販売取引の頻度や価格の両方に影響がある。

Ultimately, whatever stimulates or retards the volume of residential sales,or has an impact on the purchase price, affects the demand for financing and title insurance, those two commercial activities that on this record are shown to have occurred in interstate commerce.

究極的には、住宅の販売量を促進するか、遅らせるかを決定するどのような行為であっても、あるいは、購買価格に影響を与えるどのような行為であっても、金融に対する需要や権利保険に対する需要に影響を与える。これらの二つの商業的な事業活動の統計上の記録は州際の事業活動の記録として公開されている。

Where, as here, the services of respondent real estate brokers are often employed in transactions in the relevant market, petitioners at trial may be able to show that respondents' activities have a not insubstantial effect on interstate commerce.

ここにおいて、被告の不動産業者のサービスは当該市場においての取引に頻繁に従事しているのであるところ、上告人は法廷において州際の事業に実体がないわけではない本質的な影響を被告の諸行為が与えていることが法廷で証明できているということができる。

It is axiomatic that a complaint should not be dismissed unless "it appears beyond doubt that the plaintiff can prove no set of facts in support of his claim which would entitle him to relief."

次のことが公理として自明のことである。「原告が救済される権利を有していて原告の主張を支持し証明することができる一連の事実によって原告が証明できているということが、蓋然的に証明できているというように思われる疑い以上の事実が主張によって原告が証明できていない」場合でなければ、原告の主張は棄却すべきではない。

Conley v. Gibson, 355 U.S. 41, 45-46 (1957); see 5 C.

コンレー 対 ギブソン事件、355 U.S. 41, 45-46 (1957)の5 C参照のこと。

Wright & A. Miller, Federal Practice and Procedure 1202, 1205-1207, 1215-1224, 1228 (1969).

ライト他A ミラー著「連邦司法行為と司法手続」Procedure 1202, 1205-1207, 1215-1224, 1228頁(1969年刊).

This rule applies with no less force to a Sherman Act claim, where one of the requisites of a cause of action is the existence of a demonstrable nexus between the defendants' activity and interstate commerce.

行為の一原因の必要条件の一つが被告の行為と、州際の事業との間の表現することができる因果関係のある原因結果の関係の存在である場合においては、この公理は、シャーマン法に則った主張に対してだけ強制的に適用されるばかりではない。

Here, what was submitted to the District Court shows a sufficient basis for satisfying the Act's jurisdictional requirements under the effect-on-commerce theory so as to

Page 444 U.S. 232, 247

entitle the petitioners to go forward.

このような理由から、上告人が前へ進むことができるようにするために、事業に対する効果の理論によって、シャーマン法の法律的な要請を満たすような充分な理論的な根拠を見いだすために地方裁判所に差戻すことが必要である。

We therefore conclude that it was error to dismiss the complaint at this stage of the proceedings.

そのような理由から訴えが手続きのこの段階において棄却されることは誤りであったと結論を下した。

The judgment of the Court of Appeals is vacated, and the case is remanded for further proceedings consistent with this opinion.

高等裁判所の判決は、無効であり、この事件はこの最高裁判所判決に適合するように更なる手続きに対して差し戻されるべきである。

Vacated and remanded.

破棄差戻し。

MR. JUSTICE MARSHALL took no part in the consideration or decision of this case.

マーシャル判事はこの事件に関しては関与も決定にも参加しなかった。

Page 444 U.S. 232, 248

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注:またEUもアメリカ合衆国同様に次のような意見であった。

European Union

Delegation of the European Commission in Japan

Europa House, 9-15 Sanban-cho, Chiyoda-ku, Tokyo 102-0075, Japan

Tel. (03) 3239-0441, Fax. (03) 3261-5194/3239-9337

日本の規制緩和に関するEU優先提案

(仮訳)

1999年10月29日

駐日欧州委員会代表部

目次

はじめに…………………………………………………………………………………………1

1.事業活動基盤(競争、法律、金融)………………………………………………………2

競争政策…………………………………………………………………………..…………2

保険部門……………………………………………………………………………..………3

資産運用……………………………………………………………………………..………4

投資…………………………………………………………………………………..………4

2.経済的規制(エネルギー、情報通信、運輸、流通、住宅・土地・公共事業)………5

電気通信………………………………………………………………..……………………5

航空輸送…………………………………………………………………………………..…8

海上輸送…………………………………………………………………..…………………9

道路輸送……………………………………………………………………………………10

皮革…………………………………………………………………………………………11

3.社会的規制 (医療・福祉、雇用・労働、教育)………………………………………12

医薬品………………………………………………………………………………………12

化粧品………………………………………………………………………………………12

体外診断薬…………………………………………………………………………………13

4.基準認証(保安・環境、個別基準認証、横断基準認証)………..……………………14

外国試験・検査機関の承認………………………………………………………………14

国際基準(例えばISO)の承認………………………………………………………16

個別基準認証問題…………………………………………………………………………18

衛生及び植物検疫…………………………………………………………………………21

5.公的資格……………………………………………………………………….……….……22

外国人弁護士………………………………………………………………………………22

1

はじめに

本提案書並びに添付の補足リストは、日本における規制改革に関する欧州連合(EU)

としての提案を示したものである。双方向の日・EU規制改革協議の枠組みにおいて、

また1999年3月30日に改訂された3ヶ年規制緩和促進計画において外国政府から

のコメントが求められたことを受け、ここに提出するものである。

EUは日本における規制緩和プロセスを大いに歓迎する。規制緩和は、経済の柔軟性を

向上させ、市場主義をより徹底することに資するのみならず、長期的に成長を維持する

ために必須である。大胆かつ広範な改革を通じて経済のサプライサイドの効率化を図る

ことが、日本の国益につながることは明白である。

したがってEUは、1999年3月30日付けの閣議決定において再確認されている規

制改革の最重要原則が実行されていることを歓迎する。その原則には、経済的規制の撤

廃、社会的規制に係る負担軽減、規制制度の合理化と簡素化、国際基準の採用、規制手

続きの透明性向上などが含まれている。

EUは昨年以降の進捗を歓迎する。多くの問題が解決され、その結果、それらはEUの

提案リストから削除された。しかし、全体的には不明瞭な状態が残っている。包括的で

競争促進的な改革の断行は、消費者と企業の双方に等しく便益をもたらすことであろ

う。

今年は、1999年6月にボンで開催された日・EU首脳会議における結論に基づき、

日本政府が優先的に措置すべきと考える項目を特定することに特別な努力を払った。そ

こには、競争政策の強化など規制改革プロセスの根幹を成す項目が含まれている。その

ような分野における積極的な取り組みこそ競争力の回復に不可欠であると考える。ま

た、将来を担う産業としての電気通信も取りあげた。電気通信でも、他の多くの国がそ

うであるように、開放的なアプローチが効率性の高い産業を作り上げる。この2つの例

が示すように、EU自らの経験に照らして日本の規制緩和提案を作成した。本優先提案

リストと共に提出する補足的な提案リストにおいては、EU産業にとっての長年の懸案

で、改善措置の実行が望まれる多くの項目を記載した。EUは、規制改革が進められる

中でこれらの項目の取り組みを合わせて要請する。

各提案項目は、日本の規制緩和促進計画の基本原則に沿い、かつ規制改革委員会および

それぞれのワーキング・グループによる貴重な御貢献を反映させるよう配慮し、テーマ

別に整理することで、明確でわかりやすいリストとした。EUは日本政府からの要請が

あれば、いつでも追加的な情報を提供する用意がある。これらの提案を基礎に、より内

容の濃い、効果的な対話が日・EU規制改革協議の場において進められるよう、日本側

と協力できることを希望する。

2

1.事業活動基盤(競争、法律、金融)

競争政策

背景

欧州委員会は、公正取引委員会が目標とする、競争ルールの厳格な執行を全面的に支持

する。今後はこの確固たる方針を大胆な行動により裏付けることが不可欠である。競争

政策のより積極的な実施は、開放的で、バランスがとれた、近代的な経済を作り上げる

ために肝要である。そのことは、より多くの外国投資を日本に惹きつけるのみならず、

日本企業の内外における競争力を改善させ、内外からの日本市場への新規参入に対する

障壁を除去することにつながる。

EUは違反行為を徹底して追求し、抑止効果の極めて手高い制裁を課すことが重要であ

ると考える。

欧州委員会は日本の競争法における特例や適応除外を制限する方向で一定の前進が見受

けられていることを歓迎する。しかしながら、どの特例や適応除外が存続するのか完全

には明確ではない。

各省庁による行政指導や行動も競争ルールと適合していなければならない。公正取引委

員会は、現行の行政指導の「競争上の中立性」を確認するために見直しを計画し、その

結果を公表すべきである。

2001年に発効する中央省庁再編計画において、公正取引委員会は総務省の一部とな

るが、同委員会の独立性が維持されるのみならず、同再編計画において、必要に応じ、

その独立した権限を強化するための施策が取られることを希望する。 金融再生委員会、

金融監督庁など、国務大臣を長として堂々たる仕事ぶりによって短期間で高い評価を得

た例をみれば、いかに政治的な意志が肝要であり、それにより何が達成できるのかが明

示されている。

優先提案

より効果的な独占禁止法の運用。独占禁止法の実行を改善するための3つの重要な提案

は:(1)特に流通分野における違反、及び、業界団体による排他的・差別的慣行に対

するより厳格な追求;(2)時効期間の大幅な延長(公正取引委員会は違法行為が完全

に停止してから5年間は措置をとれるようにすべきである);(3)反競争的行為をよ

り効果的に抑止するために行政課徴金及び刑事罰の水準を大幅に引き上げ、完全に適用

することにより、制裁及び罰金の効果を高めること。

個別法および独占禁止法における適用除外や特例の数をより一層抑制すること。今後も

存続する特例や適用除外に関しては、(各制度の内容および範囲を明記するリストを作

成することにより)、明確化を図ること。

3

公正取引委員会は (書面、口頭を問わず)全ての行政指導が、独禁法ガイドラインに適

合しているかを調査し、その結果を公表すること。反競争的な行政指導により損害を受

けた民間当事者には、独禁法に反する行政指導のいかなる処分に対しても、法廷におい

て異議申し立てを行う権利が与えられるべきである。

保険部門

背景

過去二年間における最も重要な進展の一つが、2001年の完成を目指して始められた

日本の金融ビッグバンプログラムである。日本の保険市場には改革の余地はまだ多く残

されていることを、市場占有率の数字が物語っている。つまり、外国企業が占めるのは

全危険保険料の3.8%にすぎず、欧州系保険会社は、生・損保保険料のうちたかだか0.3%

しか獲得できていない。EUが日本市場の正真正銘かつ実効性のある規制緩和を求めて

いるのはこのためである。

これまでの前進の一つは、1997年に行われた保険商品の料率および特約の補足条項

に係る届け出制度 (file and use)の拡大である。しかし、同制度の適用は企業向け保

険商品に限られており、個人向けのものは対象ではない。損害保険市場における自由化

の範囲はまだ限られており、今後さらに拡大される必要がある。商品の認可という考え

方から離れようという全体の動きの中で、認可に係る処理期間を90日ではなく、30

日にすべきであると考える。1998年7月より損害保険会社が料率算定協会の算定し

た料率を使用する義務が撤廃された。しかし、個々の商品に関しては料率の認可が依然

必要であるため、競争が抑えられ、経済的規則の水準が保険業者にとって事務的な負担

となっている。「届出制」の拡大に向けた最近の動きは、EUが提案する方向に向けた

第一歩として歓迎するものである。金融監督庁は、この原則の適用に関する明確な指針

を策定すべきである。

日本は、現在競争を妨げている監督に関する基本的考え方が本当に適切であるかを直視

する必要がある。現行のように徐々に拡大するアプローチが、果たして実質的な市場開

放につながって行くのかどうかは議論の分かれるところである。真なる規制緩和を導入

するためには、大蔵省が個々の商品と料率の認可する制度を撤廃し、その代わりに保険

会社の自己資本と資本要件に基づく監督を導入するべきであろう。日本は、行政手法を

事前的な規制・監督から事後的な調査や査察に移行させるという公表した原則を、この

分野においても適用すべきである。この顧客のニーズにより即した新商品が求められて

いる産業分野で、競争や革新にブレーキをかけるような規制が温存されることは、日本

における市場参加者の利益にもつながらない。

優先提案

保険商品及びその料率の認可制の廃止。これは、サ−ビスの提供者が営利ベ−スで経営

出来るようにするために重要である。その一歩は、現行の保険料率届出制の拡大であ

る。将来的には、ソルベンシ−・マ−ジン及び銀行部門に見られるような全般的な財務

の安定性に基づいた規制システムに移行することをEUは希望する。

4

資産運用

背景

日本の年金基金や投資信託市場に投資顧問が参入したのは1990年以降であり、状況

は大きく改善している。しかし、日本の公的資金のある部分については、投資顧問によ

るアクセスが依然として制限されている。適格年金制度(17兆8010億円)への投

資顧問のアクセスは1997年10月より解禁されている。公的年金基金においては、

資産の最高50%まで投資顧問が運用することが認められている。その他の公的基金

(厚生年金保険や共済組合など)においては、合わせると157兆7630億円に及ぶ

資産に関し、投資顧問の運用が可能な割合は限られている。共済組合では「5:3:

3:2ルール」が依然として適用されている。共済組合への投資顧問のアクセスに関す

るルールは管轄官庁が規定しており、大きくばらついてる。

郵便貯金や簡保など郵政省が管理する資産の運用に関しては、類似の「年福」の規制緩

和の例にならって完全に解禁し、制度の運用に関する不確実要因を一掃すべきである。

共に管轄する大蔵省と郵政省の間で、投資顧問による運用に関する意見が一致していな

いことが、最大の問題点である。さらに、簡保に関しては、投資顧問が資産運用にアク

セスする際のルールが大変複雑で不透明に見受けられる。

優先提案

投資顧問による年金および共済組合基金へのアクセスに係るすべての規制を撤廃するこ

と。年金基金の責任者が投資マネージャーを自由に選択できるようにすべきである。

財政投融資の改革計画において投資顧問による簡保基金の資産運用へのアクセスを確保

し、運用規則をより透明にすべきである。

投資

背景

EUにおける日本からの直接投資は、EUの対日直接投資の7倍の規模である。最近日本

における外国からの直接投資が急増し、日本から外国へ流れる投資と外国から日本へ流

れる投資の格差にも是正が見られるものの、1998年度における日本の海外直接投資

は、依然として外国からの対内直接投資の約4倍となっている。このように1998年度

において外国からの投資が急増した背景には、極めて少ない件数の外国企業による大型

の企業買収があり、潜在的投資家の前にはこれまで同様、多くの構造的障害があること

に変わりはないことを指摘する。全体的な傾向として、大規模な規制緩和の恩恵をすで

に受けたセクター、あるいは受けつつあるセクターにおいて外国投資は活発である。

外国投資を奨励することは日本の公式の政策であるが、日本の高いコストおよび過剰規

制が外国企業の投資意欲をそぐ大きな要因に成っている。日本において外国投資の拡大

を抑制する要因には、高い取り引きコスト、高率の法人税、損金繰越しの制限、流通チ

ャネルへのアクセスの難しさ、総体的な規制環境、不透明な商習慣などが含まれる。

5

主な障壁の一つは、日本企業を買収しようとする外国企業が困難に直面するということ

であり、企業買収の後、外国企業が他の日本企業と通常のビジネスの形態で取り引きを

続けることが出来ないことである。外国企業が、日本企業の買収を提案する時、多くの

文化的、制度的障壁が立ちはだかる。最も深刻な問題のいくつかを列挙する。

・ M&Aに関する複雑な法規制

・ 土地の取り引き、価値、価格に関する情報不足

・ 日本の会計規則、特に企業の潜在的な簿外負債の開示に関する規則の透明性欠如(当

然対内投資の対象となる中小企業において、特に深刻な問題である。)

・ 関連企業間の緊密な株式の持ち合い

・ 市場で取り引きされる普通株の割合の低さ

・ 状況は変わりつつあるものの、外国人所有に対する不信感がいまだ残っていること

・ 企業系列において仲間企業が外国の支配下に入ることへの躊躇

・ 年金制度に起因する労働力の流動性に係る問題

・ 持ち株会社制度にとっての連結税制の不在

・・・・・・

6

競争の促進

背景

公平な取り引き条件はNTTの構造改革において適用されるべきであり、日本市場にお

ける競争を促進することで、規制緩和から期待される便益が消費者や企業に届くように

することが肝要である。

・・・

c)ユニバーサル・サービス

背景

ユニバーサル・サービスの提供(1999年度以降開始)に関する規制制度は、明確、

透明、客観的、競争上中立であり、無差別なものとして、遅延なく設定されなければな

らない。ユニバーサル・サービスの範囲は、基本的な電話サービスに限定されるべきで

ある。これは事業者間競争のために平坦な土壌を確立する上で重要な要因である。

優先提案

日本におけるユニバーサル・サービス規定がGATS/WTO協定に従って競争的は中

立な方法で保証され、また十分に透明なものとなるように、透明かつ非差別的手続きが

早急に確立されるべきである。これは、ユニバーサル・サービスに関わるすべての側面

を含んでいる。すなわち、a)ユニバーサル・サービスの範囲の定義、b)ユニバーサ

ル・サービスの費用化、c)ユニバーサル・サービスの資金調達。

・・・・・・

5.公的資格

外国人弁護士

a)共同事業、雇用、パートナーシップ

背景

制限的な規制制度のために、外国人弁護士が日本で活動する機会は限られている。この

ことは、欧州の法律事務所にとって問題であることは言うまでもないが、日本の若手弁

護士にとっても、ますます国際化が進む市場において国際的な司法サービスを提供する

経験を積む機会が制限される結果となっている。日本における外国人弁護士の活動を規

制する法制度は、外国人弁護士による法務取り扱いに関する特別措置法に基づいてい

る。法務省研究委員会が1997年に公表した報告書において提案されているように、

23

同法の改正が現在考慮されている。現行の規則では、弁護士が日本で資格承認されてい

る外国法事務弁護士と真のパートナーシップもしくは雇用関係を結ぶことを制限してい

る。パートナーシップと雇用関係はいずれも個々の弁護士の独立性および職務上の責任

に影響を及ぼすものではない。日本以外の国(司法管区)で、異なる司法管区において

資格を取った弁護士の間でそのような関係を結ぶことを許可しているケースを見ても、

個々の弁護士の独立性、顧客に提供する司法サービスの質のいずれにおいてもマイナス

の影響は全く見受けられない。

1995年に導入した共同事務所の設置を許可するという妥協策により、特定のケース

において日本人弁護士と外国法事務弁護士間の協力が可能となったが、雇用関係やパー

トナーシップを結ぶことは許していない。そのような禁止規定は、日本人弁護士が非合

法な活動を行うことを避けるために必要であるという日本側の説明には、正当な根拠が

存在しない。すなわち、実践に裏打ちされていない上、司法制度そのものにより対処で

き得る問題であり、保護主義的な性質をおびてもいる。さらに、継ぎ目のないサービス

の提供を妨げることで、顧客の利益に反する法務環境を作る結果となっている。

優先提案

弁護士と外国法事務弁護士間のパートナーシップ、雇用に関する制限を廃止する措置を

とること。

b)資格承認基準である職務経験

外国法事務弁護士の資格承認要件として、原資格国における職務経験が要求されてい

る。職務経験が5年以下の者にとっては、日本に活動拠点を置こうという意欲をそぐだ

けでなく、不必要な規制障壁である。司法管区によっては、継続的学習を義務付けてい

るケースがあるが、これは日本のこの要件とは区別されるべきものである。そのような

学習要件を課しているのは、受け入れ国ではなく母国の主管当局である。外国法事務弁

護士の資格承認要件としての職務経験に関しては、今次の法改正(国会通過)により5

ヶ年が3ヶ年に短縮され進捗が達成されている。同時に日本で過ごした期間であって、

当該要件に照らして算入される期間が2年から1年に短縮されている。

優先提案

日本で開業する権利が与えられる指定外国弁護士として免許を取得する上で必要とされ

る資格取得後の職務経験要件の完全廃止。

仮処分の必要性

仮処分を行っていないことは違法性がある。

継続的な行為が法的に違法である場合には、回復することができない損害が発生し続けているのであるから、裁判の長期化は違法性があると考えられる。

取引の安全やらが害されている。コモンローによる損害賠償請求権のみによっては回復することができない損害が発生し続けている場合には訴訟の迅速化は法的な義務である。規範的に早く決定を出して回復することができない損害を予防しておく義務が裁判所にはある。これは予備的な裁判が必要な場合があるということを示している。

ここに訴訟の促進の上申を行う。

暫定的な措置がエクィティの法上の原則から必要である。

そのまま放置ができないときである。

例えば所有権が侵されているときには仮処分は行われるべきである。鑑定評価の能力は免許・特許の能力と等しく、そのような免許・特許の能力は所有権と非常に近く、その免許の能力が販売できないことは所有権の絶対性が損なわれているのと非常に似ている。所有権の処分権が制約されているのと等しいのである。

このような回復することができない損害が発生し続けている場合には仮処分は法的な義務となりうる。

東京高等裁判所平成17年(ネオ)第183号・平成17年(ネ受)第192号

差止損害賠償請求事件

上告人兼上告受理申立人  株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

同        山 口  節 生

相手方          社団法人埼玉県不動産鑑定士協会

             同代表理事  岩 ア  彰

上告理由書兼上告受理申立理由書(22)

訴訟の迅速化の申立書

平成17年9月26日

最 高 裁 判 所 御中

上記上告人兼上告受理申立人

株式会社日本経済研究所

同代表者代表取締役  山 口  節 生

山 口  節 生

先に述べた通りに、

「As Judge Posner has observed, "The per se rule would collapse if every claim of economies from restricting competition, however implausible, could be used to move a horizontal agreement not to compete from the per se to the Rule of Reason category."(73)

ポズナー判事が指摘するとおりに「競争を制限しようという水平的な合意を当然に違法の原理から、理由の原理に変換するためにもっともらしい理由付けが使用されることが可能になるならば、たとえどんなにもっともらしい理由であっても、競争の制限から経済を守ろうとするすべての訴訟に使用出来ることになり、当然違法の原理は崩壊してしまうことになる。」

Courts and commentators have suggested mechanisms for summarily weeding out plainly inadequate justifications.

裁判所と学説は、略式判決が不適切な正当化を除去する制度であるとして単純明解に提言している。

Professor Areeda's analysis contemplates elimination of some justifications on argument alone.

アリーダ教授の分析によれば、議論において何らかの正当化の議論をなくすことについてだけが熟慮されている。

It provides for a "quick look" to determine whether defendants' claims are "legitimate in principle and capable of being proved satisfactorily," while still summarily rejecting justifications of types previously found wanting and claimed defenses "close enough to those previously excluded."(74)

その理論によれば、ところが略式に以前欠けていると判断された種類の正当化を棄却し、主張された防御が「そのような以前に棄却された主張とほぼ全く同じである」としても、更に被告の主張が「原理において合法であり、満足に証明されることが出来るのか」どうかを「即決の審理」によって決定すべきであるとしている。

Others would permit a cursory look at factual content -- just enough to determine that a practice, while perhaps not naked, is clothed with only a "gauzy cloak."(75)

他のものは、訴訟手続はおそらくは裸ではないが「薄いマント」だけを着ているだけぐらいであり、じゅうぶんではなく、事実の内容にはざーっと目を通すことになるだろう。

Similarly, the enforcement agencies repeatedly have stated that they will apply per se treatment to joint ventures that actually are nothing more than shams,(76)and the Seventh Circuit has been willing to preliminarily find per se illegality after a "quick look" at the facts, "without undertaking the kind of searching inquiry that would make the case a Rule of Reason case in fact if not in name . . . ."(77)

同様に現実にはごまかし以上ではない共同事業に対して、当然に違法の判断を適用することになるであろうと捜査当局は繰り返し言ってきた、したがって第7巡回裁判所は、「名目的にではなく、・・・事実上理由の原則で事件を取り扱うようにするであろう審理を行うことになるような審理にいたることなく」事実を「即決で見て」から当然に違法の略式判断をすることに異議はなかった、

The case law provides little guidance for "quick-look per se" identification of shams, but the issue may be approached from the other side by considering how courts have described benefits sufficient to confer rule-of-reason status.

「即決で見た当然に違法」によってにせものを認定する手法に対するガイダンスを判例法はほとんど示して来なかったのであり、理由の原理の立場を参照するにじゅうぶんな利益についてどの程度裁判所は言及して来たかを考慮すれば、この問題は他の側からアプローチすることも可能であろう。」

アメリカにおいてもFTCは「「即決で見た当然に違法」によってにせものを認定する手法に対するガイダンスを判例法はほとんど示して来なかった」とする。

これに対して日本では取引の安全の立場から、取引の安全が阻害されている場合には予備的差止や仮処分の必要性について論ずることができるのであろうか。

できるというためには、独占禁止法違反と独占禁止法の哲学とが必要であろう。

これについて原告は「独占禁止法の哲学」を論じた。機会の均等によって機会を与えられたものが札を提出できる機会は非常に重要である。


顕在化しない
経済価値が
イタリアや
ギリシャには
多い

日本の
建物は
耐用年数が
30年ほど
流行に応じて
すぐに
滅失される

流行の
建物に
住めるのは
よい

しかし
建物が
壊しやすく
建てられる

仕事は
増えて
いい

資産は少ない

日本は
津波と
地震と
火山の

ベスビオスのような
ことは
なかったけれども
それに近い
言い伝えが
文化の底に
眠っている

被災者の心が
私のここでの
心によってのみ
いやされる

すべての
マスコミの詩は
被災者の誰の心も
いやさないことが
明白になった

NHKの
歌謡曲も
震災後
うつろに響いている

何故に文学が
消えたように
思えるのか

このホームページのみにしか
文学がないのか

ウソをつかないこと
本当の心を表現すること
それが
文学である

ところが
このホームページは世界から見られて
世界を救っていると
見えるのか

それは石原ではなくて
石川啄木の
先生の悲しみが
ここに現れていて
千の風
すなわち
被災者の
心の
痛みを
本当に
表現しているからだ

私の母の弟で長崎の原爆で
長崎医大の母の弟
長崎医大の学生も
長崎の原爆でなくなった
人々の心を
千の風のみが
表しており
マスコミも
そろそろ
それに
気がついてきたからだ

先生の経験
それは
本当にやれば
毛沢東や
石川啄木の
心が
植えられる

しかし
この詩集は
私の
なくなった母の心を
代弁している

原爆は
長崎のみ
ではなく
隣の佐賀も
侵したのだ

それが被災者の心と
原爆の心を
表現させている

本当に被災者の心は
苦しい

それがこの詩集の
魂である

被災者を慰める
詩集は
どこにもなかった

それがここにあったのだ

チェルノブイリの心
それは
このホームページのみにしか
なかった

オバマ讃歌と政治臨床心理学がどのように
なるか
それは
ウォール・ストリートを
つぶすことが
オバマのやることではない
オバマが
歴史に残すべきことは
香港の母の心である

恐慌とは
資産価値の下落
から
所得が
減ることによって
貨幣経済
そのものが
崩壊することである

資産価値は
いかにして
増えるのか

不動産では
都市計画の
成功による

色々な
例を挙げてみよう

逆に震災は
福島原発事故は
資産価値
資産経済に
大きく
影響した

http:埼玉県知事選挙討論会20110704.html

母の心
それは
ベルルスコーニも
渡邉恒夫をも
打ち砕いて
脱原発を
勝たせるであろう
それは
悪の検閲をも
打ち砕く

オバマも
母の心を
香港で見た
黒人と白人の
二世を
思う
母の千の風

理解できれば

すでに公報も政見放送も
脱原発で
録画済。
JCの討論会では
完全勝利と
確信していましたが。
原発から600万円もらえていたら
勝っていたでしょう。
119メガのWMAのテープは必要な方には
送付します。

脱原発、原発廃止のため解散総選挙へ向けて
地道に小選挙区で
頑張っていこうと
埼玉県知事選挙については
新聞の扱いが
故意があったとして
損害賠償の裁判11時からと
SPEEDIとWSPEEDI
の情報隠しによる
損害は
国の違法であり
違法化されるべきであるという
裁判を10時から
行なって
4時50分に
埼玉県知事選挙については
不出馬を
7月14日に
発表。
いまだに
日本は
検閲社会である
内閣に
おいて
検閲している
300万円の
支払いのみで
選挙をやると
ポスター600万円と
宣伝カー100万円は
不要となる
wikipedia
にさえも
検閲官がいる
ソ連の
共産党が
違法化された
あの時期と
ダブって見える
中華人民共和国とも
日本共産党は
選挙のときに
ポスター貼りのための
一日一万円の
アルバイト代で
よみがえる
それらは
選挙公営で
資金は
税金から
支払われる
自由民主党も
民主党も
同様である
政府には
弁護士も
裁判官も
含まれる
テレビをよく見ている
これらの人々は
報道と
wikiをも
検閲する

jc日本青年会議所の
討論会の
ビデオ
これは私が
勝ったのを知って
検閲している

ニコニコ動画で
配信するという
約束だったのに

一事が万事
これらは
検閲制度の
せいである

日本政府には
いまだに

検閲局が残っている
脱原発解散が
できたら
検閲局は
即解散である

政治は
教育
経済
原爆
原発
核のかさ
すべてを
統制するものだ
マスター
オブ
サイエンス
よくも
アリストテレスは
喝破した

しかし
人間の
すべてを
定義しなかった

人間は
唯物論と唯セックス論とによる決定論
から
外れた
本能以外の
部分は
自由に
色即是空
の世界に生きる
社会的な
動物である

ポリス的
動物である

ポリスとは
政治の意味を
含んだものである

娯楽もあるが
真面目に
人間社会の
すべてを
統御するものである

オバマが
自分の母親の
千の風を
言えたら
永遠の
大統領になれる
これが
私の本
「オバマ讃歌」と政治臨床心理学がどのように
結びついているのかである

母の心
それは
偉大である

私は
母であれば
公式の場で
パナマンハットを
かぶることができる

だから

かぶっている

震災で亡くなられた方々の千の風がいう。なぜに政治学を無にして風評で政治家を選んでいたのか悔やまれると。20110516

20110527

20110528

20110605

20110607政治学及び歴史学上の福島原発事件の位置

20110608政治学が福島原発事故によって何故に変化したように見えるのか。

2011年6月5日 20110605各地域政党代表殿

内田満早稲田大学教授によれば、一票一万円の金を出すのが、ゼネコンであったのか、東京電力であったのかということだけの違いであり、日本独自の金権政治は戦後の55年体制では同じ体質であった。これは現実性を見てきた私は実証的に証明してきた。大本営発表の超国家主義であった。大本営発表から逃れられるであろうか。

民主党も、自由民主党も人として責任をとらないで連立と言っている。

中国共産党に影響されて日本共産党は脱原発と知事選挙では言えないであろう。

本当の事実のマニュフェストとは記者会見で発表したその時点での緊急の政治であるマニュアルで書かれたもののみです。本物の総理大臣とは政治学を古典から学んだそのような人のみが可能です。オバマ氏にそのようになってもらいたい。それが私のオバマ讃歌であり、毎日デイリー読売を読んでやって即興で訳してやって日本人に世界から福島県知事がどのようにみられているのかを演説している理由です。

しかし私は埼玉県の知事選挙の記者会見ではちゃんといったのに、書かなかった新聞もあった。それがこれまで普通の人を、詐欺師やペテン師でも政治家として全新聞はマルクスレーニン主義であったので大きく見えるようにしてきたのです。それは政治家ではない人を政治家としてきたのです。本当の政治家とは私のような人のみを言うのです。
今回の訴訟は福島原発事件を福島県知事や福島県選出の衆議院議員の渡邉恒三氏や、渡邉氏やらの責任はあるのかという問題です。
毎日本当のことを付け加えていきます。


友人は3月22日に胃ガンとなった。
私の母親は誰も親戚中なっていないのに、胃ガンになった。私の高校二年、弟が中学二年、二人の姉が二十三歳、二十歳のときであった。
1967年のことである。1964年の中国の地上核実験のときに胃ガンになったものと思う。1966年に発見されたときには遅かった。新聞は当時胃ガンが増えたのはしょっぱいものを日本人が食べ続けたからだと言っていた。これは嘘であったであろう。ガンの原因は放射能汚染である。
放射能汚染予測はノルウェーやドイツのようにやめるという日本の政府に損害賠償請求をさいたま地方裁判所に事件として提訴中である。
問い合わせれば事実と分かる。

以下に記者諸君に埼玉県知事選挙に立候補宣言をしたときの本文をマニュアルで書かれたものをワープロ化したものを載せる。
「当該文章はまだワープロ化していないので、どうしても必要な方は問い合わせられたい」

脱原発と知事選挙

学問は言葉である。金ではない。
これまでは言語学ではなく、「原発」から莫大な裏金をもらっているかどうかが、風評であった。
脱原発と知事選挙の記者会見ではいった、のに、読売新聞は書いていない。

私が行ないたい政治は、一般利益が原発という特殊利益に勝つ政治であり、一般利益を追求する一般人に広く呼びかける政治である。

福島原発後の都市計画
(都市計画)
 チェルノブイリ事故後には新しい町が作られた。これは当時のソ連共産党であるからできたことであろう。上海では中国共産党が都市計画を担当していたのをみてきた。大規模に都市計画を実行したのが四川大地震後の都市づくりであったという報道がNHKによって5月6日になされている。
 これができるかは、所有権という所有者個人に権限を持たせるのと、大規模に都市計画を行うのに、国が情報隠しをせずに全体を管理する方が効率的かの判断にかかっている。
 結局は共産党が行ったことが非効率であり、共産党がソ連では違法化されてしまった。
 共産党と自由民主党という概念から離れて、もっともよい方法がとれないか。

 その方法論はコンピューターを駆使して、みんなに効率のよい都市をいかに計算しうるのか、そしてみんなに納得させて、実行に移せるのかという方法にかかっている。

(情報隠しについて)

世界中では日本独自の大本営発表の超国家主義の時代から続いている江戸時代の尊皇攘夷以前の鎖国の時代の特殊な感情であるところの超国家主義は捨て去るべきである。今福島原発事件とともに海外から褒められていると読売新聞と朝日新聞は報道しているが揶揄されている。
それが今回私が埼玉県知事にならなければならない理由であろう。マニュフェストの崩壊も同様の理由による。

(マニフェストについて)
民主政治は民主党によって推進されるべきであろう。
民主党はマニフェストによって失敗した。

(都市計画)
首都の移転。

皇統を絶やさないためにも、天皇に白血病や甲状腺ガンを起こさせないためにも皇居を京都に移すことは必須である。



インターネットで今日本から世界へと心を
発信しようという日本の方々のおかげです。
5km圏内があれだけ放射線量計が
ピーッとなっているのですから
放射能汚染はひどく
ノルウェー、ドイツ、オーストラリアの気象庁による
福島原発からの放射能汚染情報は
今日以降毎日100年間見ていく必要があります。
埼玉県に放射能汚染が来ている日もあれば、
陸風で
国際的に
海や
ハワイに
迷惑をかけて
また海への
汚染が
主になっている日も
あります。
人権と人類の未来のため福島原発を克服して
地域新党から日本の政党へと発展していこうと
存じます。
ご支援ありがたく、今後ともご支援をお願いいたします。

違法化

これまでの日本の政治は
国際社会から
5000兆円
以上の
福島原発への
補償を
迫られて
当事者能力を
失うだろう

2011年1月11日に
福島原発を
許可した
自由民主党と
日本共産党は
そのなれあいから
違法化される

海江田、
福島県知事
渡邉恒三
など
ネット上では
発狂している
とされている

国が情報隠しを世界に陳謝しよう

国が情報隠しを世界に陳謝しよう

はしたがねを
集めて
一票
一万円で
買うこれと
賄賂と
どこがどうちがうのでしょうか

戦時下の
大本営の
政治

これこそ

やめるべき
時です

そこから
風評が生れ
金がわたっているから
投票する
そして
福島県知事も
福島原発も
はしたがねを
もらっているかどうかです

裁判の
文章も
はしたがねを
もらっているかどうかで
真実は
書き換えられるのです

自由な人類の滅亡を救うために働かさせてください。もう政治学を無給で勉強し続けることは、できません。戦争と福島原発の
千の風を
世界に発信していきたいと
心より念じており
邁進する覚悟でございます。

福島原発はチェルノブイリの1.4倍。広島原爆2400個分北海道
京都
四国
九州
外国まで
汚染予測されている日も
あります。

日本の
政府は
一票一万円と
引き換えに
人類を
売り渡したので
同じ放射能汚染情報スピードを
国民に発表しません

チェルノブイリレベル7と同じ
福島原発レベル7認定
東京電力のせいに
する
日本人

政府が
やったと
知っている

危機管理能力が
なかった

福島はチェルノブイリより深刻【京大今中哲二助教授(原子炉工学)が告発】福島県飯館村の汚染レベル326万ベクレル/uで、1986年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故で強制移住対象とした148万ベクレルの2倍超。セシウムは半減期がヨウ素(8日)と比べ30年と長く、汚染長期化。

アメリカ人だったら
こんな報道はしないだろう

ソ連でさえも

日本人
統治能力を
うしなっていると
ジャック・アタリが
いったらしい

実は
福島原発は
福島県知事と
自民党
民主党が
決めたもの

2011年1月に
認可したのは
自民党を
受け継いで
海江田大臣

テレビは
自らの
東国原を
無罪とする
自ら
自らの報道を
正当化する

国民に
謝るべきは
報道と
政治家たち

福島原発の燃料の行方
人類の滅亡に

人類の滅亡を救うためには

京都へと遷都か

その前に
独占禁止法にいう経済的自由が必要だ
独占禁止法にいう経済的自由のための
独占禁止法24条の差止の判決が必要だ

東京電力の
独占性があることが
本件のような行為を
引き起こさせた

だから
独裁であったソ連共産党は
違法化された
自由民主党と
日本共産党も

国が情報隠しを世界に陳謝して、レベル7ならばレベル7以上にならないように、400人から40万人体制に切り替えよ。
これから放出の危険は高いといえるからだ。今放出予定が99%残っているのに、なぜ動かないのか。
チェルノブイリの1.4倍以上になる可能性が高いなら、今40万人体制に切り替えないでいつ切り換える。菅、枝野二人でやれるはずがない。二人っ子は二人でやるという人間関係しか持っていないのか。
いつまで話のみをしているのか。
海に向かって放出した放出は無視しているのは情報隠しがある。

冷温安定化
今何度かは
情報隠しをしている。

2700度か
250度か

炉新溶融した
あとの
中心部はまだ2700度で
表面のみが
250度か

再臨界では広島原爆2400個分に
相当する核燃料が
あるのならば
そのどの部分が
どうなっているのか

情報隠しをするな
原発の近くが
どの程度の
温度で
どの程度の
放射能が放出されているのか
それさえも
国民に
知らせない

政治家は
国民以下であらねばならない

それが
国民に
情報隠しをする

これは
統治能力を
欠いている

もう菅らのこれまで都市計画を考えずに強行突破をしてきた政治家は2011年1月19日に福島県知事と海江田大臣が認可したばかりであった。

2011年04月12日03:59 【3.11】福島第一原発、『再臨界』の可能性高い?今とは桁違いの放射性物質流出の最悪のシナリオも?京大小出助教指摘
原子力安全・保安院は、8日、福島第一原発一号機の原子炉格納容器内の放射線濃度が、毎時100シーベルトに上昇したことを明らかにした。 これは前日に比べて、3倍以上も高い放射線濃度にあたり、同炉内の温度と圧力も上昇しているという。
塩素が中性子に反応して生まれるクロル38という塩素が原子炉内で発見された。中性子は核分裂が起きたときに発生する。

政府は
まだ隠している。
これが
しらしむべからず
よらしむべし
の考えの
日本的統治とはいえないであろうか

深刻な
事故レベル7
しかし
レベル7以上
の事故であることを
隠している

炉心の
温度
今の
それが知りたい

制御棒は
動いた
止まった
制御できない
状況になった

しかし
温度が
下がっていないのではないか

人類の滅亡を救う
問題である

日本の政治は
めちゃくちゃだ

今後
水を海に
放射能が放出されれば
放射能汚染問題は
更に
深刻化することが
除外されている

読売は
チェルノブイリの10%
というが
海への
放出は無視

今後
空中に
放出せず
海への放出
だから
無視したという

きれいな海が
もう
帰って来ない

今後
官僚ができない
多くのことを
しないといけないのに

土地神話の崩壊
その後
次に原子力発電の神話の
崩壊
しかし責任はとらない

まだ
自由民主党が独裁を

民主党は新左翼を
民主党は極左的な思想を

人類を滅亡させる

政治
日本の政治が

マスコミにいた人だからという理由で
マスコミが
書き立てる
マスコミの
私物化

世界中に
放射能汚染問題
を引き起しながら

理解しない

原子炉内の
温度の
情報が不明
事態は
深刻

それしか情報が
ない

まだ炉心の一部分は
2700度

250度

3月11日
おそらく冷却が
終わる前に
圧力容器と
格納容器が
破壊された
地震から
津波までの
時間が
短すぎた
熱で
溶けたのか
圧力容器の底で
燃料棒の損傷後の
燃料は
圧力容器を
溶かした
これが100度
以下になるまで
放射能汚染を
150年
まき散らし続ける

東京から
静岡に、京都に
移るべきだろう

誰も
政治家が
本当に
放射能汚染問題を
解決しようと思っていない
情報を隠すのみ

しらしむべからず
よらしむべし

東西冷戦構造の真っ只中において
日本共産党独裁が
ソ連
中共
のために
アメリカに
反対するという
理論しか
持っていない

私が
23歳の
時に
政治経済哲学の
卒論で
イデオロギーの
終焉で
書いた
理論は
どこにもない

左右の過激主義を排する
という理論はない

本当に
1年後は
情報隠しが
できなくなっている

100年後
情報隠しが
でき続けるであろうか

放射能汚染問題は
3%
放出されたが

残りの97%は
炉内に
残ったまま

それを外に
取り出すことは
壊れた
炉心からは
難しい

壊れた炉心

そこに97%の
放射能が
残ったままだ

チェルノブイリしか前例はない

チェルノブイリでは
一挙に
放射能が外に出た

福島原発は
100年、150年にわたって
ゆっくりと
外に出てくる

東京都は
もう住めなくなり
埼玉県も
もう住めなくなり

世界中から
国際犯罪との非難が来る

避難民からも
東京電力だけが
お詫びをして
決定した
政治家は
おわびしない

しらしむべからず
よらしむべし
これが
情報操作の
根源の
目標とした

アタリが
統治能力を
失った
日本の官公庁、日本の政府
日本の政治
というのは
このことである

じわじわと
放射能汚染問題は迫ってくる

チェルノブイリは一挙に出たので
なおすの
40万人が
動員された

福島原発は
40万人が
100年間
必要になり
100年間
汚染が進む

海の汚染問題
農産物の
汚染問題
土地の汚染問題
100年間
耐えられるだろうか

山口節生出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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山口 節生(やまぐち せつお、1949年9月26日 - )は、経済学者、政治学者、政治臨床心理学者、不動産鑑定士、政治活動家、株式会社日本経済研究所代表取締役飯能支店長。政治団体「東西冷戦後又左右のイデオロギーの終えん後、イデオロギーを超えてカントの『永遠平和のために』の反改憲論をよく読み、ヒットラー的自由な解散権の恐怖と核爆弾、徴兵制を目指す改憲を政治的強さの立場から絶対阻止する団体(略称:カント永遠平和論での最高裁反改憲訴訟の会)」代表。総務省登録政治団体。平成23年3月1日この政治団体は総務省にて名称が変更された。立憲改進党となる。綱領はかつての立憲改進党とほぼ同じでその現代版である。綱領はかつての立憲改進党とほぼ同じであり、減税や原発の整理などが付け加えられた。大隈の改進と同じく改進とはマルクス主義を排する、また軍部などの右翼の過激主義を排する、つまり左右の過激主義を排しての漸進主義の意味である。立憲主義とは憲法第9条擁護論によって憲法第9条による平和による経済の大発展を主張している。マルクスについてはその過激主義を排する。右翼については極端なナショナリズムによる軍事主義を排する。両翼の極端を排して平和主義に徹する。現在は地域政党である。福島原発については人類の滅亡を防ぐために、チェルノブイリの3倍以上の燃料棒の損傷が与える放射能で日本が潰れないように率先するとしている。石原よ東京都民を見殺しにするのかという東京都知事選挙における主張によってもわかる通りに都市計画を無視した全ゼネコンを普通の企業に戻すことを前提として福島原発と電気事業について再建の道を探る。以上のような地域政党が立憲改進党である。 元財団法人不動産研究所職員、元高校教諭、元信託銀行員。法学士(中央大学)、経済学士(東京大学)、商学士(一橋大学)、政治学修士(早稲田大学)、法学博士後期課程修了、教養学士(心理と教育)。

目次 [非表示]
1 経歴
2 政治活動
2.1 選挙歴
3 著書
4 脚注
5 外部リンク

経歴 [編集]1949年 佐賀県に生まれる。
1968年 佐賀県立佐賀西高等学校卒業。
1973年 一橋大学商学部卒業。。(一橋大学経済学正統の長沢唯恭教授につき金融論・経済学の一橋大学の正統を受け継ぐ。東大が入試を中止した年の一橋入学卒業生、一橋大学正統の経済学を学ぶ。この頃の政治経済学は彼の原点にある。卒論は「政治経済哲学」)東京大学経済学部に学士入学。(宇沢弘文他東大経済の正統派経済学の他経済学者玉野井芳郎教授につき、地域平和論、地域の平和経済学をグローバル化に対抗して学ぶ。これがカントの「永遠平和のために」の永遠平和論を受け継ぐ世界平和のための平和主義の原点である。また田園都市政策は実際の政治経済論である。権力から離れ、金権資本から脱却し、欲から脱した思想でもあった。彼はカントの思想を現実に生きたと言える。大資本に一円でも少なくて負けるならば何も持たない方がよいという思想である。しかしペンは武よりも強いのであるという思想である。非暴力の思想に近い。現在まで常に維持されてきた思想である。彼の得意とする古典の翻訳などの研究職を薦められるが断り、玉野井芳郎教授の推薦で当時地域平和主義の牙城であった熊本日々新聞に内定するも年度始め4月1日に内定辞退。当時はヨーロッパで地域平和主義を政治学としてとらえていた動きを知った。地域平和主義論には多くの論文が当時あるが、EU(当時はEEC)の思想的原点となった。)
1974年 東京大学経済学部卒業。三菱信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)入行。当時三井物産、第一勧業銀行、安田火災海上保険、第一生命、野村證券などに内定するも三菱信託銀行を選ぶ。この間、中央大学法学部法律学科第二部に学士入学し、卒業(平和と平等を追求して某教授(当時は助教授)の日本国憲法ゼミに参加。憲法第九条、男女共生社会等を学ぶ。) 三菱信託銀行において不動産鑑定士二次試験合格不動産鑑定課に配属されたことをきっかけに不動産鑑定業務に携わる。 1977年 三菱信託銀行退職。帰郷し、佐賀県立伊万里商業高等学校商業科教諭となる。高等学校商業科・英語科・社会科の教員免許を有している。高校勤務時は9年間クラス担任。(慶應義塾大学文学部の通信教育で主に現代英米文学を学び英語科の免許を取得。早慶、帝大、三商大(一橋大学在学中三商大のゼミ討論会の委員長経験。ゼミ討論会の報告書に企業広告を初めて掲載させる。)の伝統を批判的に知る。

年月不詳 東京大学経済学部に学士入学。
1974年 東京大学経済学部卒業。三菱信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)入行。中央大学法学部法律学科第二部に学士入学。
三菱信託銀行において不動産鑑定士二次試験合格不動産鑑定課に配属されたことをきっかけに不動産鑑定業務に携わる。
1977年 三菱信託銀行退職。帰郷し、佐賀県立伊万里商業高等学校商業科教諭となる。
高等学校商業科・英語科・社会科の教員免許を有している。高校勤務時は9年間クラス担任。
1981年 佐賀県立有田工業高等学校英語科教諭。
1984年 佐賀県立鳥栖高等学校英語科教諭。
1986年 退職。上京。
1990年 不動産鑑定士資格取得。不動産鑑定業務等を行う有限会社日本経済研究所(現:株式会社日本経済研究所)を設立し、代表取締役社長。
1991年 早稲田大学大学院政治学研究科修士課程入学。
1993年 早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。
1994年 日本大学大学院法学研究科政治学専攻博士後期課程入学。
1997年 日本大学大学院法学研究科政治学専攻博士後期課程指導認定満期退学。
年月不詳 放送大学教養学部生活科学コース発達と教育専攻に入学、卒業。
その年度は同博士後期課程入学者は一人だけであった。自由意志論と、政治的自由と、経済的自由について研究に没頭する。結果として自由論と民主政治、民主的経済についての研究論文を発表(内部発表のみ)。大学院修士課程・博士後期課程では政治学原理、政治哲学を専攻しており、主に自由と正義について研究しているほか、ジョン・スチュアート・ミルの著作の翻訳も手がけている(単著としては未刊行)。 1997年 日本大学大学院法学研究科政治学専攻博士後期課程指導認定満期退学。 日本の政治学における自由と民主主義に関する基礎理論の数少ない研究家。英米には講座があり、専門家は多い。自由の概念を研究。中村正直訳『自由之理』から始まる日本の自由論の研究家。日本共産党系列の労組に公立高校教員時代には属していて日本共産党の統一労組懇結成に当たって修善寺での大会に出席してから後の突然99%の組織率の日本共産党系列の教組からの思想上の理由による脱退をした。その際に査問して永遠に追放すると考えて実行する日本共産党の実際に出会った。それ以来選挙においては日本共産党に都合の悪い候補を排除して日本共産党系列の候補に有利にするという記者クラブと朝日新聞との闘争は続いている。思想上の理由とはマルクスについては兄弟が多かった故に共産主義革命論に陥ったとして精神的な分裂があったとして批判を心理学的に科学的にして完全証明している唯一の心理学的批判者であるために日本共産党からは徹底的に嫌われているが、本人は学問の自由として徹底して日本共産党に反発している。唯物論と汎性論は他人の行動は物と性のみで動いていると解釈し他人はそれを自分は知っているがその人は「無意識」にやっていると主張しているので心理学的に他の兄弟に対して防衛的になり精神が自らの自由とは違ったところにあり精神が分裂しているのであるとしている。従って他人を誘導するのと同様に、誤って催眠術があると主張しているが、催眠術はあるはずはないので、自由は存在しないという誤った狂った思考に達する。人間の本性は物と性が本能であり、その他は自由である。自由のない催眠術は存在せず、無意識とは他人は物と性のみで動いているがそれを知らないという意味である。しかし自由すなわち個人的自我が発達するときにそれは治る。従って自由を獲得すればマルクスの過激主義も治るとしている。宗教では性から超越し、物から超越して寺院にこもって出家したりするが、それは自由と永遠を求めるのは人間が自由である故であるとしてマルクスについては兄弟が多かった故に共産主義革命論に陥ったのであり狂ったゆえんを証明できるとして科学的に証明できているとする。実際の経済は経済的自由と、政治的自由とによって動いている。マルクスの過激主義の狂い(精神の分裂の臨床病)を科学的に完全証明できたとしている。心理学的には唯物論と汎性論以外には自由であるから、唯物論と汎性論は人間には自由が存在しないという。但し宗教の自由はないとか、人間に自由はないといい始めた時には自由という人間の本性を失っており、精神が他人の心によって分裂した状態であるから、その他人特に唯物論と汎性論の思考をすべて自己から外したときに自由となり、唯物論と汎性論から外れることができ、これは唯一の唯物論と汎性論からの治療であるとする。 マルクス過激主義においては唯物論と汎性論は交互に時間をおいて生起する同一人の同一心理的事象であるとしている。マルクスの過激主義によって日本の官公庁を過激に支配していると主張している。それを回避するために独占禁止法上差止事件を12年間継続して東大法学部の学閥も独裁のためであるために司法と戦っているとしている。憲法第9条擁護論による穏健主義、独占禁止法上差止事件として社団法人埼玉県不動産鑑定士協会を12年間訴えて続けている。武蔵浦和第三街区再開発について公共空地に建築することが違法であるとして差止請求裁判をしている。福島原発について再建とともにチェルノブイリの10倍に当たる福島原発163tの福島原発の燃料の行方を危惧しており、関東、日本、人類の滅亡について危惧している。彼の主張の基本は人類の基本は自由であり基本的人権であり、人間の思考の一部のみが固定されておりその部分は物と性であり、それ以外は自由である。唯物論と汎性論は他人の行動は物と性のみで動いていると解釈し他人はそれを自分は知っているがその人は「無意識」にやっていると主張しているので心理学的に他の兄弟に対して防衛的になり精神が自らの自由とは違ったところにあり精神が分裂しているのであるとする。あくまでも政治的自由と経済的自由が学問の主題となっている唯一の学者である。立憲改進党から2011年東京都知事選挙に1月1日出馬表明し、前回選挙で言い始めた都営地下鉄と東京メトロの合併の主張をし、前回選挙での液状化が心配な豊洲への築地市場の歴史的価値をも台無しにしての移転即時中止、石原放漫経営を象徴する石原資金となっている都市銀行東京は即時解体、減税、平和の恩恵による財政金融による日本と東京の復興を主張している。東京が破滅する理由として彼があげるのはチェルノブイリの1.4倍以上の放射能でおかされれば広島原爆2400個分の都市が被災することになり、鑑定士として資産価値が下がって日本の経済は資産と所得の一般経済学を形成しえたとする彼の理論ではデフレによる資産デフレがデフレ乗数として作用し経済の建て直しが必要だがデフレに陥り、日本は立ち直れないと主張している。あくまでも自由の闘士であり、過激主義を排するのは立憲改進党とほぼ同じである。3月23日か24日に出馬撤回。「今回の<東京都知事選挙>での、『政党』からの候補は、『地域政党 立憲改進党』の〈山口節生氏〉 のみ!」の予定記事がインターネット新聞では見られた。

放送大学教養学部生活科学コース発達と教育専攻に入学、卒業。卒論は認知心理学における自由と行動心理学における自由のフローチャートによる融合。自由の自律を主張したカントの「永遠平和のために」が憲法第九条の概念的始まりとし、また日本国憲法制定時に帝国主義からの脱却のため第九条は天皇制を残すための必要条件だったし今もその通りと主張し、歴史に憲法第九条と共に残ればよいとしている。左右の過激主義を排した憲法第9条擁護論、平和の基礎による経済発展の主張をする「新9条の会」、劉暁波氏を救う国際連盟を立ち上げ募集中である。夫人との間に二子、長女・長男。厳しく豊洲移転の際の最悪の場合の砒素の害を石原よ東京都民を見殺しにするのかという東京都知事選挙における候補としての主張、また福島原発の燃料の行方を危惧して放射能での人類の滅亡を心配するのは潔癖な妻の影響であると本人は言っている。 政治活動 [編集]

これまで選挙にたびたび出馬しているが、すべて落選している。この責任は日本共産党と日本共産党によって支配されていた官公庁自治労にあり、政府は自治労は政府と一体であるという観念を東西冷戦中日本を支配していたことが原因だとして3億円の裁判で請求を行っており、それが福島原発と人類の悲劇の原因であると主張している。人類の滅亡を救うのは千の風による永遠平和論であるとしている。教員時代に覚えた生徒に対する涙によって唯物論と汎性論の考え方は涙のない、千の風による永遠平和論がない人を殺す冷たさであると分かっていると言っている。 埼玉県議会選挙やさいたま市議会選挙では法定得票を上回った。 1998年の参院選では、大宮ソニックシティの大ホールで個人演説会を行ったが、定員約2500人の同ホールに観衆は大川豊ただ1人だけだった。この模様は大川の著書『日本インディーズ候補列伝』の付録DVDに収載されているが、人の出入りがなかったことから、遠景を撮影した画面では「これは静止画ではありません」というテロップが流れるほどだった。 2011年東京都知事選挙への出馬を、同年1月18日に正式表明[1]。3月23日[2]か24日に出馬撤回。

政治活動 [編集]これまで選挙にたびたび出馬しているが、すべて一万円しか使わないきれいな選挙を行っている。そこに既存政党からの妨害がはいったことをしっているとしている。
埼玉県議会選挙やさいたま市議会選挙では法定得票を上回った。

1998年の参院選では、[[大宮ソニックシティ]]の大ホールで個人演説会を行ったが、定員約2500人の同ホールに観衆は[[大川豊]]ただ1人だけだった。この模様は大川の著書『日本インディーズ候補列伝』の付録DVDに収載されている。その理由は一人一万円をかけて庶民を動員し、そのためにゼネコンから金を集めることをしなかっただけであるとしている。金を集めたその方法が政治的な決定をゆがめて、それが福島原発のレベル7に繋がったとしている。政治学者がそのような金を集められない、配れないというのが負けた理由であると達観しているが、人類の滅亡を招く福島原発とそれが広島原爆2400個分であることが人類の滅亡を救うという心構えを必要としてきたとしている。自民党は豊洲は液状化が起こるというのは不安を招くとしている。ただゼネコンとの関係か、本当のことをいうのかの違いであるとしてあくまでも政治学を実践していくとしている。福島原発とそれが政治学を変えるとしている。核分裂という神の火を原爆と原発という形で神でもない人間が手に入れたことが政治学を変えたとしている。刀、鉄砲、大砲、航空機による空爆、原爆と最高の武力が変わるにつれて政治学は変わらなくてはならないと主張して政治学と家族の政治学を変革しようとしている。東京都知事選挙を一万円の費用で勝つというのが理想であるとしている。ただポスター 貼りに500万円かかるので、ポスター掲示場はなくすべきであると主張している。
2011年東京都知事選挙への出馬を、同年1月18日に正式表明[1]。3月23日[2]か24日に出馬撤回。
選挙歴 [編集]年 選挙 選挙区 党派 得票 惜敗率 順位
1991年 佐賀県知事選 - 無所属 39,587 12.37% 3/3
1993年 第40回衆院選 佐賀選挙区 無所属 2,420 4.38% 9/9
1995年 東京都知事選 - 無所属 6,579 0.39% 8/8
1995年 第17回参院選 東京都選挙区 無所属 2,571 0.59% 24/72
1996年 第41回衆院選 埼玉13区 無所属 16,303 14.54% 3/4
1998年 第18回参院選 埼玉県選挙区 無所属 20,397 3.81% 10/11
1998年 第41回衆院補選 東京4区 無所属 662 1.32% 6/6
1999年 埼玉県議選 南3区 無所属 3,121 18.66% 7/8
2000年 第42回衆院選 埼玉13区 自由連合 8,931 1.11% 5/5
2001年 第19回参院選 埼玉県選挙区 無所属 14,072 3.36% 11/13
2003年 埼玉県議選 南9区 無所属 4,199 28.57% 4/4
2003年 埼玉県知事選 - ニュー・ディールの会 8,931 1.11% 8/8
2003年 第43回衆院選 埼玉1区 ニュー・ディールの会 6,237 5.30% 5/5
2005年 さいたま市議補選 浦和区 公募型競争入札を促進する会 2,079 5.30% 4/4
2005年 第44回衆院選 埼玉15区 無所属[3] 3,957 3.70% 4/4
2007年 東京都知事選 - カント平和で親ナチ的改憲阻止最高裁訴訟会[4] 3,589 0.12% 11/14
2011年 埼玉県議選 南10区 無所属[5] 6,791 37.24% 3/3
著書 [編集]『平和のための新しい自由民主主義 田園都市政策宣言』(山口節生と田園都市政策研究協会のメンバー/編著、金華堂、1985年)
『政治と自由 自由と平等の調和を目指して』(日本経済研究所、1997年)
『現代の自由と民主 現代自由論と現代立憲民主政治の課題』第1巻(共同刊行/日本経済研究所、世界ワープロ出版、1998年)
「政治と法における自由及び正義の概念 ヘッフェの政治的正義論」(『日本大学大学院法学研究年報』第29号所収、日本大学大学院法学研究科、1999年)
脚注 [編集]^ 新顔の山口節生氏 知事選に出馬表明 (但し実際は記者クラブと官公庁自治労は政府を通じて日本共産党がマルクスの過激主義によって妨害すれば出馬できないとしていた。これでは人類は自由なのに自由はないとすることで人類の滅亡はあり得るとしていた。)- 朝日新聞、2011年1月19日朝刊東京版29面
^ 東京都知事選挙の立候補予定者 - Yahoo!みんなの政治(2011年3月23日のサイト公開時に山口の名前あり)
^ 公示時は「自民党民主党過半数割後の政治を主導する新党」
^ 立候補届出時には「カント永遠平和論での最高裁反改憲訴訟の会」だったが、選挙期間中に変更された。
^ 立候補届出時には「立憲改進党」だったが、選挙期間中に変更された。
外部リンク [編集]山口節生公式ホームページ

千の風による永遠平和論
福島原発と人類の未来

人類の
滅亡さえも
壊れたる
原子炉が

自然の
猛威には
勝てなかった

人類が
知恵を

溜まり水は

マイクロシーベルトは
人間が
生まれる
前の
状態の
物が
現代の
物に
変わる
もの

核分裂が
終わった
地球と人間に
まだ地球に
なる前の
物を
入れるもの

一方では
情報隠しが
大本営発表として
人類の滅亡を誘う

福島原発と人類
燃料棒の損傷が
燃料

55年体制のままである

明治維新

明治
150年
苦労の
産物が
最悪の
場合の
常に
考えて

都市が
計画的に

東京から
京都へと

移る
原発の
原子炉が

二号機

チェルノブイリの
四号機に
なってしまうのか

親が
子の安全を
考える

千の風に
聞き

2万人の
なくなられた
方の

消防の
軍事的
リビアの
爆撃と
原爆の
爆撃の
色が
赤く
同じもの

原発の原子炉が
赤く
光る

再臨界がなく
自然に冷却が
進む

燃料棒の
損傷にもかかわらず
冷却が

進めば
よし

現在の
人類の滅亡を
救う

自動車が
津波に
原子炉が
津波に
家が
津波に
工場が
津波に

赤ん坊が
津波に
一瞬に

まるで
イタリアの
ポンペイの
姿

千の風が
何と
言っているのか
聞いてみる

自然の
脅威が
どちらも
襲い

豊洲と
浦安の
液状化が

山口 節生(やまぐち せつお、1949年9月26日 - )は、経済学者、政治学者、政治臨床心理学者、不動産鑑定士、政治活動家、株式会社日本経済研究所代表取締役飯能支店長。政治団体「東西冷戦後又左右のイデオロギーの終えん後、イデオロギーを超えてカントの『永遠平和のために』の反改憲論をよく読み、ヒットラー的自由な解散権の恐怖と核爆弾、徴兵制を目指す改憲を政治的強さの立場から絶対阻止する団体(略称:カント永遠平和論での最高裁反改憲訴訟の会)」代表。 総務省登録政治団体。平成23年3月1日この政治団体は総務省にて名称が変更された。立憲改進党となる。綱領はかつての立憲改進党とほぼ同じでその現代版である。綱領はかつての立憲改進党とほぼ同じであり、減税や原発の整理などが付け加えられた。大隈の改進と同じく改進とはマルクス主義を排する、また軍部などの右翼の過激主義を排する、つまり左右の過激主義を排しての漸進主義の意味である。立憲主義とは憲法第9条擁護論によって憲法第9条による平和による経済の大発展を主張している。マルクスについてはその過激主義を排する。右翼については極端なナショナリズムによる軍事主義を排する。両翼の極端を排して平和主義に徹する。現在は地域政党である。福島原発については人類の滅亡を防ぐために、チェルノブイリの3倍以上の燃料棒の損傷が与える放射能で日本が潰れないように率先するとしている。石原よ東京都民を見殺しにするのかという東京都知事選挙における主張によってもわかる通りに都市計画を無視した全ゼネコンを普通の企業に戻すことを前提として福島原発と電気事業について再建の道を探る。以上のような地域政党が立憲改進党である。
元財団法人不動産研究所職員、元高校教諭、元信託銀行員。法学士(中央大学)、経済学士(東京大学)、商学士(一橋大学)、政治学修士(早稲田大学)、法学博士後期課程修了、教養学士(心理と教育)。
目次 [非表示]
1 経歴
2 政治活動
2.1 選挙歴
3 著書
4 脚注
5 外部リンク
経歴 [編集]

1949年 佐賀県に生まれる。
1968年 佐賀県立佐賀西高等学校卒業。
1973年 一橋大学商学部卒業。(一橋大学経済学正統の長沢唯恭教授につき金融論・経済学の一橋大学の正統を受け継ぐ。東大が入試を中止した年の一橋入学卒業生、一橋大学正統の経済学を学ぶ。この頃の政治経済学は彼の原点にある。卒論は「政治経済哲学」)東京大学経済学部に学士入学。(宇沢弘文他東大経済の正統派経済学の他経済学者玉野井芳郎教授につき、地域平和論、地域の平和経済学をグローバル化に対抗して学ぶ。これがカントの「永遠平和のために」の永遠平和論を受け継ぐ世界平和のための平和主義の原点である。また田園都市政策は実際の政治経済論である。権力から離れ、金権資本から脱却し、欲から脱した思想でもあった。彼はカントの思想を現実に生きたと言える。大資本に一円でも少なくて負けるならば何も持たない方がよいという思想である。しかしペンは武よりも強いのであるという思想である。非暴力の思想に近い。現在まで常に維持されてきた思想である。彼の得意とする古典の翻訳などの研究職を薦められるが断り、玉野井芳郎教授の推薦で当時地域平和主義の牙城であった熊本日々新聞に内定するも年度始め4月1日に内定辞退。当時はヨーロッパで地域平和主義を政治学としてとらえていた動きを知った。地域平和主義論には多くの論文が当時あるが、EU(当時はEEC)の思想的原点となった。)
1974年 東京大学経済学部卒業。三菱信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)入行。当時三井物産、第一勧業銀行、安田火災海上保険、第一生命、野村證券などに内定するも三菱信託銀行を選ぶ。この間、中央大学法学部法律学科第二部に学士入学し、卒業(平和と平等を追求して某教授(当時は助教授)の日本国憲法ゼミに参加。憲法第九条、男女共生社会等を学ぶ。)
三菱信託銀行において不動産鑑定士二次試験合格不動産鑑定課に配属されたことをきっかけに不動産鑑定業務に携わる。
1977年 三菱信託銀行退職。帰郷し、佐賀県立伊万里商業高等学校商業科教諭となる。高等学校商業科・英語科・社会科の教員免許を有している。高校勤務時は9年間クラス担任。(慶應義塾大学文学部の通信教育で主に現代英米文学を学び英語科の免許を取得。早慶、帝大、三商大(一橋大学在学中三商大のゼミ討論会の委員長経験。ゼミ討論会の報告書に企業広告を初めて掲載させる。)の伝統を批判的に知る。
1981年 佐賀県立有田工業高等学校英語科教諭。
1984年 佐賀県立鳥栖高等学校英語科教諭。
1986年 退職。上京。
1990年 不動産鑑定士資格取得。不動産鑑定業務等を行う有限会社日本経済研究所(現:株式会社日本経済研究所)を設立し、代表取締役社長。
1991年 早稲田大学大学院政治学研究科修士課程入学。内田満ゼミナール所属。フランス革命から現代政治学まで学ぶ。
1993年 早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。
1994年 日本大学大学院法学研究科政治学専攻博士後期課程入学。有賀弘ゼミナール所属。
その年度は同博士後期課程入学者は一人だけであった。自由意志論と、政治的自由と、経済的自由について研究に没頭する。結果として自由論と民主政治、民主的経済についての研究論文を発表(内部発表のみ)。 大学院修士課程・博士後期課程では政治学原理、政治哲学を専攻しており、主に自由と正義について研究しているほか、ジョン・スチュアート・ミルの著作の翻訳も手がけている(単著としては未刊行)。
1997年 日本大学大学院法学研究科政治学専攻博士後期課程指導認定満期退学。
日本の政治学における自由と民主主義に関する基礎理論の数少ない研究家。英米には講座があり、専門家は多い。自由の概念を研究。中村正直訳『自由之理』から始まる日本の自由論の研究家。 日本共産党系列の労組に公立高校教員時代には属していて日本共産党の統一労組懇結成に当たって修善寺での大会に出席してから後の突然99%の組織率の日本共産党系列の教組からの思想上の理由による脱退をした。その際に査問して永遠に追放すると考えて実行する日本共産党の実際に出会った。それ以来選挙においては日本共産党に都合の悪い候補を排除して日本共産党系列の候補に有利にするという記者クラブと朝日新聞との闘争は続いている。 思想上の理由とはマルクスについては兄弟が多かった故に共産主義革命論に陥ったとして精神的な分裂があったとして批判を心理学的に科学的にして完全証明している唯一の心理学的批判者であるために日本共産党からは徹底的に嫌われているが、本人は学問の自由として徹底して日本共産党に反発している。 唯物論と汎性論は他人の行動は物と性のみで動いていると解釈し他人はそれを自分は知っているがその人は「無意識」にやっていると主張しているので心理学的に他の兄弟に対して防衛的になり精神が自らの自由とは違ったところにあり精神が分裂しているのであるとしている。 従って他人を誘導するのと同様に、誤って催眠術があると主張しているが、催眠術はあるはずはないので、自由は存在しないという誤った狂った思考に達する。人間の本性は物と性が本能であり、その他は自由である。自由のない催眠術は存在せず、無意識とは他人は物と性のみで動いているがそれを知らないという意味である。しかし自由すなわち個人的自我が発達するときにそれは治る。従って自由を獲得すればマルクスの過激主義も治るとしている。宗教では性から超越し、物から超越して寺院にこもって出家したりするが、それは自由と永遠を求めるのは人間が自由である故であるとしてマルクスについては兄弟が多かった故に共産主義革命論に陥ったのであり狂ったゆえんを証明できるとして科学的に証明できているとする。実際の経済は経済的自由と、政治的自由とによって動いている。マルクスの過激主義の狂い(精神の分裂の臨床病)を科学的に完全証明できたとしている。心理学的には唯物論と汎性論以外には自由であるから、唯物論と汎性論は人間には自由が存在しないという。但し宗教の自由はないとか、人間に自由はないといい始めた時には自由という人間の本性を失っており、精神が他人の心によって分裂した状態であるから、その他人特に唯物論と汎性論の思考をすべて自己から外したときに自由となり、唯物論と汎性論から外れることができ、これは唯一の唯物論と汎性論からの治療であるとする。
マルクス過激主義においては唯物論と汎性論は交互に時間をおいて生起する同一人の同一心理的事象であるとしている。マルクスの過激主義によって日本の官公庁を過激に支配していると主張している。それを回避するために独占禁止法上差止事件を12年間継続して東大法学部の学閥も独裁のためであるために司法と戦っているとしている。憲法第9条擁護論による穏健主義、独占禁止法上差止事件として社団法人埼玉県不動産鑑定士協会を12年間訴えて続けている。武蔵浦和第三街区再開発について公共空地に建築することが違法であるとして差止請求裁判をしている。福島原発について再建とともにチェルノブイリの10倍に当たる福島原発163tの福島原発の燃料の行方を危惧しており、関東、日本、人類の滅亡について危惧している。 彼の主張の基本は人類の基本は自由であり基本的人権であり、人間の思考の一部のみが固定されておりその部分は物と性であり、それ以外は自由である。唯物論と汎性論は他人の行動は物と性のみで動いていると解釈し他人はそれを自分は知っているがその人は「無意識」にやっていると主張しているので心理学的に他の兄弟に対して防衛的になり精神が自らの自由とは違ったところにあり精神が分裂しているのであるとする。あくまでも政治的自由と経済的自由が学問の主題となっている唯一の学者である。 立憲改進党から2011年東京都知事選挙に1月1日出馬表明し、前回選挙で言い始めた都営地下鉄と東京メトロの合併の主張をし、前回選挙での液状化が心配な豊洲への築地市場の歴史的価値をも台無しにしての移転即時中止、石原放漫経営を象徴する石原資金となっている都市銀行東京は即時解体、減税、平和の恩恵による財政金融による日本と東京の復興を主張している。 東京が破滅する理由として彼があげるのはチェルノブイリの1.4倍以上の放射能でおかされれば広島原爆2400個分の都市が被災することになり、鑑定士として資産価値が下がって日本の経済は資産と所得の一般経済学を形成しえたとする彼の理論ではデフレによる資産デフレがデフレ乗数として作用し経済の建て直しが必要だがデフレに陥り、日本は立ち直れないと主張している。あくまでも自由の闘士であり、過激主義を排するのは立憲改進党とほぼ同じである。3月23日か24日に出馬撤回。 「今回の<東京都知事選挙>での、『政党』からの候補は、『地域政党 立憲改進党』の〈山口節生氏〉 のみ!」の予定記事がインターネット新聞では見られた。

放送大学教養学部生活科学コース発達と教育専攻に入学、卒業。卒論は認知心理学における自由と行動心理学における自由のフローチャートによる融合。 自由の自律を主張したカントの「永遠平和のために」が憲法第九条の概念的始まりとし、また日本国憲法制定時に帝国主義からの脱却のため第九条は天皇制を残すための必要条件だったし今もその通りと主張し、歴史に憲法第九条と共に残ればよいとしている。 左右の過激主義を排した憲法第9条擁護論、平和の基礎による経済発展の主張をする「新9条の会」、劉暁波氏を救う国際連盟を立ち上げ募集中である。 夫人との間に二子、長女・長男。厳しく豊洲移転の際の最悪の場合の砒素の害を石原よ東京都民を見殺しにするのかという東京都知事選挙における候補としての主張、また福島原発の燃料の行方を危惧して放射能での人類の滅亡を心配するのは潔癖な妻の影響であると本人は言っている。
政治活動 [編集]

これまで選挙にたびたび出馬しているが、すべて落選している。この責任は日本共産党と日本共産党によって支配されていた官公庁自治労にあり、政府は自治労は政府と一体であるという観念を東西冷戦中日本を支配していたことが原因だとして3億円の裁判で請求を行っており、それが福島原発と人類の悲劇の原因であると主張している。人類の滅亡を救うのは千の風による永遠平和論であるとしている。教員時代に覚えた生徒に対する涙によって唯物論と汎性論の考え方は涙のない、千の風による永遠平和論がない人を殺す冷たさであると分かっていると言っている。
埼玉県議会選挙やさいたま市議会選挙では法定得票を上回った。
1998年の参院選では、大宮ソニックシティの大ホールで個人演説会を行ったが、定員約2500人の同ホールに観衆は大川豊ただ1人だけだった。この模様は大川の著書『日本インディーズ候補列伝』の付録DVDに収載されているが、人の出入りがなかったことから、遠景を撮影した画面では「これは静止画ではありません」というテロップが流れるほどだった。
2011年東京都知事選挙への出馬を、同年1月18日に正式表明[1]。3月23日[2]か24日に出馬撤回。
選挙歴 [編集]
年 選挙 選挙区 党派 得票 惜敗率 順位
1991年 佐賀県知事選 - 無所属 39,587 12.37% 3/3
1993年 第40回衆院選 佐賀選挙区 無所属 2,420 4.38% 9/9
1995年 東京都知事選 - 無所属 6,579 0.39% 8/8
1995年 第17回参院選 東京都選挙区 無所属 2,571 0.59% 24/72
1996年 第41回衆院選 埼玉13区 無所属 16,303 14.54% 3/4
1998年 第18回参院選 埼玉県選挙区 無所属 20,397 3.81% 10/11
1998年 第41回衆院補選 東京4区 無所属 662 1.32% 6/6
1999年 埼玉県議選 南3区 無所属 3,121 18.66% 7/8
2000年 第42回衆院選 埼玉13区 自由連合 8,931 1.11% 5/5
2001年 第19回参院選 埼玉県選挙区 無所属 14,072 3.36% 11/13
2003年 埼玉県議選 南9区 無所属 4,199 28.57% 4/4
2003年 埼玉県知事選 - ニュー・ディールの会 8,931 1.11% 8/8
2003年 第43回衆院選 埼玉1区 ニュー・ディールの会 6,237 5.30% 5/5
2005年 さいたま市議補選 浦和区 公募型競争入札を促進する会 2,079 5.30% 4/4
2005年 第44回衆院選 埼玉15区 無所属[3] 3,957 3.70% 4/4
2007年 東京都知事選 - カント平和で親ナチ的改憲阻止最高裁訴訟会[4] 3,589 0.12% 11/14
著書 [編集]

『平和のための新しい自由民主主義 田園都市政策宣言』(山口節生と田園都市政策研究協会のメンバー/編著、金華堂、1985年)
『政治と自由 自由と平等の調和を目指して』(日本経済研究所、1997年)
『現代の自由と民主 現代自由論と現代立憲民主政治の課題』第1巻(共同刊行/日本経済研究所、世界ワープロ出版、1998年)
「政治と法における自由及び正義の概念 ヘッフェの政治的正義論」(『日本大学大学院法学研究年報』第29号所収、日本大学大学院法学研究科、1999年)
脚注 [編集]

^ 新顔の山口節生氏 知事選に出馬表明 (但し実際は記者クラブと官公庁自治労は政府を通じて日本共産党がマルクスの過激主義によって妨害すれば出馬できないとしていた。これでは人類は自由なのに自由はないとすることで人類の滅亡はあり得るとしていた。)- 朝日新聞、2011年1月19日朝刊東京版29面
^ 東京都知事選挙の立候補予定者 - Yahoo!みんなの政治(2011年3月23日のサイト公開時に山口の名前あり)
^ 公示時は「自民党民主党過半数割後の政治を主導する新党」
^ 立候補届出時には「カント永遠平和論での最高裁反改憲訴訟の会」だったが、選挙期間中に変更された。
外部リンク [編集]

山口節生公式ホームページ

詩人・小説家

私はこのような人類が破滅に瀕するかもしれない危機に瀕しているときに全く気が動じない性格を持っているといつも言われてきた。プルサーマル原発の再臨界では広島原爆2400個分のエネルギーを持ち、2400市が破壊される可能性がある。冷静に沈着にかつスピードを持って対応する必要がある。壊し屋ではなくて実務家が必要な時期である。
第三街区再開発組合の予定建築物は違法であり、相川の思想が残っている。現在反対団体の会として埼玉地方裁判所で差止の裁判中である。
日本共産党がマルクスのように過激主義との癒着である。
3月10日。これは3月11日石原慎太郎の出馬のためと、日本共産党からの支配は全公務員に及んでいることの証拠である。
公務員は日本共産党からの支配を完全に受けている。
その部分と自由競争による経済的自由が確保されている部分は違い、独占禁止法上差止が有効である。
「福島原発が、炉心溶融(メルトダウン)した場合、最悪のシナリオはどうなりますか。」
チェルノブイリ(全6号機)ではソ連が開発した、電気出力100万kWの商業用発電原子炉で、炉型は黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉は4号機が爆発した、福島第1原発3号機、沸騰水型、出力78.4万キロワットである。
スリーマイル島原発事故は、福島第一のような「沸騰水型」より改良された「加圧水型」原子炉でしたが、空焚き→メルトダウンにより、燃料の45%・62トンが原子炉圧力容器の底に溜まったようです。1989年の調査で圧力容器に亀裂が入っている事が判明し、異常事態が更に長引いていたならば、チェルノブイリ事故と同様の規模になっていた。と言われています。
私は福島原発は爆発すると思う。セシウムが世田谷で検出されたからだ。しかしそれを考慮しながら慎重に事を進める。それが私の主義である。武蔵浦和第三街区再開発について反対の会長をしていたときの方針であった。
築地市場の歴史的価値をも台無しにしていく石原放漫経営には反対である。豊洲は液状化が心配なのでやめた方がよい。
そうならないようにするためには、小説家であり、不動産鑑定士でもある。
この4年間英語のデイリー・読売を日本語に訳してそれに対するコメントでもって演説してきた。
私は親の財産を一円ももらっておらずもらうつもりはない。

また埼玉県不動産鑑定士協会が差止に値する行為を行い続けているという裁判を13年やっている。世界中で差止ができる。3億円の損害を与えたのであるから3億円請求している。
これは欧米では当然違法の行為であり、故意過失は必要ではない。
但し日本共産党からの支配は全公務員に及んでいて、最初から日本共産党がマルクスのように過激主義によってこの適用を排除している。しかしウッドロー・ウイルソンはこれを新しい経済的自由として選挙戦に出て無一文からアメリカ大統領に選ばれた。その上その後A League for Peaceとして不戦条約も認めた憲法第9条擁護論につなげた。
石原放漫経営をやめるべきだと出馬声明したが、日本共産党がマルクスのように過激主義によって公務員を支配しているので出られなかった。
世界で初めての社会科学理論を発見した。政治学では兄弟が多かった故に共産主義革命論に陥るのと同様に右翼も同様である。従って過激主義を排して、立憲改進党を再興することを決意した。
事務所は東京の丸の内と、ホワイトハウスから200mのところに平成23年1月28日まで持っていた。
一橋大学、東京大学を出ている。修士は早稲田。私の博士後期は日本大学である。

Yamaguchisetsuo@jcom.home.ne.jp
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/yamaguchisetsuo/
身近には武蔵浦和第三街区再開発について違法なことも相川のやり方で都市計画審議会で通すやり方は許さない。また日本赤十字社に代表が同じ上田同士で安く県民の資産を売り払ったのは業務上横領に当たるとして訴えたのに県警に手を回すなどもうどうにもならなくなっている。これらを正すのが私の県民から与えられた使命であると思う。
ウッドロー・ウイルソンの目指した日本共産党がマルクスのように過激主義や右翼の過激主義を排除した憲法第9条擁護論による平和による経済の大発展を望む方は是非一票を。この世界中を回ってきて、ハワイも、上海の経済特区も、マニラも、皇居外苑も鑑定す蛸とのある、小説家、詩人、童話作家の山口節生ヤマグチセツオへ。佐賀の大隈重信と同じ高校を出た、団塊世代のためにこれまで恵まれなかった山口節生ヤマグチセツオへ。

チェルノブイリ原子力発電所4号炉(爆発した原子炉)で使われていた核物質は広島型原爆に換算して約500発分(50kgX500)といわれているのに対して福島第一原発一号原子炉はウラン装荷量69tです。
枝野のように一人っ子、二人っ子世代ではこの事態には対応できない。これでは日本はおしまいだ。私や大隈重信と同じで四人兄弟であった。それくらいではないと政治は動かせない。人間関係を知っているから。枝野はまだ子供と同じだ。

菅二人っ子も大阪の知事二人っ子も石原二人っ子も子供並の心と同じで日本は駄目になってしまった。おままごとクラブではない。政治だ。菅、石原慎太郎らの指導力のなさが今回の事態を招いた。ただマスコミをのとったのみの石原も反省すべきだ。能力的に世界に対して恥ずかしい。
準備が整い次第とかやる、計画しているといって1時間以内に必要な単位の行動をいつもの役人主義で二日も過ぎてしまった。燃料棒はもう駄目になっている。菅と枝野の人災だ。彼等一人っ子、二人っ子にまかせていたら日本は滅亡だ。
燃料棒がメルトダウンしたら東京も埼玉も居住禁止になる。なっているのに対処しない。一人っ子、二人っ子にはまかせられない。かっこつけるな。流行も世相を表すが。枝野はかっこつけてるのみだ。今必要なのはチームだ。これでは日本は滅亡だ。確かにもし福島原発が核爆発を起こせば広島の五〇〇発に匹敵するチェルノブイリの五倍になる。関東、東日本はおしまいだという経団連は正しい。そうならないように私が必要だ。大隈重信と全く同じで四人兄弟である。精一杯にやる。それが天命である。大隈重信と私は歴史上唯一の政治学の本当の専門家であり、他の政治学者はただ政治学と政治を他の学問にして事象を間違っているのみだ。オバマでも同じだ。
みんなで私と共にチームを作って日本を救おう。私に付いてきてくれ。チェルノブイリよりも古い福島原発の今の損傷写真はチェルノブイリの写真と同じだ。プリンストンの教授の言っているGEが作った沸騰水型軽水炉の見解に学ぶべきだ。今考えているやりかたはと言っている間に進んでいる。アメリカ人だったら八〇キロ以内は避難させてる。まだ枝野は今人体に影響がないと言っている。枝野と菅が三十キロと決めた。何らかの役人的言い訳で三十キロとしているが間違いだ。本当に情報公開すれば枝野や菅よりも住民が頭がいい。私とチームを作ろう。私はこれまで五〇〇件以上も情報公開請求してきた。戦時中の大本営も公開しておけばよかったのみだ。福島で日本共産党がマルクスのように過激主義によって支配してきた日本の体制は終了した。私たちのチームによってあすを開こう。
東京電力も経済産業省も同期がいる。その者たちの性格も知っている。遅い。その性格では原爆以上になる。これは大学出てることの意味である。それも一橋大学封鎖してた菅・仙石らの新左翼に学生大会で反対演説ができたただ一人の人間であり、日本共産党がマルクスのように過激主義によって支配する一橋大学祭を立憲改進党のような左右の過激主義を排除した人々の経営に変えて今も続いている一〇〇名程のGT会(現在三四年続いている)の二代目であり、三商大ゼミ討論会委員長としてマルクスのように過激主義を含んだ当時の学問を過激主義を排して統合しようと考えた世界で唯一の政治家である。

米スリーマイル島原発事故より状況は悪い
チェルノブイリよりはマシだが、スリーマイル ...... 再臨界はあるだろ。そうなったら
チェルノブイリとほとんど変わらなくなるまたは其れ以上じゃないか。福島原発は、既に廃墟と化している・・・・。 だから、必死
の『再臨界=核爆発』防止の戦いが進行中なのだ。それを笑いながら答える新左翼の枝野は天罰が来たのだ。科学では分かっていない事態であるから、再臨界も否定できないことを世界に伝えてそれを否定することが重要である。今は枝野らは遊んで笑って放置している。それが新左翼が大学を封鎖しているときの精神病である。今の子供たちに共通する。大きく外が守られているときに生まれた。菅、枝野、仙石は官公庁の労組同様に情報を隠している。アメリカとは違う。これで大本営も公開しておけばよかったということになったら、日本は壊滅であり、関東はなくなるという笹森意見が正しいことになる。また外国特派員らの調査が正しく精神病の枝野は狂っているということになる。新左翼は精神病の人たちである。それを治すのが私の使命である。
海外特派員のみが真相を知っていて日本人は何も知らないのか。
http://www.ustream.tv/recorded/13339131?lang=ja_JP
再臨界も否定できないことを言ってそれが起こらない努力をする。1%の可能性を消す必要がある。チェルノブイリしか前例はないからだ。
石原放漫経営は三島由紀夫の亜流でしかない。
今回の福島は人類が滅亡するかどうかの瀬戸際。新左翼の枝野らはこれに対応できない。

記者クラブが本当のことを書くことをチェックしている。日本共産党がマルクスのように過激主義によって決めて、それを記者クラブの加盟者四紙のみに配信させて、検閲をおこなっているのだから検閲の禁止に該当する。これは歴史的にもそうしてきた。これは検閲の禁止の憲法に反する。これまでの私に対する日本共産党がマルクスのように過激主義によって行ってきたすべての行為、判決まで嘘を書かせる行為を、また合格者を不合格にさせる行為を行っていた。これが日本共産党がマルクスのように過激主義を日本で徹底させ得ている理由である。それは官公庁の自治労は政府と一体であるという観念を生んで民主党を支配している。日本共産党がマルクスのように過激主義を排せるのかどうかが鍵である。私は高校の教員として統一戦線の参加後にただ一人99%の組織率の日本共産党がマルクスのように過激主義によって支配する労組を脱退して以降このような目にあっている。日本共産党を支持させるための罠である。
天野氏はチェルノブイリ原発事故と同じようになるかと問われると、「さらに重大化するか、収まるかは申し上げられない」とした。ただ、「かなり違うのではないかと思う」とも指摘。同じ沸騰水型であるが、福島原発が古いがアメリカ製である。ソ連製ではない。
しかし福島原発一号機 二号機 三号機 四号機 五号機 六号機の電気出力は各四六.〇 七八.四 七八.四 七八.四 七八.四 百十万kWであり、広島原爆五〇〇発に当たるチェルノブイリの100万キロワットの四.六九六倍であり、広島原爆の二千三百八十四発に当たる。原発事故情報隠しではという読売の見出しはこのことである。18日夕、これを勇敢な人に読ませるべきだ。福島原発について記者クラブ制度を批判した上杉氏も正しい。戦時中の大本営も公開しておけばよかった。国民の方がずっと賢い。
東京消防庁の梯子つき屈折送水消防車を十八日まで放置し続ける菅内閣では人類が危ない。電源の復旧もすぐにすべきだった。アメリカの援助も受けるべきであった。今は風が陸風であるからいいが、関東に向かう可能性はある。
チェルノブイリでは1986年4月26日から5月6日までに四号炉百万キロワットが4号炉は炉心溶融(メルトダウン)ののち再臨界爆発後放射能がまき散らされた。チェルノブイリ百万キロワットは500発の広島原爆に相当。福島原発はチェルノブイリより古い。3号炉のみで78万キロワット。その上使用済み燃料が巨大である。要するに1から6号機まででチェルノブイリの約4.6倍。2300発の原爆に相当。早く電源回復し水を循環させる必要があり、人類を救う道はそこにあるのに、古い東大法学部の疲弊した組織では対応できなくなっている。日本共産党がマルクスのように過激主義によっていたのも終わった。オバマは本州からの軍人家族の退避を決定。これは再臨界も視野に入れた戦争並の行動である。石原ら自由民主党と、民主党が日本をつぶした。自由への意志が必要である。私だったら人類の未来がかかっている。それ故に私が防護服を着て、現地で指揮をとり、人類の未来がかかっていることをいう。それが立憲改進党のような左右の過激主義を排した本当の政治への道である。
それなしでは関東に住めなくなり、アメリカ、イギリス人のように関東から退避が必要なばかりではなく、再臨界すれば放射能が飛び散り人類は滅亡する可能性がある。今ニューヨーカーが放射能の薬を買い求めているのはこの理由による。「米、日本政府に不信感」このような政府では人類は滅びる。今は風は陸から海に向かってニューヨークに向かっているからいいが関東に向かったらどうなるのだ。全ゼネコンを使って復旧するのが筋である。防護服は大量生産して早く閉じ込める必要がある。どんな金を使ってもよい。人類を救うためだ。私も行って指揮をとろうと思う。これがアメリカ人の精神であった。彼等は国家のために死ぬという心構えを持っているが、その国家とは自由のためという意味であり、東大法学部のためということではない。
外部電源復旧のみではなく、その他の計器もすべての装置も建屋も復旧をすぐにすべきだった。すべての代替の計器を東芝は作り復旧もすぐにすべきだった。GE製造だからGEも義務がある。全ゼネコンを呼ぶべきである。防護服付きで。マイクロシーベルトは放射能の値は風によって違うから、正しく多くの地点での値を常時公表する必要がある。情報を隠すな。政府よりも個人が冷静で落ち着いている。戦争中を思い出せ。
広瀬隆氏「計画停電のウソ」も正しいかもしれない。
これで日本及び人類はおしまいだということだ。100年以上福島原発の核燃料は放射能を日本にまき散らせ続けるであろう。
政治の復権はなかったのか。
各全大学の学問は残っているが、東大法学部の学閥もすでになくなっている。
福島原発について最悪の場合とはテレビに出たガリの学者でも、私見としてのみ再臨界は否定している。それを問われてその学者も出なくなった。公的にはありうるということだ。再臨界がないように努力することが必要だ。誰が情報を規制しているのだ。東大法学部の学閥もすでになくなっている。もう国民の方が国連的になっている。賢くなっている。
私の千の風による永遠平和論と新体詩、マルクスのように過激主義や唯物論、汎性論の新体詩はすべて死んだ方への涙から生まれた。涙があればこれが理解できるであろう。両面からの過激主義を排して政治として進んでいこうではないか。
情報を隠しているのは庶民のためではなく、権力のためである。日本共産党がマルクスのように過激主義によっていたのも独裁のためである。東大法学部の学閥も独裁のためである。
私の著作集
「千の風による永遠平和論と新体詩」
「ぞうさんとありさん」の童話
学生時代に書いた沖縄の津田塾の学生と一橋大学の学生との沖縄の「復帰時の悲恋と別れ」の小説
「現代人の自由と現代の民主主義」の政治学書、これが反過激主義の政治哲学の原点である。
「自由と正義の概念」の政治学書
新左翼の菅や枝野では政府は動かない、私の政治学によってのみ政府は動く。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/yamaguchisetsuo/
に書いてあるので見てほしい。

放射線影響研究所(放影研)は、広島・長崎の原子爆弾の被爆者における放射線の健康影響を調査する科学研究機関です。

放影研は、日米両国から選ばれた10名の 常勤および非常勤理事 が構成する 理事会 により運営されています。

によると次の通り。

チェルノブイリ事故では放射能汚染が深刻でしたが、なぜ原爆の場合にはそれほどでもなかったのでしょうか?
背 景
チェルノブイリ原発事故に伴う放射性物質の放出

基本情報
チェルノブイリ原発の核燃料は合計180トン、ウランの濃縮度は2%。すなわち、ウランだけでは3,600 kg。大気中に放出された燃料は 7トンと推定(ウランに換算して200 kg相当)。核燃料の中に含まれる核分裂物質の量は、核燃料を長く燃焼させるほど増える。

広島原爆のウラン総量は濃縮度不明だが、ウランだけで推定25 kgくらい。核分裂反応はこのうちの4%程度(ウラン約1 kg)に生じたにすぎないようである。

原発の事故で炉心が溶けると、揮発性の放射性物質は大量に空中に放出される。希ガスは100%、ヨウ素は50−60%、セシウムは20−40%が放出されたと推定されている。

全体の核燃料の量が、チェルノブイリ原発(180トン、ウランに換算して3,600 kg)では広島原爆(爆弾の総重量は約4トン、ウランに換算して約25 kgと推定されている)と比較して100倍以上多い。

原発事故は炉心が溶けるという状態になったので、熱により拡散しやすい揮発性の放射性物質は大量に放出された。希ガスは100%、ヨウ素は50−60%、セシウムは20−40%が放出されたと推定されている。従って、放出された核燃料物質自体は全体の数%(7−10トン)と推定されているが、放出された放射能の量は放出された核燃料の量に比例せず相当多い。

広島原爆で核分裂を生じたのはウラン全体の4%くらい(1 kg)と推定されている。原爆は空中で爆発したので、火の玉となり火球は高温のため上昇して成層圏に達した。一部は黒い雨となって地上に降ったが、その他は風によって運ばれ薄められて広範囲に分散した。

ウラン装荷量は福島原発163t、6号を加えると295t、チェルノブイリ180tでほぼ同じである。とにかく爆発しないようにする必要がある。
福島原発の燃料はホームページによると、
種類 二酸化ウラン
ウラン装荷量(t) 六九 九四 百三十二
燃料集合体(本) 四百 五百四十八 七百六十四

伊方原発についての私の新体詩が如実に示している。

何故チェルノブイリには人が住めなくて原爆を落とされた広島や長崎には人が住めるの
でしょうか? ... それに対し、広島や長崎などに投下された原爆の場合、
チェルノブイリの時よりも核物質の質量が遙かに小さく、また空中で爆発したため

1986年、旧ソ連で起こったチェルノブイリ原発事故。この事故により、広島原爆の
300倍とも500倍とも言われる放射能が大気中に放出されました。最大の被災国となった
ベラルーシ共和国では、何十万という人々が強制移住を余儀なくさせられ、ゴースト ...
http://www.ekokoro.jp/world/problem/011/index.html - 9k - キャッシュ

チェルノブイリ原発事故の特集を見たのですが完全に回復する為には 後600年
ぐらいかかると聞きました。

チェルノブイリは原発なので放射線源の核燃料が、長期にわたり残存している 広島は
原爆なので、 放射線源の核爆薬が、一瞬で消滅してしまった。 の違いです。 もし、
福島の原発が核爆発起こす可能性ある高濃度ウランなら周辺住民退避させ

厖大な
死の灰を生み出し、チェルノブイリ原発は2年間で広島原爆2600発分を炉心に抱え事故で
800発分を放出したと、広島原爆のウラン800g、長崎原爆のプルトニウム1100gと比

広島の原爆ドームは危険? - その他(社会問題) - 教えて!goo
2007年7月1日 ... 今言われてる危険は、前の方のおっしゃるように、倒壊の危険です。 放射能汚染は、
チェルノブイリとは元になった核物質の量が違います。 チェルノブイリは原子炉丸々1
機分の核物質がばら撒かれました。 広島の原爆では60キロの高濃縮 ...
http://oshiete

広島型
原爆 ウラン50kg チェルノブイリ 広島型原爆500倍の放射性物質 2.5t .

チェルノブイリ原発は2年間で広島原爆2600発分を炉心に抱え事故で
800発分を放出したと、広島原爆のウラン800g、長崎原爆の ...
http://www.local-party.net/hokkaidou/2008/06/22426.html

全体の核燃料の量が、チェルノブイリ原発(180トン、ウランに換算して3600 kg)では
広島原爆(爆弾の総重量は約4トン、ウランに換算して約25 kgと推定されている)と比較
して100倍以上多い。 原発事故は炉心が溶けるという状態になったので、熱により拡散
...

昨年のことから理解しておくべきである。昨年3月25日に、1971年3月26日に運転を開始した福島第一原発1号機について、東京電力は、この原発が40年を迎えるというのに、超老朽化原発の運転続行という暴挙を発表し、60年運転も可能だと暴言を吐いて、原子力安全・保安院がそれを認めた。これは福井県の敦賀原発・美浜原発に続く、きわめて危険な判断であった。さらに昨年10月26日、営業運転開始から34年が経過した老朽化原発・福島第一原発3号機でプルトニウム燃料を使った危険なプルサーマル営業運転に入った。

 福島第一原発は設計用限界地震が、日本の原発で最も低い270ガルで建設された、最も耐震性のない原発である。そこで今、炉心熔融が起こったのだ。福島県内には、70キロを超える双葉断層が横たわり、マグニチュード7.9が予測される。

福島原発プルサーマル開始 東電初、国内3基目 - 47NEWS(よんなな ...2010年9月18日 ... プルサーマルを開始した東京電力福島第1原発3号機(手前左から2番目)=08年10月、福島県大熊町 ... 運転開始から30年を超え、高経年化(老朽化)対策を施している炉では初めてで、沸騰水型軽水炉(BWR)でも初。

我々は新左翼の破壊の中に居る。マルクスの過激主義の破壊の中に居る。
もう私にするしか救われる道はないだろう。立憲改進党のような左右の過激主義を排した新しい世界へ。
日本とフランスに流れる原発情報が全く逆である。外資系企業も、外国大使館も東京から消えた。枝野の隠そうという日本共産党と東大法学部が支配するマスコミが悪い。戦時中の大本営発表と同じになっている。
人類滅亡の危機に、かつての東西冷戦構造の真っ只中においての自由民主党が独裁を復活させようとし、民主党は新左翼を復活させようとし、マスコミは東を使って独裁を目指し、日本共産党がマルクスのように過激主義を復活させようとして、人類の滅亡にいたる福島原発の燃料の行方を一向に気にしない。
このような政治はもう見捨てるしかない。

震災を受けられた方々にこころより
詩を書いてお悔やみ申し上げます。千の風による永遠平和論と新体詩です。
広島原爆はウラン爆弾であったのに対し、長崎原爆はプルトニウム爆弾でした。長崎ではプルトニウム239、広島ではウラン235。プルトニウム-239は半減期 2.41万年 ウラン-235(235U)は7.04億年。
埼玉県、さいたま市には福島原発が広島原爆2400個分であることが問題です。燃料棒の損傷があることからこの危険は高いといえる。最悪の場合を避けるシステムが必要である。国の原子力安全委員会は29日の記者会見して「冷却作業は数年単位で必要、2、3号機、圧力容器破損か−原子力安全委見通し。(2011/03/29-23:51)」という。一号機から四号機まですべて対応が遅い。フランスの原子力ラコスト安全局長は、「30キロ圏外に汚染が広がり、汚染が100キロ圏に広がっても驚かない」(2011/03/28 22:41 )。危機対応が甘い。300km圏内になるなら皇居でさえも放射能汚染問題を抱え、埼玉県は更にひどいことになる。
しかし国会が新左翼に占拠された。東京都も占拠された。埼玉県も。世界中の問題である。
このままでは人類は滅亡につながる。チェルノブイリの1.4倍の放射能でおかされれば、福島原発は広島原爆2400個分、2400市町村が破壊される。東京都、埼玉県のみならず日本が滅亡する。
これまで自由民主党が独裁を行って、また民主党は極左的な対応で原発を促進してきたのがことここに至ったといえる。自由民主党が独裁を行っていた時代の原子力安全委員会システムは制度疲労を起こしている。原発を促進するための機構で情報隠しの機構であった。2010年3月29日夜11時ののNHK解説によれば人類の滅亡を救うためにはすべての情報を公開して、ビジョンを示す必要がある。もう自由民主党は存在しない。また極左の民主党も存在しない。日本共産党独裁と極右も排除するからない。
日本人は50年以上福島原発の処理に当たらなくてはならないだろう。
この原因は官公庁、官公庁自治労、官公庁の労組の奢りが原因である。
今武蔵浦和第三街区再開発について公共空地に建築することが違法だという訴訟を行っている、また調神社跡地に上田知事が全く異質な建物を建てるのを阻止する運動を手助けしている。それでも官公庁自治労におされた者たちは強行突破をしようとしている。
代表が上田から上田に県の用地をただ同然で移してもよいならば、県に損害を与えられる。
絶対に阻止したい。埼玉県からは12年もやっている独占禁止法上差止事件においても情報が隠されている。
プルサーマル三号機は余剰の兵器級プルトニウムの在庫を焼却する手段として濃縮ウラン燃料からMOX燃料へ転換した。その239プルトニウム(半減期:2万4千年)が出たとすれば恐ろしい。2万4千年の汚染となる。
裁判所もそれを許可した。
築地市場の歴史的価値をも台無しにして築地市場の液状化した豊洲移転も首都圏に影響を及ぼす。

最初アメリカの申し出要請を受けてアメリカ軍と共に福島原発の爆発を阻止すべきだった。
東京電力だけでできる範囲を超えている。

大学時代一橋大学等を占拠し続けた新左翼がいた。その菅、枝野、仙石らは国家を占拠した。1%の支持率になっても続けるそうだ。確かに彼等は法律とか言ってそれをやった快感をひきずっている。国民は当時の新聞情勢で投票したのであって、新左翼による国会占拠を託したのではない。

菅首相が外国人から100万円をもらったという事実で3月11日菅内閣は倒れるはずであったと田原総一朗はテレビでいった。本当のことを言ってしまった。

このような中では自由民主党独裁、日本共産党独裁、新左翼独裁、その間隙を縫うみんなの党から正しく過激主義を排し漸進主義、実務主義の政治に移すべきである。減税や原発の整理などの政党として立憲改進党とほぼ同じ綱領の立憲改進党にみんなで集まり、明治維新同様に新しく日本を出発させよう。

福島原発は広島原爆2400個分の再臨界がなければよい。最悪の場合の再臨界あるいは、長い間に放射能でおかされればチェルノブイリの1.4倍以上の核燃料棒の損傷が放射能をまき散らす。これを最悪の場合として国民に知らせてから、国難として処理すべきである。その際の地価が暴落する、等によるデフレ乗数にはデフレ政策では対処できない。

今後M8以上の大地震が30年以内に80%以上の確率で起こるとされる東海大震災を考慮すれば至急の対応が必要である。資産と所得の一般経済学を形成した新しい政治経済哲学が必要である。
現実的政治学者として私が修了した政治学が政治家の免許科目になるようにしたい。

山口節生
著書:「政治経済哲学」(一橋大学卒論40年前)、「政治学の変革」(早稲田大学修士論文)、「認知心理学と行動心理学における自由の概念の総合」(卒論)

世界65億人の方々へ前回東京都知事候補者
山口節生のマニフェスト
知事ユーチューブ放送http://youtube.com/watch?v=G1CR1LbGsSc(コピー用アドレス)

Only a peace between equals can last. Only a peace the very principle of which is equality and a common participation in a common benefit. The right state of mind, the right feeling between nations, is as necessary for a lasting peace as is the just settlement of vexed questions of territory or of racial and national allegiance.

The equality of nations upon which peace must be founded if it is to last must be an equality of rights; the guarantees exchanged must neither recognize nor imply a difference between big nations and small, between those that are powerful and those that are weak. Right must be based upon the common strength, not upon the individual strength, of the nations upon whose concert peace will depend. Equality of territory or of resources there of course cannot be; nor any other sort of equality not gained in the ordinary peaceful and legitimate development of the peoples themselves. But no one asks or expects anything more than an equality of rights. Mankind is looking now for freedom of life, not for equipoises of power.

And there is a deeper thing involved than even equality of right among organized nations. No peace can last, or ought to last, which does not recognize and accept the principle that governments derive all their just powers from the consent of the governed, and that no right anywhere exists to hand peoples about from sovereignty to sovereignty as if they were property. I take it for granted, for instance, if I may venture upon a single example, that statesmen everywhere are agreed that there should be a united, independent, and autonomous Poland, and that, henceforth, inviolable security of life, of worship, and of industrial and social development should be guaranteed to all peoples who have lived hitherto under the power of governments devoted to a faith and purpose hostile to their own.

I speak of this, not because of any desire to exalt an abstract political principle which has always been held very dear by those who have sought to build up liberty in America but for the same reason that I have spoken of the other conditions of peace which seem to me clearly indispensable because I wish frankly to uncover realities. Any peace which does not recognize and accept this principle will inevitably be upset. It will not rest upon the affections or the convictions of mankind. The ferment of spirit of whole populations will fight subtly and constantly against it, and all the world will sympathize. The world can be at peace only if its life is stable, and there can be no stability where the will is in rebellion, where there is not tranquillity of spirit and a sense of justice, of freedom, and of right.

So far as practicable, moreover, every great people now struggling toward a full development of its resources and of its powers should be assured a direct outlet to the great highways of the sea. Where this cannot be done by the cession of territory, it can no doubt be done by the neutralization of direct rights of way under the general guarantee which will assure the peace itself. With a right comity of arrangement, no nation need be shut away from free access to the open paths of the world's commerce.

And the paths of the sea must alike in law and in fact be free. The freedom of the seas is the sine qua non of peace, equality, and cooperation. No doubt a somewhat radical reconsideration of many of the rules of international practice hitherto thought to be established may be necessary in order to make the seas indeed free and common in practically all circumstances for the use of mankind, but the motive for such changes is convincing and compelling. There can be no trust or intimacy between the peoples of the world without them. The free, constant, unthreatened intercourse of nations is an essential part of the process of peace and of development. It need not be difficult either to define or to secure the freedom of the seas if the governments of the world sincerely desire to come to an agreement concerning it.

It is a problem closely connected with the limitation of naval armaments and the cooperation of the navies of the world in keeping the seas at once free and safe. And the question of limiting naval armaments opens the wider and perhaps more difficult. question of the limitation of armies and of all programs of military preparation. Difficult and delicate as these questions are, they must be faced with the utmost candor and decided in a spirit of real accommodation if peace is to come with healing in its wings, and come to stay.

Peace cannot be had without concession and sacrifice. There can be no sense of safety and equality among the nations if great preponderating armaments are henceforth to continue here and there to be built up and maintained. The statesmen of the world must plan for peace, and nations must adjust and accommodate their policy to it as they have planned for war and made ready for pitiless contest and rivalry. The question of armaments, whether on land or sea, is the most immediately and intensely practical question connected with the future fortunes of nations and of mankind.

I have spoken upon these great matters without reserve and with the utmost explicitness because it has seemed to me to be necessary if the world's yearning desire for peace was anywhere to find free voice and utterance. Perhaps I am the only person in high authority among all the peoples of the world who is at liberty to speak and hold nothing back. I am speaking as an individual, and yet I am speaking also, of course, as the responsible head of a great government, and I feel confident that I have said what the people of the United States would wish me to say.

May I not add that I hope and believe that I am in effect speaking for liberals and friends of humanity in every nation and of every program of liberty? I would fain believe that I am speaking for the silent mass of mankind everywhere who have as yet had no place or opportunity to speak their real hearts out concerning the death and ruin they see to have come already upon the persons and the homes they hold most dear.

And in holding out the expectation that the people and government of the United States will join the other civilized nations of the world in guaranteeing the permanence of peace upon such terms as I have named I speak with the greater boldness and confidence because it is clear to every man who can think that there is in this promise no breach in either our traditions or our policy as a nation, but a fulfillment, rather, of all that we have professed or striven for.

I am proposing, as it were, that the nations should with one accord adopt the doctrine of President Monroe as the doctrine of the world: that no nation should seek to extend its polity over any other nation or people, but that every people should be left free to determine its own polity, its own way of development--unhindered, unthreatened, unafraid, the little along with the great and powerful.

I am proposing that all nations henceforth avoid entangling alliances which would draw them into competitions of power, catch them in a net of intrigue and selfish rivalry, and disturb their own affairs with influences intruded from without. There is no entangling alliance in a concert of power. When all unite to act in the same sense and with the same purpose, all act in the common interest and are free to live their own lives under a common protection.

I am proposing government by the consent of the governed; that freedom of the seas which in international conference after conference representatives of the United States have urged with the eloquence of those who are the convinced disciples of liberty; and that moderation of armaments which makes of armies and navies a power for order merely, not an instrument of aggression or of selfish violence.

These are American principles, American policies. We could stand for no others. And they are also the principles and policies of forward-looking men and women everywhere, of every modern nation, of every enlightened community. They are the principles of mankind and must prevail.

Source: 64 Congress, 2 Session, Senate Document No. 685: "A League for Peace."

原文

Woodrow Wilson: Peace Without Victory

On the 18th of December last, I addressed an identic note to the governments of the nations now at war requesting them to state, more definitely than they had yet been stated by either group of belligerents, the terms upon which they would deem it possible to make peace. I spoke on behalf of humanity and of the rights of all neutral nations like our own, many of whose most vital interests the war puts in constant jeopardy.

The Central Powers united in a reply which stated merely that they were ready to meet their antagonists in conference to discuss terms of peace. The Entente Powers have replied much more definitely and have stated, in general terms, indeed, but with sufficient definiteness to imply details, the arrangements, guarantees, and acts of reparation which they deem to be indispensable conditions of a satisfactory settlement. We are that much nearer a definite discussion of the peace which shall end the present war. We are that much nearer the discussion of the international concert which must thereafter hold the world at peace.

In every discussion of the peace that must end this war, it is taken for granted that that peace must be followed by some definite concert of power which will make it virtually impossible that any such catastrophe should ever overwhelm us again.

(東京大学経済学部卒業生、一橋大学商学部卒業生、町中の学者、地域の活性化指導者、不動産鑑定士、山口英数塾講師、本当の経済学者、本当の政治学者、大学院博士後期終了法学及び政治学。)
研究対象

政治学:自由と平等の対立関係が政治を形成してきた。右翼と左翼をこの意味でとらえる場合には固いと柔らかいという性格が問題となっていない。

政治機構:天皇制と、民主政治との関係、民族主義と国際主義との関係、これらは政治機構特に天皇と憲法、国連軍と自国軍との関係などに大きく影響する。

政治心理学:私は姉二人、弟一人の中で育った。これが大隈重信と同じ兄弟構成の環境であった。これに気がついたのは二十歳のとき。だから卒論から研究を開始。大隈重信は政治学の先駆者として考えられる人物である。ベイズの定理に従って事後確率的に政治的とは兄弟構成からくる考え方の違いを調整し選択すること、その技術ではないかと疑っており、リバイアサン的な状況は権力が腐敗した時に起こる独裁あるいは専制とよばれているものではないかと考えている。そのためにそれはメリアムのような現実的政治学者は真摯な言葉で政治学の中で言い当てているのではないかと考えている。歴代の日本の首相についてもそれが社会的な状況と合致しているのではないかと考えている。核の傘の中にある我々は核爆弾の恐怖を学問化するときに政治心理学をこのように定義していく必要があるのではないかと考えている。特に中国の一人っ子政策においては必要な考え方であり、マルクスやエンゲルスとの違いを乗り越えられるかの問題がある。シェイクスピアは原語で専制と自由とをシーザーの中で対比している。西洋人にとってはそこまで古くさかのぼれる言葉が日本にはほとんど自由の言葉が存在しなかった。
東西冷戦後には重要なことは一人っ子的な概念と、マルクス、レーニンやエンゲルスとの言葉の差異をコンピューター化されていくだろうこの世界において乗り越えられるかである。
このような意味で政治心理学、言語学は重要な意味を持っていると考えている。

政治経済学:大恐慌が経済後進国との関係での資産価格の調整であったことは明白に証明できるし、今回の世界同時不況が同様の問題であることは明白である。投資とは資産への投資であるが、十年後には中国などの資産との関連で資産及び収益が落ちることは明白であり、それがかんぽの宿事件であった。
それを承知でどのような投資を行なうのかがオバマ氏の考えていくべきことである。

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千の風:平和の心理学
千の風は世界共通の墓からのオープンな心情の解析を行なうことによって、政治学、経済学に大きな変化をもたらすであろう。

A thousand winds have wuthered one day now .

千の風が声をあげて大嵐となりてある日吹き荒れに荒れ、今は静けさの中です。

オバマ讃歌

我々は
というオバマに
黒人が
ペルセで正しさを
ダブらせるとき

世界が
オバマの心に
共感するとき
差別がなくなり
世界が平和に

千の風は
オバマの母親の
心から
世界のどこへでも
吹き荒れる

日本の皇室にも
オバマの心が
届け
平等の、自由の
対立が消えて

平成のyamagchisetsuo@eva.hi-ho.ne.jp大隈重信yamagchisetsuo@eva.hi-ho.ne.jp 山口節生
公式ホームページ

すでに玉野井芳郎氏がなくなってから相当の年月が過ぎた。
地域の経済について、地域の平和について教わり、地域の経済と平和について熊日新聞の内定をお断りしてから久しい。
地域についての経済価値の研究が不動産鑑定であった。
現在は
株式会社日本経済研究所
全国不動産鑑定部
国際不動産部
地域経済部
資産経済部
不動産経済部
建設経済部
流通経済部
工業経済部
に分けて、大きく会社をしていこうと思っています。どうか応募あれ。
また株式会社山口商事を開業するつもりです。あらゆる商業を行ないます。
毎週土曜日の午後四時から中華料理屋で政治経済談義のオープン会議を開いています。誰にも開いて
国際政治経済について、日本経済について、不動産経済について、資産と所得の統合経済学について話し合いましょう。
特に不動産鑑定士の方の応募は別の会議として不動産鑑定と資産経済、所得経済の関係を研究していきます。同場所にて。
yamagchisetsuo@eva.hi-ho.ne.jp
までメールを下さい。八重洲に会議室と支店を設けます。
子供たちのためには、小中高の生徒には山口英数塾を開いています。
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山口 節生(やまぐち せつお、1949年9月26日 - )は、大学にこもらなかった政治学者、経済学者。政治家。不動産鑑定士、株式会社日本経済研究所代表取締役。

政治団体「東西冷戦後又左右のイデオロギーの終えん後、イデオロギーを超えてカントの『永遠平和のために』の反改憲論をよく読み、ヒットラー的自由な解散権の恐怖と核爆弾、徴兵制を目指す改憲を政治的強さの立場から絶対阻止する団体(略称:カント永遠平和論での最高裁反改憲訴訟の会)」代表。

目次 [非表示]
1 経歴
2 政治活動
3 著書
4 親族
5 外部リンク

経歴 [編集]
1949年 佐賀県に生まれる。
1968年 佐賀県立佐賀西高等学校卒業。
1973年 一橋大学商学部卒業。(一橋大学経済学正統の長沢唯恭教授につき金融論・経済学の一橋大学の正統を受け継ぐ。この頃の政治経済学は彼の原点にある。)東大が入試を中止した年の一橋入学卒業生、しかし同様の竹中平蔵とは違って、一橋大学正統の経済学を学ぶ。東京大学経済学部に学士入学。(宇沢弘文他東大経済の正統派経済学の他経済学者玉野井芳郎教授につき、地域平和論、地域の平和経済学をグローバル化に対抗して学ぶ。これがカントの「永遠平和のために」の永遠平和論を受け継ぐ世界平和のための平和主義の原点である。また田園都市政策は実際の政治経済論である。権力から離れ、金権資本から脱却し、欲から脱した思想でもあった。彼はカントの思想を現実に生きたと言える。大資本に一円でも少なくて負けるならば何も持たない方がよいという思想である。しかしペンは武よりも強いのであるという思想である。非暴力の思想に近い。現在まで常に維持されてきた思想である。彼の得意とする古典の翻訳などの研究職を薦められるが断り、玉野井芳郎教授の推薦で当時地域平和主義の牙城であった熊本日々新聞に内定するも年度始め4月1日に内定辞退。当時はヨーロッパで地域平和主義を政治学としてとらえていた動きを知った。地域平和主義論には多くの論文が当時あるが、EU(当時はEEC)の思想的原点となった。)
1974年 東京大学経済学部卒業。
三菱信託銀行入行。**三菱信託銀行において不動産鑑定士二次試験合格不動産鑑定課に配属されたことをきっかけに不動産鑑定業務に携わる。

この間、中央大学法学部法律学科第二部に学士入学し、卒業(平和と平等を追求して某教授(当時は助教授)の日本国憲法ゼミに参加。憲法第九条、男女共生社会等を学ぶ。)。
1977年 三菱信託銀行退職。帰郷し、佐賀県立伊万里商業高等学校商業科教諭となる。

高等学校商業科・英語科・社会科の教員免許を有している。高校勤務時は9年間クラス担任。
1981年 佐賀県立有田工業高等学校英語科教諭。
1984年 佐賀県立鳥栖高等学校英語科教諭。(慶應義塾大学文学部の通信教育で主に現代英米文学を学び英語科の免許を取得。早慶、帝大、三商大(三商大のゼミ討論会の委員長経験)の伝統を批判的に知る。但し教員養成大学出身の古い英語教育には進歩的ではない、日本的として反発。普通の英語教育にしないといけない、これが韓国、中国に日本の英語教育が劣っている理由だと主張する。小学校1年からの英語教育論を主張している。)
1986年 退職。上京。(転勤に恐怖を持っている労働者を尻目に本人は資本を下にしているので、転勤等でなく自らの意志で動くとしている。)

1990年 不動産鑑定士資格取得。不動産鑑定業務等を行う有限会社日本経済研究所(現:株式会社日本経済研究所)を設立し、代表取締役社長。
1991年 早稲田大学大学院政治学研究科修士課程入学。内田満ゼミナール所属。

1993年 早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。
1994年 日本大学大学院法学研究科政治学専攻博士後期課程入学。有賀弘ゼミナール所属。

1997年 日本大学大学院法学研究科政治学専攻博士後期課程指導認定満期退学。

この後放送大学教養学部生活科学コース発達と教育専攻に入学、卒業)卒論は認知心理学と行動心理学のコンピューター的チャートによる融合化。

大学では政治学・経済学・教育学・心理学などを学んだという。大学院では政治哲学を専攻しており、主に自由と正義について研究しているほか、ジョン・スチュアート・ミルの著作の翻訳も手がけている(単著としては未刊行)。今後は教育心理学・発達心理学と社会科学との関係について研究を進める考えだという。博士論文の執筆を予定している。
自称政治評論家・経済評論家・金融問題専門家・都市政策研究家。評論家等としての活動。八八歳以上まで現役で二〇歳の心意気で、清貧な貧民宰相を目指し政権を取るまではただ体験を積み重ね、黙して多くは語らず、それから歴史に憲法第九条と共に残ればよいとしている。

夫人との間に二子、長女・長男。教育論としては小学校1年からの英語教育、また中高の重複をなくし、世界的に先進的自由教育が出来る中高一貫中高校の大増設等による世界一の教育大国を目指し、自らの経験から私立の中高一貫の中学高校教育を良しとする。石原慎太郎の暴力によるスパルタ教育に対抗して強制のない自由な教育を主張する。またイギリスのエリザベス1世時代のような長女の気の強さも大事として男の暴力気の強い石原慎太郎のスパルタ教育では批判されそうな女系家族による女系天皇さえも日本国憲法第九条と共にならば容認するとする。長男主義の伝統に従って長女を選んできた皇室が、妹型の妃と違って、宝塚の歌劇部の様な長女の絶対的な主義が支配する世界をすでに選んでしまった限りは、生理的に嫌いなある種の特異な性格の傾向の人がノーということはもうできないはずである、それが確率的傾向であるバイアスの修正能力を持った政治経済論だとしている。男女共学や男女の兄弟姉妹の良さはバイアスの傾向の修正能力にあるとしている。それは寛容とは違い、一歩進歩した考えであり、戦争などの危険の傾向的性格を防止する人間本来の能力であるとする。日本史上も聖徳太子の時代のように最初の女性天皇推古天皇の時代があったからとしている。これらが可能なのは永遠平和主義が憲法第九条と共に確立されたからであるとする。更に戦前を代表する石原慎太郎や、自決した三島由紀夫や、更には皇国史観から天皇機関説に反対する中曽根康弘等が共通に陥った帝国主義と、軍国主義、集産主義に心酔することが原因による自決を促さないためにも修正能力は必要とする。世界旅行のさなかアメリカにおける憲法九条の発祥の地をみて感動したといっている。アメリカの首都ワシントンの中心部の某博物館の入口の碑には小さい武力であっても大なる武力に、もしペンが武よりも強ければ、勝てるという名文が憲法第九条の法則の原典として書いてあって感動したという。これが憲法第九条の原点であり、カントの平和論から来たのだなとロシアから来た教授と納得し合ったという。

 我々は彼の主張信条を学ぶべきであるという意見が若者には多く、卒業論文にもカントの永遠平和論を採用する学生が多くなりつつあり、彼によればこの原因はネットと、コンピューターが人間拡張の機械(カナダの学者マクルーハンの言葉)としてネットがただのからっぽの機械とししてではなく、庶民を大きく社会の中に取り入れる民主主義の道具として機能しはじめたからだという。彼はこの意味で高給官僚天国対庶民という名古屋市長選挙の構図は今後の世界の政治の根本構図になると予測している。その予測は彼の二三歳の一橋大学の保存してある本になるくらい膨大な政治と経済学の卒業論文からの主張である。高級官僚が高給をとることを否定し、アメリカのように民間中心に人材がリクルートされることを最高の政治制度と考えている。我々は可能であるというオバマ大統領の呼びかけこそ彼の大学院における主要な研究であるミル以来の自由論の政治の根本原理であるとして、彼の不遇な日本における境遇の反省としてオバマの人種差別を撤廃する動きに期待を哲学的に寄せている。将来的には高給官僚を低給官僚として従えた内閣を作ることが夢であるとしている。彼はいとこに高給官僚はいるが、一切関係したことはないとしており、それ故に反骨的に生きているのだとしている。彼の主張は高校生を教えた経験から、世襲制度には反対であり、オバマ氏のように常に世襲制度に反発して行動がなされてきた。彼の主張は一橋大学の卒業論文以来の夢であるとしている。学ぶべきは大隈重信、福沢諭吉から伝統であり、また商法(これは商業法規の意味ではなく、ハウツー商業の意味であるとしている)講習所以来の伝統であるとしている。  二人だけの会話である糸電話からプロバイダーというネットの中心でつながったようなネット社会では、政治的意見が庶民政治としてが復活してきているとしている。彼の主張は労働法と独占禁止法は同じく経済法規として哲学的には同根であるとしている。他の恐慌論とは違い、世界の経済同時不況を救うための方向性を示しているという意見もある。
* 彼の見方は次のとおり。「価格総額が減ってくる圧力が資産デフレのもっとも大きな原因である。  一般には資産デフレは資産効果として消費を抑える効果しかないという逆の見方が経済学上は一般的であるが、経済は金は天下の回り物という観点からすれば、資産デフレがこのように発生して逆に貸借対照表上の損失が損益計算書に及び、資産の評価ロスから日本及び世界の経済を直撃して、世界同時不況を引き起こしているところに着目しなければならない。  このことをも考量に入れた世界の経済の立て直し方法こそが必要な時期となっている。  なお貸借対照表上の損失が損益計算書の損失になっているのは不動産を所有しているすべての会社と家計及び政府についても言えるのであって、資産の評価損を計上しなかった会社であってもその時は損失の計上をしなかったとしても実際は損失が発生していることになる。これはすべての会社、企業、政府について言える。  この損失は解雇などを通じて他の家計をも圧迫して、経済の循環の中での玉突き現象が起こる。これを乗数効果とよんでいて、ケインズが最初に主張したといわれているが前にも学者が主張したとも言われている。  これに対してフリードマンはそのよう中にあっても貨幣の供給は利回りに重要な影響を与えるので、自然の経済の成長率程度に抑えるべきであると主張した。これは貨幣の供給が建物の価値等の資産の価値に応じた信用供与という作業によって行われるべきであるという前提に立っている。しかしこの説も間違いである。なぜならば資産の価値は以上のような連鎖によってものすごい勢いで下落しているときには、信用供与についても落ちていくからである。これが貸しはがしという形で現れる現象である。フーバーダムの建設や、道路(ヒットラー政権の時代のアウトバーンはその巨大なもの)や水道や下水道などへの政府の公共投資は確かに信用供与の増大をもたらしうるが、それよりもかんぽの宿や、貧窮者のための公共の宿のような貧窮を主体とした眼目からの投資はさらに経済を発展させる効果を有しているであろう。  フーバーダムは現地を見てきたが、当時西部を開拓するためのまた水を確保するための一大事業であったのは確かであるが、今必要もないのに投資乗数をもたらすためにだけ「ただ道を掘り返して埋める」という作業のような俗諺どおりのことをするのは妥当ではない。  やはりかんぽの宿は貧窮者の宿となっているように社会主義的とフーバーダムでさえいわれたようであるが、本当の意味で総消費を増大させるような投資が必要である。  そうすれば不動産の評価や資産の評価は上昇し、信用価値は上昇するという天下の回りものの金も循環を始めるであろう。  このように不動産を隅から隅まで見て、現地ですべてを見て回るということが必要な時代となっており、その評価は所得との間の一般均衡が念頭に置かれれば、所得と資産の総合計としての経済学が確立され、アダムスミスが考えた所得のみの国富ではなく、資産と所得の経済学が出来上がるのである。  この際にはマクロ経済学といわれてきたものも、ミクロ経済学の中にたとえば一つ一つの不動産の経済価値を求めるというようなミクロの問題に組み入れられることによって、フーバーダムやアウトバーンのようなコレクティビズムの中から脱却して、社会主義という批判を浴びることなく一般均衡の中に組み入れられて、マクロがミクロの集合体すなわち集計値として考えられることができるようになる。  海外との関係といえば今はもっぱら中国の安い品物がどのような影響を世界中の各国に与えているのかの例が挙げられ、投資を回収する収益がこのような安い商品からしか得られないならば、総収益は下落して、さらには還元利回りを通じて資産価値、つまり投資から得られる収益の現在価値の総和である経済価値は下落することになる。  例を挙げれば、ワシントンのスーパーにも中国製がずらりと並んでいたが、これはもっと中国に近いハワイにしても同様であったが、さらに中国に近い日本では輸送費の点から考えるとさらに影響を受けていてもおかしくはない。  たとえば大宮に本拠を置くしまむらの衣料品店がここに店舗を出すとか、中国製が多い100円ショップのダイソーがここに店舗を出すとかの現象が考えられるからである。  それはこの土地に特定して中国製の品物が置かれているということによって影響を受けているばかりではなくて、隣や周辺地域にそのような現象が起こっていたとしても、この土地にも影響を与えていることになる。それは土地や建物は経済の一般均衡という現象のうちにはいっているからである。一般的要因、特に外資の撤退から始まった不動産のミニバブルの崩壊による世界同時不況の発生に影響を受けて、人々の所得水準の下落、それに伴いエンゲル係数からくる食費が落とせないために、衣料費は少しは中国などからの輸入によって下落したが、所得の減少に追いつかないほどの住宅費への分配が減ったことによって、不動産の価値の下落が起こっているといえる。  衣食住はアダムスミスによれば、食衣住である。所得が食衣住とその他観光などに分解され、それが経済循環であるという理論を採用すれば確かにアダムスミスが主張する所得が国富であるという論理は成り立つ。中国でも衣食足りて礼節を知るのように、これは重視されている。しかし更に家賃を払える能力、あるいは、ローンを払える能力と資産との間での一般均衡を考えるならばアダムスミスの理論は片手落ちであったといえる。」というものである。全体主義は世界大戦の主要な原因になったと学者が批判するものであり、それを回避できるこの学問的業績はある学者によればノーベル賞二個もらってもよいとする。

政治活動 [編集]
改革保守無党派系無所属(自民・新進系、自民党系中立的無所属・新党結成・参加予定)→自由連合→「ニューディールの会」代表→「公募型競争入札を促進する会」代表→「自民党民主党過半数割後の政治を主導する新党」党首→「カント永遠平和論での最高裁反改憲訴訟の会」(略称)代表
1991年以来各種選挙に立候補している。1991年1月の小城郡牛津町長選挙への立候補を皮切りに、同年2月の佐賀市長選挙、4月の統一地方選挙佐賀県知事選挙、1993年の第40回衆議院議員総選挙(佐賀全県区)と次々に立候補しいずれも落選。知事選立候補時の選挙公報には、実名で賄賂の暴露を記述、関係者を怒らせた。新聞各誌にはいわゆる泡沫候補的な扱いを受けたが、与野党相乗り現職VS共産党公認候補という地方知事選の典型的無風選挙の構図に割り込んだ成果か、あと一歩で供託金返還となる9.9%の得票率を叩き出す。また衆議院議員総選挙の際に同氏は「長男選民論(長男はあらゆる面に優れており、次男は全てに於いて卑屈で無能で人間として欠落しているといった旨のもの)」を主張し、対立候補を「卑しい次男坊」とマニフェストで書くなどして多くの人の反感を買った。この時は2000票余りしか得票できなかった。
その後活動の場を首都圏に移し1995年東京都知事選挙に立候補し落選。以後、東京都と自宅のある埼玉県において国政選挙・地方選挙を問わずたびたび選挙に出馬、補欠選挙にも名乗りを上げるもすべて落選。自民党系無所属を名乗る事が多い。何度か自民党候補の公募に出願しているが、合格したことは1度もなく、常に無所属か諸派での出馬となっている。細かい文字でびっしり埋め尽くされた選挙公報や、政見放送で「入れないと見捨てちゃうぞ」と発言するなど、強烈なインパクトを残す。

マスコミでは、大川興業大川豊総裁(当時)が著書『誰が新井将敬を殺したか』や連載『金なら返せん!』でも「インディーズ候補」の代表としてたびたび取り上げている。
2000年第42回衆議院議員総選挙では自由連合から出馬。自由連合は、現職国会議員を擁し、新人候補者の中にも、自民党や新進党公認で選挙に出馬した候補も多い為、公認候補は全て「主要候補」として扱われた。その為、山口も「主要候補」として報道がなされた。
2003年第43回衆議院議員総選挙では、ニューディールの会を名乗り、「当選後は自民党亀井派に入会します」を公約とし、選挙ポスターに自身のではなく、亀井静香のポスターを掲示したことが一部で知られている。この選挙区では、県議選や市議選で出馬経験があるため、比較的得票し、社民党公認候補に肉薄する善戦ぶりだった。埼玉新聞等一部マスコミなどで公平に報道がされたからではないかと推測される。
2005年第44回衆議院議員総選挙では、当初埼玉5区からの出馬を表明した。「私は筋金入りの郵政民営化論者。自民党の候補者公募にも応募しているが、返答がないのでとりあえず無所属で出る」としていたが、候補者公募に漏れ、直前になって埼玉5区での出馬を取りやめ、埼玉15区(さいたま市桜・南区、蕨市、戸田市)から出馬したが落選。3,957票。選挙結果が自民党の圧勝という結果に終わり、選挙前に立ち上げた政治団体「自民党民主党過半数割後の政治を主導する新党」の行方が注目されたが、都知事選出馬に当たって新たな団体が結成された。
2007年4月に投開票が行われた、統一地方選挙の目玉とも言える東京都知事選挙に、現職の石原慎太郎・元足立区長で共産党推薦候補吉田万三よりも早く7月に出馬を表明(石原知事は12月、吉田は10月)して立候補。最近は埼玉県内で各種選挙に出馬を繰り返していた山口にとって、東京での政治活動は久々で、出馬に当たって新団体を結成したが、家庭用インクジェットプリンタで普通紙に印刷したA4版の選挙ポスターが数枚確認されたのみで、政見放送ではカンペの棒読みで、しかも民放向けの政見放送では途中で時間切れになる失態で、3589票で落選し供託金も没収された。
「選挙バカ」等と誹謗されているが、出馬を重ねるにつれ知名度も高まってきており、埼玉県議会選挙やさいたま市議会選挙に於いては、法定得票を上回る票を得るなど、健闘している。
選挙公報も出馬を追う毎に、デザイン的に見やすくなり、政見内容も具体的になるなど進歩している。
大川豊は2007年4月の都知事選挙を取材し、『日本インディーズ候補列伝』(DVD付)(扶桑社 2007年 ISBN 9784594053970)には都知事選に臨んだ山口の動静が記されている。
現在の日本経済の状況を次の通り主張している。:フーバーダムか。今世界同時不況克服にフリードマンもケインズ経済学派もないとする。公共投資は乗数で効かないのではない。金融政策も同様だ。ケインズは投資の収益率が少なくなっていると言っている。理由は四十分の一の給与で中国が安く製造するなら製品を輸入する方が勝ちであるから日本人は転職すべきことになる。また所得は下がる。それが所得の関数としての資産の価値にデフレを起こし、資産のロスが損益計算書の損失に転記され、社会が世界同時不況になっている。フリードマンはケインズのフーバーダムが社会主義につながるといい自由な選択を強調する。この時期に軍隊を増強し、公共投資のみで対抗すべきではないという。競争的に効率的に公共投資の資金が使われるべきである。銀行を救うにしても2から4%の金利はそのままにして投資の収益率をあげる努力を自由な選択によってさせるべきである。ゼロ金利にすると経済のエンジンは停まる。銀行のモラルハザードが起こる。銀行が貸し剥がして官庁となる。経済が停まる。土地利用においても家族用の広い家から1LDKの建設に逃げるようなことは社会的に規制すべきである。つまり銀行に預託された資産の資産価値の下落はポートフォリオとしての不動産資産、金融資産、株式資産の下落に相互作用により資産全体及び経済に大打撃を条数倍与えており、これが世界同時不況であり、資産及び所得の経済学が必要として、経済学の改革を目指している。
 アメリカの三流経済学者の投資乗数はなくなったことが証明できたとするニセ経済学に則って、竹中平蔵らの一派がケインズ経済学は終わった。ケインズ経済学派等をやっつけろとするのを竹中平蔵の二男坊の経済破壊だとしている。
 自由経済の本流として、一橋大学、東京大学の経済学の本流を継いでいるとしている。
 現在かんぽの宿すべての鑑定評価書を作成し、109億という売却金額や、123億という鑑定評価書の間違いを指摘しようとして投資された原価2400億に対して1000億から2000億円程度の鑑定評価が出る可能性が大いにあるとして全部のかんぽの宿を評価しようと60箇所以上すでに実査しているという。ホテルや旅館の業界の平均的な収益に補修正された適正な収益と超長期を考慮した適正な利回りの関係から他の民宿・旅館・ホテルとの自由競争が著しく不平等にならない経済的価値を極めて精緻な理論構成で算出済みで政党にも一部分提出済みである。資産価値のスパイラル的変動や蜘蛛の巣状変動がケインズやフリードマンの考察した大恐慌の原因であるとしている。この計算は東ドイツの巨大すぎるホテル、中国の豪華すぎる公共の経営するホテルや、経済合理性を度外視したチャウシスク政権の国有住宅・社宅等を資本主義の一般均衡の中に組み入れるとき、まさに今オバマ政権がおこなう必要があり、戦前の様に保護主義と戦争に突入しないために、資産を含んだ経済の一般均衡を求める場合の資産所得の経済学として必ず必要になるとしている。彼はアメリカでの凡太平洋不動産鑑定会議で中国の武漢の日本の旧租借地およびその土地上の建物をどのように評価すべきかも、所得が十分の一の中国の経済循環の中の所得と日常品の価格では評価できないので超長期の利回りを考えるべきだ、どう考えるのかと日本人で唯一人全体会で英語で質問している。かんぽの宿では社宅を含むので尚更高くなるという。かんぽの宿全体は一括で経営する方が宣伝効果も高く、シナジー効果があったとして、そのまま民営化せず法律を改正して、公共の宿として政府が保有すべきであるとしている。さまざまな政策が世界同時不況に対してとられた場合を想定している。資産のロスはどのようにして経済に組み込みうるかが問題で、それを象徴するのがかんぽの宿の歴史的事件であるとする。社会政策的な意味を持つ資産は公共性を持たせる必要があり、それも公立学校と同様に経済的な価値を認識できるとする。多くの郵便局がそのような理由で存続されているとしている。税金でまかなわれいるからゼロ円の価値であり、一万円で売却すべきということにはならないとする。かんぽの宿の鑑定評価は理論的に十分に行うべきとしている。
 東ドイツを吸収した西ドイツの場合と同様に、一国二制度の中華人民共和国を世界が一般均衡の経済に組み入れるためには彼の経済学理論しか存在しないという主張である。ロシアは資本主義圏に入ると同時に2000倍の超インフレを経験している。これまでの経済学は資産の問題を取り入れてこなかったという中山伊知郎元一橋大学教授やキンドルバーガー景気論の権威等の指摘に呼応しての研究を行い、資産のロスは資産効果として消費の減少を起こすことよりも、経済そのものを破壊するのでそれがケインズや、フリードマンや、トービンが考察しようとしたものだとし、世界同時不況の対策はそれらのどこにもないすべての資産と所得の両方を含んだ経済学の再考察から生まれるとする。
一方で数字のみを工学として経済をみている、工学部卒業の経済音痴と彼が主張する者たちが、大蔵省を乗っ取ったことに強く反発し、当たり前のことだが、相殺された乗数の結果は統計上は現れてはいないが、分析できるとしている。統計のみで経済は動くのではないとしている。経済活動は経済的自由によって強制がない状態で動いているものだとして、従って次のように主張している。
損益計算書のロスとして資産のロスが反映されると、ロスのデフレ乗数倍の、ケインズ理論における投資乗数倍のインフレ効果に対抗して発生しているから、投資乗数が消えているのであるとして、投資乗数理論を投資乗数はなくなったとする竹中平蔵らの、統計で否定する竹中平蔵派等の工学系未熟な理論を、全く経済の分からない理論として、ケインズよりも経済を見る目が偉くなったとする日本の派、日本の変な経済学者として批判している。そのような理論は世界のどこにもないとしている。

 今後の世界同時不況が共に資産所得の経済学により克服されるとしていて、今後の民主党の、またオバマ政権の世界同時不況克服策の基本となると主張し、その基本は東大時代の玉野井芳夫教授の説と、一橋伝統である金融経済学の基本からきたもので、つけ刃の経済学とは違うとして、ケインズ理論、フリードマン理論、トービン理論の正統な継承者かつ実践者としてケインズも、フリードマンも、トービンも否定せず、かつその延長上で世界同時不況克服を目指すとする。
 彼の世界同時不況克服策は理論が詳細で、実践的であるとされ、正統派の経済学者として彼の世界同時不況克服策によるしか世界同時不況克服策はないという意見もある。
大学時代から詩人でもある。山口節生公式ホームページを参照。
主な詩:南禅寺の近くで正座して精進料理を食べたときの感想の詩 たたみの香 正座するわれ 人の心 知らずして鳴く 南禅寺の セミ

モットーは、一人一人の心を聞くこととしている。

著書 [編集]
『平和のための新しい自由民主主義 田園都市政策宣言』(山口節生と田園都市政策研究協会のメンバー/編著 金華堂 1985年)
『政治と自由 自由と平等の調和を目指して』(日本経済研究所 1997年)
『現代の自由と民主 現代自由論と現代立憲民主政治の課題』第1巻(共同刊行/日本経済研究所 世界ワープロ出版 1998年)
「政治と法における自由及び正義の概念 ヘッフェの政治的正義論」(『日本大学大学院法学研究年報』第29号所収 日本大学大学院法学研究科 1999年)

親族 [編集]
山口快生 福岡女子大学文学部人文学系教授(教育心理学)、従兄弟
山口公生 元日本政策投資銀行副総裁、元損害保険料率算出機構副理事長、元大蔵省銀行局長、従兄弟
山口厚生 農林漁業金融公庫監事、元全国信用金庫協会専務理事、元国民金融公庫理事、元国税庁直税部長、元大蔵省理財局たばこ塩事業審議官、従兄弟

外部リンク [編集]
山口節生公式ホームページhttp://www.eva.hi-ho.ne.jp/yamaguchisetsuo/
山口節生のほーむぺーじ
これ以外に経済回復の道はないという論文/国民経済と資産デフレ論
山口節生日記と論文
この「山口節生」は、人物に関する書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(ウィキプロジェクト 人物伝)。

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カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本の政治運動家 | 国政選挙立候補経験者 | 知事選挙立候補経験者 | 佐賀県出身の人物 | 1949年生
隠しカテゴリ: 人物関連のスタブ項目
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最終更新 2009年5月19日 (火) 04:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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幼稚園児のための政治哲学
―両親が幼稚園児に話しかける政治の哲学―

  日本大学法学研究科大学院博士後期課程 修了

    山口節生

レバイアサン

政治は怪獣だよ。おそろしい、おそろしいものだよ。
きみが震え上がるような怪奇なものだよ。
しかしね、きみの心がよければ、こんなにすばらしいものはないんだよ。
あのすばらしい空のように、海のように、澄んだ清い心になってもらいたい、キリスト教には聖書というものがある、そこに怪獣レバイアサンというものが出てくるんだ。

龍のような形をした政治という怪獣が、原子爆弾というものをつくって、長崎と広島におちたんだよ。町全体が焦げたんだ。これは怪獣に政治が変わったときにおこったんだよ。
私のおかあさんの弟は、軍需工場で働きに行ってて原子爆弾で死んだんだよ。
このように政治は人を殺す道具にもなる。だから怪獣というよびながぴったりだね。
イスラム教には女性はベールをしなくてはならないという法律がある。社会がいろいろと違うので政治というものがあるんだ。しかし平和にはなりうるんだよ。
それが政治の夢なんだよ。

政治学

政治学というのは平和への夢を語り合う学問なんだ。

議会

 すべての政治は話し合いということなんだよ。すべて話し合って決めようという仕組みが政治制度というんだよ。国会というのは国の会議だ、国際連盟というのは国と国との話し合いだ。

平等
 平等というのは同じということなんだ。
 ありさんと、ぞうさんは多くの同じ所をもっている。しかし大きさは違う。いってみれば相似ということだね。
人間と人間は同じだね。アメリカ人はいろいろな人種がいるが、どの人種でも同じ体だから医学は同じなんだよ。

自由

 自由というのはね、人間にしか存在しないものなんだよ。

右と左

 右側って何か知っているかい、右の方だね。
 左側も、左の手を出した方が左だよ。
 これを幼稚園生に教えることは難しいね。
 一直線上に物の考え方を並べておくんだよ。その軸に
 要するに物を中心に考えるのが左で、右は国や心を中心に考える。
 この対立はフランスの革命といって、王様を廃止するときに使われた言葉で今は古くなってしまった。
 1989年までは東西冷戦という戦争を世界中でやっていたんだ。
 それから以降はこの対立軸は使われなくなった。

右が左を乱闘して、戦うという時代ではなくなったんだよ。

政治はね、兄弟姉妹と同じことなんだよ。世界中が兄弟姉妹になろうということだよ。しかしいろいろな兄弟姉妹がいるよね。兄弟姉妹が多い人もいれば、少ない人もいる、一人っ子もいる。君たちのお父さん、お母さんも同じだったんだよ。

 
 

 

 国民主権

 主権というのはね、誰が最も偉いかということなんだよ。つまり国民主権というのはね、国民が一番偉いということなんだよ。
 人民主権というのは人民が一番偉いということなんだよ。
 君主(おうさま)主権というのは君主(おうさま)が一番偉いということなんだよ。
 立憲君主制というのは、国民の主権は維持しながらも、君主(おうさま)を政治の制度の中にうまく取り入れて、憲法というのをつくって政治をうごかす仕組みのことをいっているんだ。

イラクにて
イスラムも
線を引くべき
ではないが
イスラムに線を
引くべきではない
千の風は
永遠の平和を望み
線を引かない

壁をつくるのは
神も仏も信じない
唯物論と
唯セックス論の
国のみである

イスラムの
ベールを見て
クリントンに
大統領の椅子を
重ねて
千の風にいかがと
聞く

リンカーンの
記念堂の前の
リスに
オバマが
イスラムの
ベールを
脱がせているを
思い
ジョン・スチュアート・ミルの
千の風に
いかがかと
聞く

秦の始皇帝が
万里の
長城を
造営したは
ベルリンの壁か

カントの
永遠平和論は
神と仏を
表現していた

神と仏は
カントを
支持された。

以下の神と仏の
心は
永遠である。

オバマも
クリントンも
神の前に
ひざまずけば
人類の
未来が
見えるであろう。

時事的になるが
一般的に
興味を持たれる
一夫多妻について
ミルが
述べたように
述べたくないが
述べる必要があるようだ。

永遠への第一歩となれるか。
理想というなかれ。
理想は永遠である。
あなたが永遠に
なれるか。
経済的自由でありながら永遠不変であること、これは難しい。
クリントンでも
オバマ氏でもよい。

私がここに
本当に言いたかったのは
次のことである。
自由論のなかで、
ミルが
一夫多妻について
そのような自由は
ないといった。

自由への戦いは
認めよう。

しかし
自由の放棄が
自由であるのは
永遠への第一歩である
時のみである。

理想の上で
生きるときにのみ
カントは
自由であるといった。

これは
永遠平和論でも
理想というなかれ
といったのである。

仮に儲かるから
あることをなす。
これが仮言命法である。
マキャベリはイタリアのフィレンチェで
イタリアの統一のためには
チェーザレ・ボルディアの
残虐さも
必要である
と述べようとしたと
いわれている。
しかし
そういったことはないようだ。
カントは
それは定言による命法に従って
いないから
間違いだと
述べたのである。
仮言命法である
統一のためには
という命法は
人間の自由と
人間の永遠の理想
人間の永遠の平和
それを自己の法律と
定めて
それに従うことによってのみ
人間は
自由の放棄(法)が
自由となれるのである。

カントは
こういったのである。

すべては
経済は決まっていて
それに従うことに
よってのみ
生活するのではなく
永遠平和や
永遠に向かって
生活する、
理想を 
作って
理想に
定言による
命法に従って
生活する
ことが大切である。

そうすれば
オバマ氏も
クリントンでも
永遠平和に
向かって
進めるであろう。

しかし
永遠平和の
理想のために
あることをなす
これは
どのようなことがあっても
なされるべきものであり
自らが作った
ねばならないという法のために
自らが
なすのであるから
それは
定言命法である。
理想というなかれ
定言による
命法は
常に
永遠に
守られなくてはならない
永遠の平和の法である
それを
守ることは
定言による命法である。
それによってのみ
自由の放棄が
自由となるのである。

つまり経済的自由のために
生活のために
一夫多妻を
認めることを
ミルが
何と 
いったかを
思い起こすべきである。

そこにあるのは
経済的自由でありながら永遠不変であること
つまり定言による
命法に従って
自由の放棄が
自由になることである。
経済的自由論は
難しい。
なぜならば
生活のために
一夫多妻を
認めるためには
経済的自由と
価格と数量の関係について考える
必要があるからである。
そこにこそ
永遠の自由
永遠平和があるからである。
あなたが永遠に
残るためには
経済的自由などが
永遠の
理想として
必要である。

いいにくいが
一夫多妻を
アメリカ人が
認めることは
ない。
しかし
ここに
定言による
命法に従って
永遠に
近づくという
方法がある。

オバマ氏も、
クリントンでも
ここに
進むべきである。

 国語、現代文、外国語、英語、社会では試験問題を設問の問題から先に読むべきか、一般的な例文を先に読むべきか。

 デカルトの代数的な考え方からすれば、設問によって一般的な興味を先に持ってから、正しい真実はどこで言っているのか、そして不明な点は何かというように代数や、推理小説を解くように、まず確定したことを探し、次に未知数を探し、未知数を確定した事柄から導くように筋道を順序よく読み進めるべきである。先に自分の考えで、答えを予測しておくことも大切である。推理小説でこれは行われていることである。

 常に難問が何であるのか、これが未知数といわれ、それを代数でエックスと置くことになる。

文化社会的には、次に仏教、道教、儒教とイスラム教、キリスト教ではどこがどう違うかということを覚えること。

いずれも古典古代からの(西暦610年からのイスラム教はやや新しいが)歴史を持っているが、基礎となった生活は現在の生活とは違っている。その点は割り引くべきである。

地理に詳しくなること。世界を旅してみることはよいことである。

世界が一つになるためには、世界共通語を作ったエスペルセンの思想が正しいが、今では難しいドイツ語も簡単にコンピューターによって翻訳できる時代である。大型コンピューターによれば正確に訳せるだろう。

さてオバマ、クリントン問題は難問である。

秦の始皇帝が
万里の
長城を
造営したは
ベルリンの壁か

始皇帝の
なきがらと
墓陵で
会えても
長城の
訳が聞けず

始皇帝と
焚書の
歴史
泣きながら
千の風が吹く

泣き止んだ
千の風にか
オリンピックの
ギリシャからの
風かと涙

涙すな
オバマとクリントンが
千の風吹かせ
ワシントンの
リスにも吹かせ

ワシントンDCでもオバマとクリントンの対決はオバマに決まりそうである。

永遠の平和をもたらすようにはっきりとオバマはいえるかだ。専制ではない、民主主義でもない、経済的自由を確保し、政治哲学が政治的自由と宗教的自由の上にあることを示すのだ。
悲観はするな。前進せよ。政治学は悲観の歴史であった。オバマは変えられるか。
Yes We Liberty Can
それを見届けるために共産主義国家におけるオリンポスのオリンピックの資本主義をみるために北京に不動産と、明清時代、秦の始皇帝の千の風残したのをみるために2万5000円でいけるというので北京に16日から19日まで不動産の仕事ついでに行ってきます。多くの写真を期待してください。

千の風が石油資本も土地も建物も無にして自由をみて、天安門と一人っ子の方々をどういうように導くのか。華僑の諺はすべて結婚と、葬式を大切にする。千の風は世界共通である。

中国にいた中国語を話す黒人と話をした。オバマを知っていた。オバマ、黒人が大統領になったとき、中国にいた黒人が本当に働く能力を身につけられるのか。
経済的にはシンセン、広州、香港、北京に工場が移っている。技術は英国の産業革命時代から蒸気、電気、原子力と変転はあっても変わりはない。先に回った香港、シンセン、広州、長沙、武漢に続いて北京、天津を回ってよく分かった。
中国語を話す中国の黒人がオバマを知っていた。中国人は知らなかった。
安い労働力による世界の工場として爆発的に発展している。日本では10億の評価の建物が数多く建っている。賃料を払える人はいないだろうに。150万元だという。払えるはずがない。ということは所得倍増が行なわれるだろう。世界の工場が次にはバングラデッシュ等に移るだろう。日本の工場は少なくなり、工業地は中国製品の流通業務施設になりコンピューター化され流通れていくだろう。それでも儲からないわけではない。流通業者は、しかし工場は中国にとられた。ワシントンはこの事態をどうするのか、日本がどうするのか、EUがどうするのか、台湾がどうするのか。
すべて万里の長城の、天壇公園の、故宮の秦の始皇帝の、明、清の皇帝が定陵墓から千の風にて土地と資産をどのようにみているのかにかかっている。共産主義国家においては土地は国有物である、物も国有物である。多くの建物が将来の収入見込みなく建てられている。かつての東ベルリンの建物に似て整然とはしている。華僑の力によって、石油資本によって、その他の資本が中華人民共和国をオリンポスの神々がどのようにしようというのだろうか。秦の始皇帝の千の風に聞くしか方法はないと思った。

千の風
共産主義国家に
宗教なくも
導くは
秦の始皇帝

匈奴に
備えるために
農民を
かりだしての
万里の長城

宗教なくし
オリンピックの
鳥の巣は
赤字を
残さねばよし

私はすべての政治学の本に目を通している。
古典から現在までの本の中で国家と、自由と、政治と法について選んで論ずる。

レオシュトラウスはブッシュ政権の専制に対する攻撃の基本路線をつくった。クセノフォンのヒエロに関する考察である。しかしそれは単純に独裁者は民衆の支持を得ていないから恐怖があるといったのみである。馬術に関する考察もただ勇敢さを養うという程度のものである。新教徒の神が唯物論に負けるという程度の理屈に等しい。それではオバマとクリントンの対決は東西冷戦後を救いうるとすればそれはバーリンの一人っ子の干渉されない自由のみでは人類を救い得ないであろう。
やはり経済的自由と経済的機会が経済先決的主張に優先することの主張が必要である。

米南部ジョージア州で、バラク・オバマ上院議員(46)が、ヒラリー・クリントン上院議員(60)を下し、勝利した。イラクにも本当の平和と自由が来る。新しい時代が来るがそれは経済的自由と経済的機会が経済先決的主張にはじめて論理的に勝利したということだ。カリフォルニアでプロフェッサーと呼ばれたあのカリフォルニアではクリントン女史が勝った。これは大きい。都会の政治と田舎の政治という内田教授の説とは逆のことが起こっている。このホームページが戦後生まれには鍵だ。自由といえるかだ。レオシュトラウスもいない、誰も目ぼしい政治学者がいない、誰が歴史に残る演説を書くのか。それが問題だ。人類が生きるか死ぬかを、決めるような演説を。確かに環境問題も生きるか死ぬかである、しかしゴアを選ばなかった。黒人であったから、女性であったから選んだ。何故か、それは左か右かではないということだ。東西冷戦後を反映した政治哲学が必要なのだ。それは世界中でこのホームページにのみ書いてある。それを述べなくてはならない。述べきれるか。一ネクサスで。誰が何なのか、ということだ。女性の、黒人の平等な経済的自由を確保するという主張があるならばその時代に経済的自由と経済的機会が経済先決的主張よりも優先するという理論があったであろう。しかしそれがこれまでどこにもなかったのに人々がそれを選んだ理由は何かである。
白メガネのおしゃれな山口新東京都知事誕生

政治学者として独占禁止法にいう経済的自由、政治的自由、憲法上の自由、自由意志論、自由の生物学的意味にも言及する。憲法上の自由には宗教の自由、信教の自由も含まれる。この自由こそはすべての自由に優先する。それは学問の自由よりも上にあるのかもしれない。(ルーテル教会で学んだ)キリスト教学徒である。当然に日本人だから仏教と東洋的禅宗と茶道の哲学に興味を持つ。 人間は政治的自由と共に、経済的自由を有する。経済的自由はいうまでもなく最低限度の生活の自由と結びついている。憲法上の政治的自由と、経済憲法上の経済的自由は両者ともに人間の基本的自由から来ている。強制加入に近い団体においては、思想信条の自由、宗教の自由、学問の自由は守られなくてはならない。それが国家機関でない場合であっても思想信条の自由は、また学問の自由は守られなくてはならない。民間の機関であっても、民間の事業者団体であっても、公共事業からの受注が多い場合においては強制加入に近い、国家と同様の性質を有するといえるのであるから、伊従寛が言った信条が違うものは強制加入に近い事業者団体に入会させなくてよい(テープがある、本人に確認してもらいたい。)という判決、考え方は当てはまらない。
人間は原始ロビンソンクルーソーの樣であった。そこには自然な鎖以外には社会的な鎖は存在していなかった。これはマルクスも、その敵対者であったアダムスミスも同様であった。そこに人間の自然としての自然的自由、政治的自由、経済的自由、自由意志があった。政府が強制加入団体であるのは政治的自由とともに、経済的自由、自然的自由を共に護るからであって、それをうちこわすための政府はアメリカの独立宣言が宣言し、リンカーンがそれに続いた通りに政府ではあり得ない。そこに強制性は存在し得ないのである。
これが真であるならば、その対偶も真である。このことは逆も正しく、従って同値の関係にある。

大統領候補者に一言伝えたい。この伝えはブッシュ氏にも。

米南部ジョージア州で、バラク・オバマ上院議員(46)が、ヒラリー・クリントン上院議員(60)を下し、勝利した。

このホームページは世界から見られている。平和と千の風が必要なのは絶対的である。しかしアメリカで今問題となっているのはその上での更なる問題である。大統領候補者は大統領の教会の写真を見て、ブッシュ氏が帰依したのと同様に、キリストの自由に気がつくべきである。彼らはこのホームページより千の風でも、平和でもなく、経済的自由が感じ取られるべきである。
ベニスの商人も、マーキュリー神というギリシャの商業の守護神も、すべて保守主義から生じたものである。所有権の自由を主張している。
それはミルの自由論も同様である。
ミルはグリーンのように労働者に対する思いやりを持ってはいたが、本質は所有権の自由を主張していたという点では保守主義者であったと考える。彼が功利主義的な経済を考えていたことからもそれは立証できる。グリーンのように労働者に対する思いやりを思いやりのある保守主義によって主張することはイギリスのウェッブ夫妻以来の伝統であった。しかしオバマも、黒人のために、クリントンは、女性のために、そしてエドワーズは白人労働者のためにイーガリタリアニズム以来の何かに揺り動かされた人間の本能的な自由によって支持されているのである。その支持者に何を与えるのか。キング牧師の夢から、ケネディーの公民権からそれ以上の何かを人類は要求しているのである。さてそれはミルの政治的自由から、それが唯物論による決定論ではなくて、東西冷戦後を反映しきれるための経済的自由に一歩踏み込む必要がある。それは世界100国以上に広まった経済法である経済的自由に踏み込む必要がある。黒人であっても、労働者であっても、女性であっても大統領になれるという政治的自由よりも、経済的自由を全世界の人間は望んでいるのである。働く機会の確保、完全雇用、更には入札に均等に参加する自由を、つまり経済的自由を望んでいるのである。
(私が自由論において考え出した当時の論文から引用されたと私は思っているが)ブッシュ氏が思いやりのある自由、保守主義を考案したのと同様に、今必要なのは経済先決的主張から経済的自由を尊重する社会を目指すことが必要であろう。クリントンとオバマとエドワーズが共に一緒になって、黒人と女性と労働者の経済的自由を主張する必要があろう。
黒人であってもかの女性司会者のように大金持ちになることができるというアメリカンドリームはフロンテアがあった時代のものである。日本が、中国が生れた後でそれを信じ込ませられるほど世界経済はアメリカ依存ではない。アメリカンドリームはアメリカではデモクラシーの基礎であったが、今はアメリカのシャーマン法とクレイトン法のような経済的自由を擁護するその伝統こそはアメリカをアメリカたらしめているのである。移民の問題も、アメリカ経済の問題もすべてミルの伝統からきてはいる、しかしアメリカをアメリカたらしめているそのアメリカンドリームはその経済的自由を護る正義の観念から発生したものである。
大統領候補者はその点のみに力点を置いて経済的自由について論ずべきである。みな世界中の人が富裕になろうと望んでいる。中国の人々も、日本の人々も、このホームページより千の風でも平和を願っているすべての人も。ギリシャの、ローマの、ストックホルムの、バルセロナの人もすべてが。私はそれを見てきた。特にイラクの人々も。これはすべての世界の人々の願いであり、キリストの願いでもあったのである。
SINCERELY YOURS
のみは英語で、日本語では中国の漢字で
敬具
SINCERELY YOURS

人生においても有効なものが物であるのか、女性であることか、労働者であることか、知識人が自由であることなのか、そのどれであるのかは人生の最後においてベイズの理論的に統計的に原因を分析する必要があるが、しかしその大前提として経済的自由を確保しておき、宗教的自由、政治的自由と共に確保しておく必要があるのである。その結果としての事後的な結果から事前的なライクリーフッドの傾向を修正できるという絶対的な神の自由が必要なのである。


マスター・サイエンスか、マネッジメント・サイエンスか。

統御する科学、これが政治学であるとする考え方をとる。
政治学は、実践の科学でもあり、かつ、道徳倫理の科学でもある。核爆弾を平和裡に使用するようにする、そのためには核工学をも支配している科学である。飛行機工学をするものも政治学はマスターとして知っていなくてはならない。マスターは物ではなく、永遠普遍の真理であり、善であり、徳であり、自由そのものでなくてはならない。
マネッジメントの学である経営学も、私有の部分のそのような学問である。私有の部分のみのマスターは私有者である。しかしマスター・サイエンスは公共物すべて、私有物すべてそして永遠・普遍のすべての学問である。
確かに山川雄巳氏が政治を定義するときに、調整を最初に持ってくるようにそのような機能もある。しかし蝋山氏の政治学が政治学の最も優先するものを個別の国家を持ってくるように、国家というものも機能を持っている。
政治学が政治学の根本として個人と統合を持ってきて、そのための最高の武力、たとえば今では核爆弾、種子島やポルトガルの鉄砲、それまでの刀などを管理すること、そして最高の権力を持ってくること、ホッブス流の保守主義を持ってくることも、また逆に左の陣営が政治学の根本テーマとして所有権の平等を持ってくることも可能である。しかし政治学の根本はマキャベリはイタリアのフィレンチェで何を考えたのかという問題から始まったのである。
ステートあるいはポリスがオイコスの上にあること、そしてそれが永遠の普遍性を持つこと、永遠不変であること、これによって政治学がマスター・サイエンスとして人間そのものを引っ張っていくべきであるということが生まれるのである。
緑の党や環境政策が右か、左かそれはどちらでもないというべきである。それは政治学のマスター・サイエンスとして人間そのものに迫ってくるものである。
黒人であるから大統領になるのではない、女性であるから大統領になるのではない、労働者であるから大統領になるのではない、人間のマスター・サイエンスとして人間そのものに迫ってくるものがあるから大統領になるのである。


私の家は清貧ではあるが、学問や知識は優先する、だから我が家には55インチのテレビが2台あり、私の書斎では55インチのテレビにscd4というバッファローの機械でコンピューターの画面を映して見ている。子供はwiiでスポーツやフィットをし、自動車運転をするのがことのほか上手である。大きなものでみることは疲れるが、しかし印象には残る。
今日たまたま浦和市立図書館に行って、子供の英語のネクサスに関する論文、漢字の検定のウィーのディスクに匹敵する検定問題集を見つけに行ったら、そこにマキャベッリ全集とアイザイア・バーリンの伝記を見つけた。また政治学の私が書こうとしている教科書の例を見つけた。また今後研究しようとしているシャーマン法やクレイトン法、独占禁止法の本が見つかった。
さてバーリンの伝記を見て驚いた。ミルとは違うがミルの消極的自由の部分、干渉されない自由のみを受け継いだ理由が分かったのである。
フロムとの違いはどんなところにあるのかという点である。またフランスのサルトルの三人はそれぞれに自由を説いている。

「1958年、モートン・ホワイトは、バーリンにジョン・ロールズと一緒に自由主義についてセミナーをしてもらおうとハーバードに招待した。もしバーリンがこれに応じていたら、彼はこの議論をいやでも前進せざるをえないことになっていただろう。彼はホワイトの招きに応じなかった」ことによってどれ程の社会正義が要求されるのかについての議論が進展しなかった。バーリンはなぜ自由は他のすべての政治的な価値よりも優先度が高くなくてはならないのか説明しなかった。特に彼が干渉されない自由を消極的自由と呼び、優先度が高いとしたのかを。
バーリンの説は最後の自由論であった。その後のハイエクやフリードマンは経済が確実に成長するための経済的自由を論じていくことになる。この間をつなぐものがない。
そこに「経済的自由と経済的機会が経済先決的主張よりも優先度が高いという論理」が必要になっているのである。つまりはバーリンは一人っ子であったが故に経済的自由を確保するという論理にミルから一歩踏み出してしまっていたのである。20世紀の政治思想はこの点でバーリンが作り、21世紀の東西冷戦後を反映した理論に引き継がれなくてはならなかったのである。
そこにこそ経済的自由と経済的機会が経済先決的主張よりも大切であるという理論に到達する根拠があったのである。そこにバーリンがインドの皇帝の自由と、インドの貧民の自由とについて語り尽くしきれなかった何かがあったのであろう。ロールズは踏み込もうとしたのに、バーリンが平等をただ一人が一人として勘定されることとしか定義できなかった理由があるのではなかろうか。確かに機会があったからといって、結果として金持ちになれないような貧乏なインド人がいたことも確かであろう。しかし結果から見たらその程度ライクリーフッドの傾向を修正できるという自由な選択にまかせざるをえないという神の選択、ベイズ統計的、ベイズ的原因決定論に委ねるべきなのが、人間の自由という本性なのである。そこには日本の禅的な、茶道的な、東洋的な自由をも含んだ何かが必要だったのである。そうではないと、ユダヤ人であったバーリンがホロコーストを防止しようという倫理を差し出し得ずに、その論理から逃れようとしたような記述に説明がつかないのである。

一気にバーリンの伝記を読ませてもらって、各重要なページにノートメモを添付させてもらった。アイザイア・バーリン ISAIAH:A LIFE OF ISAIAH BERLINマイケル・イグナティエフ [著] ; 石塚雅彦, 藤田雄二訳 -- みすず書房, 2004.6, vi, 335, 52p, 図版[14]p. <BA6754533X>
オールバニー
リガ-一九〇九‐一五年
ペトログラード-一九一六‐二〇年
ロンドン-一九二一‐二八年
オックスフォード-一九二八‐三二年
オール・ソウルズ
同信の友-一九三四‐四〇年
アイザイアの戦争(ニューヨーク、一九四〇‐四一年;ワシントン、一九四二‐四五年)
モスクワ-一九四五年
レニングラード-一九四五年
部族-一九四六‐四八年
冷戦-一九四九‐五三年
遅い目覚め
名声-一九五七‐六三年
追いつめられた自由主義者-一九六三‐七一年
ウルフソン-一九六六‐七五年
回顧-一九七五‐九七年
終章
バーリンはユダヤ人であった。ところが「バーリンは後になって、ポグロム(ユダヤ人虐殺)についての民間の記憶や強制収容所について戦前に分かっていたことだけでは、想像できる範囲には限界があったと主張した。」P.134
この問題に言及するためには心理学的な自民族優位論や、ヒットラーのホロコーストを奨励する行為の裏に潜む兄弟が多かったものの心情の解析が必要である。但し兄弟が多くてもそうならない場合があるので、結果からのライクリーフッドの傾向を修正できるという自由な選択による心情の問題である。
レオシュトラウスはブッシュ政権の新保守主義の理論的支柱となったが、彼もユダヤ人であったが、バーリンが干渉されない消極的自由を最上の政治的な価値を有するとする自由論を主張したのに対して、レオシュトラウスはブッシュ政権の考えたような思いやりのある保守主義という思想に落ち着いた。それは所有権を得ることによって交換活動を行ってきたことは思いやりのある保守主義と同じことだ、それは社会奉仕活動を伴うからだということと同じことだ。つまり同値の関係にある。一方権威主義的性格については権威主義に関するカリフォルニア・バークレー校の発表の通りに政治学の中で心理学的に分析されている。確かに偏見を兄弟が多いことによって持ちやすいというライクリーフッドの傾向を修正できるかも知れないが持ちやすいことは真実の傾向であろう。しかしそれが権威主義的性格としてどの程度に現実的な影響を与えているかの分析はベイズ的原因決定論によるベイズ統計学を発展させることによって進展させることができる。

大統領候補者はこの点についても考察を進めるべきである。二度と再びホロコーストを奨励することのないように、また永遠の平和をもたらすように。

宗教的自由によって宗教的対立を解消することは可能である。この考え方は国立国会図書館と埼玉県立図書館に納めた論文を起点とする。本能と自由の問題である。
神の存在を偶像に求めるのではなくて、人間に与えられた永遠に大きな脳のニューロンの数に原因を求めて、それが希望であり、将来の見取り図であれ、永遠の平和をもたらすように永遠の社会を求めるその姿こそ高貴なのであって、神とは人間がソフトウェアーを書き換えられるやり直しの効く存在であることに求めるならば、すべての戦争の問題も、ホロコーストを防止しようという倫理の問題も、永遠の言葉、永遠の平和をもたらすようにするための宗教という問題も、宗教的自由の問題も、ギリシャの12神と七福神を結びつける問題も、そして商売の安全と、振興を求めるマーキュリーの神の商業の守護神の姿が同様に七福神のうち恵比寿様の商業を守護する姿とを結びつけることができるかという問題も、農業の五穀豊穣の神がギリシャと日本で相互に通じ合って両方の幸福を願いうるという人間の本性である自由の問題としてとらえることができ、それが千の風にて大昔の土着の信仰、この時代にはまだ宗教とは意識されずなくなった者の死後を願う心としてとらえられていた時代ともつながるのである。
バーリンがユダヤ人としてシオニズムに傾いていたこと、そしてそのイスラエルの建国へ向けて働いたその功績、これは称賛に値する。所有権が不幸をもたらしたというルソーでさえ、おそらくは千の風にて土地を持たなかった故にホロコーストの被害に遭った千の風を何億と残したユダヤ人が土地を国家として持つこと、それが共有というキブツの形態であろうと、私有の形態であろうと、それに反対して、それが不幸をもたらすとは現実を見ればいわないであろう。
バーリンがいうように所有権を得ることによって交換活動を行ってきたことは悪いことではない。シャーマン法とクレイトン法が護るような消極的自由を伴った商業の守護神が守られている社会こそ健全なのである。

イラクに早期に平和が訪れますように、アーメン。


世界遺産の
厳島神道
神社と
西洋の源アテネとを
つなぐ何かが

倫理学で
アリストテレスが
原爆を
人道上の法で
つなげば千の風

世界への
メッセージは
自然法で
人道上の
法の上の法

世界への
メッセージは
千の風
20万人が
一緒になりて

20万人の
願いは
世界最初の原爆が
世界遺産に
なることにして

我が母の
弟が長崎医大の
学生で
原爆に会い
なくなりし

長崎に
原爆の日に
行ってなければと
悔やむなかれ
倫理学できた

千の風
原爆と
ホロコーストの
原理をも
つくりうる自由

三位一体で
自由に神は
原爆も
ホロコーストも
千の風になり


東京大学法学部に合格していたら、おそらく法学を勉強して、今頃は政治学博士後期満期退学して政治学者になっていたであろう。当時は政治学は困難を究めていた。個人の本源的自由という考えから発生した自由社会という概念は存在しなかったからである。だが戦後は、特に東西冷戦後はそのような東京大学法学部も変わらざるを得なくなっているといえるのである。
 しかし大学受験で不合格になったおかげで、政治学者にならずに政治経済学者になってしまった。
 一橋の経済学、商学はケンブリッジや、エール大学の経済学部に似て実学的である。従ってそれがまた私に幸いした。ミルが研究対象を政治的自由という自由に限定したのとは対照的に私は経済学的自由、経済的自由にも研究の対象を拡大できたし、更に有賀弘氏に師事したおかげで宗教的自由や、心理学的自由にも研究の対象を拡大できた。感謝するばかりである。

今後毎日ここに写真を公開していくことにする。眠ったままでもいけないので。
謹賀新年。
皆様のご多幸とご健康とをお祈り申し上げます。
正月はディズニーのカウントダウンから、世界の三大珍味トリフ(確かにおいしい。西洋人の気持ちが分かった。)、フォアグラ(とりレバーの少しとろりとしたものだった)、キャビア(確かにおいしい。西洋人の気持ちが分かった。)のついたフルコースを食べて、のだめカンタビーレのwiiで指揮をとって、演奏して遊びました。更に二日には朝8時半から並んで新春の一般参賀に行ってきました。ビデオでとったので天皇や雅子様の顔がここに載せられるJPEGにできるかは疑問ですが。
民主党のクリントンとオバマの戦いはどうなるのでしょうか。心配です。歴史がどちらであっても変わるのに、本当に政治の哲学を用意しているとは思えませんが。フランス革命の省察からすべてを読む時間を法学博士後期で与えてくれた、そしてそれにゆっくりついていく私を与えてくれた天に感謝。

さてワシントンは面白かった。
大統領選挙は、オバマの当選確実が出た。私がワシントンに行った丁度その日12月8日(9日)に4500万人が観ていてとても頭が切れるという黒人女性のニュースキャスター、オプラ・ウィンフリーが歴史的な応援演説をした。全部を見せてもらった。その中に平和が勝つオーバーカムという言葉がはいっていた。これはパクラレタと思った。思いやりのある保守主義と同じことだ。すべて自由論から来ている。
オバマはイラク戦争はやめるというが、ヒラリーは賛成したという経歴を持つ。世界に通ずる大統領選挙だ、問題はこの点だろう。ベトナムの時と同じになるかもしれない。ヒラリーよ。 黒人初の大統領になるのか。女性初の大統領になるのか。
インド人やヒスパニックは生活できないといっていた。これらがどうでるかだろう。
エドワーズはAFL-CIOの系列の言葉だけでは行けない。イラク戦争もなくすことができるかだ。
このホームページより千の風でもパクレタラ勝つだろう。
「ニューハンプシャー州南部 4日夜、南部ミルフォードで民主党の集会が開かれ、約3500人が参加した。クリントン氏の支持を訴えるグループには中高年齢者が目立ち、オバマ氏の支持者は20〜40代が中心だった。演台に立ったクリントン氏がセールスポイントの政治経験を訴えるため「就任日からバリバリ働ける大統領候補は誰?」と問いかけると、若者グループからすかさず「オバマ!」と叫ばれる場面も。その一人で大学2年のデビッド・ヘンリケスさん(20)は、1年前からオバマ陣営のボランティアを務め、「2200人の学生組織を作りあげた」という。オバマ氏の若者組織はニューハンプシャーにも確実に広がっている。(毎日新聞 2008年1月6日 東京朝刊)」
イギリスのエリザベス、アメリカのヒラリー・クリントン、日本の雅子妃、歴史的にはフランスやロシアの王政の打破の悲惨さの回避、そしてオバマ氏、それらを東西冷戦後は東西冷戦の終結と、文明の衝突がイラク戦争の原因でありそれを回避する理論(宗教的、経済的自由も永遠不変であるとする自由論の再構築)の必要性、東西の文明の衝突の理論の回避として永遠不変への、永遠の平和への動きとして理解するにはこのホームページで理論武装するしかオバマ、ヒラリー、エドワーズはないだろう。面白い時代になった。しかし安倍晋三氏のようにならないように学習に次ぐ、学習が必要さ。健闘を祈る。特にマスコミ諸君も。自由とは何か、自由から何が生まれるか、それを真剣に考えることだ。

南禅寺、京都、小豆島、皇居、平安神宮、広島、これらをつなぐのはこの歌集以外には存在しない。それはイラク戦争もなくすことができるかも同様である。軍隊を持つことではない。イラクに行ってきます。実際の経済と地理と不動産を観てきたいから。バクダッドの水に触れてここに載せます。

英仏の
戦争ならぬ
イラク戦争ならば
私が
経済地理を
自分の目で
観てくるしか
このイラク戦争もなくすことができる人は
いないと思う。
観てくるものが違う。

実際と違うことが理由なら
である。実際と違うことが理由なら
ありがたくない戦争である。
東西冷戦後を反映しきれるであろうか、
それが問題だ。
物質的な先決的な貧しさと、
性欲先決定論は方向性しか示していないのであって(ライクリーフッド傾向)、
結果からのベイズ的な確率の問題は数的に証明できるのだ、
それ故に物は少し、性は少ししか影響していない。
オバマも、ヒラリーも共にゼンダーは性ではない、
役割だ。
それ故に政治経済学においては政治的自由とともに、政治的自由及び経済活動と経済的自由と宗教的自由が必要だといえばよい。
そういえばまだヒラリーも負けたわけではない。
黒人の苦しさからいえばオバマを応援したいが、女性の虐げられた地位からすれば
イラク問題も女性問題でもあるのだ。
歴史的にいえばどちらも解決すべき課題である。
東西冷戦後を反映しきれるであろうかは
この両方、肌の色と、女性がベイズ的にあまり大きな確定的要因ではない
ということだ。だからここにかつての東ドイツの空港のクリスマスを
載せる。

よくわからないが、ヒラリーがニューハンプシャーでは勝った。しかし安倍政権にならないとは断言できない。自分の目で、自分の言葉で語っていないからだ。さーどうする。政治学よ。農村部の政治学であれ、つまりイリノイや佐賀であれ、都市部の政治学であれ、東京や埼玉であれ、ニューハンプシャーであれ、人間の自由な本質は変わりないからだ。所有権の広さや、農業に利用する度合いは変わるが、地デジの時代、wiiでフィットの時代には両方同じ面が多いからだ。傾向的に。




さいたま市浦和区高砂1-2-1エイペックスタワー1202にて

たたみの香
正座するわれ
人の心
知らずして鳴く
南禅寺の
セミ

I doing Zazen in the fragrance of Tatami
hear many buzzing of cicadas
but cicadas in Nan zen temple
cannot understand the inner man.

千の風
南禅寺の
セミに吹き
荒れに荒れにし
後に静寂

広島の
G−GARDENで
にしんそば
食べて元気に
原爆忘れ

にしんそば
広島でたべし
理由は千の風
吹かせずば
いてもたってもいられず

広島駅中
お好み焼きの
おいしさに
原爆のこと
千の風にし

にしんが
南禅寺の虫のように
我が心
知らずして
千の風吹かせ

北海の
にしんかなもし
と尋ねても
生産地など
知らぬと答え

そばはもし
千の風にて
四国からかと
聞くも知らぬと
若き店員

北海の
荒波の中の
にしんも
広島で
原爆の
千の風聞くやも

黒い雨
降りたりしと聞く
広島で
千の風聞く
重み耐えきれず

お遍路さん
88回
千の風
聞くためかただ
黙々と聞く

5番の
地蔵寺にて
88カ所回る
夫婦に誰の
千の風かと聞き

坂下門と宮内庁

平和が
第9条なくして
なくなれば
フランス、ロシア
悲劇が日本に

天皇は
千の風にて
千代に八千代に
聖徳太子の和を
伝えて平和

アメリカを
造りたるかな
ワシントン
自由の神が
千の風にて


さびれたる
東ベルリンの
空港にも
キリストのクリスマス
千の風聞く

東ベルリンにも
宗教の自由
復活し
クリスマス
ジングルベルが

ニューヨーク
体育中心
ならぬ金融中心の
サラリーマン姿
見て丸の内時代の我
思い出し

イツクシマ
シントウシュライン
世界遺産
指定の理由は
千の風神道に吹くか

アクロポリスの
丘の下
劇場があり
神々の
千の風今にも

アテネから
イギリスに
千の風にひたりて
ふと見れば
エーゲ海岸線見ゆる

アテナイの
エーゲの海には
日本へと
つなげる水に
触れることなし

紺碧という
エーゲの海に
触れたれば
原子爆でさえアリストテレスが哲学し
千の風でつなぐか

アリストテレスが
もし原爆を
書き残す
とすれば
ニコマコス倫理学か

アテナイの
ソクラテス
今に猶
千の風残し
キリストと共に

アテネから
イギリスに
飛び立ち
見ればアルプスの
山村千の風

ギリシャ文字
ヨーロッパすべての
源流で
ABCも
千の風の文字も

神々が
ギリシャにも
千の風
起源の伝説が
変わりたるのかも

ギリシャ文字
ところどころ
ABCに
変えてくれ
日本人のため

ギリシャの
家々の神々も
元はといえば
千の風にて
あるらしき

ギリシャの
地下鉄の駅に
古代の壺あり
千の風にて
今にもプラトンが

宮島は
神の国にて
あればなお
平氏滅びても
政治を超えて

オリーブの
酢漬け
小豆島の海水
エーゲの海に
千の風送り

小豆島
24の瞳の
あった島
千の風残し
戦争の夢の跡

生徒なら
生きて帰りて
涙流すな
といい慰めて
千風ととも

生きており
風の子日々
かつての元気
見せてくれ千の
風の子になり

悲しさをも
涙すなという
千の風
24の瞳
風と共に

教師には
生徒こそ元気でさえ
あればうれし
千の風にても
生きて帰るも

戦後にて
24の瞳に
再会す
教師冥利
千風になりても

原爆に
会った広島の
城は見事
復元し今に
平和を伝えて

近くにあった
小学校の
門の残骸
無残かな原爆
ドームより

原爆が
20万人を
一瞬に
消して千の風
吹かせて今に

20万の
千風一瞬
様々に
同じく天へ
ユダヤにも吹け

1120mの
天上から
被爆した木は
人の心なく
千の風なしや

被爆の
樹木にありと
セミがいた
人の心知らずも
千の風にて

千の風が
南禅寺の
セミ運びしか
広島の城
被爆樹木に

近くにあるや
平安神宮と
南禅寺
千風なくば
遠くにあり

一万円札の
雌雄の鳳凰
風を司る神々
自由を持てば
千風吹かせられる

自由は
平等院の
心にて
皆平等に
自由にならん

宇治にて
茶をのみ
茶畑に
千利休の
千の風聞く

平等は
自由のこと
自由故
平等なり
平等院に力あり

宇治川に
紫式部
像になり
故光源氏が
千の風伝え

四国には
建礼門院の
墓と寺
ありて今に
源平の千の風

ベトナム戦争の時の墓に、息子のためか写真が飾られていた2007年12月12日。19歳と書いてある。

Vietnam Casualties Pictures Memorial Day 1969-

... 18,

PFC David A. Hargens, 19.

LCPL Matthew J. Baurle, 20,

PFC John L. Rosemond, 21,

LCPL Richard F. ...

ベトナム戦争の死傷者CASUALTY.
19,20歳が多い。

無名の少年の名前がインターネットで今日本から検索できた。
私の母の弟で長崎の原爆でなくなった長崎医大の学生も
これくらいであっただろう。
この現実をオバマとクリントンの対決は東西冷戦後を
本当に解決できるであろうか。
一瞬で検索できた。日本でもこれくらいの配慮がほしい。

ベトナム戦争の死傷者CASUALTY.
19,20歳が多い。
独占禁止法にいう経済的自由についての討議

独占禁止法にいう経済的自由についての討議

夜明けのミュージアム一般参賀の後で、騎馬隊の馬の鼻をなでさせてくれた。旧枢密院。後ろは皇居警察。フランス人親子、その後男親も入れて撮影してやった。日本には天皇制が残ってよかった。憲法9条のおかげだ。千の風なき、唯物論による決定論では、日本は世界とはつながっていかない。かの自国には帝政がなくなって久しい。かってのことが断絶しているその悲しさや、同情に余りあるなり。ロシア人観光客 かの自国には帝政がなくなって久しい。かってのことが断絶しているその悲しさや、同情に余りあるなり。

トリフ、フォアグラがヒラメの上に。

以下の新体和歌は一日一首ですべてを記憶して、町中で言えるようにして永遠平和が世界中において勝てるようにしましょう。
行動予定カレンダー付:一日、一首記憶用メモ付
のカレンダー付行動予定手帳を発行します。

東西冷戦後のイデオロギーを超えての正しい選択は物と心のどちらの原因が確率的に多かったのかを事後的に吟味しながら、実務的に法と政治と行政は進むべきであるとすべてを言った。東西冷戦の違いを世界で私のみが乗り越えたのである。これは一つ一つを積み重ねながら、3歳から53年間も勉強を大器晩成で行ってきたからなし得たのである。だからもう東京都知事に当選したものとしての心を持って突き進むことにする。かつての共産主義国家であるソ連におけるように、ある人が貧しいから公的に給付をしてくれと言った場合に、その人の貧しい原因の確定において物と心のどちらに重点を置くのか。唯物論と唯心論とによる単線的決定論が通用しない時代になってからもう相当年経った東西冷戦後の現在、また福田時代の現代はどうなるのでしょうか。
経済が資産と所得の貯蓄された部分である資産と、所得の経済との合計であることが分かった今、資産の経済価値、資産の経済的解釈が今後の政治経済の中心課題になるのでしょう。
歴史は終わった。これから永遠への長い歴史の新しい始まりはこのホームページの中から見いだせるでしょう。

人間に神が与えたものは、自由に形成することのできる神に等しい部分と、それに反して固定された一億分の一の本能とである。本能には物欲と性の本能がある。これは生物学的な物理的な真実である。これからすべての理論は出発しなければならない。
これを元にしてある理論が東西冷戦後を反映しきれるであろうかは、東西冷戦後にはある人が結果として人生の最後に貧乏なときに、その原因が生れたときの貧乏さと、結婚が悪かったという性の問題との二つの有限なものによるものがどのくらいの割合によっているのか、事後的に決定すべきであって、事前による絶対的な決定論あるいは絶対的窮乏化仮説は間違っているということが主張されるかどうかによっているというべきである。これは家族の関係によってどのような性格になるのかも同様であって、結果としての性格がどのような理由によってそうなったのか、家族の関係が何%であったのか、貧乏であったからか(唯物論によれば物が100%)、性によってそうなったのか(性がすべてを決めるという論では100%)、それらをベイズの定理によって客観的に因果関係がどの程度のものであるのかについて、社会の状況に応じて決定していくべきである。

東西冷戦後の政治哲学は以上のようであるべきであるが、宗教的自由については更に次のように考えるべきである。

永遠の平和のためである。
.
自由というもの、無というものはすべての人に平等である。個人個人がキリストの自由に自らペルセで近づこうとする考え方と、家族的な愛をも重要であるとしてキリストの近づこうとするのか、仏教のように更に偶像崇拝も認めるのか、マホメットのように夫婦の愛の仲に隷属的なものを認めるのか、そのような違いから宗教戦争を起こすことは、宗教が自由な無を永遠のものにつまりゼロ分の一を無限大として認識していくよりどころであるという観点から大きく哲学していけば、今のすべての戦争はなくすことができる。イラク戦争もなくすことができる。自由とそれ故の平等、更に家族愛を認める、更に郷土愛、更に夫婦愛を認めていく、それを宗教的自由によって認めていく必要がある。

メリークリスマス、ハッピーニューイアー、その他の神道すべてを認めていくには、この宗教的自由に関する哲学が必要である。

マルクス主義と,アダムスミス主義との対立の解消も、宗教的対立から来る戦争も、ただ経済先決論からきた対立であって、経済や性にこだわっていては対立の解消は困難である。ただ差別と偏見を生むのみである。どちらの自由の主張もすべて自由のよってたつ基礎科学の上に科学的に成り立っていることが理解されれば、すべて解消ができるのである。これこそはイラク戦争の最初の出発点であった自由への忠誠であったのであり、それ故にこそ戦争の終結も自由への忠誠によって、すなわち同じ言葉によって、戦争の始まりと終わりが墓碑銘に刻まれるべきである。それは自由が違った意味において理解されたということを意味するのである。

  永遠平和は自由のこのような意味においてのみ達成されうる。
  戦後生まれのわれわれがなすべき戦いは、月光仮面の歌のみではなく、このような永遠平和への自由のための戦いなのであって、イラク戦争の時に、また9・11テロへの戦争の時に叫ばれた自由のための戦争、血で血を洗う戦争ではない。
  そのような意味で戦争を本当に哲学的にクリントンとオバマとわれわれの好きな雅子妃に期待しているのである。ただハーバードの状況を見るに、この哲学のように一生懸命に自由を研究した人間はいないようであり、今後の人類の将来を憂えるものである。

山口節生

ワシントンに平成19年12月8日から12日まで行ってきます。両者共に日本で一番有名な早稲田で圧力団体論の政治学者内田満、日大博士後期で宗教と政治論の政治学者有賀弘についた政治学者として政治学の研究のため及びホワイトハウスの隣のナショナルプレスクラブに10日に行くのでそのついでです。アメリカの経済と地理と不動産も知る為に多くの写真に撮ってきます。観光としてはスミソニアン博物館、国立自然史博物館、ホロコースト博物館、日本からのポトマックの桜などを予定。主に専門の政治学関係です。『フランス革命についての省察』(エドマンド・バーク)を読み感動した若き日を思い、トクビルが書いたアメリカの政治について内田満教授に習ったことが3年後の労作として私にも書けるまで見てこようと思う。

ホロコースト博物館とアーリントン墓地を国立で作っているアメリカのすごさには驚嘆するばかりであった。国会議事堂をみて日本との違いに驚いた。アメリカには日本の城がないのかと聞いたらウイリアムズバーグの邸宅以外にはないという。聞いた相手はノーフォークに住むバージニアの人であった。ホワイトハウスのクリスマスの飾り付けにはキリスト教国の思いを見た。カリフォルニアオレンジカウンティから来た60歳くらいの仲のよい夫婦はトルーマンとセオドア・ルーズベルトがパナマハットをしていたことを私が調べていたことに驚いたが、アメリカの人も知っていることに私も驚いた。
カリフォルニアでプロフェッサーと呼ばれたのに、ワシントンでも私に礼をする人に多く会ったのには驚いた。ユダヤ人風のアジア人に見えたのか。
心はアメリカ人だねと老夫婦の内の奥様の方がいった。何も答えなかった。アメリカでは金持ちに見えるらしい。
オバマとクリントンの対決は東西冷戦後を反映しきれるであろうか。それが世界の行く末として気になった。
アメリカという国は偉大だと思った。ベトナム戦死者の碑、第二次大戦のメモリアル、南北戦争の跡、リンカーンのメモリアル、国立自然史博物館、あのモアイ像、すべてなつかしくすばらしきアメリカであった。日本からのポトマックの桜の木も元気に育っていた。あんな自然で友好ができるならば、何千本贈ってもよい、本当の友好とはこのようなものだと思った。
老夫婦に「ルーテル教会がワシントンのあるのを発見して驚いたときに、ルーテルの奴隷意志はキリストの自由が本当の永遠の自由であったのだから、奴隷ではなく本当の自由だったのだろうね。」と聞いたときにアメリカの自由さに驚いた。 何千枚の写真を撮ってきたので、資産論と経済学の理論、政治論がトクビル以上のアメリカ論がかけた。 国会議事堂をみて、ここで世界の動きが決定されているのかと思い、また他のすべての官庁の写真を撮ってきたので、よいアメリカ論が書けた。

私は写真の中の芸術をギリシャ、ローマの芸術、日本の禅の心、中華街の体育中心の文字を文化の融合として見ている平和論から見ている政治学者である。 リンカーン、ホワイトハウスのクリスマスの飾り付け、ペンタゴンなど。すべての官庁の写真。AFL-CIOビル。

以下の写真はすべて私に著作権があります。最新の2007年12月8-12日の写真です。但し中国武漢やローマ、ギリシャ、バルセロナ、アイルランド、ベルリン、イギリス、フランス、ストックホルムなどは2006年の写真です。飛行機からの写真は資産を上から見るという効果を持っています。いわゆる昔の経済地理学の分野に属します。あと1万枚程の写真があります。出版します。
アーリントン墓地

ホロコースト博物館 この悪行を繰りかえさないためにと書いている、私のテーマだ その答えはこの論文で示している。ベイズ統計からも正しいであろう。ホロコーストが本当に社会全体の意志としてなされた場合には許されるのか。許されない。それは次のような理由による。これが法の上にある法の概念である。
ベイズの定理による傾向とは各人の性格があった場合に、その原因は兄弟構成とか、両親の教育や兄弟構成による性格とかによるものとか、社会における貧乏さや、性のみと考える傾向やらによって決まっているであろう。原因となっている理由は様々であるはずである。その原因が事後的な結果に与えている確率はベイズの定理において社会的な確率として決定されるであろう。ホロコーストをしようという事後的な結果の原因がベイズの定理による確率によるのならば、そこで決められる原因においてホロコーストに到らないように努力した人がいるはずである。社会的な傾向が傾向的に50%以上の傾向でホロコーストをしようとする傾向を持っている社会において、そうしないように努力した人は報われないことになってしまう。多数決が絶対であるという人はこの正義への努力を認めないであろう。国がホロコーストをしようと決定したからといって、自由にホロコーストをしないように努力した正義が認められないならばラートブルッフのいう人道上の罪さえも認めないという結論に達してしまう。これが悪法は法ではないという結論を導く統計学的な方法である。ベイズの定理はそのような意味において未必の故意のような、ホロコーストを防止しようという努力をしないことを、つまり多数決にあらがうことをしないことを認めないミルの多数の横暴の理論の一つの心理学的な理由付けとなりうるのである。事後的な結果からみて、ホロコーストにいたるような経済的な、性的な環境にあった人でも到らないように努力する努力を認めて、そのような環境にあったとしても、たとえホロコーストにいたりそうな環境にあってもホロコーストを防止しようという意志によってホロコーストに到らなかった、性的な、あるいは、経済先決的な、経済先決とは勝田教授の命名であり、ここに先という漢字がはいっているところが哲学的にベイズ的であるが、動きから正義の観念によって逃れようとしたその努力に報いるということである。

例えば兄弟構成的には多人数の中で貧しくて育ったので、傾向的にはホロコーストを奨励する確率が高かったという統計的傾向にあった人でも、苦労して自由と正義を守らなくてはならないと考えた故に、物的先決論や、性欲が社会を決定しているという論理に到らずに、おそらくヒットラーの自民族の性的優位論は物的先決論と、性欲先決論が性欲という一瞬において結合したものであろうというベイズ的な統計学が発達するに従ってベイズ統計的に数字的に分析されるであろうが、それでもホロコーストにはいたらなかったその努力を、その正義への努力を刑法犯における未必の故意があったとして認める。それは正義と自由とを結びつけるときに多数決との概念との連携において必要となるのである。

ベイズ的にある結果としてホロコーストになる傾向について論じよう。半分以上の傾向があるということは、傾向があるということである。傾向とは多数がそうなるということであり、決をとれば必ず多数決でホロコーストを起こすことになる。ある状況においては人間社会はホロコーストを起こす傾向にあるということが、事後から観ても、事前から傾向的に予測されたとしても、多数決をとるだけで必ずホロコーストを起こすことになろうか。それではホロコーストを奨励することになり、ホロコーストを防止しようという傾向については何ら論じていないことになる。傾向は政治学では多数決のことであり、傾向によって多数になる。多数は決定するが、それは事前的にホロコーストになる傾向があるということと、実際にホロコーストになるということの間に「自由な選択」が介在する場合には自由な選択の中にホロコーストにならないようにしようという法があれば実際にはホロコーストになる傾向があってもならない場合があり得る。多数はそうなろうとしても、多数から抜け出るものがいて少数となってしまい、ホロコーストになる傾向が否定される場合がある。これが法の上の法である。自然を打ち壊す人間の法であり、自然法である。ある人間や社会において、注意をすれば事後には、事前の予想を改善できる場合にはそのためにベイズの確率が利用できる。人間の自由は注意することによって痛みのあるものを避けることによって、確実な(ポジティブな)証拠によって注意を行うことができる。これはコントが言い出し、ミルが受け継いだ自由の根本原理としての功利主義である。政府は確実な証拠を提示することはできるが、実際に自由を行使して危険を避けるのは個人の自由である。
もし危険を痛みというものによってすべて代表させれば、感情も、感覚もすべて痛みによって危険を避けるという自由そのものと深く関係しており、自由とは痛みを避けるということである。これは哲学と心理学と社会学と政治経済学とのすべてを変えてしまうくらいの原理を述べていることになる。痛みのみはすべての人が感知できる共通の、危険を避けるものである。
認識心理学ではそのように表現した同じことが、行動心理学では痛みがあれば、フローチャートによってループしてそれを避けるようにするという回路を設けるということである。危険を回避する自由な回路を作るということである。
これをベイズならば事後には事前的傾向が是正されたと表現し、天の神の恩寵が人間にもたらされたというであろう。そう、「自由な選択」が人間に恩寵をもたらしたのである。その自由こそ神そのものである。
権威主義に関するカリフォルニア・バークレー校の政治経済的分析は心理学的、統計学的にもこのことを立証している。  

事後による結果から事前にありそうだ、なりそうだというライクリーフッドの傾向を修正できるというこのベイズの理論は、自由な選択が可能であるという人間の本性からした場合には、正しい統計学である。いたずらメールもそれによって判別できるとマイクロソフトなどは考えている。つまりいたずらメールも人間の自由な選択によるいたずらであるかぎりは、似通った傾向を持っているということである。ところがさいころで6の数字が出る確率は変わりようがない。これは伝統的な統計学によっていくことも可能である。人間の自由な選択によっている場合のみそれも倫理的な判断による、幸福の追求とか、同じことであるが危険の回避や、ホロコーストのような未必の故意があるような場合のみ、傾向は最初の事前的ライクリーフッド、傾向を修正できるという自由な選択によっているので、唯物論や、唯物論と唯セックス論とによる決定論では決定できないのである。つまり幸福とか、自由とかを唯物論と唯セックス論とによる決定論によって主張するのか、ホロコーストを唯物論と唯セックス論とによる決定論によって主張するような場合には兄弟構成においてその数が多かったというような成育環境とその結果ホロコーストを起こすことを主張することとの間のベイズ的な原因の割合の決定論が、反駁のために有効な論理的な役割を果たすのである。ヒットラーのホロコーストを奨励する演説に兄弟構成において多数の兄弟を持ったものが納得しやすいという傾向があったとしても、倫理的な歯止めによってそれが回避できるとすれば、ライクリーフッドの傾向は事前のものではなく、事後のものから推定する必要がある。
政治的言説が時に決定論に陥りやすい傾向があり、唯物論と唯セックス論とによる決定的な主張がなされて人々を恐怖に陥れるときがあるのである。経済先決的主張や、唯物論と唯セックス論とによる決定論になりやすいことを論駁するのにはそしてすべての政治や政治的言説をそのまな板の上にのせることは重要な倫理的視点の出発点になりうるのである。この点ではベイズの理論は倫理的であり、かつ実践倫理的である。したがっていたずらであるかぎりは人間の自由な選択によっているであろうから倫理的なものとの間でいたずらメールも判別できるようになるし、またホロコーストを防止しようという倫理学的政治的言説の出発点にもなりうるのである。ホロコーストを悪政であったといいうるかいなかはまさにこの出発点にたつのか、決定論にたつのかの違いによるのである。

日本からのポトマックの桜の木も元気に育っていた。ジェファーソン・記念館

司法省。公正取引委員会の写真もある。

リンカーン記念堂

ペンタゴン

ポトマックの桜の木からワシントン・モニュメントを望む。日本からのポトマックの桜の木も元気に育っていた。

ホワイトハウスのクリスマスの飾り付け

大統領のための教会

自由論で
ミルはいう
キリストは
政治に対して
と神のそをや


中国人の経済的才覚を示すのか中華街。ロンドンにもあった。

庶民の台所、スーパー、魚ではシャケなど

アメリカ国会議事堂の前の木に住むリス

ワシントンのカフェ

AFL-CIO

アメリカ国会議事堂の前の木に住むリス

USA国会

USA国会

空から見たデトロイト。シカゴ、サンフランシスコもほぼ同じ光景だった。

日本に続く悠久の長江の水に触れる 中国武漢にて。

長江にたわむれる少女、2006年、いいこを産んで育てていてくれているだろう。中国武漢にて。

第1次大戦の無名戦士の墓碑が据えられている、ナポレオンの命によって建てられた凱旋門の前にて

ヨーロッパの源流である古代ギリシャのパルテノン神殿と劇場跡にて

飛行機からみたスウェーデンの緑と水

この写真は日本では私のみが持つであろう。このような貴重な写真が多い。ストックホルムでは現在保守主義が復活しているそうだが、国会では民主教育を受けている生徒たちに出会った、笑顔で手を振ってくれた写真がある。無印良品の店舗の写真も撮ってきた。Demokrativerkstaden comes the visiting young people on a more active and concrete set even earlier to may to eat in the rules of the game for how decisions are taken in democratic order and what a Member of Parliament's political commissions mean, the Speaker of Parliament says. Each pupil gets a role card with information about sexes, age, yrkesbakgrund, geographic home town, batch property and hjartefragor in the policy and information about the batch programme.The visit on Demokrativerkstaden is prepared in the school with information and discussions. Before the playing can begin holds the tutor a short introduction about the parliament's work. Then, an exercise follows that with the aid of some filmsekvenser lets the students to take position to four questions or assertions about democracy.

ガウディの聖なる家族教会

古代ローマヨーロッパの源流。

古代ローマもギリシャ、キリスト教と並んでヨーロッパの源流であり、古代ローマのコロッセウムに涙した。

ロンドンのクリスマスを二階建バスから

列車で
若い女性に
ロンドン・ブリッジは
この駅かと聞き
同じ駅だからと

案内されて
タワー・ブリッジの
方がきれいと
ロンドン・ブリッジは
中世の跳ね橋でなしと

ロンドンで
二階建てバス
シティを通り
ロンドン子の
サラリーマン姿

シティにて
金融中心の
サラリーマンは
我が三菱時代
背広はイタリアからか

Temple of Zeus Olympios:The temple was surrounded by 104 Corinthian columns in total, only 13 of which survived the test of time. Unfortunately one of them fell and broke in tiny little pieces after a violent storm in 1852. The temple itself collapsed in the late Archaic period, possibly due to the great earthquakes in the 4th and the 5th century A.D. During the Middle Ages the locals used to melt the marbles of the sanctuary in the fire in order to prepare whitewash. In the last years of the Turkish domination, a monk went and set up his cell right on the epistyle. Its remains - still visible in the days of King Otto - were depicted in the gravures of many traveling artists.

一つ橋大の神
ローマの神メルクリウス(マーキュリー)が
商業を守護し
ギリシャではヘルメース(ヘルメス)で
ここから千の風にて平和にオリュンポス十二神

千の風
ギリシャに吹き
七福神が
オリュンポス山
十二神に変身

どちらでもよし
ハドリアヌス帝か
テーセウス神か
兵どもが夢の跡
千の風なら


Hadrian's Arch:The arch is crowned by a series of Corinthian columns and pilasters, with an Ionic architrave at the ends, and an entablature with a triangular pediment in the middle. There were two inscriptions carved on the architrave, one on each side. The one facing the Acropolis reads "This is Athens, the ancient city of Theseus" and the side facing the Olympieion reads "This is the city of Hadrian and not of Theseus". Apparently there was a new section added to the ancient city during the period of the Roman peace, often referred to as Hadrianopolis.

戦後生まれの平和学、その上戦前生まれの命令によらない平和学
私は戦後生まれである。戦後生まれで始めての首相になった安倍氏はただいいなりになっていただけである。今宮崎のセールスマンだけで通した戦後生まれが、戦前生まれの石原氏に日本は独立せよといわれても反論できない。それは三島由紀夫氏のように生き急ぐことが本当に正しいことかといえばよいのだ。私は我々戦後生まれが戦前生まれの戦争好きに負けることを政治学の中でよく知っている。私がラバウル戦歌を歌うのは平和のためである。
戦前生まれには戦争の体験の点では負ける。しかし我々戦後生まれは国を愛する心は戦前生まれが狂ってしまう以上に国を愛するといえばよいのだ。それが言えないようではいつまでも戦後は終わらないだろう。
我々が戦歌を歌いそれと同時に月光仮面を歌う。それでよいのだ。そこに国があり、平和はあるのだ。だから戦後生まれが戦前生まれのきつさから逃れたとき、そしてまた戦前生まれの産めよ増やせよの時代から普通の時代になったと理解したときに、産めよ増やせよの戦争の狂気から逃れることが出来るのだ。戦後生まれが戦前生まれの狂気を断罪できる日はいつになろうか。平和の歌を間違っているというならばどちらが間違っているのかと問え。我々は平和をレジスタンスとして唱えることは出来ない。戦後生まれのこれは平和な時代に平和を唱える建設的な唱導である。

自由とわがまま

この本をこれから書こう。
自由は恐怖ではない。自由は恐怖の感情によって受け取られるべきではない。
自由の女神が恐怖の内にとらえられれば、女神ではなくなってしまうからである。
自由からの逃走を書いたフロムと、自由を恐怖であると見たサルトルにおいても、自由はいかなる理由で自由からの逃走としてとらえられているかを見てみよう。
自由によってわがままをしすぎたと考えるようになった者の多くは自由によって恐怖を味わったと考えて、自由を否定することになる。自由が秩序を破壊するような、また危険を伴うものである場合があるのに、わがままな人が危険を回避する自由を持たないか、持つようにならないならば自由は恐怖と定義される場合がある。これはわがままな人は自由を失った理由を友人がないとか、頼る人がないとかその点のみに力点を置いて自由について語っているだけのわがままであるというしか表現のしようがない。これから問題が社会へと敷衍されることがあったら、自由とわがままが混同されることになる。
わがままな人は自由を失った経験から自由は恐怖の内にとらえられている。ある所有権の干渉されない範囲の中でそれを述べているのであってこの恐怖は所有権を否定しているのではないであろう。ところがこの恐怖が自由からの逃走の理由に使われたときには自由の積極性と消極性が全く反対の意味に使われることになり、所有権を否定しているのではないであろうのに、所有権を否定しているという結論に強引に導かれることがある。
20世紀の二人の自由論者のフロムとバーリンは積極性という言葉を全く逆の意味に使っている。フロムは自由の積極性という言葉をいい意味に、バーリンはそれを悪い意味にとっている。これは昔から日本であった自由についてのわがままと、自由との対立、おそらく西洋でもあったであろう対立についての根深い考え方に通ずる。
甘えという土居の理論も実はこの深い哲学的な対立が出発点である。

自由はわがままであっても、他人と衝突したときには和をもって尊ぶ心によって、他人との調和を求める心があれば危険であるとか恐怖であるというように定義しなくてもよいのである。自由からの逃走も起こり得ないのである。サルトルとか、フロムのような知識人が心すべきはここにある。甘えの概念ではこの自由論は全く別の所から始まる。
甘えの状態ではまずわがままを批判し、自由からの逃走もせずに、ただ自由がないところから議論が始まる。甘えることはよいことだ、自分は甘える方であり、他人は甘えさせてくれる方だ、甘えさせてくれなかったらすねるだけであるという自我のない立場から出発した議論を展開し始める。この点が問題である。

これからの議論は客觀的にどの程度のものが許されるのかという点から議論を始める。

政治的自由及び経済活動と経済的自由と宗教的自由について

政治的自由は最大限認められるべきである。

宗教的自由についても同様である。

政治的自由についてはミルがキリスト、ソクラテス等について述べ、積極的証拠としての毒を毒として認める自由について述べたその議論に尽きるであろう。そしてその一部分をバーリンが敷衍した議論に尽きるであろう。
それについてはミルに従う。
しかしハイエクや、フリードマンは経済が確実に成長することを見込んでの貨幣理論やらについてはまだ自由について議論する余地が残っている。偶然と神についての議論もである。奴隷意志論はキリストが生れて、世界において最も自由を恐怖であるとしないで、永遠の言葉としてとらえたその自由に近づこうとしている者であるとして、その意志に従おうというものであり、多くの識者が述べるように特に土居腱郎らが述べるように奴隷意志は自由をなくすということではない。

経済活動と経済的自由

政治的自由論はミルの自由論から始まる。だがそこには効用論という経済活動と経済的自由に関する萌芽が見られる。それが発展したのが経済的自由論である。
企業の経済活動は家計、政府の活動と共に重要である。
ワシントンのナショナルプレスクラブにおいて独占禁止法にいう経済的自由がどの様なものであるのかについてのシンポがあるので12月8日から12日まで行ってきます。

Future of Private Antitrust Enforcement
Date: December 10, 2007
Location: National Press Club, Holeman Lounge
Address: 529 14th St. NW, 13th Floor Washington, DC 20045

多くの人が自由に経済活動を行う機会を奪われている、これを回復していくこと、これが社会全体の第一の目的であろう。
SUPREME COURT OF THE UNITED STATESのBELL ATLANTIC CORP. ET AL. v. TWOMBLY ET AL.等の調査です。
人間が政府と企業と家計とに分かれて、経済活動を行い海彦山彦の時代から所有権を得ることによって交換活動を行ってきたことは認められるが、しかし自由な経済活動が自由からの逃走というものによって破壊されるということはどのような意味を持つのであろうか。等価交換の原理が壊れて、経済自体が壊されて、自由な経済活動を行う契機が否定されて景気に非常に大きな影響を与えている。そのような状態をいうのであろう。自由な経済活動という概念と契機あるいは機会という概念は自由という概念を考える上で重要であろう。

経済活動と経済的自由と宗教の世界

世界の平和とこのような自由論は政治学的にも、経済学的にも神の名において重要なものである。
自由な経済活動が確保されることが、国際政治経済学の根本であり、平和な世界は自由な神の世界はここから始めるべきであろう。

その前に政治的自由は更に重要である。

機会的自由は経済的自由の第一歩であり、次の自由は経済的生活権の問題が生ずる。
経済的生活権の概念は世界の憲法に共通する永遠のテーマである。人類普遍のテーマである。おそらく神が認めた権利である。それはわがままと自由との概念の対立を超えた、永遠の権利である。

ぞうさんは
童話にてこそ
千の風
世界に送る
ありさんと平和

大文字
一人と読めば
世界へと
千の風にて
原爆つなぐ

京都が
今も首都ならば
大文字守り
世界大戦
なかりしものを

大文字
世界を照らし
首都が今
京都なら二次
大戦なかりし

国会を
大文字が
照らしてさえ
いれば大戦は
もう無だ

東京は
千の風なし
大文字
無故にこそ
戦争好きか

東京の
山高野山
でなく高
尾山でありも
千の風なら世界へ

フーバーダム
を思い出す
四国山々
千の風が
世界へつなげ

四国は
ラスベガスほど
資産はない
けれど八八カ所
千の風勝る

四国から
京大文字
コロッセームへ
千の風のみ
永久の平和へ

一人が
大として
千の風
死して送れば
大戦なかりし

東京を
京都のように
千の風
大文字送
れば大戦なし

ローマにて
コロッセームにも
アルプスに
大文字が
千の風送る

海外に
京の大文字
送る風
千の風外
あるはずもなし

京が16日
世界に誇る
大文字
千風送る
九六ばーさん

たまたまに
八月一六日
広島に
何故かポーランドの
友に会う

神が遣わし
広島に広島に
何故か
神のみぞ知る
千の世界で

戦災で
櫓を焼失し
松山城
なおも気丈に
千風護る

今治から
普通列車で
丹原へ
行く途中で
おばあさん昔話

丹原
どことたずぬれば
海岸で
アサリ採りしたと
76のオバーチャン答え

アサリ採る
海岸で戦時中
米軍が
空から掃射と
千風話し

この新体詩
書いてる我と
知らずに
笑いながら答える
おばあさん昔話平和

奈良・平安の
味酒(うまさけ)山の
酒郷に
今松山城
千の風吹かせ

湯の後に
道後温泉
本館二階
女性が涼む
味酒平和

温泉の
二階の広間
涼む観光客
韓国人多し
千風持ち帰れ

湯の後の
肌はほんのり
紅くなる
平和な時期
道後の湯かな

肌が紅く
韓国人も
同じにて
道後のみやげ
千風持ち帰る

勝山頂は
街から高さ
132m
松山城小さく
どこから登る

答えるは
工事の人か
要すケーブルカーと
昔のことは
千の風のみ

漱石が
子規が虚子が
写生にて
虹の色出せ
千風思い

道後本館の
俳句ポストに
入れ千風
15万石と
金沢比較

100万石の
金沢と比較
されては
かわいそうなり
子規千の風

世界遺産
法隆寺と
白鷺城
城と寺社
千風聞けるか

姫路には
白鷺多しか
知らぬは
佐賀の白鷺
みたのみの我

白鷺城から
今治の城
松山城
城の多さに
千風に驚く

驚きは
列車の速さ
にて起こる
子規の時代と
違い千風吹き

千の風が
四国山奥の
そうめん屋
多くの客を
GPSで案内し

白鷺は
佐賀の少年の
頃の白鷺か
白鷺城の姿
インターネットで

日本人
顔中国人より
モンゴル人的
美人観念も
違い千の風

虫である
南禅寺のセミは
世の財産も
なき千の風
無視せず禅にて

初夏になれば
南禅寺のセミ
四国に来て
鳴くのか千の
風に乗って

私自身の
生まれ変わりか
虫になり
ふるさとに
どこにもいるセミ

俳句書き
俳句ポストに
子規でさえ
繁盛してる
ソーメン屋を写生

子規は
戦争に従軍し
15万石
城と書くかな
社会科の本

ふるさとは
遠きにありて
思いても
古き子供の
千の風聞く

ふるさとの
土が四国の
土ならば
100年後も
千の風伝え

上野にて
東北ふるさと
なまり聞く
啄木似の姿
見た気がし

ふるさとの
土は永久に
変わらぬ
こそ日本韓国
土地信仰か

小豆島
オリーブの実が
みちなりに
イタリアの道
思い出し聞く

カリブの名の
喫茶民宿を
ふるさとで
開業し井口
港に千風カリブに

武漢にて
かつて見た
長江のほとり
揚子江飯店
千の風呼び

24の瞳の
子供を教えし
坪井氏の
心を推し量り
涙ぐみ千風故

坪井氏は
小豆島には
多い名
坪井醤油
屋あり千風

坊ちゃんの
教えた子供と
生徒とは
共に戦争で
従軍し重なり千の風

坊ちゃんの
頃の平和は
今と違い
戦争の武器
原爆も無し

江戸の皇居の
昭和館
手塚おさむの
戦時体験が
おさむしともに
アトム千風

原体験
戦争のみでなく
虫ならば
南禅寺のセミ
虫の千風

医者だった
手塚おさむの
戦争特集は
禅の道かな
虫の千風

千の風
虫の世界は
生物さ
原爆で死んだ
虫の禅心

京都駅
手塚ワールド
千風で
涙流した
後子供笑顔

四国の
お遍路さんは
松山にて
特急に
のりて行く

小豆島の
島国の
お遍路さんは
少なし故に
48カ所巡りか

オリーブの
実の酢漬け
買ってきて
イタリア
ピクルス似

千の風
伯方にて
中学生が
海に向かって
一日魚取り

高校生か
伯方の海街は
田舎と
都会への夢
千の風

伯方の
インター近く
民宿のおばあちゃん
東京に娘有り
千の風

伯方島
一二qを
歩き山越え
お遍路さんの
苦労を千風知る

因島
大橋できて
フェリーにて
わたらず消える
千風人心

7月の
祇園の祭りに
いきてみたしと
京の鑑定評価を
求めてる

宮島や
平家の建てし
四国へと
お遍路さんを
導き白い風

宮島の
世界遺産は
神道の
シュラインとして
千風呼ぶため

神道の
シュラインが
スウェーデンから
来た学生を
導きユースに

スウェーデンから
来た学生と
話をし
君は将来
大物になると

2カ月の
旅行中の
スウェーデンから
来た学生が
千の風運び

フェリーにて
宮島口から
乗りて会う
スウェーデンの
学生に千風伝え

スウェーデン
は良かったといい
昔の旅行の
話をするは
57歳の人

原爆に
会った広島の
城は見事
復元し今に
平和を伝えて

近くにあった
小学校の
門の残骸
無残かな原爆
ドームより

GPS
トンネル内も
宇宙から
千の風が見てる
お遍路さんを

GPS
余りの精度
良さに
驚き千の風
と勘違い

GPS
千の風かな
宇宙から
平和になれと
見てるのかな

GPS
宇宙から来た
電波を
千風と感じ
平和もたらす

イタリアを
南国土佐の
あたたかさで
思いだしてや
千風つなげ

がばいいい
おばあちゃん宿
貸してくれ
夜の伊方に
原発平和

伊方にて
原発光
こうこうと
広島原爆の
光と見間違い

原爆が
千の風にて
広島から
伊方に導き
今とわ平和

伊方原発
広島原爆
似ていても
全く違う
千の風にて

仏様の
姿見に来て
88ヶ所を
回り感じる
平和千風

四国物語
何かなと
見てみても
千の風にし
まされるはなし

GPSが
お遍路さんを
天から見
千の風にて
実は尼僧が

歩く尼僧
お遍路さんに
千の風
吹かせて涼し
平和導き

GPSが
文明の利器
母心
表し得れば
平和と安全

GPS1m
まで空からは
見ていても
千の風なきは
心ほそし

GPSが
不安を消す
御力は
危険を避ける
千の風にて

危険は
なくても不安がる
フロイトの
心を分析し
千の風にて

危険こそ
避ける力は
ミルの言う
自由にて一人
立ちにて歩ける

危険こそ
なくして一人
立ち歩ける
力こそペシミストへの
オプチミストの反論

GPSが
大量に生産され
安くなれ
交通戦争も
千風にて

道すがら
交通戦争にて
なくなりし
人の地蔵が
仏の地蔵に

仏の
地蔵の写真と
交通戦争
の地蔵が
重なり千風

痛さを
避ける自由こそ
仏キリストカントの自由で
戦争否定の
千風なると

芭蕉の句
碑が高野山
1668年
父母を恋うる
雉子(きじ)千の声

雉子の声
千の声にし
聞こえるは
東西文明
同じ性質

騎馬戦が
スポーツとなり
カタルシス
関が原駅で
古戦場跡

関が原
戦死した武士
忠臣は
千の風吹き
平和な夢に

駅は今
関が原
ここで戦い
決し千風
JR駅となり

岡崎の
家康のつら
がまえ見て
武士の千風
吹いている聞く

家康の
つらがまえ見て
平和顔
千風三河
から日光にも

ロシア人
相田みつおの
書をみて
何感じ千
風を持っていくか

有楽町
ロシア人がいて
オロナミンc
飲み何感じ
千風持ってく

千の風が
つなげるのは
ロシアでも
風は空気の
渡り鳥にして

千の風が
読み継がれて
渡り鳥
世界に移動
平和の鳩か

東海道
53次の海
広きかな
太平洋を
千風が吹き

高野山
秀吉信長
仲良く
眠り千風
騎馬戦忘れ

空海が
秀吉信長
の上にし
千風平和
吹かせ続け

一橋
兼松講堂
企業から
献じられ千
の風ならよし

講堂前
池水飲みし
あの味は
一橋祭の
千風思い出

御堂筋
旧三商大
ゼミ執行部
真夜中大声
フレーのエール千風

千の風で
なかったか
真夜中に
今大阪の
太閤通り

ビジネスの
中心地の
道頓堀
銀行員が
千風挨拶

千風を
船場の町で
いとはんが
売るは平和な
あきんど故だ

あきんどは
平和と千風
売る故に
大阪のエレベーター
東京と反対に並ぶ

大阪は
エレベーターで
急ぎは左
東京と反対
千風商売故

函館駅
かに水槽で
威勢よく
北海のロシア
から千風言い

五稜郭
千の風吹き
香港ピーク
函館の夜景
とをつなぎ平和

五稜郭で
没した人の
千の風
思い教育大に
古き校舎跡

五稜郭にも
唐津の松にも
魔よけの
千風吹き
永遠平和

長澤氏の
論文見つけ
貯蓄投資の
均衡が経済の
エンジン千風

貯蓄は
フローで投資は
平和にストック
残すか今か
千風尋ね

貯蓄投資
不均衡は
銀行が
働ききれず
デフレ乗数

日本経済
エンジンが
こわれても
中国でなおせば
なおるかも

経済の
エンジンは資産
に吹くかな
平和に千の風
がなおすのみ

エンジンが
資産デフレで
壊れたと
書いたら財務省
書くと暗殺すと

軍債を
何がなんでも
発行したし
弁済後世人
千風にてする

借りすぎは
いけませんとは
財務省
いって自ら
借りすぎ千風

二世には
自負がありても
過去は父母故
偏見持て
千風にてのみ平和へ

二世には
資産と同じく
千の風
吹きてのみ
とわ平和来る

偏見は
自負が原因
にてあるは
古きより千
の風のみ知るや

暗殺を
されても資産
デフレ乗数と
書き続けよ
永遠平和へ

資産デフレ
克服してこそ
乗数から
永久平和の
経済学へと

世界が
永久の平和へ
千の風
吹かせなくては
経済学なし

中国で
作ったとしても
人民が
喜ぶのみで 
千の風吹く

唯物の
中国でも
ベイズ動き
千の風吹かせ
工場人人人

ラーメンが
大好きな
中国人が
今後どうなる
千の風知る

従って

夏草や兵どもが夢の跡

夏草が生い茂っている平泉、その夏草の中から、戦死した武士が夢を物語っている声が聞こえてくる。武士の残した夢はどのようであっただろうか。家族であったのか、結婚であったのか、将来の旅行の夢であったのか。義経の夢の跡でもあっただろう。

I have heard the dreams and hopes of the dead Japanese Samurai-s from the summer grasses which have been growing luxuriantly here .

I have heard the dream of the Busi-es including Minamoto Yositune from the summer grasses which have been growing here Hiraizumi.

山口節生 訳

The summer grass-It is all that's left of ancient warriors dreams

新渡戸稲造(にとべいなぞう)英訳

元禄2年(1689年)5月12日(新暦6月28日)、芭蕉と曽良は一関に到着。翌日平泉に行った。

 国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や兵どもが夢の跡I have heard the dreams and hopes of the dead Japanese Samurai-s from the summer grasses which have been growing here . 山口節生 訳

エスペルセンの提唱ですが、ネクサスの考え方からすれば

Around the summer grasses growing
At the old castle I can feel
Dead many Japanese Samurai's dreams

Around the summer grasses growing
At the old castle ( I can feel)
Dead many Japanese Samurai's dreams

 The summer grasses (growing)
On the old castle (there are)
Dead many Japanese Samurai's dreams
の訳となるでしょう。

芭蕉が源義経らの武士の千の風を感じたという俳句である。日本の俳句で江戸時代の作品である。俳句は欧米人には特に不思議に感じられる文学である。もっとも重要と考える部分のみを575の字数で表し、風景を描写するもので写生的な現実主義を採用している。単語数としてはほぼ10単語からなり、重要な単語は4単語くらいである。季語の単語は必ず入れるところが短歌とは違っている。この句では日本の四季の6月、夏草が生い茂りluxuriant 【形-1】 青々{あおあお}と茂り、繁茂{はんも}し続けていた季節であった。夏草がこの俳句の季語である。兵どもとはここで亡くなった武士たちである。夢は千の風が語ったものであるが、内容は明らかにされずぼかされている。跡とは源義経とその警護の武士たちが最期を遂げた屋敷跡であろう。これが場所を表している。涙(泪)を目に流した芭蕉は涙が涸れた後明るくなって、立ち去るときに戦没者の千の風を感じて「もう涙を流し泣かないでくれと夏草の中から兵(強者)どもが夢を語っている」と詠んだのだ。夏草に吹く風に千の風を感じ、夢と詠んだのである。夢とは千の風が語ったところの希望であり、亡き源義経が戦没後永久平和について語っている未来の夢である。源義経の悲劇的な最期の跡において永久平和への願いを聞き、平和を感じたのである。芭蕉は夏草の上に千の風が吹いているのを源義経の夢と詠じたのである。泪と夢の対比こそ、この俳句の主題である。そして場所と季語が加えられて日本人は今となっても俳句を味わうことができる。ある意味では仏教(禅)的な世界である。この俳句には源義経の夢がその死とともに今にまでも日本いや世界にも向けられている、世界の人々にもわかってもらってしかるべきであるという芭蕉の意図が含まれている。それこそ戦没者のとわ平和への夢であった。
Bashou had heard the dreams of the Busi-s including Minamoto Yositune from the summer grasses which had been growing there Hiraizumi where the last Japanese  Samurai Minamoto Yositune against Minamoto Yoritomo the first founder of Japanese Samurai Governmet, so the first Shougun in Japan died.

これからは本を原稿用紙に書くことのみに専念する。

資産は
絶対所有権
評価下落
同じ絶対で戦争の
原因千の風

資産価値
下がるは中国が
安い給与
40分の1で
造るから戦争

千風言う
フローとストック
統一の
経済学出来
戦争無しと

フローにて
安い製品
PLに計上
故資産安く
なり戦争へ

資産と
フローの経済
学問に
なればノーベル
賞メニュー

某教授
資産所得の
経済学
あるならノーベル
賞二つあげると言い

某教授
資産所得の
経済学
あるならと言い
出来てるよと答え

千葉県の
チューリップ
赤く咲き
オランダのそと同じ
千の風で連絡

千葉でも
チューリップ
出来るなら
オランダの土地
高く無しバブル

オランダしか
チューリップ
できねば
チューリップ
バブルで夢中

宗教の
新旧戦
資産のプライド
偏見となり
千の風戦争

千の風
日本の土地
戦没後
変わりなしとす
シンガポールと

千の風
日本の土地
戦争後
見れば中国と
変わりなしとす

チューリップ
オランダでなく
ともつくれると
分かったら
バブル崩壊

日本のみの
地面がよかった
利益を配分し
バブルとなり
資産にプライド

エンパイア
ステートビルは
米資産に
プライドあり
バブル高層に

バブルとは
地面に利益
配分す
地面は戦後
プライド消し

日本戦後
焼け野が原
更地に
国民の価値 
苦難の末に

第二位の
産業国家
日独伊
アメリカに攻めて
千の風吹く

第三位の
中韓が今
日本に攻めて
来ないよう
千の風求む

日本で
なくとも中国で
自動車が
作れるならば
バブル崩壊

戦争は
バブル崩壊
後に起こる
為替問題で
平和必要

資産価値
資産税を
差し引き利益
還元利回りで
還元し

ケインズが
収益の現在
価値を
考えている
宇沢弘文の本

資産は
割引現在価値
還元利回り
後進先進国違い
戦争起こり

資産デフレ
デフレ乗数に
耐えきれず
世界大戦
起こすな千風

資産の
経済学は
あまりにも
ぎょっとする故
千風に聞く

人さえも
資産は人を
暗殺す
唯物論に
ならず平和を

資産は物
でも唯物論
にならず
物に千の風
吹き平和に

事実かな
集団安保も
日米の
資産にこそ
千の風吹け

ペンにての
資産の指摘
強きこと
暗殺同様
だが千の嵐

ペンにての
資産の指摘
だけならば
経済学も
千風なくす

戦に行く
資産と所得の
経済学も
平和の政治学
伴わずなら

千の嵐
吹かせ続けよ
政治学
資産の指摘
すると同時に

片手落ち
資産の指摘
だけではと
千の風言い
平和学要と

千の嵐
資産の指摘
得て突如
吹き荒れてこそ
平和来るらし

とわ平和
資産の指摘
得らずんば
千の嵐も
吹かず吹き飛ぶ

資産とは
資本と違い
マルクスが
考え及ばず
ソ連が滅ぶ

資本は
利益を得て
増えていく
論理的には
平和な千風

資産が
人に利益も
与えず
こもりたるとき
戦争起こる

資本は他の
人の役に立ち
コンビニに
世界に千風
セブンイレブン

資産はや
絶対で人に
役立たずとも
絶対で戦争
原因千風言う

資産は
戦争に似て
時に人を
暗殺す
千風要す

千の嵐
ふきて後の
資産なら
偶像崇拝も
平和を呼ぶや

千風要す
建物故に
戦没者の
千風吹かせ
アーリントン墓

靖国も
資産なる故
アーリントンも
資産なる故
千の風要し

千の風
ふきたる後の
資産なら
資産と所得の
経済学も千風

靖国の
多大の資産も
千の風
吹きてのみ世界
遺産の価値に

東京の
靖国の地価
高くとも
千の風なし
なら平和なし

資産価値
これは大きい
問題故
答えは天の
千風に聞け

戦没者
のみが答える
資産価値
平和へ導く
千風禅風

禅の道
にても答えは
出ない故
偶像崇拝
イエスかノーか

BSのロス
PLロスになり
突然に
驚くは人
千風驚かず

チューリップが
資産価値あり
そんなもの
千葉にもあるよ
千風墓から

資産価値
千風のみが
知っており
世界の資産
空の上で見て

天から
空の上から
見て資産
本当の価値
千風のみ言える

資産は
物言わず静か
偶像の
様であっても
千風価値付与

娘の
水晶もどき
こそ娘
千の風歌い
高い価値とす

資産の
戦争起こら
ぬよう言うは
ただ千風のみ
平和を願い

平和とは
唯物唯心
論をはなれ
イデオロギーを
超えての正しさ

唯物
唯心論を越え
ベイズ牧師
祝福を得る
チャンスを語る

ベイズ牧師
今事実から
過去の
確率導き
更に未来へ

資産価値
未来の予測
ベイズ牧師
未来の予測
不確かという

ベイズ牧師
事後確率で
修正し
正しく資産
価値を出すらん

偶像は
資産価値あり
資産価値
ないのに千の風
のみを敬う

迷いに迷う
資産と所得の
経済学は
平和論の
最初のごとく

その迷い
解くは禅寺の
セミ出でて
座禅する我
をしっだする

一橋
高橋長太郎/泰蔵の後継の
長澤惟恭教授言う
常にPLと
BSはつながっていると

全経済
分かろうと思えば
PLとBS
連結すれば
簡単さと長沢教授言う

経済学
そこまで行かぬ
理由は
資産価値の
難しさ故

長沢教授言う
全経済は
一体で
PLとBS
連結されてると

長沢教授
PLとBS
一体で
把握するなら
何故に経済学のみPL

PLのみの
経済学は
片手落ち
甚だしノーベルは
知っている

全経済
資産を集計
すれば
簡単に出来る
新経済学

資本は国
の富にて
アダムスミス
気がつきて
マルクス引き継ぐ

資本では
分からぬ事が
多すぎて
共産党が
マルクス離れ

資産こそ
冷戦終わり
PLとBS
鍵でつなぐ
利回りにて

利回りは
割り算にして
足し算の
普通ビジネス
理解せずかな

還元は
利回りにてや
行われ
一挙に資本と
資産の価値決め

中国が
高い賃金
払うなら
日本資産価値
上がる千風

一時的
中国が資産
上げても
追いつかず中国の
国民の生活

中国で
朝はラーメン
食べてのみ
生きている庶民
突然に日本に来る

生活が
政治の基本
忘れては
PLとBSの
違いは解けず

簡単に
PLとBS
解くには
全経済
連結すればよし

中国と
インドは第三位
ガンジーの
非武力非暴力で
産業革命

世界中
インド人商売
するものを
あっぱれと数学の
魔術に千風

インドも
中国も人
多くても
教育にて
千の風聞く

ガンジーの
意見が長く
インドにて
続きいたるは
とわ平和の風

平和論
カントで解けた
ごとくに
資産所得論
カントで解けた

平和とは
予算の範囲で
博愛で
自由平等
確保す千風が

出し忘れ
博士後期へ
論文を
心にはいつも
ノーベル賞二つ

いざ書かん
博士論文
だが平和
どこに禅にやと
尼僧に尋ねたし

ノーベル賞
博士論文
並にては
もらえず自由
の理を主題に

冷戦後
バーリンの自由を
越えて書く
誰も書けずの
自由の歴史

バーリンは
東西対立を
ポジ自由
ネガ自由の
対立と見た

東側
ポジ自由は
干渉し
すぎネガ自由
西にて反発

東西対立
解くは新たな
自由にて
それが自由の
7原則か

自由は
危険を避ける
ルートにて
様々に人
作り上げうる

危険は
毒や地震にて
ポジティブな
証拠にてある
とコント言うらし

自由の理の
ミルはコントの
ポジ証拠で
自由は毒を
注意すること

注意の
多様な方法
が自由なり
とミル自由の
理千風吹く

とわ平和
もしカントのや
なかりせば
ミルの自由も
干渉排除のみ

千風なき
干渉排除
のみならば
自由も意味の
ないものになる

冷戦後
自由の定義
ようやくや
できてノーベル
天から千風


ノーベルの
千の風が
世界へと
つながるために
ネットが自由となる

二人のみの
糸電話
中心が
ネットで皆とつながり
千風世界へと

世界中
65億人は11桁
番号で
一人一人に
ネットでつながる

平和こそ
ネットでつながり
とわ平和
千の風こそ
世界へつながれ

核軍拡
核爆弾
持つものは
必ずカントに
禅にて弟子入れ

先進と
後進国の
軍攻防が
世界大戦
今後平和に

以上、番外短歌集
チューリップと資産価値

たたみの香
正座するわれ
人の心
知らずして鳴く
南禅寺

セミ

I doing Zazen in the fragrance of Tatami
hear many buzzing of cicadas
but cicadas in Nan zen temple
cannot understand the inner man.

千の風
南禅寺の
セミに吹き
荒れに荒れにし
後に静寂

A thousand winds

have wuthered one day

to cicadas in Nan zen temple

and it is now in solemn,

noble silence.

千の風
吹き荒れて
静かな
嵐に軍拡(核も含む)(改憲)
への怒りかな

千の風
嵐で涙
流し過ぎ
過ぎにし故
流すなと言う

千の風
涙流すな
大声で
泣くなというは
嵐後故

嵐過ぎ
涙だけは
流すなと
千風歌い
短歌で歌う

慰むる
千の風涙
流すなと
平和へ向かい
涙なき故か

千の風
千の星また
千の光
となり慰め
涙流すなと言う

とわ平和
から一時の
休戦へ
これでは千の
風があらしに

世界へは
一時でなく
とわ平和
の力は強く
千風が嵐に

一時の
休戦は次
の戦争
の準備とは
カントの言い分

一時から
とわへいたる道
憲法に
入れて国民
意思とす他(た)なし

世界のため
子供等のため
現実と
立ち向かい
勝たねばならぬ

千風要求す
子供等のため
ではなく
戦没者
私等のためと

涙して
千の風言う
歴史のため
歴史に死んだ
私等のためと

歴史知り
出世するとは
千の風
知ることにして
暗殺ではない

事実として
世界史上
誰も自由を
書けず理由は
平和なし故

世界史上
自由を誰も
書いたこと
なしその理由
平和なし故

千の風
世界を動かし
その時
歴史は動く
とてつもなく

千の風
君の力が
ある時に
歴史を動かす
平和の爆弾

平和への
自由なしの
自由論
自由を書けず
自滅するのみ

世界史で
自由を書けず
悩みたる
哲学者は
平和を無視し

自由とは
フリーダム故に
こそ平和の
目標なく
なれば悪になりうる

自由とは
フリーダム故に
無故に
何もなし
平和概念なくば

悪への
自由を自由と
いえば
自由論なし
平和への自由あるのみ

世の中に
平和への自由
論なくば
世の中滅び
全滅戦へ

カント言う
全滅戦は
軍拡で
必ず来ると
平和への自由

自由論は
誰も書いた
ことなし也(や)
平和への自由
カントの自由

自由の
俯瞰図誰も
書けずきた
平和への自由
こそ真の自由

カント氏は
世界で初の
自由を得
平和への自由
真の自由で

哲学が
カントの平和
無視したは
そこに暗殺の
千風知らず

千の風
君こそのみは
世界では
暗殺無視し
自由論書かせる

書く自由
保証するは
千の風
君のみにてや
世界で唯一

自由とは
政治のことだ
自然法も
政治のことだ
平和への自由のみ

政治とは
三段論法で
自然法だ
平和への法なり
世界で唯一

暗殺は
平和を乱し
平和への
自由こわすため
長崎市長暗殺

政治こそ
暗殺のため
あるという
悪魔の仕業
どこにいるの

世の中は
そんなものさと
日本では
暗殺犯は
獄でうそぶく

暗殺は
それ以降
平和への
自由殺して
政治を殺す

新宿の
牛込氏の城跡
江戸の路地
路地に建つ寺
風吹かす寺

牛込
柳町に住む
学生18で
心細きも
田舎に千風

下宿してた
家の跡探し
東京
中75のおばあさん
今は千の風

江戸は銀座
乾物問屋の
娘にて
老後牛込の
宿貸すおばあさん

学生は
神楽坂上り
贅沢は
ただ鮒忠で
平和な時代

牛込氏
かって赤坂を
護る城
ここに建てたか
城の千風

牛込に
鮒と鯉の墓
見つけたり
江戸には川が
千の風吹く

東京の
高価な土地に
寺神社多し
戦没の千
風の価値強し

千の風
マンションよりも
高価故
牛込に仏と
神多しなのか

東京の
庶民生活
神仏の
姿千の風
西洋から来

東京の
神仏に風
キリストが
三位一体と
千風でつなぐ

千の風
なくば新旧
キリストも
神仏もたたかい
没し平和無し

学生が
ビリヤードす
飯田橋
江戸城外濠
千風吹いてる

濠の水
市ヶ谷の釣り
出来るほど
きれいになりて
桜千の風

飯田橋
再開発で
外濠は
埋めて小川に
江戸の千風

嵐後の
故の静寂
その落差
戦没者知る
千の風故

千の風
大嵐となり
南禅寺のセミ
に吹き今
静か心と物

千の風
千の嵐に
なりてこそ
辺りも人も
急に静寂

神仏が
嵐の寺と
教会で
千の風聞き
今は平穏

神仏の
形有る無し
問わずとも
千の嵐聞き
神仏となる

鎌倉の
嵐が山に
円覚寺
禅寺のセミ
千の声言う

戦没の
義経を今
祀るか
鎌倉の跡
千風吹く故

千の声
静かな平和
つくりだし
平穏な日の
生活豊か

千の風
軍債無くし
経済に
貢献し心
が物になる


千の風
物と心の
豊かさを
戦没後残す
遺産としてか
 

千風が
千の嵐と
なる怒り
平和を無視し
また戦没す

大嵐
台風の目が
大仏の
目となり
辺りみわたす

漢語では
千風と略す
千の風
音は旋風
文壇新風

千の風
中国でもや
千風か
文壇に新
鮮な風吹く

千の風
新体短歌
にて日本
によみがえりし
西洋から来

千の風
千風で四(よん)
約し57577
文には韻を
ふみ易きかな

ネクサスを
日本で短歌に
言い表し
風景のごとく
描ききるかな

日本では
俳句がありて
風景を
季語と共に
四季を表し

短歌にて
57577と
表せば
俳句と違い
川柳になる

短歌にて
日常のこと
表せば
政治をも
短歌表す

はたらけど
猶わがくらし
楽にならざり
啄木表し
千風吹きヌ

戦えど
戦えど猶
戦況は
楽にならざり
千風が頼り

戦場で
全滅まで
戦えば
苦しみ死ぬは
当然のこと

西洋に
ネクサスあるが
短歌なし
故欧米で
禅に見ゆるか

何故にとや
欧米人が
ネクサスで
問えば短歌で
禅と答えん

ネクサスで
訳し答えん
短歌にて
西洋人が
千風知るや

短歌など
短くてよし
ネクサスの
語の固まりを
詩にする伝統

日本だけ
ネクサスを詩と
するは短歌で
世間に千風
吹かすため有る

漢詩にて
からうた作り
平仄(ひょうそく)と
脚韻と5言
7言の千風

千風が
短歌のあじを
新鮮に
西洋に伝え
永久平和来る

世界にて
千の風吹き
永久平和
来ればカントが
墓場で喜ぶ

カントの墓
永久平和へと
書いてある
夢見て見たし
千風吹く墓

どこかには
カントの墓は
あるだろう
千風感じた
どこでもよし

飛行機に
乗ってドイツから
来たのかな
カントの千風
日本に吹きぬ

千の風
永久の平和へ
カント氏の
本が教える
墓場を越えて

千の風
漢詩に現る
はずもなし
漱石の詩に
風の字探し

寂聴と
静寂の寂
漢語にて
日本の侘(わび)と
寂(さび)千風聴く

禅的な
和の伝統美
千風が
侘(わび)と寂(さび)を
平和へ融合

千の風
日本の和を
平和へと
揚げるとすれば
マルクスの止揚

芭蕉の旅
の先々に
千の風
強者どもが
夢平和へと

戦場の
夢何をか
想ったのか
強者どもが
今は千風

スパルタは
千の風なく
芭蕉の句
千の風なく
ちと寂がなし

詫びと寂び
禅の道かな
正座する
我の心を
慰むるかな

日本の
古層からなら
伝統が
詫びと寂びなら
千風静聴

諦観や
あきらめず観ると
千風を
聞けたとは
仏の心

世捨て人
千風静か
声として
戦没者とや
話してるらし

栄華をや
極めて建てし
城の跡
諸行無常の
千の風聴く

無とは
なし故自由
フリーダム
無しの境地か
東西同じ

リバティーや
フリーダムと違い
解放で
自由になり
千風聞ける

フリーダムと
リバティーは源
違うが
千風聞くため
民族に共通

自由とは
人間に共に
必要な
千風聞ける
能力なり

寂聴が
世を捨ててでも
尼に也(や)なり
千風聞かずば
自由ならざる

自由と
千風つなぐ
戦没の
心を理解
永久の心に

寂聴=瀬戸内寂聴

長崎市長
永遠(とわ)平和都市
伊藤氏が
暗殺され死ぬ
政府の失敗封じか

この本に
高校生と
扱われ
妙に納得
右翼の千風

暗殺を
事件としてや
短歌集
さえも右翼は
暗殺したし

暗殺も
焚書もさせず
飼い馴らせ
高校生と
シェイクスピア

本当の
真理と理性
同じこと
高校生は
真理を述べて

右翼には
もう金などは
回らぬと
いくら言っても
不況で暗殺

当たり前
そんなことはと
右翼言う
山口二矢
見てみろと日本や

ケネディーと
キング牧師は
伊藤氏と
同じこととは
千風のみ言う

千風は
真理をいえる
暗殺を
されることなし
永久平和の風

真理をか
言えばや吹くや
千の風
かわいや右翼
従順な人

従順は
そでも真理に
遵うは
千風にてや
感じあたうか

英文学を
教員免許の
ためとったのみで
新体詩書く
千風にて

文学の
シェイクスピアが
書いた全文
翻訳されて
千風を知る

文学を
政治との距離
いかにした
シェイクスピアが
教えてくれる

古典たる
政治学の
君主論
超えたくもあり
新体詩書く

政治にぞ
飲み込まれてや
原稿に
向かいてみても
千の風聞く

政治をも
風刺できても
官憲が
来て暗殺を
そそのかすのか

新聞が
一丸となり
暗殺を
認めれば消える
千風の声

文学は
政治に卷かれ
戦争に
レジストするは
永久の平和か

原因は
経済のみと
戦争を
過小評価し
千風忘れ

原因を
経済にする
唯物論
戦争否定
するのかと問う

すべて物
ならば物さえ
盗られたと
戦争するあたう
千の風なし

墓場から
物盗られたと
反論し
戦争認め
千風無に

零戦で
特攻隊行く
勇ましき
心のみ唯心論
千風欠いて

零戦が
落ちるときには
痛すぎて
物をも思い
心捨て落ちる

どちらとも
言えぬ具合を
確率で
反省すれば
平和千風

戦争中
暗殺も有り
文学が
食うためにはと
千風忘れし

丸山氏
サリンと同じと
喝破して
墓場の影で
千風送る

政治学
文学と距離
おくべきで
ただ官憲は
千風忘れ

政治学も
シュミットはナチと
一緒になり
ユダヤ人の虐殺を
高貴とたたえ

文学も
進軍ラッパを
吹かされて
永久平和など
言えぬ時在り

政治学
文学と距離
いかにして
永久平和の
千風として

伊藤氏の
暗殺事件
文学と
政治学との
千風教えた

伊藤氏の
暗殺事件
なければ
千風を述べ
安心できる

日本では
暗殺事件
放置する
世間なる故
千風そよがず

女性ら
真理言えると
思いしが
沖縄の
女嘘を平然と

嘘をつき
当たり前とや
いう女
参議院にて
日本が滅ぶ

天皇を
救った安藤氏の
本が本屋の
隅におしやられ
千風荒れる

7割の
アメリカ人は
終戦直後
天皇廃止
千風荒れる

西部氏も
荒れた千風
今忘れ
右翼と共に
原爆投下主張か

右翼など
高校生と
同じくや
従順なのは
天の千風

現れよ
暗殺犯の
高校生の
時の先生よ
千風に乗り

暗殺犯の
高校時の
先生が
現れて暴露
たばこの非行

暗殺犯
その時のみ
すみません
という心は
千風忘れず

蛸と熊
争いついで
世の中を
明るくしてよ
千風にてや

西部氏が
あの西部氏が
原爆落とせと
書く理由そこ
まで貧乏に

西部氏=西部邁

貧乏は
こころのみのや
ありにけり
財布が違うなら
千風荒れる

丸山氏
サリン事件は
戦前の
日本人全員と
全く同じと


西部氏みて
積み重ねもなし
学問の
そは多くの人
千風なきは

死んでから
千風にならず
若い人の
徴兵制行く
西部氏いけよと

ケネディーや
キング牧師の
暗殺は
千風になり
今は平和へ

ボストンの
くだもの屋にて
禅道精進
のため買う
果物に千風

ボストンから
ニューヨークへの
食堂車
日本料理が
千風送る

三國志
武漢の長江
赤壁で
諸葛孔明は
天に風吹かさせる

赤壁で
諸葛孔明
天に向き
北西へ千風
呼び平和へ

赤壁の
戦いの時
千風は
長江の風
北西へ吹く

三國志
今に思えば
戦いは
千風として
神話が中華思想へ

ヨーロッパの
単語があったから
今EUが
あることの中
千風あるらん

ヨーロッパも
中華思想も
千風が
作った故平和の
詩の国になる

ヨーロッパも
中華思想も
アメリカも
千風あれば
永久の平和へ

中華の
思想でさえも
三國志
なくばありえぬ
そこそ千風

日本でも
神話は大切
戦争に結び
つけ雰囲気
壊す西部等

世界への
神話の仲間
入りしよう
東郷ら戦犯
なく千風ある故

アテネの
家々に描く
神話さえ
消せというのは
唯物論鼓舞

確率で
神話心と
貧乏故に
物どちらも
考慮す千風は

千風は
もう食べる必要
なし故に
唯物論鼓舞せず
唯心論鼓舞せず

西部氏等
もう死ぬからと
戦犯に
なってもセミ同様
命短しという

西部氏等
命長き
若者を
巻き込みたがり
千風いらず

唯物論
鼓舞し墓場から
物損したと
言い続け千風
平和をなくし

東西冷戦
後のみ千風
平和あり
唯心論のみは
物なかりける

軍拡に
走る余裕は
日本にや
あると思わず
国債多く

軍拡を
すれば世界へ
戦争を
しないと費用
出て千風なし

軍拡の
費用を個人に
回してみ
日本は千風
便利な国に

軍拡に
費用を回し
公園や
便利なもの
なし千風なし

中国の
唯物論で
なくともや
冷戦終わり
千風うれし

イラクでの
唯心論で
なくともや
冷戦終わり
千風感ず

冷戦を
物と心の
葛藤と
みて結果から
ベイズ確率解いた

受験で
解を出すベイズ
高校の
数学英語
教師に千風感

日本も
核爆弾を
競争し
持っても中国
米には勝たぬ

核爆弾を
持たずとも
自衛する
だけなら千風が
自衛するのみ

銃持たず
刀刈りにて
日本では
千風加え
天皇守る

威力は
核爆弾では
大きすぎ
諸葛孔明
時と違う千風

千風が
勝つとすれば
日本から
世界へと吹く
永久平和千風

千風よ
核爆弾の
時代でも
それ故にこそ
吹かずば右翼に

右翼の
拳銃の元
爆弾も
ノーベルの
ニトログリセリン

ノーベルの
才能はただ
ニトログリセリン
造るだけでなく
千風世界へと

千風よ
世界に及べ
核爆弾
世界で作る
時代は平和

平和への
千羽鶴の
願いこそ
世界へ千風
送るカントが

広島が
時代遅れと
いう右翼
右翼も時代に
遅れて可憐

広島が
核爆弾で
何千と
出来れば千風
吹くが間に合わず

突然に
死にたる親族を
千風だけで
慰めるあたわず
平和の願い

唯物論の
中国が核
爆弾持つ
均衡くずす
千風のみでは

冷戦後は
マルクスの性格を
分析しても
良しとす千の
風にてとわ平和

マルクスの
性格を分析し
中国に
移り永久平和
核爆弾廃棄を

すべての国
持てば戦争
したくなり
絶対戦争と
カント言う

均衡論は
ノーベルの
時代から
火薬爆弾論
千風論なし

千風こそ
重要というは
カントだけ
時代が違う
均衡論は

カントだけ
均衡論は
無視してる
との批判には
平和で答え

重要視
マッカーサーが
核爆弾
憲法9条は
核爆弾の産物か

天皇を
救ったのは
核爆弾
米国にも
負い目有り

米国では
カントを継いだ
ケルゼンが
禅を知らず
法の上の永遠法認めず

ケルゼンが
法の上の永遠法
認めていれば
イラク戦争
なかったか

カントこそ
法の上の永遠法
これを認め
ラートブルッフ
彼も認める

カントこそ
ヘッフェにつながる
禅的な
千風論と
法の上の永遠法

ヘッフェこそ
法の上の
永遠法
日本に届いた
カントを超え

千の風
法の上の永遠法
お墓から
平和と述べる
マルクスケルゼンが認めず

マルクスの
性格を知り
愕然と
冷戦後は
冷静に見る

天皇を
守るためこそ
安藤氏が
マッカーサーと
米世論に降伏

米国の
世論が天皇を
廃止せよ
とは知らず右翼
千風も知らず

今になり
均衡論は
天皇廃止
の米国世論
忘れ去りぬ

丸山氏
サリン事件の
精神は
戦時と同じ
唯物唯心論か

丸山氏
超国家とは
よく表現
超えたるは唯心
と唯物共に

超国家
唯物も唯一
唯心も
唯一で超えたるは
及ばざる

超国家は
国家でなくて
唯心と
唯物のあいのこ
極端原因

本質は
物と心の
人間は
二原因で
千風で動く

環境は
物と心を
気持ちよく
アメニティーとは
千風にてや

アメニティー
英語の響き
平和の音
千風肌に
感ずる気持ちか

洗剤宣伝で
ふっくらタオルを
肌に感じ
平和と千風を
感ずるテレビで

戦争と
平和の問いが
経済の
発展と同時と
説く猪口邦子

猪口を
たたえる有賀教授
ただ言うは
政治とは
唯物の歴史

原始での
共産主義が
資本主義に
また共産に
教授も黒板に

経済の
発展を憎み
唯物論
戦争と千風を
問題解けず

冷戦後
唯心と唯物
の極端を
超とし超
国家を乗り越えて

原爆投下
主張する西部
氏は人類の
共通の敵に
千風はそよぐ

戦争と
千風解けず
唯物論
唯心論と
千風なき戦い

戦争は
均衡論から
来ると
カントだけは
反論した

均衡論を
破りしは
一発の
原爆投下が
人類の全滅

西部氏等
唯心と唯物
どちらとも
決めかねて
結局唯物か

唯物に
陥ったとたん
人間は
戦争を肯定し
墓場から戦争

イラクでの
戦没者を
千風で
見れば同じか
ホロコーストのそ

日本にも
ホロコーストの
教育資料
新宿に有り
千風はふきぬ

千風は
ホロコーストの
犠牲者に
吹き続け永久
平和を現実に

均衡論
から戦争へ
ならば余った
予算は自由
と千の風へ

カントなら
均衡は軍債で
軍拡に
故に戦争せざる
をえずという

戦争を
物からみれば
唯物論
軍備で見て
軍拡論へ

唯物論
千風なきや
軍拡へ
予算がなくて
国が滅びぬ

国民の
あらゆる要求
満たすこと
出来ぬと国家は
自立を求め

唯すべて
物の奪い合い
とみれば
軍拡もせざるを
得ず予算なし

唯すべて
心で解ける
とみれば
軍拡もせざるを
得ず予算なし

予算なく
軍拡をする
ために軍債
国民の苦しみ
千風許さず

唯物の
目でマルクスも
見れば
マルクスの性格を
分析するあたう

唯心の
歴史観は
唯物排除
皇室も排除か
千の風なし

唯心の
歴史は古層
掘り起こし
唯物排除
千風消して

唯心と
唯物共に
歴史には
戦没者の
千の風なし

シスコの
大学で見た
ケルゼンの
オーストリアの
1920年憲法に千風

ケルゼンに
自由の概念
ありたるも
1920年では
ホロコーストなしか

ドイツでも
ラートブルッフも
ヘッフェも
ホロコースト後故に
千風あるや

千風なき
平和は予算が
莫大で
軍債多く
国庫ひからぶ

軍債の
カントの心配
平和呼び
千風が呼ぶ
人々の生活

満ち足らす
千の風聞く
生活が
平和の時期に
心と物を

芭蕉の句
最初に土地の
名前か物
来るはそに
感動したりしか

感動の
物か名詞を
先に書き
民の生活に
感動し芭蕉

感動を
先に名詞に
書きし後
芭蕉は日本
全国に千の風

全世界
回り千風
感じても
物と心の
複雑を書く

長江も
コロッセウムも
パルテノンも
千の風吹く
平和の今に

吹き荒れて
嵐が丘に
平和の後
千の風吹く
千の風聞く

千風を
聞ける能力を
持つことは
超国家をも
乗り越えるかも

静かにや
吹く千の風
聞けるほど
静寂な心に
こそは平和来る

禅こそは
現実と理想を
結びつけ
大拙世界に
飛び込んだ

永遠(とわ)の法は
永遠(とわ)博愛と
永遠の平和を
結ぶ禅的也(や)
世界に届け

デカルトの
方法論は
確かでない
未知数をxと
禅も同じか

禅的に
未知数xと
置くならば
現実からも
千の風吹く

禅世界
点と点の
平和を
結ぶは千風
千の線になり

禅の道
虫でも分かり
世界結び
千線は虫
にも千風吹く

シスコ大で
禅は神秘と
欧米で
いうは勝手でも
座禅する人

とわ平和
何をか思い
カント氏は
墓に永久平和
思い出したか

墓の千風
思い出した
カント氏は
とわ平和書く
論文机で

千の風
お墓の影から
カント氏に
戦没いやと
話しかけたか

戦没の
心を理解
カント氏は
いかなる経験で
千の風聞く

カント氏が
千風聞いた
理由はや
戦後の悲惨
ならラートブルッフか

戦後の
シスコ大学の
ケルゼンが
戦前と違い
自然法へか

シュミットと
戦後のケルゼン
千風聞かずか
ナチの迫害
受けシスコに来ても

永遠平和
戦後60年で
忘れたか
世界は平和と
天皇一体で認めた

隣保班を
自治会に直し
戦争を
再開するの
今の日本は

政治学
平和を無にし
マキャベリが
先導したは
真実か

本当の
千風聞ける
政治学
文学とともに
永久の平和へ

平和へと
向かってほしいと
千の風
吹き荒れてあと
心物静か

静かに
禅は瞑想す
セミ鳴くな
人の生まれ
変わりなら鳴け

瞑想に
セミの鳴き声
こころして
聞けば禅道
とわ平和きこえ

セミに人の
心はないが
禅なら
いおう平和と
千風聞きて

セミも同じ
心を持って
いるとはや
思い尋ねる
平和だよねと

セミに
戦争なし
人間の
戦争他愛(たわい)
なしなのになぜ

セミになく
人に原爆
あるはなぜ
セミに聞かれて
はたと迷惑

迷惑は
セミこそという
セミも死ぬ
原爆ではと
平和千風

南禅寺の
セミの音
聞きてより
人の心を
批判できたる

官僚の
創始に意義を
見いだすか
戦争のとき
手足になすため

戦没後
千の彼方に
飛んで行き
対立平和へ
導く力

青銅の
美男なるかは
別として
大仏はもし
義経の顏

大仏が
美男とは思えず
ただ千風を
感じて平和
念ずるのみ也(や)

義経を
美男なる故
頼朝が
戦起こしたる
なら千風無し

義経が
大仏ならば
その顏が
美男だとは
晶子のひがみ

晶子=与謝野晶子

平和への
象徴として
の大仏
そう源平
の千の風かな

大仏が
仏の心
現して
現世に姿
千の風吹く

大仏が
美男かどうか
別として
義経を今
千の風にす

いくたのや
千風吹きぬ
鎌倉に
諸行無常の
鐘円覚寺に

鎌倉が
今も首都なら
江戸城は
再建しても
首都でなしか

頼朝が
義経を重
んじてれば
鎌倉が今
首都としてある

武断政治
武器のみ残し
鎌倉は
今は首都でなし
スパルタに似て

美男とは
静御前の
ことにして
時代を超えて
千風伝え

義経を
奥州にて
頼朝が
討ちたる夢は
千風消した

異母弟を
消した頼朝
歴史上
多くの事例
千の風消し

大仏が
千風に耐え
たるは
義経の血の
千風故か

大仏が
美男かどうか
別として
反戦は義経の
血無くばなし

反戦は
美男かを超え
千風の
哲学でのみ
説かれうるかも

大仏の目
30年前に
見たその目
当時千風
感じていたら

生け花の
稽古の花は
千の風
鎌倉の仏
と同じかな


江ノ島の
海水浴の
女性たち
義経の千風
感じていたら

江ノ島の
船が太平洋
越えて
シスコにつなぐ
千風知らずや

黒船が
来たという地の
海辺では
シスコとストックホルムの
水が千風

戦争が
異母弟を消す
理由故
ならばつわものの
千風いずこに

特攻を
説明するのに
心が
立派とする本
見て小野田氏怒る

小野田氏は
特攻の心が
いやで森の中
支配層今
でも怒るかな

いやなもの
いやだという
小野田氏の
千風勇気
国民たたえ

国民は
たたえるものを
今いかる
支配層こそ
千風知らず

歴史が過去
なれば人皆
没した後
宗教と結果
残し千の風

歴史をただ
唯物論で
のみ解するは
ゆったりとした心
無視千風無し

全歴史
理解したとし
唯物史
観は過去から
未来風予測

全歴史
理解するには
史料が
不足し考古
千風発掘

歴史の
変化時物と
心の
葛藤は今
千風にて見よ

政治家の
最期を写す
千の風
彼の心は
物のみでなく

今ベイズの
コンピューターが
計算し
物と心の
歴史千風

冷戦後
文化と物が
融合す
千風深く
平和を願い

東西と
南北が
一つになれ
そこには平和
千風深く

歴史が
物と心で
動くその時
まさにどちらか
千風決す

何かを
動かそうとして
概念が
心と物を
動かし千風

概念が
時代を動かす
なたとなる
バーリンが言う
千の風から

平和は
物と心の
戦争後
千風がなだめ
とわ平和へ

自分は
遅く生まれて
分け前が
少なかったと
唯物史言う

唯物史
戦争を
墓まで
持って行くと
現世で脅し

現世で
脅す代わりに
千風を
聞けば時代を
開く千風

あの世でも
唯物史では
千の風
なし心には
千風で平和を

王国の
唯心論は
唯物史
では存在
せずに千風なし

古層の
天皇廃止を
訴えて唯
物史唱え
千の風なし

米国で
70%の人が
天皇制
廃止を叫び
し事今忘れ

天皇の
命を救う
ため古層
活かす千風
永久の平和へ

虫となり
コロッセウムで
死んだ人
遺棄されても
声が千風

政治学は
物と心の
道徳倫理
法則つくれず
マキャベリ批判

自由
平等博愛と
政治法則
作るも予算
なく千風なし

自由
平等を図る
のは予算
千風要す
平和の予算

予算のこと
政治法則
無視すれば
戦争をして
千の風吹く

歴史が
物か心か
決める時
千の風聞き
動くベイズは

予算こそ
冷戦後は
千風を
聴くイアホンを
買えるかどうか

平和にて
千風を聴く
予算とは
唯心のため
平和の心

所有権
無き人が
国の侵略で
多くの土地を
得るならば侵略

千風が
あれば所有権
無き人も
侵略地に
移るはずも無し

政治学が
侵略を
心から
否定できれば
千風平和へ

侵略を
すれば国民が
喜ぶとは
国を所有する
二世の癖か

ローマから
万里の長城か
ハドリアヌスの
長城が空から
見えし始皇帝か

千の風
万里の長城か
墓陵か
どちらから吹く
今永久の平和へ

考古学
墓陵を開き
千の風
聞かずに掘る
労働として

千の風
聞きながら堀り
全墓陵に
最期は永久
平和をカントか
千の風
マキャベリが日の
本歴史
とローマのそと
比べてみてよ

日の本は
海に囲まれ
歴史には
ローマと違い
千の風吹く

東欧で
チャウシスク多産
政策で
国崩壊後
泥棒になり

泥棒が
パトカー尻目
笑いながら
逃げる風景
面白し風

ローマ駅
チャウシスクの子
大人になり
ヨーグルト盗み
酒盛り逃げる

警察が
チャウシスクの子
逃げるのを
追いいたちごっこ
面白しかな

日本見て
チャウシスクの子
千の風
羨望でも日本
千風捨てたし

日本人
幸福知らず
盗難に
遭うチャウシスク
の子バカといい

窃盗の
技術最高
チャウシスク
の子は仕事無か
千風日本へ

ローマ駅
周りの建物
荘厳で
木の家平和
千風吹きて

ローマの
荘厳な家
古代から
千風送り
日本と違い

ローマの
水道の跡
事業は
困難だったかな
水飲み感ず

水道の
事業に千の
風感じ
ローマから日の
本に思いを

ローマの
支配者の像
水道に
治水の力
平和千風

平和示す
トレビの泉
指導力
治水の力
誇示か千風

黒船や
日本の海は
貿易を
ペリー軍でなく
千風護る

黒船が
米軍になり
国際の
千の風にて
永久の平和へ

円覚寺
座禅の畳み
その香は
南禅寺のセミ
感じ千の風

禅寺の
円覚寺の山
鐘が鳴り
人の心に
千風が吹く

鎌倉の
古き禅寺
五山に
セミが鳴き千
の風吹き荒れ

千の風
京と鎌倉の
両五山に
吹き荒れに荒れ
今永久平和

大仏の
仏の姿
さえも千
の風に変えて
今平和の法か

鎌倉で
新旧違い
キリストも
今はなしとす
千の風吹き

鎌倉が
首都となれると
千の風
吹き荒れて後
静かに言うか

生け花の
稽古の花は
七色の
虹に似て千
の風吹き平和

七色の
もし生け花が
千の風
吹かずばただの
死した花なり

死した花
戦没者皆
千の風
吹きてはじめて
今平和なり

軍拡は
冷戦時代の
産物で
千風なくば
軍債にて

武装こそ
ナチと右翼と
共通に
今原爆で
千の風なし

中曽根と
岸の回顧の
中心は
東大法の
ドイツプロシャ

プロシャの
固い部分は
東大の
腐った部分で
千の風なし

軍拡が
古き中曽根の
懐古主義
マキャベリが「昔は
良かった」
とはいうなとす

岸=岸信介
中曽根=中曽根康弘

命令され
平常心で
暗殺す
日本の右翼
新ナチ同じ

なぜ右翼
超国家とする
丸山氏
徂徠に学び
訓詁に傾斜

全体の
主義とす西洋
超国家と
丸山氏する
千風なし

全体の
主義とはつまり
超国家で
大恐慌後
千風なし政治

全体の
主義とは日本
全体の
雰囲気にて
千の風なし

イラクをも
含めたEUが
全体を
なすならば今
千の風吹く

線を引き
大恐慌後
経済の
ブロック戦へ
為替の戦争

経済が
戦争原因
確かにそ
恐慌が軍拡へ
千風を聞く

経済が
自由の法の
上にある
唯物論で
千風聞けず

経済が
大恐慌で
行き詰まり
政治が右翼
千風聞けず

ただ経済
物と心の
葛藤は物
そんな馬鹿な
千の風言う

カント言う
民は所有
できず自由
唯心論は
領土の中でも

物にのみ
圧倒されて
人が動く
唯物論は
千風聞けず

大恐慌
後ならば物
考えて
軍拡へ行く
唯物論ある

軍拡で
領土拡張
唯物論
確かに物が
増え心無し

心がなく
物を所有し
狂ったかの
様にイラクの
自爆テロ千風

特攻と
自爆テロとの
類似は
物と心の
千の風無し

予算なく
ばらまき都政
の公約
イーガリタリアニズム
よき公約か

公約は
政府予算の
範囲内
マニフェストは
軍拡にこそ

軍拡を
狂った様に
主張す
右翼プロシャ主義
千風より懐古

イラクにて
狂った様に
自爆する
そは同じこと
軍拡日本

日本が
自爆す必要
なきことは
9条に書き
憲法とした故

国民は
国家の三要素
政治家の
所有でなく
千の風言う

変わりなく
戦没後も
国民で
千の風にて
経験を吹かす

国民を
所有するとは
二世のみ
権利なくいい
総スカン食う

軍隊も
シビル抑制
日本では
全く効かず
今も昔も

二世が
シビル抑制
排除して
国民所有の
観念強し

軍隊で
爆弾投げる
は国民
シビル抑制
は永遠平和で

イラクにて
狂った様に
自爆テロ
信条同じ
日本の今は

日本が
イラクの自爆
テロに似た
爆弾投げる
より千の風

唯物論
唯心論を
越えた今
非暴力こそ
千の風言う

世界は
国民が軍を
持たず爆弾
投げることない
日本を祝福

秀吉が
刀刈りと
検地をし
日本元気に
千の風聞く

刀持つ
権利を所有
せずも
千風所有す
とわ平和へ

刀振り
かざすことなく
日本人
生きてきたけど
千風は聞く

刀持たず
米国にいき
抜く刀
なくても生きる
千の風にて

自爆テロ
出来ずに不満
刀なく
千の風聞き
世界に平和

平和こそ
ペンで世界に
千の風
伝えて力
刀よりある

日本人
刀なくても
カメラと
メガネひけらかし
千の風説く

刀抜かぬ
日本人こそ
世界の
憧れ原爆の
千風吹きて

刀持たぬ
日本人が
西部劇
絵になると千の
風聞き言うや

自爆する
忠臣蔵の
刀なる
千の風こそ
平和の神話

安全と
不安とは
食料の
少なさから
千の風吹く

小野田氏の
涙食料の
少なさの
故ではなくて
千の風故

バナナが
あらゆる木に
ふんだんの
南洋島で
千風常に

南洋の
島に憧る
訳バナナ
ある仕事無しも
風たなびく

ポリネシア
金はなくとも
バナナ食べ
一生楽に
生きていきたし

所有権も
封も封建も
食べるため
とは錯覚かな
千の風言う

風は食べ
なくもたなびき
千の風
吹かせ寝ている
君に平和を

東大を
玉野井教授
退官後
沖縄の地に
千風聞きにか

やさしき
玉野井教授
故退官後
沖縄で千
風聞いたかな

小ささは
美しいと
千風言う
平和が国の
所有侵略否定し
 

特攻が
もしも勝ってたなら
との夢で
軍拡へ向かう
は夢に過ぎぬ

真夏の夜
夢の夢で
軍拡へ
更に軍拡す
千風なし

食えなくて
物のみ重視
唯物史
心の通う
千の風なし

夢のまた
夢でも国の
所有は
二世の夢
千の風なく

夢の夢
でもビジネスと
違い国を
所有す二世
千風聞かず

所有は
ビジネスの元
二世は
国をビジネスに
民の千風なし

特攻は
今のイラクと
911ビル爆破
全く同じとは
千の風言う

イラクにて
200人死ぬ
自爆テロ
特攻の心
千の風知る

自由は無
にはあらず即
自由行動
行動学は
千風で分析

自由で
毒の認識と
行動は
フローチャートの
学問の差

毒を知り
避けるチャート
行動し
避ける人
千風は戦争避け

自由には
平和を含む
とは知らず
戦争の自由
千風平和無視

自由は無
禅の無の境地
戦争を
とわ平和の無
千風で有に

新旧の
戦に平和
キリストは
シャロームと言い
千の風吹く

自由は無し
だが自然法
も真理も
発見も含み
永久平和へ

永久法は
自然法で
戦争の
上にある法
千風のみ言う

没者は
千風言える
自由に
苦痛を言える
永久に平和言う

自由は無
でも平和なる
高貴を
含む故御用学者を
含まず千風

シュミットの
御用学者の
なしたるは
文学で戦争
先鋒と同じ

平和と
自由の観点
からのみ
世界の思想
自由史書ける

自由の
初の世界史
書くために
強者どもの
夢あと千風

武士の夢
跡を探して
芭蕉並の
旅に出てみん
千風探して

世界初
自由の歴史
書くために
反対する自由
等異論の整理

戦場で
面白さも
発見も
ありえず苦しさ
のみの千風

自由には
綱渡りの
面白さも
自由という
ディズニーランドの自由

子供の
自由は面白さ
ぞうさんと
ありさん面白
遊びそのもの

自由とは
綱渡りの他
発明も
面白さから
苦痛なきは自由

発見は
自由なくば
ありえず
人は平和
苦痛をなくす

犯罪は
悪への自由
戦争は
苦難への自由
自由と呼べず

自由と
解放とは
無にして
禅的平和
千風のみ知る

自由が
平和含むなら
犯罪は
悪への自由
とは呼べず

千風が
解放したき
平和風
戦争の自由
ありえぬとする

自由とは
解放と無で
無ならば悪も
犯罪もあり
千風許さず

悪への
自由はないし
戦争の
自由はない故
自由と呼ぶな

悪の自由
罪にて自由
とは呼べず
戦争軍備
同じと千風言い

自由の
定義に平和
を入れて
カント初めて
死ねた千風

カントの
墓から千風
聞こえた
権力に
おもねずしあわせ

カントの
平和論
刊行時の
苦痛感じて
千風さわやか

二世が
民を所有すと
戦争す
苦痛で民は
否定千風

伊藤氏=伊藤一長

安藤氏=安藤 眞吾
安藤氏の本=「昭和天皇を守った男-安藤明伝」安藤 眞吾 (著)

西部氏=西部=西部邁

ヘッフェ=オットフリート・ヘッフェ=Otfried H"offe=オットフリート・ヘッフェの著、藪木 栄夫訳「イマヌエル・カント」

丸山氏=丸山眞男

猪口=猪口邦子

シュミット=Carl Schmitt
ラートブルッフ=G.Radbruch

隅谷教授=隅谷三喜男

ケルゼン=Hans Kelsen

デカルト=ルネ・デカルト=Rene Descartes

ホロコーストの教育資料=ホロコースト教育資料センター=新宿区所在

玉野井教授=玉野井芳郎

Don't stand at my grave and weep.私の墓の前で立ち止まり、泣かないでください。戦没者の千の風は永遠平和であるのを3400万人が聞きました。首都圏3400万人が聞き、涙を流した、歴史に残る政見放送の手書き原稿です。166万票を獲得し当選を果たす。石原流都政運営の幕が切って落とされた。700万人の内、160万人が投票してくれればよいのです。他の日本の7800万人の方々、いや65億人の世界中の方々に「知らせる」ために再録します。

私、山口節生は東京都の知事になった場合、次の様な歴史に残る就任演説をしようと思います。

東京都民の方々、日本全国、いや全世界の方々にご挨拶を申し上げます。
I have a dream that in the future the eternal peace will overcome all over the world. So Tokyo will become an eternal peace megalocity.

第一に、東京都職員の18万の人の皆様、マリーアントワネットの様に税金を浪費してはいけません。浅野氏の退職金や石原氏の豪華な海外旅行の様に。第二に、江戸時代の知らしむべからず依らしむべしの伝統を打破し、知らせるべし、自分で規範的になるべしの伝統を東京都に確立しなくてはならない。それはケネディーの就任演説での Ask what you can do for your country. の心である。第三に、全都民に平等であらねばならない。キング牧師が I have a dream that the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the same table of brotherhood.と述べた時の心である。第四に、友愛を都民に対して持たなくてはならない。また亡くなった方々にも。 Don't stand at my grave and weepのa thousand windsの心である。第五に、伝統を大切にすると同時に創意工夫をも大切にしなければならない。また、第六に、怒ってはならない。争ってはならない。5兆円の軍事費に対して1兆円の軍事費で戦っても負けるからである。軍事費の割合が増えた場合、経済が悪くなるのは目に見えています。第七に、人を判断する時には甲乙共に良い所があると思わなくてはならない。罪を憎んで人を憎まずである。

今回の選挙は憲法改正を直接の争点にしておりませんが、本当の争点は東西冷戦後の戦争に対する考え方が問われています。

今、日本は世界から取り残されています。もしEUに入ろうとしても、日本にはある制度があるのではいれません。石原氏のおかげで中共、韓国からは目の敵にされ、イラク駐留を2年間延長もしました。憲法改正をし、軍事大国化する夢があるからです。
2千万円の選挙資金を出し、金をかければ主な候補に入れてやると脅迫されました。しかし、私は独禁法違反等の犯罪に身を染めるよりも清貧を選びます。

東京都職員の諸君。東西冷戦が終了した今、我々は物のみ、心のみではなく、事後的結果を分析し、何が原因であったのかを冷静に分析し最大限の力を尽くして都民に奉仕しなくてはなりません。その際、都民各一人一人の状況に応じてよく心を都民に向けて、物質的な豊かさや、心の豊かさや、そして家族的な温かさを状況に応じてきめ細かく対応してあげなくてはなりません。都民全員の税金で養ってもらっているのであるから。

私は、55インチのわが家の地デジテレビで、すべての放送を見ていただけです。私は青島幸男氏と同じ選挙戦術をとり勝利しましたが、国民一人一人に大隈重信のように呼びかけるこの選挙こそが理想の選挙であります。

また、私は毛沢東の様に公立高校教員の経験があるので、子供や大人の性格を見抜く力ができています。石原氏や浅野氏とは合わなくても私とは合うでしょう。都職員各一人一人の最も良い点を活かし、東京都を都民の為にも最も良いものにしなくてはなりません。その為には行政として、右派から左派までのすべての人々、政党の言い分を聞かなくてはなりません。また、世界にもうまく対処しなければなりません。

ヒ素324mg/kgがまだ残っていると考えるのが妥当な石原都政の疑惑の土地に移るのを中止します。違法でした。浅野さん、石原さん、都民全員を殺す気ですか。

私たちは中央卸売り市場の移転を中止し、新たな30km圏内でのオリンピックの申請をしなくてはなりません。開催にこぎつけなくてはなりません。また、東京の過密を解消するため、首都機能を移転した場合の跡地の計画委員会も作らなくてはなりません。私は美濃部都政の時のよい部分は再考しようと思います。シルバーパスは55歳迄に拡大しようと思います。公共交通の発達による社会的便益は運賃補填より上回ると思います。

以上の様な次第で、都知事と共に皆様も一緒になって頑張りましょう。
注1:youtube で東京都知事政見放送の画像が閲覧できます。http://youtube.com/

東京都知事政見放送http://youtube.com/watch?v=G1CR1LbGsSc(コピー用アドレス)団塊の世代が首を切られた後の、永遠平和への短歌に込められるのは短歌の素晴らしさです。若い人には分かりやすいでしょうね。フランスで中道が勝つかどうか、その試金石はカントが「永遠平和のために」ではなかったのだろうか。ブッシュ二世が勝つためには思いやりのある保守主義の理念が必要であった。それと今の同じ理念であるカント「永遠平和のために」による永遠平和都市(ポリス=政治=生活=家庭)は同じことではなかろうか。

注2:ガイドミーでは今日閲覧されたYOU TUBE動画を閲覧回数の多い順に並べています。 http://a.guideme.jp/popvideos_10_0.html(コピー用アドレス)

天の声と人の言葉

Don't stand at my grave and weep.私の墓の前で立ち止まり、泣かないでください。Do not stand at my grave and cry;I am not there, I did not die.I am the thousand winds that blow. 戦没者の千の風は永遠平和であるのを3400万人が聞きました。大いに皆が泣きました、その涙で二世達や石原・浅野がおごりあなたを虫と思っている(カント)のをはねのけてください。それが永遠平和そのものです。「最後の弾丸」は恐いなら恐いといいましょうね。これは世界旅行をしてみて、コロッセウムや、中国武漢の長江(揚子江)や、パルテノン神殿等、文明の源流を見ての心からの言葉です。東京オリンピックの開催は世界の永遠の平和のためにあるべきであり、石原氏の特攻賛美のためにあるのではありません。オリンピックとは元々理念的には平和の祭典だったのでしょうから東京オリンピックの開催を世界の永遠の平和のために行いましょう。オリンピックのためのアテネの地下鉄は非常に立派なのに少人数しか利用していませんでした。乗っている数少ない人の数を足して収入としたとしても莫大だったであろう建設費を現在補えているようには一見しただけでも見えませんでした。そうならないように東京オリンピックの開催を行います。二世達にだまされてはいけません。石原氏も浅野さんもあなた方を虫として特攻させるために、虫には知らせずにだますために用意された、右翼からのトラップわなです。どちらに投票しても軍拡(核も含む)(改憲)・(核)戦争に向かうように仕組まれているのです。永遠平和という天が日本に与えたものに投票して下さい。東京都の今後の自然の調和も、世界の永遠の平和のテーマのために水と、空気と、景色と音というものを再構成すべきです。地デジの画面の様な、自然と、音楽の世界文化の融合した空間で世界に誇れるオリンピックにしましょう。

もう一度天の風は泣きながらお願いします。Don't stand at my grave and weep.私の墓の前で立ち止まり、泣かないでください。

マッカーサーはフリーメーソンであったということがインターネットには載っていることは事実である。 
 マッカーサーは、ナチや、ヒットラーを恐れていました。だから、憲法9条がないならば、天皇制は廃止させていたでしょう。
マッカーサーはヒットラーやナチのユダヤ人の虐殺を最も高貴な行為とした最大の法学者シュミットらを嫌っていたことは、事実でしょう。シュミットらは官僚と同じく国会のやったことを守るだけと考えて、自らの影響を考えなかったからです。政治とは生活そのものです。政治とは生活は山口新東京都知事の元々発見した言葉です。マッカーサーはヒットラーやナチを断罪した人であったことは、事実です。マッカーサーの日本に対する考え方はヒットラーやナチを断罪したのと同様か、それ以上であったであろうとドイツベルリンで考えたものである。

そういう主張がなされても仕方ありません。
 これは非常に言いにくいことで、私は言いませんが、天の風の方々はそういうかもしれません。

天の千の風によって守られた山口新東京都知事誕生を当然と思います。
マスコミは誘導的に過ぎた。

農林省という国が決めたのだから、ヒ素が入っていても都民をすべて殺すというのは、都職員一人一人の立場であってはならない。シュミットはナチと、ヒットラーの自由な解散権による総統の行為についてすべて正しいと断じて、ホロコースト、ユダヤ人の虐殺を正しい行為としてしまったのである。元官僚の浅野氏の考えそうなことである。 

永遠平和都市を宣伝するために、石原氏が体を壊して立候補辞退すれば、黒川氏もやめるのですから、また浅野史郎はもう権力闘争はいやなようですから、弱点があり、自由と民主主義を愛する、社会民主主義をも愛する友愛に重きを置く者でかつ若くて、自由と民主主義を愛する、社会民主主義をも愛する友愛に重きを置く再興者としての山口新東京都知事誕生でしょう。
 太平洋戦争 the Pacific Warの戦没者war dead は210万人です。その方たちの子孫は今日まで泣いてきました。しかし山口新東京都知事誕生とともに泣かないで、祖国と東京を新しく永遠平和都市として作り上げるのに自分が何をすべきか考え、片隅を照らすという行動に出てくれると思います。
 山口新東京都知事の母の弟も、長崎大学医学部の学生のときに、学徒動員で工廠勤務のときに原爆でなくなりました。それは両親にとっては不幸のどん底であったでしょう。しかし山口新東京都知事誕生と共に、それは消え去ると思い、泣かないで永遠平和の願いを達成する努力をするようになるでしょう。

210万人の子孫の方々の意見も聞きます。その数は800万人以上でしょう、その数800万人のうちの160万人が投票してくれればよいのです。そう信じております。
石原氏が落選すれば、黒川氏もやめるというのが前提です。浅野氏は赤字を作りました。日本共産党案でも赤字です。貧乏になっている人を見て美濃部都政のよいところを採り、日本共産党案のよいところを採る時には、その原因が何と何であるのかを検討して、政策として採用すべき部分があるのかを都職員一人一人が東西冷戦後の手法として、左右両翼の言い分をも聞きながら、対処していく方法を都職員一人一人と一緒に事例に応じて考えていく必要があるでしょう。浅野氏には「悲痛な叫びが聞こえない。」人々は投票できないはずですが。

石原都知事の疑惑の土地の調査経緯

平成11年4月 石原都知事に。当然に選挙費用が必要であったと推測される。
平成11年7月 東京ガスの方ではこの土地に中央卸売市場の移転が決定したと公表していると調査した。東京都ではこうはいっていない。東京ガスは誰との交渉でこういっているのか。考えられるのは石原氏か誰かであろう。
平成13年7月 東京ガスと東京都がこの土地に中央卸売市場の移転につき基本合意が成立したと情報公開している。
平成14年、15年議会報告、了承。
平成17年4月 農林省が決定。東京都も決定。
ところが事情聴取の結果、3mまでにヒ素が324r/kgも50000%存在するのに、2m迄しか取り除いていない。更に埋め立て地であるために隣地やそれより下にまで溶出しているのは認めている等が事情聴取できた。また現地も確認した。
従って、農林省が決定してしまったものですが、知事就任後即刻中止させます。そうすると東京オリンピックの計画もすべて見直すことになります。

ヒ素、水銀の量など許容量を上回っており、有害物質は10種類以上である。その量は新市場建設課の課長等から口頭で教わったものである。選挙公報ではヒ素324r/kg(50が許容量) 、水銀48r/kg(3が許容量)のみ書いたが、これは紙面の少なさ故の暫定的なもの。

浅野氏を支援する民主党

政策でも、徐々に反石原色を明確にしてきている。象徴的なのは2016年の五輪招致。当初は「都民が真に望んでいるのかを見極めたい」と慎重な言い回しだったが、23日は「ぜひやってほしいという都民は一人もいない。石原さんの花道に使ってはならない」と反対姿勢を鮮明にした。築地市場の移転にも「NO」を突き付ける。

 浅野氏を支援する民主党は、都議会では五輪招致と築地市場移転に賛成してきた経緯があり、浅野氏の“先鋭化”に当惑する。ある民主党都議は23日、「今の状態では、表だって浅野さんの支援ができなくなる」と渋い表情を見せた。

 しかし、浅野陣営は「すべての支援者と政策面で完全に合意するのは不可能。政党と政策協定を結ばないのが浅野流だ」とあくまでもドライだ。極端に言えば、無党派の風を期待する浅野氏にとって、民主党も支援者の一部に過ぎない。
吉田万三という名前を聞いて「ん?」と思いました。覚えやすいし、珍しい名前なので知っている人かと思ったのです。

学生自治会は共産党青年部の民主青年同盟(民青)

 私の知っている吉田万三君は、私が北海道大学に入った時に、北大の学生自治会の委員長をやっていた記憶があります。当時、北大の学生自治会は共産党青年部の民主青年同盟(民青)が強く、委員長も民青がずっとやっていたのではないかと思われます。で、その時に学生自治会の執行部が折から反日本共産党の流れが加速しつつあった全共闘運動の中で、学生投票によってリコールされたのではなかったかと思います。そのリコールされた委員長の名前が吉田万三君だったと思います。(このあたりの話は1969年頃の話ですので、記憶もかなりあいまいです。間違っていることも多いかもしれません。間違っていたら、スミマセン。ご存じの方は、ご指摘ください。)

 その頃、北大では民青と革マル(全国的に見ると弱小だった革マルが、北海道ではなかなか強く、中核に「北の天然記念物」と呼ばれていた)が学生運動の2大勢力で、学生自治会をめぐって激しく対立していました。それでも、やはり北大は民青が強く、革マルは自治会を握っていた札幌医大からいつも応援が来ていたみたいです。ついでに思い出したので書いておきますと、革マルにはM川という有力な兄弟がいて、北大(医学部?)と札医大に分かれて入学していました。

 昔話をしようというのではなく、この吉田万三さんの履歴を見てみると、確かに1968年に北大歯学部にはいっています。おそらく、あの吉田万三君に間違いないと思います。

選挙期間中青島流でやった。

選挙期間中「日本共産党と思われている、そうでないといえ。今は石原、160万、浅野、山口16万ずつで同じだ、何かやれ。当選するぞ。」と電話してきたおじさんがいた。浅野が政党に飛び込む前3月31日か4月1日に、都政記者クラブの幹事がいる前でだった。ということはそれ以降政党は山口新東京都知事票を浅野と、石原に集めさせたのか。

独占禁止法違反行為においては、市場における独占性と、他の競争的事業者を排除する能力を持っていること(この法理はいわゆる当然違法の概念が適用されることと同様の意味を持っている。排他的な所有権を伴った、専用にしか使用できない、かのアルペンスキー事件で適用された法理は、排他的な専用の所有権を要素としているが、この要素は間違っており、所有権でなくても排他的な組織についても同様のことが言えるのである。)が差止の条件である。Dominancy and exclusiveness。この際その能力が、事業者団体の所有権に関わっていようが、そうでない組織によっていようがその能力の行使が、その他の代替的な手段があるのに、その行使が行われているときに独占禁止法違反行為となるのである。独占禁止法違反行為においては法的に確定されたものが、クックの独占の法理以来確立されてきた。

これを政治学に流用して独裁の場合には独裁制と、その行為によって他の競争する思想を排除する能力を持っていることがティラニィーtyranyの確定要因である。日本的独裁制は、超国家主義に連なった。このように言うことはできるであろうが、独占禁止法違反行為とは異なって政治には唯物論者と唯心論者との二種類があって、結果から見てその原因を物に帰属させることと、心に帰属させることの二種類のうちのベイズの確率で推測すべきであると結論することができるので、政治学的と法学的とは異なったものとなるときがありうる。 このティラニィーtyranyの確定要因の原理はアメリカの原理であるが、イラク戦争の指導原理となったものである。しかしクセノフォンのヒエロにおける独裁は唯物論者と唯心論者との二種類を原理としておらず、また二種類のうちのベイズの確率で推測すべき等という現代的な政治学を前提としておらず、古典的な独裁概念と名付けるべきものである。これを一緒くたにしたこれまでの独裁論は誤ったものであると言えるであろう。それが東西冷戦後のイデオロギーを超えての正しい選択においては活かされるべきであろう。

私たちは、ノンポリで、一橋大学が封鎖されていたときに、その封鎖を解くために学生大会で、「レーニンさえも目的のないストライキはするなと言っているではないか。」と演説し、企業からの献金を集めて3商大ゼミ討論会、一橋大学祭を開いた側の政治学のグループです。石原さんに最も近いわけです。

2007年4月5日(木)に読売新聞に必ず載るものです。
他の新聞の人はお読みください。
白メガネの都知事誕生(700万人が読みました。)166万票を獲得し当選を果たす。石原流都政運営の幕が切って落とされた。700万人の内、160万人が投票してくれればよいのです。
都知事 山口節生

[東京9日9時:日本一郎]
新都知事誕生! 石原氏の週3日ではなく、週7日間24時間密着取材OKとなって当然全マスコミが取材した。都知事選は衝撃的な選挙結果となった。何と都民は東西冷戦後の永遠平和都市を選んだ。戦後経済は米の1/4の軍事費に守られてきたと述べた。何故に石原前都知事は324r/kgのヒ素(広告審査済)のある土地に? 24時間ネットで24時間あくびさえもテレビマスコミに公開するという。7日間働くことがいつ地震等があるか分からない政治・経済なので知事は当然だとした。水曜のみは都民と午後5時から9時迄カレーを食べて夜の知事室懇談会を公開するとした。知事はこれ迄同様給与以外どの様な金も受け取らないから全部公開できるよと述べた。知事は10揃えの10万円のスーツ、紳士服飾、新白メガネを当選後即日揃えた。永遠平和(世界遺産)をイラク等全世界に宣伝して回るとした。選挙期間中は豊洲の新市場予定地の鑑定を始め全市区町村を隠密に回った。演説は政見放送によった。選挙中は電話世論調査を会社にさせても石原有利とは逆に山口が一番手と出てくるのに新聞予想(競馬新聞)はウソを書いていたとした。石原前都知事を親ナチとした中国には謝罪した。メディアセンター用の土地に適した土地を築地市場以外に探し回る姿が全マスコミに映った。9月迄に探しオリンピック計画を練り直すという。首都移転、地震対策、ベビーカーが闊歩する対策等大量の問題があり難仕事を平常心で週7日間マスコミに映りながらこなしていった。全労働の側に立つと確約したため支持は各政党を越えて幅広かったために副知事はそのままにするとした。
 オリンピックのため各企業に1000億円の募金を割り当て、要請する案については採否を問うとした。
 知事は戦没者の千の風は永遠平和の憲法と聞こえ特攻隊賛美との狂った前知事を批判し、おごりとした。
 白メガネのおしゃれは永久に続けると都知事は述べた。

2007年4月1日(日)に朝日新聞に必ず載るものです。2007年4月1日(日)の朝日新聞にすでに載った新聞広告です。
他の新聞の人はお読みください。
山口新東京都知事誕生(600万人が読みました。)166万票を獲得し当選を果たす。石原流都政運営の幕が切って落とされた。700万人の内、160万人が投票してくれればよいのです。
都知事 山口節生
[東京発]
青島幸男知事流に自宅で理想の選挙を戦ってきた山口新東京都知事(57)は東京都を永遠平和安全都市とする宣言をしメッセージを全世界に発した。東京オリンピックは中国の反発がないので10q圏を中心に30q圏の施設を含め必ず開催できるとした。永遠平和への運動、核軍縮運動が全世界へ広がる夢の実現への第一歩であると述べた。浦和のマンションから東京のマンションに家族と共に移り公約を全力で実現するとした。選挙期間中新都知事が労働の側に立つこと、労働法制の改善に努力することを確約したため、憲法9条を守る主張の社会民主党のほか小泉手法に反対した国民新党、及び民主党のナチ的軍拡(核も含む)(改憲)の反対派、無所属都議反軍拡(核も含む)(改憲)派、及び自民党の三木派の流れの反軍拡(核も含む)(改憲)派及び日本共産党の反軍拡(核も含む)(改憲)派、元々反軍拡(核も含む)(改憲)派の公明党の一部及び日本新党が元官僚浅野氏がヒ素の土地同様、国会に従い一地方都市の問題ではないとしたため一斉に反発し、山口新東京都知事誕生となった。横田基地、防衛省等の所在する東京での価値は高い。過密解消の為、首都機能移転につき跡地利用検討委員会を作るという。自民党安部総理は国民投票法案にも影響すると答えた。又山口新都知事はヒ素が地表2m以下にも324mg/kg存在すると評価した元東京ガスの土地への卸売市場移転を即刻中止し、金銭裏疑惑を告発していくと述べた。新都知事の告発がなければ移転中止はなかった。石原都知事を親ナチとした。戦没者の千の風は永遠平和と聞こえると新都知事は述べた。選挙中は電話世論調査を会社にさせても石原有利とは逆に山口が一番手と出てくるのに新聞予想(競馬新聞)はウソを書いていたとした。新聞各社は主な候補に入れなかったことを山口新都知事に謝罪し(その裏の政治的理由を述べ)た。
 山口新東京都知事は大と東大卒で経済学を、早大で政治学を修めた。山口厚生元大蔵省部長、山口公正元大蔵省銀行局長は従兄弟、九州佐賀出身で一字以外同名なのはその理由による。内政は現副知事のままでいくと述べた。


 
S28.04.15 大法廷・判決 昭和27(マ)148 衆議院解散無効確認請求 裁判官真野毅の補足意見は、次のとおりである。

内閣が活殺自在の劒を握つているようでは、どこに国会の独立と権威があるであろうか。これでは、三権分立も、抑制均衡も、民主政治も、憲法の根柢も、皆共に支離滅裂し、瓦解してしまうではないか。殷鑑遠からず、十数年前にある。あえて、ヒトラーの国会解散の暴政の数々の例を引いて、論証する煩を重ねることを要しないであろう。国会の弱体であるところに、独裁政治は常に頭をもたげて来る。憲法はどこにも、イギリス型の議院内閣制を採つたとは言つていない。強いていえば、欧洲大陸型の議院内閣制の下で認められるような制限的解散に類似する、六九条の規定が設けられているだけのことである。彼の太平洋戦争の苛烈な戦火の洗礼を受け、廃嘘のどん底に沈んだわが国民は、何物よりも独裁ないし専制政治の再現を、恐れかつ憎んでいるではないか。こういつた体験と環境と条件の下に出来た憲法を、前述のごとく成法上何ら確たる根拠もないのに、独裁ないし専制政治の再現を容易に招来することを許すような風に解釈せんとすることは、民主憲法制定の根本義を真に理解せざる近眼者流の論であると断言して憚らない。豊かな経験と高い識見を有する尾崎行雄氏は、憲法七条を解散の根拠とするようなことが行われるなら、「すこし気の利いたものが出れば、たちまち北条・足利の時代が再現する」と卒直にキツパリ言い放つている(昭和二四年一月三日読売)。

窯元同意

山口節生の世界65億人の市民に向けたマニフェスト

(基本姿勢)
私は東京を(永遠)平和安全都市とするため全勢力を傾けて、東京都及び東京都庁を駆け抜けて行こうと思います。

教育は子供達を守り、各個人個人の性格に応じて心豊かに育てて行く事を目的とする国家(都市)百年の大計であることから、個性を養い、能力を活かすことを中心に据えて、あの大熊重信候の様な大改革を行う。

福祉は誰もが陥る可能性がある弱き者、失敗した者、弱き女性や弱き子供を皆の税金によって救うことを目的とするものである。だから、社会にとって、なくてはならないものである。福祉の原則は真に必要なものはふんだんに与えることが経済全体にとっても貢献するものであるという視点である。それらの福祉行政によって消費が増大し経済に良い影響を与えるという視点である。

国土交通行政は開発と自然の観点から見直しを行う。東京にいい水、いい空気、いい景色・音を取り戻すために全力を尽くす。地価の高騰を抑え、正常な地価を形成し、超過密な東京都からの解消を目指す。

環境は人間の健康を維持するための最優先課題であり、国土、福祉、教育等の以前に考えるべき土台である。

永遠平和と安全は治安ではない。人を大切にし、教育、福祉、国土交通、環境が良くなれば人を憎まず罪を憎むの観点から、治安対策の中に安全と平和が自然と発生する。日本が銃・刀の社会になればニューヨークの様になる。その前に非暴力の観念の普及が必要である。それが永遠平和の観点である。その後での治安は安全を生むであろう。

チャウシスクの子供達は今ヨーロッパ中で自由な移民により、泥棒その他多くの犯罪をまき散らかしている。チャウシスクの犯した間違った政策から生まれたものだった。


1.都政運営の基本姿勢
 @ 東京を世界に誇れる永遠平和都市として宣言します。
 A 人を大切にし、自然を大切にし、環境を大切にする東京を創ります。
 B 都民に情報を公開し、都民に判断させる透明性のある都政にします。
 C 子供を大切にし、様々な意見を聞き、かつ、教育においては福祉と個性を最大限に尊重します。

2.緊急の政策
東京都の本当の問題は何なのか。その問題をどの様に解決しようというのか。そして東京をどの様にして行こうというのか。それが書いてあるのがマニフェストである。
(即刻やる政策)
第1に、土壌汚染地への中央卸売市場の移転は即刻中止します。
第2に、首都機能全面移転後、跡地利用検討委員会を即刻立ち上げます。
第3に、東京オリンピックの構想を10km圏から30km圏に変更して7月の申請に間に合う体制を作り直します。
第4に、新銀行東京については民間企業への売却を含め、様々な選択肢を検討する。但し、すでに民間企業であるので介入できる余地は少ないので、資本の出資の検討を見直すこともあります。
第5に、超過密な東京都の都市問題を解決するためには、首都機能の移転と共に、多摩地区の整備、震災への対応、木造建物密集地域への対策強化等の不動産学的対応が必要であります。
第6に、江戸城跡の復元整備を行い、世界遺産への申請を行える様に国との話し合いを始めます。
第7に、シルバーパスの年齢を55歳くらいに迄引き下げます。
第8に、夕方からの東京都庁を設け、開庁時間の延長を行います。
第9に、水曜日の夜5時から9時迄を東京都知事と市民の懇談会の時間として設定して、都民とのブレイン・ストーミングを行います。
第10に、住み心地のよい東京都を作ります。
第11に、道路投資中心から、バスその他の公共交通機関中心に変換を計ります。(シルバーパスもその一環)

(1年以内に政策を実施します。)
1回の首都直下地震によって最悪1万3千人が死亡し、85万棟が全壊・焼失し、被害総額は112兆円にも達します。この大半が東京でおきます。
 東京には耐震性に欠ける住宅が133万戸あり、震度6 強の地震で倒壊する可能性が高くなっています。
住宅の耐震化補助、建替補助率をアップし、場合によっては容積率の割り増しでインセンティブを与えています。

(3年後の政策)
1.3年後には、東京都の合計特殊出生率を1.5に上昇させます。
2.3年後には、東京都の高齢者のための施設を開放的にし、かつ、数を30%増やします。
3.3年後には、住宅の耐震補助、建替補助率をアップし、場合によっては容積率の割り増しでインセンティブを与えて、耐震化率を95%にしています。


(5年後の東京都)
1.5年後の東京都は合計特殊出生率(平成16年合計特殊出生率は1.01、平成15年は1.00)が1.5(現在都政では試算なし)になり、奥様達がベビーカーを押して、公園を自由に歩ける、また水も空気もきれいな排気ガスの心配のいらない都市に変身しています。出産から5年目迄はシルバーパスが発行される様になっています。5年後の東京都は、産み易く、育て易い都市に大転換しております。
2.バスの広告等の解禁については三商大ゼミで都知事が提唱したものがまねされた面もあります。今後共にバス・地下鉄等の公共交通の発達により過密都市東京のいわゆる東京問題と言われているものを改善するために、都市計画における自然との調和を考慮に入れて、いい水、いい空気、いい景色と音を実現するために全力を尽くしていきます。
首都機能の移転をも考慮に入れれば自ずと今後の課題というものが明らかになっていっています。メトロポリスからメガロシティへ。

(全体的な統計数字と政策の効果)
 統計資料については、人間の注意が及ぶ部分と、それが及ばない統計(例えばサイコロで3が出る確率)がある。人間が政策的に影響を及ぼし得る部分については、事後的確率から政策の有効性を推計するという手法によって、原因は何かを推計すると同時に、政策が有効であったのかどうかについて絶えず検証し、政策の結果を検証していく必要がある。

 その検証の結果を、逆に、10年後に目標とする結果に到達するためには、心の援助だけでよいのか、物の援助も必要としているのか、友愛の援助が必要なのかについての判断の資料としなくてはいけない。
 それは10年後に結果をえた場合にはもう一度検証し直す必要がある。
 この新しい政府の手法は、政府の失敗を正すために必要です。政府とは行政をいっています。都と中央政府を含みます。政府は失敗しました。これまでの様に左翼や、右翼、特に超国家主義とよばれた日本特有のものにいたることなく、政府の失敗を正すためにも、若者の政治的な要求を満たすためにも、東西冷戦後のイデオロギーを超えての正しい選択は必要なものです。
 そして永遠平和都市を宣言し、一歩一歩我々の10年後の東京に近づいていこうではありませんか。逆の選択はあり得ません。
 
 
 

(10年後の東京都)
1.緑を増やす。
2.3.耐震化
4.医療のメディカルスクール
5.観光
6.ユニバーサル・デザイン
7.新技術産業
8.再チャレンジ、人材育成
9.スポーツ、アジアとの交流、指導者の育成
10.人口増
八つの目標による類型化
1.水と緑
2.三環状
3.環境負荷を少なく
4.災害に強い都市、テロに強い都市
5.超高齢社会に対応する
6.産業力、観光、ユニバーサルデザイン
7.チャレンジと人材育成
8.スポーツを通じて海外と交流、指導者育成

(東西冷戦後のイデオロギーを超えて)
東西冷戦後のイデオロギーを超えての正しい選択はこれまでの右翼の石原氏からの特攻隊ではなく、いわゆるかっての勝手に、かっての都政に復帰することの様な古い都政ではありません。
また私は唯物論者でも、唯心論者でもありません。その両者の対立であった東西冷戦は、結果からそのどちらの原因が有力であったかをベイズの確率で推測すべきであると結論した新しい時代の新しいにんげんです。ヒューマニストです。
共産主義の側から永遠平和都市を宣伝するのではありません。ヒューマニストの非暴力主義者として宣言するのです。
唯物論者はすべてを物から見てすべてを否定します。物の下に文化があるというのです。従ってカントの「永遠平和のために」も書いてあるままには読みません。すべての思想を物から見て見下すのです。ただ書いてある通りに読むことが必要です。
左という唯物論者と、右唯心論者のイデオロギーを超えての正しい選択をしてください。
それが今の東京都民の、片隅を照らすという、東京都のために何ができるかという意味なのです。

選挙公報で、「どうせマニフェストは官僚が作ったもの、自民案、民主案、社民案を選択的によい部分を採用します。」と書いておいたので、以下参考のために、自民の石原氏の政策と、民主と社民のマニフェストを載せておきます。
充分に批判できるでしょう。それといかに山口新東京都知事が待ち望まれるかが、分かるでしょう。

日本共産党のマニフェストはすべていいと思います。しかしそれは何もしないで、国がすべてしてくれるような生活すべて保証主義の国家であればよいのですが、主体的な個人も自分で稼ぎ生活するような社会では国の負担がすべてになって、破綻財政になります。それが旧ソ連であり、旧東欧であったわけです。

今の最高裁判所の裁判官も、日本ではすべて唯物論に陥ってしまっている東大等の卒業生が相当数以上います。これが日本の社会を天皇制廃止をしますか、日本をやめますかの状況に陥らせているのです。最高裁判所の裁判官も、ですよ、信じられますか。それは東大等に行ってみないと百聞は一見にしかずで分からないのです。
 
 では台湾ではない中国をどう見るのか。
 BSハイビジョンで中国紀行を放送する予定のようですが、深せん、広州、武漢へと鉄道で旅をして長江・揚子江の水に触れてきた。武漢は良い人ばかりでした。山口新東京都知事誕生によって積極的に中国とも付き合うことになるでしょう。特に北京オリンピックのための。中国のよいところはよいと言い続けることが大切です。長江・揚子江はすばらしいし、そこに住む人々もすばらしい人々です。内政不干渉の原則でやっていくことになります。

図書館の
かわいいむすめ
バルセロナ
日本に行った
といい案内す

武漢への
寝台車の
男は
英語のうまい
女性の下

中国
寝台車
言の葉を
教える顔の
女いきいき

ぞうさんとありさん
山口節生

第一話
 ある朝、森の中でぞうさんは眠くなって寝ていました。そこに巣穴から出てきて食べ物を探し回っていたありさんがやってきました。ありさんはぞうさんがあまりにも大きかったので、なんであるかわからなかったので冒険をしてみようと思いました。まず足から上がってみようとしたようですが、足が足であるとは分かりませんでした。
 ありさんはにはぞうさんの足が大きなお城に見えました。「さあお城の探検だ。」と思いありさんはお堀を渡るつもりで、ぞうさんの足の近くにあったちいさな水滴の近くを通って、ぞうさんの足の爪に乗ってみました。足の爪は大きくてありさんにとっては、何か大きなお城のはね橋の先にある大きな道に見えました。その道は固くて、宝石がしきつめられた黄金の道にみえました。しかし、その道も30分もすれば何か大きな崖につきあたりました。その崖はなぜか付け根のところから盛り上がっていました。これは大きな崖をよじ登らなくては先には行けないなと思いました。しかし、あまりにも高い崖に突き当たったと思い、これであきらめてこの冒険は終わりにしようと思いました。だが、あきらめてしまってはありとして恥ずかしいと思いました。そこで意を決して根元のみぞから崖の最初の出っぱりにとび移りました。とび移ってみればその崖は意外とやわらかくあったかでした。居心地がよいのでそこで寝ていようかとも思いました。ゆりかごのようだと思いました。でも、あったかいゆりかごにするには少しごつごつした感じがしました。だから、もう少し行ってみようと思いました。
 崖は高いように見えましたが手掛かりもよく、意外と簡単によじのぼれることが分かりました。
 ぞうさんは5mも横幅がありましたが、ありさんは5mmでした。従って横幅で1000倍、高さでは3000倍もありました。単純に計算しても面積では100万倍、体積では10億倍もありました。だから、ぞうさんではなく、ただ単なる崖であるとありさんが思っても当然のことでした。ありさんとぞうさんでは形が違いますから、この単純な計算は更に大きくなるわけです。
 ありさんは何かは分からなかったのですが、ぞうさんの爪から肉の上へはい上がるようにしました。よじのぼってみると、その先の景色は、その歩みは始まったばかりで、どれくらい続くかわからないくらい果てしのない旅に思えました。しかし、ありさんはえさがあるかもしれないと思い、歩きはじめました。
 途中では危ないと思ったところはよけて歩きました。
 爪の上をはい上がっていくと、足の付け根のところにつきました。それからおしりの所へ、更にぞうさんの背中をてくてく歩いて目の所に行きました。目の中は池の様にみえて、さすがにとびこもうという気持ちにはなりませんでした。目のまぶたのところから池の様な目を見ていたら、突然まぶたが動きました。びっくりしてありさんは地震かなと思いました。そのあとでありさんはぞうさんの鼻のところに行きました。すると突然、ぞうさんは鼻を下から上へとずうっとふり上げたのでありさんは遠くへとばされてしまいました。

第二話
 ありさんはぞうさんの鼻から遠い木に投げ飛ばされて木に当たり、バウンドして木の下に落ちてしまいました。木の下からまた歩きはじめて行きました。するとそこにはまた例の同じぞうさんがいました。あまり遠くまでは飛ばされていなかったのでしょう。つまり、ありさんがぞうさんに較べるとあまりにも軽かったので、ぞうさんが鼻を上へ上げる力がいくら強くても、その力がありさんにはあまり及ばなかったのでしょう。しかし、ありさんにとってはぞうさんのもとに帰るのにはとてつもなく長い距離でした。
 ぞうさんの上にのぼろうと思いましたが、土地の上からぞうさんの上にのぼるのには、また鼻から、あるいは足から上がるのしか方法はありませんでした。ありさんは、ぞうさんの上にはどこかにいいエサがあると思いましたから、またのぼることにしました。まず鼻が地上におりてきた時に、ぶらんこにのる時の様にひょいと飛び乗り、また頭の上まではい上がって行きました。頭の上ははげたおじさんのようでしたが、しかしつるつるとしているわけではなく、多くのしわがあり、上がってはおり、おりては上がりの連続でした。

5000日本大学法学研究年報の原稿 
政治学の根本理論と根本問題――東西冷戦後のイデオロギーの終焉と政治学と政治過程、政治思想、政治哲学の根本問題―

山口節生

序  政治の基本機構のあり方―東西冷戦後の政治学の根本問題―衆議院における議論を中心にして

平成14年11月14日(木)、衆議院では「政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会(第1回)」において、会議に付した案件「政治の基本機構のあり方に関する件」上記の件について参考人高田篤君から意見を聴取した後、質疑を行った。その後、委員間で自由討議を行った。 参考人、京都大学総合人間学部助教授 高田篤参考人に対する質疑者は、衆議院議員の中山正暉君(自民)をはじめ伴野豊君(民主) ほか7名であった。
この意見聴取及び質疑応答は政治学の一般的な回答を求めているのではなくて、東西冷戦終了後の政治についてほとんど全く政治学での分析が存在しないので、現実の政治について右往左往している衆議院議員9名が東西冷戦とは何であったのか、東西冷戦終了後はどのような政治になるのか、つまりはどの様な政党になるべきであるのかについて実際的に質疑し応答を求めた画期的なものであったと考えられる。
高田篤参考人の意見陳述は「現在、政党に対する批判が強いが、政党は立憲主義にとって不可欠の構成要素であり、政党の存在意義を積極的に基礎付ける必要がある。1. 政党についての憲法理論的省察、多様性を有害であるとするシュミットは別として、多様性を尊重するケルゼン、ヘラーや、多様性をより積極的に意義付けようとするマディソン、アレントは、総じて多様性を積極的に評価しており、政党は、この多様性に立脚し、民主制に合理性をもたらす不可欠な存在であると積極的に基礎付けられる。2.政党の憲法(社会)科学的省察  ア 民主制の社会科学的把握 民主制を社会科学的に把握すれば、(a)政治的コミュニケーションから成り立つ争点化、(b)選択肢の形成・提供、(c)暫定的決定、(d)決定の受容という多段階からなる包括的なシステムと理解される。 イ 政党の民主制の前提条件形成機能 政党は、これらの各段階において(a)政治リーダー候補者のリクルート・育成、(b)政策の策定、(c)有権者への選択肢の提供等の民主制の前提条件形成にあたって、決定的な役割を果たしている。 ウ 政党民主制展開の三段階モデル 第一段階(政党民主制確立期): 議員政党(党員は地主、商工業者層)、第一次産業就労人口(50%以下) 第二段階(大組織の時代): 組織政党、第一次産業就労人口(40%を切る)第三段階(脱工業化社会): 組織政党の揺らぎ、第三次産業就労人口(50%を超える)  エ モデルの第三段階における普遍的課題 社会や「個人」が複雑化・「断片化」した第三段階では、政党は政治的なコミュニケーションにより、国民各層の政治的な見解を反映することが困難になり、また、特殊個別利益に定位することが相対的に多くなる。こうした状況に適合するため、政党・政党システムが十分な複雑性と「断片性」を備えることが必要となる。また、我が国に欠けていた要素として、政党の公開性と透明性の重要性に着目する必要がある。」というものであった。
 高田篤参考人に対する質疑者は、中山 正暉君(自民)、伴野豊君(民主) ほか7名の質疑であった、それらに本論文も答えるという形で論文を構成していく。テーマは東西冷戦の終焉が政治に何をもたらすのか。イデオロギーの終焉のみであるのか。東西冷戦後の政治学の根本問題は東西冷戦後という特殊な政治情勢を反映したものとならざるをえないが、東西がまた南北が一体となるということはどのような政治が期待できるのかに言及したい。
 現実政治の分析に当たっては過程論、集団論、行動論的アプローチを採用した。その他の政治学方法論には規範的分析、行動論的分析、政治機構的分析、政治過程研究、政治歴史的研究、政治思想分析、現実政治分析などを採用すべきである。但しバーリンは政治の歴史法則について歴史の必然性を強調しすぎることには批判的である。個別の政治的決断について新しい方法としてのベイズが考えかたを取り入れたり、意思決定の理論や政策決定の理論を新しく考えることも大切であろう。政治心理の分析や、投票行動の分析など政治学の担当範囲は更に広がり、更に困難を極めるものになっていくであろう。政治と政治学の新方向を予言した多くの学者がいた。その予言は東西冷戦後あまりに急激に実際政治が変化し政治学根本問題はバーリンが指摘した以上に難題を担ったまま未解決である。解決の方策が模索されている。古典に学ぶべきか、歴史に学ぶべきか、法と規範に頼るべきか、機構の分析にとどまるべきか、政治法則を歴史の必然性として決定すべきなのか、現実政治に学ぶべきか。政治学者は常に多くの悩みをマスター・サイエンスである政治学確立のため背負わされている存在である。永久に未解決のままであろう。
東西冷戦後政治学の根本問題はどのようなものであるのか、東西冷戦とは何であったのか、東西冷戦が日本にどの様な影響を与えていたのか、東西冷戦の終了がどのような影響を今の日本の政治に与えているのかについて政党、議会、圧力団体及び自由と平等の法政治哲学の問題と共に考察するのが本論文のテーマである。先に結論から述べれば、結論として唯物論とそれに対抗した資本主義理論との対立の解消は新たな分析が必要になってきたのではないかと言うことである。唯物論の成立はカントやヘーゲルの観念論からそれへの弁証法的な対立物として発生したものである。歴史的なテーマでもある。しかし東西冷戦の終焉が歴史的な大事件であったということは事実であって、歴史に長く記憶されることであろう。従って政治も政治学もそれ程大きな転換期に来ているのに政治学にその意識が少ないことはなげかわしいことである。
 イデオロギーの終焉が言われたのはずっと前のことである。長い間に政治学は実際の政治がイデオロギーから脱却したような意味での社会を形成していたことを知らなかったのである。そのためイデオロギーの終焉を迎えた実際の政治をうまく分析する手だてを考案する方法を失っていたといえる。方法論は今後政治学に必要なものとなると考えられる。このような問題関心の下で論を進める。自由と平等については日本では研究が少ないが、アメリカ・イギリスでは政治学でも十分な研究がなされている。これは自由意思論の伝統が学問の中に定着しているからであり、政治学でも定着してきて、移行してきているからである。特にマルクス主義がなくなった後平等をどのように取り扱うのかの問題が憲法上も重要な問題として提起されると思われるのでこの点にも言及する。イデオロギーにおいてはマルクスのような偉大な人間がすべての思想を作り上げていると考えられて、その思想の中にすべての自由平等のカタログが入っていると考えられるので政党の定義もイデオロギーと共に確定しやすいが、アメリカの政治におけるようにイデオロギーから脱却してイッシュー毎に意見を議員と国民から徴するという考え方からすれば、政党を一つの法的主体として確定することはイデオロギー政党よりも難しいことになる。しかしある行為が政党の名前でなされたときには政党を法的に定義することは可能であろう。右と左という概念が永遠普遍の概念であるとは限らないのである。
 政党はイデオロギー政党から脱した後、どの様な方向に進むのであろうか。唯名論や唯物論(リアリズム)に代わってどの様な方向をたどるのであろうか。結論としては唯物論、あるいは資本主義に代わる新しい方法としてのベイズの考えかたを取り入れる必要があると考える。一種の政治的意思決定論である。危険をなくし、安全を確保するための、また国民が幸せを得るための方法論である。その少しの差が政党の別を作るといえる。
 政党政治が君主論の時代とは違って政治の基本であるから、東西冷戦後の政党の根本問題について論じる必要がある。世論の形成の方法の問題でもある。世論の形成において重要な役割を有している政党が政治学の基本である。しかし政党の成立する背後には政治的意思決定論に有効な政党の自由と平等に関するカタログが含まれているべきである。それも予算の範囲において可能な限りの努力によってである。政治経済学及び政党のよってたつ原理が東西冷戦後もなお必要であるからである。
バーリンが消極的自由に対立する積極的自由を述べたことが法哲学、政治哲学上の東西冷戦の意味の解明であった。東西冷戦後バーリンが消極性のある自由に対立す積極的自由をどのように言うのであろうか、そしてソ連崩壊後の、東側の崩壊後の自由についてどの樣に理論付けをするのか、ミルとバーリン亡き後にその声を聴こうとしたのが本論文であり、東西冷戦後の政治を分析した数少ない論文の一つとして政治経済学の研究者に、政治を見る人々に役に立てばと思い、研究をしたものである。日本でも世界中同様に現実的には都市化が進む過程にある。都市化には農村部でも起こっているコンピューター化や、ネットワーク化も含まれている。農村から都市部への移動が行われている。都市化による民主政治の転換を考察するべきである。農村型政治から都市型政治への分析は内田満論文集の中に見られる。
内田満教授に「政治とは何か、法とは何か。」を研究してみたいといい、注の付かない論文を執筆してみたいとわがままをいい、更に有賀弘教授に政治上の自由について研究してみたいといってから随分時が経った。時に東西冷戦終了の声を聞き本当にびっくりしたのは昔のこととなった。今この論文が書き上がればわがままは通ったことになろう。

1 政党政治と民主政治

 ア 政党の地位と党首の地位
 「仙 谷 由 人君(民主) 現在の我が国に現われている政治や行政の制度疲労の問題についての大きな原因の一つには、憲法の構造上の問題があると考える。憲法では、「政治権力をつくる」ということの意味が明確にされていない。議院内閣制の下では、議会が政治権力をつくり、その実質を担うのが政党であることを、憲法上明らかにした方がよいと考えるが、いかがか。」
 「金 子 哲 夫君(社民) 政党は民主主義に欠かすことができない存在であるが、民意が多様化していく中で、政党はどうかかわっていくべきと考えるか。また、その中で、選挙の際の投票率を上げていくためには、どのような工夫が必要と考えるか。」
 
民主党と社会民主党からの二つの質疑についてまず考察する。
 政党について法的な根拠は実質的には政治を担っているが、憲法上も、法的にも主体となりうるのかという質問であると考えられる。また政党は東西冷戦終了後変化が激しい 民意をどのように吸い上げて変わっていくべきであるのかという問いである。政党は公約を行い、あるいはマニフェスト選挙においてはマニフェストで公約したことができなかった場合どの様な責任をとるべきであるのか、法的な根拠があるのかという質問であろう。政党の党員が政党の党員として行った行為について、政党が政党として行った行為について法的責任があるかという質問である。では歴史的にさかのぼって君主政治の時代には君主は法を越える存在であったのか、法の下にあったのか。その後の政党の党首は歴史的に君主と対抗して生まれたのであるが、その際に党首はどのような地位にあるのか。党首は政権を担えば君主と同じく議院内閣制の下では内閣の総理大臣となり、行政の長となる。この際には公務員としての責任を負う。政党は法的にはどの様な存在であるのかという質疑である。たとえ政権を担うことができなかったとしても政権予備軍、かってならば君主予備軍であるということができる。影の内閣シャドー・キャビネットを形成しているといえる。大統領制においては当選すれば内閣総理大臣ではなくて元首であるので、更に君主に近いものとなる。立憲君主(天皇)制議院内閣制の日本では元首は天皇である。党首の段階では法人格がないのに、内閣は法人格を有する。政党については党首が人間としては法人格を有したとしても政党は法人格を有しないのであるのか。その差があまりにも大きい。従って靖国訴訟においては法人格を有した公務員である内閣総理大臣としてなのか、私人としてであったのかの問題が生まれたといえる。
 この論文では、党首はマキャベリの君主論における君主ともっともよく似ていると考える。マキャベリの君主論は、またマキャベリの政略論における指導者像は現代にも通ずる政治の要素を把握したものであった。君主論という君主のことについて述べた古典を学ぶということは党首論という現代的な意味も持ちうるという主張も否定できない。東西冷戦後政治学の根本問題とその解決について考察するに当たっては方法論としての、政治とは何かの論理、政治学、政治思想論、政治哲学のどれもが一つの転機にたたされていることは否定できない。党首論は君主論同様に政治の根本であり得る。党首と政党は政治学、政治思想論、政治哲学のすべてを具体化した人間と団体のことである。人間である限り個人であり、団体の構成員であるから人間の研究と団体の研究は共に不可欠である。参考人の言う通りに「現在、政党に対する批判が強いが、政党は立憲主義にとって不可欠の構成要素であり、政党の存在意義を積極的に基礎付ける必要がある。」のではあるが、党派的であることを批判的にみるのか、当然のことであるとみるのか、団体や社会を多元論でみるのか、一元論でみるのか、個別利益をよしとするのか、不可とするのかなど東西冷戦後の政治学の根本問題を網羅的に研究する必要がある。政党は多元論においては多くの集団の一つであり、政治的な主張を持つ重要な団体である。政党の主張には自由と平等に関するカタログが含まれる。それならば人間と同じように主体を持ってもよいであろうということになる。綱領や、規則を備えて登記されれば法的に問題はないと考えられる。しかし多くの問題を抱えている。
政党の持つべき政治のカタログの中に入るべき自由と平等については政治哲学的には東西冷戦までの政治は自由と平等は対立的であり、自由と正義、平等と正義が論じられてきたが今後は正義が発展して自由・平等と正義という包括的な政治学が必要となってきたといいうるのである。その際現在人類永遠のテーマとして日本で問題となっている永遠平和主義の日本国憲法の第9条の問題も避けては通れないことになる。
党首は政党の党首である。政党はひとつの重要な政治的な存在であるが、法的な存在でもある。政治がポリス的動物である人間にとって進路を指し示す重要な何かあるものであるとすれば、政治も政党も人間の社会におけるもっとも重要な存在である。しかし政党の存在そのものが本質的に研究されたことはほとんどない。これまでサルトーリやデュベルジェらは政党を研究の課題としたが、あまりの変幻自在性ゆえにほとんど手がつけられなかったと考えてよい。今後東西冷戦後の政治学の根本問題とその解決法を模索する本研究は世界の平和のためにはまず政党の研究は不可欠であろう。政治の過程においては重要な概念となったのであるが、公的な政治機構の中には憲法上ははいっていない政党がなぜに重要な存在なのか。また実際は法的な存在であるくらいに大きな存在であるのに、政策を誤って行った場合でも政党に損害賠償請求できないのは、なぜなのか。政党が政策を誤ったからといって政党に対して本当に法的な損害賠償請求権が国民に発生するといえるのであろうか。政党はサロン的な自由な思想の表明の場としてあったのであり、サロン的な存在ではないとされる独占禁止法上事業者団体との差は考察の余地が政治学上もあるが、アメリカの独占禁止法における差止制度と損害賠償制度を制定しようとしたアメリカ側に対してそれを阻止した日本における原始独占禁止法、現行独占禁止法の制定などにおける政治過程上の複雑な経緯も研究の対象とする予定で、またその後の差止制度と損害賠償制度を導入した平成13年の独占禁止法における差止制度の導入についての政治過程も研究の対象とする予定であるが本論考には一部哲学の部分以外は含まれない。独占禁止法は東西冷戦後自由平等の経済思想が普及する中で経済憲法として重要な位置を占めている。
 高田篤氏の説明によれば、ア 民主制を社会科学的に把握すれば、(a)政治的コミュニケーションから成り立つ争点化、(b)選択肢の形成・提供、(c)暫定的決定、(d)決定の受容という多段階からなる包括的なシステムと理解される。 イ 政党の民主制の前提条件形成機能 政党は、これらの各段階において(a)政治リーダー候補者のリクルート・育成、(b)政策の策定、(c)有権者への選択肢の提供等の民主制の前提条件形成にあたって、決定的な役割を果たしている。
 現実の政治における政党の機能を見てみる。政治は寡頭制の鉄則を主張したミヘルスの研究以降、ポリアーキーの概念を導入するダールにいたるまで民主政治を根本理念とする。民主的であることを社会主義的にとらえるのか、自由民主主義的にとらえるのかは別にしても、政党は何が現在大切な問題であるのかを政党そのものが国民に知らせている、あるいは、国会中継を放送するマスコミを通じて、あるいは、他の者の著作物による本やパンフレットや自らのデモンストレーションを通じて国民に知らせている。その資金が政党によってまかなわれている。政治的活動を行うには予算が必要という意味では経済的な存在である。すべて人はポリス的動物であるとすれば政治的活動を行うことは憲法上の自由に含まれている基本的人権に含まれる。すべての政治団体にはこの機能が存在する。マスコミは政党の活動としてさまざまな活動を報道する。政党は一つの主体的組織として意見や、言葉や概念は述べ、社会を大きく変化させる場合がある。政党は言葉や概念によって大きく社会を変化させうる力をもっている。言葉や概念を思想という場合にはよい思想をひろめることによって世界をよりよくしようとし、人類の叡智を人類全般にひろめようとしているのである。政党は日々の政治活動を通じて日々の日常の問題を訴えかけて、人類の叡智によって社会にある問題を解決しようとはかっているのである。

イ 政党党首と党員―党議拘束―

 金 子 哲 夫君(社民)「参考人は、党議拘束は将来的に緩和されるべきと言うが、比例代表制による選挙では有権者は政党に投票することになっており、比例代表選挙で当選した議員は政党の決定に従って行動すべきではないのか。比例代表で当選した議員が所属する政党と異なる政治行動をとることに問題はないのか。」

 政治は生活のすべてをおおっているがすべての人間が政治的活動を行うのではない。本を書く人がいるのと同時に、本を読む人がいる。同様に政治的活動は影響を与える場合と影響を受ける場合の二通りがある。そのどちらの割合が多いかは主体性の問題である。多党制の場合には意見の違いが多くの政党を産む。日本でも政治団体としての届出は多い。意見を二つに集約しようという二党制の場合には一つのイッシュー毎に意見を求め、決定するが、二党制になった場合でもアメリカの場合には党議拘束は弱く、ログローリングのような制度も存在する。よき国民であるということは、よき政党人であることであろうか。政党はどの程度にポリス的動物である人間の本性をつかまえているのかにかかっている。いい政党が無い場合には多党化する傾向にあるといえる。外国に居住していて、参政権がなくてもよき国民でありうるように、よき国民であることはよき政党人でありうるであろうか。国家は領土と、国民と、主権から成り立っている。国家の内にはさまざまに相違する多くの国民がいる。そして外国人もいる。よき国民とは一般には法を守り、徳を持ったよき政党人である。外国人であっても法を守り、徳を持ったよき政党人でありうる。政党を応援し、活動を行っている場合である。その場合には漠然とした定義ではあるが、同じような政治思想を持っているものが政党人であるという定義を使っていることになる。そうなると政治思想や、政治思想史を学ばなくては定義そのものがあくまでも漠然としすぎることになる。分類そのものができなくなるのである。分類が出来なくても政治的なものを人間は持っているのであるからすべての人が政党人ということになる。それはアリストテレスのいう「人間は政治的動物である。」という意味においてである。しかしそれが巨大な二大政党になるまでには多くのプロセスが存在するであろう。
 コンピューターでテレビまでがデジタル化される時代には自由を考慮する必要がなかった事柄にまで自由を考慮する必要に迫れている。ブログによる意見の発表であり、情報公開制度による公開情報などである。個人情報保護法や防犯ビデオの範囲などの問題である。しかし0か1に変換するといってもあくまでも全体が一つであり、根本は人間一人を一人と考えるという平等論に帰着するというバーリンが平等論で述べている事態に変化は無い。つまりは人間を一人として認めること以外には何も出発点はないといえる。

ウ 政党と圧力団体と政治献金

「春 名 直 章君(共産) 政党は、日本では結社の自由に黙示的に組み込まれたものとして、ドイツでは国家機構の構成部分として、それぞれ憲法上位置付けられていると考える。また、我が国では利権政治という政党以前の問題もある。このようなことを踏まえ、憲法と政党との関係を考える場合の基本認識を伺いたい。
1994年の我が国の「政治改革」には、違憲的なものがあるのではないか。また、参考人は、「政治改革」がドイツの制度の「いいところ取り」と指摘するが、これはどういう意味なのか。政党助成が政党の政治資金の5割を超えれば違憲であると判断したドイツ憲法裁判所判決の意義について、見解を伺いたい。
政党に対する企業・団体献金は、利権政治の温床となっており、企業・団体に参政権がないことから禁止されるべきであると考えるが、いかがか。また、民主制のルールのうちで最も重要である政治と金に関するルールをきちんと作るべきであると考えるが、いかがか。」

 政党の規定を憲法が持っているドイツとは違って、日本国憲法は政党の規定をもたない。しかし実態としては政治の中心として多くの政治献金を受け取っている。政治献金に頼っているのはアメリカの政治において特に特徴的である。また政党助成法により政党の規定と政党助成が行われている。 
政治学には個人と団体の問題がある。政治は個人の問題であると同時に団体の問題でもある。圧力団体はイギリスでは多くは利益団体と呼ばれており、アメリカではロビー活動を法的に規制しているので圧力団体と呼ばれることがおおい。また「自由放任の終焉」書いたローウィは利益団体リベラリズムと大恐慌後のアメリカ政治を描いた。これはウッドロー・ウィルロンが「新しい自由」を書き、委員会中心の政治の動きを描写したのとパラレルであるといえるであろう。圧力団体の多くは事業者や消費者や労働者の団体である。事業者団体は独占禁止法によって、消費者は消費者保護の法によって、労働者は労働法によって規制されている。独占禁止法上事業者団体とは事業者が二以上集まったものである。これらは利益団体あるいは圧力団体と呼ばれて政党と一緒に研究されている。政治過程の研究である。独占禁止法において経済的自由を導入するときの政治過程は研究するには歴史的にも第二次世界大戦後の状況と今を比較しながら研究していく必要があるので、難しい課題である。それらは政治に利害関係が発生した場合には最高裁判所にも、国会にも、行政機関にも関係を持とうとする。その場合の政党の機能は主に二つあり、意思の表明と、コミュニケーションのチャンネルの提供であるとサルトーリは提示している。この政党の体系的な役割はすべての団体を包括するような全体的なものである。国や地方や地域に問題が起きたときに国民および世論にどのような問題提起を行うのか、どのような論理で演説を行うのか、そして人々にどのように訴えるのかが政党によって意思表明されなくてはならない。平和な時代における平和な兵器を国民から預かっているような存在が政党である。君主論は君主政治について、共和政治については他の書物ディスコルシと一般に呼ばれているローマ史論にマキャベリは書いたといわれてはいるが、民主政治における党首が「君主論」における君主と似ているのは君主と党首の両者がおかれている政治状況からも伺える。 
 政党がとらえがたいのは政党の存在意義が、自由の存在意義と似ているところからきている。結社の自由から発生した政党はいつでも自由に他の結社を形成できる自由からできあがっている。サロン的な存在であるといえるからである。自由が様々な性質を持つように政党も同様な程度に多くの性質を持ち、どの性質によって本質が定義できるかは政治学の新たな課題である。これまでは主に資本主義国家圏に味方する西側諸国に好意的な政党と、共産主義国家群に味方をする政党に分けることができたが東西冷戦後の政治学の根本問題は東西冷戦の終焉に起因している。事業者団体でその団体に独占性と必須性がある場合には容易に他の事業者団体を形成することは出来ない。領土にしばられている国家についても容易に他の国家を形成することはできない。自由は拘束のない状態であるから、政党は政党人が他の政党を容易に作ることを妨げることは憲法上許されないからである。人間は自由な存在であり、外部からの妨害がない限り、自由な活動を行う存在であり、自由に変形可能な存在であるからである。
 自由な制度は結社の自由が保障され、政治的自由が確保されて初めて担保されうる。
 自由民主主義には三つの種類がある。そのいずれも民主主義を前提としている。民主政治の基礎は個人の自由にある。これは自由民主主義の前提である。そのような個人をどう調整し、どのようにして国家に統合するのかが政治の課題であり、政治の結果国家が制定した法の課題である。法の支配が憲法によって保障され、言論と、討論の自由が確保される必要がある。憲法が国民主権として表現しているものである。日本国憲法が民主政治と、平和主義と、基本的人権の尊重をうたっている理由は個人の自由を基礎としているからである。結社の自由はできるだけ多くの結社がうまれることを想定しているが、同意によって二党政治に、あるいは、主導権を一党がとった二党あるいは多党政治になることを妨げているものではない。国家機構としての三権分立制は独裁を予防しており、一党独裁によって言論の自由を禁止することは許してはいない。一党独裁によって自由民主主義を達成しようという考え方も含まれている。マルクス、エンゲルス、レーニンという共産党宣言以来の考え方である。国家が独裁の思想は許しているという見解もある。それが現在の危険を明白に予見されない限りという停止条件をつけているが。
 古典古代から多くの政治思想が生まれた。世界には名著として古典古代から、中世から、近世から時をへだてて読み継がれてきた多くのクラシックと呼ばれる政治思想がある。世界の名著にはそれぞれによい思想と思われる思想が含まれているからこそ、読み継がれてきたといいうる。どのような政治思想を持つのかについては超国家主義のような政治思想やナチズム、ファッシズムのような政治思想もあるので、じゅうぶんに内容や結果を政治思想として検討した上で論じなくてはならない。経済思想についても同様である。特に経済思想は物を奪うという思想も経済思想であるという考え方もあり、批判のみでなく積み上げられた思想が必要である。政党を同じような政治思想を持つものが集まった集団であり、特定の原理を信奉するか、所持する集団であり、かつ選挙において候補者を擁立する政治的集団として政党を定義するのか、選挙という概念を政党の定義に持ち込まない方がよいという意見にくみするかは別としても、同じような政治思想による特定の原理をいう考え方はじゅうぶんに検討に値することである。特にイデオロギーや理念の終焉が叫ばれてからあまりにも多くの時代と期間が流れてしまった現代においてはじゅうぶんに検討し直すことは特に重要である。
 東西冷戦後の政治学の根本問題とその解決はこのイデオロギーの終焉の問題の解決と深い関係を有している。バーリンが消極的な自由と積極的自由の二つの自由の問題を提起したこの問題こそ東西冷戦後の政治学の根本問題であるといえる。この問題は自由論に大きな解決を迫っている。

 エ 政党とメディア・ポリティックス 

仙 谷 由 人君(民主) 「議会及び政党の役割として「争点化機能」は大切であると考えるが、昨今、メディア政治・劇場政治と言われるような中で、国会が確かな議論を行っているにもかかわらず報道されないという問題がある。その一方では、ワイド・ショー番組によって形成される「世論」なるものが存するようであるが、参考人は、今後、こうしたメディアと「争点化」の問題をどうすべきと考えるか。」

自由は情動的であるというのはイギリスの政治学者のモーリス・クランストンである。理の政治理論か、情の政治理論かというような政治思想上の問題が投票に影響を与える度合いと同様な程度に、マキャベリの言うような慇懃さのような党首の態度によって判断されるようになってきた。
慈悲心よりも冷酷さによって、チェーザレ・ボルジアは混乱を治め、統一し、安定させ、忠誠を誓わせたとマキャベリは評価している
人のぬくもりを感じる政治か、人当たりのよさの政治かのようなテレビ映りを重視したような政党の見方も普及してきた。言葉による政治という意味でメディア・ポリティックスとか政治宣伝の方法や、選挙株式会社の研究が進んできている。フランスやアメリカの選挙においては特に大統領選挙においてはリテラシーやメディア・ポリティックスの側面は大きい。テレビにおける党首討論が生中継される時代には、党首の指導性の好感度はテレビ映りのよさによって形成されることが多くなってきた。アメリカにおける二大政党の党首討論、日本の国会における党首の代表質問、イギリスの国会討論、フランスの大統領選挙においてのテレビ討論などによって選挙の際の投票行動が影響されることが多くなってきた。少数政党の排除の作用を有するという指摘もある。党首に人間的な温度を感じるかどうかの温度差が投票結果に影響を与えているという結果からみれば確率的には重視すべきであるということになるのである。親近感や顔などの好き嫌いや好感度が、投票結果を左右している確率が大きいからという理由によるのである。テレビに頻繁に登場するかどうかが投票行動と投票結果に大きな影響を与えることは容易に理解できる。従ってメディア・ポリティックスという観点からはテレビなどのメディアの買収やらが功を奏する場合も考えられる。イラク戦争においてはアルジャジーラが活躍し、マードック氏がメディアを買収しようとしたり、イタリアの大統領がメディア王であったことも記憶に新しい。
しかしテレビメディアの世界においてはリンカーンが南北戦争前の人種差別に関する討論を行ったときのように現実の政治的問題に対する討論の内容、特に言葉による政治にも大きく影響されているといいうる。大統領職に必要な資質は古典古代のギリシャ、ローマの時代からの雄弁さという資質が重要であり、その資質は政治思想とも深く関係しているといいうるであろう。大統領の指導力もリテラシーによって影響を受ける。新保守主義を標榜したブッシュ政権には保守主義の学者がいたといわれている。国会の討論の生中継や、国会の委員会での討論やらにおいて雄弁さを誇示し、その討論がニュースや中継で放映されることによって党首や政党人に対する評価が高まる。キケロMarcus Tullius Ciceroの雄弁さやリンカーンの討論時の演説はつとに有名である。紀元前44年に古代ローマの政治家キケロが行った、アントニウスMarc Antony(Marcus Antonius)を激しく攻撃する13回の演説や、1858年のアメリカ中間選挙で民主党の有力者 S.ダグラスと共和党の A.リンカーンの間で、春から秋にかけて7回にわたりイリノイ州の各地で行われた討論は討論を厭わない自由な気質から生まれたものである。リンカーンはその後の1863年11月ゲティスバーグの演説においては「人民による人民のための政府は地上から消滅させてはならない」という不滅の言葉を残した。リンカーンの時代はテレビがなかったので討論は全国に中継されたわけではなかったが、全米に大きな影響を与えた。この際に問題になったのは人種差別と平等の問題であり、現在もアメリカ社会で続いている人種のるつぼの中でのエスニッシティーによる不平等の是正の問題につながっている。ヒスパニックの人種や、黒人の人種の問題など今も続いている問題である。雄弁さeloquence 、silver tongue、oratoryなどと呼ばれているものが必要だと考えられている。キング牧師の公民権運動における演説も有名である。
この当時はテレビ中継がなかったのでテレビ映りのよさよりも雄弁さが重視された。古くからいわれてきた雄弁さは古典古代のギリシャ、ローマの時代から討論の自由があるところでは常に大切な資質であると考えられてきたのである。民主政治にとっては討論の自由、表現の自由はもっとも重要な基本的人権の一つであった。国会の不逮捕特権にも表現されている。政治思想や、思想の共有化、伝播のためにも必要なものである。たとえばギリシャ、ローマの時代には奴隷制度があったが、それをアリストテレスの広範な教科書の中に見つけ出すことができないという議論もする。学問や討論の自由があったからリンカーンは主張できたのであり憲法の規定の存在が必要であり、リンカーンの演説から得られるものは更に多くなる。討論のよさによって社会をよりよい方に向かわせることができるのである。よい社会を作るという意味では、本当の選挙と本当の戦争は似ているようで似ていない。戦争は破壊するが、選挙はよい社会を作ろうとする建設的なものであるからだ。戦争が心理学的なカタルシスによって選挙に変化したといえる。

オ 政党と選挙と政治的な諸団体
  「松 浪 健四郎君(保守) 参考人は、政党についての憲法上の根拠を21条の結社の自由のみで十分と考えているのか。議院内閣制は、政党政治である以上、憲法に政党について明記する必要があるのではないか。42条は二院制について規定するが、政党が充実していくことを前提に、今後、一院制へ移行していくべきではないか。また、二院制を維持するのであれば、参議院を職能代表とする等両院の機能分化を図るべきではないか。
現行の衆議院議員の選挙制度である小選挙区比例代表並立制については、違憲ではないかという議論があるが、参考人の所見を伺いたい。」
 「 福 井   照君(自民) 私は、選挙を通じて、国民は一人ひとりの人生が国家のヴィジョンとなることを欲していると感じ、そのような政治の実現を訴えて当選してきた。そういう立場から、参考人の意見からは、「部分」と「全体」の対話が重要であると感じたが、現在の議会の構成や活動等にはそうした対話が反映されているのか疑わしい。このような私の民意の解釈に対する参考人の見解を伺いたい。また、実際の選挙は多分に情緒的なものであり、そのような選挙の結果は、現実の政治にも反映しているのではないか。国家の運営を論理的にするためには、国民はどうすべきであると考えるか。」

選挙においては様々な団体と個人が候補者を応援する。選挙のときにはその団体の数は100以上になる。
政党は一橋大学や、東京大学のような学歴やらによる学閥や、長州閥のような出身県閥や、門地により差別された門閥のようなグループがパブやサロン、政党や労組事務所、 会議・サークル室、 多目的ホールなどにおいて形成されてきたような側面がある。民主政治における結社の自由から生まれたものであるからである。思想の自由という自由から生まれてきたものであるからである。
そして組織ができ、党首と、その秘書のような職員、党員ができてくるのである。そして他の党首との選挙における戦いを行わなければならなくなって、選挙における票集めが必要になるのである。その際に国民に対してはよい社会を作るという討論やその他多くの要素が必要になってくる。
一橋大学や東京大学、早稲田、慶応大学の同窓会団体がファンドを持ち、活発な活動を行うのはまずはサロンのような場所でサロンのような親睦団体を作ろうとしたことが主な動機であろう。しかしよく自分の同窓会から首相を出すように活動を行うことがある。また華僑が華僑出身の政治家を応援するというような場合には、直接的に政権を取ろうとしているのではなくて、政党を通じて政権に近づこうとしているのである。第一次のサークルから、第二次のグループにいたり最終的には政党に関係することがある。サロンのような団体は自由に参加や、形成を繰り返すことができる。いわゆる結社の自由から導かれる権利である。
宗教の違いもまたサロンのような団体に似ている。宗教の自由という基本的人権によって守られているからである。クリスチャニティーやブッダヒズムはエスニッシティーを乗り越えて横断的に形成される集団である。これらの集団の組織がどのようになっているかを研究していくことは、政治の過程を研究する上で現実的な研究対象である。
労働組合はさらに重要な集団を形成し、政府と対等な立場で契約を行える立場を政治社会の中で形成しているという立場をとる人々がいる。組織としては厚生労働省や国際労働機関ILOなどがある。但し労働運動については分派が多くて、分類しきれない。世界の政党の見方や、世界での労働組合の支持する政党の集まりにしても分派が多くて、分類できない。かっては第一インターとか世界的に広がった運動の中心があった。労働組合の運動はマルクス、エンゲルス、レーニンの思想を中心に動いてきた。現在でもそのような中心を持っているが、労働者の幸福という同一の概念で競争を政治思想や、政党が競争を行うためには、多数を獲得できる可能性がある必要があるので政党という現実的側面によって運動の方向が変わりつつある。労働組合については産業別の労働組合(日本型)と、全産業を網羅する労働組合(アメリカ、イギリス型)との差が労働組合運動及び労働者の政党支持に大きく影響を与えている。

事業者団体には競争を重視する見地から、競争制限的な行為が禁止されている。
ドイツでは競争制限禁止法によって、事業者団体及び資格者団体及び品質管理団体については平等性及び公平性の見地から入会拒否は禁止されている。当然に思想信条の自由による入会拒否は私的な事業者団体の公的な性格からすると禁止されていると考えられる。事業者団体は事業者が事業の利益の増進のために集合した団体であって、思想信条によって集まった団体でもなく、サロンのような団体や趣味の親睦団体ではないからである。
各事業者団体については世界的な市場の中で動いている。世界の事業者団体の連合体は、市場の競争制限を禁止する法によって競争性を確保しながら、世界の公共の利益と、消費者の厚生を高めるために活動を行っている。
事業者団体は各市場ごとであるので、各市場の特性に影響されて、その性格も大きく変化するが、各事業の利害に関して政党などを通じて圧力をかける場合がある。独占性や必須性がある場合には特に入会拒否は禁止されていると考えられる。日本では資格者団体については強制入会団体の税理士会について思想信条との関係での最高裁判所の判例がある。アメリカの連邦最高裁判所はアメリカのノースウエスト・ステーショナリー判決において独占性と必須性がある場合には入会拒否は当然違法であるとしている。
国際連合は主権国家の連合体として国家を超えた規範を模索中である。
EUのような国家の連合においては、思想信条の自由と強制入会との間での葛藤がある。
世界銀行のような世界の貯蓄である資本を管理している世界の団体もある。OECDなどの世界規模の経済団体がある。IMFのような世界の金融に影響を与えている世界規模の金融機関もある。これらは戦前には存在しなかったものである。
世界の政治がグローバル化してくると同時に、世界規模の団体が政党に影響を与えることは今後は大きくなると考えられる。グローバル化と地域の文化とは矛盾することもあるが、地域の政治経済文化も次第にグローバル化の影響を受けていくであろうと予測されている。
イギリスの社会も、アメリカの社会も、フランス、イタリアの社会も法の支配によって統合されていると同時に、宗教の自由が認められていることによって、宗教的基盤が政党に影響を与えていることは見逃すことができない。信教の自由は宗教と政党との関係も自由としたのである。キリスト教や、仏教や、イスラム教が主たる宗教となっている社会においても同様のことがいえる。
世論という概念がある。国民がどの政党や、どの党首を選ぶかというときに世論が果たす役割が大きいが、世論は多くの国民によって決定されている。多くの国民はそれぞれ「違った」環境に住み、「違った」思想を持っている。国民が政党や党首を選ぶという時にはその相違は捨象されている。選んだ後には最終的には投票という形で固定化される。政党の候補者に投票するとき、政党そのものを選択し投票するときには政党が意識されていることになる。選挙の結果が世論と呼ばれることがある。選挙に影響を与えるなにものかが世論と呼ばれることもある。選挙の結果世論が示されたという時には選挙が世論であるという前提に立ち、選挙の結果が世論を反映していないという時には世論は多数決によっては表明されていない世間の空気のことである。選挙が世論の形成に影響を与え、「違った」個人が政治に影響を与える道具であることに変わりはなく、現に与えていることも確かであろう。棄権する人も棄権によって政治に影響を与えているかもしれないが、棄権しない方が政治に大きな影響を与えるということも逆説的に正しい命題である。投票用紙を数え、多数のものに公職に付かせるという絶対的な規則は政党政治においては非常に大きな意味を持ち、これがために党首による票の獲得競争が展開されることになる。
党首の戦争は、まずはサロンのような団体であった思想信条の自由と、結社の自由に守られた団体をサロンのような集団組織を形成させ、サロンのような組織に変形させる。この際に党の綱領や、党の規則が作られることになる。日本の最初の立憲改進党のような組織もこのような二つのものを形成し、近代的な政党に脱皮することになった。そしてよい党員を集め大きく成長することになった。よい党員は国民に対して自らの綱領を説明して、演説やらによって一票、一票を丁寧に集票活動を行っていくことになる。これが政党による政治活動であり、選挙運動である。
最初は政党は分派活動と見られた。Partyとは分派という意味であり、一部の人の利益を守る部分利益と見なされることが多いからである。派閥というものも分派でありPartyであることには変わりはない。日本における派閥政治は部分利益よりも政党内競争という意味を持っていた。派閥も政党も最初は偏った極端な思想の表現であるととらえられた。それはまだ多数を形成していないし、多数を形成する過程であるからである。多数を形成した後には多数の横暴として論じられるのはこの意味での政党の当然の帰結である。
全体主義や超国家主義に見られるような偏った思想というものは哲学の貧困から発生するものであると考えられる。偏っていない思想というものが何かの定義は難しいが、思想信条の自由はあるものの、思想のために死んだり、超国家主義や哲学の貧困から発生した他国の敵視を主張する国家主義などは、哲学の貧困といえるかもしれない。思想は相対的なものであるからである。これらについては相当に学問的研究が進んでいる。また敗戦の痛手から戦勝国を敵視するのも偏った見方であると考えられる場合もある。しかしすべてが世論の動きによって正当化される場合もありうるのであるから、政党政治においてはどのような場合にも世論に任せると同時にチェックアンドバランスを維持する必要があろう。
君主政治の場合でも、君主の行動に対しては国民による監視が少なからず行われていて、チェックアンドバランスの機能があったと考えられる。国民がいやな改革が行われれば、君主も長続きしなかったし、国民に役に立つ改革が行われれば君主も長続きしたであろう。しかし選挙運動による選挙によるものではなかった。またある領土の中には他の君主がいるわけではないから国内からの反乱による場合を除いて君主の敵は外国にいるわけであって、党首が君主に似ていると入っても敵が外国にいるわけではなくて党首の敵は同じ領土の中にいるのである。従って政権党首というのは反乱を恐れている君主に似ている。政党は法の支配の中では国会議員や内閣の大臣、大統領職という特殊な政治的な地位を得ようとするものであって、選挙を通じて代表になろうとするものの集団で、その組織であるということができる。政党の主な目的はそこにあるのである。主な目的がそうではあっても、政党政治においては政党はさらに国家機構そのものの方針を決定できるくらいの大きな存在である。
政権政党ではなくても政権を取ろうとしている政党は影の内閣を組織し、政党の組織を持ち、党首は君主に近い立場である。行政機関同様に経済、財政、労働、厚生などに精通し、司法や、立法に精通しておかなくてはならない。そうなると一国に他の君主が存在するのと同じである。そうすると一国内に他の君主に似た政党の党首がいることになるが、しかしそれが認められるのが政党政治においては基本的原則となる。一党のみによる政治の場合にはそれは存在しないことになる。下部構造である経済の上にたつ文化や政治によって他の政党も成り立っているのであるから、一党のみで事足りるという考え方やらの理由によることになる。
憲法上の統治機構の中には政党ははいっていない。政治機構は立法、行政、司法の三権から成り立っているとされている。政党のうちには政権政党がある。政権政党が独裁に陥っても政権政党による政治機構の中ではチェックアンドバランスの機能が働かない場合があり得る。この場合独裁とは国民の意志と背いた政治を行うことである。独裁は政治のガンであるという言葉があり、ガンである独裁を正す仕組みを社会科学は持つべきであるとされている。それは医学になぞらえられているのである。独裁が起こるのは三権分立、四権分立(マスコミを含む)であったりしても、チェックアンドバランスの機能がうまく働かないことによる。そのような場合に政党政治においてはチェックアンドバランスを国民の世論、意見によって回復させようとする。解散によるものであったり、解散によらない通常の選挙によるものであったりするが、国会議員の総選挙によって世論に問うたり、大統領職にそのままとどまるべきかの世論を大統領選挙において問うのである。政党政治においては政党と統治機構との直接的な関係手段では選挙が基本的な手段となる。他に言論や、意思表明、連絡、デモンストレーションなどの手段が存在するが、最終的には選挙によって国会議員職や、大統領職を得るかどうかが最も重要であるといいうる。ほかには国民投票や、レファレンダムのように他の手段もある。 
現在では四権分立と呼ばれるのはマスコミを加えた権力に対してである。統治機構の三権分立とマスコミとの間でマスコミが三権に近い場合と、国民に近い場合とがある。マスコミが国民に「民はよらしむべく知らしむべからず」の精神で近づく場合には、国民は何も知らなくなる。しかし現在ではテレビは多極化してきており多様な見解を知ることができる様になっているばかりではなくて、双方向通信の発達によって自分の意見をマスコミに直接届けることができる様になってきている。特に中心にネットワークの中心がある糸電話の原理を応用した様な技術のインターネットの発達によって、これまでの双方向の電話以上にネットワークによる網の目の双方向通信の技術が広がっていくことによって、マクルーハンが考えてもいなかった時代になってきている。これが世界のグローバル化を促進してきている技術的な側面である。
このような時代にはマスコミが政治機構のみに近づいて、国民に近づかないことはできない時代になりつつある。マスコミがこの新技術に大きく影響されてきていて、「民はよらしむべく知らしむべからず」という方針をとれなくなりつつある。マスコミはもともとは党派新聞から始まったものであり、政権を持った政党が自分の党派の考え方のみを伝えて、他は伝えないことも可能ではあるが、それが一般新聞になればできない時代になりつつあるのである。マスコミは多様な見解の中の一つの見解のみしか伝えないとすれば、それはマスコミがある一つの党派のみによって所有権をもたれていて、その一つの党派のみのために作られたマスコミであるか、一つの党派専用に使われることが契約によって特定されている場合である。この場合にはマスコミというよりも機関紙ということになろう。国会とマスコミとの関係はテレビで国会の中継を行ったり、委員会での中継を行ったりしたすることによって、国民と政治機構のコミュニケーションチャンネルの一つになることである。多数のチャンネルができてきているので、多くのチャンネルがあることが国民にとっても望ましいことになる。最も大切なことはマスコミが国民に多くのイッシューの本質的な核心的内容を伝えていくことである。それは党派を超えたものでなくては意味がないという見方もありうる。何故なら一党派のみが見ている内容のみであって、核心を付かない内容だけであれば、党派新聞でじゅうぶんであるということになるからである。一党派新聞などのマスコミのみがマスコミを支配している場合には国民はその報道する内容しか知り得ないことになる。三権分立をさらにチェックし、社会の権力のバランスをとるためには第四の権力であるマスコミであって一党派の新聞になることが、公器故に許されないか、あるいは、他の党派の国民は需要しないことによって党派新聞に逆戻りするということになる。党派新聞ではない場合には、マスコミは公器として政党がイッシューを作り出す前にマスコミがイッシューを作り出し、そのイッシューの解決策を各政党に問いただしていくことがある。オピニオンリーダーとしてマスコミと政党が競争することとなる。
現代の政党政治においては、政権政党が変わることによって政党の連続性が断ち切られる場合には革命と見られる場合がある。政権政党が変わっても前政権からの連続性が担保される場合には変化は少ないが、前政権とは全く違った政策を持った政党が政権をとった場合には革命的な変化が起こる。武力によって政党が政権を取り、劇的に政策を変化させる場合はクーデターと考えられるが、平和裡に劇的な変化が起こった場合にはクーデターではなくて革命が起こったのであると表現されることが多い。
革命が国民の支持を得たということは結果として大きく社会が変化したということである。あるいは革命が社会を変化させたといいうる。これが事前か、事後かという問題は重要である。穏健な思想は社会の変動に思想を合致させようとするが、ラディカルな思想は思想によって社会を変えようとする。

2  国家と国民、人民の、人民による、人民のための政治−現代人と現代民主政治― 

リンカーンのゲティスバーグ演説のうちの人民の、人民による、人民のための政治ということばは、何の注意も払わないで読むと当たり前のことを言っていると思われて無視されてしまう。ところがこの言葉の中には非常に重要な含蓄が含まれている。
 歴史的にはギリシャ時代がなぜに君主政治よりも、民主政治という言葉がうまれたのかはわからない。しかし何故かデモクラシーという言葉がギリシャにおいてギリシャ時代に生まれたのである。そのデモクラシーを簡潔にいいあらわしたのがこのリンカーンのことばである。
 国家は領土と、主権と、国民から成立しているとされるが、ほとんどの場合には何故か権力は皇帝や、国王とか、天皇と呼ばれている特定の人に所属していた。これは民主主義という概念があっても、民主主義の政治がなくなった後のアテネにおいても同様であった。
 これを君主政治と呼び、この概念を民主政治に変えるのには相当の努力が必要であった。イギリスのロックもフランスのモンテスキューもアメリカのリンカーンもそのための多大の努力を行った人物であるということができる。
 アメリカにおけるリンカーンのことばは黒人をも含んだ人種のるつぼの中の多くの人種からなる国民を人民と呼んでいたと考えられる。アメリカにおける君主のいる政治からの転換は独立宣言の中での君主に対する対立ですでに終わっていたからである。君主が統治を行っていた人種の問題が存在しないフランスやイギリスでは、この人民による政治とは政党による、国民のための、国民の政治を意味していた。国民による政治は政党による政治に置き換えられた。国民とは何かの問題は政党人とは何かに置き換えられたのである。アメリカでは確かに国民による、国民のための、国民の政治とは黒人を含んだ国民という意味が中心的な課題であった。
 イギリスではマグナカルタから始まる君主に対抗する政治的な動きは君主政治との対抗であった。フランスにおける君主に対する対抗する概念も同様であった。しかしフランスの方が急進的であった。それは経済的に後進的であったという理由もあるが、国民という概念が人民主権的な概念を過激に含んでおり、フランス革命の最中においても概念的に政党政治の概念がより少なかったのである。イギリスでは政党はサロンのようなものではあったが、育ちつつあったのである。それ故にイギリスでは君主政治を君臨すれども統治せずという状態で残すことを考えうる余裕があったし、その考え方は戦後の日本に移入されたのである。
 ドイツでは政党政治の概念よりも君主の官房政治という概念の方が強く、戦前の日本に移植され、憲法的には大日本国憲法に継受されたと解釈しうる。
 政党政治が発達した国においては、君主による政治は政党による政治に移行していくことになり、君主は政党の党首とのアナロジーが強くなっていくことになる。君主を残した国では党首と君主との関係は立憲君主政治の中での先の象徴天皇政治の様な概念化が図られ、権力そのものは三権分立のような権力分立が図られていくことになる。立憲君主政治においては君主も相当程度の政治的な役割を担っているといえる。
 君主は伝統的であり、保守的であると形容されることがある。士農工商の世襲制度は残さなかったとしても、侯公伯子男のような貴族制度を残しているイギリスでは貴族制度は世襲制度として残したのである。日本でも天皇制度は世襲制度である。
 これらをすべて含んだ概念としてリンカーンは人民による、人民のための、人民の政治と演説したと考えられる。この三分程度といわれるゲティスバーグ演説の意味を深く説明するのには長い説明が必要である。
 政治とは何かという問題とも深く関係しているからである。それらの制度がどのようであっても国民の(人民の)生活はずっと続いていたのであるから、政治は同じく続いていたのである。
 その間政治はどのような機能を持っていたのか。紛争の予防をし紛争を解決し、中止させることや、自由を回復してやること、不平不満を解消すること、仕事に勅許を与えること、軍事的に強制して市民軍を構成すること、封建制度の下で封を与えること、それも平等性を確保すること、特に功績に対する平等性を確保すること、機会の平等性を確保すること等々である。
 政治のためにはクリスチャニティーとよばれるようなキリスト教との関係を深めたり、仏教やらとの関係を深めたりした。政治と宗教は深く関係していたのである。しかし政治と宗教の関係は宗教の自由の侵害を防止する目的で、政党と宗教との関係の自由に移っていくことになった。
 政治の機能という点では君主は、党首と似た様な考え方を持っていた。党首はしかし誰もがなることができる上に、世襲制ではなかった。
 経済的不満というものを中心に考えて、憲法や政党の経済的な解釈においては政治過程の環というものが考えられる様になった。

3 東西冷戦後の日本の政党

 日本の政治体制は政党的には一党優位である。この理由は東西冷戦中においては資本主義国家圏の一員であらねばならなかったからである。東西冷戦後をにらんだ政治ではどのようであるべきであろうか。55年体制における日本は政党'一党優位である必要があった。自民党の一党支配が終焉した1993年はすでに1990年の東西冷戦終了以降である。日本共産党を有意な政党と認めなければ、全政党が政権に参加したことがあるという経緯からみて、穏健な多党制が当てはまるという見解もある。2003年以降の民主党と自由民主党の対決は、二大政党制といえるであろう。しかし日本共産党が有意な政党、イデオロギー政党と認めれば分極的多党制であり続けたということになる。あるいは自民党と公明党をドイツのドイツキリスト教民主同盟CDU、キリスト教社会同盟CSUのような姉妹政党とみなせば、一党優位政党制が復活したという論理も可能である。
 日本共産党を有意な政党と見るかどうかという一点において科学的な分析が不可能となっている日本の現状を打開するためには日本共産党が社会民主党との統合や、民主党との統合を模索する動きがある。日本においてはマルクス主義の影響を強く受けた学問が影響力を持ち続けていたためにいまだに日本共産党がイデオロギー政党としても、残り続けている。また教職員組合の中でも長野、佐賀をはじめ8つの県で日本共産党が支配力を持っている。逆に労働組合の勢力が弱まってきている団体もあり、連合及びその他の労働組合団体の政治的影響力の歴史的また現実的な研究は政治学でも経済学でも実態的に研究されている。寡頭制の鉄則を主張したミヘルスの主張はその様な研究から生まれたものであった。
つまり日本は自由主義的な新古典派的な経済をつくるための橋頭堡として自由主義経済の砦としての地政学的な場所に存在した故に、自由民主党はそのような位置に限定された役割を負わされてきた。それ故に一党独裁的な組織運営が可能であったのである。ところが東西冷戦の終焉が見えてくるにつれて、それが不可能になってきた。見るべきものはアジア共同体、ヨーロッパ共同体、アメリカ合衆国の三つとなってきた。つまり日本にとって視野が狭くなるどころか、広くならざるを得なくなってきたのである。
 日本の政党はイデオロギー政党の色彩がもともと強く、政友会系の進歩党と、自由党が大同合併して自由民主党を形成したときから大隈重信の戦前の立憲改進党系、板垣退助の自由党系の系統であった。大隈重信はイギリスのミルの自由論や、イギリス型の立憲君主制を理想としていたし、板垣退助はフランス型の王権を打破した伝統と、それを受け継いだルソーの社会契約論を理想として、理論として受け継いだ。一方実際的には資本主義の成熟がほぼ同程度の段階であり、君主もイギリス型でも、フランス型でもなかったドイツに習った君主制を採用した。政府はドイツのプロイセンで学習を終えた伊藤博文を中心に憲法制定を検討していたために在野の二大政党の考え方は採用しなかった。このために御用政党としての政友会が主導権を握った。
 この御用政党が隣保班などの自治会を使って、選挙を支配するという選挙が一般的になり、戦後も同様の傾向が続いているといえる。これを世間の概念を使って説明したのが日本独特の世間論である。世間は政治学や、社会学を乗り越えた不合理なものも世間として認めさせる、日本独特のものとなっていく素地となった。日本の政党選挙を世間による選挙と分析する見方がある。投票(選挙)行動について政治学者の内田満は、当時の東京の新聞の引用の中でこれを説明している。
 戦後も世間による選挙は続いていると分析されることが多い。
 選挙の投票においては自治会による決定に住民のほとんどは従っている。
 このようななかでも、日本共産党が民主党との合併を行うことによってのみ日本の政党の構成は変わりうるといえるのである。
 そうでない場合には日本の政党制はイデオロギー政党として性格を持ち続けざるを得ないであろう。もし日本共産党が有意な政党とは認められないくらいに小さくなるか、あるいは、日本共産党が民主党との合併を行うことになれば日本の政党制はアメリカの様に二大政党制に近づき、問題が発生する毎にプラグマティックに日本の進路を決定することができるプラグマティック政党制度になるであろうと考えられる。
 
4 東西冷戦終了後のグローバリゼーションと政党の変容

東西冷戦後は東西の壁がなくなり、グローバリゼーションが進んでいるので政治にとってグローバリゼーションへの対応が必要となっている。東西の壁がなくなったので人物金の移動は世界的になり、それに伴い政党もイデオロギー政党の性格を持ち続けることが出来なくなった。プラグマティックに政治的決定を時宜に応じて行うべき時になっているということであるからである。
 この東西の壁がなくなったということはイデオロギー政党として性格を持ち続けることができないことになっていると同時に、エスニッシテー毎による政党の存在が危うくなっているということができる。人種の坩堝の中にあるアメリカの政治制度、政党制度は黒人をどのように扱うのかという問題に直面した南北戦争を経た後に確立されたものであるが、人種の問題は重要な要素となってきた。
 文化的な対立が政治の主要な要素となるであろうという予言もグローバリゼーションの中では意味がなくなってきており、政党制度がプラグマティックに現実的に変動していくことは避けられないであろう。
 中華人民共和国も現実的に動いており、北朝鮮も現実的に対応を迫られているといえる。
 東西冷戦後は政党制度がイデオロギー政党としての性格からプラグマティック政党の性格を持ち続けざるを得ないであろうことが明確になってきたといいうる。
 今後大きく世界の政党制度が変動する可能性が存在する。
 この際にはイデオロギーの概念が大きく問い直されている。政治学上イデオロギーは重要な意味を持っているが政党というプラグマティックな側面を有している政党制から先に現実的な再編が迫られているといえるであろう。

5 政治学の根本問題の提起―自由と平等と博愛の観念の新しい時代、甘えの構造、他への義賊の心理、自由への渇望―
 
東西冷戦後の新しい時代の政治の根本問題について論ずることとする。
政党はグローバリゼーションの動きの中で、イデオロギーの終焉と共にイデオロギーの概念から脱却した国民政党に衣替えを行っている最中である。論理的に現在の政治の状況を説明するのが難しくなっていると考えることは妥当であろう。
そこで政治哲学上の自由と平等の概念に戻って政治をとらえなおして考える必要が出てきている。自由と平等と正義については歴史上対立する議論が存在した。 
クランストンが自由が情動的であり、自由には情動性があるという時には自由をリベラルなものと考えている。一方バーリンは自由には消極的自由と、積極的自由のみに限定して論ずる。これに対して共同体主義のニューレフトのチャールズ・テーラーはバーリンが消極的な自由というものは機会の平等を自由と呼んでいるだけであり、活動としての自由を呼んでいるのではないと反論している。ただバーリンが消極的な自由に対立する積極的自由を述べているだけであって、機会の平等を自由と呼んでいるのではない。
人間には経済的な弱者をいつくしむ心理がある。この心理は多少なりとも義賊に共鳴する心理を人間が持っているものとして義賊の心理と名付けることとする。ある平等を求める訴えに対してそれが甘えの構造によるのか、すねているのかを判断する基準が必要になってきている。義賊の心理はサルキングすねる子供に対して多少なりとも経済的に何かを与えるであろうという親の心理と共通のものとして認めざるを得ない。もしそうでなければバーリンが平等とは一人の人間を一人として認めること以外には何も認める原理は存在しないといったのと同じ平等の原理となってしまう。これでは東西冷戦後の政治学の根本問題とその解決法を探るときには一方的になってしまうからである。東側陣営がすべてなくなったというのであれば、すべての国で自由民主党のような一党優位制の政党制となってしまっているはずである。
アメリカでは二党制になっており、イッシュー毎に意見を求めることが多い。これがドゥォーキンが各政治主体にはすべての権利のカタログがあるという現実把握となっている。イデオロギーととらえずカタログとみているのは、イデオロギーの終焉あるいはアメリカの二党制の現実から生まれた理論であろう。イギリスでは政治学でも政党もイデオロギー的な性格を持ったままである。
イーガリタリアニズム、アメリカ、イギリスでは政治学で生活すべての面倒を見る政治をこの樣に呼んでいる。完全平等主義と訳す。あるいは全生活平等主義とでも訳せる。この主義ではすべていいことのみを選挙時に公約してしまって実際に政権を取った場合には予算が追いつかずに財政が破綻してしまうことになる。ドゥォーキンがその権利論において、各政治主体には権利と、自由と、平等と、博愛の観念が順序正しく述べられているはずだという時のイデオロギーの全体像はしかし現実の政治行政法の状態を説明しているとはいえない。それらの予算的な裏付けが必要である。
この予算との関連が必要であるとの概念は最近のマニフェスト選挙からヒントを得たものである。マニフェスト選挙においては選挙の公約が予算に裏打ちされていることを求めている。平等は予算との関係で完全に平等にすることができない場合がある、政治が「平等にする」ということを定義すれば、予算が集まり、義賊の心理によって平等にしてくれという付託を国民より受けた場合にあっては、政治の下にある行政・司法・立法がある案件に対して予算の中から平等にするような援助を国民に対して行うことを決定することを言う。東側の共産主義国家が崩壊したのは予算の裏付けのない夢のユートピアを国民に公約しすぎた故だった。
義賊の心理は税金の義務の概念の根本心理となっている。税金の集合を予算という。予算とは義賊の心理によって集まった資金の総体であり、集まった資金を人々に強制的な手段で分配することを政治という。自由は権利の発生原因であり、自由は自由が抑圧された時に主張される政治的な概念的な言葉であるが、平等は予算の範囲内で経済的資源を平等に分配し、自由の基礎的条件である資源をできうる限り平等にしようという政治的な概念的な言葉である。自由と正義が発展して平等と正義という概念となったのである。
 現代経済学とマルクス主義経済学との対立はバーリンが消極的な自由に対立する積極的自由を経済学的に表現したものである。現代経済学はマルクス経済学に対して個々のミクロの経済と、マクロの経済を統合していった。この経済合理性の考え方が国民に受け入れられた故に東西冷戦終了にいたったのである。ある人が貧乏になった場合でも何でもすべてが予算によって解決されるべきではない、生活すべてを政府が丸抱えしているのではない。義賊の心理も強制できるものではなく、バーリンが言う個人個人の、法人同士の自由な範囲があるというのである。
平等の概念が正義の概念と結びつくことがあるとすれば、予算との関係で是認されるときであり、無制限に認められることはない。この際自由は予算で認められる場合には権利となる。義賊の心理による人々へ干渉が認められるかどうかはリベラリズムにおいて積極性のある自由、いわゆるバーリンが消極的な自由に対立する積極的自由とほぼ同じような自由であるがそれが人々の義賊の心理による予算によって認められるかどうかにかかっている。政治体制自体は共産主義国家群にはいらなくても資本主義国家圏の一員であってもバーリンがいう消極的自由に対立する積極的自由の概念は成立する可能性がある。
但し歴史の必然性の概念などが成立する可能性は含まれていない。かって東側の陣営では正義の概念のうちでも、平等と博愛は義賊の心理に近く、リベラル(自由主義)という言葉が平等主義と博愛主義を表現するものとして使われていた。現在の義賊の心理とは裏腹に、義賊の心理は自由とは遠いところに連れていくことになった。義賊の心理は強制収容所を生み出し、自由を制限し、暴虐の限りを許すこととなった。
 自由、平等、博愛というフランス革命の三大原理はここにおいて調和を崩し、バラバラになったかに見える。それは義賊の心理が人間には存在する場合があるという理由からであった。ここに自由及び、平等と博愛をいかに調和させるのかの問題が発生することとなった。
 ヘブライ主義の思想の出番がここにはあった。ギリシャ思想が破綻したかに見えるときにはヘブライ主義が力を盛り返した。ヘブライ主義はもともと自然の神と、義賊の心理と自由とを調和したところから始まっていた。ここに調和点を見いだす余地が残っていたのである。
 義賊の心理はひょっとしたら自然の天変地異によって起こったのかもしれない。あるいは制度の不備によって起こったのかもしれない。人間の知恵によっては解決できない問題かもしれない。その時に自然と、社会が一体となった神の概念から出発していたヘブライ主義に人類は戻らざるをえなくなっているのかもしれないといいうる。
東西冷戦後にはバーリンが消極的な自由に対立す積極的自由を述べたような意味で、政治思想史上の自由の学問上の性質の問題が解かれなくてはならなくなる。神や運命に自らの自由を委ねていると考えた時代からはじまり、その上に立ってミルが自分で注意する能力であると解いた政治的自由も、貧民であっても自由に選択する自由という負の所得税のフリードマンにいたり、(この研究は更には他の人々からの保護のみで活きるよりも、つまりたとえば生活保護をうけるよりも自己で働こうとする自由を持った人間の本質の研究にいたるが)、自由の法的性質を説いたハイエクは特に経済的自由の擁護を行ったのであるが、更にはアイザイア・バーリンはミルの跡を受け継ぎ自由を所有権や、独占禁止法における妨害排除の請求権と匹敵するような否定する自由(日本では消極的自由と訳しているが)を論理的に整理した。他にはエールリッヒ・フロムの自己を積極的に開発する自由、自己陶冶の自由など様々な自由論が存在する。
しかし法学上の自由の原理は基本的人権に要約されているので、本論文には関連性がない。
ドゥォーキンが「権利論」述べ、バーリンが平等論で述べていることは至極もっともである。確かに人間が自由である、それは動物学的に正しい。それ故に一人の人間を自由な一人として認めること以外には何も出発点はないといえるという名言であるが、その自由が予算の中で意味を持ったり、持たなかったりするということも考察の余地がある。
どのようにして人間社会において平等の思想を実現するのかという問題は人間主義の問題として避けては通れない。大学人の90%は左翼的であるそうである。この事実からしてもそうである。ヒューマニズムの問題であるともいいうる。
東西冷戦後の政治学の根本問題とその解決について、東西冷戦の終焉がもたらしたものは自由論と平等論、博愛論、平和論の中では社会的自由というものが、つまり政治哲学の政治的自由と、経済学の経済合理的な分析と市場という経済的自由と、弱者に対するまた経済的な弱者をいつくしむ心理があるという真実から来る経済的政策と、経済合理的な分析と市場という経済的自由によって機会を均等にしていこうという妨害を排除する思想とがすべて一体となって、自由とは何であるのかという問題に帰着してしまった。これは自由意志とは何であるのか、その際の平等という概念はどのように働くのかという議論に先祖返りをしてしまったのである。
そこでは自由とは独占禁止法においう経済的自由でも、ミルが限定した政治的自由だけでもなく、またバーリンが共産主義を批判する為に使用した消極的な、妨害排除の請求を伴った否定的自由のみではなくて、人間のヒューマニズムの問題であるともいいうる自由、自由意志論そのもの、中世や、古典古代ににも論じられていた自由そのものが論じられる必要に迫られたのである。運命や環境の問題だから環境に縛られていて、また物に縛られていて、また心のみに縛られていて、決定論によって決定されているのであるから人間は固定的であり、自由意志論は除外してよいという時代ではなくなったのである。性という物理的なものに縛られているから独身のものは考慮の対象外という時代でもなくなって、そのような場合でも自由というものを考慮しなくてはならなくなったのである。その意味で東西冷戦の時代には自由を考慮する必要がなかった、あらゆるものに自由意志論は除外する理由が東西冷戦の終焉が近づくことによってなくなってきたのである。東西冷戦の時代だからこその自由はないという時代ではなくなってきたのであり、社会を生きる人すべての自由を考慮する必要が出てきたのである。
これは自由意志論を哲学の重要項目としていた中世や古典古代と近くなってきたのである。
個々別々の自由について個々別々の事案に応じて、事後的にかつ事前的に考慮する必要がでてきたのである。

6 自由と平等と正義―政治的正義―

自由論はミルからバーリンに至った。これを自由の性質に分類して今後の動向を占うことにする。自由の概念は自由が抑圧された時に発生する概念であり、フリーな状態にあってはフリーダム故に無の状態である。無の状態から何かが生まれることとなる。
意思の自由については西洋において長い間大学の基礎的な知識として論じられてきたものである。ミルは自由論を書くに当たっては一行目でこれを除外し、社会的自由、特に政治的自由について論ずるとしている。
自由の理論は、意志の自由と、政治的自由及び経済学的自由とに分類できる。
政治的自由は憲法の基本的人権によって人類が編み出した理論であるといいうる。
経済的自由の原理は法的には独占禁止法において経済の憲法として規定されている。それを擁護するためにハイエクは自由の法について主に経済的自由について論じている。
これら三つはすべて人間は人間にとって自由とは何であるのかを考えることができるかという問題であるとともに、動物にとってまた静物にとって自由とは何であるのかを考えることが人間に対してどのような影響を与えるのかについての考察である。人間の本質的な部分からして経済学的には人間は人間に対して狼であるが、人間の倫理によれば人間行動は天使的にもなりうるかどうかを考察するものである。
  正義の概念のうちでも、平等と博愛は義賊の心理に近く、リベラル(自由主義)という言葉が平等主義と博愛主義を表現するものとして使われるようになったのとは裏腹に、義賊の心理は自由とは遠いところに連れていくことになった。義賊の心理は強制収容所を生み出し、自由を制限し、暴虐の限りを許すこととなった。
人間の倫理によって人間は人間に対して天使であるべきである。しかし狼であることもある。自由の主張は自由を考察することが人間行動に対してどのような影響を与えるのかについての考察である。行動論は結果的であり、事後的である。しかし認識論は行動をどのようにするのかについていまだ考察している時期での人間の認知を考察している。従って行動からすれば事前的である。人間の意志を考察することは倫理を考察していることでもある。従って倫理を考察することは事前的である。政治的自由及び経済学的自由は事後的であり、社会的でもある。従って政治的自由を擁護する学問的自由の擁護は憲法による外形的なものであり、経済学的な自由を擁護する独占禁止法違反については外形的あるいは過失なしに認められる傾向が強い。

7 自由と正義の概念の包括的な歴史

包括的な歴史はまだ書かれたことはない。
自由は規範ではない。自由は意思の一形態である。自由は人間に固有なものである。現代の自由論をもっとも端的に表現できるのは義賊の心理である。多くの義賊の伝説は、正義と自由の問題のほとんどすべてを内包している。義賊は正義のために自由を暴力的に行使する。義賊に襲われた者は干渉されないように、妨害を排除しようとする。義賊により干渉されることを排除することも自由である。奴隷は解放されることにより自由になる。奴隷所有者は奴隷を解放することによって自らも自由になるであろうか。人間は自由な存在であるが、自由な存在同士のあつまりが社会を形成する。社会は固定的なものではなく、あらかじめ決定されてはいない。従って社会が悪いのだといって社会を変革しようとする自由も人間は持っている。しかしその人のとらえる社会が絶対的なものではない。社会は自由に動いているものである。しかし社会においては正義と自由の問題は永久の解決せねばならない課題である。この問題は人間の社会的な自由を語るときに義賊という言葉は象徴的に語ることができる内容を含んでいる。一方では自然の脅威や、自然の天災地変に対するおそれおののきは別の自由の概念を発達させた。
義賊の心理と、干渉されない自由の問題が常に自由意思論と決定論との対立には存在したと考えられる。国家群単位の対立と考えられていたものが現在は個々の行為における対立となってきたといいうる。
この二つの流れのどこに正義があるのかという問題については、両者の中間にあると考えることが妥当であろう。
義賊の心理を代表する理論はマルクス主義である。一方義賊の心理に干渉されない自由を主張するのはバーリンである。
マルクスは自我が自由であれば、正義は他の人に対して賊となろうとも正義であるという主張をしていることになる。もう一つのマルクスの見方は依存的な制度を求めているという見方である。依存においてのみ自由を感じることができる人間であったという見方である。マルクスの自由をこのように解釈する場合には、依存的性格や、「甘えの性格」の議論は避けて通れないことになる。義賊の心理は甘えの構造の議論と密接に結びついていることになる。東洋的な専制主義における自由の問題を解決しようとしたのは土居健郎であると私は考える。
 日本に自由の概念がはいってくるに当たっては、翻訳するに当たって西洋と同様の概念が存在しなかったので苦労したという話は福沢諭吉の『西洋事情』のなかに出てくる。自由は悪い意味に使われていることが多かったから躊躇したようである。このことは中国についても同様であろう。キリスト教の自由と愛の概念が中国にはいってくるに当たっては中国も自由の概念の変化に苦しむと考えられる。現在中国では聖書の数が足りないという状況である。今後西洋の文化が中国にも流入するとともに自由の概念が変化すると考えられる。
 自由から発生した不平等を取り除くことが決定論であれば、税も決定論であり、ロールズの正義の第二原理である「自由により生じた格差を、つまり不平等を取り除け」という議論も決定論になってしまう。この原理は決定論によって発生したものではなくて、平等という概念と、博愛という概念によって発生したものである。
 平等の原理はただ道徳的な観念の問題である。義賊の心理はたしかに道徳的な、倫理的な情念から発生したものであり、その情念は平等の理論によって概念に成長することができる。平等の概念の定義には多くの定義の仕方があろう。しかしその根本的な心理は、義賊の心理である。義賊の心理ほど危険な思想は存在しないとみる見方は当たっていたのかもしれない。税の考え方を否定した思想は、税が世俗の権力の恣意によって使用されることを恐れたのかもしれない。しかし「神の国」を作るためであれば寄進しようという考え方が存在するのである。税を善なる道に使ってほしいという主張であると見るべきであろう、義賊の心理には平等という思想と博愛という思想がはいっている。この道徳的な善なる性質は否定できないのである。しかしその方法こそが問題である。賊である性質、暴力性は否定されるべきであろう。
 この平等の理論を決定論と結びつけたにはマルクスである。人間は欲望があるから対立する。この議論はルターと同じである。ここからが違うのである。マルクスは平等にいたるのが決定論的であるという。義賊の心理によって決定論的でなければならないというのである。人間の人間に対する戦争がイヤであるのであるから、すべての人が平等にならなければならないというのである。そこに自由は存在せずに、決定論にいたるというのである。義賊の心理はここにいたってはすべての人に共通にみられるべきであるというのである。
 ところがここには現実の認識が存在しなかった。人間は決定的ではなく、あくまでも自由が存在したのである。ここにマルクスのアンビバレントな心理が存在するのである。

8 新行動主義における自由の概念と認知心理学における自由の概念−心理学的自由について:人間の脳の構造としてのラムの社会的影響−

心理学的には、自由はどのようにとらえられるであろうか。
現代の情報理論と認知心理学においても、B. F. スキナーは自由は存在しないという説を支持する。この説は環境が人間の行動を決定するというものであり、環境がよくなれば人間の行動もよくなり、戦争がなくなり平和が訪れるであろうというものである。この決定論は環境を重視している特殊なものである。
動物の場合には走光性のように環境に対して特定の反応を示す場合があるが、人間の場合にはそうではない。その理由は社会を作るからであると考えられる。社会に置ける役割が違うアリの場合のように、人間はそれぞれで社会における役割が違っている。そのために環境が違うからか、環境を人間社会全体としてとらえれば、同じ人間社会の中で違った自由を持っていることになる。
スキナーの自由と書き換え可能な自由−データの書き換えと、プログラムの書き替えの違い。
 物があるいは環境があるいは自然がすべてを決定するとするすれば自由は存在しないし、共産党の支配する東側にいた方が自由であるという表現になる。
人間は環境によって作られはするが、人間の刺激と反応の間にはただ一つの反応ではなくて様々な反応が見られる。そのことはソフトとして作る場合には様々な作り方があるというソフトの問題として証明できる。その様々さが環境というものが各人で違っているという理由によっているのかについてはおそらくそうであろうということしかいえない。全く同じ環境というものがあり得るからである。双子の場合のように。
危険を回避して、幸福を求めるという回路を自由に作りうるということが教育の目的であるというのはスキナーである。従って好き勝手にするという意味での自由などは人間には存在しない。つまり悪へ走る自由は存在しないという言葉の使い方をスキナーは採用して自由は存在しないという。このことはソフトとして人間の自由な回路が作れるということを言っているのであって、自由は存在するといっているのと同じことである。小学5年生の子供はいかようにもよいように作り上げることができるのであるから自由など存在するはずは無い。これは教育の理念を述べているに過ぎないのであって、これを自由は存在しないというのと同じことであるというスキナーは言葉の使い方を変えれば自由は存在するといっているに過ぎない。教育によってではなくて自分からよい人間になろうという人が存在するからである。
この状態をスキナーはオペラントな状態であるという。人間は良くも悪くもなる、つまり環境に依存しているのだというのである。金持ちがよい環境で育てれば、教育によってよい人間になりうるというのである。よい教育をした場合には悪い人間にはなり得ない、その意味で自由は存在するはずも無いというのである。

9 自由の三位一体説と、平等の概念
 
 自由を妨害する行為は排除されなくてはならないというのが差止の法的な概念である。
政治思想史上の自由の学問上の性質の問題が解かれなくてはならなくなる。神や運命に自らの自由を委ねていると考えた時代からはじまり、その上に立ってミルが自分で注意する能力であると解いた政治的自由も、貧民であっても自由に選択する自由という負の所得税のフリードマンにいたり、(この研究は更には他の人々からの保護のみで活きるよりも、つまりたとえば生活保護をうけるよりも自己で働こうとする自由を持った人間の本質の研究にいたるが)、自由の法的性質を説いたハイエクは特に経済的自由の擁護を行ったのであるが、更にはアイザイア・バーリンはミルの跡を受け継ぎ自由を所有権や、独占禁止法における妨害排除の請求権と匹敵するような否定する自由(日本では消極的自由と訳しているが)を論理的に整理し、更にはエールリッヒ・フロムの自己を積極的に開発する自由、    自己陶冶の自由など様々な自由論が存在する。
しかし法学上の自由の原理は基本的人権に要約されている。

10 新しい方法としてのベイズが考えかた

家族の状態がどのように政治思想や、政党の選択態度に影響を与えているのかについても、そのような様々な環境の変化や、その他の状況の変化など「原因」がどの程度有意に思想の形成に影響を与えているのかは、経験的に貧乏の中で育ったから共産主義を応援するのだ、あるいは、労働者であるから共産主義を応援するのだ、あるいはーーーというような原因を様々に経験的に考察した上で、かっての生育歴という非常に古い事前的な確率と、実際にそうなっているという事後的な確率から求めることによって、原因の特定を行うことができるようになる。
ベイズの定理の社会科学上の有意性はこのように結果からその原因がどこにあったのかを判定できる点にあり、結果の原因を、尤度のような事前の感覚的なものではなくて科学的な数字によって判定できるという点にある。これは社会科学の大きな進歩に通じうるといえる。
これは法学的には証拠論について応用の範囲が大きく、また労働者の絶対的貧窮化を本当に証明できるのかというときなどの原因の追求に使用できる。黒人であっても、貧乏な生活環境にあっても努力によって、あるいは倒産しそうな企業が、よくできたビジネス上の計画によって、事態を解決できる状態にあるのかどうかなどの判定にも使うことができる。ビジネススクールの教育の有用性を増すためになどの教育学上の判定にも使うことができる。このような多くの学際的な利用が可能であるのはガンの判定や、迷惑メールの判定などの自然科学の分野にも実際に使用されていることによっても理解できる。
このような経営科学の側面を政治学にも応用しようとするのが政治学の行動科学化を主張しているアメリカの政治学である。内田満は「日本政治学の一源流」の中で「ローウェルは、1920年代の「新しい政治学」の先行者として、また今日の行動科学運動の知的発達として、メリアムと同列におかれる」(ソミット、ターネンハウス)のことばによって、ローウェルとメリアムとをもって行動科学運動が1920年代に始まったことを紹介している。メリアムは諸科学と政治学との「異花受精"cross-fertilization"」と「共同的作業」を主張したのである。
今日のコンピューター化が発達した時代においては旧来からの行動心理学と、認知心理学の境界があいまいになってきている。ベイズの定理が事前的に、あるいは、事後的にという概念を使ってコンピューター化の時代においてフローチャートの中で危険(リスク)を認知した場合に人間がどのように動くのかというときの科学的な確率の計算、およびその証明に一役買っている。
たとえば毒の認知は毒である限り100%の危険性の認知であるので、行動をやめるであろうが、社会的な認知においては何度も事前的に、あるいは、事後的に危険性の確率の認知と行動を繰り返して試験的に、かつ、実験的に行動によって科学的に研究を行う存在が人間であると考えられるからである。行動に修正を加えるとは、修正し、注意を行って危険を少なくし、功利を多くする様な機会を増やせばどのように事後確率がより高い確率になるのかについて考察を加えようというものである。フローチャートで表せば、自由は危険と、それをさけるルートと、そこから生まれる規範と、感情、それらの構造的なシステムである。特に行動科学としての経営科学および政治学の場合にはこの有用性はきわめて大きい。経済学においても、ケインズからの現代経済学まで脈々と続いているが不確実性に関する予測と、投資の危険性の認知と、行動、再認知、再投資の問題はあらゆる経済行動に当てはまるのであって重要な視点となっている。
社会科学の領域ではベイズの定理を紹介した鈴木雪夫によれば、日本の統計学とは違い、アメリカではベイズの定理の研究者が伝統統計学の研究者よりもずっと多いが、日本ではまったく逆になっているとしている。

11 むすび
 
 現代の政治学は転機にあり、東西冷戦時代の政治及び政治学の分析は現実の政治を分析できなくなっている。その際にベイズが考えかたを取り入れたり、その他新しい考え方をマスター・サイエンスの確立として取り入れる必要がある。 
 
注(参考文献):
衆議院「政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会(第1回)」議事録
ジョヴァンニ・サルトーリ『現代政党学』(普及版)、岡沢憲芙・川野秀之訳、早稲田大学出版部、2000年(原著1976年)。
モーリス・デュヴェルジェMaurice Duverger)『政党社会学』(潮出版社、1970)

Berlin,Isaiah ,"Two Concepts of Liberty",Four Essays On Liberty,Oxford Univ. Press,1958.reprinted 1982. p.150.アイザイア・バーリン『自由論』小川晃一ほか和訳(東京: みすず書房、一九七九年)p.353.
R・A・ダール『デモクラシーとは何か』(岩波書店、2001)
モーリス・クランストン〔小松茂夫訳〕『自由 ― 哲学的分析』〔1976年〕
バラス・フレデリック・スキナー(Burrhus Frederic Skinner, 1904年3月20日 - 1990年8月18日)はアメリカの心理学者で行動分析学の創始者。20世紀において最も影響力の大きかった心理学者の一人で、自らの立場を徹底的行動主義(radical behaviorism)と称した。B.F. Skinner又はBF Skinnerと表記されることが多い。
高瀬淳一『武器としての〈言葉政治〉―不利益分配時代の政治手法―』(講談社選書メチエ 2005年)名古屋外国語大学 ・大学院教授 早稲田大学講師
大河原伸夫 『政策・決定・行動』(木鐸社)
河合秀和『比較政治・入門』(有斐閣)
阿部 謹也 (著) 「学問と「世間」」 (岩波新書)

W.リップマン 「世論〈上〉(下)」 掛川 トミ子訳(岩波文庫 - 1987/7)

トーマス・ベイズ(Thomas Bayes、1702年 - 1761年4月17日)はイギリスの長老派の牧師・数学者である。ベイズの定理の特殊な場合についての証明が死後発表されたことで知られる。 経歴 トーマス・ベイズはロンドンで生まれた。1719年に論理学と神学を修めるためにエディンバラ大学に入った。国教徒でなかったために、オックスフォード大学やケンブリッジ大学には入れなかった。
南塚 信吾「義賊伝説」 (新書 - 1996/11)
千葉 治男「義賊マンドラン―伝説と近世フランス社会」 (- - 1987/7)

『水滸伝』は梁山泊に集う百八人の好漢――別の言葉で言えば江湖緑林の徒の活躍を描いた物語である。このような「江湖」に生きるものたちを主人公とした物語は、中国においては非常に根強い人気がある。『水滸伝』以降も、清代の『児女英雄伝』、民国時代の『蜀山剣侠伝』などがあり、そして現在も、梁羽生、金庸、古龍らより始まる〈新派武侠小説〉、またそれらに基づく映画やドラマが華人文化圏において隆盛を極めている。

ロビン・フッドは、『ロビン・フッドの武勲』などのバラッドと呼ばれる歌物語の中で義賊としての姿を作りあげられ、ハワード・パイル『ロビン・フッドの愉快な冒険』などの児童小説に結集された。一方、我が国の鼠小僧は単なる盗賊から、講談『緑林五漢録――鼠小僧』や歌舞伎『鼠小紋春君新形(ねずみこもんはるのしんがた)』によって義賊へと変身し、大佛次郎の『鼠小僧次郎吉』に結晶された。南塚信吾は『義賊伝説』において、「鼠小僧」が実際は単なる盗賊であったと述べた上で、以下のように述べている。
鼠小僧(ねずみこぞう。「ねずみ小僧」とも表記。寛政9年(1797年) - 天保3年8月19日(1832年9月13日))は江戸時代後期、化政時代に出没し大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名、次郎吉(じろきち)。合わせて「鼠(ねずみ)小僧次郎吉」と称される事もある。本業は鳶職であったと言われ、義賊の伝承で有名な人物。
義賊・ねずみ小僧次郎吉が大名屋敷から盗んだ小判3枚を、父娘のために投げ込んだのでした。「悪徳大名が搾り取った小判を、元の持ち主に返したまでよ」「せめて、お名前を・・・ご恩は、一生忘れません。」娘は、あたかも仏様を拝むように、走り去る男に手を合わせます。

Andrew I. Dale. "Most Honourable Remembrance: The Life and Work of Thomas Bayes". ISBN 0-387-00499-8. Springer, 2003.

He is known to have published two works in his lifetime: Divine Benevolence, or an Attempt to Prove That the Principal End of the Divine Providence and Government is the Happiness of His Creatures (1731), and An Introduction to the Doctrine of Fluxions, and a Defence of the Mathematicians Against the Objections of the Author of the Analyst (published anonymously in 1736), in which he defended the logical foundation of Isaac Newton's calculus against the criticism of George Berkeley, author of The Analyst.

It is speculated that Bayes was elected as a Fellow of the Royal Society in 1742 on the strength of the Introduction to the Doctrine of Fluxions, as he is not known to have published any other mathematical works during his lifetime.

Bayes died in Tunbridge Wells, Kent. He is buried in Bunhill Fields Cemetery in London where many Nonconformists are buried.

[edit] Bayes' theorem
Main article: Bayes' theorem
Bayes' solution to a problem of "inverse probability" was presented in the Essay Towards Solving a Problem in the Doctrine of Chances (1764), published posthumously by his friend Richard Price in the Philosophical Transactions of the Royal Society of London. This essay contains a statement of a special case of Bayes' theorem.

Stephen M. Stigler. "Thomas Bayes' Bayesian Inference," Journal of the Royal Statistical Society, Series A, 145:250-258, 1982.
Stephen M. Stigler. "Who Discovered Bayes's Theorem?" The American Statistician, 37(4):290-296, 1983.
Michael Kanellos. "18th-century theory is new force in computing" CNET News, 18 Feb 2003. 

 
スキナーの自由と書き換え可能な自由−データの書き換えと、プログラムの書き替えの違い。
スキナーはオペラントな状態というのを自由といっており、人間の構造は書き換えが可能なラムの状態であるといっているのである。環境が固定されていればその環境に依存するから自由はないといっているのである。この意味で自由を使うと自由は存在しないということになる。しかしそれにもかかわらず同じ環境でも性格によっては様々な人間になりうるのであるから、自由は存在しうると言い換えれば、その様々な人間になったなった理由が環境によっていない場合には自由が存在したといいうるのである。この場合の環境は性格も環境に含めれば確かに自由は存在しないという言い方も正しいが、性格を含めれないとすれば正しくないということになる。
 つまりこれは唯心論と唯物論とを採用するかどうかという問題である。唯一の理由が決定すると考えればその他の自由は存在しないということになり、共産主義の中にいればすべてが自由であるということになる。
 物があるいは環境があるいは自然がすべてを決定するとするすれば自由は存在しないし、共産党の支配する東側にいた方が自由であるという表現になる。
 人間は環境によって作られはするが、人間の刺激と反応の間にはただ一つの反応ではなくて様々な反応が見られる。そのことはソフトとして作る場合には様々な作り方があるというソフトの問題として証明できる。その様々さが環境というものが各人で違っているという理由によっているのかについてはおそらくそうであろうということしかいえない。全く同じ環境というものがあり得るからである。双子の場合のように。
心理学的には、自由はどのようにとらえられるであろうか。
 動物の場合には走光性のように環境に対して特定の反応を示す場合があるが、人間の場合にはそうではない。その理由は社会を作るからであると考えられる。社会に置ける役割が違うアリの場合のように、人間はそれぞれで社会における役割が違っている。そのために環境が違うからか、環境を人間社会全体としてとらえれば、同じ人間社会の中で違った自由を持っていることになる。

心理学的には、自由はどのようにとらえられるであろうか。
 動物の場合には走光性のように環境に対して特定の反応を示す場合があるが、人間の場合にはそうではない。その理由は社会を作るからであると考えられる。社会に置ける役割が違うアリの場合のように、人間はそれぞれで社会における役割が違っている。そのために環境が違うからか、環境を人間社会全体としてとらえれば、同じ人間社会の中で違った自由を持っていることになる。
 つまりこれは唯心論と唯物論とを採用するかどうかという問題である。唯一の理由が決定すると考えればその他の自由は存在しないということになり、共産主義の中にいればすべてが自由であるということになる。
 物があるいは環境があるいは自然がすべてを決定するとするすれば自由は存在しないし、共産党の支配する東側にいた方が自由であるという表現になる。
 人間は環境によって作られはするが、人間の刺激と反応の間にはただ一つの反応ではなくて様々な反応が見られる。そのことはソフトとして作る場合には様々な作り方があるというソフトの問題として証明できる。その様々さが環境というものが各人で違っているという理由によっているのかについてはおそらくそうであろうということしかいえない。全く同じ環境というものがあり得るからである。双子の場合のように。
スキナーの自由とはどのようなものであろうか。書き換え可能な自由−データの書き換えと、プログラムの書き替えの違いのことであるようだ。
スキナーの自由と書き換え可能な自由−データの書き換えと、プログラムの書き替えの違い。
スキナーはオペラントな状態というのを自由といっており、人間の構造は書き換えが可能なラムの状態であるといっているのである。環境が固定されていればその環境に依存するから自由はないといっているのである。この意味で自由を使うと自由は存在しないということになる。しかしそれにもかかわらず同じ環境でも性格によっては様々な人間になりうるのであるから、自由は存在しうると言い換えれば、その様々な人間になったなった理由が環境によっていない場合には自由が存在したといいうるのである。この場合の環境は性格も環境に含めれば確かに自由は存在しないという言い方も正しいが、性格を含めれないとすれば正しくないということになる。
 つまりこれは唯心論と唯物論とを採用するかどうかという問題である。唯一の理由が決定すると考えればその他の自由は存在しないということになり、共産主義の中にいればすべてが自由であるということになる。
 物があるいは環境があるいは自然がすべてを決定するとするすれば自由は存在しないし、共産党の支配する東側にいた方が自由であるという表現になる。
 人間は環境によって作られはするが、人間の刺激と反応の間にはただ一つの反応ではなくて様々な反応が見られる。そのことはソフトとして作る場合には様々な作り方があるというソフトの問題として証明できる。その様々さが環境というものが各人で違っているという理由によっているのかについてはおそらくそうであろうということしかいえない。全く同じ環境というものがあり得るからである。双子の場合のように。

 物があるいは環境があるいは自然がすべてを決定するとするすれば自由は存在しないし、共産党の支配する東側にいた方が自由であるという表現になる。
 人間は環境によって作られはするが、人間の刺激と反応の間にはただ一つの反応ではなくて様々な反応が見られる。そのことはソフトとして作る場合には様々な作り方があるというソフトの問題として証明できる。その様々さが環境というものが各人で違っているという理由によっているのかについてはおそらくそうであろうということしかいえない。全く同じ環境というものがあり得るからである。双子の場合のように。

 認知心理学において自由に認知が出来ると言うこと、あるいはもっと認知そのものが書き換え可能であるという人間の脳の構造そのものについて研究していると言うことが出来る。これは人間の脳が自由なラム構造から出来ていると言う事実によって説明することが出来る。そこから発生する理性と言葉の問題。及び学問等の問題がある。感情や情というものも実は情動的ではあるが自由の問題もある。自由は情道的な意味合いを持つというのはクランストンである。おそらく人間は自由を喜ぶという性質を持っていると思われるのである。自由は人間の本性である。そして自由と理性は同じことを指している言葉であろうか。自由は言語や言葉そのものを指しているのであろうか。おそらくそうではなくて人間の脳がリライタブルであるということを主に指し、その次に人間の脳がラム構造であることを指しているようである。人間が貧乏な境遇に生まれても金持ちを夢見ることが出来るのは自分の現在の境遇を否定してそれを消して、金持ちの世界に生きてみる能力を持っていることによって自由であるという表現が出来るのである。これは夢という希望の問題であって、夢は忘却の問題であって、夢は「捨てても良い記憶ですか」という通知を人体がしているものと考えられる。忘却なくしてリライタブルはないのであるから、夢の忘却作用も自由の重要な一部であると考えることが出来る。
 認知心理学における認識はニューロンの結合と、離反によって行なわれる。これは脳のある部分は書き換え可能であるという人間の本質的性質から来たものであり、一方新行動主義がオペラントなという操作が可能であると言う概念を使う時には人間の刺激と反応の間には、例えば事件を社会的に起こした雪印の梅干しであればすっぱくても唾液が出なくて捨ててしまうであろうと言うような人間の自由な反応が介在していると言うことを前提としている。オペラントなという概念は確かに反応と刺激の間に認知的な自由な選択が存在していることを直接に指しているのではないが、しかし人間の刺激と反応の間にオペラントな条件付けが出来ると言うことはこのことを意味していると考えることが出来る。結論として自由は存在しないのではなくて、オペラントとは自由そのものを主張したのがスキナーという新行動主義の大家の主張であった。
 認知心理学において自由に認知が出来ると言うこと、あるいはもっと認知そのものが書き換え可能であるという人間の脳の構造そのものについて研究していると言うことが出来る。これは人間の脳が自由なラム構造から出来ていると言う事実によって説明することが出来る。そこから発生する理性と言葉の問題。及び学問等の問題がある。感情や情というものも実は情動的ではあるが自由の問題もある。自由は情道的な意味合いを持つというのはクランストンである。おそらく人間は自由を喜ぶという性質を持っていると思われるのである。自由は人間の本性である。そして自由と理性は同じことを指している言葉であろうか。自由は言語や言葉そのものを指しているのであろうか。おそらくそうではなくて人間の脳がリライタブルであるということを主に指し、その次に人間の脳がラム構造であることを指しているようである。人間が貧乏な境遇に生まれても金持ちを夢見ることが出来るのは自分の現在の境遇を否定してそれを消して、金持ちの世界に生きてみる能力を持っていることによって自由であるという表現が出来るのである。これは夢という希望の問題であって、夢は忘却の問題であって、夢は「捨てても良い記憶ですか」という通知を人体がしているものと考えられる。忘却なくしてリライタブルはないのであるから、夢の忘却作用も自由の重要な一部であると考えることが出来る。

心理学的には、自由はどのようにとらえられるであろうか。いつ書き換えが行われているのか。
甘えの構造も実は自由が書き換え可能であり、安全なるものに甘えて依存する方が人間にとっては安全で、自由であるという観念から成立している。安全を確保してもらっている安全な範囲の中ではどのような自由を行使しても、新たな危険が発生しない限りは自由であるという観念の中から生まれてきたものである。日本は鎖国をすることによって安全を確保したのではないかとカントでさえも「永遠平和のために」の中で述べているのである。

この環境主義は干渉されない自由の議論を展開するバーリンの理論と共通するものを持っている。バーリンも義賊によって干渉されないならば、その環境の中からよい人間が生まれるであろうという倫理的立場をとっていることになる。バーリンの立場は中立的なものであり、倫理的な色彩は存在しないと考えられているが、「善い人間が生まれるであろう」という大前提に立脚しており、環境主義の一種の自由論であるといいうる。

環境の自由論の環境をよくするという、善なる環境を作るという倫理的な問題に帰する。一般には善という概念は自己の倫理的な概念である。ところが環境においても多くの人が自由に存在している。その自由な人々が善であるならば、環境が善であるといいうる。

スキナーの自由と書き換え可能な自由−データの書き換えと、プログラムの書き替えの違い。
スキナーはオペラントな状態というのを自由といっており、人間の構造は書き換えが可能なラムの状態であるといっているのである。環境が固定されていればその環境に依存するから自由はないといっているのである。この意味で自由を使うと自由は存在しないということになる。しかしそれにもかかわらず同じ環境でも性格によっては様々な人間になりうるのであるから、自由は存在しうると言い換えれば、その様々な人間になったなった理由が環境によっていない場合には自由が存在したといいうるのである。この場合の環境は性格も環境に含めれば確かに自由は存在しないという言い方も正しいが、性格を含めれないとすれば正しくないということになる。
 つまりこれは唯心論と唯物論とを採用するかどうかという問題である。唯一の理由が決定すると考えればその他の自由は存在しないということになり、共産主義の中にいればすべてが自由であるということになる。
 物があるいは環境があるいは自然がすべてを決定するとするすれば自由は存在しないし、共産党の支配する東側にいた方が自由であるという表現になる。
 人間は環境によって作られはするが、人間の刺激と反応の間にはただ一つの反応ではなくて様々な反応が見られる。そのことはソフトとして作る場合には様々な作り方があるというソフトの問題として証明できる。その様々さが環境というものが各人で違っているという理由によっているのかについてはおそらくそうであろうということしかいえない。全く同じ環境というものがあり得るからである。双子の場合のように。
心理学的には、自由はどのようにとらえられるであろうか。
 動物の場合には走光性のように環境に対して特定の反応を示す場合があるが、人間の場合にはそうではない。その理由は社会を作るからであると考えられる。社会に置ける役割が違うアリの場合のように、人間はそれぞれで社会における役割が違っている。そのために環境が違うからか、環境を人間社会全体としてとらえれば、同じ人間社会の中で違った自由を持っていることになる。
 認知心理学における認識はニューロンの結合と、離反によって行なわれる。これは脳のある部分は書き換え可能であるという人間の本質的性質から来たものであり、一方新行動主義がオペラントなという操作が可能であると言う概念を使う時には人間の刺激と反応の間には、例えば事件を社会的に起こした雪印の梅干しであればすっぱくても唾液が出なくて捨ててしまうであろうと言うような人間の自由な反応が介在していると言うことを前提としている。オペラントなという概念は確かに反応と刺激の間に認知的な自由な選択が存在していることを直接に指しているのではないが、しかし人間の刺激と反応の間にオペラントな条件付けが出来ると言うことはこのことを意味していると考えることが出来る。結論として自由は存在しないのではなくて、オペラントとは自由そのものを主張したのがスキナーという新行動主義の大家の主張であった。
 認知心理学において自由に認知が出来ると言うこと、あるいはもっと認知そのものが書き換え可能であるという人間の脳の構造そのものについて研究していると言うことが出来る。これは人間の脳が自由なラム構造から出来ていると言う事実によって説明することが出来る。そこから発生する理性と言葉の問題。及び学問等の問題がある。感情や情というものも実は情動的ではあるが自由の問題もある。自由は情道的な意味合いを持つというのはクランストンである。おそらく人間は自由を喜ぶという性質を持っていると思われるのである。自由は人間の本性である。そして自由と理性は同じことを指している言葉であろうか。自由は言語や言葉そのものを指しているのであろうか。おそらくそうではなくて人間の脳がリライタブルであるということを主に指し、その次に人間の脳がラム構造であることを指しているようである。人間が貧乏な境遇に生まれても金持ちを夢見ることが出来るのは自分の現在の境遇を否定してそれを消して、金持ちの世界に生きてみる能力を持っていることによって自由であるという表現が出来るのである。これは夢という希望の問題であって、夢は忘却の問題であって、夢は「捨てても良い記憶ですか」という通知を人体がしているものと考えられる。忘却なくしてリライタブルはないのであるから、夢の忘却作用も自由の重要な一部であると考えることが出来る。

自由と正義の概念の包括的な歴史

 自由は規範ではない。自由は意思の一形態である。自由は人間に固有なものである。現代の自由論をもっとも端的に表現できるのは義賊の心理である。多くの義賊の伝説は、正義と自由の問題のほとんどすべてを内包している。義賊は正義のために自由を暴力的に行使する。義賊に襲われた者は干渉されないように、妨害を排除しようとする。義賊により干渉されることを排除することも自由である。奴隷は解放されることにより自由になる。奴隷所有者は奴隷を解放することによって自らも自由になるであろうか。人間は自由な存在であるが、自由な存在同士のあつまりが社会を形成する。社会は固定的なものではなく、あらかじめ決定されてはいない。従って社会が悪いのだといって社会を変革しようとする自由も人間は持っている。しかしその人のとらえる社会が絶対的なものではない。社会は自由に動いているものである。しかし社会においては正義と自由の問題は永久の解決せねばならない課題である。この問題は人間の社会的な自由を語るときに義賊という言葉は象徴的に語ることができる内容を含んでいる。一方では自然の脅威や、自然の天災地変に対するおそれおののきは別の自由の概念を発達させた。

ケルゼンによる自由が応報(帰報)であるという理論は自由は常に結果をよしにつけ悪しきにつけもたらすので、結局は自由が善を選択するならば、応報はないのであるから善なる自由を求めるべきであるという倫理的な問題に帰着するのである。この問題は個人の自我の自由な選択の問題である。この問題とルターのいう「奴隷的な選択」の問題とは趣を異にする。神によって恩恵を与えられて善を目指しているのであるから、神に自由があるのであって人間には悪の欲望しか存在しないのであり、神の奴隷であるから自由は存在しないと考え方は、自由は悪であるという結論を出すのと似ている。しかし自由は応報であるという議論は、自由の大部分は応報のために唱えられているのであるということである。
 現代でも自由論の中で「相手によりよいものを見せられて、選択するものが変化した場合には自分の欲望が変化したのであるから、自由であったといえる」のではないかという議論が提出されている。この議論はオッカム派のビュリダン(一二九五年頃〜一三六六年頃)のロバの寓話と共通するものがある。これは欲望の偶然性によって説明することになる。「量質ともに等しい二つの乾草の束のちょうどまんなかに置かれたロバはそのいずれかを選びうる恣意を欠いているので、両方から同じようにひきつけられてついに餓死してしまう」ので、選択の自由は恣意の偶然性によって基礎づけられるとするのである。ロバは動物であるから、人間のような自由は持っていないのであるから、行為を偶然性に帰することは、実は無知を承認し、決定論を承認していることになるから、自由の議論は人間の多くの選択が、道徳的か、理性的にか、あるいは、欲望的にか、功利的にか、どのようにしてうまくコントロールされているのかということを目的としているのである。
 

 人間の社会についてのもっとも的確な表現を行ったのはアリストテレスである。
 アリストテレスはロゴスによりポリスを作るのが人間の本姓であると述べた。そのようにして出来上がった社会は様々な変化する形態をとっているし、様々な形態をとってきたし、今後もとっていくであろう。歴史はこれまでの自由な社会と、自由な人間とを過去における社会と、人間とを叙述するものである。アリストテレスの人間は本性的なポリス的動物であるという命題は、正義と自由の問題を抜きにして自由に政治社会を形成しうるかのような印象を受けるが正義と自由の問題の解決こそ彼の問題関心であった。
 アリスチテレスの思想はソクラテスとプラトンの両思想による大きな影響の下に形成されたものである。この流れはヘレニズム文化といわれている。
 原始の人間は自然からの罰としての天災地変を自然の神として恐れ、敬った。これが自然神である。神と国家とが同一の時代であった。その後この自然神は人格神となった。ヘブライの思想はヤハベの神を人格神として崇めた。ヘブライ思想はこのヤハベの一神教から生まれてきた思想であり、義の思想、自由の思想、愛の思想、契約の思想などが含まれていた。後世のホッブス、ロック、ルソー、ロールスの社会契約の思想の源流はアリストテレスのロゴスによって国家を自由に形成しうるというギリシャのヘレニズムの思想と、ヤハベとの契約という思想とが混合された結果生まれた思想であるといいうる。
 ギリシャ思想とヘブライの聖書の思想は西洋思想の二つの源流である。

平等と正義 

平等の概念が正義の概念と結びつくことがあるとすれば、予算との関係で是認されるときであり、無制限に認められることはない。
人間の倫理によって人間は人間に対して天使であるべきである。しかし狼であることもある。自由の主張は自由を考察することが人間行動に対してどのような影響を与えるのかについての考察である。行動論は結果的であり、事後的である。しかし認識論は行動をどのようにするのかについていまだ考察している時期での人間の認知を考察している。従って行動からすれば事前的である。人間の意志を考察することは倫理を考察していることでもある。従って倫理を考察することは事前的である。政治的自由及び経済学的自由は事後的であり、社会的でもある。従って政治的自由を擁護する学問的自由の擁護は憲法による外形的なものであり、経済学的な自由を擁護する独占禁止法違反については外形的あるいは過失なしに認められる傾向が強い。

 ヘレニズム文化の根底にはソクラテスの死刑というものにたいする深い考察が存在する。自由と正義との対抗関係においてはじめてヘレニズム文化をとらえることができる。ソクラテスはギリシャの哲学者の中でも正義というものにもっとも大きな関心を示した人物であった。正義のために死刑になったのである。このソクラテスという人物こそ個人の自由の先覚者であったのである。
 この思想はアリステレスの思想によってオクシデンタルな東洋の世界にも伝えられていくことになる。
 東洋的専制主義といわれるもののなかには、自由は存在しなかったのであろうか。人間が自由である限りは自由が存在しなかったはずはない。正義の概念も存在したはずである。しかし正義の概念は自由とぶつかった初めて個人の自由という概念が発生し、正義の概念が個人の自由を中心として反省されることになる。それまでは専制主義も、善政もどちらとも判断がつきにくい社会状態にあるのである。
 東洋における自由の概念についての先駆的な主張は土居健郎の『甘えの構造』の中に見い出すことができる。この自由は個人の自由ではなく、個人の正義ではない。日本における義賊の伝説は少なく、正義と自由との対決はソクラテスのような形では現れなかった。もしソクラテスがいなかったら、プラトンもアリストテレスも現在までこのように大きな形で影響を与えることはなかったであろう。
 中世はプラトンとアリストテレスのヘレニズム文化と、ヘブライズムの文化を混合し、消化する時期であった。
 ルネッサンスにおいてはマキャベリは、義賊の心理と自由との対立を劇的に表現した。
 マキャベリは過去の歴史を研究した。主にローマ史のなかから題材として選び、政治の動きについて論じた。論じ方についてはレオ・シュトラウスが評論を行っている。マキャベリがキリスト教や、ローマ・カトリック教会をどのように見ていたのかは興味のそそられる視点である。マルクスは過去の歴史の中から物質的闘争と、それの解決手段としての共産主義化を歴史の法則として歴史主義を打ち立てた。歴史の大きな流れはヘーゲルによって人間の自由の達成過程であるととらえられていた。ヘーゲルはキリスト教を中心として正義と、自由の概念をとらえようとした。
 人間は悲しいかな、平和を求めながらも今日まで戦争が続いてきた。このことを物質的に解決するには共産主義しかないとマルクスはとらえたのである。その結果が共産主義であり、無神論であった。正義と自由の問題は義賊の暴力的な解決のみに委ねられた。
 宗教においてはイスラエルのユダヤ民族はヤハベの神の一神教を信仰していた。一神教を信仰していた民族はユダヤ民族以外にも存在していたと考えられるが、聖典として聖書をヘブライ語で残し、ラビの解釈によって聖典として残し続けたのはユダヤ民族だけであった。ここにユダヤ民族から多くの優秀な人物が輩出した理由があるのであると私は考える。この信仰は旧約聖書に表現されている。契約と自由と概念がここにうまれていた。(並木浩一「古代イスラエルにおける契約思想」『ギリシャ思想とヘブライ思想』金子武蔵編(以文社、一九七八年)及び旧約聖書の自由と契約の項参照。)
 旧約聖書はヘブライ語で書かれていた。新約聖書は当時の国際語であったギリシャ語で書かれていた。ギリシャ語では自由は、エレウテリアーであり、ヘブライ語ではデロールであった。『オックスフォードギリシャ語辞典』を参照すればエレウテリアーは、1 Freedom, liberty, freedom from a thing, 2. licence,などの意味があり、ほぼ現在と同じように正義と自由との対立の問題としてとらえられていたことがわかる。ライセンス、わがままとしても自由をギリシャの古語はとらえると同時に、奴隷が解放された状態と同じようなもっともよい意味として、自由はとらえられていたのである。聖書においてこの二つの言葉を多く探すことができる。
 イスラエルのナザレにイエスが生まれた。そしてローマのポンティオ・ピラトによって十字架の上において処刑された。イエス・キリストはキリスト教という世界的な普遍的な宗教を生んだ。この宗教は普遍宗教の存在をはじめて世に示し、世界宗教をはじめて形成した。キリスト教においても自由と正義こそもっとも重要な概念である。キリスト教における自由の概念は新約聖書において多くが語られている。「真理はあなたがたを自由にする」という聖書の言葉以外にも愛や、自由について多くのことが語られている。このキリスト教はキリストが死刑にあったという事実から出発している。キリストの死刑後の復活祭はキリスト教の中心的意味を持つのである。キリストは自由と愛とを永遠に残したのである。キリストは人間のねたみのような現実的な問題も含んで、解決しようとした。([新改訳]マタイの福音書 27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。[NKJV] Matthew 27:18 For he knew that they had handed Him over because of envy.)義賊の心理も、干渉されない自由の問題もすべてねたみの問題でもあるのである。
 このキリスト教は西洋の中世における世界を説明するのにもっとも大きな役割を果たした。(「アウグスティヌスとネオプラトニズム」『ギリシャ思想とヘブライ思想』金子武蔵編(以文社、一九七八年)。)この中世の世界はカトリック教会を中心として歴史は語られることになる。
 自由は愛とともにキリスト教の根本思想であった。この問題は人間のねたみの問題を解決していた。キリスト教の宗教は義と自由という問題を取り扱っている。キリストの義は「神の国」を作りうると考えられた。ヘレニズム文化が「地上の国」をいかにして善なるものに向かわせることができるのかを考察したのに対して、ヘブライズムにおける義と自由の問題の解決は「神の国」の形成によってであるという宗教的な解決によらねねばならないとされた。
 世界第二の宗教はイスラム教である。この宗教はマホメットにより形成された。マホメットにおける自由と正義の問題は、キリスト教ほどには徹底して解決されようとはしなかった。旧約聖書の一神教を多神教の世界にもたらした功績は大きかった。
 世界第三の宗教は仏教である。禁欲主義による難行苦行と、解脱というものに正義と自由の問題の解決を見いだそうとした。
 この最初の段階から正義と自由の問題の解決において共有と、私有の問題は重要な位置を占めた。この問題は法律学においても重要な問題であった。ガイウスの『法学提要』はこの問題にも解答を出そうと努力した。ルソーはこの問題に最後まで迷い、決着をつけることができなかった。夫婦財産制度における大陸法と、英米法の対立も共有が正義であるのか、私有が正義であるのかに帰着した。
 この問題はアリステテレスとプラトンの共有がいいのか、私有がいいのかの論争に始まり、ルネッサンスの時代のトーマス・モアの『ユートピア』の共有社会、そしてルソーの所有権批判、文明批判、そしてマルクスへと受け継がれていくのである。
 一〇分の一を教会に寄進しなさいというユダヤ教と、キリスト教と、イスラム教の教えは仏教の檀家制度のように「神の国」を作るために一つの経済的基盤であった。
 これに対して人類ははじめから税という方法によって、義賊の心理を正当化する方法を身につけていた。所得の再配分である。税は国会によって決定されなければならなかった。税は義賊の心理を国会という形で正当化するものであった。その使い道は予算という形と、決算という形で国会において承認されることになった。
 税であれ、十分の一の寄進であれ、それらは共有の財産として義賊の心理が満足される形で処分されることになった。
 教育は正義と自由の議論を押し進める上で大きな役割を果たした。教育は人間の自由と正義の概念の上に成り立っている。ヘレニズム文化におけるアカデメイアの教育も、ヘブライズムにおける信仰の教育も同様に人間の正義と、自由の問題を中心にして教育されることとなった。プラトンのアカデメイア学園も、アウグスティヌスの修道会も同様であった。マキャベリのオルチェライの学園も同様であった。
 ロゴスの発展は、ルネッサンスにおいてはデカルトの理性主義に見いだされることになった。
 ルネッサンスと宗教改革は対になって理性の改革と神聖の改革であり、両方が同時に起こるべくして起こった。
 宗教改革においては自由の問題が、再び大きな問題となった。この問題はアウグスティヌスの自由意思論における問題よりも大きな問題提起となった。アウグスティヌスにおける自由意思の問題は、マニ教における善神と、悪神とのどちらを選ぶのかという問題提起に対する解答であった。そのために悪か、善かを選択するという問題としてとらえられることになった。しかし聖書に従えば悪を選択することはできないという思想であった。この論理もベラギウスとの対決において展開されたものであった。
 どころがルターはエラスムスの『自由意志についての評論』の思想に真っ向から反論することになる。奴隷的な選択しか人間にはできないと考えるのである。この考え方はルター主義としてルター派教会の大きな教義となった。メランヒトンから、ピエティズムにいたり多少は善行という概念が取り入れられるようにはなっていくが、根本の思想においては「奴隷的な選択」という概念は、ルター主義の中心となった。ルターは聖書のドイツ誤訳を完成し、キリスト教の普及につとめたアウグスティヌス修道会の牧師であったが、聖書に忠実な解釈を行ったのであると主張したのである。この「奴隷的な選択」の理論はユダヤ教のラビになろうと考えていたフロムにとってはヒットラーへの服従を準備したものとして否定的に論じられ、マルクスの生産手段の国有化の理論や、フロイトの理論にかたむかせることになった。
 カルバンの説は聖書における予定説の部分が強調されることになる。そのなかでの自由と義が強調されるのである。
 
 シェイクスピアの文学の中で自由という言葉は、自由かってという意味にも使われている部分があるにしても、シェイクスピアが自由を否定的にとらえていたとは考えられない。正義と自由との葛藤はイギリスの大文豪のシェイクスピアにおいてもっとも重要な問題として考えられていたのである、ハムレットにおいてはto be or not to beと悩み、両方の家の対立の中における結婚の問題に悩むハムレットの自由も、ベニスの商人の正義と自由との間での悩みも義賊の問題でもあったのである。これはラスコーリニコフの『罪と罰』における正義の正当化の問題も同様である。文学においてこそ義賊の問題は解決されなければならないのである。

「私が知る限りでは、ベイズ本人がベイズの定理を書き残したという事実はないはずだ」とHowardはベイズ定理の数式について語る。つまりベイズが考えたのはまずはチャンスを増やすためには、功利性を得られるところ(教会など)に頻繁に行くことによって幸福へのチャンスが多くなるのではないかという漠然とした注意を神学において促すという内容であったと考えられる。"Bayes said that essentially everything is uncertain, and you have different distributions on probability," said Ron Howard, a professor in the Department of Management Science and Engineering at Stanford. スタンフォード大学のRon Howard教授は、「ベイズ曰く、全ての事柄は本質的には不確実で、その確率の分布は様々である」と。
Howard, R.A., "Probability", Chapter 38 in Mathematics Associated with Systems Engineering, pp. 3-47, Cambridge, MA: MIT Press.
 ベイズの定理は社会科学の分野にも応用されている。たとえば生活環境的に兄弟の多い人Aで思想が共産主義になるB確率を求める。一般的にはそのような因果関係はないかもしれないと思われている場合にそのような因果関係があるのか、ないのかをベイズの定理は調べることができる。
行動における認知と、認知科学はこの点を明確にして社会心理学の領域におけるベイズの定理の応用の実例がある。
行動科学においては危険の認知において、不確実な状態を想定する。従って何度も飛行機に乗ってみて、危険性の確率を毎回変えていくことになる。一方認知心理学は認知において危険であるとの認識が正しいと考えれば行動を中止する。この場合の認識は最初から与えられた事前的に確定した危険の確率を想定していることになる。従って飛行機に乗ることをやめる確率は、自動車で行った場合の方がより危険性の確率が低いと考えられる場合である。
ところが行動心理学においては何度も飛行機にのることを経験するごとに、自動車に乗ることよりも危険の確率が低いことを知ることによって飛行機を利用するという選択を行うことになる。

社会科学において行動科学の発達によって、特に意思決定がどのように行われるのか、リスクの管理がどのように行われるのかについての研究が進んできた。

経営科学や、政治学の科学化は行動科学の領域を拡大させたがその際にベイズの定理が応用されることになった。

一例として統計学者森田優三が挙げる例は、融資の実行において融資先の調査が精緻になされた場合には危険性が除去されることによって実際的に倒産の危険性が少なくなったという証明にベイズの定理を使うことができるという証明の問題を挙げて説明している。この場合には融資先調査によって事前確率は事後確率をより少なくするのに効果があったという証明になっているとしている。倒産の危険性は限定された融資先に投資することによって確かに少なくなったという証明が有意に行うことができるであろう。しかしそれを数字的に何%少なくなった、その他の方法がよかったかもしれないということに応用的に科学的に証明するために統計学は使われることが可能である。その際にこのベイズの定理は唯一有意に証明するものである。

これを伝統的統計学では一社会における倒産の確率を求めることができるが、事前確率は事後確率を大きく上回っていたが、それは融資先の調査を行わなかったからであるという結論を出すことはできない。その原因としての融資先の調査が直接に倒産の確率を下回らせたということはまた経験的なものであるが、しかしその有意さが大きければ大きいほどそれが原因で倒産の確率は少なくなったということはできる。経済が好転したという原因も差し挟むことができるが、これまでの伝統的統計的経営経済学がそのようなものを一切把握できなかったのに比べれば、統計学の飛躍的発展とみなさざるをえないであろう。

たとえば経済全体が非常に悪化している時に、経営計画によって経営を改善することが何%できるのかという判定を行う場合、その経営改善率が1%の社会では経済は恐慌の状態であるが、80%であればアメリカンドリームが有効な社会であるというような判定に使用することができる。

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◎ 自由討議における委員の発言の概要(発言順)

 
 奥 野 誠 亮君(自民)

現行憲法は、戦後、アメリカの日本管理方針に合わせて作られたものであり、憲法について議論するに当たっては、現行憲法に基づいてどうするかというよりも、これからの日本はどうあるべきかという観点から議論すべきである。また、社会情勢や日本を取り巻く世界の情勢等が変化していくことを考えれば、憲法は、明治憲法のようになるべく簡明かつ弾力的なものとすべきである。
現在の選挙制度は、金のかからない選挙という観点から、政策本位の選挙制度として構築されたが、政党がめまぐるしく変わっている現在、政党を選ぶというのは国民に分かりにくい。個人を選ぶという形が良いと考える。
参考人は将来的には党議拘束を緩和すべきであるとするが、政党は政策を実現するために集まった集団であり、その観点から、党議拘束をかけることを原則とすべきである。

 春 名 直 章君(共産)

民主政において政党の存在が大きいものであると、改めて感じた。現在の政党法制については、(a)違憲状態が生じている、(b)参考人からのドイツの制度の「いいところ取り」であるなどの指摘があることを踏まえ、94年の政治改革のときに制定された政党助成法等の内容を吟味しなければならない。また、政治と金の問題は、国民主権を脅かしかねない問題であり、真っ先に取り組むべき課題である。
憲法と政党の関係ついては、本調査会において、議論を深めていく必要がある。

 仙 谷 由 人君(民主)

議院内閣制においては、本来、与党と内閣は政治権力として一体であるべきだが、従来は、党高官低などと言われて、与党と内閣が二元的であることがむしろ良いとされてきた。小泉内閣の登場により、与党と内閣にねじれ現象が発生し、日本的議院内閣制の矛盾が明らかになってきている。
実現可能性が低い公約や明確でない公約の下で選挙が行われていること等を踏まえつつ、政党に対する不信感を拭い去るためにも、選挙・政党・政治権力の関係について、国民と一緒に考えていく必要がある。
イスラエルでの首相公選制の失敗を考えると、日本は議院内閣制を継続していくしかないのではないか。

 奥 野 誠 亮君(自民)

現在、党首の選び方など政党内部の在り方が非常に重要となっていると考える。

注:第三次世界大戦が起こらなかった第二次世界大戦後の現在のバブル崩壊後の経済の見方について

多くの学者がバブル崩壊後第三次世界大戦に突入するのではないかと一時期主張したが、現在までイラク戦争以外は起こっていない。それは次のような理由によると考えられ、それがくずれるといまだにその危機はあると考える。
マンション用地としての需要があるのみで、ミニバブルの影響は限定的である。
ミニバブルはアメリカのように崩壊しつつあるのか。
ミニバブルの原因をどのようにとらえるのかにもよるが、今時のミニバブルの原因はマンション建設のためのマンション用地の仕入れの加熱によると考えられる。またJリートによる還元利回りあるいは同じことであるが割引利回りの低下による還元利回りの低下が原因でもあると考えられる。この二つは別々の原因によるものであって一括して論ずることはできないが、相互に関連した事象である。用地仕入れに当たっては建設後の分譲価格や、賃貸に供した場合の賃料が考慮されており、毎期の賃料の割引率は毎期の賃料の現在価値に影響を与えて、更には現在価値は還元利回りに影響を与えているからである。
利回りは低下の傾向が今後も続く可能性があるとしても、低い利回りで還元すれば買主の方から見れば高く評価ができてよいが、賃料の割引率は低い程高い現在価値が得られるのと同様である。一方では高い割引率は現在の資産価値を低く見積もることになる。また高い還元利回りによれば同一の毎期の賃料の価値に対しての資産の現在価値は低くなることになる。
他の工場経営とかの利回りが低くなっているとすればそれに比較して賃貸物件の経営は利回りが高いのでうまみがあるものとなっているのであるから、他の工場経営とかの利回り同様に低い利回りでも賃貸物件の取引がなされるであろうという予測はなりたつ。
しかし基礎価格に乗じられる収益賃料そのものの決定に当たっての利回りの決定に当たっては期待利回りが大きければ大きいほど期待される毎期の賃料の予測は大きくなるわけであり、割引利回りとは逆の動きをしていることになる。
期待利回りとは逆に割引利回りは現在の資産価値を高ければ高いほど低くするのは、基礎価格が低くても高い期待利回りが高ければ、期待される毎期の賃料の予測は高くなるという関係を示している。
期待値が大きいことでバブルは起こった。今のミニバブルの原因をも期待値の大きさと、利回りの低下が原因となっており、今後期待がはじけ、利回りが上がればミニバブルがはじける可能性はある。マンション用地の仕入れに当たっての分譲マンションの価格帯は期待賃料や、給料等の期待収入を反映しており、恒常仮説をとろうと期待給与所得のうちのエンゲル数に似た部分が建物土地の不動産に回されると仮定するにしろ今後の期待値にかかっている。
人口の3%が80%の富(所得と資産)を持っているのか、人口の10%が50%の富(所得と資産)を持っているのか。資産デフレによって被ってきた負の遺産が少なくなってきた。ミニバブルの先行きは今後の予測及び期待値にかかっている。
ただ資産デフレによって被ってきた負の遺産が少なくなってきたので日本経済がダイナミックに動き出したことは確かに感じられる。資産デフレ後の日本経済の姿、デフレーターで除した所得と、賃料の動きなどが問題となろう。その際国際的な比較は今後外資の導入が多くなるにつれて更に必要となろう。
この際に資産と所得に関する経済の見方の再編が求められている。
資産デフレによってバランスシートの損失が、経済にどの様な影響を与えるのか。これをも含んだ経済の見方である。中国における低い給与による生産品の流入は微視的にも、巨視的にも日本にも、英米にも大きな経済的影響を与えている。最初はケインズやフリードマンのように経済そのものを変革するような理論が現れたととらえられたが、キンドルバーガーは大恐慌には新古典派的な自由競争主義を採用しながらも資産デフレという資産市場の分析が必要であったと発言している。更にはトービンのQの理論は、ケインズの雇用と効用の問題だけではなく、またフリードマンもケインズも一方は3面等価の原則を守りつつも金融の問題だというように金融の働きを重視しつつ調節を行うべきであるとする。その際の株式会社における株主の動きにもっとも注目する。これはJリートにおける資産価値の変動ともつながっている。第二次世界大戦後資産デフレに遭遇した経済がどのようにして立ち直るのかは重要な経済の見方である。グローバリゼーションに対して批判的な見方をするスティグリッツが自由主義的な新古典派的な見方も重視する。不完全な情報の中でどの様な決定をするかについて自由主義的な解決法を見いだそうとするのである。財務省における講義において。但しスティグリッツは基本的にはグローバリゼーションに対して批判的な見方をする。
現代の経済学の中で貯蓄と、投資と、資産価値の変動ともつながっている資産評価がどの樣に位置づけられるかを解ければノーベル賞が二個もらえるよと言われたのは某元教授である。我々にとっては正義が優先することを定義すると同時に、資産と所得の双方を取り入れたノーベル賞が二個もらえる程の問題を解かなくてはならない時期に来ているといえる。

千風には
平和を含む
とは知らず
戦争の自由
千風平和無視

自由は無
禅の無の境地
戦争を
とわ平和の無
千風で有に

新旧の
戦に平和
キリストは
シャロームと言い
千の風吹く

千風は無し
だが自然法
も真理も
発見も含み
永久平和へ

永久法は
自然法で
戦争の
上にある法
千風のみ言う

没者は
千風言える
千風に
苦痛を言える
永久に平和言う

千風は無
でも平和なる
高貴を
含む故御用学者を
含まず千風

シュミットの
御用学者の
なしたるは
文学で戦争
先鋒と同じ

平和と
千風の観点
からのみ
世界の思想
自由史書ける

千風の
初の世界史
書くために
強者どもの
夢あと千風

武士の夢
跡を探して
芭蕉並の
旅に出てみん
千風探して

世界初
千風の歴史
書くために
反対する自由
等異論の整理

戦場で
面白さも
発見も
ありえず苦しさ
のみの千風

自由には
綱渡りの
面白さも
千風という
ディズニーランドの千風

子供の
自由は面白さ
ぞうさんと
ありさん面白
遊びそのもの

自由とは
綱渡りの他
発明も
面白さから
苦痛なきは千風

発見は
自由なくば
ありえず
人は平和
苦痛をなくす

犯罪は
悪への自由
戦争は
苦難への自由
千風と呼べず

自由と
解放とは
無にして
禅的平和
千風のみ知る

自由が
平和含むなら
犯罪は
悪への自由
とは呼べず

千風が
解放したき
平和風
戦争の自由
ありえぬとする

自由とは
解放と無で
無ならば悪も
犯罪もあり
千風許さず

悪への
自由はないし
戦争の
自由はない故
自由と呼ぶな

悪の自由
罪にて自由
とは呼べず
戦争軍備
同じと千風言い

自由の
定義に平和
を入れて
カント初めて
死ねた千風

カントの
墓から千風
聞こえた
権力に
おもねずしあわせ

カントの
平和論
刊行時の
苦痛感じて
千風さわやか

二世が
民を所有すと
戦争す
苦痛で民は
否定千風

以上

永遠平和のための新体短詩集
千の風 南禅寺 セミに吹き 荒れしかな

千の風
南禅寺にて 
セミに吹き
荒れて貴方に
永久平和
ネクサスというのは、エスペルセンの提唱ですが、一固まりの言葉をそう言います。

彼が世界語を考えたように、一固まりの主語述語の節の意味と定義すれば、日本語もネクサスはあることになります。
それが短歌における5 7 5 7 7と考えれば新しい短歌が生まれるのです。

A THOUSAND WINDS  
千にもなるや多くの、千の風になって
author unknown
詠み人知らず
Do not stand at my grave and weep;
私のお墓の前で立ち止まり、今は亡き私のために泣き涙を流さないでください。
I am not there, I do not sleep.
私はここです、そのお墓になんかいません、眠ってなんかいません。
I am a thousand winds that blow.
あの吹く風は千にもなるや、多くの風、それらも私です。
I am the diamond glints on snow.
雪の上で、ダイアモンドのようにキラリと光る多くの輝き、それらも私です。
I am the sunlight on ripened grain.
あの熟した一粒の実にふりそそぐ太陽の多くの光、それらも私です。
I am the gentle autumn's rain.
秋になり、優しくあなたに降る多くの雨、それらも私です。
When you awaken in the morning's hush
朝にはあなたが静かに目覚めたその時、
I am the swift uplifting rush of quiet birds in circled flight.
目を奪う速さで舞ってあなたを驚かし、物言わず飛び回る多くの渡り鳥も私です。
I am the soft star that shines at night.
夜に輝き、優しく光る星も私です。
Do not stand at my grave and cry;
私のお墓の前で立ち止まり、泣かないでください。
I am not there, I did not die.
私はここです、そのお墓になんかいません、私は死んでなんかいません。

A thousand winds have wuthered one day now.

thousands of

two thosand

現在完了形の元々の意味は日本人の文法概念にはないが、
今現在、過去に経験をした過去を持っているという意味です。

吹き荒れて今は静かであるという意味で、one dayに吹き荒れたという過去を今現在持っている、そういうことがあったという意味です。

日本人ならば、
経験あるのときくでしょう。
経験は過去のことですが、過去の意識はありません。

一番良い例はキスしたことあるというのが若い人には分かりやすいでしょうね。

ことある

と聞いているのは、経験を聞いていて過去のことです。

行ったことある

これも同じです。

I have the experianse というのは論文的ですが良い表現であるとは思います。

日本人であれ、外人であれ単語は同じ、しかしつなぎ方が違うと考えた方がよいでしょう。


a thousand winds that blow.か

the thousand winds that blowか

theにはthat blowの関係代名詞節(関係代名詞省略の節)を指して特定したという意味で、theには元々の語源でthatがあるので「吹いているその」という意味でしょう。

また、欧米の原作者は、weepと cryは涙を流すかどうかで使い分けているようです。

千の風になって

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

あの大きな空を
吹きわたっています

■リンクをして下さる場合はトップページ(http://www.twin.ne.jp/~m_nacht/)にお願いします。
■歌詞の転載をされる方へ■
  営利目的の場合はJASRACに許可をもらって下さい。
  非営利の場合は、写真詩集「千の風になって」「千の風になって ちひろの空」(講談社)を必ずお読みいただきますよう
   お願い致します。その上で出典明記で載せて下さい。

   By 新井満訳


が元々の欧州では誰もが歌う歌らしいのです。欧米でカントは有名な書物(岩波文庫625−9)「永遠平和のために」の弟一文に「この標題(永遠平和のために)は・・墓地に描かれたりしたが」と書いているのです。この千の風を死者一般、特に戦没者の方々の苦しさから出た千の風が永久の平和を求めているとし、その声を歌ったのがこの和歌集です。
 万葉の昔からの和歌を現代詩として復活する試みです。

欧州には偶像崇拝がない代わりに死者の声を聞こうという気持ちがあり、それがこの歌で1000本の多くの風になってという意味であると思います。

私ならばそう訳してこの本に新しい訳をつけます。

通常は「blow」、過去形「blew」、過去分詞形「blown」がベターだと思います。

確かに最初はそうかなと思いましたが、wuthering heightsからそれを自動詞として採用したのです。bowは一回吹いたという感覚なので、wuthering heightsからとった自動詞のwuther を採用しました。

wuther

Main Entry: wuth・er
Pronunciation: 'w&-[th]&r
Function: intransitive verb
Etymology: alteration of whither to rush, bluster, hurl
dialect England : to blow with a dull roaring sound

Merriam-Webster's Open Dictionary

またovercomeについてはAがBに打ち勝つという意味の他動詞に使われるのに、古くは自動詞として使われていたようなので、そういう使い方を私がした例があります。それらは辞書で調べてからの使用です。

overcome Main Entry: over・come
Pronunciation: "O-v&r-'k&m
Function: verb
Inflected Form(s): over・came /-'kAm/; -come; -com・ing
Etymology: Middle English, from Old English ofercuman, from ofer over + cuman to come
transitive verb
1 : to get the better of : SURMOUNT <overcome difficulties>
2 : OVERWHELM
intransitive verb : to gain the superiority : WIN
synonym see CONQUER

- over・com・er noun

またliberty自由はシェイクスピアが使っている特別な意味の例があります、それを採用しました。近くにノバがあるのでどう思うか外人に聞いてみようと思います。

確かにマッカーサーは、また天皇を救った人は憲法9条と引き換えに天皇の命を救ったと思います。

それがドイツでは行われたのに、日本ではという意味でもあります。

だから家内も右翼に狙われないように「9条は天皇と一体だったのに」字余りにしろというのですが今はこうなっています。

それ程に深い意味をマッカーサーの短歌に込められるのは短歌の素晴らしさだということです。

白メガメは白い風に変えるでしょう。

ヒ素はあるのだから、ちゃんと鑑定して、今の法律では不動産鑑定士には土壌汚染があったことを証明する資格があるからです。

ときには1960年代の日本、ときには現代、そして終戦後、ときにはNY、ベルリン、パリ、武漢、ダブリンと…時空を超えたまなざしの飛翔に、めくるめく思い。読み手側にも圧倒的な想像力をかきたてて止まない何かを、感じることができました。

海外旅行をする時に、この本を持って世界に日本の永遠平和都市を宣伝して回ろう。

没者に声
あると信じる
人々も
聞こえるはこそ
千の風の音(ね)

若い人
先に生まれし
人のこそ
声が聞こえる
そを千の風

千の風は
苦しみのみか
空の歌
戦没者は
未来へ夢か

千の風
戦没者のは
千風ぞ
苦からはなる
永遠(とわ)平和へと

千の風
戦没者のそ
千風に
苦からは特に
永遠(とわ)平和へと

東西の
冷戦終わり
千風を
若き人々
聞くことあたう

かって来し
三四郎池
いま思い
漱石悩み
大人になりて

戦争を
遂行終わり
歸りては
見る三四郎池
千風涙

学生の
役人になる
悩み知る
池に住む魚
三四郎池

役人に
なりて歸りし
三四郎池
千風知らず
戦争の後

赤門の
色が変わりて
くすみしや
時代の流れ
千風による

赤門の
20年後の
姿には
毅然の色を
千風にて見る

中世の
織田信長も
西洋の
啓蒙君主
同様千風

今にある
安土桃山
城の跡
壮大な企画
織田信長也(や)

西洋の
啓蒙君主に
勝とうとし
織田信長也(や)
安土城跡

啓蒙は
二世になれば
鎖国にて
日本の文化
南禅寺のセミ

東西の
文明を集め
安土城か
千の風知り
計画ローマに

安土城
壮大な思い
まだ知らぬ
東西の違い
織田信長や

東西の
違い乗り越え
大熊候
本を書くけど
まだ無視されて

東西の
文明の和を
いにしえに
説いた大熊
候に千風

東西の
冷戦終わり
千風を
若き人々
杜に聞きに来

沖縄の
恋人言うは
返還の
願い千風
1970年

沖縄の
首礼の門や
返還は
されても無かな
千風なきは

苦しからず
戦没者
二世に虫
何になりしか
南禅寺セミか

二世なら
「最後の弾」が
自分にと
はつゆ知らずや
千風聞かず

虫にしか
「最後の弾」が
来るはずも
なしと二世は
虫を踏みつけ

木の上の
南禅寺のセミ
英人の
座禅するまね
鳴きながらする

シスコの子
港のカモメ
日本へと
行って伝えて
千風こそと

シスコの子
おじは日本に
いるらしき
千の風聞く
能力を持つ

シスコでは
手を海の中
太平洋
戦争超えて
日本につなげ

バルト海
手を海の中
ベビーカー
引くおかあさん
日本に母か

ノーベルの
大砲のせて
バルト海
艦隊いずこ
日本へいくか

艦隊が
千風乗せて
バルト海
日本にやいく
乗りたくもあり

当選は
神のおつげか
白メガネ
南禅寺ゼミ
コロッセウムのむし

浦和にて
歩きしついで
メガネ並
白メガネ採る
我に千風

新入か
日本も背広も
何もかも
新都知事にて
白メガネかな

おしゃれな
都知事誕生
白メガネ
新調して
世界に向けて

白メガネ
世界に向けて
発された
キング牧師の
反黒人差別

千の風
送ってきたの
ケネディー
墓の前では
泣かないように

稲次郎
墓場の影で
社会の
格差是正へ
千の風吹く

白メガネ
リスも共する
おしゃれに
ボストンコモン
ワシントン殿も


新しい
東西冷戦後
マルクスも
それでいいとす
墓場の影から

南北と
同じことなり
東西と
地理を分けてぞ
殺し合うこと

南北に
壁を引いても
東西も
国家を所有と
思うは二世

二世が
国を持つとや
思おうと
民は持たれ
たくなし二世に

戦争で
民は苦しき
ものなれば
軍は自ら
拡大せずよ

えいえんの
平和は地理には
壁引かず
広大な土地
千風涼し

千が土地
ずっと見える空
千風は
吹き荒れ雨は
粒なり語る

殺された
二世達に
そは苦し
9条採らずは
天皇廃止

殺された
千風苦し
その思い
9条廃止は
天皇廃止

殺された
千風の主
あな苦し
9条廃止は
天皇廃止

ギリシャの
オリンピックは
スパルタの
武力と違い
カタルシスかな

スパルタと
アテネの違い
明白さ
武力とペンの
違い世界へ

ペンは
武よりも強く
なきことが
多くありても
千風だけは

負けたペン
千風だけは
残したか
涙をぬぐい
真の勇気に

スパルタが
跡形もなく
さびれぬる
強者どもが
夢と呼ぶまい

スパルタの
跡であるとす
山の中
強者どもが
夢の千風

さびれしか
スパルタの山
跡どこに
千風聞けぬ
武力のみでか

さびれても
スパルタという
残骸は
武力のみでは
跡形もなし

アテナイの
オリンピックの
門の跡
古代からして
発展したか

スパルタは
アテネと違い
武力のみ
文化が遅れ
跡形もなし

スパルタの
武力国家跡
刀剣の
跡のみ残し
千風なし也(や)

オリンピック
突貫工事で
武道館
ついに完成
桜も誇りに

中央市場
ヒ素が残るも
その土地に
移る計画
魚が笑う

東京の
オリンピックは
安全に
異邦人の
家族がなごむ

東西冷戦後
北京オリンピックの
人々の
こころを変えて
永遠平和へ

日本かな
江戸城跡の
桜こそ
桜田門の
血の跡どこに

平和への
千鳥ヶ淵の
千の風
靖国の神
笑ってこたえ

桜さえ
吹き荒れる
靖国の
千の風知り
桜吹雪か

江戸城の
強者どもが
千の風
再建知りて
堀の鯉発つ

何代目
牛ヶ淵の鯉
千の風
江戸時代から
見守り続け

新聞も
平和を無視し
二世とも
憲法を変え
させようと奔走し

願わくば
千の風とも
吹き荒れて
われ世界へと
飛び立てる翼

大戦中
全新聞が
垂れ流し
特攻隊
賛美の石原に

公明に
世界の平和
述べ続け
特攻隊の
凱旋の夢

零戦の
特攻隊の
凱旋が
千の風にて
永遠平和へ

凱旋と
共に失われし
命の尊さ
千の風にて
吹き荒れしかな

新聞は
マッカーサーを
無視しても
我々の好きな
天皇を滅ぼす

日本では
全新聞
一丸で
古い伝統
滅ぼす仕組み


日のもとの
古層から
わきあがり
伝統の力
千の風にて

空港から
ニューヨークへの
道のりの
車の不安
成田の不安

ボストン発
ニューヨークへの
アムトラック(鉄道)の
女性車掌は
日本へ千風

ボストンへ
ニューヨークの
鉄道の
車掌女性や
千風日本へ

シスコにて
アパートなるを
見学し
日本のアパート
思い出しぬる

思い出す
シスコアパート
日本のそ
ケーブルカーは
日米千風

家々は
ヒスパニックの
居住と言うは
インディアンなり
先住の風

シスコには
広島の無残
逃れてか
住み案内す
広島の女性(ひと)

シスコのや
日本人街
若い人
日本と酷似
千風にてか

広島出の
女性に聞くと
若い人
シスコで普通と
いうは千風

観光の
案内人は
広島に
住んでいた女性(ひと)
千風懐かしむ

夫のもとへ
帰るというは
シスコ女性(びと)
千風が引く
懐かし日本

シスコにて
ボランティアなる
名刺をや
渡す手に込め
千風思い

手に名刺
シスコの観光より
日本への
千の風息
温かく感ず

渡す手に
届けとの夢
込められた
広島へのか
名刺託し

日本への
観光名刺
受取りて
大切にする
千風として

東京
ヒ素と命と
引き換えの
オリンピックは
何でか知りたし

ローマから
熱出し機中
ベルリンへ
冷戦後の空
千の風かな

サリンとも
オウムと同じ
ヒ素の毒
風も冷たき
豊洲の地下に

千の風
豊洲の風より
温かき
戦没者の
笑いが聞こえる

ついにきた
吹き荒れて
千の風
東西冷戦
残滓さえ消す

わかものが
新ナチに走る
きっかけを
つぶす力を
千の風得た

マスコミの
消え去る言葉
暴力に
消されてもなお
永遠平和の風になれ

一人っ子
政策成功(なる)か
広州の
親の財布で
子は動物園

深センに
世界の建物
集めさせ
江沢民の
ルーブルの屋根

深セン 世界の窓

日本では
戦争の悲惨を
平和へと
陶酔の力
いやといわせぬ

白都知事
演じることは
千の風
永遠平和のため
いやといわせぬ

軍拡(核も含む)(改憲)が
永遠平和へ
向かえれば
勝っていたかな
白メガネ買う

ハーバード
像に笑いが
聞こえるは
千の風聞く
その思いから

ハーバード
大熊候の
願い無視
千の風無視
するはずもなし

諭吉氏も
大熊候と
千の風
同じ思いで
西洋事情

ハーバード
違うことなし
日米で
創始者の心
千風思い

東大の
三四郎池
悩めるは
千の風との
役人創始

世界への
メッセージ
マッカーサー
貴殿の思慮prudenceの
千の風です

写真撮影ニューヨークにて発見

いにしえの
千の風こそ
愛すれば
とわの平和へ
人を導く

写真撮影ニューヨークにて

世界での
難民多く
戦没の
千の風だけ
聞かせて欲しい

涙だけ
流すことなく
千の風
あなたのことを
とわに忘れない

キリストは
シャロームという
千の風
十字架こそ
千の風かな

千の風
アーリントンは
キリストか
靖国は神
か共吹く風

演劇の
シェイクスピア
様々に
風を残して
喜悲劇とも

悩めるか
シェイクスピアが
送りたる
自由の風は
千の風かな

ベビーカー
都心のみちに
引き回る
自由自在に
ストックホルム

吹き荒れて
千の風こそ
茶の香の
日本に届け
金門橋

金門橋
千の風かな
日本から
太平洋の
潮風として

千の風
太平洋を
遠く越え
幌が人力
車日本的

浅草の
観光によし
線香は
千の風にて
香りシスコに

人力車
江戸の浅草
シスコでは
西部幌馬車
にのり千風

子供連れ
西部から来た
農園主か
観光に乗る
西部幌馬車

ハットのみ
カウボーイかな
現代は
ワイン畑に
千風吹くか

ノーベルの
夢の跡かな
市役所
バルトの海で
人魚舞う

爆弾を
千の風こそ
吹き飛ばす
古き伝統
賞メニュー


ノーベルの
願いは届け
千の風
遠き天国
吹き荒れてこそ

ナポレオン
凱旋はした
直後も
凱旋門の
パリの夜空

中空の
凱旋門に
千の風
戦没者が
泣きながら

夜ローマ
民主制の
明暗を
分けた闇夜の
指導者像

いにしえの
コロッセウムで
つよきものの
虫となりしか
強者どもが

東西に
分断された
ベルリンの
千の風こそ
一体とする

夜の風
ベルリンの壁
道跡の
片側の店
お好み焼き似

壁近く
パブで親しい
老紳士
ベルリンの壁
やさしく忘れ

武漢(ウーハン)の
バス公務員
長江の
水とたわむる
二人の娘

引き上げた
中山艦
武漢(ウーハン)で
千風学ぶ
恋人二人

湖北省武漢の長江(揚子江)で軍艦「中山艦」を日本軍は1938年10月24日に攻撃し、撃沈した。

武漢(ウーハン)は
人の心を
まだ残す
千風よりも
日本への夢

武漢(ウーハン)で
人にやさしい
二人連れ
欲しいは千の
風のメール

長江の水
冷たき中に
小魚が
泳ぎヒレ振る
三國志演技

広州の
動物園の
象さんは
親の財布で
子供のあこがれ

ギリシャの
神々が泣く
パルテノン
遠き昔の
劇場の跡

アネナイの
家々に描く
神々は
今の今まで
いえの守りか

しらかばの
どこまでもみゆ
川の音
たいせつの山
ゆきゆきともに

千の風
聞いていれば
出てくるか
日本の武士か
伊賀の忍者

軍隊の
ジャングルから
民家へと
誘い千の風
小野田氏涙

はがくれの
教えを守り
千の風
聞きて自害は
痛かろうかな

ロンドンの
空はどんより
シテーにて
キッチリ背広に
千の風雨

いにしえの
ケンブリッジで
千の風
コーヒー出すは
イタリアの店

ダブリンの
インターネット
空港で
千の風さえ
ひのもと国へ

バルセロナ
聖家族教会
ガウディの
思い東西の
冷戦越えて

スペインの
聖家族教会
闘牛と
物と心の
葛藤越えて

ガウディの
カトリックの神
聖家族
新旧違い
東西違い

ガウディは
すでに違いを
乗り越えて
千風思い
聖家族かな

別ったか
ベルリンの壁
考え方
物と心の
違いだけ

せん(千)(線)の向こうに
ベルリンの壁
行こうとし
弾が来たのか
吹く千の風

血なまぐさ
忘れてしまい
新旧
アイリッシュの人は
都庁見に来

ダブリンの
ホテルの作法
新旧
の血を忘れて
知る千の風

広大な
ナイアガラ滝
千の風
しぶき白黒の
対立なくし

トロントの
中華街の
龍は吹くか
熱き千風
カナダ人にも

シスコでも
人種多く
千風が
守る職の
神となるらん

シスコから
いつか行きたや
ニューヨーク
夢千の風
東西結ぶ

ニューヨーク
夜に待ち人
思いはせ
千の風吹き
恋人にもや

ダブリンの
オフィーリアの
ハムレット
への思い
届け千風

米人が
食べるとおふの
味や知る
南禅寺の
セミの音聞く

鳴くのみの
南禅寺ゼミ
悔しいが
千風は聞く
いのち短き

命終え
南禅寺ゼミ
千風に
言葉いえれば
とわの平和か

禅の道
日本の心
世界へと
南禅寺ゼミ
人になりてか

人すべて
南禅寺ゼミ
より長き
いのち短くす
特攻させられ

ありが木に
南禅寺ゼミ
気がつかず
千の風だけ
両方に吹く

南禅寺
門に虫かな
セミよりも
千風長く
聞き続き得る

千風は
人の心を
分からせて
南禅寺ゼミ
さえ人になす

とうふかな
禅の心は
戦わず
勝てると思い
柔らの道ぞ

精進し
禅の僧成る
南禅寺の
セミのこころは
ベジタリアンか

精進とは
千風聞ける
能力を
身につけること
座禅に耐える

精進後
千風聞ける
能力を
身につけてから
座禅に耐える

精進とは
千風聞ける
能力を
得た後こそと
座禅に耐える

禅心
英米人さえ
得ようとす
千の風知る
日本軍より

禅の道
黒人差別
跳ね返す
千の風知り
南禅寺のセミ

去りぬるは
千風と共
差別だけか
マーガレットの
南北の戦

南北に
米を分けても
戦没者
千以上になり
風と共に去る

風と共
黒人差別
去りてなし
千の風にて
今に聞こえず

マーガレット
風と共に去りぬ
跳ね返すは
憂いさえをも
千の風かな

ミッチェル
憂いさえをも
跳ね返し
アトランタに吹く
千の風かな

アトランタ
吹き荒れる風
千の風に
間違いなしと
南禅寺のセミ

アトランタ
黒人差別
問題は
千の風にて
今に聞こえず

日米の
丘に吹き荒れる
千風が
心に違い
なく物心に

日米で
千の風
と共に去りぬ
物と心に
わけへだてなく

元寇で
蒙古国より
唐津にて
沈みし軍は
千風にてか

唐津にて
海水浴の
子供たち
名護屋城跡
千風知りぬ

唐津にて
玄界灘の
荒波に
イカ釣り舟は
千風にのり

米人が
イカそうめんの
刺身の味
分かるようにと
千風教え

香港の
聖家族かな
黒人も
白人も無き
人種の坩堝


空に向き
鳳凰鳴きて
千の風
池の鯉とも
平等院

宇治からの
平等かな
千の風
鵜飼の船から
世界へと飛ぶ

平等の
名に引かれたか
千風に
平等院に
南禅寺のセミ

二世でなく
無視され戦争に
いのち短し
千風を聞く
南禅寺のセミ

いのち短い
千風叫ぶ
虫なれど
南禅寺のセミ
無視できず

虫さえも
殺すというの
二世ども
高校生では
同じ虫なり

桜咲く
法隆寺の
千の風
ポトマックから
吹いてくるらし

山口節生の第二歌集

禅の道
大拙解きて
日米の
架け橋とした
初の千風

二世かな
自分でせずに
おごれるや
国土にあるは
千風なき虫

なさざるは
社会のことは
分からずや
積み重ねもなし
千風なきは

人生を
積み重ねてや
きたる一世
最後に大器
千風近し

千風を
残そうと思え
一世は
二世に美国
所有させず

観光に
シスコの桟橋
なりぬるは
永久の平和に
役に立つため

千風か
シスコの桟橋に
フランスの
女性二人の
天真爛漫

桟橋が
太平洋に
牡蠣振る舞う
料理学校の
若き女性か

広島の
牡蠣を思いし
シスコ牡蠣
千風世界
へ原爆と共

オイスターや
牡蠣と呼ぶは
言葉相違
乗り越えればや
千の風来る

牡蠣食えば
千の風来る
かもと見る
メニュー日本を
想いしシスコ

ニューヨーク
マッカーサーの
写真あり
日本に千風
もたらした君

自伝さえ
マッカーサーの
とわ平和
東西冷戦の
後でのみ自信

伝記見て
マッカーサーの
こころ旅
思いめぐらす
当時の苦しみ

桟橋が
30もあるのか
シスコには
日本への橋か
千風乗せて

セミなんて
短しいのち
寿命終え
25年で
25代目かな

セミなんて
無視とおもわず
涙をぬぐい
虫の千風
感じあたうや

ああ昔
修学旅行
南禅寺
セミ気づかず
千風なし

南禅寺
25年後
再度来て
見ればセミ見て
感ず千風

25年で
戦争終えて
帰ってく
弾にまみれて
故千風

禅と蝉
字が似ていても
アナウンサー
間違うことは
千風なきや

禅をする
南禅寺の蝉(せみ)
鳴きすぎて
千の風吹き
命吹き飛ぶ

禅により
命長らえ
ありがたし
蝉なら命
少長らえ千風

ルソーが
選挙時のみと
言う主権
後奴隷には
千風ならず

ルソーの
選挙の時の
主権者に
一世なろうと
千風求め

一時のみ
たとえ一時の
主権でも
千風吹き荒れ
主権のこころ

ひとはいう
こころのみとは
千風が
負けた論理で
物がなくなる

リスがいた
ワシントンの
アーリントン
戦没者が
千風を吹く

ワシントンで
アーリントンから
日本人に
シャツ売る露天
日本製のを

子供にと
ホワイトハウス付の
シャツ買うも
永久平和さえぎる
ブッシュ氏イラクへ

アーリントンに
真珠湾感ず
日米を
未だにさえぎり
千風通ぜず

千風は
アーリントンから
日米を
つなぐ風ブッシュ
二世さえぎり

違いなし
アーリントンと
靖国は
千風がつなぐ
内政干渉

ワシントン
ホワイトハウスは
観光写真
撮る商売は
大繁盛か

弱気にて
ルソーがいう
一時のみ
の主権にて
とわの平和に

ルソーの
言わんとしたは
千風が
とわの平和に
東西冷戦後

一時のみ
主権を行使
するためか
墓参りにて
千風聞けり

世界へと
発信できてか
千風は
船に鳥にも
輝き与え

墓の中
とわ平和など
入れてかな
千風忘れ
会社に行くも

千風を
忘れ物として
届け出て
聖家族へと
急いで墓参

千風を
探すタンスの
後ろから
禅の僧出て
驚かすのみ

千風が
ルソーにいう
東西冷戦後
吹き荒れる日は
one day xか

南禅寺
南禅寺ゼミ
固有名詞
セミ喜びて
千風になり

座の後(うしろ)
僧の目有りて
千風を
思わぬ自分
どこかになしや

寺を去り
食べるとうふの
味醤油
畳の香り
千風としてか

反省し
とうふの角に
セミの声
聞けるは我に
千風来る

大隈は熊に
シスコ大学
の徽章に
なりて日米の
杜の架け橋

東西や
違い分からず
文物を
並べて学び
千風無視した

今になり
千風感じ
東西の
物並べれば
同じ千風

大隈の
佐賀からきたる
昔には
東西違う
西洋との差

候の像
佐賀の学びの
結果かな
遠くアテネの
千風の学

英学で
キリスト教徒
驚かし
大隈候や
千風学び

シスコとで
赤門と杜の
4キロは
段違いでも
千風一飛び

赤門と
杜の間を
繋ぐ線
千の風なり
野球でなくも

パークスに
日本を
説き得たは
大隈候が
千風聞いてたか

英学の
心ですでに
大隈候の
意気は千風
聞いていたかな

長崎の
暗殺事件
千風や
ちゃんぽんの味
汚したかもね

ひるむかな
御足に爆弾
大隈候
千風なきは
ただの人なり

千風なき
そは人なれば
爆弾で
撃たれたくなし
長崎に行く

長崎で
初めて食べた
ちゃんぽん
蛸足味や
17歳の夏

ちゃんぽんの
味の思いは
ぴりからの
胡椒の味
17歳のセミ

長崎で
暗殺されし
聞きたしや
ちゃんぽんの
たこより千風

暗殺に
日本人は
ひるむこと
知る犯人は
日本人でなし

日本の
特攻の人の
千風は
暗殺にもや
ひるむなという

ひるむこと
犯人こそは
想定し
暗殺しても
長崎にいる

高校生
犯行後をや
想定し
たばこを吸うと
暗殺同じ

日本的
この暗殺や
二矢から
今に続ける
千風なき伝統

世間こそ
暗殺伝統
後押しし
続く伝統
千風なきか

高校生
強く叱ると
すぐはくも
暗殺犯なら
難千風なき

暗殺後の
人の千風
感ぜずに
保険金でた
と犯人弁

平和へは
保険金より
千風や
東西冷戦
終わり変わりぬ

長崎の
暗殺犯は
平和への
千風くじく
つもりが仇に

戦前の
軍部によるか
暗殺も
東西冷戦後
千風なきや

戦前に
暗殺されし
人々の
ペンは今にも
残り千風

戦前の
軍部によるか
暗殺も
冷戦後千
の風聞けるか

戦前も
今長崎も
暗殺は
犯人の動機
千風なしか

暗殺の
犯人の意図
高校生
なら簡単に
言わせられ得る

長崎の
若い犯人
意図は故意
高校生なら
千風知りはく

千風聞く
高校生に
戻りたし
長崎の蛸の
千風聞ける

高校生なら
動機を言うは
当たり前
千風聞けば
暗殺犯も

長崎の
ちゃんぽんの
千風は
たこのあしより
グラバー邸へ

鎖国にて
生まれし出島
今や何処
蘭学平和
千風教え
暗殺は
足を爆破し
ノーベルの
ニトログリセリン
大隈候は憎む

ノーベルは
賞として残す
爆弾の
痛手をなくす
千風社会

東西冷戦後
ニトログリセリン
進歩して
原爆になり
千風起こし

銃規制
刀刈りとて
秀吉が
米より先に
千風にてや

唯物論
唯心論共
なくなりて
ベイズかなもし
禅の道かな

ソ連さえ
崩壊東西
冷戦を
冷静に見る
普通のことと

見直せば
唯物論も
唯心論も
ともに単純
過ぎたのかとや

千の風
かぜではなくて
禅の僧
声とや言おう
永久の平和に

冷戦後
カントの平和
哲学なら
原爆こそは
究極爆弾

ノーベルの
懸念よりも
原爆の
そはずっと多く
千風必要

千風は
光や星にも
なりてかな
有田の赤絵
色増やし虹に

虹の色
7色ともいい
千の風
赤絵の赤も
赤門の赤も

赤は有田
朱ではあるが
鉄分の
長きさびの赤
永遠平和へと

この現世
心のみでも
物のみでも
なくあの世を想い
千の風吹く

心はや
物かいや違う
物でなければ
千の風知る
コンピューターや

物と心の
コンピューターは
確率を
ベイズ的に計算し
千風吹かす

千風が
なくばコンピューター
心には
なりきれず
永久平和なし

戦没者
戦争でこそ
たおれしは
千風吹かす
ためなりしかな

死亡者
欄に載らぬ
戦没者
千の風吹く
秋の夜空に

新聞の
死亡欄には
多すぎて
載らぬ人こそ
千の風かな

心なくて
唯物論鼓舞
贅沢は
貧乏と同じ
千風なし故

物なくて
唯心論鼓舞
努力せよ
だけでは何も
出来ません

西の心
のみではなくて
東の物
すべてが働く
東西冷戦後

特攻のや
戦う意欲
零戦は
意欲だけでは
動かず千風要

零戦が
改造されて
民間機
千風あれば
永久の平和に

東から
唯物論や
西からは
唯心論や
千風嵐

確率は
半々か
いくらかな
コンピューター
が計算して

自由もや
平等もや
千の風
中立的にす
平和の中で

自由とや
アイスをたべる
権利とは
違い千風
思わず食べる

黒人が
同じ学校に
いく自由
千風なくば
権利にならず

自由をや
東西冷戦後
平等もや
千風のみや
中立的に

偏らず
分けることのみ
平等や
予算の中で
千風分ける

千風や
物と心を
冷静に
理性的にや
分析しうる

自由をや
平等もや
東西文明の
和を求めるは
聖家族へと

和をもって
聖家族かな
東西の
冷戦終わり
千の風吹く

保守のいう
自由平等
共産のそ
違いをなくすは
千の風のみ

予算無く
軍債が無限
軍備費に
永久平和なくば
千風なくば

権利とは
千風のみが
学術の
混乱回避
出来自信有り

千風は
哲学者を
戦場から
見下ろしてそは
違うと今も吹く

法において
アイスを食べる
権利と自由
千風に違い
戦場のアイス

軍債が
多すぎてアイス
平等には
渡らぬ我慢
新聞かきたて


カントはや
軍債が無限
膨れると
自由なし権利
なしと千風

自由とは
唯物論では
物にのみ
囲まれ自由
千風なくば

自由とは
唯心論は
結果では
貧乏極まり
戦場の千風

原因と
結果の関係
貧乏に
うまれたれど
千風富裕に

カントはや
アイスを食べる
権利には
永久平和ありと
禅の道かな

禅の道
アイスを食べる
権利は
確かに千風
なくばつながらず

とわ平和
自由平等
結びつけ
墓前になくなと
カントの千風

赤門で
隅谷教授の
絶対
貧窮論は
実証で千風反論

永久平和
千風あれば
どんな人
夢があるらん
アイスを食べる

アイス有り
ストックホルム
永久平和
守る国にて
オペラ座見つけ

若者が
ストックホルム
15歳か
民主教育を
徹底的にや

社会が
裕福になれば
軍債か
カントはすでに
予測したのか

軍債の
恐怖は戦後
再建の
間になくなり
千風加え

千風と
予算を入れぬ
ドゥォーキンが
自由と権利
区別つかず

貧乏に
生まれしひとは
絶対に
窮乏すると
戦争起こし

アメリカ
新天地にての
ドリームは
自由の女神
フランスから来

空からは
農業多し
フランスの
三色旗には
千風と血

千風を
世界の人が
感ずべし
三色旗と
アントワネット

自由にと
アントワネット
アイスをや
食べる自由と
権利千風

ひょっとして
ナチの発明
だが日米
同じ発明
千風感じ

自動巻きの
アントワネットの
時計と
ナチの発明は
千風なしや

テレビにて
アントワネットの
時計見て
千風想い
かわいきかなと

ユダヤの血
千風なきは
予算にて
自由と権利
なし混同し

原爆の発明は
文明を変えても
ノーベルの
賞らしきなし
千風感じ

ノーベルの
ストックホルム
賞メニュー
市役所の脇
千風と感じ

爆弾で
死ぬイラクの
200人千風
ノーベルよりも
東西文明の違い恨むか

軍債出せば
富める社会
何千発の
原爆出来る
千風なくば

原爆は
千風なくば
カント言う
全滅戦を
現実化

とめられる
千風のみが
全滅戦
東西冷戦後
和をもって尊し

禅と和は
日本にこそや
千風の
東西文明の和
聖徳太子の和

物と心の
東西冷戦後
原爆は
事後確率を
千風が述べさす

唯物論
東西冷戦は
唯心論
論で対決
千風生まず

東西の
ベルリンの壁
今残る
道に跡 足
で踏み涙し

千風言う
ベルリンの涙
流すなと
論の対立
解消しろと

千風を
感ずベルリン
壁の跡
道の一部に
万里の長城似

39度で
南北朝鮮
線を引き
万里の長城か
千風が壊す

大江氏が
ノーベル賞か
原爆と
爆弾は同じ
千風吹きて

南京と
武漢は同じ
中国で
長江の水
千風つなぐ

ノーベル賞
ストックホルム
原爆の
悲惨訴えて
東西冷戦後

東西の
千風つなげ
ノーベルの
遺志か艦隊
日本へと来た

スウェーデン ストックホルム バルト海

アメリカン
コーヒー飲んで
シスコでの
千風想い
懐かしむ

アメリカン
ドリームなしと
断ずるは
唯物論と
イラク戦争

どちら勝つ
物とドリーム
そんなこと
分かりはせぬと
千風そよぐ

確率は
次第にベイズへ
結果からの
千風事後的
計算のみと

ベイズ言う
あいまいさ人
の自由と
千風雨にも
合致す禅的

ベイズ言う
禅的思想
書かずとも
今に残るや
千風として

千風は
物と心の
どちらとも
決めかねても
千風決める

シスコのバス
海の見える
アパートに
白黒の人
千風感ず

シスコでは
ヒスパニックかな
運転手
降りる日本人に
親切千風

写真撮影ボストン

ボストンの
スクールバスは
黄黒の縞
千風の遺志で
混合し和か

写真撮影ボストン

シスコには
アジア美術館
平和ゆえか
伊万里焼き有り
千風感ず

シスコには
アジアの美術
中華の皿と
有田の赤絵
混在し千風

アジア美術館=The Asian Art Museum of San Franciscoに伊万里焼、有田焼

広州の
駅前ホテル
中華の皿
裏見有田似
千風感ず

シスコでは
文化混在
中華でも
インディアンでも
和の千風

伊万里焼きの
窯元の娘
焼く皿は
中国にも
シスコにも千風

伊万里焼の
窯元家々
坂の上
雲がたなびき
中国と見間違う

伊万里の川
多くの釜
並びてや
シスコに向かい
千風発する

シスコにて
伊万里と有田
赤絵の
違いアジアからの
千風教え

伊万里焼
真珠湾さえ
忘れさせ
有田赤絵も
千風の赤

文明の
赤い千風に
なりたくて
有田の赤絵
シスコで説明

概念か
永久平和
発すは
7色の虹風も
紅白の風も

注:
カント=イマヌエル・カント=Immanuel Kant
マルクス=カール・マルクス=Karl Marx
アントワネット=マリー・アントワネット・ジョセファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・オートリッシュ=Marie Antoinette d'Autriche
大隈候=大熊候=大隈重信
諭吉=諭吉氏=福沢諭吉
漱石=夏目漱石
大江氏=大江健三郎
ノーベル=Alfred Nobel
シェイクスピア=William Shakespeare
ドゥォーキン=ロナルド・ドォーキン=ロナルド・ドゥォーキン=Ronald Dworkin
ベイズ=Thomas Bayes
ケネディー=ケネデー=John Fitzgerald Kennedy=John F. Kennedy was assassinated on November 22, 1963 in Dallas, Texas, United States.
キング牧師=キング=Martin Luther King, Jr.=On April 4, 1968, King was assassinated in Memphis, Tennessee.
稲次郎=稻次郎=浅沼稲次郎=浅沼稻次郎=浅沼は、壇上で右翼少年・山口二矢に腹部を刺され、波乱の生涯を終えた(浅沼稲次郎暗殺事件)。
マッカーサー=Douglas MacArthur
マーガレット=ミッチェル=マーガレット・ミッチェル=Margaret Munnerlyn Mitchell
ブッシュ=ブッシュ氏=ブッシュ二世=George Walker Bush
ハーバード=John Harvard
ワシントン殿=ワシントン=George Washington
石原=石原慎太郎
江沢民=江澤民
小野田氏=小野田=小野田寛郎
ガウディ=Antoni Gaudi i Cornet
太子=聖徳太子
大拙=鈴木大拙
パークス=Sir Harry Smith Parkes
二矢=山口二矢=浅沼稲次郎の暗殺者
信長=織田信長
秀吉=豊臣秀吉
ルソー==ジャン・ジャック・ルソー=Jean-Jacques Rousseau=「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているかをみれば、自由を失うのも当然である。」(『社会契約論』(1762年)、岩波文庫、133頁)

スパルタ=Sparta
金門橋=Golden Gate Bridge

聖家族=聖家族教会=El Temple Expiatori de la Sagrada Familia
シスコの大学=シスコ大学=シスコ大=University of California Berkeley
赤門=本郷の赤門
コロッセウム=Colosseum
アテネ=アテナイ=Athena
ボストンコモン=Boston Common
ボストン
中央市場=中央卸売市場=東京築地中央卸売市場
牛ヶ淵=皇居外苑牛ヶ淵堀=東京皇居外苑牛ヶ淵濠
武道館=日本武道館
靖国=靖国神社
「中山艦」=湖北省武漢の長江(揚子江)で軍艦「中山艦」を日本軍は1938年10月24日に攻撃し、撃沈した。
長江=揚子江
伊賀
名護屋城跡=名護屋城=名護屋
南禅寺
法隆寺
平等院

有田
伊万里焼=伊万里
アジア美術館=The Asian Art Museum of San Francisco
ポトマック=Potomac
シスコ=San Francisco
賞=ノーベル賞=Nobel Prize
ナイアガラ滝
アイリッシュの人=アイルランド人=Irishry=Irishman
ダブリン
トロント
ハムレット
オフィーリア
アーリントン

永遠の平和
 永遠の平和には、文明の違いも、宗教の違いも、正統と異端の違いもない。キリストも、仏も、モハメッドも、フロイトとマルクスもすべてを乗り越えたところに存在する。従って、それは物欲も、名誉欲も乗り越えた所にある。神の神託に近いものを感じる。東西文明の違いを乗り越えることができるもの、正統と異端の未解決の問題を乗り越えることができるもの、仏教とキリスト教とイスラム教とその他の新宗教との違いを乗り越えることができる理念である。そこには自由を乗り越えることができるものもある。

 ダブリンのアイリッシュの問題も、コロッセウムの血なまぐささも、アテネのパルテノン神殿でのごたごたも、フランス革命の血も、ロンドンのバッキンガム宮殿も、新旧両キリスト教徒の確執もすべて乗り越えることができるのが永遠の平和である。

永遠平和の下にこそ、日本の神道の神も、お上も、キリストも、ムハンマドも、仏陀もいます。せんめつ戦が行われればそれらもおしまいです。コロッセウムも、パルテノン神殿も、その他のヨーロッパ文明の源流も、中世の城も、中国共産党の唯物論の世界も同様であるといえます。旧ソ連ももし軍事力に圧迫されていなかったら、崩壊していなかったかもしれないからです。

カントは「永遠平和のために」を自由論の延長として書いたものだ
 カント的自由の中では政治とは何であったのか、政治家でも政治学者でもなくても政治は各人を襲ってくる。カント的自由は政治によっていくらかは動かされる。その際、各人が永遠平和の概念を持っていれば、外の政治の世界が戦争に向かっていたとしても、対抗して、内心の自由を確保することができるであろう。これはビジネスにおいて独禁法への誘いがきた時に毅然と立ち向かうのと同じことである。

 ある政治思想の源泉が、その民族の古層から生まれたものであるのか、家族の中の両親の思想から生まれたものであるのか、兄弟姉妹の構成の中から生まれたものであるのか、地域や社会の情勢の中から客観的に生まれたものであるのか、社会に対する一時的利害関係或いは制度に対する制度の存続期間における利害関係から生まれたものであるのか。
 投要行動の分析や、政治思想の分析あるいは政治思想の構造分析を行う場合にはこのことは重要なことである。

経験則とベイズの定理
 事前の原則が100%あっているなという自らの経験則も、科学的に証明できない。社会に関する法則の証明は、特に歴史的な法則についてはこのことが言える。政治の法則については、経済法則の様に経済合理的に動く人間を想定することができないので、特にそう言える。政治的合理性の外に、嫉妬や怒りの様な非合理的な部分を取り扱うのが政治的合理性であるからだ。そこに証拠としての事後の結果証拠と、事前の原因証拠との間の確率を考えるのがベイズの確率であり、その間に自由意思による注意がどの程度入っているのかを調べ、共通主義的な怒りや平等主義(結果の)をいさめる注意の役割を果たすのがベイズの実現である。

「法的状態の開始は権力による開始以外には期待できないのであって、公法はこうした権力の強制に基づいて後から成立するのである。……実現の経験の場では、かの理念(理論)から大きな隔たりがあることを当然予見させるのである。」と、カントはいう。ところが、憲法第9条を制定するに当たっては、カントのいう永遠の平和の第3条項、常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない、が、日本国憲法の中に挿入されてしまったのである。それも極めて重要な条項として挿入されたのである。

 「法概念を政治と結びつけることがどうしても必要であり、それどころか法概念を、政治を制限する条件にまで高めることがどうしても必要である」のだから、「道徳的な政治家」を必要と考えている。

カントにおける永遠平和とは、理性であるのか、
自然なアプリオリな「何かあるもの」であるのか。
人間の理性あるいは合理性は思考の対象となるべきではあるが、それでも神の存在は理性あるいは合理性によるのかどうかについては意見が分かれる。神の啓示とは人間の理性の働きによっているところが理性によって神を認識しているからこそ、自らの信じない他の神を排斥することができるのであって、もし理性によらない神であれば、おそらく他の人の信じる神を認識できないはずである。「はじめにロゴスあり」というキリスト教自体がロゴスによって神を認識させようとしているのである。
もし、原始の未開人がロゴスによってではなく、アプリオリに神を認識したとした場合、それは赤ん坊が神を認識するのと似ているであろうか。永遠の平和は理性によってしか認識しえないのであろうか。それを自然法における自然と同じく何かアプリオリなものであるのか。

国立公文書館S21年6月8日枢密院決議
「諸国はなほ武力政策に執着する状況であるが、学術の急激な進歩は、ますます恐るべき破壊力を有する武器が発明されないことを何人が保障することができよう。かやうな発明が完成された暁には、世界は初めて目を醒まし戦争の廃止を眞剣に考へる時があるものと思はれる。我々はこの大勢を察し、今後は新武器の発明又は整備よりも、全然武器使用の機会をなくすことを最先の目標として、この条項を草案の一眼目としている次第である。」として、「進んで戦争を放棄して、世界永遠の平和を希求し」、「帝国憲法の改正案を帝国議会の議に付する。御名御璽  年  月  日内閣総理大臣」との文書が国立公文書館に残っている。資料作成年月日は昭和21年6月8日である。

平和論
最も平和論に代表される考え方は、日本国憲法の中では憲法第9条がある。平和憲法は、日本国憲法の中心思想である。武力の放棄は暴力の否定の思想であり、ガンジーの非暴力思想に通ずる。アメリカで銃の所持の規制が進まないが、銃の所有と、銃の使用とは異なり、銃を借りて使用することもある。アメリカは銃社会である。
銃社会は危険であるが、各人の所有権の自由を守っている。ユダヤ人は銃を持たなかったのでホロコーストがあったと考えているのかもしれない。

日本が豊かなのは憲法第9条のおかげだは本当か
日本人は戦後(1945−2007)、ただ経済的に豊かになることを念じて生活をしてきた。そのためにあらゆる所が便利になった。この経済がもし軍備に回されていたら、あらゆる所でそのつめ跡が残っていたであろう。憲法第9条があったおかげで、軍備不安になる様々な出費をしなくて済んだ。自衛隊の費用に向けられた資金の多くは軍備拡張のためではなかった。高校を卒業してすぐ北海道の駐屯地に就職していった生活を受け持った。もし軍拡が競争であったならば、戦前の様にカントの永遠平和論の理屈によって、拡大をし続けていたであろう。永遠の軍拡と他国への脅しがあったであろう。しかし、自衛の為の軍備は拡大しなかった。覇権主義にも武力主義にも陥らなかった。その分が経済にも回らなかったのである。そのかわりに経済が発達し、核爆弾の脅威の下で、原子力発電やらが発達したのである。原爆の存在こそが憲法第9条の支えとなったのである。それは武力に関する理想の発展を促した。

永遠平和のために
一時的な平和においては次の戦争を予感している。ところが第二次世界大戦後の第三次世界大戦を予測していない。憲法第9条はそのような世界の理念を表わしている。それ故に世界に大戦が1945年から2007年までの戦後に起こっていない。これ迄は第一次世界大戦後50年も経てば世界大戦が起こっていたのであるから、62年間の長期の間には、世界大戦が起こるだろうと予測されていたのにである。憲法第9条が世界大戦の抑止に貢献があったと考えることもできる。日本人は気が付いていなかったが、憲法第9条の世界に対するインパクトは大きかったと考えることができる。憲法第9条は永遠平和を願うものであり、次の戦争を抑止する意味があったからである。一時的な平和の概念から生まれたものではなかったのである。

永遠平和論より
−せんめつ戦と核爆弾−
カントが、「せんめつ戦では、双方が同時に滅亡し、それとともにあらゆる主義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれることになろう」、「従って、このような戦争は、従ってまたそうした戦争を導く手段の使用は、禁止されなければならない」と書いた18世紀末には、核爆弾は存在しなかったのに現在の国際情勢を言いえているのは驚嘆に値する。核戦争により、人類のせんめつと滅亡が一瞬にして起こるような核戦争の時代に、銃の所持と同様な考え方で、武力放棄をした国がもう一度武力を持とうとするのは頭が狂った人々の行為ではないかと考えられる。

正統と異端
 正統と異端の政治学上の定義付けを理論的に解こうとした丸山貞男が失敗したのかどうか、それは未刊行となったのであるから不明であるが、未刊行としたということは完成しなかったということであろう。政治学上正統性と異端の問題はあくまでも理論上の問題であって、理論的に解くことは可能ではあっても、多数派の横暴や、少数派の役割、少数支配の原則、多数決による民主政治等、少数派、多数派の問題とも関連を有しており、容易に解決できない問題である。この問題は、ある政治思想が生まれてきたのは何が原因であるのかという問題とも関連している。原因さえ特定できれば、即ち丸山のいう古層なるものがいかなるものかが分かれば、それが正統であるのか、正統からどのような分岐があったのかがわかるからである。しかし古層のみがすべてではなく、生育環境とかも原因としては考えられる。

一時的な平和とパワー オブ バランス
パワーがバランスした時に一時的な平和が生まれるのである。従ってパワーの均衡が崩れた時にはまた戦争が始まることになる。戦争の両当事者がパワーを拡大し続けることによって、一時的な均衡が長続きすることはありうる。しかしそんなに長続きはしないであろう。これが一時的な均衡である。カントが常備軍の廃止を提唱した裏には、パワー オブ バランスの崩壊と、せんめつ戦争の回避の理念的要請があった。その当時の戦力の状況、銃と大砲の時代の理念ではあったが、これが、現在の核爆弾による戦争の恐怖によるパワー オブ バランスと、国際連合による現実的な国際権力と各国の法を越えた法、理念的な法、国際理念的な法という概念と合致していた。

日本国憲法において、その第9条は戦争の放棄を定めている。自衛のための戦争が可能であるのかどうかについては、自衛のための戦争を認めるという説が多数を占めている。自衛のための開戦と、紛争を解決するためと正当化された戦争とはどの様に異なるのか。
普遍的な格率は永遠平和である。しかし、それは普遍的な理念型であって現実的ではない。現実には皆がベイズの定理の下で囚人のジレンマに陥っており、占領されたり、攻撃されたりすることがありうるのであるから、その様な場合には自衛のための開戦は正当化されうると考えられる。

自由と永遠平和との関係
各共和国が民主的であれば、各国民は戦争をするのがイヤであろうから、戦争を放棄することになる。一方、共和国とは各国民が主権者によって完全に統一されている国家のことであるから、一人として戦争がイヤであるのではなくなった時にだけ戦争が行われることになる。戦争は自らに炎厄をもたらすことが多々あるから、君主が領土を拡大していこうとする場合を除けば、すべての人がイヤがるであろうという予測がカントの「永遠平和論」の前提となっている。
自由な意思を持つ各人は自律的であらねばならない。しかし各人は情報戦の影響を受ける。政治的情報戦においては多数をとった政権側は少数の政治的異端者を自らの側に引き寄せるために多くの情報操作を行う。情報操作は戦況に対して多く行われるが、正しい情報を得る必要がある。

自由と自律
自らの道徳的な格率を自ら作り、それに従うことが自律である。ところが、道徳的格率が普遍的な道徳的格率に合致しなければならない。その際、永遠平和は、一時的な平和のカモフラージュではないのであるから、ある意味で普遍的な格率である。従って、カモフラージュによる一時的な平和、すなわち、相手を欺くためとかのための平和ではない平和、これが永遠平和であり、それは自然(自由・自律)によって保証されなくてはならない。自然な格率であるためには、人間の自然は自由であるから、自然でなくてはならない。

憲法第9条改正論者がただ単に「現実に合わせるべきだ。」という理由であって、本当に戦争をするつもりはないと言い訳したところで、開戦する国家の自由を認めた場合、それも憲法によって認めた場合には、領土を拡張したいとか、自らの権勢欲を達成したいと思う政治家は必ず戦争を開戦したくなるのは明白である。

普遍的な格率に到るべきだ
自然によって永遠平和が保証されるためには、憲法とその上にある法によって普遍的な格率が明示されることはよいことである。確かに現実は一時的なカモフラージュされた、他の国々を欺くための平和の契約のみが現実の国際社会であったとしても、次第次第に永遠平和という普遍的格率に到るべきであるという普遍的な格率を、憲法とその上にある法が示していることは、もし、現実の国際情勢がカモフラージュされた平和の状態であったとしても、理念的な意味を持った良いことである。

カントの「永遠平和のために」と憲法第9条
カントの言う永遠平和はバーゼル条約に対する批判であった。憲法第9条は第二次世界大戦に対する批判からであった。第二次世界大戦はせんめつ戦であったのか。際限のない軍備の拡大であったのか。選挙は際限のない爆弾の拡大であるようだ。しかし限度が設けられている。軍備にも限度を設ける? 設けると負けるではないかという反論が出てくるであろう。選挙においては限度は守られていた。
政党の党首は選挙においていかに現金を使うのかについて苦労する。この選挙の資金の戦争を分析するのと、第二次世界大戦中における軍拡の紛争を分析するのとは似ている。
軍拡の競争は、永遠平和の為の1つの課題である。

カントの永遠平和論
 カントの残したものは、自由に関する哲学理論のみではなく、永遠平和論でもある。これはバーゼル条約を憂えて作られた。日本の現在の状態を一時的な平和、即ち休戦ではなくするためには、憲法改正は許されない。

日本の憲法第9条は何故に世界でも貴重にすべきものか。
 核戦争の時代には勝者も敗者もない。従って知力によってのみできる。平和は、核戦争は、

 あなた方国民を虫けらと思えば、支配者は戦争できるが、もし各人が戦争というイヤなことにNOといえる民主主義なら(共和制なら)戦争はできないはず。軍を持てば必ず戦争したくなる。戦争しないと軍人を遊ばせておくことになるから、戦争をする。だから軍は持たない、つまりは自衛隊と国連の戦争反対の規範のみでといっている。

 今でも財政赤字なのに、軍備拡張せざるをえなくなると、財政破綻し核戦争にならざるをえない。

永遠平和のために第一章
予備条項
第1条項 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。
第2条項 独立しているいかなる国家も継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない。
第3条項 常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。
第4条項 国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない。
第5条項 いかなる国家も、他の国家の体制や統治に暴力をもって交渉してはならない。

永遠平和のために
第6条項 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。たとえば、暗殺者(precussores)や毒殺者(venefic)を雇ったり、降参条約を破ったり、敵国内での裏切り(perdvellio)をそそのかしたりすることが、これに当たる。

第三条 常備軍は時(永P.16)
 「常備軍はいつでも武装して出撃する準備を供えている。それ故にほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。」
 「常備軍が刺激となって、たがいの国に無際限な軍備の拡大を競うようになる。」
 「無際限な軍備の拡大に費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりも一層重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の要因となるのである。」
 「兵力と同盟力と金力という三つの力のうち、金力がおそらく最も信頼できる戦争道具であろうから。」

永遠平和のために
(P.17)
 「国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外からの攻撃に対して防備することは、これとはまったく別の事柄である。」
(P.18)
 「こうした戦争遂行の気安さは、人間の本性に生来そなわっているかに見える権力者の戦争癖と結びつき、永遠平和の最大の障害となるもので、これを禁止することは、次の理由からしてもますます永遠平和の予備条項の一つに数えられる必要があろう。

確定条項
永遠平和のために第二章
 「第一確定条項 各国家における市民的体制は共和的でなければならない。」
 「第2条項 国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。」
P.40、P.41 「グロティウス、プーフェンドルフ、ヴァッテルなどの法曹は、……相変わらず忠実にこれらの人々の名が戦争の開始を正当化するために引かれるのである。」
 「第三条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。」

永遠平和のために
 正義
 悪だくみや暴力が指図する、曲がったすべての道を歩かない。
 他の人間の連理を斥けないこと、侵害しないこと。
 純粋な法の諸原理に従った国内体制。
 各国家の繁栄すること。
 各国家が幸福になること。
 道徳的な悪は、善の(道徳的)原理に場所を開けるという特性を持つ。

P.29
共和的体制は永遠平和
@ 法自体市民的組織の根源的な地盤となる体制。regublica
A 法的な(外的な)自由を、欲することを行うことができる権利を共同的すとるが、

他人に不法を行わないかぎりでの行為の可能性
自由とは、自由によって他人に不法を行わない行為の可能性
国家における外的(法的)平等は、人はそれによって相互に同じ仕方で束縛されることができる法に、自分も同時に従わなければ、誰であれ、他人をそうした法の下に法的に束縛することはできない。
国民相互の関係
普遍的な民族意志は、根源的な契約(法の原理)に■■したい。

永遠平和のために
P.33
 「臣民が国民ではないような体制、つまり、共和的ではない体制においては、戦争はまったく慎重さを必要としない世間事であるが、それは元首が国家の成員ではなくて、国家の所有者であるからである。」
「そこで取るに足らない原因から戦争を一種の遊戯のように決定し、ただ体制を整えるために、いつも待機している外交使節団に戦争の正当化を適当にゆだねる。」
「支配権を持つものが…集合的な全員である。……民衆制……民衆支配」
「統治の形態……憲法(……一般意志の働き)に基づき、国家がその絶対権力を行使する仕方……形態は共和的であるか、あるいは専制的である。」

永遠平和のために
P.34「共和制は、執行権(統治権)を立法権から分離することを国家原理とするが、これに対して専制は、国家がみずから与えた法を専断的に執行することを国家原理とする。従って後者の場合、公共的意志といっても、それは統治者によって統治者の私的な意志として取り扱われる意志なのである。」

永遠平和のための「第二確定条項」
「国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである.」
「これは国際連合と言えるが、しかし、それは当然諸民族合一国家ではないであろう。」
「平和連合(foedus pacificun)……これは平和条約(pactum pacis)とは別で、両者の区別は、後者が単に一つの戦争の終結をめざすのに対して、前者はすべての戦争が永遠に終結するのをめざすことにある、と言えよう。」

「国家の真の名誉は、どのような手段を用いるにせよ、権力の不断の増大にあるとされるから、さきの判定がいかにも形式的に見える。」

「再戦に向けて最初の好機会を利用しようという悪意から、この権利主張を将来の口実に使おうと保留する(心内留保reservatio mentalis)」
「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約」
「実はたんなる休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではない。」

「国際法が戦争への権利を正当化する法を含むとすると、こうした国際法の概念はもともと無意味である」とする。これは「ある民族が『われわれの間に戦争があってはならない。……われわれの間の紛争を平和に調停する立法・統治裁判の最高権力を、われわれ自身のために設定することを欲しているからである』と語る」のとは違うとする。これは自国の権利を信頼する根拠を「自由な連合制度」の存在しないとしているからであるとする。
ここに、日本が、国際連合中心主義と中立主義と武力の放棄の理想を揚げ続ける意味がある。

 共和的体制こそが「永遠平和への期待に添った体制」であるとしている。

 「国民は戦争のあらゆる苦難に背負い込む」から、「こうした割に合わない賭け事をはじめることに極めて慎重になるのは、あまりにも当然のことである。」

 カントが「戦争」の災厄として挙げるものは、共和的な国民は「自分で戦う、自分自身の財産から戦費を出す、戦争が残した荒廃をやっとの思いで復旧する、こうした災厄をさらに過重するものとして「たえず新たな戦争が近づいているために決して完済に至らない負債を自分に引き受ける」ことになるとして、戦争を「割に合わない賭け事」として共和的な国民であれば、戦争をすべきかどうか決定するのに「極めて慎重になるのは、あまりにも当然のことなのである。」としている。

「永遠平和のために」より
 「人間の本性に生来そなわっているかに見える権力者の戦争癖と結びつき」(P.18)
 「反?滅戦では、双方が同時に滅亡し、それとともにあらゆる正義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれることになろう。」(P.21)

 カントの永遠平和のためにの第三条項「常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。」は、理想ではあるが、「時とともに」によって、将来の希望とされうる。

独禁法違反への誘いと兵役・軍隊への義務
 私にも独禁法に違反して、談合に加わるようにという誘いが来たが、それにはのらなかった。カント的な意味で、内心の自由があったからである。カント的な自律としての自由は「永遠平和のために」における永遠平和の概念も強調する。兵役拒否の理論付けにもなるであろうかは別としても。兵役には出ても永遠平和の概念を強調することは可能である。兵役を拒否してはならないという法は憲法第9条がなくなれば出てくるであろう。つまり、独禁法違反が常識であったとしても、それへの誘いがあっても、それにはのらない方がいいと思っている人のみ席を立つのである。皆が戦争をして人を殺している時に、自らのみの内心の自由で軍隊や兵役から離脱するのは難しいが、それをするのと独禁法違反(談合)から離脱するのは同じく内心の自由による。

政党と異端
 多数の意見が取り入れられて、民主主義をより多くの人の心の中から生まれた思想(正統思想と異端思想)が弁証法的に民主主義として確立されていく過程が政治過程であるといえる。少数者支配が多数者支配となっていく過程である。それを各個人の政治性の発展に待つのか、各人が主体的な自由を持つことに期待するのか。いずれにせよ各個人が政治家でなくても、政治を仕事としていなくても、自らが政治性を持つこと、そのためには各人が政治人となり、合理的となること、マスコミが政治について各人に多くの情報を与えること、そして政治過程の中で各個人が双方向的に政治に意見を言える機会が多く持たれることが必要である。

政治と自然・開発
 自然のままでの自由はルソーの言い分である。開発行政は開発の推進と、開発の規制との両方の仕事である。開発の自由は、環境保護の方針によって抑えられるのか。自由を自然のままに求めるのか、開発の中に求めるのかは、意見が分かれる。人工的な自由と自然の自由との差はどこにあるのか。便利さの中に自由を感じるのは動く自由があるからであり、不便でも自然の中で自由を感じるのは、自然の中に農業や、人間の本質を見出すからである。開発行政は資本の中に便利な乗り物とかに時間内の短縮と
しかし、独禁法はそれらを金の動きとして見出す。

戦争の開始が民主的になされる場合
各人各人が自律しているような状態において、支配者が戦争を好む場合に、支配者の勝手気ままに対して、各人各人が自由で戦争の悲惨さや、戦争の難儀さによってでも、自らが全体民族国家として滅ぼされるかもしれないからという理由で、全員が戦争の開始を決定する場合があるかもしれない。しかし、それは国民が自発的に自分や祖国を外からの攻撃に対して防備することであって、「まったく慎重さを必要としない世間事」として、「取るに足らない原因から戦争を一種の遊戯のように決定し」、「戦争の正当化」を適当に外交的に行うこととは違っている。

カントの民衆的体制は衆愚制にも共和制になることもありうると考えている。従って「全員ではない全員が決議できる」から、「一般意志が自己自身と矛盾することであり、自由と矛盾すること」となるからとしている。

カントの「永遠平和のために」第1章はバーゼル条約を「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約」であり、「実は大いなる休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではない」としたものである。これを第1条項として、第2条項では「独立しているいかなる国家も、継承…によって、ほかの国家がこれを取得」することを禁止している。更に第3条項では「常備軍は、時とともに全廃されなければならない。」という有名な条項がある。「常備軍が刺激となって、たがいに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりも一層重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである。」としている。

カントは、平和連合(foddus pacificum)は「すべての戦争が永遠に終結するのをめざす」ものであって、「国際連合」といえるが、「自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである」とする。

丸山真男論
丸山眞男が軍隊で実体験をしたこと、広島で原爆を被爆したことは彼の政治論の重要な部分をなしている。体験なしで、戦争を語ることができるであろうか。
ヒットラーのナチズムが悪かったと言えるであろうか。
ヒットラーを批判するのに全体主義や、ナチズムやホロコーストのみのせいにすることができるであろうか。
なぜに丸山眞男は社会主義であったのか。自由がなかったことが重要であろうか。丸山眞男氏らは何故に
超国家主義は、天王星批判であるのか。
ナチズムに対するドイツにおける批判と同様な反省が日本で見られなかったのは何故か。
おそらく理由は、ドイツにおけるユダヤ人の様に日本における朝鮮人が、ホロコースト故に徹底的批判を行わなかったからであろう。朝鮮人は世間の声の中で差別されたので、反論する方法はなかった。証拠もとれなかった。世間は暴力(武力)を伴なっていないので証拠が少なかった。

少数支配の原則から多数者支配へ
各人が政治的主体となればなる程、多数者支配に近くなる。フランス革命は多数者が労農派となった。ミヘルスから     に到れるか、オリガーキーからボリアーキーへ。独占禁止法は独占から自由な公正競争に到る迄の法が定められている。逆にいえば政治学においては独禁法が、公職選挙法に該当する。あるいは独裁を禁止し、三権分立をする考えが憲法の中の随所に織り込まれている。
正統と異端、正常と異常の問題を考えたのは古田雄、丸山眞男らの研究会であった。この問題は解けなかったので、未完となった。ところがこの弁証法とも考えられる論理は重要である。ところが、この正統と異端の問題を民主主義と自由主義の中で正常に解くためには法の上にある法という考えが必要であった。これが「永遠平和のために」(カント)と、「法の上にある法」(ラートブルック)の考え方であった。

政治と威光
テレビで、イギリスの大歌手を紅白歌合戦で長瀞で歌わせた。これは観光に役に立った。これが県知事の力添えによるものであったならば、その当該県知事の威光は上がった様に見える。同様に、ある首相の在任中に(王様・天皇ならば治世中に)経済が発展するならば、その首相や殿・王様・天皇は高い評価を受けると考えられる。しかし、それが景気循環の一部であったり、あるいは東京に近いというだけの理由であったという可能性もある。そこで、目がさめてしまうということはありうる。

政治と内閣総理大臣・大統領
大統領選挙はアメリカ政治のクライマックスである。また日本では内閣総理大臣の選出(国会における)もまた日本政治のクライマックスである。大統領も内閣総理大臣も行政の長であるが、元首でもある。元首とは     である。行政の長は戦争でさえも宣戦布告することができる。但し、国民と国会及び司法の判断を仰ぎながらではあるが。日本の内閣総理大臣が宣戦布告ができるかどうかは不明である。憲法第9条があるからである。もし宣戦布告が出来ず、第三次世界大戦に参戦できないとすれば、中立を宣言するしかない。中立を宣言しても自衛をして、中立国として、被害を防止することはできる。攻められたら反撃はできる。その場合、自衛の為の戦争は宣戦布告といえるかである。憲法第9条の意味は、中立し、カントの意味をスイスの様に保つという意味である。永世中立。

人民主権と民主主義
人民主権は、民主主義ではないのか。労働者が政権をとるべきだとすることは妥当なものであるのか。杉原泰雄という憲法学者を人民主権主義ゆえに憲法第9条論者と決めつけることは妥当か。人民主義や共産党や社会党は政権をとることはできないし、その可能性が極少であるからこそ憲法第9条を守ろうという様な無責任なことを言っているのだと、本人の平和主義の本心とは違っているのに、批判するのは妥当ではないだろう。本当に本心から平和を願っているのである。共産主義者であっても、平和という一志のみが大切なのである。永遠平和という理念のみが大切なのである。理想は持ち続けなくてはならないという哲学のみが人間にとって大切なのである。

政治家は何でもできるか
政治家は何でもできるのか。実業家ではないので何もできないのか。政治家は価格と入札によって、自由に価格を決めているのではない。思想を決めている。あるいは思想を武力によって実行に移せるかもしれない。

政治家と教授と子供
政治家と教授とは相容れない。教授は口のみで、青春以来実社会に出たことはない。小学校の職員等は、実社会に出ても子供と付き合っている。ところが、政治家は大人とのみ付き合っているのである。従って、実社会の裏の裏まで知っている。政治学の教授は裏の裏は全く知らずに政治を語らなくてはならないので、どうしても法律に頼りがちである。

競争と政治
政治が競争を認めるか、認めないか。これは制度の問題である。オリンピック選手に背を高くなれといってもできないし、競争の次の週にでも体のあらぬ部分が発達してしまえば、金メダリストでも記録はすぐに落ちてしまう。競争できない部分はできないが、商品の性質(品質)や価格や5ギガのメモリーを500ギガに増やすことなどは、また、人間の知識を5ギガから500ギガバイトに増やすことは誰でもできる。

自然科学、社会科学、人文科学
自然生物の世界であるが、人間には脳が5億ギガ分あり、そのために科学の世界が違っている。文学は無限に続く5億ギガの闇の様なものである。人文科学である。その一方で、社会科学は人文科学の一部分を社会や世間として取り出したものである。しかしその人間を社会としてではなく、物として取り出したものが精神科学である。精神医学と、社会医学、自然医学は医学同格に人間の医学である。

暴力と政治
暴力に対しては、人は怯える。従って、暴力団という概念がある。軍や警察は暴力(武力)である銃や刀剣を自ら所持して、暴力(武力)管理機構としての役割を持ち、それは国家機構の本質のうちの一原則でさえある。
しかし、国際機関である国際連合や、かつての国際連盟に暴力(武力)を預けて、各人は軍備を管理しない事も国家の本質でありうる。これは、アメリカに各人に銃・刀剣の管理を預けるのか(ホロコーストの反省からこれを認める人々もアメリカには多い)、日本の様に銃・刀剣を自ら管理せずに、各人はすべての銃・刀剣を国の管理にまかせるのかの哲学的問題である。

政治と文化
イタリアやフランスやヨーロッパの政治は文化を育てた。宮殿にしろ、宮殿付きの音楽家にしろ、宮殿付き建築家にしろ、宮殿付きの画家・文化人にしろ、文化は暇の中から生まれた。
文化国家を作るためには文化委譲は不可欠であるということであろう。人間が機械化とコンピューター化によって、大量生産が少数の人間(労働者)によって可能になるということはよいことである。その他の人々は余暇を多く持っていても食べて行けるからである。ところが、それに応じて、それ以上に人口が増え続けることは他の環境問題を発生させるかもしれない。少子高齢化で各人はそこまで、価格(給料)やその他の価格体系を含めて考えて、少子高齢化を選択していると考えられる。それが世界全体の人類の選択として統計(総計)によってとらえられることになる。

男性と女性、マスターサイエンス
人類の支配原理となるもの、それらの科学を統一するもの、科学の行き先の方向付けをするものが、マスターサイエンとしての政治家である。それは言葉ではあるが、宗教とは異なって科学である。人類には男と女が存在するが、同じ人間である。XY、XXの染色体が1つだけ違うのみである。

職業と政治
毛沢東は若い頃、教員をやっていた。ある職業をしていたから、その人がある政治思想を持ったとはいえないが、ある政治思想を生んだ人の前歴を見て、その人の性格や家族関係や、家族構成や職業生活のうちのどれが、その政治思想に最も大きな影響を与えたのかは言う事ができるであろう。
W.ウィルソン(国際連盟の提唱者)、大熊重信(早稲田大学の創始者)、マキャベッリ(ルネッサンス期のフィレンツェの行政家、現代政治学の創設者)の3人が同じ兄弟構成であったことは、彼らの政治思想に影響を与えたということはいえても、どの政治思想とはいえない。しかし、ある永遠平和論に陥った政治思想家がどの様な兄弟構成であったのかという事後確率からみれば、事前にどの様な兄弟構成であったかの確率は言う事ができる。これをベイズの確率というのであり、貧困の多くの中の1兄弟の中で生まれても成長すれば、共産主義の暴力革命にならないこともできる。

ベイズの定理と囚人のジレンマ
ある時ある人が、50人のうちの誰が1つのものに賞金としてありつけるかの募集を見た。毎日応募してれば確率は上がるが、1/50の確率でしかない。1/50の確率は伝統的統計学であるが、注意して毎日応募していれば確率は上がる。これがベイズの考えた事後確率からみたベイズの確率と呼ばれるものである。

家族と国家
人はまず家族を構成する。その中での生活は国家によって包含される。家族の形態はモルモン教徒の様に各国にて違っている。それは自由であろうかとの問がジョン・スチュアート・ミルから出されている。

ホロコーストと原子爆弾
第二次世界大戦は、ホロコーストというユダヤ人の大虐殺(血を1つにするためという思想から)と、原子爆弾を生んだ。戦後、その反省から、ドイツでは完全に反省されたが、日本では、中国侵略をはじめ、ほとんど中国侵略に反省はなかった。日本では原子爆弾に対する反省が、左翼陣営から行われた。左翼陣営がすたれた後には、反省はなくなった。しかし、歴史からの反省は左翼とは関係ない。反省とは、歴史を見る目である。当時は朝鮮人排斥などラジオ文化の中で世間が形成されることによって、朝鮮人差別が行われたが、時代の文化でもあった。

政治と宗教
政治と宗教はよく似ている。信者と国民の違いである。領土は宗教の布教範囲である。宗教は世間(日本の)の様なものになる。従って、布教範囲があるが、国が一つの地域内にあるのとは違って、一つの地域内に二つも三つも宗教がある(場合がある)。宗教は倫理や道徳を含む。仮にキリスト教は人が見ていない時でも、又、証拠がない時でも正しいことを言え、せよという概念を含んでいて、倫理・道徳と自国人は考えている。仏教は己を知るを主とし、仙人的な教え方である。それはまた、禅の考え方の中にも入っている。

平等の歴史
労働運動と共に、資本家と労働者の平等という観点からの平等が主張された。それ迄の身分制については疑いを入れる者はなかった。しかし、日本では四民平等という考え方が生まれた。明治維新で政府が制度的にそれを定着させた。一方、フランス革命はそれ迄の身分制社会、身分制度自体を崩壊させた。経済学的には産業革命が平等の概念を定着させた。しかし、その後、機会の平等は達成されたが、経済的不平等が起こった。それに対するものが、マルクスの理論であった。労働者と資本家の平等であった。

博愛の歴史
フランス革命は自由と平等以外に博愛を主張した。博愛はfraternityであり、キリスト教的な兄弟愛即ち世界鍋の様な慈善事業を意味している。慈善事業は社会的移転を、宗教による愛によって行っている。一方、国によっているのは稀である。仏教国家やスウェーデンの社会主義的国家では税によって行っている。国自体が宗教国家である。

政治哲学
自由、平等、博愛の概念を中心とする政治哲学の概念である。単位法と法哲学を中心とする法学に対して、倫理や道徳とは違った概念である。
法の上の法は、道徳や倫理であるか。それはまだ実定法化されてはいないが、今後実定法化されるべきだと国民全員

イギリスの法は、身分制度が今も残っている。各コロッジで■えられており、身分制と共に発達してきた。

テレビ、ラジオ、映画、ゲーム、カタルシス、マクルーハン
ヒットラーは映画の時代の産物である情報戦であった。今は55インチの大型・薄型テレビで全世界の情報が簡単に入ってくる。海外の情報はテレビで見るのと、ラジオで聞くのとは違っている。ラジオは音のみで、イタリアというだけであるが、テレビはそれに映像をつける。映画は、しかし、同じ映像でも、そのうち演説したヒットラーの写真しか映さなかった。何でも映すべきである。権威はなくなる。しかし、それでも国家組織法は変化がない。天皇が君主主権であることにかわりはないのであって、人間天皇として憲法上は天王星国家であるが、権威も威厳も、そして、丁寧さも併与しているといえる。

労働組合という団体とコーポラティズム
「労働者よ団結せよ。」とのマルクスの言葉、「家族を破壊せよ。」とのマルクスの言葉は人々に衝撃を与えた。その後共産主義政権がソ連、中共とできたが、ソ連、■■■■■わった。一時期コーポラティズムの論理がはやった。

衆議院と参議院
衆議院は貴族院に対するもので、君主政の名残である。衆議院は君主政である。君主制と民主主権は違っている。

政治と平等
生活そのものを政治が面倒をみる生活保護は、政治による平等という概念である。また、社会的な富の移転は平等という概念によっている。独占法という競争は平等をもたらすとスミスは考えている。いい面は多いが、逆に、負け組みももたらす。それを救うのが平等を目指しての税による社会的な富の移転である。
自由の歴史・平和の歴史
マグナ・カルタが国王に対する自由の主張の最初である。これは権力に対するものであって、自由に対するものではなかった。思想表現の自由は共産主義に対するものであった。暴力主義的な思想が、現実に暴力の恐れがないのに、抑制してはならないというのが、現在の理論である。「自由放任の終焉」(ケインド)と「自由主義の終わり」(ローウィ)は、恐怖に対するものであった。

芸術・文化と国家
国家が芸術を抑圧したり、消費特需(委譲に自力の時代もあった。)の様に、国家が文化そのものを抑える時代があった。これに対抗して生まれたきたのが思想・信条の自由や思想の表現の自由であり、これは国家に対するものであった。

第4の権力:報道
報道機関には沢山の自由がある。第一の権力、国会。第二の権力、行政。第三の権力、司法。これらは国民に知らせるかどうかの権力をもっているのが報道機関である。現代のベルスコーニ氏はイタリアの首相であった。報道の自由がある。それが知らしむべからず、依らしむべしにならなければいい。依存するとは自由がないことである。自由と依存は対である。国家に対する依存の意味である。その様な国家からの自由はあろう。

知識は積み重ねられていく(依存と独立)
ただの批判のみでは知識は積み重ねられないが、知識(利子)は積み重ねられていく。依存している者は批判のみを行い、知識の積み重ねがなく、死ぬ間際になって破綻したケースがある。つまりは独立した人間は知識を積み重ねていく必要がある。独立した人間とは「学問のすすめ」ではないが、知識を積み重ねていく人間のことである。この面では生涯学習が必要である。

政治と発達−教育
子供にいないいないばあをすると、人が居ることに気が付き、何と人間を認知する。人間は認知心理学と、行動心理学によって心理学的に理解することができる。認知心理学では自由を、毒を認知し、危険を認知し回避するという概念につきる。しかし行動心理学によってしか認識できない事象が存在する。つなわたりのサーカスでは、危険にわざわざ立ち向かっていく勇気を人間は絶賛し、さらには冒険家が雪山で死ぬことを絶賛することがある。その解釈としては行動心理学においては霊山において死なない方法を探しているのか、自由なつなわたりの行動ができる様になることを探しているのである。se

独禁法の成果
――百円ショップと百円寿司――
イギリスで寿司を食べれば2000円はかかる。サンフランシスコも同じである。日本では百円ショップがあり、百円寿司がある。もし、独禁法がなければ、百円寿司も百円ショップも生まれなかったであろう。独禁法には一人一円、一人一票、株主は平等に一人一票であるという大原則に則っている。独禁法は平等の原則と機会均等という、所有権の絶対性に似た抽象原則から成立している。サラリーマンの所得では百円寿司しか食べられないであろう。百円の価値を上げたのであり、また物の価値を上げたことになる。百円寿司よりももっと安くて価値のある寿司が現れれば、そちらへ行くかも知れないが、衛生的で問題を起こしたとのない寿司店で百円ならば安いといえるであろう。

経済的広告宣伝の合理性(条理?)
コマーシャル放送は経済合理的で永遠平和である
(ビジネスが独禁法によって平和の伝となっている)
未来の為にという保険の広告(コマーシャル)は、経済的に未来を考えませんかという意味で、プラシスティックではなく、オプティミスティックである。広告は経済合理的であり、戦争や悪い政治の様に生活破壊や戦争による破壊とは関連がない。従って、永遠平和と関連しており、逆にオプティミスティックすぎるという言葉は当たらない。ところが、芸術や政治にはそれによって経済合理的であることは少なくない。広告の背後にある経済合理性を見つけることによってのみ広告を楽しいものと考えることができる。
人間の自然に合致しているのならば、自然であり条理であろう。

戦争と協力
戦争によって不経済が起る場合があろうか。価格競争においてはないが、出口から出る場合、一人しか出られない場合、二人で出られる場合と違って、協力が有効の場合があると渋滞の■■ではない。人のぶつかり合いが起る場合という。わざと行列を作った方がいい場合がある。例えばBCM事件では共同で著作権を得たほうが安く済む。一人一人に著作権の許諾を得るのより遥かにいい。

日本のための東京あなたと創り直すのマニフェスト2007より山口新東京都知事誕生において選択的に採用する政策:
(政治経済学的に問題)
東京は、世界の中の永遠平和都市として生きていく。
永遠平和のために
一時的な平和においては次の戦争を予感している。ところが第二次世界大戦後の第三次世界大戦を予測していない。憲法第9条はそのような世界の理念を表わしている。それ故に世界に大戦が1945年から2007年までの戦後に起こっていない。これ迄は第一次世界大戦後50年も経てば世界大戦が起こっていたのであるから、62年間の長期の間には、世界大戦が起こるだろうと予測されていたのにである。憲法第9条が世界大戦の抑止に貢献があったと考えることもできる。日本人は気が付いていなかったが、憲法第9条の世界に対するインパクトは大きかったと考えることができる。憲法第9条は永遠平和を願うものであり、次の戦争を抑止する意味があったからである。一時的な平和の概念から生まれたものではなかったのである。
これまでの政策が間違っていたのは、この点にあった。
戦後経済は米の1/4の軍事費に守られてきた。
これは経済学的には一時期西川潤教授らが主張してきたことだった。その残った部分を外国への輸出によって利益を得て、利益が更に利益を産むことになった。
これはイデオロギーを超えて正しいことであろう。
これが杉原泰雄教授の側から言われたからといって目くじらをたてる必要はない。
それによる利益が世界への投資に回されている。戦前にはそれがマルクス理論の様に軍備費に回されて、戦争に至ったという理論は頷けるが、しかし永遠平和という概念からすれば世界の中での利益であったとすれば良かったのである。
何故に石原前都知事は324r/kgのヒ素(広告審査済)のある土地に?
この原点には、選挙費用がいびつにかかっているという点に問題があるということです。

(「都民が作り上げる東京へ」)
世界の東京
「都民が作り上げる東京へ」
石原公約のどこに政治経済学的に問題があり、時代の閉塞が起こっているのか。
おそらく、若者の閉塞感と、ベビーカーが都心のどこも闊歩できないような東京を作り上げたことに問題があります。経済は需要と供給によって成立する、消費者の経済的厚生を増やす活動である。消費者の経済的厚生を増やすという点に公共の福祉という概念がはいってきている。この経済では、貯蓄と投資というものをエンジンとした経済の循環というものによって動いていますが、今はエンジンが壊れており、それを直さなくてはなりません。この現代の近代的な経済学の観点から新しいニューディールに似たものを各都の職員が行う必要があります。
 この観点はシビアーであります。
 これまで日本ではかって資産価値の下落が貸借対照表の損失を通じて、自己資本の減耗を発生させましたが、これが資産デフレとなり、資産デフレ乗数を生み、経済に大きな影響を及ぼしたことは否定できませんが、これは物差しが変わったというだけであって、あまり心配する必要はないようです。
浅野マニフェストのいろいろな所にある経済学的な巨大な弱点。
そこを突きます。
確かに、宮城には大きな赤字が残りました、一方東京は企業が大きな収益を上げているために、放漫経営でも東京オリンピックの計画も立てられるかもしれません。しかし都政は浅野氏が言うように完全に破壊されました。それは東京は、世界の中の永遠平和都市として生きていく、という、東西冷戦後のイデオロギーを超えての正しい選択ではなかったからです。
しかし本当はどちらの経済も悪くなっていると思っている人は多いでしょう。新入社員が増えたといいながら、それは団塊の世代が首を切られ、安い給料の新入社員に代わった、それもほんの少数の人だけ使い捨てでないのはということが分かって、それ故に閉塞感が広がっているのだと思います。
4月1日の朝日新聞に新聞広告が出ましたが、それが時代の閉塞感の分岐点だったと思います。

この4月1日に良くなると信じていた人はすべて裏切られたでしょう。数人を除いては。
新入社員も裏切られたかもしれません。

政治学者、経済学者として若者の閉塞感につては、政府の失敗は認めざるを得ません。しかし一緒に建て直そうではありませんか。それが山口新東京都知事の理由なのです。歴史上に残しておくべき演説はその理由から行われたのです。
格差については当然なのか、そうではないのか、安倍氏をはじめとする若者が親ナチに走るのはなぜか。

やまぐちせつお
山口節生
目次
日本のための東京あなたと創り直すのマニフェスト2007より山口新東京都知事誕生において選択的に採用する政策:
石原氏候補者個人の公約について政治経済的にどのような問題があるのか。
どこを採用すべきであるのか。
世界の中の東京、グローバリズムの欠点を取り除いて進む東京。大きな変革的な政策を採ります。
「都民が作り上げる東京へ。Ask what you can do for your Tokyo, an eternal peace megalocity.」
政治学者、経済学者として若者の閉塞感については、政府の失敗は認めざるを得ません。
これまでの政府の失敗はもう何と言っても終わったことです。私にはどこが失敗であったのかは分かっています。
しかし一緒に建て直そうではありませんか。
格差については当然なのか、そうではないのか、安倍氏をはじめとする若者が親ナチに走るのはなぜか。

やまぐちせつお
山口節生
目次
1都民が作り上げる東京へ
2 都政運営の基本姿勢
(1) 東京から世界へ新しい風を起こす
 東京都政を転換することにより、閉塞感に風穴を開けて、いきいきとした世界の中の日本を蘇らせます。
(2) 人と自然に優しい東京を創る
 都政の手法として、兄弟姉妹の友愛に満ちた手法を採用し、税金による方法であれ、社会的な援助の募集の手法によるのであれ、社会的に弱い立場にある人たちが、生きやすい環境を創り出します。
(3) 透明性のある都政、風通しのよい都政にする
 ただ20円を10円にするだけの浅野氏の情報公開こそ、本当の情報公開をはばむものです。それは真の情報公開は知らせずに、隠れた密室の電話などによって、都民をだますために用意された軍拡(核も含む)(改憲)に向かうように仕組まれた罠を国民に仕組むことです。自分がその罠になっていることを承知しながら、一官僚、国会議員ではないという理由で軍拡(核も含む)(改憲)は国会議員にまかせるというのは、自分が当選すれば軍拡(核も含む)(改憲)の理由になるという政治的な理由を隠した隠し玉にしか過ぎません。これが情報公開といえるでしょうか。知れしむべからず、依らしむべしとは正反対の知らせるべし、依らしむべからずの情報公開の姿勢こそが真の情報公開なのです。それが都政を貫く基本姿勢であるべきものです。農林省が決定してしまったものを即刻中止させますといえるぐらいの風通しのよい都政が必要です。政策立案の過程も外から見えるようにし、都民、職員が積極的に参加する形の意思決定ができる体制に転換します。
(4) 納税者のお金を大切に使う
 都民から預かる税金について、都民にわかりやすい説明をしながら大切に使います。都民に説明がつかないようなお金の使い方はしません。特に世界に東京の永遠平和都市を宣伝するために海外旅行をするについても効果的な資金の使い方をします。
(5) 都民のために、誠心誠意、全力を尽くして働く都政を確立する
 都職員全員が、都民のために仕事をするよう徹底します。それを率いる知事本人は、全身全霊で都政に情熱を傾けます。週7日間働くことはいつ地震がくるかもしれないので当然のことです。
「石原都政はもうたくさん」という悲鳴にも似た声が社会的弱者に対する差別発言、都政の私物化、恐怖政治のような教育現場など、石原都政がもたらした数々の問題点を聞くうちに、この状況を変えられるのは「世界の誇りを持てる東京」を実現するのが私に課せられた使命です。都政の先頭に立って、都民の皆さんのために、誠心誠意、全力を尽くすことをここに誓います。
 2016年に開催されるオリンピック東京、石原都政は、オリンピック開催により道路や関連施設の整備を進めていく予定でしたが、出来る限り既存の施設を使い、多摩・島嶼地域の方々の意見も聞きながら、9月までに新しい東京都知事誕生によって新しい東京オリンピックの計画も作ります。大体おおまかな仕組みは頭の中に入っています。それは長年東京都の鑑定評価を行ってきたのでできることです。 オリンピックを契機にモノを充実させるという考え方は、2 0 世紀の拡大経済成長路線に基づく考え方です。それらは自然と調和したものでなくてはなりません。「拡大」、「発展」、「コンクリート」を基礎にしたオリンピックでいいのでしょうか。水と、空気と、音と景色に配慮した計画に変更します。築地市場移転の問題では不動産鑑定評価を行い、大量のヒ素が現実に存在していることを発見しましたので即刻中止とします。靴に付着して、更には魚について首都圏3400万人の懐に入ったら、あたかもサリン事件の様になるからです。東京オリンピックの計画も練り直しです。何故なら東京ガスのその土地に中央卸売市場の移転が無ければ現在のすべてのオリンピックの構想を変更しなくてはならないからです。
道路、高層ビルやマンションの建設など、東京はハード面での開発を核にしながら発展してきました。それによって、私たちの生活は便利になりましたが、それと同時に、「通勤ラッシュ」、「厳しい労働環境」、「息苦しい教育」など大都会特有のストレスを感じるようになった。「暮らしやすいですか」、「本当に幸せですか」「スローライフ」、「本物の豊かさ」、「バリアフリー」など「くらしやすさ」、「ぬくもり」、「やすらぎ」など、多様性を認める「生きやすい社会」を一緒に創りませんか。
3 私であるからこそできること
@ 「一生安心して暮らし続けられる東京〜 私の本籍地は財政経済です」
A 「誰もが参加できる東京〜 徹底した情報公開を進めます」
B 「東京オリンピック計画は10km圏の狭い範囲から、高速鉄道でつないだ30km圏の広い範囲にも建設し大胆な変革を行います!オリンピックのため各企業に1000億円の募金を割り当て、要請する案については企業の社会鍋に期待するものであり、日本的な初めての公共的な募金手法として提案していく。自発性、自主性の尊重は重要である。」



4 政策宣言
第1 章 みんなに優しい東京〜 少子高齢化対策
第2 章 震災で犠牲者を出さない東京〜 都民のいのちを守る
第3 章
政治学者、経済学者として若者の閉塞感につては、政府の失敗は認めざるを得ません。しかし一緒に建て直そうではありませんか。
経済学的に見れば、経済は最大の危機を脱して少し上向き始めたところです。
【すぐにやります】
大田区の中小企業の例を見れば分かるように海外との競争に打ち勝っていけるように東京都が援助することによって東京都の企業の再興を図り、そのことによって若者の働く場を作り上げる。
企業における労働環境の向上と従業員の生活環境向上のための政策展開のあり方について、労使双方からの意見を聴きます。
新銀行東京の資産内容、営業状況を精査する第三者専門家委員会を立ち上げ、解体的見直し計画の策定に着手します。但し、新銀行東京の成立理念は一般銀行によっては借りることができない中小企業、個人を救うものであるからその理念は世界でも初めてのものであるから、公的融資銀行として再出発をします。この銀行を永遠平和という理念の中での世界で初めての公的融資のみを行う民間銀行として再生させます。融資の幅も教育資金のような個人向けの融資もこれまでの融資以外に増加させ、貸し倒れの危険を少なくしながら融資の継続を行います。〜経済政策

環境のトップランナーとしての東京〜 将来世代のいのちを守る
のびのびと学べる東京〜 教育政策
男女が思う存分力を発揮できる東京〜 男女共同参画

石原氏候補者個人の公約について

都知事再選 約308万票を獲得し再選を果たす。得票率においては過去最高の70.21%を記録した。国に「NO」を突きつけ、独自政策を打ち出し実行する石原流の都政運営は有権者の強烈な信任を得たのである。
都知事就任 明治維新以来続いている中央集権体制を破壊し、真の地方自治を実現すべく石原は再度立ち上がった。166万票を獲得し当選を果たす。石原流都政運営の幕が切って落とされた。

石原氏が3期目になると、側近政治は度を過ごし、独裁に陥る可能性が大です。浅野氏の3期目と同様でしょう。そこに1億以上の退職金が出た以上でしょう。
オリンピックの構想を変更しなくてはならない、そこにはオリンピック受注を待っている建設業者がいます。仕事の配分は公平性と平等性の観点から行うべきです。メインの会場の案も安藤案と黒川案どちらが美的感覚が優れているのかという点を再考すべきでしょう。費用の点でも。
 おしゃれな白メガネの奥からそれを見つめていきたいと思っています。
 

二期目の選挙公約 東京は、日本の首都であり、「日本の頭脳と心臓」である。これまでの政策を基本とし、さらに新しい政策の苗を育てることで、一期目以上に大胆且つ過激に「東京発、都市革命」を遂行する。
一期目の選挙公約 「東京から日本を変える」をスローガンに掲げ、横田基地返還、新債券市場創設、大気汚染対策、教育改革など数々の独自政策を打ち出し、それは目に見える変化として現れている。

首都移転に「NO」 肝心なことが何も議論されていない首都移転問題。石原は首都移転の白紙撤回を求めつつ、道路整備を始めとする都市再生を行い、東京圏の潜在力を掘り起こし、日本の再生を手がけている。

首都を移転しても、関東・東京事務所はそのままですから、何の心配もいりません。

財政再建推進プラン 財政再建団体への転落を阻止すべく、給与カット、定数削減などの内部努力を始め様々な再建計画を展開。同時に都庁職員にコスト意識と経営感覚を持たせることを狙いとしている。

この裏にある様々な問題点が経済的に発生している。都営地下鉄の赤字が最たるもので東京地下鉄株式会社(東京メトロ)に売却をするぐらいの努力が欲しかった。人は財産であるが、資産は売却も検討すべきである。世界で同一都市に二つの別経営の地下鉄が存在する都市はない。

外形標準課税 これを機に独自課税を検討する自治体が全国で続出。国も形は違えど長年検討してきた外形標準課税の導入に踏み切ることになる。現在、最高裁で真の地方自治を賭けた戦いに挑み続けている。
宿泊税 日本は世界第2位の観光赤字国である。石原は観光を産業として捉え、東京を世界の観光都市にするために改革に着手する。宿泊税はそのための財源に充てられている。

東京再生都債 個人向けの都の債券。資金は公共交通網の整備に充てられる。背景にはペイオフ全面解禁を控え、預貯金以外の金融・投資に対する感覚をより身近なものにして欲しいという想いがある。

空港問題解決策 近い将来、我が国の空港事情は深刻な事態を迎える。横田基地と羽田空港を有効的に活用することにより、問題の解決を図り、世界最大のメガロポリス東京圏を最大限機能させ国益を守る。

東京しごとセンター  近年、雇用情勢の悪化が著しい。国のハローワークだけでこの状況を改善するには限界がある。そこで石原は東京都独自の 職業紹介に着手。2004年(平成16年)7月中に「東京しごとセンター」が開設される。

日本外交協会の愚行 拉致問題が白日の下に晒され、日朝交渉が暗礁に乗り上げている最中に都民の税金で購入した備蓄米が北朝鮮へ。石原は即座に都の提供した食料を北朝鮮に送らないよう要請。

認証保育所制度 女性が働きながら安心して子供を産める体制を整えることこが、少子化対策となり、ひいては国力の維持に繋がる。認証保育所の拡充と共に、国に保育行政の抜本的改革を迫っている。

都庁展望台の有効活用 都庁展望台から見える夜景の最大限の活用を。イタリア料理の老舗「サバティーニ」が都庁45階にオープン。西東京の夜景を眼下に傾けるカクテルは格別。

ラッピングシリーズ 都バスや都電・大江戸線などの車体にカラフルで巨大な広告が掲載可能となった。都の保有する財産を有効に活用し、それによって利益を生み出すこの政策を通して都庁職員に経営感覚を訴えたのだ。
これは広告宣伝を三商大ゼミ討論会でも載せることとしたのと似ている。それならオリンピックは経済的効果は各企業が募金を行うことで採算をとれるようにすることも一つのアイディアであろう。

知事公館貸し付け 知事公館の民間への貸し付けは全国初の試み。都が未曾有の財政危機に際し、爪に灯ともすような努力が必要とされる中で、非常に合理的な試みである。
ネーミング・ライツ スポーツ施設などの名称に、スポンサーの社名などを付与する権利のことで広告手法の一つ。公共スタジアムの経営基盤を安定させるために導入された。この後、他の自治体でも導入が相次ぐことになる。

東京国際アニメフェア 日本のアニメ産業の市場規模は全世界の約65%を占めており、その内の約70%もの作品が東京で制作されている。しかし課題は多い。そこで石原は「日本のアニメーションを世界に発信し、商取引の場を」と世界でも類を見ないアニメの見本市を実施。
ベンチャー企業・中小企業支援策 中小企業の資金繰り対策としてCLO(ローン担保証券)、CBO(社債担保証券)を発行。実現不可能と揶揄された新債券市場の創設を果たす。 他にもオフィスの提供や投資組合の設立などの支援策を実施。

若手芸術家支援策 若手芸術家に作品展示場所の無償提供を実施。「芸術家はのたれ死ね」と言って憚らない石原だが、これらの政策の背景には、芸術家に対する逆説的な優しさが見え隠れする。
東京ロケーションボックス 東京を世界のシネマスクリーンに発信すべく、煩雑な撮影許可の行政手続きを簡略化を目的に設置された。相談者の第1号は映画『WASABI』の製作・脚本を担当したリュックベッソン。
ヘブンアーティスト 大道芸人などに公共の場での活動を認める資格制度。公共の場でのパフォーマンスは、他ならぬ行政が禁じている。故に行政が認めなければ活動ができない。大道芸につき物の、投げ銭も勿論OKだ。

ビッグレスキュー東京2000 陸海空3軍が参加した日本史上、最大規模の画期的な防災訓練。国民の財産と生命を守ることこそが政治の大眼目である。危機を想定し、最善の策が執れるようこれまでにない規模の訓練を実施した。
ビッグレスキュー東京2001 計7箇所で行われた訓練には米軍横田基地も含まれていた。敗戦以来50年の長きに渡り、日本の中の外国として君臨し続けている米軍基地に石原は颯爽と踏み込んだのである。

警察官増員 石原は東京の治安回復には警察力の強化が不可欠と判断。国に警察官の増員を図る他、東京都の職員を警視庁に派遣するなど複合的な施策により、1000人規模の警察官がパトロール可能となった。

東京都レンジャー 環境省は小笠原を世界遺産の候補地にあげておきながら、自然保護官(レンジャー)を一人も常駐させていない。故に自然破壊が進んでいる。そこで石原は東京都独自のレンジャー制度を発足。初年度は小笠原と奥多摩に3人ずつ配置される。

東京発『環境革命』 大気汚染の元凶であるディーゼル車の条例による規制と、脱税の温床にもなっている不正軽油の撲滅作戦を実施。これを機に国は排ガス規制強化の2年前倒を決定。石油連盟など業界も都の要望を受け入れた。まさしく東京から日本を変えた象徴的事例である。
カラス対策プロジェクト 激増するカラス。都民からの苦情も年々増加していた。異常に増殖したカラスの生態系を正常に戻すために、「ゴミ対策」と「カラスの捕獲」を中心とした取り組みが行われている。
国立公園革命 国立公園の監督者である国はその保護のために何もしていない。小笠原も例外ではなかった。そこで石原はエコツーリズムを導入。並行して国に自然保護法の改正を迫っていた。結果、国は東京都の構想に追随して自然保護法を改正。

東京ER 様々な症状に対して、診察・入院・緊急手術・救命措置などトータルな救急医療サービスを365日24時間、施すことのできる救急医療施設。それが東京ERだ。国に先んじて救急医療体制のモデルを発信している。

教育改革 現在の教育行政は歴史的に齟齬をきたしている。そこで石原は教育改革に着手。都立高校では学区制撤廃を行い、様々なタイプの高校を作り上げている。 大学においては、都立大学をを統合してまったく新しい大学「首都大学東京」を創設。東京発の教育改革に取り組んでいる。
心の東京革命 昨今の子供は人間の行動原理をつかさどる脳幹が弱っている。我慢することの重要さを学びとってもらい、現代の子供達の痩せ細った脳幹のトレーニングに繋がることを期待してこの運動は開始された。

アジア大都市ネットワーク21 再び都知事として政治の世界に戻った石原は、長年抱き続けてきたアジアとの共生を都市レベルから構築していく大胆な外交政策を打ち出す。それがアジア大都市ネットワーク21である。

5 お願いから約束へ〜 「誰もが誇りを持てる東京へ」の検証
「マニフェストとは」
「マニフェスト」とは、「数値目標」、「期限」、「財源」、「工程表」を明示した選挙公約です。
「何を」、「いつまでに」、「いくらで」、「どのようにして」実現するのかを明らかにします。
今までの選挙公約と比較すると違いがよく分かります。
何をするのかをはっきりと都民の皆さんと約束し、それを実行し、検証するのです。
このマニフェストには、これまでに皆さんからいただいた「一言マニフェスト」をできるかぎりいかしました。「一言マニフェスト」はこれからも続けていきますので、皆さんのお考えを教えてください。
「誰もが誇りを持てる東京」を一緒に語り合いましょう。そして、一緒に実現しましょう。
1 誰もが誇りを持てる東京へ
私は、地方分権の推進と福祉先進県づくりを目指して、3 期1 2 年宮城県知事を務めてきまし
た。現在は、その経験をいかし、大学で地方自治を教えています。
東京都知事選挙が近づいてくると、多くの人たちから「石原都政はもうたくさん」という悲鳴にも
似た声が届きはじめました。これは、私の心を大きく揺さぶりました。社会的弱者に対する差別発
言、都政の私物化、恐怖政治のような教育現場など、石原都政がもたらした数々の問題点を聞く
うちに、この状況を変えられるのは自分しかいないと決意するに至りました。「誰もが誇りを持てる
東京」を実現するのが私に課せられた使命です。都政の先頭に立って、都民の皆さんのために、
誠心誠意、全力を尽くすことをここに誓います。
2016年に開催されるオリンピックの東京への誘致が問題になっています。石原都政は、オリン
ピック開催を起爆剤とし、道路や関連施設の整備を進めていく予定としています。オリンピック開
催の目的は、「昔見た夢の再現」にあるといいますが、夢の具体的内容は示されていません。適
切な情報が公開され、十分な説明がないにもかかわらず、開催を決めてしまうのは、都民を置き
去りにした話です。私は、オリンピック開催の是非を都民の皆さんと考えることを提案いたします。
そもそも、オリンピックを契機にモノを充実させるという考え方は、2 0 世紀の拡大経済成長路
線に基づく考え方です。「拡大」、「発展」、「コンクリート」を基礎にしたオリンピックでいいのでし
ょうか。環状道路整備、築地市場移転の問題では多くの都民が反対しています。私は、都民が賛
同できないのであれば、オリンピックは中止すべきと考えます。
今の生活スタイルやまちづくりのあり方についても、ここでもう一度考えてみませんか。道路、
高層ビルやマンションの建設など、東京はハード面での開発を核にしながら発展してきました。
それによって、私たちの生活は便利になりましたが、それと同時に、「通勤ラッシュ」、「厳しい労
働環境」、「息苦しい教育」など大都会特有のストレスを感じるようになったという声をよく聞きます。
都民の皆さん自身の生活を考え、「暮らしやすいですか」、「本当に幸せですか」ということをここ
で問い直すことを提案いたします。全速力で走ってきたのを立ち止まって、深呼吸して、違う歩き
方で歩いてみませんか。そうすれば、「スローライフ」、「本物の豊かさ」、「バリアフリー」など違っ
た景色が見えてくるかもしれません。「くらしやすさ」、「ぬくもり」、「やすらぎ」など、多様性を認
める「生きやすい社会」を一緒に創りませんか。
その社会を実現する具体的方法は、私のマニフェストに明記してあります。まず、私であるか
らこそできることに全力投球します。私のライフワークである福祉は、安心して暮らせる東京をつ
くるうえで都民の皆さんが最も強く求めておられるものと信じています。また、私が得意とする情
報公開では都政の透明性を飛躍的に高めます。
次に、6 章にわたって書かれている政策を実現いたします。福祉面では、孤独死をゼロにする
プロジェクトをすぐにスタートさせ、障害者差別撤廃条例を2 年以内に提案いたします。震災対策
については、都内全域での木造住宅の無料耐震診断と耐震助成を行います。経済分野では、
非正規職員を正規職員化するプロジェクト、新銀行東京の解体的出直しを行います。環境につ
いては、環境対策に取り組む企業への助成を行います。教育面では、日の丸や君が代の問題に
関する強制的な対応をすぐに改め、フリースクールやコミュニティ・スクールへの支援を行います。
最後に、男女共同参画の分野では、待機児童の解消、育児休業など子育て支援に積極的に取
り組む企業を支援します。
立ち止まって考えた先には、都民の皆さんの本当の夢があります。輝く未来があります。ひとり
ひとりのささやかな夢の実現が、都民の皆さんの願いです。
「日本のための東京」、あなたと創り直しましょう。
2 都政運営の基本姿勢
@ 東京から新しい風を起こす
東京都政を転換することにより、この国の政治への不信感を払拭します。それによって、
閉塞感に風穴を開けて、いきいきとした日本を蘇らせます。
A 人と自然に優しい東京を創る
都政の手法として、強制、管理、抑圧といった側面を強調するような手法とは決別します。
社会的に弱い立場にある人たちが、生きやすい環境を創り出します。
B 透明性のある都政、風通しのよい都政にする
情報公開こそ、都政を貫く基本姿勢であるべきものです。政策立案の過程も外から見える
ようにし、都民、職員が積極的に参加する形の意思決定ができる体制に転換します。
C 納税者のお金を大切に使う
都民からお預かりする税金について、都民にわかりやすい説明をしながら大切に使いま
す。都民に説明がつかないようなお金の使い方はしません。
D 都民のために、誠心誠意、全力を尽くして働く都政を確立する
都職員全員が、都民のために仕事をするよう徹底します。それを率いる知事本人は、全身
全霊で都政に情熱を傾けます。
3 私であるからこそできること
東京都政が直面する課題は数多くありますが、まず私であるからこそできることに最優先で取
り組みます。
@ 「老いても安心して暮らし続けられる東京〜 私の本籍地は福祉です」
繁栄を誇っている東京の中で、自分の責任ではない理由により、生きることに困難を感じてい
る人々が大勢暮らしています。障害者や介護を要する高齢者などです。そうした生きる力が最も
弱い人が最も大事にされる東京を創ります。
東京では、高齢化の波は遅れてやってきますが、人口が集中しているがゆえに、孤立化する
高齢者がものすごい勢いで増えるという問題が起きます。これは、老人ホームなどの入所施設を
作り続ければ解決できる問題ではありません。住み慣れた地域の中で、支えられながら暮らしを
続ける体制づくりに真剣に取り組む必要があります。
障害者については、地域での自立生活を支援することが必要です。支援を要する障害者を地
域で支えるためには、地域で一緒に暮らしていく人たちの力が必要です。地域での生活で障害
者が理不尽な差別を受けることがないようにしなければなりません。
私の本籍地は福祉です。福祉の分野で、障害があっても、老いても東京で暮らし続けられるた
めの施策を確立し、全国にその施策を広げていきます。
○ 支援を必要とする高齢者を地域で支えるために、地域の中の資源を思い切って増やします。
認知症の高齢者のためのグループホームを倍増します。その際には、高齢者と知的障害者な
どが一緒に暮らすための「共生型グループホーム」を4 年間で2 0 0 箇所を用意します。グルー
プホームの機能にデイサービス、ショートステイ、レスパイト・ケアを組み合わせ、在宅支援サ
ービスの拠点となる多機能型の小規模施設を4 年間で3 0 0 箇所設けます。
○ 障害者の就労を進めるために、就労支援策を展開します。まず最初に東京都庁で障害者の雇
用を進めます。
○ 東京都外に、東京都出身の知的障害者が主として入所している「都外施設」が全国で40 箇所
以上あります。こういった施設に入所している知的障害者が希望すれば、ふるさと東京に帰れ
るようにします。
○ 知的障害者、精神障害者、身体障害者などの障害を持った人たちの地域生活を支えるため
に必要なケアホーム・グループホーム群( 3 0 人) を4 年間で1 5 0 群整備します。
○ 地域の中で高齢者への介護にあたったり、障害者への支援をする人たちの報酬が低いために、
意欲と能力がありながら、現場を離れていく介護職員が多くなっています。介護保険の給付の
中で、東京都独自に報酬を上乗せすることによって、有能な介護職員を引き留めます。
○ 福祉用具の使い勝手をよくし、高い性能を持つようにするための技術開発と事業者援助をす
ることによって、東京から発信する福祉用具の改善を図ります。
○ 障害者差別撤廃条例を制定します。
○ 小中学校の普通学級に、障害を持った児童や生徒を受け入れられる統合教育を進めます。
重い障害を持っていても、本人の希望により、どこの学校に通うかが決められる体制をつくるこ
とが必要です。受け入れられる健常児にとっても、クラスの中で障害を持ったクラスメイトと一
緒に教育を受けられることは、大きな意義があります。
○ 高齢化のために足腰が弱り、若者本位のまちづくりのために外出できない人たちがいます。
予防介護の第一歩である「閉じこもり防止」の観点から、高齢者、障害者にも利用しやすいま
ちづくりを始めます。
A 「誰もが参加できる東京〜 徹底した情報公開を進めます」
情報公開は、すべての政策に共通する基本的手法です。ただし、単に情報を公開すればいい
というわけではありません。知りたい人さえ知ればいいというだけでは困ります。情報公開は、都
民の皆さん全員のものです。情報公開なき都政は、決して都民に身近なものにはなりません。
都政の運営において、税金の使い方が不透明であったり、政策の決定過程が明らかでなかっ
たりすると、都民の皆さんに信頼していただくことはできません。また、東京都はものすごく大きい
組織です。ただでさえ、見えにくい組織ですから、情報公開の面でもより一層の努力が求められ
ます。まず、東京都のすべての政策を情報公開という観点から徹底的に見直し、不十分な点は
すぐに改め、誰もが参加できる都政を創ります。
○ 東京都のすべての政策を情報公開という観点から全面的に見直します。問題があれば、隠さ
ず、先送りせずに公表します。知事をはじめとし、幹部職員の交際費は全面公開とします。
○ 東京都議会議員の政務調査費( 月額6 0万円) を公開するよう東京都議会に働きかけます。
○ 情報公開請求の閲覧手数料を1 年以内に廃止します。
○ 情報公開請求で1 枚あたり20円のコピー代を1 年以内に10円に下げます。
○ 全国市民オンブズマン連絡会議が公表する情報公開度ランキングで、2 年以内にトップ3に入
ります。
B 「東京オリンピック招致の全面的見直し〜 都民が反対するオリンピックにはNO ! 」
現在、東京オリンピック招致の活動が始まっています。東京からの正式な申請は、この9月に
行われ、2009年10月に開催地が決まる予定です。オリンピックを招致するためには、準備が必要
です。中央区晴海地区にメインスタジアム、江東区有明に選手村、築地市場跡地にメディアセン
ターを建設することや環状道路の整備計画がすでに明らかにされています。ところが、築地市場
の移転先や環状道路建設予定地については、住民や関係者の同意が得られず、大きな問題と
なっています。都民の賛成が得られないオリンピック招致はすぐに中止すべきと考えます。
また、2008年には北京オリンピックがありますが、同じアジア地域で開催される北京オリンピッ
クとの違いは何でしょうか。一部からは、国威発揚のためにオリンピックを開催するという声もあり
ますが、そんな理由のために開催することが必要でしょうか。
オリンピック開催という結論が先にあり、都民が置き去りにされ、招致に向けた活動が進められ
ています。すでに、オリンピック開催のために、毎年1000億円もの基金を積み立てて、道路整備
や施設建設の準備に取りかかっています。都政に数多くある課題と比較して、オリンピックの優
先順位がどうなるかを検討しなければなりません。検討の結果、都民の意向がオリンピック開催
は都政の優先課題ではないと考えられる場合には、申請を取りやめます。オリンピック招致に関
する結論は早急に出します。
○ 「オリンピック招致見直し特別チーム」をつくり、オリンピック開催までにかかる道筋、費用、環
境への負荷をすぐに公表します。
○ 都民の皆さんのご意見を幅広くいただきながら、9 月の申請時までに、オリンピック開催への
賛否を明らかにします。
4 政策宣言
東京都が、国に先駆けて、全国の自治体のモデルとなるような取り組みに果敢に挑戦すること
で、都民の皆さんのいのちを守り、くらしを豊かにする都政を実現します。
第1 章子ども、お年寄り、みんなに優しい東京〜 少子高齢化対策
現在、他県と比較すると、東京都ではお年寄りが人口全体に占める割合はさほど高くありませ
ん。ところが、これから10年間で高齢化は急速に進み、都民の4 人に1 人が高齢者になります。ま
た、少子化もあわせて進み、高齢者を支える生産年齢人口が急速に減少していくことが予想され
ます。したがって、高齢化対策は、少子化対策とあわせて行わなければなりません。また、現在
遅れている障害者への対応も急務です。
他県の先進事例から学び、高齢者や障害者が、介助を受けながら自立して、安全に暮らせる
まちづくりを目指す必要があります。また、2 0 0 5 年の国勢調査では、都内で子どものいる夫婦の
うち、母親が仕事を持っている割合は約4 6 % で、全国平均を大きく下回わっています。子どもを
産み、子育てしながら働ける環境を整えることは、女性にとっても企業にとっても、非常に重要な
ことです。「みんなに優しい」を基本にし、誰でも幸せに暮らせる東京を創ります。
【すぐにやります】
政策1 一人暮らしのお年寄りの孤独死をゼロにするための検討委員会を設置し、す
ぐに活動を開始します。
政策2 小中学校で統合教育を進めるプロジェクトに着手します。
【1 年以内にやります】
政策3 保育所の待機児童( 約8 千人) を解消する方策を確立します。
政策4 不妊治療に対する助成制度を拡充します。
政策5 福祉用具の技術開発と事業者援助を行います。
【2 年以内にやります】
政策6 障害者差別撤廃条例を提案します。
政策7 東京都庁で障害者の雇用を推進します。
政策8 介護保険の給付の中で、介護職員への報酬を上乗せします。
政策9 子育て支援企業を促進する企業などを「従業員生活環境向上モデル企業」
に認定し、減税や奨励金などにより支援する制度を創設します。
【4 年以内にやります】
政策10 共生型グループホームを200箇所整備します。
政策11 在宅支援サービスの拠点となる多機能型の小規模施設を300箇所整備しま
す。
政策12 知的障害者、精神障害者、身体障害者などの障害を持った人たちの地域生
活を支えるために必要なケアホーム・グループホーム群( 30人) を150群整備
します。
第2 章震災で犠牲者を出さない東京〜 都民のいのちを守る
首都直下地震は、「起きるかどうか」ではありません。「いつ起きるか」です。阪神淡路大震災
では、人々は自分の住宅に殺されました。6400人の死者の8 割強が、倒壊した家屋の下敷きとな
り、窒息・圧死したのです。風が吹いていたら、被害は倍増したといわれます。国の予測では、1
回の首都直下地震によって最悪1 万3 千人が死亡し、85万棟が全壊・焼失し、被害総額は1 12兆
円にも達します。この大半が東京でおきます。
東京には耐震性に欠ける住宅が133万戸あり、震度6 強の地震で倒壊する可能性が高くなって
います。これらは構造偽装で問題になったマンションと同じです。大地震が起きれば、木造住宅
密集地域はもとより、一般の住宅地でも建物倒壊と延焼で甚大な被害を受けます。したがって、
大地震による被害軽減の切り札である、建物の耐震化に全力を挙げることが必要です。
耐震化の推進にあたっては、それぞれの地域の実情に即し、各区市町村が最もやりやすい方
策で取り組み、東京都は全力で地域を支援します。すべての公共事業に防災の観点を取り入れ、
災害対応力の大きい事業を優先して実施しすることにより、無駄な公共事業を排し、都民の安全
のための「防災公共事業」を進めます。具体的には、避難公園・道路整備といった大規模土木事
業ではなく、住宅の耐震補強や地域の特性をいかしたまちづくり、地域の震災シミュレーションに
基づく対策訓練、地元のコミュニティによる震災時の救助体制の確立といったソフト面での取り組
みを支援します。長期から緊急対策まで、地域によるさまざまな創意工夫をいかして進め、都民
のいのちとくらしを守ります。
【すぐにやります】
政策1 耐震改修促進計画( 素案)の見直しに着手します。
政策2 区市町村、N P O 、民間企業、地域組織などに対し、都民のいのちを守るた
めに連携と協同行動を呼びかけます。
政策3 災害メセナとして、企業との連携を強力に推進します。
【1 年以内にやります】
政策4 学校・病院・消防・警察など震災時に重要なすべての公共建築物において耐
震化計画を前倒しして実施に移します。
政策5 都内すべての小中学校の耐震診断を実施、問題があるところは耐震化をす
ぐに始めます。
政策6 区市町村の協力を得て、都内全域で木造住宅の無料耐震診断と耐震補強
助成を開始します。
政策7 マンションへの耐震診断助成を拡充します。
政策8 人の集まる建物の耐震状況を調査し、公表します。
【2 年以内にやります】
政策9 自力では改修が困難な建物所有者の住宅改修を防災公共事業として実施
に着手します。
【4 年以内にやります】
政策10 住宅の耐震化率を85% にします。
第3 章みんなが働く東京〜 経済政策
東京には、ひとりひとりの働く場があり、くらしの場があります。企業が集まる大都市東京である
からこそ、誇りと自信を持って快活に働くことができる労働環境、心豊かに生活できる生活環境
が必要です。ところが、競争の自由化がもたらした負の側面として、あらゆる格差が拡大してきて
います。若者を中心として派遣社員や臨時雇用などの非正規雇用労働者の割合が増えていま
す。正規労働者との賃金格差は広がり、「ワーキングプア」といわれる層がつくりだされています。
また、団塊の世代の退職に伴い、高齢者の再就労も大きな課題となっています。働きたい人が働
ける社会を創ることは、行政だけではできません。民間企業や実際に働く人が協力し、よりよい労
働環境を整備していく必要があります。
また、多くの大企業は業績を回復させてきましたが、厳しい状況から抜けられない中小企業が
まだまだあります。東京の経済は中小企業が担っており、中小企業の安定した成長なくして、経
済成長はありえません。ところが、その中小企業支援のためにつくったはずの新銀行東京は、大
きな問題を抱えています。
一般に、民間の市場に行政が会社を設立して参入するということは、ごく限られた場合にしか
許されません。しかし、新銀行東京の場合、民間にはできない専門性を持たず、投入された都民
の税金1000億円を損ないつつあります。したがって、新銀行東京は解体的な見直しを行わざる
をえません。そこで、第三者の専門家による資産内容、営業の状況の精査を行い、営業内容を
真に中小企業金融のために必要な事項に集約していきます。その際、すでに取引をされている
方に配慮しながら、都民の損失を最小限とするような手法で、営業の全部または一部の譲渡を検
討し、それができない場合には株式の売却による民営化などの方法をとります。
【すぐにやります】
政策1 企業における労働環境の向上と従業員の生活環境向上のための政策展開
のあり方について、労使双方からの意見を聴きます。
政策2 新銀行東京の資産内容、営業状況を精査する第三者専門家委員会を立ち
上げ、解体的見直し計画の策定に着手します。
【1 年以内にやります】
政策3 若者向けのジョブカフェを2 箇所新設します。
【2 年以内にやります】
政策4 アルバイト、パート、派遣社員として働いていた人を正規職員として雇用する
企業を「労働環境向上モデル企業」に認定し、減税や奨励金などにより支援
する制度を創設します
政策5 子育て支援企業や従業員の休暇取得率の高い企業、従業員の文化活動の
実践や芸術鑑賞を促進する企業などを「従業員生活環境向上モデル企業」
に認定し、減税や奨励金などにより支援する制度を創設します。
政策6 新銀行東京の解体的見直しを実行します。
【4 年以内にやります】
政策7 中小企業のものづくり技術の振興や地域の商店街の活性化を図るための新
たな支援制度を創設します。
第4 章環境のトップランナーとしての東京〜 将来世代のいのちを守る
東京は、世界でも最大級の都市であり、さまざまな環境問題が山積しています。環境政策は、
都民の健康と生活を守るというだけでなく、将来の世代の健康や生活を大きく左右します。将来
世代のいのちを守るために、私たちは、今、最大限の努力をしなければなりません。
まず足元の環境を見つめなおします。東京では緑が減っているといわれています。身近な緑
を大切にしていくことがまず求められます。そのためには、街に残る大木は十分に保存し、希少
になってきた里山や雑木林を守っていかなければなりません。その一方で、建築や開発が行わ
れる際には、より質の高い緑化を求めます。また、毎年夏になると起きるヒートアイランド現象対
策としては、必要な部分をのぞき、コンクリートやアスファルト舗装にしないという方法をとることが
必要です。
地球温暖化対策は、力をいれていなければならないところです。都市は、世界の二酸化炭素
排出量の75% を排出しているといわれており、われわれ都市の住民の責任が重大であることを痛
感させられます。世界が地球環境問題に真剣に取り組もうとしている中、東京は日本を、そして
世界をリードして地球温暖化対策を進めていきます。
また、災害対策と連動することも必要です。災害時に重要な拠点となる学校、病院、警察、消
防などの公共建物で耐震補強を行うときに、省エネルギー改修、太陽電池や太陽熱、その他新
エネルギーの積極的導入を行います。これによって、学校や病院が、災害時にも安全で、かつ
自立したエネルギーを確保でき、結果として地球温暖化環境対策にも寄与することができます。
東京都のあらゆる政策を環境対策と融合させ、飛躍的な推進を図ります。さらに、環境対策に
取り組む民間企業を支援するために、減税や入札制度での優遇制度などを導入し、民間企業が
率先して環境対策、地球温暖化対策に取り組むインセンティブとします。
【すぐにやります】
政策1 東京都の政策を抜本的に見直し、すべての政策に環境対策をいれます。
政策2 将来世代の環境対策にむけて、全小中学校で地球温暖化対策について学ぶ授
業を行います。
【1年以内にやります】
政策3 学校、病院など災害時重要建物において耐震改修と同時に省エネ改修、太陽電
池設置を開始します。
政策4 環境に優れた取り組みをしている企業を支援するため、減税または奨励金制度の
導入、入札制度における優遇を行います。
政策5 太陽光電池など新エネルギーの設置や、住宅の省エネ改修、環境に優れた建物
への助成を開始します。
政策6 街の大木の管理について保存樹木として管理を肩代わりします。また失われつつ
ある里山・雑木林や屋敷林保全のための緊急対策をまとめ、すぐに着手します。
政策7 大気、水質汚染の浄化に取り組む重点箇所を指定し、集中的な対策を開始しま
す。
第5 章のびのびと学べる東京〜 教育政策
学校教育において、いじめ問題、不登校、学級崩壊など、子どもを取り巻く環境は苛酷なもの
となってきています。それなのに、子どもたちひとりひとりと真剣に向き合うべき現場の教師はさま
ざまな仕事に忙殺されて、本来の仕事が十分にできていません。
今、学校教育で一番大切なことは、のびのびと学べる環境をつくることです。いじめ、不登校、
学級崩壊を防ぎ、子どもたちが楽しく個性を伸ばし、学ぶ環境をつくることが求められています。
自由な雰囲気が急速に消えつつある東京の教育には、個々の政策よりも、自由でのびやかな空
気を取り戻すことこそが必要です。
のびのびと楽しく学べる学校にするためには、学級編成をゆとりあるものにしたり、フリースクー
ルなどを整備していくことも大切です。さらに、学力低下に歯止めをかけ、地域に開かれた学校
をつくっていくためには、地域の多様な人々が参画するコミュニティ・スクール(地域学校) も考え
ていかなければなりません。そのために以下のことに取り組みます。
【すぐにやります】
政策1 「日の丸」、「君が代」問題についての強制的な対応を改めます。
政策2 地域社会が学校に積極的にかかわる土曜日学校、放課後学校を進めるため
に、コミュニティ・スクール検討委員会を設置します。
政策3 30人学級編成の実施に着手します。
【1 年以内にやります】
政策4 フリースクールへの支援を強化します。
【3 年以内にやります】
政策5 スクールカウンセラーの配備を進めます。
【4 年以内にやります】
政策6 小中学校のコミュニティ・スクール化を推進するため、コミュニティ・スクール
に取り組む小中学校には、教員の加重配分を実施します。
第6 章男女が思う存分力を発揮できる東京〜 男女共同参画
社会の構成員の半分は女性です。しかし、現実の社会をみると、意欲を持ち、才能を持つ女
性の活躍の舞台はまだまだ限られています。これまで形成されてきた男性優先の社会の仕組み
は根強いものがあります。日本文化の伝統を尊重することを理由にして、優れた才能を持つ女性
たちの活躍を押しとどめてしまう例もしばしばみられました。
家庭の内外でいきいきと働く女性、また自分や家族のためだけでなく、地域のコミュニティの柱
としてさまざまな活動を行う女性が東京、そして日本の社会や経済を支えてきました。しかし、女
性の職場における労働環境は悪く、身分が不安定であるという問題が指摘されています。また、
家庭内では、理不尽な暴力を受けるなどの問題を抱えている人たちもいます。
こうした状況を打破し、意欲ある人々がその努力により、才能を十二分に開花させられることが
求められています。日々、誇りと自信を持って働き、活動できる東京にしていくことが大切です。
そのために、できるかぎり多くの場で女性が活躍できる場を提供するとともに、男女がともに働
きながら安心して子育てできるような環境を確保しなければなりません。女性の雇用環境を向上
させることを中心に、以下のことに取り組みます。
【すぐにやります】
政策1 副知事に女性を登用します。
政策2 「こころと体の相談窓口」を設置します。
政策3 都がかかわるさまざまな政策の総点検を行い、女性登用の機会を増やします。
【1年以内にやります】
政策4 あらゆる暴力から女性を守り、さまざまな相談に応じる一時保護所(シェルター)
を確保します。
政策5 保育所の待機児童(約8千人)を解消する方策を確立します。
【2年以内にやります】
政策6 女性の(正規)雇用を積極的に行う企業を「労働環境向上モデル企業」に認定
し、減税や奨励金などによる支援制度を創設します。
政策7 育児休業や育児時間の取得実績が大きく、企業内保育所を設置するなど子育
て支援に積極的な企業を、「従業員生活環境向上モデル企業」に認定し、減
税や奨励金などによる支援制度を創設します。
5 お願いから約束へ〜 「誰もが誇りを持てる東京へ」の検証
マニフェストは、都民の皆さんとの約束です。したがって、約束がきちんと果たされたのかどう
かを都民の皆さんにわかりやすく説明することが必要です。約束が果たされなかった場合には、
その理由を明らかにします。
マニフェストの評価は、東京都が自ら行うことも必要ですが、都民の皆さんの視点での評価も
重要です。「選挙までの公約」から「守られるべき公約」にするために、以下のことに取り組みます。
【すぐにやります】
政策1 マニフェスト行動計画をつくります。
政策2 幹部職員の個人マニフェストをつくります。
政策3 マニフェストに関する情報公開制度をつくります。
【1年以内にやります】
政策4 マニフェストに関する都民の皆さんのご意見を聞く仕組みをつくります。
その意見に対する回答をホーム・ページ(HP)で公表します。
政策5 マニフェストの進捗状況を毎年公表します。
【4年以内にやります】
政策6 毎年1回、専門家、都民からの外部評価を受けます。
政策7 マニフェストの全体の実行状況、都民の皆さんの生活の変化を公表します。
政策8 「誰もが誇りを持てる東京へ」を実行するためには、2000億円必要です。その財源に
は、都政の見直しによって削減された分をあてます。

出馬表明にあたって
東京都知事選挙出馬の理由
私、来る3 月22 日告示、4 月8 日投票の東京都知事選挙に立候補するこ
とを、ここに表明いたします。
今回の都知事選挙に
立候補することを決意した最も大きな要因は、東京だけでなく、全国各地の人たちから寄
せられた「石原都政はもうたくさん」という悲鳴にも似た声です。社会的弱者に対する差
別発言、都政の私物化、公私混同、側近政治、恐怖政治のような教育現場など、石原都政
がもたらした数々の問題点を指摘しながら、その変革を必死になって願うメールや意見に
接するうちに、誰かがこういった都政を変革するために立ち上がらなければならないと思
うようになりました。
その誰かが私である必然性は感じられませんでしたが、二期目以降の石原都政の実態を
詳しく知るにつれ、私の心の中のコップに水が注がれて、徐々にその量を増し、いつかコ
ップからあふれ出すかの如き感じで、何かが変わったのです。今、ここで立ち上がり、石
原都政にストップをかけなければ、東京や都民にとってだけでなく、日本の政治にとって
も取り返しのつかないところまでいってしまう。そういった危機感を、私も共有するに至
りました。その危機感をしっかりと受け止めて、私は、今、都知事選挙に出馬することを
決意しました。
そういった決意をしたうえで、改めて東京都政を見直してみると、未来に向けてのいく
つかの課題が見えてきました。
国と地方との関係、地方分権をいかに進めていくか、私自身が深く考えました。東京都も
地方自治体です。その東京都が、地方分権を進めていく戦いの中で、必ずしも中心的役割
を果たしていないのではないかということは、最大限努力をしてきた中
でも、私が強く感じてきたことです。最大・最強の地方自治体である東京都が、本気で立
ち上がらなければなりません。他の自治体とともに、真の地方分権を進めていく体制の中
で、牽引車的な役割を果たす必要があります。知事として、私はその役割を果たすべき立
場を引き受けたいと考えました。
最近、国民の間で、政治に対する無力感が募り、政治家に対する不信感、嫌悪感も顕著
になっています。こういった風潮が蔓延していったら、日本はどうなるのでしょうか。現
在の東京都政に疑問を感じながら、問題意識を研ぎ澄ませている人たちが、東京以外の全
国各地にもいることを、今回、私に出馬を促す多数のメールなどから知りました。この国
の政治のありように関して、国民の間で閉塞感がどれだけ深まっているか、そして、その
突破口を求める人たちがいかに多いかを痛感しました。
「政治をあきらめるな」ということも、私を都知事選挙出馬へと突き動かした要因です。
政治に期待したって無駄だ、政治なんて国民には変えられない、選挙にはまったく興味な
い、誰が選ばれても同じだ、自分の一票では何も変わらないということを言う人も増えて
います。明日の天気は変えられませんが、明日の政治は変えられます。ここであきらめて
はいけないのです。
「地方自治は民主主義の学校」と慶應義塾大学の授業で言い続けてきました。学校なら、
まず入学し、行動すべきです。この都知事選挙を契機に、政治は信じられる、期待してい
いということを、都民みんなで確認する場にしたいと強く願っています。そのことを実証
するために、私はここに東京都知事選挙に出馬することを決意しました。
東京都知事選挙出馬の理由
2007/03/08
4
都政運営の基本姿勢
1. 東京から新しい風を起こす
東京都政を転換することにより、この国の政治への不信感を払拭する。それによっ
て、閉塞感に風穴を開けて、生き生きとした日本を蘇らせる。
2. 人と自然にやさしい首都を創る
都政の手法として、強制、管理、抑圧といった側面を強調するような手法とは決別
する。社会的に弱い立場にある人たちが、生きやすい環境を作り出す。
3. 透明性のある都政、風通しのよい都政にする
情報公開こそ、都政を貫く基本姿勢であるべきもの。政策立案の過程も外から見え
るようにし、都民、職員が積極的に参加する形の意思決定ができる体制に転換する。
4. 納税者のお金を大切に使う
都民から預かる税金について、都民にわかりやすい説明をしながら大切に使う。都
民に説明がつかないようなお金の使い方はしない。
5. 都民のために、誠心誠意、全力を尽くして働く都政を確立する
都職員全員が、「公僕」の名に値する仕事ぶりになるよう徹底する。それを率いる知
事本人は、全身全霊で都政に情熱を傾ける。
都政運営の基本姿勢
2007/03/08
5
政策の骨子
「誰もが誇りを持てる東京の実現を」
豊かなはずの東京で、いま都民が直面するのは大きな不安である。全国を上回るペース
で進む少子高齢化、経済や年金の先行きが不透明なままに広がる格差、近い将来必ずやっ
て来る大地震。高齢者や若者をはじめ多くの都民が、未来が見えない不安を胸に抱えてい
るが、こうした都民の不安を現在の都政は汲み取ることが出来ないでいる。
地方分権の実現についても、東京は全国自治体の牽引役を果たせていない。それどころ
か、これ見よがしに財政力を誇示する態度が、全国からの孤立化を招き、地方の反発を招
いている。
いま求められているのは、オリンピック招致の前に、財政に余力がある今の時期に、現
在の東京の未来に投資し、都民の不安を解消することである。また全国の自治体の先頭を
切って、地方分権の実現へ向けて真摯に努力することである。
私は、都政が都民のため、国民のために、持てる本来の力を十分に発揮できるよう、全
身全霊を尽くしたい。
大事な姿勢は、「日本のための東京」という視点を踏まえて都政を考えるということであ
る。「東京のための東京」という点だけが前面に出ることに対して向けられる批判的な目を
意識することが重要である。首都機能移転問題、東京にある銀行に対する外形標準課税、
ホテル税の新設などの議論の局面で、「東京だけが良ければいい」と受け取られかねない姿
勢が見られた。東京は単なる一都市ではない。都政の運営にあたっては、常に、「日本のた
めの東京」、さらには、「世界のための東京」という自己認識と気構えが基本になければな
らならない。
T 東京に安心を取り戻す
1. 震災の不安
東京に大地震は必ずやってくる。
震災で一人の犠牲者も出さない東京にする。その一方で、実際に大勢の人命が失わ
れる事態もあり得ることを念頭におけば、「大災害時代への発想の転換」も必要である。
災害対応に理解のある企業を巻き込んだ「災害メセナ」、大規模災害が実際に起きた際
のボディバッグの大量・安価・事前の調達準備など、これまで見過ごされてきた分野
への対応も急務である。
まず、緊急に取り組むべき課題として、以下のようなことから始める。
・ マンション耐震診断、補強、戸建助成
・ 危険な不適格建物への警鐘と対策支援
政策の骨子
2007/03/08
6
・ 危険度の高い地域の街づくりの徹底見直し
2. 高齢化への不安
東京の高齢化は地方より一拍遅れで急速に進行する。東京都の介護保険3 施設(特
別養護老人ホーム、老人保健施設、介護療養型医療施設)の人口当たりの定員数は全
国最低水準である。
グループホーム、在宅療養支援診療所での機能強化など地域で住み続けるための施
策を大幅に拡充するために緊急プランを作成する。
高齢化が進み、一人暮らしの多い東京では、地域での福祉医療対策と予防・検診の
充実が不可欠である。
地域福祉の一層の拡充のために現在の政策を総点検した上で、以下の施策を推進す
る。
・ グループホームなど地域福祉施設の大幅増設(緊急整備プランの策定)
・ ボランティアセンターの設立など、NPO やボランティアなど地域の多様な主体が
参加できるしくみづくり
3. 若者の不安
「改革」、「競争の自由化」のもたらしたもう一方の実態である格差拡大の中で、若
者を中心として東京の一般労働者と非正規雇用労働者の賃金格差は広がっている。
若者への就労支援策を拡充し、高齢者にはセーフティネット施策を整備する。
4. 地域の安全への不安
地域での連帯のきずなが崩れ、孤立する家族が多くなり幼い子どもたちへの犯罪を
防ぐことがむずかしくなっている。
地域の治安のよさを誇っていた東京も近年では犯罪の発生数が多くなってきた。
犯罪の発生にはさまざまな要因があるが、雇用不安や貧困、外国人の差別など社会
状況の不安定さが治安の不安をも呼び起こす。
治安の良い安定したまちを創っていくためには地域コミュニティのつながりが重要
で、またNPO はじめ積極的に様々な分野での活動を行う多様な地域の主体をネットワ
ークしていくなどの施策を展開する。地域のシニアの地域活動への参加を促進する。
団塊の世代を中心として、地域のシニアの地域活動への参加を促進する。
5. 環境の不安
地球温暖化問題をはじめ、環境問題への対策は待ったなしである。
「環境先進都市・東京」を目指し、世界の日本の環境問題への解決策を東京から発
信する。
政策の骨子
2007/03/08
7
U 東京で連帯を進める
1. 多摩・島嶼と23 区の連帯
多摩・島嶼と23 区との格差是正に向けて積極的に取り組む。
2. アジアとの連帯
多文化都市東京を目指す中で、まずアジアとの連帯・共生を進める。お金をかけた
イベント開催中心ではなく、具体的な都市施策における連携強化によって、世界への
貢献を図る方策が求められる。逆に、世界の各都市の先進的な取り組みの中から学ぶ
点も多いことを踏まえ、都市としての東京の魅力を高めるための方策を探る。
3. ふるさと(地方)との連帯
東京は、全国各地からの出身者の寄り集まりである。それぞれがふるさとを持って
いる。そのふるさとのために、東京として何が出来るか。「東京マーケット(仮称)」
などを拠点に、ふるさととの連帯を進める。
4. 障害を持つ人、持たない人との連帯
東京の地域の中では、障害者、高齢者、外国人などさまざまな人が混在して住み続
けている。障害者の地域生活の支援を進める。障害者差別撤廃条例の制定を目指す。
5. 中小企業、商店街との連帯
古くからものづくりを手がけ、基礎的な技術力を安定的に提供しているような中小
企業が、東京の産業力の重要な担い手である。こういった着実な仕事をしている中小
企業が、人材確保や、技術の継承の場面において、困難に直面している現実がある。
こういった分野での支援を強化していく必要がある。
一方、商店街は、地域のまちづくりにおいて重要な場である。商業だけでなく、様々
な地域施策の拠点となりうる。
こうしたがんばる中小企業や商店街、地域社会の取り組みを都政としても支援して
いく必要性を感じる。具体的な施策としては、以下のようなものがある。
・ 中小企業の労働力確保支援〜就労支援とのリンク
・ 技術確保支援 中小企業の基盤となるものづくり技術力の継承のため、個々の企
業だけでは困難な研修やリクルートなどを支援
・ 商業だけでなく、地域の福祉、まちづくり、ボランティア活動の拠点としての商
店街の役割支援
2007/03/08
8
V 東京の未来を切り開く
1. 歩くことが楽しくなる都市東京へ
ゆったりと歩きたくなる、魅力あふれる都市・東京をつくるために、街の安全を確
立し、身近な自然を大切にする街づくりを目指し「東京まちづくり百年プラン(仮称)」
を策定する。
具体的な課題として、当面考えられるのは、以下のような施策である。
・ 先進的な環境施策を大胆にすすめる 市民や企業への積極的支援も
・ 歩くことがたのしい街づくりの展開 安全、みどり、バスの復権、町の活気
・ 街のなかの身近な自然を大切にし、景観を重視した豊かな街づくりを展開する
・ 多摩や島嶼など比較的環境に恵まれている地域の特性を生かし、自然環境保全、
環境共生型の産業や住宅などの誘致を図る
2. 子どもが愛情に包まれて健やかに育つ東京へ
のびのびと学べる学校環境をつくることが、いじめ、不登校、学級崩壊を防ぐ道で
ある。スクール・カウンセラーの小学校への配備、少人数学級の導入、複数担任制度
の導入を進め、フリースクールへの支援を行う。自由な雰囲気が急速に消失しつつあ
る現在の東京の教育の現場に、再び、自由な、のびやかな空気を取り戻すことが、個
別のどんな施策よりも急務である。
親の就労形態の多様化に対応して、保育サービスの多様化を図る。地域や会社も含
めた子育て支援ネットワーク、会社での育児休業制度やデイケアの充実も図るべきで
ある。
3. 地方分権改革の先頭に立つ東京へ
全国の自治体と連携し、地方分権の確立に向けての改革において、その先頭に立っ
て推進する役割を確実に果たす。
4. 文化の花咲く東京へ
東京都交響楽団への助成の大幅削減など、東京都の文化予算はこの5 年間で16%削
減されている。
東京の文化を振興するために、東京都としてやるべきことをやる姿勢をとり戻す。
政策の骨子
2007/03/08
9
W 緊急提言
1. 石原都政のゆがみを正す
私物化・側近政治による都政のゆがみを直し、都政を正常化する
・ 情報公開制度の拡充で、都民の目による監視の制度化
・ 都民、NPO、企業市民や職員が積極的に参加できる民主的な体制づくり
・ 高額給与の特別秘書の廃止、交際費などの抜本的見直し
2. 「都民のための都庁プラン(仮称)」の策定と実行
・ 思いつき施策の点検、終息にむけてのプロセスの明示
・ 都政全体を総点検し、人と自然にやさしい首都づくりにむけて具体案を示す
3. オリンピック招致計画の見直し
2016 年のオリンピック招致にかける費用、人員、労力が多大なものになることを
考えれば、都政における数々の課題の中で、真に優先すべきものであるかどうかは、
慎重に考え直す必要がある。一部の人たちや団体の思い入れが先行しているように見
えるが、都政の他の課題山積の中で、オリンピック招致が、都民が真に望んでいる課
題なのかどうかを見極めつつ、判断していく必要がある。
最近のオリンピックにおいては、商業主義が際立っている側面が批判されつつある
など、オリンピック開催の意義が世界的レベルでも見直されつつある。その中で、2008
年の北京オリンピックはともかく、2012 年のロンドンオリンピックあたりでは、ど
のような情勢になるかも不透明である。9 月の正式申請まで時間はある。ここで、いっ
たん立ち止まり、基本に立ち返って考え直すべきものである。
2007/03/08
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選挙についての基本姿勢
選挙は大事です。当選を目指す候補者にとって大事であるのはもちろんですが、選ぶ側
の都民にとっても、選挙はとても大きな意味を持っています。「選挙のありようが、その後
の知事任期のありようを決定づける」というのが、宮城県知事時代の私の実感なのですが、
今、自分が候補者となる都知事選挙を目前にして、その感を深めています。
いい知事になるためには、いい選挙をしなければならない。「いい選挙」とは、都民の一
人ひとりが関わっていける、行動していける選挙のことと考えています。「いい選挙」は、
それに関わった都民の意識と行動を変えます。結果の如何にかかわらず、関わった都民に
とっての大きな自信につながり、目減りのしない財産になります。こういった過程を経て
日本の政治風土が変わっていくことを確信しています。
こういった認識に立って、今回の「浅野の選挙」は次のような基本姿勢で臨みます。
浅野史郎を応援したい、支援したいと考えるすべての人、すべての団体が自由に参加で
きます。「一人ひとりの都民が主役の選挙」を名実ともに、実現します。
選挙事務所は設けますが、遊説日程の作成や選挙カーの運行管理など、候補者の行動に
関しての仕事が中心となります。したがって、選挙事務所から、「あれやれ、これやれ」と
いう指令は出しません。「裏選対」といったものは、一切設けませんので、そういうところ
から指令、指示がなされることもありません。
「百円カンパ」による寄付、選挙ポスター掲示の手伝いといったことへの協力は歓迎い
たします。「百円カンパ」については、これを集める箱の管理と、集まった寄付の事務所へ
の届けをしてもらう個人ないし団体も歓迎です。浅野への支援の輪を広げてもらうという
形の協力もあります。いずれにしても、こういった協力は、一糸乱れぬ指示・指令体制で
行われるのではなく、「勝手連」として関わってもらうことになります。浅野のシンボルカ
ラーである青を使った旗、ハンカチ、ネクタイ、スカーフなどを身につけたり、家の前に
飾ったり、車に装着したりすることによって、浅野への連帯を示すことも、協力の一つの
形です。
公職選挙法を厳正に守ること、選挙の運営について情報公開を徹底すること、最小限の
予算で選挙を終えること、「小さな選対、大きな人の輪」といった基本的な姿勢は、私が過
去に候補者として関わった宮城県知事選挙の場合と同様です。
今までの東京都知事選挙ではなかったような形の選挙を、今回の選挙でぜひ実現したい
と考えています。それによって、都民が変わります。政治が動きます。期待していてくだ
さい。
選挙についての基本姿勢

参考:

参考までに日本共産党案についても載せておきます。

負担増と格差社会に苦しむ都民のくらしを応援し、安心して働きくらせる東京をつくります。医療・介護・くらしへの応援で、安心できる老後を保障します。石原知事がこわした福祉をたてなおし、新たな福祉の第一歩を踏み出します。介護施設をととのえ、孤独死をなくします。生活保護の改善・拡充をはかります。がん・難病対策など医療対策の充実と都立病院の強化をめざします。障害者のいのちとくらしをまもります。安心して子育てできる環境をつくります。子どもの医療費を無料にします。出産費用・妊産婦検診を無料にし、妊産婦医療費無料化をスタートさせます。都立小児病院の廃止を中止し、安心できる医療体制をめざします。保育の充実、育児休業の保障の改善をはかります。学童保育・児童館を増やし、子どもの居場所づくりをすすめます。児童相談所を充実させるなど、親が相談に駆け込める場を増やします。雇用・賃金などの条件について、都独自のルールをつくり、働く人の仕事・くらしを守り、ワーキングプアをなくします。雇用対策室をつくり、労政事務所を復活させるなど、都の労働行政を強化します。若者の雇用と生活を応援する緊急対策をおこないます。ワーキングプアや無(低)年金者など生活保護基準以下の生活を余儀なくされている人の生活を応援します。労働、福祉、教育などすべての施策を男女平等の視点で見直し、女性と男性の平等を保障するために全力をつくします。公共料金の引き下げにつとめます。
家族の環境に応じた子どもたちの個性的な成長をはぐくむ教育に改革します。どの子にもゆきとどいた豊かな教育条件の整備を緊急にすすめます。子どもの豊かな成長と安全を守ります。「勝ち組」「負け組」にふるいわける競争主義教育をあらためます。夜間定時制高校をはじめ都立高校の統廃合をやめ、希望するすべての子どもの高校全員入学をめざします。障害児学校を増設し、教室不足の解消やスクールバスの増発などにとりくむとともに、小中学校の障害児教育への支援を拡充します。「日の丸・君が代」の強制や学校現場への干渉をきっぱりと改め、憲法にもとづいた教育行政を推進します。私学助成を拡充します。首都大学東京については、学生・教職員・都民の声をいかして、学問の自由と大学の自治を守り、教育・研究条件の改善・充実をはかります。

文化・スポーツ・社会教育行政を充実させます
スポーツ・文化予算を大幅に増やします。都立図書館の拡充をはかります。
中小企業を応援し、地域経済の活性化をすすめます。中小企業が地域経済の主役にふさわしい役割を発揮するよう支援をつよめます。中小企業振興条例をつくり、緊急実態調査をおこない、分野別、業種別の特別支援をおこないます。制度融資を抜本的に改善・拡充します。新銀行東京の成立理念はここにあり、実務的に改善します。モノづくりへの支援を拡充します。商店街を地域コミュニティの核として活性化させます。建設業など地元業者への仕事を増やします。

農業を基幹産業の一つとして位置づけ、都市農業の振興、林業・漁業への支援をします
緑と環境を優先し、災害につよい東京へ、都市政策を転換します
2016年のオリンピック招致計画を9月までに新しい東京都知事誕生によって新しい計画を作り直すと共に、スポーツ予算を拡充します。
水と緑、大気などの自然環境を改善し、環境優先の都市づくり。オフィスビルや自動車走行量の規制と誘導で、地球温暖化、ヒートアイランド現象をおさえます。「都民の台所」といわれる築地市場を、環境基準をはるかに超える有害物質で汚染されている豊洲地域へ移転させようとしている計画は即刻中止とします。
都市型災害から、都民のいのちと財産を守る緊急総合対策をすすめます
地震被害を最小限にするという予防の立場で、東京都の震災対策を抜本的に転換します。防災に不可欠な消防力を強化します。都営住宅の増設など、快適で住みよい住環境をととのえます。多摩・島しょ地域の格差解消をすすめます。世界から人々がつどい、にぎわう国際都市をめざします。
ただ働き残業の合法化をねらう労働法制改悪などをやめさせ、税金のムダづかいをやめて、くらし・福祉最優先の都政
石原知事の超豪華海外出張や税金を使った飲み食い、ワンダーサイトという都の文化事業を利用した知事の四男重用問題が明らかになり、「都政の私物化は許せない」という都民の批判の声がひろがっています。
 住民に奉仕すべき地方自治体の長が、自分と身内には税金を惜しげもなく使う一方、寝たきり高齢者のための福祉手当や盲導犬のえさ代補助など数十万円単位のわずかな予算も、ばっさり削って平然としている。都政の私物化と税金のムダづかいを一掃し、なによりも都民の声を大事にする都政をつくる決意です。
くらし・福祉優先の都政に転換します。
税金の使い方は、くらし・福祉優先に使うべきです
 石原知事は、「何が贅沢(ぜいたく)かといえば、まず福祉」と公言し、この間、福祉関係費を450億円も減らしました(99年〜05年度決算)。全国一の福祉の制度を次つぎ廃止・改悪し、「福祉後進都市」への道を歩みはじめました。中小企業予算は4割も削り、予算に占める比率は全国水準の半分に落ちこみました。こんなひどいことは都政史上初めてであり、全国でも石原知事だけです。「財政がきびしいから」というのが、切りすての理由でした。しかし、実際は、石原都政8年の都の税収は、見込みよりも3兆円以上も多かったのですから、福祉やくらしを切りすてる理由はなかったのです。
東京都の財政規模は12兆円、インドの国家予算に匹敵するほど巨大なものです。税金の使い方を切りかえれば、都民の切実な要求の多くは実現できます。「世界都市」というなら、なによりも都民のくらしの質の高さで世界に誇れる東京をつくる、これが私の信念です。
「憲法を破る」と公言する石原知事の身勝手な考え方が都政に持ちこまれて8年。いま都政のあらゆる分野で矛盾が吹き出しています。

 石原知事は、国連憲章を否定し、女性や障害者、アジアの人々を蔑視する発言をくりかえし、都民の批判を受けました。石原知事が税金を1000億円もつぎこんではじめた「新銀行東京」は、中小企業に役に立たないばかりか、不良債権をかかえた都財政の新たな「負の遺産」になろうとしています。石原知事と都教育委員会による生徒と教師への「日の丸・君が代」の強制は、東京地裁からも「違憲・違法」という判決がくだされました。
 都議会では、この石原都政を自民、公明、民主、ネットなどが支える状態が続いてきました。いま求められているのは、都政の根本的な改革ではないでしょうか。
 私は、都民のみなさんと力をあわせて都政に憲法をいかし、国の悪政から都民のくらしと福祉を守るため、自治体本来の役割をとりもどすために全力をあげます。
 都知事の海外出張や交際費のあり方を全面的に見直し、交際費の支出の全容をホームページで公開します。
トップダウンですすめたワンダーサイト事業の乱脈運営をただし、若手芸術家育成や都民の芸術活動を支援する事業を再構築します。
オリンピックの積立金や税収の増加分の使い方を転換し、くらし・福祉・環境・まちづくりなど都民本位の予算編成を大胆にすすめます。
 新銀行東京は、金融庁の検査をうけ、都の1000億円の出資金と預金者の保護を前提に処理をすすめます。
 史上最高の利益を上げている大企業の法人事業税の超過課税を制限税率まで引き上げるなど大企業への適正な課税を検討します。
石原知事はフリーターやニートを「ごくつぶし」「甘え」と言い放つなど、格差を正当化してきました。
都民のくらしをまもることこそ、都知事の役割だとの立場から、国にたいし、貧富の格差をひろげる間違った政策をやめて、ワーキングプアの解消をはじめ庶民のくらしをまもるよう強く働きかけていきます。格差社会が広がるなか、だれもが東京において健康で文化的な生活を営める都独自の基準をつくり、国にも責任を果たさせ、この基準を達成するための総合的な支援制度を確立します。
石原知事がこわした福祉をたてなおし、新たな福祉の第一歩を踏み出します
 都独自の新たな医療費助成制度を創設します。都として、65歳から69歳の高齢者の医療費自己負担を2割におさえ(1割助成)、老人保健法改悪で来年4月から実施される予定の70歳以上の高齢者の医療費値上げを中止するよう政府に働きかけ、実施された場合は負担増にならないよう助成します。
 誰もが、必要な介護を受けられることをめざし、介護保険料、利用料の減額免除の制度と寝たきり高齢者のための新たな福祉手当を月1万円からスタートします。
 住民税課税者は1000円から一気に20510円にはねあがるシルバーパス制度は、3000円、5000円パスを導入するなど所得に応じた負担制度とし、多摩都市モノレールなども対象にします。
介護施設をととのえ、孤独死をなくします
 介護予防のとりくみをつよめるとともに、要支援や軽度要介護高齢者の福祉用具、家事援助、通所介助などへの支援を充実します。4万人をこえる待機者解消をめざし、緊急計画をつくって特別養護老人ホームや老人保健施設などの整備を3倍化します。グループホームの家賃助成をおこないます。孤独死ゼロをめざし、区市町村や住民と協力し、「ひとりぐらし見守りネットワーク」づくりを支援します。
生活保護の改善・拡充をはかります
 憲法25条にもとづく「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するため、国にたいし老齢者加算の復活、母子加算打ち切りの中止など生活保護の水準の拡充をつよく求めます。都独自の法外援護を拡充します。
がん・難病対策など医療対策の充実と都立病院の強化をめざします
 緩和ケアなどのがん対策、脳卒中専用病床の整備、リハビリテーションの強化をすすめます。大気汚染による健康被害については、メーカー、国とともに、被害を受けたすべての人を対象に健康被害救済制度をつくります。ウイルス肝炎に対する医療費助成、難病医療費助成を拡充します。都立病院や福祉施設の統廃合をやめ、都立看護学校を拡充し、看護師の確保をめざします。
安心して子育てできる環境をつくります
 女性が一生に生む子どもの数をあらわす合計特殊出生率は、1.00と全国の1.26を大きく下まわり、東京の少子化問題はとりわけ深刻です。しかし、東京の子育て条件は石原知事のもとでは改善されないばかりか、廃止された母子保健院につづき都立小児病院3院(清瀬、八王子、梅が丘)の廃止計画がすすみ、私立保育園への補助が削られ、経験豊富なベテラン保育士の削減など保育の質の低下がすすんでいます。石原知事は認可保育所には「金がかかる」と言って背をむけているのです。
 次世代育成支援計画は「子どもの権利条約」を実行する立場で抜本的に見直し、子どもの医療費助成の拡充をはじめ東京を「子育て安心都市」にしていきます。
子どもの医療費を無料にします
 「安心して子どもを医者にかからせたい」これは都民共通の願いです。そのために、中学3年生までのすべての子どもの医療費を所得制限なしで無料化します。
出産費用・妊産婦検診を無料にし、妊産婦医療費無料化をスタートさせます
都立小児病院の廃止を中止し、安心できる医療体制をめざします
 都立小児病院の廃止計画を撤回します。地域ごとに24時間、365日対応できる小児救急病院を確保します。不足している小児科・産科などの医師の育成・確保対策を強化します。妊娠後期から新生児早期まで総合的な医療体制を備えた周産期医療センターを増やし、産科医療や助産師外来への支援をおこないます。
保育の充実、育児休業の保障の改善をはかります

 認可保育園への補助を大幅に引き上げて、新増設と保育水準の向上、延長保育や産休明け保育を充実する緊急5ヵ年計画をつくり、待機児ゼロをめざします。私立幼稚園の保護者負担を大幅に引き下げます。認定こども園は、認可保育所と認可幼稚園の基準を満たした基準にします。
育児・看護休業や妊娠・出産による不利益な取り扱いの禁止などについて、都の基準をつくり、企業に遵守を働きかけます。中小企業には必要な助成をおこないます。気軽に子育て相談ができる窓口をたくさんつくります。
学童保育・児童館を増やし、子どもの居場所づくりをすすめます

◇児童相談所を充実させるなど、親が相談に駆け込める場をふやします

雇用・賃金などの条件について、都独自の「東京ルール」をつくり、働く人の仕事・くらしを守り、ワーキングプアをなくします
 ワーキングプアの原因になっている時給719円という低すぎる東京の最低賃金を大幅に引き上げ、国と巨額の利益を上げている大企業にリストラ規制などを強力に働きかけます。残業代をゼロにし、労働者を過労死・過労自殺に追いこむ「ホワイトカラー・エグゼンプション」などの労働法制の規制緩和に反対します。
雇用対策室をつくり、労政事務所を復活させるなど、都の労働行政を強化します
 最低賃金の引き上げ、不当な解雇、異動などの規制、非正規雇用に対する差別や男女差別の是正を企業に働きかけます。都の公共事業の一部が「安かろう、悪かろう」で安全性や品質の悪化、劣悪な労働条件の原因になっています。すでに他県で実施されている派遣労働、偽装請負などの実態調査をおこない、是正にとりくみます。異常な低入札を改善し、下請け、労働者の適正な単価、賃金などを保障するために公契約条例をつくります。
若者の雇用と生活を応援する緊急対策をおこないます
教員、消防隊員、看護師をはじめ都職員を積極的に採用し、とりわけ若者雇用の拡大に努めます。若者を採用した中小企業に助成をおこないます。都が採用するアルバイト、派遣職員などの賃金、待遇を大幅に引き上げます。若者に「ポケット労働法」を無料で普及します。若者への家賃助成や都営住宅建設をおこないます。
ワーキングプアや無(低)年金者など生活保護基準以下の生活を余儀なくされている人の生活を応援します
 ワーキングプアなど、生活保護基準以下の収入を余儀なくされている人の中で、とくに困難な人に、月1万円の「緊急生活応援手当」を支給します。
労働、福祉、教育などすべての施策を男女平等の視点で見直し、女性と男性の平等を保障するために全力をつくします
女性副知事の実現をはじめ、都の行政委員会、審議会への女性の参加機会を増やし、意思決定への参加を積極的にすすめます。
公共料金の引き下げにつとめます
 都立の大学、高専、高校などの授業料を2割程度引き下げ、上下水道料金の引き下げや減免制度の拡充など公共料金の引き下げにとりくみます。看護学校の授業料を大幅に引き下げます。
子どもたちのすこやかな成長をはぐくむ教育に改革します
 石原知事のもとで、東京の教育は、教育基本法の改悪を先取りして大きくゆがめられています。30人学級の実現など全国でおこなわれている教育条件整備を拒否するだけではなく、学校と教育の格差をひろげる競争主義教育をあおり、夜間定時制高校をはじめ都立高校を減らすなど教育条件を悪化させています。その一方、やってはならない「日の丸・君が代」の強制など学校への干渉をすすめています。
どの子にもゆきとどいた豊かな教育条件の整備を緊急にすすめます
緊急に30人学級を実施し、子どもの豊かな成長と安全をまもります
 すべての子どもの基礎学力を保障するためにも、いじめ自殺や不登校をなくすためにも、30人学級を緊急に実施します。スクールカウンセラーのすべての学校への配置・充実など、「心のケア」対策をすすめます。校舎の耐震化を支援します。
 学校間格差を広げる「一斉学力テスト」と、その結果の公表は中止します。子どもの心を傷つける習熟度別授業の強制はやめさせます。

◇夜間定時制高校をはじめ都立高校の統廃合をやめ、希望するすべての子どもの高校全員入学をめざします

 学校間格差をなくし、子どもたちが身近な地域で学べることができるようにします。

◇障害児学校を増設し、教室不足の解消やスクールバスの増発などにとりくむとともに、小中学校の障害児教育への支援を拡充します

◇「日の丸・君が代」の強制や学校現場への干渉をきっぱりと改め、憲法にもとづいた教育行政を推進します

 「日の丸・君が代」の強制を「違憲・違法」と断じた東京地裁判決を受け入れ、控訴を取り下げます。子ども中心の入学式・卒業式を大切にします。命令と管理至上主義の教育をあらため、子どもを中心にした教職員・保護者・住民、の共同・協力と自主的な学校づくりを支援します。学校の教育と運営に介入している都立学校経営支援センターは、廃止します。

◇私学助成を拡充します

◇首都大学東京については、学生・教職員・都民の声をいかして、学問の自由と大学の自治を守り、教育・研究条件の改善・充実をはかります

(2)文化・スポーツ・社会教育行政を充実させます

◇スポーツ・文化予算を大幅に増やします

 イベント中心のスポーツ行政ではなく、公立スポーツ施設の全国最低の設置率を脱却するため、都民が気軽に使える低料金のスポーツ施設を増やします。老朽化した施設を建て替えるため市町村を支援します。
多様な文化・芸術活動への支援を強化します。

◇都立図書館の拡充をはかります

 蔵書の廃棄処分を中止し、1タイトル2点購入にもどします。区市町村の図書館への協力貸し出しをもとにもどし、連携と支援を強めます。

4.中小企業を応援し、地域経済の活性化をすすめます
 石原知事がすすめる「世界都市東京」構想のもとで、東京の産業構造は、金融、サービスなどの集積がつよまる一方、製造業や地域小売業などが衰退するという2極構造化がすすんでいます。しかし、石原知事のもとで、中小企業予算は4割も減らされ、ほとんどの中小企業対策は、大幅に後退させられてきました。私は、工業、商業、建設業など中小企業対策をつよめ、農林漁業などとともに、総合的な経済発展の道をめざします。

(1)中小企業が地域経済の主役にふさわしい役割を発揮するよう支援をつよめます

◇中小企業振興条例をつくり、緊急実態調査をおこない、分野別、業種別の特別支援をおこないます

制度融資を抜本的に改善・拡充します

 制度融資は、融資限度額を引き上げるとともに、使いやすいメニューに拡充し、1.5%程度の低利におさえます。借り換え融資は、民間からの債務もふくめ対象とするなど拡充します。

◇モノづくりへの支援を拡充します

 機械金属、印刷・製本、アパレルなどの集積した工業地域を地場産業と位置づけ、活性化事業をすすめます。中小企業や商店街・個人経営者の相談にのれる体制と機能を強化するために、商工指導所を再開します。産業技術研究センターは直営とし、拡充をはかります。

商店街を地域コミュニティの核として活性化させます
 地域商店街は、大型店や駅中店などの出店ラッシュ、消費税課税の強化などに苦しんでおり、大型店・チェーン店などの規制をつよめ、商店(会)への支援を拡充します。ショッピングセンターや量販店、大型店、駅中店の身勝手な出店・閉店をおさえ、商店街に協力させる「大型店規制東京ルール」をつくります。

 「新・元気出せ!商店街事業」を拡充するとともに、区市町村が策定した振興プランを支援するしくみをつくり、空き店舗の活用、駐車場設置、共同宅配などへの助成、支援をつよめます。

 「輝け個店事業」を復活・拡充し、店のレベルアップや業種転換を支援します。

 新規事業のたちあげなどへの創業支援をつよめます。

◇建設業など地元業者への仕事を増やします

 公共事業を福祉施設の建設をはじめ都営住宅や公園、歩道整備など生活密着型に転換します。住宅の耐震工事助成や1戸10万円のバリアフリー化助成などで町場の仕事をふやします。東京都の公共事業への中小企業の入札の参加を拡充し、下請けや建設労働者へのコスト、賃金の不当な切り下げをおさえます。

(2)農業を基幹産業の一つとして位置づけ、都市農業の振興、林業・漁業への支援をつよめます

5.緑と環境を優先し、災害につよい東京へ、都市政策を転換します
 石原知事の都市政策は、超高層ビルを乱立させ高速道路網を幾重にもはりめぐらせる、超過密、経済効率至上の東京づくりです。このため、地球温暖化の原因となる二酸化炭素の発生量は減るどころか、ふえつづける一方です。また、住宅やマンションの耐震・不燃化、総合治水対策など防災対策はきわめて不十分で取り残され、なおざりにされています。

 東京とりわけ都心への過度の集中をおさえ、環境に優しく、都民が安全・快適にくらせる街づくりを最優先した都市づくりにかじを切りかえます。

 競技施設の整備などに1兆円以上の資金がかかるだけでなく、オリンピックをテコにして、首都圏中央連絡道、外郭環状道路、首都高速中央環状品川線のほか、羽田・築地間のトンネル道路や臨海部の広域幹線道路などの7兆円を超える基盤整備事業を、一気に完成しようという計画だからです。また、地震にもっとも弱いと言われる臨海部地域に競技施設を集中させることは、防災上きわめて危険であり、無謀だからです。
 液状化対策が必要です。
スポーツ予算を拡充します
 都民のくらし応援、都民が気軽につかえるスポーツ施設の充実をします
水と緑、大気などの自然環境を改善し、環境優先の都市づくりをめざします
 ヒートアイランド現象や集中豪雨対策、地球温暖化対策はまったなしです。ところが、 石原知事は、ディーゼル規制にとりくんだものの、超高層ビルや幹線道路建設の推進でヒートアイランド現象を激化させ、地球温暖化の原因である二酸化炭素は減らすどころか24%も増やすありさまです。
 都市の成長を管理する方向に切りかえ、再生可能エネルギーの活用を促進します。立ち遅れている都市計画公園の整備、市街地の緑地保全と植栽の推進、里山の保全などを抜本的につよめます。
 道路の右折レーン、鉄道との立体化、公共交通と水上交通の整備などを優先させた交通政策をすすめます。町なみや景観に配慮した修復型まちづくりを重視するとともに、緑の宝庫である高尾山の自然を守ります。

「都民の台所」といわれる築地市場を、環境基準をはるかに超える有害物質で汚染されている豊洲地域へ移転させようとしている計画は見直します
緊急総合対策
地震被害を最小限にするという予防の立場で、東京都の震災対策を抜本的に転換します
 東京直下型地震の発生の確率は、10年以内に30%、30年以内に70%と予想されています。震災対策はまったなしの緊急対策が求められています。
 耐震診断をおこない、毎年1万戸の木造住宅耐震化をすすめます(上限1戸75万円助成)。マンションの耐震助成をすすめ、低利の融資をおこないます。長周期地震動対策、大規模複合施設、地下鉄、地下街、臨海部埋め立て地対策、帰宅困難者対策などを確立します。
◇防災に不可欠な消防力を強化します
 ハイパーレスキュー隊の増強、消防団の施設や処遇の改善など消防体制を強化します。雨水浸透対策、河川改修の抜本的強化など、集中豪雨にそなえます。

 都営住宅に50倍以上の応募が殺到しているのに、石原都政は都営住宅の新規建設は8年間ゼロでした。都営住宅を1年に1000戸増やすことからスタートし、大幅な新規建設をすすめます。高齢者、障害者にとどまらず青年や若年ファミリー向けの都営住宅を計画的にふやします。都営住宅の家族への使用承継制度を存続し、家賃の減免制度を拡充します。都民住宅・公社住宅の市場家賃制度をやめ、高い家賃を引き下げます。民間賃貸住宅の高齢者、青年、若年ファミリーへの家賃助成制度をつくります。

 23区と多摩・島しょ地域の税収には大きな格差があり、それが子どもの医療費助成や学校の耐震対策など都民サービス水準の格差につながっています。
都民がどこでも一定水準の文化的生活をおくれるよう振興計画をつくり、財政力の弱い多摩・島しょ地域への援助をつよめ、福祉や医療、くらし、教育、消防、交通網などの23区との格差を解消します。多摩地域の文化・スポーツ施設の整備を支援します。多摩・島しょ地域の観光対策と産業を応援し、三宅島の噴火災害の復興支援を強化します。

平和な都市東京をめざします

 石原知事の「私はあの憲法認めません」「命がけで憲法を破る」などという発言は、それだけで知事の資格がないと言わなければなりません。憲法改悪に断固反対し、憲法を守り都政にいかします。

 建設計画が中止された「東京都平和祈念館」(仮称)はすみやかに建設をすすめ、都民がとりくむ平和事業への支援をおこないます。

米軍基地の強化や永久化に反対し、早期撤去を求めます
 戦後60年以上たつのに、3500万人という密集した人口をかかえる首都圏に、いまなお横田、横須賀などの米軍基地があることは異常です。韓国でもドイツでも、世界の流れは米軍基地の縮小・撤去です。横田など米軍基地の早期撤去に全力をあげます。政府の米軍と自衛隊による共用化であれ、石原知事の米軍と自衛隊、民間機の共用化であれ、基地機能の計画にも反対します。
アジアと世界から人々がつどい、にぎわう国際都市をめざします
 東京は36万人を超える外国人が登録され、都心3区の人口を超える人々が住んでいます。様々な国の人々がつどい、多様な文化が交流する都市をめざします。

まだ手稿の段階であり、手稿の原稿用紙を別人が打っているので、打ち間違い等は連絡下さい。戦後生まれは
戦前の
西田哲学も
226事件も
515事件も
右翼思想も
南京虐殺も
沖縄自決も
ゼロ戦の特攻隊も
原爆投下も
事実としてではなく
歴史としてしか
認識し得ないのであろうか

では東西冷戦後の
政治は
経済は
どのようになるであろうか

哲学は貧困となり
科学が
進んでいる

宗教も
進んでいる

社会は
一姫二太郎

一人っ子が
多くなって
その様な
集団となってきた

したがって
精神とは
人間とは
人間の精神とは
人間の学とは
何であるのかの
正しい定義が
なければ
生きていけません

社会的には
一姫二太郎
一人っ子が
家族を代表して
集団を形成し
家族を破壊せよという
考え方には
反抗するでしょう

そこに
宗教と
倫理と
道徳と
自然科学と
社会の人間関係の科学と
をどのように
発展させるのか

今後の
テーマ
である

参考までに載せておきます。これから4回は推敲が必要でしょう。

 

山口節生の論文

 

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  山口節生の論文

 政治と法における自由・正義の観念−−ヘッフェの政治的正義論ーー
The Concept of Freedom and Justice in Politics and Law----Otfried Hoffe's Political Justice-----
山口節生
序論
ヘッフェはまだ若い学者で一九四三年生まれである。若い世代の学者である故に分析哲学的な側面と、実践的な側面とを併せ持っている。その文章は多くの論点が整理されている。哲学と、倫理学の見地から国家と法に関する政治哲学を『政治的正義』という書物の中で簡潔に再構成している。彼の論点は自由、法、規範、倫理、国家、契約、自由の相互放棄などである。彼が生れたのは第二次世界大戦の末期に当たり、当然に戦争を実際には体験したことのない世代である。その時代の人間の誰かがヒットラーの第三帝国の法と、国家が明白に正義をもっていなかったと考えていたとした場合に、どのように歴史の史実に対応すべきであろうか。現在はこの難問を考察する学問的な確固とした方法論が定まっている訳ではないといいうる。ヘッフェは学問的に第三帝国の問題を政治学上で取り扱う場合には、政治的正義の概念によって考察をしなければならないと考えたというように解釈できるのである。どのような倫理によって悪法や、悪い政治は倫理的に排斥することが出来るかを真剣に考察し、倫理的に第三帝国が行った行為を禁止出来るような政治的正義が、実定法を超えたところに存在するはずであると考えて考察を進めたのであるといえる。政治哲学のなかの正義に関する部門は若い世代にとっては馴染みの薄い部門である。法哲学のなかの正義に関する部門も同様である。ヘッフェの正義に関する議論はこの政治的正義の分野における若い世代の新しい学問的業績として参考になると考えられる。この分野は法哲学の分野と政治哲学の分野とが交差する分野である。「悪法は法か」という議論は法哲学に属し、「悪政は政治か」という議論は政治哲学の分野に属する。
ヘッフェの議論は正義の議論を見直しを行うというものである。古典古代においてはプラトン、アリストテレス、更に中世のアウグスティヌス、トーマス・アクィナス、ウィリアム・オッカムを、さらにルネッサンス以降近世から近現代においてはホッブス、スピノザ、ロック、ルソー、カント、ヘーゲル、マルクスの法思想や、国家思想から、十九世紀の歴史法学派、グスタフ・ラートブルフ、ハンス・ケルゼン、H・L・A・ハート、ベンサム、分析法哲学までを視野に入れて法哲学と政治哲学の見直しを行っている。これを政治的正義に関する議論と名付けて考察を進め、『政治的正義』という題名の論文を一九八七年に発表した。政治的正義に関する論文であるので題名として『政治的正義』とし、副題に「法と国家に関する批判哲学の基礎づけ」とした。この論文によって政治学に倫理学の立場からの挑戦を行っている。
この論文のなかの特に正義と自由に関する部分を取り上げて論ずることとする。原書は、Hoffe,Otfried,Politische Gerechtigkeit: Grundlegung einer kritischen Philosophie von Recht und Staat, Shurkamp,1987であるが、最近和訳書、オットフリート・ヘッフェ『政治的正義』北尾宏之・平石隆敏・望月俊孝和和訳(東京:法政大学出版局、一九九四年)が出版された。原書と自分の和訳と和訳書は照合を行い、自分の和訳との整合性を確かめ意味が同じであっても、自分の和訳によっている場合がある。その他の外国語の論文についても原書と照合の結果、自分の和訳によっている場合がある。その他の引用についても原書のあるものについては原書に当たり照合作業を行い自分の和訳を採用した場合がある。引用文献、参考文献には古典古代の論文をはじめギリシャ語、ラテン語の書物が多い。英語訳本や、日本語訳本があるが原典がラテン語、ギリシャ語のものはラテン語、ギリシャ語の原典に当たりチェックした。書物名の後には訳者名を記す場合和訳の場合訳者名+和訳と記した。
第一節  法実証主義と、国家実証主義に対する批判
ヘッフェ自身が生れたドイツでは第三帝国があったという歴史がある。史実として確定されている第三帝国を明白に正義がなかった国家であるとヘッフェは考えていると考えられる。明白に正義のない国家という概念を、倫理学的に、政治倫理的にどのように理論化できるのかという問題にヘッフェは立ち向かおうとする。ヘッフェが第三帝国に直接言及している部分は少ないが、悪政や、悪法を主に念頭に置いているという点で、『政治的正義』の全編にわたって第三帝国への反省が私には見え隠れする。従って彼の根本的な関心はそこにあると考えることが出来る。「『不適切な法』としてひどく耐え難く正義と矛盾しているならば、国家の法律も正義に席を譲り渡さなければならないと考え、そのような法は効力がない」(1)と主張したのはラートブルフである。このラートブルフの定式はドイツの連邦最高裁判所や、連邦憲法裁判所の多くの原則決定において取り上げられている。正義の理念を実定法に優先させるというラ−トブルフのこの古典的な定式を法律道徳主義とヘッフェは呼んでいる。第三帝国の明白に不正な国家の史実は、ヘッフェにとっても私を含め我々戦後世代にとっても歴史的な過去の歴史の記憶ではある。しかしその衝撃は大きく、現在の法学や政治学に対して大きな影響を与えていると考えられる。この衝撃が戦前の政治学に対しても戦前の法学に対しても思考の大革新を迫っているといいうる。ヒットラーの第三帝国の史実は非常に脅迫的な観念として若い世代に政治についての学問の革新を迫っている。この問題は、若い世代が解決しなければならない政治倫理上の課題である。特に戦前生まれの人々とは違って、第三帝国に住んだことのないヘッフェにとっては観念的に重要な歴史的な難問であり、解明すべき過去である。史実とはいっても伝承された史実ではあり、実際には経験したことのない、歴史的な史実であったと考えることが出来る。一般には歴史的な史実は個人とは全く関係のない事実である。ところが民族の歴史的な事実であっても、人は自らのこととして心配をすることが出来る。自分の前の世代の事件であって、自分が直接に経験したことがない事件についても自分のことのように心配し、そのような事件が二度と起こらないように政治的、倫理的に考察することが人間は出来るのである。ところが愛国心は各人にあるのであろうか、ドイツ人であるヘッフェは自分の祖国(母国)に対する忠誠心からか、イギリスのバ−リンのように全体主義を即座に積極的自由として否定したりせずに、また第三帝国はあまりに理想主義的であったのだというように単純に分析することはなかった。バーリンは「二つの自由」の論文の中で理想主義的自由が他人に向かった時に他人に干渉し過ぎるようになるといい、その時の自由を積極的自由と名付けた。これに対して観念的な理想主義の側からの干渉を排除する経験主義的な自由を消極的自由とよんでいる。ヘッフェの研究は深く、哲学的であり、倫理的である。倫理的に不正なという概念を定義していくという方法をとる。ヘッフェは同じく第二次世界大戦後の自由や正義を研究するに当たりバーリンの理論を採用し、バーリンの研究を行う道を選ばなかった。ヘッフェの研究は超実定法的な倫理を研究する。そのような研究態度であったから以上のような立場のバーリンの説を採用することにはならなかった。バ−リンのいう積極的自由は同じ自由という名によって研究するにしても、ヘッフェの自由のとらえかたによれば、次のような表現になったと考えられる。ヘッフェが分析すれば自由の相互放棄のうちでも、干渉し過ぎることによってあまりに多くの自由を相手に放棄するように要求し、そのかわりに自分があまりに多くの自由を手に入れたり、自分のわがままが通るように相手に必要以上に多くの自由を放棄させるために干渉し、要求するということと解釈することができると分析するかもしれない。自由の相互放棄の理論をヘッフェは採用したのであるからである。また便乗者のジレンマの概念も採用したからである。
自由を相互放棄する段階で、自由を相互放棄する必要が倫理的にはないとされ、自由を放棄せずに残った部分は法や倫理の関与しない自由の部分であるという理論になる。バーリンのようにあらかじめ干渉されるべきではない自由を設定しておくという作業をすることはなく、最後に残った部分のみが自由として解放されるという研究姿勢を取った。相手に干渉している自我の特徴を分析したのはバ−リンである。ヘッフェであればそのような自我は倫理的に正しい自我であるのかどうかという分析になったのかもしれない。他人に干渉するのが倫理的に正しくないと認められれば干渉すべきではないという倫理が決定され、その結果として自由の範囲が決定されることになる。バ−リンは経験的な自我を優先するのであるが、ヘッフェは倫理的な自我を確立しようと努めているのである。もちろんヘッフェも支配からの自由を求める理想主義としてのアナーキズムに対しては論駁し排斥する。しかしその排斥は積極的自由があるからではなくて、支配には正当性があり、支配や強制権限には正当性があるからである。バ−リンの理論を一目見たものはドイツ人でも日本人でも誰でも、その理論が積極的と、消極的という言葉を使うだけで現実を把握していることに驚愕するであろう。ドイツ人であり、祖国ドイツを思っており、かつ、第三帝国が明白に不正な国家であると思っているものであるならば更に驚愕することであろう。それにもかかわらずバーリンの理論をヘッフェは全く採用せずに、第三帝国を不正な国家であるといえるような倫理的な国家理論を作り上げうるような政治倫理学はどのような理論付けを行うべきであろうかと論を進めることになる。
第三帝国は第三帝国内部では多くの人に仕事を公平に分配し、多くの失業者に多くの仕事をもたらしたかもしれないし、ひょっとしたら配分的正義は全く完全に確保されていて、それ故に選挙でヒットラ−は選出されていたという仮説が正しいと証明された場合にはどのような形で不正な国家と倫理学的に説明できるのであろうか。そのような問題にヘッフェは立ち向かうのである。第三帝国を賛美する側はそのような理論を持ち出す可能性があるからこのようなことも想定する必要があるのである。従って政治的正義について綿密に論を展開しているのである。正義の概念が、法感情や正義の感情とよばれるものであってはならないとヘッフェはいう。感情とは倫理学のように学問としてとらえられるものではないものを指していると考えられる。そこで正義を政治的正義として倫理的に理論化しようと試みたのである。感情的にではなくて、学問として政治的正義を批判し基礎付けようという試みがヘッフェの試みである。従ってヘッフェは第三帝国の事例のみではなくて、アウグスティヌスが海賊や盗賊の集団が政治的な正義を持っているのかと問う時の集団の政治的正義についても述べるし、人間が行為の自由を持っているが故に、潜在的な戦争状態の可能性があるというホッブス以来の政治学の課題についても、人間が人間に対して敵とはならないような世界や、社会契約を行って作った政府が狼にならないような世界についても考察することになる。自由については「行為の自由と暴力や殺害の可能性」をどのようにして回避するのかなどのあらゆる場合を想定して倫理学的に国家と法の倫理の必要性を考察しようとするのである。第三帝国の問題は非常に難しい問題である。バーリンのように理論化するのと、ヘッフェのように理論化するのとの違いはどこに存在するのであろうか。(Hoffe,Otfried,Politische Gerechtigkeit: Grundlegung einer kritischen Philosophie von Recht und Staat, Shurkamp,1987.S.125.)
平等や、人権や、公民権という伝統、特に平等の原理は、正義の原理になることは可能である。しかし実定法的な意味での正義の原理なのであって、超実定的な正義原理なのではない。超実定法的な正義原理を考慮するためには単純に妥当であるといえるような正義原理を学問的に考察しければならないとヘッフェは主張するのである。実定法的な意味での正義原理は法感情とか正義感情とかいうようなものに近い。つまり「同じ法を共有する人及び法的共同社会の法的確信にすでにはいりこんでいる」正義原理をラ−トブルフは法律を超える法という言葉でいっていることになる。一方ではこのような意味での正義の原理を実定法に優先させることをハ−トやケルゼンのような法実証主義者は排除している。だからなおさら超実定法的な正義の原理を採用することを法実証主義者は拒否していることになる。それに対抗して法実証主義と、国家実証主義を批判することによりヘッフェは超実定法的な正義の原理を追求しようとするのである。それは第三帝国のどの部分が正義に反していたのかを知るための一つの方法でもあると主張していると考えられる。自然法とか、人倫とか、永遠不変の正義原理とか、おそらくは神の善とでも言いうるような超実定法的な正義の観念をヘッフェは求めようとするのである。
ヘッフェが超実定法的な正義の原理とよぶものは実定法的な正義原理のように「同じ法を共有する人及び法的共同社会の法的確信にすでにはいりこんでいる」ような正義の原理ではなくて、そのような人が正義の原理とは認めなくても正義の原理であるべき正義原理であろうと考えられる。第三帝国の明白に不正な国家を念頭においていると考えられる。つまり人々の間に第三帝国は受け入れられていたのではあるが、明白に不正な国家であったということをどのように法と国家の倫理から明白に不正であるという判断が下せるのかという問題を念頭においていると考えられる。第三帝国の史実を考察することにより問われている正義の原理である。明白に不正な実定法は、国家と法の倫理からはどのようにして判定出来るのかという問題であると見ることができるのであろう。
アウグスティヌスの「正義を欠いた国家、それは大盗賊団でなくしていったい何であろうか(Remota iustitia, quid sunt regna nisi magna latrocinia?) 」というアウグスティヌスの著した『神の国』第四巻第四章における問い(アウグスティヌス『神の国』泉治典・原正幸和訳(東京:教文館、一九八九年)「アウグスティヌス著作集11」p.246.'Remota itaque iustitia quid sunt regna nisi magna latrocinia?'Sancti Avrelii Avgvstini,"De civitate dei",Avrelii Avgvstini Opera Pars XIV,1(14-1),XIV,2(14-2),Corpvs Christianorvm Serie Latina XLVII,XLVIII,Libri I-X,Libri XI-XXII,(Tvrnholti Typographi Brepols Editores Pontificii,1970)IV,cap.IV,p.101.)に対しては大盗賊団であるのだから国家ではないと答えるべきであろうか。その答えに対する理由付けがヘッフェにとっては大切であるということになる。単にバーリンの理論では満足していないのである。ケルゼンやハートのような法実証主義者でさえもこの問いを引用し答えようとしている。第三帝国は国家であったかの問いに対しては、定義の仕方によっては国家ではあったということになる。国家ではあったが、不正な国家であり、劣悪な国家であったと答えることは一つの答え方である。答える方法の差異は倫理と、意味論の問題である。しかし国家という事象そのものの問題でもありうるとヘッフェは解釈している。一般には大盗賊団は国家ではないのであるから、定義によっては国家ではないということになろう。この問題に対する答えはある意味では定義の問題であり、いわゆる意味論の問題である。しかし国家ではないという答えは意味論を超えて、現実の国家という事象を倫理的に判断しているのだという判断をヘッフェは行うのである。
ヘッフェは法や国家の規範となる原理が正義であるという意味と、定義によって答える第一の場合と、法や国家を構成し、定義する原理が正義であるという意味と、定義によって答える第二の場合との二つの場合があり、第一の場合には正義を欠いた法や国家も法や国家であるといいうるが、第二の場合には「正義との関連を何も示さないような社会的強制は、単に倫理的に批判すべきというだけではなく、そのうえ法としての性格ももたないことになろう」(Hoffe,a.a.o.,S.128.)という。ヘッフェはこのように表現し、国家の本質が正義であれば不正な国家は国家ではなく、国家の属性が正義であれば不正な国家も国家であるということを述べていると考えられる。正義という言葉をどのように定義し、どのような意味をもたせるのかという問題であると同時に、政治的正義が国家にとって本質か、属性かという政治の本質の判断の問題であると考えていると思われる。ラ−トブルフやハ−トの論争が法の概念を定義するにあたってこのように正義という概念を定義と、意味論的に考慮している訳ではないとヘッフェは言う。従って今後正義という概念が法や国家の概念のどこまで及んでいるのかを論じていくべきであるとヘッフェは強調するのである。政治学においてはルネッサンスの時期にマキャベリーが説いた近代的な国家像が、倫理的に正当であったのかどうかという問題が存在する。一方ではマキャベリー主義と呼んでマキャベリーが描いた現実の政治を倫理的ではないと批判する書物も出版されてきた。この問題は政治の現実と倫理の問題として解決されずに現在まで残されている。一方ではアウグスティヌスの『神の国』における大盗賊団の問題から始まる倫理的な探究は、かえってマキャベリーの描写した国家よりも現在必要な倫理的な国家観を追求していたのではないかという現代政治学における逆説も解かなくてはならない。中世の国家や法の方が余程倫理的なものではなかったのかという視点が、現代政治学に欠けているものを中世の政治が持っていたのではないか、政治学は発達し損なったのではないのかという政治学上の逆説も提出されうることになるし、アリストテレスの説いた善という概念の方がより倫理的ではなかったのか、従って現在必要な政治学はパワー・ポリティックスによる現実政治学ではなくて倫理的な政治学であるのではないか、政治学はアリストテレスの古典古代の政治学をもう一度見直すべきではないのかという逆説も提出されることになる(2)。これらに立ち向かおうとするのがヘッフェの政治的正義の解明への試みである。
アウグスティヌスが『自由意思論』第一巻第五章において述べた「正しくなかったものは決して法律であるとは思われない(Non videtur esse lex quae iusta non fuerit) 」(アウグスティヌス『自由意志論』泉治典・原正幸和訳(東京:教文館、一九八九年)「アウグスティヌス著作集3」p.32.Sancti Avrelii Avgvstini,"De Libero Arbitrio",Avrelii Avgvstini Opera Pars II 2,Corpvs Christianorvm Serie Latina XXIX,(Tvrnholti Typographi Brepols Editores Pontificii,1970.)p.217.)という言葉はトマス・アクィナスも取り上げており、倫理的に悪しき法律(1ex mala)は「法ではないもの (Nicht Recht)」であるのかどうかという問題に対するアウグスティヌスの答えである。これは現実の問題として第三帝国において我々に提起されたのである。現実に実際的には悪い行動(Untaten)はどこにでも存在しており、悪い行為であっても行為であったことは歴史上まぎれもない史実である。しかし倫理的に許される行為であったのかどうかの問題である。第三帝国は国家ではあったが、倫理的には国家ではなかった。バーリンもがき大将(3)の行動という言葉を使っている。がき大将という言葉が非行(4)とか、悪い行為と結びついていることを認めるならば、つまり悪い行為があることを認めていることになるのである。バーリンは悪い行動を積極的自由という概念と結びつけようとしている。ヘッフェは悪い行為を否定出来るものが倫理であり、倫理が否定する対象が悪い行為であると考えるのである。バーリンの理論とヘッフェの理論を総合すれば積極的自由は悪い行為であるが故に、倫理によって否定されなければならないことになる。つまり倫理的な行為も他人に干渉し過ぎるようになれば、倫理的に悪いという主張となり、倫理によって否定されるべきであるという理論が成立することになる。アウグスティヌスの『自由意思論』第三巻の要約による表題は「罪を犯しうる自由意志さえも宇宙の秩序に参加するのだが、この宇宙的秩序のゆえに神に讃えられる」(和訳書:聖アウグスティヌス『自由意志論』今泉三良・井沢弥男和訳(東京:創造社、一九六九年)一七四頁。Sancti Avrelii Avgvstini,"De Libero Arbitrio",Ibid.,p.274.)というのであり、罪を犯す自由意思と、善なることを行う自由意思との間で悩んだのがアウグスティヌスであったが自由意思は罪を犯しうるのではあるが神の意思の下にあるというのである。つまり自由意思は罪を犯す場合が存在するということを認めている。それにもかかわらず自由意思は倫理によって、あるいは、神の意思によって善なる方向に向かいうるのである。そして悪(罪)から善に向かうのも自由意思の力によるのであるからから、自由意思は神によって讃えられるというのである。これに対して神に讃えられるようになるのも神の意思であるとして、エラスムスの自由意思論との論争において奴隷意思論を展開したのはマルティン・ルターである。エラスムスとルターの論争は世界史のなかでも自由意思に関する一大事件であった。(島田雄次郎他「近代への序曲」『世界の歴史』(中央公論社、一九六一年)ほか参照。)マキャベリーは政治においては悪魔が存在し多くの虐殺が行われたりするということがありうるという可能性を認めたからこそ、現実政治の称賛者であったと非難されることになった。しかし現実にそのような政治が存在し陰謀などが存在したということと、それをマキャベリーが称賛したのかどうかは別の問題として理解されなければならない。もしマキャベリーが現実の政治を称賛したということのみを取り上げて、政治学の始祖であるとすることがあるならば、それは間違っていたのかもしれないのである。アウグスティヌスの善と悪の議論においても善のみを主張したとか、どちらかのみを強調するのは妥当ではない。マックス・ウェーバーはマキャベリーの述べていることよりももっとひどい事件が歴史上は数多くあったということを『職業としての政治』のなかで述べている。この言葉は、マキャベリーへの慰めにはなっていない。どのようにして悪の行為を治めることに貢献したのかの議論はマキャベリーへの慰めになる。ルソーのいうようにマキャベリーはそのようなことがありうるので、注意しなければならないと警告し、倫理的に反省しなければならないという意味を込めていたのだとマキャベリーを擁護している(5)。それが通説とは反対ではあるが正しいのかもしれないのである。私はそうとらえるのが正しいと考える。アウグスティヌスは人間の自由意思が、人間を善に導く時もあれば、悪に導く時もあるということを深く反省し『自由意思論』を書いた。その時の同じ悩みが現在までも続いているのであり、それは悲惨な戦争やらが続く限りは政治学が解決すべき悩みであり続けると思われる。
このような政治の現実に対して人間は、法や倫理規範がないところでは明らかに不正な第三帝国のような法と国家が出現しうるということを理解すべきである。人間は第三帝国におけるような行為を、当然のことのようにするものであるという認識が必要であるということをヘッフェの理論から読み取ることが必要があろうと思う。法や倫理規範の欠缺はそれが悪を行うことが出来る格好の材料となるような欠缺であれば、人間はその悪を追求し続けるものであろう。現実にも法の抜け穴は倫理的ではない多くの行為に利用されている。特に公正取引のような生活に密接に関連する分野においてはそういう傾向がある。他人を欺くことにより利益を得る便乗者の理論や、次の世代が今の世代に対して便乗することになる世代間ジレンマや、囚人のジレンマ等についてヘッフェは『政治的正義』第一三章自然的正義の現実性欠如の一章をすべて当てて考察している。しかし法や倫理が人間の現実に本当についていくことができるのかは疑問の余地がある。人間の法がついて行くことが出来ない現実の社会が実際は数多く存在しているのであり、現実の社会は法社会学的な解明を待ち法の欠缺が埋められるのを待っているのであり、その分野が国家倫理と法倫理の分野である。人間は悪に向けられた性向を持っていると思われる多くの実例が指摘されている。しかしそれも人間の一面にしか過ぎないのである。悪も多くの場合に国家倫理や、自らの道徳によって是正されているのである。その場合には、法や倫理規範がそれを阻止しているのであると考えられる。実際に法が制定されればそのような悪はなくなる可能性もある。多くの悪が現実には法のすきまをかいくぐって現実に姿を現しているのであり、悪と悪とが調和を保っているのであるという現実観もありうる。そのような悪を禁止する倫理規範や法があれば、防止出来ると思われる場合も多い。倫理的な善に裏付けられた法が存在する時にのみ善が勝ちうるのであるという主張はここから生じている。例えば裁判が証拠なき場合には被告人の利益にといっている間は、悪いことをやったほうが生きていくのにはよいと思っている人も、もし真実をいったかどうかを確実に測る機械が発明されれば、悪はおこなうことが出来ないと考えるかもしれない(6)。善なる倫理規範の研究は現実的な問題意識の中から生れたのであろうと思われる。第三帝国の中でも第二次世界大戦中にも善とは何かを考えていた人がいたかもしれない。しかし現実の第三帝国をとめられなかったのは悔しい現実であったのである。
人間は明らかに不正な国家や法をつくることがありうる。何らかの理由付けを行って第三帝国を現実に作ってしまった。これと同じことが起こりうることが現代でも政治の現実であるのならば、やはり政治にも倫理規定は必要かもしれない。それにもかかわらず、現実の政治は悪であり続けるであろう。明らかに不正な国家が再び出現することは法と国家の倫理的な基礎付けによって将来に向かって「禁止」されなくてはならないはずであるというのがヘッフェの議論の出発点である。法や国家の不正を禁止出来る妥当な倫理的規範が学問的に積み重ねられなくてはならない。そうでなければ人類は第三帝国と全く同じような政治的、経済的状況に追い込まれた時には再び同じような明白に不正な国家をつくってしまう可能性は大いにあり得るとヘッフェは警告しているものと考えられる。現実的にも世界は今現在第二次世界大戦の前夜と同じような経済的不況というものに巻き込まれており、第二次世界大戦後戦争を知らない子供たちが大勢を占めるようになった現代においてこそ、国家と法の倫理的な反省が必要になりつつあるのだと考えられる。もしも人間が第二次世界大戦の前夜と全く同じような窮地に立たされた時にはもし倫理や、法というものがなければその窮地を避けるためには、第三帝国と同じような国家をつくるであろうことは人間の性向と環境の関係との条件反射の原則からすれば当然であるとも予測出来るという学者がいてもおかしくはない。同じ現象には同じ反応を示すであろうからという理由からである。しかし条件反射は人間においては自由な選択というものを介して、人間の本能に伝えられていくのであるから、パブロフの犬の条件反射という本能的なものとは違っていると考えることが出来る。同じ環境に対し自由な選択は別の結果を招来出来る。相手を思いやる理性によっても、道徳的な正義の感覚によっても、制度的な正義の倫理によっても別の結果にいたることが可能である。倫理的な規範による行為の禁止によって、今後バーリンの危惧するがき大将の悪行も、ヘッフェが過去の史実の中で危惧する第三帝国の悪行も禁止しうるとすれば、それのみが第三次の世界大戦を防げるとヘッフェは考えていると思われる。ヘッフェの理論はそのような危惧に備えるためにあると考えられる。ここにイギリス人のバーリンとは違うドイツ人であるヘッフェの第三帝国への立ち向かい方があると思われる。
第二節 支配からの自由というアナ-キズムに対する反論
公的な強制のすべてを廃止しようという考え方は国家の廃止を主張するものである。これがアナーキズムの概念である。政治的正義の観念はアナ−キズムと対立している。支配の正当性を全く否定するアナーキズムは政治的な正義の観念を認めない。政治的正義論はアナーキズムとは支配の正当性という点で永久に対立が存在するのである。このためにヘッフェは政治的正義論を否定するアナーキズムへの反論から論を始める。しかしこの論理はあまり深くなく、膨大でもない。アナーキズムとよばれている政治思想には様々な形態があるが、プルードンによるものが大きな影響を与えた。プルードンは統治なしに(without government)自由な契約によって社会秩序が保たれると主張した。支配が全く存在しない社会という概念に対する反論は支配という相当に論争の余地の残っている概念の定義を行わなくてはならないことになる。その上で更に多くの種類のアナーキズムそのものの分析をしていかねばならなくなる。マックス・ウェーバーの正当的支配の三類型や、領邦国家の成立及び所有権と、命令権の違いのような様々な概念を考察しなければならない。アナーキズムに対する反論は支配からの自由の主張に論駁するものである。しかし、アナーキズムにも政治的正義の概念が存在する場合が多く、アナ−キズムのうち支配を否定する概念は自由を相互放棄することを否定するのであるから、自由の制限を認めない思想である。自由の制限をすべて否定するのがアナーキズムである。政治的正義における自由の概念と支配からの自由とは同じ自由であっても別のものであると考える。従ってアナーキズムのユ−トピアの社会においては自由の相互放棄そのものを行わなくてよいし、行う必要がないような社会というものを想定し、完全な自由を主張しているのであると考えられる。しかしそのような社会においても知らないうちに自己規制しているはずであるから、自由を相互放棄していることに気がついていないのではないのかという反論が考えられうる。政治的なユートピアや、アナーキズムの概念に対する反論については私はヘッフェとは全く違った考え方をもっている。国家の消滅はありえないという説が東西冷戦後の政治思想における国家の把握においては通説となろうとしている。従って支配からの自由とか、国家の消滅という概念についてはこれ以上述べないことにする。またアルケー(長)の存在しない社会が存在するということと、支配からの自由という概念が存在するということとは違っていると私は考えている。(Hoffe,a.a.o.,S.196.)
実際に社会主義の段階のソ連や、中国にも支配は存在しているし、共産主義になっても同様であると考えられる。彼らも政治的な正義の概念を持っているのである。そしてそれに従って社会契約をしようと主張しているのである。従ってこの議論はどちらがより政治的に正しいのかという議論にしか過ぎないのではなかろうか。
政治的なユ−トピア(夢)という伝統的な理想は公的な強制のすべてを廃止しようとしているのではなく、不正な支配の廃止を主張している。それはバーリンが積極的自由と名付けているものを要らぬ強制であるとして排除しようとすることも含まれるであろうが、それは共産主義の強制からの排除でもありうるのであるから、国家を消滅をさせようという主張に対抗するものでもありうる。歴史的にはユ−トピアの概念は多義的であり、国家の消滅を主張するアナーキズムから、漸進的に不正な支配を廃止しようとしている改革主義まで幅広い思想が存在し、あまりにも多義的である。
不正な支配からの自由という理想の歴史的な様々な展開は多種多様である。不正な支配の廃止という概念が存在しており、その場合には正義の観念との間で正か、不正かという論争によって争われ、議論が様々な形で行われることになる。これは政治的正義の議論であり、支配が全く存在しないことを論じている訳ではないと考えられるので、あるユートピアにおける一方的に論じられる「支配の存在しない社会」を政治的性議論において論駁し、ユートピアにおいてではない現在の社会における支配の必要性を論じることは現在ではあまり重要性がなくなってきているといいうる。しかし政治的な自由の概念を深く追求することによって、人権や自由を侵害するような不正な支配を極力減らすような支配の正当な根拠を考察することは必要であると考えられるが、このことはあまりアナーキズム批判とは関係がないと考えられる。
第三節 ヘッフェにおける自由の概念
「本能や種に固有の特性が欠如しているという事態に対して、人間は性格的性向という内的支持と社会制度という外的支持とによって対処しうる。そしてこの外的支持のほうには強い強制的性格が含まれている。したがって政治的正当化の議論においては、すでにプラトンのところで提起した問いが現れる。そもそもなぜ外的安定化が、またその枠内で場合によっては法と国家が存在せねばならないのだろうか。
この正当化に関する問いに対しては、(すでにプラトンに見られるように)教育への欲求をもって答えることができる。人間はいま述べたような態度を生まれつきもつものでも、また純粋に生物学的な成長過程において発展させるのでもない。それゆえ人間は教育を必要としており、またそのためには家庭のような制度を必要としている。さらに、すべての人間がこうした性格的な態度を十分確実に形成するわけではないのだから、内的支持に関して、制度はそれを獲得するための前提であるのみならず、それを補完したり、場合によっては代用したりするのである。」(Hoffe,a.a.o.,SS.368-369.)
ヘッフェの論文の中の政治的な正義と自由に関する以上の文章を意味論的に分析することから議論をすすめる。彼の主張する自由は人間という種に固有の自由であるから、これを人間に内在する自由という意味で内在的自由と名付けることにする。この自由はすべての人にある人間の種に共通の自由である。この意味で人間は皆平等であるといえる。法と国家の正当性についてのヘッフェの論文は、人間についての内在的自由以外にもその他の多くの示唆に富む論考をも含んでいるが内在的自由に言及する部分は、ヘッフェの論文の特色である(7)。
第二次世界大戦後の自由論においてはバーリンの議論は非常に重要である。しかしヘッフェはバーリンの自由に関する書物には関心がないらしく、意図的にかどうかは分からないが、参考文献には挙げていない。だが自由に関するヘッフェの哲学的な考察の部分は政治的自由論の立場からも参考に値する。バーリンの自由論は第二次世界大戦後の自由論に限定されがちであるが、普遍的な内容を持っていると私は考える。このように自由論や正義論は多くの点でまだ対立の多い学問であり、バーリンの書物についてはヘッフェは論じてさえいないことにもこの対立はあらわれていると私は考える。ここにはまだ東西冷戦が存在するのだというのが私の感想である。しかし早晩この対立も解消されねばならない時期に来ていると考えられる。原著の出版年は一九八七年であったから、それ以降数年経って社会情勢は変化し、東西冷戦もヘッフェの住む東西ドイツの統一という形で終了したからである。ひょっとしたらヘッフェのこの書物は東西ドイツの冷戦の終結に力があったのかもしれない。ドイツの学者であるが、ロールズのような英米の議論にも耳を傾けようとしているからである。但しバーリンの自由論はドイツのロマン主義的な政治思想を理想主義的と考え排斥したので、ドイツの学者であるヘッフェには評判が悪かったとも考えられる。しかし東西冷戦後の今となってはバーリンの自由論はバーリンの警告であったと許し両者相和解することが出来るのではないかと考えられる。特にヘッフェはカントの研究者でもあり、イギリス経験論の伝統を受け継いでいるバーリンとは相い容れなかった可能性がある。ヘッフェの政治的正義論の中ではバーリンの自由論の政治哲学的な考察がなされていない点は自由論の大きな流れから見れば残念である。カントの自然法思想は「超実定的な法批判・国家批判はその最終審級において、規範を与える権威として自然を引き合いに出すことができるが、この場合の自然は自然的自然(経験的世界)とは無関係だという洞察である。」とヘッフェは『政治的正義』のヘッフェ、前掲書(和訳書)、一〇五頁で述べ、経験論とは一線を画すことを宣言して議論を進めている。「正義に関する議論は規範的な基盤であるか、さもなければ自然法の伝統の正統の相続人なのである。」とヘッフェは『政治的正義』のヘッフェ、前掲書(和訳書)、一〇七頁で述べ、経験的自然とは根本的に違う規範的な基盤を追求しようと考えているのである。ヘッフェの論文ではバーリンの議論は考察されていないが、ヘッフェが論じているロールズの正義論のなかではロールズはバーリンの自由論について言及し、バーリンに賛成する意向を示しているのである。(John Rawls,A Theory of Justice,Harvard University Press,1971,pp.201-205.ジョン・ロールズ『正義論』矢島均次監和訳(東京: 紀伊國屋書店、一九七九年。)ヘッフェが自由を人間という種に限定された特殊な人間的な自由という観点から述べている点、及び、自由の相互放棄という観点を導入している点では自由論の立場からも、ヘッフェの論文は注目に値する論文である。類人猿から、原始的な人間を経て現在の人間に至るまでずっと、おそらく人間は法と国家を持っていた可能性がある。ギリシャ、ローマの時代にはプラトンの『ソクラテスの弁明』に見られるようにソクラテスの死刑事件を契機として、国家や法の問題は明確に意識されたが、ギリシャ、ローマの古代の文明以前から法や国家は存在していたであろう。法と国家の問題を解くためには広く人間という種について考察しているヘッフェの理論は参考になると考えることが出来る。ギリシャ時代にはじめて国家や法の概念が発達したとは考えられないからギリシャ・ローマ以前に遡ることは重要である。ギリシャ、ローマ以前の原始社会においては国家は素朴な自由と素朴な平等を愛していた集団であったのかもしれない。あるいは今も残っている文化人類学の対象となるような社会であったかもしれない。この時代の文献が必要であるが、史料・史跡によっても分析することは出来る。その際に猿のような動物とは違っていたということは重要であり、本能や、種に特有な特性を欠いているということから生ずる自由というものに着目せねばならないことになる。そのような自由からどのような国家や、法を作っていたのかをたどる必要が出てくる。その後ギリシャ時代の哲学者プラトンはソクラテスの死刑の問題をソクラテスの思い出として書き記している。ソクラテスはポリスの国家と法の問題を考えるための国家と法に関する重要な遺産を死刑になったことにより残した。それが自由の問題でもあったのはミルの『自由論』における考察によっても納得させられるのである。ミルは「人類から最大の待遇をうけるべき人物に対して、犯罪者として死刑に」処したのである、「法の力が最も善い人々と最も高貴な教説を根絶やしにする」ことになったと述べるのである。(和訳書:J・S・ミル『自由論』塩尻公明、木村健康 和訳(東京;岩波書店、一九七一年)五二−五三頁。原書:John Stuart Mill,On Liberty,(London,1859))ソクラテス、プラトンから始まるポリスにおける全体と自由の問題は、その後現代においてプラトンの呪縛の論争になり、全体主義者プラトンであったのかどうかの論争に引き継がれ最近に至るまで多くの難題を残している。「総じて政治権力というものが正当なかっこうで現れてくるぱあいにはかならず、われわれが探し求めるべきその正当な政治権力というものは、だれか一人の人物か、二人の人物か、あるいはきわめて限られた少数者だけが、これを具備していることになる。−−−−自由意志にもとづいて服従している者たち、そういう者たちを支配しているのか、自由意志に反して服従している者たち、そういう者たちを支配しているのかは、ここでは問題ではない。」((プラトン「ポリティコス(政治家)」水野有庸和訳(岩波書店『プラトン全集3』、一九七六年)293a.)とプラトンはエレアからの客人に対話のなかで述べさせ若いソクラテスに同意させているからである。今でも現代の政治学の課題となっている。プラトンのいう知識(政治学)に国家倫理が存在したのであろうかという問題をヘッフェは提起したことにもなる。プラトンの後のギリシャの哲学者アリストテレスにおいては政治学は新しいパラダイムを獲得したとヘッフェは考えている。人間はポリス的な動物であると規定したアリストテレスは支配からの自由という概念とは相いれないとヘッフェはいう。自由についてはアリストテレスは倫理学としての意思の選択の自由については『ニコマコス倫理学』のなかで述べている。政治的な正義として自由を賛美している部分は『政治学』のなかではアテネの自由な政治制度について述べている部分がある。これに対して人間がわがまま放恣に振る舞うという自由については『政治学』のなかでいましめている。アリステテレスが使った自由に関するこの三つの意味は現在でも大きな意味では通用する自由の議論である。いましめられた自由は悪への自由とアウグスティヌスでは置き換えられたと考えられ、推奨された自由はアウグスティヌスの善への自由であり、マキャベリーの公共的な共和主義的自由であったのであり、選択の自由は「自由意思」や「自由そのもの(自由の本質)」であったのである。
プラトンやアリストテレスが使った自由(エレクーテリアーελενθερια)という言葉が、何と現在に至るまで人類の政治的な用語として定着しており、人間がその言葉によって奮い立たされていると同時に、人類や人間を表現するのにその言葉がぴったりするということが重要なことなのである。言葉の分析は二面的な意味がある。言語分析による分析哲学はただ単に言葉を正しく定義し、言葉を吟味しながら使用しているのかどうかをチェックしているということのみに意味があるのではなくて、現実にその言葉が人類や人間というもの、及び、自然を正しく表現しているのかどうか、そしてその言葉や概念や文章や、あるいはもっと学術的にいえば「命題」が現実の人間や自然を正しく表しているのかどうかということにも言及しているのであるということにも意味があるということになる。「正しく」表現しているとは現実の事物や、現実の人類を表現しているのかどうかということである。自由という言葉が様々な二〇〇以上の意味を持ちながらも単一の言葉が使用されているのは、それらがすべてある一つの本質から現れてきているからである。もしそうでなければ長い年月の間には自由の代わりに他の概念が使用されるようになってきたであろう。何故に人間に選択の自由が存在しているのかについて人間は人間として人間に対して自問自答し、社会もそれに答えてきたのである。その結果がこの長年培われてきた自由という言葉の意味であり、自由という言葉の重みはそこにあるのである。その意味は人間の実体を表現していると同時に、人間の実体そのものでもあるのである。
例えば第三帝国の法的な現実を「内部においては分配的正義があるが、外部に対して明らかに不正」であったと表現するときに、その命題が現実を正しく表現していたということを吟味しているのみならず、正しい表現かどうかということの吟味は、「配分的正義」と、「明らかに不正」ということの意味とを同時に考察していることになる。つまり分析哲学は事物の分析も、言葉の分析も同時に行っていることになるのである。自由という言葉についてもプラトンや、アリストテレスが使ったその同じ言葉が現在までも綿々と使用されてきているということは、いかにこの言葉が人類の現実を表現してきたのかということを吟味する必要があるのみならず、言葉そのものの吟味を必要としているのかということを要請しているのである。雲が自由に動いているという表現はケルゼンがいうような事物の擬人化による「雲を人間に見立てる」ことによる表現の擬制であり、雲自体は人間のように自由を持たないのかもしれない。このような分析が可能になったのはマッカラムの自由という言葉の三角関係的側面の言語分析的理解のもたらした学問的結果なのである。人類はこれまで自由に動こうとしたが、しかし社会においては公的な自由と、私的な自由とに分割して私的な自由を抑えたり、公的な自由を優先したりして共和国を作り上げてきた。あるいはバーリンが表現するように積極的自由を批判し消極的自由を称賛しもしてきた。これらは自由というプラトン、アリストテレスが与えてくれた自由という言葉の存在する結果、分析が可能となっているのである。この自由という言葉が存在するのはプラトンや、アリストテレスが偉大であったからではなく、自由という言葉が人間の本質であったがために「自然に」生れてきた言葉であると考えられる。
正義の概念についてもプラトンは
一、平等を守ること(プラトン『ゴルギアス』484a,489b.)、
二、ほんとうのことを語り、あずかったものを返すこと(プラトン『国家』331b-d.)、
三、それぞれの人に借りているものを返すこと(プラトン『国家』331e-336a.)、
四、強いものの利益(プラトン『国家』336b-347e)、
五、不正の人の生は正しい人の生にまさるか(プラトン『国家』347e-354c)、
六、不正をおこないながら罰を受けない人間は幸福か(プラトン『ゴルギアス』470d-479e)、
七、自然の正義(自然本来の正義、自然にかなった正義)(プラトン『ゴルギアス』484b,484c,488b-c,490a)、
八、正義の本性(プラトン『国家』359b)、
九、正義そのもの、不正そのもの(プラトン『国家』517e,612b-c)、
の九つの意味に使っており、これは現在まで討論が続いている正義の意味論に近いということになる。なおアリストテレスは配分的正義という概念をここにつけくわえ、アウグスティヌスは配分的正義以上に大切な倫理的な正義があるということを付け加えようとしたことになる。正義という事物そのものの表現をしているのが「正義」という概念なのか、「正義」という概念があるから実際の人類の行動が正義にかなったものになるのかその両方共に正しいと考えられる。古来からの普遍を「もの」resに帰するか「名称」nomenに帰するかによって実念論realismと唯名論nominalismに分類するときの論争を分析哲学的に解明しようとするものであり、普遍を概念であるとする説を概念論conceptualismとよぶとすれば概念論ではない。現実を動かす「道具」としても概念を考えているのであるから、プラグマティックな思考方法を概念から、行動が生れるという後段の観念は含んでいることになる。「記述的意味論からスタートして、次に、正当化を意図した意味論へと移っていくことになる。後者の意味論において探究されるのは、もはや正義という概念の実際の使用ではなく、この使用の正当性である」ヘッフェ、前掲書、四五頁とか、「意味論的分析はすでに事柄を扱う議論に到達している」ヘッフェ、前掲書、四四頁とかヘッフェが述べるときにはこのような意味論的分析を述べる。「正義についての詳細な意味論的研究はなされていない」ヘッフェ、前掲書、四四頁と述べ、言語分析への転向(いわるるlinguistic turn)の最初の試みとしてHayek,F.A.,Law, Legislation and Liberty,A new statement of the liberal principles of justice and political economy,Vol.II:The Mirage of Social Justice,1976,p.31ff.及びLucas,J.R.,On Justice.Peri dikaion,Oxford,1980,chap.1 を挙げている。
自由の概念の分析は二〇〇以上の意味があるがそのうちの二種類しか自分は取り扱わないとバーリンが述べて論を進めるように正義の概念の言語分析への転向(いわるるlinguistic turn)よりも更に複雑な様相を呈する。ミラー教授も包括的な自由の概念史はないといっている('Histories of the idea of liberty---No comprehensive study exist,--.'(David Miller ed.,Liberty,Oxford University Press,1991,p.210.))。正義の理論の包括的な俯瞰図と共に、自由の概念の包括的な俯瞰図を作成しようとするのが本論文の目的である。自由と正義の俯瞰図を作る場合に方法論として二つの方法が考えられる。
第一の方法は歴史的な発展という図式によって並べていくという方法であり、この方法は歴史主義と呼ばれているものである。この考え方は人間の歴史を自由の発展の歴史ととらえたヘーゲルにはじまり、マルクスにいたったとされている。
第二の方法は歴史上存在したものは現在でも地球規模に横に存在するという考え方である。これは進化論(社会的には発展論)の考え方と、併置論の考え方との差異である。第二の併置論の考え方は生物学的には恐竜の時代に恐竜と共に人間は小さくなって存在していたと考えることは実際に人間の化石が当時出て来ないのであるから、小さくなっていたか絶滅していたと推論する人しかこの理論は応援出来ないということになる。理論的には人間のように自由に考える部分がなくても、あってもそれと優秀さとは関係がなく恐竜も人間も相互に優秀でも劣ってもいない同じ生物であるという理論からこの理論は導き出される。しかしこの理論は天動説同様に論破され尽くした学説であると一般には言われている。この考え方によればプラトンとアリストテレスの対立は現在も存在しているということになり、社会科学では証明出来そうな仮説である。一時期「小さきことは美しいSmall is beatiful.」という文章が流行していた昭和五〇年代にはこのような歴史観は流行したのである。現在でもプラトンに賛成する人と、アリストテレスに賛成する人との併存を認めるような社会科学はこの併存論の立場をとることになる。
この論文では最初からそのどちらかを採用することはせずに歴史に従うことにする。禁欲主義のように現在まで続いてきている自由の意味もあれば、途中で消えてしまった自由の意味もあり、更には全体主義の自由のように倫理的に禁止されてしまった自由もあるからである。
以後の自由論の流れを簡単に要約すると次の通りである。
中世の初期におけるアウグスティヌスは自由意思論において人間が自由な意思を持っていて、善に向かうことも悪に向かうことも出来るということを悩んだのである。自由には悪い側面とよい側面が両方ともに備わっていると考えられて来た。この悩みは中世の末期のトーマス・アクィナスの自由の議論(8)においても同様であった。
またエピクテトスや、マルクス・アウレリウスのストア学派の禁欲主義の自由の流れがローマ時代に始まり現代まで面々と続いている。この点についてはハンナ・アーレントが「政治と自由」の論文の中で解説している。私の考えでは、私の自由は私の手の及ぶ範囲であり、名誉とかを排除するという点で中国の老荘思想とストア学派は相違点があるにもかかわらず同じ人間として共通点があると考える。自由の議論は人間の本質に関わるので、世の東西古今を問わないということであろう。アーレントは禁欲主義の考え方は古典古代から現代まで面々と続いている考え方であると指摘している。('This definition of political liberty as a potential freedom from politics is not urged upon us merely by our most recent experiences; it has played a large role in the history of political theory.'David Miller ed.,Liberty,Oxford University Press,1991,p61.)但し、アーレントのいう政治からの自由には、無政府主義の自由も含んでいた。'The highest purpose of politics, 'the end of government', was the guarantee of security; security, in turn, made freedom possible, and the word freedom designated a quintessence of activities which occurred outside the political realm.'「政治の最も高い目的、『支配の終わり』は安全(セキュリティ)の保証であった;安全(セキュリティ)が、結果として、自由を可能にした、そして自由という単語は政治的な領域の外で起こった活動を典型的に表現した。」このアーレントのアナーキズムの理解の仕方、アナーキズムの本質に関する考え方はヤスパースと意見を同じくしているのであるが、無政府主義を誤解しているといえる。バーリンも「二つの自由」のなかで禁欲主義がアナーキズムや、共産主義や、理想主義的なロマン主義やらにつながる可能性があるとしている。しかし実際のところは禁欲主義は正当な支配の容認にもつながる場合もあるし、また、アナーキズムによる「支配の終わり」にもつながる場合もあるのであって、単一的な原因と結果の関係にはないとかんがえられる。老子は禁欲主義を正当な自然の支配と結びつけている。これは「支配の終わり」という意味のアナーキズムにはつながらずに自然な支配という支配の正当化、支配の一つの方法につながったのである。エピクテトスやマルクス・アウレリウスや、老子、荘子の禁欲主義は支配の一つの方法につながったのであって、「生活の知恵」(art of living)にとどまったわけではない。
安全が自由を結果としてもたらすという概念は、しかし、ホッブスや,それを受け継いだベイの考え方とは一致している。しかし、私の考えでは自由が先で安全が後か、安全が先で自由が後かという先後の問題ではなく、自由は内在的であり人間の本質である。安全は自由の相互放棄の結果自由によって得られるものである。自由がその意味では先であるということになる。自由の相互放棄が出来ない社会における人は安全も得られないということになる。自由の相互放棄が出来た社会においては人々は自由がない代わりに、安全を得るのである。従って、自由の相互放棄がなされた社会において自由は放棄されているのであり、放棄されていない自由については自由が確実になるのである。確実になるとは安心して自由を行使できるということになる。このことは自由と平和との関係でも重要であるとヤスパースは述べる。「まず自由があり、ついで世界における平和がある!『まず平和、ついで自由を』というこれとは正反対の要求は欺くものである。何故かというと、偶然によるかあるいは専制または器用な操作によるか、あるいはすべての関与者の不安によるところの、その時だけ存立する外的平和は、人間そのものの根底において保証された平和ではないからである。このような平和は個人の不自由の事実的不和からただちに再び戦争へと通ずるであろう。」と述べるのである。これはカントの「共和的統治様式」republikanische Regierungsartの概念から導かれており、そのような統治の国家のみが「無条件に持続する平和を達成することが出来る」と述べている。つまりは安全を自由よりも先に考えるボッブスや、ベイの考え方は永久に平和をもたらしえないと考えるのである。(ヤスパース「真理、自由、平和」『真理・自由・平和』斎藤武雄 和訳(思想社、ヤスパース選集二一、一九六六年)一〇頁−一一頁。ドイツ語原書Karl Yaspers, Wahrheit,Freiheit und Friede-zusammen mit H. Arendt,(1958).)思考の時間の先後が実体的な結論に影響を及ぼす稀な例であると考えられる。私の考えではこれは自由意思や、内在的自由の方が自由の本質であるところから発生した現象であると考えられるのである。
バーリンが禁欲主義やドイツ観念論が政治哲学的には理想主義的な全体主義へと連なったいう方向性を指摘したのと似た側面があった。バーリンは退却といういい方をする。ある意味ではプラトンのイデア論の影響があったのかどうかの問題でもある。
アーレントの禁欲主義に関する意見も参考になる。「名與身孰親、身與貨孰多、得與亡孰病、是故甚愛必大費、多蔵必厚亡、知足不辱、知止不殆、可以長久。」これを訓読して「名と身と孰(いず)れか親しき、身と貨と孰(いず)れか多(まさ)れる、得ると亡うと孰(いず)れか病しき。是の故に甚だ愛すれば必ず大いに費ゆ。多く蔵すれば必ず厚く亡う。足ることを知れば辱しめあらず、止まることを知れば殆(あや)うからず。以(もっ)て長久なるべし。」(原典=老子『老子』(江戸:宇恵、一七七〇年)下篇、第四四章。老子『老子』小川環樹、 読み下し、和訳(東京:中央公論社、世界の名著四、一九六八年)下篇、第四四章、一一八頁。)はエピクテトスの自由と相通ずるものを持っている。
「意見や意欲や欲求や忌避、一言でいって、およそ私たちの活動であるものは、私たちの権内にあるけれども、肉体や財産や評判や公職、一言でいって、およそ私たちの活動でないものは、私たちの権内にはない。
そして私たちの権内にあるものは、本性上自由であり、妨げられず、じゃまされないものであるが、私たちの権内にないものは、もろい、隷属的な、妨げられる、他に属するものだ。」(エピクテトス「要録」『世界の名著 十三』(平凡社、昭和四三年)三八五頁。)
ルネッサンスの時代には文化的、市民的な自由そのものが謳歌された時代であり、市民的な自由に関してはマキャベリーが政治に参加する市民の徳を重視した共和主義的な自由論を展開した。
宗教改革の時期におけるルターや、カルバンは自由意思論を全面的に採用したわけではなく、神の意思の下における意思を強調しはしたが、キリスト教の中でも宗教改革の時代に自由を求める動きが起こって宗教改革のうねりとなった。
スピノザや、カントは自由を哲学的に考察し、一方ではヘーゲルは法学的に自由を位置づけようとした。
イギリスではミルとバーリンが自由論を出版した。
現代では実存主義哲学のなかに新しい自由論を見い出すことができる。その代表はサルトルである。またハンナ・アーレントは「政治と自由」について考察した。
人間に自由が存在するのかどうかについては、因果関係論の立場から法律学(9)や、自然科学や、ポッパーの理論などにおいて論じられている。
日本においては自由の概念は特殊な状況にある。何故に日本語には自由に該当する言葉が太古からなかったのかが問題となる。おそらくは「自由に選択する」ということを表現する言葉はあったと考えられるが、農耕民族であったために全体の意識が強く、自由は抑制されるべきものとしてとらえられた言葉であったと考えられる。このことについては『「甘え」の構造』のなかで土居健郎が分析しているし、「自由」『世界大百科事典』(平凡社)は有賀弘以外の執筆者は日本人の自由の概念がいかに排斥されるべきものとして使われていたかを分析している。自由狼藉のような言葉についてであるが、しかし自由の本質である選択の自由について日本人がその存在を「自由」という言葉以外でもよいから認めていたのかどうかについては述べていないことは残念である。日本人は選択の自由をほかの言葉で表現していた可能性があるからである。私はそれが真実であろうと考えている。
しかし日本の文献を見る限りでは以下のような理解が一般的である。従って純粋な選択の自由の概念は口頭伝承のなかにしか残っていないのかもしれない。日本では『徒然草』において「ほしきままは損の本なり」とあり、自由放恣は社会的には損失をもたらすという孔子の儒教思想の自由に関する考え方の影響がみられる。この吉田兼好の言葉は「巧言令色鮮(少)なし仁」の諺からきている。従って中国の思想の影響が見られるということになり日本の独自の自由論ではない。この自由に関する考え方は、滅私奉公の超国家主義の思想につらなった面を持っていた。板垣退助や大隈重信の「自由民権」の思想は明治期の多くの政変によって地下に潜らざるを得なかったのであり、第二次世界大戦後まで西洋的な自由の概念の定着は待たなければならなかったのである。日本人の自由については土居健郎『「甘え」の構造』のなかに甘えと自由の項目(土居健郎『甘えの構造』(東京:弘文堂、一九七一年)九四−一〇八頁。)があり独自の分析を行っている。「日本的自由の観念は個人の集団に対する優位性の根拠とはなり得ないのである。このことは日本的自由がもともと甘えに発することを考えれば、当然のことであろう。なぜなら甘えは他を必要とすることであり、個人をして集団に依存させることはあっても、集団から真の意味で独立させることはあり得ないからである。これとは反対に個人の自由を強調する西洋では甘えに相当する依存的感情が軽視されてきたという事実がある。」(前掲書、九五頁。)という。九一頁における夏目漱石の『明暗』における夫婦の会話については社会的な問題ではなく、夫が妻に甘えているのではないかと逆にとらえるが、社会的な部分の甘えの分析については妥当であると考えられる。
自由はヘッフェにおいては人間に特有な自由という概念によって総合的に考察されている。自由という概念を考察するにあたって人間という種の自由についての考察を行ったヘッフェは自由の観念の歴史についても深く考察していたと考えられる。これまでの自由論とは違ってヘッフェは新しい流れを作ったと考えることが出来る。人間の自由の特質は政治学の中でと同時に社会人類学的にも政治人類学的にも明らかにされねばならないとすれば、自由を人間の種という観点からとらえようとしたヘッフェの議論は新しい流れの出発点となりうるからである。。自由である故に、人間は他の動物とは明らかに違った社会を形成している。社会を政治的な側面からみるとすれば、人間はポリス的であるし、ポリティカルであるということになる。自由であるから何らかの共同を求めて社会を作るのかもしれない。このような流れから社会や政治を見つめなおすのにはヘッフェの考え方は重要である。
動物のなかでも人間という種はどのような存在であろうか。人間における自由と政治との関係はどのようなものであろうか。この質問に答えるのに、人間の種に特有な固定された特性がないということが自由であるというように考えられるのである。つまり自由というものを考えるにあたっては人間の自由な思考の種的な基礎が最初に考えられなければならない。種に固有の特性は効用という観点を持つということであろうか。共同社会を作るということであろうか。他の動物が生得的に光に向かっていく性向を持っている場合には、光はその動物にとっては性向の中でも最も重要な固定的な性格の傾向である。人間にとってはその性向はなんであろうか。存在するのであろうか。ひょっとしたら社会を作らずに一人で生活しているという人でも、家族という社会はあるということになる。人間はポリス的な動物であるというアリストテレスの言葉は、家庭の次にポリスを考えているのであるが利害や、効用を持つ動物であるという定義とはどのように違っていて、どのような意味を持っているのであろうか。もしも確定的にすべての人間が効用や、利益に向かっていく傾向を持っている場合には、人間は効用や利益に向かっていくという性格の傾向を種に特有な特性として持っているということになる。しかし現実には世を捨てた人は多いのである。このようにある種の傾向が固定的にすべての人にとらえられるならば、人間という種はすべてにおいて自由ではなくて効用や、利益という傾向を持っている動物であるということになる。ところがポリス的な動物であるということは、ヘッフェがよく引き合いに出すロビンソンクルーソーであっても、ポリスや国家や法を作るということを意味している。しかし一時的であってもロビンソン・クルーソーは社会を作ろうにも作れない一人の時代があったかもしれない。衣食住を一人でまかなった時代があったのかもしれない。またひょっとしたら贅沢に向かっていく傾向を人間は持っているといえるかもしれない。種に特有な特性がないからこそ、自由に向かっていく傾向を持っているといえるかもしれない。贅沢に向かうという性格の固定的な傾向でさえ、心理学的に説明することは難しいようである。人間の傾向は心理学が明らかにしてくれるかもしれない。しかし心理学が傾向の分析を統計的に行っていこうとしても、人間は経済学や政治学でいうアナウンス効果によって左右されるかもしれない。アナウンス次第で自由に変幻自在であるという理由で明確な統計的な結果が人間の研究においては現れてこないかもしれない。
あるいは他人と平等になろうとする傾向があるのかもしれない。他人よりも生存において有利な能力を持っている人がいるかもしれない。平等を尊重し、他人との平等に向かって自分の精神を陶冶し、飛び出たいという心情を調節し、道徳的倫理的に生きる故に、自分を譲るという性格の傾向を持っているのかもしれない。これらについては社会的な欲求として自由ではあるのかもしれない。が、人間には本性的にほとんどのケースで平等のために他人を考慮するような傾向があるようである。この傾向は何も多くの学者がそのような倫理的な立場を支持しているとか、自由放任論者のアダム・スミスさえも「他の人々のなかに同胞感情を観察する」ことは「人を」喜ばせると『道徳感情論』(アダム・スミス『道徳感情論』水田洋和訳(筑摩書房、一九七三年)、Adam Smith,The Theory of Moral Sentiment,Edinburgh,A.Miller,1759.)に書いたではないかという理由によってではなく、また道徳、倫理の教育を多くの人が受けているからという理由からではなくて、一般的な理性が人間に備わっていると考えられているという理由によるのである。
それにもかかわらず、人間の一般的な性格の傾向を上記のように断言することは非常に困難である。この断言できない部分が自由の部分なのである。従って人間という種に特有の特性がないということこそ人間の性向を考える上での、自然的な基礎となると考えることができる。
ヘッフェが内的支持・外的支持という場合の支持とは方向性や、選好や、傾向やらという意味であると考えられる。原語はInnenhalt/Au enhalt であり、haltは英語のholdとほぼ同じ語源であり、同学社版の『新修ドイツ語辞典』によれば、1.支え、よりどころ、2.根拠、定見などの和訳語を当て、The Oxford-Harrap Standard German-English Dictionary,OUP,1977.によれば、1の意味ではhold, support などが、2の意味では moral stability, moral stay, mainstay in matters of moralityの英語が当てられている。人間が生きていくためには何らかの支えが必要である。つまり自由であることは多くの選択肢があるにもかかわらず、生きていくためにはある選択肢をすでに選択しておかねばならない。無の状態である自由の最初の状態のままでは生きていけないのである。選択しているから生きていけると考えられる。無の状態のままであれば人間はすでに何らかの選択を自然が行って、選択された本能とともに生れてきている動物よりも、環境に対する適応能力が劣ることになる。支えとなるものが存在しないのであるから適応出来ないことになる。そのようなことは考えられない。自由を無の状態であると主張することは自然的にも、人間が白紙の状態で生れてくるという最初の状態についてだけ述べているのであって、成人してから無であるということはありえない。成人してから無であるというのは、無に戻りえて最初の白紙の状態に戻りもう一度支えとなるものを入力しなおすことが出来るということである。第二次世界大戦直後の日本の虚脱状態もこのような無の状態に該当するかもしれないし、虚無主義やアナーキズムもこれに該当するかもしれない。従ってこのような意味での支え、方向性が何らかの選択によってある環境と遭遇した時に適応出来るように成人においてはすでに人間では選択されていると考える方が妥当である。ここに政治的な方向性においても発達という概念が発生する余地がある。学校や、家庭や、地域や、国家教育という教育の場である傾向が獲得されるのかもしれない。ある特殊な環境のもとにおいてはその特殊な環境と出会った段階の早い段階である性向が選択されることになり環境に適応するのである。内在的自由を持って生れてきて、成長しても内在的自由は持っているという点においては皆人間は平等であるが、性向が違うのであるから多くの公的な規範を身につけたものはそうでないものを教育したり、場合によっては強制の契機が存在するというようにヘッフェは考えていると思う。つまりは教育は強制を含まないので自らの主体が自由に学習するのであるが、制度のうちで強制的契機のあるものが外的に支持(性向)を強制することになる。道徳的性向(moral stay,moral stability)という言葉は日本語にはない言葉であるが、外的に道徳的性向が強制されるべきときもあるという考え方をヘッフェは取るのである。しかし外的性向は制度と呼ばれるとしても、制度を固定的に考えることを戒める点でゲーレンのような戦前の学者とは違った道を選ぼうとする。これは制度学派が制度を固定的なものと見て、多くの失敗を重ねたからであると思われる。制度は人間にとっては固定的なものではないが、人間以外の動物にとっては固定的である。自由な制度という概念を採用するのである。「本能との類似性を過大評価して、ゲーレンのように、制度は『本能が動物の行動を一定の方向に導くのとまったく同じように人間の行動を一定の方向に導く統制的な審級である』(Gehlen, A.,Urmensch und Spatkurtur, S.95ff..)などと主張してはならない。」(ヘッフェ、前掲書、三六七頁。)という。一定のとは固定的に本能のように定まったという意味である。私は本能の類似物という概念には自由の観点から反論を加えたい。人間の自由な部分は本能の代わりをする以上に大きな開かれた部分を持っている。従って本能以上の事をなしうる可能性を持っているのであるという点である。本能的に固定されていないのに、人間が本能と同じことしか出来ないならば、それは他の動物以下に人間はなってしまうのである。人間の本能は他の動物と同じ部分はほとんど備えている。その上に人間は自由な部分を持っているのである。これでは人間が最も優秀な動物であるということになってしまうが、そうではなく確かに本能の類似物として人間は動物と同じものを持っていくように努力すると同時に、かつ共同生活をしたり、第三帝国を否定出来るような何かを形成しうるというところに人間の自由の特徴を見いだすのである。制度理論が固定的に考えて、第三帝国を賛美したり、人間でも内的支持が出来上がっていない人間と、他民族や他の人間を考えて動物以下と人間を見てしまわないかと心配しているのである。制度理論の開かれていない社会の見方に対する杞憂であろうが。第三帝国も制度を作ったのであるからである。また「制度理論の提唱者たちは社会的側面を過大評価しがちであるが、人間の行為の固定化は内側からも起こりうる。」(ヘッフェ、前掲書、三六七頁。)とヘッフェはいい制度理論に内的支持理論を付け加える。「本能の類似物」には外的支持と、内的支持との二つあるという。内的支持も固定的なものではない。内的支持は教育によって主に論じられることになる。(ヘッフェ、前掲書、三七六頁。)そして「制度は信頼性や確実性という基盤の上で共同的生活を可能にするのである。」(ヘッフェ、前掲書、三六七頁。)と述べるのである。このような制度の上でこそロールズの第二の原理である格差原理の基礎となり、最初は第一の平等な自由の原理によることが出来るマキシマックスのルール(ヘッフェ、前掲書、四三七頁。)による社会生活が出来るようになるのである。もしそうでなければ、悲観的なマキシミンルールによらなければ人間は生活出来なくなるであろう。 もし完全な自由のみであるならば、人間は不確実であり予測不可能であるからマキシミンルールを採用するであろうが、格差原理が第二の原理として設定されているからこそマキシマックスのルールを採用することが出来るのである。しかし制度にも様々であり、ロールズの第一、第二の原理がそのまま制度として人間の信頼性と人間の行動の確実性を増しているとはいえない。ロールズの二原理は確かにある種の制度ではあるが、他の種類の制度も考えられうる。他の制度においては更に人間の確実性が増していたり(共産主義社会を考えてみよ)、あるいは、人間の行動の確実性は多くなくもっと自由に放置されているような制度もあるかもしれない。そのような中でも各人はマキシマックスルールとマキシミンルールとの間の様々な中間点で決定を下すということになる。しかしロールズのいう二原理は多くの自由民主主義国の制度(修正資本主義の制度)の一つの概要を表現していることだけは確かなのであるが、それが正義の原理のづべてではないことはヘッフェが正義論の最初に述べるところでもある。バーリンの説も一つの正義論なのではありうるのである。囚人のジレンマにおいてはそれがジレンマとなっているのはお互いにアノミーの状態にある二人の行動が予測出来ないからなのであって、この場合には制度は固まっていないのである。従って確実性と予測可能性がないのである。
以下に制度やらの外的性向と、性格とかの内的性向とが固定的ではないことの例を示そう。確かにもし環境が変化するならば、他の選択に変更する自由を人間は持ったままである。これは制度についても、人間の内的な支持である性格の傾向についてもいえることである。これが成人した後での生涯教育の問題である。大金持ちに生れてきた人はそれに適応するように人間の性向が作られている。しかし破産のような環境の変化に当たっては他の性向に変化をするように環境が要求するかもしれない。その場合に自由に環境の変化に応じることが出来るのも人間の自由によるのである。自由が存在しなければそのような環境の変化に対応出来ないことになる。社会的にその実例を一つ挙げれば太宰治のいう『斜陽』の実例を想起してみるのも一つの方法である。その際に制度と、人間の性向との関係を考察する必要があるのである。農地改革という大きな時代のうねりの中での地主であった実家が斜陽に向かうという社会的変動の中での太宰治という人間の性格の傾向の問題を考えなくてはならないことになる。この問題を解くのは容易なことではないのでここでは問題として指摘するにとどめる。
ヘッフェは、人間という種に特有な性質として自由であることを挙げる。しかしこの自由は自然的自由である。人間が自由であることにより教育を必要とするし、場合によっては制度という強制的な枠組みを必要とするとヘッフェは考える。もし社会的な制度がすでに本能として組み込まれているならば、人間は制度を法や国家制度として決定する必要はないということになる。例えばアリの社会を考えてみれば分かる。アリの社会の作り方はどのアリでも同様である。これはアリの社会の作り方が固定的であり、種に特有の社会的な性向が本能として生れると同時に備わっているということである。社会的な制度が性向として備わっていると考えなければ、アリの社会もミツバチの社会も理解することは出来ないのである。社会的な制度の選択については自由であるのが人間であるということを自然的に説明しようとヘッフェはしているということになる。成文法という形であれ、不文法という形であれ制度というものが人間の心の中に存在するように支持を作り上げるために自由な人間に対して社会的に教育が行われることになる。
ヘッフェは国家と法を正当化するための批判哲学においては国家と法を制度として位置づけ、自由という人間の性質から生ずる教育が最も必要であると考えた。自由と教育によって人間の社会的な存在を説明することが出来ると考えた。プラトンにおけるように政治的な正当化に当たっては相当に大きな部分は教育というものによって対処しているのが人間であると答えるのである。人間が自由である故に、このような教育や制度的な枠組みが文化的に必要である。この文化的な枠組みによって人間は支えられている。その支えている枠組みは何らかの方向性を持っている。性格的な方向性や、制度的な方向性である。法や国家は制度そのものである。制度を大きな観点から眺めれば本質的な方向性を見て取ることができると考えられる。例えば依存を許す制度とか、独立的であることを要求する制度とかいうような、制度も性格の傾向もある種の方向性を持っていると考えることが出来る。この論文の依存と独立と甘えとすねる(sulk)という概念は、土居健郎『甘えの構造』(東京:弘文堂、一九七一年)二五頁及びFrank A. Johnson M.D.,Dependency and Japanese Socialization,New York University Press,1993.和訳書、ジョンソン『「甘え」と依存』江口重幸、五木田紳 和訳(東京:弘文堂、一九九七)二〇〇−二〇三頁、二二四−二二五頁では精神分析的、文化人類学的用語であるが、ここでは純粋に政治倫理的、政治社会学的、政治制度論的に使用している概念であり、参照することなく案出された全く別個な概念であるが今後は両者は関連づけられるべきであろう。依存も甘えも他の人との関係であるからである。レオ・シュトラウスは『政治哲学とは何か』で次のようにいう。「人生の目的、したがってまた社会的生活の目的は、自由ではなく徳であると考えたから古典的理論家たちは民主主義を退けたのである。自由は目標としては多義的である。なぜなら、自由は、悪への自由でもあれば善への自由でもあるからである。一般的には徳は、教育(education)を通ずることによってのみ形成されうる。この場合教育を通じてというのは、すなわち、性格形成(the formation of character)、習慣づけ(habituation)を通じて形成されるということである。」(Leo Strauss,What Is Political Philosophy ?And Other Studies,(University Of Chicago Press,1959.)pp.36-37.)つまりシュトラウスは古典的な政治哲学の復権を再考するに当たっては自由と徳との関係の問題が最も重要であると主張しているのである。これはヘッフェの国家倫理や法の倫理の問題と通ずる論点である。
自由な人間が何らかの方向性を獲得するためにはまず第一に自らの性格の傾向を確保する必要がある。しかし性格の傾向は主に社会的なものである。何故なら自然の性格の傾向については人間においては生きていくための様々な本能しか備わっておらず、光の方向に向かうというような性格の傾向は定まっているとは言いがたい。自然な生きるための本能以外の部分についてはほとんど自然的な性格の傾向は存在しない。社会的な性格の傾向は政治制度や、国家制度や、法制度の選択についての好き嫌いの自由な傾向がまず第一に備わっている。しかしすでに制度は自分が好き嫌いをいう前に決定されているのであり、家庭や、国家のような制度は相対的に自分が主観となり、制度が客観となったり、自分が制度の対象になったりする。一般には家庭や国家の制度は自分に対して存在している。しかしすべての人間が性格的な態度を十分に形成するわけではない。性格的な態度には多数の種類があり、それに対する制度の種類も多数ある。性格的な態度の形成と制度の選択の問題とを人間は迫られる。依存的な制度を要求している人と、独立的な制度を要求している人とが対立し論争する場合がありうる。様々な政治的な制度の違い、民主政治、君主政治、貴族政治のような違いが対立的に存在し、そのどれを要求するかは個人の性格の傾向あるいは好き嫌いによるのである。制度の選択も性格的な態度の形成も人間にとって大きな問題である。
刑事政策等の場合には性格的な傾向とは将来の非行の可能性について述べているのである。この場合の非行は刑法にいう非行以外の逸脱の社会学でいう逸脱現象をも含んでいる。刑事政策において性格的な傾向とは社会学的及び法学的に将来の傾向を表現したものである。将来の非行に対しては教育によって対処する方法と、矯正によって対処する方法(10)と、社会制度の変革によって対処する方法とがある。非行を起こしやすい性格の傾向の人であっても、非行の原因が貧困による場合その非行を行った翌日に突然に宝くじで大金持ちになった人は、将来の傾向として非行を起こすであろうという結論にならない場合がある。非行の原因を経済的原因によっているといえるかどうかを調査しなければならない。
非行の調査をしてみると、本当に非行の原因が貧乏のみによって起こったのかは疑問の余地のある場合が多い(11)。従って非行の原因こそ十分に調査せねばならない。非行を起こしやすいと社会から咎められている性格の傾向に対しては社会はまず非行の原因を調査するようにしなければならない。非行の原因が経済的貧困であるならば、貧困を治せば非行はなくなるということになる。経済的な貧困に対しては社会政策によって対処する方法がある。貧困が社会政策によってなくなる場合には経済的貧困のみによると考えた場合を想定すれば、非行の原因である貧困が社会の制度の改善によってなくなったことになるので非行が将来起こるということは考えられないことになる。このように非行の原因が唯一貧困によっていると考え、かつ、社会の制度のみが貧困を作っていると考えた場合のみは性格の傾向を社会的な制度に置き換えることが出来る。この場合には唯物論のような経済決定論の議論が成り立つことになる。唯物論の場合には非行の原因は貧困であるから性格の傾向のみを矯正しようとするのは不可能であるととらえられている。確かに実際の非行の原因はおうおうにして経済的なものが入り込んでいる場合が多い。この問題は平等論に重要な帰結をもたらす。最近の平等論は本人の責任によらない不幸は救済しようと考えている。人間の性格の教育や、矯正のほかに社会政策の側面も考える必要があるという主張になっている。
一般には非行の原因が貧困のみによっていると考えられる場合は少ない。その場合には非行を矯正するのに教育という方法をとる場合がある。教育刑によってもある程度は非行は改善することが出来る。非行の矯正が教育によって改善出来る場合を想定しているのである。教育刑は懲罰的な強制を含まずに、自由な教育によって非行の再発の傾向をなくそうと考えるのである。懲罰主義の場合には強制によって非行の傾向をなくそうとする。
ある人が人間として自立しているためには内部的な性格の傾向が確立されていなくてはならない。これに対して外部的な性格の傾向は制度である。制度には依存できるような制度と、独立を要求するような制度との根本的な違いが存在していると考えられる。ヘッフェが内的な支持と呼ぶものはこのようなものであると考えることが出来る。外的な支持とは制度のように人間の外部で確立されている支えであると考えることが出来る。ヘッフェの自由概念は以上のような構造を持っている。
第四節  ヘッフェにおける自由と、契約的正義
ヘッフェは正義の概念を自由の概念と、契約の概念によって説明出来ると考える。ホッブスや、ロックや、ルソーやらの社会契約説を契約という概念で説明出来るのは当然である。またロールズの説も契約の概念を用いているのであるから契約の概念で説明可能である。ロールズの一見して社会契約の理論と分かる理論だけではなくて、ノージックの最小国家の理論さえも社会契約の理論として説明出来るとヘッフェは主張するのである。ノージックの理論においても国家という概念が入っている。そしてノージックは国家の強制により自由権を法的に効力のあるものとしようとしている、すなわち所有権に絶対的な価値が国家により付与されるべきであると主張しているのであるとヘッフェは解釈する。もし国家という強制力に関する議論がノージックに欠けているならばノージックの理論は個人的な利益のことだけを考えようという理論しか表現していないということになる。ところがヘッフェはノージックの説も国家という概念がはいっているからこそ、社会契約の概念で説明可能であるという。このことを検討すればヘッフェの契約概念と自由の相互放棄の概念が明白になる。ノージックは最小国家の概念によって福祉国家に対抗する新しい考え方を提示した。この理論は自由尊重主義libertarianismと呼ばれており、自由放任主義に近い理論であるので社会契約とは遠い概念であるように思われているが、この理論でさえも契約の概念によって説明しようとするのである。その一端を見ておこう。(Hoffe,a.a.O.,S.453.)
ヘッフェは正義の理論を契約の概念によって説明しようとする際、正義の諸相を三要素に分解することによって契約概念を正義の理論に適用出来ると考えている。
社会契約の三要素としてヘッフェが挙げるものは「取り決められたことは遵守されなければならない(pacta sunt servanda)」という法原則がいうように、[われわれは契約に先立っては自由であるが、契約の後においては拘束されているのである。」(Ibid.,S.447.)という考え方から由来している。契約概念は公的な法的権力とそれにともなう服従義務を正当化するのに適しているとヘッフェはいう。
契約原理には三つの要素がある。契約原理にいう第一の要素である「自由な同意(合意)」は政治的正義の理論における正当化の前提となる正義の普遍的な原理である「配分的利益」あるいは「支配からの自由」に対応し、契約における「権利と義務との委譲」は自然的正義の中間原理である(消極的)交換としての「自由の相互放棄」あるいは「自然的正義」に対応する。第三番目の最後の「法的効力のある妥当性」は正義の現実性である「自由の放棄を現実のものとするための条件」にヘッフェは対応させる。
これをノージックの理論に当てはめている。契約の第一の要素である正当化の原理についてはノージックの理論においては非意図的な見えざる手による正当化という説明をすることが出来る。見えざる手による平等化によって最高の利益も達成出来る。この理由付けで、国家と法を正義により正当化を行うことができるとノージックは主張しているのである。すべての人にとってはこの契約が最も利益になるという正当化があるので契約を行うと考えるのである。社会契約の原理の第一の要素はすべての人にとって自由な同意が利益になるという主張である点、第二の要素はノージックの正義原理である「自由権」のなかに権利と義務の相互委譲が見いだされ、第三の要素は公的な強制権力が自由権を法的に効力があるように実現し、徹底させるべきであるという正義の主張のなかに見いだされるといい、ノージックの理論でさえも契約の概念によって説明出来るとヘッフェは主張する。
ヘッフェの考える自由は、契約の第二の要素である自由の相互放棄という考え方が基礎になっている。この考え方はルソーの社会契約論を発端とした考え方であると考えられる。社会契約は社会を形成するという目的を持っているものであるが、社会を形成するためには自由を相互放棄しなくてはならないという点に力点をおいてヘッフェは解釈するのである。この力点の置きかたは「自由の強制」(12)というルソー自身の言葉とも関連してもう一度考え直すべき時期にきている。契約は守られなくてはならないという原則を、契約によって自ら自らの自由を放棄しているのであるという解釈をすることが本当に可能であろうか。政府に自分の自由を圧迫された場合には、自由は取り戻せるのであろうか。もし自分に都合の悪い契約であったらすぐに解約出来る契約であったと考えれば、自由は自分の方に留保されていたと考えるべきではなかろうか。そう考えると自分の自由を減少させるような契約内容であれば契約しないことも出来るし、一旦契約したとしても自分からいつでも自由に契約を解除出来ると考えるのが妥当である。自由の相互放棄という考え方によれば、自由が本来存在していると考えるから相互放棄という概念が成立するといえる。そして主権はいつでも主権者に留保されていると考えるならば、自由は留保付で相互放棄されたと考えることが妥当であろう。
契約的正義の概念はしかし一つ忘れた論点があり、それが欠点となっている。一旦主権を預けられた国家や法が国民に独裁的に倫理を押しつけて、国民に干渉する自由を発揮する場合、積極的自由については述べていない。契約の概念は契約内容に関すること以外のそのような積極的干渉が発生するとは全く想定していないからである。もし想定し、そのような国家がいやであるならば、契約はしないはずである。国家や法が倫理的に不正な(悪の)行為を行うとは全く想定していないのである。ルソーも国家や法が悪ではないという条件をつけて社会契約論を展開しているのである。もし悪を行うかもしれないと心配するならば人は社会契約書にサインはしないであろう。(13)「悪法は法か」という問題のプラクティカルな帰結である。
第五節 ヘッフェの自由の相互放棄の概念と現代自由論の課題
自由の相互放棄という観念(14)は、自由というもののある種の意味から見れば正しい。従ってヘッフェの自由に関する主張は非常に限定的なものではあるが、有効な議論であり、本質をついていると考えることが出来る。しかしバ−リンが述べたような社会における干渉を排除する自由は含まれていない。ヘッフェの自由の概念は非常に分かりやすい自由の概念から出発していた。ヘッフェのいう人間という種に特有の自由という概念は人間は自由があり多くの選択が出来ることであるという意味にとらえられる。これは自由意思論に近い。ミルは自由意思論を除外するところから彼の『自由論』の議論をはじめたがヘッフェは真正面から自由に挑もうとした。ヘッフェの自由の概念によれば他の人の自由を侵すような悪や、わがままな自由も行使することが出来る、しかしそれではお互いに衝突し、戦争になってしまうのであるからそのような種類の自由は放棄しようという考え方である。この考え方は前段の部分はホッブスの考え方「人間は人間に対して狼である(homo homini lupus)」自然状態の考え方に近い。つまりは「万人の万人に対する闘争(bellum omnium contra omnes)」という戦争状態にある自然状態の考え方である。戦争状態の想定のなかでマルクスのように資源の平等を考えるあまりに、他の人の自由を抑圧してしまうことは他の人の承諾なしに可能であるという考え方が生まれる可能性がある。契約の強制によって自由の一方的な放棄を迫ることは干渉にあたると考えて、そのような干渉は排除してもよいと主張したのがバ−リンであると考えることが出来る。マルクスやらのアナ−キズムに関する批判を法と国家に関する支配からの自由という観点からとらえて批判を行ったヘッフェに対して、バ−リンは自由の相互放棄の行き過ぎと、自由の放棄のし過ぎ(政府による自由の相互放棄の支配のし過ぎ)としてとらえ、支配としての自由の相互放棄の限界について考察したと考えることが出来る。自由を相互放棄した後は国家という主権者の管理の下に自由が置かれるのである。主権者である政府が干渉し過ぎることをいましめたのがバーリンである。社会契約のなかでは経済的自由などを放棄するとは合意していない人に対して自由の放棄を強要することがありうる。社会契約によって禁止に同意していないことをする自由を行使しようとすることは可能であるはずである。ところが多数の故に国民に対して少しでも自由を行使した場合には政府に密告せよと要求し、自由の相互放棄を支配者が要求し過ぎると、社会は自由がなくなって活気を持つことだ出来ないと考えたのがバ−リンであったといえるのである。
第六節 結語ーー今後の自由論と、正義論への期待
ヘッフェの自由や、スピノザの自由が、バーリンのいう積極的な自由と呼べるものでないならば、積極的な自由は必ずしも全体主義につながるものではない可能性がある。人間のどのような部分から積極的自由が発生しているのかを研究するけれども、しかしその研究によって制限すべきではない自由が存在するのであるならば、自由に任せようという研究であれば積極的自由であるとはいえない。自由には本質的に不平等をもたらす(15)性質があり、自由の研究は倫理的に自由の制限から始めなくてはならないということは仕方のないことでもある。ヘッフェの自由が倫理的に深く理想を追求するものであるが故にたとえバーリンのいう積極的自由であると考えられるような点があったとしても、独裁的な自らの意思に従わないものに対しては独裁的な方法で強制を行うという場合にのみバーリンのいう意味での積極的自由となると私は考えるのであるからヘッフェの自由はバーリンのいう積極的自由に陥る可能性があったとしても積極的自由とはいえないのである。人間は誰しも倫理的に自分の行動をどのように制約したらよいのかをまず研究するはずである。法の研究により社会における自由の制約の方法を知り、道徳や倫理の研究により法に決められているよりも厳しい自由の制約の方法を自らに課すべく色々と考えることはあるはずである。それは自己の自由の制約にはなっても他人にその自由の制約のすべてを独裁的に強要しようという人は少ないのである。他の人々に自由の制約を独裁的に強要することは確かに全体主義を生むかもしれない。自らの考える自由の制限を全体社会に対して独裁的に要求するからである。その要求こそは要求された他の人に、干渉を排除する消極的な自由を要求させ、消極的自由を政府に法的にも認めさせようとするるかもしれない。
ヘッフェは一生懸命に独裁的な自由の制限にならないように倫理的に国家や、法を基礎付けようとしているのである。それもバーリンのように消極的な自由によってではなくて、積極的に自由の制限が行われるべき範囲はどのような範囲であるのかを考察することによって倫理的に法や国家を考察しようとしているのである。その考察が全体主義の国家に利用されることは、消極的自由のような歯止めがない故に大いにありうることである。アナーキズムのユートピアを排除しようと努力しながらも、ついには排除しきれずにアナーキズムを賛美するという結果に陥る危険性をはらんではいる。しかし倫理的にその可能性を思いとどまる自由を持っているのである。確かにバーリンのいう消極的自由について考察し、干渉されない自由というものについて考察していないのであるから、自らの力で思いとどまるしか方法は残っていない。
その意味ではバーリンの自由に関する思考方法は安全である。先に干渉されるべきではない自由の範囲を決定するのである。そして自由を制限する積極的自由についてはその後に考えるのである。
逆にヘッフェの場合には干渉されるべき自由の範囲を先に国家倫理として研究をしようとする。国家や法に関して倫理的に自由を制限するべき範囲を考察し、それでも自由を制限すべきであるとは考えつかなかったすべての部分は、制限すべきであると考えつかなかった故に、ただそれゆえにこそ自由を制限すべきではない範囲として残ったということになるのみである。
二人の自由論は先後の関係が違っているのと、自由を制限すべきではない理由付けが先後の関係が違っている故に全く相違しているのである。
もしこれが先後の関係の違いであるのならば、バーリンも、ヘッフェも同じ所に到達する可能性は残っている。ここに両者を調和させる余地があるといいうる。倫理的な自由の制約を法としてではなく、独裁的に他の人に押しつけるのは独裁といいうるかもしれない。法による制約は国民全員の合意によっているという前提がありその形式が整っていれば、法として認めるべきであろう。しかし倫理的な自由の制限が独裁的に押しつけられた場合にはこの限りではない。道徳的及び倫理的に深く考察し、自由の制限を法律以上に行うことは世間から「つつましい」とか、「質素である」として評価され、宗教家となったり、非常に権威が増して出世する可能性もある。しかしそれを独裁的に他人に押しつけることは独裁主義となる。自由な教育によって他人に伝播させるのはありがたいことであると感謝されるかもしれない。倫理の立場からの国家や、法の基礎付けにはそのような危険性をはらんでいる側面を持っている。しかし第三帝国の明白な不正国家といえるような国家は、ある種の法や国家倫理・法倫理による自由の制限そのものが欠けており、独裁的である故に普通の倫理観の人々に積極的な干渉を行ったのである。自然法のようなある種の法倫理による自由の制限は人倫とかよばれているようなものである。ユダヤ人の大虐殺のような人倫にもとる行為は、ユダヤ人排斥という結果となったゲルマン至上主義の国家主義によって行われたのであろうか、もしそうであるならば国家の倫理は大反省すべきである。大虐殺は悪であるのは国家の倫理である。倫理的に禁止すべき行為が国家によって行われたのであろうか。宗教が倫理的に非常に強い倫理性を持っているとすれば、宗教戦争における大虐殺は倫理的に許されない行為であるのに、倫理的に行われたのであろうか。倫理にはこのような側面を常に有しているのであり、これが積極的自由とバーリンが批判した理由であると考えることが出来る。
現代の史学によって確定され、通説となっている史実はマキャベリーの時代よりも多く存在する。歴史のなかで大虐殺の実例は多く存在するのである。
国家は共同体である。人格のある国民の共同体である。国家は人格の集合であり、人間関係によって構成されている集団である。国家には歴史があり、伝統がある。ヘッフェは第二次世界大戦後に生れたドイツ人である。ドイツ人にはヒットラーの国家、第三帝国の苦い体験がある。これは逃れることができない史実である。戦後に生れた、戦争を知らないヘッフェのようなドイツ人にとっては、自分が生れる前のドイツ人のひき起こした事件ではあっても、父親、母親の時代の苦い経験であるので他人のことではない。歴史的に倫理的な法に反した国家が成立したという苦い経験をドイツ人としてヘッフェも心の中に持っているといえる。法と国家の問題を考える上でこの苦い経験はヘッフェの思想の根幹となっている。しかしバーリンのように経験主義者にはなれない。第三帝国の史実を理想主義者の積極的な自由が起こした間違いであったとして簡単にバーリンの理論に従い、それで済ませることは出来なかった。そこに法と国家を倫理的に正当化する必要が生じたのである。実践的な理論としてでも、ユートピアの理論としてでもなく、実定法のみを優先する法実証主義、国家実証主義としてでもなく、あくまでも倫理的な視点からこの問題に解決を与えようとする。これはドイツの第三帝国を外側から見たバーリンの自由論とは違い、ある意味では理想主義的な方法で倫理的に法と国家とを批判し尽くそうとしたヘッフェの根本的な方法論である。
社会制度のもとでは許される行為の範囲と、模範とされる行為の範囲が確定され、制裁を伴って実現徹底される。強制力を伴う行動規制こそ国家と、法の根幹であるとヘッフェは法制度と、国家制度を位置づけるのである。強制権限をもって法制度、国家制度の根幹であると考えた上で、国家と法の倫理的な基礎付けを行うのである。この強制権限という問題は実のところ自由の相互放棄という概念からだけでは導くことは出来ない。
ヘッフェの理論、バーリンの理論、フロムの理論、クリスチャン・ベイの『自由の構造』についての理論、ハイエクの自由の理論、ポッパーの開かれた社会の理論等々はすべて同じ「第三帝国」や、「共産主義国家」の反省から生じたものであるにも関わらず、対立したままである(16)。調和点を探す必要がある。バーリンが経済的自由について語る時には共産主義の自由について述べており、バーリンが地位の確認の欲求について語る時には植民地の独立について語っている。植民地の人が自由と独立を求めたのは当時の政治的な情勢そのものであったのである。それぞれの理論はその時々の政治情勢に深く影響されている。
しかしヘッフェの理論は政治的正義と自由の理論の中では、最も最近の議論であり、戦後生まれであるが故に、戦争を直接的に経験している訳ではないからか倫理的にそれらを位置づけようとしているのである。法哲学や政治哲学的な方法を確立しようとしている。戦時中には歴史的な背景である戦争に影響されていたであろう。ヘッフェはこれまでの政治学とは全く違い、倫理として国家と法を高めようとしている。ケルゼンやハートの法実証主義を批判し乗り越えようとする点では戦後生まれの多くの人が、法実証主義に走ったのとは違った真摯な態度であると評価出来る。特に我々の年代としては倫理思想的に、国家倫理的に新しい流れを作ろうとしていると評価が出来る。
全体的には『公正としての正義』の理論を唱えたロールズの正義の議論に最終的には左右されているように見受けられるが、ロールズの議論を超えて、倫理学的に国家論的及び法学的な基礎付けを行おうとしている。結局はヘッフェの議論は全体として古典古代から、現代の理論にいたるまでの幅広い正義の理論の総合を試みていることになる。碧海純一氏他の著書である『法哲学概論』のなかにも現代の正義論の要約があるが、ヘッフェの議論は概説的なものではない。特にヘッフェに特徴的な考察の視点としては法実証主義と、アナーキズムの両方を批判することにより倫理的な側面を国家及び法に見いだし、そのあとで正義の概念の政治学における倫理学的な復興を目指している。ヘッフェの正義についての倫理学的な検討にあたっては平等という価値のみならず自由という価値をもどのように取り扱っているのかについても考察していく必要がある。
自由と平等と博愛という近代政治上の三つの価値のうちの平等という価値について考察すれば、ひょっとしたら大盗賊団のなかでは戦利品は非常に平等に分配されているかもしれない。第三帝国においてもその内部では所得の平等は確保されていた可能性があるのである。ここには平等という価値が実現されていたとしても、正義原理が外の世界では認められていない場合がある例が示されているといえる。今後とも人類は政治倫理としての正義の原理はいったい何なのかを追求すべきなのである。(17)
自由を相互に放棄するのは国民どうしである。ところが国家や法を作るのは政府である。政府は国民が放棄していない自由を放棄すべきであるという法律を制定するかもしれない。少数者にとっては常にそのように納得し、契約していない自由の放棄を迫られるかもしれない。政府が何らかの政治的な制度の欠陥によって国民の多数者が契約してくれと委任していないような法を作成する可能性もある。自由の放棄を契約していないということで抵抗権の存在を認めたとしても、少数者には多数としての抵抗は不可能であるのだから、実際的には抵抗する方法は多数決によればないのである。自由の放棄を迫ってくる政府との間には、実は明示の契約書は交わしていないのではないかという社会契約は仮定のものであるという議論が存在する。自由の放棄は政府が要求してくるものであって、自由の放棄は自分達が相互に行ったことはない。自分が契約しようと積極的に働きかけていったこともないという議論である。自主的な契約ではなくて、政府が積極的に働きかけてきているだけである。従って政府の積極的な自由が国民を過度に拘束することはありうるといえるという議論である。
「ド・トクヴィルは、『民主主義と社会主義とは、平等というただひとつの言葉を共有するだけである。しかし相違に注意せよ。民主主義は平等を自由のなかに求めるのに対して、社会主義は平等を拘束と隷属のなかに求める』と書いた。そしてアクトン卿はド・トクヴィルに与(くみ)して『フランス革命を自由にとってかくも災害たらしめた最も深い原因は、その平等論であった』こと、そして『世界にこれまでに与えられた最も素晴らしい機会が、平等に対する情熱が自由に対する希望を空しくしたために、投げ捨てられた』ことを確信した。」(F・A・ハイエク『市場・知識・自由』田中正晴、田中秀夫和訳(京都:ミネルヴァ書房、一九八六年)三九〜四〇頁。)(F.A. Hayek,"Individualism :True and False",Individualism and Economic Order,Routledge & Kegan Paul LTD,1964.)平等と、自由との調和こそ今後の自由論にとって求められている課題であると思われる。
ここに自由を抑圧し過ぎる平等の概念を発見するのである。自由は確かに「見えざる手」による平等を生むのではなくて、不平等を生む側面があるという観点である。この観点についてはヘッフェの自由の概念の中には見いだすことは出来ない。自由の概念と、平等の概念について相対立する部分があるという事実を見いだし、自由を抑圧する平等という概念を見いだしたのはハイエクである。
アクトンは西欧のキリスト教世界の自由について深く考察した学者である。ハイエクはF・A・ハイエク『隷従への道』一谷藤太郎訳(東京: 東京創元社、一九七九年)、F.A. Hayek,The Road to Serfdom , Routledge , London,1944の書においていかにして全体主義の中に人間が組み込まれて行ったかについて考察している。全体主義は必ずしも平等という価値によって生れたものではなく、大恐慌や、失業した群衆や、経済不安などが原因とも考えられる。しかしフランス革命における自由主義の敗退は、平等に対する情熱がもたらしたものであるとハイエク等は考えたのである。この考え方は戦後の自由主義をリードした。
自由に関するイデオロギー論争はハイエクや、フリードマンが現在のところ優勢である。これは未だに自由は干渉を排除することが本質であるという過度の干渉の存在する国家が存在していたためであろう。それ以後には東西冷戦の終結という事態が発生したのである。しかし平等と自由とを調和させる試みはまだ成功したとはいえない。「平等が現代の政治的な議論の主要なトピックとして自由に取って代わったかも知れない。」(Equality may have replaced liberty as the central topic of contemporary political discourse.)(Louis P.Pojman & Robert Westmoreland  eds.,Equality ,Oxford University Press,1997.p.1)
のではあるが、自由論の側は自由を更に大切にし、依然対立したままである。
もし架空の経済体制のもとでの自由の考察が許されるならば、チューネンが考えた孤立国においてさえも、当然に経済的協同と共に支配の制度が存在することになる。経済的に有利な形で形成されていると考えられた孤立国においても、衝突の要素は存在するので利害の調整の場は必要であることになろう。中世における自由と国家の関係とは全く違った自由を考えたにもかかわらずヘッフェは普遍的な自由概念である人間という種に固有の自由を持ち出しているのである。従って、アウグスティヌスからトーマス・アクィナスにいたる中世の自由意思論にも合致したような倫理的な考察が可能であったと考えられ、普遍的な自由についても考察したのがヘッフェであると私は考える。
自由は人間という種に特有な本性であると誰もが考えるし、ヘッフェが『政治的正義』の論において詳しく述べているように自由が人間の本性であるとすれば、何故にアクトン卿が主張し、その後ド・トクヴィルや、ハイエクが賛同したように平等が自由を抑圧することがありうるのであろうか。従って自由論の最初と最後にはこの問題をどのように解いたかの答えが含まれていなくてはならない。自由と、平等と、博愛の規範性についての答えである。この問題は非常に難しい。規範の中でも自由と平等と博愛という概念は最も重要なものであると考えられるが、公平やらと違って、自由は人間の本質と関係しているし、平等や博愛は稀少な資源を公平に分配するという分配的正義以上の人間の本質に関わるものであるから非常に難しい問題を含んでいるのである。従って哲学的とならざるを得ない。平等という政治的な価値がどこで間違って人間の自由を殺すことになったのかという点についても答えなくてはならない。人間にとっては平等になることは自由になることであるということを理解するようになるように人間を人格的に成長させよという主張をするグリーンのように、人間の「人格の成長」the MoralProgress of Man(T. H. Green,'On the Different Senses of "Freedom" as Applied to Will and to the Moral Progress of Man', in Lectures on the Principles of Political Obligation, ed.P. Harris and J. Morrow (Cambridge:Cambridge University Press, 1986))あるいはグリーン自身の言葉でいえば道徳的な善を向上させることto promote moral goodness(T. H. Green, 'Liberal Legislation and Freedom of Contract', abridged from Works of T.H. Green, in (Longmans, Green & Co., 1888), 370-7, 382-6.が再録されたT. H. Green, 'Liberal Legislation and Freedom of Contract',David Miller ed.,Liberty,Oxford University Press,1991.)を人間に期待する希望論にしかこの難題を乗り越える方法は残っていないのであろうか。私はそのような希望には耳を貸さずに、自分の利益を追い求めるのだという人に期待的な希望を強制することは教育以外には方法はないのであろうか。自由と平等という規範が法の最も大きな価値の柱であり、政治的な価値の根本であることは『社会契約論』においてルソ−も、『法の精神』においてモンテスキュ−も認めるところである。しかし彼らは自由も法の根本規範であることを認めている。なのに、その両者が対立することを知らなかったとは思われないのである。人権宣言においても自由と平等という対立する政治的に最も重要な価値を並列で並べているのである。自由と平等の問題を考えるときには、平等を達成するための法や、法律が本質的には自由を奨励するものではなく、自由を抑圧しているものであるという立場から出発し、法哲学の正義論や、規範論や、自然法論を総合しながらこの疑問に答えていかなくてはならないことになる。
以上のとおりヘッフェの『政治的正義』論は正義に関する議論の意味と正義論の果たす可能性を追求する論文であるが、政治的正義の存在について疑っている二つの流れは法実証主義・国家実証主義及びアナーキズムであると考えて、この二つの流れを批判的に吟味している。このことはヘッフェが支配というものを否定する主義も、実定法という現実の法のみを支配として何の疑いも持たずに肯定する主義もとらないということを示しているのである。二つの理論を吟味した上で自由の相互放棄に基づく自由な共同社会を政治的な正義の倫理の上に形成出来るように、国家と法理論の基礎を確立しようと努力し、政治倫理学を成立させようとする。このための様々な考察をした後で最後の章において小さな章であるが、倫理的、政治的討議や、科学的な政策協議が必要と主張し、政治的正義への実践的戦略を示そうとするのである。倫理を単なる個人の倫理の段階から政治的な強制が可能な法倫理、国家倫理の段階にまで拡げていって、倫理を拡張して論ずるという手法をヘッフェは取っている。ヘッフェの議論は政治哲学的には成功していると考えられるが、ただ完結しているとはいいがたい。政治的な正義について論じようとしているのであるから強制についてはあらかじめ支配の正当性という見地から議論の余地なく認めている。これに対してアナーキズムは支配からの自由、強制からの自由を主張しているとヘッフェは考えている。強制と自由の問題は正義と同様に議論の多い課題であり、ヘッフェの議論は完全とはいえない。ヘッフェの言語分析的な手法は、意味論的な分析によって単語のみを取り扱っているのではなくて、正義の事象を取り扱っているのであるからという理由で正義という概念の使用の正当性についての意味論、倫理学的な意味論や、メタ倫理学をも取り扱おうとヘッフェは考えている。ヘッフェの議論は意味論的であるが故にロールズのように正義の事象の全体に当てはまる一般理論を述べているともいいがたい。今後の政治的正義の議論の課題であろう。(18)

(1)Gustav Ratbruch,Rechtsphilosiphie,(Gottingen,1973),S.345.(田中耕太郎和訳「法哲学」、「ラートブルフ著作集1」、東京大学出版会)
Gustav Ratbruch,Vorshule der Rechtsphilosiphie,(Verlag Scheler,Heidelburg,1948.),和訳書、ラートブルフ『法哲学入門』阿南成一和訳(弘文堂、一九五五年)第三六節、法律を超える法の節を参照。
また、ラートブルフ『法哲学の根本問題』横川敏雄和訳(東京:創元社、一九五二年)p.196では「不正なことが明白な法の効力に対しては、如何なる弁明も案出されないのである。」と表現している。
なお、法律を超える法の考え方には、ハートやケルゼンの法実証主義者は反対しているが、オックスフォード大学の法理学(jurisprudence)の教授であるドゥウォーキン教授は賛成している。Ronald Dworkin ,Taking Rights Seriosly,Harvard University Press,1977を参照。             (2)レオ・シュトラウスは『政治哲学とは何か。』のなかで古典古代の時代の政治学の復権を主張している。彼は「我々の見解と古典的理論の見解との本質的な相違は、道徳的原理に関しての相違にあるのではなく、正義についての理解の差異にあるのでもない。すなわち、我々もまた、そして我々と共存している共産主義者でさえ、等しい人々には等しいものを与え、功績の等しくない人々には等しくないものを与えるのが正しいと考えている。」(Leo Strauss,What Is Political Philosophy ?And Other Studies,(University Of Chicago Press,1959.)p.37.)というように政治哲学上の正義の問題が重要であるとしている。古典古代の正義の理論の復権の主張でもある。政治学の発達しそこないという概念は、しかし古典古代の政治学の復権ということではない。倫理的な思考が、マキャベリー以降の現実政治のみを指向する研究態度では欠けていたのではないのかという視点である。倫理的思考を現代政治のなかでどのように活かすのか、古典古代の教訓をどのように活かすのかという視点である。倫理の欠如が第三帝国や、ソ連の内部における大粛清などをひき起こしたのであり、現代の現実政治の倫理的なものの欠如といえるのである。その後の現代政治学における行動科学の議論も同様に第三帝国の反省からひき起こされた議論であったが、また別の角度からの反省であった。自由論の分野ではクリスチャン・ベイの『自由の構造』の議論がこの行動主義の立場からの議論である。ベイの議論は非常に内在的自由の解放という議論に近い。ベイは潜在的自由と、心理学的自由という彼独自の新しい概念をつくり出すことになる。この自由論は権威主義などの人格の分析において使用され、そのような自由の欠如した人格と分析している。Bay,christian,The Structure of Freedom,Calif.: Stanford Univ.Press,1958を参照。このような分析を総合する反省が行われなくてはならない。
(3)がき大将は、英語のbullyの和訳語である。
原書:Berlin,Isaiah ,"Two Concepts of Liberty",Four Essays On Liberty,Oxford Univ. Press,1958.reprinted 1982. p.150.
和訳書:アイザイア・バーリン『自由論』小川晃一ほか和訳(東京: みすず書房、一九七九年)p.353.
(4)非行については社会学的にも研究が進められているが、ここでは政治哲学的に非行は悪い行為という意味である。国家社会学的には更に深く研究される必要がある。
(5)ルソー『社会契約論』井上幸治和訳(中央公論社「世界の名著」三十、一九六六)p.290.J.-J.Rousseau,Le contrat social ou principes du droit politique,Paris,Garnier freres,liberaires-editeurs,1772,Livre I,Chap.VI.p.289.ルソーはマキャベリーを弁護して「王公に教えをたれるとみせかけて、マキャベリーは、人民に偉大な教訓を与えた。」と書いている。人民は被治者であるから、マキャベリーは人民に政治の悪にどのように対応すべきかを教えたのであるとルソーはとらえたのである。しかしレオ・シュトラウスは'But even if we were forced to grant that Machiavelli was essentially a patriot or a scientist, we would not be forced to deny that he was a teacher of evil.'
「けれどもたとえ我々がマキアベリ (Machiavelli) が本質的に愛国者あるいは科学者であったことを認めることを強いられたとしても、我々は彼が悪の教師であったことを否定せざるをえないというよう結論にはならないであろう。」とのべ、結局は悪の教師となったことを認めているのである。愛国的であり、科学的に現実を描写したからこそ悪の教師となってしまったという逆説を、古典古代の徳と正義の政治学の復権という視点に結びつけるのがシュトラウスである。Leo Strauss,Thoughts on Machiavelli, The University of Chicago Press, Chicago and London, four lectures 1953, on the problem of Machiavelli ,Chapter II in th American Political Science Review (1957)The University of Chicago Press, Chicago Copyright by Leo Strauss Published 1958,Paperback Edition 1978.Midway reprint 1984 Printed in the United States of America.
(6)囚人のジレンマにおいては、共謀して犯罪を犯した二人の犯罪者の証言が正しいのかどうかの問題が提示されている(ヘッフェ、前掲書(和訳書)、四三六頁。)。裁判所における証言は偽証されないという前提で問題は解かれているのであるが、実際は偽証の問題を含めて考えると更に囚人のジレンマは複雑である。
(7)人間という種に限定された内在的自由を自由の考察の最初に持ってくることは非常に有効な自由の分析手段ではあるが、途中においてもそして最後までこの立場を貫くことが大切であろう。というのは自由であるという言葉の中には、自由は楽しいという感情などがはいってしまっている場合がある。選択の自由や内在的自由と関係があるということが見いだせないような自由の議論が最後の方になると見受けられて自由論が終わってしまう場合が多いからである。これは自由意思論と社会的政治的自由論とを峻別することが原因となっていると考えられる。ハイエクは確かに障害を排除することが自由の本質であると述べるが、しかし障害を排除することにより選択の自由や自由意思が確保されることに自由の本質があると考えられるからである。自由意思に近い考え方が内在的自由の議論である。David Miller 教授は古典古代から現代までの自由論の俯瞰図(パースペクティブ)はまだ出来ていないといっている('Histories of the idea of liberty---No comprehensive study exist,--.'(David Miller ed.,Liberty,Oxford University Press,1991,p.210.))が、これが完成するためには内在的自由や、自由意思というものの大切さに一々戻りながらこれまでの自由論を言語分析的にも、内容的にも、自由という事象の分析としても、おこなっていく必要があると考えられる。また例えば労働者の自由は私有財産が撤廃される時に取り戻せる、自由の価値を発揮できるという時にも、その自由は何の意味であるのかということが問題となる。労働者の自由も選択の自由や、自由意思の選択範囲の増加などと関連付けることが必要である。実際は自由な意思の発揮出来る分野は狭くなっているのに、自由になったというのは自由をこの内在的自由とは別の意味で使っていることになる。自由論の俯瞰図が完成していないのと同じような理由で、正義に関する俯瞰図も完成していないのでそれを完成しようと試みたのがヘッフェの本論文であるといえる。自由が確保されてこそ、人々は自由に道徳や、国家倫理に自分から近付こうとする。正義の原理の発見と、自由の原理の発見とは互いに関係を持っているといえる。ヘッフェが『政治的正義』序論で「この試みは、方法論的には正義のパースペクティブについて意味論的に考察することから出発し、内容的には(行為の)自由の原理にもとづいたものになるであろう。しかし正義に関する議論の見直しは、ロールズと功利主義との間で争いが生じるときにはじめてスタートするわけではない。」と述べるように、自由の原理と正義の原理とを深く関係付け古典古代における議論から論を進めているのである。イデオロギーや価値との関係でも他の問題でも、自由意思と、社会的自由との関係に戻って考察すべきである。但し自由意思論はイデオロギーを超越しているので、この考察はイデオロギーを超越することになるかもしれない。
内在的自由と、自由の相互放棄とを結びつける糸は、相互の思いやりである。従って思いやりを持たない場合には契約は成立しなくなると考えられる。思いやりも自由意思によって発生する。自由意思が確保されていてはじめて契約も可能となるのである。このことはグリーンのいう「人格の成長」にしても同様であり、自由な意思があってはじめて人格は成長しうるのである。この内在的自由と、自由の相互放棄の二つを結びつけるためには相当大きな間隙を埋める必要がある。自然的自由という概念は多分に社会的なものであるが、人間の種に限定された自由という概念は、哲学的な自由意思という概念に近く、自然科学的であるからである。この論文では自由意志ではなく、自由意思と書くこととした。ほとんどの場合この二つの漢字は同じ意味に解されているからである。自由意思は道徳的な自由意思と倫理的な自由意思とに発展し、更に社会的な自由や政治的な自由に発展することになる。私の考えでは相手への生きる本能の尊重と、資源などの配分に関する平等への配慮と尊重がなければ自由の相互放棄の承諾は不可能であると考えられる。この場合の思いやりは自由意思による道徳的なものである。教育やらを必要とするものである。そこにはグリーンの「人格の成長」の理論の復権がある。平等な配慮と尊重を法哲学の根本規範とするドゥウォーキンの議論は参考になるが、それが政治的正義のすべてではないことはヘッフェの議論の指摘するところである。自由の相互放棄が利益になるとかの合理的な理由のほかに相手を思いやる必要がある考えるのである。思いやりは道徳の分野であるが、国家倫理まで社会契約によって高められることはありうる理論である。自由の一方的な放棄により危険性がありうるのは、囚人のジレンマに現れた通りである。しかし相手を欺かないという自由の一方的な相互放棄が社会契約において成立し、契約が締結される必要がある。そのためには相手への思いやりが必要ということになる。相互ジレンマに陥っている囚人のジレンマの解決方法としてはこれしかないであろうと思われる。ただし囚人のジレンマにおいては相手と連絡が取れないところで思いやりの理性的な選択が行われる。このことはロールズの「無知のベール」の無知の概念とも関係している。この思いやりは理性によるものであって相互に依存的な関係における甘えや依存によるのではなく、相互の人格の人間性の理解によるものでなければならない。ここに自由と平等という二つの概念を結びつける接点があるようである。このことに関してはヘッフェは自由を放棄しようか自由を放棄するまいかとなやむジレンマとして第三部、第十三章において詳述する。「自分だけ一方的に正直である」ようにしたらのぞましくない結果になったり、「徹底的なエゴイズム」も不合理な結果に行き着くというようなジレンマを解決しなければならないのである。「便乗者の理論から得られた洞察は、合理性理論としての性格をもつと同時に、法倫理学および国家倫理学としての性格ももっている」とヘッフェはヘッフェ、前掲書(和訳書)、四四一頁で述べている。このことは自由の相互放棄の契約は、何らかの理性、それも国家倫理に高められたような理性によっていなければ不可能であるということを示している。ここでは政治学に欠けていた点を考え直すという政治学の反省の観点と同じ意義が内包されている。同じような意味での、各個人の道徳的な発展を目指す理想主義であるとバーリンが批判したグリーンの道徳的立場を、国家倫理、法倫理にまで高めもう一度見直そうとするヘッフェの意図が見えるのである。ヘッフェは道徳を正義や国家倫理にまで高めようとする。しかしやはり最初に危惧した通りにバーリンのいう積極的自由にいたってしまいそうな危うい論理で最後を締めくくることになる。従って国家倫理の問題はまだ端緒についたばかりであるということになる。つまり四四二頁では「自己利害の観点を貫き通すことによって生ずる有害な帰結に対抗するのは、まずもって道徳ではなくて、このような強制力である。」として干渉し過ぎる積極的自由に至るかもしれない強制力の積極的受容に落ち着くのである。そして同じヘッフェ、前掲書(和訳書)、四四二頁では「強制力を設けることは(正義という意味に解釈された)道徳の要求でもあるのである。」という結論に至るのである。本当はここから正義という意味に解釈された道徳の限界がバーリンによって語られなくてはならないのであろう。そこにはバーリンとヘッフェの間での本当の意味での和解の成立する「境界線」の研究が必要となっているのである。今後の政治哲学の課題であろう。政治哲学における『自由論の系譜』の議論は政治的な自由における政府の活動の境界線を明らかにするであろう。ペルティンスキーらの編集になる同名の書物はスピノザの自由が積極的自由かどうかについて吟味をすすめていくことになるのである。
(8)トーマス・アクィナス『神学大全』Thomas von Aquin, Summa theorogiae山田晶和訳(中央公論社「世界の名著」続5、一九七五)pp.483-484. は自由意思について「自由意思とは、それによって善悪のいずれかが選ばれる理性と意志との能力である。」と述べた後に、「悪は神の善性に反する」と述べる。 
(9 )法学と自由及び自由意思との関係については、上原行雄、長尾龍一編、井上達夫ほか著『自由と規範----法哲学の現代的展開----』(東京:東京大学出版会、一九八五年)を参照。ハンス・ケルゼン「法学的方法と社会学的方法の差異について」森田寛二 和訳『法学論』(東京:木鐸社、一九七七年)四七-五一頁。Hans Kelsen,Uber Grenzen zwischen juristischer und soziologischer Methode, J. C. B. Mohr,1911では「存在を説明する心理学の唱える意思は、存在の説明ではなくて当為の確定に仕える規範的学問たる倫理学や法学の唱える意思と本質を異にする」、「自由な意思と帰報とは実際のところ同一物である。」と述べる。(ケルゼン、前掲書、四八頁。)ミラー教授も権利、必要性(必要性、正義、平等)のほかに経済的帰報やらの帰報(Deserts)を正義概念の三つの大きな要素として取り扱っている。(David Miller,Social Justice,Clarendon Press,1976.pp.83-121.)フランス革命時の自由、平等、博愛も正義概念の要素であろう。
(10)制度論の立場は制度に矯正的な性格があると見る。一般の非行についてではあるが、非行と非行の矯正については放送大学の教科書である清永賢二, 岩永雅也編著『逸脱の社会学』(東京:放送大学教育振興会、一九九八)に詳しく、法倫理や国家倫理とは別のところで詳細に研究が進められていることが分かる。これは教育学においてもいえることであろう。しかしこれらは本当の根っこのところでは関連があると考えられる。制度論の立場はGehlen, A., Urmensch und Spatkurtur, Frankfurt a.M.1964を参照。
(11)経済的自由に関してはマルクスの唯物論と、唯物論に反対するバーリンの「二つの自由」(和訳書:アイザイア・バーリン「二つの自由」『自由論』小川晃一ほか訳(東京: みすず書房、一九七九年)。 原書:Berlin,Isaiah ,"Two Concepts of Liberty",Four Essays On Liberty,Oxford Univ. Press,1958.reprinted 1982.。)における見解を参照。マルクスの『共産党宣言』を参照。また、バーリンによるマルクスの伝記『カール・マルクス』も参考になる。(I.バーリン『カール・マルクス : その生涯と環境 』倉塚平, 小箕俊介訳(東京 : 中央公論社, 1974)。 Berlin, Isaiah, Sir,"Karl Marx : his life and environment" )公平を期すためにレーニン『カール・マルクス』長谷部文雄訳(東京 : 青木書店, 1964)は唯物論の立場からの伝記であり、両方を較べられ参照されたい。
(12)ルソー『社会契約論』井上幸治和訳(中央公論社「世界の名著」三十、一九六六)p.245.J.-J.Rousseau,Le contrat social ou principes du droit politique,Paris,Garnier freres,liberaires-editeurs,1772,Livre I,Chap.VI.
(13)ルソー『社会契約論』井上幸治和訳(中央公論社「世界の名著」三十、一九六六)pp.244-45.においてルソーは次のように述べている。主権は「個々人の利益に反する利益をもたないし、またもちえない。したがって、政治体が構成員を害しようとすることはありえないために、主権は臣民に対してどんな保証も必要としない。」と述べて、国家から過度の強制や、意に違う強制があるような場合があることを想定していない。ルソーの社会契約説の特徴である。J.-J.Rousseau,Le contrat social ou principes du droit politique,Paris,Garnier freres,liberaires-editeurs,1772,Livre I,Chap.VI.
(14)人間に固有の自由はそう簡単には相互放棄が可能であるとはいえない。相手の生存本能や、相手の資源との平等性に配慮し、理解する心や、平等な配慮の心など理性が必要であろう。
自由の相互放棄は理性によって行われる。規則を作るということは自由の相互制限であり、失うものと得るものの相殺の計算であるとヘッフェも、ルソーも考えているが、そんなに簡単には契約は行われえない。選挙のように沢山の種類の契約書(公約)が生れる。しかし最後は平等に配慮するとかの理性によって契約がなされるであろうが、政治的、憲法的に相違する立場の人は契約内容について政府とはそのような契約を行うことも、行ったこともないという主張をするであろう。
ルソーは「各人はすべての人に自己を譲り渡す」とルソー『社会契約論』井上幸治和訳(中央公論社「世界の名著」三十、一九六六)p.242.において記している。J.-J.Rousseau,Le contrat social ou principes du droit politique,Paris,Garnier freres,liberaires-editeurs,1772,Livre I,Chap.VI.
(15)現代の平等の概念については、ごく最近の論文をまとめた一九九七年の書物にLouis P.Pojman & Robert Westmoreland  eds.,Equality ,Oxford University Press,1997がある。これは様々な現代平等論を抜粋した平等論の論文集である。日本人には手に入りにくいような雑誌に掲載された論文も多く含まれており参考になる。現代の平等論の論点としては、まず機会の平等と、幸運・不運の問題や、幸運不運と自己責任の問題がある。また嫉妬との関係の両極の議論、一つ目の極は嫉妬を解消するために平等を促進すべきであるという議論と、二つ目の極の議論、民主的な制度により嫉妬の感情が人間の心に非常に発達することに目をつぶってはならない( 'One must not blind himself to the fact that democratic institutions develope to a very high degree the sentiment of envy in the human heart.')という議論との対立の問題がある。また平等の概念の本質の問題がある。平等はどのような意味で道徳的に必要な概念(a morally necessary notion)であるのかどうかについての問題である。Felix Oppenheimは平等という語の用い方の問題を指摘する。また私有財産制度が人間の不平等の起源であるとするルソーに対して、アリストテレスやデューイのように私有財産は人間の徳を涵養するものであるという擁護論も対立している。(「ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』ということを思いつ−−いた最初の人間が、政治社会の真の創立者であった。−−『−−土地はだれのものでもない−−』と−−叫んだ人が−−犯罪と戦争と殺人と、またいかに多くの悲惨と恐怖とを、人類から取り除いてやれたことだろう。」ルソー『人間不平等起源論』小林善彦和訳(東京:中央公論社、世界の名著三〇、一九六六年)一五二頁。)(アリストテレス『政治学』戸塚七郎和訳(アリストテレス全集一五巻、東京:岩波書店、一九六八年)pp.38-49.「悪は、共有でなく私有のためにおこるのでは絶対になくて、悪い性格(悪癖)から発生するのである。」(アリストテレス、前掲書、四九頁))(ジョン・デューイ『人間性と行為』東宮隆 和訳(東京:春秋社、一九六〇年)九四頁、John Dewey,Human Nature and Conduct:An Introduction to Social Psychology(1922;Random House,1930))においては「『我思う、故に我有り』よりは、『我所有す、故に我有り』とでも言ったほうが、ずっと真実な心理が表現される。」「道徳的責任の、根底となるものである。」「近代の工場の労働者も、だんだん『自分の』機械をきめるようになり、これが変わるとどうも落ちつかない。」和訳書、九四頁。)我思うは自由による理性を表現しており、我ありは我という存在をあらわしており、生の本能によって認識されるのであると考えれば、我思う故に我ありではなく、両者は原因と結果ではないと思われる。アウグスティヌスは我が存在することは否定出来ないのであると述べ、自殺の否定の論理に使用している。実存主義以前の人間の本質の問題である。また自由の本質的な社会的性質では自由は不平等を発生するのか、自由と平等が両立し相互に補いあう概念であるのか(compatible and mutually supportive concepts)の問題がある。 デューイはこの問題に対してEqualityのなかには載っていない論文で次のように述べる。「経済的自由放任の自由主義の社会的結果が、平等ではなく不平等であることが明らかになった時点で、それを主唱したものたちは、ふた通りの弁明を用意した。一方で、彼らは人間には生来のちがいがある、つまり心理的、道徳的構成は各人において異なるとし、富と経済的地位の不平等はこれらの差異が自由に作用した結果で、「自然な」正当化されうるものであるとした。」「別の弁明は、個人の中心にありそこから発するさまざまの美徳、つまりイニシァティヴ、自律性、選択、責任感などを、不断に礼賛することである。わたしは、われわれがもっと多くの「強靱な個人」を必要としていると考えているものの一人である。少なければいい、というのでは断じてない。しかし、強靱な個人主義の名において、不平等を正当化するような考え方には批判的である。-----このような議論は、イニシアティブ、活力、自律性をごく限定された意味でしかとらえていない。いいかえれば、経済活動の面ではこのようなことが何を意味するかは考えるが、人間関係、科学、芸術など文化的要素との関連において、それらが何を意味するかはほとんど無視されている。とくにこの最後の点においてひじょうに明白なのは、自由主義の危機と個人の真の解放という見地から、それを再考する必要があるということだ。」(ジョン・デューイ『自由主義と社会的行動』明石紀雄和訳(東京:研究社、一九七五年)二七五−二七六頁。John Dewey, Liberalism and Social Action ,1935;Putnam,1963.)という理由によってデューイは穏健な改革主義の社会主義者を大恐慌期に応援した。さてこれに対してノージックも、アダムスミスも、現代経済学も、公正取引の議論も、独占や寡占が存在しない自由な競争が確保されるならば、「見えざる手」は人間を資源的にも、機会的にも、自由でありかつ平等にするであろうという経済理論でもって対抗する。現代経済学ではこの理論の方が優勢である。自由と平等の調和の概念こそ政治学的にも経済学的にも哲学的にも政治的正義論においても今後追求されなければならない自由論と、平等論に共通する難題であると考える。
(16)現代の自由論については、David Miller教授によって編集された"Liberty"が最も体系的で参考になる。David Miller ed.,Liberty,Oxford University Press,1991.
この本は「二つの自由」に関するバーリンの論文や、グリーンの論文、ハイエクの理論、マキャベリーの共和主義的自由に関する自由論、アーレントの自由論などを中心とした自由論のよせあつめの論文集となっている。最初にMiller教授による全員の論文に関する要約がある。
この論文集でのCharles M. Taylorは単なる機会概念として自由を理解することができないという点でバーリンの理論の発展が見られる。(I can no longer understand freedom just as an opportunity-concept.)(Charles M. Taylor, 'What's Wrong with Negative Liberty', in The Idea of Freedom, ed.A. Ryan (Oxford: Oxford University Press, 1979),pp. 175-93.Reprinted in David Miller ed.,Liberty,Oxford University Press,1991,p.162, by permission of the author.)干渉されない消極的自由、つまりバーリンのいう自由に行動できる機会という意味での自由だけでは自由は理解できなくなってきていることである。純粋な機会概念 a pure opportunity-conceptとはQuentin Skinnerによる要約によれば"I am already free if I have the opportunity to act, whether or not I happen to make use of that opportunity."という考え方である。(Quentin Skinner, 'The Paradoxes of Political Liberty',The Tanner Lectures on Human Values at Harvard University.Reprinted in David Miller ed.,Liberty,Oxford University Press,1991,p.189, with permission of the University of Utah Press from the Tanner Lectures on Human Values, VII, ed.S. M. McMurrin(Salt Lake City, University of Utah Press; Cambridge, England: Cambridge University Press, 1986), 227-50.における要約。) 自由の範囲を決定したからといっても、その中での自由は自由意思によって善にも悪にも向かうことも可能である。善に向かう自由という概念は規範的であり、国家倫理、法倫理的な概念である。自由の範囲が決定されるのみでよいというバーリンの消極的自由の主張は崩され新たな倫理を必要とするという主張がうまれつつある。バーリンのいう積極的自由の概念にはいたらないような倫理的自由を求めていることになる。ヘッフェの倫理の概念が自由論の中に登場する余地が循環論的にめぐってくることになる。最後には倫理的自由と消極的自由との調和の問題が大きな問題となるのである。倫理的自由の問題はある場合には国家倫理の問題となったり、ある場合には平等や配分的正義の問題となると考えられる。自由論と平等論の接点における多くの難問は規範や倫理の問題となるから自由の理論も平等の理論も政治的正義の議論と連携をとらなければ解決できないと考えられる。但し、ミラー教授の要約によればスキナーは自由を公的と、私的の二つの自由に分けることになる。('Skinner uses the vocabulary of 'public' and 'personal' liberty to describe Machiavelli's standpoint.'( David Miller ed.,Liberty,Oxford University Press,1991,p.6.))スキナーは共和主義的自由とミラー教授が呼ぶ自由について分析している。
この論文集に載っていないフロムの『自由からの逃走』の議論や、ベイの『自由の構造』の議論も自由に関する参考になる議論である。自由にはなっても自由から逃走しようとすることが発生しうるからである。そこでフロムは「積極的な自由は全的統一的なパーソナリティーの自発的な行為」(positive freedom consists in the spontaneous activity of the total, integrated personarity)(斜字体はフロムの指定による)によって達成されると主張する(Erich Fromm,Escape From Freedom, New York,1941.p.258.)。ベイは心理学的自由、社会的自由、潜在的自由等の新しい概念を導入し、カリフォルニア・バークレーグループの行った権威主義、差別主義やらの行動科学的な研究を自由の見地から分析しなおした。
また自由論の政治哲学的な系譜については、バーリンの理論を含んだ論理展開となっているが、ペルティンスキー等の編集になる『自由論の系譜』の書物がある。Zbigniew Pelczynski and John Gray eds., Conceptions of Liberty in Political Philosophy,London: Athlone Press,1984.
またDavid Miller教授にはスタンダードな正義論の教科書David Miller,Social Justice,Clarendon Press,1976.の著作がある。
Gerald C. MacCallum,Jr.は自由に関する議論を言語分析して、ルーズベルトのレトリックRooseveltian rhetoric の飢えや欠乏や恐怖や病気からの自由でもその他どのような自由の概念でも(''freedom from hunger' ('want', 'fear', 'disease', and so forth')(Gerald C. MacCallum,Jr., 'Negative and Positive Freedom', reprinted from The Philosophical Review 76 (1967), 312-34,by permission of the publisher, in David Miller ed.,Liberty,Oxford University Press,1991,p.105.))人間の主体と、妨害物と、自由な活動の三つの関係であるという。'Such freedom is thus always of something (an agent or agents),from something, to do, not do, become, or not become something; it is a triadic relation.'(Ibid.,p.102.)自由の言語に関しての特に重要な分析であるが、私は内在的自由に関わる自由の本質である自由意思がもっとも本質的であると考え、自由の主体(人間)と、自由の主体の自由な活動(to do)が自由の本質であるという考えである。言語の意味分析は古典古代から、現代までを同じ視点で研究出来る。自由と正義についての政治哲学的議論においても分析哲学analytic philosophy的進め方が可能である。
(17)アウグスティヌス『神の国』De civitate Dei contra paganos libri viginti duo泉治典・原正幸和訳(東京:教文館、一九八九年)「アウグスティヌス著作集11」p.247.Sancti Avrelii Avgvstini,"De civitate dei",Avrelii Avgvstini Opera Pars XIV,1(14-1),XIV,2(14-2),Corpvs Christianorvm Serie Latina XLVII,XLVIII,Libri I-X,Libri XI-XXII,(Tvrnholti Typographi Brepols Editores Pontificii,1970)IV,cap.IV,p.101.
この文章のすぐ後で大盗賊団のなかで「分捕品は一定の原則にしたがって分けられるのである。」と述べ、大盗賊団の内部においても内部の配分的正義にはかなっているが外部に対しては正義がないことがある例があることを、なんとこの時代から指摘しているのである。ナチスの事例についてはアウグスティヌスの文章は見ないうちに別に考察されたものである。
(18)正義論の概観や、ロールズやドゥウォーキンらの現代の正義論については、碧海純一他『新版 法哲学概論 全訂第二版』(弘文堂、一九八九年)に簡潔な要約がある。
現代の自由の概念についての最初のとっかかりは、百科事典によるべきである。Edited by Iain McLean ,Oxford Concise Dictionary of Politics,Oxford University Press,1996は簡単に自由論の現在の問題点を四点ほど指摘している。有賀弘「自由」『世界大百科事典』(平凡社)、田中治男「自由」『講談社大百科事典 グランド・ユニバース』(講談社、一九七七年)』、このの二つは日本の政治学者による自由の語の解説である。

政治をどのように学ぶか。経済をどのように学ぶのか。

国家の責任と個人の責任
政治は個人的な利益について学ぶのではない。公共への関心によって学ばれる。個人がどうしようもないリバイアサンについて学ぶのである。例えば大恐慌にさらされた人々は、自分の責任でこんなに貧しくなったのか、国家の政策が悪かったのでこのようになったのかわからなかった。政府は個人の責任であろうというが、自分では非常に努力したと思っている。しかし学校での成績は悪かったのだから自分の責任でこんなに貧しくなったのかなとも思う。しかし企業社会や、企業家精神では学校での成績は関係ないのではないかとも思うのである。
レバイアサンという言葉は怪獣という意味である。国家が怪獣となっているかどうかは戦争のときにははっきりとわかる。これは国家そのものが活動して戦争という活動を行っているからである。
が、経済の循環が政治の問題となっているときには分かりにくい。自分の消費を抑えて貯蓄をしすぎていることが大不況を更に拡大する原因になっているということに気づくような機会はほとんどない。
自分は努力しているというだけであり、自分は最大の利益を得ようとしているだけである。最大利潤の追求が本当に経済の発展をもたらしている場合と、そうではない場合とがあるという問題である。しかし最大利潤を追求したとしても市場の失敗によるのか、自らの力不足によるのかその両者のうちの一つによって自らがどのように努力したとしても利潤をあげることができないという問題である。
また年金の問題も自分が貯めたものを年金として受け取っているのか、現在働いている人々の給料からもらっているのかについては定かではない。そのような問題が政治問題となっているときには自分の個人の利益に従って政治的判断をすることはできない。
この場合には全体の人のことを考えなくてはならない。しかし全体の利益を考えないで投票をする人ばかりである場合には経済に対する影響のある問題は各個人の利益によってのみ投票されるのであるから、ポピュリズムへとつながる可能性があるような政治になってしまう。一般的な哲学への回帰現象は起こらないことになる。

日本においてはこれまで利害関係によって政治が行われてきた節がある。政治とは利害の問題であった。独占禁止法上はほとんど実効性を有していなかったので、政治は仕事を配る役目を果たしてきた。
利益配分機能こそが政治であるといわれてきた。確かに年金の問題も、経済循環の問題も利益の問題ではあるが、個人の利益を配分してもらえるという酒類の政治課題ではない。が個人ではどうしようもない問題である。
その場合には個人の利益ではなくて全体の利益を考慮しなくてはならない。全体の利益を考慮するような経済理論が必要になる。個人の利益が全体の利益になっているという自由競争至上主義によればほとんど全体の利益を考えるような経済理論を考える必要はない。
ところが自由競争至上主義は経済恐慌や、市場の失敗の時期には自由競争至上主義から脱却しなければならないという主義によれば、国民には消費をすることが美徳であるというパラドックスを政治は解く必要があることになる。このパラドックス理論は政治学的な経済学であったといえる。
しかしその経済理論を否定するならば、自由競争至上主義は出来上がる。自由競争至上主義は経済恐慌を治せないことになる。

すると独占禁止法が否定されることになる。つまり自由競争至上主義は公共の利益のために役に立たない場合が、経済学的にはあることになる。
しかし不動産鑑定業界においては自由競争至上主義が公共の利益を増大させることはほとんど的確に当てはまる。

自由競争至上主義によればほとんど全体の利益の配分は個人の努力によって支配されていると考えられる。
しかし個人の努力によらない親から受け継いだ資産があるものと、そうではないものとがある。それは不平等である。この状態での自由競争は同じ結果を生み出さないのであるから自由競争至上主義は平等をもたらすというのは幻想であるという主張が当然に起こる。

開発途上国においては税金の利益配分機能こそが政治であると民衆がみなしてきたようである。現在においても開発途上国では政治の主たる役目は税金の利益配分機能である。利害関係によって政治が行われてきたのである。
自由競争至上主義が台頭した時点では自由競争が支配している業界では利益配分機能は市場に任されている。
日本のような世界第二の経済大国になった国では税金の利益配分機能は確かに政治家の恣意的な配分のみでは経済をうまく動かすことはできない。しかし自由競争至上主義のみにもまかせることはできない。これが混合経済である。

自由競争至上主義は個人の努力によって市場の配分が平等に行われるという大前提をもとに成立している。
資源の最適配分である。

税金の利益配分機能を政治が最適に担うことができるのかについては統制経済が資源の最適配分を行えなかったという事実によって学問的な決着はついている。統制経済による資源の配分は市場形成による資源の最適配分には勝っていないという理論である。各個別の市場における場の情報をすべて統制経済の中央制御コンピューターによって集めて、市場における解である数量と価格を正確に出し尽くすのは困難に直面していることがわかったためである。

ではどのような市場が政治の利益配分機能にまかされるべきであり、どのような市場が自由競争至上主義にまかされるべきであるかという問題が提出されることになる。
これが公と私との差の問題である。
一般的な答えは負の所得税のように市場の失敗による敗者に対する事後的な救済の市場は政治の利益配分機能によるべきであるというものである。
市場の失敗よりも事前の利益配分は市場によった方が先の場の理論によっても配分が適正になるという考え方である。
一方ではそうではなくて市場の失敗以前の市場においても公共の利益のために政治の利益配分機能が優先すべきであるという主張も存在するが、その不平等や不公正な性質に対する批判によってほぼ影をひそめている。
経済大国になったのだから経済成長はもう必要ないから、不平等や不公正な社会を治すのが先だという主張も存在する。

大不況の時期においては市場の失敗が常態化しているのか、市場競争は機能しているのか。機能していないといえば現実を見ていないことになる。市場競争は機能して中国とかの新興の国において生産された製品に旧来の産業構造および為替の状態における国の製品が市場の原理によって負けているのである。これを見ると自分の国の給与や原価を下げるしか対抗の余地はないことになるが、それらが国の制度的な要因であると考えるならば市場の問題ではなく、市場の失敗に匹敵するような国家機能の問題であるということになる。政治による利益配分機能こそが政治であるといわれてきた時代に逆戻りせざるを得ないのである。
しかし豊かになった産業革命後の日本では開発途上国におけるような税金の利益配分機能だけではこの状態を治すことはできない。まず中国においては現在の税金が多く国庫に入るのに対して、日本では過去の国庫しか存在していない。いわゆる貯蓄である。税金の利益配分機能の思考方法では利益配分そのものができないのである。従って過去の貯蓄や、国庫や、資産をどのように配分するかという機能が政治に課せられることになる。これが郵政を民営化して不良債権を処理すればそこに資金が貯蓄されていたのだから、それを有効に使おうという議論になったのである。
ところが資産デフレはバランスシートを痛め続けているので郵政を民営化して不良債権を処理すれば更にデフレ乗数の問題が日本を苦しめ続けることになるであろう、これが一つの郵政を民営化することへの反対派の理論付けであった。
資産デフレの時期においては郵便配達業郵政を民営化することによる市場競争による資源の最適配分によるメリットも、郵便貯金と簡易保険についての金融機能による資源の最適配分によるメリットも資産デフレによるデフレ乗数という問題には対抗できる大きさではない。
資産デフレはバランスシートを直撃しているので、その穴埋めのためには銀行は金利の支払いを減らさなくてはならないし、企業は合併などをして資産デフレを被った企業を存続させるための対策をたてなくてはならないのである。

これらは個人の努力の問題ではない。個人ではどうしようもないのであって、政治が解決すべき問題である。個人が労働者として、あるいは、個人企業家としてどのように努力したとしても個人の努力では治すことができない社会の問題である。

このために個人が創造的破壊論や、政治の破壊に興味を示すことは充分に理解できる。

経済と貨幣供給

貨幣はその信用と一体となって発行が可能である。不動産や、株や、実際の企業のような実物を担保にしてしか貨幣は発行できない。その意味では資産の側面とは別に貨幣供給を行うことができると考えることは、経済成長が資産の成長をもたらすので経済成長の伸び率とほぼ同じだけ資産が増えたのであるから、その分の資産を担保にして貨幣を経済成長率程度に発行するであろうという予測ならば正しい。しかし社会全体におけるポートフォリオ選択の割合が変化がないとした場合にはというペテリス・パリブスの条件が付加されなくてはならないことになる。

現在の日本のような大不況の時期には貨幣の経済価値は資産の価値が減退しているのであるから、貨幣残高の問題と貨幣の経済価値、あるいは、資産の経済価値の問題が発生する。貨幣の残高を増やすことによって、これまでの貨幣残高数量説によれば取引が活発化するということになるが、実は資産の価値が増えることによって取引が活発化するということも考えることができる。
資産の評価価値が減るということは損失を発生させ、国のバランスシート不況をもたらし、かつ国の収支も悪影響を受けることになる。
資産の評価価値は貨幣によって評価されるのであるから、資産の価値が減少する理由は中国との相対的な評価価値の違いからくるというよりも、日常の生産物が安くなるのであるから、相対的に資産の経済価値が減少しているのだということもできるし、これまで同じ生産物を生産してきたのであるが、現在は中国で安く生産できるのであるから、比較しても資産は安く評価されるべきであるということもできるであろう。
資産の価値が減っているから貨幣の供給を減らそうという考え方と、逆に資産の価値を減らさないために貨幣の供給を行っていき、将来の外国為替で調整しようという考え方も存在するであろう。この場合には国家主義的な高揚を要求してこれまでの生産物が資産と化したのであるから資産の価値を評価するにあたっては安い評価をして、安売りをしないという考え方であるということになる。
これまでの一般均衡の経済的ミクロ理論はすべて所得と消費の循環の問題としてとらえてきたのであって、資産の問題を一般均衡の中に入れて経済全体をとらえてきていなかった。このために資産デフレはバランスシートを直撃したにもかかわらず一般的な政治経済論を展開できなかったのである。
かっての大恐慌も、今回の大不況も共に資産の問題であったのである。資産の問題を一般的にとらえるためには、一般均衡のなかに過去の貯蓄や過去の国庫やらを入れたり、将来の貯蓄や国庫の問題やらをも入れるのであって、時系列のすべての段階においての経済を考慮するのである。すなわち国の創設期の国土の土地という原初的な資本の問題から、そこに作られたすべての資本の問題、そして負債や資産の問題、更には収入と支出、更には貯蓄や負債の問題が重要となるのである。そこに信用と貨幣の供給と、その供給限度の問題が更にはいってくるので更に難しい問題となるのである。一般には貨幣の問題は収入と支出の問題と考えられているが自己の家計を見てみればわかる通りに、貨幣の貸し借りの問題は貸借対照表というフローとストックの双方が交差するところに派生する問題であり、損益計算書の問題ではないという点が大恐慌や大不況を解く鍵であると考えられる。

ポピュリズム
これが小泉政権の見方であるポピュリズムへとつながる可能性があるような政治になったのではないかという批判である。
政治学的には統治の国家機構という観点からはそのようにいえるが、経済学的には自由競争至上主義は全体主義からはほど遠い。
 ポピュリズムにも二通りある。ヒットラーの誕生やアメリカの戦争宣伝の場合のように当時の大恐慌に対するようなポピュリストと、現在の小泉政権の見方であるポピュリストとは違ったポピュリズムを違った過程で展開している。政治が大統領制のようなものであるか、そうではないかという違いの問題も含んでいるからである。ヒットラーは総統として大統領制に似た政治状況を作り上げて独裁的な体制によってポピュリズムを遂行した。
現在の日本は議院内閣制の制度によって統治機構が形成されているのである。

議院内閣制の制度においては大統領制に比較すれば国民に権威に基づく一定の宣伝をばらまくことをもってポピュリズムへとつながる可能性があるような政治は難しいと思われる。画一的な固定した宣伝が難しいと考えられているからである。
ところが解散権を行使すれば、内閣の総理大臣の権限を莫大に拡大することができる。

アメリカの2つの政党は公共的な問題はすべての人に関係する問題であるが、しかし意見が分かれる問題であるので一つの問題についてどちらの政党を選ぶかという問題を提示しているのである。従って日本との戦争においては両方の政党が一致したので宣伝がポピュリズムによって進行したのである。

ポピュリズムは民主主義のうちのどのような段階であるのか。衆愚政治であるのか。そのような政体論(政治体制論)としてとらえる場合と、もう一つの方法として政治がリバイアサンとなった場合に人々が心理的に国民はなぜに大不況がきているのか、戦争すべきなのかどうか、破壊活動を続けるべきかどうかがわからないでいる時にどのような心理になっているのかを分析する方法とがある。心理的には自らが政治に参加できないのに大不況によって生活を圧迫されている時期に自らの心理がどのようになるのかという問題である。原因と因果関係が経済学を知らない一般大衆がとらえることができるのかどうかの問題であるので、経済学を一般の民衆に教えなくてはならないのであるから非常に難しいものとなる。

 

 

 

 

政治と教育

山 口 節 生 著

山口 節生

政治と教育

序論                                         ・・・・・一

目 次

はしがき

序 文

第一編 自由の強制

第一章 自由の本質

第一節 妨害と障害がないことか、選択の自由があることのどちらが本質か 第二節資源の平等は自由に影響を与えるか第三節 社会心理学的自由は政治学の一部分になりうるか

第二章 自由の学説展望

第一節 第三章 フロムの積極的自由と、バーリンの積極的自由 第一節 自我の発達に向かう積極的自由と、自我の発達を阻害する権威主義の積極的自由

第四章 消極的自由と、積極的自由

第五章 自由と平等の調和

第六章 自由の構成要素

第七章 自由の内心と人間関係における自由

第八章 自由のための資源

第九章 自由のための能力

第十章 自由を行使する主体

第十一章 自由論の今後

参考文献

第二編 政治と教育 家庭における性格の傾向の形成とイデオロギーの形成過程

第一章          政治・公民と教育                      ・・・・一三

第二章          乳児の社会と人間                      ・・・・二七

第三章          幼児の社会と人間                      ・・・・四七

第四章          幼児の人間関係・所有の観念                 ・・・一〇三

第五章          基礎自我の形成                       ・・・一二九

第六章         「精神医学は人間関係である」という説との関連で        ・・・一五一

第七章          兄弟姉妹の人間関係論を学術的にするために          ・・・一六七

第八章          性格をみる立場の独立性について               ・・・一八二

第九章          社会教育・公民教育と社会意識・公民意識の発達心理      ・・・二二九

注                                         ・・・三七二

参考文献                                       ・・・二七七

参考文献抜粋                                     ・・・三〇六

第三編 政治と選択の自由 個人の性格の傾向と、社会制度の性格の傾向との拮抗関係政治とは何か

今後のこの論文の発表のためのノート

 

 

 

 

序論

新 し い 自 由 と 平 等

自 由 と 平 等 の 調 和 : 平 等 は 自 由 の 一 要 素 で あ る 。

別名未定: 自由と博愛から平等にいたることは可能か

−自由と平等の調和: 新しい自由平等による民主主義と、古い自由平等による民主主義−

政 治 と 法 の 心

自 由 と 平 等 の 調 和

「本能や種に固有の特性が欠如しているという事態に対して、人間は性格的性向という内的支持と社会制度という外的支持とによって対処しうる。そしてこの外的支持のほうには強い強制的性格が含まれている。したがって政治的正当化の議論においては、すでにプラトンのところで提起した問いが現れる。そもそもなぜ外的安定化が、またその枠内で場合によっては法と国家が存在せねばならないのだろうか。

この正当化に関する問いに対しては、(すでにプラトンに見られるように)教育への欲求をもって答えることができる。人間はいま述べたような態度を生まれつきもつものでも、また純粋に生物学的な成長過程において発展させるのでもない。それゆえ人間は教育を必要としており、またそのためには家庭のような制度を必要としている。さらに、すべての人間がこうした性格的な態度を十分確実に形成するわけではないのだから、内的支持に関して、制度はそれを獲得するための前提であるのみならず、それを補完したり、場合によっては代用したりするのである。」(ヘッフェ、訳書、三七八頁。原書、p.368-369.)ヘッフェはまだ若い学者で一九四三年生まれであり、その文章は多くの論点が整理されている。動物のなかでも人間という種はどのような存在であり、人間における自由と政治との関係はどのようなものであろうか。種に固有の特性は効用という観点を持つということであろうか。内的支持・外的支持という場合の支持とは方向性や、選好や、傾向やらという意味であると考えられる。原語はInnenhalt/Auenhalt であり、haltは英語のholdとほぼ同じ語源であり、同学社版の『新修ドイツ語辞典』によれば、1支え、よりどころ、2根拠、定見などの訳語を当て、TheOxford-Harrap Standard German-English Dictionary,OUP,1977.によれば、1の意味ではhold,support などが、2の意味では moral stability, moral stay, mainstay in mattersof moralityの英語が当てられている。

「ド・トクヴィルは、『民主主義と社会主義とは、平等というただひとつの言葉を共有するだけである。しかし相違に注意せよ。民主主義は平等を自由のなかに求めるのに対して、社会主義は平等を拘束と隷属のなかに求める』と書いた。そしてアクトン卿はド・トクヴィルに与(くみ)して『フランス革命を自由にとってかくも災害たらしめた最も深い原因は、その平等論であった』こと、そして『世界にこれまでに与えられた与えられた最も素晴らしい機会が、平等に対する情熱が自由に対する希望を空しくしたために、投げ捨てられた』ことを確信した。」(ハイエク、三九〜四〇頁。原書:p. .)この平等と、自由との調和こそ今後の自由論にとって求められている課題であると思われる。

すべての子供が将来の社会をオプティミズムの哲学の構造を理解し行動しやすくするために

役に立たない知識は捨てることを覚えるために

はしがき

この論文はもともとは私の恩師の有賀弘教授が私が一八歳頃ころから書きたいと思っていた自由論について書きたいということを述べたところ、「自由であることを強制する」とはどのようなことかを研究したらと助言してくださったことからはじまったものである。

もし選択の自由が人間の本性であるならば、選択の自由を得られないようにする政府を作ろうという憲法を主張することは人間の本性に反することかもしれない。そうであるならば自由であることを強制するような政府はもしそれが人間の本質的な選択の自由を回復するような自由の強制、つまり、自由の妨害物や障害を取り除くものであるとすれば、それは強制も許されるのではないかという観点から出発したものである。もし平等を静的に確保しておくために人間の本質である選択の自由を制限してしまうようなことは自由の本質に関して誤ったとらえ方をしているのではないかという観点から出発したものである。この考え方によれば権威とそれに対する依存という奪い合う関係ではなくて、他の権威に依存しないで自分で判断し、自分で何でもすることができる自己をもった自由で独立したフロムのいう統一的なパーソナリティーをもった人間同士であれば自由と、平等と、さらに博愛も可能になるのではないかということからかきはじめたものである。

英語ではインディペンダンスindependence(独立性)と、ディペンダンスdependence(依存性)という正反対の言葉(in-は英語では依存していないという時の〜ではないという接頭語である)や、メランコリーやペシミスティックという言葉に対する正反対のオプチミスティックというような言葉を機能的にシステマティックに分析し、組み立てることによって東西冷戦後の自由論を、政治学の一重要概念として更に社会的・人間的自由論として形成していこうと考えたのである。ディペンダンスを依存と訳し、それを政治学的にかつ政治心理学社会心理学的に実態と心理を解明することは、政治分析のもっとも鋭い視角の一つであると考えたのであり、依存の大きさは依存されている人間をその大きさに応じてメランコリーにしたり、ペシミスティックにするのではないか、それは現実の政治においても、政治の心理においても、その他の場面においても同じではないかと考えたのである。早稲田大学の内田満指導教授の下での修士論文、更には一橋大学時代の金融論・経済学の長澤惟恭教授の下で政治哲学や、経済哲学に関する卒業論文を書いたときから温めていた課題であった。自由とは何か、自由は人間に何を与えてきたのか、選択の自由を持つ人間はどのような方向に向かっているのであろうかということこそ私の研究の課題であった。

政治哲学と法哲学について広く研究することは長年の私の夢であった。それは私の弟や、祖父が政の字を付けた名前を持っていたからなどという問題ではなくて、政治は日常の一つ一つの行動そのものであるという信念からであった。そこらじゅうのすべてが政治なのであるという信念からであった。だからこそ、国家の間の戦争は平和時には政治的ではないと思われているが、実際は政治的であったそこらじゅうのすべての人及びものに大きな影響をあたえることになるのである。戦争を行っていない時期においても、政治や国家は日常のすべての行動に政治性として認知することが出来ると私は考える。政治とは何かを考えてきた私が認知しようとしていることはそのような政治性である。マッコイが現代政治学は現在の生活との関連性を失ったという主張や、レオ・シュトラウスのいう政治をミクロに分割して個々の部分に分割して研究するようになったために、全体の政治が分からなくなったのが現代政治学であるという政治学に対する批判も、このような日常性を政治学のなかに取り入れることによって、批判に耐えられるようになるのである。

自由と平等は調和が出来る。自由を存在させながら、平等も達成するためには平等の性質を考える必要がある。自由を平等に与えるということは不可能である。自由は自由意思であり、平等に与えられているが、量的なものではなく平等というように量ることは出来ない。無の状態である。量として計上できるのは資源である。それは経済学の問題である。自由は経済の動きに応じて、その資源を自由に使用することが出来るという動的な何かを表している。すなわち経済学が、問題としての稀少資源の平等な配分を計量的に解決すれば、政治はそこに自由な選択の自由をまもることができる。その時には平等な自由が確保される。これは形式的平等から、実質的平等というものに重点を置いた考え方である。これによって自由と平等は調和したことになる。静的な状態を表現する平等を達成するために、自由という動的なものを殺してしまうというこれまでの平等の考え方からは、選択の自由という人間の本性を考慮すれば、早急に人間は脱出すべきである。人間性としての自由な選択が政治学の本質でもあり、自由の本質でもあるからだ。

この論説がこれまでそのような考えのために殺された人々をの名誉を回復し、慰霊できることを願ってこの論文は書き進められるし、読まれるべきであるのは『自由からの逃走』やらの切々たる論調、口調と同じである。

マキャベリーは人間は性悪であるというようにとらえていたといわれているが、私は彼はそれを直して性善にしようと努力していたのではないかと解釈している。いやそうあるべきだ、現代の社会科学によればそれは出来るのではないかと考えている。丸山眞男氏の性善か、性悪かの『現代政治の思想と行動』の三六二頁。から三五六頁。で展開されている議論は議論は参考になるが、マキャベリーやホッブスやロックの考え方をも参考にしながら、最終的には私の考え方は人間は性悪から性善に変わるように強制することが出来るかどうかにいきつくのである。自由は強制できるのかという問題はそこに行き着かざるをえないのである。これらの問題の考察は結局人間の本質である自由に関するものであり、かつ、それは人間が二人以上いる社会においては是非必要な議論である。自由の強制という概念は人間が選択が可能であるという自由の本質の問題と、ヘッフェが冒頭の引用文のなかで述べているような強制の本質を両方共に明白にすることによって明らかになるのである。自由の強制は全体社会としてみれば啓蒙主義であったり、共産主義化であったり、自由な社会にするための自由化であったり、するのであるが、それらのイデオロギーがどのようなものであれ社会的な、人間的な性向として決定されるのであれば、それが人間の本性としての自由を確保して、人間の性向を性悪から性善にするものでなくてはならないといえるであろうと考える。レフトはフランス議会で左側に座った人々のことであり、ライトは右側に座った人々のことであった。またリバティはラテン語を語源とし、フリーダムはサクソン語を語源としている。従って語源的にはリバティから派生したリベラルがレフトと必然的に結びついていたわけではない。ここで私が理論化しようとつとめている自由は、また、自由化や、自由の強制はレフトと結びついているわけではない。ここで問題としなければならないのは人間の本性は何かということ、つまり、性悪から性善に選択の自由を行使して、経済や歴史に左右されながらも移っていくことが可能であろうかという意味のリバティである。

 

 教育は強制を伴わない制度や、規制の自由な学習を助けることである。そのことは政治が最終的には強制を伴う権力をウルティマ・ラティオ最終の手段として持っていることとは本質的に相違している。しかし刑法における自由刑や教育刑の考え方に対する報復刑の考え方の対置と同じようにこれらは相対的なものである。死刑の廃止という考え方が報復刑から教育刑への転換を模索するものである場合には、この死刑廃止の考え方は他のマルクス主義的な経済先決の考え方からも発生するのではあるがそれとは全く別の考え方としてこの教育刑の考え方は最終の手段を使用するのかどうかという点において教育と、強制を伴う政治との対立と似通ったものがあり、そこには政治的な考え方がかいまみられる。

 政治の考え方においても自由を尊重する立場の政治と、報復やサルキング(すねること)やらから強制的な権力をふんだんに使おうという考え方とに分類することができる。これが政治と教育とを同時に論ずる理由である。この場合には政治的社会化とか、家族と政治との関係が問題として研究され発表されてきた政治的な、あるいは、政治学的な様々な研究をも考慮にいれなくてはならないことになる。更にこれまで政治文化として研究されてきた分野も同様に教育と政治との関係と関連を有することになる。教育は社会化の一部分をなしているからである。また政治も教育も文化を形成するものであるからであり、この両者は自由を基礎とするのか、強制を基礎とするのかはそのよってたつ基盤は違ってはいるが、しかれども文化の一部分であるし、そのどちらかを選択することを迫られた場合にはどちらかの選択をすること自体が文化そのものとなるのである。マルクス主義からすれば政治も、教育も、文化も経済を基盤としているのであるから経済によって自由な選択はすでになくなっているのであるという理論を持ち出してくるであろうが、人間が経済的なものにすべて拘束されているという決定論は現実的な仮説ではない。

 

 このような政治と教育を考える場合にはまず公民教育とは何か、しかし公民教育を行うべき人間はそもそもどのようなものであるのかということから説明を進めるべきではなかろうか。そのような観点からまず自由とは何かという問題から本論文ははいることにする。これは本能とは何かに対する補集合であり、決定されている本能は何であり、決定されずに自由なものは何かという問題となる。また経済にはどの程度に人間は決定されているのか、最低限の生活の憲法による補償に対してその受給者の自由はどのくらいに存在するのか、いやそのような人でも食べていけなくなった場合のことを心配して経済に影響されて生活しているのではないかというようなことを研究することになる。

 

 教育においても自由と、平等の関係は非常に大きな問題である。これは政治については更に大きな問題である。極端に不平等に陥ったときにはクラッスス兄弟の改革のような事例や、日本の戦後の農地改革のような事例が見受けられる。自由は極端に不平等に陥ったときには政治によって平等がもたらされたきた歴史があったと仮定的に仮説を提示することも可能である。それはマルクスが一党独裁論を主張するまでの自然な政治の動きであったのだという仮説は検証するに値する政治学的、政治哲学的、政治史的な課題となりうるであろう。

 宗教における自由の問題は、マキャベリーの運命の問題とともに自由論の問題ではある。また「都市の空気は自由にする。」ということの意味が農村的な土着の土地に縛られた人々が自由に動いたり、職業選択や商売の自由を得たことをいっていたのかなども研究の対象とすべきであろう。

 

 

 

 

 

 

公民(科)教育(法)社会(科)教育(法)の前提となる公民としての人間の教育については、社会科学の諸領域や歴史学等と教育学との隣接諸分野の学際的な科学であるために研究が遅れている。プラトンや、アリストテレスや、ルソーや、ペスタロッチや、デューイ等国民や市民のあり方と教育とを論じた著作は多い。ところが日本や、イタリアや、ドイツにあっては第二次世界大戦前から戦中における民族主義や国家主義やナチスによる宣伝教育等の悪影響によりこの分野の研究は一向に進まなかった。一方左翼の側においては労働者に政治的学習を行わせるという目的での政治と教育の研究が盛んに行われる必要が生じた。政治学においても教育学においても政治的に中立な見地からの「政治と教育」の研究が必要だと考えられるようになったのは第二次世界大戦後であり、その必要性がさらに高まってきたのは冷戦終了後の現在においてである。古典古代から現代にいたるまで続くこの課題に学説的にどのような新しい視点を盛り込むことができるのかについては私としては一つの視点を提示するつもりである。それは人間関係が社会を形成しているのであって、様々な人間関係を分析することによって社会をとらえなおすことができると思われるが、その際、性格の形成過程、発達過程を研究するに際して人間関係を分析することによって政治と教育をとらえなおすことができるという視点である。発達心理学や教育心理学的視点を導入し、新たに人間関係を見直すとすれば、政治と教育の問題に新たな視点を提供できると考えられる。経済学においては合理的人間を想定して議論を進めるので、性格心理学的な考え方の入る余地は少ないが、政治学においては「権力と人格」の研究や、「政治的社会化」の研究やらにおいて心理学や教育学との学際的な研究が進められてきた。ラントンや、グリーンスタインらの研究がそれである。これらの研究は「政治と教育」の問題に限定したものであり、経済や社会や歴史と教育の研究ではなかった。しかし中立的な政治的立場で「政治と教育」について論ずることは公民科教育法や社会科教育法の論ずべきことと相通ずる点が大量にあると考えられる。政治は公民としての人間を取り扱うものであり、歴史や、政治、経済、倫理、社会全般とも深く関わっているものだからである。政治学が他の社会科学や歴史学に先じて「政治的社会化」の研究を行ってきたのは公民としての人間を取り扱う政治学が、その発達過程や教育の問題に深い関心を示さざるをえなかったからである。

私は幸いにも二十六才から三十六才までの間、公立の高等学校の商業科目を四年間、高等学校の英語科目を五年間教え、九年間担任をするという教育の実体験をした。また商業科、英語科、社会科の教員免許を得ることができていたからそのような経験をすることができたのである。また幸いにも今日平成九年一月一日現在で三才十二カ月の娘と、ゼロ才の息子とを育てている。政治学と教育学に深い興味をもつと同時に、社会諸科学やらについて法学士等の学士号と、政治学修士、法学研究科博士課程在籍と学問研究を進めることができた。今後も教育心理学、発達心理学と社会科学との関係について研究を進めていきたいと思っている。従兄弟には福岡女子大の教育心理学の教授の山口快生も同じく学問研究に励んでいる。私は性格も違い学派は違うかもしれないが、学問として確立していきたいものを持っているので、今後死ぬまでには何らかのものを完成したいと思っている。それは社会科学と教育とに関するものであり、精神医学、精神病理学、教育心理学、発達心理学、性格学を総合するものであるべきだと思っている。精神は社会的な人間関係によって形成されるものである。物を買うとか、売るとかいうような各人の自由な行為も社会的な人間関係であるし、それを精神病理だと述べている人間がいることも人間関係としてとらえるべき人間と人間の関係である。

他のすべての著作と同じく私の政治思想、教育思想は私の体験から生まれたものである。学校での教育体験、政治の体験から、また私自身の兄弟姉妹構成と、他の兄弟姉妹構成との比較から生まれたものである。しかしそれは長期間を必 要とした。従ってリカレント教育を必要としたし、教育行政その他教育学に関する学問も体験、経験の後に必要となっ た。社会科学、特に政治学、行政学のみではカバーできない多くの分野が社会科学のなかでも特異な位置を占める教育学によって研究されていることを知った。教育学は人間関係のなかでも知識を持つ者と、知識を持たない者との間の人間 関係であり、知識の伝達である点ではマス・コミ論やらと似た面を持つ。しかし生徒や、学生との間の関係という点では長幼の人間関係を主に取り扱う。

社会科学と発達心理学、教育心理学、性格学、精神病理学、精神医学とを結合する作業は非常に困難な作業である。 しかし人間の知恵は偉大なもので街の本屋の本棚のなかにはその知恵はつまっているかもしれない。実際には学者の象牙の塔の領域をはるかに越えて社会は動いている。象牙の塔にこもることは人間関係の幅を狭めるかもしれない。が、実際の社会はすべての人間関係の集合である。すべての人間関係を集約しそれによって社会観を構成することは難しいのかもしれない。人間関係を重視する試みはH・S・サリバンらによってすでにはじめられているが、それは完成の域にはいたっていない。今後すべての人間関係の研究が進められて、社会全体をとらえることがそれによってできるようになることを望むのみである。これは学派や、各人の性格の違いや、政治的イデオロギーのすべてを越えて行われなくてはならない課題であり、政治学、経営学、経済学、行政学、心理学・・・その他すべての社会に関する学問に共通する課題であると考えられる。その際すべての相違する学派や、性格や、政治的イデオロギーを越えて共通する性格の見方を確立する必要があると思うのである。私の考えでは学派やらは人間関係の問題でもある。それらの学派を越えて共通する性格論は、人間関係論のなかからしか生まれえないものと考える。そしてそれはまた人間関係はその集合が社会と呼ばれるものであるから社会科学にもいきつくことになる。

世界中どこにおいても行われている公民教育や、社会科教育、社会科学教育について一般的な原理を発見するためには根本原理や哲学にさかのぼって研究する必要がある。国家主義の傾向が強かった日本やドイツの公民教育に対してイギリスやアメリカやフランスのような国家主義の傾向が弱かった公民教育はデモクラシーや個人の自由を尊重した。このような歴史的な公民教育の発達の相違は冷戦後の現在にまで影響を与えていると考えられるが、人間の発達心理や教育原理や教育心理という面から考えれば人間の心理的発達という基本的には普遍的な同一性を過去から現在に至るまでもち続けていると考えられる。イギリスやアメリカにおける市民citizen、フランスにおける citozen、ドイツにおける国民・公民staatsbrger、日本における明治憲法時代の臣民、日本国憲法になってからの国民、・・・それぞれにおいて国家や、社会との関係がとらえられていた。現在の日本の学校教育においての公民教育は、特別活動その他の学校教育一般においてなされていると同時に、教科としては社会生活を理解し、「民主的、平和的な国家、社会の有為な形成者として必要な公民的資質」(の基礎)を養うと規定された社会科、とくに中学校の「公民的分野」や一九八二年度から高校で実施されている「現代社会」がその中心となっている。公民教育を学校教育として行う場合には、教育内容をどのようにし、教育カリキュラムをどのように体系化し、公民としての態度・イデオロギー・意見の形成をどのようにしてカリキュラム内で手助けしたり、様々な態度形成を保証するのかという課題が残されたままである。一九八九年度からは「現代社会」、「倫理」、「政治・経済」の三科目が公民科目として高等学校に新しく設けられた。公民科は地理歴史科と分割されたが、両教科は割拠するのではなく相携えて、生徒の科学的社会認識と公民的資質を育成するものとされている。第二次世界大戦の一九四六年の文部省の社会科委員会は社会科の性格や内容についてはアメリカ合衆国の社会科(ソーシャル・スタディーズ、socialstudies) を参考にして、一九四七年六・三・三の新学制の施行で社会科が発足した。この時、学習指導要領社会科編の試案を公表し、五一年に改訂版を、五六年、五八年、六〇年、六六年、六九年、七〇年、七八年と改訂版を発表した。五五年(昭和三〇年)代以降は生活・経験・総合を重視するアメリカ的社会科から「日本化」が進み系統・主知・教科(科目)を重視するように性格を変えていった。「道徳」が社会科から分離独立し、歴史、地理学習が強化された。

このような公民科、社会科教育の変遷と、特に冷戦後の公民、社会科教育のあり方についてはこれからの研究成果の負うところが大きいといえる。これまでの公民教育の原理、原則の変遷をみてみてももっと哲学的に深い研究が望まれていると考えられる。

目 次

はしがき

序 文

第一編 自由の強制

第一章 自由の本質

第一節 妨害と障害がないことか、選択の自由があることのどちらが本質か 第二節資源の平等は自由に影響を与えるか第三節 社会心理学的自由は政治学の一部分になりうるか

第二章 自由の学説展望

第一節 第三章 フロムの積極的自由と、バーリンの積極的自由 第一節 自我の発達に向かう積極的自由と、自我の発達を阻害する権威主義の積極的自由

第四章 消極的自由と、積極的自由

第五章 自由と平等の調和

第六章 自由の構成要素

第七章 自由の内心と人間関係における自由

第八章 自由のための資源

第九章 自由のための能力

第十章 自由を行使する主体

第十一章 自由論の今後

参考文献

第二編 政治と教育 家庭における性格の傾向の形成とイデオロギーの形成過程

第三編 政治と選択の自由 個人の性格の傾向と、社会制度の性格の傾向との拮抗関係政治とは何か

第 一 編 政 治 と 自 由

第 一 章 自 由 論 の 現 在 的 問 題

第一節 第二次大戦後の一九五 八年に発行された二つの有名な自由論の書物真の自由は集団主義・全体主義・共産主義の自由か、個人主義の自由か

自由と、平等の調和は可能であろうか

一九五八年十月三一日に、アイザイア・バーリンがイギリスのオックスフォード大学で行った教授就任記念講演をクラレンドン・プレス出版社から出版した「二つの自由概念」の論文は、現在にいたるまで政治哲学の自由論の議論の中心となっている。(原書:FourEssays On Liberty,London: Clarendon Press,1958. )この論文は後にアメリカのハーバード大学出版部により『政治哲学』の一部分IsaiahBerlin,Two Concepts of Liberty として、ほぼ同様の内容が、シュンペーターの民主主義論等とともに収録されて出版された。この本は現代の政治哲学及び法哲学の水準を示す好著である。

バーリンによれば、自由には二つの自由がある。積極的な意味での自由(positiveliberty)と消極的な意味(negative liberty)での自由である。バーリンはその著の最初にラテン語を語源とする自由libertyとサクソン語を語源とする自由freedom を同じ意味で使うと書いている。アメリカで研究していたフロムも積極的な自由(positivefreedom)と、消極的な自由(negative freedom)とに分類したが、この両概念は一九四一年の彼の著書『自由からの逃走』において示された考え方である。(原著、ErichFromm,scape FromFreedom" New York,1941.p.258.訳書、二八四頁。。)しかし、バーリンのこの積極的な自由の概念は理学者であり、政治心理学にも大きな影響を与えたエーリッヒ・フロムのいう積極的な自由の概念とは異なった概念である。このポジティブを両方共に積極的と訳そうが、肯定的と訳そうが、この二つの同名の自由に共通する意味はあるのであろうか。彼らはこの二つの同名の自由をほぼ「正反対」の意味に使っている。ナチズムにおける自由をバーリンは積極的自由とよび、フロムは消極的自由とよびその本質を分析しようとしたと考えられる。逆にいえばバーリンが民主主義社会において必要であると考えた自由は、ミル以来の伝統的な考え方として他人の干渉から自分の身を守るべき自由である消極的自由の範囲を定めることであると考えた。フロムは民主主義社会において、例えばワイマール憲法下の人間にとって自由を許されて、かつ、自由から逃走しないためには積極的自由を各個人個人が身につける必要があると主張したのである。

一九五八年に出版されたもう一つの自由論がある。それはクリスチャン・ベイが出版した「自由の構造」という論文である。ベイには『解放の政治学』(ChristianBay,Strategies of Political Emancipatin,University of Notre Dame Press,1981.日本語訳:クリチャン・ベイ『解放の政治学』内山秀夫・丸山正次訳、岩波書店、一九八七年。)というもう一つの主著がある。自由はlibertyであり、解放はemancipationであり、これは、liberationと同じ意味である。解放するということは自由を得させるという意味であるからである。この二つの主著はその題名の意味においても相互に関連があることになる。

ベイは社会的自由のほかに心理学的自由と、潜在的自由(彼は潜在的自由を「個人の行動にたいする知覚化されない外的制約の欠如」と定義している。(ベイ、『解放の政治学』、八一頁。)という概念を提出した。ベイはフロムの自由に関する二つの概念をその著書『自由の構造』のなかに取り入れている。(ベイ、『自由の構造』、頁。)従ってベイは積極的と、消極的をフロムの意味で使っていることになる。

自由を論ずるのに社会心理学的な議論をするようになる契機には政治学者ではないフロムの影響があったと考えられる。

ある人が自由かどうかを判断する時に、その人は性格的にすべての統一的なパーソナリティーを持っていない(フロム、「自由からの逃走」訳書、二八四頁。原書、二五八頁。)、つまり、自分は出来ないことが多いが他人は何でも出来るべきであるという考え方を持っているとすれば、その人は積極的な自由を持たないのであるとフロムはいう。そのような自由を持たない人を私は依存的な性格の人であるというように定義しようと思う。「独立と自由は孤独と恐怖と同じことであろうか。」(フロム、前掲書、訳書、二八三頁。原書、二五七頁。)という疑問をフロムは提出し、そのようななかにおいても世界や他人や自然と結合できるようになることが「積極的な自由」であるとする。ここでフロムは自由から逃走することで「新しい依存new dependence 」にいたるのであろうかといい依存という言葉を使っている。依存という言葉はあまり深く意識されないで使われていると思われる。現在の学問の水準では依存は自由や束縛程には深く哲学的に厳密に定義して使われていない言葉であるからである。

但し、原書二五八頁で使われている「積極的自由」はフロムが前掲書、訳書、四二頁で「『〜への自由』という積極的な意味ではなく、『〜からの自由』という消極的な意味のものである。すなわち、行為が本能的に決定されることからの自由である。」(但し、この訳は間違っており、freedomto〜はto不定詞がつくので、「〜する自由」と訳す方が正しい、この言葉はバーリンの「二つの自由」においても同じ意味の言葉libetyto 〜が出てくるが、その場合も同様である。「しない自由」も不作為をする自由と置き換えられ不作為に相当する単語が存在するので、「〜不作為する自由」ということでよいと思われる。例えば怠惰である自由というように。)という時の消極的なという意味や、積極的なという意味ではない。バーリンは主にこのような意味で積極的と、消極的という言葉を使っているのだが、フロムが原書二五八頁で使っている意味での自由についての論議をここでは行う。ベイが問題にしている積極的自由も、フロムの原書二五八頁の意味での積極的自由についてである。ベイ、『自由の構造』、訳書、一三一頁。原書、p..

positiveを東京にある出版社小学館の『ランダムハウス 英和大辞典』で引くと、形容詞での一六番目の意味として、「(政府が法と秩序の維持に)必要な範囲を越えて規制する、介入しすぎる、抑圧的な」という意味がのっている。これはバーリンの用いた意味を辞書にのせたものとおもわれる。また形容詞の一二番目の意味として「積極的な、肯定的な、建設的な」という意味がのっている。その例として、apositive attitude toward the future;positive things to say about a painting;Makea positive effort to look on the bright side of things.などがのっている。『自由からの逃走』の訳書の四二頁の意味でのポジティブとは積極的なという意味であり、一方ネガティブの意味には妨害や、障害を否定するという意味を含んでいるが、積極の対語としては消極という意味になる。妨害を否定して自由になったときには、何かをするべきであるが、何をするかはわからないから、肯定的では何を肯定するのか対象や、目的が不明であるので、肯定的というよりも、積極的という訳語が妥当と思われる。〜することを自分で肯定する、自分が自分を否定しないという意味では肯定的という訳語でもよいということになる。「〜する自由」という時の、積極とは積極的にあるものに向かう、この場合のあるものは〜することであり、行動であり、すなわち、行動そのものの動きを意味している。先に述べた一六番目の意味は積極的という意味の拡張された意味であると思われる。東京の研究社の発行による『新英和大辞典』によれば形容詞の第五番目の意味として、「肯定的な、積極的な、建設的な」といういみがのせてある。これはほぼ『ランダムハウス英和大辞典』と同じ内容であり、a positive reply;a positive criticism の表現例がのせてあるOxfordConcise English Dictionaryによると、その形容詞としての五番目の意味として、constructive;directionalとなっており、例としてpositive thinking;positive criticismがのっている。ポジティブという形容詞を自由論のなかで、社会的、政治的な意味合いを持たせたのが、バーリンや、フロムである。

ある依存している人は他人に依存している部分についてはたしかに自分の自由を持っていないのである。ところがバーリンにおいてはこのフロムのいう積極的な自由の状態は、消極的な自由、干渉されない自由を守っている状態であるというように概念化されている。干渉されない状態で積極的に自由であることを学習すべきであるというのがフロムの主張である。フロムの考え方においてはバーリンのいうように干渉されない状態にあっても、自由からの逃走が起こることがあるという主張になる。バーリンはもっぱら干渉されない範囲を政治学的に、法学的に決定しようとするが、フロムはワイマール憲法があっても自由から逃走する人々が存在するのであるから、消極的自由が与えられるのみではいけないのであり、各人は自由を積極的に涵養しなければならないと解くのである。フロムは観念的な哲学者はこの積極的な自由を獲得していなかったと指摘する。逆にバーリンは、観念的な哲学者は積極的な自由を主張していたのだという解釈をする。ここには政治学者と、社会心理学者の考え方の違い、また観念論に対する考え方の違いがあるし、自由の概念の相違がみられる。

これらの自由論はナチズムや全体主義に対抗する論理を第二次世界大戦が終了してから十三年後にバーリンや、ベイがまとめたものであり、特殊第二次世界大戦への反省から生まれたものであると考えられる。

それから相当の期間が経過した現代のアメリカにおいて、現在のアメリカのハーバード大学にはもうすでに新しい一つの自由論の流れがある。それはノージックと、ロールズの自由論、正義論の流れである。ノージックはその主著『アナーキー・国家・ユートピア』において極小国家を主張して、自由尊重主義libertarianismの考え方を示した。これは消極的自由の考え方を押し進め、国家や、他人は個人個人に最小限にしか干渉すべきではないという考え方であろう。一方ロールズは自由と、正義を調和させるための新しい政治哲学をその『正義論』において生み出した。アメリカのイェール大学の卒業生ではあるが、現在はオックスフォード大学の法学部の法理学の教授であるドゥウォーキンは平等の考え方による法学の解釈を示している。この三人の自由論、平等論は現在の時点での自由論、平等論を検討する上で参考になると考えられる。

それは今後の新しい自由を考えていく上での一つの視点でもある。

第 第二節 社会科学と、人間関係論

社会心理と、人間関係における両者の心理

バーリンとフロムの自由に関する同名の積極的自由という言葉の全く正反対の考え方を説明するためには、人間関係という社会科学的なものが、心理という心理学的なものとどのように係わっているのかという点を考察する必要がある。人間が人間に限度を越えて干渉するというときの限度は何であるか、人間が限度を越えて干渉されない消極的な自由を主張するということはどのようなことであろうか。人間と人間の関係を考察するときにはおのおのの人間はそれぞれ違った心理を持っていて、様々なタイプの人間によるこの一単位の人間関係は多くの違った関係として描写し、説明されねばならないのであり、それらの集計されたものが全体としての社会を構成しているという点が重要な視点である。ある関係を描写する場合に裁判であれば原告に当たる人を原人とよび、その人間関係において、裁判でいえば被告に当たる人を被人とよぶとすれば、それらの各人の性格はおおいに人間関係及び各人の自由に関係している。原人が被人は私の自由を妨害しているから原人には自由がないからその妨害が故意であれ過失であれその妨害をやめよと主張している場合には、原人の心理が恐怖症であることによってこの事に対する裁判所であれば判決、この場合であれば一般人の判断は常識からみて変化するであろうか。この問題は社会心理の問題を自由論の中に入れるかどうかの判断に役に立つ。ある人は心理学的な自由を自由論のなかに入れるのは反対であるというであろう、従ってこの反対である人の意見では被人が原人の自由を妨害したり、障害になったりしているかどうかのみが問題であるというであろう。今度は逆に心理学的な自由を自由の概念のなかに入れるべきであろうという意見の人によれば、原人は恐怖症であるから内心の性格や、傾向から発生する妨害や障害があるのであるからそれが自由を減少させているということによって、人間関係を考察の対象外とすることができるであろうか。個人の心理の問題のみに限定できるであろうか。個人の心理の発生してきた原因となった人間関係がその恐怖症を起こしているということがいえないであろうか。この場合の場所恐怖症のような人間関係には関係のない悩みについては誰もそのことに責任はないと言えるであろうか。しかし法的には考えなくてよくても実際にその悩みの生じてきた原因を考えてみれば様々な人間関係からその場所恐怖症は起こっている場合が考えられる。例えば非常に依存的に育ってきた人は、自由で独立を尊重する国に足を踏み入れれば場所恐怖症になってしまうであろうし、それは政治恐怖症といってよいのかもしれない。ひとりだちできない人が、「ひとりだちせよ」といわれたようなものである。そうなるとこの場所恐怖症もまさに政治的自由の問題であるということになる。実際には私の観察した例では場所恐怖症のほとんどの例はこの例のような場合に起こっているからである。それは政治恐怖とほぼ同じ意味である。依存性のある人が独立を中心的な政治原理としている国では政治に頼れないので、放り出されたと思うので政治恐怖がその人の心の中でのみ発生するのであり、これは痛みでもある。

フロムのいう積極的自由の主張はまさにこのような場合の心理学的自由である。原人であれ、被人であれこのような依存性の強い人間が場所恐怖などのような恐怖症を起こしている場合には、全体として自由が権利であると認められるかどうかの判断に当たっては心理学的自由を考慮することが必要となる。裁判に当たっては被告又は原告の自由が認められるとすれば、自由が権利として認められたということになるが、その際に裁判官が被告または原告の心理学的自由を判断の片隅に入れた場合には心理学的自由は法律的な権利の判断の際に有効に取り入れられたということになる。そのような場合が考えられうるとすれば、心理学的自由を自由論の中に取り入れることは人間関係論の立場のみに限定する人にとっても重要な視点となるものと思われる。「オープンな空間を私が歩く自由があっても、心理学的には場所恐怖のために歩けない」(オックスフォード・コンサイス・政治学事典の自由の項目より。)というのは、人間関係論においても重要な視点として研究すべきものであり、内心の心理の解明も人間関係の立場から行われなくてはならないということを主張したい。これは社会心理学的な見方であるということができる。自由を恐怖し、逃走することをせずに自由で独立な依存性の少ない人間に教育するということは自由を高めるということでもある。自由を高めることは個人一人がするのではなくて、原人も、被人も、それを原人と被人とを含む全体社会という観点からとらえ人間関係として全体をとらえて我々一人一人が行うべきことである。

第二節 自由を高めるということ

「自由を高める」のは妨害や、障害を取り除くことである。社会心理学的問題を含む人間関係は裁判所には持ち込まれても解決することは出来ないのだろうか。もし取り除けないならば、そうなるとそれはオープンで民主的で、自由を高めることを目的としてはっきりと掲げる政治精神医学や、社会精神医学が取り除かなくてはならないのである。はたしてそういえるのであろうか。ラズウェルは社会精神医学のなかに法学も包含させようと考えている。私には法学も以上のような社会心理学的な側面を導入すべきであると考えられる。この場合の社会精神医学とはラズウェルやらの主張した社会的自由を高めるという目的意識のはっきりした精神医学であり、そのような目的意識のない生物的精神医学に対抗するものである。自由を高めるという目的意識はオプティミスティックな思想を構造的に解明するためには必要な視点であると考えられる。生物的精神医学が、ソ連の場合に悪用されたことは目的意識のない点を悪用されたものである。H・S・サリバンが主張した人間関係論もこの目的意識を持った部類に入るものである。人間関係論は自由論と関係しているのはこのような点においてであろう。社会精神医学が自由を増大させるという理由も以上のように自由をとらえるときにおいてである。

権威と自由とを考慮するときに、自由を妨害し、障害となるような他の人間は、人間関係においては一般には権威と呼ばれている、そこには強制や力が存在しているから権力ともよばれるのである。妨害や障害には力が必要なのである。

積極的な自由とはもし何かをする自由であると解釈すれば、バーリンの場合には他人の自由に干渉するような権威や、権力となるような自由であり、フロムのいう自由はそのような権力等により干渉されないで、制度的には自由が認められた制度の下において自分の自我を充実させるために自分に対して様々な教育や、訓練やらを行い、様々なことが自分で出来るようになるように積極的に自由を活用することを意味している。

バーリンのいう積極的な自由の考え方では、温情主義的な(パターナリスティック、paternalistic)干渉であっても否定的なみかたしている。積極的自由の否定の思想による温情主義的な干渉も否定するというこの立場は一般的には現在でも有力といえるであろう。そうではないと、第二次世界大戦の反省として書かれたこの論文が現在まで古典のように読み継がれているはずはないと私は思う。第二次世界大戦は人類にも、自由を追求し、研究する学者にも多大の衝撃を与えたと思われる。これとまた反対の意味であるフロムの積極的な自由は現在にまで多くの人が賛成しながら読み継がれてきている。ということはこれらを総合すれば、積極的な自由を他人に干渉することなく、自分に対して向けていくことを現代の人間は認めていることになる。他人に干渉するとはバーリンがガキ大将のことを例に出しているのを考えると他人に迷惑をかけないというように解釈することもできる。そして自我を充実させていくことを要求しているのである。自分自身が他人の積極的な干渉をはね除けながらも、自分では積極的に自分を磨いて完成させていくという思想が現在の自由論であるということになる。

フロムの消極的自由とは自由を与えられているのに、みずから自由を否定している状態である。おそらくそれは依存的な自らの性格から発生したのであろうと私は思う。自由から逃走している状態である。それをネガティブという言葉で表現したのである。制度的に自由であっても、自我のなかに自由から逃走しようという意思が働いて、自我を充実させることなく、権威に依存しようとすることである。一方のバーリンの消極的自由とは妨害や、障害となるものを、特に干渉を否定するということを意味する。妨害や、障害がないことによってこそ、フロムのいう積極的自由を形成することが出来る。自我が成長するのである。バーリンのいう積極的自由による高い自我は、フロムのいう消極的な自由から生ずる依存的な自我と共通する要素を持っているのであろうか。それは、観念論やらに含まれている自由に関する考察に待つことになる。それが自由を高める方向、バーリンのいう否定的な、消極的な自由を高める方向に向かっているのならばそのようにいえるのであるが、バーリンのいう積極的な自由は、偽りの自我である、つまり自由を権威に依存させようとするものであるというのが、バーリンの主張するところであると解釈することが出来る。

第三節 バーリンの消極的自由論とフロムの積極的自由論から、選択の自由論へそこから東西冷戦後の自由論へ

バーリンの消極的自由論はジョン・ステュアート・ミルの「自由論」以来の伝統であったが、バーリンの消極的自由論はナチズムに対抗する論理として形成されたように感じられる。第二次世界大戦後の一九五八年にベイの『自由の構造』と同時に発表されたものであることからもそのようなことがいえる。それは第二次世界大戦中に自由からの逃走を書いたたフロムにとっても同様であった。当時の思想界にとってはナチズムが何故におこったのかについて精神的にも、思想的にも不分明であっただろうからそこに関心が集中していたはずだからである。それ以前に発表されていたフロムの自我を涵養する「積極的自由」という言葉をバーリンが使っていないのは興味深いことである。同じ年の発行のベイは積極的自由をフロムの意味で使っているのである。これらの自由論はこの時代の知的関心の主流であったナチズムの解明と、それに対抗する自由の論理として第二次世界大戦後の自由論の主流となった感がある。

内心の心理において積極的に自己を形成していこうとするのがフロムや、ベイの意味での積極的な自由の意味であり、バーリンの積極的自由は政府や、権力や、他人に干渉したがる人が他の人に積極的に干渉する場合の積極的自由である。積極的に何を、どのような方向に使おうとするのかという問題である。人はAある意味では積極的にはなるべきではあろうが、積極性の対立は東西の冷戦を作るくらいに大きな自由の相違であった。そしてそれは現代においては干渉を認めない自由尊重主義と、平等を相対的に尊重し、干渉されない自由を認めないドゥウォーキンの理論との対立のように東西冷戦終結後もその対立は続いていると思われる。バーリンの意味での自由とは、「〜する自由」でる積極的自由を政治の世界に拡張して適用し、政府はどのようなことをしてもよいと考えるときの自由であり、そのような積極的な自由からの自由を、干渉や妨害がないという意味での消極的自由としてとらえたものであり、この二つの自由概念が対立的なものとしてある緊張状態のもとでとらえられたものであると考えられ、東西冷戦の時代には非常に切迫した問題としてとらえられていたのだと考えられる。

その後の約五〇年間にわたる東西冷戦の時代に自由主義陣営からのイデオロギーとしてはフリードマンや、ハイエクのような学者からの「選択の自由」の自由論が理論的には主流を占めることになった。フリードマンらのイデオローグがこの時代の自由をリードしていった。

東西冷戦後の自由論を代表するような自由論はまだ出てきてはいない。しかしそれぞれの時代に自由への要求はある。必ず今の時代の要請に応じた自由論が出てくるものと思われる。それは東西冷戦の時代を反省しているものでなくてはならない。そのなかで行われた自由の抑制がどのようなものであり、そしてそれが東西冷戦後にはどのように解釈されるべきかを解明したものでなくてはならないであろう。それがこの自由と平等の調和の思想であり、政治と自由の論理を、経済的資源の経済学的な議論から分離し、自由と平等の調和を政治学的に確率しようとする議論である。しかし東西冷戦が終わり自由になったとしても、自由の状態で何をしたらよいのかを身につけるべきであるという考え方がフロムの考え方であり、東西冷戦後の時代にもあてはまる理論でもある。東西冷戦後にフロムのいう自由が必要なのか、バーリンのいう自由が必要なのかは今後の動き次第である。

第四節 自由を可能にする、自由の構成要素としての資源と、その平等性

裁判においては司法の作用として、法学上の自由が問題となるのであるが、政治的な問題においては政治的なすべての問題に関する自由が問題となるのは先に述べたとおりである。ここで平等、それも資源の平等を問題とした事例において原告と被告の関係に類似する原人と被人との間の自由論と、正義との問題について言及することにする。平等を強調する主張は自由を可能にする資源についてのみ言えることである。

人間関係一般において原人と被人が両方共に相手から金を取る自由があると要求し、主張している場合に、それをドゥウォーキンのいうように平等のみで客観的判断を下せるであろうか。法学的には裁判における判決を平等のみで書くことが出来るであろうか。

ある大金持ちの原人が衡平で、正しい、法に則った主張をして金を要求する自由(法廷では権利)があると主張しているのに、すなわち貧乏である被人が法的に間違った主張をしているのに、資源の平等性という観点から貧乏な被人に有利に被人が正しいという判断をするならば、これは平等な配慮と、尊重の観点から正しいといえるであろうか。それは正義の観点からは間違っているといえるであろうし、この世の法を歪めてしまうことになりかねない。これについてはドゥウォーキンは逆差別の項目で詳しく述べる。差別されているものは差別してもよいというわけである。これが正義にかなっているかどうかは別の項目に譲るべきであろう。差別も、逆差別も、依存と同じような同根のものから出発していると私は思うがそれよりも問題なのはそれが自由をなくすという一点において私は反対の立場を取るのである。それは経済学における資源の移転という効用的な判断を伴ったことにより解決すべきであると考える。共産主義社会における物質や、生産物の価値が、そのものの効用によってではなくて、労働価値によってのみ判断されたために商業や、交換がなくなり選択の自由が奪われ、人間性の伴わない物の伴わない単なる移動しかその社会においては存在しなくなったように、資源の効用を考えない考え方は、包丁を爆弾や、刀や、鉄砲と同じもの、生産物としてみなすことになり、その効用が料理をするということのためであるところの包丁は料理をすることのできる楽しいものであるという観点を無くしてしまうのである。これと同じようなことが資源について効用的な判断を喪失してしまうとおこってきてしまうと私は考える。これを考え間違いと呼ぶことができる。したがって、私は平等の観点は資源の平等について、他の沢山の方法、児童手当や、その他の方法、効用を伴った移転によって解決されるべきものであり、この事件に関して解決されるべきものではないと考える。ただし、この場合に適用すべき法自体が法社会学的に平等の観点をまったくかいていて、裁判官や、客観的判断者がこの際に平等の観点を入れておくことが社会正義上妥当と考えることが一般的に認められればこの限りではないといえる。

自由を平等のために放棄することをバーリンは積極的自由とよんでいるとみられる箇所もあるが、行動の自由、その他の自由のすべてをなくしてしまうことである。それは正しいと思われることでも自由に行うことを否定してしまうことになる。その人が効用の観点からみた社会福祉や、資源の平等の確保のための移転を積極的に認めている場合においてもそのようなことはありうるのである。平等のために自由を制限し、資源の有効な使用や、経済の沈滞を招いた事例は多い。経済が歴史的に遅れて発展した国々においては、人々は権威に依存した。それは経済的なものを発展させるための権威でもあったし、それは政治的な権威をも伴ったものであった。経済的権威が政治的権威を当然に誘発したという因果関係は必ずしも認められないが、政治的にも、経済体制的にも権威に依存するような体制が出来上がった。このような過程が権威主義を形成し養成したという歴史的な因果関係論も、この権威主義の問題の解決には導入しなければならない論点であるが、自由論の観点からは本当の自由はどのようなものであるのかという観点を最後まで忘れてはならないと考えるものである。なぜなら今後現在の第三世界の国々における自由をどのようにして高めていくのかは国際政治の大問題でもあるからである。この一部分はこれまでの過去のことであり歴史として研究するべきものであるが、他の一部分はそれよりも過去のことなどどうでもよいこれからが問題だという人にとっても現在及び将来の大問題でもあるからである。再び全体主義のような自由が起こらないようにするという意味でも、第三次世界大戦を起こさないようにするためにも。

このような自由論の観点は政治社会学的及び法社会学的な観点を取り入れている。政治学や法学はもともと社会科学なのであって、政治社会(科)学や、法社会(科)学という言葉自体が自己矛盾であるように思われる。政治社会学や法社会学という言葉が学問のうちの一部として対象となっているのは、社会学的な方法を取り入れることによってであるといわれているが、これらの言葉が政治学や、法学から全く別の存在として遊離してしまうことはあまりいい傾向とはいえないであろう。学際的に政治や、法というものを考えていこうとするときには当然に社会科学なのであるから社会を研究すべきであり、社会心理も研究すべきものであろう。しかし学問が細分化しすぎて政治社会学や、法社会学の対象とする分野が従来からの学問のほかに膨大な量で広がったというほうが正しい。しかし、それが元来の政治学を補強するものとして使われるべきものであり、この自由と平等の調和論も、心理学的自由をも考慮に入れることを主張するとすればそのようなことを望んでいるのである。しかしそれがこれまでの国家を中心とした政治学や、世論を中心とした政治学や、実定法を中心とした伝統的な法学やらが、実際の社会とは遊離してきたので、それをあらためなければならないと考えられるようになったから、政治社会学や、法社会学がうまれたのではなくて、その研究がたまたま従来の法理論や、政治理論の認識を変更させるようになったということのほうが正しい。自由の強制は教育と関連があるという理由によって、教育が自由論において語られなければならないとすれば、教育社会学についても同様なことがいえる。つまりもし現在の伝統的な政治社会学や、法社会学や、教育社会学が、社会科学としての政治学や、法学や、教育学と全く同じ範囲しかカヴァー出来ないとしたならば、政治学や、法学や、教育学という言葉のなかに当然政治社会学やらの分野が含まれていることになり、この自由論も政治学や、法学や、教育学の一部分として存在しうることになる。精神医学においてももし、それが社会科学としての精神医学が存在し、それが精神医学の本当の部分を構成するようになれば、社会精神医学や、精神社会医学というような言葉は必要ではなくなるのであり、当然に政治学は社会科学の一部門であるのであるから政治精神医学という言葉も必要ではなくなるのである。

自由論は法学や、社会心理学やらのなかで主に論じられてきており、宗教的自由や、自由意思論については哲学において主に論じられてきたが、政治学では政治的なるものを研究するために政治と自由という観点から自由というものを研究するのである。

日本の現在の自由民主党や、自由民権運動の時代の自由党のように、幸い多くの政党が「自由」という言葉を主張している、しかし、自由という言葉のみに終わっているのかもしれない。また、ウッドロー・ウイルソンのように『新しい自由』という理念を掲げたアメリカの民主党の政治家もいるし、現在のアメリカの共和党のギングリッジやらのように自由を主張する政治家は数が多い上に、保守主義者、自由主義者の双方にまたがっており、その研究材料は政治学においてことかかない。また自由に関する研究は海外においては非常に多く、非常に興味深い研究がころがっている。しかし日本におけるその研究はほとんどなく、自由民主党の自由民主主義もアメリカや、イギリスの影響を受けていると考えられるので、その研究は日本人にとっても必要であると考えられる。かって、明治の自由民権時代に中江兆民がルソーの『民約論』の研究をしたように、また、中村正直がミルの『自由論』を研究したように。これらは現実政治とも関係をもったものであった。

第 二 章 自 由 と は な に か

第一節 妨害と障害がないことか、選択の自由があることのどちらが本質か

自由とは妨害や障害がないという状態をあらわすとされるが、そのような静的な状態に本質的なものがあるのであろうか。あるいは、自由とはそのような状態を表現することばではなくて自由に行動するという意味でこの言葉を使う場合の動的な行動に伴う動的側面に本質があるのであろうか。あるいは選択の可能性という未来に向かった選択という側面に本質があるのであろうか。自由論の今日的論点には、第一に対人間関係における自由と、内心における自由との問題、第二に資金や空間や財産のような自由を可能ならしめる資源(resources)の問題と、第三に能力の問題があるとオックスフォード・コンサイス・ディクショナリー・政治学事典の一九九六年の最新版は指摘している。しかしこれらはすべて密接に関連しているととらえるほうが、自由の一般論を提出する際には妥当であろう。これは政治学上の自由についてであるが、法学上の自由権についてはさらにこれらの論点について総合的にとらえる必要がある。裁判において原告の自由と被告の自由についてどちらを認めるのかという問題は法学上の問題であるが、裁判にはいたらないような国家や、政治的な生活上の問題については政治学上の自由の問題である。原告に当たる人間を原人とみて、被告に当たる人間を被人とみて、原人からみた間主観的な自由の主張と、逆に被人からみた間主観的な自由の主張とを総合するような意味での客観的な自由の理論が必要になってきていると考える。それは法学にも適用できるものではあるが、それ以上に広い部分をカバーする自由論であるといいうる。第二の資源の問題は本質的には経済学の問題であり、経済学が経済合理的な経済人を想定し、稀少性の学問として理論化してきた。なぜなら、資源が問題となるのは資源がもっぱら稀少性があるときに問題となり、同じ物質ではあっても空気のようにいまだ稀少性があるものとしてとらえられていない場合には経済学の問題にはならないからである。空気の汚れのように稀少なものとしてとらえられるようになれば空気も経済の問題となる。しかし経済学的に理論化したとしても、人生の出発点においても、人生の途中や、最終点においても平等ではない資源に対しては人間は嫉妬や、妬みや、嫉みやらのさまざまな感情をもち、それらに伴う行動などを政治学的な問題、社会学的な問題として取り上げざるをえなくなる。そこにでは経済合理性からはなれた行動がみられる。その時には社会的な心理の研究も必要になる。経済学とは違い政治学はこのように稀少なもののみを取り扱っていない点において、政治学は稀少資源の配分における経済合理性のみを取り扱ってはいないという事実を政治の定義においては理解し、定義付けを間違わないように研究しなくてはならない。

自由とは妨害や、障害がないことであるとする見解がこれまでの自由の定義の主流である。だが、妨害や、障害がないことによって人間が本来もっている選択の可能性が発生する。この選択の可能性が社会制度上、あるいは、人間関係上人間に残されていることのほうが自由の本質ではないかという見解については考察しておく必要がある。選択は現在あるいは将来のことであり、可能性は将来のことである。選択に当たって妨害や、障害物がないということは静的なことであるが、選択は動的なものである。選択は現在なされるか、将来なされるかは明確ではなくても過去のことではない。平等は過去あるいは現在のことである。自由な選択による行動によって得られる結果が平等ではない可能性があるので、自由は平等な状態を変化させる可能性をもったものである。もし自由でなければ、平等は確かに静的な状態のままで維持されるかもしれないが、平等のために自由を禁止することに対する疑問や、批判は大きい。平等のために自由を禁止するのではなくて自由と平等を調和させるほうがよいが、それが難しい問題だというときには常にこの自由を可能にする資源の問題と、現在及び将来の自由な選択が動的な結果をもたらす、それは平等な状態ではない結果をもたらすかもしれないという懸念があるという点に注目していなくてはならないと思われる。自由とは妨害や、障害がないことを本質とするのか、選択の可能性があることを本質とするのかの考察にもどることにする。ないということと、あるということとは対の概念である。妨害がないからこそ選択の可能性があるといえる。しかし妨害があるということは、人為的なものであるのに対して、選択の可能性は人間の自然な本質である。妨害があるという時にはその理由を考察しなくてはならない。その理由は社会が定めた法的規範や、集団が作った集団のルールや、自然法や、歴史の必然性や、歴史のなかから導き出された政治的な法則などが考えられる。人間が本能から外れた部分について無規範的に、因果関係を完全に外れた行動をしているとこともあまりありえそうにないし、逆に、完全な因果関係のなかで生活しており、全くの自由をもっていないということもありえそうにはない。このような意味では、自由と因果関係としての運命のどこか中間に位置しているのが人間であると思われる。政治学においてマキャベリーが運命といったものはこの因果関係のことであり、ビルツーといったものはこの自由であると考えることができる。しかし人間は自然の法則を自然科学として追求していくように、社会科学においても政治的法則や、経済的法則や、社会心理的法則や、社会学的法則を求めていく性質をもっている。このように解釈すれば人間は考える葦であるといったデカルトの言葉は歴史や、運命論や、自由論のなかでこのような意味を持った言葉であったと解釈することができる。

考える葦である人間は本能以外の部分については内心的にはすべての自由をもっているということができる。本当は生きる本能しか持たないのであるが、「死の本能」をもっているということさえできる。もし「死の本能」という言葉が迷信であれば、人間は因果関係論において迷信や、魔術さえも信じることができる自由を持っている。「内心的自由を覆っている自由を制約する妨害物である強制のともなう法的規範などや、歴史の必然性とよばれるような因果関係や、自由を抑制するものとなる強制によらない自発的な道徳等による自由の制限」と、「人間の本能以外の部分で本能からはずれたすべての内心の自由」との葛藤が自由論の本質であり、そのような自由を妨害したり、制限する妨害物がない人間が選択の可能性を完全に所有している状態、自由意思をもっている状態であると名付けることができるし、そのような状態を人間の内在的自由の状態であるというとすれば、その状態の本質は選択の可能性に存するのであって、それは人間が白紙の状態であるといっているのと同じことである。その場合には制限がないこと、つまり、これまで一般に自由を定義するのに妨害や障害物がないことが自由の本質であると定義してきたことは本質的なものではなかったことになる。なぜならそういうならば法も自由の妨害物や、障害物の一つとなってしまうからだ。自由はこの最初の選択の可能性に本質があったのであるが、表面的には政治的自由を求めて戦うという表現をするときの自由は妨害や、障害物を取り除こうとする点に重点をおいていたので、そこに本質があると取り違えてきたものと思われる。

第二節 個人による政府の選択の自由としての民主主義

民主主義社会においてはその本質は専制や、独裁がないことではなくて、支配する者や、法の支配と表現するときの支配という言葉の意味でのわれわれを支配している法を自由に選択できることであるというケルゼンの民主主義に関する理論はこのような文脈でとらえれば本質をついたものであるといえる。これは法的に、国家的に選択の自由という専制や、独裁を排除した結果に注目した民主主義の説明の仕方であるといえる。一方そこに競争が存在するという観点を先に押し出したのがシュンペーターの議論であるといえる。また、ポリアーキーというダールの考え方は民主主義において多数の人が選択の自由を行使しているという点を主に説明しようとしたものであると考えられる。それぞれ主体と、選択のしかたと、自由の本質とに、重点をおいて違った方法で説明しているのである。専制国家や、独裁政治においては専制君主や、独裁者を取り替えようとしてもそのような選択の自由は存在しなかったが、民主主義社会においては選挙によって変更できない君主や、独裁者に代わって自らが政治家を選択する自由が存在する。民主主義国家においても選択の自由が減少すれば、民主主義ではなくなるし、自由主義ではなくなる。この場合の自由は選択の自由という意味の自由主義である。

稀少な物に関しては自由主義経済においては商品や、職業やらの選択の自由があり、需要と供給は見えざる手によって様々なプロセスを経て均衡していると考えられているのである。そこにおいても私的独占や、不公正な取引が行われたりすれば、自由主義社会においても選択の自由こそが妨害されることになる。コレクティヴィズム(今後集団主義と訳す)におけるように政府が独占的に計画し、選択の自由を行使したり、政府の計画のみで経済を運営する場合には個人の選択の自由は存在しない。

選択の自由を妨害や、障害物からまもるということが重要な政策目標となったのはつい最近のことである。

東西冷戦の終了により資本主義国家が大勢となり、人間の選択の自由を認める自由主義国家が中国や、北朝鮮を除けば大多数の国家体制となった。しかし選択の自由とは別の論点として「真の自由」という観点は今でも存続している自由論の課題であるのは、オックスフォード・コンサイス・ディクショナリー・政治学事典の指摘を待つまでもない。現実には選択の自由はできうる限り確保されるべきであるとしても、完全に確保されるためには自由と、平等の問題が解決されねばならないからである。選択の無制限の自由は自由の動的な側面からして不平等をもたらすという指摘があるからである。

多くの他の動物とは違い人間は本能だけで生活しているのではない。パブロフの条件反射の実験にもとづく行動理論や、新行動主義などは人間の様々な選択の可能性について研究していくことであろうが、他の動物が本能によって生きていることによって選択の自由をなくしている部分についても、人間は多くの選択の自由をもっていて、それが人間が人間である理由ともなっている。因果関係によらない歴史の行方や、法的な規範などや、本能によらない様々な行動や、国家や政治の形態までもが自由に選択が可能である。

選択した結果はよいものであるべきである。自由な選択が可能であるからといって悪い選択を行っていたのでは動物よりも劣る結果になってしまう。選択はある人間個人個人にとっても最適な選択がなされなくてはならない。自由な選択は動物における本能の代置物であるから、動物の本能と同じような機能を持つものになろうが人間に最適なものであるような選択が行われなくてはならない。それは個人の行動について言えると同時にまた国家や集団の制度などの選択についても最適なものがえらばれ、例えばアリやハチがもっているような本能的な社会制度などと同じような機能を持つ、人間に最も最適な機能を持ったシステムが選択されなければ、人間が選択の自由を持っている意味はないことになる。この選択の自由は人間の適応能力のことでもあるだろう。たしかに地球が人間の住めない温度になったならば人間は適応できないであろうが、熱帯においても北極においても人間は適応して住んでいくことが出来る。社会や、社会制度や、法的規範などや、国家の形態なども各個人の自由な選択によって決定することが出来るようなものであるのは、人間がもともとそのような選択の自由を持つ存在であるからであろう。人間は人間関係としての社会を様々に選択していく自由を持っているのである。社会制度や、法規範や、宗教や道徳から生ずる規範や、人間の作るルールや、法理論や、政治理論には、権利や、義務やらを定めた構造が存在するのはそれらがある機能を持って社会を形成しているからであって、最適な社会を構成する選択の自由を人間は持っていて、そこに自由なシステムが存在してくる理由があるのであって、自由そのものには構造や機能やシステムは存在せず人間が選択可能な白紙の状態という意味しかもっていないようである。

現代における自由論は、過去の自由論とは異なったものである。それは現在問題になっている自由を制約している妨害や制約が過去とは全く異なっているからである。その時代時代に自由を制約し、選択の自由を脅かしていて自由獲得のための障害となっているものが違っている。ナチスや、ソ連の場合には秘密警察であったりした。現在はそのようなものは存在しない。現在の生活において選択の自由をおびやかしているものはもっと生活に近いところに存在するようになった。政治思想事典における自由の説明は過去の様々な時代、様々な国における自由の要求を様々に記載していって、その時代の自由のあり方まで記載しなくてはならないのであるから、現在の切迫した自由の妨害の問題を研究する現在の自由論とは趣を異にしているといわねばならないし、記載の内容も違ってくることになる。先に記したオックスフォードの事典の場合に内心の自由については空間恐怖症などの恐怖症の問題が、人間関係における自由については独立性と依存性の問題が、能力については実質的自由と形式的自由の問題が、資源の問題については平等との関連の問題が考察される必要があるというように指摘している。

特に現代においてもっとも重要な問題は自由と平等との関係であると思われる。この事についてもっとも重要な指摘をしている現代の学者はオックスフォード大学法学部の現在の法理学教授であるロナルド・ドゥウォーキン教授であろう。彼の自由論は『権利論』の第十二章に要約されていると思われるので、その検討を行う。彼の理論は自らの自由は他の人の平等な配慮と、平等な尊敬によって自ら制限すべきであるし、政府もそのように平等に配慮し、各人を平等に尊敬すべきであるという理論である。そのような自由の制限がどのような意味を持っているのかは十分に検討に値する。イギリスのような英米法の発祥の地においてはもともとequity衡平の概念の発達がみられたのであり、その概念を発達させたものとも考えられる。法の下の平等という考え方はギリシャ時代から存在した。

isonomy アイソノミーという言葉は、ギリシャ語が語源の言葉で法の下の平等という意味である。isoはisotope アイソトープ同位元素のアイソであり、同じという意味の接頭語であり、nomyという接尾語は、エコノミーのノミーであり、学問という意味であったり、nomologyが法律学という意味であるように法律という意味であったりする。従って法の下の平等という意味のギリシャ語が語源となって生まれた言葉である。古代の思想においては法の下の平等はリベラルな理論家達にとっては、法の下ではその人が誰であり、どのような権力を持ち、どのような資格があるのかによって、法は差別してはならないという意味であった。しかしその実質的なものを決定することは現在においてと同様に困難なことであった。したがって、この平等の問題は古代から続いてきた問題であるということが出来る。

第三節 妨害や障害がないことによる本能への復帰と、選択の自由への復帰

自由は本能に対する障害物のないことをも意味する。本能が発揮できないことは、人間が性本能や、生の本能や、食の本能やらを行使できないということを意味している。食料が不足していたりすればそのようなことが起こるから欠乏からの自由は本能を行使するための自由であるということになる。この自由は絶対的に人間にとって必要な自由である。本能を発揮するに当たって障害物がないということをあらわすこの自由については、本能については人間は選択の自由はないのであるから、選択の自由をおかされたわけではないので、欠乏により食料がない場合には、自由とはよばず、生きていけない状態であるというようによんだ方がよいのかもしれない。無人島に一人の食料しかないのに九人が漂着した場合には、食料がないから本能である食べることが出来ないということが起こる。しかしこれに対して九人のなかの一人が生き延びるべきであるという人間による選択の自由の余地が発生する。ここには倫理学上の問題と、マルクスやフロイトが例外状態としてとらえた問題があると思われる。マルクスやフロイトが人々の自由の存在しえない飢餓の状態として常にその中にいると考えていた状態(マルクスの経済決定論や、フロイトの金銭ノイローゼはここから生まれたのではないか)が表現されていると私は思うが、そのことはここでは別の考察に譲るとして、ここではのべない。しかし、ここで欠乏からの自由として食料をどこかから持ってくるということを考えることは選択の自由として妥当な表現の仕方ではあるが、食料がないということ自体を欠乏からの自由でない状態とよぶのは、本能が選択の自由を持たないのであるから、あまり正確な表現であるとはいえない。従ってこの場合には障害がなくなることによって本能が発揮出来るということであるが、その本能には選択の自由がないのである。選択の自由が人間の本性であるとすれば、選択の自由は人間の本性への復帰であるが、本能に対する障害がないということは人間の本能の部分への復帰であると同時に、その他の人間の選択の自由の部分に復帰するのであるという表現をすれば正確な表現となる。本能は必ず発揮される必要があるから、人間の本能が抑圧されていることについて、その障害物が取り除かれるべきであることについてはあまり論争の余地となるところはないので、これまでの自由論はすべてこれを自明のこととしてきた。生存権の確保はその全部ではないが、その一部分は本能に対する抑圧からの解放による生存という本能の確保の自由な権利という意味であろう。生存権に対する制約からの自由は、それが最低限の生活の保障であっても、人間社会が一般的に認めるものであるから、あまり論争の余地がない。それは本能だよという一言で片づける人もでてくる。

これに対して、本能への復帰ではなくて、選択の自由がある人間の部分にたいする復帰は、復帰したからといって本能のように固定されたものではなく、またそこに選択の自由が発生するのであるから様々な議論の対象となる。選択の自由に対する制約からの自由については人間の本能以外の人間の本性への復帰を目指すものであり、人間の本性が選択の自由であるのだから、社会全体のなかで個人個人は様々に選択の可能性を論ずることが必要である。それは社会的自由のうち思想・表現の自由とよばれるものであり、選択について論ずる自由がある。これが社会的自由の第一のものとしてミルや、ベイなどが挙げている「思想表現の自由」という概念の根本的な発生源となっているものである。「様々な人々」によってという点が個性を尊重しなければならないというミルの観点の源泉である。この社会的自由によって社会的な論争が生じはするが、それは全体としてみるかぎりでは、選択の自由へ向かった動きであるとみることが出来る。更に選択の自由への動きとその妨害物との対立は政治的な論争や、法的な論争に発展する。法的な論争において第二次世界大戦後相対主義法哲学がさかんになっているのは、全体主義に対する反省も理由の一つではあるが、この選択の自由に関する人間の本性についての論争は人間の社会的な思考方法を相対的なものとしてとらえざるをえなくなったものである。しかし判決においては間主観的な意見も総合してとらえられ、客観的な判決が目指されることになるのは、政治的な判断においてと同様である。

障害や、妨害がない状態における人間をみつめ正しく表現してみよう。本能の部分については全く固定的固執的であり選択の自由はないが、そのことを表現して本能しかなく選択の自由がないというように、自由という言葉を使わないで表現するとすれば、逆の表現として自由とは本能以外について人間は選択の自由が存在しているというように表現できる。ところが本能というものが完全に選択の自由があるその他の部分と見分けがつきにくいとするならば、その場合には「選択の自由」と、「障害がないということ」のどちらがより自由の本質に近いかということの判断が難しくなる。例えば食べることは本能であり、生きることも本能ではあるが、他の社会的な強制や、他の人の悪意によって、食べることをやめざるをえなくなったり、生きることをやめざるをえなくなった場合には、それは選択の自由であろうかという問題が現代的に発生している。この場合には食べることや、生きることのみが本能であり、そのような本能を否定する他の人の意思があり、その自由意思がその人を騙してしまったというほうが正しい表現であると考えられる。つまり、刃物で殺すことを言葉でやったとしたら、それは刃物も言葉も手段であり、道具であるから、自由意思によって他の人は使用することが出来るということになる。他の人を殺すことを他の人の本能を破壊したと呼ぶことは正しくないように、このことを本能を破壊したといいのがれでよぶことは正しい表現ではない。

このことはすなわち、人間が狩りによって羊とか、牛とかを生きないようにすることについて、生きないことは羊とか牛とかの本能であると表現することがいかに不適切かということと類似している。牛や羊については不適切であるということがすぐに分かるのに人間については、それが本能であると表現すればあたかもそのようであるかのように考えられるところに問題点が存在する。それは殺す側の人がいうから更に複雑困難な問題となるのである。殺す側の人が、殺したといういわれを避けるために、死の本能があったのだというようなことは許されないことである。安楽死の問題の場合には更に問題が多くなる。死の意思が他の苦痛によりあったかどうかという問題が発生するからである。この場合にはあったかもしれない。それは自由意思による選択の自由として死を選んだのであろうが、医者は痛みをなくすこともできたはずであるから、やはり生きようとする本能しかなかったというほうが正しいことになる。このように自発的な意思が本能の特性であり、痛みとの二者択一ではない。痛みは人間の存在に対する、本能に対する脅威であると思われるから、それがないときに考えるのが生きる本能しか存在しないという結果である。

但し、依存性の強い人が、死ぬと依存できなくなるということを考えて、心配し不安になり、「死ね、死ね」と人を驚かすことがよくあるとすれば、それはただ単に性格の問題であるということになる。これは日本の地下鉄サリン事件について茅場町を通るとよく考えることである。羊や牛が囲い込まれて狭くなっている道を羊飼いや、牛飼いに追われて、あたかもアウシュビッツの収容所においてナチスの兵に追われるごとくに追われているのを表現して、死の本能がありそれに従っているのだと表現することは、誰もそのようなことは自発的にはしないであろうから、間違った表現である。牛や羊がアウシュビッツにおけるように毒ガス房に向かっているのは羊飼いなどに追われているからだと表現することのほうが正しいであろう。アウシュビッツにおける人間の場合にはなおさらであり、死の本能という表現はあらゆる場合に不適切であるが、そのような言葉の組み合わせを間違っていても人間は作るのである。このように本能とそうでないものを区別することは非常に難しいし、迷信も存在したりする。フロイトのように死の本能という言葉をいいだすこともありうる。しかし、現実には生の本能のほうが正しいのであり、死の本能があるとすれば、何億分の一の仮定においてのみであろう。このように本能とそれ以外との区別が定かではないからといって、自由は選択の自由か、障害物がないことかの本質論争に決着がつけられないわけではない。本能に対する食料不足のような障害物については、自由という言葉を使わずに、本能を発揮できる状態なのか、本能を発揮できない状態なのかという状態の問題であり、選択の自由に関したものではなく、したがって自由の問題とは関係がないと思われる。生きる本能、生存権は自由の問題ではなく、状態であり、本能そのものの問題であるということである。走光性のある植物は光のある方向に向かうという本能があるならばそうでない方向へと向かう植物は存在しないであろう。このように人間についても生の本能があるならば、生の方向へしかいかず、死の方向へはいかないというのが正しい表現である。しかし人間については走光性はないのであるから、光の少ない所に住んだり、日光浴をしたりしなかったり、様々な選択を行うのであり、いつ日光浴をするのかを決めることも選択の自由の範囲に属するのである。だが政府や、統治者が「必ず南を向いて日光に当たるようにするべし」という法を作ってもかまわない。生類憐れみの令や、ユダヤ人虐殺法を実際に人間は作ることもありうる。それは制度として人間の社会がそのような選択(選好)を行ったことになる。社会の選択と、個人の選択が違った場合には問題が起こるのであるが、その考察こそ自由論の課題でもある。

「死の本能」という言葉は、生の本能という真実の本能に対するウソによって、生の本能を妨害するものにもなりうる。その妨害をなくすことは、自由そのものの定義を妨害をなくすことと定義すれば、「死の本能」は自由に反するものとなるが、そのような定義はこの場合には正しくないことになる。何故なら生の本能は自由とは全く関係のないことであるからだ。自由とは関係のないものを妨害するのは、その事自体が間違っていることを証明しているにすぎないこととなり、フロイトがそのようなことを言ったのは深い理由、性格上の理由があったと考えられ、それを私は依存性と分析しているのであるが、その精神の分析は非常に重要な意味を持っていると考えるものである。それは性格論をずっと明らかにするであろうと思われる。

自殺することが「死の本能」によるということは、アウシュビッツの例を待つまでもなく、人為的な生の本能を曲解している可能性がある。たしかにアウシュビッツの状況を作られれば誰だって自殺しようと思う可能性があるのは、誰でも理解できることである。しかし、それを自殺という人はいないであろう。そこにあるのは自由ではない。このように自由が存在しない環境においては人間は自殺しようと思うかもしれない。依存的な人に常に追いまくられていれば、誰でも自由はなくなる。それは人為的なものであり、それを自殺だとか、死の本能というのは嘘をいっているとしか思えないのである。それでは安楽死のように自然の病気による場合はどうであろうか。そのような安楽死したりしたくなるような人為的な環境を作ったという場合にはアウシュビッツの場合と同じようなことがいえるであろう。例えば、鎮痛剤を与えなかったので、痛かったから自殺をしたと場合には、人為的なものであり、自殺とはいいがたい。人為性という点では、アウシュビッツの事例も、このような安楽死の事例も同様に犯罪性があると私は考える。

第四節 人間は自殺する以外のすべての自由を内在的に持つ。

自殺する以外のすべての自由を人間は持つというときの自殺する以外のというのは、生の本能を人間は持っていて、それは死の本能のような嘘によって騙されてはいけないということである。死の本能というのは、生が本能であると認めるならば、「死ね」と暗示にかけているようなものである。あなたに「一銭の金も与えない」とあなたの親が収入も得られない時にいって、それは「死の本能」といった場合、その時の本能という言葉は「死ね」と人為的に暗示しているにすぎないと私は思う。私はフロイトの娘ゾフィーが二六歳でなくなったのはそのような事情があったのではないか、フロイトが依存的なあまりゾフィーよりも依存的であったというようにその日記を伝記などから抽出、分析して、精神分析をしているが、それに対しては自由と、環境という問題としてとらえるほうが正しいのであり、それを「死の本能」ととらえたのは依存性から生ずる誤りであったのではないかと思っている。このような依存性のある親と、独立的な子との間での逆転現象の実際の事例をあげることはできる。自殺の自由が禁止されている国では生の本能というものを正しく規範的に規定しているということになる。これは自由と環境の問題であり、自由論や政治学において問題としてよい例である。自由は環境に依存しているのである。資源が存在し、能力が存在していても、そして自由が政府によって許可されていても、自由が存在しないようなこのような場合が存在する。それは恐怖政治の場合も同様な例としてあげることができる。依存的な人が、オープンで独立や自由を尊ぶ国に突然に出かけていっても自由を行う習慣が出来ていないので、恐怖を感じて自由が感じられない場合がある。これはすべてを他人や国に頼っていた人が、オープンで独立した人ばかりの国でそのような制度を持っている国に放り出されたようなものである。これを政治恐怖と呼ぶとすれば、この政治に対する恐怖は私の考えではラズウェルのいう反政治の感情や、無政治の感情の主なものはここから発生していると考えられる。このように本能は生の本能として正しくとらえる必要がある。私はすべての本能は生の本能に集約されると思っている。この本能の正しい把握は本能に対する障害がないことを、政府に市民が要求する時の生存権をとらえる時の根本となる概念であり、障害がないという点では自由という概念に近いが、自由ではなく本能である。絶対的なものである。障害を無くするという要請を本能の外部にある人々に対して行うことは、その人の外部にいる人々の選択の自由の範囲の問題であるが、本能そのものは自由論の取り扱えない問題である。

他の人を殺す自由は人間には存在しないということを、ホッブスや、ロックや、ルソーのように、殺す自由というような種類の自由の相互放棄を社会契約によって行ったのだという議論は、(日本の刀刈りのように歴史の早い時期に行ない強い要請とした国もあり、アメリカのように遅い時期に弱い要請とした国もあるが)それ自体有効な説明方法ではあると思うが、そのような契約が事実としては事実法典にのっていること以外では存在しないという批判がある。しかしこれに対してはこのように殺す自由というものは他の人々の「生の本能」を抹殺するのであるからそのような自由は人間の本性上存在しないのだという説明もできる。相手の選択の自由の範囲内に存在する「自由な感情」を道徳的、倫理的に類推することによって思想・表現の自由などの自由な権利を価値論として認める場合よりも、相手の生の本能が単純に理解できればよいのであるから、そのような理解は感情移入しないでできるずっと簡単な相手の心の了解である。相手が生きたがっているということを了解できないような人はいないはずだからである。

この基本によって生命の尊重の倫理・道徳が生まれてくるのであり、ここに戦争や、破壊活動の防止や、禁止の概念が生まれてくるのである。

競争について

一方、競争そのものがいけないという批判、社会への依存性の高い人々の批判に対しては、競争して生の本能を奪うような戦争や破壊活動はよくないが、競争は陸上競技における百メートル短距離走の場合を想定して類推してみればわかるように、どこまでやれるかやってみよう、そのほうがみんなが努力をしてみんなが早く走れるようになるよ、そしてこれがビジネスの場合ならば、みんなが豊かになるよ、しかし最後に遅かった人や、給与や、利潤が少なかった人には政府としてか、あるいは皆の意思によってか、皆ができるだけ平等になるように助けてやるよ、ただそれは最後に努力してから後だけだよといっているのだと考えれば、依存性の強い人が怖がり、いやがる競争も是認されうるのである。

第五章 歴史と自由

政治思想論及び政治思想史は大量の自由論を提示する。また現代政治学も大量の自由論が現在もあることを提示する。しかし、政治思想史における過去の自由論と、現代政治学における現在の自由論とは異なったものである。なぜなら時代時代の環境に応じて自由がその環境に対して要求されているからである。現代においてすでに自由化されたことについて今更自由を要求するような自由論は存在しない。第二次世界大戦における自由の妨害が戦後すぐの自由論を生んだのであり、その後の東西冷戦に対応して、一九五八年にバーリンと、ベイの自由論が展開されたのである。それが現在まで続いていることは環境がまだその時代と似通っていることを示している。現在はノージックや、ロールズや、ドゥウォーキンの自由論が主役を占めているということは、戦後すぐとは異なっていることをしめしている。また、東西冷戦後の自由論は東西冷戦の時代とはやや異なった環境になったということがいえる。現在の東西冷戦終了後においてはまた新しい自由論が必要になってきているということをしめしている。

先に示したオックスフォードの事典は一九九六年版の事典であり、そこにおいてもバーリンの自由論について述べられているということはまだバーリンの自由論は有効性を失っていないのであろうことを示しているだろうし、そう私も思っているが、政治思想史の事典の自由の説明は政治学の事典とは相当に異なっている。まだ普通選挙権が獲得されていない時代には選挙の自由を獲得することが自由論の主題となっていたのであるが、現在普通選挙権が獲得されている時代において選挙の自由を獲得するための自由論は、選挙の自由を権利として得ていることにかんする説明であり、戸別訪問が許されていない現在の日本においては選挙活動における戸別訪問の自由に関する議論が自由論の主題になる可能性のほうが高い。その他棄権する自由等も自由論の課題となるであろう。これらは各時代各時代における自由論の差異である。これらの差異は政治学事典と政治思想史事典の自由に関する説明の差異の原因となっているものである。それらは自由の主張される環境によって差異が生じていることが比較検討してみればわかるはずである。人々がおかれている環境と同時に、因果関係を発生させるかもしれない歴史的な状況も相違するのである。東西冷戦終了後の現在の問題点はドゥウォーキンの平等論と、ノージックの自由尊重論をどのようにして総合するのが問題となっている。ロールズ的に総合することが妥当なのか、自由と平等を調和させるためにほかにもっとよい調和のさせかたがあるのか等他の総合の仕方に自由論は問題の関心を移しているのかもしれない。ノージックの不干渉主義はバーリンの消極的自由論に近く、ドゥウォーキンの平等論はその対局にある。これらはあまりにもはなれすぎているからである。

一般に伝統は人類の過去の叡知の集積として人々が受け継いできたものであると考えられている。しかし伝統を新しくして、自らに最適に変更することができるのもまた人類の叡知でもある。ミルはその自由論のなかで「進歩の原理が自由への愛としてか、それとも進歩への愛としてか、いずれの形態ををとるにせよ、それは常に慣習の支配に反対するものであり、少なくとも、慣習の軛からの解放を含んでいる。」(ミル、「自由論」、訳書一四二頁。、原書、頁。)と述べているのはこのことを示していると考えられる。ノージックの自由尊重主義はバーリンの消極的自由の延長線上にあると考えるならば、ナチズムや、全体主義やらの防波堤になる理論を折り込み済であると私は解釈する。またドゥウォーキンの理論は平等に関する歴史上の様々な理論の叡知の集積であると思われる。ドゥウォーキンがもっとも大切にするものはそれまでの法律的な経験が蓄積してきた伝統の叡知にほかならないからである。しかしこのような伝統を守るのも、伝統を変化させるのも自由な選択の可能性を持つ人間である。この選択の自由こそこの自由論が自由の本質として考察しているものである。自由と平等の両者を調和させ最も最適にするように選択する自由を行使しようとしているということになる。ロールズはロールズ自身の方法でこれにたいする答えを提出した。これは選択肢の一つである。しかしまだ他にも多くの選択肢が存在する。その選択肢を人々に提出し、その中から人々が自由に選択をできるようにすることは政治学及び政治の役割であり、その選択の自由の行使は政治そのものである。人間に自由が存在しているということはこの様な場合には制約がないことではなくて、選択の自由を持っているということである。そしてそのような自由そのものが政治ということになる。選択には一切の資金は要らず頭脳だけしか必要としない。したがって容姿のよさなども全く政治とは関係がない。このような政治においては金権政治は全くの対局にあるものである。政治は純粋な政治的選択しか必要がない。では現実の金権政治とは一体何なのかということになるのである。この哲学的な出発点は政治を見る場合には常に頭の中に入れておく必要がある。行政は政治の選択の結果を執行するものであり、司法はその結果を裁判所において適用する機能を持ったものであるということになる。

政治以外においても、政治においても、現代の新しい環境のなかで新しい自由を探し、自由を行使して、将来に向かって人間の社会の行く末を選択の自由を行使して選択するのは、一人一人の個人である。自らの力で自由は切り開かれねばならないし、一人一人が選択の力を持たねばならない。その力こそはフロムのいう積極的自由の涵養によって培われるものである。積極的な自由が存在しなければ自由から逃走して、権威主義に走り、すべての決定は権威に依存せざるをえなくなる。この依存は性格的なもの思われる。ある人が自己の干渉されない範囲については明確にしておくべきだというバーリンや、ノージックの主張はドゥウォーキンの平等の主張とともに大切にして、このような選択の自由の行使のおける叡智及び学問的業績として大切にすべきであると思われる。干渉されない自由の範囲は自分一人が密かに楽しみ、自分が老後を過ごす慰めのためにあるとともに、社会的な能力の涵養のためにも使われなくてはならないというのがフロムの見解であり、そのためにも干渉されない自由の範囲を意味する消極的自由は守っておかれねばならないということになる。

他人に干渉することのできる自由の範囲と、他人に干渉されるべきではない自由の範囲を決めておくことも重要なことである。その限界こそがまた重要な自由論の問題点でもある。バーリンのいう消極的自由の範囲を決定するために消極的自由の存在すべき部分にある一定の線を、ちょうど自分の家の敷地の境界のように、消極的自由が守られるべき範囲と積極的自由が及んでも仕方がない部分との間の線を引くという問題であるが、それはドゥウォーキンのいう自由の限界の理論が役に立つ。つまり、平等のために自由に限界を設けることはやむを得ないという考え方である。しかし彼は個別の自由権についてすべてを否定しているものではない。この矛盾を解くためには自由のなかにおける資源の問題にのみ限定して平等を考えるという方法がもっとも最適な解決方法であろうと思われる。干渉されない自由の範囲論と消極的自由の限界論とを調和させることによって始めて境界線を引くことができるのである。法の下の平等は裁判や、政治的判断における一個の人間を一個の人間として取り扱おうという個人主義の原則であり、それは人間を自由な個人として扱おうとするものであるから、自由とまったく矛盾するものではない。法の下の平等は、自由を認めるということそのものと等しいのである。この原則は平等の原則ではあるがそこから自由を制約しようという議論は発生させずにかえって自由を守ろうという議論しか発生させない。ある人を自由のある人と認めて、ある人を自由のない人と認めること、例えばある人に選挙の自由を認めてある人に選挙の自由を認めないというようなことはあってはならないということである。逆に全ての人に自由を認めないということがあるかもしれないが、その時の問題はその時に例えばナチズムにおけるような全員の自由からの逃走がおきて、大変な結果になるということになる。法の下で全員の自由を悪平等に制約しようという場合は別として、平等に自由にしようという場合の法の下の平等は、自由との関係において問題となることはないので、自由との関係において問題になる資源を平等にしておくために自由を制限しようという主張に対しては自由のなかの資源という要素があるという主張が最も適当であると考えられる。このように過去の叡知を生かしながら私達は人間にあった最適の選択をすべきであると考えられる。

第六節 自由の目的

各時代の自由論が目指したもの

自由が自由権となるまでの歴史

歴史的に見れば一八五九年のミルの自由論はその過去を調べその当時の現在における自由について考察したのである。それから約百年後一九五八年にはそれまでの過去を調べ、バーリンとベイはその当時の自由論をかいたのである。アリストテレスが共有と、私有とについて書いたのもその前の過去を調べ、その当時の現在に対して自由論を述べたものであり、マキャベリーはクセノフォンの『ヒエロ=僣主論』を調べて、専制や独裁や僣主について研究しその当時の現在についての自由について論じたのである。クセノフォンについての研究は過去の自由についての研究であったのである。過去を調べ当時の現在にとっての未来を切り開くためにすべての自由論は書かれたものであると考えられる。何故なら自由論は選択の自由の可能性について論ずるものであるから未来に向かっているものであるからだ。それらによって切り開かれたのが現在の一九九六年という今日である。それらの積み重ねがなかったならば現在の我々に社会的に認められている自由はなかったかもしれない。そこに自由論の偉大さがある。今日までの自由権の歴史は、ロスコー・パウンド等の自由権の歴史の記述によって知ることができる。自由を主張した人々の功績の結果として社会及び社会科学の一大遺産があるといえるであろう。それらは永遠に記述される必要がある。そのことにより後戻りしないことが要求される。普通選挙権がなかった人々に与えられた選挙の自由その他の自由権は、人間の社会をより良きものにするために、選択の自由を行使することができるために使用されなければならないのである。自由権が獲得されてはじめて社会の中において人間は自由に選択の自由という人間本来のものを行使することが出来るようになるのである。私は人間は政治的人間であると信じている。これはアリストテレスと同感である。すべての人の行動や、思考に政治性があるものと信じている。またすべての人の行動や思考を毎日政治的なものとして観察している。その政治性を百パーセント発揮できるような自由が、法的にも、政治的にも達成されるようになることをこの自由論の目標としている。

過去の選択の自由権達成の歴史によって現在があることを忘れずに更に未来へと人間は向かっていくのである。伝統と伝統からの自由な選択、この二つのうちの良いほうを選択する自由を与えられているかぎり、人間の将来は最適なものになるが、伝統のみに固執したり、変化のみに固執することは人間の将来を不安定なものにするし、最適な選択はありえないことになる。現在の新しい環境には選択の自由によって新しい政治が必要である。伝統を選ぶにしても選択の自由によってでなくてはならない。

共産主義に関しても同じようなことがいえる。かってペレストロイカ時代のソ連においては保守的というのは共産主義化のままの体制を維持することであり、革新というのは資本主義を取り入れ選択の自由を認めるということであった。革新が資本主義的自由化という意味であったのであり、日本の現在の用法とはまったく逆になってしまっている。資本主義化が革新的なものであった。それにより現在は東西冷戦の終結を迎えた。ペレストロイカ時代の自由という言葉は、かって社会主義化を果たしたマルクス・レーニン主義が自由であった時代の自由という言葉の意味が逆転し、マルクス・レーニン主義の方が保守的となってしまった。自由を抑圧するものとなってしまった。それは自由を取り巻く環境が変わったからである。貧乏な人々に自由を与えるためにという意味での自由から、今度は社会全体が選択の自由を得るため、そのような真の人間の本質である自由を、選択の自由を求めるようになったことが保守と革新の逆転をもたらしたのだった。ペレストロイカの時代の伝統は過去のマルクス・レーニン主義でもあった。支配層の伝統はマルクス・レーニン主義であった。伝統は過去の歴史から生まれるもので、歴史から学びとる叡知は数多くあり、ソ連においてもそうだっただろう。しかし歴史から得られた教訓が現代にも通用する部分を持っているとすれば、伝統として尊重すべきであろう。伝統は歴史から得られた教訓のうちで現在でも通用する部分が現在の生活のなかにいかされて、利用されているものである。たしかにペレストロイカ時代の過去はマルクスとレーニンという二人の主張によって主に作られたものであったが、マルクス・レーニン主義が政治権力を握っていたからといっても、それは伝統のすべてであったということは出来ないかもしれない。それ以前のロシアの伝統もあったし、マルクス・レーニン主義は本当は定着していなかったのかもしれない。それは中国の毛沢東による文化大革命においても、文化という伝統的なものをマルクス・レーニン・毛沢東主義として革命として定着させようとしてもそれ以前の伝統のなかに完全に定着させることは出来なかったのかもしれない。しかしマルクス・レーニン主義などはすべて過去の伝統となって現在に受け継がれていることは間違いない。

第七節 選択された自由としての過去の政治と、選択の自由としての現在の政治

自由のための環境が相違している場合には歴史上の政治(過去に選択されてきた自由)とは相違する現代の政治(現在の選択の自由)を探さなければならない。ペレストロイカはまさにそれであった。歴史上の自由と、現代の自由とが相当な程度に共通する部分があれば政治は安定的であるが、それが少なければ少ないほど変化が求められることが多くなる。冷戦終了後の現代の政治はそのどちらといえるのであろうか。戦争というものがほとんど全部否定された現代であるからこそ、その答えを一人一人の人間、政治のただなかにある人間、それを公民と呼んでよいかもしれないが、そのような人間として、一人一人の人間が探さねばならなくなった。国家と、個人が同一化されていない時代だからこそ、一人一人の公民に対して向けられた問いに対して一人一人の個人としての人間が真剣にこたえを探さねばならない時代がやって来たといえると私は思う。それは国際的にも国内的にでもある。

マキャベリーが過去のローマ史と、当時の現在的政治の双方を研究していって人間の自由な選択としての政治を政治家及び政治学者として研究したように、またルターらのプロテスタントが宗教的自由を求めて立ち上がったように、またフランス革命において人々が自由を求めてたちあがったように、またアメリカ合衆国の独立において人々が自由を求めてたちあがったように、そして現在は地球上の一人一人の人間はそれらの自由をも取り入れながら、取り入れるべきところは取り入れ、捨てるべきところは捨て、自らの新しい自由を獲得せねばならないといえるのである。冷戦後の世界は人間に新しい真の自由の獲得を要請していると私は考える。そうでなければ冷戦が終結した意味はないのではなかろうか。二つの大きな陣営が消滅したということはそれらに制約されていた様々な自由は時代の変化とともに考え直されねばならない時代がやって来たのである。共産主義陣営においては共産主義の批判ができなかったし、資本主義の陣営においては資本主義の批判ができなかった。国家や陣営のため多くの自由が犠牲にされてきた。東西冷戦の時代には資本主義陣営と、社会・共産主義陣営の対立は一触即発の第三次世界大戦の勃発の可能性を秘めていたために、多くのことがそのために言えなかった。しかしその危険が回避されたのであるから、なぜこのようになったのか、文明が変化してしまったのではないか、いや自由の現在がそうとうに変化したのではないかということについて深く研究することが出来る時代がやって来た、つまり、人間の選択の自由は大きく広がったのだということに目を向ける必要がある時代がやってきたのである。

第八節 間主観性と間主観性を超越した客観的人間関係の判定 原人と被人あるいは原告と被告

先に示した裁判においては原告に当たるような人、これを原人と名付けることとするが、自由論や政治学の場合には先にいいだした人とか、先に言い分を聞いた人とか、先に要求を提出した人とか、先に不満をいった人とか、先に自由を主張した人とか、先に権利を主張している人とかというような意味である。それに対して裁判においては被告に当たるような人を被人と呼ぶこととした。これは政治においてであるから、現実の実定法に関係がなくても、自分や社会の理想とする自然法や、制定されていない法や、けんけつのある法など、また悪法と思われる法律に対して意義を申し立てている人など裁判所に提出することが出来ないような事件、すなわち、実定法以外の法に関する事件、これは事件ではなくてケースとよぶほうがよいかもしれないが、そのようなものも政治や自由論は担当せねばならないからである。

なぜここで間主観性(Intersubjektivitt : ドイツ語)というフッサールの用語で、「二人以上の人が同一の事象を見ているときの複数主観の認識論的関係をいう」(日本で最も権威のある辞典兼事典である『広辞苑』による定義) とされる言葉を自由を論ずるときに用いたかについて述べておく必要がある。

自由の主張は対人関係において他の人に対する要求として述べられることが多く、かつ、その自由という言葉はフロムと、バーリンが同じ積極的自由という言葉を全く正反対の意味に使ったように使う人の主観によって大きく意味が異なり、それが人間関係のなかにおいて、法律の場である裁判所においてのように考えていく時にはどうしても主観性の相違を考慮しなくてはならないからである。その自由の認識が性格の傾向によって規制されている点を政治学的に、かつ、政治認識心理学的に明らかにしていくためには間主観性の認識が必要であると考えたからである。

裁判においては、原告と、被告の主張は間主観的であっても、訴状と、それに対する陳述書によって知ることが出来る。

しかし政治の場においてはそれは政治的な主張から主張の内容を判断していくしか方法がない。主張の内容は多岐にわたっており、現実の政治においては国会内の与野党の主張の差や、政治学者の主張の差や、政治的なイデオロギーの差として、また、その他の日常の生活における政治的な意見の差として把握して、それらを判断していくことになる。

しかし現実的にはそれは政党の意見の差、政党を法人としてみれば、法人と法人の人間的関係というものとしてとらえることができるし、個人と個人の政治的意見の差、つまり人間と人間の人間関係における意見の差として把握することが出来る。ある一つの人間関係は、政党の法人的人間的な関係も人間関係と呼ぶとすれば、そのような人間的関係も、原人と被人との対立であるということができる。これは政治という自由の選択の過程においてもそうであるが、自由そのものをとらえようとすれば更にそのことがいえるのである。政治が自由を主張しあっているというようにとらえるとすれば、これは権利と義務という自由と、自由の妨害というものの対決であるとしてとらえられる裁判と非常によく似ていると考えることが出来る。この場合に義務を、妨害をしないで、権利のある人に自由にさせておくことの強制であるととらえるならば、これは自由論における自由の強制という問題と似ていることになる。権利はあることをする事が自由である、つまり、あることをすることについて障害が存在しないことを裁判所が法的に認め、それを裁判所が認めれば同じことについて義務があること、すなわちその人がすることを他人である自分や政府が妨害をせずに、それを行わせなくてはならないということである。それを妨害してはならないということである。つまり裁判所はそのことをすることが自由であることを、強制できるのである。それは法の力によって、三段論法によって行われるのである。

これは政治の人間関係においても同じようなことがおこる。

人間関係において原人は間主観的に自由のあることを主張して、被人はそのような自由の存在しないことを主張していると考えてみよう。

原人の間主観的な人間関係は、被人の間主観的な人間関係も考慮した上で、両者の間主観を総合してこそ一個の人間関係が客観的に把握できるのである。そこにこれまでの主観、客観論を総合して新しい社会科学と、行動科学と、心理学を作り上げる出発点がある。

原人と被人とに分けることは自由が、原人による被人の自由の妨害や、被人による原人の自由の妨害つまり人的な妨害による不自由がもっとも大きな部分を占めているからである。したがって人間関係における自由の問題は、人間が社会的自由という名前で論争してきた最も主要なものであるからである。その他自由は心理学的自由や、潜在的自由や、自由意思とかよばれているものであり、それらも実は人間関係のなかから生じてきた自由の概念と見ることができるのであり、人間関係における自由がもっとも重要であるということが出来る。

国家が個人の自由に干渉してよいかどうかという問題も実は人間関係における自由の問題であると考えられる。他人が個人に干渉するのも、他人が集合して国家の名において個人」に干渉するのも、実は人間関係の問題としてとらえることができるからである。

したがって自由の問題は、人間関係のなかにおいてある人が自由を主張しているのだというように考えることが出来る。その自由の問題を解決するためには間主観的な自由の主張、つまり、マルクスの主張は「真の自由」を主張しているというような一方的な主張を聞くのではなくて、その自由の主張を聞いている資本家の、所有者の、自分たちで十分に所有地や、所有物をきちんと利用し、掃除をし、うまく運営している人々、企業家精神でいろいろなことをやっている人々の意見も聞き、その両方の間主観的な意見を聞き、その両方の間の人間関係を客観的に把握しなければならないということである。間主観的とはそれぞれの主観は様々な人に応じて異なっており一つの人間関係は片方から見たみかたと、他方から見たみかたとの二つが存在しているということである。そしてそれにもかかわらず、二人のあいだには主観性とは異なったある一定の人間的関係、私が分析しようとしているような依存的関係や、独立的関係というようなものが存在しているということである。被人に依存していないと言っている原人がたとえいたとしても、客観的に見れば原人は被人に依存したいということをいっているのみであるということを簡単に感知できる場合がありうる。この場合原人がかわいそうであるという理由で、原人のいっていることがもっともだという事と、依存したいといっているということを見抜くこととは全く別の手法である。前者は間主観的な判断であり、後者は間主観を超越した客観的な判断である。

この客観的な判断を客観的な人間関係の評価、客観的な社会の把握というとすればこのような判断こそが社会や人間関係の把握において求められていることになる。これは「冷たい理性と温かい心(warmheart and cool head)」とある経済学者がいった場合の冷たい理性にあたるものととらえてはならない。この場合には原人の心も、被人の心も温かくとらえられているのであり、その上で客観的評価がなされているのであるから、冷たい理性も、温かい心の両者を持っていることになる。マルクスのイデオロギー的なもののみかたはどちらかしかみていないということは十分にありうるのである。

原人と被人との間に起こった人間関係はまず原人からその事情が話されるが、それを聞き、それだけでは不公平であり、不十分であるという理由で、被人からも事情を聴くことになり、それらの間の自由の問題について検討することになる。これが自由を高めるのに有効に利用されるべきである。これまでのカウンセリングの理論や、臨床心理学や、人間関係論の欠点はこのような自由の取り合いという問題を両者から意見を聞かずに、片方からのみ意見を聞いて直そうとしていたところに問題があったと考えられ、社会・政治精神医学の根本的方法はこの「温かい心と、冷たい理性」を併用したこの人間関係の理解にあると考えられる。

そうした上で原人と被人の両者の主観的な説明、間主観的と名付ける学者にしたがって、間主観的と名付けるが、そのような説明を聞き、全体の環境や、状況から判断して出来るだけ客観的で、自然法的にも妥当と思われる結論を出していくべきであり、少なくとも依存性の側からのみその人間関係を見ることは全体の解決には全くならないということに留意すべきである。そのような依存の側からのみ見た解決は、全く有害そのものとなる場合がある。

政治的判断という言葉は、裁判の場合の判決と同じような意味をもつ。そうであるとすれば三段論法によっているのであるから、この判断は規範と、事実と、判断という方法によったものになる。規範が三段論法においてでてくるのは、政治が規範論でもあるということを示している。規範は制度と深く結びついている。個別の人の個別的な自由を規制する規範も問題となるがそれと同時に、社会の決めた規範というものも問題となる。そしてそれらを総合的に判断しなくてはならないことになる。

規範論が政治学においてどのような位置をしめるのかについていえば、このように三段論法と、三段のうちの第一段である規範などの価値について論ずることは重要なことである。無価値を社会科学の前提とするということは、三段論法を使用しないということになる。そうなるとあたかも自然科学のような形態を整えながら、そこにすべてが価値を含んでいて、それを科学的だというような労働価値説のような論法となる可能性がある。ウエーバーのいうような解釈学についても価値は含まれることになる。また経済学においても効用の価値により商品に対して効用を認め売買が行われるとすれば、商品に対する効用価値が第一前提となっているのでそのような稀少性生に関する判断が合理的なものであれ非合理的なものであれ価値や規範論から逃れることはできない。効用、商品、売買も三段論法であるといえる。

このように判断のなかに三段論法を用いることは、第一段において規範という価値を前提としているということになる。アリストテレスの考えた善も、それを賛美したレオ・シュトラウスのいう善も、マキャベリーの徳(ビルツー)も、ほとんどすべての思想家が自分で善や、正しいと考えて書いているものはすべて、ある意味では価値論である。この世のあらゆる書物が三段論法によって書かれているとすれば、この世のすべての思想の中身は価値を含んでいて、その価値観に応じた事実を探してきて、結論を出しているイデオロギーに満ちたものであるということになる。そのイデオロギーの依って来る所のものを探究するのもまた三段論法によっているということになる。三段論法とはこの世のすべての思想のなかみを、価値観と、事実と、それを評価した結果である結論の三つの部分に分けることが出来るといっているのである。三段論法によっていない論理は存在しないのであろうか。価値を価値であると客観的に断定しているものは価値論が入っているといえるであろうか。客観的であろうか。

またケルゼンのいう純粋法学などはそれを機械的に、フロムのいう自動機械のようになって三段論法を実行に移そうとしたのである。ところが間主観性の議論のところで明らかにしたように、原人の主張に含まれている三段論法と、被人の主張に含まれる三段論法と、政治的判断や、判決のなかに含まれる三段論法は相違している。

客観性において高い、低いがあるとすれば、判決や、判定のほうが高い客観性をもつことになる。これは法哲学における判決についても、政治哲学における判断の意味のとらえ方についても、双方に共通にいえることである。客観性は、様々な議論においてその量的な差異があり、それらの議論は重層的に上位に向かっていくことが出来るということになる。議論は常に客観性を高める方向に向かわなければならないということになる。

第九節 間主観性を越えた「真の社会の科学=真の人間関係の科学」を目指して

社会科学の方法論

間主観性がある原人と被人の判断を総合して得られた総合判断を、政治的判定というとしても、それは裁判の判決に似ていて、それらも誤判と同じように誤っている場合もありうる。それは常に心に明記しておかねばならない。しかし誤判がなく、かつ、総合的で客観的な判断であるように常に努力しなければならない。また、それらの判断が専制や独裁による判断の誤りである場合には、それは政治的権力によるものである多大の損失を伴う。このような誤りは極力なくさねばならない。そこに科学的な政治哲学の必要な理由がある。歴史は様々な政治的な誤りを記述してきた。政治の動きは歴史の流れに影響もされてまた多くの誤りをおかしてきた。そこに歴史主義の誤りを見て取り歴史主義に批判を加えたポッパーのような人も現れてきた原因があった。そのような誤りは今後は絶対に起こってはならないと考えられる。

三段論法のもう一つの側面である両者のいう事実を総合して判断した事実というものに関しても、実は何百人の人が集団的に熱情に浮かれていっていることが実は誤りであったというようなことがありうることを、最近の社会心理学は実験で証明しようとしている。人間関係の基本は個人と、個人の人間関係であり、それ以上のものでも以下のものでもない。個人と個人の人間関係を科学的に判断を下していくことが今後どのくらい大切かということは左翼的感情が衰退してくるのと比例して大きくなってきている。個人個人の人間関係は現在の問題であり、何度もフィード・バックして検証することが出来る。このようにして間主観的な人間関係はもっと疑わしくない事実が、学問として積み重ねていかれねばならないと考えられる。行動主義の後に出てくるべきものは、行動の後ろにある「様々な考え方、これを間主観的な考え方」とよぶが、これらを誤ってマルクスや、フロイトのように客観的と主張することなしに、間主観的と認めた上で、それらを両者の間の客観的な人間関係の把握という点にまで高めて、両者の自由を高めるというところまで科学と、社会科学の目的を高めるものでなくてはならない。これは現在の、東西冷戦後の我々にとって最も重要な問題を解決することになる。社会科学全般についていえることであり、経済学、政治学、教育学、法学、社会学等々についてこれはいえることである。

ポスト・モダニズムの社会科学は、過去のことについてのべているのではない、現在のことについて述べているのである。確率的には現在の問題こそ調査をしやすい。したがってポスト・モダニズムは現在においての問題であるからこそ、現在の規範と、現在の事実を、現在の判定の問題として研究がしやすいのである。現在のことについて多くの人の人間関係を調査して判断を加えていけば、過去の場合よりも確率的には正しい事実がでてきやすい。現在の問題については裁判所は取り扱うが、過去の事件については今更訴えの利益がないとして、裁判所は取り扱わないのであるから、過去の事実も政治学や、自由論は研究するべきであるという見解も確かに存在するし、法の体系もドゥウォーキンのいうように伝統の集積であるから、過去のことも同時に調べなければならないという意見は留意に値する。しかしそれらはすべて現在及び将来の行動という目的のために研究されるのであることもまた忘れてはならないのである。

規範については規範的観点をなくした政治学や、自由論を形成しなくてはならないという意見についてはこれまでも多くの学者によって主張されてきた意見である。その主張が依存性による間主観性のようなイデオロギー性をなくせといっているのか、三段論法による時の規範の存在をなくせといっているのかによって、全くその答えは相違してくることになる。前者は以上述べたとうりに絶対的に科学的なものではありえない。ところが規範性については、規範意識が非常に強い人と、法律にはふれないが法律ぎりぎりの大きさしかない人との二種類が存在する。それによって判断は違ってくる。妊娠中絶は悪いという人と、それは人間の権利という人とでは判断が違ってくるし、黒人を優遇するべきか、そのような逆差別は過去の補償であっても許されないという人とではまた判断が違ってくる。そのような規範が全く政治学や、自由論において存在すべきではなく、歴史の事実しか存在すべきではないという観点に立てば、政治科学は存在するか、自由論は存在するかというオークショット氏の議論に逆戻りすることになる。イギリスにおいて階級的な差や、所有の多い、少ないの差が非常に顕著であるならば、それが良いのかどうかについての議論は政治学や、自由論においてはなすべきであると私は思う。

過去における政治的ジェノサイド(人種抹殺)とか、政治的粛清などについては、人間関係における間主観と、間主観との間の客観的判断によって再検討を科学的に行っていかねばならないと思われる。そして間主観の正しい解釈を行うためには間主観に潜む「心理学的」、かつ、「政治心理学的」要素の分析を行わなければ客観的な判断は難しいと思われる。私はそれを依存性という観点から見るべきだと思っている。すべてのこれまでの人格の表現に用いられてきた用語は依存性という観点から説明が可能である。依存的な人があなたの前にいてゆったりとしている時はその人が依存できて満足しているときであり、イライラしているときにはその人が依存できなくて満足できていない時である。このことは非常に重要なことである。なぜなら環境に応じて性格が全く逆になっているからである。これまで使っていた性格に関する言葉はほとんど依存の側から見た言葉であって自由で独立した人から見た言葉はほとんど存在しなかった。このようにある人の性格は、依存性のある人にとってはその状況によって、全く相違する。フロイトと、ユングの別れに当たってのフロイトの失神などは依存性のあるひとの性格をもっともよく示している。最もよく示している。このような人間関係的な多数の要素を、裁判における判決や、人間関係の判断における判定に取り入れないと、法的な判断のみでは全く解決できない多くのケースが存在する。そのようなケースはこれまで法社会学や、政治社会学の分野であると考えられてきたが、それらは自由を無くした平等の理論に支えられていたことが多く、各人の性格的な自由の問題であるという考え方は少なかった。この考え方を取り入れたのは、クリスチャン・ベイの『自由の構造』と、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』の労作であった。これらは全体主義や、集団主義や、権威主義にたいする反省として書かれたものではあったが、現在の東西冷戦後の世界においては個人個人の自由に関する性格の問題として取り上げられるべき問題であると考えられる。権威主義的性格と、個人主義の未定着という問題は、現代の日本でも世界のあらゆるところで問題となっていることであるからだ。法律の純粋な適用のみでは解決できない多くのケースについて、将来は法的な判決のなかにもそのような依存と、独立という政治心理学的な自由の判断がはいってくる可能性がありうるであろう。法は自由の問題と密接に関わっているからである。刑法における自由論はこの意味でも自由論の重要な一部であるべきである。

マキャベリーの『君主論』や、『政略論』のなかにも政治心理学的な問題が数多く出てくる。マキャベリーの使った言葉のなかには多くの心理的な表現が出てくる。これらは今でも未解明な部分が多い。そのような言葉の解明には客観的な判断が必要であるといえる。

第十節 依存性」と、「依存しないで自由で独立であること」との二元論とそのメリット

甘えと、依存の共通性

二元法はコンピュターの二進法のようにすべての数字と事物を表現できる場合が存在する

依存は、日本ではその反対語である独立との間には、直接的な語源的な対応関係はないが、英語においては

dependenceと、independenceとは反対の意味関係にあることが分かる。一方土居の『甘えの構造』においては母子関係においてとらえられた甘えはほぼ依存ということになる。ただしこの甘えは母親との関係にのみ限定されており、父権社会の傾向の強かった日本の現状を言い当てているとは私は思わないし、現状の把握がもっとちがったところに私たちを導くと思っている。独立と自由とはどのような関係にあるのであろうか。他人から独立しているということは他人から干渉されたり、妨害されたりすることはないということをあらわしている。しかし自由とはどのように違うのであろうか。自由は何かをすることができるということである。これにたいして独立は他人から独立して何かを出来るということである。他の国家から独立するということは、他の国家の干渉を排除するということである。独立の方が自由よりも範囲が広いということが出来る。独立であれば自由であるが、自由であるからといっても、独立しているとは限らない。自由の対立語は不自由であるが、独立の対立語は依存である。依存においては自分は出来ないが、他人は出来るから、それに依存するという意味である。自由は独立という言葉のなかに含まれるが、独立の反対語は依存であるから、依存していないこと、つまり、独立であることには自由の意味が含まれている。依存していないことは、自由であるということとともに、フロムのいう自我の涵養が出来ていて、自分で何でもやれるようになっていることも含まれている。依存性がある人は依存される側を実際よりも巨大に見ている。これが依存性が自我の観点からみてバーリンのいう巨大な自我、国家とかを「真の自由」とみなす理由である。

一方依存される側は母親の場合には全く説明の要らないぐらいに大きな存在であるとされているが、一般には依存される側は被依存者としてとらえて被依存性の中身が考察されねばならないことになる。母親は本来的に本能的に依存されるものと考えられているから、被依存性の中身について考察されたことがないだけであり、これからの考察は母子関係をも考察していると考えてもらって差し支えない。

依存は被依存者の自由をなくすと同時に、依存者の自由をもなくす。自我が完成せず、不自由のままである。

ここではすべての性格に関する表現を依存という言葉によって説明できることを証明する。この二元法はコンピューターの考え方と類似する。

これは政治学や自由論における専制や、独裁についても、依存によって説明が出来るということをあらわしている。

専制や、独裁は権威に対する依存の状態から抜けきれずにいる状態であり、それは権威の側からみれば、依存されていて、強大な権威を持っている状態である。支配される人のバーリンのいう消極的自由が少ないからこそ、逆から言えば、支配する人の積極的自由は強大であり、独裁や、専制といわれているのであり、この場合の積極的自由と、消極的自由は合計としては何時も一緒の合計量であるということになる。このように人間の社会的なもののいいかたのなかには、論理学的に合計すれば百パーセントになるような、正反対の言葉があるし、いくつかの要素の数量の合計が百パーセントになるような言葉の群がある。このような場合には述べているときにどれとどれが合計すると百パーセントになるような言葉であるのかについて常に考慮しながら論理を組み立てる必要があるような性質のものが存在する。

依存と、独立とは合計で百になるような言葉である。また、それは依存と自由も合計で百になるような性質のものである。したがって、専制や、独裁がバーリンの積極的自由というように解釈される場合には、消極的自由との関連では合計で百パーセントということになる。政治学における専制や、独裁を自由論の立場から考察した場合にはこのように解釈することも可能であるということになる。この解釈はほとんどの場合誤っていないと私は考えている。

一元論は絶対主義であり、すべてを表現するということは出来ないが、適切に選択された二元論はすべてを表現することが出来る場合がある。しかし、適切にという言葉がこの文章の重要な部分であり、適切でなくてはならない。今表そうとしている人間の性格の傾向のうちで、依存性と、依存されていることのみを抽出して、ある人が積極的であることについてそれを依存性と、被依存性という状態および行動として表現し、そして依存性が少なくなればなるほど、独立性と、自由性が増大するというように、同一座標軸の上で描ききれなくてはならないと同時に、多元的なものが二元論に集約されるのであるから、その他の要素もすべて依存性という観点から説明されるということが証明されていなくてはならない。つまり、多数の軸からなるものが実は二元の軸の上の違いであることが証明されなくてはならない。

十進法により表された〇から、十までのそれぞれの数字が二進法により〇か一の数字で表現できることは、数の違いが実は一つずつの違いであったこと、〇と一は合計として一つの全体としての一を表現していたということによって可能になったものである。これと同じことは依存と、被依存とは全体として百パーセントを表現しているし、依存と、自由や独立も、その程度をパーセントであらわせば合計で百パーセントで表しうるということから、さらにはこの二元論はその他の要素もこの二元によって証明できるということから必要にして、十分な分析概念となりうるのである。依存と、自由の対立、専制と自由の対立、バーリンの積極的自由と、消極的自由の対立、フロムの消極的自由と、積極的自由はどちらもネガティブと、ポジティブという言葉を使っているのであるが、それらは強者と弱者の対立等政治学の様々な対立概念をすべて表現できると考えられ、それだけの哲学的な本質をついていると考えられるから、自由論においても政治学においても根本的な概念になりうると私は考えており、それらは経験的な観察の結果でもあるが、理論的に証明されねばならないと思っているのである。人間と人間の関係よりなる社会を科学的に、客観的にとらえようとする社会科学においても、その根源となる人間関係の心理より、社会心理より発生したすべての人間の性格の傾向や、社会の制度の傾向や、社会的な集合的な性格の傾向を分析するときにも、この対立する二つの言葉は有効にすべての座標軸を二元論によって表現できると私は思っている。経験論な私の観察の結果を理論化しようと思っている。

自由で独立であるインディペンダンスの反対は、依存ディペンダンスである。このこと日本ではあまり定着していなかった概念である。

例えば人間の性格を表現する言葉について考えてみよう。日本の兄弟構成論でいわれている長男的性格や、六男的性格というようないいかたは類型論といわれるものであるが、長男も、六男も生まれた順番であり、それを変えることはできない。ところがそれを依存的性格と、独立的性格というように依存性という特性によって分析すれば、もっと独立しようと思うことも出来る。しかし他人に対して非行少年的な自由や、その他のバーリンのいう積極的自由しか行使していなくて、自我の確立したフロムのいう積極的自由を持たないとすれば、どのようにしたら自我を確立して自己を涵養できるのかということを考えていくことが出来る。このように変えることの出来ない類型論は自由という人間の本質、選択の自由というものには馴染まないものである。人間は変化することが出来るのである。すべての性格を表現する言葉をそのような長男的とか、次男的とか、六男的とか、末っ子的な性格というような類型論による言葉ではなくて、依存性のようなものさしによって計ることにより、長男や、六男に生まれたことはどうしようもないことであるが、何らかの変化を起こす材料にすることが出来るというメリットを持っているのである。依存性という言葉によって理解し、その程度をその尺度によってあらわせば、そのように理解したとすれば、独立的とか、自由とかいう方向に改善できる点にメリットがあるということができる。これは、権威主義とか、自由主義とか、独立的とかいう尺度でその割合を表現したものであるから、それが悪いことで自分が改善しようと思えば、自分の努力でそれを自分が正しいと思う方向に向かわしめることが出来るのであり、それは人間が本能の代わりに、植物でいえば走光性のような性格の傾向というものでありそれが社会や、歴史に適合していないと自分が学習して理解すればそれに合わせて、自分の力で、他人から強制されることなく、変更することが出来るのであるから、未来に向かったオプティミスティツクな考え方である。

それは本能というものとは違う選択の自由という人間の本性から発生したものである。またそれは生物的な本能としてとらえる考え方の正反対にある考え方である。またそれは人間全体を生物的な、本能的なものの見方のなかには他の人と競争して、倒してしまおうという意識が必ずその心の内にあるものである。したがって、それは秘密と依存のなかで考えられる考え方である。ちょうどそれはナチスのドイツ民族は優秀な民族であるとかいう考え方と似ている。開かれた独立的な考え方は、秘密的と、依存的という依存的な考え方の対局にあるものである。独立性はオープンにする。「都市の空気は自由にする」という言葉は今でも、中世におけるように通用する言葉である。自由と独立は人の社会をオープンにすると考えられる。ここでは開かれたという言葉と、秘密的なという言葉を、依存と、独立という尺度に置き換えたのであるが、そうであれば中世の政治も、マキャベリーの自由の概念も、全体主義における秘密警察もすべて依存性と、独立性という考え方で切ってみようとすることは、自由が非常に哲学的な言葉であるがゆえに哲学的な切り方であるといいうるのである。そのためには自由の哲学的な意味も十分に人間の本性であるから、人間全員が理解しておく必要があるということになるのである。そしてまた自由という言葉は、人間の本性であるからこそ日常のあらゆる側面において、俗な側面でも、聖なる側面でも、遊びにおいても、学習(学校)においても常に現れてくる言葉なのである。そして選択の自由の一側面である政治においては自由はもっとも大切な概念となるのである。

第十一節 依存性からの脱却を啓蒙することはできるが、

それと同じことを表現する場合に自由であることを強制するという表現は妥当ではない

自由の強制と、依存からの脱却と、自由を高めるという言葉とは同じ意味を表している場合がある。自由を強制するということは強制という言葉がネックになって、反感を持たれたり、独裁のために利用されたり、全体主義の執行に利用されたりした。しかし、「自由であることの強制」というかわりに、「依存からの脱却を」といえば、これは強制という要素を除いていっているのであり、誤解を招くことが少ない言葉である。

依存しようとおもって他人の大人の服にすがって、泣きわめいてだっこしてくれといっている子供に対しても、社会に出た大人で頑張る代わりに依存しようと一生懸命に泣きわめいている大人の人も、それが、正しい依存であるのかどうかについて、自由の本質について研究してみて、依存と独立の座標のどちらかに軸を移してしまおうと思うならば、どうか依存しないで独立して、自由に軸足を移してほしいと思う。その時に自由を可能とする資源が足りないならば、義賊にはならずに、社会の制度の傾向を自由と平等の調和する方向にむけていくために政治的な自由な意見を自由に発表すべきである。それは子供も大人もそうすべきである。家庭においても自由は確保されるべきであるし、それは社会においても同様である。家庭において児童に自由がないくらいに、資源の平等が足りないならば、児童手当を多く支給するような社会を形成するという方法もある。それでは出生率を増大しすぎるというのであれば、人口減退期には積極的に、人口過多の時期には消極的に行えばよいのである。それも社会的な選択の自由である。

依存性が高いと自分が思った人も、もう依存的であると自分で気付いたのであるから、それまでのように秘密的になることなく、依存しようと自ら思わないように努力して、依存しないで、独立した自由な人間になるように自分で努力して、明るい開かれた人間になればよいのである。嫉妬や、妬みは、最後に科学的にとらえられるようになるべきである。

第一二節 悪法は法ではない

悪政は政治ではない

それは平等な資源を重視しているあまりに正義をなくしているからであり、

それは経済学の合理性にまかせるべきである。

悪法は法か。悪政は政治か。悪いものを民主主義においては変更する抵抗権があるのであるから、実定法により定められた法や、それを定めた政治に対して、多数派を形成して変更を求めるのが政治である。これに対して多数派が少数者を多数の名において自由を制限した例としてミルが『自由論』において挙げた事例はモルモン教の布教の事例であった。これに対してバーリンの消極的自由の概念を適用するとすれば、モルモン教徒の側も少数者ではあっても、自分たちの教義とその実行に関して干渉されない自由な権利があるという主張になるであろう。しかしミルがモルモン教徒の一夫多妻については婦人の権利を侵害しているのは認めるがと弁解しながら、その布教の自由を認め、そのことが婦人の権利を害していると考えるのであれば、そのようなことは誤っていると説得すればよいではないかということを主張している。(訳書、一八四頁〜一八八頁。原書、p.−p.. )

多数派に対して少数派はこのように弱い立場にあるものであり、少数派であるからといって多数派の作った法が誤ったものであると思うならば、それに抵抗できる権利を認めるべきであろう。ただし平等のために自由を認めないという主義は人間の本性である自由を破壊しないかぎりにおいてのみ自由を強制されることはないというロールズの見解も参考にすべきである。

悪政とは悪い法の立法、悪い法の司法判断、悪い行政等政治のすべての側面についての悪である。悪の反対は善である。善政、善法の探究が政治学の目標というアリストテレスの古代の政治学の主要課題となった。従って、少数者にとっても善政であるような政治や法を今後は求めていかねばならないと主張するしか方法はないであろう。そうなれば多数者が作った法律や多数者の政治に対して少数者が悪政であるとか、悪法であるとかいうことはなくなるであろう。ただし、最初に抵抗権が主張された時代というのは専制政治によって人々の自由が、妨害され障害となっていた時代であろうから、そのような時代には多数者は政治に参加していなかった一般大衆であったのであり、政治を行っていたのは少数の専制支配者であったのである。現在でも少数者が支配していると観察されるのが実情であるという現実の政治を見た場合の報告に対してはしかし現代では多数の意思が反映されているべきであるという答えしか出来ない。ルソーの時代の専制政治に対してルソーが一般意思を主張したからといっても、それで彼は以上のようなことを意味していたと考えられるから、少数者による独裁や、全体主義を主張していたとは考えられない。コンスタンがルソーを全体主義の祖先としたことはあまり当たっているとは言えず、誤解によるのか、あるいは、ルソーの一般意思論を全体主義に曲解しないようにしなさいというコンスタンの親心であったと解釈するほうが正しいと私は思うのであり、バーリンとは少し意見を異にしている。

政治的制度というものを考える場合には、社会的に悪法というものが存在する。悪法は現実の人間の選択の自由に合致しないものであるが、法律の強制的な性格からして、いったん定められてしまえば、それを概念的に権力によって執行しなくてはならないために、社会や、人間の本性を破壊してしまうような法律のことをいう。そのような法律は法律と言えるであろうか。いやそれは悪法であり、法は定義的に人間に有用なものでなくてはならないという功利主義的な観点からは、それは法律ではありえないとするのが悪法は法ではないという考え方であり、しかしそれでもいったん決まったものは人間性を破壊するものであっても、法とは強制力があるものと最初に定義しているのであるから、従うべきであるという思想が悪法も法である、法として強制されればそれに従うべきであるという思想である。この悪法は法かの問いに対しては多くの人が答えようとしたが、これまで誰もがその答えに迷ってきた法哲学上の問題である。ここには強制と、自己の良心という問題が横たわっており、強制と自由という側面からいうと自由論の問題としても十分に答えなくてはならない一般的な問題である。自由論の問題であるということは、政治哲学の問題でもありうる。政治哲学の問題として言い換えれば、悪政と自分が思う場合にそのような政治による強制に対して、自らの選択の自由を行使してそれに対抗して自由を主張したり、抵抗権を行使する権利があるだろうかという問題である。

それは多数の専制に対する抵抗権が各人にあろうかという問題でもある。

多数の専制に対してはミルが『自由論』において最も問題としたものであり、現代のアメリカにおいても少数民族の権利をどのようにして認めるかという問題として現在まで続いている大問題である。

少数民族である黒人の権利を守るためには、彼らが差別されてきたこれまでの補償として黒人優遇政策を考えるかどうかは議論があるとしても、彼らを優遇しなければ白人とは平等にならないという問題である。これをドゥウォーキンは逆差別の理論として、このような平等の配慮と尊敬を政府が与えることは妥当なことであるとして、この逆差別を平等の論理で正当化した。この理論は彼の『権利論』の逆差別の章に詳しく書かれている。しかし、この論理は誤りである。この論理は自由の論理によって再構成しなければならないのは、私がこれまで述べてきた趣旨からいえば当然に導かれてくるものである。これは最高裁判所においてさえも、論旨が混乱している。

成績の低い生徒を逆差別の論理故に、黒人であるという理由から入学を許可しなければならないという理論が発生する。

このようにドゥウォーキンは平等を重視するあまりに自由をなくしているにもかかわらず、経済に関しては法律の経済的説明については、リベラリズムの見地から異論を唱えている。その根拠は法律家や、法は大金持ちの持つ金に頭を下げたり、屈伏すべきではないという論法であり、大金持ちに屈伏することはアメリカでいえば、共和党、日本でいえば自由民主党のする事であり、リベラリストはそのような金に屈伏すべきではなく、貧乏な人々に応援すべきであるという論理であると私は解釈する。たしかに法廷において金があるものに味方して、金に屈伏することも、黒人のこれまでの不遇な境遇に味方して平等を採用して、正義を曲げることもどちらも正義に反することになる。逆差別については経済学的な問題として解決すべきであり、法廷の場において考慮すべき問題ではないと考えるものである。経済の場と、政治や法の場とは全く相違する。経済は稀少資源の分配を効用にしたがって行うものであり、政治や法は正義や自由を実現する場である。

稀少性に関する争いについて法や、政治が正義を抜きにして介入することは正義を歪めることになりかねないのである。

権利と自由

権利の基礎を平等な配慮と尊重に求めることは、間主観性をこえて相手の(他我の)間主観性を認めるということしかあらわしていない。一方権利を「自由に自己に従属する『もの』を処分すること」を意味すると考えるジャン・ダバンの『権利論』は干渉されないバーリンのいう消極的自由について述べておりそれを権利の定義に用いていることになる。権利の本質が意思能力であるという考え方は、法が与えた自由意思の働きうる可能性(選択の自由の可能性)ということを本質としているのであり、それは法が間主観的自由と間主観的自由の対立のなかに客観的(ドゥウォーキンによればこれは平等にということになる。)に見つけだし選択の自由の存在可能性という意味付けを権利の最も重要な属性と考えているのである。

バーリンのいう消極的自由は一般的には存在しえないとドゥウォーキンがいう時、それは干渉されない消極的自由は間主観的自由でしかありえず、平等という考えをも取り入れて他我の自由も尊重し、配慮しなければならぬといっているのであると解釈できる。そう考えればバーリンのいう干渉されない消極的自由という考え方は単純にそれ自体としては存在しないといえる。しかしバーリンのいう干渉されない消極的自由は他人の自由を全く考慮に入れていないとは考えられないので、ドゥウォーキンの批判は的はずれであるといわねばならない。バーリンのいおうとしていることはヒットラーのナチスや、全体主義やらの積極的自由、干渉する自由からは身を守るべきだといっているのであり、その正しさはアウシュビッツや、スターリンの粛清で死んだ人が消極的自由を持たなかったことを考えてみればわかるだろう。一方ソ連のスターリンのそのような干渉はドゥウォーキンのいうような平等を求めての干渉されない自由からきているものであることをわすれてはならない。この両者の間で真の自由について線を引くことは非常に難しい。平等を求めて干渉されない自由を否定することは、いくら平等が全国民の平均的平等を目指しているものであろうとも、自由を崩壊させてしまうことがありうる。例えばアメリカの大学入試において黒人の優先枠入学のために、白人のその黒人当人よりも成績がよく努力した人が不合格となった事例をどう考えればよいであろうか。一方他の人のことを考えない間主観性のみの消極的自由は奴隷を雇うことさえ認めようという自由の主張にいたるかもしれない。間主観性を総合して社会一般にいたる道がいかに困難であるかについて思いをいたす時、最後には、自由論の最初の出発点である人間の本性は「選択の自由」であるという点にもどらざるをえなくなるのである。そう考えれば平等な資源は自由の一構成要件であるという命題がいかに重要な命題であるかということが理解されうることになる。自由は相手(他我)の自由を考えた上での自由であるべきである。これはドゥウォーキンのいう平等な配慮を認めている。相手の自由を考えてやるということは相手の自由に平等に配慮するということである。その配慮は貧乏な人が主体となる場合にも、大金持ちが主体となる場合でも双方共どちらが、主語となっても通用する命題である。相互に(間主観的の間は相互という意味でもある)すべての人のことを考えて、相互に自由を、平等な資源をも含めた自由を尊重し、配慮すべきなのである。配慮によって自分の自由を譲ったとしても、それは平等のために譲ったのではなく、自由のために譲ったのである。自然法上の自然権は理想上のものではあるが、自由のために譲ったのであるとすれば、それが相手の権利となるのは、裁判の和解の時のみならず、平等のために譲った時に相手の権利となるのと同じである。実定法上の権利以外にこのような権利や自然権が理想的に達成されている社会は理想的な社会である。

このような社会が生まれることが理想の社会であると私は思う。そこにはバーリンのいう消極的自由のなかに、フロムのいう積極的自由が存在し、干渉されない自由等ないというドゥウォーキンに対しても、相手のことを考えた干渉されない自由があるという結論に達することができる。最初に示した自由のぶつかりあった干渉する、しないの自由の主張はここで総合されることになる。

第 節 自由の教育と、自由の強制 自由を強制すること

「ひとを強制するということは、そのひとから自由を奪うことである。」(バーリン、「二つの自由概念」『自由論』、三〇三頁。)という命題はある意味でのみ真理である。ある専制君主は従属している国民がいる限り自由ではなく、従属している国民も自由ではないが、自由でないことを自覚していない両者にルソーのように自由を強制することは両者共の自由(選択の自由)を回復することになるからこのような強制は自由をあたえることになる。

自由を強制するということと、自由に教育することとは深い関係にあるが同じではない。自由を強制するということは、自由を教育するということと近い現象である。自由に教育するということは、教育を受ける子供に対する妨害や、束縛を排除してやって、様々なこと、例えばすべての職業や、社会的な役割を担える人間に育てることをも意味する。しかし、職業と社会的な性格とは全く相違する。医者の社会性は、職業自体の社会性であり、その医者の性格の傾向の社会性ではない。医者が過剰になりすぎて医者が余った社会になるならば、医者という職業の社会性は低くなるが、医学の社会性は低くはならない。医者や弁護士が貴重である時代の社会性と、医者や弁護士の余剰になったときの社会性とは全く相違する。人間が社会性があるというのはそのような両方の時代に適応する、敏感な感受性を社会に対して持っていることである。そして自らを社会に敏感に役に立てようとする能力を持っていることである。これはスペシャリストであるとともに、一般性を人格のなかに持っておくようにということである。理系の人はたまに社会性がないと言われるのはそのような社会と職業に関する教育が現在あまり行われておらず、完全なスペシャリストを育てるようにしているからである。医者や、薬剤師や、理系の人がその職業が貴重な時代に、社会性のある性格を身につけずに、その職業の社会性にのっかって、それのみで社会性を得たと思うのは間違いであって、その他の人々を軽視しないで、自由や平等の観念も社会性を持つべきであるという時の視点はここにある。

様々な職業や、様々な自由や、様々な自由の対立から発生する平等の観念などの社会的な観念を身につけ、かつ自分の主観性から脱するということを学ぶ必要がある。子供は様々なことを学ぼうとするし、そのようにさせることが自由に教育するということであるが、それは同時に自由を強制するということになるであろうか。様々なこと、職業以外においては様々なこと家事においても、友人を作ることにおいても、様々に自由に多くのことを経験させること、職業においては医者になることも、法律家になることも、ビジネスマンや商業人になることも、政治家になることも、行政官になることも、すべてを擬似的に経験させ、自らを完成させすべてのことを出来るようにしておいてやることが必要である。職業に上下貴賤はないという時の福沢諭吉のように社会変動によりいつ仕事を変える必要があるかもしれないのであるから、すべてのことについて自由に勉学させることが必要である。しかしそれは基本的なことのみでよい。その他のことはオン・ザ・ジョブ・トレイニングで深化させればよいのである。それはおもちゃを通じてでもよいし、日常のちょっとしたことに対する説明を通じてでもよいのである。

自由のために稀少性ある資源を平等化するにはどのようにしたらよいか

稀少性のある資源を平等化するためには、ある一つの生産過程において、出発点と、結果についてできるだけ平等を達成する必要がある。出発点においては仕事に対する機会の均等が得られること、即ち、貧しい個人に対する信用の供与や、仕事に対する機会の均等があること、児童手当が大量に子供の多い家庭に供与されること、等々の政策が必要である。これは経済学の問題であろうか、政治学の問題であろうか。政治的な問題である点は独占禁止法のような経済法の立法過程に関係している点であり、経済的な問題としては企業の独占と同じような意味を個人においてもっている以上のような機会の不平等が経済学的にどのような意味をもっているのかを研究しなければならないという点においてである。

自由の強制は本当に出来るのであろうか 自由への教育は出来るのであろうか

自由の強制や、自由の教育を通じての平等の達成は本当にできるのであろうか

積極的に自由を行使することによって、他人に自由を強制することは本当に出来るのであろうか。もし出来るとすればそれはバーリンのいうような積極的な、つまり、バーリンが否定するような積極的な自由に当たるのであろうか。あるいは、バーリンのいう消極的な自由を得させるように教育したり、強制したりするのであるからバーリンが肯定するような自由であろうか。バーリンのいう消極的自由を増やすことも自由を強制することであり、積極的自由によって政府が消極的自由を少なくするような自由の強制の仕方もあることになる。前者は現代の政府規制の自由化政策のような自由の強制であり、後者は共産主義社会において金持ちから多くの税を取ったり、金持ちの所有する不動産を奪うような自由の強制の仕方である。義賊の自由の与え方は後者に属することになる。後者は他人に意識が向いているが、前者は自己に意識が向いている。後者の場合には自由をなくすことによって平等をえようとする静的な考え方であるが、前者の場合には個人の自己の自由によって社会の平等を得えようとする考え方である。

自由をなくすことによって平等を確保しようとする議論は稀少性について合理的な選択についての学問である経済学や商学を考慮せずに考えるならば、すべての人が一見するとすぐにでも納得しそうな議論である。しかし効用による等価交換による議論ではなく、略奪や義賊による平等化の方法を瞬時に静的に行っているのであるからこの議論には素人性がある。静的に平等を確保したとしても、次の瞬間にはそれが崩れないように自由を剥奪しなければそれは維持できないし、更に、それはこれまでの努力によって得られた成果に対し義賊の自由を瞬時に認めよというのであるから消極的自由の主張の反発にあう。等価交換というものに準拠して平等化を目指すのか、略奪によって平等化を目指すのかという選択とほとんど同じような選択となる。職業によって努力をせよ、その機会は全体的な社会による職業の確保という手段によって完全雇用を達成していくことにより政府が保証するというのか、政府が積極的に介入することによって政府が義賊の役割を果たすのかということになる。この積極的自由にたいして消極的自由こそ大切であると主張したのがバーリンであると考えることができる。

この積極的自由はルソーのいう「自由であることを強制」することが該当しなかったと考えるが、しかし、自由であることを強制するということがどのような意味を持っているのかを考えてみる必要はある。

自由を禁じての平等の達成は嫉妬や、ねたみの心理から発生するものであるが、その方法は嫉妬による義賊の心理に訴え金持ちに「自由でないことを強制」する、つまり、金持ちから金を強制的に奪うものであるから、当然その同意を得られなくてどうしても義賊の心理に陥ることはすでに述べたとおりである。

これに対して自由の強制を、つまり、自由を残したままでも金持ちが金を自発的に差し出してくれれば平等は達成できるではないかという議論が発生する。この議論はT・H・グリーンの議論に近いものであり、ベイやバーリンはT・H・グリーンの議論であるというであろうと思われる。それではそのような議論ではない自由な方法によって平等を達成する方法はあるのであろうか。それはバーリンのいう消極的自由を達成しながら、かつ、それを可能にする稀少な資源の平等性を確保するという方法を取る必要がある。かってのアメリカの革新主義の時代も参考になるかもしれないし、あるいは、現代のハイエクや、フリードマンの議論も参考になるかもしれないし、独占禁止法の精神や、汚職に対する反感がその議論に大いに協力的であるかもしれない。自由を達成しながらも、つまり、独占やらにたいしては自由化を行いながらも、つまり別の言葉でいえば、自由の強制を通じて平等を達成するという方法が考えられるのである。この場合の自由はバーリンのいう消極的自由である。この考え方はT・H・グリーンの考え方とどこが違うのかについて説明が必ず必要になる。福祉国家を達成し、行政権の拡大を目指すときには当然に平等が自由よりも優先されることになる。この違いはフロムとバーリンのさによって証明される。フロムの考え方が、自己の統一的なパーソナリティーを達成しようとするものであるために、自己の涵養を要求するものであり、自己を涵養し、他人に博愛を及ぼすべきだという考え方を要求していると誤ってとらえられればグリーンの考え方に近いものととらえられがちであるが、実はフロムの考え方はバーリンの考え方、干渉されない消極的自由の考え方に近いものである。この差は平等を達成する方法の大きな政策的な差となってあらわれる。

それではどうやって平等を達成することができるであろうか。平等を達成するのに個人の自由に依存する場合と、強制を伴う政府の積極的な活動による方法とが考えられる。個人が規則や規制の立法趣旨を自ら理解してそれを実行できるならば、政府は立法し、個人の自由を規制する必要はないというのが、自律優先の原則として理解できる。個人の干渉されない消極的自由は、個人が立法趣旨を自ら理解して行使できて政府は法を強制する必要がないという条件がついている必要がある。この立法趣旨はある意味では価値であったり、三段論法のうちの規範の部分であったり自然法といわれたりするものである。多くの規範のうち個人が意識しないでよいくらいに規範として個人の内部に認知されている規範については政府は法律さえ作らなくてもよいことになる。ましてや、強制をや。個人の内部に認知されている規範が少なければ、少ないほど政府は積極的に法を作り、自由を規制しなくてはならないことになる。規制は少なければ少ないほどよいはずであるが、あまりに少なければ、それもその規制がなければ秩序が維持できない部分に法律が存在しなければ、秩序は維持できないということになる。秩序とか安全というのは人間が人間にたいして狼でなければ必要はないというのはこのようなことでもある。銃を規制するかどうかについても、アメリカのように個人が人間に対して狼ではないように期待をして、個人の性善に期待するという方法によって秩序や安全性を維持しようとする場合があり得る。自分で身を守るというよりも、この点に期待をしていなければあちこちで撃ち合いが起こることになる。

平等についても自由を維持しながら平等を達成するためには、個人の意識のなかに平等への規範意識を期待するということによって、つまり、性善のうちの平等に関する性善に期待することによることができるであろうか。ただし、ここでの平等とは自由を可能にする資源の平等をいうのであって、単なる静的な平等について述べているのではない。

自由を可能にする資源は稀少なものである。稀少な資源については経済合理的に判断しなければならない。経済合理的な人間・ホモ・エコノミクスを想定するのが経済学である。政治学においては経済合理的な人間も想定するが、経済非合理な人間も取り扱う。それが政治学である。経済学においては経済合理的な人間のみを想定するならば、嫉妬や、ねたみによる行動が経済を著しく破壊することを取り扱うことができない。経済非合理的な行動によって経済が破壊されることについては政治は取り扱わないのであれば戦争や、嫉妬や、マキャベリーが取り扱おうとした多くの事柄が取り扱えないことになる。しかし平等に対する嫉妬を金持ちが察知して、個人として社会鍋や、慈善(性善)によって資源を貧乏な人に分け与えることが期待できるであろうか。あるいはバーリンのいう積極的自由の主張者が考えるようにそれは不可能であるから、政府がそれを積極的に強制すべきなのであろうか。あるいは各人がビジネスと企業家精神によって私的所有を維持しながらも見えざる手によって平等を達成すべきなのであろうか。

平等の達成過程を限界効用によって説明し、経済合理性による見えざる手によって平等は達成されるという考え方がある。金持ちの最後の一円は貧乏人の一万円に相当するというわけである。分け与えたときの素晴らしい快感が金持ちが貧乏人に資源を分け与えようという自然な感情を起こさせるという考え方である。この限界効用の考え方は合理的な経済判断に平等化をまかせようという方法であり、自由競争における見えざる手による説明とよく似ている。この説明によれば貧乏人は一生懸命に働くが、もう満足している金持ちはあまり働かないという考え方と、消費においても金持ちはすでにもうたくさんの必需品を備えていて追加的な必需品は必要性が少ないのであるが、貧乏人は生活に必要な必需品がたくさん必要でありすぎるのであるからたくさんのものを同一物でも金持ちより多くの効用を得てありがたがるであろうという理論とから成り立っている。

以上のような経済合理的な人間、ホモ・エコノミックスを想定し、効用や、限界効用に基づいて理論的に分配がなされ、修正されるべきであるという考え方がある。政治の問題を効用の問題として解こうとすれば、大金持ちは最後の一ペンスの限界効用が低いのであるから、貧乏人にその一ペンスを渡せば全体社会としてはより多くの効用が生まれることになるというような功利主義の理論が生まれ、そうすれば社会全体としては最大多数の最大幸福が生まれるのだという考え方が発生する。ところがそれでは誰も一生懸命に働かなくなるのではないか、それは義賊の心理と同じく金持ちからの搾取と同じではないかという批判も生まれ、イギリスのイギリス病にたいしてサッチャーが実行したような考え方も生まれる可能性がある。福祉をもらっている人を独立させようという考え方も、クリントン政権がとった政策であった。

政治哲学的にこの考え方を理論構成したのはノージックであった。

功利主義のそのような説明に対して税などは個人に対する干渉なのであるから払いたくはないという考え方を究極的に押し進めたのであり、この考え方によれば累進課税の累進性は否定されることになり、消費に課税する消費税のほうに重点が移されていく結果となるのである。この考え方によれば金持ちも、貧乏人もものに対する同じ効用の概念を持っていることになる。

これに対してドゥウォーキンは平等という考え方を持ち出した。平等な配慮と、尊重をすることはすべてに優先するという考え方を示したのである。ドゥウォーキンが『原理の問題』の原書二〇七頁でのべる生まれたときの不平等の問題は、相続税とかの強化により是正できるにしても、どうせ相続税で課税されるのなら働かないという問題も発生すると考えられる。しかしドゥウォーキンの取り扱った平等と、不平等の問題は政治的に重要なあるものを指摘していることのみは確かである。それは政治と自由の問題でもある。ドゥウォーキンが干渉されない消極的自由は認めないと考えるのは消極的自由の範囲は平等との関わりですべて考察されるべきであり、干渉されない自由が働く意欲を増大させるからといって、平等性の観点は平等性のみですべて解決するわけではないが、重視されるべきであるとの考え方を表明したものと考えるほうが正しいとらえ方であると思われる。

一方自由を強制するということが何なのであるかをここで考察しなくてはならない。最初に自由を強制するということを考えたルソーの使った意味は、啓蒙することによって専制君主も、君主によって統治されている人民も双方ともに自由にしようとすることであったと解釈されるが、このような自由の強制や、自由の教育はどのような意味を持つのであろうか。個人が自主的に自由であろうとすれば、他の個人が外部から自由を強制する必要はないことになる。自由でないことを、ルソーに従えば「クサリ鎖」をクサリとして自覚していないから、教育・啓蒙し、そのクサリを取り払い、自由になるように「強制する」という言葉が使われることになる。この場合の強制は教育であったり、政治であったりすることになる。教育も政治も、自覚されていれば強制性は必要ではなくなることになる。

このような自由の強制は平等とどのような関係を有するのであろうか。

自由の強制や、自由の教育が人々を平等にするであろうか。つまり、自由の追求は平等に自動的にいたるであろうか。自由を尊重すれば平等にいたるということが証明されるならば、ドゥウォーキンのいうように平等のために自由を抑制しようという論調を和らげることができるのである。自由の強制が平等をもたらしたということは、専制君主も自由になり人民も自由になり、すべての人が独立した自由な民になったということであり、平等になったといえるのである。つまり、自由の強制はどちらかの力が強大であり、どちらかが従属的で極めて無力である場合に行われ、それによってどちらも平等に近くなるのである。これは自由の強制は依存と、依存される巨大な人を平等にするということをあらわしている。これは重要なことである。自由が平等とこのように親密な関係とみられるのはこの自由の強制の場合以外には存在しないからである。このことは期せずして、自由の強制と平等とが結びついたのであり、故意にではない。しかしこの説明によれば自由の強制は、もし専制君主や依存される人を金持ちや資本家に置き換えれば、また、もし民や依存する人を貧乏人や労働者に置き換えれば、「真の自由」の強制による共産主義化や、理想国家化と同じではないかということになって、ルソーへの誤解と同じことが生じてしまう。

これは依存と、依存される人という個人の性格の特性から生じてくる性格の傾向と、金持ちと貧乏という稀少性に基づくものとの混同から発生した誤解であるということができる。

依存はたしかに自由をなくした状態のことをいうが、それは精神的なものであり、金持ちであってもつまり経済的に豊かであっても依存的な人はいる。依存的であればある程、自由な行動はできなくなる。したがって、自由な行動ができないということは平等にいたるような行動もできないということになる。資源がいくらあっても自由に行動ができなければ、実質的には自由があるとはいえないのである。

では貧乏な人が自由になっており活発に自由のための資源を求めるために職業に励むことは、このルソーの自由の強制と同じような意味での平等をもたらすであろうか。あるいはマルクスのいうような意味での阻害から「真の」自由にいたらなければ平等は達成できないのであろうか。この問題を解くのは複雑で難解な幾何の問題を解くのよりも難しい。「真の」自由が平等を求めて自由を抑圧するならば、共産主義社会における選択の自由のない社会になってしまうからである。この複雑性と難解性は各人の性格の傾向と、そのユートピアの違いに由来しているようである。それを私は依存性と名付けたのである。自由を抑圧するかどうかについての心理は、その人の心理のなかに自由が存在するかどうかという点にかかっているようであるから、それはベイが一生懸命に新しい観念として「フロイトの観念から離れて」研究しようとした心理学的自由と大きく係わっているようである。そしてこれはすでにフロムが研究していたことでもある。ここに心理学的要素と、性格の傾向の理論を政治と自由の研究に取り入れざるをえなくなる理由があるのであるが、それはこれまで述べてきたような「社会=人間関係」の分析としてそれが行われなくてはならないということである。

「真の」自由が平等を求めて突っ走り、義賊のように自由を抑圧するのはその人が依存的な性格の傾向を持っているからである。それは金持ちであっても、依存的な性格であればそのような平等のための自由の抑圧に向かいやすい傾向を持っている。これを権威主義的な傾向、権威に溺れやすく、権威に盲従しやすい傾向ということができる。権威によって、即ち、膨大な権力によって平等を達成しようとするのか、個人の自由な努力によって平等を達成しようとするのかという違いである。共産主義社会においては権威である政府がすべてを計画して平等を達成しようとする。そこには個人の自由な努力があってはならない。この共産主義社会においてはそれに依存しようとする人にとっては天国かと思われたが、実際は依存的な人が依存できるような大きな権威は存在しなかった。人間には一日二四時間しかすべての人に与えられておらず、誰もそれ以上に時間はなく、かつそのなかで生の本能を満たすために様々な食事などを行わざるをえず、それをしないような巨大な存在など、妹が兄をみるような存在は実は存在しなかったのである。それが共産主義社会の実態であった。それをいくらマスコミをつかった政治宣伝で嘘の虚像を押しつけようともそれは出来ない相談であった。

それでは貧乏な人はどうすればよいのであろうか。貧乏な人は自由のための資源が、金持ちよりも欲しいのである。したがって、貧乏な人のほうが金持ちよりも一生懸命に働くことは一般には金やらが欲しいのであるから当然の事実であろうことは推測がつく。この推測は社会の制度の自由な選択においては重要な視点である。たしかに推測ではあるが、それは社会の制度の傾向を示しているのである。傾向であるから自由にそうではないように決定する個人が存在することも可能である。それは性格の傾向の場合と同じである。

この社会の制度の傾向についても私は依存的社会と、自由で独立した社会というように分類しようと思う。

もし依存や、被依存の関係から脱却しているとすれば、つまり、ルソーのいう専制君主と人民との関係から脱却しているとすれば、マルクスのいうように平等のために自由を殺すということはあり得ないはずである。つまり社会制度の傾向として依存的な社会制度においては自由は平等のために殺されるのであるが、自由で独立した社会においては自由は平等を求めるために使用されるのである。自由が平等を殺すのは依存の心理からのみ発生するものである。そして依存による平等化は独裁や、専制を生むのである。そしてそのような平等化は効用の考え方によることなく、つまり、等価交換という考え方によることなく、他人から(この場合金持ちとその人が主観的に考えている人から)物や稀少な資源を対価を支払うことなく奪うという作業によって平等を達成しようとするものである。この奪うという作業は、義賊の心理による行動であるが、行動的であり動的なものであるようであるが、平等という一瞬の考え方、つまり、静的な状態を想定して行われる作業であるので静的なものである。一見動的なものに見えるのみであり、その考え方としては静的なものから生じたものである。動的なものであればそれは自由の本質に近いものである。何故ならダイナミックさは選択の自由から発生するものであり、自由の本質と同様のものであるからである。ところが等価交換による行動はダイナミックな結果を生み、例えば物を売る方に余剰があれば安く販売されるのであるから、それによって平等が達成されるのである。それは税金の場合に効用を考えることと同じような意味を持っている。逆に言えば税金によらずともこのように余剰がある分を安く手放すようにすれば、見えざる手によってというかどうかは別として、平等化が達成される要素がその行為に組み込まれていることになる。ダイナミックに平等化が達成されるということは平等化への「見えざる手」を含んでいるということであり、ノージックが期待するのはこの平等化への「見えざる手」なのである。

この「見えざる手」は本当に平等をもたらすのであろうかという疑問が常にノージックの考え方に対しては投げかけられることになる。マルクスの労働者の窮乏化説によれば貧乏な人は更に貧乏になる。これはドゥウォーキンによれば出発点が違うのであるから、貧乏人は更に貧乏になるであろうから政府や他人は貧乏な人を助けてあげなくてはならないし、その意味では平等に尊重し配慮してあげなくてはならない、場合によっては不平等であった過去の補償を逆差別によってでもしてあげなくてはならないということになる。マルクスの理論も、ドゥウォーキンの理論も出発点の不平等は永久に不平等を維持するばかりではなくて、更に、不平等を拡大するといっているようである。ところがあまりに卑近な例を持ち出すのではあるが、現実にはそれとは違った事例をたくさん挙げることができる。社会統計的にもそのような現象が証明できるというのがロールズの理論の基礎になっているようである。つまり、最低限で生活している人の生活が豊かになっていることを正義に必要な条件であるとしているのである。たしかに金持ちの子が必ずしも金持ちになるとは限らないし、しんしょうを潰した事例もある。マルクスの子がマルクス以上になることはまずない。医者や、弁護士で金持ちの子がかならずしも医者や、弁護士になるとも限らない。企業の経営においても同族企業についての研究は数多いが、その結果は私は研究したことはないが参照するに値する。出発点の不平等が現実の活動の不平等を拡大していると見えないのは学校において平等に扱おうとしているときのみであろうか。現実に平等化への「見えざる手」を観察することは非常に難しい作業である。しかしそれは行われなければならないし、それがルソーのいうような「自由への強制」によってもたらされているのならば、自由は尊重されなくてはならないことになる。相続税を強化するというような政府の積極的自由によるとともに、見えざる手の研究は怠ってはならないと思われる。ロールズの無知のベールはすべての人を肉体的な平等性で見ようというものであり、学校の教員は学校においては教育という立場から親が金持ちであったり、貧乏であったりすることに関係なく平等で見て知識のみで見ようとするのであり、それは無知のベールとよく似た見方ができる点があるのであるが、これまではそれがストレートに社会主義や、共産主義における自由を無くした平等主義につながっていたのであり、それが現在の東西冷戦後に反省されているのであろうが、それは自由と平等の調和の方法の発見ということに最も大きな期待がかけられ、かつ、その成否に教育改革の行方はかかっているといえよう。私達と同期の日本赤軍のメンバーの多くが教員の娘・息子であったのはその平等のために自由をなくすという親の教育の影響があったのかもしれない。自由な教育によって、自由による平等化を目指し、依存性から脱却させ自由を与えるような教育が必要な時代になったと考えられる。そして「見えざる手」による自由による平等化に期待をかけてみる事が必要になってきたのではなかろうか。

妨害や、障害をなくしてやることは、自由を与えることにはなるが、自由を強制したことにはならない。自分で自由に活動するしかない。自由を高められたとしても自由は自分で選択しなければならない。自由をあたえられても、自由のなかで何もないし、何かすることが見つからないならば自由から逃走したことになるだろうか。バーリンが干渉されない自由のなかで何もしないことも自由であるというが、選択の自由のなかで何の活動もしないとすれば自由からの逃走をしたということになるだろうか。そうはならない。自由から逃走するということの本質は、逆に干渉されない自由を求めるのではなくて、干渉される自由を求めることである。権威や権力を想定してそれから干渉されなければ生きていけないとすることが、自由からの逃走である。バーリンのいうところの干渉されない自由の領域のなかで、何かをしたり、何かをしなかったりする自由も自由であり、何かをしたりという「〜する自由」とともに「〜をしないことをする自由」もあるということを意味していると考えられる。つまりは、干渉を排除した状態がバーリンは必要であるといっているのであって、フロムがそのなかでも積極的に自由を涵養しなくてはならないと考えているのである。積極的に自由を涵養する能力を身につけていなければ他の巨大な権威や権力は独裁や専制に陥らざるをえなくなるということになる。

この依存性の必然性と、バーリンのいう干渉されない自由の状態での不作為の自由とについていえば、不作為の自由を有しながら依存にいたらない方法を考えなくてはならない。自由で独立した人は不作為の自由を持ちながら依存にはいたらないが、依存的な性格の傾向を有する人は干渉されない自由等は必要がない。干渉されて、何でもしてくれる方が都合がよいということになる。干渉されない自由のなかで何でもできるというパーソナリティーを持っているならば、干渉されない自由を享受することができる。

自由にしてもらうこと、自由を妨害し、自由の障害となるものを除去してもらうことと、その後に自由に活動ができるようになることとは違うのだということを強調したかったのがフロムのいう積極的自由論であり、バーリンが指摘しようとしたのは政府が干渉されない自由を確保しておくべきであるということをナチズムや全体主義に対して主張しようとしたのがバーリンであったのである。ルソーが「自由であることを強制」するべきであると考えたのは、この両者を含んだ総合的ないい方であった。つまりは、専制君主と人民という形で依存と、依存される者との関係であった両者の関係のなかで、双方を不自由にしている依存関係を障害を取り除くことによって自由にするという目的のみであったのであれば、「自由を強制する」とはいわずに「自由にする」といういい方でよかったはずである。自由になった人々が何らかの意味での自由な活動をするためには「自由を強制する」という表現がぴったりとしたのかもしれない。あるいは社会契約が一般意志によって主権という形で「自由にする」ということをいいたかったのが「強制する」ということばの一般的な解釈ではあろう。しかし自由を深く考えていけばこのような解釈もありうるであろう。

自由になった後で、自由に活動することができるようになるということのためには、自由である時に何をしたらよいのかの教育が必要であり、それは社会人(公民)としての教育であったり、職業教育であったりする。職業は経済、産業社会のなかにおける役割についての教育であり、公民としての教育は社会内における社会契約のような公共性への接近の方法についての教育である。しかしこの両者の境界はあいまいである。公務員の職業もあるし、公共的セクター以外の私的セクターの職業もある。それらの職業を持つ人々がオフの時間においては公民としての投票をしているかもしれないのである。

第 節 フロムのマッカーシズム応援と、ラズウェルの破壊活動の防止の議論

第一一節 今後の人間社会はどのようになるのであろうか

東西冷戦後の世界は一つになったのであろうか

自由の本質に関する短い論争

フロムの「真の自由とは統合された全人格の自発的で合理的な活動である」という見解に対して、バーリンは自由は行動のための機会であると考えるとして反論をしている。(バーリン、『自由論』、六三頁。)フロムが活動であると考えているとは思えないが、自由が活動であるのか、機会であるのかと問われれば、選択(行動の)の自由への動的な可能性である自由の本質からするとどちらに軍配をあげるべきだろうか。「じっとしていても、私がそれだけ自由でなくなることはない。」(バーリン、ibid.,六三頁。)という実例からすればじっとしていることと、動いていることに対する制度(憲法等)等の環境を指す場合もあり、その場合はじっとしていても自由を認めた憲法もあり、その場合はじっとしていても自由を認めた憲法制度がなくなるわけでもないから自由であるといえるが、フロムのあげる実例であるワイマール憲法下において人々が自由から逃走したことを解釈すれば憲法上は自由であったのではあるが、じっとしていたために自由ではなかったということになる。つまり自由な活動ができず自由からの逃走してしまったということになる。しかし自由が自由な活動のみを指しているとはいえない。真理はその中間にあるといえそうである。確かに平等は静的なものであり静的な平等を達成するために動的な自由を抑圧したり、他の金持ちの人々の所有物を大挙して打ち壊していくことはバーリンが積極的自由であるとして批判していたのに、バーリンが自由については静的なものとしてらえるのはあまり納得のいく論法ではない。干渉されない自由を静的に主張するのは、自由の動的な可能性を否定するものであり、そこに干渉されない自由のなかにおけるフロムの積極的自由の概念が発生する余地があったといわねばならない。(注)非合理性の自由

ある科学的なことを否定する非合理的な自由は、その権威を否定して、非合理な巨大な権威を崇拝することを目指すものであれば、全く非合理な、不可能なものとなりうる。宗教のようにもともと科学では不明なものについては非合理な権威を巨大なものとして崇拝することが、意味のある効果をもたらす場合がありうる。

合計で百パーセントになる要素、人間には本能以外のすべての能力を養える可能性がある。(注)ある人が他人に三〇%依存しており、自分で七〇%独立しているならば、この依存性は三〇%ということになる。この依存している部分については自分のなかに能力を貯えることは不可能である。なぜなら他人にやってもらっているのであるから自分で能力を身につける機会がないからである。

人間には無限の可能性がある。といわれている。無限といっても本能の部分についてはもうすでに生まれた時から定まっているのでそのことについての選択の可能性は存在しない。しかしその他の部分については様々な可能性がある。これは選択の可能性でもあるし、そのようになる可能性でもある。性善なる人間になる可能性もあるし、性悪な人間になる可能性もある。これは「〜になる自由」であるともいえる。「〜になる自由」についてはフロムのいう積極的自由と深い関わりがあると考えられ、全体的統一的なパーソナリティーをうるためには他人に依存しないで自分があらゆることを遊び等の訓練を通じてでもよいから身につけておくことが必要であるといっているとも考えられ、人間が選択の自由を行使して「〜になる自由」freeto become 〜を常に保持しておき、不況で職業替えを必要とされた時でも、あたかもバスケットボールや、バレーボールであらゆる役割を演じることができるように普段からあらゆるポジションの訓練をしておくことが必要だというのと同じような意味で、他の職業(社会的役割)を演じることができるという準備が必要だといっているとも考えることができる。

バーリンがいっている「座ってじっとしている自由」は、イギリスにおいて有閑階級が金持ちでいる自由を述べているととらえられるならばバーリンのいう消極的自由のすばらしい趣旨を台無しにしてしまうことであろう。そう解釈されないためにも「じっとしている自由」についてもう少し考察を進めねばならないと思われる。バーリンはまた世捨て人となる自由についても述べている。学校において実例から離れることを貴しとする風潮があり、それを旧制高等学校の寮歌や、バンカラは貴しとした風なところが存在するが、バーリンは「二つの自由概念」の三、内なる砦への退却の節において「禁欲的な自己否定は誠実さや精神力の一源泉ではあるかもしれないが、どうしてこれが自由の拡大と呼ばれうるのかは理解しがたい。」(前掲書、訳書、三三四頁。)と述べる。バーリンが自己実現の概念について否定的な見解を述べる理由は「そこに含まれている自由観念」が「自分のやりたいことのできる空虚な場所という『消極的』な自由の観念ではなくして、自己支配ないし自己統御という観念」であるからだといっている。バーリン、『自由論』、訳書、三四一頁。)

東西冷戦後における自由論

東西冷戦時代の自由の概念の対立は、国家と国家、東側陣営と西側陣営の対立であったが、現代における自由の概念と、自由で独立を求める人々の他人に干渉されない個人の消極的自由の概念との対立となったかのようにみえる。この対立は依存という相対立する二つの概念を社会や制度の傾向というものについての分析にあてるかわりに、個人の性格の傾向というものについての分析に適用する必要が生じてきた可能性のあることを示している。この萌芽はすでにバーリンの「二つの自由概念」や、フロムの「自由からの逃走」のなかにあらわれた統一的パーソナリティーとしての積極的自由の機会と、自由から逃走し権威に依存するパーソナリティーとしての消極的自由の概念の対立の問題としてベイがとらえた潜在的自由の概念や、心理学的自由の概念のなかにもあらわれていた。第二次世界大戦中及び戦後すぐにあらわれたこれらの機会は主に東西の冷戦や、ナチス対自由主義という対立、つまり国家と国家との対立や、体制(陣営)と体制(陣営)の対立として分析されてきたものであって、個人の性格の傾向の分析やその後に続く政治的社会化の議論が主要なものであった。

「〜する自由」はある行動をするにあたって妨害や障害がない状態においてある行動をしる自由である。ところが同じ状態において「〜しない自由」や、「〜である自由free to be 〜」といういい方ができるであろうか、あるいはそのような自由が存在するであろうか。「〜しない自由」があるかどうかが問題となるのは社会的、法的には子供を世話しないという不作為の自由があるかどうかの議論がおこなわれる時等である。それに対して「〜である自由」が問題となるのは、ある人がある状態で存在しているのに、例えばユダヤ人であるのに、反ユダヤ人を黒くぬりつぶしたり、校閲を行ったりして黒くぬりつぶしたり(以上のことは存在をなきものとする価値論を権威主義や依存主義の人が実行に移していることを比喩的に表現したものである)することに対して「ユダヤ人であることの自由」を主張するような場合等が考えられる。バーリンは「二つの自由概念」について述べて「開いたドアーを通って歩く権利をもってはいるが、もし私がそうせずに座ってじっとしていたいと思うなら、じっとしていたとしても、私がそれだけ自由でなくなることはない。」という例をあげて、自由は行動する機会や行動する可能性であり行動そのものではないことを強調し、バーナード・クリックや、エーリッヒ・フロムの見解に反対であると述べている。(バーリン、『自由論』、訳書、六三頁。、原書、頁。)

歴史の終わりと歴史の始まり

歴史と自由との関連についていえば、歴史主義とは歴史の因果関係(例えば、唯物論では経済、・・・論では・・・)がすべてを決定しており歴史の流れはすでに決まったようにながれており、人間の、人間個人の自由意思は存在しないという考え方であるが、歴史は人間の自由意思によって自由にかえられるという考え方が存在する。歴史は人間の自由意思によって動いているとする自由論は、しかし人間が束縛をなくしていく過程であるという意味ではなくて、選択の自由を行使しうるようになるという考え方なのだ。しかし束縛がなくなっていくからこそ選択の自由が行使しうるようになるのであって、この両者は二人三脚で動いているのである。唯物論に従えば歴史は次のように動くし動かなければならない。つまり資本主義はその自己矛盾のために社会主義、共産主義に転回していかねばならないというのだ。逆に共有物が私有化されていくということはないのだろうか。あるいは共産主義に転回していくというのはただマルクスや、エンゲルスの希望、依存的な人々の希望であったのではなかろうか。ただ単なる希望、二人の人間の希望を全世界に押しつけようとしたのではなかろうか。歴史主義というのはこのような場合もありうるのではなかろうか。逆に自由意思が存在することを主張したからといっても、それがバーリンのいう消極的自由であり、かつ、フロムのいう積極的自由であった場合にはできるだけ私有化が進められたり、独占化が進められたり、富の集中が進められたりするようなことがあるのだろうか。この場合私有化されていくかもしれないがこれは消極的自由の作用であり、自由のなかでも平等になろうとする自由が人間の心の内で大きくなっていくとすれば、独占化や富の集中は防げるかもしれない。平等になろうという自由意思は、グリーンのいうような「金持ちが貧乏人に金を恵み与える」という一方的な自由意思、義賊が金持ちに望むような自由意思のみではなくて、「貧乏な人が金持ちになろうとビジネスにおいて努力しよう」とする自由意思の双方を含んでいると思われる。この双方の自由意思のまたしても二人三脚により歴史は平等な私有化の方に進んでいくのかもしれないという歴史主義は、共産主義に歴史は向かうだろうという期待とは正反対であるがゆえに、経済を考えていないという批判に共産主義者の側からさらさられるかもしれない。ところがこの歴史主義は自由主義史観といわれるかもしれないが、歴史は自由意思の動きによって形成されているのであって経済や、神の意思などによって決定されているのではないという点において決定論とはことなっている。自由意思によって決定されているという歴史主義は歴史主義ではあっても、決定論(自由意思は存在しないという)ではない。自由意思によって「決定されている」という決定主義ではある。何らかのものによって決定されているとするのでなければ歴史とはいえないからである。しかしそれを決定しているのが自由意思であったり、人間の選択の自由であったりするという考え方は人間にとっては理解しやすいし、人間の本質である選択の自由の行使にとっては役に立つ考え方である。人間の歴史が、サルや、アリやらの歴史と同じように決定論的に、経済のみによって動いていたりしているのだという考え方は経済先決論を主張するマルクスや、レーニンにとっては自らの期待と希望にそうものであり、それによって依存心は満足させられると期待できるかもしれないが、そういうことはすべての人がその考えに従い、嫉妬や、秘密警察のうずまく社会(かつてのソ連の政治保安警察KGBや、東ドイツのシュタージュの社会)を希望しているというイデオロギーのなかにひたりきっているという心の秘密を表明しているにすぎないことを暴露しているのである。

その考えは心の秘密であるばかりではなくて、それゆえに秘密だらけの社会を想定していることになる。その秘密の部分はペシミスティックな人々の秘密なのでありオープンでオプティミスティックな人々にとっては推測することも、理解することもできない秘密の国であるのかもしない。そのような秘密の国から生まれてきた歴史主義は心のなかにしまっておくことは正しいが、それを全世界にバーリンのいう積極的自由によって押しつけようとすることは様々な反発を生じ、それを押さえつけるために更なる強制力が必要となることになる。

一方自由意思によって歴史は、専制や独裁や独占から逃れていくプロセスである、自由意思が解放されていくプロセスであるという考え方にも難点がないわけではない。

自由に積極的に人が義賊に消極的自由を差し出すようになりうるという意見は妥当か

真の自由であるという表現は、積極的自由を主張する側からも、消極的自由を主張する側からも表現される。それは自分の側の自由が本当の意味での自由であるという主張なのであって、それを強調する言葉が「真の」なのである。ただマルクス主義においては真の自由とは、完全な自由を意味していた。完全な自由はすべての消極的自由を一党独裁の共産主義に差し出すという意味での自由であった。この場合の消極的自由は私有という意味をも含んでいたし、プライバシーも含んでいた。

一方ではT・H・グリーンの『著作集 第三巻』『自由主義立法と契約の自由』、(三七一−三七二頁。)からの引用としてバーリンが議論するのに持ち出した文章である(バーリン、『自由論』、訳書、七六頁。)の「真の自由の理想は、社会の全員がひとしく自分の能力を最大限に発揮できるということである」について私の解釈をのべるとすれば、強者と弱者との平等の取扱いをすることが真の自由であることはまずそうであろうというような見当は私にもつく。次に真の自由を弱者に与えることは自由の構成要件である資源を弱者に与えることのみでよいのであって、自由を与える必要はないのであろうか。自由の構成要件(素)である資源を弱者に与えることが「真の」自由を与えることになるであろうか。つまり物のみが必要であるという理論、物のみがすべてを決定しているという理論がなければこの方式は成立しないであろう。自由を与えるとは「真の」自由である物のみのことであろうか。平等に取り扱いをするという時に、真の自由を得させるために弱者に資源を与えることのみが自由ではないのではなかろうかということである。つまり機会や、職業を与えるというようなことは必要ではないのであろうか、ライフ・チャンスというような考え方は必要ではないのだろうか。何かをするにあたってのチャンスが政治的、経済的に与えられていない場合には、自由は存在しないし、それは金持ちにとっては資源が資本として与えられているから、その資源を使用する機会が与えられている。ところがそのような資源も、資源を生む機会も存在しないのであれば、貧乏な人々が何かをして平等にいたるように努力することもできない。機会均等の観念は将来に向かった動的な資源である。それを平等にすることはやるきを、つまり、専門的には動機を失わせない。それでも努力しない人はほとんど存在しないと私は推測する。そのような自由は責任ある自由ということが出来る。責任は将来にのみ向かっているのであり、過去に向かっているのではない。

T・H・グリーンのいう「真の自由」が、彼の強調する自由という意味のみであって、理想主義的な意味での「真の自由」かどうかについては明らかではないが、そのことを「真の自由」を与えるというように表現すべきかどうかという問題が解決していないように思われる。既に生産されている稀少な資源を与えて、稀少であるがゆえに、稀少な資源を平等化しようとすることは本当に自由を与えたことになるであろうか。自由に行動する意欲を失わせてしまうのではなかろうか。これはバーリンによれば唯物論にのみ特有な表現であると考えている。つまり、五ペンスの自由と、百ペンスの自由という表現の仕方は唯物論を受け入れた時にのみ可能な表現であると述べている。私の意見では消費に当たっての自由についてはそのような表現は可能であり、それが平等な資源は自由の一要素、一構成要件であるという時の資源のとらえ方である。この資源が自由の構成要件であるという考えかたは唯物論に従って労働価値説を採用しているわけではなくて、効用の理論を採用しているのであるから、私の意見では唯物論の考えかたによって表現しているのではないという意見であり、バーリンの意見には反対である。しかしバーリンは「ことばは重要であり、著作家の意見や目的がたとえどんなによいものであろうとも、誤りやすいことば使いが、そのために、理論的にも実際的にも害のないものだとは言えないのである。」(バーリン、『自由論』、訳書七六頁。)というのである。これは唯物論的言葉使いに関する注意ではあろうが、しかし、資源が唯物論ではなくて効用の観点から分析されるとしても、T・H・グリーンの「真の自由」論にはやはり難点は以上のように存在している。真の自由は稀少な資源を、義賊の心理によって義賊によって与えられてもあまり増大しないかもしれない。独立して、自由な動きによって職業を持ち自由な給与として社会から与えられるときには、それはその人の自由を、社会的な役割の増大とともに増大させたのかもしれない。社会的な役割の増大、社会的な自由の増大なくして、消費の増大のみを求めることは片方のみの自由の増大ということになる。ただし、バーリンはT・H・グリーンへの評価として「グリーンの時代に、雇用者と交渉する場合に、労働者が・・・自由な行為者であるとする途方もない想定に対する弾劾としては、グリーンのエッセイは改善の余地なく立派なものである。」(バーリン、『自由論』、訳書七六頁。)と考えて積極的に評価している。

これには財の正当な移転であるものも存在するし、義賊による正当ではない泥棒とみなされているようなものもある。暴力革命やらによるものがそのどちらに当たるのかは非常に深い考察が必要である。

義賊の心理は共産主義化するという理論や、プラトンの共有を賛美する理論が依存する側からの希望であったという点に難点があったと考えるものであるが、それは歴史の方向についても共産主義化は彼らの希望であったのではないかと考えるものである。この共有化の希望の実例と同じく、義賊の心理は希望からなりたっており、相手から拒否されればなんのことはないただの希望の理論ということになる。希望という点では理想主義的であるともいえる。強制的にでもなく、強い教育によるのでもなく、自発的に財産が金持ちから差し出されるという理論も希望から成り立っている理想主義的なものである。これらは人間の心理に合致していない場合が多く、教育の普及に伴ってさえもそれを教育によって自発性を得させようとすることも不可能かもしれない。このような条件の下では国家の強制性が存在しなくてはならないという意見は妥当なのであろうか。この理想的な希望と、貪欲というものを共有というものによっても解決することが出来ず、さらに、義賊の希望、義賊の登場への渇望のみによっても解決できないとすれば、この全く対立する二つはどのようにして解決できるというのであろうか。理想主義者の希望通りには現実にはならないかもしれないし、ひょっとしたらなるかもしれない。この解決に悩みすぎるのは現実にないものになやむのと同じであり、これは性善説や、性悪説とは関係がないようである。

第 三 章 現 在 の 自 由 論

第一節 専制や、独裁からの自由

自由はマキャベリーにおいては専制や、独裁からの自由であった。自由は現在でも専制や独裁や家族制度や管理や支配からの自由であったりするし、それはそれらの妨害からの自由であり、あるいはまた、国家からの干渉を受けない自由の意味である。従って強制・束縛がないこと、つまり、ある人があることをするにあたって、あることから自由であることをいうとされる。これには、二つの種類があるとバーリンはいう。一つ目は、ネガティブな自由と彼が呼ぶものである。一般には消極的自由と訳されている。ここではネガティブな自由と訳す。ネガティブな自由は、ある人は様々なことをするにあたって専制や独裁や家族や管理や支配や国家から自由であり、干渉をうけない自由を持つという意味での自由であり、バーリンにいたるまでの自由は、ほとんどがこの意味での自由であっただろうと思われる。これに対置して、バーリンはもう一つの自由であるポジティブな自由という概念を提出している。この自由は「真の自由」という時の自由である。ある人があることをするにあたってあることから自由であることが自由であるとしても、その自由は「真の自由」であるべきであるという主張がなされる時の自由である。「真の自由」があるとすれば「偽の自由」があるという主張であろう。ここで「真」と「偽」の論争をするにあたって自由を定式化する必要がある。そのためにAという人がPをするのにBからの自由であるというこれまでの定式化に加えて、Pをする資源、例えば、空間(不動産) とか資金が存在しなければ実質的な自由が存在しないのであるから、PをするためのR(資源,resources)がある場合に、AがPをするのにBから自由であることが自由であるというように定義をかえる必要がある。ナガティブな自由はBという人から干渉を受けないということに焦点をあてるのに対して、ポジティブな自由はある人がPをすることができるかどうかに焦点をあてた。バーリンはポジティブな自由の概念が個人の内部で自由としてうけいれられているかどうかに疑問を呈して、その点を強調する議論を展開した。バーリンの議論は高級な自我と低級な自我とを区別する二分法によって個人の内部の自我を分けることに疑問を呈したのである。自我は自らが自由であるか、自由でないかを見分ける主体である。その自我が高級であるとか低級であるとかで二分し、他人がその人が自由であるかどうかを区別することができるのであろうかという疑問をバーリンは提出したのである。自らが自由であると判断すべきなのか、他人がその人は自由であると判断すべきなのであろうか。すべての人は自らを高級であると思うべきである。これが、ナガティブな自由を主張する人の考え方である。一方、ポジティブな自由を主張する人の考え方は自らは高級であるが、他の人々は低級であるという考え方であろうと考えられる。従って、他の人々が自由であるかどうかは高級な自分たちが決めるのだという考え方をとる。バーリンはこのポジティブな自由は、統治することと関連があるという。しかし、ポジティブな自由も二通りに分類されると考えられる。一つは全体主義や、集団主義(コレクティビズム)やらにおける統治に際しての自由であり、他の一つは自由主義的あるいは保守主義的な(民主主義的であったり、共和主義的であったりするが)統治における自由である。もし、全てのポジティブな自由が全体主義や、集団主義のなかでのみ見られうるものだとすれば、統治は全てポジティブな自由を主張しており集団主義か全体主義しか統治ではないということになる。ところが、自由主義的な統治において被治者が自由になるように政府が強制することはあり得る。自由化を促進する政策は被治者が自由であるかどうかについて統治者が判断し、自由でないと判断すれば、自由であるように強制したり、自由であることを促進したりする政策であることになる。このことは全体主義的であろうか。あるいは全体主義的ということと、自由主義的であることとの区別は自由論においてはどのような点に見出されるのであろうか。例えば、独占禁止法の裁判において原告が競争の自由を制限していると主張し、被告がそうではないと主張している時、裁判官が被告に対して自由を促し、競争を制限する行為をしない義務を課す時には、自由であることを強制していることになるであろう。逆に全体主義国家においては、自由競争をしている人たちに対して、そのように個人が心の中にある自由を主張して自由に競争ばかりしていては、「真の」自由を得られないのであるから「真の自由」を得るためには個人の心の中の自由を放棄して全体主義や集団主義に奉仕して「真の自由」を得るように努力しなさいと全体主義者は主張することになる。このように考えるならば、「真の自由」と個人の心の中の自由とではどちらの方がより本当に自由があるのかという解決に、このバーリンの問題提起に対す答えは帰着するものと思われる。全体主義や、集団主義の社会と、自由主義の社会とでは、人間はどちらの社会における方がより自由であるかという問題である。全体主義や、集団主義社会の中で生活するべきだと主張する人はそのような社会のなかでの方が人間が個人としてより自由である、つまり真の意味では自由主義社会におけるよりもより自由であるという主張をするであろうが、自由主義社会のなかで生活すべきだと主張する人は、全体主義のなかでの方がより「真の自由」があるという主張は実は誤りであり、自由主義社会のなかで生活する方が(「真の自由」は「偽の自由」であるのだから)それより自由であるという主張をするであろう。一般には全体主義社会のなかにおいては、自由は全くなくても、資源が平等に配分されているとすれば資源を必要とする自由は、自由社会において政治的自由権はあっても何ら自由を実行するための資源がなかった人にとっては、自由のための資源が増大したのであるから、そのような資源を必要とする自由は増大したのであるが、資源を必要としない思想・表現の自由やらは減少したことになる。しかし同時に資源を必要とする自由についても、自由主義社会におけるよりも集団主義社会においては自由のための資源が減少する人にとっては、資源を必要としない自由が少なくなると同時に、資源を必要とする自由も少なくなってしまったのであり、そのような人のために統治を成功させるため統治者は、平等であった方が貧乏な人やらにきがねすることなく生活でき、しっとされることもないから「真の自由」が獲得されたのだと説得するか、そのように学習させ人間をそのように方向づけることになるであろう。自由のために使える資源が全体主義社会のなかでは減少した人は、自由主義社会のなかでは自由のために使える資源は増大するのであるから、自由主義社会のなかにおける方がより「自由」が獲得されると主張すると同時に、自由主義社会においては自由のために使える資源が減少するような人々に対しては、資源を必要としないたくさんの自由を使って資源を増やすように努力すれば、資源を増やす機会を選択の自由などで与えられているのであるから資源を必要とする自由も、資源を必要としない自由と共に増える可能性が残っているので、自由主義の方がより自由、逆手を取って全体主義者のことばを借りれば「真の自由」があることになるのだと統治者は被治者に説得し、学習させるであろう。

それではルソーにおいて「自由であることを強制する」ということは、そのどちらの自由をさすのだろうか。『社会契約論』おいては人間が専制君主の奴隷状態から解放されることが必要だと説かれ、奴隷状態が存在していることは奴隷状態を発生させている主人の側も奴隷と同じく自由ではないと説かれており、このような啓蒙思想から、君主(主人)も奴隷状態にある人民も、「社会契約」によって共に自由になるべきだと説いている。この啓蒙主義思想による説得は、君主にも奴隷状態にある人民にも向けられているのであり、それこそ啓蒙思想家の面目躍如たるところであり、この「自由であることを強制」するということばは君主と人民との両者共に向けられた言葉であるということができる。君主と奴隷状態にある人民とは、「社会契約」によって主人と奴隷の関係から、君主も自由な主権者となり、奴隷状態にあった人民も自由な主権者となり皆全員で「社会契約」を結び国を作り、皆が自由になろうという意味であると解釈できる。このような意味においては両者は自由であるように、「社会契約」によって強制されることになるのであり、主権者である国家が主権者である自由な人民(国民)に自由であることを強制するわけではないのであり、すでに自由になった国民(人民)に自由を強制するということは意味をなさない。しかし、ルソーにおいてはこの両者共の自由がコレクティヴィズムや全体主義の自由であったのか、自由主義的な自由であったのかはルソー解釈において著しく反対の解釈が対立することとなった。人間の不平等の起源についての考えを押し進めていたルソーにとって資源の平等、不平等について深く思いをめぐらしていたので、自由と平等とについて「事物の力は、つねに平等を破壊する傾向があるというまさにその理由によって、立法の力は、つねに平等を維持するように働かねばならない。」と述べるのである。この記述は法については平等な尊重と配慮を求めたドゥウォーキンの考え方と相通ずるものがあるが、自由については事物の力という表現になっているものと考えられる。自由と平等のダイナミックな動きを描写するものであり、自由主義的である。従ってルソーが自然状態においては人間は土地を共有にしていたのかもしれないというようなニュアンスで土地の共有について論ずる時に人々はルソーを全体主義やコレクティヴィズムの主張を行ったと考えたとしたら、それは誤解だといわざるをえないであろう。現代の自由主義社会においても、社会権的基本権は認められているし、道路や公園等は共有の財産である。共有はそのままコレクティヴィズムにつながるとは考えられないし、子供達も自由に動いていても共有の部分をもっているし、自由に商売やらを行っている大人についても同様である。またルソーの平等論は全体主義のようにすべての政治的自由をなくせといってるわけではないからルソーを全体主義や、コレクティヴィズムの主唱者であると考えるのは誤解であると考えられる。自由を強制するというルソーのことばは自由主義的な意味の自由を統治者あるいは啓蒙主義者として強制することであって、「真の自由」を強制するものではなかったと考えられこの自由はネガティブな自由であったと考えられる。少なくとも私にはそのように感じられる。

第二節 平等と自由は両立するか

一方、ネガティブな自由でさえも平等の尊敬と配慮のためには認められないという主張がある。R・ドゥウォーキンは、『権利の考察』の第十二章において、干渉されない自由が一般的にすべて認められるということはないという命題をたてた。様々な自由について検討を別々に加えて行くべきことを主張した。しかし、平等と自由について考えているのに、自由にあることをするためには、そのことをするための資源が必要であることが認識されていないために、相当に議論が混乱している。自由と平等の議論はこの資源の問題をさけては通れないようである。またあることをする資源があり、そのPをすることについてあるAという人がBというものの制約がないからといってある人は、Pという動作を行うとは限らない。これは環境から発生する因果関係の問題であり、その環境を原因としてその結果Pという行動を行う必要がないと判断すればPという行動は行われないことになる。この場合、走向性や、走光性のような本能が介在しない限り、理性による判断が伴ってこの判断が行わる。この判断は性格の傾向によって、様々に考え込む人もいれば、単純にオプティミズムに考え込む人もいれば、ぺシミスティックに考えてしまい、自殺する人さえいる。逆に他人からオプティミスティックになる様に励まされて、自殺をしないように判断を変えて自殺しないよう決定を変更する人もいる。従って、環境はそのままで結果を発生するわけではなく、その間には傾向や、判断や、道徳や、法や、規範やらが介在している。ある環境において、例えば専制君主の下においてさえ、富裕ではなく、自由を実行するための資源がなくてその資源がないとできない自由は、実行することはできない。そのような自由は稀少性のある資源に制約された自由である。言論の自由についても口のきけない人や、耳の聞こえない人や、考えることのできない人は、口でいう言論の自由や、耳で聞く音による言論の自由や、思考による論理表現の自由は存在しないが、身体の表現による表現の自由等その資源を必要としない表現の自由は存在する。すなわちある自由を実現するためにはそれを可能にする資源が必要である。ある人が耳が聞こえないのに、耳が聞こえない人が音を振動とかで感じることのできる装置が町に備えつけられていない時には、その音を聞く自由はその人にはないことになる。このような意味での資源は何か自由を可能にするもののことである。資源があるにもかかわらず、あるものやある人の妨害や制限によってあることが自由にできないとするならば自由でないことになり、自由であるとはそのような制約や、妨害やらがないことであり、そのようなものをなくすことを「自由化」とか、「自由にする」とか、「自由解放」とか呼んでおり、そのようにする主義を自由主義、そのようなことをする人を「自由主義者」と呼んでおり、そのような自由を重視し、尊重する人を「自由尊重主義者」と呼んでいる。

ここで皆が驚くであろうような言い方として、次のような言い方ができるし、そう使われる言葉の使用法がある。つまり、ある人は百万円の貨幣を使う自由があるのに対して、ある人は五十万円の貨幣を使う自由ある。あるいは、ある人は百平方メートルの土地を処分する自由があるのに、ある人は五十平方メートルの土地を処分する自由がある。あるいはある人は三台の高級自動車を使用する自由があるのに、ある人は自動車を使用する自由が自動車を所有しないためにない。等々の言葉の使用法がある。別の言葉でいえば、ある人は五十万円を使う権利がある貨幣を有しているために、五十万円を使う自由があるのに、他の人は百万円を使う権利がある貨幣を有する(あるいは賃金として受け取っている)ために、百万円を使う自由があるというふうに使う使用法もある。この場合の貨幣は価値を表す尺度であり、自由があたかも「数量」によって表されているかのように見える。貨幣は、そのようなものを「数量」で表す尺度なのであろうか。しかしこのような数量で表されうるものは、自動車の台数やらを除いて社会的法的な権利を表しているようである。自動車の台数も物理的な量を表しているのであるが、自動車に所有権という権利が存在していると考えられるので、社会的、法的なものであろう。ところが三枚の食パンとか、五枚の食パンを食べる自由があるという話になると、それらの食パンが貨幣によって購入されたものであるにしても所有権という権利よりも食料という物的なものが表面に出ていて食べる食べ物の量という側面の方が多くなるが、この場合も自由が量によってはかられているといえる。自由にはそれを可能にする資源が必要であり資源の平等性や、資源の必要の有無によって分類できると同時に、その量や質によっても分類が出来そうである。

更に自由は内心によっても相違する。タブーからの自由は内心の判断や、性格の傾向によって左右されるのは、貧乏や欠乏からの自由が資源の有無によって左右されるのとは対照的である。歴史や伝統に左右されない人は内心の判断によって歴史の因果関係や伝統による制約から、伝統がいかに叡智に満ちたものであっても、自由であるといえる。いかに伝統を大切にしろと政府が命令してもそれに反対の判断をする人がいることもある。それは内心の判断による。経済に影響されて判断する人もいれば、そうでない人もいる。内心の自由は内心の性格の傾向、判断の仕方の傾向によっても変化する。人間の精神が神の決めた運命や、歴史の流れや、経済やらによって決定されているとするならば人間に自由意志は存在しないこととなり、ある原因があればある結果が生まれてくることになる。人間が歴史の流れやらから自由なのかを自由論において論ずるべきなのは主に内心の自由が社会的、政治的に問題とされるときである。信教の自由は内心の問題であり、表現の自由というときの自由の構成要素の一部には書かれる内容に関しての内心の自由が問題となろう。権威主義においては心理学的自由に欠陥があるというとすれば、それは性格の傾向において社会的、政治的に専制や独裁から自由に、また拘束からも自由に意志を働かせることができないというようにいいかえられる。心理学的自由とともに文化的自由も内心の自由に含まれると考えられる。ソヴィエトの共産主義国家内においても、宗教を信じていた人の自由は尊重されるべきことであるし、多数者がもっている文化に対して少数者の者がもっている文化を、いくら多数者が自らの文化を強制したとしても、守るべき自由があるべきだ。不寛容は他人の自由を専制や強制によって制限しようとするのであるから不寛容の自由があるかどうかは、ポジティブな自由を認めるかどうかにつながるが、それが政治的な、社会的な自由の主張であるときには問題にするべきだとしても、内心の自由であるとした場合、反駁の自由が他の人にあり不寛容の思想も寛容の思想に変化する自由をもその人が認めることがない場合であっても、その人の内心はかたくななままであるにしても内心の自由といえるであろうか。他の人に迷惑をかけている場合はどうであろうか。かたくななままであるということは自由意志は全く存在しないということである。人間には一般には自由意志が備わっているのであるからその人の不寛容が寛容になることを他の人は期待するしかないということになる。内心においては「経済的に貧しい人は泥棒をすべきだ(してもよい)」という思想をもっていてその人が本当に経済的に貧しいから泥棒をしたとした場合に、その内心の自由をかえられるかという問題があった時に、そのような唯物論をかえたかどうか他人が観察するために、牢に入ってでたその人に多くの貨幣と土地建物を与えて泥棒をしなくさせえたとしても、「経済的に貧しい人は泥棒をすべきだ(してもよい、必ず泥棒をする)」という思想を変えさせられるかどうかは分からない。このように環境や歴史や宗教や原因というものと、自由意志の問題は内心の自由の問題であり、精神活動の自由や自我の自由や思想の自由や宗教の自由等であり、「我思うゆえに我あり」の主張の本質的内包の指摘する問題を含み、大脳の本能以外の部分が人間の資源としてあるかぎり他の何の資源も必要ではない自由に属する。このゆえにこの自由はデカルト以来尊重されてきたものであり、弁証法的ということばがただ「わがままをいっても、あるいは、起こる確率が絶対的に少ないことをいったとしても、それが役に立つ」という意味ではないにしても、どのようなことをいってもそれが内心の発達に役立つ限りは内心の自由を認めるべきだという弁証法的思考に、内心の自由が役立つと考えられるようになったというように考えられる。バーリンの自由論が自我と自我をこえたものとの分裂を主張し、ベイが『自由の構造』のなかで心理学的自由の概念を展開する時、コレクィビズムへの批判がこめられているとしても内心の自由と対人関係における自由(intrapersonalfreedom and interpersonal freedom )との緊密な関係について考察しようとしていることはあきらかである。この内心は性格の傾向というものが本質的なものをなしており、外界(環境)からの刺激に対して様々な思考過程を通じてある思考や、あるいはその思考の結果行動を引き起こさせる。

この性格の傾向は数量的に把握される場合であれ、類型的に把握される場合であれ、その傾向の違いは政治的と呼ぶことができる場合がある。このように呼ぶとすればすべての人は政治的であるということになり、政治的活動が禁止されている場所においても、あるいは日常の挙動においてもすべて政治的なことが行われていると解釈できると思われる。人間はこれまでそのことに気付いていなかった。しかし現実を説明するとすればこのことは明らかになる。政治的心情が内心においても、政府や、社会においてもいかに扱いにくいのかはここに起源を持っているといえる。政治が自由と深く関わりを持つのはここに起因する。すべての人が政治的なものをもっていて四六時中政治的であるのに、法的にそれを禁止するとすれば何らかの摩擦がおこるのは明白であろう。性格の傾向は政治の傾向そのものであり、政治そのものである。「権力と人格」はそこの分析であったのである。しかし性格の傾向は内心の自由であり、内心の自由は何らかの自由のための資源を必要としないからといっても性格の傾向の形成過程においては自由を可能にする資源の有無が関係しているということが、内心の自由と対人関係における自由と更に資源を必要とする自由との三者連関を発生させ複雑性を増大させる。しかしその研究は自由と政治を論ずるときには不可欠の課題である。

第三節 人間は生まれたときに本当に平等であろうか

人間は生まれた時は平等に生まれるのではない。このことが資源の配分は平等に行われていないということであるならば、資源を必要とする自由は同じではないということを意味する。ここに自由が平等と対立するものと考えてきたこれまでの理論に対抗して、自由の概念なかに存在する資源の平等性に注目すれば自由と平等とを対立するものではなくて相互に補完するものとして、あるいは、自由(主義)が平等(主義)を内包するものとしてとらえることができるようになる。生まれた時にはすべての人は平等ではなく、自由のための資源が平等ではないのであるから平等になるためにすべての自由を否定すること、ある人またはその人が政権をとった場合にはすべての自由を否定することを主張し政権をとって、その政権が国家内のすべての自由を平等のために否定すること、このような自由と平等の対立関係の思想はこの自由のための資源の平等性をできるだけ確保すればよいという政治的思想が理論化されるならば、ある程度それを信じる人の数が少なくなると考えられる。自由を第一義にして平等を論ずる方法論と平等を第一義にして自由を論じていこうとする場合とではその方法論も結論も異なってくることになる。先に自由を認めておいて最後に平等を論ずるか、先に平等にしておいて最後に自由を論ずるかという違いは論ずる時の時間的な差であるのではなくて、結論における時間的な差でもある。共産主義においては先に平等を確保しておいて最後に自由を模索しようとしたがもうすでに自由が存在する余地はなかった。それに対して資本主義においては先に自由を確保しておいて最後に平等を模索しようとしているが平等が発見できるかどうかは不透明であり、平等が実現できるだろうという論とそれは不可能だし、能力やらによる差異はそのまま残しておくべきだという議論とが対立したままである。法哲学的にいえば功利主義的な公益とか、全員の幸福を増大するために作られた膨大な諸法律は各人の自由を制限し、限度を定めているのであるから、その自由の限度はある程度平等になるように考えられているという主張があり、自由のなかに存する資源も、その資源を使用する権利も平等を指向しているものであるから自由と平等の対立の構図も自由の行使のための資源という観点から現代社会を見てみる限りでは、それ程大きくなっているとはいえず、その限りでは平等が大きくくずれていた資本主義社会の発展の初期とは違い両理論の差異による対立も「自由をなくして平等のみを」とか、「平等を全くなくして自由のみを」とかいう極端な政治対立になっていないとえる。従って平等の配慮と尊重を主張するドゥウォーキンと、自由の尊重を先に主張するノージックや、ロールズとの対立は東西冷戦を強化するような政治的摩擦を引き起こすような政治的対立を発生させているとはいえず、現在では平等を主張する議論ものちには自由を尊重し、自由のみを尊重する議論ものちには平等を尊重するというようになりそれらは自由と平等のどちらに重点を置くのかという違いに変質してきているように思われる。このため実際政治においてもその傾向が強くなり、二大政党制に近い国においても二大政党の差異が縮まりつつあるように思える。

自由尊重主義の立場においては自由のあとに見えざる手による平等化のプロセスに期待をする。ここには人為的な平等化の過程は考えられていない。ロールズにあっては自由と平等を調和させるために彼の二原則を設定する。ドゥウォーキンにあっては平等な配慮と尊敬の概念を最優先し干渉されないためのネガティブな自由は一般原則としては認めない。それは諸法律が自由を減少しているとしても権利を設定しているという理由からである。従って平等を主張しているけれども「真の自由」を目指すためのポジティブな自由を認めて全体主義やコレクティヴィズムに陥っている訳ではない。権利は自由論の一部であると考えることができるからである。ノージックの自由尊重主義は自由に行動する権利を持ち、他人のそのような権利に干渉すべきでないという考えから出発する。そして見えざる手の考え方や、自発的な富の移動を通して富の再配分を行うことを期待する。ある程度の平等をそれによって期待はしているがそれが実現すると信じているわけではない。ノージックの考え方はいわゆる保守的であり、ドゥオーキンの考えかたはいわゆるリベラル(昔の左翼的という考え方に近いが、新しいリベラルな考え方である)であり、ロールズの考え方はその中間にあるといえる。オックスフォード大学の法理学の教授であるドゥウォーキンの考え方は平等を先に強い権利として認め法の体系も平等の配慮と尊重とから演繹できるとするものであるから、全体主義的、コレクティヴィズムの傾向を帯びがちである考え方であるが、「諸権利の一般理論を提示し」、「自由な表現の自由や、自由な選択の自由のようなある種の自由への明白な諸権利を人が持っている」ことを示すために干渉されない「自由への特殊な諸権利を擁護するために諸理論を構成する必要があるが、これは現在の目的ではない」と述べている。新しい自由論については他の人や論考に譲っていると考えられる。これによって全体主義やコレクティヴィズムへの傾向を防止していると考えられる。「現在の目的ではない」といいながら示唆しているところは「人間が一般的知識によって知識を得ていそうな共同社会のなかでの一般的選好に基礎をおいた」「政治理論や道徳理論の形での外的遷好」によって「これらの諸自由に対する功利主義的な自由の制限」が存在するというような方法で「自由への個別的な諸権利を擁護するために諸理論を構成する」ことができるであろうとしている。つまり個人の選択の自由と、社会の選択の自由を双方ともに認めた上で、その相互拮抗としての政治がどのような役割を自由という観点と、平等という観点から担い、かつ、どのように調和ができるかを問おうとしていると私は解釈する。「言論表現の自由を擁護することと、何らかの種類の財産と財産の利用の自由の権利を承認しないこととは矛盾しないということをある雑誌で理論的に示した」(ドゥウォーキン、「権利論」、原著二七七頁。)が、バーリンの定義するネガティブな「自由に対する権利」に対する反論を「一般的に」理論化しているのではない、そのようなネガティブな一般自由があるというような理論は反論に耐えられず、一貫した理論にはなりえないとする。(ドゥウォーキン、「権利論」、原著、二七七頁。)

第四節 自由論と平等論は総合できるか

それでは一般的に考えてノージックと、ロールズと、ドゥウォーキンの三つの考えかたを総合するような一般理輪は存在しえないのであろうか。現実の政治においてはこのような三つの政治哲学や、法哲学や、政治理論や、法理論やらは混じり合った形で動いており、政治過程や法過程にあらわれてきてそれぞれの出現の時間的、空間的差はあったとしても相互に無視できないものであろう。それを政治過程論として一般化することは、その出現の時間的な違いや、理論的な差を克服しないかぎり、できないとしても、政治・法哲学の理論として統合の努力は出来るかもしれない。それは政治過程論の問題ではなくて、法哲学や政治哲学の問題となりそうである。なぜならその哲学理論のなかに時間的な概念がはいってくるにしても全体として法哲学と政治哲学の理論の一つの一般的な理論となるからである。それは一つの時間と一つの平面上において展開される政治(哲)学及び法(哲)学の理論となるからである。刑法において罪刑法定主義を定めるにあたって罪の概念に構成要件の分析があるのとよく似た方法で、憲法や政治哲学や法哲学において自由の概念についても構成要件を定めることができる。それは自由を可能にする空間(不動産その他を含めた一般的な概念)や資産・資金(貨幣や食料等を含めた一般的な概念)等の資源であったり、自由の目的とする行為や状態であったり、自由が目的とする除去すべき妨害や障害であったり、自由を可能とする人間の能力であったり、自由を行う法人や人等の主体であったりする。内心の自由か人間関係の自由かの問題は、自由の目的とする対象が人間の内心か社会的な関係かの問題であり、それらは性格の傾向に関するものであり、場所恐怖症があればある場所を歩く社会的自由があったとしても歩くことができないということになるという場合の自由をどう取り扱うかという問題である。大金持ちで資金もあり、自由があっても、何ら金を使うことができないという場合の自由について取り扱わなくてはならないことになる。この心理学的自由は専制からの自由や、恐怖からの自由等の政治的自由や将来の希望や期待や可能性に対する自由や政治的な恐怖のない社会の形成等と密接に関わっており、その他の自由の構成要素と深い関わりのあるものであるので、心理学的自由の問題は他の全ての自由の問題が解決されてから解決されるものかもしれない。いくらオプティミスティックになれと激励されてもオプティミズムの構造が解明されない限りは、心理学的自由が達成されないのと同じように、心理的自由も人間関係のなかにおける自由の構造が解明されて、それが起こした心理の構造が解明されてはじめて解明されるようになると考えられるからである。

自由と平等との極端な対立からのがれるためには自由を可能にする資源という自由の構成要素に常に注意しながら自由論を構成する必要がある。構成要素である資源を考察することは自由論のなかにその資源の平等性の考察を入れるのであるから、自由を強い権利とし平等を弱い権利としているのであったり、自由の下に平等をおいたり、平等を軽視していることになるのであろうか。平等を重視する側からはそのような批判がでてくるかもしれない。そうではない。というのは平等を実現するのにも過程が必要である。そのすべての過程において平等を実現しようとするならば、この考え方が必要であるということになるのであって、自由が突出している時にあっても平等がゼロとならないようにその自由の概念のなかの一属性としてのその資源をとらえ、その資源の平等性について考察することになるであり、そうすべきであるといえる。確かにドゥウォーキンが最初に指摘する通りに「人間は平等に生まれたわけではない。」ということは正当な指摘である。生まれたときの不平等の状態から出発する人間はそれだからといって何ら自由が存在しないならば、あまり進歩、発展がなくなるのかもしれない。自由が存在しながらも平等が存在する社会はどのようにして形成されうるのかが今後の社会の進むべき平和な社会であろう。一つ目の理論は出発点においては不平等があっても自由な産業・活動のあとに相当な不平等が発生した場合にはその時点で平等にすることを考えるというものであり、二つ目の理論は出発点においては不平等があっても中間時点においては完全な平等の状態で競争させ、最後には平等な競争の後であるので不平等が残っても仕方がないというものであり、三つ目の理論は出発点のみは平等にするのが中間の時点での競争においては完全に自由な競争を認め、最後の結果における不平等については何ら関知しないというものであり、四つ目の理論は出発点と、中間の時点のみは自由と平等を認めるが最後の結果については平等にするという理論を修正して出発の時点においても平等を確保しようというな理論であり、五つ目の理論は・・・・・であり、そして最後の理論は最初の出発点も、中間の時点においても、最後の結果においても自由よりも平等を重視するという理論となる。このような理論のたてかたにおいては、最後の理論が大衆にもっとも支持されやすく、ユートピアと考えられてきた。ところがこの理論にたいしてはプラトンの呪縛という批判、全体主義的であり、コレクティヴィズムであるという批判が常につきまとうことになる。このユートピア理論に欠落している視点は、人間の本性でありそれなしでは人間は生活ができないものはなにかという視点であり、その結果平等を重視するあまり自由か平等かの二者択一を迫る点にあると考えられる。ここに述べた理論のバリエーションは例えてみれば学校の運動会やオリンピックの百メートル走における選手のスタートの「ヨーイドン」と、ゴールの合図を想定していると考えられる。しかし学校における平等主義が時に実際の社会の複雑な動きに対応できないように、このような単純な見方によっては現実を生き抜くことはできない。実際には自由のなかの構成要件としての自由のための資源の平等性という形でその平等化とともに自由も動いているであろうからである。人間は自由のみを求めているわけではなく、平等のみを求めているわけでもない。平等のみでは満足しきってしまうし、また家族の様々な形態の違いを考えれば完全な平等というものも考えつきにくい。逆に自由のみを求めているわけでもない。自由のみではフロムのいう通りに不安になることもある。自由からの逃走である。自由からの逃走を防止するためには権威主義を批判するのみではなくて新たに自由と平等の協調について理論を作りあげなくてはならない。

自由はまた環境によってもとらえられかたが異なっている。専制という環境のなかにおいてはある人はあることをすることについて、専制や制約や制限によって、自由はでないという状態にあるから自由を求めるのであるが、その際自由のための資源がある人はその束縛がなければすぐに自由になってそのことができるようになるが、自由のための資源がない人にとってはその束縛がなくなってもそのことができる自由が回復されることにはならない。資源のある人や国をブルジョワジーとか持てる人、持てる国とか呼んで、資源のない人や国をプロレタリアートとか持たざる人、持たざる国とか呼んでいた時代があった。民主主義国家においてももっていない人はあいかわらず資源を必要とする自由は行使することができず、民主的な投票の自由等があったり、経済的な選択の自由があったとしても、実際には物を買えないとか土地を所有していないのであるから、物を選択できないし、土地を自由に処分することができないと主張する人がある。この二つの考え方が「資源を必要とする自由」を否定することによって平等を確保しようとすると、「資源を必要とする自由」があり物があっても自由に処分したり選択したりする自由さえなくなってしまって、資源が平等であっても「資源を必要とする」ような自由もなくなってしまうし、民主的に投票することのできる自由もそのたの全ての自由がなくなってしまうという矛盾が生じてきた。資源を必要とするような自由はある人が持つものであって、資源そのものではない。資源そのものであれば経済学の領域になってしまうし、稀少資源の配分を考えることも経済学の領分である。ここで考えている自由は人間について考えているのである。平等をのみ考え重視する考え方はここですべての自由を否定してしまう。人間は人間として自由に環境に対してあることを行う、それも自由意志や理性やらをもって行う動物であって、環境の因果関係によってすべてが決定されているわけではない。平等を先に考える考え方は資源さえ平等であればすべてがうまくいき、人は平等に(同じくという意味ととらえる場合があるが)なると考え、自由の考え方を否定することになる理論を組み立てざるを得なくなる。全体主義社会においてもコレクティヴィズムの社会においてもそのような考え方がとられた。これは自由のなかにあるべき平等が、平等が先にあり自由はなくなるか、平等の次か、下かにのみ自由が存在することになったからであり平等は本来的には、つまり、人間的(ヒューマニスティック)にみれば、自由のなかにあるべきものだったのであるし、今もそうあるべきであるからだ。自由を平等より強い権利として認める時、自由のための資源をいくら平等化へ向かわしめようとしても自由そのものはなくならない。その時はじめて自由と平等の対立は二者択一的なものではなくて、融合されることになる。ドゥウォーキンが「現実の世界では平等な条件で人生をはじめるのではなく、家族が裕福であったり、有形・無形の教育があっりして他より有利に人生をスタートする人もいれば、一方で人種偏見等で不利なスタートをする人もいる。・・・・だから、リベラルな人は市場から得られた結果は平等な配分になっているという理論はうけいれることができない。」という時に、前段はすべての人が納得する事実であることは認定できる。後段については平等な配分についてもう少し深く考察する必要があり、市場によって配分される資源は様々な自由にとっての様々な資源であって、各人の自由のためのものだという点に視点の方向を少し向ける必要がある。資源にも様々なものがあり、目に見えないサービスや、頭の中にのみ入れられる知識やらもある。頭脳についてはほとんどの人の資源は等しい。しかし教育については資源としてみられるものではあるが、その資源は何かをする自由のためのものであり、その内容は様々である。ところが教育においても一時スウェーデンの政治が陥った様な欠陥であるところのすべての人よりも抜きんでてはならないというような平等性の考え方は、平等は平等な資源のことではあるがその資源によって何かをする自由のための素材であること、各人の自由は様々なものでありその自由のためにもすべてさまざまであるべきで同じであってはならない、同じであることは自由になるということにはならない。同じであればそれは平等ということになり、違うようにする自由がないということになるからである。自由意志を持たないことになるのだということに注意しなければならない。平等が自由の制約、平等が専制の道具となってしまうのは自由を忘れた資源のみの平等論がまかり通る時なのである。資源を自由に処分する自由がなくなった時、資源の平等は全く意味のないものとなる。

第五節 どんなに貧しくても何故窃盗をする自由はないのか

人種偏見や、極端な貧富の差がある様々な裁判上の係争事件がある場合には、このようなケースはアメリカ合衆国においては多い様であるが、平等な配慮と尊重を法哲学上主張することには重要な意味があろう。それが権利及び義務の発生する最も強い根拠であるとみるドゥウォーキンの理論は自由の概念との整合性がとれればポスト冷戦の強力な哲学となりうると考えられる。人生のスタート時にも平等な資源を持とうとする人々の自由を尊重し、市場のなかにおいて、つまり人生の途中においても平等な資源を持とうとする人々の自由を尊重し、配分のシェアの決定後も平等な資源を持とうとする人々の自由を尊重しなければならない。平等な資源を持とうとする自由は、市場のなかにおけると、行政の関与する行政市場(税収とそれに対する行政サービスについてそう呼ぶとすれば)のなかにおけるとをとわず、自由のための資源が平等ではない状態に(スタート時でも、途中ででも、結果においても)あるにもかかわらず、自由のための資源を少なく持っている人には資源の必要でないような自由を多く与えてバランスをとることによって確保できる。資源があまり必要でない自由はここでは類型化、特定化はせずに文字通りの意味で使用した。労働基本権や、社会権やらの考え方、職業選択の自由や、機会均等や、完全雇用の考えなど資源が必要でない自由であるかどうかの吟味は多くの問題点が存在する。自由の分類をネガティブな自由とポジティブな自由とに分類したアイザイア・バーリン、心理学的自由と社会的自由と潜在的自由とに分類したクリスチャン・ベイ等の分類とこの分類はどのように重なりあうのであろうか。今後の考察の課題である。

自由の分類、自由のなかの平等の分類

自由について自由の構成要件を考慮しながら次のように分類する。

(1)資源を必要とする自由と資源を必要としない自由、

(2)能力を必要とする自由と能力を必要としない自由、

(3)内心のみの自由と社会的関係=人間関係における自由

とにまず分類して、資源の平等性、能力の平等性、内心でいかにわがまま自由に思っていてもいいのか、他の人に不寛容な政党や団体がいたとした場合にそれが社会的な団体とならないままでいる場合には人間の平等性は存立基盤は失わないのか、内心のみの自由であるから許されるのか、不平等の内心の自由は認められるのかの問題を取扱い、自由と平等の融合をはかることにする。第3の問題はバーリンらのネガティブな自由と、ポジティブな自由との関連で問題となることである。人間はその内心のすべてを哲学的に、生物学的に考察すれば、発達論的にまた解剖学的に本能と断定された部分以外はすべての自由を持っている。これを内在的自由と呼ぶことにしよう。歴史や因果関係や経済によって決定されていると考えられている行為も、その後深く考え、それ以外の行為の仕方が考えられるとすれば、その行為は本来は自由であったことになる。専制や独裁や家族制度やらによってある自由が制限されてその人の自由がないように見えたとしてもこの内在的自由は存在する。兄弟姉妹関係等の人間関係によっていくら性格の傾向が存在するとしても、その傾向からも自由であることもできるし、その傾向が自由を抑えつけているのみである。兄弟が多くいくら節約型の性格の傾向の人であっても、ある時そうではなくなることも自由である。従って突然に贅沢をしはじめたとすれば節約型の性格ということばにより説明していた人は、節約型の性格の傾向をもっている人というように表現をかえなくてはならなくなる場合がある。性格や性格の傾向といったとしても自由と深い関連があることがこのことひとつをとってみてもわかる。内在的自由はこのような性格の傾向の裏側に存在しているのみではなくて法や規範の裏側にも存在している。監獄にはいっている人にも、規範によっておさえつけたとしてもその裏側には自由が存在している。窃盗をしないように規範によっておさえつけたとしても窃盗をする自由は残っている。逆に窃盗をしないという自由も、規範によっておさえつけられていなくても存在する。この場合は内心の道徳が窃盗をおさえつけていることになる。一方では専制や独裁は社会的に表現の自由を押さえつけたとしても、人間の内在的自由があるので心の中での表現の自由を抑圧することはできないのであり、これが表現の自由の絶対性を担保しており、また、貧しい人が平等な経済(経済的な資源=稀少資源)を持つようになるまでは富裕なすべての人々の自由は制限されるべきであるという自由の制限論や、国家の自由が獲得されるまではすべての個人の自由を制限せよという議論や、ロールズの主張する社会契約による公正としての正義の理論によるある程度の自由の制限論や、ノージックによる自由尊重主義のなかにおける自由の最小限の制限論や、アナーキスト(これにはノージックのいう最小国家のいうアナーキストと、古典的アナーキストの二種類があるが全く相対立する別個のものであり、ここでは後者のことを指す)による自由の制限論、ナショナリストや、民族主義者やらの自由の制限論、国家主義者の自由の制限論、国際主義者の自由の制限論、民主主義者の自由の制限論、保守主義者の自由の制限論、リベラリストの自由の制限論等々と数えあげればきりがない程の自由の制限論が存在する。例えば保守主義者が大切と思う所有権の絶対性についても公共の利益と対立する場合にはその自由は譲歩されねばならないとされることについては、リベラリストを自認する人々が鬼の首を取ったごとくに「自由の制限」を主張する論拠となり、逆に公共用の道路や鉄道の建築のためであっても立ち退かないですべての他の部分の道路建設やらまでも台無しにしている所有権を守り通している人々に味方する保守主義者等の人々は様々な理由(ノージックの最小国家論も論拠の一つである)をつけて所有の自由を主張するのである。いずれにしろ各政治理論は自らの自由の体系、政治的自由の体系をもっているし、ある社会、ある国家も、国の基本的人権を定めた憲法の基本的自由権のなかに自由な権利の体系をもっており、日々の判決のなかで裁判所は法に従ってではあるが、自由権の体系を形成している。そのなかには自由の強弱も含まれている可能性もある。自由の強弱とはどの自由の方が強く、どの自由の方が弱いかということである。専制や独裁がかって抑圧していた自由は、現在では憲法によって自由として認められているものが多く、現代の自由社会では社会的に認められている自由がほとんどである。従って表現の自由を認めよという主張をする人間解放のための自由運動はかっては解放闘争とよばれたのである。しかし窃盗をする自由を認めよという解放闘争や戦争等の殺人の自由を認めよという解放闘争は聞いたことがない。ユダヤ人虐殺を行ったヒットラーの自由を除いては。イェーリンクの権利のための闘争はある意味では自由のための闘争ともいいかえることができる。それは権利として認められていない自由(表現の自由や、賠償してもらう権利による請求の自由等)を認めてくれるように自由を求めて提訴し、闘争することを意味しているからである。しかし、殺人の自由を求めてする闘争は解放運動とはいえない。何故であろうか。殺人や窃盗はしないことが社会的に認められた規範であり(それを社会契約によって説明するか、しないかは別としても)それをする自由を求めることは一般には認められてはいないし、そのようなことを消極的自由として説明する人もいる。それは社会のタブーに挑戦する自由を求めている場合とは違ったものである。そのどちらがより自由であるのかは社会的に窃盗や殺人の自由を認めた「人間が人間に対して狼である」社会(ホッブスの自然的状態)と、窃盗や殺人を認めない(社会契約等の説明による)社会とのいずれかのほうが、より人間の社会として適しているのかという判断が必要である。ヘッフェは殺人の自由のない社会の方が社会契約によるから、より人間的であると考えている。ところが、アメリカ合衆国においては銃の規制が緩く、正当な防衛のためであれば殺人にいたる防衛であっても正当化されている。日本においてもそのような正当防衛は認められる場合でも、銃によるものは認められていない。法的にそのような場合の殺人の自由が、政治的、社会的に、法的に存在しており、日本の正当防衛の理論においても、死刑の理論においても殺人の自由が認められている場合がある。死刑のケースについては犯罪者のまだ残っている自由を教育によって、すなわち、教育刑によって殺人の自由から殺人するべきでないと教育されそのような自由が存在しないことがわかるようにすべきであるということもまた社会的、政治的に政府が行うべき自由であること、また、それが人道的であり、死刑台に上がる時には殺人の自由が存在しないことを反省しその理由を科学的に証明できる人間に、自由に、なっているとすれば、死刑は執行をすべきではないと同時に、死刑制度それ自体を、政府が自由に廃止すべきであると考えるものである。それをみせしめのために行うことは人道に反することである。

第六節 自由の構成要件である資源の平等を考えれば

自由と平等は調和することが出来るが自由はなくすべきではない

表現の自由や、学問の自由や、言論の自由や、出版の自由等国際的に人権として認められているような自由は、専制や独裁に対してそれらを抑圧する自由、バーリンならポジティブな自由と呼ぶであろう自由を予防的に抑圧しているのであり、それは殺人の自由を抑圧するのと似ている面が少し存在しているが,実は全く相違している。表現の自由等はドゥウォーキンのいうような人格権に関する平等な配慮と尊敬によって導き出すことのできるような自由である。この場合の自由は平等とも共存できる。宗教(信教)の自由についても平等な人格を人はもち、その人格は様々な宗教をもちうるのであるから、他の宗教からも政府からも宗教を理由に弾圧されることは許されるべきことでないという人道的な思想から発生したものである。例え抑圧されても宗教に関しては内心においてひそかに信教されるから、信教の自由こそは根深いものであり、それこそ内在的自由の主要なものである。信教の自由は宗教的自由による宗教戦争の数が多かったという歴史上の事実を見ても、いかに根が深く、政治や道徳や法規範そのものをも飲み込んでしまうような大きな自由であるかということがわかる。ミルは「自由論」のなかで自由意志論による意志の自由の論考を省略するといった後で表現や討論の自由等の政治的、社会的自由について論じている。政治的、社会的自由について自由意志をこのようにして論ずることは至難のわざである。しかしいつかは通らなくてはならないワザ(学問・discipline)である。政治的、社会的自由に関する議論は一般的には、規範によって抑圧・制限されているのが自由であり、自由の抑圧・規制・制限をしているものが法であり、政治であり、社会であるという説明になる。この場合規範によって抑圧されている自由こそは私が内在的自由と呼んでいるものであり、その抑圧を説明する理論としては社会契約論や、ドゥウォーキンによる「平等な配慮と平等な尊敬」という概念や、彼による権利論のうちの義務論、他人が自分を尊重してくれているから、平等に自分も他人を尊重しなければならないという議論や、自由の制限に関する外的選好の理論や、最大多数の最大幸福を目指す功利主義理論のなかに含まれている個人の自由の制限の理論であり、マルクスのいう個人の所有権や個人の経済活動の自由やらの否定による自由の制限論であり、秩序というものの考え方からする社会的、政治的秩序にいたるために自由の制限をおこなわねばならないとする考え方であったり、わがままとしての自由のみをとらえ自由は制限すべきであると主張する考え方であり、経済決定論と所有権や個人の自由権の制限と結び付けたマルクスの理論の他に経済決定論の立場から人間の行動は経済が(マルクスの場合は下部(経済)構造が)全てを左右しているのであるから他の人々と平等な経済となるまではすべてを、政治もすべてを拒否するということである。このような自由権が様々な形で政治理論のなかに表れてくる理由は、もともと専制や独裁がそれらを抑圧してきた歴史があったからであり、自由権が強弱の違いはあれ各政治理論のなかに専制や独裁に対する対抗として表れてきたからにほかならない。例えば表現の自由に対する専制が強く行われていた国においてはそれに対抗する形での表現の自由を強調した政治理論があらわれることになっただろうし、平等を主張する専制国家において表現の自由のなかった国においても、様々な他の自由の抑圧の仕方如何によってはそれらの自由の抑圧に対する反発としての解放の政治の様々な形態が発生するであろうし、そのために自由権の強弱のつけかたは様々な自由権の間で国により違ったものとなっていくであろうことは、ソ連崩壊後の共産主義国家の行方のなかに見ることができる。

ミルが「自由論」のなかで自由意志論について言及せずに政治的自由や、社会的自由についてのみ言及した理由は、本能以外のすべての内在的自由の問題として政治的自由や社会的自由の問題がとらえられるのは明白であるにしても、表現の自由やらの政治的、社会的自由が歴史や、因果関係やらにどの程度拘束されているのかが不明であり、法律等の規範による制約にどの程度服するのかを考察するときに、歴史的な理由からは表現不可能なことや、因果関係論により社会・政治的に絶対ありえないことやらについては自由権を主張するまでもなく、絶対にできないこととなるからであろう。そのようなものは自由を主張しても自由にできないことであるならば自由権を設定する必要はなくなるということになるからであっただろう。しかしミルが「自由論」において政治的、社会的自由とともに本能と人間の内在的自由の問題や、自由意志論や、因果関係と自由やらの自由意志論を考察しなかったのは片手落ちだったのだろうか。そもそも両者は関係づけて論ずることはできるのであろうか。政治的、社会的自由は法律哲学上の問題であるが、法規範が拘束している自由とはことなり、法規範が拘束しないことに実定法的かあるいは自然法的にかをとわず、決定している自由を取り扱う。同じ内在的自由でありながら前者は法が拘束している自由であり、後者は拘束を法がはずすと憲法的に決定している自由である。後者は主観も自由であると思っており客観的にも自由が認められており両者が一致している自由である。逆に前者は主観的な欲求としては自由を求めている事態があったとしても客観的には自由を否定されているような自由である。いずれによ両者はいずれも社会的規範であるので、どのような場合でも社会的規範は自由の概念とともに考察されなくてはならないことになる。監禁やらの罪は他人の自由を侵害するゆえに罪となるので刑法上の罪であるが、監禁された人は身体の自由を制約されており、恐いということで精神的な自由の一部分も侵されているとしてもその他の自由を抑圧されていない場合もあるのは刑務所にいる犯罪者が逮捕されても心のなかに内在的自由を持っているのとよく似ている。法が自由を拘束するのは許されるが、個人が監禁して自由を拘束することは許されない。政府によるこの監禁の自由の抑圧には他の人を自由にするという意味が含まれているのと同じく、政府によるすべての自由の抑圧には他の国民(市民)の自由を確保するという意味が含まれている。しかし表現の自由が自由を認めているのと同じ性質であるという考えかたにはならない。表現の自由等は専制等の自由の妨害者から内在的自由を取り戻すということであるが規範による自由の抑制は相互に自由を抑制することによる自由の確保であり、相互に平等に配慮及び尊敬をして自由を抑圧して自由を確保しようということである。ここにはドゥウォーキンの理論の適用の余地はあるが、表現の自由等について彼の理論の適用の余地はない。

表現の自由等のこのような自由権が差別的表現を含む等の理由で制限を受ける場合はどのようにとらえるべきであろうか。植民地や、他の民族や、他の人種やらに対する権威主義的性格の人の差別はアドルノらや、フロムの研究したところである。この点については二つの場合が考えれる。まずトゥインビーが皮膚の色はただのメラニン色素の多少によるのであるから皮膚の色による差別は行うべきでないと『歴史の研究』のなかで述べたような変更できないような生物学的な差異による差別は行うべきではないが、性格の傾向のような専制や独裁や、非行の原因やらのように矯正する(教育によって)ことのできるようなもので、それらを他人に迷惑をかけないように矯正するための差別は許されるというように二つの場合に分けるやり方である。後者は、政治的と述べてもよい。教育的と述べてもよい。しかしノージックや、ロールズによれば後者の場合でも専制や独裁の下で喜んで生活する自由があり、寛容ではない性格のもとで生活する自由があるのだから、そのような場合も自由を強制するような権利は存在しないことになる。しかしこれにたいしては自由でない状態で生活することは、自由ではないから、自由でないように生活する自由ということは自己矛盾に陥っているという考え方も存在するし、それはフロムが『自由からの逃走』のなかで展開した理論である。自由に関する国際的に認められている権利はノージックによってもドゥウォーキンによっても法哲学的にかつ政治哲学的に体系的に導き出されうるとはいえないというH・L・A・ハートの見解はまさに正しい。(ハート、『法学・哲学論集』、二五〇頁。)不寛容派に対する「自由の強制」は法的にも教育的にも認められのは明白かつ現在の危険がある場合にのみ限定するロールズの見解からも自由権は導き出されえない。ルソーが専制国家における奴隷状態にある支配者と被支配者に対して「自由であることを強制すること」を主張したことが正しく人道的であると考える人が、たともしこの世に存在するとすれば、ロールズのいう不寛容派に対する「自由であることの強制」をその人は平時においても(明白でかつ現在の危険がなくても)認めることであろう。政府が「自由でない状態にある人々」に、「自由である状態に変化すること」を勧告し教育し、場合によっては強制することができること、それによって国民は政府に対してそのようにしてくれと要求する権利を持っていることこれが自由権である。人々の個別性からくる干渉されない自由を認めるノージックの理論によれば不寛容派も干渉されない自由を持つのであるから、明白かつ現在の危険が存在するようになるまで「自由でない状態にある人々」は政府によって放置されねばならなくなるのはロールズの場合と同様であり。さらにノージックの場合は不寛容派のユートピアは例え不自由なものであってもどのようなもの(例えばマルクスのユートピアのようなもの)であってもその自由も認めなければならないことになる。すべての自由を制限する自由を認めることになる。この主張は監禁の自由を認めない法を持っており、政府による監禁の自由が認められるのは「自由を確保」することができるばあいに限るというような一般理論が欠けている。その理由付けが社会契約論等様々な異なった理論付けが行われようとも、それは理論的枠組の問題であって本質的なものではない。「ともに普遍的規定であるが、『何人をも殺すな』という規定及び『すべての人を殺せ』という規定と同様、それらは両者とも、平等すなわち平等の配慮と尊重の価値とは特別な関わりを持たないように思われる」(H・L・A・ハート、『法学・哲学論集』、二四八頁。)とハートは述べる。また信仰を否定された人々が不満に思うのは、彼らの自由の制限ではなく、彼らが平等の配慮と尊重を与えられないことなどと想定するのはともかく確かに幻想的であるとハートが述べる時(ibid,二四九頁。)ハートはドゥウォーキンの平等の配慮と尊重を受ける人々の権原から権利を導出しようというドゥウォーキンの試みは失敗であり、そこに真理があるとは思われないという結論に到達し、なされねばならないことがまだ多くあると述べる(ibid,250頁。)のである。ここで問題とすべきであるのは平等なと、個別的なというドゥウォーキンと、ノージックの概念の中味なのではなくて、それらが自由の一面を表しているのであると私は解釈する。自由は人格によって行使されるが、人格の平等性はその行使にあたっては配慮され尊重されねばならないというのがドゥウォーキンのいっていることであり、それは自由の一面を述べているのだといえるという解釈である。しかし人格の性格の傾向には多種多様の個別性があるのだから、他の人は干渉してはならないというのがノージックの考え方であると解釈するとしても、自由の人格を公正する性格の傾向は分析する必要がないのかという点が今後研究されねばならないということになるのではなかろうか。これがノージック理論の展開すべき方向である。ドゥウォーキンの理論の展開の方向としては人格の平等性や資源の平等性やその他の環境の平等性等が自由のなかで考え研究され、更にドゥウォーキンとノージックの理論の接点としては人格における性格の傾向とその変容が人間の自由という究極的なもののなかで研究され、理想的な人間の自由はいかにして達成されねばならないのかを研究するということのなかにあるのではなかろうか。自由のなかになぜ人格の理論、性格の傾向の考察を導入しなくてはならないのかは自由を全体的に観察すれば理解できる。自由を行使する人が様々な性格を有しているからでり、それは個別性と平等性を考察するうえの基礎となるからである。不寛容派の自由はバーリンのいう積極的自由に該当し、その他の人々の自由を害するのであるが、それは性格の傾向に由来しており平等性の原則とも相容れない。それは価値相対主義の寛容論から導き出される結論ではなくて不寛容派の自由は他の人を自由にしないという理由によって導き出される結論である。

第七節 自由の構成要素である環境、資源、性格の傾向、能力 これらがなければ人間の自由は行使できない

特に環境のうち社会制度が自由権を認めていなければ自由に行動は出来ない

自由とは、ある特殊な環境のもとである特定の資源をもった、ある特定の性格の傾向のある人がある束縛や制限なしにある特定のことをすることの特定の能力をもった場合に、ある特定の人か、特定の人の内心に対して、そのことをする自由であるが、他の人の自由を損なうような自由は制限される、つまり積極的(ポジティブな)自由は制限されるということができる。ポジティブな自由による他の人の自由の制限はゆるされないということは政府についてもいえる。一方で、ノージックのいう個別性は性格の傾向の個別性の研究、例えば不寛容になりがちな傾向を戒める方法等の研究によって真に現実的なものとなり、自由論のなかで活きてくるし、平等の観念も環境や、資源や、能力やらの平等を考えていくことにより自由論のなかで活きてくることになる。これによりドゥウォーキンの平等論が自由論のなかで活きて、人間の平等を考えるのに人間は自由な存在であるのにそのことを抜きにして考えるという片手落ちの状態から抜け出て人間の平等を人間の自由という概念と融合しながら考察できるようになる。もし人間が本能のみによって生きている動物であるならば平等を自由とは無関係に考察できたであろう。人間は単に資源の平等のみを考えてやっても突然に自由に出家してそれを捨ててしまうかもしれない。この場合は平等な配慮と尊敬を拒否しているのであり自由の問題であり平等とは関係がない。また先の監禁が罪であるのは自由を侵害するゆえにであり平等とは関係のない法的問題である。このような平等な配慮と尊敬で完全に説明できない問題も自由という考え方を合わせて考慮すれば解決がつくことがある。平等や人格の個別性を考えながらも自由を尊重すれば現代における啓蒙主義である「自由の強制」にこの論考は向かわざるをえなくなるかもしれない。

第 章

自由と環境(政治的、人間関係的、社会的、法的・・・・・)との詳細な分析は別にゆずるとして自由の全体像をとらえるためには資源や人格等の分析を先に進める必要があろう。

第八節 自由化と、自由の強制 選択の自由の強制

自由はある特定の環境のもとで使用されることばである。ある人がどのような環境にいるかによって自由の意味がことなってくる。レーガンや、サッチャーや、中曾根政権時代の自由化ということばはそれまでの様々な経済的規制からの自由化という意味であったのであって金融自由化、国鉄民営化、教育の自由化等は規制が多かった時代だったからこそ自由化が叫ばれえたのであり、いったん自由化されてしまえばもうすでに自由になっているのであるから自由化を叫ぶことも政府が「自由化する」ことも必要がないし、そのようなことばは意味がなくなる。私的所有が認められていなかったからこそ私的所有の自由化が共産主義社会において叫ばれえたのである。また専制国家において自由がなかったからこそルソーは『社会契約論』のなかで「自由であることの強制」ということを主張できたのである。また監禁されている人は自由が存在しないからこそ自由を政府に対して求めることができたり、自由を監禁している人に要求できるのである。法規範の束縛からの自由と、監禁の束縛からの自由とは意味が相違している。法規範の束縛、制限からの自由は人間が人間に対して狼である状態を作り出し自由ではなくなるのだから自由になるのではないとホッブスはいうのであろう。ルソーなら「自由であることを強制」している社会契約を破棄することによって、即ち社会契約による法を破棄することによって「単なる欲望の衝動」による「ドレイ状態」に落ちるというであろう。(ルソー、『社会契約論』、第一編第八章。)ルソーは人間は「平等で自由に生まれた」のであると考える。(同、第一編第二章。)しかし「勝った者が負けた者を殺す権利」とか「ドレイ権」とかを批判することにより、(同、第四章。)また「最も強いものの権利について批判的に考察することにより(同、第3章。)、ドレイ状態を克服するために社会契約が存在すると説くのであるが、「自由という言葉の哲学的意味は、わたしの当面の課題ではない。」(同、第八章。)と言明する。「他人を殺す自由を全ての人が放棄するとき、彼らはその代わりに身体と生命の不可侵性に対する請求権を手に入れる。」(ヘッフェ、四〇六頁。)のであってすべての人に共通していなくてはならない。これは監禁についてもあてはまる。「互いに利益のあるかたちでの自由の放棄」は「強制なき強制」であるという説明をヘッフェは行う。(ヘッフェ、四〇七−四〇八頁。)従ってこのヘッフェの議論は法規範による自由の制限の正当化根拠論といえる。一方監禁の束縛や、専制からの自由になることの正当化はこのような社会契約等によって説明されるのではなく、人間には拘束から自由になるべき社会的な基本的人権があるからだという考え方や自然状態に持っていた自然権的な自由から発生してきたものだという正当化の説明がなされるであろう。法規範による束縛からの自由の主張に対してなされる社会契約やらの法がなくなれば自由がなくなる等々の正当化の理論の構成と監禁からの自由が監禁は自由を束縛しているから自由を得るために自由化をすべきだという理論構成のちがいは、監禁の場合は監禁が専制や、経済的規制や、共産主義による所有の禁止等と同じようなものであるといっているのに対して、法規範は正当なものだよといっているのである。

ところが共産主義社会においては私的所有の禁止は法規範であったのであるし、経済的規制もサッチャーや、レーガンや、中曾根政権が登場するまでは憲法規範であったり、法規範であったのであり、それらの規範が自由化によりなくなったというのが自由化の意味であったのである。ここには政治的な環境の変化があったということを自由と環境との問題を考える場合知っておく必要がある。つまり人間は本能以外の社会的、政治的なことにおいては自由なのであるから、ある法規範が禁止し制限している自由についても、もし政治的環境が変化すれば自由化が行われることがありうるということをこのことは意味し、それゆえに現在のある法規範が禁止し制限している自由も内在的自由として常に存在しているのであって、いつ何時自由化によって外在的自由になるかわからないということを知っておく必要がある。これが刑法理論の根底をなしている。ある人が法規範を犯すに際してその他の自由である犯さない自由があったからこそ、法規範があるのに犯したことに対して罪を与えるのであるという考えである。刑法の自由論はまた(相当な)因果関係があって、たとえば、非常に貧しかったゆえに、窃盗をしたのであって、その原因と結果の間に完全な決定理論が成立すると考える経済決定論の考え方にたてば、窃盗をしないでいる自由はなかったのであるから(例えば窃盗をしないと餓死する状態にあったのであるから)貧乏であったことを罰すべきであってその人を罰することはできないという因果関係による自由意志の有無の問題としても刑法学的には問題になる。ある人の撃った玉があたった壁が倒れた事件について撃った玉があたった壁の倒壊により死亡した場合、罪になるのかどうかという因果関係の問題とは全く別の、経済や歴史等による因果関係による拘束から人間が自由でありうるかという問題であり、クーデター等による犯罪を裁く場合に歴史的な経済的状態との因果関係をどうみるかというような問題、つまり自由論の問題となるのである。唯物論は経済決定論をとるゆえに経済的下部構造のみを重視しそこに自由を認めないが、唯心論(観念論)においては自由を認めることになると思われるが、全体主義やコレクティヴィズムの考え方が「真の」自由を強制しているというポジティブな自由論を観念論的だという時の観念論のことばの使い方のなかには唯物論は観念論的であるということばの使い方となっていることになる。このことばの使い方では唯物論は見方が一方的でかたよっており、かたよった観念(そう考えるのも自由であろうが)にとらわれているのではないかという意味での観念論ということばの使い方となっている。ある時代の実定法による法規範による自由の拘束や、歴史や経済の因果関係による自由の拘束やらがある場合それらは自由をとらえる場合の自由の環境としてとらえることができるし、それらの環境は正しくとらえ、正しく類型化しておく必要がある。一方、法規範による自由の制限を考える場合は特に実定法という法を越えた法という意味での自然法や、道徳規範による社会あるいはある人格による自由の制限を考慮しなれけばならない。社会全体が一つの性格の傾向をもつ場合には社会的人格と呼び分析することができるであろうが、文化とほぼ同義語とならないように概念を整理する必要がある。

自由と環境との問題を考慮すれば、共産主義からの自由ということばはこれをあらためて共産主義の環境において私的所有権の禁止からの自由化と呼ぶべきであるし、専制からの自由ということばも専制的な政治環境において支配からの自由と呼ぶべきであろう。専制のもとにおいてではなくて、民主政治や自由政治のもとにおいて支配からの自由、すなわち統治と自治が同一の傾向を示すようになることとは意味が違っているからである。これは経済的規制が撤廃されるという意味での自由化についてもいえることである。自由ということばはある環境(状況)において語られることばであって、それなくしては考えられないのは政治ということばと同じである。専制政治の時代における奴隷状態、私の目から見ればルソーは勝者と敗者のそれとともに貧しい者と富める者の不平等も暗にそのなかに含めようとしていたふしがあるが、それを何らかの理由でカットしたのであると思えるが、その状態から「自由であることを強制」することにより自由になるということを現代に移して考えれば、全体主義やコレクティヴィズムの環境における奴隷状態からの自由になることであるとともに、フロムのいう権威主義的な人間関係からも自由になることを意味していると考えられ、この際環境の分析は重要な意味を持っていると考えられる。私は権威主義的人間関係を甘えられる人と、甘える人の人間関係、長男、長女等と同じ日本独自な呼びかたである甘えということばを使わなければ、依存される人と依存する人の人間関係であると分析しているのであるが、この分析については別にゆずる。

平等との関連で最も重要な自由の構成要素は資源である。自由な行動には資源が必要な場合がある。資源には資金とか空間(不動産の効用を生み出すもの)とかがあり、平等な配慮と尊重を主張するドゥウォーキンも「資源(resources)ということばを使うし、政治を稀少資源の権威主義的配分と定義する政治学者もいるし、最も恵まれない人を考慮するロールズの第二原理は資源の配分に関するものであるし、自由尊重主義者であるノージックでさえも『アナーキー・国家・ユートピア』の第七章において自由が平等主義的配分をくずすといいながらも、その章においては配分的正義について論ぜざるをえなくなっている。もし自由論が資源について論じなかったとしたら、またもし平等な資源のみを論じ自由を論じなかったとしたら自由論も平等論も空虚なものになるであろうことは先に述べた通りであり、最もショッキングなことは資源と自由との関連についてこれまでに論じてきた研究の少ないことである。専制的な環境においての支配からの自由、専制的な環境においての支配からの自由の要求において経済的資源について人々は何を考えていたのであろうか。ただ自由ということばにうかれていただけなのだろうか。「真の自由」の主張、ポジティブな自由の主張のなかには経済的資源の欲求が含まれていたように思われる場合がある。コレクティヴィズムの一部にその傾向を読みとれる。全体主義における「真の自由」は主に国家の自由を指すとすれば経済的資源の平等性の主張は希薄であったようである。サッチャーらの経済的規制の撤廃による自由化の概念のなかには自由競争による見えざる手が経済を活性化させ人々の経済的幸福を増大させるという考え方が入っていたとしても、各人の経済的資源を平等にしようという考え方ではなく大企業の(財閥等の)資源が豊富な経済主体が中小企業との間で独占的市場形成を行わないようにという考え方から発生した自由化である。

この資源の問題は本質的には唯物論と経済決定論をどのように扱うかという問題に帰着する。皆が生活を同様にするには資源の結果平等の立場が主張されるが、逆に生産する立場からみれば資源の較差は認めるべきであるという主張がなされる。マルクスの唯物論においては経済がすべてを決定しているのであるから、自由意志は存在しないということになり、自由論は存在しない。この論は自由は資源のみの問題であるという論として解釈できる。このマルクスらの議論は極論ではあるが、その極論が発生してきた人格の傾向の問題や、その環境の問題は考慮に値する。極端な貧困の状態にあるものについてはその環境のなかから経済先決論や、平等にしてほしいという要求がでてきても不思議ではない。経済先決論においては経済問題が先に解決しなければ生きて行けないのであるから、政治の問題も文化の問題もすべて存在しないという論理の構造をもった議論であり、ある意味でのアナーキズムである。これはもう一つのアナーキズムであるところのノージックらの主張、要約すれば、財産の私有制や資源の較差を干渉されない自由を尊重して認め世の中がすべて交換の連鎖になれば、最小国家でよいという考えかたとは異なっている。これは最小国家アナーキズムと呼ぶとすれば、前者は極大国家アナーキズムということになる。極大国家アナーキズムにおいては、論理矛盾ではあるが「国家は消滅する」とされる。この場合の国家は資本家のための国家であると考えられる。このような考え方の解釈としては私有財産の極端な不平等な少ない割当ゆえに他の富裕な人の私有財産から疎外されているが、コモン・グッズ共有財産には疎外されていないのだからすべてを国有化してしまえば疎外がなくなると短絡視したのではないかという精神分析もその妥当性を検討すべき時代となったと私はみている。精神は内在的には自由であるが、経済が優先し自由は存在しないという経済先決論は以上のような環境のなかで共産(共有)化理論を正当化するための理論であったのではないか。しかし現実には内在的自由は存在しているにもかかわらず、私的所有とかによる空間や資金等の資源が不足していて自由を実行できるようにするようなものがないので自由でないという現在の状況を正しくとらえどのようにして平等へ向かってリベラルに自由主義的に(政治)活動するのかということが問題なのであったと考えられる。このような場合の自由の主張は所有やらの自由を求める保守的なものでは絶対にありえないとはいえない。所有権の自由を認めながらも自由の資源の平等の主張を行うような理論構成を政治理論がとる場合である。私的所有の自由を認めない理論構成をとった共産主義においては、所有における自由処分という選択の自由をなくしてしまったという点においては現実的には自由をなくしてしまった。これは経済による因果関係論的決定論をとり自由意志を否定していたという解釈を共産主義に対して(又、本能的生物論やらに対しても)とるならば、それは自由の哲学からみた当然の結果であったといわねばならない。自由意志論と政治的自由論とはこのようにみれば合致するのである。共産主義社会が冷戦の終結とともに動きがとれなくなった理由はこのような自由の喪失が原因であったと考えられる。人間は経済によって(あたかも経済が本能であるかのような理由によって)因果関係論的に決定されていて自由でないのではなくて、内在的自由はあるが経済によって自由が制限されていたことを知っていたのである。このことは論理学的に重要であり、平等の主張は経済的資源という物資的なるものを平等にすることを主張することよりも、経済によって制限されるている自由を少なくして平等な個人の環境をつくり出すべきであるという主張にむかわねばならないということになるのである。このことにより自由の主張と平等の主張は対立するものではないものとなる。これまでの理論においてはある人の自由のための資源が極端に少ない場合には、平等を要求する主張のみが考えられていた。このような環境の下では平等の主張が自由・リベラルの主張であった。これはあたかも平等を求めて自由の要求が行われたように見えた。しかし実際は選択の自由をなくすという理論構成をとっていた。富裕な人の自由をなくすことにより自らが富裕な共産社会の権力者となったソ連のノーメンクラツーラ階級は、選択の自由のない富裕層となって腐敗したと考えられる。経済決定論によって人間には因果関係的に決定されているのであるから自由は存在しないと考えていた人々が富裕になってもその理論に固執することは、貧しい人々の自由のための資源の不足のための自由の否定をそのまま富裕層にあてはまるということになり、自由の意味が環境によって相違していることからくる自由の意味のはきちがえを発生させ、秘密裡にノーメンクラツーラ階級の子弟達は奢侈にはしることになった。この腐敗はアクトン卿の指摘する「権力は腐敗する」ということの例でもあったが、自由の二つの意味からみたバーリンの理論を応用すれば権力者がポジティブな自由を行使することにより得た権力で更にポジティブな自由を行使したということになろう。自由の本質に迫ることによりこのポジティブな自由を論ずるとすれば、ポジティブな自由とは資源の所有が極端に少ない(と考えている)自由の主体が自らの少ない所有に対して多くの資源を所有している(と考えている)他の人は自らを疎外していると考えられるので、自らが統治し権力を得ることによってその疎外を排除する自由である。それにより多くの資源を持つ人の自由は抑えつけるべきであり、自らがこの自由を持つのは経済が貧しいから自由を持たないので窃盗をするのは因果関係的に正当であり、すべて他の人も自由をもつべきではなく、自分の窃盗は窃盗ではない、自らのすべての非行は非行でない、自分一人のみはすべての法規範は適用されず本能以外のすべての完全なる自由を持つが他の人々は経済により因果関係的に決定されているべきであり、他の人すべてに自由は存在しないというものである。この自由は「真の自由」とバーリンは名付けたが、これは非行の自由や、法規範を破る理由をすべて経済の貧しさのせいにして、法規範を破る自由を与えよというものである。この「真の自由」の考え方は全体主義にも、コレクティヴィズムにも見られる考え方であるが、それを法的に正当化したのがカール・シュミットの例外状態の考え方であったのではなかろうか。倫理学的には無人島に一人分の食料しかないのに七人が漂着した場合の例外的な状態を様々に考察してみてもこのポジティブな自由を肯定する考えにいきつくかもしれない。しかしこの考え方は人口過多の場合を考えればわかるように、人口抑制のような理性的な方法によって例外的な状態がおこることを防止する「人間の知性」をオプティミスティックに期待し、そのように教育するということによってしか解決できないかもしれない。例外的な状態はあくまでも例外なのであって何兆分の一の確率で起こる可能性のあることを、すべの場合にあてはめるのは、飛行機が落ちる可能性が〇.〇〇・・・一の可能性であるというだけで飛行機に個人が乗らなかったり、政府が完全に飛行機を禁止するのと同じペシミスティックな考え方である。これに対しては確率を考えながらオプティミスティックにこの世は生きるしか道はないのであるが、まさに針の穴程の可能性があるとしつこくいわれるとそれはそれで真実であるといわざるをえないことも確かなことである。オプティミスティックな人格の構造を研究することはこのような意味では重要なことである。

第 節 義賊の心理

二つの行きすぎた自由

−義賊の思想と、バーリンの消極的自由−

バーリンのいう消極的自由に対して積極的自由を主張する側の人びとは、わがままということばを使う。逆からみてバーリンのいう消極的自由を主張する側の人々は積極的自由に対してわがままという。義賊ということばは金持ちから財産をとり貧乏人に分け与える盗賊のことであり、少年少女が聞かされる話のなかにはよくでてくるものである。貧乏な人に対してどのように考えるべきか、それが正義であるかどうかについては子供たちの意見も分かれるであろうから意見を調査し、統計学的に処理すれば、社会性の発達心理学の問題の解決に役立つと思われる。ここで統計的な問題の解決の仕方は抜きにして考えていく。義賊をわがままととらえるかどうかは他の生徒から金を恐喝している非行少年と同じ性格を持っていると考えるかどうかにかかっている。非行少年ならば他の人々の自由はなくなっていき他の少年たちは萎縮してしまう。義賊についても大金持ちの人々は窃盗されるのではないかと萎縮してしまうが、貧乏な人々は萎縮するどころか、日頃の嫉妬や、妬みや、羨み、嫉みは解消されるのでニコニコして拍手喝采するであろう。行きすぎた自由、英語でいうライセンス(licence(英)、license (米))は気ままとか放埒(らつ)と訳されるが、わがまま(selfishness,willfulness)とは違う意味で使われるが、わがままにしろ、気ままにしろ自由の行きすぎであることにはかわりないといえる。義賊は別にしても恐喝する非行少年は自由の行き過ぎととらえられることは統計的にもほぼ一般的であろうが、一般的にそう考えられるのはそれが社会性をもっていなくて、理論的に義賊のような正当化がなされていないからである。しかし貧乏人の子供達が集まって、金持ちの子供達から資金を集めて金持ちの子供達がやっているような遊びを、金のない時にはできなかった遊びを自分達もするために他の子ども達を恐喝し金集めをしている可能性もある。一方義賊の方は「真の」自由を貧乏人に与えるためだとか、貧乏人が貧乏という経済のために泥棒をしないためだとか、貧しい人のために天や、政府や、国家が何もしないからそれになりかわって、金持ちから資源をとり、平等な配慮と尊重によって、その金とか不動産等の自由のための資源を貧乏な人に移転(transfer)しているのだから正しいことであるとか、それは税金による財の移転と同じような性質のことであるとか、共産主義等の唯物論により経済を先に解決してやらないと貧乏な人は盗みに入ったり餓死してしまうのではないかとか、様々な理論的な弁解により義賊であることの正当化を行っている。子ども達にとっては親の収入や財産とそれらの子ども達に対する分配という問題ではあるが、大人にとっては経済的な稀少資源の社会内で結果的配分の結果的不平等を正すという問題なのである。大金持ちはこの理論からすれば自由の行きすぎということになるが、大金持ちからすればこの義賊は自由の行きすぎということになる。さてどちらが本当のわがまま放題ということになるのであろうか。

この義賊のような事例をバーリンが「真の」自由を行使している例として認めてくれるかどうかは別としても、この義賊は自由し放題やっているという表現はぴったりする。大金持ちの家にかって気ままに入り、自分の好きなものを自由に盗んで持っていってしまうからである。ヒットラーの反ユダヤ主義や、反商業主義の理論、反利潤論のなかにもこの匂いは感じとれる。ところが商業学や、ユダヤ教はこれを否定しているところが多い。企業の社会的責任論や、議会による税としての認定による財の移転については商業学や、ユダヤ教も認めるであろうが、個々個々の利潤の正当性は認めないと社会が成立しないということも認めるのである。

バーリンの消極的自由論によれば義賊は自由の行きすぎ、つまり積極的自由の行きすぎということになろうし、バーリンの積極的自由論によれば超大金持ちは消極的自由の行き過ぎということになろう。前者は「真の」自由の行きすぎであり、後者は干渉されない自由の行きすぎであるということになる。

この議論は金持ちから平等のために金を自分一人の義(正義)の観念によって、貧乏な人に移転するのが社会一般の正義であるかという問題に対する答え如何によって変化してしまう。社会一般が認めるとすれば、つまりは大金持ちも認めるとすれば、義賊が盗みを行わなくても大金持ち自身が平等のために、救世鍋とか、寄付とかで義賊のやることと同じようなことをするであろうということになる。リベラル派の人の自由はこのようなことを自発的にさせようという考え方であるとともに、平等という考え方を普及させて政府や国家もこのようなことをしようという考え方であり、この義賊の思想自体について少なからぬ同情心を持つ人々がリベラルな人々であるということができる。この考え方は義賊というような形ではないが、道徳教育のなかで取り上げられることが多い。例えば「マッチ売りの少女」のような童話のなかには涙をさそいながらそのよう考え方を普及させるためのものが多い。

ところが、そのような考え方は非行少年の行きすぎた自由と同じようなものだという批判が発生する余地が多く残っている。その正義に関して論争の余地があるのに対しては、議論の道筋を論理的に組み立てることによってどこに議論の食い違いがあるのかが明らかになる。これはわがまま論争、自由の行きすぎ論争と呼ぶことができるであろう。この議論の裏には他人の成功には対する嫉妬や、恨み、他人の財産に対する嫉妬や恨み等多くの政治学に関係するマキャベリーが『政略論』のなかでとりあげたような議論が含まれており一筋縄ではいかないことも事実ではあるが、両方の主観的な主張を整理することが必要であり、バーリンのいう積極的自由と消極的自由の対比を表現する特に図式的な顕著な一例解ということになろう。

義賊や、非行少年の例に共通していえることは本当に移転による平等を目指しているのか、本当にそのようなことが可能であるのかということが一番の問題点となる。実際は全く平等等達成できていないという場合が考えられる。ソ連における不平等の存在がそのようなことは人間の本性である選択の自由なしでは不可能であるということを示したが、それから類推すると平等やそのような「真の」自由の強制、選択の自由なしには不可能であるということが考えられる。「真の」自由が得られるという主張は現実的ではないという主張である。これには説得力があり、ハイエクやらの選択の自由を主張するリベラリストの主張するところである。ところが義賊が大金持ちや、食糧倉庫から盗んできた食料物資を餓死しそうな人々にトラックから投げ与えていて、それを貧しい人々がひろって競いあって食べている図や、映像を見せられたり、テレビで現実に今おこっていることのように見せられたりすると、そのようなことが現実に可能なことであるように思われてきてしまうことが多い。そう思ってしまうのは、映像や図のおこす錯覚による認知なのかもしれない。その一コマは、その食料を生産し、給与や、利潤を得る人のことは映していないし、倉庫に保存していることがなぜ、どのような理由で、どのような期間保存され、倉庫料がいくらで保険料がいくらか(ソ連には保険の観念がなかったそうだ)も映し出されてはいないし、その食料がどの位もつのかも映しだされてはいない。そして貧しい人々が長い間義賊の与えた食料で生きていくことができるのか、そのような社会システムになっているのかどうか、そのような社会システムが本当に長い間可能なのかどうかも映し出されてはいない。しかしそのような映像を毎日映し出されると義賊は可能なように思えてくる。それは一種の洗脳といえるかもしれない。いや学習といった方がよいかもしれない。

恐喝をする非行少年の場合のように他の人々を恐怖でふるえあがらせ、家のなかにとじこもらせるような非行の自由であるか、義賊であるのかを両方の間主観を客観的に総合的に判断することは難しいことだ。

しかしそのような積極的自由は一般には、性格の傾向論から判断しても、麻原彰晃事件のように義賊であるのだからその理論に従わないものはポア(殺人)してもよいという理論に必然的になる。その理由はある種の義賊の心理から発生した議論はこの結論にほとんどすべていたってしまった。その理由は義賊という観念のなかにある他人への干渉は自分の一方的な間主観的な判断によってのみ決定されるという主観的な性格の傾向から発生しているからである。マルクスの唯物論による経済先決論と経済決定論ももとは義賊の思想から生じたものであるし、すべては性の本能であり自由意志等存在しないとする理論もはぼ同じ思想から生じたものだと私には推測されるし(P・F・ドラッカーはフロイトのこの状態をを金銭ノイローゼ(ドラッカー、『断絶の時代』訳書頁。、原書)と名付けており、フロイトが恐怖症であった実例は全ての伝記にある。金銭ノイローゼと性の本能の理論は相互に関連していると考えられる。この義賊の理論とフロイトの理論は、一人の人間の中で時間的にも理論的にも交互におこっていると思われる。ヒットラーの思想も全体主義や、集団主義の思想もほぼこれに近いものから生じたものだと私は推測している。完全な平等を得るための完全な(「真の」)自由の主張であるとしてもそれは他の人々の消極的自由を恐怖でふるえあがらせるものであるという事実は、その依存的恐怖の性格の傾向が義賊という思想と結びついたものであると私は推測している。それらは依存性の心理から生じたものである。義賊の心理のあとにくるもの

依存性の強い人間は、人間関係において「ある人間がそうであることが、いやだ」ということを様々な言葉で正当化し、それこそ人間の本質であるから、それこそ学問であるという。つまり、自分にとって都合の悪いということ、自分にとって依存できないから都合が悪いからそのような人はいない方がよい。外国にでも行ってしまえ、死んでしまえという心情が学問である。つまりは政治とは、性悪説にもとづいていて、それでよい、そうでない性善説の人は負けてしまうのだ、囚人のジレンマをみるがいい、またつまりは大金持ちには義賊で盗みに入るか、実際はそのようなことをして貧乏人に盗品をあげた途端に窃盗がばれるのだから、今度は大金持ちにペコぺこ頭を下げて、寄付をお願いするか、おべっかをいい、ゴマをすらないような人は落伍者だという様に金を権威にすりかえてしまったりする。

その後に来るものはすべての破壊の思想であり、それらの思想はまた殺人も正当化し、「死の本能」の思想にいたり、さらにそれができないと分かると、義賊の心理に戻り、この循環は時間の経過を経て、ほぼ永久に何年かおきという具合に循環を繰り返す。

それが満足されるまで繰り返されるはずであるが、実際は満足することは永久にない。なぜならば義賊の心理はかえってそのような心理を持っている人を経済的に貧しくして、そして義賊の心理こそはその経済の貧しさから発生しているのであるから、その悪循環が永久に続いていくことになるであろうことが私の予測であり、それは正しいことのように思われるからである。

それは性格の傾向から発生しているようにも思われるのである。

義賊の心理のそのまたあとにくるもの

それは心理学的な意味でのストライキであり、それはすべての人をメランコリーにするし、特定の人に向けられた場合にはその人をこわがらせるが、本人達は結構楽しく、自由に感ずる。この自由は積極的自由であるといえる。義賊の心理及び行動こそ積極的自由の代表的なものであるといえるかもしれない。それが何故ストライキという不作為と結びつくのであろうか。不作為についてそれがサンディカリズムとなれば、国家も集団主義も企業もすべてを壊してしまう。不作為の自由についてもここでは考察に入れなくてはならなくなる。「〜する自由」は「〜をしない自由」でもあるのだ。その理由は明確にされなくてはならないと述べたのは、そしてその結果が効果があると期待できない場合には、ストライキはやるべきではないとレーニンはそのレーニン全集のなかの「反ボイコット論」において述べている。このようにこの「しない自由」はある目的を持って行われる。依存する者がすべてを破壊しようという目的がそれである。

義賊の心理の後にくるもの

自我の分裂(崩壊)とバーリンが呼んだものは、高い自我とは義賊が金持ちの他人にその財産のうちのいかほどかを貧乏人に分けてやるような自我であり、逆に、金持ちも自分の欲望に従って多くの物を消費しようとする自我が低い自我であり、この二つの自我への分裂と呼んだものであると解釈できるのであり、他の人にそのようなことを要求したとしてもそれがうけいれられないとわかると自らの精神の崩壊や、太宰治のいうような人間失格やらの状態に陥ると考えられる。そして政権をとったあかつきには、金持ちの自由を「真の自由」(自らの嫉妬心に燃えた貧乏人に味方する、依存的な人に味方し、依存的な人の「真の自由」を高めるためにという意味の「真の自由」)のために積極的に金持ちの自由を抑制するために、権力を行使しようと考えるのである。その時は、物の効用についての感覚や、人間に必要な道具の使用法も分からなくなり、すべてをラズウェルのいう意味での破壊する衝動と行動のみに走ることとなり、いわゆる精神の病(すべての意味での)の状態に陥ることになる。破壊する心や衝動と、精神の病とを関連付ける場合のこの精神の病という言葉の定義や学問としての位置付けはバーリンのいう自我の分裂という言葉と同様に、もっと多くの紙幅によって説明され尽くさないと今後の学問や、現実には有効な効果を発揮しないと思われるが、そのためには気の遠くなるような多くの社会的なこと、自然的なことが研究されなくてはならなくなるだろう。私はそのためにはどのようなことをも政府はなさねばならないと考える。予算的にも、その他の面においても。それはマスコミについてもいえることであると私は考える。それはいかに多くの人がフランス革命以来そのために命を落としてきたかを考えれば理解できることであえり、それを予防するものである。これは人類の学問の課題となりうるものである。

そしてそれから一般的に脱出し思いなおすと、経済先決論や経済決定論にいたり、次にすべての人(所有している人)は精神病(消極的自由そのものが精神的に悪いことだ、利潤を得ることは悪いことだ、商売によって利潤を得ている人は消極的自由を主張している故に悪い人だ、干渉されないことを主張するなんて悪いことだという価値論に導かれた精神病という言葉であるが)だという理論に陥るが、それができないとしると、自らが精神の病( 上記の意味でのすべての意味での)に陥るという循環をする。社会が悪いという意見のうちのその社会という対象物は、次の時には仮説的にまた別のものに陥る。また私有している人が悪いという時の憎悪の対象となるものもその循環のたびに、その代替物(スケープゴート)を与えてやらない限りは毎回変化していくのであり、それが身内のものに向かう場合は身内は憎悪の対象物となる。ほかのものをいつも与えてやっていない限りはどうしようもなくなる。特に身内のなかでも夫妻は赤の他人というように夫や妻等の配偶者に対してその憎悪や嫉妬が向けられた場合にはそれは子供に対しても向けられることになり、容易にその憎悪の対象物を代替させてやることは難しい。これらはすべて依存性という観念から分析することなくしては解決できないことであり、代替させてやるのではなくて、本当は自由で独立したフロムのいう統一的なパーソナリティーを獲得させることが最も必要なことである。

各段階各段階(義賊からの精神病まで)のすべてはひとつひとつとると病気ではないようにみえるが、各段階で他人のせいにしているのみであり、それが依存から発生しているということに気付くことはなく、その他人のせいにされた金持ち等々は、どうにも対処できなくなる。

ここに人間関係において片方をメランコリーや、ペシミスチックに陥れるいわば社会の病因人という考え方と、完全に人間失格となった太宰治のような人と、すべてを否定しきったサリバンのいうあまのじゃくの人や、完全な自由と真の自由を主張し、私有して、干渉されない自由を主張している人全員に精神病といって回って、死ぬまでそれをやめない病因人、それもそのように干渉されない自由を認めようとしない完全に自由な依存的な人がいて、人間を物としてみなくなってしまった人という概念をとりいれなくてはならなくなってしまう。

彼らはすべてを否定することができるが、それは何億分の一の確率のものを弁証法と弁解しながらいっているにすぎず、現実から離れている。

第 節 性格の傾向

自由とそれを行使する人間(人間以下の動物でない)の人格の傾向について次に考察せねばならない。自由のための資源について様々な考察が必要であったように、他のすべてが等しかったとしても、性格の傾向の違いにより自由は違った形式をとる。権威主義的傾向の人は権威を持つ人も権威に従う人も権威によって定められた方向性をあたかも本能であるかのように持っており、自由(選択の自由、政治、政治的自由)が存在しない。一方ペシミスティックな人も小さい確率に圧倒されて自由が存在しないのは前述の通りである。だがペシミスティックとか、権威主義的とかいうことば自体が類型を示すものではあるが、傾向の程度のことをいっており人格を完全に類型化することはできない。『自由の構造』の著者ベイはフロムの積極的な自由について述べた後で、権威主義者の分析についても詳細に検討している。自由は伸縮自在フリーなものであり、構造は存在せず、構造があるのは制度や法規範や歴史や因果関係のもととなる原因的事実なのであって、「自由の構造」ということば自体誤った使い方であると思われるが、それを自由論の体系化ととらえればそれは一九五八年出版当時の自由論の総括としての価値がある。「二つの自由概念」をバーリンが最初に発表したのも一九五八年であるから、これらは第二次世界大戦の反省として自由の概念を再構築しようとしたものと考えられる。『自由からの逃走』のなかでフロムが指摘したものも第二次世界大戦への反省であった。権威主義ということばはアドルノらによって実証的研究に付されたが(アドルノ、『権威主義的パーソナリティ』をみよ。)、人種差別の傾向や、民族主義的傾向など戦前の日本やドイツでみられた傾向が一義的に実証され尽くしたというには程遠いしそれが理論的に解明され尽くしたというにもほど遠い。権威主義的パーソナリティーはアドルノらバークレイ校の研究者が反ユダヤ主義の心理学的起源について研究した結果解明された部分がベイによれば、「心理学的に」「相対的に非自由」な類型であるとされ「民主主義的なパーソナリティ」は「心理学的に相対的に自由な」類型とされた。何故に心が自由になれず閉ざされたままであるのか、それを「子ども時代の状況の産物である傾向」に起因するとし、「両親に対する憎悪の大部分」の「抑制」こそが直接の権威者である両親に対する憎悪であるからこそ権威主義になり心が自由になれないという仮説を提出している。(ベイ、頁)私の仮説は別の所で論証するつもりであるが、権威主義の発生は「人間関係、それも半分以上の割合を占める兄弟姉妹関係のなかから(それは原初的状態、オリジナル・ポジションと私は呼ぶが)子供時代における人間関係の修得による性格の傾向の発達より発生するものである」という仮説をたてて私は証明を試みようと考えている。政治的社会化の研究や、政治と発達心理学の研究はこれらの仮説を今後より明確化していくものと考えられるので、ベイの『自由の構造』の第四章「心理学的自由の決定要素」については私は精神分析や精神医学はすべて人間関係論という社会関係の分析による社会的精神の社会科学になるべきだという学説を信じているのでその他の学説についてはあえて論ばくしたくはない。しかし、私はベイが心理学的自由という名称で(幾分不適切であったのかその後この用語は、バーリンのポジティブな自由程は広く人口にかいしなくなったが)自由は自由を行使する人の性格の傾向(パーソナリティの特性)によって類型化されねばならないことを示した点で画期的な考え方を提示したものとして評価している。

この性格の傾向に関する研究は権威主義的パーソナリティーの研究、政治的社会化の研究と共に政治と精神医学=人間の相互関係の研究によって前進してきている。しかし自由との関連で研究した成果は皆無に近いので今後の研究が待たれる分野である。自由はこの論考のように様々な構成要素をもっておりこれまでの以上のような研究をすべて心理学的自由と一括するとすれば、様々な学説の混合物となってしまいそれこそ自由をその構成要素である性格の傾向の分析によって特徴づけ、明確化する意味が失われる。なぜなら様々な学説はそれぞれに性格の異なった自由を代表し易いものであり、学説毎に性格的な自由の相違を分析する必要が生じてくるからである。ここでは私は性格の傾向という自由の行使者の特徴を自由と最も深い関連を有する「依存性」と、被依存性」という自由と対立する概念を人間関係の分析のなかにとりいれることを提案したいと考える。人間は相互依存関係のなかで生活しているという描写は「分業社会」の説明として使われることばであるが、これに対して人間が「共同社会」のなかにおいては依存と被依存との関係のなかに存在していると定義したい。相互依存関係は独立した所有を持った人々の相互依存関係であり自由な交換を前提としているが、それに対して依存と、被依存の関係は主に共同社会や共有社会やらのなかにおいて発生する人間関係である。心理学的自由というベイの観念は権威主義やらのパーソナリティの傾向がどのような過程でどのような機能をはたすことによってどのようなことを生ぜしめるから、・・・自由に対して大きな影響を与えるのかを研究しなければならないということを示唆した点において重要な視点を提供してくれたのである。ところがこの分析は極めて困難である。なぜならそれはある人格の自由は他の人格の考える自由との比較において考えるということになり、「人間はきわめて相互依存的な存在であるし、・・・あるひとの自由は他の人の抑制に基づかざるをえぬ。」(バーリン、『自由論』、三〇八頁。)、「強者の自由は弱者の死」(ibid.)という自由に関する一般的命題について「国家や他のいかなる権威も足を踏み込むことを許さない大きな私的生活の範囲を保持しておくことにより社会的調和や社会の進歩と」(ibid.三二〇頁。)を両立させながら政治的思想としての個人の自由をパーソナリティの観念から再構成しなおすという作業であるからである。

第 節 自由と自由の妨害(物)、障害(物)

自由を制約したり、制限したりする障害物は数多くの種類に類別できる。自由を制約するもののうち最もポピュラーなものは法的規範や道徳的規範やらの規範であり、それらは制度を構成している。一方規範からは自由ではあっても空間や資金等の(稀少性のある)資源をある人が持っていないために実際に(substantive)は自由を行使できない場合には経済的な制約があるということになるし、歴史の流れや因果関係論により生じる法則により従わなければならない運命等があり、自由ではないということもある。経済的制約については、これが最も大きな制約要因だと考えるのが経済決定論であり、法的規範等すべての規範はこれから生じたのだという見解であろうが、現実にはそうではない例を数多く例証できる。一方政治法則等マキャベリーらが探究したような命題は法的規範等の規範とは相違するものではあるが、そのような政治法則等の政治的規範も自由を制限するものの一つである。例えばマキャベリーは「人民が彼らから自由な生活をひきむしった人々に対し、気が狂ったように復讐の挙に出ることも不思議なことではない」(マキャベリー、『政策論』、三六一頁。)という時に「個人の自由を政治は守らねばならない」という政治的規範は、多くの歴史上の実例によってマキャベリーにより証明されている。このような政治的規範が憲法制定議会によって法的規範にまでいたっている場合もあれば、政治的な諺(法諺に対して)として一般社会のなかに流布しているだけの場合もある。自由権的基本権は現在では国際人権規約にまで高められているのであるから、政治的規範をいつでも無視してよい規範であると侮るべきでない。政治学の本質はまさにそこにあるのだからである。マキャベリーがチェーザレ・ボルジアについて「運(フォルトゥナ)や他人の武力で政権にのぼったすべての君主にとって、ぜひ模倣すべき人物として彼を推したいと思う。」と、『君主論』の第七章において述べていることなどについては賛否両論があり、マキャベリーに対する誤解を生む原因となったものである。イタリアの統一という「高い目標」のためにはやむをえなかったという「国家のため」という政治的規範による自由の制約についても賛否両論があり、法規範による自由の制約の正当化よりも、この政治的、国家的理由による自由の制約の方がより困難な問題として人類の前に立ちはだかっているといえる。

人々の自由を妨害するものが専制である場合と、民主的な法規範であった場合とではどこが相違するのか。自らが自発的に法規範と認めるものに従うのは自律的な自我の形成であるといえるがこれを民主的といい、各人が自律的な自我の形成がなされていないばあいは民主的な政治制度は考えることができないので、専制によるしか政治は方法がなく専制は仕方がない結果としての制度となる。

ドゥウォーキンにおける自由と平等

ここに支配者が一人と、国民のA,B,Cの三人との四人で構成されている国を考えてみよう。支配者がAという国民とBやCという国民とを平等に尊重し、平等に配慮するということは、Aという国民がBという国民とCという国民とを平等に扱うこととにているが相違するところがある。支配者がA,B,Cという三人の国民よりも多くを得たり、専制的であったりする可能性がるからだ。AがBを平等であるように尊重し、平等になるように配慮するということは、BがAを平等である様に尊重し、平等になるように配慮する義務を発生させる。このドゥウォーキンの平等論は自由である権利をどのように見たのであろうか。

平等を主張するドゥウォーキンの自由論

平等な配慮と尊敬をすべての法の原理としたロナルド・ドゥウォーキンが自由をどのようにとらえていたのかは、自由と平等の調和という興味からも、自由を行使するには資源が必要であり、自由は無であり平等の対象とはならないが、資源等は平等の対象となるという点を考えても興味深いことである。平等に重点を置くということは、いわゆるリベラリストであったのでそのリベラリストのなかにおいて自由はどのようにとらえられていたのかということを研究することになる。ネガティブな自由はないという時のドゥウォーキンは、それよりもっと大きな自由のポジティブな自由を否定しているのか。彼は全体主義的な自由は否定する。しかし、彼の思想は平等主義的でリベラルなゆえにポジティブな自由(イクオル・コンサーンによる政府の積極的自由でそれがあるなら)を認めることになりはしないか。それを否定することができるとするならば、制限された諸自由は認めているわけで、ポジティブな自由もネガティブな自由も認めないかわりに、制限された、それも正当に制限された自由を認めていることになる。制限の仕方が政府の自由をあまりにも認めた統治しすぎの自由にならなればよいが。この場合の統治しすぎというのはバーリンのいわゆる積極的自由のことである。つまり、イクオルなコンサーンが、すべての人同志のイクオルなレスペクトを伴わないことによって、イクオルなコンサーンのみが大きすぎて、政府の統制(ほぼコンサーンに等しい言葉としての)が強大になりすぎてネガティブな自由をあまりに抑制しすぎて、全体主義的な政府となりすぎることがないのであろうか。言論の自由等の自由な権利(自由権)についてはドゥウォーキンの政治的法学は妥当しそうであるが、資源を必要とする自由権についてはどうであろうか。

自由と政治権力、権威

性格の傾向と政治

政治権力や、権威は自由と深い関係を持っている。権威主義者は権威ある人物を非常に巨大なものと考えそれに依存した生活をしようとする性格の傾向を持つ人をいう。他人に依存しているので自由をもつことは少なくなると考えられる。ほとんどすべてのことを自らが自由に選択して決定するのではなくて自分が依存している権威にその決定をまかせることになる。奴隷の状態と似ているが、なぜそのようなになったのかを考えてみることはない。何故にそのような奴隷の状態になったのかを考えてみて、そのような権威に反発して自らの自由を回復しようとする時には、表現の自由や選択の自由等の権利を獲得するための闘争を行うようになる。この解放のための闘争は国家の専制から自由になることであったり、表現の自由のない国や、社会において表現の自由を権利として得るための闘争というような形での自由の回復への動きが始まる。このような形での権威と自由との関連性は姉兄に依存している弟妹との関係に似ているといえる。権威主義的パーソナリテイという概念は権威への服従、教条主義、人種偏見、弱者への偏見、他のグループの人に対する敵意や、迷信を信ずる傾向等の性格の傾向の総称である。もともとは反ユダヤ主義の心理的起源についての一九四〇年代のバークレイ研究から生まれたことばである。この性格の傾向を権威と自由との関係で語るのは『自由からの逃走』を論じたエーリッヒ・フロムの反ユダヤ主義とナチズムの解釈とよく相通ずる点を持つ理論であるといえるが、私はこれは「依存性」という性格の傾向によって解釈できるということについて論じたい。

このような状態を心理学的自由のなさと表現したベイの理論は別のところで評価すべきであろうが、そのような状態にある権威者と依存者の両方に対して「自由からの逃走」をおこしているのであるという指摘は納得がいく指摘である。その状態にある人々に対して「自由であることを強制する」ことを認めるとすればこの場合の自由は、確かにベイのいう心理学的自由にほかならない。心理学的自由や潜在的自由という概念を自由論のなかに導入することは、性格の傾向に応じて自由をかんがえてあげること、あるいは、プリミティブな自由論のなかには性格の傾向が含まれていることを認識し様々なタイプの自由論が存在していることを認めることにほかならない。様々な政治思想や政治的イデオロギーや価値観のなかに、プリミティブには性格の傾向が内在していることを認めるのと同じような趣旨で、自由の議論のなかにも、政治の議論と同じように性格の傾向が存在することを認め、できるだけそのような性格の傾向の存在しない純粋な「自由」や、純粋な「政治」を概念規定し人間の性格の傾向に応じた自由や、政治というものを考えてあげることにより、全体として客観的な政治学や、自由論をつくりあげることが必要であることになる。イデオロギーの存在は認めても、そのイデオロギーの社会化、すなわち中立化を目指して学問を構築するという作業が必要となる。

バーリンのいう積極的な自由と消極的な自由との差は性格の傾向と非常に密接に関係していると私は思う。マルクスやレーニンや、ヒットラーの積極的自由はマッカーシーでさえも応援したエーリッヒ・フロムにとっては否定されるべきものであった。干渉されない消極的自由の範囲を定めることは大切であると考える人もいるが、マルクスやレーニンにとってはそのようなものは存在しない。その考え方の根拠には自分の経済が優先するという考え方があった。逆に消極的な自由を優先する者には自らの干渉されない所有や権利のすべてが経済的に満足できるものであるという安心感が、先に存在した。それは経済的なものであるとともに政治的なものでもあった。それに対しては政府や多数者の一般意志が強制するとしても干渉するべきではないという自由の主張が消極的自由であると考えることもできる。体制の問題としてバーリンはこの二つの自由の対立をとらえているのではあるが、このように個人の性格の傾向の問題としてとらえることも、東西冷戦終了後においては一つの方法であると考えることができる。

第 節 制度の自由な選択の歴史の解明

人間には本能以外は自由に選択できる能力がある。ギリシャにおいてはポリスを作り、ローマ時代においてはローマ帝国を作った。後日になってマキャベリーはローマ時代の歴史について様々な政治学的な思索をめぐらした。そして現代においてもローマ時代に遡って思索をめぐらしている人も多いし、モンテスキューも「法の精神」においてローマ帝国の興亡について思索をめぐらした。日本においても政治の歴史と、政治学の歴史は古い。『職業としての政治』のなかでウェーバーがマキャベリーが『ローマ史論』のなかで述べている政治の現実等なまぬるい現実であると述べた。その後のヒットラーの政治等はたしかにその現実がいかに狂ったものとなりうるかを示した。ところが冷戦は終了してしまった。これはマクルーハンが述べた新しい時代がやってきたに違いないと思われるという主張もあり、そのような時代がやってきたのではないかと感じる程の時代の変化である。悪も善もそのどちらに傾くことも自由であった人間が善の方へ向かっているように見えるのである。アリストテレスの考えた古典的な政治学における善の考え方が、現代において政治哲学として復権したかのようにみえる。本当にレオ・シュトラスのいっているような古典的政治学における善きものという考え方が現代に復権しつつあるのだろうか。このことについてこの書は考察しなくてはならない。

左翼的感情の衰退と行動科学

自由や平等を求める心情が直接的に左翼の共産主義に結びついていたのであろうか。自由や平等を求める心情が行動科学や中道的心情からは生まれないのだろうか。

左翼的心情は貧しい人が自由や平等をもとめる時にまず発生したと主張されてきた。左翼的心情の本質はまずそこに存在するかもしれない。しかし哲学的に左翼的心情を分析して「温かい熱情と、冷たい理性」とする説においては、温かい熱情のみでは自由と平等が得られないという点に重点がおかれていたと考えられる。しかし冷たい理性が「科学的社会主義=共産主義」にのみ傾っていた傾向は次第に衰退してきた。自由と平等をもっと冷たい理性によって分析する傾向が生まれはじめたといっても過言ではない。共産主義社会においての自由を現実にみた人々はもっと冷たい理性で自由と平等をみつめなおすことを人類史上ではじめてはじめたのではなかろうか。

性善とは何か、性悪とは何か

他人はいつも自分を攻撃しているのだから、私はいつも緊張している。従っていつも他人を攻撃しなくてはならない。他人はすべて性悪なのであるから、自分もいつも性悪でなくてはならない。普通の性悪説の人を攻撃してたおしてはじめて安心することができる。人間は人間に対してオオカミであると考えることは妥当な格言であると求めるからこそ自分も攻撃するのである。この考え方は経済においても、心理学説においても、精神医学においても存在する考え方である。この考え方によれば人間は皆社会は安全な方がいいと考えているというのはウソである。人間の社会はすべて競争と攻撃のみからなりたっていて、自分はいつも負けそうである。従ってそのような悪い社会に対していつも攻撃をしかけるべきである。それは秘密で行われればよい。成功したら成功したで表に表れるのであるから、その時はそれでよい。私は攻撃する。油断している人の方が悪いのである。すべては社会が悪いから自分は攻撃するのであり、私はいつも緊張しているから、巨大な権威にすがりつける時にのみ安心するのである。もしそのような権威や権力がなくそれにすがりつけない時には、いつも安心できないから社会を攻撃するのである。

この考え方はどこか義賊の心理と似ているところがある。社会が悪いからそれを自分が巨大な権威や権力となってそれを治すのだという考え方がその根底にあるからだ。その巨大な権威や権力を求める心理は社会が悪い、他の人はいつも自分を攻撃しているという心理から発生している。あまりに過剰な人口は各人が自らの干渉されない自由をうまく発見できないという状況を生み出し、このような時には性悪説が流行する可能性がある。人々はぶつかりあいながら生活しているし、あまりにも人口が多いので人々は同じものをたくさんの人で共有しなければならないし、共有であるからこそ、私有の場合とは違って、同じもののとりあいである競争や、攻撃がおこるのである。共有であるから競争や、攻撃がないというのはウソで、逆に共有であるからこそ競争や攻撃がおこるのである。

性善説は社会が満足しきっており、安全で安心できて人々が干渉されない自由の部分を多く持っている時に発生する。すべての人々が自由で(バーリンのいう干渉されない自由を持っていて)、かつ、平等な身体上の平等性が確保されている社会である。人間が人間に対してハトである社会である。人口が減少しつつある時代には同じものを奪い合うことが少ないのでこのような状況となる可能性がある。

しかしこのような社会の傾向と、性格の傾向とは変えられないわけではなく、一般には生まれた時から、死ぬ時まで一般的性格の傾向は同じなのであるがそれが変化することもありうるし、性悪説の人はできるだけ性善説の方に移ってくことが望ましい。

自由論は平等論を完全に包含し、静的平等論を乗り越えることができるか。

自由が動的な行動を内包しているのに対して、平等は静的な状態を表している。自由は平等な状態をこわし、不平等な状態を運や能力や努力等に伴って作り上げることになる。しかし努力しない人が努力した人を嫉妬し、努力しない人も、努力した人も同じ結果を要求するとすればソ連におけるような経済の停滞をもたらすであろう。しかし能力については努力しようと思ってもできない人は、最初から自由はないのであるから、能力がない人が結果について不平等であることについては救済してやることが平等といいうるのであろうか。能力がないことによって自由がない人に対しては、それが仕事をする自由がないのであるから、その結果生きていく糧を得るとができないことになる。この人に対して努力した人と同じ給与をあげるのか、努力しなかった人と同じ給与をあげるのかという問題が発生する。平等論としては最低限の生活を保障するのは平等論といえるが、その場合努力した人と努力しなった人の中間の保障をするのかどうかという問題である。もしその人に能力があったとすれば努力したかもしれないし、努力しなかったかもしれない。従って中間程度に保障するのだという意見にも説得力があるし、逆に社会に対する貢献はなかったのであるから最低限の保障をするのだという意見にもともに説得力があるが、最も努力した人と同じだけの(社会)保障をしようという意見についてはあまり多くの人の賛同はえないかもしれない。その人が完全に努力するかどうかの確約がないからである。

ユートピアと性格の傾向

性格と政治的理論

各人各人は自分に最も最適な政治制度を作ろうと主張する。依存性の強い人は強大な政府を作ろうとする。それが政治的ユートピアと呼ばれるものである。かって昔一時期にもてはやされた政治的ロマン主義も同じようなことを述べていたと私には思われる。それが性格の傾向、つまり依存的か、独立的かによって左右されることについては誰も異存はないであろうが、このことは政治学及び政治思想論を一変させる。各人の持つ「言葉の概念の意味内容」はこのユートピアに左右され、その統語法もそれによって左右される。

このことは各人がその性格の傾向の根拠としてロールズのいう始原状態における人間がどのようであるかを、その生活環境に応じて発達的(教育的)に心理形成してきたこととどのように関係しているのであろうか。始原状態の観念形成が性格の傾向を作りその性格の傾向がユートピアの諸類型を形成するということになる。このように政治理論や、法理論のなかに含まれている各人の性格の傾向からくる人間感、人間の性格のみかたのちがい、例えば始原状態においては人間は人間に対して狼であったとみるのか、あるいは、自由で平等な平和な状態であったとみるのかのちがい、ユートピアとして語られる政治理論の様々な権利と義務の体系の違い、その他の違いは各人各人の性格の傾向の発達に起因しているとすれば、社会意識の発達は政治的なものだということができる。この場合の政治的という言葉は意見の違いがあるという意味であり、即ち、政治の属性としての「意見の違いがあること」は政治の意味内容の最初のものであるといえると私が考えるのはこのような発達新理学的な思考やみかたから考えついたものである。このような相違する意見のなかからある一つの意見を、調整や、投票や、根回しやらによって見出すことも必要になる。ここに政治が調整であるという属性がでてくることになる。ところが投票よっても同数の票があり最終的に最後に決着がつけられず、調整もつかないというということになればどうしても指導力が必要となる。この場合に知恵によって決定するのか、カリスマによって決定するのか、理性によって決定するのか、伝統によって決定するのか、力の強さによって決定するのか、金力によって決定するのか、勇気によって決定するのか、運によって決定するのか(例えばくじによって)、徳によって決定するのか、善悪によって決定するのか等の政治力の問題がでてくることになる。このように意見の違い、そして各人の性格の傾向の違いは、例えば依存心の強い人は強大な国家を求めるし、独立心の強い人は小さい国家を求めるというように、政治的ユートピアの違いにも、つまり政治理論や、政治的スタイルや、政治的方法やらに大きく関係があることになる。このような意味で性格の傾向の分析は政治及び政治学に大きな関係をもっているといえる。

政治的自由と政治的性格

フロムのいう積極的自由をもたない者は、バーリンのいう積極的自由を行使せねばならなくなる。フロムのいう積極的自由とは依存的な性格の傾向を排除した独立で、自由な人格がもっている自由を意味している。バーリンのいう積極的とは消極的自由、つまり干渉されない範囲が確定した時の自由から更に進んで、独裁者や、専制君主や、ガキ大将が他の人々の消極的自由に対する干渉に向かう時の自由の意味である。一般には依存的な人間の方が独裁者や、専制君主や、ガキ大将になり易い傾向にあると思われるので、フロムのいう積極的な自由と、バーリンのいう積極的自由とは全く反対の意味で使われているといえる。これは自由という言葉の多面性に起因したものと思われる。自由を積極的に涵養していけば、自らのうちに全的なパーソナリテイーが完成するとフロムはいっているのであり、バーリンは積極的に干渉していく自由があると主張する者のもつ自由を積極的自由と名付けたものである。フロムの場合は自由な制度のもとで与えられた自由を、干渉されないということが制度的に定められたのであるから、積極的に自らのなかに取り込んで豊かな自己を作りあげようと主張しているのであり、自由な社会における生活の仕方を主張したのに対して、バーリンの場合にはそのような自由な制度、ワイマール憲法において認められているような自由権の認められている制度そのものを求めて、政府によって干渉されない自由を求めて、政府によって干渉されない自由を範囲といて確定し、そしてそれを守らねばならない、それは積極的自由により干渉することを目的としている人々から守らねばならないといっているのである。

バーリンはそういう時、制度さえ確立されるならばイギリスにおける様に人々は自己の自由を積極的に涵養し自動的に味わうことができると考えているが、フロムはナチズムの発生してきた当時のドイツの状況を観察すると、制度的に自由であったとしても、人々が自由を味わうだけの自己を持っていない場合には自由から逃走し大きな権威の下に頼ってしまうということについて述べたのである。このことについてはハイエクが偽の個人主義と、真の個人主義について述べていることとも関係している。ドイツや、おそらく日本もであろうが、自由が制度的に与えられたとしてもそれを十分に活かすことができずに個人が大きな権威に奴隷のように隷従してしまうような道をとってしまう国がある。これは政治文化的なものがそうさせるのかもしれない。日本やドイツにおいては個人は管理的教育やらのもとで十分な自己涵養力をもたないから、すぐに大きな権威に依存しようとするのである。これは日本やドイツやイタリアはローマ法を継受した国であるという法制度から生ずる法規範が社会全体に及ぼしている影響、政治文化に及ぼしている影響であると考えられる面もあり、このことは証明することは政治学の問題であると私は思う。

そのような国においては自由は積極的に個人の内面における自己の完成に向かうのではなくて、他人の自由を干渉するという方向に積極的に向かいやすい。政治文化が法を絶対視し易く、人は法の自動機械となり易いのである。法は絶対であり、法の根本趣旨を考えることなく、文言通りに実行される。これはユダヤ人虐殺の時の執行者の行動であった。エクィティや、コモン・ローのような原理にまでいたることはほとんどない。法の実行は他人まかせである。いくら自分が法について考えても法は定まったものであり、それ以上考えても仕方がないという考え方である。ところがアメリカでは裁判の結果に反対して暴動が起こることさえある。新聞や雑誌も法について論ずるよりも、政治を演劇のように面白、おかしくあたかも神々達の笑い話であるかのようにふざけたことを書くことの方に紙面を費やし、それはあたかも兄弟姉妹の愛憎劇のようにかかれる。各政治家が何らかの独立性や、自由さえをもっているように書くことは滅多にない。

民主主義的性格の傾向

政治と教育の最終目標は、各人各人の「性格の傾向=人格」の開放化と、秘密性の除去をもって最もよしとする。各人各人がそうならなければ、デモクラシーも(民主主義も)、自由主義も、反権威主義も、最も高い政治上の徳(公徳)も、法も、政治も全く意味のない社会科学上の概念となって死んだものとなってしまう。国家主義も、全体主義も、集団主義も、独裁も、専制も、専制君主にもそのような思想が欠けていた点に問題があった。それではそれはどのような方法によって達成されるのであろうか。それは「自由の強制」、それもIam free from the other's interference and I am free to complete my own selfand I am free to become a only human being in thiswhole society.訳せば、私は他人の干渉から自由であり消極的自由を守るが、自分の自我を完成し、あらゆる社会の要求に答えうる唯一、他の人にかえがたいが、しかし、すべての能力を備えているので他の人に社会の要請があればいつでも交替しうる一人の唯一の人間になっている(フロムのいう積極的な自律的な人間になっているような人間である)ということである。ルソーのいおうとした「自由であることの強制」とは、前後のすべての文脈からすればこのようなことなのであったと私は解釈する。それはマキャベリーが残酷性がチェーザレ・ボルジアにあっては「よく使われた」ということによって誤解を招いたのと同じようにルソーの「自由であることの強制」が誤解されたことへの誤解を私が解き、彼が『エミール』においてと同様に教育においても政治においても、目標としていたことを正しく理解してあげたいという欲求から生じたものである。

それと同時にマキャベリーについての誤解も(またウッドロー・ウィルソンについての誤解も)私は解きたいと思う。マキャベリーが残酷性がチェザレ・ボルジアの場合は「よく」使われたといったのは、彼の歴史的背景及び彼の地位とそれから生ずる経済的なものから仕方なかったのである。彼はそういうことによってしか生きる道はなかった。彼は残酷性を批判したかったのであるが失職という事態はそれを許さなかったのである。本当は残酷性の生じてくる性格の傾向(人格)について分析したかったのであるがそれを彼の立場は許さなかったと解釈する。残酷性と恐怖政治における指導者の恐怖性について彼は分析したかったのであろうと私は推測するのでる。彼はそのような性格を治したいと思った、平和を望む人間であったと思う。(それはW・ウィルソンについてもそう思う)彼らは将来のことを考えていた。政治学的に、社会科学的にすべての人の性格がオープンになり、開かれた社会になることを、本当に心の底から望んでいたと私はその書物を読んで感ずる。ところが、マキャベリーが死んでから、何億人の人が戦争等政治的理由により死んだであろうか、W・ウィルソンが死んでから何人の人が戦争により死んだであろうか、彼らはそれを予言して、それらを防止しようとしたのであると解釈する。それらの事が彼らの本の中に切々と私は読み取れる。反マキャベリー論や、反W・ウィルソン論はそのような現実と自己と人間をみつめきれなかった人々の「道徳によるカモフラージュの本」ではなかったのだろうか。それらの人々の現実の生活、その残酷な、他人に対する残酷な生活がそれらをあらわに示している。人間は本来はマキャベリーやW・ウィルソンが心の底では考えていたであろうように性善であるのに、どのような理由で性悪になったのであろうか。その点についてはマルクスや、フロイトやらと、マキャベリーや、W・ウィルソンの考え方は一致している。それは物の所有や、物の奪い合いやらによってである。しかし、そのことを認識した上でも、マキャベリーや、W・ウィルソンはフロイトや、マルクスのように共産主義や、精神主義によって所有や自由を否定することはなく、所有や自由を認めながら、平等と平和を模索していった。その理由はフロムのいう個人の自由と独立と職業化(社会における役割化)を重視したからであったと私は考える。このオープンさと、独立性と自己の確立こそ、社会の、そして政治と教育の真の目的であり、人間学、人間の精神科学の真の目的であると私は思うし、性格学や人格学の結論も自由論の結論もそこにあると私は思うのである。

ポパーの「開かれた社会とその敵」の議論も、共産主義の現実の過程も、共産主義の崩壊の過程も、民主主義論も、デューイのプラグマティズムも、「歴史の終わり」についてのフランシス・フクヤマの議論も「自由からの逃走」の議論も、「二つの自由」の議論も、「二つの個人主義の議論」(ハイエク)も、二つの民主主義に関するシュンペーターの議論も、社会精神医学の議論も、反精神医学の議論も、ロジャースの自由な教育の議論も本質的にはそこにいきつくのであると思われる。未来はそうなれば、各人各人が明るい未来を考え、オプティミスティックに行動し、考えて行くであろうから明るいのである。「ペシミスティック=メランコリー」の思想はその構造こそ明白にされ、オプティミスティックに代わり、未来を現在と過去の上に築き、これまでの戦争と死刑の、また自殺や切腹の歴史から解き放つべきである時代となったのである。そのためには一つ一つの人間関係の相互(間)主観性の上にある、そのことを越えた科学的といえる「人間関係=社会」のみかたをもう一度考えなおしてみる必要が、自然科学の純粋な発達以上に、それを乗り越えるためにも、社会科学にとっては必要な時代が、東西冷戦後、ついにやってきたのであると私は思う。

自由であることを強制したり、独立的であることを強制する者に対しては依存と被依存の人間関係なかに自らを埋めている人々は依存関係から引き離されるために、そしてそれが痛みを伴うために、強い反発をする。依存させている者も依存している者がいなくなることは対象を失うという悲しみと痛みが発生する。またそれまで依存していた者は自由で独立した存在になるように強制されるのであるから、依存する対象、例えば兄姉とか、政治にあっては大きな政府とか、を失うのであるから大きな痛みが発生する。その痛みは自分を依存させてくれる他人の自我はよい自我であるが、自分を依存させてくれない他人の独立した自我は悪い自我であるといわせる。更に依存している自我に対して自由を強制するような自我は分裂した自我であるといわしめる。自由を強制しようとすることなど依存している自我にとっては分裂した自我であるということになる。自分を依存させくれる他人のよい自我と、自分を依存させくれない他人の独立した自我で、自分を独立させようとする自我とが分裂したのだというのである。しかしそれは全く違いそれは依存から見たものさしのみで計っている。逆に独立している人から依存した人をみれば、依存したいという自我と、独立できるという自我との分裂を観察することができる。依存している人から見ると、自分の面倒をみてくれなくなることが精神の分裂であるということになる。しかしそれは彼の世界でのみ起こっている精神現象であり、独立した人には起こっているのではない。彼の世界がこわれるのである。この両者を全体からみると、依存している彼の世界がこわれるのであり、自由で独立した人で自由を強制しようとしている人は依存しようとしているのではないから、その人の自我はこわれてはいないのである。しかし依存しようとしている人からみれば自由で独立しようとしている人、依存させてくれない人の自我はこわれていることになるのである。

人間関係のなかにおける自由は干渉されないということである。他の人に無用に干渉されないということである。人間が互いに殺し合いをしないようにするためには、人間が人間に対して狼であるとすれば社会契約によってすべての人が銃を棄てることで平和を達成するか、人間が人間に対して狼ではなくてハトであるように人間の心を矯正しなくてはならなくなるであろう。前者は干渉を伴うが後者は矯正という教育を伴っており幾分かは干渉の要素が伴っている。人間が人間に対してハトであることが、生まれた時から死ぬまで人間の本性であれば何の苦労も存在しない。干渉もする必要はない。人間が人間に対してハトであればすべての人が銃を持っている状態の国(アメリカがそうであるというのではないが、一部の普通の人が銃を持っているが)であっても人は殺し合いはしないであろう。アメリカ人が自由を主張し銃を持ち続けるとすればアメリカ人はアメリカ人に対してハトにならねばならぬことになる。

人間が人間に干渉されないことを意味する消極的自由を主張することは、人間が人間に対して狼であることをやめさせることを干渉であるととらえるならば妙な結論を生み出すことになり、積極的自由に対する防波堤にはなっても積極的自由が人間の人間に対する狼、攻撃となった時にはその防波堤を破ったことや、破った者に対する反撃力(この場合は銃)を公的暴力的手段である警察やら以外には全くもたないことになる。勿論積極的自由に常に反撃すべきであると主張する人は少ないであろうが、防波堤ではなくてそれを押し返す力を備えた自衛の力を持つべきであるという人もいるであろう。その自衛の力は銃を取り去るような物理的な力ではなくて、人間を狼からハトにするような知的な力を含むものである。

社会的自由のほかに心理学的自由や、潜在的自由のあることを主張したベイの主張は、バーリンの主張した二つの自由の概念、積極的自由と消極自由ほどには一般的に普及はしなかったし、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」程には一般的な影響を与えなかった。しかし自由からの逃走やらが起こった理由をフロム流に解釈するのではなくて、ベイ流に社会心理学やらを取り入れて解釈しようとした点で意義を有する。フロムが社会学的であり、バーリンが政治学的であったといえそれなりに注目されたが、ベイの社会心理学的な心理的自由や、潜在的自由の議論はその著『自由の構造』の大部分を占めているが、政治哲学者からも、社会学者からも興味をもたれることが少なかったが、一方では政治と自由との関連が政治学においてあまり重要なこととして討議されてこなかったゆえに政治学においても興味をもたれることが少なかったといえるだけなのかもしれない。ベイの議論のようにハリー・スタック・サリバンやその他の多くの人々の著作と学説とを自由との関連で政治学のなかで述べることは、ハロルド・ラズウェルが『政治と精神医学』や、政治権力と人間の性格論である『権力と人間』のなかで追及したテーマの延長線上にあると思われるが、それが心理学的自由として自由論それも政治と自由との関連で述べられているところにベイの理論の特質がある。このような議論はそれまでなされていなかったことであり、幼児期や、「共産主義に対するノイローゼ的な感受性」、「権威主義的パーソナテイ」、「不安を非現実的な危機感と規定し」た研究等は新しい研究であったが政治学がそれまで認めていた一般的な研究ではなかった。

第 節 積極的に何を行えばよいのであろうか

積極的に他人の所有に干渉すべきであろうか

積極的に自分の所有の範囲を干渉されないようにして、自分の能力を高めるべきであろうか

ポジティブpositiveは、積極的な、フロムにとっては制度上与えられた自由を肯定し、積極的に自らのものとなすという意味であり、ネガティブnegative な自由とは制度上与えられた自由を否定し消極的に他の権威に依存し自由を捨て去るという意味である。バーリンにとってのポジティブな自由とは、同じく自由を積極的に肯定しているのではあるが、指図したり、命令したりする外部に対する自由である。フロムの積極的自由は主に自己の内部に対するものであるが、それが他人の自我も建設的になるべきであると主張していると考えるならば、それは、バーリンの積極的自由のように他人に自由になれと指揮命令する時の積極的な自由になりうる。そうだとすればバーリンの積極的自由とフロムの積極的自由との主な相違は、パーソナリティが完成しているのか、統一的なパーソナリティが形成されているかどうかという点にあると思われる。バーリンの積極自由における「真の自由」は自己が完成していない依存的な人の積極的自由であり、フロムのいう積極的自由における自由は、「全体的で統一されたパーソナリティ(total,integratedpersonality)(Fromm,Erich,escape from freedom,p258 )」の自発的な活動を促す時の自由である。そうであるならばこの二つの相違はパーソナリティーを研究することなしには理解できないことになり、同じく積極的に指揮、命令し他人に干渉するようあたってもパーソナリティの違いによりバーリンの意味の積極的自由にもなり、フロムの意味での積極的自由にもなる。依存している人は依存されている人に積極的干渉をしなくては依存ができないという真実の命題から発生する真理からいえることである。

パーソナリティは人格とも訳されるがここでは性格の傾向と訳し、そのなかで最も重要で他のすべての性格の傾向を包含し尽くす一つの傾向として、依存性、独立性の軸をとりあげその仮説を証明することとする。

この性格の傾向は政治学においてとりあげないでよいのでろうか。バーリンが政治的な事象をこの分析をしないで説明しようとしたら、バーリンが自ら述べている積極的自由とフロムが述べている積極的自由との区別がつかなくなってしまうのではなかろうか。積極的自由を哲学的に取り上げているのみであってそれにはパーソナリティの違い等は全く関係のない抽象的なものであると弁明したとしても、それではフロムのいうような積極的自由が全社会にいきわたるように干渉され、指揮、命令された場合には積極的自由と呼ぶのかと指摘された場合、それは消極的自由の積極的な行使とでも呼ぶことになるのだろうか。このような言葉の概念上の混乱を避けるためにもこのような軸は必要であると考えられる。

ルソーのいう「自由であることを強制する」というこの積極的自由の解釈にも、パーソナリティによって二つの違った解釈をすることができる。自由から逃走したファシズムやナチズムのような全体主義国家における積極的自由はまさにバーリンのいう積極的自由であり、それは「真の」自由の強制と名付けるにふさわしいが、フロムのいう積極的自由の強制は統一した完成した自我による自由の強制であり「真の」自由ではない普通の自由の強制でありそれはデモクラシーや自由主義的な開かれた社会に通ずる自由の強制である。

自由論の現状

自由というのは単なる一つの単語である。この単語が人間にとって大きな意味を持つのであるとすれば、政治と同じように深く研究をするならば自由学というものが形成されうることになる。政治は深く研究されることによって政治学が形成されたが自由はまだ自由論という段階にとどまっている。しかし自由は社会心理学における自由論(その代表者はエーリッヒ・フロムである)や、政治学における自由論(その代表者はバーリンやミル)や、哲学における自由論(その代表者はシェリング、哲学における自由論の場合は自由意志論と呼ばれている)、経済学における自由論(その代表者は、自由放任論のアダム・スミス、現代はハイエクとフリードマン、この場合は選択の自由論と呼ばれている)、社会学における自由論(その代表者はまだでてきていない)、文化人類学における自由論(その代表者はまだ表れていない)、精神医学における自由論(その代表者はサリバンやフロムであると思われるが、まだフロイトの影響が強く、認知されていない)、教育学における自由論(その代表者は表れてない)、法学における自由論(その代表者はまだ表れていない)、宗教学における自由論(その代表者はカルバンであると思われるが、それ以後体系的なものは表れていない)等々として幅広く研究されている。政治的自由は自由の意味のうちの一つである、自由フリーになること、リベレーション、解放されることというものと密接に関係した形で表れた。マキャベリーにおいても専制君主や独裁から自由になり、都市の自由な空気にふれることが自由という意味であったし、クリスチャン・ベイの自由は解放という意味と深く結びついていた。また、バーリンの消極的自由は積極的自由から解放されること、積極的自由に干渉されたくないことを大きな内容として含んでいた。それは積極的自由から解放されることを望んでかかれたものであるということができる。それはバーリンの生い立ちを見てもわかることである。フロムの自由もナチズムからの解放を、その生い立ちからして、目的としていたことは政治的な意味を持つものであった。しかし同じくユダヤ人であったフロイトが自由という言葉を正しく使わなかったのはその精神的な欠陥に起因していたと考えられると私は思う。平等について書いた人も自由という言葉を一度も書かない場合があり得る。ある人の『平等』という本のなかには自由という言葉は一度も出てこなかった。これはしかしまたフロイト同様に片手落ちであると私は考える。自由を可能にする資源には平等権について考える余地があるからである。

私は自由論はすべての学問において、自然科学、人文科学、社会科学、人間科学、文化科学を通じて、最も重要な位置をしめていると考えている。それらはすべて人間について考察するものとなるからである。医学も人間について考察するのであるから、この自由論を抜きにしては考えることはできない。性格の類型論や、傾向論、精神医学を研究するについてこの「自由論」からはいらねばならないと私が考える理由は、人間を研究するのだというその一点の真実から起因している。

これまで我々は、フランス革命前の議会における左翼(平等派リベラル派。この場合のリバティは、社会を人間の意思によって自由にかえようというリベラルである)と右翼(おそらく自由派と呼んでよいであろう、この場合の自由は所有権の自由性を求めるという意味の自由である)との対立や、サッチャーの自由化や、ロールズの三原則や、ドゥウォーキンの平等論や、ノージックの干渉されないという消極的自由を尊重する主義の自由論(ミルから、バーリンに到り、そしてノージックに到るところの)等様々な自由論と平等論をみてきたし、それらをまとめようとして第二次世界大戦である論文を書いたオトフリート・ヘッフェや、ハートや、ノーマン・バーリーの意見をも参考にしながら自由と平等とに関して多くのことを考えてきたし、ホッブスや、ロックの自然状態(おそらく、これは紀元前二千年くらいの人々が、遠くに離れて住んでいて狩をしていた時代を思い浮かべて、それを自然といっているのかもしれないが)や、始原状態論(おそらく、これは人間が生まれた時には平等な条件で生まれたのではないということをいっているのだろうと思われる)やらをも考えのなかに入れてきた。

私はヘッフェのようにこれらを整理して教科書を作ろうというのではない。現実の政治との関連性を重視して、それらがいかにしたら現実の政治に活かされるのか、現実的でありうるかについて考察し、かつ、人間の実際の行動に役に立つのかについて述べたいのである。そのためには制度の特性論について、また、人間の性格の傾向について、また、それら相互の間の関係である人間の政治的(選択の自由による社会的)行動について、この三つについてのべなくてはならないと思っている。特に行動については自由がなくては存在しえない。つまり、能力や、資源(資金や空間)や,内心の心理的自由や、社会的自由(これは社会的自由権があると共に、それが生むであろう違反に対する罰則を恐れない心理的自由の双方を兼ね備えた時に生ずる自由をここで便宜的に社会的自由は存在しえない。「〜する自由」という選択の自由は人間の本質であると同時に、人間の行動の本質そのものである。内心はこう思っていても、外的な行動ではこうとは違った「あれ」をやっているということは外的な行動のみが選択の自由によって得られる行動の結果を社会的にうみだすのであり、思っていても行動に出さなかったり、思っていることと違った行動をするのであれば、例えば思っていることはよくても、行動は悪いことをしているというのであれば、アメリカのロックフェラー財団の「行動科学」こそは正しく、唯一なのだという理論に油をそそぐことになりかねない。つまりこの理由は思っていることは(内心は)経済のことのみなのに、やっていることは、いっていることはそれとは正反対の道徳のみであるという場合に生じる矛盾が大層多い。マルクスや、フロイトの理論等を排斥するために、その反対物として考えられたもんであり、思っていること(経済)といっていることとが全く違うケースをネグレクトするために考えられた理論であると実際はいえるのである。しかし行動主義のみよりも、行動に到る思考の家庭の多い人(義賊のような人)と、単純に正直に考える人との行動の差ということを研究することの方がより実りが多く、それは性格の傾向の議論(学問)になるとともに、行動のパターンの研究にもなり、「我思うゆえに我あり」という行動主義とは正反対の考え方にも、反対論を提示できることにもなるのである。更に我々は功利主義における効用(ユーティリティ)に対してそれが合計出来ない場合はないのかという議論にも到達する。ある人は貧しいけれど、法的には多くの自由を与えられているのであるから、資源を必要とする自由、金で物を買う自由はほとんどないけれども、形式的には多くのことを考える自由があるのだから、大金持ちで資金で替える次湯を莫大にもっている人と、自由の総量や、幸福の総量はんまったく同じであるとか、いくら少ないとかいう議論ができるのであろうか。もしこれができないとすれば功利主義は平等や、効用や、その後の限界効用の議論やらにほとんど影響力を持たないように思われるし、最大多数の最大幸福の議論もあまり意味がなくなることになる。また足るを知れば、内心の自由はふえるのだからすべては相対的なものさという議論も、知足派にとっては有効な議論ではあっても「自由論」においてバーリンが述べるように、効用学派や、人間関係にはあまり影響を及ぼさず、出家して山の中にこもるようなものだということになる。また自由は、能力のない人には形式的自由はあっても、実質的自由はないのであるから能力のある人よりも少ない分(給与や、結果やら)を能力のない人に補えという議論も、能力を自由に発揮するように努力すればいいではないかというフロムの積極的自由等によって論破されやすい。このように考えていくて平等を自由の一部分としてその自由を全体として平等化していこうという議論が生まれ手佝僂。「平等な自由」という本があり、その概念は形式的な自由が法的に形式的に与えられるというだけでは不十分であり、自由の本質である選択の自由を、自由の構成要素である資源や、内心の依存性や独立性や、能力やらとともに一緒にして考えることが必要で、そのためには政治的な完全雇用の達成による機会の均等の確保や、その他の平等化(男尊女卑から男女平等へ到る平等化も含まれる)が必要であり、その結果自由が増大するのだということが理解できるようになるのである。

自由の本質から

自由の本質が本能(性欲、食欲、生活欲等、これらは生の本能と私は一括して概念化したい)以外のすべての選択の自由であり、そのうちの百兆分の一の確率でマルクスや、フロイトの理論である(そのような人間社会が成立することはあり得る)としても、一般的な約七割程度の正しい確率は何であろうかを探究するのが政治による選択の自由の行使である。この自由の本質から説明すればドイツのヘーゲルの歴史の流れの見方による「歴史は自由の増大である」という考え方も、自由を制約し、妨害する様々なものが少なくなってきていることを説明しようとしたのだとも解釈できるし、アリストテレスが共有が様々な困難に出会い、私有の方が都合がよいという考え方も、各人各人が私有により自由を行使する能力が増えてくるのだといっているのだと解釈ができる場合もある。また東西冷戦終了後において選択の自由が多くの国で認められるようになったのは、各国各国の国民が自らで自らのものを使用するだけの能力を持つようになったので、選択の自由を国民にまかせても不安ではなくなったからだと解釈することができる。これを国民の側から説明すると、国民は政府が選択していた部分についてそれが自らの選択の自由をおかしているというように感じ、それを障害や妨害であると感じるようになったから、その障害や妨害を排除する行動によって選択の自由を獲得したのだということになる。そうすることができるようになったのは、フロムのいう積極的自由を国民が自らのうちに涵養し、自由を味わえる能力をみにつけたので政府も選択の自由を国民にまかせたとしても、国や社会の秩序が不安定になるという心配を捨てたからだったのかもしれないし、国民が自信をつけてそのような自由を要求したのかもしれない。そして国民がそのような能力を身につけた理由は、歴史的にはマーシャル・マクルーハンのいったようにメディア革命があったからかもしれない。メディア革命によって国民は教育的マス・コミから政治的、経済的情報(一部は商品のコマーシャルも含む)を得ることによって十分に政治的、経済的選択の自由を行使するだけの能力を涵養されて、権威主義に依存することによる自由からの逃走をおこさなくなったというようにも解釈できる。東西冷戦の終結をこのようなメディア革命によって説明する人もいるし、私は依存性による秘密性をこのようなマス・メディアのオープン性が打ち破り、オープンな政治、経済、社会を作り上げたのだと解釈したい。

自由の本質を選択の可能性の方に見出し、それを制約していた様々な妨害や障害である法や制度が「国民の自由を享受できる能力の進歩=フロムのいう積極的自由の国民のなかにおける進歩発展」によって、少しずつ国民の側に移されて、政府が規制し、制限するものを少なくし、国民の選択の自由を増大させるようになっているのだと解釈すれば、ヘーゲルの自由の増大の理論も、アリストテレスの共有主義の批判も、そして現実の東西冷戦の終結という選択の自由の増大も、それは現実には共産主義社会や、全体主義社会や、集団主義の終わりとして表れたが、すべて選択の自由の増大として説明できるのではなかろうかと主張すれば、それはマルクスが資本所有主義は所有を放棄して、共産主義社会に向かうというのを反対にした歴史主義として、マルクスの唯物論的歴史主義の反対物として、後世の歴史家や、政治理論家から排斥されるかもしれない。しかし歴史の認識において経済的因果関係のみを重視して人間の自由は存在しないという平等原則のみを重視したマルクスとは違い、人間の本性としての本能以外の部分の「選択の自由」を尊重しているという点においてこの理論は、マルクスの理論とは正反対の人間的な顔をした歴史主義である。確かにマス・メディアが発達し、更にコンピューターが発達しすべての個人の手にコンピューターが配置されるようになった現代の更なるメディア革命の時代においても、ナポレオンや、ヒットラーの因果関係による歴史でも、マキャベリーが『ヒエロ』について述べた歴史の因果性ではなくても、何らかの事件の因果性は存在したり、あるいは、人間があまりに人口が多くなりすぎて、経済的に貧しくなりすぎて戦争をおこしたり、依存性の強い性格をもったりするというような因果関係が成立し、共有がその不都合により私有や所有の大切さを見直されることに反対したり、各人の所有の持分が減ったりすることがあるかもしれない。しかしそのように人口が多くなることを人間の選択の自由が察知し、人口を多くなさないことが人間にとって最適の社会だと考え、妊娠調節の方法等を考察して、個人の自らの自由な選択によってそのようなことがおこらないように、つまり所有や私有やその他のバーリンのいう消極的自由を増大させる方向に、つまり自らの選択の自由を増大させる方向に向かうように個人個人が選択の自由を行使するかもしれない。これこそ私の歴史に関するオプティミズムである。

いずれにせよ依存的な人間が巨大な権威を作り上げ、歴史を自らのペシミスティック方向に(その様な性格の傾向に)向かわしめるのだけは、人類の破滅につながるという認識が行われるならば、個人の干渉されない自由の増大と、フロムのいう個人の積極的自由の方を、その正反対の主張よりも人間は推奨し、選択することであろう。

自由と平等の対立から調和へ

仕事が平等に配られていなければ、人々は仕事をすることができないであろう。仕事から得られる収入がどのようなものであろうとも、仕事そのものが存在しなければどうすることもできない。資源が存在しなければ自由は存在しない。平等な資源が確保され、平等に自由画存在すればよいという政治的主張は自由と平等を調和させることに成功するのであろうか。資源の平等性を求めることは自由の終わり、ケインズが一九二六年にロンドンのウルフ社から出版した「自由放任の終わり」や、ローウィの「自由主義の終焉」のなかで示されたような自由にいたるのか、あるいは、共産主義社会における自由にいたるのであろうか。

自由と平等から博愛にまでいたる方法

自由と平等を調和させるために国や、社会や、法や、政治が必要になってくる。しかしそれらが残虐や、恐怖によるものであってはならない。残虐心や、恐怖心の多い人が国や法を考えると残虐や恐怖による国や法ができあがらねばならないという帰結がその人の心の中だけでは論理的に生まれてくる。社会契約や、一般意志や、政府の考え方は各人の性格によって違った論理の構成になるし、それらへの統一的な一般的な国家や、政治は必要ではないというアナーキーや、反政治の考え方はどこにでもころがっている。犬も歩けば棒にあたる位の多さである。ある意味ではこれが棄権の数の一部を占めていると私は推測している。

第 三 章 自 由 論 の 諸 説 の 論 評

自由ということばの政治的な含意は様々な人、様々な国、様々な歴史の政治的経験から生じてきたものであって様々である。(オークショット、四五頁。)J・S・ミルによれば、自由とは政治的支配者たちの専制から身を守ることを意味していた。(ミル、二一五頁。)自己の権利を守るためには個人は闘争をしなければならない。その闘争は最初の段階は個人の利益を増すために行われているのであるが、法の理念としての人間の生存権と人間の権利のためにという正義の理念の実現のための闘争に変化する。(イェーリンク、一〇四頁。)専制から自由を守るということは闘争でもあった。人間の歴史では支配者と民衆が敵対していることのほうが多かった。ギリシアにおいて真に民主的な政府と想定されている政府の場合があればその場合のみ例外的に敵対していないと考えられたが、このような例は理念的なものであり、現実には存在しなかったとも考えられる。ということは専制から個人の自由を守るという意味の自由は歴史が始まって以来一度も中断されることなく現在まで続いてきているものと思われる。

もっとも、自由には、「意志は自由であるか」という設問が古くから課せられている。人間はある条件(環境)の下である行動をすること、ある選択をすることが予言できるかという設問である。この設問については素朴に「予言できるような事柄もあれば、予言できない事柄もある」という見方をとりたい。(M・クランストン、一六九〜一七八頁。)つまり原因と結果の関係によって「決定される」事柄もあれば「決定されない」事柄もある。「決定される」事柄が社会科学的にどのような事柄であり、「決定されない」事柄が社会科学的にどのような事柄なのかは今後の研究課題である。極端な決定論者はすべての社会的な事柄が因果関係によって決定されているのであるから、人間の意志に自由はないと論ずる。例えば人間の行動はすべて経済によっているのであるから、経済によって説明がつくと考えることを経済決定論と呼ぶことにすれば、すべての犯罪行動は経済が原因であったのであるから経済的に裕福にしてやっていればその犯罪はおこっていなかったことになる。一方経済的にどんなに貧しくても自分の自由意志によって努力して犯罪をおこさないように努力していれば、犯罪という行動をおこさないのであるから、犯罪をおこすこともおこさないことも自由であったのであり、自由意志があったことになるという論を展開することができる。これは自由意思論ということになる。社会科学的には更に複雑であり、貧しくても自由意思と努力によって富裕になる機会が社会的に均等に与えられていれば、貧乏な人であっても機会をよく利用して富裕になって犯罪を犯さなかったことが分かった場合経済決定論者であっても、貧しさと犯罪の間に決定論を適用したくても適用できなくなる場合がある。この場合決定論者は決定論を捨てるのであろうか、そうではなくて決定論を維持するのであろうか。この点が現在共産主義社会の崩壊のあとで唯物論者はどのように考えているのであろうか。

これについては極端な経済決定論を維持しながら、経済的に先に富裕になることが必要でそれまでは自由意思はないという経済先決論という考え方がある。この考え方によれば裕福になるまでは先に自由は否定される。しかしこれは性格の傾向としての依存性によるものであると私は考えている。

しかし、決定論よりも自由意思論をとることの方が人間を理解する場合には自然であると考えられる。その理由は、決定論よりも意思自由論の方が独断的ではないからである(クランストン、一七八頁。)。

政治的支配者たちの専制というものから解放されることが自由の意味であった歴史的背景は現代に近づくにつれて、政治的独裁者達から解放され、集団主義から解放され、サンディァリズムなどから解放されることが自由の意味となった。この自由の変化には歴史的な背景の変化があった。現代の自由主義社会には集団主義とサンディカリズムの二つの敵があるとオークショットはいい、この二つは自由社会の敵でありながらお互いに反発しあって、お互いに排除しあっている。自由主義者としてのオークショットにとってこれら二つが自由社会の敵であることは、広く知られて常識であるとされる。コレクティビィズム(collectivism)集団主義は、管理主義、共産主義、国家社会主義、社会主義、経済民主主義、中央計画主義というように様々な呼びかたがあるし、全体主義や帝国主義やらもこのうち含める考え方もあろう。個人の考えよりも集団全体の意向を優先するという意味で、これらを総称して集団主義と呼ぶことは、妥当であろうか。collectコレクトという単語一つのなかに集約されるべき社会的事象の本質については様々な綿密な分析が必要であるが、ここでは感情的でないという理由で(オークショット五六〜五七頁。)、また、便宜上も集団主義と訳してコレクティビィズムということばを用いて分析することとする。また全体主義的独裁を伴った場合には集団主義というよりも全体主義とよぶほうが適切であろう。集団主義と、全体主義の関係については明確な区別はもうけない。これらの現代集団主義、全体主義、独裁の概念と自由の概念については別に研究する。オークショットは集団主義論について集団主義は自由を愛することが源となって生まれるのではなくて、自由のかわりに戦争を愛することが真実の源となっており、自由を愛するということはカモフラージュにしかすぎないといっているように思われる。(オークショット、五九頁。)「集団主義は、現代の社会で現代人の自由の障害となっている様々な事象だと思われている事象を取り除いてやる、と熱心に主張している」のだから、極端な「逆説」であるとオークショットは述べている。(オークショット、五九頁。)結局現代世界では集団主義は、不完全競争から生じる不完全な自由を救済すると主張するのであるが、自由を殺してしまうことで救済しようというのである。集団主義社会には自由は存在しない。自由を愛することを忘れている場合、自由社会は集団社会に転換される。自由を愛する文化と伝統を持つ社会であってもである。(オークショット、五六〜五七頁。)自由を愛することを忘れることは、自由から逃避することと同じである。自由であることは他人に依存して幸福でありたいという誘惑をはねのけることである。ここに依存という概念が存在する。

他人に依存して幸福であり続けようとする(ポパー、一九五頁。)ということは、土居健郎が「『この甘えの心理は、人間に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることである』、というふうに定義しました。」(土居健郎他、十頁。)と談ずる時の「甘え」と相通じるものがある。日本においては父権社会であり、甘えが母親に対するもののみであるとする土居の見解は実際とは全く相違していると私は考えるのである。しかし甘える人がいれば、必ず甘えられる人がはずである。「甘え」、「甘えられる」の関係については、日本においても世界中どこにでも見られるものと考えられるので、これを「依存」と「被依存」という東西の両文明に共通することばによって解明していくことが妥当であると考える。そのうえで特殊な例として日本の「甘え」について考察すべきではなかろうかと考えられる。まず一般について研究し、次に特殊にいたるという方法をこの場合はとることにする。なぜならば自由は人間一般に関わる事象であるからである。「甘え」に関する土居健郎の定義は、社会全般の依存現象における依存の定義にある程度共通する真理を持っているとも考えられる。私は反対であるが。それゆえに「甘え」という概念が外国人にも受け入れられる余地があったのであろう。しかしこれは一部の精神医学の分野にのみであって、社会科学の分野においてではなかった。社会科学においては更に精緻な研究が必要であろう。それはラズウェルの社会的精神医学の立場からや、エーリッヒ・フロムの権威主義の精神医学の分析の立場その他の立場からの密接な協力が是非必要であると考えられる。筆者としては土居健郎の精神医学は、社会科学的な文化論の一面を取り入れたものであるので、社会科学への展開の萌芽や、方策を含んだものだととらている。したがってそれを依存性と一般化すれば、社会的精神医学の出発点となる程に重要なものである。自由を強制するということが、「甘え」の心理の場合と同様に分離の事実を否定している状態から人を、分離させ、分離の痛みを止揚している人を分離させ分離の痛みを味あわせるものであるとするならば、自由の強制は分離の痛みを味あわせることになる。社会的な事象としてこのことをみるならば非常に重要な視点となる。この痛みを社会はどう取り扱えばよいのか等の問題が生じるのである。現在のアメリカの社会保障からの独立、自立のクリントンの政策はどのように解決されれば良いのであろうかというような問題が含まれている。「自由を強制する」(ルソー、頁。)ということばが、フランス革命などにたいしてもそれ以後も様々な反応を呼び起こしたのはこのような痛みを伴うと同時に、「個性を積極的に実現する可能性をもつこと」をも必要としたからであろう。(フロム、四六頁。)個性の実現なくしては自由からの恐るべき逃走が起こることとなった。(フロム、四六頁。)逃走は自由に対する完全な無関心を生む。自由になり、痛みを伴うような状況が当時のナチスドイツが政権を奪取する前のドイツにはあったと考えられる。痛みから人は逃げるものである。そのような性格を人間は傾向として持っているからである。ワイマール体制下のドイツでは「あらゆる絆から自由である」という状態であったのに「個性を積極的に実現」できなかったのである。個性が実現されていない人々を結合した絆がナチスドイツのファシズムであり全体主義の典型であった。フロムがこの全体主義を分析する道具としたものは権威主義という概念であった。権威主義をなくすことによりデモクラシーや、自由が現実化すると考えた。デモクラシーは個人の自我を積極的にすることができ、自我を実現させることができる。(フロム、三〇二頁。)そして「自由を実現」できるのである。(フロム、二九九頁。)デモクラシーこそ自由に対する信仰を人間に伝えていくことができると考えた。(フロム、三〇三頁。)

自由からの逃走した人々に対して「自由を強制」することは痛みを伴う。自由を愛する人々は暴力革命による一党独裁化であったロシア革命や、ドイツのナチスの一党独裁化によって血を流させられたのとは違い、「自由の強制」は痛みを伴うにもかかわらず、心理的なものであり、暴力革命が血を伴うのとは全く逆に「自由の強制」は血を伴わないものである。しかし、依存と被依存との関係にある人々に対する「自由の強制」は血は伴わないが、精神的な、心理的な痛みによる抵抗は最も激しいものがあるだろう。

現代においては完全なる自由主義は姿を消した。それはカルテル・トラスト・コンチェルン等の独占が自由を脅かした時代、ウッドロー・ウィルソンがアメリカにおいて「新しい自由主義」をかかげて大統領に当選した時代から始まったのであった。その時代は革新主義の時代といわれている。

「不完全な自由を救済する」ために、「自由を殺してしまって」「不完全な自由を救済しようとした」のが集団主義だとオークショットはいう。この不完全な自由は不完全な競争から生じたのだともいう。(オークショット、五九頁。)不完全な競争であるカルテル・トラスト等に対して集団主義を主張するのはこのウッドロー・ウィルソンの時代にもいた。集団主義の性格が次第に明らかになりつつあった時、トクヴィル、ブルクハルト、アクトン等の学者が指摘していた事態は、自由を愛さなくなった時には集団主義があらわれるであろうということであったから、以前から見出されていたことであり、新しい発見ではなく、現代集団主義の性格はすでに研究されていた。(オークショット、五六〜五七頁。)集団主義について研究したポッパーが「プラトンの呪縛」という言葉を使ったのは集団主義は古典古代からのものであったことを示そうとしたものであった。しかしアメリカにおいて「自由主義の終焉」が本格的におこったのは一九三〇年代からであると、セオドア・ロウィは指摘する。ウッドロー・ウィルソンが『議会政治』のなかで描写した議会主導型政府は、第一に政府の活動が一九三〇年代よりも重要でなかったゆえに、第二に政府が単に民間活動と同じく経済性を追及する目的のために存在したにすぎなかったという理由のために、存在理由があったのである。(ロウィ、一四四頁。)それならば、現在のように小さな政府がアメリカにおいて民主党、共和党、第三党の三党において主張され、一方でニュージーランドにおいて運輸省が百名以下の規模にまで行政改革して縮小される時代には、議会主導型政府が可能になる時代が、冷戦後の一九九六年においては到来したのだろうか。

ロウィは「自由主義の終焉」は一九三〇年代におこったルーズベルトによるニューディール革命による政府の機能の変化として本格的に始まったものであり、これをアメリカの第二次共和制と名付けている。第二共和制とは一七八七年以来のアメリカにおける伝統的な共和制を第一共和制としたものであり、それとの区別において第二と名付けたものである。(ロウィ、三七九頁。)これは一九二九年に始まる世界大恐慌を境にしているもので、一九二九年恐慌がいかに政治に対しても多くの影響を与えたかが理解できる。

自由がけっして絶対不可侵なものではないことは当然であろう。絶対的で完全な自由がないのはここで改めていうまでもない。しかし自由に対する制限があまりにも多く危機的な状況に陥っているのが現代の状況であり、自由に対する制限(日本で現在いわれている政府による規制等)を緩和していくことが今日緊急に必要であり、自由に対する制限(規制)を増やしていくことは逆であるとフリードマンらはいう。(フリードマン夫妻、一一四頁。)フリードマン夫妻は、この理由として、一九二九年大恐慌は、民間企業部門の失敗によって起こったのではなくて、政府の責任領域の部門において政府部門の過失によって、もともとおこった恐慌なのであったから、自由に対する制限(規制)を強化する等もってのほかだという見解を示している。(フリードマン夫妻、一一六頁。)

「自由主義の終焉」を主張する当時の民主党は、民間企業部門におけるバブルの発生と、バブルの崩壊のみに大恐慌の原因は帰せられると考えていたので、アメリカにおいては次の三つの政治的選択が行われた。

(一)第一の政策は、大規模な裁量的な経済行政をできる限り廃止することであり、

(二)第二の政策は、一般に自動安定化装置と呼ばれる裁量的な財政政策を強化することであり、(三)第三の政策は、ごく限定的な場合に限ったことであるが、裁量的規則政策を廃止した場合、連邦警察権の一部を拡大することの三つの政治的選択であった。(ロウィ、四〇三頁。)この政策はニューディール政策とよばれるものであり、その結果国家は行政国家と呼ばれるものとなり、行政権の拡大を招いた。民主党のルーズベルト大統領の主導の下に行われために、共和党の側からは違憲訴訟が連邦最高裁判所に提訴され争われた。これに対して民主党は連邦最高裁判所判事に民主党のこのような政策を支持する判事を任命し対抗した。

一方フリードマン夫妻らは一九二九年大恐慌は通過管理における政府の失敗に起因するものであり、歴史上の大事件であるばかりではなく、今も依然として続いているものである指摘している。(フリードマン、一一六頁。)アメリカ合衆国憲法第一条第八節によれば、合衆国政府は、「貨幣を鋳造し、その価格及びその外国貨幣に対する価格を規律する」という責任に対して過失責任があるのであるから、政府は民間に対する規制を緩める必要があると指摘しているのである。(フリードマン夫妻、一一六頁。)しかしフリードマン夫妻も「選択の自由」のなかで、人間は相互依存的に社会の中で生活しているのだから、自由に対する悪質なほかの規制を回避するために、自由に対する制限(規制)は必要ではあるが、もっと規制を廃止していくべきだと主張している。(フリードマン、一一四頁。)フリードマン夫妻らの主張は通過管理等で一部採用されたが、現代の金融恐慌においても注目されている。

行政国家になり、行政権が拡大し、「自由主義の終焉」が叫ばれ、「資本主義の終焉」、あるいは、「忍び寄る社会主義」がいわれるようになると、当時の共和党は不安がった。(ロウィ、三八六頁。)しかしアメリカではロシア革命やドイツのナチスの政権奪取のような全体主義化やらはおこらなかったし、革命運動も発達しなった。この第一の理由は歴史的なもので、封建君主のような封建秩序がなかったため打倒すべき封建秩序がなかったことによるのである。第二の理由は、マルクスの分析を正当化するような国家装置がなかったので、革命理論の対象となるものがなかったことによるのである。

このため革新主義をウィッドロー・ウィルソンの時代に推進した民主党は、現実的でない社会主義や全体主義のドイツのナチズムとは違って、その代わりに、新自由主義が採用されることとなった。これならばラディカルではあっても既存のアメリカ合衆国憲法の国家的枠組内におさまることができた。一つの方針としては一般論として政府の実質的縮小を図るものであったが、他の一つの方針としては、特定の分野に関しては政府の行政権を拡大し規制を強化するものであって、その二つの方針を組み合わせたものであった。(ロウィ、四〇頁。)

アメリカにおいてはこの二つの方針の組合わせで「自由主義の終焉」は新自由放任主義として大恐慌と、第二次世界大戦をのりこえることになったが、ドイツのナチズムと、日本の軍国主義と、イタリアのファシズムはそれとは違った形態の自由に関する歴史をもつこととなった。

全体主義における自由

全体主義における自由の問題は、自由意思論においては経済決定論と自由意思との関係として、また、集団全体における自由は政治哲学的自由の問題として消極的(否定的)自由と、積極的(肯定的)自由の区別の問題として、また精神的自由の問題としては秘密警察や、強制収容所及び絶滅収容所の問題として主にあらわれた。ソ連においては秘密警察は集団主義の支配機構の権力中枢となり、強制収容所及び絶滅収容所は権力の主張の正しさを証明する実験室であり秘密警察は唯一絶対であった。国家権力は、一党独裁の体制の下で党の機構と合体しているので、それ故に、秘密警察のなかで国家と党は一緒になり、秘密警察は集団主義支配機構の中枢となり、権力的な絶対唯一の機関となる。(アーレント、一九四頁。)強制収容所及び絶滅収容所は、人間を全体的に支配できるという主張を全体主義体制が基本的に持っていることが正しいということを、全体主義的支配機構が実験し証明するための場である。(アーレント、二三一頁。)

社会的な「全体」は集団的ないし「有機体的」な唯一の意思をもっており、その全体集団の成員が唯一の意思に反抗する場合、その意思を反抗する成員に強制することができるという考え方に、「積極的」自由論は展開する。(バーリン『自由論』、三二一頁。)このようにバーリンは、「統制ないし干渉の根拠」、つまりひらたくいえば、統治する自由であるところの「積極的」自由は集団主義や全体主義になる可能性があることを指摘し警告を発している。バーリンによれば「真の」自我は普通の人が考える個人的な自我よりも広大なものであり、種族、民族、教会、国家、また今生きている者もすでに死んだ者も、またまだ生まれていない者をも含む大きな社会である社会的「全体」の一要素あるいは一部分であると考えられるようになる。この場合の「真実の」自我とは、彼ら(被支配者)が理性的で、支配者と同様に賢明であり、自らの利害を理解するならば、支配者に反抗しないような被支配者の「真実」の自我である。この立場をとれば被支配者なり社会なりの現実の願いを無視し、彼らの「真実の」自我の名において、彼らの「真実の」自我のために、抑圧し、拷問にかけることができるようになる。(バーリン、三二一〜三二三頁。)バーリンのいう「積極的」自由のこのような拡張解釈は、「自由の強制」というルソーの言葉が、拡張解釈されフランス革命時代にジャコバン主義に悪用されたり、私は誤解であると思うがただ単なる「普通の意味」で使ったと私が思う「自由であることの強制」という言葉がコレクティビィズム・集団主義を主張していると誤って解釈され、展開されたりしたことのバーリン流の解釈になっいるのではなかろうか。

バーリンはさらに続けて、拡張解釈された「積極的」自由の説明をする。これは集団主義に対する政治哲学的警告であったとともに、今となっては、積極的行政国家の行き過ぎに対するある種の警告ともうけとれるものである。ラズウェルは様々な価値を政治的価値として研究したが、それが積極的自由として普通の個人的な自我に受け入れられ、各個人各個人の現実の願望に適合していることを期待したい。

積極的自由により抑圧し、拷問にかけることができる理由を、全体主義は、幸福、義務の遂行、知恵、正義の社会、自己完成等人間の真の目標がなんであれ、たとえ底に潜んでいても「真の」自我が自由に選択したものと、個人の自由は同じでなければならないからなのだと説明することになる。その結果として社会全体の「より高い」自由、従って社会全体の各成員の「より高い」自由を実現する。(バーリン、三二一頁。)という理由付けがなされることになる。

これに対しては、バーリンは、これまでにも多くの人が指摘してきたことだとして、「他の人々を、『より高い』水準にまで高めるため、ある人々が加える強制を、有機体的な暗喩を用いることは非常に危険である」と警告している。

バーリンの見解とともに、相手国の個人の人権に対する保護のための内政干渉についてのノージックのことば「個人を保護・防衛するために他国がある国に干渉してもよい」のはなぜか。また、逆からいえば「不干渉の原則は、国家間の関係を律するのに妥当な原則と考えられることが多い。」という内政不干渉の国家原則はこの関連で示唆にとむ。

ノージックの指摘は内政干渉の原則があるのに、人権に関しては内政干渉ができるのは何故かという点である。人権を守るために国家が、他の国の人に対してなす干渉は、ある意味では素朴な意味での自由の強制である。この素朴な意味での自由であることの強制とは、その人の消極的な自由(ネガティブなと素朴なを同じ意味に用いているが)を増大させ専制から身を守ることを意味している。(特に政治的亡命の場合は、他国における人権侵害に対する他国への干渉の場合よりもこの色彩が強い。)他国の内政に干渉する場合他国の個人を保護・防衛することになる場合は干渉(自由の強制といいかえてもよいであろう)してもよいとノージックはいう。(ノージック、上、五四頁。)このケースは日本に対してアメリカのGHQが主導して日本国憲法を成立させるよう促したケースや、芦辺信喜氏が自由の強制に例えたGHQの検閲のケースやらと似たケースである。ノージックは干渉をできるだけ減少させることを政治哲学の骨子としていると考えられる。ノージックは個人と個人との間では干渉は禁止すべきであるが、個人が共同で国家(ノージックの意味での最小国家であろう)を通して、他国の個人に対して自由を保護・防衛する干渉は許容され、妥当であるという一般論を解説し、「国家は保護されるべき個人をその部分として含んでいるが、個人はその個人を部分として含んでいないからである」と理由付けしている。国家内で主権をもっている個人と主権をもっている他の個人との関係と、主権を持っている国家と主権をもっている国家との関係の違いをこの一点、すなわち、主権をもっている個人を内包しているかどうかに見出したのである。ノージックは国家が国家に対して不干渉であるべきことは個人間の不干渉の原則から、その政治哲学上当然のこととして認めた上で、ではなぜ個人の保護・防衛のためには他国に干渉してもよい、つまり、内政干渉にはならないのかという問題の設定を行ったのでこの一点がその答えとなったのである。(ノージック、上、五三〜五四頁。)、ノージックは干渉のことを詳しく論じている。

一人を他人のために犠牲にすることを禁止することは、自由尊重主義的道徳規則の第一歩である。しかし他の人の利益のために実力を行使し、他の人を威嚇することは、これを温情的父権主義的な攻勢(paternalisticaggression)と名付けているが、このことも禁止することが自由尊重主義的規則においては次の一歩となる。第一歩の規則は「この社会には自分自身の人生をたどるべき別々の個々人がいる」という点に目をつけると導きだされるが、次の一歩の規則は更に「この社会には別々の個々人がいるのである(第一歩の状況の把握)が、個々人は自分の人生は自分自身が生きていくのだ」という点を更に見出すことにより導き出される。(ノージック、上、五三〜五四頁。)

ノージックの政治哲学は、人間が行ってよいことの道徳上の規則は、各個人が別々の存在であるという事実から導き出される規則である。(ノージック、上、五二頁。)この道徳上の規則が生まれてくるのは根源的には、この社会全体のなかには別々の生命(人生)をもった別々の違った個々人がいるのであるのだから、ある人を他の人のために犠牲にする(迷惑をかける)ことはいけないという根本的理念を基礎としている。次に更に他の人を攻撃することを禁止するという自由尊重主義的な道徳上の規則にも到達することになる。迷惑をかけないことのみではなくて、干渉、温情主義干渉をもしないという道徳上の規則を政治哲学的に提示したのがノージック哲学の本質であった。(ノージック、上、五二頁。)

このノージックの議論と「自由の強制」を内政的に一国内で主権者である政府が主権者である国民たる個人になしてよいのかどうかという議論との関係は、消極的自由と積極的自由との関連でも考える余地の残る問題であるが、これとは対象的にハンナ・アーレントは全体主義における強制収容所及び絶滅収容所の成立根拠として、全体主義的支配を成立させるために、全体的支配者は無限に多数の多様性を持ったすべての個人個人が全体としてただ一人の人間であるかのように、個人個人の無数の多様性を捨て去り、個人個人を組織として一つのものとすることを目標として、全ての人間を常に単一の反応をする単一の塊にかえてしまい、その結果この単一の塊の一つ一つが他の物と交換可能なものとなるまでにしてしまったのであり、強制収容所及び絶滅収容所はこのような全体主義的支配が成立しうることの実験室であったのだと考えた。(アーレント、二三一頁。)ノージックの政治哲学と、全体主義の政治哲学はまさに反対の極にある。それを対照すると、別々の人生を持つ別々の個人個人がいて、自分の人生は自分が決めるのだというノージックの考え方に対して、無限に多数の多様性を持つ別々の個人個人を単一の反応の塊としてしまった全体主義的支配との対照は、バーリンによって、例えいまは底に潜んでいてはっきり観察できないのであるが、集団的で全体的で有機体的な全体の「真の」自我の自由な選択という「積極的」自由の拡張として説明されているのである。

そのバーリンはルソーのいう自由についてについて次のように解釈している。彼によれば、ルソーのいう自由は「消極的」自由ではなくて、「積極的」自由であった。その自由は一定の領域内で干渉を受けないという個人の「消極的」自由ではなかった。ノージックのいう自由尊重主義的な政治哲学はルソーのとるところではなかった。ルソーの自由は個人が個人として持つ自由ではなくて社会契約をした社会の全員が分け持った公的権力がその社会の全員の生活のすみずみまで干渉する権利を与えられているという契約状態における「積極的」自由であったとバーリンは指摘し、更に、すでに一九世紀前半の自由主義たちが、人民の主権が個人個人の主権を簡単に破壊してしまうだろう、つまり、ルソーの「積極的」自由は神聖視されるべきすべての「消極的」自由を簡単に破壊してしまうだろうと考えていたと指摘している。(バーリン、三七五頁。)

ルソーは「社会契約論」の第八章において「社会契約によって人間が失うもの、それは彼の自然的自由と、彼の気を引き、しかも彼が手に入れることのできる一切についての無制限の権利であり、人間が獲得するものは、市民的自由と、彼の持っているもの一切についての所有権である。」(ルソー、三六頁。)「この埋め合わせについて、間違った判断を下さぬためには、個々人の力以外に制限を持たぬ自然的自由と、一般意思によって制約されている市民(社会)的自由とを、はっきり区別することが必要だ。」と述べている。(ルソー、三六頁。)

バーリンのいう自由の二分類は集団主義の積極的な自由が、専制から自由をうばいとった人々の消極的な自由を侵すことになり、その意味で両者は対立的であり、積極的自由は政府というものの意志として形式を通じて強制されたものであり、それに対抗して消極的(否定的)自由の主張があるということをいいたいのであろう。ノージックはその政府は最小国家であるべきだとその議論に対しては申し述べたものであろう。したがってこの議論は集団主義と自由主義の対立と同じものである。一方では最小国家においても他の富裕な個人から、政府が富の移転を税金の徴収と再分配によって引起し、貧しい人に福祉を与える場合も、政府によってなされるのであるから積極的自由が存在の余地があることになる。このように考えると、積極的自由が存在の余地があることになる。このように考えると、積極的自由が集団主義や全体主義となるか否かは、あくまでも「例えいまは底に潜んでいてはっきり観察できないのであるが、集団的で全体的で有機体的な全体の「真の」自我の自由な選択」という形式をとっているかどうかという点にある。「潜んでいる」というのは潜在的意識論の言葉を採用したものであるかもしれないし、「自我」もフロイトの言葉を採用したものであるかもしれないが、このことについては更に研究する必要がある。実際の学校の生徒間の場合を想定してみると、不良少年が集団をつくりその自我(「真の」か?は別として)を通じて、完全な真の自由を発揮して不良行為を自由に行うとすれば、他の普通の生徒の自由を侵す(干渉する)ことになると想定するのは容易なことであろう。この場合の「真の」自我、底に潜んでいると不良少年のいう「真の」自我の自由を研究することはできるのかもしれない。その場合被依存と依存の考え方は有用であるかどうかは分からないが、自由と相当な関係はあると思われる。

ルソーのいう自然的自由が積極的自由にはあたらないのは常識的であるが、市民的自由が本当に以上のような集団主義の積極的自由にまで到っていたのか、あるいは、最小国家のなかにも存在するような積極的自由であったのかについては私は集団主義的ではなかったと読みながら直観的に感じた。ルソーの一般意志はその後のフランス革命のなか等で集団主義や、全体主義としてとらえられた傾向があったが、それは誤解であったのではないかと筆者は信じる。人間の不平等をなくすための社会権的基本権を認めるような人が現在多数をしめる。しかしそれだからといって全体主義や集団主義を認める人は少数である。ルソーはその多数派、今では国連人権宣言のように社会権的基本権を自由権的基本権以外に認めるような多数派の人々の一人ではなかったかと筆者は信じる。ルソーは「大きな者の側では、財産と勢力、小さき者の側では貧欲と羨望について、それぞれ控え目であることを前提とする。」ことにより、「富についてはいかなる市民もそれで他の市民を買える程に豊かではなく、また、いかなる人も身売りを余儀なくされるほど貧しくはない」程度であるべきで富の絶対的同一が平等ではないと述べる。(ルソー、七七頁。)しかし土地の支配権についての平等について、第九章において、「人々が何ものかを占有する前に、まず結合し、それから、全員にとって十分なだけの土地を占領して、これを共同で所有するか、あるいはお互いの間で、平等に、それとも主権者によって決められた割合に従って、分有するか、そういう場合も起こりうる。」(ルソー、四〇頁。)というように、土地の共有に含みを残している。この点は誤解を生みやかった点であると解釈するが、しかし自由は平等を欠いては持続できないが、自由がなければ、それも個人個人の自由がなければならないのは、「個別的な従属は、それだけ国家という政治体から力をなくさせることを意味する。」(ルソー、七七頁。)といっているように、自由を同時に認めていることは、専制への個人の依存が個別的従属と解釈できることから個人の専制からの自由、即ち、消極的自由を認めているのである。専制からの自由が市民的自由であるというルソーの自由論からすれば、その自由は個人の自由であり、全体的、集団的な「真の」自我の自由ととらえることはできない。つまり「共同で所有する」(ルソー、四〇頁。)可能性を残して論じてはいるが、専制からの個人の自由を認めているということは、集団的な「真の」自我の自由を認めているわけではないので、それが全体主義や、集団主義ととらえられるのは誤解となると筆者は考えるのである。アリストテレスの『政治学』における土地所有論と自由との関係については、二人の者が土地や不動産を共有していた場合を考え法的紛争になっている場合を考えて見ればよくわかる。全体的、集団主義的自我による積極的自由ではなくて個人の消極的(否定的)自由をどちらか、あるいは、双方が主張した場合には各人に所有権を移すしか、この法的紛争の解決法はないのである。これが動産の場合や永住していない不動産の場合には時間を決めてレント(賃貸)する(レンタカーの場合のように)ことも可能であろうが、時間的に同時に借りようとした場合にはそれができなくなる。更に絶対的にそれができないのは、同じものを二人で同時に食べられない食料や、同じものを二人で同時に着られない衣料等も、どちらかの所有にするしかない。消極的自由として取り扱うことができる問題だと思われる。バーリンのいう領域の他にこのようなものが対象として考えられる。最小限の住居についても同様である。

精神的な自由に関しては、集団主義における精神的不寛容の問題がある。これは多数派あるいは政府は、少数派の精神的自由を認める寛容さをもつかどうか、集団主義は個人の自由主義を認めないのであるが、自由尊重主義者が政府として集団主義の自由を認めるべきかという問題である。ノージックの考えるユートピアは、多くのユートピアは、多くのユートピアを入れる枠組みである。そのユートピアのなかで個人個人は自由に自分の自由意志で結合して自らの理想とするコミュニティの中で自らの善き人生の理想を追及し、自らの善き人生を実現しようとするような社会である。そのようなユートピアでは誰も自分のユートピアの理想を他人に押しつけることはできない、そういうような社会である。ノージックの原書の注ではこのような押しつけの基礎にある理論のいくつかがトルモン(J.I.Talmon)によって、The Origins ofTotalitarian Democracy (New York:Norton,1970.)及び Politial Messianism (New York: Praege,1961.)の中で論じられているとしている。(ノージック、五〇五〜五〇六頁。、原注五五五頁。)ノージックが、他国内の個人の自由を保護・防衛する干渉は許容されるとしたのは自由を抑圧する専制的な国家や集団に対してはその中にいる個人の自由を保護し、自由を強制すべきであるとしたのであろうし、ここでは、「誰も自分のユートピアを他人に押しつける」ことはできないとしたこととは矛盾するであろうか。原注を参考にすれば全体主義的なおしつけは排除するとしているのであるので矛盾しないと考えるべきである。いずれも全体主義的な押しつけと、専制的な自由の抑圧を排除するものであるからである。

正義論を説くロールズではこの点について更に詳細に論じている。

サンディカリズムは自由社会の的であると同時に集団主義の敵でもある。集団主義の政府は独占主義的に組織化された数多くの職能集団から要求が通らなければ全体の生産計画を台無しにすると脅しをかけられれば、犠牲になってしまう。大それた要求をしない場合でも事業を秩序をもって遂行することに対していろいろな邪魔をすると脅しをかけられれば集団的政府は犠牲になってしまう。(オークショット、六〇〜六一頁。)集団主義的政府でさえも倒してしまう程のサンディカリズムの強大な力を認めることはオークショットの政治的な見解として自由論の一方向を示すものといえる。オークショットが教鞭をとるイギリスにおいては、以前労働党の本拠とみなされていたロンドン大学でも現在S・M・リプセットが『政治のなかの人間』を書いた頃では、教授団の中では保守党支持が多数派を形成しているという報告が多数ある。S・M・リプセットによれば、その当時においてアメリカにおいても多数の西欧諸国においても、民主主義社会の不完全さについて左翼の知識人が和解しはじめてということであり、このような左翼の知識人が左翼的感情を衰退させはじめたのは根本的に強制されたからではなくて自発的なものであった。自発的な和解であることを証明するものとしてはアメリカにおいてと同様に多数の西欧諸国においてこのような傾向が見られるからである。アメリカにおいては反共産主義は国内を安定させる政治上の圧力となっているのであるが、多数の西欧諸国においてはそのような圧力はずっと少ないのに双方にその傾向がみられるからである。このような傾向は自由論に対してのみならず労働組合運動にも大きな影響をあたえていると考えられる。(リプセット、二八六頁。)この左翼的感情の衰退の傾向には様々な政治社会学的な理由、政治文化論的な理由が考えられるが定まった学問的な定説は見当たらない。

『「新自由主義」労使関係の原像』という一九九五年に出版された書物のなかで小笠原浩一氏は次のように述べる。

一九七〇年代の労働党がイギリスにおいて政権を担っていた時代の個別雇用保護立法は「個人の自由」を立法によって保全するという「新自由主義」のアプローチの仕方をとっていた。

第一節 アリストテレスの共産主義批判の理由付け

その著『政治学』におけるアリストテレスによる共産主義に対する反論については以下の通りである。アリストテレスが当時現代の人々が意味している集団主義や全体主義について予測していた可能性は少ないので、現代の政治学が経験したようにそれらを理解していたかどうかは不明である。当時はヒットラーの全体主義や、マルクスの共産主義社会のような理論や国家が現実に出現することについての予測はなかったのであるからその後に起こった様々な集団全体主義の不幸を知らなかったにもかかわらずアリストテレスの理論は冷戦後の現在正鵠をえていたのではないかと思わざるをえない指摘を含んでいるのである。

アリストテレスは当時の実際のように一般に妻や、子供はおのおのの個人個人に別々に属するとしても、財産や、財産の使用は共有であるほうがよいのか、そうではないほうがよいのかという国政や、立法の問題について考察している。土地と、耕作と、収穫物についてそれぞれについて共有であるべきか、私有であるべきかについて論じている。(★アリストテレス、四六頁から四七頁)財産が共有ではないから契約についての訴訟や、偽証による判決や、金持ちへの追従のようなさまざまな悪が国民の相互間にはびこると告発する者がいることがあるが、これらの悪は、共有でなく私有のためにおこるのでは絶対になくて、悪い性格(悪癖)から発生するのである。(★アリストテレス、四九頁。)

世の中には多くの悪があるのは私有財産制度があるからだというのは共産主義の政治的な出発点であったと私はおもう。それをアリストテレスは卑近な言葉で、しかも雄弁に否定していると考えられる。このような見方を、このような雄弁さをレオ・シュトラウスは政治学の基礎に取り戻そうとしたものと思われる。シュトラウスによれば現代の政治学は政治的なものを、政治以下のものへと還元して、最初に与えられた全体を比較的単純な要素へと無限に分解することによって真の全体を見失ったのである。それゆえに共通な善は存在しえないようになったのだと指摘する。マルクス主義も集団主義による政治のとらえかたにより生死をかけた戦いにより固定化された階級が社会の全体であると階級社会として社会を図式化し、そこには共通した善は存在しないとのべたのであり、アリストテレスのいうような善き社会の概念を追求できなくなったとシュトラウスはいう。マルクス主義は国家無き社会、無階級社会のなかにのみ人類の共通した善は存在しているという主張を行ったのであるとシュトラウスは解釈した。(★シュトラウス、二六五頁から二六六頁。)また、争いごとが多いのは財産を個人個人が所有する形態の国の制度の場合よりも、財産を共有で所有する形態の国の制度のもとで共同で財産を使用する場合のほうであるのを実際に観察することができるとアリストテレスは指摘している。(★アリストテレス、四九頁。)

この観察も雄弁に実際の観察の結果を表現している。集団の管理がいかに難しいかは、ソ連の実験が証明している。このような観察をこそ、雄弁であるといえるのではなかろうか。これはアリストテレスが集団生活を観察した実際の結果であろうと推測される。このような雄弁さのなかに含まれる命題は学問といえないとしても、しかしその真偽を学問的に分析する努力は続けなくてはならないと私は思う。なぜならその命題は共産主義をひっくり返す程の力をもっていたであろうからである。しかしそれらはこれまで学問的ではないとして故意にか捨てられてきたような感じに見える。アリストテレスが例として挙げているのは旅行仲間が共同で生活し、財産を共有にしている場合には、些細なことで衝突して喧嘩をするという例を挙げている。

また、人間の大多数は、自分のものは気にかけて管理するが、共同のものはあまり気にかけて管理しないし、個人的に関係のある範囲以外は気にかけて管理しない、また、他の人が気にかけて管理していると思ってしまってなおざりにするのが通例であると指摘している。これではすべての人が全員なおざりにして誰も管理しないようになってしまう。召使が少ない場合よりも、召使の多い場合のほうがかえって役に立たないのと似ているとアリストテレスは比喩を述べる。この比喩は現在にもつたわり普段に口にされている諺である「船頭多くして船やまにのぼる」の諺の比喩とよくにている比喩である。(★四二から四三頁。)アリストテレスと同様にこの諺について政治的な意味を見いだした政治学者はいて、その臨終の時の言葉がこの諺であったとある伝記はある政治学者について述べている。

第二節 自由の強制と、バーリンの消極的自由

再び、現代の政治学における「真の」自由という概念の検討に戻ることにしよう。

ある強制がわたしのためになるかもしれないと思うこと、あるいは、わたしの自由を拡大するかもしれないと思うこと、あるいは、私自身の利益のために強制されているのかもしれないと思うことと、−−そのことと、その強制が私の利益であれば強制されているのではないと思うことは別問題でありまったく相違する。(バーリン、2.、二二二頁。)これはノージックの父権的温情的攻撃をバーリン流に解釈したこたえであるといえる。ノージックが父権的温情的攻撃を否定したように、バーリンもそれを否定し、その理由として「それを拒み、善意とはいえそれを押しつけようとする人と死にもの狂いで「真の」自由の攻撃と戦っているのに、否定しあらそって戦っているのに、わたしは自由、「真に」自由である」ということになるからであると考えている。この「真の」自我による強制をどのようにみるべきであろうか。強制する方は強制される方を無学だから「真の」自由に気がついていないのだ、学習せよと要求する。学習理論とよんでもよいであろう。実際に利益になるのか、実際に私の自由を拡大するのか、実際に私自身の利益のために強制されているのかは、別の問題として別の時に別の場所で考察されるべきで、強制されているのは強制されているのだ、今は「真の」全体的な自由を強制されているのが真実なのだということであろう。全体的な「真の」自由の強制が、私が実際私の利益になると、私の自由を拡大すると、私のために強制されていると分かったらその時、そのところで「真の」自由を強制するようにしてくれというようにいっていると思われる。

バーリンは「自立としての自由の「積極的」概念は、自己分裂した人間を思わせるところがある」という。そして最近の歴史からみてみると単に学問的な問題だけではなく、実際の歴史の問題としても人格が二つに分裂したと指摘する。(バーリン、2.、二二二頁。)分裂した自我の一つ目の自我は、超越的な自我であり、支配する者としての自我であり、普通の自我を抑制し、制御する者としての自我である。分裂した自我のもう一つの別の自我は、経験的な欲求をする自我であり、情念のかたまりの自我である。

バーリンはこのことから自我やパーソナリティ及び人間が何からできているのかについてどのような見方をするのかによって直接的に自由概念が発生しているのだと結論する。これはオークショットの自由概念が政治的経験に由来するとの見解に近い。フロイトの自我の概念のように潜在意識が存在すると仮定している自我論もあれば、そんなものはないという自我のとらえかたもある。パーソナリティについても自我のとらえ方いかんで様々なとらえ方があるし、人間についてもその本性のとらえかたは様々である。自由の定義と、人間の定義を縦横に変化させれば、その人が望むようになんでも意味することができるようにすることができるのであるとバーリンは結論する。ルソーの「自由を強制する」ということばのうち、自由が「真の」自由という意味にとらえられれば、これは集団主義を主張したのだとうけとられる可能性はあったが、これは誤解であったというのが私の見解であった。マキャベリーへの誤解をといたルソーが誤解されるとは歴史の皮肉である。いやマキャベリーへの誤解を解こうとしたから集団主義者に誤解されたのであろうか。積極的自由はそれを行われる側の人間にとっては不自由である。自由の喪失である。つまり、消極的自由にとってはその喪失である。ネガティブな自由と、ポジティブの自由は反対の関係にあり、ゼロ・サムの関係であるのではなかろうか。

それでは集団全体主義における自由とはどのようなものであろうか。イエッケルはヒットラーの『わが闘争』のなかから次の部分を引用して、ヒットラーにおける自由を分析する。

「だから、われわれアーリア人にとっては国家が民族の維持を保証する。それだけではなく国家はアーリア人の精神的能力と、理念的能力をさらに増加させ、より最高の自由にまで導く、民族の活力があふれた有機体だけを国家として思い描くことが出来るのである。」

イエッケルは、「自由とはヒットラーにとっては個人の自由ではなく、国家の自由であった。国家の自由は外交政策上の行動の自由という意味であった。」という。(★イエッケル、八二頁。)

確かにイエッケルの説は相当であるが、それはヒットラーの心理的なものから発生したものであると私は考える。

国家と、自らとが一体化していたのがヒットラーであった。自らに自由が全く存在しない場合には、国家が自由になることを欲することはありうることであると誰もが想像がつくであろう。それ以外には自由は存在しないからである。人間には自由が必要だ。ここに超の付く国家主義が生まれてくる心理的背景があったのではなかろうか。ヒットラーを総統として仰ぎみて動くことの出来るドイツ的な官房学にのっとった官僚の伝統的な制度がまだ残っていたのである。もしヒットラーではなくて、ほかの正常な人が官僚制度の上にのっていたならば、歴史は変わっていたと私は思う。ここにはしかし「歴史とは何か」の大問題が潜んでいるのでありそれを解くのには相当の紙数を要するのであるが。ヒットラーの心理は劣等感のうらがえしであったと思われる。それ以外の考え方では解明できない。例えばリビドーがユダヤ人の虐殺に向かわせしめたなどと説明したとしてもそのようなことは誰も信じない。劣等感は何も自由がない、出来ないという感情をうんだのだというような分析は今後の課題であるが、しかし劣等感による分析が正しいのであろうと思う。かつ人間としての尊厳としての正しい感情を発生させる余地があるものとしての劣等感の分析が正しい分析であろう。今後の分析がまたれる。

第三節 権威主義と自由

一方、ベイは、とくにエーリッヒ・フロムの理論としてある種の少年期の経験が成人における「権威主義」になる傾向を形成するとの仮説があり、このことを心理学的自由の欠陥の主要な類型として論じている。(★ベイ、二四八頁。)この研究は自由と、精神分析の理論の融合として意義深いものである。

現代の民主主義の時代においても、集団全体主義は存在する。これにたいしてどのような態度をとるべきであろうか。この点に関してはロールズが大胆に意見を述べ、理論的に分析している。ロックによれば、自然の状態にある人はすべて他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲で自分で行動を規制し、自分の所有物と身体を自分が適当と思うように処理するという完全な自由の状態であり、他人より多くの権力も支配権も誰も持たず、互恵的である。従って自然な状態は平等な状態でもある。(★ロック、一九四頁。)ロックのこの思想をロールズも、ノージックも発展的に受け継いでいる。

第四節 平等のために自由は捨てよ、人権は要らないという主張にどう対応するか

ところが、この世の中には権力をとることによって基本法である憲法上の自由の抑圧を行おうという綱領をもっている政党がある。現在認められている基本法である一国内の憲法や、国際法上の国連人権規約上の人権のようなものを基本法上の人権とよぶとすればそのようなものは認められないという主張をする政党がある。知的な自由、思想・表現・学問の自由は認められないという主張をする人がいる。これを一党独裁の主張ともよぶことができる。このような政党や人に対して寛容であるべきか、つまり、不寛容な政党や人に対して寛容であるべきかについてジョン・ロールズは論じている。

寛容派にとっては相手が寛容ではないのだから、もし相手が自分に対して攻撃をしかけてくるならば、それにたいして寛容のままであれば、なんら対抗する権利を持たないのであるから攻撃を受けてしまうことになる。これは寛容派の矛盾である。寛容派は寛容で干渉しないと決めているのに、不寛容派は寛容ではないのを原則とするので、必ず干渉してくることになる。従って不寛容派が寛容派に苦情を申し立てて、寛容派の身の安全や、自由権を認める制度の安全が脅かされるという危険が明白に、じゅうぶんな理由をもって認識された場合にのみ不寛容派の自由を制限し、抑圧するべきである。この理論は集団全体主義思想を持つことは自由主義社会における法的に認められた精神的自由の一つであるという基本法上の自由権の主張と似ている。これはあくまで法律上の問題であり、ノージックのように他人に迷惑を掛けないという不干渉主義のように積極的な政治上の道徳的な規範とは異なっている。このことについてロールズは法律以上のことは述べておらず、政治的なことについても論じていないと思われる。不寛容派の自由を制限し、抑圧する理由は、ロールズによれば次の通りである。権力を持ったときの基本法における自由の抑圧の政治綱領に対抗して、それに対立する原理であるが、「不寛容派も認めるであろう自然な原初の状態においては存在する正義の原理」、つまり、「原初の状態においての基本法の下での自由の平等性」のため、民主国家においても不寛容派の自由が抑圧されねばならないのであるとしている。(★ロールズ、一七二頁。)このことは、例えば不寛容派にも財産が平等に分配されて不寛容派も消極的自由を行使すべき財産を持つことが出来るようになれば主張するであろう自由、その自由は平等であるからである、また、権力と支配が平等で、互恵的である社会が自然であるからという理由付けとなる。しかしロールズが認めているのはその場合だけの不寛容派の自由の制限なのであり、不寛容派に対してのそれ以外の場合の干渉や、それ以外寛容の推奨など現在自由主義政党の行っているさまざまな政治的なことについては論じていない。このような環境にならなければ、寛容派は何事もしてはいけないというのであろうか。明白な危険の認識がなければ、何もすることが出来ないのであろうか。このロールズの理論にたいして私のこの論文はそのような特定の明白、危急な危険のある場合以外に自由の推奨が出来るか、自由の強制が出来るのかという設問が出発点である。たしかに完全に無産の状態、財産がゼロの状態で出生したような貧しい人は、財産を守るべき自由はあっても守るべき対象である財産が存在しないのだから、そのような自由はまやかしだ、という共有化の理論やらを持ち出すかもしれないし、それが集団主義の主張となるかもしれない。つまり財産の所有の自由は認めたって財産がないからしようがないから、財産に対する所有の自由な権利など廃棄してしまえ、共有にしてしまえというような理論がおきてくるかもしれない。その理論にたいしては所有の自由な権利が「危険な状態になる場合」まで自由主義者はただ何もせずに待っていなくてはならないというのであろうか。このことについてはロールズは答えていないのである。その質問にたいしてはこのロールズの答えは絶望的な答えである。そうしているあいだにも不寛容派は瞬時も惜しまずに干渉をして、攻撃をしかけてくるのである。それが不寛容派の香料の真髄であるからである。どのような理論が、絶滅収容所や、政治警察の挙動にでるような集団全体主義にたいして有効な対抗手段を提示できるのであろうか。人類の今後の研究課題である。

ロールズの原初の状態における原理、つまり、原初の状態においては人間の自由は平等に与えられているという基本法、自然法の原理といってもよい原理を、常に政治においては寛容派も、不寛容派も自覚的に目指しているとするならば、不寛容派もそれを常に自覚していることになる。しかし、実際には集団全体主義のように不寛容を主張する人々のなかには、その原理を自覚しないで寛容派に感情的になり、絶滅収容所や、政治警察を設置するような行動にでるばあいがあり、全く無産の人の気持ちになって考えてみれば心理的には原初の状態が理解できない人もいるようだといっても過言ではない。原初の状態が自由の平等の自然的な状態であるとするならば、その状態がくることを皆が願っていることを寛容派は不寛容派に理解させる必要がある。

正義にかなう基本法のもとでの自由をまもるために、不寛容派の自由が制限されるべきであるのは、明白かつ現在の危険がある場合のみに限定するロールズの見解によれば、どのような理論で政府はいつでも「自由の強制」をすることができるという理論に到達するのであろうか、あるいは、そもそもそれを否定するであろうか。集団全体主義や、専制や、独裁に対抗する新しい自由の概念や、民主主義の新しい意味付けが必要であると思われる。それこそ新しい自由と、新しい自由の強制の問題の解決になるのだと思われる。つまり、明白かつ現在の危険がない時には不寛容派に対してどのような対応をとればよいのかはこれからの研究課題である。これはラズウェルの見解とかも参考にするべきであろう。破壊性の除去という問題の解決をラズウェルは研究したのである。

第五節 リベラリズムと新しい個人の自由

今後の労働界のネオ・リベラリズムの政治的な動きをみるうえで参考になるのは、ウッドロー・ウイルソンが大統領戦に出馬するときの「ニュー・フリーダム」の考え方であろう。これは新しい自由と訳されているのでそれに従うことにする。この本はウイルソンが序文で述べているように、ウイルソン本人が書いたものではなく、大統領選挙キャンペーンの演説を編集者がまとめたものである。

バインシュタインのウイルソン伝記によれば、企業の統制に関するウイルソンの考え方は独占に陥った経済体制は競争自体を政府が規制し、監督することにより、自由競争制度と自由企業体制を取り戻すことができるというものであったが、これは一般には新しい自由主義という名前で知られており、この考え方はボストンの進歩的な法律家のブランダイスの影響の下に提案されたものであった。民主党から大統領選挙に出馬したウイルソンは人間は自由で、汚濁のない環境で生活できるように望むと演説し、反対党の候補者セオドア・ルーズベルトは独占を法制化したいのであると演説をした。(★バインシュタイン、二三九頁。)

アメリカにおいてはウイルソンの時代をはじめとするいわゆる革新主義の時代には自由主義に対する修正が行われた。

この自由主義の修正は現在にまでも引き継がれている。ハイエクは、「「自由」企業と競争的秩序」という論文のなかで、現在は独占の防止と、競争の維持の問題が深刻な問題であると指摘している。(★ハイエク、一五五頁。)また、法と国家制度という側面から見てみれば、財産については私有財産、契約については契約の自由という原則だけですべての問題が解決すると考えるのは誤りである(★ハイエク、一五五頁。)とする。

このような不完全な競争、独占は不完全な自由を生む。不完全な自由をなくし自由を取り戻すためにというスローガンを掲げて大衆を誘惑し、集団主義と、サンディカリズムは自由主義社会の敵として登場してくるのであるとオークショットはいう。集団主義と、サンディカリズムの二つは相互にお互いを排斥する。集団主義と、サンディカリズムの二つはともに独占を創りだし、独占を維持することにより社会の統合をすすめようとするもので、社会全体が独占化することはあっても、分散化することはありえない。自由社会の敵であるこの二つが相互に排他的である理由は、サンディカリズムが目指す独占は集団主義の社会も、自由主義の社会も両方共に破壊してしまうからであるとオークショットは指摘する。(★オークショット、五六から五七頁。)(余談だがこの集団主義とサンディカリズムの排他性はちょうどあまりに甘えた者同志の結婚、例えば、末っ子同志の結婚において両方共に甘えあって一方が他方を抱擁する側に回らずにいると対立し、排他的になるようなものだと私は比喩的に理解している。学問的ではないかもしれないが、興味深く、学問として読まれるかたはこの部分は省略していただきたい。)

集団主義に対する選挙による支持などの現在必要な民主政治の法的合意が形成され、自由が非常にうまく実現されている社会が集団主義の教義によって自由の障害を除去してもらおうということに決まって集団主義的な体制に変化するかもしれないという恐怖が現実化しないとは誰も断言できない。ところが、集団主義と自由とは相容れない、二者択一的なものである。一方を選べば、他は捨て去ることになる。この論理と事実を徹底することが必要でそのためには自由を愛する精神を忘れないことだとオークショットは続ける。(★オークショット、五六から五七頁。)

競争自体を監督することにより、自由競争制度と自由企業体制を取り戻そうというウイルソンの思想は現在も生きている。経営企業は法的な規制に対して非常に敏感に反応してきたと自由主義者であるオークショットは評価する。世論が経営企業の独占には敏感に反応して、一時的な結合以外には経営企業の独占はあまり存在しないとオークショットは観察している。したがって、労働の独占よりも経営企業の独占のほうが力も弱く、危険性は少なくなったと分析する。(★オークショット、六〇頁。)

労働の独占組織も経営企業の独占も自由主義にとって残念な事態であり、両方共に自由化されるべきであるとオークショットは考えている。だが経営企業の独占よりも労働の独占組織は力が大きいうえに、両者には利害の一致があり一般大衆に危険をもたらすような結果になる。経営企業の独占それ自体を労働の独占組織自らが自らを補強するものとして必要としているということは危険な事態をもたらすものである。労働の独占組織と経営企業の独占はともに一方では大衆から吸収して共有することになる利潤を極大化するために一緒になって行動して相互に相手を強めあおうとするが、その一方ではこの得られた利潤の分割をめぐっては多くの持分をとろうと相互に取り合いをする。利潤の分割に関する取り合いの戦いである資本と労働の争いは、一体のものである資本と労働の両当事者にとってよりも、大衆に大きな損失を与える。利潤の分割のために戦争している独占的に組織された経営企業と、労働組織の一体となった生産者仲間同志の戦いの本質は、搾り取られる大衆である消費者に戦いをしかけているであり、労働の独占組織と経営企業の独占の争いに目を奪われることはみせかけの表面的な戦いに目を奪われていることになる。(★オークショット、六〇頁。から六一頁。)

自由主義と労働組合

歴史的にみると、自由主義は当初は長い間労働組合に反対の態度をとってきたが、二十世紀の初めに反対の態度を完全に変化させ、ある意図と、目的に関係する暴力や、強制や、さらには脅迫でさえも合法化するような法律を労働組合に適用することを認めた。普通のことを免除することはどのような意味を持っていたかは分析する必要がある。今後自由経済に復帰することを希望するならば、その際に当たって注意すべき問題のうち最も重要な問題は、「いかにして労働組合の力を、事実上かつ法律上、適当な範囲内に限定することができるか」ということである。(★ハイエク、一五九頁。)

オークショットも同様の見解である。労働の独占体は実際は独占的な結社であるから自発的結社の権利を否定しているのであるが、自発的結社が合法的に権利を行使しているようにみえるので、労働組合の活動がいかに言語同断なものであろうとも、労働組合の権利の行使は法律上免責されているので、大衆の支持も受ける。(★オークショット、六〇頁。)もしその免責がなければ大衆の支持は受けられないであろう。

この大衆のなかでも知識人の左翼性についてはリプセットも指摘する。知識人の左翼性をかなりよく指摘する事実は、一般的にいって知識人のグループのうちの社会党の党員と、相当程度左翼的な進歩主義者が共産党の組織と戦うための組織を指導していたという事実である。民主党の支持及び左翼的な政治的支持であるという点では芸術関係者も関わっている。報道関係者と、雇用されている創造的芸術家は、進歩主義的でかつ政治的には左翼的傾向がある。例えば、俳優の組合は強力な共産党派であるし、ラジオ脚本家の組合も共産党の支配下にある。また映画産業で働いている者から民主党は財政的援助を強力に受けている。アメリカにおいては共産党の主要な資金源はハリウッドであったことは、隠しようのない事実なのである。(★リプセット、二六六頁。)これは日本についてもほぼ同様ではなかろうか。

どんな国も自由であることと、安定的な福祉社会を実現することとのトレード・オフの可能性の知識に関してはわれわれはほとんど知識を持っていない。(★アーモンド他、五八六頁。)日本の高等学校教職員組合の幹部は、県ごとに日本社会党系と共産党系というようにはっきりと色分けされている。また新聞の報道関係の記者の労働組合についても同様である。日本放送協会にも二つの労働組合があり、ほぼ左翼的であり、そのドンと言われている上田哲氏は国会議員としてさらにその上に君臨することになったのは、日本放送協会が国会との法的な、政治的なつながりをもっていることから容易に想像がつく。

日本の場合には産業別の組合ではなくて、企業毎の組合であるという点において特色がある。しかし左翼的傾向が変化してきていることは日本においても同様である。特に日本においては冷戦の終了後においてその傾向は著しいものとなっている。日本教職員組合が自由民主党と歴史的な和解を行ったと新聞が大々的に報道した。そのほかにも労働組合の支援を頼りにしてきた日本社会党と、大企業の支援を頼りにしてきた自由民主党が連立を組むという事件も起こった。今後は自由主義者が労働組合の幹部になってもおかしくはない状態になってきた。消費者から市民の時代となってきた。市民は消費者であるばかりではなくて、生産者でもあり、商店で買物をする交換の主体でもある。そのようなすべての人を対象にするという意味で生活者という言葉を中心にネットワークを作るようになり、そのような政党が日本において結成される可能性がある。改革を旗印とした新進党との三極を目指して組織化がなされている。

第六節 マキャベリーにおける個人の自由と、運命 マキャベリーにおける国家の自由と国家の運命

陰謀や、謀叛や、中傷や、告発や、復讐や、欺瞞や、恨みや、軽蔑や、約束の反古や、敵の計略や、堕落や、嫉妬やらの政治のマイナス面についても、抜擢や、治安や、運命や、政治的徳や、優れた法律制度や、指揮や、思慮や、歴史や、民衆や、権威や、要塞や、賞罰や、名誉や、金や、報酬や、時宜をえる方法や、自由と専制や、同盟や、畏怖や、慎重さや、誓約や、武勇やらの政治のプラス面についてとともに考察したマキャベリーは、自由についてどのように考えていたのであろうか。自由はマキャベリーにとっては、独裁や、専制に対する概念であった。

第七節 現代法哲学における自由と平等

現代の法哲学の中では自由と平等との関係はどのようにとらえられているのだろうか。「現実の世界ではすべての人が平等な条件で人生をスタートするわけではない。ある者は家族の財産が非常に多かったり、学校教育や、実際の教育で非常に有利にスタートする。他の者は人種的に蔑視されているので、不利になるという具合である。」とドゥウォーキンはその著『原理の問題』においてのべている。

「自由の第三番目の問題点は、自由と資源との関係である。ある目的を達成することができるためには、ましてやある行動を行うためには、行動の構成要素をもっていることが必要であり、根本的には場所あるいは、時には資金も必要である。」

第八節 商業の選択の自由と、行政の行方

私経済の自由を保証するための公共の行政

第九節 宗教的自由と、政治的自由、経済的自由

「個人の道徳的資質は、倫理上の原理とか宗教思想などとなんら関係のあるものではなくて、そうした方向づけに対しては本質上むしろネガティブなもの、すなわち、旧来の伝統から離脱させる能力、したがって何よりも自由主義的な「啓蒙思想」こそが、そうしたビジネスライクな生活態度にとって適合的な基礎となる、と人々は考えるかもしれない。実際今日では一般にまったくそのとおりなので、生活態度は通常宗教上の出発点をもっていないばかりでなく、両者の間に関係のある場合でも、少なくともドイツでは、それはネガティブなものであるのがつねだ。現在では、通常「資本主義精神」に充たされた人々は、教会に反対ではなくても、無関心な態度をとっている。」(*ウェーバー、七九頁。)

「まことにおかしいのは、ブレンターノが−−−a.a.O.,S.139−−−中世ではvocationはberufとは翻訳されず、またそうした天職概念も一般に知られていなかったと考え、その理由として、当時は自由民のみがberuf 「職業」をもちえたのに、自由民が−−−市民的職業の中には−−−まったく存在しなかったからだとしていることだ。中世商工業の社会的編成は、古代とは異なって、すべて自由労働を基礎とし、とりわけ商人はほとんどまったく自由民だったのだから、私にはこの主張は何のことかまるで理解できない。」(*ウェーバー、一〇八−一〇九頁。)

第 四 章 政 治 と は 何 か

第1章 文明と政治

文明論の授業においては文明の変化のうち特に冷戦後の文明変化について授業があった後で、「文明は冷戦終了後の今後どのように変化をしていくのであろうか。」という設問が大学や、大学院で出題されたとする。東西の両陣営の冷戦が終了した今この設問が政治人や、政治学研究の学生や政治学大学院生やらに政治学の課題としてあるいは試験問題として提出された場合には文明のうち政治に限った部分についての課題や設問であろうと早合点して設問を再度読んでみるだろうが、政治文明ではなく、ただ、文明という設問なのであるから政治文明に限ってはいない設問である。だから政治学と関係がないと思われるかもしれない。しかしこの設問は政治学にとって必要な設問になってきて無駄な設問ではないようになってきている。そのような時代の変化が激しい時代にわれわれは住んでいる。文明の変化についての研究は、政治の変化についての研究に先立って研究し、政治の変化の研究の前に研究される必要があるかもしれない。政治学に文明論を応用が出来るような時代になってきた。これは政治文明論という学際的な分野が発生しつつあるように思われる。従ってこの設問は政治学の設問としては文明のうち政治に関する部分について今現在変化しているのは何か、そしてどのように変化しているのかという設問になるほうが妥当であると思われる、つまり文明の大きな変化がこの時代の政治に大きな変化を与えているのである。そうすると文明の変化については述べなくてよいことになるが、そうではなくて文明の変化と、政治の変化の相互作用について述べなくてはならない場合には、文明の変化についても述べなくてはならないことになる。そのどちらが先かは卵が先か、にわとりが先かというはなしになる可能性がある。そうではない場合には文明の変化についても述べなくてはならないことになり、つまり、文明の変化と、政治・政治学の変化の関係について述べよという設問になり冷戦後の政治学においては最初に問う必要があるような時代になったものと思って解答した方が正解ということになると思われる。このように今後の政治はどのようになるのかの質問に答えるためには文明の変化に注意を向けなくてはならない。

東西の冷戦の終了後の世界の文明は大きく変化しているように思われる。その理由は世界の政治の歴史的な変化が人類の文明に大きな影響を与えると考えられるからである、逆に文明の大きな変化の方が歴史的な世界の政治の変化をもたらしているといえるのであると考える意見があろう。冷戦の集結という大激変を経験した世界の文明においてはその後の現在の大激変の政治状況においてこのような文明の変化と政治の変化の関係に関する設問の答えから政治と政治学の原理的な変化を説明する必要があるような時代が訪れたように思われる。政治学は政治を取り扱うのであるが、政治は文明の一部でありその主要な部分を構成しているからであり、文明と政治は相互関係を有しているといえるからである。

政治、文明、文化は日本の代表的な国語辞典である「岩波書店」の広辞苑によれば、次のような意味であると解説されている。

★【政治】

[ 書経畢命]

1 )まつりごと。

2 )(politics; government)人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。主として国家の統治作用を指すが、それ以外の社会集団および集団間にもこの概念は適用できる。

★また、【文明】とは次のような意味である。

1 )文教が進んで人知の明らかなこと。「―の世」

2 )(civilization)都市化。

(イ)生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権尊重と機会均等などの原則が認められている社会、すなわち近代社会の状態。□蒙昧・野蛮。

(ロ)宗教・道徳・学芸などの精神的所産としての狭義の文化に対し、人間の技術的・物質的所産。

★【文化】とは次のような意味である。

1 )文徳で民を教化すること。

2 )世の中が開けて生活が便利になること。文明開化。

3 )(culture )人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、文明と区別する。★以上のように日本では使われている言葉を使って論ずるのであるが、それによって政治文明、政治文化というものを解明していくことになる。この本では文明は、多くの異なった個別的な文化を含む全体的な概念であると定義する。個別的な文化が他の文化との接触によって、普遍的な要素を形成していくことがありうる。それは文化の相互理解によるであろうし、その過程は様々に分析できるので、学問の対象となりうるであろう。従ってある程度普遍的な要素を形成していった世界的・国家的な規模の文化の集合を指してある文明と呼ぶこととする。そのような異なった文明の集合が地球上の人類全体の文明であり、そのような文明全体が良いものになっていくこと、それはアリストテレスにおけるように政治的な徳を備えていくことというアリストテレス政治学の目的とよく似たようなことが大切である。文化は物質的なものも、精神的なものも含むものである。ある意味では文明は「人間が動物から区別されるべき道具・記号の全体」で、個別的な家庭的、社会的、地域的、国家的、歴史的な個別性を有するのがそれぞれの文化である。しかしその機能については全体として有機的に社会を形成しているものである。文化は社会そのものを指しているのであるともいえる。重層的に家庭の文化から、友人の文化、職場の文化、社会の文化へと重なり合っているものであると考えられる。そのような文化の集合全体をさすものが文明とする。

第一次世界大戦後の歴史のなかで最も政治的に人類にショックを与えた政治的事件、我々が政治的に解明すべき事実がある。それは、民族の抹殺というものを目的としたという事実は民族という概念や、その他の社会の文明の概念を反省させた。ユダヤ人の虐殺をナチスドイツが行ったという政治的な厳然たる事実がある。法学的な厳然たる事実としてはそのために法が用いられたという事実がある。この事実は政治学が解釈を行うべきである。しかし学問の分野としては法学の分野でもあった。政治哲学の分野であるが、また原理の問題でしかありえないが、政治人類学や、政治文化論の領域に属する可能性を秘めている事実である。しかし政治学の分野だけではなく、文明そのものに影響を与えたという意味ではもっと広い視野から見た文明論や、文化論の解明すべき事実でもある。このような野蛮で、破壊的な事実をどのように解釈し、説明するのかが現在の政治学および文明論・文化論にとって最も大きな課題であろう。その事件は反ユダヤ主義に基づいていたが、反ユダヤ主義の政治的な解釈が現代の政治学が解釈すべき事実の出発点となるものである。人類がそのような大量虐殺を政治的になしうるとはどのようなことを意味するのかを政治学は説明できなくてはならないと考えられる。この事件の正しい解釈による人類に共通する問題の解決は日本の第2次世界大戦の前史及び戦時下における朝鮮人の差別事件の問題や、ソ連におけるスターリンによる粛清事件の問題の正しい解釈による事件の解決にも資するものと考えられる。解釈には様々な方法がある。この本ではヒットラーの人格という側面から見てみることにする。

行政的には官僚がその実行に関与したという事実をともなっている。この事実への反省が行政学上で科学的に反省が行われるであろうが、それだけでは十分ではない。行政はその先兵になっただけだという表現がありうる。政治が行政に命令したのであるから、政治学において政治そのものの反省が必要である。行政とパーソナリティという側面からおよび政治とパーナリティーの側面からみてみることにする。

権力分立により選挙で行政官を選ぼうというようにも解釈できるアメリカの行政学上の方法によりこのような事件の再発は予防できるであろうか。行政学も十分に反省しなければならないが、それだけでは十分ではなく、選挙は政治も、行政も共に動かすものであり、選挙の背景となるものが、政治と行政に影響を及ぼすとするならば、その選挙の背景となる政治文明を考察する必要がある。それはまた、立法の問題でもあった。立法を通じてこの事件は行われたからである。立法、司法、行政のすべてとトータルな政治すべてに関わった事件であった。

次に第二の重要な政治的事象、核兵器という事象の解釈が必要である。核兵器の使用が第二次世界大戦の末期の日本で起こった。これが戦争の終結に役に立ったのか、日本の平和に役に立ったのか日米で議論は分かれている。現代の政治学が第一次世界大戦後に次に大きなショックを受けた事件は、この原爆の使用である。核兵器による大量虐殺が実際に日本の広島と長崎において行われたという事実である。実際の原爆の投下はユダヤ人の大虐殺に勝るとも劣らないくらいに大きなショックを人類・人類の文明及び政治と政治学に与えた。この事件は、核兵器の完成及びその破壊力の莫大さを人類に教えたのであった。これにたいしては政治のあり方そのものに大きな影響を与えた。戦争の放棄という理想的な日本国憲法が日本において成立したという事実がまたこれに勝るとも劣らないくらいに重要な政治的な事件であった。この日本国憲法はその制定の経緯が占領下における「アメリカからの自由の強制」を含んでいたのではないか、あるいは、その制定過程において占領軍による「自由の強制」のための検閲などを含んでいたのではないか、それは専制主義や、独占にとっては自由主義に反対する勢力に対する「干渉」がその過程であったのではなかったのかという制定過程に関する疑問が提出されている。自衛隊にたいして違憲訴訟が行われ、違憲判決が下級裁判所においてだされたのも政治に大きな影響を与えた。

核兵器は世界の政治の文化・政治の文明に大きな影響を与えた。核兵器の莫大な破壊力にくらべれば、日本の第二次世界大戦までのゼロ戦による特攻隊のような勇気はもう必要でなくなってしまったように思われるので、現代ではすでに勇敢なことは政治的なパワーではなくなったようにみえる。例えば冷戦後のアメリカの大統領選において共和党のコリン・パウェル氏がその高い知能指数で強さを抽象的に記号化し表現できたといわれているが、それとは正反対に、第二次世界大戦で負傷した共和党の大統領候補に決まったドール氏の動かない右手が今や強さを表現するものではなくなったのである。逆に良心的兵役忌避を行った経験がある民主党の大統領候補のビル・クリントンが政治的な強さを持っているという記号性を表す時代になったのである。このことは戦争の兵器としての核兵器とまたその核兵器を制御する戦争の道具としてのコンピューターの大きな力が必要になったという人類の政治文明の記号性を表明しているのかもしれない。

第三の検討すべき政治的事象はテレビの登場と、双方向的なメディアの登場である。テレビの登場を重視したマクルーハンの理論はその双方向性に注目すべきである。同時性のある情報の重要性は双方向的に利用できるという機能性に注目すべきである。もしテレビの重要性が映像にあるのならば、映画の時代にも大きな文明の変化が起こったはずである。しかしそれは起こらなかった。テレビは家庭の中にはいったことが重要ではなく、そこに双方向性があったことに文化、文明的に重要な要素を含んでいたのである。双方向性は政治的なもので、社会契約を本物にする可能性がある。社会が各人との契約によってなりたつのを助ける可能性があるのであると考える。

このような政治的事象を根本から問いなおすためには文明の進歩論と、発達心理学は役に立つものと考えられる。個人に関する発達心理学と、社会全体の文明論における発達論はどのような点で関係を持ちうるのであろうか。個人の発達と、文明の発達の類似性を発見できるとすれば、文明は個人のなかに吸収されていることによってのみ文明になりうるという事実からそれは両方の発展につながるのである。個人のなかに体現された文明こそ生きた文明である。それはすべての個人に吸収されねばならない。文明は量の問題ではなく、質の問題である。個人にとっても吸収されるべき知識は量ではなくて、質であるべきである。個人も、社会も発達すれば文明がよいものになるという意味での良質の文明をつくることが必要であり、双方向性のある文化の下ではそれが出来るかもしれない。良質の文明とはこれまでギリシャで「徳」といわれてきたものと近い内容のものとなるかもしれない。文明は質的にとらえるべきである。共産主義も国家主義も消えてしまったという「歴史の終わり」の後に来る文明を研究するものになりうるかもしれない。その時にはギリシャ時代の徳に人類が戻りうるのかもしれない。軍隊は政治学において研究されるべきであるが、それは破壊性をなくすためである。

文明の変化を研究するためには文化人類学の成果や、発達心理学の成果を取り入れることは有効な手段である。そのように他の科学による成果を導入することで政治文化や、政治文明の発達という概念にも応用することが出来るようになるであろう。生物としての個体の進歩・発達についても、文明の進歩・発達についても、第一に生物的な進歩と、第二に有機体と類似の構造をもった社会のシステムとしての各人の役割などの機能のからみあった機能的なシステムの進歩と、第三に環境的・文化的・歴史的進歩とに分類されるであろうし、それは政治文化の進歩・発達の分類についても同様である。政治的な人間としての人間をとらえる場合の政治的分野に限った政治的人間の政治的な進歩、政治的人間の集まった集団の政治システムの進歩、一般的な文明のうち政治的事象に限った政治的な文明の進歩が政治学においてもおこっているのではないかと考えられるのである。これらの進歩はすべて一体のものであるという考え方をとる必要が叫ばれている。地球という環境のなかでこれらはすべて有機的に関連し、安定性を保っているという考え方である。人体と同様に呼吸器系と、排出系と、消化系と、心臓系とかというようにそれぞれが有機的に関連して一体として文明を、よい文明を形成しているのであり、よい文明を形成しようとしているのが人類の文明であるという考え方である。市場の生きた市場メカニズムもそのような全体の文明の一部として正当に評価されるべきときが来たといいうるのである。

政治意識の重層的構造

政治意識の基本構造として、私は重層的に重なり合うように積み重ねられる構造を、全体社会との関連性においてとらえる方法を提起したい。それは環境を、家庭の環境、親子の環境、友人との環境、社会との環境、世界全体との環境というものをとらえ、それらはすべて独立したものではなくて、重なり合っているものであるととらえるものである。

これに対してまず環境でもっとも大切なものは、稀少性の大小である。この稀少性は経済ということもできる。しかし、大金持ちの人であっても、いつも取られるのではないかとフォビアに陥っているひともいる。ハウス大佐というウイルソンの側近であった人間は六男であったそうであるが、金持ちであったけれどもフォビアが強かった。これは家庭の面からの分析であるが、子供の数の多い家庭ばかりであれば、その社会は人口が急増していることになる。私はこれからは人口が経済の成長率と同じくらいしか成長していかないような環境における人類の文明の進歩を想定し、これが二一世紀の文明の行方であるという主張について考えてみようと思う。これまでの二十世紀の文明を批判して「戦争と、革命の世紀であった」という懺悔はただしいであろうか。革命と戦争を分析して「二十世紀はマスコミが、集団主義を鼓吹し、多くの大虐殺が集団主義者によって行われた時代だった」その時代は葬り去られるべきであるという説をここに提出したい。二度の世界大戦と、世界の経済大恐慌、革命は人類に多くの災厄をもたらした。それらは革命と、一党独裁という形で行われた。それを集団主義と名付ければその本質は何かを見極めその本質から根本的にその傾向を葬り去る必要があるであろう。そうするべきであるという意見をもっている。国家的な側面では集団主義であるが、家庭の側面では子供の数が多く人口が急激に増大する時代にする圧力を家庭が持っていたので、そこから社会に対して集団主義が発信されたのではなかろうか。家庭において集団主義は醸成された。ニクソンも、ケネディも共に九人兄弟の集団主義者にすぎなかったのかもしれない。大企業に押されたニクソンも、社会主義・共産主義におされたケネディも共に集団主義者であったのではなかろうか。ニクソンの精神分析の本を読めば、その共和党も、対する民主党も闘争の時代であったことが理解できる。共産主義者の闘争心は、一党独裁と、暴力革命の理論に集約されるが、その他の集団主義の理論はイデオロギーに対する固執と、共有に対する執着・そして所有に対する執着とに集約される。それはチャップリンの演劇において表現したものについても同じであった。チャップリンは二十世紀の政治文明・政治文化の形成に利用されたのであり、利用したのはマスコミであった。政治家も、文化の面でのチャップリンも政治的には同じ政治的な存在であったのである。日本の田中角栄にしても、大平正芳にしてもそれは集団主義をマスコミによって鼓舞するために同じ立場に立たされていた。

先進諸国において出産率が下がっていることが生物学的にも、政治システム的にも、文化的にも人類の文化が変容していることの主原因であると仮定したい。しかしこれに反して後進国においては人口の急増している地域がある。このことが文明にどのように影響を与えているのであろうか。人口急増地区においては競争が激しい。と、人口漸増地域ではあまり競争は激しくない。それは文化の違いを発生している。その両者の軋轢をもたらしている。これも文明の変化をもたらしており、現在の社会、世界の動きの中心的な動向である。日本においてはバブルの崩壊後の経済不況の社会経済状況もその大きなうねりにまきこまれているものと考えられる。アジアの人口急増地区の急追を受けているのであり、日本の文化が他の文化よりも優秀であるという考えは植民地時代の名残りだったのかもしれない。その後発生した政治の大混乱はこの文明の、政治文化の変化と大きく関連を有していると考えられる。

例えば文化人類学において後進的と考えられていたアボリジニの先住民族も時代が来れば自由で、平等な政治的権利を主張することとなり、政治の舞台に登場することとなるであろう。先進諸国とかってに考えている国の人々とかれらも平等な様々な権利を持つ人間であり、そのような後進的な人達も劣った人間、民族ではないのであろう。しかし少数民族は人口が減少していて、保護政策が必要である。逆に人口が爆発しているアジアの地域もあり、様々な地域が一体となって世界を形成しており、地域によって文明・文化は相違するが、その根底には家庭があるということの認識こそが、世界の文明と、世界の政治経済の変化の出発点となっているのである。これはユダヤ人への差別をなくしていくことについても、その家庭という側面を研究することにより文化・文明の違いを明らかにしていくという方法をとりいれいたずらにステレオタイプの認識からユダヤ人を抹殺しようというようなことを考えないようにさせようというねらいをもっている。しかし家庭を分類し、タイプに分けることによってまた区別が、差別につながらないように、機能的にシステム的に区別を行い、根底に人間の自由と、平等性を確保することができる余地を残しておく必要があるであろう。これが家庭から政治学を出発させる出発点であり、それはこれまでの政治学が人類を自由で、平等なものとして扱い、人民の、人民のための、人民による政治を取り扱おうとしたのと全く同質の政治学となり、民主主義から出発するのと同じ出発点である。

ここで参考となるのは人口急増中の文化の特質として他人指向性、人口減少中の文化の特質として内部指向性を指摘した仮説は本当に正しいものであろうかということを検討する作業である。これまでの文明論はすべてこのように文明全体の観点から再構成、再検討をしてみる必要がある、そのようなことが必要になったのは二つが対立していた時代には考えられなかったような要請であったのかもしれない。なぜならすべてのものが0か1に分割されて表示されているコンピューターの言語と同じように、文化は二元論的に捉えられるから文化が成立しているのに、世界を一つとしてとらえるということは人類の文明にとっては全くはじめてのことであったからである。このことは画期的なことであり、そのような時代の要請が冷戦の終了後に学問、特に政治と文明に対してなされるようになったのである。これは時代の要請であり、次の時代の出発点となるべき哲学的思考となるべきでものであるといえるのである。

ここで大切な視点は人口急増中の社会を研究するという場合その社会を分析するのにどのような方法を用いるのがよいであろうか。ある社会の文明の分析をするのに個人の属する社会として家族を分析するのか、個人の属する学校を分析するのか、個人の属する社会全体を分析するのか、などなどという事である。あるいは社会よりも個人のほうが重要であるのだから個人そのものを分析するのかという事である。文明の解釈というのはどのようなことであろうか。その目的、対象、手段によって文明のとらえ方は大きく異なってくるであろう。個人の幸福をもって学問の目的とすればこの分析は個人に近いところから、個人から遠いところへと向かっていくべきであろう。集団全体のためにのみ文明があるのであるとすれば、集団全体である国家のみの

第五章 政治とは何か

第一節 政治の定義

政治とは何か。この質問には定義をもって答えなくてはならないが、あまりに多くの答えが存在するので、功利主義の定義によるのではないが、現実の描写として、人間の利害関係によって定義しようと思う。

政治が存在する理由は人間に利害の認識があるからで ある。利害には欲望や、効用や、生命に対する生存の欲求やらほとんどすべてのものが含まれる。そこに価値としての名誉欲が含まれるか、それが価値であれば含まれることになる。

政治を利害関係という側面からみれば、次のような定義となる。この定義は功利主義的な政治の定義ではない。この定義は規範と、行動と、人間のすべてをトータルにみてみようという定義であり、これらは家庭においても、社会においてもそのすべての場面においてルールや規範の形成過程についてのべているものである。従って共同社会についても、利益社会についてもあてはまるものであり、純粋に政治的な側面を抽出したものである。

政治とは「人間が人間に利害関係のあるあらゆる制度と、人間との間に利害があるときに」「人間が」「利害関係を調整するために」「様々な政治的過程を通じて」「国家や、家庭や、職場や、組合や、政党や、様々な地域やらに様々な場所において」「人間に利害関係のあるあらゆる制度を維持したり、変化させたり、新たな制度等として作り上げようとする現象」である。以上の定義に含まれる様々な政治的現象を研究するのが政治学であり、そのような政治性を有する人間を政治的人間という。すべての人間は政治的人間である。それは人間は制度等の政治的環境のなかで生活しているからである。「人間に利害関係のあるあらゆる制度」を政治的環境とよぶ。

政治学 political science 英語 、politische Wissensch aft[ト゛イツ語」]science politique[フランス語 ] とはどのような学問であろうか。それは政治に関する学問であるから政治を総合的に考えることによって政治の定義を行うことが第一の出発点であるということになる。

政治とは1「人間が政治的環境(権力構造や、軍隊機構、立法・司法・行政機構等の制度、実定法と自然法の体系を含む幅広い概念であり、政治という概念を使わずに今後説明することになる重要な概念)と、人間との間に利害があるときに」(一、when=政治の歴史、政治の将来論、現在政治論、現在の政治的状況の時間的な議論等),「人間が」(二、who=政治的人間論、政治権力と性格論、すべての人は政治的であるかどうかという議論、民主的性格はどのようなものなのかという議論、戦争などの人間の本質にせまり破壊性はなくせるのかの議論等など)3「利害関係を調整するために」(三、why=事件の法的解決目的や、紛争の調停目的や、利害調整の目的、その他の理由・目的など)4「様々な政治的過程を通じて」(四、how=政治過程論や、政治技術などの過程論や、方法論、立法の過程や、立法の方法、司法の過程や、行政の過程・行政の活動・過程等これまで現代の政治学が伝統的な政治学と区別される徴候であるとされてきた過程の議論)5「国家や、家庭や、職場や、組合や、政党や、様々な地域やらに様々な場所において」(五、where=様々な地域が比較される比較政治論、政治地理学、各国政治論、各種政治論、各種政治文化論、国際政治学、家庭や、小さな集団などの様々な場所においての意見の集約についての研究、それらの結果が国家によってまとめられるものであるとすれば、国家と同様に様々な集団も国家と同じくらいに大切な政治学上の課題でありそのような様々な場所等)6「政治的環境を維持したり、変化させたり、新たな制度等として作り上げようとする現象」(六、what=政治的にどのような行動をおこなうのか、政治的環境と政治的行動の関係論、政治的状況と政治的行動の関係論、政治制度と政治行動の関係論、政治制度等の変動論、政治制度変動論、政治的組織の形成の理論、実定法と自然法の相互関係論、行政の制度と政治の関係、政治行動論、政治行動における政治心理学、政治の投票行動論、政治思想の発生の理論、政治イデオロギー論等)が複合的に一体となった総体である。この六つの要因が総合的に合体されたものが政治の現象であり、政治はすべてそのなかには含まれているのであると思われるのでこれは包括的な定義であるといえる。政治とは紛争のみをあつかうものではない。紛争に関係のない制度も取り扱う。

従ってどのような政治現象もほとんどこの五W一Hの組み合わせとして表現することが出来る。但し、ほとんどといったのは、どれかが全く見えないような状態であることもありうるからである。だが、この五W一Hは新聞などの記事と同じようにすべての政治的なことがらはこの組み合わせによるのである。新聞の記事の場合と同じように特に政治の場合にはこれらが一体となってはじめて政治という全体像を把握することが出来る。「象は一部を触ってみても、全体は分からない」のと同じで一部のみをみていたのでは政治現象はとらえることが出来ないのである。政治現象における心理や、行動や、集団的活動、政治的事件等は政治現象であるがそれらを他の五W一Hと分けて研究することは全く意味をなさない。以上の定義に含まれる様々なものを研究するのが政治学であり、そのような政治性を有する人間を政治的人間というが、これら五W一Hは一体となっており、上記一から六までを分離することが不可能なくらい複雑にからまっており総合的に研究すべきであるが、複雑であるからといって総合的な研究を放棄することはまちがいである。例えば、政治心理は制度に関する議論を含む政治思想に成長しているかもしれず、制度をぬきにして政治心理のみを研究することは全く間違いである。つまり政治心理を心理のみを分離して研究することはまちがいである。さらにそれが政治的イデオロギーにまで発展しているとすれば、イデオロギーを政治心理と分離して研究するのも間違いである。イデオロギーが極左、極右、依存的イデオロギー、独立的イデオロギーになったりする過程は、ただ、イデオロギーとして切り離して研究するのは間違いであり、だからさらに単にイデオロギーとして妄信するのも間違いであり、2の政治権力と人間の理論としても、6の政治イデオロギー論としても研究されていく必要がある。政治心理、政治権力、政治行動、政治活動、政治環境等も1から6までの総合として研究されるべきものである。したがって例えば具体的な事件としてはケネディーの暗殺についても1から6までの総合によって説明する必要があるということが出来る。

この定義によれば1〜6のように政治的環境(制度等)と政治的人間を中心にして政治がとらえられることになる。

さて政治を定義するのに「政治」的環境という言葉を使うことは同義反復になるので、政治的環境とは「人間に利害関係のあるあらゆる制度」と定義しなおすことができる。これによって政治という言葉は「政治」という言葉を使わずに定義されたことになる。したがって政治的制度には家や家族制度も含まれることになる。家の制度が家父長制度から個人の人権を強調する制度に変化したりすれば、それによって利益をこうむる人も、不利益をこうむる人もあるから家や家庭の制度も政治的な制度ということになる。性についても不平等な制度が生まれれば生まれるほど各人に利害関係が生ずるので生物学的性のほかに、政治的な性の制度があり、変化したりするし、新しい制度が家族内や、国家内において作られたりするので、性の政治的慣習・制度もありうることになる。この場合は制度というよりも慣習という言葉が多く使われているので、それらを含めて政治的環境ということになる。またある制度を変えたり、制度を作ったりすれば、人間に利害を及ぼすような制度は政治的制度である。従って政治的環境とは人間の社会的制度等のうちその制度等を作ったり、変更したり、維持したりすることが人間に利害を及ぼすような制度等である。今後はこの制度等全体を、制度とよぶことにする。なぜなら環境とよぶならば、政治的ではない環境と混同しやすく、一般的な言葉でこの政治的環境ともっとも近い意味の言葉は制度であるからである。したがってこの定義にいっている政治的環境とは、権力機構、権力制度、軍隊制度、国家制度、国家機構、政治的機構、政治的制度、法制度(実定法の体系及び自然法の体系、経済的制度、社会保障制度、経済的自由及び経済的規制の制度、家や家族の制度、会社や企業や組合の制度、集団や組合、政党の組織、法律や慣習、慣習法や不文法、文化、宗教が制度に変化した場合の制度、道徳が制度に変化した場合の現実的制度、文化人類学にいう文明やらを含む広い概念である。人間は様々な取決めをすることなしに生活をすることができないのである。そのような取決めは文明のような漠然としたものから、法律のような国家が定めた実定法のような文章化されたものまである。

したがって現在も、将来も、政治は歴史上において存在したのと同じような意味合いで存在し続けるであろう。憲法、刑法から、民法、行政法、経済法、労働法等の実定法のすべては制度のうちではもっとも政治に近いもの、国家に近いものであるといえる。

例えば歴史上の一例を挙げれば日本の明治時代の「国会開設の要求運動」は国会が政治的制度であるので政治であり、また、リンカーンの「人民の人民のための人民による政治制度を求めたりするような行動」は民主的制度作りが政治的環境作りであるので政治であるということになる。権力を誰が、何時、どのような方法で、何のために、何処で得るのかを研究することは政治的制度のうちの権力制度に対象を限定したものであるがそれには、五W一Hがはいっているが、しかし権力以外にも政治的環境は存在するから権力の研究は政治の研究の一部であるということができる。

かつてアリストテレスは,「人間はポリス(政治)的存在である」といった。アリストテレスがあらゆる人間はポリス的動物であるといったのではないが、ポリス的存在であるという指摘は現在のポリティカル・マンという言葉にも通ずる考えをいったものであると思われる。ポリスがギリシャ時代の政治的環境一般をさしていたと考えることができる。したがって、そのなかには権力の研究もあったし、法律の研究もあったし、世論の研究もあったのである。政治的環境にあらゆる人が利害関係を有するかどうかはその人の主観に係わってくるが、余程の大金持ちか、浮世を離れた出家僧やら人間が予想しうる政治的環境と利害関係のないという人を除いては、客観的に見ればすべての人が政治的であるといいうる。ここで政治的でないという人を予測してみよう。もしある人が政治的でないといえるとして、それを証明できるとするならばその人は政治的ではない人間といえるであろう。しかしもし政治的制度が全くかわってしまえば、その人も利害関係をこうむることが証明されるならば、その人も政治的人間であるといいうる。大金持ちであってももし政治的制度が変わって税金を多く取られたり、所有権や、人権を否定されたりしたら、大きな利害をこうむるであろう。そうとしたらやはりその人は政治的人間ということになる。すべての人が政治的ではあっても政治に参加しているとは限らないし、政治的に利害関係があるのに、忙しくてとかの理由によって政治との利害関係に気付かない人がいるかもしれない。その人は政治的人間ではないのであろうか。これまでの人間の歴史のなかではすべての人が政治的であったはずであるのに、政治家として、政治的人間として政治史の中に現れてきた人は少ない。例えばある黒人の奴隷の人が政治的に奴隷制度との利害関係があったにもかかわらず、奴隷制度廃止の運動にかかわらなかったからといって政治的人間ではなかったといえるであろうか。かっては政治に参加することができなかったのであろうという推測もできるが、それは本質的にその黒人の奴隷が政治的でなかったということにはならない。彼も政治的人間であったのである。歴史は少数の者が政治に参加していた時代から、多くの者が政治に参加するようになってきたといえるし、参加ができるような制度もつくられてきたといえるであろう。デモクラシーや、オリガーキーの理論はこのような理論であったのかもしれない。ところがポスト冷戦の現在は政治学はすべての人が政治的であることを認めるべきであるという要請にかかわっているのであると思われる。これがポスト冷戦の現在の政治と、現在の政治学の特徴である。そのような政治と、政治的人間を研究する学問が、政治学である。一般に政治と、政治的人間の利害を政治的利害と呼ぶ。政治学は,狭い意味では,国家的政治及び国際間の政治一般に関する学問である。

さて経済学における経済的人間の定義は経済学を発展させる原動力となったものである。政治と政治以外との区別が出来なかったら政治学はその対象を確定できないばかりか、学問としての独立は不可能になるかもしれないからである。「経済的合理的選択をする人間が経済的人間homo‐economicusである」という経済学と同じような方法で政治学においては政治や、政治的人間homo ‐politicus や、政治的制度を定義できないであろうか。他の学問をひきあいにだして政治と政治以外とを定義しなおそうとするのは政治の科学化がこれまで遅れていたからである。しかし定義をする努力はしてみる価値はある。最初に人間の持つ制度の分類を行いそのうちで政治的制度と、非政治的制度との区別が出来るかを概念化してみよう。政治的な利害関係の判断を合理的にできる人間が政治的な人間である。したがって、制度をすべてこわしてしまうような理論は政治的な理論ではなく、破壊主義の、共産主義的な理論であるという定義だけでそれはたりるのであろうか。無政府主義がでてくるまではそのような合理性のみの理論ですべてが解決されたが、現在はそのような理論のみではすべてが解決されたとはいえないのでそれを考察することになる。経済学においては空気はそれが人間に稀少であると考えられないうちは経済的ではないが、洗浄された空気のように稀少的なものになれば経済的なものになる。このような経済的であるか、経済的ではないかを分別できる人間が経済的人間である。政治においてもすべての人が政治的人間であるのであるといえるのであるという結論はすべての人が制度に対して利害を認識しているかどうかにかかっているといえる。これも制度に関する合理的な判断であるといえる。もし、制度に関する合理的な判断が出来ないとするならば、その人は政治的な人間ではないということになる。しかし、政治的であるということを認識していない人で実際の政治の場に登場しない人もいて、実際に政治の場に登場しないために投票しないで選挙の結果は全政治的人間が政治に関与した場合とは結果が異なるということになって実際の政治の現場では政治的人間であることが現象として現れてこないのである。そのような理由ですべての人が政治的であるのではない、すべての人が政治的人間であるのではないという印象を一般の人が受ける可能性はあるが、政治学の原理的な方法で政治を定義すればすべての人が政治的であるということになる。この理由は主に本人は政治的ではないといっているが、ある人と、制度との関係をそとからみれば、その人は政治的であるということになるのである。ある人をみる場合にその人の目でみれば、憎いものは対象としてちゃんとみえないようなものである。政治学において科学的に政治的人間を定義してみよう。経済学においては稀少性という概念による論理で経済的人間というものが仮定されて経済学が成立している。政治学においても、同じようにして政治的人間というものを仮定しようという試みがなされようとしてきたが、これまでは失敗に終わっている。そこで空気の例と同じように制度を分類して政治的な制度と、政治的な制度とを分ける基準を、政治的人間と非政治的人間とを分ける基準を経済学における稀少性と同じような概念によって、概念化する必要があるであろう。例えば制度というもののうちで昔から法学原理で規範の分類において例としてひきあいにだされる例からまず分析しよう。制度のうちで「人は右、車は左」という規則は政治的な制度であろうか。その制度も、日本にいるだけではほとんど政治的な制度ではないと一般には感じられる。ところが、アメリカやら外国のうちで「人は左、車は右」という交通制度の国との間で貿易をするとなると、相手国の自動車会社はそのような空気のような制度によっても利害があり、日本に輸出するためには自国の車のハンドルを右ハンドルに改善しなおしてから輸出したほうが日本で輸出しやすいと考えて、費用をかけて右ハンドルにしようとおもうであろう。もっとすすんで車は左の規則を変えれば利益をこうむると極端な場合主張する企業が出てきたりした場合、その制度を変えようとしたりした企業にとって政治的な制度とこの制度が認識される場合が出てくる。そのようになった制度は政治的制度であり、制度は政治的なその程度を場合場合で変化させ、優先順位のようなものをかえられているということになる。現在のアメリカとの間の日米構造協議で日本の通商制度や、土地の価格制度についてアメリカが変化を要求しているような制度は明らかに政治的制度とみなされている。しかし政治的制度の重要性の優先順位とは関係なく、政治的制度の重要性というものもある。それは今は多くの人が満足していてその制度を変えようとか、維持しようとか、作りなおそうとか考えていなくても、もしその制度がこわされでもしたら一大事になるような制度がある。例えば民主主義の制度が壊されて、専制政治や、独裁政治になったりした場合にはじめて民主主義の政治が重要なものであったとわかる場合の常日頃から守っていかなければならないような制度も存在する。自然法という概念は時々刻々と変わらない人間に常に利害関係を持つ普遍的な法という意味では、重要な制度であるといえる。政治学はこのような制度と、政治的行動等を研究したり、その相互関係を研究する学問であり、制度論の研究から行動の研究へとその関心は変化し、さらに現在ではその相互関係や、その相互関係にいたる政治的過程やらの研究、制度と政策の研究、政治史と政治哲学の研究などなど幅広く研究が行われている。興味の関心は制度から、行動へ、行動から過程へ、過程から法則へ、法則から制度へと変転極まりないのが政治学であるが、それらはすべて甲乙の区別なく重要な研究である。官僚制や、国家論も必要であるし、行動論や政治心理、政治過程の研究も必要である。制度の研究なくしては政治的行動の研究も、政治過程の研究もありえず、またその逆についてもいえない。実定法の研究が制度の研究のみで終わり、三段論法の研究で終わるのとは違い、理論法学に似通って、政治学は規範の研究と、事実の研究と、さらに制度と行動と政治過程が複雑に交錯する事象を研究せねばならず、全体を見る眼が必要であるといえる。その意味では人文科学や、他の社会科学と複雑に関わり合っている学問であるといえる。政治学は哲学ともかかわっており、その重複する部分は政治哲学とよばれるものである。さらに政治を体系としてとらえれば、政治体系論が形成されてくるし、政治的制度のなかの人間の性格について行動科学的なアプローチもなされるようになる。

人間は地球の生物である。人間は地球上の生物である。ヒトという動物=ホモ・サピエンス(homo sapiens)の所属する地球の生物界では生態系がある。人間もその生態系のなかで生活しているのであるが、人間はそのような生態系を環境として認識することが出来る。そのような人間には様々な環境が存在する。文化人類学においては文化と、人類と、環境についての研究がなされている。人間の文化と、環境については社会学や、文化人類学の研究を参考とすることによって政治学の研究もおこなわれるべきである。環境には、自然的環境や、物質的環境以外に社会的環境が存在する。社会的環境は経済的環境や、政治的環境等が考えられる。つまり様々な社会的環境のなかにおいて経済的な領域と、政治的な領域とを分けるとすれば経済的環境とはちがう意味において政治的環境というものが存在する。例えば実定法が変われば、経済の競争や、経済的な結果も政治的に考えて全く相違するのである。経済的な制度として、例えば、共産主義的な制度と自由主義的な制度の違い、政治的な制度として民主的な政治制度と専制的な制度との相違を考えてみればそれは政治的な人間に大きな影響を与えることになることが分かる。それは制度の違いなのであってそれによって政治的なことが発生しているのであり、経済的な違い、つまりある人とある人の経済的な貧富の差ではない。それこそが制度が政治的な環境であるということの証明ということが出来る。経済的環境において経済的人間が想定されるのと同じように、政治的環境においては、政治的人間が経済的人間に対応して存在することになる。政治的領域において現われた「人間の本質」[ヒトという動物=ホモ・サピエンス( homo sapiens)の本質] が政治である。政治的な領域において政治的人間と、政治的環境との間に相互の関係が考えられ、それらは以上の通り利害関係を主な関係としている。人間は政治的制度としてかって陶片追放という制度をもったがそのようなことは政治文明というものにほかならない。陶片追放とともに、その後議院内閣制という政治制度をもったが、議院内閣制以上によいと人間が思う制度があるかもしれない。それが実現すれば人間の政治文明や、政治文化の「発達」であるといえる。人間の社会的環境のうちの政治的環境をよくしていこうという努力が政治の発達にほかならない。政治の発達現象とは社会的な制度を人間にもっとも適したものにしていくという現象であるということができる。

政治学は存在しうるのか。バーリンはこの問題に対して「政治理論はまだ存在するか」において論じている。バーリンの意見は後に参考にするとして、本質的な問題についてまず考察する。政治理論を歴史上最初にうちたてたのはマキャベリーである。その書は難解である。それまでもあった様々な政治的な諺をみてみると、科学的に説明されていなかった。しかし諺のなかには、政治的規則としてみることができるものが多少あった。マキャベリーは多数の政治的規則(因果関係)をつくり出し、そしてそれをローマ史や、フィレンチェにおける現実の政治の自らの経験によって証明しようとした。帰納法によってつくり出された規則もあったが、演繹的な方法による証明法もあった。しかし、それらが政治的制度、政治的行動、政治的人間等の現代政治にもあらわれてくる政治的概念の説明を含んだものであったことは確かである。

まず第一に政治学は政治(politics;Politik ;Politique )を対象とする学問である。政治に関係するあらゆることを科学的に研究する学問であり、政治を心理学的に研究するならば心理学との学際的な学問として政治心理学という学問になる。その他多くの学問との学際的な研究によっても政治はとらえられる面もあるような様々な側面をもった学問である。これを政治学の学際性という。しかし、政治というものの定義は誰に聞いても漠然としているが、政治は存在しないというものは存在しない。それは政治が毎日の新聞などのどこにでも存在していると考えられるものであるので、かえって「彼は政治家だ」という時の政治という概念によって指すものが政治であると思い込み、本当の政治とは何か。つまり、政治の定義が分からなくなっているのである。それゆえに政治があまりに漠然としているのでかえって大きくみえてしまって、日常にある普通の政治というものが見えなくなっているという面もある。本当の政治はそのようにある一人の人のみが大きなものであろうか。確かに政治は結果としてはユダヤ人の大虐殺というように大きな結果をもたらす場合がありうることは確かである。そのことはそれゆえに政治は大切であり、政治学はさらに大切に考えなおさなければならないものであるのであると認識されるべきものである。政治学は政治という現象を科学的に取り扱う学問である。定義を定めるというような言葉の深い意味は捨ててしまっていいというような学問ではない。一方政治の深い研究を行う政治哲学は哲学と、政治学の学際の学問として政治的現象を哲学的に取り扱う学問である。このように政治学は他の学問と一緒になって学際的にも研究されている学問でもある。政治を正確に定義しようとすれば、政治を部分部分に分けてみるのではなくて学際的な学問の成果をもとりいれて政治全体を見渡してその本質を見抜かなくてはならない。そうしないとベントリーの比喩ではないが、ベントリーの比喩と全く同じ意味を含有している比喩であるが「象をとらえるのに象の耳のみをとらえて象という」ような事態に陥りかねないのである。

盛んに試みられていたが,ベントリー(Authur F. Bentley,1870−1957)という政治学者は,そうした定義の試みを,子どもがはさみで色紙をあらっぽく切っている情景になぞらえ,概念規定によって認識の対象としての政治が切り刻まれ,台なしにされているのだと批判した。その批判はあたっている面もある。それはしかし政治の全体をとらえられるような政治の定義がなかったから、政治をとらえるのに疲れてしまったそのようにいってしまったのではなかろうか。そこで政治過程論の創始者であるベントリーでさえも政治とは何かを定義することを避けたのであるが,現実の政治は,政治学者の政治の定義がないからといっても、政治の動きはなくなってしまったり変化してしまうようなものではなく延々と続いてきているのである。そのことは人間が政治的人間であることをまさにしめしているのである。

政治の定義は非常に多数の方法で行われてきた。そのタイプについては多くの種類にわけられるのあるが、それらをここに一つにまとめてみると政治が定義が出来上がるというものではない。政治を定義するには政治の全体を本質的にとらえなくてはならないのである。そこで例えば「ケネディーを暗殺したことは政治的な事件であるのか」という問題を考えてみよう。その場合は政治以外の部分をイクォールの左辺に移して、政治を右辺に移してそれが等号で結ばれるかどうかを考察しなくてはならない。政治という言葉を政治以外の言葉によって定義すること、それも政治を本質的にとらえそれを政治以外の言葉によって、政治の本質をとらえることが出来るように表現することが政治の定義である。そこでは、政治の全体がとらえられていなくてはならない。そこで例にもどって分析するとすれば、ケネディー暗殺事件はどのような時に、どのような理由によって、どのような人間が、どのような過程を通じて、どのようなこととして、どのような方法で行ったのかを分析してそれが政治的なことであったのかどうかを分析してはじめて政治的事件であったのかどうかが決定されるであろう。それはあらゆる事件について同じような分析が必要である。ほとんどの政治的事件はこのような経過を経て研究されることになる。そのようなことを考えて政治の定義を行ってみようと思う。

しかし、政治とは何であろうか。これまでの古典を読んでみて政治の定義を研究してみるのは意味のあることであるが、正確な定義をみつけることは難しいので、そういわれて政治の定義をしてみようとすると,政治とは何であろうかとはたと困ってしまう。政治とは何かというときに日常の生活のなかでは全くその実感としてとらえることはできなくて、テレビ、ラジオが毎日取り上げる政治家しか頭に浮かばないひとが多いであろう。これは東西冷戦終了以前のこれまでの時代においては政治家の方をあまりに大きく新聞などが報道するので政治とは政治家のことであると考えていて、政治的制度等を中心においた本当の本質的な政治が考えられてこなかったからであると考えられる。政治とは何かという問いは政治の定義を総合的に包括的に行わないと解決しない難しい質問である。現代的に近代以降の政治理論によれば「政治は世論による政治であり、世論による政治は政党というものによる政党政治である」というであろう。しかしそれだけでは政治とは何かという問いは解決したことにはならない。全体的にそのような世論や、政党を包括的に含んだもっと深い定義が行われば解決しないような大きな問いである。政治のなかでは世論というものと、政党というものがもっとも大切であり、政党は政権へ向かってあらゆる努力を行うこと、それによって政治というものが動いていることは政治を一見すれば正しいことは確かであろうが、それが政治のすべてをとらえていると考えることは妥当ではない。政党にはナチスのようなファッシズム政権に向かう政党もあったのであり、そのようなナチスの行ったことに対する反省が現代の政治学と、法学において相対主義などが声高に主張されてもいる第二次世界大戦後法学の出発点なのである。政治の定義には、政党や、世論などのほかにも他の多くの人間的なもの、他のすべての政治的な人間、それも、すべての人が政治的であることを証明するような政治的人間の定義がはいっていなくてはならないのである。しかし政治の定義は現在の政治学会においても学説的にはまだ定まっていないので、政治とは何かという問いに答えるのは,なかなか困難な大事業であり、なかなか骨の折れることである。いろいろな高校の「政治・経済」の教科書や、大学の政治に関するすべての教科書、政治に関する学問的な論文の政治の定義は全くばらばらに違った定義をしており、そこである高校の先生がすべての高校の「政治・経済」の教科書においての政治の定義を比較検討したが、全くばらばらであったということである。多くの辞書を引いてみても、政治の意味についてはたくさんの説明があり、どれが正確に政治を表現しているのかはわからなくなってしまうのである。さらに多くの政治の書物は政治とはなにかを説明しないままで政治について説明をはじめることになる。したがって、大学の政治の原理に関する教科書、政治のことはじめにかんする教科書はまったく政治の定義を行わないで政治の講義をはじめてしまうことになる。だが政治学の発展のためにはこの政治の正確な定義という大事業は行われなくてはならないのである。他の学問で定義のはっきりしない学問など存在しないからである。この論文はそれを行おうと努力するがそれが成功しているかどうかは、読者の判断にまかせるしかない。

政治学には伝統的な制度論的な研究と、行動論的な研究、規範論的研究、歴史的研究とが併存してきた。それらを全体的に総合してみると政治の定義は行われうることになる。政治は総合的に全体的に見れば人間と、人間の作った制度との関係であるとみることができると思われる。人間と制度との関係には「利害関係」をはじめにして、「依存的関係」、「独立的関係」、「批判的関係」、「好悪の関係」、「無視的態度」等が考えられるが、それらはすべて人間の行動が制度との利害関係において依存的、独立的、批判的、好悪、無視等として現れたものであると考えることができるから、それらはすべて利害関係としてまとめることが出来ると思うので、以後は制度と人間の関係は「利害関係等」と呼ばずに単純に「利害関係」と表現することにする。ここ具体的には利害関係等と利害関係以外の言葉によって表現された方が適切である場合はあろうが、しかしそれはその本質を考えてみれば利害関係という言葉によっても言い表されてよいということに気が付くであろう。人間の作った制度は政治によってその後新しい制度に変化させることが出来るものであるからそのような意味で制度というものに関して人間は行動を行い、積極的にも、消極的にも政治的行動を行うことが可能であるということになるのである。そのように考えれば経済合理的に金持ちになるために努力して勤労すれば努力が有効で、それは認められている憲法に権利として認められている可能なことであるのと同じように、近代の最初にマキャベリによって問題にされた人間の政治的運や、政治的力量という政治的問題は、自分に適した制度に変更するように努力することが可能であるという権利を制度的にも、憲法的にも人間はもっているという結論をだすことによって、たしかに政治的運と、政治的力量はあるという結論でもって解決がつくのである。そのようにとらえれば、政治は次のように定義できると思われる。

人間にとって政治は本質的には善であろうか、悪であろうかという議論が存在する。人間にもっと適した制度というものがあるという概念は政治が善であるのか、悪であるのかという議論に有効に答えを出すことができるであろうか。善政は人間に適する制度であり、悪政は人間に適しない制度であると定義すればよいということになるのであろうか。この問題は政治の学問上の問題として重要である。政治は善でも悪でもないという立場をとれば、悪政も政治ということになる。政治とは人間に適したものであるというように定義をすれば、悪政は政治ではないということになる。このようなことを問題にするようになったのは、政治がナチスの時代のように悪政がありうるということを前提としてからのことである。この様に人間の政治的環境のよさ、悪さについての研究が今後は行われなくてはならないという課題が政治学には残されていることになり、それは政治学の規範的な部分の研究として政治学と政治哲学の問題として残されている問題である。それは政治の定義以上に難しい問題である。

政治学の方法と、政治学の分野

現在政治学には行動科学的アプローチと、制度論的アプローチと、規範論的アプローチがあり、行動科学的アプローチの方が科学的であり、近代的な政治学は行動科学であり、制度論は古い、伝統的なものであり、まして国家学は古く、国家学の復権は時代遅れだ、さらには規範論は科学的なものではないなどと様々な議論がある。しかしそのような議論は以上のような定義によれば制度論も、行動科学もそれぞれに政治学においては重要な部分であるということになりその全体を政治とよぶということになり、その論争は意味がないということになる。そこでは政治的行動というのは制度等に関係した行動であるということになり、その前に制度の研究が必要ということになる。また規範論というのは制度のよさ、悪さと関係しているのである。

人間が政治的制度を必要としている限り政治的制度は人間の利害を調整した結果である、したがって政治的制度と政治的人間の利害関係など考える必要はないと大上段に言い切り、制度の研究をあきらめるのは妥当ではない。政治的制度も利害の調整によってのみできあがった最終の結果であり、絶対唯一のものではない。様々な政治的要因によって政治的過程を経てつくりあげられたものが政治的制度である。そのように政治的制度とそれに利害関係を持つ人間が、政治的制度を作ったり、変更したりしていくことそのものが政治である。政治的制度は人間の利害を調整した結果であるというのは政治的制度の定義そのもののうちの一つのものであるから、それが正しいかどうか研究もしないでそう言い切ることは、ほとんど政治の研究をしたことにも、政治の定義をしたことにもならない。それは実定法をまるのみにして信じ、その立法趣旨や、立法過程を全く研究しないというのに等しい愚挙である。政治的制度は人間の利害を調整した結果であるというのは政治的制度について研究をする出発点にはなるだけであろう。政治的制度は人間に利害関係を持つ制度ではあっても、利害関係を「調整」した結果であるとは限らないのである。専制的、独裁的に決定された制度もありうるからである。

それと同じようなことは政治が「稀少資源の権威的配分」と定義することについてもいえる。それを出発点としてそうである場合と、そうでない場合とを研究するのが政治学である。政治的制度に関しても、稀少資源に関しても、権威的配分に関してももっと具体的に研究する必要がある。

政治が時によっては権力的支配であったり、権威的配分(権威的配分に満足ではない人が多くいることが考えられるのであるから、権威的配分という言葉で政治を定義し終わったと考えるのは間違いである。また稀少性という経済学の概念は政治学には通用しない場合が多くある)であったり、利益の調整であったり、権力の暴力的な行使であったり様々な側面を政治が持っていることをどのように解釈すればよいのであろうか。これらは政治が1から6にわたる現象として分析する時に存在として形を表す具体的な政治的現象の一側面であり、それは政治的な現象が社会において有する機能であったり、政治的行動の一側面そのものであるということになり、そのような政治的現象を具体的に1〜6にあてはめてその全体をとらえようとして研究するのが政治学の現実的な、具体的な研究ということになる。政治学にはこのように政治学原理と、臨床的な政治の現実の研究との折衷であることになる。政治的な法則はどのような政治的環境のときに、政治的行動がどのように起こるというようなことを研究するのであり、それは仮説の設定と、その証明によって科学的に研究されることになるのである。

ベルリンの壁の取壊しに象徴されるように今日東西冷戦が終了した。この結果ポスト冷戦とよばれる政治的状況が成立し、世界政治のなかではポワーポリテックスやバランス・オブ・パワーと呼ばれるものによって支配されていた国際政治を超えた政治的動きが起こってきている。狭い意味では国家に関する研究を行う学問が政治学である。それは国家間の政治をも含んでいる。そのような意味では現実の国家及び国際の政治に関する学問であるといいうる。が、国際政治は冷戦後国家を超えて世界政治という様相を呈してきたといわれている。このような国際化した世界政治に対応するためには国家を越えた国家内外のあらゆる政治現象を研究する必要が発生した。国家内部のあらゆる集団の政治はこれまでも国家以外の政治として研究されてきたのであるが、今後は家族と政治、すべての政治的人間と政治を含めあらゆる政治現象が政治の前面に出てくると思われるので、国家学のような国家に関する研究以外に政治は国家に関係しない、また、国家を越えたあらゆる政治現象をも取り扱う必要が発生してきた。政治とは、広義では,一般的政治それもあらゆる団体や集団における政治をいい、そのような政治についての研究がポスト冷戦においては特に必要になってきたので、そのような政治的なるもの一般を研究する学問が政治学であると考えられるようになり、そのような研究がさらに行われるようになってきたといえる。例えば両親から受け取ったおやつを兄弟姉妹で分けるときのルールや、分け方を決定するような行動は政治であるのかどうかということが国会開設の要求や、人民のための政府の要求と同じように政治であるのかどうかが問題になってきたのである。定義として広い定義を用いれば、このような行動も分け与えるルールの決定という政治的制度を作っているのであるから子供は政治的人間利害関係を被っているのであるから定義として政治を国家のみに限定しなければ政治ということになる。このような子供のときの政治的経験が大人の政治的思想に大きく影響を与えるという考えかたもある。そのような狭義と広義の意味の政治に関する学問の総称として政治学という言葉が用いられてくるようになってきているといいうる。しかし学問あるいは科学としての政治学を科学として完成する努力は現在も続けられているのであるから、政治学は完成した学問ではなくて発展途上の学問である。政治学が発展途上であるその理由は政治学が現実と理想、理論と行動、事実と規範、倫理と哲学、仮説と実証の間で未だに揺れ動いている学問であるからだといえる。イデオロギーと呼ばれるものも対象にしているのでさらに複雑になっており、それは制度とのかかわりで複雑になっているのである。したがって広義と、狭義との間でどこまでを政治学とするのかについての論争も未だに続いている学問でありつづけているのである。政治に大きな影響を与えたダイナマイトの発明者ノーベルが創設したノーベル賞においてはノーベル経済学賞はあるのに、ノーベル政治学賞はないというのもこのような点にあるともいえる。ノーベル平和賞があるので、政治においての平和の意味を重視してノーベル政治学賞よりもノーベル平和賞となったとも考えられる。政治学といえば現実の政治を公平に研究する学問であるのに、政治学賞が政治的になり政治に巻き込まれはしないかと考えた可能性もある。ということは政治学が平和の科学的な取り扱い方をするものとなるまでは政治学は認められないという意味であるとすれば、政治学にそのような期待が込められているということになり、逆にこれからの学問であるともいえるのである。その方法論についても確立されたものはなく、現実と、歴史と、哲学と、思想と、イデオロギーとの狭間で常に進歩・発展している学問である。政治学は現在日本の高校においては「政治・経済」という科目として教育されている。その教科書の中の政治と、政治的人間に関する定義はあまりにばらばらであるので、定義をここに示したものである。この定義の評価は歴史の評価に委ねるものである。政治学は日本の大学においては法学部の政治学科や、政治経済学部の政治学科や、社会学部のなかの政治学の講座や、一般教養としての政治学として教育されている。アメリカには政治学部が存在するし、アメリカにおいては第二八代大統領であったウッドロー・ウイルソンの作った政治学におけるウッドロー・ウイルソン賞というものも存在する。一方、日本には政治学部は存在していない。法学と政治学、法学と経済学と政治学が密接に関連しているのでありその研究のなかに政治学は合体させられているということかもしれない。政治学がまだ独立していないと日本ではみなされているかということが分かる実例ともいえる。今後は政治学の独立が望まれているのである。日本の大学においては国立の大学においては東京大学の法学部で「政治学」が講義されたのをはじめとしたがドイツ流の政治学であった。その後ほとんどの大学の法学部で「政治学」が講義された。イギリスの憲法を模倣した憲法を主張した大隈重信が創立した私立の早稲田大学の政治経済学部ではアメリカ・イギリス流の「政治学」が講義されたが、その後もアメリカ流の政治学が早稲田政治学の主流を占めている。法学の継受が大陸法系と、英米法系とに分かれているように政治学も両系統に分かれてはいるが、現在はポスト冷戦の時代が到来したことからも分かるように、将来の政治学の方向としては政治学の本来の姿である両系統を統合したような政治学があらわれることを信じる。それが平和のための政治学の本来の姿となるであろう。対立の解消を目的とする政治学が党派的に分かれていてその対立の原因を政治学自体が科学的に解明できないならば政治学の本来の姿ではないからである。現在では日本でも日本の政治の現実の分析・日本の政治理論の形成を行おうとしている多くの学者が輩出し、日本において世界各国の政治の分析も行われているし、新しい政治理論の形成も行われている。大学の教科においては政治学一般のほかに専門科目としては多くの科目に細分化されている。政治学科のある大学においては,およそ次のような分野に分類できる科目がある。

政治学の分野の分類

一、政治学一般、政治学原理、政治哲学に関する政治学

政治学概論

政治学一般、政治学と政治哲学、

政治学原理、 政治史,

二、政治的制度に関する政治学

政治機構論 、実定法学、理念法学、

国家論,公法学,憲法論、行政法、経済法、政治体制論、

政治的機構研究、

官僚制度論、行政制度論、

三、政治的制度等(社会制度、政治文化、政治人類学など)

に関する政治学

政治文化論,政治人類学,政治社会学,政治文明論

政治発展論,政治変動論,革命論,

政治体系論,政治構造論,

数量政治学,

比較政治学,各国政治研究,

国際政治学,国際関係論

政治とマスコミ論

政治と宣伝、プロパガンダ論

四、政治的人間の心理と行動

政治行動論,政治心理学,行政活動論、

政治的イデオロギー論,政治思想論、

政治思想史,政治意識論,

政治権力と人格、性格

五、政治的人間の倫理と哲学

政治倫理学。政治哲学

六、政治的団体の心理と行動(活動)

指導者論、リーダーシップ論,エリート論,

政治的集団論、政党論,圧力集団論,大衆運動論,

行政についての特殊研究 行政学,地方自治論,

政治的決定論、公共決定論、公共政策論

政策過程論、政策学,戦略論,意思決定論,

政治過程論

議員の心理と行動

学際的に政治学との関連がある学問と、

政治学の学際的な科学

政治学の学際科学 関連諸科学

政治学 科学論、科学史

政治と憲法 憲法学

政治と法学 法学

政治と経済法 経済法

政治と刑法 刑法

政治史 歴史学

政治心理学 心理学

政治社会学 社会学

政治哲学 哲学、科学哲学

政治教育学 教育学

政治経済学 経済学、公共理論、ビジネス論

政治とマスコミ マスコミ論

政治と社会調査 政治調査

政治と宣伝、政治宣伝論 宣伝論

政治と数学 数量政治学

政治と統計 政治統計学

政治的発達論 発達論

政治権力と性格・人格 性格と人格論

政治的社会化論 社会化論

職業としての政治 分業論、職業論、産業論

政治地理学、地政学 人文地理学

政治医学 医学

政治精神医学 精神医学

現在のアメリカ政治学会の専門分野分けは現在の政治学の分野分けの参考になるので付記する。2

様々な分野に多岐にわたった政治学を全体として捉えるためには、政治学を政治の文明全体をとらえる学問として捉え、政治の世界全体を一括して包括的にまずとらえておくことが必要である。これがこの本の主眼である。毎日の新聞や、テレビや、ラジオのなかの様々な出来事から政治的な事象を拾い上げて、以上の政治学のどの分野の対象であるかを分類していき、そのような拾い上げる材料としてマスコミを活用するとよい。例えば行政の規制緩和の問題、官僚の天下りの問題、不良債権の処理の仕方の問題等、その他のほとんどすべての問題が政治的な問題として取り上げることができるからである。政治の歴史をみれば経済が文明として発展してきたように、政治も文明として発展してきたことがわかる。経済文明が市場というものによって飛躍的な発展をしたように政治は広義には会議や、狭義には議会によって大きく発展した。それは政治の文明を表現する具体的な重要な本質を、具体的なものとして表現したものといえるであろう。政治や政治の文明・文化とその機能を分析することは政治学の中心的課題であり、毎日の新聞やらにおいて各人の目のつけどころである。

だが政治学は他の学問とともに発展してきたので学際的な研究も必要である。

政治学は広い分野にまたがっている。また様々な学問と学際的に研究が進められている学問である。政治学は,方法論的には歴史的方法による政治学・数量的方法による政治学・規範的理論を中心とした政治学・理解(解釈)的方法による政治学・行動理論による政治学・制度論の観点からの制度論的政治学など政治学に用いられる学問的方法は多種多様である。しかし全体としてみれば、政治は以上の定義のようになるのであると考えられる。政治学がそのように多岐にわたる理由は,政治学は歴史と、現在との間で、そして未来との間での人間の政治性の全体を捉えなくてはならないからである。もともと科学と哲学が同じであった時代には政治学は哲学のなかでポリスにおける人間の研究からはじまったものである。政治的人間の政治性を追求しようとする政治哲学からはじまったものであるので、一つの方法によってのみでは解決がつかないということにその時代から気付いていたのが古典的政治哲学者であった。そのような哲学においての政治性の研究から出発した学問であったから政治学は哲学的、倫理的であることが必要であった。規範論的な、また、制度論的な学問であったのである。人間が歴史的状況に規定されていることは誰も認めるところである。人間は歴史のある時点において生活しているのである。それから逃れることはできない。しかしまた歴史が発展するにつれて人間の学問も発展してきたということも事実である。歴史に規定されながらも、人間の学問は発展してきていることは政治学についても同様である。政治学もそのような科学の発展とともに発展をしてきたのである。しかし政治学は発展というものが容易に教科書的に書き表すことが不可能なくらいの発展性しか見出せない。それは学問的特質からくるものである。それは政治は人間の全体を動かすような大きなものであるので、全体としての研究が行われえなかったということが理由である。核爆弾を使うことによって人類を滅ぼしてしまうことが出来るようなところまで発達した科学技術を政治はコントロール出来るであろうかというような大きな問題を取り扱っている。そのような政治を研究する学問はどのようなものであるべきだろうか。

これまでの政治学の歴史の概略

政治学は歴史的にはどのように研究されてきたのであろうか。政治についての研究はすでにヨーロッパにおいてはギリシャ時代から始まっていた。この時代は古典的政治学の時代であるといえる。政治の体系的な研究は,紀元前5世紀のギリシアにおいてはじまった。ギリシャの政治学はソクラテスによってはじめられたといってよい。ソクラテスにおいては政治的生活は善きポリスとはなんであるかという問いにはじまった。ギリシャ時代においては都市国家ポリスが政治的生活の中心であった。ポリスが善きポリスでありうるのはどのようにしてであろうかという問いとともに政治学ははじまったと同時にそのポリスのなかでの善き市民とはどのような市民であるかという問いも提出されたのである。政治についての学問はこのようななかではじまったのであり、ソクラテスの死によって政治の重大さが論じられていくことになるのである。プラトンはソクラテスの死について、クセノフォンとともに文章を残しているが、プラトンはそのことを通じて理想的なポリスはどのようなものであるかを探求していったのである。

アリストテレスは政治学一般の体系を作り上げた最初の学者である。彼の研究は経験的なポリスの政治生活についての全般的研究であった。さらに様々なポリスの国制を比較することも行い比較政治学をはじめたともいいうる。ポリスの政体がどのようなものであるのか、どのようなものであるべきなのかについての本源的な問いであったといえる。この比較研究はポリス全般への研究へと発展していった。しかし,ポリスは政治的な生活の中心をなしていたがポリス内における規範の研究が、政治の経験からくる法則の研究とかその他の研究と渾然とした全体を形成してアリストテレス政治学を構成していた。ポリスは都市国家という共同体であり、そこにおいては政治的、経済的とを問わず、すべての生活の一体としたものであった。従って規範と経験は一体となったものであった。したがって政治学は哲学と、倫理学と、記述的学問と、法則を発見する学問とが一体化したものであるとともにまた〈善き市民〉としての生き方を説く実践の学でもあった。

古典古代の時代のギリシャにおけるソクラテス、プラトン、アリストテレスによるポリスにおける政治的人間の研究に続いて中世においては国家は、宗教との関わりを多くもつようになった。したがって政治的人間の研究は宗教による政治的権威と一体となって研究されていた。中世においては政治学の研究発展がまったくなかったというのは近現代の政治学の誤った偏見であるという学説もあろうが、一般的には中世は暗黒の時代であるとされている。中世の世界は世俗の政治権力は宗教的な権力と深く結びついていた。それは中世の政治的制度は各人の政治性のうちの宗教性による政治性に多くよりかかっていたということであり、政治的秩序は宗教的秩序による利害によって維持されることに限定されていたという解釈が成り立つのみであり、各人が全く政治性を有していなかったことにはならない。中世においても各人は政治的制度に対して各人の政治性を発揮して多くの働きかけをしていたといえる。が,宗教的な制度が強く、宗教改革によってそれが改革されうるということが各人によって理解されるようになるまでは宗教による聖なる秩序が是認されていた時代、あるいは是認されなくても是認するしかしようがなかった時代であったのである。宗教的秩序を打破する理論を打ち立て教会から国家が絶対的な権力を奪い取ろうとするのは君主の権力が教会の権力を上回るようになってからであった。それは経済的にも上回るようになったからであったであろう。しかし経済的なことは経済史の問題でもある。政治学的にはあくまでも政治的制度と、政治的人間との関係という視点から捉えられるべきであろう。現実の秩序は中世においては宗教による維持がもっとも妥当なものであるとされていたのである。確かに宗教による秩序の維持は立憲政治や、民主政治とは違い各人の権利や、制度的なチェックアンドバランスが少なかったのかもしれない。しかし各人はその秩序に満足し、政治的安定は保たれていたのである。そのような体制、政治的制度の研究においても、共産主義国家や、全体主義国家、あるいは、民主主義国家において政治的人間が存在するような各人の政治性についての研究を全くなおざりにしてよいということにはならないであろう。中世の人間の政治性についての研究はさらに深められなくてはならないといえるであろう。中世の政治である宗教による秩序を弁証し、説明するのが目的であったのがスコラ学であった。宗教的秩序によっておおわれた中世の政治的世界のなかにあっても宗教を通じて人間の政治に関する思考は深められていったといえる。国民の権利を保証する代わりに国家の主権を宗教的権力よりも強くしようという考えは、近代と現代の特徴であったのであるが、中世の世界における宗教的な世界がどのような政治的な観念をもっていたのかはこれから研究されるべき課題であるといえるであろう。

そのようななかで、現実の秩序は宗教的な秩序とは違ったものであるべきであるという観念を提出したのがルネッサンスであった。政治的秩序とは政治的なすべての人間が、政治的制度との間で意見をいい、討論し、意見の一致に達することによって政治的人間が満足することをいうのであるが、そのような政治的人間と、政治的制度との間での利害の調和は現実的にはどのようにしてもたらされるのであるかを研究しようとする態度が生まれたのがルネッサンス時代であり、それは経済的に豊かになったためかもしれないが豊かな市民のみが気が付いたのであったが、人間が政治的人間であることをはじめて気付いたのがルネッサンスの時代であった。その当然の結果として政治の研究が行われたのであったのである。現実の政治的な秩序の由来を明らかにするために現実の人間と、政治的制度とを現実的に追求することがルネッサンスの政治学の研究であったが、そのような思考は,新しい文化の復興期であったルネサンス時代には人間そのものの研究の一部分として当然におこった思考であったといえる。ルネッサンスは古典・古代期の研究からはじまった。それまでの宗教による政治的秩序は新しい思想による政治的秩序に変わろうとした。新しい政治的思考はサボナローラの宗教的秩序を打ち立てようとする演説をマキャベリが批判するところから始まらざるをえなかったのは歴史的な流れであったといえる。それが宗教や、道徳を中傷されたと感じた当時及びその後の一部の人々にマキャベリのマキャベリズムと言わせたが、しかし、マキャベリも道徳や、倫理や、宗教を理解していなかったとはいえない。ある点ではマキャベリは宗教や、道徳や、倫理を求めていた節も見受けられる。しかし国家を統一し、政治的秩序を得るためには、宗教的な秩序のみでは外国の侵略には対抗しえない、したがって、近代国家として秩序を得ようとするならば軍隊無き宗教のみではなくて、軍隊をもった近代的国家を必要とすると説いたのがマキャベリの議論の本質的内容であった。このような政治的な秩序が,国民軍という権力的基盤により得られるのであると説いたのである。またマキャベリは宗教が中世の政治的秩序をつくっていたのと同じような理由で、近代的な国家もまたそのような政治的制度と、政治的人間とを利害的にも、倫理的にも調和させる君主の術が必要であると説いた。これが一方では君主国家内の議論として『君主論』となり、他方では共和国内の議論としては『政略論』となったのである。国民軍の戦略と君主の人心収攬(しゅうらん)術は共に中世の国家を受け継ぐべき近代国家の両輪であると説いたのである。これが宗教による中世の政治的支配を否定し脱却した君主国や、共和国における政治の術によって保たれることを説いたのでありそのような政治の術としての政治学が歴史上はじめて思想として発生したのである。しかしそこには近代性の欠陥、マキャベリが自ら陥った欠陥、つまり、歴史の流れのなかで宗教や、前時代の弱点を批判しなくてはならなかったという欠陥があった。中世の宗教による政治的秩序の否定による国家の建設という歴史の状況が含まれていたのであるが、このような政治の術を説いたマキアベリは,近代政治学の開祖とされる。マキャベリが扱った政治制度は中世の教会国家から近代の主権国家に変化していく制度的変化のなかの制度であった。それに関わる政治的人間の道徳と、行動が考察の対象となったのであり、そこにマキャベリ政治学の特色があった。そこに生まれてこようとしていたのは君主国家であったので、当然にマキャベリは君主論を書き表すことになったのである。そこには民主的な共和制という政治制度は時期尚早であったので、そのような完全な民主的な論調にはならなかったのである。また、君主論のような書物が政治理論として以後時代を追って出版されて行くことになる。近代の政治学は、現実の政治の動きであった政治的変化、中世の宗教による政治的秩序から近代的な国家の建設へといたる政治的変化を理論付けるための多くの政治的思想を生んだ。近代的な国家においては国家に主権が存在することを説いたのJ.ボーダンは、君主国家の理論を作り上げたものである。国家主権を説いたJ.ボーダンに対して、様々な主権国家の集まった国際政治において,国際法の存在を主張した政治的理論が現れたのは当然のことであった。国際世界における主権国家の間の政治的制度の必要を説いたH.グロティウスは,近代の国家間の政治的秩序,国際間の秩序の法的基盤を整備しなくてはならないと説いた。しかし,中世の宗教国家に続いて登場したという歴史的状況のなかに位置したルネサンスの時代においては歴史的なルネッサンスの位置により決定され規制されたと思われる歴史的制約があった。その制約とは歴史的に宗教による政治的支配から、それに対抗した君主が支配権を奪い取ったという歴史的な状況からくるものであった。君主という少数の人間が政治における主体を担っていくということになったのであった。マキャベリはフィレンチェという都市の書記官であったのであり、大衆的な民主主義国家というものを思想することは出来なかった。このことは,カトリック的世界秩序自体が宗教的な少数の支配者による支配であったことのなごりであり、マキャベリの政治学もどうしても宗教から自立して近代国家を担う君主に近代国家の担い手になることを求めるものであった点で限界があったのである。君主たちだけが支配者になるのであるという点はその後市民革命によって次第に多数のものが政治に参加するようになるということになっていき、最終的には現代においては成人の、否子供の人権をも認めるようになってすべての人が政治に参加することになるのである。そして妊娠中絶に際しての胎児の人権に言及するようなドイツの憲法判決も書かれるような時代になっているのである。すべての人が政治的制度に利害関係を持つ政治的人間であるという考え方は、当時にもあったかもしれないがこのルネサンス時代においては政治学的には宗教的権力に対する君主の権力という形をとらざるをえなかったのである。したがってマキャベリが共和主義者であったのか、民主主義者であったのかは、君主論などをみれば、マキャベリが民主・共和主義者であったし、そうであったといえると考えるのであるが、それであっても、歴史的な規制によってそのことがそれ自体として表面に出ることはできなかったのであろう。もし民主・共和主義者でなかったとするならば、『君主論』や、『政略論』を書かなかったであろうと考えられる。そのことによって民主・共和主義者であったことが証明されている。マキャベリが参考にしたのは共和制・帝政時代の国家のローマであった。

ルネッサンスにおいては多くの書物の出版は新しい思想を書物の届くところにいる人ならばどこででも多くの人が、読むことができるという新しいメディア技術の普及とともに開けた。この意味ではルネッサンスは新しい技術とともに幕があけたのであるが、逆に新しい書物出版の技術が書物に含まれ運ばれていく思想を新しいものにしたのである。それが政治学の分野においても政治に関する新しい思考を普及させるのに役に立ったのである。書物の活版による出版の技術に裏打ちされたのが近代のルネッサンスであったので当然の結果であった。それは現代のテレビや、衛星放送の時代のおいても新しい思想が生まれようとしているのと似ているといえないことはないことはカナダのマクルーハンの指摘するところである。

君主は君主国家を統治するために政治思想を必要とした。君主は政治学を君主の統治に関する技術とみなした。この政治の技術はマキャベリのように君主論として公開するべきものではなく秘術であるべきであった。このことは少数のものが政治を独占しようとする時、つまり、政治的参入を拒否しようとする時には一般的に行われることであるといえるであろう。これは政治学を秘術とよぶ理由である。秘術と呼ばれるのは、少数のものが支配を行おうとする時にあらわれるものであり、この時代はそれが政治の術であった。従って当時の政治学はそのような政治学であったから政治思想としての価値のみを有するものであるといえるのである。一般の人のための政治学ではなかった。そのような政治の技術を駆使し、君主国家を形成していく一方で、一般の人民に対しては王権神授説によって君主の正統性を正当化し、弁証すれば君主制国家の政治は政治的安定と、政治的秩序を形成でき安心することができた。

しかし,その後の人間の歴史においては政治的人間としての人間が政治の歴史において市民というものを成立させ、一種の政治的階級の形成が行われるようになった。その市民の成立についても経済的裏付けがあったのであるが、そのことは取り扱わず政治的な側面のみをみると、市民とは君主の特権的政治制度について君主国家の様々な政治制度を変更することによって利益を得る政治的人間であったといえる。そのような市民は政治的な階級として取り扱うことができる。このように歴史上の階級や、概念も政治的な観点から捉えると様々な政治的な事象が明らかになると言いうるが未だにその研究は少ない。市民が政治的な階級として政治的な主張を行うと同時に、経済的にも成熟し,少数の君主に対して自らの政治的主張を要求するようになった。これを市民革命とよぶ。宗教による支配が君主による支配にとってかわり、さらに市民革命にいたるこの過程は、政治の歴史というものをとらえる場合の一つの方法であって、それは別の方法によって捉えることも可能である。

このような政治学的意味での市民が市民革命を通じて新たな政治的な権利や、政治的制度を獲得するようになった。市民が政治において君主に代わって政治的主体となるとこのような市民を政治的に満足させる新たな政治制度や、このような市民を指導する新たな政治思想が必要になった。そのような市民が政治的主体として歴史に登場するようになると,政治学は宗教による政治権力と対抗し市民が権力を獲得するべきであるとする近代的な政治理論を構築していった。政治的な人間として市民が目覚めたのであるといえる。市民の歴史的な研究については多くの研究がある。そのような時代にあって新しい政治理論を構築すべきであるという課題が発生した。その時代的要請に対しては政治的人間と、政治的制度との関係に考察が及んだことは当然であったが、しかし歴史的な制約があったのは当然であったのであり、すべての人が政治的人間として目覚めたのではなく最初は君主国家や、君主制立憲国家の構築の理論が主であったのであり、市民の側からそのような国家を構築するための理論であった。しかしその後市民国家の理論が形成されるようになった。それは市民の登場という新たな歴史に直面して理論付けを行い、君主に対抗するための市民の政治理論が考えられていった。そこにあっては権力や、君主やらが存在する理由をその制度に利害関係を持っている市民の側から再構築されていった。権力(政治的制度)と市民(政治的市民)との理由付けであったから自然法に基づいた自然権や、市民と社会との契約によって政府が作られたのであると考えた社会契約説などの理論を構築するようになった。

ホッブス、ロック、ルソー、モンテスキュー

フランス革命と啓蒙思想

新大衆

ポリアーキー

圧力団体と政治

H.D.ラズウェルの民主的指導論と、ラズウェル の政策学について

ラズウェルの理論は政治学の多数の分野にまたがっている。中でも民主的指導の理論と政策学についての理論は現在の政策学に大きな影響を与えたものである。ラズウェルが研究した民主的人格の研究の理論の一つの帰結であり、民主的指導の理論は民主的人格の形成論の政治社会学的な結実でもあると考えられる。ラズウェルの理論は現代において大衆的な政治状況にかなった民主的な政治形態を維持するための方法を模索したものであるということができるのである。現代政治学に対してすべての人が要求するそのような期待をも満たしてくれるように思われる。

デモクラシーはその他の政体とは違った部分を持っている。ある政体に要求されている性格形成のための諸条件は当然に政体に特有のものである。デモクラシーが特に必要としている人間の人格、性格とは何であろうか、デモクラシーがどのようにして支えられていくであろうかとラズウェルは研究を進める。デモクラシーに特有な性格とは民主的になろうとする社会におけるすべての人が持つべき特有の性格である。それを追求し、その本質を探ろうとする。パーソナリチィーの理論を政治学の立場から学際的に研究を進めようとしたのがラズウェルである。

ラズウェルは権力を「価値剥奪の手段として、あるいは、価値付与の手段」として定義して権力の社会コントロールの側面を重視しているが、民主的な共和国においては、権力はどのような使われ方をすべきなのであろうかをそのような権力の定義を行うラズウェルであるからこそ問う。権力はすべての人に開放されたものであり、かつ、人格の尊厳によるものでなくてはならないとラズウェルは指摘する。私的な見解であるが、「デモクラシーも、指導者の育成、選択、支持の如何に左右される」12とラズウェルは主張するが、これはデモクラシーは大衆がその意見を述べ、討論によって共通の意志を作り上げることによって多くの大衆による一般的にいう人民の人民による人民のための民主的な政治を行うことであるとするならば、そのようなことを成功させるような指導者が必要であるということであろう。価値とは政治的制度が目標としているものであると考えれば、民主的であることに期待されている性格は共同社会における価値の問題であり、その価値は自然な均衡を達成していなくてはならず、自然な均衡によって民主的価値の実現をラズウェルは期待している。政治的な制度が目標とする価値は自然な均衡を達成していなくてはならない。この均衡が大きな規模において達成できれば万人共通のデモクラシーの社会に到達できるかもしれない1という期待をラズウェルは表明する。また、「民主主義者とは自己を人類全体と同一化する人間」である、人類の要求は人類に対する忠誠であり、人類への忠誠は人類との同一化である、人類との同一化を行う人間として人類のデモクラシーに矛盾しないよう社会の成員は努力すべきであるとラズウェルはいう。ただし現代の精神医学の他人との同一化理論は共産主義やらのように余りにも極端に他人と同一化しすぎる場合には、極端な理論にはしると指摘している理論もあることに留意すべきであろう。人類は様々な集団を形成しているが、政治家が必要とする技術は小さな集団に属している場合も、国家のような大きな集団に属している場合もどのような集団に属していてもデモクラシーの要求するのはこのような技術である。指導者及び国民は民主的な共和国家を存続させるためにはデモクラシーの思考、観察、経営の技能を習得する必要がある。社会が制度内で価値において均衡を実現し、デモクラシーを維持する方法のすべての技能が習得しなければならない。価値の自然な均衡という概念は、政治体系論のなかでの「稀少資源の権威的配分」「社会的価値の権威的配分」というイーストンの理論と通ずるものがあると考えられる。また、リーダーシップの理論、とりわけリーダーに必要な資質は何かという理論に対してラズウェルの理論の果たした役割は大きいと言わなくてはならない。

人格の形成の要因のうちデモクラシーにふさわしい人格を形成する要因、つまり、民主的人格を構成する要因を考察していき、民主的共和国の指導者及び国民が共同社会のなかで育っていくようにしないかぎり、民主的共和国の維持は出来ない。そこで民主的人格を構成する要因を分析し、民主的人格を育てていく必要が生ずる事になる。民主的人格に育てるという問題は、人格と政治的権力、宣伝(プロパガンダ)、シンボル等を研究してきたラズウェルの大きな問題となった。このことはラズウェルの理論に「民主的」というイデオロギーが入ってきたのではないかと、ラズウェル自身自問自答している。「民主的」という言葉がイデオロギーであるかどうかは政治学の大問題である。極限状態を考えて見れば、民主的な決定は出来ないような政治的環境もありうるという反論もあり民主的イデオロギーもまた一つのイデオロギーであるといえるであろうという見解もあるし、民主的であることはどのようなイデオロギーも寛容に受け入れるのであり、場合によっては自分のイデオロギーを曲げることもありうるという協調性の主義であるから民主的であることはイデオロギーではないという指摘もあるであろう。1ラズウェルはデモクラシーにとっては民主的な人格の形成の問題は、結局社会全般の民主化の任務の一つとなるということになるのである。★ラズウェルが考えている政治は彼の権力の定義からみれば分かるように権力者に指導された政治であり、議員や、行政官や、司法担当者の民主的性格の分析が課題となっている。そこでラズウェルは国家から下はクラブに至るまでの権力者の分析を行っているジェームズ・ブライスの言葉について論評を加えている。比較的少数者が集団の意思決定と、指揮を行っているのが組繊体やあらゆる政治形態の常であるし、過去も常であったという命題は、少数者をもし「少数の指導者」の意味に解するならば、それは真であるが、もし「高度に制限された選良」の意味にとるならば、そのような定義では、デモクラシーは不可能であるので、その命題は偽である、とラズウェルは考えている。デモクラシーにおいては多くの民主的な人が民主的に政治に参加する制度であろうから、実際の政治の現場においては少数者が政治の実権を握っていても民主的であるように指導者を指導・教育すればよいとして少数者による政治のあり方をとらえなおしたのがラズウェルである。この現代においては政治社会は非常に大規模になって、世界的な規模になっている。特に東西冷戦の時代には二つに分かれていた政治世界は一つになり、世界的な規模の政治になった。このような大規模社会においては、政治は民主的なものになるべきで、民主的な指導者と、民主的な国民を育てることが必要になった。指導者は、戦争や平和の国際間題にも、国内問題にも巨大な権力を行使するようになったが、全社会的に選択が行われ、民主的に責任が行使されなくてはデモクラシーは永続しないであろうと考えられているのである。

自由を熱望する民主社会は権力というものに関する基本的な観念を発展させねばならないとラズウェルは考える。民主的社会の目的・義務は、権力からその害悪を除去し、より高い価値を尊敬する観念を指導者に教育し、人間の尊厳等の基本観念に権力を従属せしめることが必要であるとラズウェルは指摘するのである。

現代の政治社会では、政治的なるものの中心とラズウェルが考える権力というものをどのように考えるべきであろうか。権力のない政治の世界は考えられないし、権力を政治の世界から消滅させることは出来ないであろう。この政治の現実は厳然として存在している。無政府主義者はそれが出来るといっているのであろうか。それが民主的であるといえるのであろうか。無政府主義は、非民主的性格や、非現実的であるといっているのであろうか。ラズウェルは何を述べようとしているのであろうか。警告として無政府主義的理想に対してラズウェルはそれが民主的ではないと述べているものであろうと考えられる。

参考: エンゲルスの話

権力をなくして、「脅威なく、強制を課せられることなく、ついには強制を必要としない自由人の共和国」を生みだそうという理想が存在することは長い目で見た場合、否定されるべきでない。これは又、仮借なく適用する場合、かならずあらわれる。エンゲルスが、終極には、「国家は死滅する」と書いたとき、彼は希望かならずしも確信ではないが、を言わんとしていたのである。人間の破壊性

「人間の大敵は人間である」というラズウェルの命題は、人間は大量虐殺や、戦争によって殺されるかもしれないという可能性を考えれば、その意味では正しい命題である。人間が戦争や、大量虐殺によって人間を破壊するということを人間の破壊性とよび、人間はその性格のうちの破壊性によって他の人間を殺してしまうかもしれないという意味で人間の大敵であるので、人間の破壊性及びその予防方法を研究し、破壊性の予防が出来るかどうかについての研究が行われるようになった。人間の破壊性、破壊性の予防の研究の観点から大量虐殺や、戦争の原因等についての研究が政治学、行動科学、人間行動学においても盛んに行われている。2政治学の概念としての破壊性の概念はこのような行動科学等によっても、政治学においてとほぼ同様な意味で研究されているので、政治学においての破壊性の研究の分野は学際的な分野といえる。ラズウェルは政治学の一分野として研究を行ったのであり、民主的指導と、政策学という分野において研究したのである。もし人間の破壊性がなくなれば、人間の文化は大きく民主的なものに変化するであろうとラズウェルは考えている。

ラズウェル政治学において民主的指導者の任務、及び、選良の任務と呼んでいるものは、別の観点からすれば、以上のように「いかにして人間の破壊性を抑制するか」という問題に帰着する。ラズウェルのデモクラシーは、デモクラシーの理念が満足されるようなダイナミックな政治的な活動の均衡をいかにしたら達成することができるかということを目標としているといえる。人間と人間の関係をデモクラテックな人間の網状組織にしていくという概念がラズウェルのデモクラシーの中心概念である。この「民主的な網状組織」という概念は社会学における社会システムの考え方にもつながる概念であろう。政治学における政治システムの問題である。また、「ダイナミックな政治的な活動の均衡」という概念も政治学の政治的人間相互の均衡の問題ではあるが、社会システムの均衡理論の概念や、経済学の均衡という概念やらとの類似性があり学際的な研究も今後は必要であろう。

デモクラシーに反する概念は、すべて反民主的であると共に、破壊的であるので、破壊的衝動が起こった場合にどのようにしてそれを破壊的活動に結びつかないようにするかが、デモクラシーの中心概念ということになるとラズウェルは指摘している。もし破壊性のない社会が民主的な組織のなかで政治的な均衡によって達成されるならば、戦争による殺し合い・大量虐殺、革命による粛清・弾圧・暴力、政治的暴動による虐殺、犯罪的な政治的暴力、犯罪的な政治的抑圧、そのいずれの場合を問わず、人間は自殺したり、互いに傷つけあったり、折檻しあうことも互いに殺し合うこともなくなるであろうから、人類の宿命であると信じられているものを除去することができよう。人間には破壊的衝動と破壊的活動という二種類の破壊牲がある。衝動が起こっても、理性のようなもの、ラズウェルのいうような民主的教育・指導のようなものによって、破壊的衝動を抑制して破壊的活動を起こさないようにする必要がある。破壊的衝動が強烈な程度であり、破壊的衝動が集中的に現れる場合には破壊的活動にいたる。これは刑法のような法学上の問題とも共通する問題である。破壊的衝動を激しく表現したり又は激しく発生させる場合、活動が破壊的となる。つまり、破壊的衝動は、破壊的活動の第一段階で、ついには民主社会での親密的で創造的な対人関係を破壊する破壊的社会的活動にいたる。

破壊的社会的活動は人間を破壊にいたらせる。しかし破壊へいたる環境は、たとえば、インフレーションと経済崩壊をまねくような恐慌の状況は、その過程がどうなっているかは参加者には分からない。一見破壊的とは見えない社会生活の連鎖、通常の筋道を踏んで商業貸付をする銀行家、会社のために独占利潤を保持せんとする取締役会、生産制限を大目に見る労働組合、関税を支持する圧力団体ないし商業組合などの中の個々の循環を綿密に調べることが是非必要になってくる。人間が破壊へいたる政治的過程の参加者は破壊の方向を知ることはできない。ほとんどの場合そのような状況であるので、大規模な破壊を防止するためには社会の全過程の均衡を変えなくてはならない。社会機構全体に鬱積した緊迫を減殺するために、強烈な攪乱要素に破壊衝動を無くさせる吐け口を与えなければならない。

休憩時間

参考のおはなし

人間の哲学は、利己的な遺伝子が人間に子孫を作らせるのであるとリチャード・ドーキンスは遺伝子とよく似た概念であるミーム(真似をする、模倣子、分化子、誰かの作品、文化子、死後の生命、死後の魂、文化が残っていく、遺伝的な特徴)という面白い考え方を考え出した。文化や、記号が残るということをいった。進化とはこの考え方からいくと、進化論のように調べていってもしょうがないということになる。動物学者はそのように考えている。がいった。これは遺伝子は神という意味である。唯物論に近い表現である。

人間が破壊性を有するのもそうゆう理由からであろうか。

遺伝的にプログラムされていて、遺伝子の指示の通りに、自分の子孫を沢山残そうとしている(利己的遺伝子論)のであろうか。種の特徴であろうか。人間にのみ特有な利他的な行動は、自分の弟や、妹のようなあるいは日本人のみを遺伝子として残そうとしているのであろうか。これはエントロピーの理論とよく似ている。自己犠牲的に弟や、妹をたくさん残そうとしているのか。倫理的というのは自分は今はそうしているのが、将来はそうしておいたほうがよいのである。

殺し合いをしないのは自分も得であるからであろうか。

道徳や、倫理を利己的遺伝子として説明が出来る。

種の保存よりも、進化と、創造に研究の方向が移ってきた。

行動は多くのことを語る。 動物行動と、人間の行動について語っている。

破壊性と学際科学としての政治学と精神医学----健康と、病気--------

以上の破壊性の観点から人間と社会の関係を学際的に研究する場合には他の科学の一つとして医学がある。医学において一つの過程を「病気」と分類するには、かならず、「健康」という完全性の標準型を必要とするという病気と健康の区別を可能ならしめた思考パターンは、社会一般における病気と健康の区別においても思考方法として適用されうると考えたのである。政治学と哲学を結び付けた政治哲学のように、政治学と医学とを結び付けた政治医学と呼ばれるものが考えられるということになるとラズウェルは考えた。人間に内在する破壊性、及び、社会に内在する破壊性を考察するには、まず医学と学際的に緊密に連繋し学際的に研究を行わねばならないし、政治学と医学を結び付ける結節点を探さねばならないと考えた。学際的に研究する必要があるとラズウェルは主張するのである。これはシカゴ学派の創始者メリアムによっても指向されていたことであった。2政治学においては学際的な破壊性の研究は医学との協力によるほかに、臨床心理学や、行動科学の分野からも行われている。また、経済学においても貧乏やら独占やらを社会病理と考えてそれを治癒させるのであるという考え方がある。

ラズウェルは「人間の破壊活動と、破壊衝動の破壊や脅威が、ついには対人関係の創造性と親密性とを破壊するに至ることが発見される場合」人間の活動と衝動を「病理」として語りうるのであるという。このように破壊性を病理として設定することにより人間の破壊性と、社会の破壊性を病理現象として研究できるようになるとしたのである。

したがって、指導者の破壊性、選良の破壊性の問題は、人類全体の視野から見れば、病気と健康の問題に密接に対応していることが明らかになってくる。いまでは常識であるが、現代の医学は、ある現象を健康乃至病理学的として分類するのに適切と考えられるフレーム・オブ・レファランスを累進的に拡大してきたのである。

政治学における人間の攻撃性と、破壊性の分析----------ラズウェルの所説と、最近の行動科学------------

人間の本性が悪であるか、善であるかの論議は有史以来人間の科学、特に社会科学の直面してきた課題である。

このことは人間が政治学をアリストテレス以来構築するにあたって、最初の難問として取り扱ってきた問題である。

人間性が悪であるならば、人間の攻撃性や、破壊性を論じても所詮解決の出来ない問題として戦争や、紛争の問題を論じることになり、ペシミスチックにならざるをえないことになる。逆にオプテイミスチックに人間の本性が善であると仮定したとしても、何故に人間の間に戦争が起こったりするのかについて説明をすることができなくなる。

そこで人間の攻撃性や、破壊性について政治学が考察するに当たって、便利な道具として行動科学をも学問の一方法として導入して政治学に一つの新たな方向を加えることは可能であろう。人間の破壊性と、民主主義によるその破壊性の減少について論じたのは、ラズウェルであった。

ラズウェルは政治学の中で、人間の破壊性について言及した初めての学者であったと考える。一方、人間の攻撃性について新たな視点から考察を試みているのは人間の行動に科学的なメスを入れようとしている行動科学である。

行動科学は、人間の本能として人間の攻撃性をとらえたフロイトやらの学説と、そうではなくて環境を重視して環境に対する不平不満から人間の攻撃性が起こっているのであるとする説とに大別されるとして両説を併記している。

ところで、人間の攻撃性や、破壊性について論ずることは最後には人間が共生することが可能であるのか、人間が人間に対して攻撃性や、破壊性をなくして生きていけるのかという問題に帰着する。

これがラズウェルの言っている民主主義の政策学であるというように解釈できると私は考える。

民主主義に対する破壊はラズウェルが生きた時代には、全体主義の名のもとに時代の流れでもあったといえる。

ラズウェルが生きた時代にラズウェルが言いたかったのはどのようなことであったのであろうか。

政治学と精神病理学から、権力と人格に到るラズウェルの研究、業績をまず概説することからはじめる。

一方では、人間の攻撃性について科学的な観点から、人間の行動にメスをいれたのは行動科学であった。

政治的状況が、あるいは、政治的な環境が不平不満を誘発して、政治的行動を引き起こし、それが政治的な政策決定過程に組み入れられてそして政治が動いていくのが現在の行動科学や、政治過程論を中心にした政治学であるならば、この人間の破壊性や、攻撃性について政治学が真面目に論ずることは意味のあることであろう。

人間の本能として攻撃性が備わっているのであろうか。

この問題に対してはラズウェルは明らかにノーと答えたであろう。

確かに攻撃性が本能であると見えるように人間がいることは確かである。 生まれながらにして貧乏であったり、明らかにハンディを背負ったりしているような人の場合に、その人に政治が全く加担したり、面倒をみてやらなかったりした場合にはそうであろう。しかし、そのような人であっても全く攻撃性がない場合もありうる。

それではどのような環境において攻撃性が人間に増大し、最後には人間の破壊性がうまれるのであろうか。

それは人間が何故に戦争を行い続けて来たのであろうかという戦争原因論にも帰着し、そうなると戦争犯罪や、戦争裁判の記録をも紐解かなくてはならなくなる。このような意味ではこの人間の破壊性と、攻撃性について論ずるのは戦争や、人間の残虐性についても論ずる必要があることになる。

ラズウェルが政治について論ずるのに、政策学という名前を使おうと考えたのは、政治が民主主義の政策学のみではなくて、全体主義の政治のように破壊性をもった政治も政治学として成り立ちうるが、政策学であれば、民主主義の政策学のみに限定されると考えたからであった。このことは明らかに人間の攻撃性についてそれを和らげるための政治、それをもって政策学としたいという意図があったものと考えられる。これはスポーツなどの人間のカタルシスの行動について論じたところにはっきりとあらわれている。彼はいう。「カタルシスのみでは充分ではない。」と。このことは人間の攻撃性を、あるいは、そこからはじまるであろう人間の破壊性を和らげるためには、カタルシスのみでは有効ではないということを言いたいのであり、カタルシス以外の科学的な政策学が人間の攻撃性や、人間の破壊性を和らげるものであるようにしなくてはならいといっていると考えるほうが妥当である。

このように人間の破壊性や、攻撃性について真剣に論じてそれを行動科学や、精神病理学と結び付けようとしたのは、ラズウェルが最初であったと考える。しかし、それは現代の行動科学の発達からすれば、微々たる端緒であったのであり、それ以降の行動科学の発達をも取り入れるべきであろうと考える。

民主主義の政策学とラズウェルがいうときには、人間の攻撃性や、破壊性について減殺するような科学的な政策の科学を指していると考えるのであるが、その人間の攻撃性や、破壊性について何故に起こるのかについては政治学の分野ではないと考えられるであろうか。

政治的な攻撃性や、破壊性については政治学の分野であろう。

しかし、それが政治的な分野以外であるならば、それは政治学とは関係がないことになる。政治的な攻撃性や、破壊性について論ずることは戦争論や、戦略論とも関係して政治的な攻撃性や、破壊性について因果関係を論ずることは正解を出すことは不可能であろうが、歴史上政治的な攻撃性や、破壊性について多くの例を上げることは可能である。

現代の政治学にとって歴史上のすべての政治的な攻撃性や、破壊性について研究をすすめることは不可能である。

そこで民主主義の政策学という観点に限定してラズウェルは考察していったのではなかろうか。人間の本性と、時代の流れ

運命の女神が自由な人間の意思との間でどのような

現代日本の政治と、政策

ポスト冷戦時代の世界政治と、ポスト五五年体制の日本の政治

第一章 政治学の基本的性格

第一節 政治学の対象としての政治

概念規定の問題

政治とは「人間が人間に利害関係のあるあらゆる制度と、人間との間に利害があるときに」「人間が」「利害関係を調整するために」「様々な政治的過程を通じて」「国家や、家庭や、職場や、組合や、政党や、様々な地域やらに様々な場所において」「人間に利害関係のあるあらゆる制度を維持したり、変化させたり、新たな制度等として作り上げようとする現象」である。以上の定義に含まれる様々な政治的現象を研究するのが政治学であり、そのような政治性を有する人間を政治的人間という。すべての人間は政治的人間である。それは人間は制度等の政治的環境のなかで生活しているからである。「人間に利害関係のあるあらゆる制度」を政治的環境とよぶ。

政治学political science 英語 、politische Wissensch aft[ト゛イツ語」]science politique[フランス語 ] とはどのような学問であろうか。それは政治に関する学問であるから政治を総合的に考えることによって政治の定義を行うことが第一の出発点であるということになる。人間にとって二つと、一つは全く意味は違い、対立が消えた。ヒトオラーと民主主義と、人類はじまって以来である。歴史は始まっていない。世界は統一されたのではないが、統一されたと同じようになった。

翻訳書と原書との関係について

日本で翻訳書を読むときには、その翻訳の原典となった版の原書を読んでいることになるのではあるが、その訳については異論がある場合があり得るので、その原書にあたることとした。ただしその訳が間違っていないときにはその訳書の表現を採用した。現代は外国原書の日本語への翻訳書が多くなってきて、世界の名著も数多く日本語で読めるようになったが、学問書としては原典に当たるべしという鉄則があるとのことなのでそれによったが、クセノフォンの『ヒエロ』などはマキャベリーも僣主論として参考にするようにという指示をしているが、ギリシャ語で読むことに努力したが、英語との対訳が広く出回っているので、それをも参考とした。明治の中村正直の『自由の理』の時代には世界の名著といえども日本では言語の壁が存在して、読むことが一般には難しい時代があったであろうが、現在は原書とともに訳書も広く出回っているので一般にも参考にできると思われる。今後はコンピュター翻訳技術の発達もあるであろうし、外国のニュースや書物が日本でも数多く手にいる時代がやってくると思われる。

原書名を極力いれることとした。

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デヴィッド・イーストン『政治分析の基礎』岡村忠夫訳(みすず書房、一九六八年)七七頁。。

ガブリエル・アーモンド、ブリングハム・パーウェル『比較政治学−システム・過程・政策−第二版』本田弘・浦野起央監訳(時潮社、一九八六年)五八六頁。。

ジェローム・トッチリー『マードック−世界制覇をめざすマスコミ王』(東京:ダイヤモンド社、一九九〇年)四頁。。

レ・シャピーロ『全体主義−ヒットラー・ムッソリーニ・スターリン−』河合秀和訳(福村出版、一九七七年)原著、一九七二年刊)六一〜六一頁。。

イェーリング『権利のための闘争』村上淳一訳(岩波書店、一九八四年)一〇四頁。。ハナ・アーレント『全体主義の起源三 全体主義』大久保和郎・大島かおり訳(みすず書房、一九七四年)(原著、一九五一年)一九四頁。、二三一頁。。

ジョン・ロック『統治論』宮川透訳(中央公論社、一九六八年)一九四頁。、一九五頁。、一九六頁。、二五二頁。。

R ・カイヨワ『遊びと人間』(岩波書店、一九七〇年)原著、一九五八年。

カール・R ・ポッパー『開かれた社会とその敵 第一部 プラトンの呪文』内田詔夫・小河原誠訳(未来社、一九八〇年)(原書、一九五〇年)

H ・L ・A ・ハート『法学・哲学論集』矢崎光圀ほか訳(みすず書房、一九九〇年)カール・シュミット『独裁』田中浩・原田武雄訳(未来社、一九九一年)

G ・シュワーブ『例外の挑戦・カール・シュミットの政治思想・一九二一〜一九三六』服部平治・初宿正典ほか訳(みすず書房、一九八〇年)

マイケル・オークショット「自由の政治経済学」『政治における合理主義』嶋津格・森村進訳(勁草書房、一九八八年)所収、四五頁。。ξλενθζρια

Oakeshott,Michael,Rationalism in Politics and other essays,METHUEN,1962.ハイエク「『自由』企業と競争的秩序」『ハイエク全集三個人主義と経済秩序』

O・R・ヤング『現代政治学の方法』(東京: 福村出版、一九七二年)

A ・F ・ベントリー『統治過程論』喜多靖郎・上林良一訳(法律文化社、一九九四年)学出版会)所収、四頁。。

フロイト、ブリット『ウッドロー・ウイルソン』

S・M ・リプセット『政治のなかの人間』内山秀夫訳(東京: 東京創元新社、一九六三年)ダバン『権利論』 D・D ・ラファエル『道徳哲学』(紀伊國屋書店、) 原書名:Raphael,D.D.,Moral Philosophy,Oxford Univercity Press,1981.

レイモン・ポラン『孤独の政治学』(福岡: 九州大学出版会、一九八二年)133頁。。プラムナッツ、J・P・著『政治理論とことば』森本哲夫・萬田悦生訳(昭和堂、)

ジョン・リース『平等』半澤孝麿訳(東京: 福村出版、一九七五年)

カール・シュミット『政治的ロマン主義』大久保和郎訳(みすず書房、一九七〇年)三四頁。。

ハンス・ケルゼン『法と国家の一般理論』尾吹善人訳(木鐸社、一九九一年)

ヘーゲル『法の哲学−自然法と国家学−』高峯一愚訳(論創社、一九八三年)

モンテスキュー『法の精神』野田良之ほか訳(岩波書店、一九八八年)

オイゲン・エールリッヒ『法社会学の基礎知識』河上倫逸・M・フーブリヒト訳(みすず書房、一九八四年)

原書: Ehrlich,Eugen,Grundlegung Der Sociologie Des Rechts,Duncker &Humbolt,1913.

マックス・ウェーバー『職業としての政治』( )

マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

ユストフ博士『ユダヤ法典百則』龍孫子訳(日本青年文化協会、一九四三年)

ガイウス『法学提要』船田亨二訳(有斐閣、一九六七年)

マーシャル・マクルーハン『人間拡張の原理』後藤和彦・高儀進訳(竹内書房、一九六七年)

Marshall Mcluhan,Understanding Media: The Extensions of Man,New York:McGraw-Hill,1964.

参考文献(自由論)

Z ・A ・ペルチンスキーほか編『自由論の系譜−政治哲学における自由の観念−』(行人社、一九八七年)(原書: 一九八四年)

R・パウンド『自由権の歴史』恒藤武二、山本浩三訳(京都ミネルヴァ書房、一九五九年)

原書=The Development of Constitutional Guarantees of Liberty.

マイケル・ポラニー『自由の論理』長尾史郎訳(東京: ハーベスト社、一九八八年)吉田和男監修『日本の国家予算』(講談社、一九九六年)

S・ルークス、J・プラムナッツ『個人主義と自由主義』田中治男訳(東京:平凡社、一九八七年)

矢島羊吉『カントの自由の概念』(東京: 福村出版、一九八六年新版増補版)

金子晴勇『近代自由思想の源流 ----十六世紀自由意志学説の研究----』(東京:創文社、一九八七年)

新田孝彦『カントと自由の問題』(札幌: 北海道大学図書刊行会、一九九三年)J・M・ケインズ『自由放任の終焉』

ハイエク『ハイエク全集 第五〜第一〇巻』西山千明、矢島均次監修(東京:春秋社、一九八六年)

ミルトン・フリードマン『政府からの自由』土屋政雄訳(東京: 中央公論社、一九八四年)ミルトン・フリードマン、ローズ・フリードマン『選択の自由------自立社会への挑戦------』西山千明訳(東京: 日本経済新聞社、一九八〇年)

ブキャナン、J・M・『自由の限界----人間と制度の経済学----』加藤寛監訳、黒川和美、関谷登、大岩次郎訳(東京: 秀潤社、一九七七年)

ロウィ・セオドア『自由主義の終焉----現代政府の問題性----』村松岐夫監訳(東京:木鐸社、一九八一年)

藤原保信『正義・自由・民主主義----政治理論の復権のために----』(東京:御茶の水書房、一九七六年)

渋谷浩ほか『政治思想における自由と秩序』(東京: 早稲田大学出版部、一九七一年)田中治男『フランス自由主義の生成と展開----一九世紀フランス政治思想研究----』(東京:東京大学出版会、年)

若松繁信『ブルジョア人民国家論の成立----イギリス急進主義史研究----』(東京:亜紀書房、一九六九年)

ラウマー、K・V・『自由と国家権力』千代田寛訳(東京;未来社、一九七〇年)勝田吉太郎『現代社会と自由の選択』(東京: 木鐸社、一九七八年)

田口富久治『現代の民主主義と自由』(東京: 新日本出版社、一九七六年)

マクファーソン、C・B・『自由民主主義は生き残れるか』田口富久治訳(東京:岩波書店、一九七八年)

キューンル、R・『自由主義とファシズム----ブルジョア支配の諸形態----』伊集院立訳(東京:大月書店、一九七七年)

サンケイ新聞社編『総合討論二つの自由----偽善のカゲにひそむもの----』(東京:日本教文社、一九七五年)

シクル、J・V・V・『危機にたつ自由----理想主義の暴政----』嘉治佐代訳(東京:ダイヤモンド社、一九七一年)

ラスキ、H・J『近代国家における自由』飯坂良明訳(東京: 岩波書店、一九七四年)デュヴェルジュ・モーリス『ヤヌス----西欧の二つの顔----』宮島喬訳(東京:木鐸社、一九七五年)

日本共産党『科学的社会主義と自由・民主主義』(東京: 新日本出版社、一九七九年)清水英夫『精神的自由権』(東京: 三省堂、一九八〇年)

ルークス、S・,プラムナッツ、J・『個人主義と自由主義』田中治男訳(東京:平凡社、一九八七年)

コリンズ、アイリーン・『十九世紀ヨーロッパの自由主義』山口大学西洋史学研究室訳(京都:啓文社、一九八九年)

ペルチンスキー、Z・A・,グレイ、J・編『自由論の系譜----政治哲学における自由の観念----』飯島昇蔵ほか訳(東京: 行人社、一九八七年)

服部平治ほか『現代自由主義の諸相』(東京: 風行社。一九九一年)

足立幸男『政策と価値----現代の政治哲学』(京都: ミネルヴァ書房、一九九一年)安藤次男『アメリカ自由主義とニューディール----一九四〇年代におけるリベラル派の分裂と再編----』(京都:法律文化社、一九九〇年)

田中浩『近代日本と自由主義』(東京: 岩波書店、一九九三年)

マナン、ピエール・『自由主義の政治思想』高橋誠、藤田勝次郎訳(東京: 新評論、一九九五年)

A・D・リンゼイ『自由の精神 現代世界における宗教・科学・社会』渡辺雅弘訳(東京:未来社、一九九二年)土橋貴『自由の政治哲学的考察----アウグスティヌスからフーコーまで----』(東京:明石書房、一九九二年)

ノーマン・ウィントロープ編『自由民主主義の理論とその批判』上巻、下巻、氏家伸一訳(京都:晃洋書房、一九九二年)

宮島泉『自律デモクラシーの理論----民主的自律の共和国考----』(東京: 新評論、一九九六年)

土屋恵一郎『正義論/自由論----無縁社会日本の正義(東京: 岩波書店、一九九六年)東畑隆介『ドイツ自由主義史序説』(東京: 近代文芸社、一九九四年9

仲手川良雄編『ヨーロッパ的自由の歴史』八等強: 南窓社、一九九二年)

(社会諸科学と自由)

渡辺洋三『人権と市民的自由』(東京: 労働旬報社、一九九二年)

小松茂夫『権力と自由』(東京: 勁草書房、一九七〇年)

小松茂夫『ロンドン通信−「ヨーロッパにおける〔人間の自由及び権利〕の現状』(東京:評論社,一九七八年)ラルフ・ダーレンドルフ『ザ・ニューリバティ----ポスト「成長」の論理----』加藤秀次郎訳(東京:創世記、一九七八年)

飯田経夫など『自由社会は生き残れるか』高坂正高尭企画監修(東京: 高木書房、一九七六年)

ラルフ・ダーレンドルフ『ライフ・チャンス----「新しい自由主義」の政治社会学----』加藤秀次郎ほか訳(東京創世記、一九八二年)

西尾幹二『自由の悲劇』----未来に何があるか----』(東京: 講談社、一九九〇年)樋口陽一『本当の自由社会とは----憲法にてらして----』(東京: 岩波書店、一九九〇年)河合栄次郎『河合栄次郎全集 第九巻 自由主義の歴史と理論ドイツ社会民主党論』社会思想研究編(東京:社 会思想社、一九九一年)

河合栄次郎『河合栄次郎全集 第十二巻 時局と自由主義 マルキシズムとは何か』社会思想研究編(東京:社会思想社、一九九一年)

若松繁信『イギリス自由主義史研究------古い自由主義の連続を中心に----』(東京:早稲田大学出版部、一九九一年)

田中正司『現代の自由----思想史的考察------』(東京: 御茶の水書房、一九八三年)(新装再版、一九八九年)柳田謙十郎『社会主義と自由の問題』(東京: 日中出版、一九八三年)

田中美知太郎ほか『変革期のなかの自由』(東京: 自由社、一九七一年)

日下喜一『自由主義の発展----T・H・グリーンとJ・N・フィッギスの思想----』(東京:勁草書房、一九八一年)

ラルフ・ダーレンドルフ『現代文明にとって「自由」とは何か』加藤秀治郎訳(東京:ティビーエス・ブリタニカ、一九八八年)

但し、本書は十年前、

ラルフ・ダーレンドルフ『ザ・ニュー・リバティ』加藤秀治郎訳で刊行されたものの改訳である。

原書=Ralf Dahrendolf,The New Liberty: Survival and Justice in a ChangingWorld, Routledge S Kegan Paul , London, 1975. の訳。

ノーマン・バリー『自由の正当性----古典的自由主義とリバタリアニズム----』足立幸男監訳(東京:木鐸社、一九九〇年)

ジョン・グレイ『自由主義』藤原保信、輪島達郎訳(京都: 昭和堂、一九九一年)原書名: Liberalism.

M・J・サンデル『自由主義と正義の限界』菊池理夫訳(東京: 三嶺書房、一九九二年)藤原保信『自由主義の再検討』(東京: 岩波書店、一九九三年)

佐々木毅ほか著『自由と自由主義----その政治思想的諸相』佐々木毅編(東京:東京大学出版会、一九九五年)

仲手川良雄『歴史の中の自由----ホメロスとホッブスのあいだ----』(東京:中央公論社、19八六年)

小川晃一『英国自由主義体制の形成----ウィッグとディセンター----』(東京:木鐸社、一九九二年)

矢島杜『権威と自由』(東京: 御茶の水書房、一九九六年)

佐久協『真自由論』(東京: 近代文芸社、一九九三年)

白石正夫『自由社会とは何か』(東京: 勁草書房、一九九四年)

橋本努『自由の論法----ポパー・ミーゼス・ハイエク』(東京: 創文社、一九九四年)碓井敏正『自由・平等・社会主義----新しい社会編成の原理を求めて----』(京都:文理閣、一九九四年)

京都精華大学出版会編『リベラリズムの苦悶----I・ウオーラーステインが語る混沌の未来----』(京都: 阿 社 一九九四年)

ルイス・ハーツ『アメリカ自由主義の伝統----独立革命以来のアメリカ政治思想の一解釈----』有賀貞訳(東京:講談社、一九九四年)

岡田与好『経済的自由主義----資本主義と自由--』(東京: 東京大学出版会、一九八七年)F・A・ハイエク『新自由主義とは何か----あすを語る----』西山千明編(東京:東京新聞出版局、一九七七年)

ディエス・デル・コラール『自由主義の過去と未来』小島威彦訳(東京: 明星大学出版部、一九八〇年)

日本経済調査協議会編『自由主義の前進』(東京: 日本経済調査協議会、一九九七年(東京:日本経済調査協議会、一九七七年)

上田貞二郎『上田貞二郎全集 第七巻 新自由主義』山中篤太郎など編(東京:上田貞二郎全集刊行会、一九七六年)

日本文化会議編『日本人は自由か』(東京: 紀伊国屋書店、一九七六年)

西尾幹二『自由の悲劇------未来に何があるか------』(東京: 講談社、一九九〇年)(哲学的自由)

M・クランストン『自由----哲学的分析----』小松茂夫訳(東京: 岩波書店、一九七六年)原書:Freedom: A New Analysis.

五十嵐明宝『運命と自由----実存思想と空・無我思想とを通して----』(東京:文化書房博文社、一九八〇年)

渡辺幸博『自由と疎外----近代的自由とその崩壊----』(京都: ミネルヴァ書房、一九七三年)

野村博『自由の探究』(京都: 世界思想社、一九七一年)

ルドルフ・シュタイナー『ルドルフ・シュタイナー選集 第八巻 自由の哲学』高橋嚴訳(東京:イザラ書房、一九八七年)

石塚経雄『無から真の自由へ』(東京: 大明堂、一九九〇年)

石塚経雄『無から真の自由へ 続』(東京: 大明堂、一九九一年)

ロロ・メイ『自由と運命 ロロ・メイ著作集 六』伊東博、伊東順子訳(東京:誠信書房、一九八八年)

ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』本間英世訳(東京: 人智出版社、一九八一年)村上嘉隆『自由論の構造----現代的自由の人間学的考察』(東京: 啓隆閣、一九七五年)栗田賢三『マルクス主義における自由と価値』(東京: 青木書店、一九七五年)

中野徹三『マルクス主義と人間の自由』(東京: 青木書店、一九七七年9

鰺坂真『自由について』(東京: 大月書店、一九八一年)

岩崎允胤『価値と人間的自由----実践的唯物論の方法と視角』(東京: 汐文社、一九七九年)

河野真『人間の自由』(東京;以文社、一九八四年)

岸本晴雄『人間の自由を考える』(東京: 学習の友社、一九八四年)

仲瀬行雄『わたしの自由』(大阪: 幻想社、一九八六年)

市川浩ほか編『現代哲学の冒険』 十三 制度と自由』(東京: 岩波書店、一九九一年)シェリング『人間的自由の本質』西谷啓治訳(東京: 岩波書店、一九七五年 改訳)ピエール・ショーニュ『自由とは何か』西川宏人、小田桐光隆訳(東京: 法政大学出版局、一九九五年)

宮地正卓『近・現代自由意志論小史』(神戸: 近畿印刷工業出版部、一九九三年)(法と自由)

遠藤比呂通『自由とは何か----法律学における自由論の系譜』(東京: 日本評論社、一九九三年)

H・L・ハート『権利・功利・自由』小林公、森村進訳(東京: 木鐸社、一九八七年)上原行雄、長尾龍一編、井上達夫ほか著『自由と規範----法哲学の現代的展開----』(東京:東京大学出版会、一九八五年)

山田卓生『私事と自己決定----Private Business and law`s Business ----』(東京:日本評論社、一九八七年)沢登佳人『権力止揚論』(新潟: 新潟大学法学会、一九七八年)小林孝輔『自由に生きる権利』(京都: 法律文化社、一九七二年)

K・W・ワトキンス編著『自由の防衛』村田克己、町井和朗監訳(東京: 研文社、一九八一年)

憲法理論研究会編『精神的自由権』(東京: 有斐閣、一九八二年)

後藤正弘『刑法における自由意志と責任』(伊勢原: 厚木書店、一九八〇年)

ペーター・コスロフスキーほか編『進化と自由』山脇直司、朝広謙次郎訳(東京:産業図書、一九九一年)

(自由民主党と自由主義)

松山幸雄『しっかりせよ自由主義』(東京: 朝日新聞社、一九八五年)

(思想の自由)

J・B・ビュアリ『思想の自由の歴史』森島恒雄訳(東京: 岩波書店、一九八三年改版)今津晃『西欧諸国における市民的自由獲得の歴史』(京都: 今津晃、一九八〇年)ボヴェー『ボヴェー著作集 七 自由の秩序』井口省吾訳(東京: ヨルダン社、一九七四年)

森有正『森有正全集 六 現代フランス思想の展望、自由と責任、初期評論』(東京:筑摩書房、一九七九年)

P・F・ドラッカー『傍観音の時代----わが二〇世紀の光と影----』風間禎三郎訳(東京:ダイヤモンド社、一九七九年)一三〇〜一五六頁。=「フロイトの神話と現実」の章(自由と経済)

J・M・ブキャナン『コンスティテューショナル・エコノミックス 極大化の論理から契約の論理へ』加藤寛監訳(東京: 有斐閣、一九九二年)

J・M・ブキャナン『公と私の経済学----ブキャナン経済学のエッセンス』田中清和訳(東京:多賀出版、一九九一年)

桜井哲夫『近代』の意味----制度としての学校・工場』(東京: 日本放送出版協会、一九八四年)

(強制収容所)

ブルーノ・ベテルハイム『鍛えられた心----強制収容所における心理と行動----』丸山修吉訳(東京:法政大学出版局、一九七五年)

参考文献(外国書) (一次文献)

John Stuart Mill,On Liberty ,London : J・W・Parker ,1859.

Erich Fromm, Escape from Freedom, New York: Avon Books,1969.

(二次文献)

David Spity edit,On Liberty : Annotated Text,Sources and Background ,Criticism/John Stuart Mill, New York: Norton , 1975.

(辞書)

Edited by Iain McLean, The Concise Qxford Dictionary of Politics, OxfordUniversity Press,1996.

Political Thought

(事典)

(政治と自由) Robert M. Stewart edt,Readings in Social and PoliticalPhilosophy,New York : Oxford University Press, 1986.

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Richard E.Flathman ,The Philosophy and Politics of Freedom, Chicago:University of Cicago Press,

1987.

Richard Norman,Free and Equal : A Philosophical Examination of PoliticalValues,Oxford :Oxford University Press, 1987.

Richard Norman,Free and Equal: A Philosophical Examination of PoliticalValues ,Oxford University Press 1987.

Harry Beran,The Consent Theory of Political Obligation,London: CroomHelm, 1987.

Ralf Dahrendorf,The Modern Social Conflict : An Essay on the Politicsof Liberty,London:Weidenfeld & Ni colson, 1988.

Paul Smart,Mill and Marx: Individual Liberty and the Roads to Freedom,Manchester;New York : Manchester University ;New York: Manchester University Press,1991. (政治思想と自由)

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(民主主義と自由)

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(十六世紀〜十九世紀の自由)

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(二十世紀の自由)

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G nther Roth,Politische Herrschaft und pers nliche Freibeit : HeidelbergerMax Weber Vorlesungen 1983, Frankfurt am Main: Subrkamp, 1987.

William A. Donohue, The New Freedom: Individualism and Collectivism inthe Social Lives of Americans, N. J.: Transaction Publishers,1990.

D. D. Raphael, "Liberty and Authority",edited by A. PhillipsGriffiths, Of Liberty, New York:

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Edwin G. Clausen and Jack Bermingham edt/, Roads to Freedom: theStruggleagainst Dependense in the Developing World, Aldershot, Hants, England: Avebury,1989.(法哲学と自由)

Sterling M.Mcmurrin edt ,Liberty,Equality ,and Law: Selected Tanner Lectureson Moral Philosophy,Salt Lake City : University of Utah Press,1987.

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(法学)(基本的人権)

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(議会と自由)

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(社会思想と自由)

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(経済政策と自由)

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(労働組合と新しい自由)

Yvonne Kapp, The Air of Freedom: the Birth of the New Unionism,London:Lawrence & Wishart, 1989.

(注 ) 人格と権力、行動、制度、権威、主権、国家、イデオロギー等政治学、法学の根本的、本質的問題が冷戦後再構成が迫られている現在、政治学、法学は新たな局面を迎えつつある。日本の高等教育が国家との間で左右に揺れていた戦前、左翼イデオロギーとマスコミが東西両陣営の対立する冷戦構造のなかで左よりの論陣をはった戦後、その戦後の世界の構造が崩壊した現在は政治学、法学のすべての根本問題が検討を迫られている。

(注 ) 政治における積極的自由と消極的自由は自由論におけるバーリンの意味における積極的自由と、消極的自由の区別に近く、フロムの意味ではない場合が多い。積極的行政国家といわれるような場合がそれにあたる。フロムの意味で積極的に法を守る人間を育てるという考え方もある。(注)マキャベリーの自由論は政治そのものの動きのなかにおける自由の意味を説いている。(注)ある選択の自由について妨害や障害がないその範囲はいかなるものであるかが消極的自由であり、ある選択の自由について「どのような行動をすることが積極的に許されているのか」ということ、その積極的自由の範囲がいかなるものであるかということは、法的な意味について述べる時は法哲学上の問題であるが、政治的な意味について論ずる時には政治学上の問題である。(注)ヒットラーのナチズムが干渉したその積極的自由の許されるべき範囲や、ゲシュタボが行った秘密に対する干渉の範囲を定めることは政治学上の問題である。強制収容所における人間への干渉、秘密警察の干渉は『アンネの日記』やソ連においてはソルジェニーツィンの『収容所列島』のなかに表現されている。

(注 )フッサールの間主観論

フッサール『ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学』細谷恒夫訳『世界の名著五一』(中央公論社、一九七〇年)においてフッサールは次のように述べている。

「『自我』という視点からいえば、特に自我と他我に関する総合、『自我と汝の総合』、また複雑な総合である『われら総合』という新しい主題を意味する。

あるしかたでは、このことはまた一つの時間化なのである。それはすなわち、自我極の同時性という時間化なのであるが、この同じことを別のことばで表現すれば、すべての自我が自分がそのなかにいることを知っている人格的地平の構成、という時間化なのである。それは、すべての自我主観の「空間」としての、普遍的社会性である。しかしいうまでもなく、相互主観性の総合は、いままで述べてきたすべてのことに関係する。すなわち、すべての人にとって相互主観的に同一である生活世界は、現われの多様性に対する指向的「指標」としての役を努め、この現われの多様性は、相互主観的総合のなかで結合され、それを通じてあらゆる自我主観が共通の世界とその事物へと向かい、それが一般的な「われわれ」のなかで結合される、活動性等の領域となるのである。」(フッサール、訳書、五四八頁。)

「新しい関心の方向をうち立てるとともに、したがってまた厳密な判断中止によってこの生活世界は、第一の指向的題目となり、現われ方の多様性とその指向的構造へと遡って問う場合の、指標、手引きとなる。第二の反省の段階においては、新しい視線の方向は自我極、及びその同一性を持つ固有なものに向かうのである。」(ibid.五四七頁。)

(注 ) 外的選好と内的選好

制度の選好と個人の選好

社会的外的選好と、個人的内的選好の対立という問題を私の言葉でいえば、社会の政治的制度の傾向と個人の性格の傾向との対立ということであり、依存的な性格の人は権力が巨大でそれに依存できる政治的、社会的制度を望む、つまりそのような制度をユートピアと考えるが、逆に自由で独立的に、自己を涵養してなっている人はオープンで、自由で独立した人々の社会をユートピアと考えるということである。つまり、この制度と、個人の選好の合致、不一致という問題が政治的社会化や、発達心理学や、適応の問題なのであって、それは政治的ユートピアと社会、政治制度の対立や一致を研究することだともいえ、それらの対立と一致に関する行動が政治的行動である。これらについては後に深く研究することになる。マキャベリーの時代は戦争と国土統一の時代であったから、『君主論』や、『政略論』が政治学として必要であったし、モンテスキューの『法の精神』の時代はその時代の法の精神をあらわしたものであったが、現代は東西冷戦終結後であるからこそ、この個人(の政治的選好)と、社会(の政治的選好)の対立こそが政治学の主要なテーマとなったといえ、この社会とはヘッフェによれば法と国家であって、ヘーゲルやケルゼンらの伝統をくむものであったが、バーリンやフロムにおいては自由と積極的自由の対立であったのだ。そこに心理的な側面も加わってきたのである。そして現代の東西冷戦後の現代においては依存と自由、独立の対立であると私は思うし、クリントンの福祉切捨てと自由、独立が受け入れられたのはそこに理由があったと思われる。しかし自由で独立した人々が職や、ビジネスがなくてはどうしようもない。そこに現代の自由、独立のなかの平等論が存在する理由があると思われる。

(注 ) 反政治の依存的な人々

他の普通の人が一生懸命「職業としての政治」とは何かを考えていると、「政治は存在しない」とバーリンの積極的自由を主張している人々はいう。平等のためには、経済のためには、選択の自由は存在しない、従って政治も存在しないのだという。そこには公平性という公ではなくて、経済というもの、すべてを決定するとされる経済というものしか存在しない、当面は先にそれを決定してくれという。そしてソ連邦におけるノーメンクラツーラのようになったらどうしたらよいのか、経済先決後のことは教えてはくれない。貧乏をなくすのが先だという考え、今は選択の自由等考えられないというのとよく似ている。これはマルクスのみならず、フロイトの手紙に出てくるドラッカーが金銭ノイローゼとほぼ同じものである。

彼らは政治的総合よりも自分一人のあまのじゃくを目指すし、平等を目指すが、一党独裁(一人独裁)の思考方法のみは絶対にかえないのである。

そのようなフロイトやマルクスが批判している人物、それが東大、一橋大生であったとして、そのまま東大や一橋大生が、フロイトやマルクスのいうようなブルジョアの本を読まず貧しくても実用書しか読んでいなかったとしたら、これは喜劇でしかない。そして応々にしてそのようなことでしかない。

(注 ) 法とオプティミズム

過去のことに拘束されないで、将来の夢のあることのみを考えているオプティミストには裁判や、法は向いていない。なぜなら法は過去の証拠に関わることだからである。

過去の証拠にこだわることはほとんど無意味であるのは、ベニスの商人が示すものである。法を有効で活きたものにするためには、将来のための法でなくてはならない。

(注 )

「自由は強制することはできない。束縛や障害や妨害を取り除いてやれるのみである。あとは選択の自由にまかせるの

という命題は正しいだろうか。この命題はバーリンのいう消極的自由なくしてバーリンのいう積極的自由はないということをあらわしている。つまり、すべての自由は消極的自由からはじまるということである。

しかし消極的な干渉されない自由を得るためとでも、自由からの逃走を防ぐためには自由は強制されなくてはならない。

(注 ) 依存、非依存と差別

依存と非依存は差別・逆差別や、排除を生み、競争を内部においては嫌う。自由で独立した者どうしの間では競争はあっても、差別・逆差別や排除は存在しない。これは心理的な側面においてであるから、やっつけてやれという感覚が心理的に発生し、それが残酷性につながるようである。競争しているのだから相手をやっつけてよいと思うのである。この競争を内部においては嫌い、外部に対しては競争をしかけるというのは、競争の概念の分裂、バーリンのいう自我の分裂とよく似ている。

(注 ) 消極的自由(権)の立法趣旨

バーリンが自分の干渉されない消極的自由の範囲内では、「する自由」も、「不作為をする自由、しないことをする自由」もあるという時、ある意味では何故自分の干渉されない自由を維持すべきなのかという自然法、ひいては憲法原理上の立法趣旨について述べているように思われる。これは所有権の絶対性の立法趣旨でもある。

一方義賊の心理はバーリンのいう積極的自由の立法趣旨を心として表現したものであるといえる。これは所有権の絶対性を批判したものでもある。ドゥウォーキンが述べたとおりに平等のためには干渉されない自由などは存在しないということであり、義賊の心理と同じく金持ちは最後の一ペンスを貧乏な人々に分け与える義務を持つという考えかたであり、これを道徳上の原理として要求したのがT・H・グリーンの自発的な義賊への財産の差し出し義務の理論である。

このバーリンのいう消極的自由と、積極的自由の概念の対立は東西冷戦を発生させたが、そこには平等なる資源と言うときの資源は自由の構成要素であるという概念が存在しなかったのである。(注)ベイは、その『自由の構造』第三章の(七三)番目の注において、「人を自由ならしめるように強制するとの考え方は国家の成長を個人の「自由」拡大の代理的手段と見る一般的な理想主義者の傾向を極端に表現したものである。」(横越英一訳)との考えを表明し、ルソーは個人と国家を一体化するような傾向をある程度持っていたと考えている。

(注 ) 徳富蘇峯が晩年に国家主義に転向したのと同じようなことであろうか。

(注) 人間関係は二人の人間関係から考察してよいのだろうか。制度とか、選挙で誰に投票するのか等について話しあっているのは社会全体という漠然としたものについて話しているのに、二人の人間関係から考察していってよいのだろうか。一人が依存的で、一人が独立的ならば、二人は合っていない人間関係なのに、社会全体の制度について話しあえるであろうか。合致点を見出しうるのであろうか。

(注) 政治や、社会は人間関係ではあるし、人間関係は相互に主観的なものが関係を持つものである。

人間関係はフロムのいうように自分が自己充実していなければ、相手に左右されてしまうことになる。自己を充実させるためには自らが自らのなかに自由を充当し、自我を完成させなくてはならないであって、自我を他人に従属・依存させているかりではいけない。卑近な例でいえば、自らが料理を作るのではなくて、いつまでも他人に作ってもらっていれば、いつまでも自分で料理を作れなくなってしまうという例をあげることができる。自らが法を作ることなく、他人の法に依存し従うことしか考えていなければいつまでたっても法の趣旨というのは分からなくなる。

(注) 自由とはある環境のもとで、ある人がある資源を持ち、他の人の拘束や禁止から(自由に=なし) に、あることをする権利があると認められること(政治的自由)である。その自由が権利として認められていない場合は自由があるというだけのことである。経済的自由、内心の自由、心理的自由についても、このような仕方で定義できる。政治とはその環境のうちでも政治的な環境のなかで、政治的資源をある人が、もち、他の人の政治的拘束や政治的禁止なしに、ある政治的な事柄をする政治的権利を有したり、政治的自由をその人が政治的に実行したりして政治的社会を作ることであり、その場合の人を政治的人間と呼び、政治的権利と他人からみればその人の政治的権利を守る義務との集合体を政治的制度という。自由意志は社会的なものであり、生物的(動物的=本能的)なものではない。人間には本来生きる本能しかなく、そのなかに食衣住(アダム・スミスの「国富論」の中では衣食住ではなくてこの順番に並べられている)生殖が含まれる。従って自殺はフロイトのように死のように死の本能を設定するのではなくて、社会的なものだと考えねばならず、そこから社会的精神医学が生まれる。それはデュルケームのように全体社会を想定するのであってはならない。

(注 ) 自由と資源の関係は政治経済学を形成する。一方固い日本の制度が日本の治安をよくしているというような制度と人間の関係が政治学を形成する。

(注 ) 平等は資源について平等、人格の取り扱いやコンサーン、配慮についての平等、人格が尊敬されることについての平等等に分けられるであろう。資源の分配についての平等についてはロールズが言及するし、政治学者も稀少資源の配分と政治を定義するものは平等な分配に言及し、自由については言及しない。

(注 ) 欠乏からの自由は、ない資源(選択する自由のなさ)を補充するということになり、経済的自由と関連する。

(注 ) 資源や機会らは平等が必要であっても自由のためにあるのであって、その基本的な線と点は守らなくてはならない。

(注 ) 所有権については富裕な人々の所有権についても保護する政策をとったとしても、貧しい人々の所有権についてはそれらの人々こそ多くの資源を必要とし、生産された資源を多く消費する人々であるより富裕になる意志を持っている人々であるからそれらの人々に対する政府の補助、児童手当等を含めた補助は大いにおこなわれかつ、その後の貧しい人々の所有権も守るべきである。

(注 ) 平等は評価であり、自由は政府が権利として求める時は評価であり、自らの意志としては事実である。抑圧されても自由の事実は残る。資源があれば実質的となり、権利は形式的である。ある人間が自由を抑圧されても自由が残っている時もある。

(注 ) 本当に平等は恐ろしいものであり、自由を否定するものであろうか。平等は状態であって自由のような動きではない。

(注 ) 自由を主張する貧乏人が存在する自由な貧乏人でありかつ、自由、所有権の絶対を主張する貧乏人である。例えば貧しくて小さな家でも干渉されない小さな自由を守る人もいる。これをストア派の足るを知るストイックな自由として義賊らが批判するのは正当であろうか。

(注 ) 自由のなかの平等性の考慮は、自由の問題であり、平等の問題ではない。

(注 ) 所有の自由を主張する保守主義と、所有については不自由で、平等的であるべきであるが考え方においては自由であるべきだと主張する自由主義・リベラリズムという二つの主義は、資源の平等性を認めるかどうかに主な相違点があるのだろうか。自由を求める保守主義は所有や資源についての現状維持、平等な静的状態であれ、不平等な静的状態であれば満足している人々が保守的にその状態を守ろうとする。ところが自由を求める自由主義は現状の不平等な資源や、所有の状態に対して不満を抱く人たちがそのような静的状態は政府や国家の「自由な」かどうかは別として自由主義的な政策によって変化されるべきであるとされる。ソ連の最期においては変化と改革が求められ、クリントンのアメリカにおいても変化と改革が求められた。かつてのソ連の革新であった共産主義は不平等な静的状態をもたらしたのであろうか。

(注 ) 経済という稀少性は政治の一部門である。あるいはそうあるべきで、稀少性は政治の全部であるべきでない。

(注 ) 経済と精神

経済と精神は稀少性のある自由の対象となる資源と精神との対応関係においてとらえられる。自由は、ある稀少性のある資源に対してある人がAから自由にBをすることができることを意味し、その資源については有限なものもあるし、無限な空気のようなものもあるし、言論のように社会的なものもある。

(注 ) 政治における自由の観念は、自由が実は経済資源等の自由を制限するものによって制限されていることを理解する時、心のなかでは完全な自由が存在するにしても実際の自由は思ったよりも少ないことによって制約されることを理解し、自由を求める政治運動は実は経済的な自由の制限によってほとんど有名無実のものであることを知ることになる。

(注 ) 平等は、経済的な消費することができる自由が平等にあることであると定義すれば、経済的な自由の量が等しいことであると考えられる。いくら自由、自由と叫んでも、思想・表現の自由以外の物を買う自由の量が各人各人違うとすれば、自由の意味が全く違うことになる。政治学や法学において研究すべき自由は消費することの自由の量を考えることであって、純粋経済学のいう稀少性の総体を考えることではない。

(注 ) 平等は状態を表し、自由は行動をなかに含むものであるので、平等は静的なものであり、自由は動的なものである。平等を主張することにより自由を制限しようとすることは平等を主張することによりそれ以上の変化を望まない静的な考え方であるのであり、それが平等の思想の一つの欠陥であったと考えられる。平等な配慮と尊重はある自由な行動に対する法的な判断としてのある人の自由を制約し、他の人の自由を奨励するという考え方であるので、動的な側面を第三者の法哲学的立場として有するものではあるが、完全な平等な状態をあくまでも維持しようとするならばその人の自由を制約し続けるという意味において静的な状態を維持しようとしているのであり、自由を制約し平等という静的な状態の維持に汲々として自由のない社会を形成してしまう可能性が否定しきれないのである。

(注 ) 自由の主張が、ある環境のもとでは平等の主張として行われている場合がある。例えば極端な不平等が存在するような環境においては他の人と平等になるために、平等になることを要求する場合の自由の主張である。ある人の自由のための資源が極端に少ない場合である。この場合フランス革命時代の標語のように「自由・平等・博愛」は互いに反発するものではなくて、親和的なものであった。自由論と平等論を論ずるにあたってこの「自由」と「平等」の対立がいつごろからおこってきたのかについて、しかし、このような親和性を人々がどのようにみていたのかについて、私たちは十分に考察してみる必要がある。

(注 ) 政治的制度

政治教育及び、公民教育は主に制度の教育として表れるが、制度は各人の持つ政治的経験から生じた政治的意識に左右されるものである。ある人が自由競争のなかで地道に資本を形成し、大きな富を築いたとすればその人は自由競争の制度を支持しそのような制度を支持する政治的態度をとるであろう。逆に労働者として賃金を得ることで生計をたてているとすれば労働者に有利な制度を支持するであろう。政治的な人間は政治的な制度を作り上げる。政治的な人間の政治的意識の形成は様々であるので、自らの政治的意識に従って政治的な制度を支持することになる。大人になったすべての人に選挙権が存在する普通選挙権が確立されている現代においては、成人した大人すべてが自らの政治的意識に従って自らの支持する政治的制度を作ろうという政策を実行しようという政治家や正当にイエスの投票をし、そうでない政治家や政党にノーの投票をすることになる。(注)専制の環境にある者が「自由の強制」(干渉)なしに自由になろうとすること、これは自我の独立、あるいは、自由教育であるといえる。これに対して「自由の強制」によって自由になることは「自由」であるといえるであろううか。専制は「自由でない」が、専制であることは自由である、というのは、トートロジーであろうか。自由でないことが自由であるといえるか。「自由でない」とは専制によりある人が専制的支配者に支配されていることであり、自由でないことが自由であるとは、支配されていて自由でないことが好きである、つまり、自由から逃走することが好きであるということであり、ドイツや日本やイタリアの国家主義の時代にはそのような状態のなかにあった。この考えは他人の自由を認めない不寛容派の自由のなかにも認められる。しかし「自由でない」ことは、自由でない状態を表すことばであり、自由でないことが自由であるというのは矛盾である。この矛盾は自由のことばの使い方から発生した矛盾である。自由でないという時の自由はポジティブではなくネガティブな自由を表しており、自由であるとはポジィブな自由を表している。この場合の自由はポジティブな専制支配者の自由であり、自由でないという時の自由は被支配者のネガティブな自由である。

(注 ) 自由はフリーダムや、リバティの訳語である。サクソン語系のフリーダムのことばはほぼ同じ意味に使われていたが、しかし自由は歴史上の各々の時代においてその時代の政治的、経済的、社会的、文化的環境において人間がどのような自由を欲したかに応じて、その時代特有の自由への欲求に応じたいみが付与された。人間は自由を欲するものである。しかし完全な自由は時代が許さない。それぞれの時代、歴史に応じた自由があったことになる。自由の歴史も、社会的自由の一種である自由権の歴史も時代時代の環境、文化、社会、政治的環境に応じたものであった。歴史上最初に近代的な政治学についてその祖とされるマキャベリーにおいては自由とは専制や、独裁からの自由を意味した。マキャベリーの著作においては巻と章によってその論じている部分が指し示されるかんこうできあがっているのでそれに従って説明することにする。一般にマキャベリズムといわれているものはマキャベリーが論じているところの趣旨を誤って理解したもので、確かにマキャベリーは政治や国家の統一にはチェーザレ・ボルジアのような残虐性が必要な場合もあると論じたその裏にはこのような自由に対する渇望があったと考えられるものである。

(注 ) 自由の反対語は、依存する者と依存される(被依存)者との依存の関係である。クリントンの福祉改革は依存を断ち切り独立を促すものであった。自由であることは独立することでもある。専制が自由の反対語である場合、専制的支配からの自由を意味しているが、集団全体主義の反対語としての自由主義は被依存者との関係を断ち切ることを意味している。専制主義と独裁主義とは相違する。独裁は非常時に大権を握ることであるが、専制は平常時に大権を握ることである。集団全体主義は大衆化された時代において大衆全体を一集団として被依存者としての役割を与え、大衆全体がそれに依存しようとすることである。

(注 ) 相互依存関係にある社会内部においては各人が相互に依存しあっていることは普通一般に見出される。ところが被依存者を社会全体のうちに想定し、それに全員が依存しなくてはならないという状況は特殊な状況である。Aという人が工業を行い、農業については他のBという人に依存しており、かつ、Bという人は工業についてはAという人に依存していることは一般的なことである。これは社会関係ということができる。ところがすべてにおいてCという絶対的な人が被依存者であり、すべての人に依存するという現象は特殊なことである。コレクティビィズムのコレクトということば、集めるというのは何を集めているのかといえばこの依存性を集めているということではなかろうか。コレクティビィズムの本質については様々な議論が存在するであろうが、依存性という概念を中心にとらえるとすれば実際の経済的その他の依存と心のなかの心理的依存との両側面からの分析が必要となる。

一般の相互依存関係が「見えざる手」によって調整されるとする説は自由で独立した人間関係を是認するものである。「見えざる手」が失敗していると考える考え方は、集団全体を一つの巨大な統制者にみなし、社会内の大衆全員がそれに依存すべきであるという集団全体主義を生み出し大衆は依存者、統制者を被依存者とみなした。失業や倒産は経済内においては相当な確率で発生する。(注)積極的自由とは、依存者の無産者の自由は、消極的な有産者の自由よりも優先し、無産者が有産者になるための自由は、積極的自由であり、それを否定する自由は、全体の自由ではない、平等になるために、自分の財産を政治によって拡大する自由である。積極的自由とは、全体の意志によって富裕者の財産を減らすように干渉してよいという(平等のための)自由であり、それを否定するのが干渉を否定するという意味の否定的自由である。それが暴力革命と一党独裁の自由となる。

(注 ) 現代は各人がワープロ・パソコンを持ち、各人が自由に意志を表明する機会が多くなった時代であり、ナチスの時代の自由のことを考えたフロムや、バーリンの時代とは相当に自由を取り巻く環境が変化している。ナチスの時代でさえ映画による大衆の政治宣伝は人々の考える自由を奪い、それが自由からの逃走につながったのだと私は考えるが、現代においても、政府の政策や、事件をマスコミが報道する際に多数(マス)の専制によって各人各人の思考する自由を奪っていないかどうかを考えることは重要なことである。そこにバーリンの消極的自由の観念が生まれたのは最近のことであり、ナチスの時代にはバーリンのいう消極的自由の考え等ナチスに熱狂していた人々にはいなかったといえる。

(注 ) 囚人のジレンマは、例外状態においては悪人の方が勝つということを表していると断言してよいであろうか。例えば、無人島に一人分の食料しかないのに、九人が漂着した場合、一番悪い者が生き残るのであろうか。善人が生き残るのであろうか。依存性の強い者は悪い者が生き残るさというであろうが、全体を考えている人はいい人間が生き残るというであろう。

この例外状態の考え方は独裁や、経済先決論や、唯物論や、性欲論を形成しやすい。

依存性は例外状態においては独裁やらにつながるが、独立性は例外状態に対抗しえない。(注)自分が貧乏だと認識し、それに対して誰も助けてくれない、依存できない、誰かが自分に対価としてではなく、タダでものをくれないと主張することと、他の金持ちを「精神的に、私に自由をくれない、誤っている病気だとする考えは、ほぼ同一のものであり、ここで唯物論と、フロイトの生物学的精神医学が結びつく理由がある。

彼らは哲学的にそれをやっているわけではなく、嫉妬心が強いからそうやっている。人は嫉妬心が強くなくてはならぬという。

(注 ) 依存的な人間が他人に干渉するということのデメリットは、依存される人間が楽しくやっているのはいけないというので、依存される人間が寝たいのに、寝せないために、ストライキやらを行うということと似たような結果をもたらすという点にプライバシーの権利がおかされるのと同じような結果をもたらすというような点に、それから類推すると、依存させたくないのに、ストライキ等により依存させろといってくることに存する。

(注 ) 政治学のなかには、選択の自由を人々に認めるにしても社会全体にある一つの客観と政府が信じたものを普及させ、時には強制(このことばは使わない方がよい、自由の強制なのか、妨害なのか分からないから)する要素が含まれるているが、教育においては伝達するのみで、成績が悪くてもいいのだから強制の契機は少ない。

(注 ) 自由とは、積極的内容の自由と、消極的内容の自由とを双方共に含むものでなければ一つの自由として完成されることはないし、また、資源や能力がなければ、実質的に自由とはならない。

(注 ) 自由であるように強制するということの反対のことばは、自由でないように強制するということである。

(注 ) 自由は平等にできるか

自由は平等にはできない。なぜなら、実質的平等はいくら形式的に平等にしたからといっても、資源の不平等や、能力の不平等やらによって平等ではないからだ。ある自由が与えられている人が、資源・資金がなくて実質的に自由を行使できなかった時に資源・資金が手に入り自由を行使できるようになった時には、自由が増えたというのだろうか。資源・資金が増えたというのだろうか。形式的自由は変化はないが、実質的自由が増えたというのは詭弁であろうか。

(注 ) ある民族は行動しながら考える。イギリス人は、ドイツ人は、・・人は・・・というのは、オプティミスティックな哲学を構成したり、行動するために多くのことを考える人は、デマや、ウソに左右されちることが多く、気が狂っているのと同じ状態になるが、一方では、行動のみをしている人は現実の今の動きにのみ左右されているのであってそのようなことが少ないのであり、新しい今の真実のための社会科学を構成しなら行動し、政治をしている可能性がある。

(注 ) 自分のことは何でも自分でできなくてはならないという考え方派、全体主義的統一的パーソナリティーの重大な要素であると考えられる。ところが依存的名場合は多くのものを自分で権威と考えているものに頼っているのであるが、それが性向となっているのである。しかし、人間の本性としては本能以外の部分については自由があり(この場合は選択の自由ではなくて、自己完成の自由、コンピュータでいえば何にでも慣れる自由、であるが)自己完成ができるようになっているということである。自己完成していない場合には他人に依存せざるをえないし、そうでないと生きてはいけない。いやそうではない、自己完成していないからこそ、依存せざるをえないのであり、早く自己完成して、自由で独立した人間本来の本性を取り戻すべきである。つまりすべての人は自己完成ができるようにできているということなのだ。これがペシミスティックの政治学である。(注)ある人が学問がすすんでいることと、それがイヤだということを、また、ある人が企業家精神があるということと、それがイヤだということお、依存性が場合には混同する。ある人が自分を観察することはイヤだという。自分は依存する方であり、依存される方ではないという。自分の間主観的な観察は自分の客観的な立場を明らかにし、自分がストライキのできる依存する環境から痛みを伴ってはずすことになるからイヤだという。ストライキは自分がするのであって、権威は偉大であるべきで、ストライキをすることはイヤだと思う。権力にはストライキ権はないし、依存している自分を観察し、客観的に依存しているということにも反対する。社会がそのような依存する人のみになったら、経済は破綻する。誰もが依存するばかりで何もしないからだ。彼らは不平・不満をいい、他人をなきものにするのが得意である。それがストライキのスローガンとなる。これは依存から発するすべての心理がつまったものとなる。彼らはきらいで、イヤな、依存できない人が、資格を取ったのがいけない、大学入試に通ったのがいけない、ついには勉強がいけない、そしてそれらは何でもいけないといえるという理論を発見し、ついには、「死の本能」があるとまでいいだす。これは依存性のあるすべての人が生み出す言葉であり、マルクスやフロイトに共通するものではない。

(注 ) 「国家の名」の後に隠れた、つまり、国家のためにの後に隠れた、残酷性の行使があったのではないかという反省は、マキャベリーがその前の世代を宗教の名に隠れた不合理性を主張したのと同じような観念の反省点でありうるし、それはいわゆる道徳によるカモフラージュという反省である。

(注 ) 共産主義社会内においては、物産品は労働価値によって価値が決まり、効用価値によらないのであるから、その移動は交換や商業という効用価値を基準にしたものによらず、国家の統制的経済計画による流通による移動によることになる。ある生産品はすでにどこの誰に移動されるか国家がきめているこになる。この選択の自由のなさは各人の効用をあらかじめ国家はきくことをしないので、恣意的である。

(注 ) ルソーの性格の特性、あまり強くない性格の傾向を理解していればルソーの解釈にあたって宇宙だけから判断してルソーを全体主義としてとらえるような誤りはおかさないで済むことになる。ところが宇宙だけから判断すると「一般意志」とか、「自由であることの強制」ということばから全体主義であると解釈してしまうことがありうる。自由主義社会においても(この自由主義はリベラリズムではなく、資本主義社会)自由化のために「自由であることを強制」することはありうるし、また、国会の一般意志によってそのようにすることはありうるのであって、自由の強制も一般意志もがコレクティヴィズムの社会のみに使われることばではない。

(注 ) 九人に対して一人分の食料しかない場合を考えてみると、死の本能は人間にはないが殺すという選択の自由は原初的にはあったと考えられるが、それを一人の人に預けて、あるいは皆で、誰が生き延びるのかを決めたり、二、三日生きてすべての人が二、三日後には死ぬしかないということを決めたりする選択の自由はあるようだ。これはれうがい状態を考えているのであり、実際は生産ができるのでこのようなことはありえない。しかしこのことを考えて不安や、恐怖に陥る人はありうるし、それは依存というものから発生する恐怖や、不安と似ている点があるのはどうしてだろうか。シュミットの独裁の思想を例外状態の解決法と位置付けたシュワープの考え方は、このような場合に独裁にまかせるという考え方と似ているといえるのである。しかしそのような例外状態を解決するのに平等を重視して行うことも可能である。(注)物と商品

何故に資本主義は勝ったか。

それは物が並べてあることの意味を知っていたからだ。

階級制度のある国等では大金持ちが過度の干渉されない自由を主張することは、政府の平等化への政策、大金持ちの自由を平等のために少し減らして、貧乏人の自由を「真の自由」のために少し増やしてより平等に近づけることを政策を否定することになりかねない。この「真の自由」は貧乏人にとっては達成されるが、大金持ちにとっては不自由になることだということを理解しなければならない。しかし、階級制度のあるような国、イギリス、インドのような国ではそのような国ではそのような自由の主張は大切なことかもしれない。

ところが資本主義的自由は、人間の自然的平等のゆえに自然に平等を達成する。

平等な自由という目標は、自由の本質である選択の自由から来る計測不可能性のために、意味のないものであるが、自由な平等は目標としては設定しうる。

自由をすべての人のために認めているにもかかわらず、常に平等を達成するように努力している社会が理想である。これを自由な平等の社会であるとすれば、そのような社会を目標として設定することは可能である。自由の構成要件である資源を平等にしようとという思想であり、平等は自由の構成要件であるからこそ平等にしたからといって自由はそのまま維持されることになる。平等な資源は税や、自発的なボランティアによる)資源の移転や、道徳感情の自由な教育による涵養による資源野移転によって達成されるべきである。ここには強い教育(道徳教育)の要請がある。T・H・グリーンの考えは福祉国家にのみつながったが、自由の構成要素としての資源の平等性の追及はオープンな自由社会を目標とするものである。ロールズの最低限の生活をする人々の生活を向上させるためにも競争や自由や資源の不平等は認められるべきだという考え方ともことなっている。ロールズが最低限の生活をする人々の地位を向上させるという期待が合理的に認められるときにのみ、社会的、経済的不平等が認められるという考え方は静的な状態をとらえていう表現の仕方である。平等というものを考えることは不平等というものをとらえることと方法論としては同じであり平等も、不平等も自由の構成要素として自由のなかでとらえられるべきものである。

(注 ) 国家と政治は死滅するか

国家死滅とブルジョアの批判との自由連想

マルクスや、エンゲルスが国家は死滅するということばは、アナーキズムの根源的な命題であるが、それはすべての人を公務員にしてすべてを国家財産にしてしまえばすべての人は仲良くなるから、国家は必要ではないとしたのであり、そのことは義賊から生じる心理が挫折した結果すべてを共有財産にしてしまえばよい、つまり、バーリンのいう積極的自由を他人のすべての私有財産に対する干渉として及ぼして、妬みや嫉妬から成り立つ社会を形成してしまえばよいということであったのだ。それはすべての人が義賊となる社会であり、そうなればすべての人が義賊となる社会であり、そうなればすべての人はブルジョアとして批判されるような社会であったのだ。したがって、普通の人が生活する社会におけるすべての私有財産はブルジョア的なものを求める人であり、私有しようとという考え方はブルジョアの思想であり、その思想はイデオロギーとしてブルジョアのための思想であるとして批判されるべきものであったのだ。

なぜブルジョアの批判に、国家の死滅の論理は結びついたかは奇妙な心理的結合によるものであった。この自由連想の心理は精神分析されるべきである。まず義賊の心理は私有の批判になり、そして国家はブルジョアを守るためのものだという理論となり、そのようなブルジョアのためだけに存在する権力である政治は貧乏人のためにはなっておらずそのような政治や国家は存在する必要はないという理論となる。ところがここには政治の機能のうち権力のみをとりだし、調整という機能をネグレクトし、かつ、権力がブルジョア以外の人には役にたっていないという論理のすりかえが存在した。権力には貧乏人を押さえつけるという機能のほかに貧乏人を助ける機能もあるし、かつ、その他の様々な機能がる。人が存在するということを無視しており、それがそのまま一党独裁の思想につながることとなった。共有の思想が一党独裁に思想につながったのはこの政治の調整の機能を無視したことに一因があったのである。

(注 ) 二つのわがまま(つづき)

規制は、例えば安全教育がいきとどいていれば自由にバイク通学を認めることができるという事例をみても分かるように、ある安全を目的とする規制はその規制なしですますことができるのであり、規則と自由との関係はこのような関係にある。それと同じように各人に平等化への自己意識があれば、平等のために自由を殺すということは必要がなくなる。後者の自由はわがままという意味の自由であり、それにはバーリンのいう積極的自由におけるわがままと、バーリンのいう干渉されない消極的自由におけるわがままとの二つのわがままが考えられ、そのようなわがままが自覚されないと、自由のための強制が積極的自由に対しても必要となり、また消極的自由におけるわがままにたいしても自由のための強制が必要となる場合がある。後者の自分のための強制は積極的自由と呼んでいいものである。すなわち、独占の自由、一応は消極的な干渉されない自由に対しては政府は積極的自由によって干渉し、自由競争を確保せざるをえなくなり、その独占の自由というのはつまり私有を妨害するという自由であるのだから、専制や独裁によく似た自由であるといことになる。

(注 ) 法制度と、政治的人間

自分で納得して、権威や権力や法やら規範に従うことが必要だということを気にかけていないと、権威主義やファシズムやらに侵略される可能性が、日本、ドイツ、イタリアのような国においては、その法制度のために、特に高い。これは自由論の課題でもあるし、公民や、法曹や、マスコミの課題でもある。フロムの積極的自由も、バーリンの消極的自由もこのことを求めているのであって、グリーンの理論はこのことは逆のことを求めている。

(注 ) 秘密性と情報公開法

(注 ) 各個人が立法趣旨を理解しそれに従って行動するようになればなる程、政府は立法し方の規範によって各個人の規制をする必要がなくなるということは正しい命題であろうか。カントの汝のに従ってとい確率は本当に正しいのだろうか。遅刻をする人がいなくなったら学校において遅刻するなという拘束が必要なくなうであろうか。

(注 ) 消極的自由がそれ自体単独では自由であるといえないのは、自由とは〜する可能性であるからである。依存的な人々の攻撃から身を守ること、それが干渉されない自由である消極的自由であるとすれば、それによって自らの守るべき範囲を確定した後で(そのなかで)積極的に自己を完成しなければならない。その部分がフロムのいう積極的自由である。バーリンの消極的自由のあとに、フロムのいう積極的自由が必要となるし、バーリンのいう消極的な自由がなければフロムのいう積極的自由は存在しえないのである。ナチズムにあなたが占領されちる地域のなかにいるとしよう。ナチズムからまずあなたは消極的自由によって身を守り、ナチズムの妨害からの自由を勝ちとらねばならない。そしてそのあとで自らが社会のなかで役割を演ずることができるように自己を完成させねばならないのである。

(注 ) ドゥウォーキンが平等な配慮と尊重から権利の概念が導出できるといったのは、人間の間主観性の考慮において、相手の間主観性を配慮し尊重することによって相手の権利を自分と同等に認めよ、そうすれば間主観的な人間関係が客観的な人間関係になるといったと解釈できる。つまり自由の相互主張は、間主観を越えて客観的人間関係(彼はそのなかで一番重要なものは消極的自由ではなくて、平等性であると考えられたのだが)になれると考えたのであると考えることができる。

デヴィッド・ミラーによれば、客観的な正義こそ権利であるということになる。この客観的なとは間主観性を越えた客観性であり、依存性とは、間主観性を引き起こす最も大きな原因であると考えられる。

(注 ) 自由の権利と教育

「あいうえお」を教えることのなかに、教育の機能のうちの知識の伝達以外の機能、例えば自由の強制の機能が入っているのであろうか。

(注 ) 自らの性格の傾向と、社会の性格の傾向とが相違する場合にはどうすればよいのか。即ち、マルクスのような依存的な人が、独立自立の国にほおり出されたら政治恐怖に陥ってしまう。(注)自由からの逃走はいかにしたら防げるか−自由の強制

「自由からの逃走」をしがちな性格の傾向をもった人々や、民族は数多い。これを権威主義的傾向と呼ぼうが、そうではない他の呼びかたをしようが、それをいかにしたら防げるのかは大きな問題である。

(注 ) 自由と平等に関する研究を我々は何を得るために行ってきたのだろうか。自由は相手の自由も考えて間主観性を越えた真の自由となりうるということであろう。あるいは自由は平等な資源によってのみ平等な自由が確保されうるということであろうか。あるいは法律や、憲法上の諸原則を考える手掛かりとして自由について学習した結果が役に立ったのであろうか。自由は経済において選択の自由が必要だという点についてであろうか。自由が人間の本質である限りは人間は自由について永久に学び続けなくてはならないと考えらっる。

自由論は我々は積極性と共に謙譲を与えてくれる。

(注 ) 人格と権力、行動、制度、権威、主権、国家、イデオロギー等政治学、法学の根本的、本質的問題が冷戦後再構成が迫られている現在政治学、法学は新たな局面を迎えつつある。日本の高等教育が国家との間で左右に揺れていた戦前、左翼イデオロギーとマスコミが東西料陣営の対立する冷戦構造のなかで左よりの論陣をはった戦後、その戦後の世界の構造が崩壊した現在は政治学、法学のすべての根本問題が検討を迫られている。

(注 ) 政治における積極的自由と消極的自由は自由論におけるバーリンの意味における積極的自由と、消極的自由の区別に近く、フロムの意味ではない場合が多い。積極的行政国家といわれるような場合がそれにあたる。フロムの意味で積極的に法を守る人間を育てるという考え方もある。(注)マキャベリーの自由論は政治そのものの動きのなかにおける自由の意味を説いている。(注)ある選択の自由について妨害や障害がないその範囲はいかなるものであるかが消極的自由であり、ある選択の自由について「どのような行動をすることが積極的に許されているのか」ということ、その積極的自由の範囲がいかなるものであかということは、法的な意味について述べる時は法哲学上の問題であるが、政治的な意味について論ずるには政治学上の問題である。(注)ヒットラーのナチズムが干渉したその積極的自由の許されるべき範囲や、ゲシュタボが行った秘密に対する干渉の範囲を定めることは政治学上の問題である。強制収容所における人間への干渉、秘密警察の干渉は『アンネの日記』やソ連においてはソルジェニーツィンの「収容所列島」のなかに表現されている。

(注 )フッサールの間主観論

フッサール『ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学』細谷恒夫訳『世界の名著五一』(中央公論社、一九七〇年)においてフッサールは次のように述べている。

「『自我』という視点からいえば、特に自我と他我に関する総合、『自我と汝の総合』、また複雑な総合である『われら総合』という新しい主題を意味する。

あるしかたでは、このことはまた一つの時間化なのである。それはすなわち、自我極の同時性という時間化なのであるが、この同じことを別のことばで表現すれば、すべての自我が自分がそのなかにいることを知っている人格的地平の構成、という時間化なのである。それは、すべての自我主観の「空間」としての、普遍的社会性である。しかしいうまでもなく、相互主観性の総合は、いままで述べてきたすべてのことに関係する。すなわち、すべての人にとって相互主観的に同一である生活世界は、現われの多様性に対する指向的「指標」としての役を努め、この現われの多様性は、相互主観的総合のなかで結合され、それを通じてあらゆる自我主観が共通の世界とその事物へと向かい、それが一般的な「われわれ」のなかで結合される、活動性等の領域となるのである。」(フッサール、訳書、五四八頁)

「新しい関心の方向をうち立てるとともに、したがってまた厳密な判断中止によってこの生活世界は、第一の指向的題目となり、現われ方の多様性とその指向的構造へと遡って問う場合の、指標、手引きとなる。第二の反省の段階においては、新しい視線の方向は自我極、及びその同一性を持つ固有なものに向かうのである。」(ibid.五四七頁)

(注 ) 外的選好と内的選好

制度の選好と個人の選好

社会的外的選好と、個人的内的選好の対立という問題を私の言葉でいえば、社会の政治的制度の傾向と個人の性格の傾向との対立ということであり、依存的な性格の人は権力が巨大でそれに依存できる政治的、社会的制度を望む、つまりそのような制度をユートピアと考えるが、逆に自由で独立的に、自己を涵養してなっている人はオープンで、自由で独立した人々の社会をユートピアと考えるということである。つまり、この制度と、個人の選好の合致、不一致という問題が政治的社会化や、発達心理学や、適応の問題なのであって、それは政治的ユートピアと社会、政治制度の対立や一致を研究することだともいえ、それらの対立と一致に関する行動が政治的行動である。これらについては後に深く研究することになる。マキャベリーの時代は戦争と国土統一の時代であったから、「君主論」や、「政略論」が政治学として必要であったし、モンテスキューの「法の精神」の時代はその時代の法の精神をあらわしたものであったが、現代は東西冷戦終結後であるからこそ、この個人(の政治的選好)と、社会(の政治的選好)の対立こそが政治学の主要なテーマとなったといえ、この社会とはヘッフェによれば法と国家であって、ヘーゲルやケルゼンらの伝統をくむものであったが、バーリンやフロムにおいては自由と積極的自由の対立であったのだ。そこに心理的な側面も加わってきたのである。そして現代の東西冷戦後の現代においては依存と自由、独立の対立であると私は思うし、クリントンの福祉切捨てと自由、独立が受け入れられたのはそこに理由があったと思われる。しかし自由で独立した人々が職や、ビジネスがなくてはどうしようもない。そこに現代の自由、独立のなかの平等論が存在する理由があると思われる。

(注 ) 反政治の依存的な人々

他の普通の人が一生懸命「職業としての政治」とは何かを考えていると、「政治は存在しない」とバーリンの積極的自由を主張している人々はいう。平等のためには、経済のためには、選択の自由は存在しない、従って政治も存在しないのだという。そこには公平性という公ではなくて、経済というもの、すべてを決定するとされる経済というものしか存在しない、当面は先にそれを決定してくれという。そしてソ連邦におけるノーメンクラツーラのようになったらどうしたらよいのか、経済先決後のことは教えてはくれない。貧乏をなくすのが先だという考え、今は選択の自由等考えられないというのとよく似ている。これはマルクスのみならず、フロイトの手紙に出てくるドラッカーが金銭ノイローゼとほぼ同じものである。

彼らは政治的総合よりも自分一人のあまのじゃくを目指すし、平等を目指すが、一党独裁(一人独裁)の思考方法のみは絶対にかえないのである。

そのようなフロイトやマルクスが批判している人物、それが東大、一橋大生であったとして、そのまま東大や一橋大生が、フロイトやマルクスのいうようなブルジョアの本を読まず貧しくても実用書しか読んでいなかったとしたら、これは喜劇でしかない。そして応々にしてそのようなことでしかない。

(注 ) 法とオプティミズム

過去のことに拘束されないで、将来の夢のあることのみを考えているオプティミストには裁判や、法は向いていない。なぜなら法は過去の証拠に関わることだからである。

過去の証拠にこだわることはほとんど無意味であるのは、ベニスの商人が示すものである。法を有効で活きたものにするためには、将来のための法でなくてはならない。

(注 )

「自由は強制することはできない。束縛や障害や妨害を取り除いてやれるのみである。あとは選択の自由にまかせるの

という命題は正しいだろうか。この命題はバーリンのいう消極的自由なくしてバーリンのいう積極的自由はないということをあらわしている。つまり、すべての自由は消極的自由からはじまるということである。

しかし消極的な干渉されない自由を得るためとでも、自由からの逃走を防ぐためには自由は強制されなくてはならない。

(注 ) 依存、非依存と差別

依存と非依存は差別・逆差別や、排除を生み、競争を内部においては嫌う。自由で独立した者どうしの間では競争はあっても、差別・逆差別や排除は存在しない。これは心理的な側面においてであるから、やっつけてやれという感覚が心理的に発生し、それが残酷性につながるようである。競争しているのだから相手をやっつけてよいと思うのである。この競争を内部においては嫌い、外部に対しては競争をしかけるというのは、競争の概念の分裂、バーリンのいう自我の分裂とよく似ている。

(注 ) 消極的自由(権)の立法趣旨

バーリンが自分の干渉されない消極的自由の範囲内では、「する自由」も、「不作為をする自由、しないことをする自由」もあるという時、ある意味では何故自分の干渉されない自由を維持すべきなのかという自然法、ひいては憲法原理上の立法趣旨について述べているように思われる。これは所有権の絶対性の立法趣旨でもある。

一方義賊の心理はバーリンのいう積極的自由の立法趣旨を心として表現したものであるといえる。これは所有権の絶対性を批判したものでもある。ドゥウォーキンが述べたとおりに平等のためには干渉されない自由などは存在しないということであり、義賊の心理と同じく金持ちは最後の一ペンスを貧乏な人々に分け与える義務を持つという考えかたであり、これを道徳上の原理として要求したのがT・H・グリーンの自発的な義賊への財産の差し出し義務の理論である。

このバーリンのいう消極的自由と、積極的自由の概念の対立は東西冷戦を発生させたが、そこには平等なる資源と言うときの資源は自由の構成要素であるという概念が存在しなかったのである。(注)ベイは、その「自由の構造」第三章の(七三)番目の注において、「人を自由ならしめるように強制するとの考え方は国家の成長を個人の「自由」拡大の代理的手段と見る一般的な理想主義者の傾向を極端に表現したものである」(横越英一)訳との考えを表明し、ルソーは個人と国家を一体化するような傾向をある程度持っていたと考えている。

(注 ) 徳富蘇峯が晩年に国家主義に転向したのと同じようなことであろうか。

(注) 人間関係は二人の人間関係から考察してよいのだろうか。制度とか、選挙で誰に投票するのか等について話しあっているのは社会全体という漠然としたものについて話しているのに、二人の人間関係から考察していってよいのだろうか。一人が依存的で、一人が独立的ならば、二人は合っていない人間関係なのに、社会全体の制度について話しあえるであろうか。合致点を見出しうるのであろうか。全体を部分に分解しても商業、交換のようにその連鎖が社会全体を構成しうるような自由で独立した消極的自由を持った人間の関係に分割できるとすれば二人の人間関係が部分的であるからといっても社会全体を構想できると考えられることになる。

(注) 政治や、社会は人間関係ではあるし、人間関係は相互に主観的なもの関係を持つものである。

人間関係はフロムのいうように自分が自己充実していなければ、相手に左右されてしまうことになる。自己を充実させるためには自らのなかに自由を充当し、自我を完成させなくてはならないであって、自我を他人に従属・依存させているかりではいけな。卑近な例でいえば、自らが料理を作るのではなくて、いつまでも他人に作ってもらっていれば、いつまでも自分で料理を作れなくなってしまうという例をあげることができる。自らが法を作ることなく、他人の法に依存し従うことしか考えていなければいつまでたっても法の趣旨というのは分からなくなる。

(注) 自由とはある環境のもとで、ある人がある資源を持ち、他の人の拘束や禁止から自由=なしに、あることをする権利があると認められること(政治的自由)である。その自由が権利として認められていない場合は自由があるというだけのことである。経済的自由、内心の自由、心理的自由についても、このような仕方で定義できる。政治とはその環境のうちでも政治的な環境のなかで、政治的資源をある人が、もち、他の人の政治的拘束や政治的禁止なしに、ある政治的な事柄をする政治底権利を有したり、所為敷き自由をその人が政治的に行動したりして政治的社会を作ることであり、その場合の人を政治的人間と呼び、政治的権利と他人からみればその人の政治的権利を守る義務との集合体を政治的制度という。自由意志は社会的なものであり、生物的(動物的な=本能的な)なものではない。人間には本来生きる本能しかなく、そのなかに食衣住(アダム・スミスの「国富論」の中では衣食住ではなくてこの順番に並べられている)生殖が含まれる。従って自殺はフロイトのように死のように死の本能を設定するのではなくて、社会的なものだと考えねばならず、そこから社会的精神医学が生まれる。それはデュルケームのように全体社会を想定するのであってはならない。

(注 ) 自由と資源の関係は政治経済学を形成する。一方固い日本の制度が日本の治安をよくしているというような制度と人間の関係が政治学を形成する。

(注 ) 平等は資源について平等、人格の取り扱いやコンサーン配慮についての平等、人格が尊敬されることについての平等等に分けられるであろう。資源の分配についての平等についてはロールズでは言及するし、政治学者も稀少資源の配分と政治を定義するものは平等な分配に言及し、自由については言及しない。

(注 ) 欠乏からの自由は、ない資源(選択する自由のなさ)を補充するということになり、経済的自由と関連する。(注)資源や機会らは平等が必要であっても自由のためにあるのであって、その基本的な線と点は守らなくてはならない。

(注 ) 所有権については富裕な人々の所有権についても保護する政策をとったとしても、貧しい人々の所有権についてはそれらの人々こそ多くの資源を必要とし、生産された資源を多く消費する人々であるより富裕になる意志を持っている人々であるからそれらの人に対する政府の補助、児童手当等を含めた補助は大いにおこなわれかつ、その後の貧しい人々の所有権も守るべきである。(注)平等は評価であり、自由は政府が権利として求める時は評価であり、自らの意志としては事実である。抑圧されても自由の事実は残る。資源があれば実質的となり、権利は形式的である。ある人間が自由を抑圧されても自由が残っていう時もある。

(注 ) 本当に平等は恐ろしいものであり、自由を否定するものであろうか。平等は状態であって自由のような動きではない。

(注 ) 自由を主張する貧乏人が存在する自由な貧乏人でありかつ、自由、所有権の権利を主張する貧乏人である。

(注 ) 自由のなかの平等性の配慮は、自由の問題であり、平等の問題ではない。

(注 ) 所有の自由を主張する保守主義と、所有については不自由で、平等的であるべきが考え方においては自由であるべきだと主張する自由主義とは、資源の平等性を認めるかどうかに主な相違点があるのだろうか。自由を求める保守主義は所有や資源についての現況維持、平等な静的状態であれ、不平等な静的状態であれば満足している人々が保守的にその状態を守ろうとする。ところが自由を求める自由主義は現状の不平等な資源や、所有の状態に対して不満を抱く人たちがそのような静的状態は政府や国家の「自由な」かどうかは別として自由主義的な政策によって変化されるべきであとされる。ソ連の最期においては変化と改革が求められ、クリントンのアメリカにおいても変化と改革が求められた。かつてのソ連の革新であった教案主義は不平等な静的状態をもたらしたのであろうか。

(注 ) 経済という稀少性は政治の一部門である。あるいはそうあるべきで、稀少性は政治の全部であるべきでない。(注)経済と精神

経済と精神は稀少性のある自由の対象となる資源と精神との対応関係においてとらえられる。自由は、ある稀少性のある資源に対してある人がAから自由にBをすることができることを意味し、その資源については有限なものもあるし、無限な空気のようなものもあるし、言論のように社会的に有限なものもある。

(注 ) 政治における自由の観念は、自由が実は経済資源等の自由を制限するものによって制限されていることを理解する時、心のなかでは完全な自由が存在するにしても実際の自由は思ったよりも少ないことによって制約されることを理解し、自由を求める政治運動は実は経済的な自由の制限によってほとんど有名無実のものであることを知ることになる。(注)平等は、経済的な消費することができる自由が平等にあると定義すれば、経済的な自由の量が等しいことであると考えられる。いくら自由、自由と叫んでも、思想・表現の自由以外の物を買う自由の量が各人各人違うとすれば、自由の意味が全く違うことになる。政治学や法学において研究すべき自由は消費することの自由の量を考えることであって、純粋経済学のいう稀少性の総体を考えることではない。(注)平等は状態を表し、自由は行動をなかに含むものであるので、平等は静的なものであり、自由は動的なものである。平等を主張することにより自由を制限使用とすることは平等を主張することによりそれ以上の変化を望まない静的な考え方であるのであり、それが平等の思想の一つの欠陥であたと考えられる。平等な配慮と尊重はある自由な行動に対する法的な判断としてのある人の自由を刺激し、他の人の自由を奨励するという考え方であるので、動的な側面を第三者の法哲学的立場として有するものではあるが、完全な平等な状態をあくまでも維持しようとするならばその人の自由を制約し続けるという意味において静的な状態を維持しようとしているのであり、自由を制約し平等という静的な状態の維持に波及として自由のない社会を形成してしまう可能性が否定しきれないのである。

(注 ) 自由の主張が、ある環境のもとでは平等の主張として行われている場合がある。例えば極端な不平等が存在するような環境においては他の人と平等になるために、びょうおうになることを要求する場合の自由の主張である。ある人の自由のための資源が極端に少ない場合である。この場合フランス革命時代の標語のように「自由・平等・博愛」は互いに反発するものではなくて、親和的なものであった。自由論と平等論を論ずるにあたってこの「自由」と「平等」の対立がいつごろからおこってきたのかについて、しかし、このような親和性を人々がどのようにみていたかについて、私たちは十分に考察してみる必要がある。

(注 ) 政治的制度

政治教育及び、公民教育は主に制度の教育として表れるが、制度は各人の持つ以上のような政治的経験から生じた政治的意識に左右されるものである。ある人が自由競争のなかで地道に資本を形成し、大きな富を築いたとすればその人は自由競争の制度を支持しそのような制度を支持する政治的態度をとるであろう。逆に労働者として賃金を得ることで生計をたてているとすれば労働者に有利な制度を支持するであろう。政治的な人間は政治的な制度を作り上げる。政治的な人間の政治的意識の形成は様々である。ので自らの政治的意識に従って政治的な制度を支持することになる。大人になったすべての人に選挙権が存在する普通選挙権が確立されている現代においては、成人した大人すべてが自らの政治的意識に従って自らの支持する政治的制度を作ろうという政策を実行しようという政治家や正当にイエスの投票をし、そうでない政治家や政党にノーの投票をすることになる。

(注 )専制の環境にある者が「自由の強制」(干渉)なしに自由になろうとすること、これは自我の独立、あるいは、自由教育であるといえる。これに対して「自由の強制」によって自由になるおとは「自由」であるといえるであろううか。専制は「自由でない」が、専制であることは自由である、というのは、トートロジーであろうか。自由でないことが自由であるといえるか。「自由でない」とは専制によりある人が専制的支配者されていることであり、自由でないことが自由であるとは、支配されていて自由でないことが好きである、つまり、自由から逃走することが好きであるということであり、ドイツや日本やイタリアの国家主義の時代にはそのような状態のなかにあった。この考えは他人の自由を認めない不寛容派の自由のなかにも認められる。しかし「自由でない」ことは、自由でない状態を表すことばであろう。自由でないことが自由であるというのは矛盾である。この矛盾は自由のことばの使い方から発生した矛盾である。自由ではないという時の自由はポジティブではなくネガティブな自由を表している。この場合の自由はポジティブな専制支配者の自由であり、自由でないという時の自由は被支配者のネガティブな自由である。

(注 ) 自由はフリーダムや、リバティの訳語である。サクソン語系のフリーダムのことばやラテン語系のリバティという言葉はほぼ同じ意味に使われていたが、しかし自由は歴史上の各々の時代においてその時代の政治的、経済的、社会的、文化的環境において人間がどのような自由を欲したかに応じて、その時代特有の自由への欲求に応じた意味が付与された。人間は自由を欲するものである。しかし完全な自由は時代が許さない。それぞれの時代、歴史に応じた自由があったことになる。自由の歴史も、社会的自由の一種である自由権の歴史も時代時代の環境、文化、社会・政治的環境に応じたものであった。歴史上最初に近代的な政治学について研究し、政治学の祖とされるマキャベリーにおいては自由とは専制や、独裁からの自由を意味した。マキャベリーの著作においては巻と章によってその論じている部分が指し示される慣行ができあがっているのでそれに従って説明することにする。一般にマキャベリズムといわれているものはマキャベリーが論じているところの趣旨を誤って理解したもので、確かにマキャベリーは政治や国家の統一にはチェーザレ・ボルジアのような残虐性が必要な場合もあると論じたその裏にはこのような自由に対する渇望があったと考えられるものである。

(注 ) 自由の反対語は、依存する者と依存される(被依存)者との依存関係である。クリントンの福祉改革は依存を断ち切り独立を促すものであった。自由であることは独立することでもある。専制が自由の反対語である場合、専制的支配からの自由を意味しているが、集団主義・全体主義の反対語としての自由主義は被依存者と依存者との関係を断ち切ることを意味している。専制主義と独裁主義とは相違する。独裁は非常時に大権を握ることであるが、専制は平常時に大権を握ることである。集団主義・全体主義は大衆化された時代において大衆全体を一集団として、被依存者としての役割を与え、大衆全体が権威に依存しようとすることである。こう考えればフロムやアドルノの権威主義の考えが自由との関連で理解できる。

(注 ) 相互依存関係にある社会内部においては各人が相互に依存しあっていることは普通一般に見出される。ところが被依存者を社会全体のうちに想定し、それに全員が依存しなくてはならないという状況は特殊な状況である。Aという人が工業を行い、農業については他のBという人に依存しており、かつ、Bという人は工業についてはAという人に依存していることは一般的なことである。これは社会関係ということができる。ところがすべてにおいてCという絶対的な人が被依存者であり、すべての人に依存するという現象は特殊なことである。コレクティビズムのコレクトということば、集めるというのは何を集めているのかといえばこの依存性を集めているということではなかろうか。コレクティビズムの本質については様々な議論が存在するであろうが、依存性という概念を中心にとらえるとすれば実際の経済的その他の依存と心のなかの心理的依存との両側面からの分析が必要となる。

一般の相互依存関係が「見えざる手」によって調整されるとする説は自由で独立した人間関係を是認するものである。「見えざる手」が失敗していると考える考え方は、集団全体を一つの巨大な統制者に従属させ、社会内の大衆全員がそれに依存すべきであるという集団主義・全体主義を生み出し大衆は依存者、統制者を被依存者とみなした。失業や倒産は経済内においては相当な確率で発生する。この解決のために、このような集団主義・絶対主義が発生したのは自由と平等の調和論や平等により自由を殺すことの排除することよって回避すべきであるというのが今後の解決法である。

(注 ) 積極的自由とは、依存者の無産者の自由は、消極的な有産者の自由よりも優先し、無産者が有産者になるための自由は、積極的自由であり、それを否定する自由は、全体の自由ではない、平等になるために、自分の財産を政治によって拡大する自由である。積極的自由とは、全体の意志によって富裕者の財産を減らすように干渉してよいという(平等のための)自由であり、それを否定するのが干渉を否定するという意味の否定的自由である。それが暴力革命と一党独裁の自由となる。

(注 ) 現代は各人がワープロ・パソコンを持ち、各人が自由に意志を表明する機会が多くなった時代であり、ナチスの時代の自由のことを考えたフロムや、バーリンの時代とは相当に自由を取り巻く環境が変化している。ナチスの時代でさえ映画による大衆の政治宣伝は人々の考える自由を奪い、それが自由からの逃走につながったのだと私は考えるが、現代においても、政府の政策や、事件をマスコミが報道する際に多数(マス)の専制によって各人各人の思考する自由を奪っていないかどうかを考えることは重要なことである。そこにバーリンの消極的自由の観念が生まれたのは最近のことであり、ナチスの時代にはバーリンのいう消極的自由の考え等ナチスに熱狂していた人々にはいなかったといえる。

(注 ) 囚人のジレンマは、例外状態においては悪人の方が勝つということを表していると断言してよいであろうか。例えば、無人島に一人分の食料しかないのに、九人が漂着した場合、一番悪い者が生き残るのであろうか。善人が生き残るのであろうか。依存性の強い者は悪い者が生き残るさというであろうが、全体を考えている人はいい人間が生き残るというであろう。

この例外状態の考え方は独裁や、経済先決論や、唯物論や、性欲論を形成しやすい。

依存性は例外状態においては独裁やらにつながるが、独立性は例外状態に対抗しえない。(注)自分が貧乏だと認識し、それに対して誰も助けてくれない、依存できない、誰かが自分に対価としてではなく、タダでものをくれないと主張することと、他の金持ちを「精神的に、私に自由をくれない、誤っている病気だとする考えは、ほぼ同一のものであり、ここで唯物論と、フロイトの生物学的精神医学が結びつく理由がある。

彼らは哲学的にそれをやっているわけではなく、嫉妬心が強いからそうやっている。人は嫉妬心が強くなくてはならぬという。

(注 ) 依存的な人間が他人に干渉するということのデメリットは、依存される人間が楽しくやっているのはいけないというので、依存される人間が寝たいのに、寝せないために、ストライキやらを行うということと似たような結果をもたらすという点にプライバシーの権利がおかされるのと同じような結果をもたらすというような点に、それから類推すると、依存させたくないのに、ストライキ等により依存させろといってくることに存する。

(注 ) 政治学のなかには、選択の自由を人々に認めるにしても社会全体にある一つの客観と政府が信じたものを普及させ、時には強制(このことばは使わない方がよい、自由の強制なのか、妨害なのか分からないから)する要素が含まれるているが、教育においては伝達するのみで、成績が悪くてもいいのだから強制の契機は少ない。

(注 ) 自由とは、積極的内容の自由と、消極的内容の自由とを双方共に含むものでなければ一つの自由として完成されることはないし、また、資源や能力がなければ、実質的に自由とはならない。

(注 ) 自由であるように強制するということの反対のことばは、自由でないように強制するということである。

(注 ) 自由は平等にできるか

自由は平等にはできない。なぜなら、実質的平等はいくら形式的に平等にしたからといっても、資源の不平等や、能力の不平等やらによって平等ではないからだ。ある自由が与えられている人が、資源・資金がなくて実質的に自由を行使できなかった時に資源・資金が手に入り自由を行使できるようになった時には、自由が増えたというのだろうか。資源・資金が増えたというのだろうか。形式的自由は変化はないが、実質的自由が増えたというのは詭弁であろうか。

(注 ) ある民族は行動しながら考える。イギリス人は、ドイツ人は、・・人は・・・というのは、オプティミスティックな哲学を構成したり、行動するために多くのことを考える人は、デマや、ウソに左右されちることが多く、気が狂っているのと同じ状態になるが、一方では、行動のみをしている人は現実の今の動きにのみ左右されているのであってそのようなことが少ないのであり、新しい今の真実のための社会科学を構成しなら行動し、政治をしている可能性がある。

(注 ) 自分のことは何でも自分でできなくてはならないという考え方派、全体主義的統一的パーソナリティーの重大な要素であると考えられる。ところが依存的名場合は多くのものを自分で権威と考えているものに頼っているのであるが、それが性向となっているのである。しかし、人間の本性としては本能以外の部分については自由があり(この場合は選択の自由ではなくて、自己完成の自由、コンピュータでいえば何にでも慣れる自由、であるが)自己完成ができるようになっているということである。自己完成していない場合には他人に依存せざるをえないし、そうでないと生きてはいけない。いやそうではない、自己完成していないからこそ、依存せざるをえないのであり、早く自己完成して、自由で独立した人間本来の本性を取り戻すべきである。つまりすべての人は自己完成ができるようにできているということなのだ。これがペシミスティックの政治学である。(注)ある人が学問がすすんでいることと、それがイヤだということを、また、ある人が企業家精神があるということと、それがイヤだということお、依存性が場合には混同する。ある人が自分を観察することはイヤだという。自分は依存する方であり、依存される方ではないという。自分の間主観的な観察は自分の客観的な立場を明らかにし、自分がストライキのできる依存する環境から痛みを伴ってはずすことになるからイヤだという。ストライキは自分がするのであって、権威は偉大であるべきで、ストライキをすることはイヤだと思う。権力にはストライキ権はないし、依存している自分を観察し、客観的に依存しているということにも反対する。社会がそのような依存する人のみになったら、経済は破綻する。誰もが依存するばかりで何もしないからだ。彼らは不平・不満をいい、他人をなきものにするのが得意である。それがストライキのスローガンとなる。これは依存から発するすべての心理がつまったものとなる。彼らはきらいで、イヤな、依存できない人が、資格を取ったのがいけない、大学入試に通ったのがいけない、ついには勉強がいけない、そしてそれらは何でもいけないといえるという理論を発見し、ついには、「死の本能」があるとまでいいだす。これは依存性のあるすべての人が生み出す言葉であり、マルクスやフロイトに共通するものではない。

(注 ) 「国家の名」の後に隠れた、つまり、国家のためにの後に隠れた、残酷性の行使があったのではないかという反省は、マキャベリーがその前の世代を宗教の名に隠れた不合理性を主張したのと同じような観念の反省点でありうるし、それはいわゆる道徳によるカモフラージュという反省である。

(注 ) 共産主義社会内においては、物産品は労働価値によって価値が決まり、効用価値によらないのであるから、その移動は交換や商業という効用価値を基準にしたものによらず、国家の統制的経済計画による流通による移動によることになる。ある生産品はすでにどこの誰に移動されるか国家がきめているこになる。この選択の自由のなさは各人の効用をあらかじめ国家はきくことをしないので、恣意的である。

(注 ) ルソーの性格の特性、あまり強くない性格の傾向を理解していればルソーの解釈にあたって宇宙だけから判断してルソーを全体主義としてとらえるような誤りはおかさないで済むことになる。ところが宇宙だけから判断すると「一般意志」とか、「自由であることの強制」ということばから全体主義であると解釈してしまうことがありうる。自由主義社会においても(この自由主義はリベラリズムではなく、資本主義社会)自由化のために「自由であることを強制」することはありうるし、また、国会の一般意志によってそのようにすることはありうるのであって、自由の強制も一般意志もがコレクティヴィズムの社会のみに使われることばではない。

(注 ) 九人に対して一人分の食料しかない場合を考えてみると、死の本能は人間にはないが殺すという選択の自由は原初的にはあったと考えられるが、それを一人の人に預けて、あるいは皆で、誰が生き延びるのかを決めたり、二、三日生きてすべての人が二、三日後には死ぬしかないということを決めたりする選択の自由はあるようだ。これはれうがい状態を考えているのであり、実際は生産ができるのでこのようなことはありえない。しかしこのことを考えて不安や、恐怖に陥る人はありうるし、それは依存というものから発生する恐怖や、不安と似ている点があるのはどうしてだろうか。シュミットの独裁の思想を例外状態の解決法と位置付けたシュワープの考え方は、このような場合に独裁にまかせるという考え方と似ているといえるのである。しかしそのような例外状態を解決するのに平等を重視して行うことも可能である。(注)物と商品

何故に資本主義は勝ったか。

それは物が並べてあることの意味を知っていたからだ。

階級制度のある国等では大金持ちが過度の干渉されない自由を主張することは、政府の平等化への政策、大金持ちの自由を平等のために少し減らして、貧乏人の自由を「真の自由」のために少し増やしてより平等に近づけることを政策を否定することになりかねない。この「真の自由」は貧乏人にとっては達成されるが、大金持ちにとっては不自由になることだということを理解しなければならない。しかし、階級制度のあるような国、イギリス、インドのような国ではそのような国ではそのような自由の主張は大切なことかもしれない。

ところが資本主義的自由は、人間の自然的平等のゆえに自然に平等を達成する。

平等な自由という目標は、自由の本質である選択の自由から来る計測不可能性のために、意味のないものであるが、自由な平等は目標としては設定しうる。

自由をすべての人のために認めているにもかかわらず、常に平等を達成するように努力している社会が理想である。これを自由な平等の社会であるとすれば、そのような社会を目標として設定することは可能である。自由の構成要件である資源を平等にしようとという思想であり、平等は自由の構成要件であるからこそ平等にしたからといって自由はそのまま維持されることになる。平等な資源は税や、自発的なボランティアによる)資源の移転や、道徳感情の自由な教育による涵養による資源野移転によって達成されるべきである。ここには強い教育(道徳教育)の要請がある。T・H・グリーンの考えは福祉国家にのみつながったが、自由の構成要素としての資源の平等性の追及はオープンな自由社会を目標とするものである。ロールズの最低限の生活をする人々の生活を向上させるためにも競争や自由や資源の不平等は認められるべきだという考え方ともことなっている。ロールズが最低限の生活をする人々の地位を向上させるという期待が合理的に認められるときにのみ、社会的、経済的不平等が認められるという考え方は静的な状態をとらえていう表現の仕方である。平等というものを考えることは不平等というものをとらえることと方法論としては同じであり平等も、不平等も自由の構成要素として自由のなかでとらえられるべきものである。

(注 ) 国家と政治は死滅するか

国家死滅とブルジョアの批判との自由連想

マルクスや、エンゲルスが国家は死滅するということばは、アナーキズムの根源的な命題であるが、それはすべての人を公務員にしてすべてを国家財産にしてしまえばすべての人は仲良くなるから、国家は必要ではないとしたのであり、そのことは義賊から生じる心理が挫折した結果すべてを共有財産にしてしまえばよい、つまり、バーリンのいう積極的自由を他人のすべての私有財産に対する干渉として及ぼして、妬みや嫉妬から成り立つ社会を形成してしまえばよいということであったのだ。それはすべての人が義賊となる社会であり、そうなればすべての人が義賊となる社会であり、そうなればすべての人はブルジョアとして批判されるような社会であったのだ。したがって、普通の人が生活する社会におけるすべての私有財産はブルジョア的なものを求める人であり、私有しようとという考え方はブルジョアの思想であり、その思想はイデオロギーとしてブルジョアのための思想であるとして批判されるべきものであったのだ。

なぜブルジョアの批判に、国家の死滅の論理は結びついたかは奇妙な心理的結合によるものであった。この自由連想の心理は精神分析されるべきである。まず義賊の心理は私有の批判になり、そして国家はブルジョアを守るためのものだという理論となり、そのようなブルジョアのためだけに存在する権力である政治は貧乏人のためにはなっておらずそのような政治や国家は存在する必要はないという理論となる。ところがここには政治の機能のうち権力のみをとりだし、調整という機能をネグレクトし、かつ、権力がブルジョア以外の人には役にたっていないという論理のすりかえが存在した。権力には貧乏人を押さえつけるという機能のほかに貧乏人を助ける機能もあるし、かつ、その他の様々な機能がる。人が存在するということを無視しており、それがそのまま一党独裁の思想につながることとなった。共有の思想が一党独裁に思想につながったのはこの政治の調整の機能を無視したことに一因があったのである。

(注 ) 二つのわがまま(つづき)

規制は、例えば安全教育がいきとどいていれば自由にバイク通学を認めることができるという事例をみても分かるように、ある安全を目的とする規制はその規制なしですますことができるのであり、規則と自由との関係はこのような関係にある。それと同じように各人に平等化への自己意識があれば、平等のために自由を殺すということは必要がなくなる。後者の自由はわがままという意味の自由であり、それにはバーリンのいう積極的自由におけるわがままと、バーリンのいう干渉されない消極的自由におけるわがままとの二つのわがままが考えられ、そのようなわがままが自覚されないと、自由のための強制が積極的自由に対しても必要となり、また消極的自由におけるわがままにたいしても自由のための強制が必要となる場合がある。後者の自分のための強制は積極的自由と呼んでいいものである。すなわち、独占の自由、一応は消極的な干渉されない自由に対しては政府は積極的自由によって干渉し、自由競争を確保せざるをえなくなり、その独占の自由というのはつまり私有を妨害するという自由であるのだから、専制や独裁によく似た自由であるといことになる。

(注 ) 法制度と、政治的人間

自分で納得して、権威や権力や法やら規範に従うことが必要だということを気にかけていないと、権威主義やファシズムやらに侵略される可能性が、日本、ドイツ、イタリアのような国においては、その法制度のために、特に高い。これは自由論の課題でもあるし、公民や、法曹や、マスコミの課題でもある。フロムの積極的自由も、バーリンの消極的自由もこのことを求めているのであって、グリーンの理論はこのことは逆のことを求めている。

(注 ) 秘密性と情報公開法

(注 ) 各個人が立法趣旨を理解しそれに従って行動するようになればなる程、政府は立法し方の規範によって各個人の規制をする必要がなくなるということは正しい命題であろうか。カントの汝のに従ってとい確率は本当に正しいのだろうか。遅刻をする人がいなくなったら学校において遅刻するなという拘束が必要なくなうであろうか。

(注 ) 消極的自由がそれ自体単独では自由であるといえないのは、自由とは〜する可能性であるからである。依存的な人々の攻撃から身を守ること、それが干渉されない自由である消極的自由であるとすれば、それによって自らの守るべき範囲を確定した後で(そのなかで)積極的に自己を完成しなければならない。その部分がフロムのいう積極的自由である。バーリンの消極的自由のあとに、フロムのいう積極的自由が必要となるし、バーリンのいう消極的な自由がなければフロムのいう積極的自由は存在しえないのである。ナチズムにあなたが占領されちる地域のなかにいるとしよう。ナチズムからまずあなたは消極的自由によって身を守り、ナチズムの妨害からの自由を勝ちとらねばならない。そしてそのあとで自らが社会のなかで役割を演ずることができるように自己を完成させねばならないのである。

(注 ) ドゥウォーキンが平等な配慮と尊重から権利の概念が導出できるといったのは、人間の間主観性の考慮において、相手の間主観性を配慮し尊重することによって相手の権利を自分と同等に認めよ、そうすれば間主観的な人間関係が客観的な人間関係になるといったと解釈できる。つまり自由の相互主張は、間主観を越えて客観的人間関係(彼はそのなかで一番重要なものは消極的自由ではなくて、平等性であると考えられたのだが)になれると考えたのであると考えることができる。

デヴィッド・ミラーによれば、客観的な正義こそ権利であるということになる。この客観的なとは間主観性を越えた客観性であり、依存性とは、間主観性を引き起こす最も大きな原因であると考えられる。

(注 ) 自由の権利と教育

「あいうえお」を教えることのなかに、教育の機能のうちの知識の伝達以外の機能、例えば自由の強制の機能が入っているのであろうか。

(注 ) 自らの性格の傾向と、社会の性格の傾向とが相違する場合にはどうすればよいのか。即ち、マルクスのような依存的な人が、独立自立の国にほおり出されたら政治恐怖に陥ってしまう。(注)自由からの逃走はいかにしたら防げるか−自由の強制

「自由からの逃走」をしがちな性格の傾向をもった人々や、民族は数多い。これを権威主義的傾向と呼ぼうが、そうではない他の呼びかたをしようが、それをいかにしたら防げるのかは大きな問題である。

(注 ) 自由と平等に関する研究を我々は何を得るために行ってきたのだろうか。自由は相手の自由も考えて間主観性を越えた真の自由となりうるということであろう。あるいは自由は平等な資源によってのみ平等な自由が確保されうるということであろうか。あるいは法律や、憲法上の諸原則を考える手掛かりとして自由について学習した結果が役に立ったのであろうか。自由は経済において選択の自由が必要だという点についてであろうか。自由が人間の本質である限りは人間は自由について永久に学び続けなくてはならないと考えらっる。

自由論は我々は積極性と共に謙譲を与えてくれる。

政治と教育

山口 節生

政治と教育

序論                                         ・・・・・一

第一章          政治・公民と教育                      ・・・・一三

第二章          乳児の社会と人間                      ・・・・二七

第三章          幼児の社会と人間                      ・・・・四七

第四章          幼児の人間関係・所有の観念                 ・・・一〇三

第五章          基礎自我の形成                       ・・・一二九

第六章         「精神医学は人間関係である」という説との関連で        ・・・一五一

第七章          兄弟姉妹の人間関係論を学術的にするために          ・・・一六七

第八章          性格をみる立場の独立性について               ・・・一八二

第九章          社会教育・公民教育と社会意識・公民意識の発達心理      ・・・二二九

注                                         ・・・三七二

参考文献                                       ・・・二七七

参考文献抜粋                                     ・・・三〇六

今後のこの論文の発表のためのノート

序論

公民(科)教育(法)社会(科)教育(法)の前提となる公民としての人間の教育については、社会科学の諸領域や歴史学等と教育学との隣接諸分野の学際的な科学であるために研究が遅れている。プラトンや、アリストテレスや、ルソーや、ペスタロッチや、デューイ等国民や市民のあり方と教育とを論じた著作は多い。ところが日本や、イタリアや、ドイツにあっては第二次世界大戦前から戦中における民族主義や国家主義やナチスによる宣伝教育等の悪影響によりこの分野の研究は一向に進まなかった。一方左翼の側においては労働者に政治的学習を行わせるという目的での政治と教育の研究が盛んに行われる必要が生じた。政治学においても教育学においても政治的に中立な見地からの「政治と教育」の研究が必要だと考えられるようになったのは第二次世界大戦後であり、その必要性がさらに高まってきたのは冷戦終了後の現在においてである。古典古代から現代にいたるまで続くこの課題に学説的にどのような新しい視点を盛り込むことができるのかについては私としては一つの視点を提示するつもりである。それは人間関係が社会を形成しているのであって、様々な人間関係を分析することによって社会をとらえなおすことができると思われるが、その際、性格の形成過程、発達過程を研究するに際して人間関係を分析することによって政治と教育をとらえなおすことができるという視点である。発達心理学や教育心理学的視点を導入し、新たに人間関係を見直すとすれば、政治と教育の問題に新たな視点を提供できると考えられる。経済学においては合理的人間を想定して議論を進めるので、性格心理学的な考え方の入る余地は少ないが、政治学においては「権力と人格」の研究や、「政治的社会化」の研究やらにおいて心理学や教育学との学際的な研究が進められてきた。ラントンや、グリーンスタインらの研究がそれである。これらの研究は「政治と教育」の問題に限定したものであり、経済や社会や歴史と教育の研究ではなかった。しかし中立的な政治的立場で「政治と教育」について論ずることは公民科教育法や社会科教育法の論ずべきことと相通ずる点が大量にあると考えられる。政治は公民としての人間を取り扱うものであり、歴史や、政治、経済、倫理、社会全般とも深く関わっているものだからである。政治学が他の社会科学や歴史学に先じて「政治的社会化」の研究を行ってきたのは公民としての人間を取り扱う政治学が、その発達過程や教育の問題に深い関心を示さざるをえなかったからである。

私は幸いにも二十六才から三十六才までの間、公立の高等学校の商業科目を四年間、高等学校の英語科目を五年間教え、九年間担任をするという教育の実体験をした。また商業科、英語科、社会科の教員免許を得ることができていたからそのような経験をすることができたのである。また幸いにも今日平成九年一月一日現在で三才十二カ月の娘と、ゼロ才の息子とを育てている。政治学と教育学に深い興味をもつと同時に、社会諸科学やらについて法学士等の学士号と、政治学修士、法学研究科博士課程在籍と学問研究を進めることができた。今後も教育心理学、発達心理学と社会科学との関係について研究を進めていきたいと思っている。従兄弟には福岡女子大の教育心理学の教授の山口快生も同じく学問研究に励んでいる。私は性格も違い学派は違うかもしれないが、学問として確立していきたいものを持っているので、今後死ぬまでには何らかのものを完成したいと思っている。それは社会科学と教育とに関するものであり、精神医学、精神病理学、教育心理学、発達心理学、性格学を総合するものであるべきだと思っている。精神は社会的な人間関係によって形成されるものである。物を買うとか、売るとかいうような各人の自由な行為も社会的な人間関係であるし、それを精神病理だと述べている人間がいることも人間関係としてとらえるべき人間と人間の関係である。

他のすべての著作と同じく私の政治思想、教育思想は私の体験から生まれたものである。学校での教育体験、政治の体験から、また私自身の兄弟姉妹構成と、他の兄弟姉妹構成との比較から生まれたものである。しかしそれは長期間を必 要とした。従ってリカレント教育を必要としたし、教育行政その他教育学に関する学問も体験、経験の後に必要となっ た。社会科学、特に政治学、行政学のみではカバーできない多くの分野が社会科学のなかでも特異な位置を占める教育学によって研究されていることを知った。教育学は人間関係のなかでも知識を持つ者と、知識を持たない者との間の人間 関係であり、知識の伝達である点ではマス・コミ論やらと似た面を持つ。しかし生徒や、学生との間の関係という点では長幼の人間関係を主に取り扱う。

社会科学と発達心理学、教育心理学、性格学、精神病理学、精神医学とを結合する作業は非常に困難な作業である。 しかし人間の知恵は偉大なもので街の本屋の本棚のなかにはその知恵はつまっているかもしれない。実際には学者の象牙の塔の領域をはるかに越えて社会は動いている。象牙の塔にこもることは人間関係の幅を狭めるかもしれない。が、実際の社会はすべての人間関係の集合である。すべての人間関係を集約しそれによって社会観を構成することは難しいのかもしれない。人間関係を重視する試みはH・S・サリバンらによってすでにはじめられているが、それは完成の域にはいたっていない。今後すべての人間関係の研究が進められて、社会全体をとらえることがそれによってできるようになることを望むのみである。これは学派や、各人の性格の違いや、政治的イデオロギーのすべてを越えて行われなくてはならない課題であり、政治学、経営学、経済学、行政学、心理学・・・その他すべての社会に関する学問に共通する課題であると考えられる。その際すべての相違する学派や、性格や、政治的イデオロギーを越えて共通する性格の見方を確立する必要があると思うのである。私の考えでは学派やらは人間関係の問題でもある。それらの学派を越えて共通する性格論は、人間関係論のなかからしか生まれえないものと考える。そしてそれはまた人間関係はその集合が社会と呼ばれるものであるから社会科学にもいきつくことになる。

世界中どこにおいても行われている公民教育や、社会科教育、社会科学教育について一般的な原理を発見するためには根本原理や哲学にさかのぼって研究する必要がある。国家主義の傾向が強かった日本やドイツの公民教育に対してイギリスやアメリカやフランスのような国家主義の傾向が弱かった公民教育はデモクラシーや個人の自由を尊重した。このような歴史的な公民教育の発達の相違は冷戦後の現在にまで影響を与えていると考えられるが、人間の発達心理や教育原理や教育心理という面から考えれば人間の心理的発達という基本的には普遍的な同一性を過去から現在に至るまでもち続けていると考えられる。イギリスやアメリカにおける市民citizen、フランスにおける citozen、ドイツにおける国民・公民staatsbrger、日本における明治憲法時代の臣民、日本国憲法になってからの国民、・・・それぞれにおいて国家や、社会との関係がとらえられていた。現在の日本の学校教育においての公民教育は、特別活動その他の学校教育一般においてなされていると同時に、教科としては社会生活を理解し、「民主的、平和的な国家、社会の有為な形成者として必要な公民的資質」(の基礎)を養うと規定された社会科、とくに中学校の「公民的分野」や一九八二年度から高校で実施されている「現代社会」がその中心となっている。公民教育を学校教育として行う場合には、教育内容をどのようにし、教育カリキュラムをどのように体系化し、公民としての態度・イデオロギー・意見の形成をどのようにしてカリキュラム内で手助けしたり、様々な態度形成を保証するのかという課題が残されたままである。一九八九年度からは「現代社会」、「倫理」、「政治・経済」の三科目が公民科目として高等学校に新しく設けられた。公民科は地理歴史科と分割されたが、両教科は割拠するのではなく相携えて、生徒の科学的社会認識と公民的資質を育成するものとされている。第二次世界大戦の一九四六年の文部省の社会科委員会は社会科の性格や内容についてはアメリカ合衆国の社会科(ソーシャル・スタディーズ、socialstudies) を参考にして、一九四七年六・三・三の新学制の施行で社会科が発足した。この時、学習指導要領社会科編の試案を公表し、五一年に改訂版を、五六年、五八年、六〇年、六六年、六九年、七〇年、七八年と改訂版を発表した。五五年(昭和三〇年)代以降は生活・経験・総合を重視するアメリカ的社会科から「日本化」が進み系統・主知・教科(科目)を重視するように性格を変えていった。「道徳」が社会科から分離独立し、歴史、地理学習が強化された。

このような公民科、社会科教育の変遷と、特に冷戦後の公民、社会科教育のあり方についてはこれからの研究成果の負うところが大きいといえる。これまでの公民教育の原理、原則の変遷をみてみてももっと哲学的に深い研究が望まれていると考えられる。

第一章   政治・公民と教育

公民としての人間はいかにして作られるのか。「作られるのか」という質問は教育学に属するが、「公民とは何か」という質問は政治学に属する。また「いかにして」を発達の過程ととらえるならば発達心理学や教育心理学の質問である。一方政治的に「いかにして」をとらえるとすれば政治学の分野のなかでは政治心理学や政治的社会化の分野の質問である。公民としての精神がどのように発達するのかという質問としてとらえれば文化人類学や精神発達論や精神文化の発達論の質問ということになる。社会科学と精神分析論の接点における質問であるととらえるならば社会精神医学や政治精神医学(サリヴァン、H・S・や,ラズウェル、H・D,フロム、E・)等の質問というようにとらえられる場合もあるであろう。また宗教教育論や、道徳教育論の立場からみての質問ととらえられる場合もあろう。それはまた政治学の分野としてみれば宗教と政治の問題や道徳と政治の問題としてとらえられることがあるのならば、法学教育、経済教育、商業科の教育、経営学の教育、政治哲学の教育の質問としてとらえられることもあると考えられる。このように考えるとこの質問は相当複雑な本質的内容をとらえていなければ答えられないような質問であるということになる。

アリストテレスにはじまり、東西冷戦の現在にいたるまでずっと政治と教育は、人類の文化、文明の発達と共に人類の大きな問題であり続けてきた。ところが東西冷戦が終了した今日において程両者共に激変している時代はないといえる。東西両陣営に分かれていた時代とはことなって政治も教育も、ある意味では東西両陣営が基礎となっているのその両部分がなくなってしまったので、基礎から思考をしなおす時期がやってきたといえるのかもしれない。東西両陣営がなくなったのはある意味では人類の文化、文明が発達したといえるかもしれないし、人類の精神や心理が発達心理学や、政治心理学やらでいう発達をしたのかもしれないが、現在は虚脱状態であり、ちょうどあたかも第二次世界大戦が終了した直後のような状態であるともいえる。ある人によれば政治も教育も自信をなくしている、という表現になる。しかし新しい文化ははじまりつつあるといえるであろう。ある人はそれをポストモダンと名付けるかもしれないし、またある人は新人類と名付けるかもしれない、その他のテレビ人間と名付けたり、戦争を知らない新世代と名付けたりその他様々であろう。だが確実にいい文化が到来することは間違いないなさそうであるし、そうであることを期待すべきであろう。いい文化を発掘し次の世代に伝えていくことが政治も教育もその使命であり、目標であることにかわりはない。まだほとんどの文化や文明は東西の冷戦時代に形成されたものや、それ以前の時代に形成されたものがほとんどであり、これからの分析もそれらの分析に大部分が費やされると思われるが、しかし伝統の保守ということも、伝統から自由であり、人類が自由な意志で新しい文化を発掘していくこととともに重要なことであり、伝統の叡智も理性と共に重視されるべきことであるのである。要はそれらの伝統の叡智と、新しい自由意志による理性の双方のいい部分をとっていくことが重要であるといわねばなるまい。

公民としての人間はいかにして作られるのかを考えるにあたって学校教育における政治教育法に一足飛びに議論を移し、教育勅語にはじまる国家教育や、教科書検定裁判や、ペスタロッチの政治と国家と教育の議論にいたるのは早すぎるし、学校教育における管理教育や自由教育の対立の議論に移るのも政治と教育の問題を論ずるにあたっての本質的問題が論じきれていないといわねばならない。本質的な問題が理解されればそのような議論に対するこたえは自ずからでてくるものと考えられる。例えば女性問題を学校で議論したり、性教育の問題を生徒間や、教師間で議論することはひとつの政治的問題に関する教育である。特にアメリカでは中絶の問題は平成八年の大統領選挙でも民主、共和両院で意見が分かれ争点になった問題である。中絶の問題についてはその自由の可否につき多くの政治学者が意見をのべており、オックスフォード大学の法理学(アメリカでいう法哲学)の教授であるドゥウォーキン、R・も法学的に意見を発表している。女性問題についてもジェンダーの社会学で問題になっている女性の地位や女性差別、あるいは法律学で問題になっているセクシャルハラスメントの問題等は政治社会学や、教育社会学等の広い視野から教育していくことが必要となる。兄弟姉妹のなかにおける女性の差と、女性の地位をみなおさせ、その向上を女性の就職指導等にあたっての指導等に関連づけながら、教師が生徒に指摘していくことも一つの政治的問題に関する教育と考えることができる。もし兄弟姉妹のなかに女性がいない生徒がいれば、両親のうちの母親の役割等について指摘することも可能であろう。両親もいない生徒の場合にはもっと社会的な問題から入らざるをえないことになる。日本における女性事務員のお茶くみや、永久就職ということばのある妻の座や、夫婦別姓や、一人娘の婿取りや、女医の資格等の重要さや、女子労働の比重の上昇等について教育していくことになるだろう。このような社会学的なアプローチを導入していけば多くの政治的問題に関する教育は生徒のより身近なものとなり、政治的問題としてよりも社会的な公人としての教育の問題となることができる。そこには社会人としての教育という視点が生まれることになる。

ここで政治的問題の議論に移らねばならないと思われる。政治的問題に関してはいくら社会的問題という視点をとりいれたとしても先の中絶の可否の政治的争点と同じく党派性が必ずでてくる。この党派性については微妙ないいまわしであるがオークショット、M・が保守派の立場から意見を述べている。これは政治と教育に関する保守的原理とつなげることができるものである。これに対してリベラルな立場から政治と教育について意見をのべている人は数多い。

このような政治的問題についてまた一足飛びに国家教育だとか国家統制だとかいうのはまだ早いと思われる。私の三才十カ月の女の子供でも「なぜ女の方が子供を産んで、男の方は子供を産まないの。」と聞いてきたという事実が厳然としてある。私の一人っ子で育ってきた妻は人間の老いや、人間が子宮のなかから産まれてくるということをちゃんと説明した。この三才の娘に対する自然的、社会的な説明が政治的な教育であるということにはならないであろう。これは三才の娘に対するものであるからだとはいえないが、政治的な意図は全くないものではある。しかし政治的問題に関する教育だといわれば政治的問題に分類すべきものだと思われる。男女の差の問題はそのまま女性の社会内における差別的地位の問題と関連しくるからである。平等という政治的価値にかかわっくる問題であるからなのであるが、平等も、自由も、社会的愛の問題等もすべて政治的な問題として浮上してくることになる。保守的なのか、リベラルなのかそのどちらをとるにしても、どのように教えればよいのかが政治と教育の問題に大きな影響を与えるのである。政治的な価値を全く抜きにしていこうという価値から自由になるという考えは学校には政治を持ち込まないという現在でも根強く日本では法的にもある程度まで支持されている観念となっている。しかしその境界は不明確でありその境界は明白にされなくてはならない。人間が政治的(アリストレスのいうポリス的)動物であり、すべての人が「政治的」であるという、またその一方である意味で普遍的な考え方からすれば、そのような価値自由は現実の学校ではどんな教師にも不可能であるということになり、そのような日本の一般の法観念は法社会学的には不可能なことをいっていることになるのであり、さあどうするかという問題の解決がさしせまっているという問題の解決がさしせまっているということになる。まして政治、経済という教科がカリュキラムのなかに組み込まれている高校の教師についてはその難問は早急に解決されねばならない問題となっている。高校の場合は政治をどう教育するかという具体的問題が、公民ををいかにして作るかの問題よりも焦眉の急である。

保守派のオークショットの教え方は政治を教えるのは技術的な説明に限って行おうというのである。制度や行動や人間を技術的に説明的にのみ限定的に教えるべきだという考え方は、先の三才の女の子供に対する説明を見てみればほとんど不可能であることが分かるし、そもそも保守的な政治性がそのなかにはいってきているといえなくもない。一方政治をどう教育するかにあたってリベラルな立場からは、超国家主義を排除するという目的のために教育勅語からはじまる公民教育の歴史の悪が最初から説かれる。政治と教育の問題は教育と国家の問題にすりかえられ、政治と国家の基本問題についてはあまり考察されないで、超国家主義の教育は排除し、国家の教育に対する干渉を排除するという論理へとつながることが多い。戦後においては教科書検定訴訟に代表される裁判において原告側において展開された論理がこの代表である。教育現場においては「日の丸」、「君が代」を排除するという考え方がこの論理から導き出された。これに対して保守派の側からは超国家主義教育の廃止の主張に対抗する形で、リベラルの排除をねらった政治教育の排除という論理が生じ、両すくみのまま本当の「公民としての人間はいかにして作られるか」という論議はまったく論理が先に進まない思考停止の状態い陥ってしまった。

この「公民としての人間はいかにして作られるか」に関する議論の機能停止の状態が少し変化のきざしを見せはじめたのは、皮肉なことに保守派とリベラルが対抗していたととらえられる東西冷戦が終了した世界の状況に影響されてのことであった。一九九五年日本教職員組合と文部省が歴史的和解を行って、学校現場において「日の丸」、「君が代」を容認することになった。ところがこれは政治的な和解であって、愛国主義を超国家主義という反対物がなくなった後で、教育現場において認めるのか認めないのか、そもそも愛国を教えるのか教えないのか、国や政治をどのように教えるか等については一定の議論が深まり、一定の哲学や一定の方向性が定まっているわけではなく、現場の教師も、文部省も、日本教職員組合等の労働組合も、東西冷戦終了後暗中模索であるといってよい。それはもとより政治学の学者群や教育学の学者群の責任であるともいえようが、冷戦終了後の人類の文明、文化が暗中模索の状況にあるからだといえるであろう。ペスタロッチの時代の「政治と教育」にはその時代的背景があったのであり、ルソーの時代にしてもしかり、デューイの時代にしてもしかりであり、ペスタロッチがドイツという国家に愛国心があり、ルソーが当時のフランスに愛国心があり、デユーイがアメリカという国家に愛国心があり、その政治と教育論にそれが現れていたとしても、その愛国主義のゆえに批判する人はそれに対抗する哲学を提示しなくてはならないことになる。従ってその愛国主義のゆえに簡単に批判することはできないし批判するにしても当時の時代との関連において綿密に行わなくてはならないことになる。東西冷戦終了後の現代における政治と教育を論ずるにあたっては、政治、行政、マスメディア、地域社会、家族社会等々との関連で学校教育と、学校外における教育とを考える必要がある。現代社会を特徴づけることばは様々に考え出されている。メディア革命の時代、情報化社会、脱工業化社会、大衆社会その他多数ある。ポスト資本主義社会とか、第三の波の訪れている文化、文明社会とかその他様々な視覚から分析されている。ある歴史の終わりで、ある歴史の始まりと説く説もある。政治も教育もそれらのうねりに巻き込まれながら大きな変化をしている。それらの変化に巻き込まれながら幼児から大人まで学校や学校以外の双方で情報を自発的にか、管理されながらかは別にして受け取ったり発信したりしているという情報化社会の考え方は、新しいテレビやコンピュータのメディア文明の存在と、東西冷戦後の政治・経済・国家・文明等の変化との双方を理解して分析していくうえでの重要な視点となるであろうか、その他の視座も無視できないものがある。様々な視座を総合的に判断しながら、現代の政治と教育について考察し、「公民としての人間はいかにして作られるのか」を考察せねばならない。

第二章          乳児の社会と人間

乳児は母親から乳を受け取っている段階である。乳を受け取るのは哺乳類の動物の一種のであるからである。もし哺乳類でなければそうしないで、鳥であればすぐにエサを与えるし、爬虫類であればすぐにエサをとりにいく。この乳を与える期間は短く、お腹のなかにいる時とほぼ同じ状態であり、現在は人工授乳のときも多く、もしお腹のなかにいる時と同じ状態であるとすれば、社会的な精神の発達とは全く関係がないと考えるのが妥当であろう。なぜならおなかのなかでは社会的な関係は存在しないと考えることが妥当であるからだ。これを母親との同一性だとか、もし授乳を与えなければ死んでしまうから政治的、経済的、社会的に関係があると考えるのは妥当ではないと考える。これまでに授乳を与えないで子供を殺したとすればそれは子殺し、子捨てのことである。

この理論はフロイトの理論を完全に引っ繰り返すものであるが、精神を真剣に観察すればすぐに理解できることである。フロイト派からの批判には真剣な論争を行うが、私はこれは完全に自明なことだと考える、子殺しのこころを持たない人ならそう考えるであろう。

幼児には政治は関係がなく、政治教育は幼児とは全く関係がないように思われがちである。政治的制度がかわって両親の収入が影響を受けたり、両親のない子供にとって施設に対する補助金の額が政府予算から補助されたり補助されなったり、あるいは、増額されたり、減額されたりしても、その様々な政治的変化に影響を受けるのは両親や施設等であって幼児にはほとんど関係はなく、ほとんど全く関心はない。ただ無邪気に遊んでいるだけである。幼稚園や保育園にも通っていない幼児の教育において政治的なるもの、経済的なるものが芽生えているなどということは思ってもみないことであろうし、それを学問的に論理付けること等できるはずはないと思うのが一般的なこれまでの考え方である。ここには行政の入る余地も全くないし、学校教育の入り込む余地もない。従ってオークショットのような保守派が共産主義を持ち込むなという余地もないし、リベラル派が平等な配慮と尊敬とかを主張する余地もない。子供は純粋無垢でありどんな親でも、子殺しや子捨てやらをする親でもない限り、フロイトのいうような期間があるとは誰も発見ができない。親の方でこの子は産まなければよかった、面倒を見たくない、子殺しや、子捨てをしようかと思う心理を持った場合でも、それは両親の方が精神の崩壊に直面しているのであって幼児が狂っていることは全くない。この事実と、そこから生じる三段論法はこの論考のすべてを通じて有効な論証となる。この事実こそ学問の出発点とならねばならない。幼児が人間という生物として医学上欠点がある場合は生物医学的に治せばいいのであってそれは精神の発達とは関係のないものであり、教育心理学や発達心理学の対象、ましてや社会的関係、社会的人間関係の学問としての政治と教育論、政治的社会化論の対象となることはない。

高等学校においても、両親が自分の娘や息子は「どこか悪い」のではないでしょうかといってくる両親がいたとしても、子供は純真無垢で教員として全く悪いとは思えない場合がある。子供を学校で観察していればその子供の行動の理由が分かる場合でも、両親にとっては自らの期待と予測に反している場合があり、両親の期待が大きすぎ予測に反していたり、両親が子供の行動を解釈できていないという場合が存在する。この場合の期待とは両親が家を継いでもらいたいのに子供は全くそのような気がないというような家庭内のことであってその逆の社会的に偉くなってほしいというようなことはほとんど全くまれである。このような社会的な問題が家族のなかに入ってくる高等学校等の生徒の場合は別にしても、幼児期の子供の純粋無垢さをかわいいと思わない両親はほとんど少ないと思われる。人間がいかにアンビバレントな感情を持っているといわれても、幼児の純粋無垢さをほめたたえきれない人はそのような幼児を憎む傾向を愛情と共に持って両義性(アンビバレンシー)を備えているのは自分の精神の方が子殺しや子捨てに走っているのだと自分の精神の方を疑うべきであると思われる。なぜここでこの論理を先に論ずるかというと、高等学校くらいになるとこの両義性をもちだされると子供が悪いのか、親が悪いのか、双方共に言葉を発しその言葉が双方共にいる家庭のなかで成立してきたものであるがゆえに、どちらに責任があるかわからなくなるのである。しかしこの幼児における子殺しや子捨ての心理を分析していれば、もしその分析した論理が高等学校の青年期にも通用できるものであると理解(認知)できる論理であるならば、それを類推適用して両親の方が悪いという結論に達することができるようになる場合もあると考えられるからである。

子殺しや子捨ては純粋に両親の都合で行われるものである。それが経済的な理由よるものであるか政治的な理由によるものか等は詮索の必要もないが、そのような理由のあるなしに関わらず子殺しや子捨ては両親の責任である。幼児における教育に政治的なるものの教育の出発点を見つけようというのは両親が経済的な理由を持っているとか、政治的な理由を持っているからというわけではない。両親の役割は、純粋無垢な幼児から見ると政治経済社会の中において相当の役割を演じて賃金や利潤を稼いできてくれることである。賃金や利潤というのは人間の分業社会においては当然のものであり、ウェーバーが資本主義の精神と呼んだものであり、ベンジャミン・フランクリンがアメリカの社会における特質としたものであるが、子供にとってはそんなことはどうでもよく、それがどのように獲得してこられたかは全く興味もない。ちょうどあたかもひなどりが親から「えさ」を受け取るように、「賃金とか利潤」を子供は親から受け取るのである。親はその時には相当に年をとっている。施設内にいる両親のない子供等はそれを利潤再分配の政治的補助金として受け取ることになる。両親は年をとった大人であり政治は大人に対するものであり、教育も生涯教育は大人に対するものである。生涯教育以外の大学卒業までの小学、中学、高等学校の教育は幼児期、児童期、青年期を通じて学校で行われるが、マス・メディアや政治ニュース(テレビ・新聞等の)等を通じて一定の大人の政治的ニュースは子供にもはいってくる。教育行政の及ぶ範囲は学校に対するものが主であり、地域教育や生涯教育や社会教育に対するものは少ない。

両親等の援助を受けながら子供は幼児期、児童期、青年期を通じて約二十年間は両親の体(胎)内にいるのと同じような状態である。それは政治的、経済的な意味においてはである。この期間は相当に長いといわねばならない。他の動物ならもっと早くえさをとってこれるようにならないと死んでしまうことになる。それは家族というシェルターのなかに入っていないからそうなるのだ。これが家族が胎内に似ている理由であろう。鳥がエサを与えるために作る巣は簡易なもので二十年ももつようなものは到底作れない。人間の道具的技術文明がそれを可能にしたのであり、その技術がなかった時代には子供は生きのびる率が少なかったし、人間の平均寿命もそう長くはなかった。燕が四、五羽巣のなかで親鳥の運んでくるエサをついばむ姿を見た人も、次の年までには巣立ってとんでいったことに気付くのである。つまりそのような巣では一年もたなかったことになる。人間の巣立ちと違って他の動物はすぐに巣立つ。カンガルーのように袋があってもそう長くはない。二十年という期間は神の決定によるものであろうが、この長い期間は人間にとって教育期間ということになる。保守派のオークショットが政治教育がいかにあるべきかを真剣に、それも全力を哲学的にふりしぼって考えて書いた論文が、ただ大学においての公人としての教育、大学における政治教育のみであることを考えれば、政治と教育、公民と教育について考えることがいかに難しいかは察しがつく。この二十年間に人間は感情や、絵をかく能力や、歌を歌い、歌を作る能力や、走る能力や、踊る能力や、言語やらを習得することになる。ここで言語のみの重要性を強調するよりも、感情や、絵の能力の比重、体育の比重を相対的に大きくみるべき時代が到来しているのはマス・メディアの発達によるものであると思われ、マクルーハン、(マーシャル)がすでにメディア論のなかで指摘していたことである。テレビメディアはそれらすべてを統合する形で人間に迫ってきていて、小さな子供もテレビ時代に存在している。二十年間の長きにわたり言語や感情をはじめ様々なものを習得して、そのなかにはオークショットが政治教育のなかで重要だといっている歴史をも、哲学をも習得しながら、歴史のなかの現在を未来に向かって進むことになるのである。

政治と教育に関する議論は政治学の分野では教育心理学や、発達心理学を抜きにした政治的社会化の理論が発達した。一方教育学の分野では公民教育論として発達した。公民教育論はしかしすぐに教育勅語や愛国教育論に巻き込まれタブー視されてきたのは前述の通りである。ところが政治的社会化論の方の研究は比較政治学者による様々な国の政治と教育の科学的研究ともあいまって、ある程度の発達を示したが、発達心理学や教育心理学や精神分析や、精神病学、精神医学(サリヴァンらの)やらの助けをかりていなかったがためにある程度の発達でとまってしまった。政治文化論や、政治心理学と同様に発達途中であることは政治辞典や「政治学の基礎知識」の最新刊の政治的社会化の説明でも政治的社会化の定義や説明に様々なニュアンスがあるとしていることでも表面的には理解できる。政治的社会化論の方法、目的、対象、概念構成、論理等の様々な点においてバラつきがあり、政治学と教育学との隣接科学同志の協同がうまくいっていないきらいがある。社会化の概念は社会学から導入された概念であるが、ラズウェルやデューイの論理は「政治と教育」という教育学の方を向いているし、政治心理学の方は教育心理学や発達心理学の方を向いているのである。公民教育論はペスタロッチやルソーも考えていたテーマであるのに、政治と教育の方法や論理がここまで混迷しているのは東西冷戦等の政治的状況によるものであったと考えられるので仕方がなかったのであるとしても、ラズウェルの民主的なエリートをいかにして養成するのかをじゅんじゅんと理論化や、デューイの現実的政治と教育思想が現代の世界の平和をつくるのに大きく貢献してきている事実を考慮すれば、その重要性はいくら高く評価しても評価しすぎということはないと考えられるのである。

ラズウェルは政治と教育との関係を深く考察したばかりではなくて、それらの諸科学を学際的に研究する機関をストラテジックに『権力と人格』のなかで提案している。ラズウェルの提案は人間の攻撃性をなくして、戦争をなくすための政策、教育政策等々を立案するために隣接諸科学を含めた政策学というものに総合していこうとするものであり、日本の大学でも政策学部、総合政策学部等が設けられたり、政策科学が発展する契機となった。しかし彼のもともとの意図は人格的に攻撃性をなくし、民主的な人格を作るための政治教育法の開発であって、民主的政策の理論よりも、そちらにより重点があった。その点ではサリヴァンや、オルポートらと一緒に社会科学と精神医学との融合による政治精神医学や、社会精神医学の形成にあたろうとしたのは当然の帰結であった。政治と教育の問題を考えるにあたってはこのラズウェルの視点は重要な一つの視点であり、現社会心理学者や、社会科学者の手に移らなくてはならないことになる。教育学が社会科学をどの程度吸収しうるのかは、教育学の学際化の程度にかかっている。政治教育法や経済教育法や、商業科目教育法等は教育学と社会科学との接点でもあろう。教育学は生徒や学生をも大人と共に取り扱うという意味では、対象が大人のみを取り扱う社会科学とは異なっているが、その社会的人間関係のみを抽出するとすれば教育学は社会学との学際性を有しても教育学のカテゴリーのなかに含まれうると考えられる。教育学は人文科学系の学問として取り扱われ、臨床心理学も同様ではあるが、オルポートや、サリヴァンや、エーリッヒ・フロムの考え方は社会科学としての人間関係の学という考え方により近いと考えられる。そうなると社会学との内包関係は更に困難になる。『自殺論』におけるデュルケームの考え方は個人の自殺はより高い所に社会の連帯感等の社会的な要素が働いているというものである現在の東西冷戦の終了にも一つの大きな役割を演じたと考えることができる。しかしラズウェル、オルポート、サリヴァンらの政治精神医学の試みは何らかの理由で未完成に終わってしまったことは残念な事実である。サリヴァンは客死し、ラズウェルは政治学や法学の分析に戻っていってしまった。精神医学や精神病理学を人間関係の学として社会科学化し、政治科学化し、教育科学化するというサリヴァンらの試みは、自然科学としての精神医学、生物科学としの精神医学、薬理科学としての精神医学を社会科学にシフトさせるという意味では現実の利害関係という政治的、経済的、社会制度的な影響が計りしれないものがあった。もし、社会科学であるということになれば精神医学は医学と医者の手から離れて社会科学者、とりわけラズウェルの提唱したような機関の手に移らねばならないことになってしまう。教育心理学者や臨床心理学者やらが行っている非行やらに対する臨床もが、もし、ある人がその個人を自殺に追いやっていたということが証明されるならばそれは社会というよりも人間個人の問題となってしまう。自殺に追いやった人間個人と自殺した人間個人との一個の人間関係の問題となってしまうのである。それが自殺ではなくて他殺だった場合にはなおさらそうである。一個の人間関係の集合した束が社会関係であり、社会であるとするならば、人文科学と社会科学との差は相当縮まることになる。政治と教育の論議は一度と頓挫した社会精神医学や、政治精神医学を再び構築するのと同様に、学際的に社会と人間関係を論理的、哲学的に、論理的に記述していくというディシプリンであると考えられる。

実際のソ連邦という社会主義、共産主義国家における政治と精神医学との関係については『政治と精神医学』のなかに詳しく、それは精神医学の誤用(abrise)という考え方をとっており参考になるものである。一方ではある商業高校において、非行を起こす生徒の処罰に関する職員会議においてこのような生徒は臨床心理学や、精神医学の応用により行われるカウンセラーや医師や警察にまかせるべきだという発言が聞かれた。(私の実際の経験である。)教育界においても臨床心理学や、精神医学の助けを借りる必要がおきているのが現状であるが、児童心理学や、臨床心理学や、精神医学が悪用されていないだろうか、それらが本当に治せているのかの疑問が大きい。私の実際の経験ではその様なケースはそれによってほとんどの場合悪化しており、破滅的なケースに陥っている。治療によって非行が悪化したり、退学したり、自殺していったり(一人っ子の純粋無垢な生徒がそれにより自殺していったケースもある)したケースが多い。これは社会的精神医学が全くといっていい程未発達であるからだといえるであろうし、ソ連邦の共産主義国家において精神医学や、精神病理学が悪用された様々なケースを分析してみれば、社会的精神医学も、精神医学も、反精神医学も発達の途上であるに等しいと考えられる。実際に治せないなら医学にはならない。その理由を考えると、社会的人間関係の学、社会科学としての精神医学の発達が遅れていることが主な理由と考えられる。精神医学ということばにはそのようなイメージがつきすぎて拒否反応がでているとすれば、そのようなイメージはすべて払拭しなくてはならないと考えられる。それは社会的人間関係の学としての精神医学や、政治と教育論の目的であるといっても過言ではない。教育刑論におけるように人間の可能性を信じるところに教育が単なる死刑等のとは違う意味を有しているのだ。という点に教育刑論の力点がある。応報的に刑罰によって相手の犯人を痛めつけるだけでは何もならないという点に教育刑論の強調したい点がある。これは刑法という社会科学(法学)のなかに教育学が活かされている例である。政治と教育論において教育が真に意味ある形でとりいれられるとすればこの教育刑論のおけるように前向きの明るい展望を社会にもたらすものとして取り入れることが期待されるであろう。実際にそれが可能であるかどうかは人類の努力次第であろうが、学問は努力し、ディシプリンをするところに意義があるのであり、フロイトのように教条的になる必要もないし、反対に優柔不断になる必要もなかろう。教育刑論においては罪人の将来に対する可能性を引き出すというものであるが、政治と教育論においては生涯教育においては大人の可能性を引出し、二十才までの生徒や学生やらの教育においては彼らの将来の可能性を引きだしていき、政治との関連において人類の未来の期待出来る展望を開いていくということに目が向けられるべきであり、応報刑論におけるように刑をうける相手を倒すことのみに関心を向けるのと同じような傾向に陥ってはならないと考えられる。管理社会や権威主義的な考え方の下においてはそのような傾向に陥り易いと考え指摘したのは、ドイツのナチスの全体主義社会を社会精神医学的に分析したエーリッヒ・フロムであった。また社会科学の立場から管理社会についての傾向の分析を行ったハイエクや、フリードマンや、カール・ポッパーの議論も政治と教育という側面から見直してみれば、現代日本の学校における管理社会主義を分析する場合の適切な分析視点となると考えられる。この点に関しては戸塚ヨットスクール事件や、遅刻による閉門死亡事件等法的に(社会科学的に)問題となった事件もあるので、分析の視点としてそのような視点は有効になるものと確信している。しかしそのような研究はいまだ表れていない。

第三章   幼児の社会と人間

〇才から三才までの政治教育

自分で自分のものと分かるようになるために、どのような過程が必要だろうか。私の娘は三才のはじめ頃「えりちゃんの家の前の百一匹ワンちゃんのディズニーキャラクターのえりちゃんの自転車に乗りたかったのに、二人とものりたかったので、まりちゃんはおもわずえりちゃんの手をかんでしまいました。えりちゃんはないた。歯のあとがついていた。まりちゃんはおねいちゃんと思ってなかったのでえりちゃんの手をかんでしまった。(結局まりちゃんがえりちゃんがないているあいだに自転車にのった。)えりちゃんがないたのでまりちゃんもないた。おともだちだからなかなおりした。その自転車はえりちゃんのものだといまはわかります。まりちゃんはセーラームーンの自転車をかってね。」

このようなことを三才も終わりになると私の娘(三才十カ月)はいった。

一〜三才の間に多くのテレビ番組を見ているのが最近の子供である。ディズニーの漫画、セーラームーン、プリティーサミー、ゲゲゲの鬼太郎、ポンキッキ、セイントテール、赤ずきんチャチャ等の漫画を多数見ている。レジや、電話等の子供用のおもちゃも多数持っている。自転車や三輪車等も多くの子供が持っている。公園のブランコや、すべり台や、シーソー等が最も好きである。ヒロインものや、ヒーローものが好きであり、悪い敵をやっつけるということをことばで説明できるようになる。

現代はテレビメディアが家庭のなかに入っており、その上コンピュータによる画像処理による映像が多く情報の量は莫大である。コンピュータ自体も私の家にはある。何かの間にコンピュータのお絵描きソフトを自分でマウスを動かしていたという事件もあった。情報化社会のなかにあってはテレビや、絵本や、コンピュータ等が家庭・家族に入る情報量を飛躍的に増大させている。これらの情報をどのように処理しているのかについて心理学は、認知心理学や発達心理学や社会心理学において情報処理理論として形成してきたが、テレビメディアの革命的な進歩、コンピュータによる画像、情報処理を使用したテレビ、ラジオ、CD等の登場、メディアとコンピュータの合体による情報処理革命はこれまでの情報処理に関する心理学ではおいつかなくなってきている。テレビメディアから情報をうけとると同時に、コンピュータによる処理さえ一〜三才でできることがあった。それに興味を覚えてお絵描きソフトを三才の子が自分一人で親の部屋に入って動かしてしまったのがその事件である。テレビによるメディア革命(マクルーハンのいった)の時代は次にはコンピュータの登場によりコンピュータ革命の時代となった。これらの動きは、家庭のなかに多くの情報をもたらした。当然に家庭のなかの家族の成員にも多大の情報を社会が与えるようになった。施設内の子供についても同様である。この情報は質的にもテレビやコンピュータがなかった時代とは異なっているのだとマクルーハンは指摘した。それはホットとかクールとかいう文学的な表現であったが、それは単に情報の量のみの増大とはいえないというものであった。フロイトの時代にはそのような情報は入ってこなかった。フロイトはただ単に性的に異常に興味を持った普通の男(異常かどうかは別に考察しなくてはならない)ではなかったのか。このような五人兄弟の五男の末っ子の生徒が私が担任した生徒にもいた。それがただ単なる特殊な性格と考えられることもありうる。

ここでは〇才〜三才の子供の政治と教育とに関する分析研究を行うのであるが、乳児については両親とか、祖父母や、兄弟姉妹とかとは全く離れて乳(人口乳もあるが)を母親から受け取っているのみであり、この時期に人工乳の取り合いや、ゆずりあいを他の乳児と行う事は人間の動物的な性質上ないから、乳を口から飲み、それから栄養を受け取り、吸収し、不要な水分と固体は排出するというただそれだけのことであり、それは自然な形で前頭葉以外のところで行われている行為であり、これと同じことが一生、乳が食べ物に変わるが行われているのであり、人間関係的(社会関係的)影響は普通の子である限り全くないと考えられる。ただおならをする時もあるであろう。それは人間の身体に不要な気体が排出されただけである。それがおかしいと思われるのは社会関係が成立してからのみである。施設に入って施設の人に乳をもらったからといってそれによって人的傾向に影響をあたえることはないと考えられる。そこまで気付きはしない。鳥に見られる最初に見た人や、親鳥やらに走向性のようにプリントされる傾向、猿の授乳においてやわらかいものに向かって乳を飲んだりするというのは、鳥の場合は植物と同じように走向性がプリントされるということであり、猿の場合は柔らかいものが好きだという走性があるということのみであろう。もし人口乳で育てるよりも、母乳で育てる方がよい結果を社会的に(母子的にというのも社会的にと大げさに呼んだのであるが)得ることができるという結果になれば、人口乳で育てる母親が少なくなるというくらいの影響は生まれるであろうが、決定的な差は人口乳で育った多くの乳児が、子供として大人として母乳で育った人とほぼ同じであることからも分かる。それは乳母という制度があっても性格の傾向に影響があったという話は聞かないことでもわかる。乳母の制度は日本では平安時代から江戸時代、明治時代まで続いていた。乳兄弟の性格の傾向が乳のために似たという理論も作れない。

〇才から三才の間にまず研究を限定する理由はこの期間は「三つ子の魂百まで」ということわざとともに知られている通りに三才児までの性格傾向の形成はその後の人格形成の基盤と考えられるからである。フレーベルによる自己教授と自己教育を目指し自由に遊具や遊戯をさせる幼稚園の思想は三才児保育等で三才児にまで及んできているが、幼稚園にいっているか、いないかにかかわらず、三才児までの間になされる幼児の教育のなかにどのような政治的なものが見出されるか論理的に分析したいと思う。この時期の幼児はことばの発達が著しい。それは政治的言葉を含んでいるのであろうか。あるいは政治的なことばが習得されているのであろうか。平等ということばや、〜しなければならない(規範)ということばや、〜してよい(権利)や、〜することが自由であるとかいうようなことがわかるであろうか。あるいはけんかをとめることができるであろうか。あるいは買物ができるであろうか。他の子供と交換ができるであろうか。独占は悪いとわかるだろうか、おもちゃをかり、いらなくなったらかえすことができるだろうか、そのかえす時にお礼をいうことができるだろうか、おもちゃ等の取り合いをしても譲ったり、仲直りすることができるだろうか。お菓子を分けることできるだろうか、その時に同じく平等にということが分かるだろうか、等々である。これらのことは三才の娘は出来そうである。これらはどのようにして習得され、どのように保存され、大人になった時に生かされるのであろうか。もし幼児のときにできて大人になってもできれば、人類が戦争等はしなくなりそうである。ところが、戦争は起こっている。どこかに教育上のまちがいがありそうである。それがどこかが研究され、論理的に記述されねばならないであろう。そのような目的も、この研究はもっている。しかし基本的には公的、政治的なものの発達の心理の研究であり、政治的なものの習得及び教育の心理の研究である。

政治的なことばや、感情や、心理等は当然に政治的な状況のなかで教育され、あるいは、「自己教育及び自己教授」され、習得されるはずである。そうであるのは経験に裏打ちされないことばはただ単なる観念論となってしまうからである。政治的状況と政治的ことば、政治的感覚、政治的意識は相互に影響しあいながら、政治的な働き掛けによって政治的状況そのものがかわったり、政治的なことばが習得されたりしていく。

この〇才〜三才までの教育や人格の形成について、生物としてのみの人間を其期間と規定するのは間違いだ。例えば骨の発達期とか、筋肉の発達期とか、聴覚の発達期とか、前頭葉の発達期とか、旧皮質の発達期とか、性器の発達期とか、肛門の筋肉の発達期とか、口の筋肉の発達期とか、味が分かるようになる期間とか、食事の時におはしや、フォークや、スプーンがにぎれるようになる期間とか、規定するのと、生物論以外に社会的な考察を加えて、前頭葉で言葉やらを覚え体系化する期間とか、人格的に体系化の基礎を形成する期間とか社会的なものを加えて規定するのとは全く別のものである。というのはマルクスが人間の物象化といったり、フロイトが口唇期といういいかたのなかには、人間のを犬やらの人間以外の動物程度のものとみなしているふしがある。このことはいうべきでないが、タルムードのなかにそのような教えがある。文化人類学において最近の反省点がかつてのインディアン文化の見方に「大国による植民地の見下し」があった点にむけられているのとそれは相似し、またそれと平行的なことであるが、ユダヤ教のタルムードが他の教徒を人間以下の動物とみなしたり、ヒットラーの『わが闘争』がドイツ民族以外を劣等民族とみなしたり、ユダヤ民族の抹殺を考えたりした点もこれとよく似た政治学上、精神医学上、教育上、人格心理学上の反省点であるといわねばなるまい。また同様に法学においても刑法における犯罪人は特定の生物学上の特徴をもつとして多くの解剖を行った学者も、また同様の反省を行わねばならないであろう。それは法医学上の反省でもある。政治と医学についていえば、政治と精神医学において精神医学の悪用が行われたことは社会学の視点から反省すべき点であると先に指摘したが、これも生物的視点を社会科学のなかで再反省すべき点であろうが、この点は別にゆずる論点であるとしても、七三一部隊が細菌兵器の実験を人間を実験台として行っていたということが事実であるならば、生物学的視点の倫理的な危うさは文化人類学の反省点であったのと相似であるのみならず、人間を生物として見る時の社会、倫理学的な危うさといえるのではなかろうか。フロイトの生物的視点がマルクス同様に科学的という名に隠れた非科学性に難点があること、それは科学ではなくて何千と、何億というまだ科学的に未解明な論点に関する一つの仮説にすぎないこと、そしてそれは証明されえないものであること、あと何億九九九九九九九九九九九千・・・・・・・個の説明の仕方が彼らの方法論によればあることに注意すべきではなかろうか。このような考え方はマルクスの批判には正当に効果を発揮する。、またマルクスの生活環境を分析することによる批判はマルクスの生活批判によってなされたが、フロイトに対してはまだ私のみる限り一件しかなされていない。私として発見したのはドラッカー(P・F・)博士によるフロイトの生活批判である。私はフロイトも、マルクス同様に、経済的な生活のために何億個の未解明の学派のなかからただ一個世界を驚かすための最も最も最も極端な学説のみをいったのであり、それがフロイト理論であったと私は考えている。それはマルクスの唯物論による分析として、私自身がフロイトの生活を分析してフロイトはその性格上経済決定的に、つまり、フロイトの自由意志はすべて経済によって決定されているという唯物的視点にたって、精神分析した結果である。フロイトのフォビアについては「物をとられてはしまいか」という十人兄弟姉妹のなかで育ったフロイトの不安が高じたものであると考えている。これはハウス大佐という六男坊の末っ子の人が金持ちの子であってもフォビアであったという記載があるが、それを精神分析すると富裕で財産が多くあったとしても、いつ盗まれるか分からないといつもビクビクしているという社会的な性格が「富裕であってもフォビア」をおこしたものであると、社会精神医学的の分析できる。もう一つの社会的精神分析は、フロイトも、マルクスも、ハウス大佐も兄弟姉妹が多かったために、妹や弟にストライキをされた場合、このストライキとはサンディカリズムというすべての社会、経営、労働組合をつぶす力を持った社会的なものではなくて、兄弟姉妹関係内におけるストライキ、つまり、兄や姉に対して妹や弟や末っ子がストライキをし、何もしてやらないし、破壊していくという行動をさすのであるが、妹や弟の立場から妹や弟があるいは、両親が妹的あるいは弟的である場合には両親がのストライキにより、両親が、あるいは、親類縁者や、その他の社会関係にある人がストライキをしたりした場合に、ストライキをする人々がそれぞれ違った利害関係から同じことを別の主張の立場でいうことから、彼自身の「環境」を自らの言葉で表現することが不可能になり、不安等の精神の崩壊を起こしたものであると社会的に精神分析することができる。社会的な様々な分析に応用できる。

私が批判する生物学的のみの視点から〇才から三才までの期間の設定、理論化から自由なこの期間の理論的説明がまず第一に必要であるが、その際更にもう一つの注意が必要である。一般に器質的障害という純医学的な障害は自然生物としてみる医者にまかせるとして、発達のおくれを問題にすべきかどうかという点にある。どうせ二十才をすぎれば食事の時おはしをもてるようになっているし、土蔵のなかに両親に放置されていた子供でも二十才になれば発達の遅れを挽回して普通の就職をしていったという楽観的な結果に終わった発達心理学研究成果もある。しかし狼に育てられた人間が若くして死亡したという記録もある。このことから発達の遅れは最終的には挽回できるのかという問題については器質的な障害がなければ挽回できると考えるのが妥当であり、教育的なものであると考える。ところが狼に育てられた子供の死亡の実例からやはり挽回できないという説に対しては、その例は教育心理学、発達心理学的な観念からみれば狼に育てられたために器質的な障害があるのと同じくらいに大脳皮質の発達が遅れたためだと考えるのが教育的には妥当であると思われる。口唇と肛門があるだけでは人間は生きられない。しかし、食事中のおはしの持ちかたが遅れたからといって両親が心配しすぎることによる社会的な影響は考慮する必要があろう。もう一点の注意は生物学的な肥満型、やせ型、筋肉質型(細長、肥満、闘士と社会的なものをまじえたようないいかたをクレッチマーはしているが、そのようなこと)は、全く性格の形成とは関係がないと社会精神医学としては考えられる。それは人間関係の型とは関係ない。それを気にしてしまうということによりクレッチマーによるレベリングの悪影響があり、人々のステレオタイプ化による影響を別にすれば。つまりそのことを気にしなければのはなしであるが。まだその他のいくらかの注意点はあるが、そしてその注意点は後に記述していくのであるが論理を先に進めることにする。

〇才から三才までの教育(社会心理学的、教育心理学的、発達心理学的、政治心理学的、社会学的、政治学的等社会関係論的、人間関係論的なものを含む)について生物学的な期間設定の難点は以上等に述べたことであるが、ここで例えば長子的とか、次子的とか、あるいは兄弟姉妹関係が専制的とか、愛情的とかいうことばを用いる時の術語の使い方、「甘えた関係」とか、「依存的関係」とかいう術語の使い方と定義の問題が生じる。それがあいまいであれば論理があいまいになってしまう。例えば親子関係や兄弟姉妹関係について論じるにしても「権威主義的」だとか、兄と妹の関係は姉と弟との関係よりも専制的であるとか、姉と弟との兄弟姉妹関係は包容的愛情に包まれているとか、包容的だとかいう表現は専制とか、愛情とかを定義しないで研究すれば何ら研究したことにはならない。そのようなことをしていれば男性的という表現がただ男性が女性よりも優位に立っているという社会的状況のみを言い表しており、男女平等という思想のみで親が教育をしているという家庭には合わなくなるし、中絶問題においての政治的な話題や、男性と女性の生物的な違いを説明できなくなったり、あるいは、男性と女性の違いを考慮した妥当な社会とは何かを考慮できなくなったり、フロイトのいう男根にあこがれない女性がいたり、男根に反発しない女性がいて女性の方が優秀と思っている女性がいるとその人の社会的な考えかたには相容れないということになってしまう。また姉的、兄的、妹的、弟的といったり、姉らしさ、兄らしさ、妹らしさ、弟らしさというのも、ただ男性的、女性的ということばと混同して使われていた可能性もある。逆に女性らしさ、男性らしさを姉らしさ、兄らしさと混同していた可能性もある。特に家族制度の下においては男性らしさは長子(長男)らしさと混同されていた可能性が大いにある。

専制というものを政治学上で定義するにしても、その内容はモンテスキューが『法の精神』のなかで分析したように権力の暴走に歯止めのきかない権力の集中の状態をさすのか、法や慣習や反対勢力の全くない権力をさすのか、ギリシア語のデスポテス(despots)の意味する奴隷状態にある人に対する完全な支配を行う主人的支配者を指すのかと様々な内容があるが、また専制は法や規則によって正当化されている場合が多く法や規則が専制的であるかどうかも見極めなければならなくなり専制ということばを分析においてどう使うかは困難をきわめる。特にドイツや、日本のように専制君主や、長子相続の家族制度等が長く続いた国においては、わが国のように天皇制が象徴天皇制になったあとにおいても、小中学校の労働組合において「君が代」に対するアレルギーが残っている場合もある。また、家族制度の残しが残っている場合もあり、学校での家族制度の取扱いが難しい場合がある。日本やドイツにおいて権威主義的ということばや専制的ということばを使って議論をする場合と、英米においてそのような社会現象の議論をする場合とでは政治文化上の差異を考慮しなくてはならないことになる。考慮しなければならないというよりも政治文化上の術語上の差異があらわれるといってもよい。例えばおやつの分けかた、物の取り合いによってけんかをしたということの割合を調査するにしても、英米では平等ではないとけんかをすぐするのに対して、日本では兄が六割、妹が四割でもけんかをしないかもしれないので、けんかをするかどうかを調査しても何ら正しい結果はえられていないことになる。けんかの原因が物の取り合いが四十%、意見の違いが三十%であったとしても、その経験的な結果を理論的に論理化しなくてはならないということになる。人間は社会的な存在であるから日本における家族制度の残しもそこにみられるかもしれないし、個人としての性格の傾向が見られるかもしれない。しかし兄弟構成のなかから生まれる性格の傾向が七割であり、社会的な家族制度の残しが五パーセントであると経験的にとらえたとすればそれは理論的に説明される必要がある。理論的な説明が経験的な発見をさらに補強して、また新たな社会的発見を生むことになる。

〇才から三才までの子供の社会的状況の把握は政治的に、経済的に、人間関係的にどのように子供にとって習得されるのであろうか。これを政治的状況把握の習得過程、経済的状況の習得過程、人間関係技術の習得過程と呼ぶことにする。政治哲学的にいえば平等を尊重せよとか、けんかはいけないとか、約束を守る義務があるとか、これは自分のものであると分かり、それを自分のものとする権利(所有権)があるとかが分かるようになる必要があるが、それはどのような過程を通じて分かるようになるだろうか。経済哲学的に稀少性の意味やらが分かるようになるだろうか、それはどのような過程を通じてであろうか。公人としての人間関係をどのようにして習得していくのであろうか。人間は両親のいない場合を除けば一般には同一家計を営むある世帯のなかで育つことになる。両親のいない場合には施設の家計(経済体)のなかで育つことになる。その家計のなかで親やら家計負担能力のある者が収入を得て、それを子供に分け与えて、子供はそれで生きていくことになる。社会に出て働くようになり、一世帯を形成するまではそのように親とかの収入に頼ることになる。家計の形態にも多の類型や種類があるであろうが、収入の多い家計もあれば収入の少ない家計もある。そのことで分類すれば、収入の多寡によって貧しい家計、裕福な家計ということになる。子供に分け与えられる収入が同じ収入の家計であったとしても子供の数が多い場合と、子供の数が少ない場合とでは一人の子供に対する経済的な分け前は子供の数が多い程少ないことになる。子供に分け与えられる収入は富裕な家計と、貧しい家計とでは相違することになる。他の家計と比較しての一人当たりの子供の分け前については家計外の子供とつきあってその子供から話を聞くまではほとんどの子供は気付きようがないし、そのようなことに気付く子供はまずいない。しかし他の家計の子供が持っているおもちゃを自分が持っていないことに気付くことは〇才から三才児においてもありうる。

子供どうしの分け前が平等であるのか、ないのかについては〇才から三才児であってもすぐに気付くはずである。〇才〜三才児は次第に所有という観念を持つようになり、他の子供から所有物をとられそうになると所有権を主張できるようにもなる。他人の所有物を盗んではならない義務があると気付くようにもなる。これは兄弟姉妹との関係や友人関係やらのなかで生じるのであって、親子関係、祖父母との関係から生じるのではない。親やらが家計の収入のなかから子供たちにどれくらいの収入を分け与えるのか、それが親と自分とで平等であるかどうかについては子供はまったくといって程の関心はないし、ほとんどの両親はそれを子供に対しては秘密にしている。〇〜三才児ではそれらは知らされても分かりはしないであろう。〇〜三才児が分かるのは兄弟姉妹との間での分け前の平等性であろう。〇〜三才児でも兄弟姉妹のいる子供は多いし一人っ子である場合もある。上に数人の兄姉のいる場合も、下に弟妹のいる場合もある。第一子の場合には上には誰も兄弟姉妹のいないことになり、下にもいない場合もある。この場合は将来弟妹の生まれる子供でも下に子供がまだうまれていない間は一人っ子ということになる。もし双子や、五つ子であれば同じ年の子供が生まれてからずっと二人とか五人いることになる。年令の差は体格と発達の差が生じており、これを長幼の序として認める文化もあれば、あまり重視しない文化もある。男女差も体格と発達の差を生じており、男女に性役割の差を重視する文化もあれば男女同権を重視する文化もある。文化は大人の側の伝統であり、トラディショナルな文化は保守的なものである。しかし守られるようにいくら強制や教育が行われようとも現実の環境に合致しない伝統は破棄され伝統にとらわれない新しい伝統が形成され、また次の世代へ引き継がれていくことになる。伝統から自由であったり、タブーから自由であったりするリベラルな家庭においても、そうでない家庭においても現実の家庭環境がリベラルか、保守的かのどちらをとった方がよりうまくいくかということによって決定されるのであり、文化は押しつけられるものではない。文化の変化はそれゆえに現実社会の変化に応じて起こるものである。政府が文化大革命のように文化を変化させようとしても、家庭環境等がそれを受け付けない場合には失敗するし、逆に政府が強制しなくても自然に文化が変化していく場合もある。文化の変化が家庭の環境等の現実社会に必要であったから自然に文化が変化したともいえる。一方で中国におけるように政府の一人っ子政策や、また他の例では多くの国における扶養手当法や児童手当法のように家庭の環境に直接影響を及ぼすような政府の政策は直接家庭環境を変えることにより文化そのものに反作用的に大きな影響を及ぼしていく可能性が高いと考えられる。

また、兄弟姉妹構成からくる人間関係から生ずる経験と公民としての人間との関係を考えていくにあたって実際的な現実の経験と、言葉や文化のみによる擬似的な経験との相違に注意しなければならないであろう。テレビのドラマ等は子供向けの場合には童話や漫画番組が多い。現在の日本ではほとんどが漫画番組といってよい。これを経験としてとらえる時にはこの経験は擬似的な経験であり、現実的経験(体験と日本語では呼ぶこともあり便利な言葉ではあるが分析的でないので使用しないこととする)ではないので注意しておく必要がある。例えばアメリカやフランスのテレビ番組を見てアメリカやフランスに行った気持ちになっているのがほとんどの人である。アメリカやフランスとの政治的な交渉やもし戦争していたとしたらその戦争やらも概念的なことであり実際に経験する人は稀であったとしてもその事実はあると皆信じこんでいる。ところがもしウソの報道であったとしたら本当はウソであったということになる。エイプリルフールで四月一日にはよくこのことが行われる。文化についても同様で長男に相続しますよということを家族、とくにこども達に対していつもいっていたとしても、子供達は相続等したことはないのであるからそれは擬似経験でしかない。また都会の子供達は虫のテレビ番組が好きであるが、またコアラやパンダのテレビ番組が好きであるが、ほとんどが実際は見たこともさわったこともないという。長男相続の伝統的文化のあるところでは、長男におかずが食事の時に多かったり、アメリカ村やスイス村やらがあってアメリカやスイスによく似た所に行くには行けたとしても、この両者とも現実的経験ではない。アメリカにおける子供の政党支持の傾向に関する研究においてはそれが政治的社会化の研究の最も重要な一部門であると考えられ、親子の、あるいは、兄弟姉妹間の政党支持の一致・不一致の研究が行われているが必ずしも十分な成果をあげていないのは、青少年の政党支持が擬似的な経験や、政策に対する理論的ではない分析に重点をおいて決定されていることに一因があると考えられる。兄弟姉妹によって現実的に体験されるのは、おもちゃによる遊びや、兄弟姉妹との人間関係や親子の人間関係や、養親との人間関係や、施設の人との人間関係や、その他の親族、祖父母等との人間関係や、食事や、衣服を着ることや、住宅の状況に応じたトイレの位置やトイレ等である。トイレに特に注目するのはフロイトであるが、それはフロイトの特殊な性格によるものと思われる。それらの実際的経験はそれぞれに重要性や機能性がある。

子供の家庭環境や、概念の形成や、発達の過程や、発達の心理を見る場合に、経験論や観念論の対立、唯物論と唯心論(観念論)の対立、また証理実証主義、日常言語派の理論、プラグマティズム等の現代経験論内の相互対立等は子供の分析にあたっては何ら問題とはならない。逆にそれらの対立こそは子供の生活のなかから生じてきたのであるという結論になるかもしれない。この研究は、これらの対立を解消し、対立を理解するための道具となるかもしれないのである。というのは人格の形成プロセスがそのままそのような対立となっているという結論になるかもしれないのであり、その点を解明していくことが重要な分析の視点でもあるといえる。直接的な関係があるのか、、間接的な関係しかないのかということの分析も必要となる。例えばアダム・スミスや、エーリッヒ・フロムや、サリヴァンや、ソルジェニーツィンや、ハイエクや、伊藤博文や、フランクリン・ルーズベルトやらの一人っ子の理論形成は一人っ子として育った家庭環境のなかでの性格形成や危険と大きく関係があったのか、自由放任や見えざる手の考え方に子供の頃の経験が大きく関係していたのか、いやそうではなくて社会的文化的影響が大きかったのかという分析が必要になる。またフロイトや、マルクスや、エンゲルスや、レーニンや、ドストエーフスキーや、麻原彰晃やらの兄弟姉妹が六人以上であった人々の性格形成において兄弟姉妹における経験がどの程度、どのように影響があったのか精神分析によって理論的に明らかになるかもしれないし、因果関係は高かったのではないかという結論を出されるのかもしれない。この論文ではその点を分析していくことになるのでその結果については多くの批判を期待し、それに対して反批判を行ないたいと思っている。しかし子供の頃の概念の形成が大人になってからの思想的な理論形成における概念の使い方に少なからず影響を与えていることは考えられることであるし、人格の形成や、人格やらの発達の過程や、発達の心理が家庭のなかで発生するものである以上家庭環境や、育った施設の環境はそれらに多大の影響を与えているであろうことも容易に想像がつくのである。

多人数の兄弟姉妹のなかで育ったという場合に五つ子等のように同年令ではないということが多いことが兄弟姉妹関係の分析を非常に困難に陥れている。五つ子のように同一年令であったり、施設におけるように一才の間の年令(月令)の差で同一の学級を作っている場合に分配の経験をさせる場合に平等に分けなさいといってもすなおに受け入れられる可能性が高いが、年令差が多い兄弟姉妹や地方の分校におけるように四〜五才の年令差のある学級編成をした場合の学級や施設の場合には分配の経験において平等性の配慮は難しい問題に直面する。兄弟姉妹の年令差がある場合には各兄弟姉妹の食事量も、体格(体重や身長や筋力)も、経験の量や知識の量もすべてちがっている。この場合にはおもちゃや、食事の分配において年令差を考慮した方が平等であるということになるのか、それでも機会均等その他の点においては平等を確保すべきであろうかという問題が発生する。中国や日本の儒教道徳においてはこの問題は長幼の序という考え方で秩序を保とうという哲学があったし、今も残っているようであるが、西洋の政治思想のなかには長幼の序列の考え方は少なく、現在でもドゥウォーキンのように「平等であることを考慮してあげたり、平等であるように相手を尊重してあげること」がすべての法哲学、政治哲学の基礎的な原理であるという考え方においてはほとんど長幼の序のような考え方は見られない。企業内における地位や賃金の制度等についてもこのような違いが中国や、日本や、西洋諸国との間に見られるようである。このような違いが各国における家族内における兄弟姉妹の取扱い方の相違が原因となって発生したのだという仮説は、どのように家庭内における兄弟姉妹の人間関係をとらえることによって証明できるのかが本論文のテーマであり、人間が家庭環境を通じて人格を形成し社会に出て分業社会の一員となることから、家庭環境内における人間関係が社会的な制度よりも先に人格を形成するということを説明しようというものそれらの子供時代の人間関係のうちで約七割程度が兄弟姉妹の人間関係によって形成されているという仮説を証明しようとするのが本論文の主要なテーマである。

ここで七割という数字をなぜ持ち出さねばならないか。このテーマはこの数字なくしては存在しない。このテーマはこの数字なくしては証明は失敗に終わる。八割でもいいし、六割五分でもいいが、その数字はデカルトでいえば未知数であり、他の確かなものから確定しながらこの未知数を確かなものに近づけて行くのがこの論文である。なぜこのようにいうかというと私は一度この数字なくしてこの同じテーマを論文で研究しようとしたが、教条主義的かあるいは類型論に終始した。兄弟姉妹関係による類型化を試みたが、この類型化によっては、クレッチマーやABO型の人格論と同じく実はこの二つは占いと同じく全く間違っていると考えられるもので、実は何ものをも表していないということが証明できるのであるが、例えもし兄弟姉妹構成における人間関係論が性格に最もおおきな影響を与えているという命題が完全に真であるとしても、それはただ単に経験的な結論と、現実的描写に終始するのみであって、単なる類型論にしかならない。ところが性格というのは、行動や思考の仕方における傾向なのだという特性論の見方からすればどの程度に影響を与えているのかということの方が、最も重要なのであり、確かに兄弟姉妹の人間関係が性格の傾向に影響を与えているにしても、それよりもフロイトのいう生物(人間以下の動物論、人間とはそういう狂った本能のみを持った人間以下の動物であり、それ以外はないという動物論)論や、クレッチマーのいう体形の方が性格の傾向に与える量が大きいといわれればそれはそれでそのように証明してくれればよいことになる。このように特性論は特性論そのものとして存在するのではなくて、様々な要因あたりの性格の傾向に与える影響のそれぞれの程度であるべきだという考えに到達したのがその論文による失敗の結果から得られた教訓による修正である。その論文における兄弟姉妹関係による性格の傾向の分類は今でも、また、経験上も、また様々の伝記の精神分析上も正しかったと考える。しかし性格の傾向を分析するに当たった性格を表現する上でのことばは、すべて傾向であり量としてあらわされるのが妥当であろうし、そしてまた、様々な要因も同じく量として表され、全体を百とした場合に、性格の傾向に与える影響の程度はどのような因子が全体百のうちの何%、その他の何が何%、その他の何が何%・・・・というように、それらの合計の百%により全体の性格の傾向が形成されるのであるとすることによってはじめて性格の形成論、つまりは人格心理学、人格発達心理学という教育心理学や、政治心理学や、政治と人格論の一部を占める学問論となりうるということに気が付いたのである。このような性格学上の方法論的な正しさはどのようにして証明されるのであろうか。例えば兄弟姉妹の人間関係によって性格の傾向が形成される割合が約七割ぐらいあるだろうといくら主張したとしても、ある人は特にそのようではなかったという場合がありうる。クレッチマーのいう体形や、フロイトのいう肛門期は常識的に考えればゼロに近い程度にしか影響を与えていなかったにしても、小さい頃養子に出されて一人で育ったが、時々もとの多人数の兄弟のもとに帰って生活していたという場合に、もとの血のつながった兄弟姉妹に対して養子に出されたということで、ものすごい反感、敵意を持っていたという実際の事例の場合に、性格の傾向をどのような因子が支配していたのかを決定することができるのかは全くもって困難至極である。あるいはフロイトのように異母兄姉がいたり、ある人のように異父兄姉がいたりした場合にそれらの人々が同居して同一家計で生活していた場合に、兄弟姉妹の人間関係をどのようにとらえるのかも同じく至難である。その時に兄弟姉妹関係よりも異父兄、異母兄に対する反感が強かった場合にはそれは兄弟姉妹の人間関係による人格の傾向形成と呼べるにしても、特殊なものであり、それがどの程度に影響を与えていたかを追跡しなくてはならないことになる。全く一人で養子に出されたケースで、二十才以降になって兄弟姉妹がいると分かったりしたケースや、十才で分かった場合等についてもその性格に与える割合こそが問題となるというのがこの論文を提出する最大の論点である。

また類型論の欠点は経験的な要素が多く入り込むという点にある。アダム・スミスや、ハロッドや、ソルジェーニツィンや、エーリッヒ・フロム等の一人っ子で育った人たちの伝記を集めてきて自由放任論と、見えざる手による説明という共通点を探してきたところで、それがなぜそのようになったかを説明したりする段階になって、理論付けが全く異なって全く偶然の一致であったという結論になる場合がありうる。一方理論付けを行った結果そのような性格の傾向が形成されたのには一定の理由があって、自由放任論と見えざる手による説明論に到達したのであるならばその他の一人っ子一般についての説明に兄弟姉妹関係論が利用されうる可能性がでてくるのであって、経験によってそうであったからといって一般的にふえんできるのではないということである。するともし例外が生じてきたとしてもどこでその要因が起こったか分析できることになる。つまり兄弟姉妹関係論はこのケースからすると一般的な兄弟姉妹の人間関係に性格の傾向の形成のモデルケースを示せばよいということになる。例えば一人っ子でも政治家では伊藤博文や、美濃部亮吉や、フランクリン・ルーズベルトがいるし、その伝記もある。また『積木くずし』という一人っ子の娘の非行のことを詳しく書いた本もある。この『積木くずし』の場合は、父親の方が三男等の甘えん坊で娘の自由放任論や、見えざる手説明論を全く理解できなかったのではないか、父親の方が悪かったと、父親のその文章をよく読んで私は思っている。私が高校で教員をしていても、私は一切登校拒否も非行も出さない主義を貫き学年主任もしたが、その時の経験から子供の「生活」を教員のうちでも普通の言葉でみようとする先生、両親とは違って、普通の言葉でみることができず、自分の立場からしかみることができない先生、両親の場合に『積木くずし』のような非行や、狂いやすべてが「惹起されている」ということを発見した。これは「政治と精神医学」の問題と似ている。このことが正しいのであろうということも私の兄弟姉妹関係論による人間関係論は含んでいると主張するのであり、その経験をこの論文は証明しなくてはならないのであるが、それに対してもっと他の要因の方が大きな影響を性格の形成や、非行の形成やらに与えているという主張については私は真実を示しながら反論できると考えている。『積木くずし』の親のような見解は正しいかもしれないが、反論は学問的にする機会が与えられるべきであるということである。そのためには人格(特性論での人間の性格の傾向)の一般的な発達の心理学的分析が、人間関係論、特に兄弟姉妹の人間関係が七割程度であるという理論としてならば、発達の理論的解明と、傾向の程度の説明として学問的には提出されねば学問としての価値は定まらないと考えられる。

もしそれが正しいものとして学説上も定着し、現実の経験においても正しいことが立証されていくならば性格心理学にとって大きな進歩発展になるであろうし、公民教育法にも大きな影響を与えることになる。

これまでも兄弟姉妹関係の人間関係論から生ずる性格の傾向の形成について述べた書物は多く出版されているが、ほとんどが経験的に書いたものが多かった。その代表的なものとして市民一般の実用書として実用書を主に出している光文社から、斉藤茂太氏の『兄弟関係論』が出版されたことがある。経験的な命題をその心理の形成にさかのぼって証明するということはあまりなかったといっていい。確かに多くの人の話から多人数兄弟であれば、物の取り合いをしたとか、長男はこう育てるとよいとか、次男はこう育てるとよかったというような生活の実用的な知恵となるようなものは出版されたことはあるが、哲学や、政治学や、社会学や、経済学や、教育学にまでわたる広い範囲を覆う学問的研究はなされていなかったといってよい。この論文は方法論上は以上のような方法で、その様な方向を目指すものである。

もしも兄弟姉妹の人間関係が性格の傾向を形成するうえで七割程度を占める影響を与えることが証明されて、それが二十才以上の大人になり一生の性格変容の量が一割程度であるとすれば、一生の間人間は兄弟姉妹の人間関係の影響を大きく受けながら生活しているということになる。ということは子供の両親の性格の傾向は子供の性格によってではなくて、親の兄弟姉妹との子供時代の人間関係によって大きく(六〜八割程度)影響されていることになる。「昔はよかった」という人間がよく使う言葉は自分の子供時代の兄弟姉妹の人間関係を回想し、その頃は自然とよく遊んでいたなといっているのかもしれないし、昔のギリシャ・ローマ時代を回想するときにマキャベリーが「ローマ史論」のなかで「昔はよかった式の議論にはなりたくない」という趣旨のことを述べているのも、またルソーが社会契約論において自然な状態を想定するのも、ホッブスやロックが社会契約以前の自然な状態を想定する時に考えていることも、またジョン・ロールズ(一九二一年生)がオリジナル・ポジション最初の状態ということばによって考えていることも、ドゥウォーキンが人間は生まれてくる時は平等な条件で生まれてきているわけではないという時の生まれてくる時のことについて考えていることも、すべては各家庭における兄弟姉妹構成における人間関係のことをいっているのではないかという仮説が証明されたともし仮定するならば、公民学も、政治学も政治哲学も大きなショックを受けるであろう。それを証明されうるかもしれないし、証明されえないかもしれない。その方法は以上の通りその性格の傾向に与えた影響の程度が七割程度であることを、理論的に説明していくしか方法はないことになる。その人の性格の傾向が政治哲学に与える影響の程度を考える場合には当然それは兄弟姉妹の人間関係の政治、経済、社会、哲学的な部分について考察することになり、それを理論化するという方法をとらねばならないことになろう。同一の家計に所属していた子供時代に兄弟姉妹の人間関係が政治的、経済的に大きな相互に対立したり、友人関係にあったりすることは容易に理解できるのではあるが、大人になれば兄弟姉妹は独立し別の世帯を別の家計により営むのであるから、その時に子供を産むかどうか、また産んだとしてもどれだけ多くの子供を産むかどうかは別としても、兄弟姉妹には人間関係として政治的、経済的関係は発生していることもあるが、全く発生していない場合にでも子供時代に作られた性格の傾向が大人になり死ぬまで影響が七割程度のまま続いていくとすればどのような理由が考えられるのであろうか。ただ単に昔はよかったという回顧趣味のみによるのであろうか。七割程度のままであるとすればその持続性は相当高いことが証明されねばならないことになろう。考えられる主な原因は人間は自分の満足にほぼ精一杯であり、自分が満足していなくて死ぬ程貧乏しているのに社会的行動で他人を愛することを考えたり、行動したりすることはないといえるのではあるが、よしんば自分が満足に至った場合に次に死ぬ程貧乏しているのは誰かと心配するのは、両親は普通は職を得て子供を育てたのであろうから満足していると考えれば、自分の兄弟姉妹であろうと考えられるからであり、兄弟姉妹の政治的、経済的状態を援助したりして平等になるようにと考えるのであり、それから赤の他人の援助へと考えられるからである。これを遺伝子がつながっているからと考えるのは、赤の他人の養子や、施設で育った場合に自分の満足の次に誰を援助するかと考えた場合、施設の人々であろうから、妥当な考え方ではないということになる。税金によって援助を考える基礎にはこのような考え方があるものと考えられる。遺伝に関してついでにつけくわえておけばすべて対人関係から精神病は生じ、ある人が他のある人を排除しようと考えるから他のある人は自殺するのであり、ある人が他のある人を、例えば下に弟妹のたくさんいる第一子の長女の例でいえば、下の方の弟や妹が第一子を精神病におとしいれるくらいにストライキのようなひどい精神的行動をとったことが長女を精神病におとしいれたとか、回りの親族や友人にそのような行動をとる人がいたとかいうようなことが原因となって精神病がおこるのだとすれば、兄弟姉妹や親族やらのなかにそのような破滅的ストライキ状態の行動をとる人間がいることによって親族とか兄弟姉妹とかが、その行動によって次から次へとおとしいれられて精神病にされてしまうことを、遺伝ではないかと間違って認識する場合がありうるのが、社会的人間関係から生ずる精神病が、生物的、器質的な遺伝と間違ってとらえられたのではないかということになり、社会的な行為の経験が生物学的な物とはなりえないので遺伝ということは「次から次へと」おとしいれられるということが間違えられた結果のフロイトの生物論や、占いや、クレッチマーの体形論や、ABO型の性格分析と同じくいまにもありそうにみえるがそうではないまちがいであり、マルクスの物論と同じく間違ったとらえ方であるという理論になる。兄弟姉妹の人間関係による性格の形成ももしフロイトのように生物的にとらえるならば性格が遺伝的に似ているということになるが、フロイト自身は妹が四人いていつもその面倒をみていたせいか、そのような論を形成していない点がドラッカーのいうフロイトの奇妙な性格から類推できて面白い。人間をものとしかとらえられなくなる性格は、戦争の時に敵陣営の人を物とみることや、フロイトが人を物とみる時や、マルクスが人を物とみる時とかにあらわれるが、家庭のなかで人が多過ぎると人を排除するために、人を物とみて抹殺する時の物とみる非行と似ている。その時人は「物をたべなさい」物であるとみなされ「着物を着ない」物であるとみなされ、「住宅を必要としない」物とみなされる。文化人類学の現代的反省、植民地主義的偏見に対する反省、トィンビーが『歴史の研究』のなかで反省していた反省点はポスト・モダンの文化(人類学)、文化論としては必ず通過しなくてはならない反省点であるのかもしれない。

人間は大人になっても自分の兄弟姉妹とのつきあいの方が多い傾向がある。この傾向は日本においては七十%程度であり、帰省や、里帰りやら、盆休みの帰省、正月の帰省やら伝統的にその傾向が高く七十%程度であるとしても、外国においては長幼の序の考え方も少なく、かつ、平等主義のうえにのっとって各兄弟姉妹は「遠くの親類よりも近くの隣人」を大切にする傾向が強くそのために家族ぐるみのパーティーが隣人や会社、職場等でおこなわれている傾向が高い地域や国があったとしたならばこの約七十%という数字は極端に下がり二十%程度というようになる可能性があるのであろうか。隣人よりも親類縁者の方をいざとなったら大切にするというのは人類共通であるという思想を遺伝子レベルで物(あるいは生物)的に説明することはせず、人間関係論としてするのが妥当であると考えるのであるからこの点は明確にしておく必要がある。パーティーにしろ、近くの赤の他人の隣人とのつきあいにしろ円満にいくのは相当困難であるということと、政治、経済的な関係が隣人と兄弟姉妹とでは違い、兄弟姉妹との関係においてはテンニエスがゲマインシャフトという言葉(これも兄弟姉妹の同一の家計のなかにいた時代のことを原初的に考えて作られた言葉かもしれないと思っているが)を使ったのとよく似ているのであるが、将来相続とかがあった場合には、子供時代に食べ物を分けていたのと同じように、財産を分けなくてはならないという立場におかれていて政治、経済的結びつきがあるのに対して、隣人やらとの間においては交換や、売買や、職場やらでの利益的関係(テンニエスのいったゲゼルシャフトの考え方に似ている)しかないのである点が相違している。文化人類学でいうレシプロシティー互酬性の原理はトロブリアンド島のクラ(kura)という儀礼的な交換においては利益を生む経済的効果のみならず社会連帯を高めていたことや、モースの描いたインディアン族でみられるポトラッチと呼ばれた儀礼的交換や、日本における盆、暮れの贈与のしあいや、年賀状や暑中見舞いの儀礼的交換等において確かに見られるが、それをレビ・ストロースのように贈与交換の本質を経済性の認めない考え方はあたかも兄弟姉妹の人間関係における政治性や経済性と、夫婦という赤の他人同志の人間関係における政治性、経済性とを同列に置こうとしたものであると分析できると考える。文化人類学が兄弟姉妹関係の分類、研究を行わなかったこと、その政治的、法的、経済的側面を行わなかったことはこの政治と教育の研究に相当な悪影響を及ぼしている。レビ・ストロースが女性の交換(婚姻)の体系以外の研究も行っていてくれていたらと悔やまれる。物がすべて共有化されていると考えられる社会においても交換が成立するであろうか。物の移動は考えられても交換ということにはならないであろう。ギブアンドテイクを行うには、ギブする所有された物、テイクする所有された物が必要である。私有という前提がないのに交換という概念を考え、ギブアンドテイクを主張するのは不可能である。従って兄弟姉妹関係のなかのなかにおいても所有(権)という観念が兄姉姉妹の中で発達してくれば、相互に利益を発生させる交換という概念が発生する。そうなるとゲンマインシャフトとよく似たものと考えられていたものも、ゲゼルシャフトに近くなることになる。すると兄弟姉妹の人間関係もパーティーのような赤の他人の人間関係と等しくなり、兄弟姉妹の人間関係をとくに七割というように取り出して他の三割がその他の人間関係であると区別する必要はなくなるのであろうか。しかしそれでも兄弟姉妹の人間関係をとくに取り出して七割であるとする必要があるのはレシプロシティーや交換があるかどうかではなくて、また、血のつながりにあるのではなくて、施設や赤の他人の養子となった数人の子供の例を考えてみれば分かるとおりに、政治性と経済性とかを子供達同志で考えながら平等性とか自由性とか規則(規範、ルール等)の作り方を同一の家計内で学習し発達し、教育されたという心理的な一体感のなかに、つまり公民というものがいかにして作られたかということにその本質を求めるべきであると考えられる。交換の全体的な連鎖が社会を形成しているという単純な定理はオプティミスティックな職業観であり、もっとも単純な社会倫理、職業倫理となりうるものであり、私もそれこそが最初に教えられなくてはならないものであると思っているし、それが最初で最後である理想社会の存在の主張もうなづける点も多い。しかし「生まれた時は皆平等に生まれるのではない」というドゥウォーキンの法哲学の主張、政治哲学の主張、そしてそれがすべての権利と義務の出発点となる「平等な尊敬と配慮」の原則の主張につながるという原理も大切である。交換の原則や、一人っ子だったアダム・スミスのいった道徳観念や法観念がいかにして形成されていくのかが人間関係を研究し、分析していく時の最も重要な視点となるべきであるという結論が以上から導きだされることとなる。文化人類学がこの点を研究するための材料を示してくれないので、現代と様々な伝記とを研究の材料として兄弟姉妹の人間関係と、人格の形成と心理の発達を研究していかねばならないことになる。

妹が四人もいたような人、例えばフロイトのような人は妹達によって、また、妹達の言動によって自由が制御されたはずであるし、まだジェンダーの完全な平等が達成されていない現代社会では女性である妹は社会的に不平等な状態におかれているために、看護婦とか女性のつきやすい職業につくことになったような場合は別として妹が就職をすることは難しいと予測していたと考えられ、そのためにフロイトは自らの経済的な要求を押さえてでも妹達が大人になってもその経済的世話をみていかなくてはならないという負担を感じていたと考えられ、そのためフロイトがどこかで独立して妹達の面倒をみないでいいところにいき自由になろうとでも考えることが少しでもあれば、フロイトに対してこの世に存在しないおばけのような想像物がフロイトをおそうよとか、そのようなほかの場所はおばけのようなこわいものがいるよとかいってフロイトをこわがらせり、それに対してフロイトがいうことを聞かないと政治学的にいえばサボタージュとかストライキといわれているようなフロイトの精神をこわすようなことを相当多くしたり、いったりしたと考えられる。このようなことがフロイトのフォビアを精神分析してどのようなものであったのかを分析する手掛かりとなりフロイトの精神に病のようなものがあったとすればその手がかりとなると思われる。それがフォビアといわない場合に本質的にどのようなものであったかを精神分析する手掛かりになると考えられる。私は夢とは眠っている間の情報処理において活動していない時に記憶する時に、情報処理できない非合理な情報とか、情報処理できない論理的にあわない部分を廃棄しているのと同じように、すなわち間違いの情報の束が記憶する時に捨てられているのと同じ様に、起きている間に得た情報のうち現実の理論が形成できない、非合理的な情報がそのまま夢となって捨てられているものが夢のなかに表れたものだと考えており、従って夢は捨てられた情報であるから記憶にないのだと考えられていて、私は全く夢が記憶にないのはそのためだ、それが証拠だと思っている。ラズウェルが煽動家だと性格分析したレーニンのストライキの煽動のようなものが政府でさえも転覆できるものであるという伝統主義、保守主義者マイケル・オークショットの指摘は、兄弟姉妹関係のなかにおける姉や、弟達の行動や思考のなかに原型があったのであり、それは政府を転覆させたのではなくフロイトやらの心を、精神を転覆させたのが原型としてあったのではないかと精神分析できる。医者が解剖できること、弁護士が実定法の丸暗記ができることと、いい公民であることや人間関係とは別である。これは兄弟姉妹関係における政治的人間関係の部分である。これらのことが何なのか、何をどうするのかは深く、哲学的、社会的に考察される必要があるが、ここではそこに到る前に第一子が次の子供が生まれるまでの一人っ子だった時代をまず考察することにする。一人っ子の場合とか、次の子供と四才以上はなれている場合には〇才から三才までのみを考察することとする。

この兄弟姉妹の人間関係は妹が四人になったフロイトの場合とは全く異なっている。そこでの政治的、経済的人間関係はどのように分析できるのであろうか。兄弟姉妹が全くいないからといって兄弟姉妹との感情と同じような感情が全く存在しないわけではない。ほかの家庭の同年令の子供たちとそれと同じような感情を有する。しかし同一の家計のなかで生活しているわけではないので、政治的、経済的人間関係としては同一家計内で行われる兄弟姉妹との人間関係とは相当に異なっている。最初の自転車の取り合いの例はその一例であり、私の娘の真実の記録である。この時代にフロイトが考えたような性欲は全く存在しないといっていい。それはフロイトがその兄弟姉妹関係論のなかで自らに発生させた性欲のみに執着する性格から生じたフロイトのみの眼であると精神分析したい。この論についてはもっと深く考察する予定である。

第4章   幼児の人間関係・所有の観念

三才十一カ月になる第一子の娘に最も好きな遊びはと聞いたところ、自分の家のなかで唯一一人の空間を取れる押入れのなかに入って、外のドアをトントンとたたいて「さちこちゃんいますか」といって様々な人がクリスマスのおみやげ等を持ってきてくれる遊びであるといった。次が大人にだっこされることによく似ているが、大人の両足から片足にのって大人と一緒に歩く私が二人三脚(実は二人二脚か二人一脚であるが)という遊びであり、最後がおもちゃ遊びであり、本を読んでもらったり、テレビを見たりする遊びであるといった。これは室内の遊びであり室外ではまた違ったものとなる。もっと小さい頃にはいないいないばあという遊び、隠れていて人が突然あらわれる遊びや、大人に抱かれて高い高いをしてもらう遊びやガラガラを持ってガラガラという音を出したり、そのことができない場合は出してもらったりする遊びが好きである。この描写は故意にではなく私が思いつくままにあげたものである。押入れのなかにはいりこむことは自分の空間を所有することに似ており、他の人がトントンと押入れのドアをたたくのはその空間からみた人間関係である。次に二人三脚の遊びは子供が大人と同じ目線から空間から物を見ることをあらわしており、そして最後のおもちゃは自分が所有できる空間以外の物を表している。この空間は不動産の与えるものであり、不動産そのものの価値であり、おもちゃはそれとの対照では動産と名付けられるものである。いないいないばあの場合にも子供はまず自分の空間を作る。作るというのはまだ手足が動かせないので空間を、自分だけの空間を所有することができないからである。小さい頃のガラガラも動けないゆえに物を所有していることをガラガラという音を出す物によって物を所有しているのかなという感覚を与えてくれる物を感覚する。このように空間も、おもちゃという物も小さい頃には感覚(所有の感覚)であり、それは三才十一カ月になっても(これは平成八年十二月十日に書かれている)所有の感覚となって会得されており、それは大人になっても死ぬ迄も同じである。そこでは排他性は自分のものと思ってはなさない時にのみ感覚されている。高い高いや、二人三脚は大人との一体感というのはなく、ただ大人の目を体感しようという意思であることが、私自身や娘自身の行動によって分かる。大人がどう感じているのかを知ることによって自らの感覚(所有の感覚を含め、大人の所有の感覚がどのようであり、自分の感覚がどのようであるかを知ることによって)を大人の感覚でもみようとしている。大人がどういう所有の感覚(支配の感覚)を持っているかをみようとしているといえる。大人の目でみようと大人に感情移入しようとする心が発生するのは当然といわねばならない。しかし大人の胎内にいるのと同じ様な状態にあるのはこの年令であってもかわりはない。

ところが大人がそのような子供の面倒を見たくないと思うくらい依存心の強い人間である場合次のような仮説(百億分の一の仮説と私は思う)をたてるかもしれない。子供が押入れの暗い中で一人で寝ることができないのは子供が父母や養育者や、施設の人やらに甘えているからだと。それは違う。そう主張している人が甘えているのだと私はこの事実を正しく評価する。正しくと考える。というのは子供はまだ母親の胎内にいる時と同じ状態なのでだから。土居健郎はこの状態を母親と分離の痛みと考えて甘えと呼んだがそれは土居の甘えた心から発生した見方かもしれない。十分に独立的に行動しているこの年令の子供を私達は観察することができるし、後に分析することになるが、上に十人もの兄弟がいる場合には彼らに甘え、十分に自我の感情(アイデンティティー)を発達できないでいる子供を大量に、かつ、容易に発見することができる。この事実を評価するには、兄や姉から何でもしてもらっているという事実より演繹するのではなく、先に述べた空間(不動産)の観念や、所有の観念や、自信が容易には身につかないという事実に注目しなければならないと考える。この事実の観察についてのみは私は自信がある。多くの観察を、それも十分に事実と確認できるくらい多くの事実の観察を経てきているからである。最初は事実の経験であったが現在は事実の理論的評価の段階にまで私の経験は、学校経験等を通して深まっている。この兄姉関係や、兄弟姉妹関係はから発生した甘えの観念は、土居健郎の「甘え」の観念を(この観念は母子関係の甘えを基礎にしている)容易に現実的に打ち壊すものであると考えている。妹弟の観念の仕方についても妹が生物的に生きていくのが困難なために、まず生物的な充足を兄姉がしてやらねば生きていけないというような要求を兄姉にしてくるところに兄姉との関係と違って妹弟との関係の特色があると考えられる。このことは以外に重要な特色であると考えられる。この他に注意しなくてはならないのは兄弟姉妹関係における所有の観念というのは大人になってからの土地所有、登記による何平方メートルの所有とは違って所有の境界にクイを打ってあるわけではないということである。所有の感覚に近く、その境はない。魚やらの動物の縄張りのように生きるためのものでもない。生きていくのは親の与える物(動物でいえばエサ等)によるのであり、衣食住のすべてについてそういえるのである。それは縄張りのための縄張りではない。生きていくためではないのであるからそこには兄弟姉妹関係のなかには完全な愛がある。家庭とは、家族とは何かと聞かれて何と答えられるかはペスタロッチの書物をひもとけばよい。それは昔はよかったという時に人間が思い浮かべる兄弟姉妹の愛の絆であるのかもしれない。しかしそれが独立性を阻害し「甘え」を発生させると考えられる。兄弟姉妹の愛に甘えるように社会に出てからも愛に甘えられるような、全体主義やコレクティヴィズムの社会を信じそれをユートピアと思うような性格はその発生をこの兄弟姉妹の愛のなかに見出すことができると私は考えるのである。 一方サリヴァンや、モンテッソリーニや、アダム・スミスや、ハロッドや、シュンペーターや、ソルジェニチィンや、伊藤博文や、フランクリン・ルーズベルトやらの一生一人っ子で育った人は独立性が強い。両親の家族のなかにおいても三才十一ヶ月のさちこが、押入れを自分の空間として所有しようとしたように、その他の場所でもいいが、自分の空間を持ちたがる。そして兄弟姉妹関係に対する甘えを持たない。兄弟姉妹関係に対する甘えから心理的発達の過程で発生するものの総体は容易に性格の傾向として見分けがつく。経験的にもそうである。この事実を分析すると、兄弟姉妹に人間関係として相互依存的関係にあることから発生するものと考えられる。一般には相互依存関係はなくてはならないものだと国際政治関係や、産業連関関係や、職業分業関係のなかでは考えられている。ところがこの相互依存関係はそのようなものとは全く異なる。それはあたかも共産主義社会内や、プラトンの主張した妻や、子供の共有の社会内における愛情的人間関係のなかの依存関係と似ている。なぜならば子供達はいまだ母親の胎内にいるのと同じ様な状態にあり、独立した者同志の人間関係のなかにいるわけではないからである。分業の体制内における産業人同志の人間関係は独立した者同志の人間関係に近い。この人間関係を愛情によって結び付けられたと彼らが感じている共産主義のユートピアからみれば、悪意的に利害関係のみによって結合されているという意味でゲマインシャフトとよぶことがありうるとすればそれはあまりあたっていないと思われる。ゲゼルシャフトの方が公的で、優良だという考え方についても考える余地があるのと同様である。テンニエスのこのような考え方は士農工商の考え方の強かった日本や、遅れて産業化し、皇帝を残して産業指導をして発展せざるをえなかったドイツや、ローマ帝国時代の名残りとして帝国的な考えの残っていて市民革命の遅れたイタリア等に共通した市民よりも共同社会を重視する文化の根底にあったものと私は思っている。このような三国がファミリーを重視したり、家族制度を残していたり、ヤクザやマフィアの制度があったり、あるいは、兄弟姉妹の愛情関係を重視していたことも事実である。またアメリカという多民族国家のなかに移民したとしてもまとまりやすかったのも事実であろう。これをコレクティヴィズムと違った意味での集団主義と名付けるとすればその根底には兄弟姉妹の愛情的関係の名残りとそれによる甘えの社会が形成されたと考えるのが正しいと考える。このような文化の傾向は長幼の序を重んじる中国にも見られた文化の傾向であり、現在の共産主義国家中国においてもみられる傾向である。中国の哲学のなかにそれはあらわれているし、性格の傾向が政治と深い関係があると考えたメリアムも中国においての家族の絆の強さが政治に深い影響を及ぼしていると考えていた。この点から見れば一人っ子についても、〇才〜三才までの間に弟か妹の生まれなかった間の乳幼児についても、親の家庭や施設のなかで自分の空間と感覚できる場所をつくり次第に独立していくことを考えると、兄弟姉妹関係に対する甘えは存在しない。もしこの間に妹や弟が生まれたとしたら、この考察はあとに譲るとしても一人っ子との対応でここで考えてみると、兄弟姉妹関係に対する甘えや、競争関係は成立するであろうか。

〇才から三才の終わりまでの間に妹や弟が一人できた場合の政治的、経済的人間関係について考えることにする。五つ子の場合はこの間ずっと五人の同じ年の兄弟がいるわけであり、双生児の場合もまた二人のそれがいるわけであり、また、この間に妹や弟が二人いる場合もあろう。またこの期間年令が上の兄弟姉妹が五人とか、六人とかいる場合もあろうし、一から十二人くらいまでの兄や姉がいる場合もあろう。〇から三才までの期間に受ける影響についてはまず下の子供が妹か弟かが一人いる場合にのみ限定して考える。兄妹、兄弟、姉弟、姉妹の関係についてのみ考える。ある期間まで一人っ子であった兄や姉に〇〜三才までに弟や妹ができる場合、一人っ子であった兄や姉にも所有の感覚やらについてはまだ確固としたものをもっておらず相互に奪い合うという感覚も発生しておらず、姉や兄は生まれたばかりの赤ん坊をまだ未熟な口のきけない世話をするべき対象としてみる。母やらを奪われたとこれまでの指摘のようにみるのは正しいであろうか。母親との愛情関係とこれまでみられていたものは、動物でいえば母親やらが姉や兄や赤ん坊に(動物のをそうよべば)エサをやるかどうかという問題であり、エサが少なくなるかどうかの問題である。これについては十分にではなくてもエサを与えると考えられるから、つまり人間でいえば扶養をするであろうから、食事を与えられる時間や空間の差が発生したとしても、あまり姉や兄に影響はないのではないか。これまでの理論によれば親が赤ん坊の面倒をみている間は姉や兄の面倒をみれなくなるから、性格的に赤ん坊がえりをするといわれていた。これは全く母親が甘えている時に、子供の世話をしたくなくなって母親が思っているだけのことであるというのが私の観察した事実であり、その評価である。確かに親に普通の意味で甘えて泣くということはありうる。しかしそれは赤ん坊が下に一人できていない時でも同じであった。それが何らかわったという風には見られない。姉や兄や赤ん坊と競争するとみるのも全く無理がある。赤ん坊が目も見えず、口も聞けないのにどのようにして兄弟姉妹でけんかをしたり、競争したりするのか、そこでみられるものはやはりまだ愛である。もっと大きくなればおもちゃのとりあいをして、自分のものとして所有を確保することにより所有権という観念を勉強する一つの政治的学習の場となるかもしれないが、この〇〜三才までの間にはそのようなことは経験しそうにない。親や施設の人の目が届く時間や範囲は少なくなるかもしれない。ところがそこに祖父母や他の養育者がたくさんいる時もあり、その場合には少なくなったとはいえない時がある。一般には弟や妹ができることによって我慢することができるようになるといわれていたとしてもこのようなケースがあるので必ずしもそうとはいえない。それらは親の方で養育者を増員したり、三才保育やらの保育園、それも保母の数の多い保育園に預ける等すればまた同じようなケースがでてくる。それでは本質的な違いは何かというと世話するおもちゃとしか考えていないように赤ん坊ではあっても弟や妹ができて、愛情がもてたということなのであるようだと思う。親の手が足りなくなったので親から独立する力がついたようだと考えるのは早計にすぎるようで、姉や兄と赤ん坊との絆が深まったのであるようだ。愛情的な絆の方がずっと大きいようで、競争的関係はまだ少ないようである。

たとえ少しでも競争的な人間関係が発生する余地が少量あったとしても、〇〜三才くらいの姉や兄ではまだ所有の観念が少なく、私の家のさちこもすぐ他の人に「やる」ということについて喜びを見出しているようであり、競争的ということは、もし貧乏な人の家においてさえ、ないようである。ところが上に姉や兄が五人以上くらいも多くいるということになると、兄弟姉妹で競争的になるということはありうることであるが、それは四才〜二十才くらいまでの子供同志についていえることである。つまり子供は三才くらいまでの間に所有という感覚(観念の前段階のものであろう)をもつようになるようである。その時に上の年令の子供が五人も六人も十一人もというようにたくさんの子供がいる場合には、〇〜三才を終了した子供も自分の所有の感覚をとられるのではないかという恐怖に近い感覚を覚えるようになると考えることができる。この感覚がフロイトや、フロムに恐怖症(フォビア)や神経症を発生させたといえないであろうか。

「カール・グスタフ・ユング Carl Gustow Jung は、一八七五年七月二六日、スイスのツールガウ州にあるボーデン湖畔の地ケスヴィルで生まれた。二人の兄があったが、いずれもみどり児のままに死亡し、彼はひとり児として育った。一八八四年、九才の時に妹ゲルトルードが誕生した。この年、ある日、石に腰をおろしながら、ふと、「私」とはこの石の上に座っているものであるか、それとも石は「私」であり、その上に彼が座っているのかと疑問が沸き起こり、悩んだ。これは無意識と環象との融合の体験であり、レヴィ・ブリュールのいう神秘的分有の経験であったと語っている。」

「十二才の時には三才になっていた。この頃から神経症を一つの秘密としてもつようになった。一八九九年の二十四才の夏には、知り合いの家庭の十五才の少女を霊媒として、その妹や友人たちの仲間に加わり、交霊現象の実験に興じ、テーブル・ラッピングの超理性的音響現象を経験し、交霊状態(トランス)にあっては覚醒時とは異なる能力が発揮されることを承認した。この記録は、後に卒業時の論文として発表された。この少女は後に霊媒として有名になったばかりではなく、デザイナーとしても成功したが、二十六才で死亡したという。」

このようなユングの精神のゆれは、ユングの妹からの顕著な影響によるのかどうかは別にして、事実として妹が生まれてから発生していることがわかる。ユングの母の三、四才頃の不在の影響についてはユングの母の兄弟姉妹関係が「母方に六人の牧師がいる」ことしか記述がなく不明なので省察を避ける。母親の兄弟姉妹関係から主に成立した性格の傾向が子供にとって受けいれがたいものであったならば、そのことはユングにおおきな影響を与えたと私は考える。このことをぬきにした場合ユングにおいては妹が三才になった時から神経症をもつようになっている。フロイトが初期からフォビアをもっていたのとは異なっている。

ユングは九才になるまで一人っ子であったが、九才になった時に妹が生まれた。この兄弟姉妹構成はどのような形で彼の心に影響を与えたのであろうか。兄弟姉妹構成論にあっては兄と妹の関係は権威と従属の関係であるといわれてきた。大人になってからの妹は第二子的な反発性と行動性が中心であるといわれている。それがユングに与えた影響は大きい。しかし九才までの精神形成においては一人っ子として独立的であった。神話の普遍的無意識とはセーラームーンや所有の観念とどのような差異があるのだろうか。フロムやサリヴァンやモンテッソリーニが一人っ子であったこととの差はどのようなものであろうか。フロムの社会的性格の理論は神話の普遍的無意識の観念とよく似たところがある。ところがフロムの心理は外界の社会に向かっているが、ユングの心理は神話という社会的なものと同時に、普遍的無意識という内的なものにも向かってもいる。九才になって妹ができたというだけでそれ程までに内的なもの心理は向かうのだろうか。九才の兄と〇才の妹の関係をそれ程重視する必要があるのだろうか。確かに大きくなっても人は観念で動く。だからそれによってどのような観念がつくられるかということは重要なことであろう。九才におけるフロムの石の体験については下の妹が生まれたことにより自らと妹との人間関係について考え始めただけだととらえることが正しいと私は考える。それを無意識と環象との融合の体験とか、神秘的分有の体験と呼ぶのは、それ以後の超理性的音響現象や、交霊現象を信ずるのと同様に、妹との人間関係が深く関与していると考えられる。その証拠に二十四才の知り合いの家庭の十五才の霊媒の少女は妹と同じく九才下の年下の少女である。女性は社会的なジェンダー(性)としては差別されていたであろうから、もし就職できる看護婦とかの技能を身につけているのではない限り結婚して生きていくしかライフスタイルとしての限界があったであろうから、兄に対する妹としては兄妹関係として兄は妹を従属的に、生きていくのをずっと援助していく存在であらねばならないように社会的に義務づけられていたので、そのような社会的慣習から現在も、当時のスイスでも兄妹の特殊な兄弟関係がつくられるのだと考えても当たっていないとはいえない。サリヴァンやフロムはあくまでも大きくなっても、大きくなるまでもずっと一人っ子であった。そのためにこの二人にとっては兄妹のような体験はなかった。このことは所有の感覚がちゃんと発達し、所有の概念として成立しやすかったといえる。この所有の概念は他人から干渉をうけない権利の主張、他人には干渉しない義務を要求する主張等を含みそれは空間の所有であるとともに、おもちゃ等の物の所有の観念を概念化したものであっただろう。これとは対象的にユングにおいては所有の感覚はどのようになったのだろうか。このことを考えるほうが、普遍的無意識とか、分有とかいうよりもずっと現実を理解できる。という理由は妹が生まれることによって家族が増えればどのような子供も様々な人間関係を体験するようになるのは当然である。それを神とか分有とかいうのは神を信じる人のみであり、そうではない家庭もあるのであり、そうなるとその考えはキリスト教的社会においてのみのことだったということになりかねない。しかし〇から三才の間の赤ん坊はかわいくて仕方のないくらいのほっぺをしていたという現実こそがそこにはあったのではなかろうか。三才までの妹については従属的な所有物として妹をとらえていたように私には感じる。しかし、三才から四才くらいになった時点で十二才になったユングにとって妹も、一人前の所有を要求する「活発で、敵対的な一人の人間、それも社会的ジェンダーとしての女」の妹になったのではなかろうか。それをユングは神経症と自覚した。それは妹という一人前の所有を欲求する人間との人間関係のことでしかなかったのではなかろうか。人間は平均的には兄弟姉妹は三年おきぐらいに生まれる。一度に小鳥たちのように五人生まれ、五つ子というケースはまれであるので、ユングのケースは普通の人間関係の問題としてとらえる方が正しいのではなかろうか。五つ子の場合にはおそらく平等な所有という観念が早期に発達し、三才くらいになるまでにその観念は定着してしまうと考えられる。一方四人兄姉の末っ子であったデュルケームや、姉二人の末っ子であったカール・ホッパーのケース等についても研究することは面白い結果を生むと考えられる。〇才から三才までの一人っ子について深く研究するのにこのような他のケースとの比較においてその様な兄弟姉妹関係の存在しないケースであるとしてとらえることもまた、一つの方法であろうが、〇才から三才までの間一人っ子であるが後に兄弟姉妹関係の生まれるケースをも含めて一人っ子として十分に観察することはこの研究の出発点にもなる。これまでの説明から〇才から三才の間に弟や妹が生まれた場合や、双生児であったり五つ子であったりした場合でも、所有の観念等の発達に関しては他の下の年令の子供をほとんど動けない物的な生物としてしかとらえていないようであるので、その場合も含めて考察してよいように考えられる。

私の娘のさちこの例でいえば、先に述べた他の家のほぼ同年令のえりちゃんとの自転車の奪い合いについて考えてみよう。私の家は道路に出て乗り回すと自動車の通行が多くて危ないので、自転車を買い与えていない。えりちゃんの家では駐車場になっている広い部分があるので、買い与えているのである。このような奪い合いのケースは砂場においても頻繁にみられる。ところがまたこれとよく似たケースではぶらんこの順番や、シーソーの順番や、すべり台の順番を争うというケースが見られる。自転車や、砂場のおもちゃの奪い合い等に所有の観念や、共有の観念が見られその研究こそ社会的な人間関係の研究そのものとなる。

おもちゃと遊び

現在では、ほぼ大人の生活の状態を再現し尽くすだけのおもちゃが売りに出ている。この遊びのなかで子供は大人の生活をおもちゃのなかで再現できる。レジ、サイフ、お金の全種類、赤ちゃん、ほ乳びん、おむつ、ベビーカー、パジャマ、台所用具一式その他すべての大人の生活に必要なものがおもちゃとして売られている。逆にすべての大人の生活のなかの物がおもちゃになる。おもちゃ会社はそうするし、子供はそれで勉強する。本当の赤ちゃんはさわれないけれども、おもちゃの赤ちゃんはさわれる。

第五章 〇才から三才までの基礎自我の形成

第一節

第一命題  〇才から三才までの間に基礎自我が形成される。これは一生変容しにくい。

第二命題  〇才から三才までの間に兄や姉が多数いた場合には依存的になり易い性格の傾向がある。

第三命題  〇才から三才までの間に異母兄姉や異父兄姉がいた場合には、〇才から三才までの間でも所有の観念の形成やらにおいて残酷になる性格の性向がある。

第四命題  基礎自我はその後の弟妹の成立により第二命題の依存性は軟らいだり、依存性の政治、経済、倫理、道徳、哲学が形成される傾向にあるが、末っ子の場合は依存性のままである。

第五命題  一人っ子の場合には、〇才から三才までもそれ以後も基礎自我は独立的、自由的で変化はしないが、両親が自由で独立的な場合にはそれが維持されるが、そうでない場合は基礎自我は様々な形態をとる。それ は両親との関係による。それはほとんど依存性とは関係ない。

第六命題  〇才から三才まで一人っ子であったと思われる人間に妹や弟ができた場合には弟妹の数にもよるが新しい自我の形成に失敗することが起こりうる。

〇才から三才までの間に同年令の子が五人いた場合どのような性格形成となるであろうか。

また、〇才から三才までの間に施設の人に育てられた場合の性格形成はどのようになるのだろうか。

この二つはこのベイスセルフ理論が正しいかどうかを証明する一つの証拠となるであろう。このようなことは学校においても適用できるものである。学校においては五つ子のように同年令の何百人の生徒が集まるし、また、施設の親と同じように他人の育てた(他人の産んだ)子供を育てるのであるから、この基礎自己を知って教育することは大切であるし、学校教育にもその他の教育にも非常に有用であることがわかる。その他の職場や政治その他あらゆる大人社会の人間関係や、結婚生活や、結婚やあらゆる場面にこの基礎自己の理論は応用できかつ有用に使用できると考えられる。

「三つ子の魂百まで」がなぜ兄弟姉妹の人間関係においてまず第一の理論となるかといえば、人間は一回に一人しか出産せず、出産の間隔が一年以上であり、そのため兄弟姉妹には長幼があり、兄弟姉妹は〇才から満三才までの間に両親に対する人間関係(この関係は親が思う程には子からみれば対等的関係でない。それは学校教師と生徒達との関係とよく似ている。生徒達は生徒間や、兄弟姉妹関係の同年令や年令の近い子供達により親近感をもっている。)からよりも、兄や姉との人間関係のなかからより多くのものをまず最初に学ぶからである。確かに最終的に何人の兄弟姉妹に囲まれているかということも大切であり、このことが兄弟姉妹関係論の中枢であるように思われがちであるが、そのことをもっと現実に即して考えれば〇才から三才までにどのような兄弟姉妹関係の人間関係であるかということをまず最初に分析し、次に、十四才くらいとか、その他の年令においてどのような兄姉と、弟妹がいるかということを分析していかねばならないということになる。ということは三才以降の兄姉との人間関係は〇才から三才までの人間関係の延長であるということになり、それ以降において弟妹との人間関係が発生するのであるから、基礎的自我のうえに弟妹との人間関係が発生することになる。そしてすべての子供を両親が産みおわった時点において全体で何人の兄弟姉妹との人間関係が経験されるかということが最終的に決定されることになる。もし全体で何人の兄弟姉妹との人間関係が経験されるかということのほうが、性格の形成に与える影響の量が大きいとするのならば、双子やらと五つ子とでは全く相違する性格の形成が行われることになる。双子が兄と妹とで全く相違する性格であったという話はあまりないし、姉と妹、兄と弟でも同様であり、五つ子についても同様のようである。ただし双子と、五つ子では物の共有の仕方や部屋の持分の分けかたも違い同じ広さの家であれば後者の方が一人当たりの分け前は少ないということになる。また後者の方が人間関係の量は多いということになる。一方〇才から三才までの基礎的な自我は同時に全員発達させていくことになり、先に発達した人についていくということは存在しない。一人が三才であれば他の全員が三才である。一人が十四才であれば他の全員が十四才である。基礎的な自我は同時に形成されることになる。

長幼の序列がある場合には先に発達した子供は後で発達してくる子供を教育することがありうるが、〇才から三才までの間は教育されるほうにまわる。その場合は上に何人の兄姉がいるかということが問題になると考えられる。ところが同じその子供が十四才になった時にユングのように妹が生まれる場合があるし、フロイトのようにたくさんの弟や妹が生まれる場合がある。上に何人の兄や妹がいて、下に何人の弟や妹がいて全体として何人の兄弟姉妹がいるかということと、〇才から三才までの基礎的自我形成期において上に兄や姉が何人いるかということとどちらがよりおおきな影響を与えるのかについてそれは〇才から三才までの基礎的自我形成期であるという結論は基礎的自我の変容はあまり大きくはないという仮定をした場合には生ずるが、一方では基礎的自我は十四才くらいになってもそれ以前も以後も容易に変容しうるという考え方を採用するならば、全体として何人の兄弟姉妹の人間関係を経験したかの方がより多くの性格の傾向に影響を与えるということになる。この論争も割合を研究する方が妥当であると考えられる。私としては〇才から三才までの基礎的自我が五割程度全体としての兄弟姉妹の状態が五割程度性格の傾向に影響を与えると考えている。〇才から三才までは全く同じ兄姉の年令と数であった場合に五才で妹や弟が一人できた場合と一生弟も妹もできなかった場合とを考えてみればわかることである。基礎的自我の形成においてはほぼ同じであるのに、妹や弟ができることによってどのように性格の変容がおこるのかを研究することは重要であろうが、その変容の程度、割合も重要であろう。このことは一生一人っ子の場合と、〇才から三才までは一人っ子であっても、それ以降十人もの弟や妹がうまれた場合の性格の変容過程を研究すること同様に重要なことである。一方で姉二人、あるいは兄二人であった場合、その下に妹か弟が生まれた場合でどのように性格の差がでるのか、そしてその性格形成の差は何故におこるのかを研究することも重要である。というのは姉二人の妹と、姉二人の弟との性格の差は大きく兄二人の弟と、兄二人の妹との性格の差は大きいのでその性格の差の生じる理由を考えることは、男女差についての重要な研究が生まれるかもしれない契機が潜んでいるかもしれないからである。これは第一子と、第二子の差、長男的、次男的、長女的、次女的といわれているものとも関係してくる。これらは事例を研究しながら研究されるべきことであると思われるが、それは経験的にではなく理論的に研究されるべきであろう。

まず最初に〇才から三才までの基礎的自我の形成が研究されねばならないのは、例えばフロイトの性格形成に対する異母兄姉の影響を考えていく時には異母兄姉の基礎的自我の形成も考慮されねばならないということであり、また逆に、異母兄姉もその基礎的自我上にフロイトという異母弟の誕生による影響も考えなくてはならないが、しかし、異母兄姉の基礎的自我はすでに形成されてしまっているのであるから、フロイトの方に異母兄姉による性格形成、基礎的自我の形成に当たっての影響は大きかったということになるのである。という事例によっても知ることがきる。ところがユングに見られるように妹の誕生が性格に大きな影響を与えているのをどのようにとらえることができ、基礎的自我とどのような葛藤をしていると考えることがきるのであろうか。基礎的自我と弟や妹の基礎的自我との葛藤のケースは、ずっと一人っ子であった人とユングのように十四才とか、あるいは、四才とかで妹が生まれた人との性格の違いをみてみればわかる可能性がある。フロイトの自我の形成分析において異母兄姉による基礎的自我の形成に与えた影響は残酷性であると考えられるが、妹やらの与えた影響は恐怖症であると考えられる。このようにこれらは全く別の影響を与えられるようである。

ここでフロイトの精神分析を行う。

『世界の名著 フロイト』(中央公論社、昭和四十一年)より、引用してみる。

「一八五六年五月、いまのチェコスロバキアの町プリーボル(当時はフラィベルクと呼ばれた)に、フロイトは生まれた。・・・・父ヤーコブ・フロイト(一八一五〜九六)は当時四一才、母アマーリア(一八三五〜一九三〇)は二十一才であった。アマーリアは、ヤーコブが妻を亡くしての再婚の相手であった。フロイトと先妻の二人の子供たちとの年令の差は大きかった。長男のイマヌエルにはすでに一才になるヨハンネスという男児とその妹のパウリーネとがあった。・・・・・イマヌエルは父ヤーコブの近くに住み、両家族がほとんど同居といってよい状況で幼児の生活を送ったことは、フロイトの生涯にとってはかなり大きい意味をもっていたようにみえる。年長の甥ヨハンネスはフロイトの親しい友であるとともに、激しいけんか相手でもあった。パウリーネはフロイトとヨハンネスとの意地悪遊びの共同戦線の被害者であったばかりでなく、また、フロイトの幼児の性的関心の対象ともなったようにみえる。

フロイトには同腹の五人の妹と二人の弟とがあった。すぐ下の弟ユリウスは彼が満一才にみたないころに生まれた。つづいてアンナ、ローザ、マリー、アドルフィーネおよびパウラと妹が生まれ、最後が男のアレキサンダーであった。この末弟は彼より十才年下であった。・・・・初期の親しい友フリースにあてた手紙によれば、彼(フロイト)は「自分よりも母に親しいものとみえたすぐ下の弟ユリウスに対して、母の愛と乳房を争うもの見出したし、さらにユリウスが生後八カ月で病死した時には、激しい競争者のなくなったときの喜びを体験したと書いている。二才年下のローザの出生によっても、母の愛が分割されるつらい体験をしたにちがいない。・・・・・フロイトが三才のとき、一家はフロイトの実妹の五人の影響については別に考察することにして、ここではおよそ〇才から三才までの間のことを考察する。家庭のなかは愛よりも「けんか相手」の存在する場であった。異母兄としての長男イマヌエルとの「ほとんど同居といってよい状況」は私の分析では、長男イマヌエルとの断絶した兄弟関係があったと思われ、そのことは三才の時の一種のフォビア(恐怖症)を思わせるノイローゼの始まりにつながったと精神的に分析したい。このフォビアは一生彼につきまとったと考えられ、一生それは治らなかったと考えるのは三つ子の魂百までを信ずる者にとってはうなづけることである。彼の理論はすべてそのなかから生まれたと考えられる。彼は一生他の人々の将来の期待と希望をうちくだくことに一生を費やしたように思われる。実際の学校での私の体験では生徒にフロイトの理論を応用した内観法等はすべて生徒の一生を台なしにして、学校をやめさせることにしかつながらない。そのことを銘記しておかないと、マキャベリーがチェーザレ・ボルジアを推奨したようにうけとられるとまた同じ誤解が生まれて、マキャベリズムのような誤解が歴史上伝わってしまう。そこに、フロイトのような残酷性を治療するオプティミスティックな考え方、社会精神医学の必要性が生まれてくる。この社会精神医学は精神医学とは正反対のものである。

残酷性

異母兄姉をもったヒットラーや、チェーザレ・ボルジア、更には異母兄を二人もったフロイトらの残酷性というのは財産の分離の葛藤の起こらないようにするための、分離の峻厳性という政治、経済的な理由からおこるものであると精神分析したい。フロイトについて残酷性ということは現実の政治的残酷さを証拠として挙げているのではなく、ここでは精神分析した結果としての残酷性を述べている。フロイトの場合は〇才から三才までの間に形成される基礎的自我に対して与えられるその後の弟や妹による性格の変容の方が大きいと精神分析できると考える。そのためその残酷性は弟や妹やらによるフォビアや、不安と合体され、不安と残酷、恐怖と残酷との合体物というものを作りだしたと考えられる。峻厳に財産を分離することは多くの痛みを伴う。しかし異母兄姉に対してはそれをすることなくしては生きてはいけないと考えるのが、異母弟である。この考え方は結婚という制度のなかでの財産の共有性は同腹の兄弟姉妹の間では仲良く認めようとするが、異母兄姉とは異母弟の母親は母親が違うということで認めにくいという心理、前の母親の持物である異母兄姉が自分への父親の愛情をそぐかもしれないという不安からも生じてきている。当然に異母兄姉たちとは違った愛情を自分の腹のなかから生まれてきた息子や娘に対してはそそぐと同時に、異母兄姉とからは分離させようとする。当然に父親の遺産分割にあたっては異母兄姉と異母弟との間には分割の紛争がおこるであろうが、その前哨戦がおこなわれているようなものである。小さいのに〇才から三才までの基礎的自我の形成期においてその異母兄姉からの分離の痛みを知ることになるのであると精神分析したい。父親にとっては異母兄姉も、異母弟妹も同じように思えるが、母親にとってはそうではない。これが異母兄姉と異母弟妹との場合には更に大きな困難が伴う。母親にとっては異母兄姉も異母弟妹も同じ様に思えるが、父親にとってはそうではない。母親は愛情によってそれを分けようととするが、父親は財産の分離によってそれをなそうとする。このことはほぼ同じ結果を生むであろう。

ヒットラーの兄姉姉妹

クラス・ぺルチェル(母)        ──グスタフ・ヒットラー(一八八五〜六)    

───────────────────イーダ・ヒットラー (一八八六〜七)       

──アドルフ・ヒットラー(一八八九〜一九四五)        

アロイス・シックルグルー・バー(父)    ──エドモンド・ヒットラー(弟)(一八九四〜一九〇〇)    

──パウラ・ヒットラー(妹)(一八九六生)          

────────────────────アワイス・ヒットラー(異母兄)(一八八二生)  

───アンジェラ・ヒットラー(異母姉)(一八八三生)     

フランチェスカ・メッツェルスベルガー(義母)                      

from Alan Bullock, Hitler,A Study in Tyranny, Penguin Books,一九九〇.pp,28-29.

「精神医学は人間関係である」という説に関連して

第六章 −人間関係の改善としての精神医学を目指して−

何のための精神医学か。それは戦争等の社会的人間関係の破壊を救うためのサービス業であり、フロイトのいっていることの真反対である。

社会科学と、精神病理学、精神医学、臨床心理学、コンサルティング、発達心理学、教育心理学は密接な関係にある。それは人間関係という一点においてである。

兄弟姉妹構成論によれば、多人数兄弟や、異母兄姉に悪い結論がでるかもしれないが、それは性格の傾向の精神分析であり、そうでないようにすることもできる。従って、よい方向へ進むための指針となること、オプティミステイックにこの精神医学を理解することが大切である。

兄弟姉妹の人間関係による性格形成について考察していけば、兄弟姉妹関係が多かったり、異母兄姉がいたりした場合や、妹の数が多い場合の兄等に特に特徴的な性格傾向を見出しうる場合があったとしても、それはそのような傾向があるといっているにすぎない。もっといえばそれは特性の程度を尺度によってはかろうという理論や、ある環境においてそのような性格の傾向を示す確率的な頻度を示していこうという理論やらで表されているような数的なものである。ある人を対象にして観察すればそのような傾向をもっていたとしても人間は自由をもっているのであるから、それが悪い傾向であればそうではないように「注意」をすることによって自らその傾向をなくしていくことができる。例えば戦争を起こすことが多いような国はそうならないように注意することによって戦争を起こす確率を低くすることができる。それと同じように戦闘的な攻撃を起こしやすいような傾向のある人は、戦闘的な攻撃をおこさないように「注意」すれば攻撃を起こす確率を低くすることができる。道路を歩いていて交通事故にあう確率が一般的に〇.〇〇一%であると仮定した場合、ある人が交通事故にあわなないように道路の外側を歩き、横断歩道でも「注意」してわたるように留意していればその人が交通事故にあう確率が低くなる。この事と性格の傾向論はよく似ている。またすべての人が交通事故にあわないように「注意」していれば、交通事故にあう確率は一般的にいっても低くなる。それと同じく戦争をおこしやすい傾向の国があった場合そのことを注意してやって各国が戦争を起こす可能性が低くなればそれにこしたことはない。また同じく攻撃的な性格傾向をその起こってきた原因とともに指摘できて、それに対して注意させ、そしてその攻撃的な性格の傾向を和らげさせることは社会全体の攻撃的な性向を和らげて、戦争やらのおこる確率を低くすることができる。

人間関係を精神分析の基礎におくという考え方の精神医学においては、最終的に原子化された最小の単位は、二人の人間関係である。いくら多い人間関係であっても二人の人間関係に集約できる。その最小の単位である二人の人間関係であっても社会である。そして多数の人間関係の集合としての社会もこの二人の人間関係に原子化することができる。これまで一人の個人にその最小単位を極小化していた社会学(社会科学)はもう一歩進めて個人と個人との間の人間関係のなかに最小単位を求めるべきであると思われる。二人の人間関係のなかにも国や政府や政治や公という考え方が存在するかもしれないし、共有社会のような多くの兄弟姉妹が生活する家庭生活内においても政治や公という考え方が存在するかもしれない。一人のみの単一人の社会や共有社会でも単一の唯一の独裁社会の理念的類型においては政治も公も存在しないかもしれないが、そうでない場合には政治や公の考え方が存在するであろうと思われる。

兄弟姉妹構成論による性格形成を研究することは身近にも、歴史上にも、あらゆるところにその題材がころがっており、そしてそれによる分析がどんなに偉い人であっても悪い点が探せるという点において、それもヒットラーや、フロイトや、マルクスというように学問領域を越えたところにもその題材がころがっているという条件の下で研究できるという点において利点がある反面、性格とそれからの自由という側面を除いて考えられることはできないという点に欠点が存在する。

性格、性格からの自由、経済資源等による自由の制限。

兄弟姉妹構成論による性格の形成を分析し、悪いと出た性格についても、自由意思によってそうでないように行動できる。これが兄弟姉妹構成論による精神医学がサービス業であったり、公務員としてのサービスであったりして、職業となることができる理由であるが、それは教育と同じように最終的には「貧しさ」による自由になるための経済資源の不足というものにいきつくことがありうる。

ある人が六男坊のゆえに死ぬまでたえず不満を持ちつづけるということは、あたかもいつも続けて人間関係を破壊しつづけているようなものであり、それはいくら平等にしても、いくら大金持ちになっても同じくフォビアを持ち続けるということを示している。それは精神の欠損より生じたものである。

堅い精神というのはそのようななかで、自分に従わない者は、つまり、自分の作った規則に従わない者は、規則違反だという主義である。

妹達の考えるようには、人はスーパーマンではない。従って依存は間違いであり、被依存者を狂わせることがある。これが現代の政治における権威という物の概念を、マキャベリーのいうような相対的なもの、実質的なものに変化させてきている理由であるようだ。完全に賢者もいないし、完全な権力者もいないのが、真実となってマスコミの表面に表れるようになってきた。政治とパーソナリティーの研究はここから必要となってきた。

兄弟姉妹構成論は相当に異なった多くの対立する性格の傾向を浮きぼりにするが、それらの対立はその源泉となったものを明確にすることによってのみ解消できる。

結論

第一命題 〇才から三才までの間に基礎自我が形成される。これは一生変容しにくい。

第二命題 〇才から三才までの間に兄や姉がたくさんいた場合には依存的になり易い性格の傾向がある。

第三命題 〇才から三才までの間に異母兄弟や異父兄弟がいた場合には、〇才から三才までの間でも所有の観念の形成やらにおいて残酷になる性格の傾向がある。

第四命題 基礎自我はその後の弟妹の成立により第二命題の依存性は軟らいだり、依存性の政治、経済、倫理、道徳哲学が形成される傾向にあるが、末っ子の場合は依存性のままである。

第五命題 一人っ子の場合には、〇才から三才までもそれ以後も基礎自我は独立的、自由的で変化はしないが、両親が自由で独立的な場合にはそれが維持されるが、そうでない場合は基礎自我は様々な形態をとる。それはほとんど依存性とは関係がない。

第六命題 〇才から三才まで一人っ子であったと思われる人間に妹や弟ができた場合には弟妹の数にもよるが新しい自我の形成に失敗することがありうる。

〇才から三才までの間に同年令の子が五人いた場合どのような性格の形成となるであろうか。

また、〇才から三才までの間に施設の人に育てられた場合の性格形成はどのようになるのだろうか。

この二つはこのベイスセルフ理論が正しいかどうかを証明する一つの証拠となるであろう。このようなことは学校においても適用できるものである。学校においては五つ子のように同年令の何百人の生徒が集まるし、また、施設の親と同じように他人の育てた(他人の産んだ)子供を育てるのであるから、この基礎自己を知って教育することは大切であるし、学校教育にもその他の教育にも非常に有用であることが分かる。その他の職場や政治その他あらゆる大人社会の人間関係や、結婚生活や、結婚やあらゆる場面にこの基礎自己理論は応用できかつ有用に使用できると考えられる。

「三つ子の魂百まで」がなぜ兄弟姉妹の人間関係においてまず第一の理論となるかといえば、人間は一回に一人しか出産せず、出産の間隔が一年以上であり、そのための兄弟姉妹には長幼があり、兄弟姉妹は〇才から満三才までの間に両親に対する人間関係(この関係は親が思う程には子からみれば対等的関係でない。それは学校教師と生徒達との関係とよく似ている。生徒達は生徒間や、兄弟姉妹間の同年令や年令の近い子供達により親近感をもっている。)からよりも、兄や姉との人間関係のなかからより多くのものをまず最初に学ぶからである。確かに最終的に何人の兄弟姉妹に囲まれているかということも大切であり、このことが兄弟姉妹関係論の中枢でるように思われがちであるが、そのことをもっと現実に即して考えれば〇才から三才までにどのような兄弟姉妹の人間関係であるかということをまず最初に分析し、次に、十四才位とかその他の年令においてどのような兄弟と弟妹がいるかということを分析していかねばならないということになる。ということは三才以降の兄姉との人間関係は〇才から三才までの人間関係の延長であるということになり、それ以降において弟妹との人間関係が発生するのであるから、基礎的自我のうえに弟妹との人間関係が発生することになる。そしてすべての子供を両親が産みおわって時点において全体で何人の兄姉姉妹との人間関係が経験されるかということが最終的に決定されることになる。もし全体で何人の兄弟姉妹との人間関係が経験されるかということの方が、性格の形成に与える影響の量は大きいとするならば、双子やらと五つ子とでは全く相違する性格の形成が行われることになる。双子が兄と妹とで全く相違する性格であったという話はあまりないし、姉と妹、兄と弟でも同様であり、五つ子についても同様のようである。ただし双子と、五つ子では物の共有の仕方や部屋の持分の分け方も違い同じ広さの家であれば後者の方が一人あたりの分け前は少ないということになる。また後者の方が人間関係の量は多いということになる。一方〇才から三才までの基礎的な自我の同時ん全員発達させていくことになり、さきに発達した人についていくということは存在しない。一人が三才であれば他の全員が三才である。一人が十四才であれば他の全員が十四才である。基礎的な自我は同時に形成されることになる。

長幼の序列がある場合には先に発達した子供は後で発達してくる子供を教育することがありうるが、〇才から三才までの間は教育されるほうにまわる。その場合は上に何人の兄姉がいるかということが問題になると考えられる。ところが同じその子供が十四才になった時にユングのように妹が生まれる場合があるし、フロイトのようにたくさんの弟や妹が生まれる場合がある。上に何人の兄や妹がいて、下に何人の弟や妹がいて全体として何人の兄弟姉妹がいるかということと、〇才から三才までの基礎的自我形成期において上に兄や姉が何人いるかということとどちらがよいおおきな影響を与えるかのかについてそれは〇才から三才までの基礎的自我の変容はあまり大きくはないという仮定をした場合に生ずるが、一方では基礎的自我は十四才くらいになってもそれ以前も以後も容易に変容しうるという考え方を採用するならば、全体として何人の兄弟姉妹の人間関係を経験したかの方がより多くの性格の傾向に影響を与えるということになる。この論争も割合を研究する方が妥当であると考えられる。私としては〇才から三才までの基礎的自我が五割程度全体としての兄弟姉妹の状態が五割程度の傾向に影響を与えると考えている。〇才から三才までは全く同じ兄姉の年令と数であった場合に五才で妹や弟が一人でできた場合と一生弟も妹もできなかった場合とを考えてみればわかることである。基礎的自我の形成においてはほぼ同じであるのに、妹や弟ができることによってどのように性格の変容がおこるのかを研究することは重要であろうが、その変容の程度、割合も重要であろう。。このことは一生一人っ子の場合と、〇才から三才までは一人っ子であっても、それ以降十人もの弟や妹がうまれた場合の性格の変容過程を研究すること同様に重要なことである。一方で姉二人、あるいは兄二人であった場合、その下に妹か弟が生まれた場合でどのように性格の差がでるのか、そしてその性格形成の差は何時におこるのかを研究することも重要である。というのは姉二人の妹と、姉二人の弟との性格の差は大きく兄二人の弟と、兄二人の妹との性格の差は大きいのでその性格の差の生じる理由を考えることは、男女差についての重要な研究が生まれるかもしれない契機が潜んでいるかもしれないからである。これは第一子と、第二子の差、長男的、次男的、長女的、次女的といわれているものとも関係してくる。これらは事例を研究しながら研究されるべきことであると思われるが、それは経験的にではなく理論的に研究されるべきでろう。

まず最初に〇才から三才までの基礎的自我の形成が研究されねばならないのは、例えばフロイトの性格形成に対する異母兄姉の影響を考えていく時には異母兄姉の基礎的自我の形成も考慮されねばならないということであり、また逆に、異母兄姉もその基礎的自我上にフロイトという異母弟の誕生による影響も考えなくてはならないが、しかし、異母兄姉の基礎的自我はすでに形成されてしまっているのであるから、フロイトの方に異母兄姉による性格形成、基礎的自我の形成に当たっての影響は大きかったということになるのであ。という事例によっても知ることがきる。ところがユングに見られるように妹の誕生が性格に大きな影響を与えているのをどのようにとらえることができ、基礎的自我とどのような葛藤をしていると考えることがきるのであろうか。基礎的自我との葛藤のケースは、ずっと一人っ子であった人とユングのように十四才とか、あるいは、四才とかで妹が生まれた人との性格の違いをみてみればわかる可能性がある。フロイトの自我の形成分析において異母兄姉による基礎的自我の形成に与えた影響は残酷生であると考えられるが、妹やらの与えた影響は恐怖症であると考えられる。このようにこれらは全く別の影響を与えられるようである。

スターリン論争について

ボリス・スヴァーソン「スターリン−ボルシェビキ党概史−〕(江原順訳)(教育社、一九八九)(一七〜二二頁)「原著:BorisSouvarine,Staline,Aperu Historique du Bolchvisme,(paris, ).

によると、「スターリン、・・・・は、一八七九年に、グルジアのゴリで生まれた。・・・・スターリンの父ヴィサリオンは、祖父同様農民だったが、・・・・副業をもっていた。・・・・靴屋を副業にするこの農民は一一才のひとり子をのこして死んだ。三人子供がいたが、この子が生まれる前に死んだ。・・・・母親エカテリナは一人息子を可愛がり、教師にするつもりで、ゴリの神学校にいれた。・・・・・小学校教育程度の読書が彼に初歩的な文化を教えた。・・・・・この点で、スターリンは近代の卓越したどの革命家にも似ていない。・・・・・だがある時から、クロムウェルが聖書しか読まなかったように、─────彼は、あらゆる状況でレーニンを引用してしか、話も書きもしなくなる────唯一の著作、「レーニン著作集」五十巻だけで勉強したようにみえる。・・・

一人っ子であった、いや育ったといった方が正しいが、スターリンが社会主義者となったことについては、これまでおよびこれからの議論と矛盾するので、これをどのように精神分析するとよいのであろうか。一人っ子であって社会主義者となった例は日本においては美濃部亮吉元東京都知事の例が見受けられる。また伊藤博文や、フランクリン・ルーズベルトも一人っ子であったという事例が発見できる。美濃部氏の場合はマルクス・レーニン主義の経済学の研究が最も進んでいた東京大学経済学部においての研究が社会、共産主義の方へと向かわしめたと分析できる。従ってスターリンの場合にはレーニンの勉強が唯一絶対的に彼の地位を高からしめ、レーニンの後を継いだことが彼を不幸に走らせた。レーニンの社会主義をスターリンは心の底から理解してはいなかったと精神分析できる。美濃部亮吉氏にしても社会、共産主義を理解していなかったのであるが、その主義を丸暗記していたのであり、その丸暗記と合致しない者についてスターリンは粛正し、美濃部亮吉氏は敵とみなすことをのみ学習した。マルクスや、レーニンについて真に学習して書物を書いていた人が少なかったことは、講座派のマルクス・レーニン主義者は一般の人には理解できない言葉を使うことをもってよしとしていたことによって学問というものをそのようなものとして、つまり、マルクスやレーニンという学者が存在する。それを解釈するのが学問であるとしていたことによっても類推することはできるが、本当はそうではなかったのかもしれない。これに対する批判は「学術論文の作法」のなかにみられる。スターリンは党の会計について秀れた分析力を持っており、美濃部亮吉氏が都の財政について秀れた分析力を持っていたことは認められるが、これは所有を愛する一人っ子に特徴的な分析力であるといえる。つまりある一つの所有のなかにはいってくるもの(収入)と、出ていくもの(費用)とを計算する能力である。ところがそれを社会主義や社会全体のなかで位置付ける能力には欠けていたように思われる。マルクス・レーニン主義のなかには批判を許さないという側面を精神分析することができる。従って共有主義の社会のなかにおいてどのようにして商業を位置付けるのか等様々な問題が残っていたはずであるが、そのような「当然の疑問」についての批判は一切許されなかったのである。マルクス主義経済学において流通をどのように位置付けるのかは今もって大問題となっている。マルクス・レーニン主義をそのまま実践したスターリンにとって血の粛正は、社会的精神医学を分からないまま、主義を信奉したのであったから当然の帰結であった。しかしそれは許されることではなかった。革命の初期にはこのように東京革新都政を革命ととらえるならば美濃部亮吉氏や、日本の明治維新を革命ととらえるならば伊藤博文や、マルクス・レーニン主義の革命の初期のソ連においてはスターリンやアメリカが自由主義の終焉を迎えたニューディールの時代には、会計の才、財政の才に丈た人物が技術官僚として抜擢されることはありうるが、それは技術を見込まれてであり、思想によってではなかったと考えられ、精神分析できる。

第七章  兄弟姉妹の人間関係論を学術的にするために

公民教育や、社会科教育と発達心理、例えば公徳心の発達心理等を研究する場合に、学校や、社会等にあらわれる個人の家庭における兄弟姉妹の人間関係を最初に考えていこうとすることは、個人を全く平等に取り扱う方法とは方法論的に異なっている。個人のなかに性格の傾向をみつけだしていこうとする方法論である。「学術論文の作法」によれば学術性は実証性や、論理性の吟味のなかにみいだされなくてはならないということである。兄弟関係論においてはこれまであまり学術性の認められないような論文が多かったと批判があるかもしれない。兄弟姉妹の人間関係の議論は互いに兄弟姉妹がいがみあっている例や、仲良くやっている例等様々であるが、その解釈と評価はまずは経験的なものとならざるをえない。この点で終わっている部分についてはこれから学術性を増すための導入と思ってお許し願いたい。一方ではとてつもなく依存心の強い人からみれば、ちょっとでも独立心の強い人が、その人を依存させないような態度を示したりすると、ほかの人が普通の独立的である人であるとしても、その人はそれは悪い人だということになってしまう。このように見る人によって違ってくるという性格をもつのが、性格論の特徴である。このようなものの見方による偏りをなくして、独立的である普通の人の立場から語るのが学術性がある書き方であるといえると考えられる。例えば五十人の生徒がいてもある五男坊の生徒のみに特徴的に、性的な感覚が強かったということがあったがその見方のみから人間の性格をみることは、実体験からいえば普通の見方ではなくなってしまうと考えられる。性的な感覚とは性的な依存性といいかえられると考えられるものであるが。このように兄弟姉妹関係論による性格の形成論や、性格の傾向論についてはこのような見方の違いが大きく影響を与える場合があり、逆からいえばそれこそ性格の形成を根本から問いなおすという意味では性格論の客観化につながるものと考えられる。

三つ子の魂百までとか、長男的性格とか、一人っ子的性格とか、次男的性格とか、六男的性格とかいうようなものをすべて学術的に再定義しなおし、一般的に皆がこうではないかと思っていることの学術化に挑戦するということは、そのような民間的な伝承や、直観的基礎があるからこそ重要な作業であると考えるものである。

学問的引用について

人間の性格形成が兄弟姉妹の人間関係に大きく影響されていることがもし真実だということに賛同してくださるならば、私のように高等学校の担任教諭として生徒の家族調査表によって得た兄弟姉妹関係と性格の傾向とが相当に関連性があるということの実体験がない人であっても、歴史上の様々な人々の伝記が残っていればそれによって精神分析することができるようになるはずである。著名な人々の伝記には必ずといってよい程兄弟姉妹の人間関係の記述が見受けられる。この場合、最も権威のある伝記のなかからその兄弟姉妹の人間関係を引きだすにあたって兄弟姉妹の数等男女の構成比等は、学問的には翻訳からの引用でまにあわせることにする。というのはその引用が間違っていることはほぼ百パーセントありえないからであり、批判にも耐えうると思われるからである。

すべての人はおぼろげながら兄弟姉妹の人間関係が性格の傾向を形成しているらしいことを知ってはいたが、しかし、なぜ、どのような性格を、性格に対して与えるのかを科学的には知らなかった。そしてそのために誤った考え方さえ世間には流布してしまっている可能性もある。「三つ子の魂百まで」という諺もひょっとしたら誤っているかもしれないし、また、長男的、次男的性格というような言い方も誤っているのかもしれない。また一姫二太郎ということばが一番目の子供が女の子で、次の子が男の子という意味なのかも明白ではない。しかしそのようなことばがあることも事実であり、それは否定できることではない。

子供は子供時代は家庭の外の世界で物を所有することはできない。家庭のなかにおいて自らの生活する場所を求める(所有する)のみである。このことは子供が家庭のなかでのみ経済的、政治的、社会的生活を経験できることをあらわしている。

学問においてはリビドーのような言葉を発明し、それによって兄弟姉妹の人間関係を説明しなければ学問的ではないという風潮が存在する。家庭内の兄弟姉妹関係においては確かに力動的である。長女、次女、長男、次男の四人の兄弟姉妹がいる場合には長女はプラスの力を持ち、次女はその反対の力を持ち、その次の長男はその両者の中間であり、末っ子はそれなりの方向を示す。

兄弟姉妹の人間関係の他の人間関係との違いと特殊性は、兄弟姉妹は全体として両親に対抗して「一個の生産共同体や、消費の共同体や、運命共同体を形成し、両親から捨てられれば全体として捨てられるし、両親が動物のエサを与えるのと同じ意味を持つ給与から生じる食料、衣料、住居を与えてくれなければ、全体として窮乏して食料や衣料や住居がなくなる」という共同性をもっていることである。確かに両親からみればどれか一人の子供を重視して他の子供を重視しないということがありうるかもしれないが、また、子供のうち一人や二人を養子に出すということはありうることかもしれないがそれは全体としての共同性を打ち砕くものではない。両親と子供達の兄弟姉妹とは同じ家庭のなかにありながら全く相違する人間関係のなかで生活している。

兄弟関係論が最も性格に影響するのは、自分が満足すれば社会のことなどどうでもよしとし守勢にまわり、しかし次に兄弟姉妹が全員満足すればそれ以外の人々のことはどうでもよしとし、但しそれは両親から生活物資をもらっている場合であり、もし両親が非常に裕福で生活するに困らない場合は兄弟姉妹が満足すればそれでよしとするのであるが、もし両親が育ててくれた後で食う物、生活する物がなくなっていれば(このケースはまれとしてとりあげない)、兄弟姉妹が満足すると同時に両親が満足すればよしとし、それ以外の社会の人々がそれでも貧しい場合には、一人っ子の場合には、家なき子を自分の家に泊めれば泥棒されるかもしれないというような守勢の(保守とは違うが)感情が発生し、それでも裕福な場合で自分に害が及ばない場合のみは、社会に対して目が向くという理由による。これを人間の遺伝子の本性だと考えるものがあるかもしれないが、本当は社会的な物であろう。なぜならば全社会の人が全員平等ならそのようなことはおこらないからである。

我々は兄弟の体系のなかに満足の体系を持っており、それ以外の人々が満足していなくても兄弟全員がまずは満足していれば安心し、次に他の人々が満足することを求める。例えば大地震が起きた時、まず家族は大丈夫かと聞く。父母は大丈夫か、兄弟姉妹は大丈夫かと聞く。次に全員が大丈夫かと他の家族のことを聞く。

父母に生計をすべて兄弟姉妹はおっているけれども、その生計を大きくすることは兄弟姉妹はできない。それは会社の従業員が会社が経済情勢が悪くなり倒産しそうな時にどうにもできないのとよく似ている。兄弟姉妹は会社の従業員とよく似ている。父母からたくさんおこずかいをもらうのを要求したり、その量が全体として決まっている場合には兄弟姉妹のなかで自らに多くなるようにと、自由に要求するが、そこには規範と規制とがあり、全員が満足するように平等性を重んじるようになり、かつ、権利というものを認識するようになる。自由権や、所有権や、共有権(共有物)やら義務やらの観念がそこから生まれてくる。そのような様々な兄弟姉妹体験は、父母との間で多く要求する体験とは全く違うものである。父母から多くをもらう要求はただ単に要求であり、政治的なものではない。それは依存であって、それは子供にとっては正当なものである。しかし兄弟姉妹に対する依存は子供にとって正当なものといえるであろうか。この点の分析が大切である。兄弟姉妹の数が多くなると兄弟姉妹に依存することが多くなるが、これが大人になっても依存心の強い大人に発展していくことがありうるし、逆に一人っ子の場合、独立心と自由心を自ら体得していくという結果になる。これは傾向の問題である。

母親のうちにある、あるいは父親にある兄弟構成からくる傾向が七割を占めているならば、母(父)子関係も七割が兄弟構成によって理解できることになり、祖父母子関係も友人関係も同じことになり、その他の関係も同じことになり、ある人の純粋な自分との兄弟関係による説明可能範囲が七割ということは、その他の三割のうち七割がまた兄弟関係ということになり、幾何級数的にその説明割合が上がることになる。そのほかの部分は社会的制度等による説明ということになる。これはドゥウォーキンによる平等の配慮と同じような性質の、精神医学における基本的な原理は母子関係を説明するときにも、国家を説明するときにも、母と子の兄弟を調べなくてはならない。国家も家族の兄弟を調べなくてはならないということ、つまり兄弟姉妹が平等と同じく見えるものではあるが、基本的な原理であることを示している。

第八章  性格を見る立場の独立性について

ものの見方はあらゆる学問の出発点であり方法論といってもいい。特に兄弟姉妹の人間関係をみる場合には注意しなくてはならないのが人間関係の見方である。教師が生徒を見る時にも、親が子を見る時にも、兄弟姉妹が他の兄弟姉妹をみる時にも、自分を補完するような人をいい人とみがちである。依存的な人は自分を補完してくれる人のみをいい人とみて、他の人々は心のなかでは抹殺してしまうクセがあるかもしれない。そういうようにみている多くの人々を知っているし、フロイトもそうであったのかもしれない。独立的で、学問的見方の人はそうではないのかもしれない。親が依存的であった場合には子供が独立的であれば子供はよくは見えないであろうから、親と子が水と油ということは法的にも、心理学的にもありうることである。

忠や孝は大切であったとしてもこのような場合、それを客観的に学問的に分析することが必要である。ある人の性格の傾向を客観的、学問的に分析するためには例えば自らが貧しかったとか、自らが嫉妬しているとか、自らがひがんでいるとか、自らが顔が悪いと劣等感を持っているとか、自らが不安であって偉大な存在を補完的に求めているとかいうような自らの立場を捨てなくてはならない。例えばフロイトがいつも「ひがみ、嫉妬のために毎日倒すべき(心のなかで抹殺すべき)相手のタイプの性格を毎日毎日日記につけているような人物」であったとしたら、その人によって作られた精神医学はそのような立場の人のものの見方からのみ作られたものとなる。マルクスのいう科学主義もそのようなものであったのだと仮定したら彼らのいう科学主義とは、マクルーハンが情報社会をみていっている時の活字主義となってしまっていたということはできないであろうか。このようなことをなくしていくことは学問の仕事である。より現在に近い学問が作られていかねばならないと思われる。ウッドロー・ウィルソンという元アメリカ合衆国の大統領で政治学者であった人を、フロイトとブリッドが分析するにあたって、フロイトが自らの「偏見」を暴露しているが、自らが反政治という立場を表明してから分析するのならば政治という存在はあることは確かであるので自らの無理なものの見方からの分析ということになるのかもしない。このようなある立場のみからでない精神医学や性格学こそは真の性格学ということになる。資本家に対する嫉妬から生じた心の分析をしなければならないのが学問であるはずなのに、嫉妬のみからのものの見方の人が、政治や政治学を論じ、実行したとしたら更に恐ろしいことになるのとよく似たことであろう。

性格の傾向や、性格の発達を研究するにあたってのこのものの見方の重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはない。それは書かれたもののみが客観的といえるのではないことは、東西冷戦の終結によりマルクスらの科学性が、書かれていたにもかかわらず、疑われてきているのに似ている。もちろん学問は書かれて、文字、文章によって表現されるべきではあるが、そう表現されたらそれがすべて正しいと信じるわけにはいかないし、たえず分析され現実との適合性、レリバンシーが問われなくてはならない。この場合のものの見方において客観性や、学問性を失わせてきた可能性のあるものの見方について二つのものを指摘できると考えられる。その一つ目はものの見方としての依存性である。依存性のある人から見れば、相手が自分を依存させてくれる人、つまり、相手に思いやりとか、自分に金とかの寄付とかしてくれる気前のよさとかを求めて、思いやりのある社会や、人を、よいとする。金とかの寄付というものの見方は第二のものの見方として自分に利益をタダで与えてくれる人がいい人という見方を思い出すことができる。これによって世の中を分析すれば思いやりのある社会、つまり、ユートピアのような社会が理想ということになり、その他の社会や、人は抹殺すべき悪い社会ということになる。この考え方は非常に根強く存在し続けており、独立的に客観的に学問的にそのような依存的な性格を分析することを依存的な人を悪く評価することであると批判して拒否する。このような依存性を客観的に、独立した目により、学問的に分析することから学問的なものの見方は始まるといえる。第二のものの見方である自分に利益をただで与えてくれる人がよい人格であるという他人の性格の見方も思いやりのあるユートピア社会と同じ依存的な社会を目標とするイデオロギーに満ちたものの見方であると思われ、この見方も依存性からみたものの見方とほぼ同じ結果を生み出す。

そうであるならば、客観的、学問的な性格の見方というものは独立的ということばに尽きるのかというと、そうではなくてさまざまな要素が考えられる。現実とのレリバンシーを常に持ち続けていること等は先に述べたとおり必要なことであるが、学問以外からのどのような圧迫にも屈しない態度も必要である。学問研究を客観的に行うという作業には依存性の側やらから必ず強い圧力が行われる。なぜなら依存性のなかみを分析すれば強い圧力を行うということも、依存性の本質的なものの一つであるからだ。しかし依存性の性質のなかにそのような強い圧力を生む力が内在していることを示すことはまさに学問的叙述である。学問的叙述とはあらゆる現象を叙述し、客観的に「誰がみても分かる形式で」評価するということである。ある依存的な人たちのみに通用するように、そのような評価のみを、そのような形式でのみ叙述することではない。このことは重要でありこれまで分派的にある学派内でのみ通用する仕方で、自分の利益になる形で、依存的な人たちに有利になる形でのみ、叙述されてきたことは、国家の理論における様々な説というのとは違って、性格学や、精神医学の場合にはある人の状態を全く正反対にいいとか、悪いとかをいってしまうことになるので、学問そのものの根幹をうちくずすことになりかねない。性格論、発達心理学、精神医学における学派の違いはそのような恐ろしい結果を生み出すことになるゆえに、特にものの見方が学問的、客観的である必要が生ずるのである。学校の教員は様々な生徒をみているのであるが、そこにおいても学問的な性格の見方を定着させることは大切なことであり、フロイトの性格が「毎日ひがみのために抹殺すべき性格の人々を日記につけているような人の性格」であったら恐ろしいことになると考えた人がいたこともあたっていないことを望むのみということになる。

学問的なものの見方を身に付けることはそのようなものの見方、性格の見方がどのようにしておこってきたのかということについて研究する必要がある。その人が依存性とかのゆえに自らの利益になる「思いやりのある社会や、人がいい」といっているということに論駁する時に、それを社会的・・・の価値判断と呼ぶかどうかは別としても、その価値判断のようなものを論理的、学問的に論ずるにはその方法しか残っていないからである。依存性からみた性格の見方がよくない、悪いという表現をあえて他のいい方がないので使うとすれば、依存性から性格をみる人々はそれも価値判断のようなものだ、一人にしておいてくれといって先の強い圧力と同じような仕方で迫ってくるかもしれない。しかしそれはそれとして叙述するしか方法はない。独立した学問的なものの見方を依存性からのものの見方によって「思いやりのない、悪い性格」といってきたとしても、それはそれで価値判断のようなものを含んでいるとして受け入れて、そのいってきたことを分析すればよいことであり、依存性のあるものの見方をする人は、独立性のある人々のものの見方を客観的に、学問的に分析していけばよいのであるが、依存性のある性格の見方をする人は独立性のある人々を思いやりのない、ユートピアの分からない人といって「心のなかで抹殺」するのみで、その分析を行ないえないのではなかろうか。もし分析を行ないえるとすれば独立性のある人々を抹殺せずに、依存性のある人になりなさいという論説を唱えるであろうが、そうではなくて抹殺するのみである。逆に独立性のあるものの見方の人は依存性のある人を客観的、学問的に分析するのである。依存性のある人が独立性をもつようにとはいわないようにした方がいいのかどうかは哲学上の問題となる。

学問的なものの見方はイデオロギーから独立していることであるのか、イデオロギーのなかにどっぷりとつかっていることであろうか。人間は本当にイデオロギーから完全に独立することができるのであろうか。右翼、国家主義、共産主義、社会主義、左翼というようなイデオロギーから真の自由になることができるのであろうか。学問の独立ということばは達成できるのであろうか。数学のようにすべてを量的なものに還元すればそれ程に質的なものと量的なものを緻密に計算していけば政治的イデオロギーから独立し、政治的イデオロギーの存在しない学問的なものの見方となるのであろうか。少なくともここでいうものの見方、性格の見方というのは、自らのものを見る立場によって同じ他人の性格は相違するのであるといっているのであって、その限りにおいては性格の見方は客観的であり、自らの立場のみからみてはいけない。様々な他の性格との比較(他の同じような性格の人々からのみを集めてその人々から見た性格であってはならず、他の様々な相違する性格の人々から見た性格の比較)が必要であり、それによって学問的な立場が堅持されるといいうるのである。それは政権がソ連におけるように共産党によって運営されている時であっても、民主党によって運営されている時であっても、民主党によって運営されている時であっても、日本において自由民主党によって運営されている時であっても、その他の政党によって運営されている時であっても、また、独立的な人から見た時であっても、依存的な人から見た時であっても同じような結果がでるような性格論を作らなくてはならないということである。

各人が目指し、ユートピアと考えている人間関係は相違しているのであるから、そのような性格論はできるはずはないという主張がまたしても考えられうる。それは環境として各人がユートピアとして望んでいるものは何かということによって左右されるのだという考え方もある。この考え方にすれば、いい人間関係とは片方が完全に赤ん坊のように依存されている関係であって、相互に独立した自由人同志の関係はいい人間関係ではないのだという考え方と、逆に前者のような共産主義国家における国家と、それに盲目的に服従する人々との関係のような人間関係は悪い人間関係なのであって、後者のようなあたかも自由主義社会における国家と国民のような関係がいい人間関係なのであるという考え方とは、この二つの考え方の相違はユートピアの見方によって相違するのであって両者の間の決着は不可能であるという主張である。この考え方によれば人間関係論の立場にたったとしてもいい人間関係という規定を成立させることはできないことになる。前者の依存している人は自発性や、自立性の全く存在しない人であるが、その成立がどのような理由によるものであってもそれはそれで正しいものであり、そのような人こそすべての他の人々を精神病といって回る傾向があったとした場合には、これはまたどうしたらいいのかと回りのすべての人が参ってしまうという事態になっているとある学者が判断した場合には、どのような学問的な立場をとるべきであろうか。またその場合、依存的な人々は特に「沈黙は金」という諺によってものをいう表現の自由を押さえつけているというようにその学者がとらえた場合には、どのような学問的立場をとるべきであろうか。「沈黙は金か、雄弁は金か」という道徳上の論争を彼にしかけるべきであろうか、そのような方法は一切何の結論も導きだせないであろう。それはまた環境というユートピア論争に終結するからである。私はこのユートピアを主張するといわれれば、逆にこの私は独立した自由人のユートピアを主張しているのだというしかなく、相手も相互にそれはイデオロギーだといいあうしか方法がないからである。

雄弁は金という人間関係をとるのか、沈黙は金という依存しあって何もいう必要のない社会をとるのかということになる。依存性で隠れたすべてのもの、雄弁や、その他すべてのもの、自発性や自律性をとりもどすことは大層な痛みを伴うことは土居健郎氏の「甘えの構造」を持ち出すまでもない自明のことであるし、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を持ち出すまでもなく市井一般の人々が知っていることである。

この二つは共に自由で、自律することの痛みについて述べている点において日本と、ドイツの相違する国について述べてはいるが共通した点のある性格(フロムの場合社会的性格・(人間関係的性格))の把握の仕方をとっている。人間関係をみる時にこのような見方はどのような点において学問的といえるのであろうか。自由で自律性のある独立した性格の人の人間関係をたたえている点においてそうであるといえるのであろうか。土居氏の場合は日本人の病理をとらえているとしても、フロムのようにそれを積極的に批判しているのではない点においてことなっている。フロムのように日本人の外に移ることはできず、東大の精神医学の立場というエスタブリッシュメントにいる以上はそれができなかったのだととらえることができると思われる。フロイトにしても学問というエスタブリッシュメントに固執する以上その時代の時代的風潮に逆らうことは経済的生活を不可能にするものであったと考えられる。この時代的風潮とは以後に深く考察すべき課題だと思っている。ここではまだ明らかにしない。フロムも土居氏も以上のような学問的成果をあげたと考えられている点について更に深く考察し、イデオロギーというユートピア上の相違についてもう一度深く考え直されるべきである。それは性格の見方と環境のユートピアというものとの関係についてである。フロムの見方は確かに客観的で、学問的であるように思われる。ところがドイツのネオ・ナチズムや、ネオ・ファシストのような人々は今でもファシズムの時代がよかったと考えているのであるからそのような人々にとってはフロムの考え方は自由や自律性を要求する大きなお世話だということになるのである。ファシズムの時代の国家と国民の関係、人間関係においても依存と、依存されている関係の方がよかったと考えているのである。第二次世界大戦直後から現在まで約半世紀、それも現在の冷戦終了後の世界の情熱は政治的情勢を大きく変化させた。自由化のためのイデオローグであったハイエクや、フリードマンやらは時代を大きく動かした。しかし現在においては全体主義やナチズムの脅威が第二次世界大戦直後程には大きくないからこそ、フロムが指摘した事実はほとんどインパクトを持って人々は受け止められなくなりつつあり、それに代わる新しい理論体系が必要になってきているといいうるのである。

H・D・ラズウェルやらのように社会的精神医学を構想した人々はファシズムが行ったような破壊性や、攻撃性に注目した。H・S・サリバンは人間関係に注目しながら、精神病理を研究した。政治学においてもレオ・シュトラウスは何かよきことに注目した。何かいいものを追及することはしかしユートピアというような環境全体をかえようとする力にはどうしてもまけてしまうという欠点をもっている。「人間関係の相違さ」という逃げ口上に負けてしまうということである。依存する人と依存されている人との人間関係の集団が、自由で独立した人々の人間関係を破壊するように立ち向かって攻撃するような人々が現れてきた場合には、自由で独立した人々は立ち向かって自由と自律性を一致団結して戦おうという点については一致している人の一対の人間関係について「自由で、自律的」であることを強制するという点については一致した見解を自由で独立した人々ももっていないように思われる。フロムの「自由からの逃走」でさえもファシズムの内容の分析を行ったとしても、ファシズムの解体を強制するようなものではなかった。そこには自由への啓蒙はあったけれども、それ以外のインパクトは存在しなかった。本当にそれ以上のインパクトを現在でも持ちうるためには、ファシズムのような人間関係をもっと深く考察する必要があると考えられ、依存する人と依存される人の間にどのような人間関係が現実的に存在していて、人間の本性としての自由で独立した自律的な人間関係に(それが痛みを伴ないながらも、また、両者の反発があるにしても)どのようにして移行していくのかを研究すべきであろう。移行していかねばならないのかということの研究では、それはユートピアの相違ということで片付けられてしまうが、それはその規範(ねばならない)の相対性という問題に帰着してしまうからである。

性格の見方を自らの利益や、自らの立場や、自らの依存性に従った傾ったものにしないために、また、政治的イデオロギーによって性格や精神病理をみつめないために、また、社会の教育のなかに政治的イデオロギーを持ちこまないために、また精神病理学上の定義を人間関係における感情的対立の観念になおした定義にしないために、また、精神病理学上の定義をイデロギーやユートピアの対立を観念的になおした定義にしないためにも、また、(社会的=人間関係的)性格の正しいものの見方を確立するために、また、人間関係によって作られた精神=社会的精神の見方を確立しそれらを学問として客観化するためには、人間関係を深く考察する必要がある。人間関係を深く考察することによって、性格の見方の違い、精神を見る立場の違いを解消できる。この人間関係の最小単位である二人の間には、二人の人間以外に物的な環境(生物を含み人間以外のすべて)も存在する。その物を各人が自分のものとして分け合ったり、その平等性について話し合ったり、また、その他のものについては共有にしようと話あったり、また、その他のものについては共有にしようと話あったり、また生産に従事したりするであろうが、共同で生産に従事したり、共同で食事を作ったり、各人が食事を作ったり、生産をしたりするであろう。ここでマルクスが想定したように一人の人がすべてをもって他を搾取していると考えられるような例は万が一にしか存在しないであろうし、逆にすべてを共有にしてすべてを分かち持っているという例も万が一の可能性しか存在しないであろう。またフロイトのいっているように、一人の人が精神科医で、他の人は全くの精神病であるとその人がいっている例等万が一にも存在しないであろう。そのような世界は存在しえないからであり、誰も想像できない。精神は人間関係によってのみ形成される。従って精神の病は人間関係の破壊であったり、依存心の強さであったり、片方がストライキのようなことを行ったりして、片方が困ったりすることであり、その片方にそのようなことをやめさせることによってしか人間関係は改善されえない。いじめでも、自殺でも、いじめによる自殺でも、収賄等による自殺でも、その他のすべてにおいて同様である。両者の人間関係を修正させることによってしか精神の病は治すことはできない。一生変わらない性格の場合以外は治すことができる。しかし性格は自由がある限りは治すことができる。依存性のある人も努力すれば自律性のある、独立した人になることができる。その努力は痛みを伴うが、物理的な脳の手術とか、薬物は何も精神状態を改善するのには役にたたないということになる。そのかわりの薬はみんなを呼んで仲直りさせることであり、どうしても依存心の治らない人であっても、自由で自律心のある人に自尊心と独立性を取り戻すことができて、人間関係を改善することができるとすればそのように性格を変容させることである。そうすることは性格の偏った見方を修正するために、自らの依存性を改善することである。

ここで使う依存性とは、人間関係において自由で独立した人に対立することばである。依存性のある人は他に依存をさせてくれる人が存在しなくてはならないが、依存をさせてくれる人はそれ程簡単に見つかるとは限らない。その人を依存性のある人にさせたのはおそらく兄弟姉妹の兄弟構成による人間関係か何かであったと考えられるが、外の社会において依存をさせてくれる人がそんなに簡単に見つかるとは限らないのである。そこにおいて二人の人間関係は非常に破壊されたものになると思われるというプリミティブな意味での依存心の強いという概念である。自らの利益のことや、自らに思いやりのある人はいい性格であるという偏った性格の見方は依存心が強ければ起こるということはありうる。このような性格の見方を学問化するための一つの方法としての「依存性」という概念は定義されたうえで使用されることは許されることであろうか。土居氏の甘えは母子関係における甘えを想定しているが、ここでいう依存心は人間一般に対する「思いやりの要求」や、「自分の利益になることをしてくれるように要求すること」やらすべてのことを含んでおり、そのなかの母子関係に関する甘えはそのほんの〇.一%程度?を占める一部にしかすぎない。依存心の立場からする他の人の性格の判断は自律的で独立した人とは全く反対のものとなるのは明らかである。従って性格学や、精神病理学や、精神医学においてこのような概念を導入することは正しいであろうかということが問題となる。人間の発達においてそのような性格が発生することがありうることは容易に想像がつく。そのような概念は性格の特性として自律性や独立性に対立し、他の人にやってもらうことによって満足するという意味では人間関係を表す言葉である。そして依存心ということばはこれまで人間が性格の傾向としてきたあいまいな様々な形容詞を特定化し、人間関係として表現するのに役に立つ。これは人間の本性である自由に対する概念、独立に対する概念としては一般的な概念かもしれないのである。依存心が強いといわれた人も、何に依存しているのかを考え、そこから独立することもできるという意味で、その人の可能性を奪っていることばではない。もし依存心の強いことが精神病だといわれたとしても、土居健郎の甘えということばをいわれた時と同じように、依存している人から自ら独立すればよいことになる。公民とは何かを考える場合に人間関係を中心として、更に、自律性と依存性との両軸とに軸足をおいて学問的に、かつ、客観的にとらえていくということは、効果の多いことかもしれない。そのような意味でこの自律性と依存性という二つの性格を表す言葉は性格論や、発達心理や、精神病理学における重要な意味を持ちうると考えられる。今から社会科教育と発達心理学とを考察するにあたって、社会を人間関係の心理の発達を発達心理としてとらえるにあたっては人間関係の徹底した分析に進むこととする。生徒を担任していると、金持ちの息子を生徒に持つ場合や、将来大金持ちの財産を相続するであろう生徒を持つ場合にはひいきをしていい性格だと錯覚することはありうることであるが、このようなもの見方は性格を誤ってみることに導きやすいので、そのような社会的なことによる偏見にも留意する必要があろう。

人間関係の類型と性格の傾向・特性

私が父親として娘の頭を「いい娘だね」といってなでるのも人間関係であるが、姉である娘が三才強年下である弟ににっこりと微笑むのも人間関係であり、その人間関係が社会そのものであるとすれば日常生活そのもののなかにも社会性や政治性が四、六時中存在していることになる。そして当然のことであり両親に依存性があるというわけではないが、両親から動物においてはエサと呼ばれる食料を受け取ったり、そして兄弟姉妹どうしで競争してるとはいえないが食料をわけあったり奪いあったりしている。また両親と場所を取り合ったりしているわけではないのであるが、両親から分け与えられた空間を兄弟姉妹で分けあったり奪いあったりしている。これは兄弟姉妹の間で経済的人間関係をもっているということを表している。これらの社会的、政治的、経済的人間関係のタイプは様々に理念型的な類型化が可能である。自由奔放的、社会共同体的、交渉主義的な人間関係等々という具合にである。しかし人間関係類型化は依存性や、独立性のような特性の分析によりその本質的な部分が明白になる。性格の傾向は特性の別名であるとしてもそれは性格をその人に固有のものではなくて、自由に変化可能であるという意味でもある。性格の傾向はそれが程度で表現できるということ以外にこの変化の可能性も表している。このことは重要であり、共有主義的な傾向を持っていると思われている人でも、私有をすることもありうるのであり、ある人を共有主義的と断定することは危険なことである。共有主義者のマルクスであっても、私生活では最も私有に固着する人であった可能性もある。この意味では一般に類型と考えられているものも自由に変化することが可能な程度であるという意味では傾向にすぎず、これまでのすべての性格学はもろくも崩れさってしまうことになる。

しかしある人の行動のパターンは相当程度に変化し易いとしても、ある一定の行動の傾向、性格の傾向がありうる。それらは人間関係の経験のなかから生まれる傾向であり、人間関係にも親子、友人、兄弟姉妹関係と様々な種類が存在する。それらを合計すれば百%になるのであるが、兄弟姉妹関係が約七割程度の割合を構成していると考えられると私は主張しているが、とてつもなく、貧しく食うや食わずの生活をしている兄弟姉妹のなかで育つ性格の傾向と、大金持ちの家庭の兄弟姉妹のなかで育つ性格の傾向とでどのように違うのであろうか。同じ兄弟姉妹構成であれば人間関係的なもののなから生じてくるものであるから、性格の傾向は同じものがあると考えられる。子供にとって生きていけるだけのものさえ与えられるならば、金持ちの家庭であれ、貧乏な家庭であれ、両親が窮々として生活しているかどうかはあまり関心のないことである。それよりも兄弟姉妹のなかの一人が自分よりもより多くのものをとったということの方がより関心のあることである。この点は非常に重要な点である。つまりこの点が解釈されないと兄弟姉妹の人間関係論はほとんど意味のないものとなるのである。

子供にとって生きていければ最低限の生活でも家庭は愛の世界である。

性格論における立場

ほとんどの人が、特に依存性の強い人は、自分の依存性という観念から他人の性格をみるが、この性格論はほとんどすべてバイアスが入っている。従ってその性格論は間違っているといわねばならない。このバイアスを取り去ってすべての人を平等に見なくてはならない。依存性の強い人は自分は見る(依存する)側の立場の人間であり、自分は観察する側の人間であり、観察される側の人間ではなく、依存している人間も、平等に観察されねばならない。観察されねばならない人間としてはすべての人は平等であり、平等に一人の人間として観察しなくてはならない。これが人格論における観察する立場の定義である。平等に観察している人もまた一人の人間として観察されなくてはならない。

現代においては子供の経済的な面倒をみるのは国家ではなくて、両親やらの場合の方が多く、まれに施設やらが子供の面倒をみている。このことは子供達は一生のうちの経済的に独立するまでの間は「両親と、子供達」よりなる家族のなかで生活をし性格を形成していくということを表している。ペスタロッチは家族のなかに正義があり、それは愛にその源泉があると「

隠者の夕暮れ 注(

) 」において述べている。それが民族主義を鼓舞するためのものでなかったことを祈るものではあるが、それがプリミティブに家族というものについて筆を走らせたのであろうということについてのみはひしひしと伝わってくるのである。家族、それも、両親と兄弟姉妹というもののなかから人はどのようにして性格を形成していくのであろうか。それを発達心理学や教育心理学の助けを借りながら現実的に解明していこうとするのがこの論稿の主旨である。このテーマについて取り組もうと本質的に考えたのは、高等学校の商業科や英語科の教師をしていた時に二、三才頃までに暖めていた構想を現実にあてはめてみて正しいのではないかと確信をもったという経験的な動機による。その後の多くの研究の成果でもある。本来は政治学における政治的社会化論の延長として研究されるべきであったが、後に、政治と教育と発達と心理という複雑な絡み合いのなかからもっと広い視野にたって論ずることができると確信を持ちはじめたからである。

政治学のなかの政治的社会化論や、反政治の概念やらは現実に様々なところでみうけられるし、マルクスのような反政治の人は多い。しかし政治的なのは日常生活の一挙手一とうそくにおいてであるのが人間である。この場合の反政治の政治は間違った意味の政治であり、経済により人間の自由意志は因果関係的に決定されているのであるから、政治という「人間関係の本質的選択等の自由」は存在しないのである。従って制度を自由に選択したり、商品や物資を、また、所有を自由に選択したりすることはありえないという主張から発生したものが反政治の概念である。これは経済決定的なアナーキズムと呼ぶことができる。一方、すべての自由奔放による選択の自由は政治(政府)を必要としないという唯心論的な考え方は運命とマキャベリーが呼んだような人間に知ることのできないような地震やその他の力(神というべきかどうかは別として)を存在しないものとして自由放任的アナーキーを主張する。これは無政治と呼んでよい。この二つの間に様々な政治的なものが存在する。この政治的なるものの発達過程を社会化という概念でとらえようとする政治的社会化論は日常生活や学校生活のなかの政治性を研究しようとする点で画期的なものであったが、生活そのもののどこに政治性や社会性を見出すのかについて十分な議論がなされていなかったがために、生活のどの側面に政治性があるのかについて具体性がなかった。従って政党支持とか、大統領や首相のイメージとかいうような限定的な側面のみを議論するものとなり、発達心理学全般と政治学、社会科、社会諸科学との関連性を研究するところまでは到らなかった。日常生活のあらゆる行動を社会的なものとして研究するためには発達心理学や、教育心理学と、社会諸科学との連係が必要となると考えられる。

親子関係よりも兄弟姉妹との人間関係の方が性格に対する影響が大きく七割を占めるという主張は次のようなことも結果として主張していることになる。つまりは親の性格の傾向の形成も、つまり産むか産まないかの行動の傾向を決める性格の形成さえも含めて、それが親の兄弟姉妹の人間関係のなかで決められていると主張することになるのであるから、一方で子供は子供でそうであると主張しているのであるから、親子関係といっても兄弟姉妹の人間関係とオーバーラップをするところがでてくるということになる。親の兄弟姉妹である叔父、叔母、伯父、伯母と子供が人間関係を持つ場合には親の親族との人間関係なのであるが、親子関係と同時に取り扱ってもよい場合がでてくる。未開社会においては研究すれば様々なケースがあったと考えられる。親族に養子に出す場合等である。親子関係のみについて限定すれば、すでに兄弟姉妹関係が親の性格を七割程度決定しているとすればここで不明なのは親子の性格が全く似ていないというような「積木くずし」のような事例であろう。この場合に親子関係が性格の傾向に与える影響としては「積木くずし」の例や、ほとんどの第一子の長女のような事例に表れる。本人の性格は本人だけで兄弟姉妹といる時には自らの性格を出しているが、親といるとそれが不可能になるという場合である。その場合は親の方を疑う必要があるという場合である。この場合でも親子関係が一割程度の影響を与えるにしても、最終的には七割の影響のある兄弟姉妹構成上の性格の傾向の形成の方が優っているのでそちらの方が何らかの仕方で親の影響をきりぬけてそちらの方が主に表にあらわれるということになる可能性が高いが、親に影響されてそちらの方にいって自らの性格をずっと抑えてしまうということも考えられる。しかし一般的には子供同志や、学校においては自らの独立の性格の傾向の方を表している場合が多いと考えることができる。家庭内においては親の性格を理論的には取り込む可能性は高いが、その量は自分の七割を減らして四割として他の一割を親の性格を受容する場合がありうるであろう。ここで割合の数字を使ったのは厳密に数学的なものではなく、例示的に数字を示したのみであり、そうしないと全く論理が複雑化するからであり、それを避けるためである。これは先に示したとおり全体の影響をとらえて百としている関係上、独断に陥らないためにも必要なことである。この数字を使わないと性格の傾向はすべてが百にみえるような表現の仕方しか存在しないし、性格の傾向に対する影響力についても同じであるからで、例えば性格の傾向に対する親の影響はあるといったところでそれは何の理論付けにもならないのである。特性の指数化と同じく、影響力についても百を全体としての影響力を考えていかないと何も解決したことにはならない。

子供を育てるすべての親の経験通りに第一子について考察してみることにする。第二子が生まれてくるまでは第一子は、両親にとって唯一人の子供、いわゆる一人っ子と同じである。その期間は一年間であったり、三年間であったり、四年間であったり、一生一人っ子であったりする。すべての第一子がその間に一人っ子であったということは、第一子についていえばすべての家庭の第一子にある種の共通性があるのであり、すべての家庭の兄弟姉妹の子供たちにとってこの共通性があったという一つの真実はその間のことを分析することによってすべての家庭に共通な何ものかが提供されるということを示しているといえるだろう。冒頭に述べた親と一人っ子との関係についてはここでもあてはまるが、一人っ子としておもちゃのような物の所有や所有権を経験的に知ったり、他の家の子供達とも遊んだりする経験をするのであろう。しかし自らの所有を所有するという点では所有からくる自由と自由な処分性が、自由放任や見えざる手理論につながることがありうることは十分に説明のつく理論である。また昆虫や、動物や、植物を好み、親と一緒にテレビをみたりもする時期であり、言語をよく覚える時期である。

同じくらいに大きくなったら、兄弟姉妹も平等だといえるがそれまでは長幼の序があると、東洋の思想では想定している。これは家族を政治の一単位と考えた東洋の政治思想の一つの特徴であったといえる。ここに日本の長女とか、次女とかの語いが生まれたといえる。

一方西洋の政治思想においては兄弟姉妹の間でもそれも長幼の差があっても平等であり、各人は自由な存在であるという教育が一般的であるし、あった。

この二つの教育方法の相違は東洋と、西洋の政治思想の違いを大きくした。しかし人類は一つである。比較的遅く近代化をなしとげた日本、ドイツ、イタリアはそれにもかかわらず西洋と東洋の区別なく同じような全体主義国家を作りあげて第二次世界大戦に参戦した。

西洋の政治哲学のなかにも彼ら自身はあまり気がついていないようだが、長幼の序からくる性格の違いが政治哲学のなかに多く表れていると考えられる場合がある。これは英米人があまり使わない長男、次男等の言葉がその研究を遅らせたのかもしれないと考えられる。一方日本には長男、次男等の言葉は差別用語としてではなく公用にも使われており、それが性格にもよく表れていると考えられる。

パーソナリティー(性格)研究が発展していって学問として確かな地位を築いていくようになることが将来予測される。パーソナリティーに関する知識、学問のうちには政治学の分野に関わる知識、学問の分野が含まれる。この分野は発達心理学の一部や、教育学の一部でもありうる。政治学においてこの分野の研究が遅れているのはパーソナリティー論の分野の研究も政治学の研究と同様に知識が専門的となり両分野を同時に研究し尽くすということが、難しくなってきているからである。公民としての政治の教育の重要性は今後ますます重要になってくるであろうが、戦前の超国家主義的教育の害悪にばかり目が奪われており、正当な政治教育の範囲の研究がまだ学問的な知識として確立されているとはいえない。

政治教育論の分野はパーソナリティーの研究と共に発達心理学の分野をとり入れることが不可欠である。

「パーソナリティーの多くの類型は、家族関係のなかで形成され、生涯変わることが少なく、かつまた家族関係の影響を受けたパーソナリティーは人間の行動様式を形成する基本的要因となっている。」(S・メリアム、八三頁)とメリアムはいう。メリアムはこの文章の注でハロルド・ラズウェルの「精神病理学と政治学」(H.D.Lasswell,"Psychopathology and Politics." )を参照するようにと書いている。ラズウェルはこの本を書くにあたってフランスの某教授の下で精神病理学の研究にあたりその成果としてこの本を著した。現在発達心理学の成果を政治学に取り入れるにあたっても発達心理学の発達の現在を研究することなしには不可能な作業であるといえるだろう。

先の文章に続けてメリアムはいう。

「反抗的な人間や権威主義的な人間は家族関係者等の状況の影響で現れてくるであろう。しかもそれは、一生涯ほとんどまったく変化しないか、もし変化するとしても、年令、社会的経験、訓練等によって次第に変容していくにすぎない。」(S・メリアム、八三頁)

メリアムの弟子としてのラズウェルはメリアムのこのような考え方を受け継いで後に「権力と人格」(”Powerand Personality." )を著わすことになる。裁判官の性格を分類することによりその行動様式を分類研究するなどの成果がおさめられている。「権力と人格」においては研究が教育学や発達心理学の研究との学際的な分野に及んでいることも特徴的である。

パーソナリティーに関する知識、人格変容や人格の成熟等の知識を政治学の分野に応用する必要が迫られているが、特に家族関係や人間関係の立場から教育社会、政治社会のなかでの位置関係をとらえながら考察しようとする必要がある。パーソナリティーについての知識と、「政治、つまり統制の方法」としての象徴の機能とを並列的に関連づけてとらえることができれば、政治学においても教育学においても大きな可能性が生まれてくることになるであろう。(S・メリアム、八六頁)現在は政治学者も教育学者もこの点に関してはほとんど研究していないし、今後も相当長く研究が急速に進むことはないであろう分野である。

第九章  社会教育、公民教育と社会意識、公民意識の発達心理

社会科の教育は、大学院、大学、高校、中学校、小学校、幼稚園を通じて行われるうえに、社会科自体政治・経済・倫理・社会・日本史・世界史・地理等に分類されており、それらを一括して社会科と教育とについて論ずることは不可能であるので個々別々に論ずることにならざるをえない。しかし学歳期以前の社会科と教育については社会科そのものが分類されているわけではなく、社会そのものが全体として教育されることになる。また幼児期の教育は幼稚園や保育所において行われると同時に親子教育や、兄弟姉妹関係において自発的に学ばれる自学自習やらにおいても教育や自習がなされる。友人との関係のなかから社会的関係が自習されることもある。この場合は人間関係としての社会全体が学習されることになる。ここから出発すれば、学校に行っている時期であっても、それ以後生涯教育として学校を卒業してからの教育の時期にあっても社会に関する学習は社会全体として学習されねばならないことになる。

政治と教育とに関する議論は社会全体の教育との関連で議論がなされねばならないことになる。社会は人間と人間の関係から成立しているという立場からこの研究を進めることにする。この考え方にたてば幼児期の社会教育についても人間関係についての教育として研究することができる。人間関係にも様々な人間関係があり親子、兄弟姉妹、養親子、施設の養親子、親類関係から一般社会における人間関係のうち政治的人間関係、経済的人間関係、経営学的人間関係、商業(交換)的人間関係まで様々である。しかしこれらは一つのみが独立して存在しているのではなくて相互に密接に絡まりあっている。これまでの研究では親子や、家族関係としてとらえることはあっても兄弟姉妹の人間関係としてとらえた研究はほぼ皆無に近いといってよい。ところが実際の生活や、学校において生徒に提出させる兄弟姉妹構成についての生活歴(表)についての調査においては兄弟姉妹の人間関係は生活の最も重要な側面を形成しているように思われる。そうではない人も確かに存在していると思われるが、その潜在的な意識においてはそうであるだろうと推測することも可能である。その場合はこれは一つの仮説となるし、一つの研究方法ということになろう。しかし何%の側面を示していることは確かである。その何%かが七〇%の場合もあろうし、三〇%の場合もあろう。この論文においてはそれが約七〇%程度くらいの影響をしているのではないかと推測しており、両親の兄弟姉妹の人間関係は、また、親類や、一般社会や、経営学上や、政治上や、学校生活やらの人間関係においても兄弟姉妹の人間関係が約七〇%の影響を及ぼしていると推測している。よしんば三%であったとしてもそこから生まれる性格の傾向上の差異は研究に値するものと想定されている。

これまでこのような研究が少なかった理由は私自身の例から推測すると哲学上、学問上あまりにも多くの問題を解決しなければこの研究を進めることができない点にあると思われる。実生活上には「三つ子の魂百まで」とか、「一姫二太郎」とか、「一人っ子」とか、「末っ子」とか、「三男の三郎」とか、「長男の甚六」とか様々な諺がある。ところがそれらはすべて長い人間生活のなかで培われてきた生活上の諺から発生したものではあってもなぜそうなるのかが問われたことがなかったので学問上の土台の上に築かれることはなかった。ところが深い哲学上の問題を解決し方法論上の問題が解決すれば学問として築かれうるのではないかと考えられる。哲学上の問題としては視点の問題が考えられる。自らの視点をどこにおくかによって「長男的性格」をよく見ようとか、「次男的性格」をよく見ようという態度があってはならない。学校の教員や、両親の態度としてこのようなことがよく行われているが、これは学問的ではなく、子供の性格を歪めることにさえなりかねないし、学問そのものの冒涜となる。このことを戒めて事実の叙述と、その評価(偏りのない評価)を行えば学問としての立場を確立できると考えるものである。三段論法においては、規範、事実、結論という方法がとられるが、この場合の結論はすでに規範のなかに含まれているものであって、この事実と評価の関係は三段論法とは相違して、事実はあるがままの状態であり、その評価とはどのように理解するかということである。まず「一人っ子はよくない」、「十人以上の兄弟姉妹の人間関係はよくない」という規範が存在すればそのような結論しか発生しない。そのような既製の観念は払拭すべきである。

ところが逆に研究していくうちに「一人っ子には〜という性格の傾向がある」とか、「十人以上の兄弟姉妹の人間関係には〜という性格の傾向がある」とかいう法則のようなものが生まれてくるかもしれない。にも関わらずそれが百%確定的な法則ということはできない。なぜならばそれは人間の自由意志によって容易に変化させることができるからである。つまり、そのような傾向ではなく行動することもできるからである。しかし傾向があってもそのような自由意志によってその傾向を治すことができるとしても、その傾向があることを認識することはよいことである。つまりその傾向が悪い傾向である場合にはこの「治す」という言葉があてはまるのであって、これは精神医学としてもそのまま用いることのできる言葉となるが、私は精神はこれまで社会とは正反対の言葉としてフロイト以来使われきたので、社会精神医学ということばとして使いそのような意味の「治す」という言葉として使うことによって精神医学の変革をなすこともできるのではないかと考えている。この場合の精神とは生物学上の本能以外のものを指す。本能以外の部分は選択の自由、その他の自由を含めた自由な部分のことであり、自由意志の部分であり、それによって社会が様々な形態でつくり出されることになる。もちろん社会の根底には本態によって裏打ちされたものが存在する。その上にたって自由に社会が作りだされるのである。もし人間が人間以外の動物であれば、社会の形成の仕方についても本能のなかに組み込まれていることになる。ところがアリの世界とは異なって人間の社会の形成の仕方については自由な側面がある。これは人間が本能以外の部分については自由を獲得しているということを示している。しかし神がすべてを決めているのだとか、経済がすべてを決めているのだから人間に自由は存在しないのだという人があるかもしれない。従って人間の社会の形成は神や経済がきめているのだという考え方である。これは哲学上の問題であり、倫理学上の問題である。このような考え方によれば兄弟姉妹の人間関係を研究するよりも倫理や、宗教や、経済のことを研究する方が先決であり、その解決がなければ自由意志等行使されないようにすると宣言することはできる。にも関わらず信教の自由や、経済的な自由を人間が持つ限り経済先決論や、神先決論は自由意志にうちまかされることになる。確かに人間が本能以外の部分について無制限な自由を持っているとはいえないし、経済や、歴史や、神( 運命ともいえる)やらによって因果関係的に相当に制約されていることは認められうる。しかしそのことは人間が社会生活を作るにあたって本能によって作っているということにはならない。

この場合の社会とは人間関係のことであるから、人間関係は衣食住や、性のような本能によって社会関係を作ると同時に、自由な社会的人間関係をも持つということを示している。二人の人間の人間関係のなかに国や、政治という言葉が入ってくるのか、あるいは、そのなかに経営上でいうような生産、販売における人間関係が入ってくるのかは研究の余地のあることであるが、兄弟姉妹の人間関係のなかでも人々は様々な人間関係を学ぶことは確かである。社会関係を学ぶということは人間が自由意志を持っていた部分について次第に社会意識によって自由が失われていくということでもあり、逆にいえば、社会意識の裏には自由意志が隠れているともいえる。ある規則を強固に信じている人はその規則が役に立たなくなったことを知った時にはその規則を他の規則に自由に変えることができるという自由意志を人間が持っていることに気付く。逆にいくら自由意志を持っていたとしてもある規則を作っていなければ社会(人間関係)は成立しえないことに気付くのである。政治学上の社会契約説とはこのような人間の社会形成上の自由意志について政治学的に考察しているにすぎない。

規則至上主義は法学上の主張としては法実証主義という主義のなかにあらわれる。しかし一方で法も誤っている場合がある。例えば、「生類憐れみの令」や、「ユダヤ人虐殺法」のような悪法が出た場合には法の理解について法哲学上の問題が発生する。法の裏にある自由意志の存在を認め、そのような悪法は改善すべきであるから。悪法は法でないと考えられるような自由さをもって、法の理解にあたる人と、そのような自由さを持たない権威主義的な人とが存在するという考え方が現在の学問上の水準であるが、それがどのような理由で発生してくるかについては人間関係理論の解明としては明確になっていない。それを兄−妹の人間関係から権威主義的な傾向が生まれ、姉−弟の人間関係からは法の自由な立法趣旨からの根本的な理解が生まれるようだというようなことがおぼろげながら分かっていたとしてもそれを学問上の水準に高めた学者は全くいない。また生産経営管理上のテイラーの方法のように人間を機械のように取り扱った方がよいのか、人間を温かい人間として取り扱った方がよいのかについての経営学上の論点についても、どちらの方が生産効率が上がるのかについて深く哲学的に考察していった人は少ない。そうしなければ学問とはいえない。また学校の経営管理上においても管理教育といわれている愛知県方式をとる方が効率が上がるのか、アメリカの学校教育のように自由な教育方針をとる方が教育の効率が上がるのか、人間関係にどちらがよい影響を及ぼすのかについての研究はほとんどないといってよい。これらの場合の研究についても人間関係の深い哲学的研究が必要であると思われる。人間関係、つまり、社会の研究はあまりにも研究の進んでいない分野でもある。

社会科学の研究についても同じことがいえる。左翼的感情、温かい理性が社会科学であった時代があった。そしてその後に冷たい理性の時代がやってきた。そして温かい感情と冷たい理性の融合が左翼の側から叫ばれたが、科学的社会主義の科学性に疑いがもたれるようになってきた。一方で保守主義の側、伝統主義の側、これを右翼的と一括することはためらわれるが、その主張の側からする科学性の主張、例えば行動主義や、行動科学の主張にも欠陥が見えはじめた。新行動主義や、ポスト・モダンや、脱行動論革命やらといわれている動きのなかにも一つのはっきりとした社会に関する方法が見えているわけではない。ある外的な環境が、ある人の「本能部分」(旧皮質部分)と、「自由意志部分」(新皮質部分、大脳皮質部分)とに影響を与え、ある人の行動を引起こすとしても、この「自由意志部分」の機能的構成の分析についてはパーソンズのシステム論や、サイバネティックスや、政治システム論や、政治的な機関システム論やらが解明しようとして行動理論以後の新しい理論をうちたてようと努力しているにもかかわらず、統一的な学問上の成果をうちたてるまでには到っていない。一方では情報処理理論が飛躍的に発達してきてこの方面の素晴らしい発展がコンピュータの発達と共に起こりはじめているようであり、それに対する期待も大きく、これまでの学問の非科学性が暴露されるかもしれないと期待している人もいる。多くの人がコンピュータの知識を持ちはじめているが、しかしその期待はあまり現実化されているとはいえない。コンピュータには性格の傾向(これは人格の特性ということばと同義語として使われる)を打ち込むことができない。現在ではいろいろなコンピュータによって相違する答えを出すようにすることはできないからである。いろいろなコンピュータによって相違する答えを出すようにすることができるようなコンピュータを作ることもできる。これがいろいろな違った政策を打ち出すことのできるようなコンピュータを作る場合である。人間についていえば、自由意志の部分について多くのことを考えてから答えを出す人もいれば、自らは多くのことを考えないで答えを出す人もいる。ある行動を起こすのに時間が長くかかる人もいれば、ほとんど一秒たらずの間に同じ結論をだし行動を起こす人もいる。これが同じ環境の下においてであるから驚くべき相違であるといえる。これを性格の傾向の相違のせいであるとすれば行動を見るだけではこの性格の傾向については解明できないことになる。性格の傾向については推測であるか科学性はないとする批判は確かに当たっている面はあり、あの人はエゴと、スーパー・エゴとが対立しているということをいっても実はそうではないのかもしれず、その人はどうせスーパー・エゴは期待のみであって実際そんなものは実現するはずもないと思っているかもしれない。すると全く対立していないことになる。確かに行動科学の理論は当たっている側面がある。しかし、対立していると考える「くどく深く申告にペシミスティックに考える人」と、「オプティミスティックに考えるすっきりした人」との性格上の傾向の相違は考えることがきる。このような意味では性格の傾向を分析することは行動理論と脱行動理論や、新行動論を橋渡しするカギとなる概念であるともいえる。

ある人間を取り巻くある環境と、そこから生じてくる行動のみを分析すればよいのであって、その間でどのようなプロセスの思考を通ってその環境からその行動に到ったのかを研究することは不必要だという考え方は、その思考のプロセスが「本能」のみに頼っている部分の行動については全く当たっているといわねばならない。しかし自由意志部分については思考のプロセスを機能的に、かつ、分析的に、かつ、時間的に、かつ、因果関係的に、かつ、論理的に分析してみる必要がある。その思考のプロセスは千変万化であり、その千変万化の部分こそ性格の傾向であり、千変万化であるからこそ性格の傾向は自由意志にのっとっているといえるのであり、また、それを自覚した人にとっては性格の傾向は自由に変化させることができるということになり、性格の変容を解明できることになる。兄弟姉妹の人間関係からみた性格の形成と変容論はこのような学問上の発展の動きの上におかれるべきものである。

兄弟姉妹の人間関係論を研究する上で日本人は有利な立場にある。日本いは「長男」とか、「次男」とか、「六男」とか、「甘え」とかいうような様々な兄弟姉妹の関係についての言葉が残っており、その研究が容易である。六男とか、長男とかいう用語は長子相続や、末子相続であった昔の時代の名残りであって、核家族の時代にあっては子供の平等を期すために英米語におけるように廃止してしまえという主張はある。そのような主張の当否や、そのような制度が性格の傾向に与える影響については十分に研究がなされなければならないとしても、そのような言葉が研究を進める上で、文献に多く残っているという点で便利であることにかわりはない。実際に日本人はそのような目でよくこどもとかを見ていることは確かであり、それが学校や家庭の教育のなかでもそのような目でみている可能性も否定できない。このことが兄弟姉妹の人間関係の研究が日本でも、世界でも進まなかった原因の一つであろうことは確かである。ところが核家族が多くなった時代においても長男的性格、次子的性格ということばはあいかわらずあるし、六男的とか、末っ子的とかいうことも残っているようである。それらがいい、悪いということをいっても、それは変容させることが、自由にできるというわけではなく、環境等をかえたり、因果関係的な考え方をなおしたりしなければならないのではあるが、一応はできるということは可能である。この性格の傾向の形成について研究し、環境や考え方をかえたりして、悪い性格の場合いい性格の方に変容させる方法について研究することは必要なことである。

いい、悪いの判断は自由意志からなる性格の傾向についていうことは規範の問題が哲学的に解明されていなければ難しいことであるという批判が生まれてくる。その批判によれば確かにヒットラーに盲従した時の権威主義は悪かったかもしれないが、いい指導者に対して権威主義的に盲従することはいいことではないのかというような批判である。クリスチャン・ベイは「自由の構造」のなかで権威主義には心理学的自由が存在しないのであまりいいことではないと、エーリッヒ・フロムに従って批判的に述べているが、そうではなくてそれは時と場合によるということになる。しかし規則として盲従し、その立法趣旨を考えないことは裁判する人にとっても(日本の裁判官についても、アメリカの陪審員についても),法律を学ぶ人にとっても、法を作る人にとっても、多くの不都合なことが生じ、「ユダヤ人虐待法」や「生類憐れみの令」を使ってもよい、立法趣旨等考えなくてもよい、実際の生活を無視してもよいという考え方が生まれてくる。このような意味では権威主義はあまりいい性格の傾向とはいえないとする考え方は規範的ではあるが、人間的(ヒューマニスティック)ではある。人間的であるということは自由意思的であるということでもあるといいうる。自由意思的であるということはしかし多くの思考プロセスを経て行動をするということ、つまり、ペシミスティックになる、メランコリックになるということとは違っている。そのことはただ結果と未来について悲観的になるということであり、自由意思的ではなく、因果関係にしばられているという点では自由意思を否定しているものである。ペシミストや、メランコリーの精神の体系を分析し尽くすことは人間関係の社会を研究し社会精神医学を作るための一つの目標でもあり、それをオプティミスティックに作りかえる方法もまた一つの目標でもあり、そのためにはメランコリーや、ペシミスティックな考え方がどのようにして発生してくるのかを知ることによりオプティミスティックな考え方に性格の傾向を変容させる術が研究されねばならない。社会精神医学が民営のサービス業として、あるいは、官営のサービス行政業として成立しうるにはそのような術が確立されねばならないと信じるのである。現在ではペシミスティックでメランコリーな性格の傾向の人々がオプティミスティックな性格の傾向の人々を、精神医学を悪用しているという場合があるという指摘を深く研究する必要がある場合が、児童教育や学校教育や、企業家教育の場合にもありうるし、ソヴィェト連邦の時代に「精神医学の悪用」として指摘された問題もこのように解釈することも可能である。それは反教育的に使われてはならない。つまり、人々の可能性を、人々に対する教育の可能性を消してはならないということを意味するのである。

「お国のため」という国家主義教育の時代と現在の東西冷戦後の世界では多くの点で相違している。「お国のために命を投げ出すこと」は昔はいいことであったが、現在は警察官の殉職の場合等をのぞき人々は否定しているようである。そのような時代だからこそ人間の性格の傾向を知ることは大切なことであり、「自らがいい性格の傾向か、悪い性格の傾向かを判断し、自らがいいと思う方向に自らの力によって(他人の力も借りながら)性格を変容させていく必要がある」と思われるのである。「お国のために命を落とす」というような勇気や、戦争に盲目的に進んでいって命を投げ出すことを奨励し、それを美徳とし、それに従わない者は、戦争不安症だと考えることがあったような権威主義的な時代は、どのような心理構造をもっていたのかを研究すると同時に、純粋な意味での公民というような概念はどのような構造をもち、どのようにして形成されていくのかを知ることは、公民教育法や、社会科教育法の中心的な論題であると考えられる。確かにいい公民とか、悪い公民の概念は政治や、国家の動きによって変化するかもしれない。しかし公民というものの普遍的な概念は存在するはずである。それをドゥウォーキンのように平等の概念に求めるもよし、ロールズや、ノージックのように干渉されない自由の概念に求めるもよし、それらは各人の考察にゆだねるにしても公民の普遍的な(ユニバーサルな)概念は研究されねばならないであろう。

公民という概念は私人という概念と対になっている。公民という言葉はある意味では人間と人間との関係という社会をあらわす言葉であり、社会人という言葉ともいえる。従って人間関係を研究することはこの公民というものを原理にさかのぼって研究することでもある。それはいい人間関係を作りあげるということでもある。いい性格の傾向はいい人間関係を作りあげることができるし、メランコリーなペシミスティックな考え方にかえるということができるという主張に対してはこれまでの精神医学の主張と反対であるとして批判する人々が多いと思うが、一般的にいえば社会(人間関係)を見てみる考え方からすれば正しい精神医学の観念である。それは楽観的なオプティミスティックな考え方の構造をシステマティックに分析し、それで悲観的な考え方の人の構造を変容させるということ、つまり、あるものにしばられて自由でない人を自由にするということであるだろうと思われるが、それはこれからの分析にかかっている。これまでそれと反対のことが行われていた理由は「国家のため」とかであった可能性もあり、その点では左翼からの戦時中の国家主義批判は正しかったのかもしれない。このシステム的に楽観主義にかえるという考えは、俗世間的な理論ではない。社会システム的な学問上の問題となりうるし、それは経営論的やらのものとも相違するし、俗な脳内モルヒネとかの考え方とも相違する。神経内科的な考え方とも違い社会的、システム的、学問的なものである。楽観主義の社会(科学的)構造については私の探したところ一冊の本も学問的には存在しない。このため神経内科的の結果治ったと思ったところが実は人間関係(社会)が楽観的にかわったということがありえて、それは内科の問題ではなかったということになる。このためにも楽観的な社会システムを考えなおすということは大切なことである。攻撃性(これは所有者に対する非所有者の攻撃ととらえる政治的な例をとりあげるのではなくて、悲観的な人間が楽観的な人間を悲観のなかにひきずりこむことをいう)を少なくすることによって政治や教育の目的とするものを達成することがある主張によってはその目的に合致するということになる。このことはここで論ずるよりももっと別の所で章を改めねばならないと思われるがこの章でも少し述べておかないと全体の目的が明確にならないのでここで少し述べたのであり詳細は別の所に譲ることにする。

政治学も教育学も共にある人が他の人に知識や記号を伝達するという性質をもった政治や教育を研究する学問であるために、人文科学であると同時に社会科学でもある。現在及び今後の社会(科)教育(科)や公民(科)教育の研究、特に公民という政治に関連するものの研究にあたっては発達心理学や教育心理学やらの研究の成果を導入する必要がある。この導入にあたってはH・S・サリヴァンの主張する人間関係の理論を導入したいと考えるが、発達心理学的に人間関係をみる場合特に兄弟姉妹の人間関係に最も注目すべきであると考える。この考え方は政治も教育も精神医学も人間関係を改善することを目標という立場からすれば、オプティミスティックな将来の改善の研究という基本的機能を持っているべきでありその研究が進められなくてはならないという本論文の結論にも到達するもので、いじめ等の大問題にゆれている学校現場に対しても、いじめられる人間がいるのはいじめる人間がいるからだという人間関係の分析とその改善策の提示という処方せんを提示することになる。

乳児の人間関係の分析、幼児の人間関係の分析、さらに〇才〜三才までの基礎自我の形成に続き一生兄弟姉妹関係が性格の形成に大きな影響を与えていることの理由付けを行い、これまで母子関係として語られてきたものは母も兄弟姉妹関係により性格付けられており、子も兄弟姉妹関係により性格付けられていると分析することによってのみ真の母子関係、ひいては父子関係その他のすべての人間関係が正しく理解できることについて社会的精神=人間関係の分析を行う。このことの裏には兄弟姉妹関係は政治経済的、社会的一体性のもとに運営されていて、それはあたかも動物における母胎内における状況と同じような性質をもっているからであると考えられる。つまり人間は母胎内から早目に出産されてくるが人間関係的には兄弟姉妹関係のなかで「性格の傾向」というものを形成していく生物体であると考えられるからである。それが完成するのは死ぬ時で性格の形成は死ぬまで続いていくが、性格の傾向の完成ではないが「三つ子の魂百まで」という諺があらわしているのは、あるいは、三才児までが大切であるというのは単に三才児まででほとんどの兄弟姉妹の人間関係のパターンは完成し、それ以後は弟か妹が生まれる時までは同じパターンで、生まれた以降は少しの変動があるということを直接的に表現したものであると考えられる。このなかで所有の観念や、所有の権利の概念、共有の譲りあいの観念、譲る義務の観念等が、おもちゃやその他の遊びのなかで形成されると考えられる。

この論文の主要なテーマは「なぜ」人間関係のうちでも兄弟姉妹の人間関係のみが性格の傾向に最も大きな(約七割と考えている)影響を与えるのかを理論的、体系的に考察していき、その理由をすべての人を納得させることである。すべての人が兄弟姉妹をもつか、一人っ子であるかである。すべての人が経験的に考えることが可能であり、すべての人の経験を考えることが可能である。兄弟姉妹の人間関係は人間関係の一部であるがこれまで最も研究されることの少なかった分野である。

社会諸科学と教育学や、教育心理学や、発達心理学と関連があるといえば多くの人は不思議に思うであろう。

私は社会科学の研究者であるし、研究者であった。しかし社会を人間関係としてとらえれば、H・S・サリヴァンの精神医学は人間と人間の対人関係であるという原点に戻るならば社会科学そのものは精神医学であるのだ、つまり社会=人間関係をよく善で、徳のある方向へもっていくのが社会科学であるという結論にたどりつくことができるかもしれない。戦争や権力やら、非行者のパワーやらを正当なものとみなせば、戦争不安の者を戦争においやるのは精神医学や、社会科学の役割ということになる。ところがそのようなものを人間関係という原点にたちかえってみてみると、戦争や非行そのものも人間関係なのであるから、それを社会科学や精神医学は正す方が本当の精神医学や社会科学ではないのかという考え方が生まれうる可能性がある。もちろん人間と人間の関係はそれらのまわりにある環境、すなわち物とか資金とか自然とかをもとりいれながらそれらに取り囲まれながら形成されていくことになる。このことは法律学上の所有の定義ともよく似た概念の法的教育(大学の民法の最初の授業においてよく行われているあの教育、ヘーゲルの『法哲学』にでてくるあの教育)となるかもしれない。しかしここにいうそれはマルクスのいうような人間の心はすべて経済という下部構造により決定されていて自由意思は存在しないという概念から、自由放任主義者のアダム・スミスのいうような見えざる手の原理、さらには実体法上の所有権の絶対、公益による土地の収用にいたるまでのあらゆる要素までを含めた人間と人間との関係を考察し、かつ、親から土地を借りて建築している子供の使用借権という法的な概念からそれから生ずる法心理、法精神までも含めたあらゆる点を総称して人間関係と称することになり、それらを法社会学的に、政治社会学的に広く社会のものにたちかえって哲学的に深く考察する必要があることになる。

この考察を進めていくと、近代におけるホッブスやルソーや、ロックのいう人間というものはもともと自由であったのか、平等であったのか、闘争状態であったのかという問題につきあたり、その意見の違いはどうしようもないものであることに気付く。また現代にあっては法哲学、政治哲学者であるジョン・ロールズの『正義論』のなかの始原状態(originalposition)というものは何なのか、自由で平等であったのかどうか、ロールズのいっている始原状態の説明は正しいのかどうかという難問にかならずつきあたる。その時私は二十三才の時の卒業論文のなかにでてくるアダム・スミスや、シュンペーターや、ハロッドや、H・S・サリヴァンや、エーリッヒ・フロムや伊藤博文らは一人っ子であったが、マルクス、レーニン、エンゲルスらは多人数(六人以上)の兄弟のなかで育ったという事実、そして、その理論的な説明(評価)のなかにひょっとしたら始原状態の見方の違いが含まれているのではないか、それが驚く程の共通性を生み出したのではないかと思うようになり、三十二才の頃に高校の教員をしていた時に東大の経済学部同窓会誌にそのことを投稿してのせてもらったり、ドラッカーのフロイト批判やフロムのフロイト批判を読んだり、研究したりしながらそのことを現実の生徒をみながら更に深く確信していくことになった。しかしそれは経験的な類型化であり、その理論付けではなかった。早稲田大学の政治学研究科政治学専攻の修了のための修士論文においてはまた類型化のみを行ったが、ついにその論証は失敗に終わった。ところがある時、ひょっとしたら性格の形成にあたえる人間関係の影響は類型化によって説明するのではなく、割合による特性化によっておこなえば説明に成功するのではないかということに気付いた。それは兄弟姉妹の人間関係と、親子の人間関係とを比較してみてそのどちらが人間の性格形成により大きな影響を与えているかは明白である。ところがどちらがどれだけ多くということを計測しない限りこの問題は決着しないことに気付いた。人間関係と人間と物の関係のどちらが人間の性格に影響を与えているのかについては経済の因果関係の問題であり、それはマルクスの批判のところで述べる。物を取り囲む二人の人間の人間関係において兄弟姉妹の人間関係と、親子の人間関係のどちらがより多く人間の性格に影響を与えるかを調べることは論文の構成にも、議論の筋のたて方にも、大きく影響を及ぼす。まず同じ親から生まれた十人の子供の性格が全く同じであるとするならば、親子関係が性格に大きな影響を与えていることを認めざるをえないが、実はそうでないことは多くの学者の認めていることである。そのことについて兄弟姉妹の順序に従って親の方が取扱い方(授乳の仕方を含めて)をかえているのだということによって説明することには多くの反証(自分自身同じように取り扱っているという人がでてくるであろう)が存在してとりあげるにたらない論となるだろう。しかし兄弟姉妹構成による性格の影響が大きいと考えるのならば、親の性格もそれが影響を与えていると考えられるし、そのような見方が必要となってくることになる。

H・S・サリヴァンの理論は実体験から発生してきた理論であるので多くの点で正しいと私は思う。しかし人間関係を見るにあたってこのような深い、哲学的な人間関係の見方については彼もいまだ行っていないようである。この考え方はすべての人を平等に扱うことにおいて他よりも優れていると私は思う。性格の傾向のよってきたる所を探ることは人々を平等に扱うことになるからである。人間を平等に扱うということは、まず生まれた時の人間は本能として備わっているもの以外(ここが生物学的精神医学派に対する反論であり、それ以外を巧妙に本能として、死の本能のようなものとして学問の領域に持ち込むことをしないということである)は白紙であり、制度や、性格の傾向というものが植付けられるべき選択の自由な存在としてみているということである。性格論はある性格学者が警察学者や、刑事学者と共に性格論を著しているように法学、特に刑法学を含む多くの学問に大きな影響を与えるものであり、占星学やABO型性格学者等の運命論や社会神学者等にも大きく科学化の一助を与えるものであり、社会科学全般にとって大切なものである。この自由と平等を出発点とするということは政治的であるようにも見えるがそうではない。金持ちであったハウス大佐が六男坊でありフォビアを持っていたということと、金持ちでなかった人がフォビアをもっていることと、フロイトがフォビアをもっていたこととを金持ちや、権威とかとは関わりなく平等に取り扱うことをのみ目標とし、権力や金の力には屈服しないということ、スターリンであれ、ヒットラーであれ、マルクスであれ、フロイトであれ同じように取り扱うということを示しており、妹が五人いたフロイトのように権力を巨大なものとみている人には権力を巨大なものではないことを教え、日常の行動のなかにも政治性を発見するようなことを教えるという結果をもたらすことになるかもしれないということになるのみである。

人間の兄弟姉妹関係が約七割の性格の形成に影響を及ぼすという命題について七という数量について異論をさしはさむ人はいても、兄弟姉妹構成(この場合、小さい頃の家族生活共同体の構成という意味であり)施設や器物やギリシア時代の共同社会や「小さい村」で育った人はその共同社会によるよりも食べるものや、居所を奪い合いし、所有を形成するような小さな家族的生活共同体により性格への大きな影響を受けることについて異論をさしはさむ人はいないであろうと思われる。それはその共同体は生活の仕方のすべてを教えるであろうからである。まずこのことを発達心理学的に明白にしようとするのがこの論文である。

このような観点から乳幼児の兄弟姉妹関係と性格の形成の分析に到り、そしてその結果として親の性格の傾向と、子供達の実際の性格の形成過程に対する親の性格の傾向の分析等を行っていくこととする。

社会精神医学と政治と自由

これまでの精神医学は人間を本能のかたまりとして動物以下の物としてみるのに対して、社会精神医学は本能以外の自由の部分について、因果関係論及び人間関係論を通じて将来の精神をペシミズム的構造からオプティミズム的構造に変化、変容させることをサービス業として行うことを目的とし、そのサービスに応じて報酬を得る商業・ビジネスとしてのあり方を模索するものである。政治と自由、教育と自由、経済と自由、社会と自由等の自由論の総体も社会的精神のあり方としてこの学問と関連を有する。人口が爆発して人間が地球上に住めなくなる程に多くなるかもしれないというマルサスの人口論や、ローマクラブのペシミズムは人類を滅ぼすかもしれないというペシミズムであり、これに対して人間の自由な精神は人口を自動的にか、他動的にか抑制しそのようなこおがおこらないだろうということを自覚するかもしれないというオプティミズムはどのような方法で、どのような構造として人間に知覚され実行に移されるのだろうかということはこの学問の一つの実証的な問題対象であり、そのためには政治学、経済学、教育学、商学、行政学、医学、社会学等の様々な学問の総動員を必要とする。

公民教育法(注)

「カラマーゾフの兄弟」から「細雪」まで兄弟姉妹関係を表現した数多くの小説がある。そのなかでもシェイクスピアのリア王や、細雪は性格の違いを巧みに表現している。また童話のなかでも、「シンデレラの物語」も兄弟姉妹の性格をいいあてている。それを現代のあてはめてダイアナ妃が四女であったこと、雅子妃が長女であったこと等とその性格の相違を考えてみることは現実的には難しい。

贈収賄事件で、竹下登の秘書が自殺したり、埼玉県職員が自殺したりした。これを新聞は事故と発表した。クリントンの部下が自殺した。私はこのような自殺こそ人間関係によるものと考える。

ある人間が存在するにも関わらず、存在しないと思いこんだ方が都合がよいという理由で、他の人間を存在させないようにすること、これがいじめやフロイトの論理であり、それは異母兄弟の存在を消すという作業の経験からきている。フロイトの母即ち父の後妻にとってはそれが必要であった。

精神の病の人はいない。しかし精神の病にしている人間(フロイトら)はいる。この場合の精神の病とは彼らがそのように行動していることであり、その人間関係によって精神の病が正常な人に発生しているといえる。従ってそのフロイトにいわれて精神の病に陥っている人々(フロイトら)は精神異常者となる。

生物学としての精神医学は本当に存在しないのだろうか。それは精神が生物的なものであるどうかという一点にかかっている。生物学的なもの、つまり、自由の存在しないものが精神だと考えれば精神医学は生物学に属する。この考え方はマルクスの唯物論の考え方をとり経済がすべてを決定しており、人間には自由意思は存在しないというように人間関係を観察したり、人間には潜在意識というものがあり潜在意識がすべての人間行動を規定しているのであるから人間には自由意思が存在しないという考え方をとり、そのような勝手な考え方のみで人間関係を一方的に観察するならば、それは一見すると人間は生物的なものにみえる。この傾向が著しくそのようにみえるのは戦争においてその戦争を積極的に肯定し、人間を細菌戦の実験材料にしたり敵がいたがっているにもかかわらず敵だといって相手の心臓に鉄砲や刃を向ける時の人間が人間をみる時の心情のなかにみてとることができる。

一方では人文科学としての精神医学はどうしても『人間失格』における太宰治のようにメランコリーからぬけ出すことができないでいる。それは戦争のような社会的な大きなうねりから自らを解放し、自由を得ようという視点が存在しないからである。太宰治が第二次世界大戦後の実家の『斜陽』が社会的なものであるととらえていたならば、社会科学の研究に向かっていって新しいタイプの社会科学者となりえたかもしれない。

また最後の種類の精神医学である社会科学としての社会精神医学においては、社会と人間関係という視点から人間と人間の関係と、人間を新しくみなおそうという考え方をとった点においては画期的で、現実的なものであるといえるが、しかしどの社会科学者も、どの精神医学者も中途半端な研究に終わってしまっているのは、オプティミスティックな人間関係と、その精神の構造が人間の行動の統計学的な予測と期待によるのだというようなケインズが経済学において「一般理論」として発見したようなことを、まだ社会一般の一般理論として発見しえていないという欠点に由来するものと思われる。人間には自由が存在し、公務員制度や、政治や、社会機構等に関して様々な期待、例えば公平であれ、正義をもて、平等に取り扱え、平等に関心をもってくれなどなどという期待をもっているにも関わらず、その期待を実現するために、統計学的な方法でその期待を最も実現しやすい方法を社会科学的に実現し、学問化しえていないという社会科学側の欠点にもっぱら社会科学として精神医学が、人文科学としてのそれや、生物学としてのそれから、精神医学をとりあげきれていない理由が存在していると私は考えるものである。

冷戦終了までの社会科学も、マスコミも、戦争に奉仕してきたり、マルクスや、フロイトや、チャップリンをもちあげて、戦争を強化するという方向に向かっていたと私は解釈したい。二十世紀はそのような時代であったのかもしれない。二十一世紀には冷戦終了後、日常性のなかに科学を見出し、そして平和を求めるような社会科学(商売学も含む)が必要となってきていると考える。商学とは所有の観念が兄弟姉妹の人間関係のなかで形成され、そして大人になってからもその交換という形態のなかで社会が形成されることがあるという意味での「相互性」のなかにも社会的な意味を認め、ユダヤ人の商売批判をおこさないような学問のことを抽象的に述べたのである。商売による利潤の批判はユダヤ人虐殺の大きな理由を占めていたと考えられる。独占による大きな利潤の革新主義による批判が新しい自由主義として定着しているのを除いてはこの利潤批判や、利潤罪悪論は大きなうねりとなっていた。この二十世紀の流れに対して二十一世紀はビジネスや、利潤を生む商売というものから隔離された浮世離れした学問や、役人主義の時代からいかにして楽観的な利潤肯定論、つまり利潤は働いた人に帰属するのである、そしてその利潤は移転によって再分配されるべきであるという理論がいかに定着していくのかということにその発展の成否がかかっているといえると思うのである。このような大きな流れのなかでこそソ連の自由化の流れも、世界の大きなうねりもとらえることができる。

人間関係論では社会科学に地位をあけわたさなければならなくなった精神医学や、性格学

性格の傾向や、精神の動向に生物学的なものがかかわっているとするこれまでの精神医学の学説は〇.〇〇〇〇一%の可能性も存在しないと考えられ、それはマルクスの唯物論と同様に因果関係から自由は存在しないと考えたことによるものと同じく、生物として自由は存在しないと考えたことから発生した人間学に関する誤解から生じたものであると考えられる。確かに人間は周りの物と人間とを同時に自らの試行のなかにとりいれる。その場合物のみを取り入れるのではない。そして周りの他の人間も物のみではなくて、自分も取り入れて思想を形成してくれている。そして物に関する奪い合いや、取り合いが例えあったとしても、それは人間関係のうちにおいて処理され、これは私のものこれはあなたのもの、そしてこれは共有にして、必要な時にはどちらかが使いましょうという具合に決定がなされる。ところがどちらかの人間が決して他人には渡さずに、絶対に自分のものであるといいはる、つまり、物に固執する場合がでてくる。こうなるともう解決がつかなくなり、この場合は道徳によって解決するしか方法がなくなる。そして倫理学や道徳教育の必要性が生まれてくることになる。このことを解決するためにフロイトや、マルクスのようにこの世の人間はすべて生物学的に「死の本能」があると持ち出してきたり、マルクスのように「平等という静的状態」を維持するためには「自由はすべてなくして」しまって行動をすべて制限し、経済の平等のためにはすべてが経済のために存在するのだから自由をなくしてしまえという意見を持ち出してくるのは、それこそ精神病を治すのではなくて、精神病にすべての人をしてしまい、「死の本能」が存在してしまうことになるか、マルクスのようにすべての人の選択の自由がなくなった社会を作り、自由を求める人々を自由を制限するために東ドイツのシュータージュのような秘密警察により管理したり、ソ連のようにソルジェニーツィンのような人々を政治によって精神病院や収容所に入れなくてはならなくなってしまうのである。このことを克明に描写したダウェイやブロックは相当の勇気を持って描写したのであり、それが東西冷戦をなくす陰の力、マスコミの援助もあっただろうが、となったことは否めない事実である。更にこれを押し進めたのは、マクルーハンが主張したテレビ等の新しいメディアが家庭のなかに「家族ドラマ」等を持込み兄弟姉妹の人間関係や、それから生じる結婚や離婚劇等を詳細に描き出したのも一つの力となって文化、文明が変化して東西冷戦の終結を迎えたと考えられる。

このことは政治学や、人間学や、教育学や、マスコミ論や、その他のすべての社会科学等を大きく変化させようとしている。人間がものを書いたり、いったりするのは、そしてそれを「自由にいう」こと、「自由に書く」ことは人間が自由な存在であり、自由な選択が可能であること、したがって、精神医学者がいう気質等が生物学的に決まっていて自由が存在しないことは全くないということがすべての人間に関する学問の、そして人間と人間の関係である社会に関する学問の出発点とならねばならないことが明白になってきて基礎から人間科学や、社会科学が変化し、大きくUターンをしなければんらない時代がここにやってきたといわねばならないのである。そうなると人間科学や、社会科学は全く姿を変えざるをえなくなってきた。これまでもメリアムの「政治学の新しい側面」のようにそれを予言していた学者はいたが、それが現実のものとなってきたのであるといえる。

教育学や精神医学における東西冷戦後の新しい局面としては、すべての人が家庭内の兄弟姉妹的人間関係のなかで生活しているということ、つまり、学校から家庭に帰れば、家庭のなかで激励され、しったされて勉強したり遊んだりしているということ、そしてそのなかから自らの性格の傾向を作りだし学校やらにやってくるという事実を把握することから出発せざるをえなくなったといえる。学校の改築も、精神医学の変革も、社会科学の変革も、家庭の両親とそのもとになった兄弟姉妹の人間関係の考察という基礎にたちもどって考えざるをえなくなってきたのである。ある人が医者を目指すのは家庭のなかでそのように要求され、経済的その他でそのようになっているからであって、学校がそのようにしむけたのではない場合がありうる。しかし学校は医者についての客観的な基準を与えなくてはならない。しからば精神医学は社会科学全般の知識を生物学以外に持ち込んで教えなくてはならなくなるのだろうか。それでは医学の専門化に反することになる。そうなれば精神医学は社会科学にその分類的地位をわたさなくてはならなくなると考えられることになる。

病因人は病気である

社会的精神医学においては、ある人が病気にさせられている人を見つけだし、その人の権力的傾向をなくさせ、その人が依存心があり依存心があるために患者に殺されるといっているのであるならばその人を独立的にさせ、その人が患者の過去の失敗ばかりいって患者をメランコリーにさせていればその人を将来をみる楽観的な人にさせ、・・・ることが治療であり、本人ではない。いじめられている人を治すのではなくて、いじめている人を治すのである。いじめられている息子を治すのではなくて、いじめている人を治すのである。自殺させられそうになっている人を治すのではなくて、自殺させようとしている人を見つけだしその人を治すのである。病因人を見つけだしてその人を治すしか方法はない。病気になっている人は弱い存在の人である。資金のない人とか、権力のない人とか、貧乏な人とか、弱者とか、職のない人とか、能力のない人とかである。それに対して病気にさせている人は患者がこの世からいなければよい、いなければ自分の利益になると思っている人である。この他人の存在を否定し、そうすれば自らの利益になるという考え方を抹殺の論理というとすれば、そのような心理は人口が多過ぎるとか、兄弟姉妹が多過ぎるとか、いつも人間関係において競争的で精神が緊張しすぎている多人数兄弟のなかで育った人とか、兄弟姉妹関係のなかで異母兄姉や異父兄姉をもっているとか、様々な性格上の欠点を持っている人の場合が多い。このような人を探し出して、その患者のためにその病因人のそのような考え方を治させる必要がある。そのためにこそ楽観的な性格への変換のための精神医学が必要となるのである。

病因人の性格を治すのではなくて、患者本人を治すことはできるであろうか。それは不可能に近い。病因人はもし秘密でそのようないじめたり、しっとのことばをはいたり、・・・あらゆることをやっていたとしたらどうしたら病因人を見つけだすことができるであろうか。その場合医者としても探し出すことができない。本人を治すことが不可能であるならば病因人の心が治らない限りどうしようもないことになるのにその病因人が秘密でそのような病因となるようなことを行っているとしたらどうすればよいのか。裁判官やらだったら、秘密のことは証拠がないとあきらめるしか方法がないが、社会医者の場合には病因人が秘密でやっていても、その秘密の行動をやめさせるように説得するのがその役目となる。一般には病因人は自分の利益を侵害されそうになると何度もそのようなことを行っているから、すぐに検討がつく。

ある人の周りで自殺が頻繁に起こっているという場合、例えば大統領の回りでとか知事の回りでとか、元首相の回りでとかという場合には、容易に想像がつくが、病囚人が秘密で行っていたりすると容易に想像がつかない場合がある。その場合は兄姉姉妹の人間関係からみて病因人になりそうな人を推定することは可能である。病因人は一般には依存心が強く、競争心が強く、いつも緊張しており、金のためには、また、権力(権威)のためには頭を下げることをいとわず、学校的な意味とは反対に頭がよく抜け目がなく、気がきくひとであり、いつも評判を気にし、他人を悪くしても他の人々のいい評判を強制し、誰かに依存できなければその人の存在はないものと考えているような人である。病因人は問題児として患者となるような弱者ではなくて、弱者を問題児にしているような人である。問題児のように表面にはあらわれず、秘密で病因になるようなことを行っている人である。

病因人が身内にいる場合には発見しやすいが、病因人が他の社会の人である場合には非常に発見が困難である。それも秘密で行っている場合には更にそのようなことがいえる。         

病因人のバーリンのいう積極的自由が他人を精神病に陥れる原因であり、ストライキもそれに当たる。依存できないといってあばれることは、依存させてくれない独立で、消極的自由のほうに問題があるのではなくて、依存的な性格のほうに問題があるのである。

家庭から離れた人間の社会においては年上の人もいるし、年下の人もいる。その意味では年上に姉兄がいて、年下の兄弟に妹弟がいる中間子はそれによって過去の伝統も、将来のことも考えられるようになる点において社会的な性格がみにつくということがいえるのかもしれない。

アウシュビッツの人々はなぜに自殺したくなった人もいたのか。それを分析するときにユダヤ人を排斥しユダヤ人を黒く塗るという心理的行為を実行した人がいたからであり、そのような人を依存的な人であるということができる。

兄弟姉妹の人間関係はなぜ性格の傾向に大きな(約七割というような)影響を与えるのか

兄弟姉妹の政治学と、公民としての政治学

「家族は社会の心理的代行者と考えることができる。」(フロム、『自由からの逃走』、訳書三一六頁。)家族はイデオロギーを形成する場である。イデオロギーが社会において形成され後に家族に持ち込まれた場合には、家族に適合しないイデオロギーとなる場合が発生するということになり、イデオギーが確固たる信念の体系であるという定義自体に反することになる。

政治学と精神病理学の変革

───兄弟姉妹の政治学と、イデオロギーの形成───────

四才の子供が両親のけんかをとめるのはフロイト理論によっては全く証明がつかない。

兄弟姉妹にとって、自分たちの生活をよくするために親に代わって収入を得る交渉を社会とする権限がないので、自分たちの間で分配し消費することのみがまっぱらの関心事となる。子供たちは社会的なこと、すなわち親が金持ちであるとか、貧乏であるとかについては何ら関心はないし、そのような意味での平等性についてはほとんど関心がない。関心があるのは兄弟姉妹のなかで平等に分配がなされたかどうかのみである。ただし、相当に年をとり社会的に何らかの活動が可能になってからは社会内における平等性に目を向けるようになるが、それは兄弟姉妹のなかでの分配が食べることが出来ないくらいに低い場合に触発されてである。学校で他の子供との小遣いの多寡などについて比較を行ってからである。

ここで女性についての問題についていっておかなくてはならない。日本やらのような父権中心の社会においては、甘えは父親との依存関係によって発生するのであり、母親との関係から発生することは少ない。これは土居の「甘えの構造」の理論にたいする一つの異論であり、アタッチメントやらの理論はほとんど現実的な理論ではないと考えられる。そのような理論が本当なら母親のいない施設の生徒はすべて狂っているという偏見になってしまう。

兄弟姉妹関係のなかで女性への分配を少なくすることは、女性の栄養を悪くするのみではなくて、女性の平等に関する意識に大きな影響を与える。それを是正する方法は女性の子供には全く見出しえないからである。フロイトの理論は女性蔑視の極にあったことは、誰でも納得することである。性に関するここまでの蔑視はここに極まれりという感じが私にはする。

兄弟姉妹の間においては自分達の間で多くを取った(分配を得た)者が社会におけるような金持ちであり、そうでない者が貧乏なのである。これは社会とのアナロジーにおいて「社会的な言葉」として子供の言葉のなかでみにつくことになるのである。

「東大闘争」においては、定義もしないで、東大という概念と戦っていたのは、資本家という概念と戦うのと同じだった。

フロイトの心のなかでのみおこったこと、義賊の心理

タブーからの自由はフロイト主義ではない。フロイト自身がタブーそのもので自由を抑圧した。タブーからの自由への道である。

歴史や思想家にみる兄姉姉妹関係論に対して、現在の様々な事件を兄姉姉妹関係論でみるとどうなうであろうか。

つくば医師殺人事件や宮崎勤や、ダイアナ妃や       (四女)やらについても、桜田淳子についても分析することができる。

ある人が十分に様々なことに注意しながら生活することに注意しながら生活することにより、安全に生活していることにたいして、Aのような人間が安全に生活していることを破綻したくて、精神的に壊すことにより、私有財産や、干渉されない消極的自由をおかそうとすることは、簡単にできることではあるが、やるべきではない。

これまでの精神病とこれからの真実の精神病

私はある人が他の人に「精神病」といっている人間関係を認めはしないが、私は依存的な人をあらゆる種類の精神病という。これまである人が他の人に「精神病」といってきたある人とはすべて依存的な、あらゆる精神病をもった人であった。そのような精神病ということばは間主観的なものであるから全くもって認められない。しかしこれまでそのようにして精神病といってきた依存的な性格の傾向をもった人を、精神分裂病をはじめあらゆる精神病と彼らがいってきたことばをそのまま彼らにいうのは、差別でも何でもなく、彼らも自分で内心をみてみるとそう思うであろうから、真実であるのでそういうことを認めるのである。彼らは自由意思により依存的であることから、自由で独立した人間に向かえばよいのである。

東大が悪いという観念の形成の仕方について、その感情については、それが精神病であると断定できても、逆に東大が精神病だとは誰も否定も肯定もできない。ただそういっているAがそこにいて、それが積極的に他人をジャマしている、その自由があるといっていることのみは認められるし、それがストライキと同じく、国家をも滅ぼすことは認められるが。

依存者の排泄行為

子供の教育にあたって排泄行為を大人が世話をする人間が嫌えばきたないものと教えなくてはならないが、世話するのが好きな人は「食べたものは、同じ量排泄しなけば、その分膨れてしまうよ。」と教えるのみであって汚いという感情は必要ではなくなる。

これが依存的な人にとっては依存するほうであり世話を嫌うので排泄を汚いと考えることになり、逆に依存するために排泄を利用するという考えに到達して、それでイヤがらせをするということになる。

(政治と教育)

ペスタロッチ『政治と教育:隠者の夕暮他』(梅根悟訳)(東京:明治図書出版、一九八四)

エーリッヒ・フロム『権威と家族』(安田一郎訳)(東京:青土社、一九七七)

エーリッヒ・フロム『自由から逃走』(東京:東京創元社、一九八四)

デューイ、J・『民主主義と教育』上、下、松野安男訳(岩波書店、一九七五)

F・I・グリーンスタイン『子どもと政治その政治的社会化』松原次郎、高橋均訳(東京:福村出版、一九七二)

J・J・ルソー『エミール』永杉喜輔ほか訳(玉川大学出版部、一九八二)

R・E・ドーソン、K・プルウィット『政治教育の科学──政治的社会化──』菊池章夫訳(東京:読売新聞社、一九七一)

日本政治学会編『現代日本における政治態度の形成と構造』(東京:岩波書店、一九七一)

R・ドーソンほか『政治的社会化──市民形成と政治教育』加藤秀治郎ほか訳(東京:芦書房、一九八九)原書:PliticalSocialization ,2nd ed.

村田昇『国家と教育──シュプランガー 政治教育思想の研究──』(京都:ミネルヴァ書房、一九六九)

藤沢法暁『現代ドイツ政治教育史』(東京:新評論、一九七八)

山下国幸編著『戦争と教育』(東京:鳩の森書房、一九七二)

(人間関係論と精神医学・発達心理学)

依田明『きょうだいの研究』(大日本図書、一九九〇)

依田明『きょうだいと性格』、鈴木乙史他編『パッケージ・性格の心理 第一巻 性格の発達と形成』、一三三〜一四五、(ブレーン出版、一九八五)

サリヴァン、H・S・『精神医学は対人関係論である』中井久夫ほか訳(みすず書房、一九九〇)(原著:TheInterpersonal Theory of Psychiatry)

サリヴァン、H・S・、中井久夫・山口隆訳『現代精神医学の概念』(みすず書房、一九七六)(原著:Conceptionsof Modern Psychiatry)

チェス、S・,トマス、A・『子供の気質と心理的発達』(星和書店、一九八一)

三宅和夫『子供の個性』(東京大学出版会、一九九〇)

ポール・H・ウェンダー、ドナルド・F・ポーレット・カーン『子どもの兄弟関係』(岸田秀訳)(明治図書出版、一九六九)(原著:Cahn,Paulette,Larelation Fraternelle chez lnfant)

依田明『ひとりっ子・すえっ子』(東京、大日本図書、一九八六)

依田明『三歳児』(朱鷺書房、一九八二)

依田明・本間千尋『六歳児』(朱鷺書房、一九八一)

依田明『母子関係の心理学』(大日本図書、一九八二)

永野重史、依田明共編『乳幼児心理学入門』(東京:新曜社、一九八六)

依田明編『発達心理学』(大日本図書、一九八四)

F・A・ペダーセン『父子関係の心理学』(依田明監訳)(東京:新曜社、一九八六)(原著:TheFather Infont Relationship. )

クライン『現代精神医学への招待──生物学的アプローチの射程──』(松浪克文、福本修訳)(紀伊國屋書店、一九九〇)(原著、一九八一)

依田明編『性格形成』(東京:金子書房、一九八六)

T・S・サズ『精神医学の神話』(河合洋ほか訳)(東京:岩崎学術出版社、一九七五)

モード・マノーニ『反精神医学と精神分析』(松本雅彦訳)(京都;人文書院、一九七四)

ハリー・スタック・サリヴァン『分裂病は人間的過程である』中井久夫ほか訳(東京:みすず書房、一九九五)(原著Schizophreniaas a human process)

ハリー・スタック・サリヴァン『精神医学的面接』中井久夫ほか訳(東京:みすず書房、一九八六)(原著:ThePsychiatric Interview.)

ハリー・スタック・サリヴァン『精神医学の臨床研究』中井久夫ほか訳(東京:みすず書房、一九八三)(原著:ClinicalStudies in Psychiatry. )

依田明『ひとりっ子の育て方、きょうだいのある子の育て方』(東京:三笠書房、一九九一)

依田明、千石保編『子どもにこれだけは教えたい「マナーとルール」の本』(東京:あすなろ書房、一九八五)

依田明『人はなぜ「嫉妬」するのか──「心の不思議」に通じて面白く生きるコツ』(東京:大和出版、一九九〇)

依田明『檻の中の子どもたち──日本的母子関係がもたらしたもの』(東京:大日本図書、一九八六)

依田明編、小林登ほか著『子育て、何がいちばん大切か』(東京:新曜社、一九八七)

エルシー・オズボーン『タビストック子どもの発達と心理 五歳』依田明、山上千鶴子訳(東京:あすなろ書房、一九八三)(原著:YourFive year old. )

詫間武俊、依田明、繁多進『二歳〜六歳の心理』(東京:あすなろ書房、一九七五)

依田明『〇歳児──一歳までの親子関係が子どもの将来を決める──』(大阪:朱鷺書房、一九七八)

依田明『ひとりっ子──自立心をどう育てるか──』(東京:光文社、一九七三)

依田明『ひとりっ子の本──父さん母さんをウラむな──』(東京:情報センター出版局、一九八一)

依田明、福島章編『ふたりっ子家族の親離れ、子離れ』(東京:有斐閣、一九八一)

依田明『四十歳から──人生のおもしろさを考えると』(東京:フォー・ユー、一九八九)(発売:日本実業出版社)依田明編『きょうだい関係とビジネス力──こんなに違う企画力、交渉力、情報力、実行力──』(東京:同文書院、一九九二)

依田明編『きょうだい順でわかる人柄の本──性格学の常識──』(東京:同文書院、一九九三)

(兄弟姉妹関係に関する斉藤茂太氏の本)

斉藤茂太『兄弟関係──無意識にあなたを支配するコンプレックス』(東京:青春出版社、一九七五)

斉藤茂太『ひとりっ子の時代──世の中変わる家庭も変わる!』(東京:グリーンアロー出版社、一九八五)

(兄弟姉妹関係の人間関係に関する本)

畑田国男『「妹の力」社会学』(東京:コスモの本、一九九一)

畑田国男『「弟の力」伝説』(東京:コスモの本、一九九二)

カール・ケーニッヒ『兄弟と姉妹──生まれてくる順番の神秘』そのだとしこ訳(福岡:葦書房、一九九一)

畑田国男『兄弟の社会学』(東京:講談社、一九九三)(参考文献あり、三〇三〜三〇四頁)

下山啓、NHKひるのプレゼント班著『兄弟姉妹人間学──人間の性格は出生順位で決まる──』(東京:徳間書店、一九八六)

品川不二郎『きょうだいの心理と導き方』(東京:あすなろ書房、一九七六)

(三才児について)

聖教新聞社編『三歳までが勝負』(東京:聖教新聞社、一九七一)

幼年教育の会編『〇歳から三歳までのしつけ』(東京:誠文堂新光社、一九七一)

松井公男『ピアジェ理論の実践(一)三歳児の知能を伸ばす総合あそび』(東京、明治図書出版、一九八一)

詫間武俊、藤永保、依田明編『幼児教育──三歳児から小学生まで一一一の教育カルテ──』(東京:有斐閣、一九七〇)

(政治と精神医学)

ブロック、S・,レダウェイ、P・『政治と精神医学』(秋元波留夫ほか訳)(みすず書房、一九八三)(原著:SidneyBlock and Peter Reddaway, Russia‘s Political Hospitals──The Abuse ofPsychiatry in the Soviet Union ──(Victor Gollancy,Ltd,London, 一九七七)

アメリカ版は、(Psychiatric Terror,Basic Books, 一九七七)

ドイツ語訳は、(Dissident order Geisteskranke ? Missbranch der Psychiatriein der Sowietunion,R.Piper Co.Verlag,Mnchen,Zrich, 一九七八)

(幼児教育)

コンスタン・カミィ、リタ・デブリーズ『ピアジェ理論と幼児教育』稲垣佳世子訳(東京:チャイルド本社、一九八〇)

モンテッソーリ『モンテッソーリ・メソッド』阿部真美子、白川容子訳(東京:明治図書出版、一九七四)

マリア・モンテッソーリ『幼児と家庭』鷹角達衛訳(東京:エンデルレ書店、一九七一)

ジャン・ピアジェ、P・リクールほか『心理学とマルクス主義』宇波彰訳(東京:福村出版、一九七四)

ジャン・ピアジェ、ベルベル・イネルデ共著『新しい児童心理学』波多野完治、須賀哲夫、周郷博訳(東京:白水社、一九六九)

ジャン・ピアジェ『人間科学序説──科学体系のなかで人間科学はどういう位置をしめるか』波多野完治訳(東京:岩波書店、一九七六)

ジャン・ピアジェ『発生的認識論序説』第一巻〜第三巻、田辺振太郎、島雄元訳(東京:三省堂、一九七五)

ジャン・ピアジェ『判断と推理の発達心理学』滝沢武久、岸田秀訳(東京:国土社、一九六九)

ジャン・ピアジェ『諸科学と心理学』芳賀純訳(東京:評論社、一九七〇)

ジャン・ピアジェ『子どもの因果関係の認識』岸田秀訳(東京:明治図書出版、一九七一)

ジャン・ピアジェ『思考の誕生 論理操作の発達』滝沢武久訳(東京:朝日出版社、一九八〇)

ジャン・ピアジェ『構造主義』滝沢武久、佐々木明訳(東京:白水社、一九七〇)

ジャン・ピアジェ、B・インヘルダー『心像の発達心理学』久米博、岸田秀訳(東京:国土社、一九七五)

ジャン・ピアジェ、B・インヘルダー『よりよき幼児教育のために』(『ピアジェとブルーナー 発達と学習の心理学』三嶋唯義訳、東京:誠文堂新光社、一九七六)

(秘密警察による自由の妨害)

桑原草子『シュタージ「旧東独秘密警察」の犯罪』(中央公論社、一九九三)

(社会科教育関連)

本多公栄『社会科歴史教科書の批判』(明治図書、一九六六)

本多公栄『近・現代史をどう教えるか』(明治図書、一九六七、一九七六)

本多公栄『歴史教育の理論と実践』(新日本出版社、一九七一)

本多公栄『ぼくらの太平洋戦争』(鳩の森書房、一九七三)

本多公栄『生徒と共につくる社会科の授業』(明治図書、一九七四)

本多公栄『教えることと育てること──中学校社会科の実践』(地歴社、一九七八)

本多公栄『社会科の学力像──教える学力と育てる学力』(明治図書、一九八〇)

本多公栄『教科書を国民の手に』(新日本図書、一九八二)

本多公栄『ゆれる教科書問題への提言』(あゆみ出版、一九八二)

本多公栄『社会科教育の理論と実践』(岩崎書店、一九八四)

遠山茂樹『歴史学から歴史教育へ』(岩崎書店、一九八〇)

臼井嘉一『戦後歴史教育と社会科』(岩崎書店、一九八二)

臼井嘉一他『社会科教育の理論と実際』(国土社、一九八一)

臼井嘉一他『日本の社会科三〇年』(民衆社、一九七七)

川合章『社会科教育の理論』(青木書店、一九七九)

川合章『民主的人格の形成』(青木書店、一九七二)

川合章『子どもの発達と教育』(青木書店、一九七五)

川合章『人格の発達と道徳教育』(青木書店、一九七九)

(文部省『学習指導要領 社会科』)

日本民間教育研究団体連絡会編『社会科 教育課程叢書』(民衆社、一九七八)

芥子芳雄編『同和教育と社会科の課題』(明治図書出版、一九七八)

谷川彰英『柳田国男と社会科教育』(三省堂、一九八八)

川合章『学習指導要法』(金子書房、一九五五)

川合章『教授=学習過程』(明治図書、一九六一)

川合章編『講座・現代民主主義教育』(青木書店、一九六九)

西村文男、千木良和男編『学級を生かす社会科の授業』(教育出版、一九八四)

日本社会科教育学会編『社会科教育学の構想』(東京:明治図書出版、一九七〇)

高橋靖『社会科教育 人間形成を目指す』(玉川大学出版部、一九七二)

森下恭光、福島茂明『社会科教育』(明星大学出版部、一九八二)

永井滋郎ほか編著『社会科教育学』(京都ミネルヴァ書房、一九七九)

内海巖博士頌寿記念論叢集委員会編『社会科教育学の課題』(東京:明治図書出版、一九七一)

尾崎扁四郎編著『社会科教育学──実践と理論の相互補完──』(東京:東洋館出版社、一九八三)

石原征明、樋口誠太郎、横田信義『社会科教育法概論』(東京:南窓社、一九七七)

山田勉『社会科教育法──問題解決学習へのすすめ』(東京:秀英出版、一九七六)

山田勉、峰勉『政治の学習──政治を身近なものとして──』(東京:国土社、一九七四)

阪上順夫編著『社会科における政治教育──その理論と授業展開──』(東京:明治図書出版、一九七三)

歓喜隆司『アメリカ社会科教育の成立、展開過程の研究──現代アメリカ公民教育の教科論的分析』(東京:風間書房、一九八八)

日本社会科教育学会編『社会科における公民資質の形成──公民教育の理論と実践、幼・小・中・高の一貫化を目指して』(東京:東洋館出版社、一九八四)

(公民教育)

関口泰『公民教育の話』(東京:文寿堂出版部、一九四六)

森秀夫『公民科教育法』(東京:学芸図書、一九九二)

歓喜隆司、木下百合子『公民科教育法──教科教育法「公民」(京都:仏教大学通信教育学部、一九九二)

斉藤弘『公民科教育への歩みと課題──人間としての在り方生きかた──』(東京:富士教育出版社、一九九一)

公民教育研究会編『公民教育の解説と例話』(東京:厚生閣書店、一九三二)

著者

山口 節生

一九四九年生まれる。一橋大学、東京大学、中央大学卒業、商学、経営学、経済学、法学を学ぶ。

三菱信託銀行勤務を経て、一九七七年〜八一年伊万里商業高校商業科教諭、八一年〜八四年有田工業高校      英語科教諭、八四年〜八六年鳥栖高校英語科教諭。一九九〇年不動産鑑定士、九一年〜九三年早稲田大学大      学院政治学修士、九四年〜九七年日本大学大学院法学研究科博士後期課程満期指導認定満期退学。

政治と自由──自由と平等の調和を目指して──

一九九七年四月一日 初版第一刷発行

山口 節生

発行所 有限会社 日本経済研究所

〒一六二 東京都新宿区新宿一の十五の七

電話 〇三(五二六九)九七五一  FAX 〇三(五二六九)九七七〇

製版・印刷              製本所

○ 一九九七  日本経済研究所 

Printed in Japan , I S B N 4−55  −           −

物と商品

何故に資本主義は勝ったか。

それは物が並べてあることの意味を知っていたからだ。

階級制度のある国等では大金持ちが過度の干渉されない自由を主張することは、政府の平等化への政策、      大金持ちの自由を平等のために少し減らして、貧乏人の自由を「真の自由」のために少し増やしてより平等      に近づけることを政策を否定することになりかねない。この「真の自由」は貧乏人にとっては達成されるが      、大金持ちにとっては不自由になることだということを理解しなければならない。しかし、階級制度のある      ような国、イギリス、インドのような国ではそのような国ではそのような自由の主張は大切なことかもしれ ない。

ところが資本主義的自由は、人間の自然的平等のゆえに自然に平等を達成する。

平等な自由という目標は、自由の本質である選択の自由から来る計測不可能性のために、意味のないもの      であるが、自由な平等は目標としては設定しうる。

自由をすべての人のために認めているにもかかわらず、常に平等を達成するように努力している社会が理      想である。これを自由な平等の社会であるとすれば、そのような社会を目標として設定することは可能であ      る。自由の構成要件である資源を平等にしようという思想であり、平等は自由の構成要件であるからこそ平      等にしたからといって自由はそのまま維持されることになる。平等な資源は税や、自発的な(ボランティア      による)資源の移転や、道徳感情の自由な教育による涵養による資源の移転によって達成されるべきである 。ここには強い教育(道徳教育)の要請がある。T・H・グリーンの考えは福祉国家にのみつながったが、      自由の構成要素としての資源の平等性の追及はオープンな自由社会を目標とするものである。ロールズの最      低限の生活をする人々の生活を向上させるためにも競争や自由や資源の不平等は認められるべきだという考      え方ともことなっている。ロールズが最低限の生活をする人々の地位を向上させるという期待が合理的に認     められるときにのみ、社会的、経済的不平等が認められるという考え方は静的な状態をとらえていう表現の      仕方である。平等というものを考えることは不平等というものをとらえることと方法論としては同じであり      平等も、不平等も自由の構成要素として自由のなかでとらえられるべきものである。

国家と政治は死滅するか

国家死滅とブルジョアの批判との自由連想

マルクスや、エンゲルスが国家は死滅するということばは、アナーキズムの根源的な命題であるが、それ      はすべての人を公務員にしてすべてを国家財産にしてしまえばすべての人は仲良くなるから、国家は必要で      はないとしたのであり、そのことは義賊から生じる心理が挫折した結果すべてを共有財産にしてしまえばよ      い、つまり、バーリンのいう積極的自由を他人のすべての私有財産に対する干渉として及ぼして、妬みや嫉      妬から成り立つ社会を形成してしまえばよいということであったのだ。それはすべての人が義賊となる社会 であり、そうなればすべての人が義賊となる社会であり、そうなればすべての人はブルジョアとして批判さ

 

 

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第四節 自然医学と社会医学。・全体的に統合されたパーソナリティーの形成か、依存による自由からの逃走か・

 

 

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176、自然医学と社会医学

 

 人間は、自動車のようなものだ。古い部品はとりかえなくては動かない。しかし一生懸命走ろうとする。人間の部品が古くなったことを死の本能があるということはウソであろう。逆に生の本能によって古い部品をとりかえようと人間はして、解剖学や自然医学は生んだが、自然的生物的精神医学は生んだが、社会的精神医学は生まなかったし、自然医学は生んだが、自由な人間の集った社会の社会医学は生まなかった。

 『甘えの構造』の理論化は、社会科学においては「依存の構造」の理論化による社会医学、社会的、政治的精神医学につながっていくものと確信している。

 『甘えの構造』の分析が社会精神医学にも大きな分析の視点を与えうるであろう。もともと『甘えの構造』は父権社会日本における社会精神医学の分析であったと考えられうる

 

 

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。日本においては第一子の兄の力は、父権社会であるがゆえに長大である。それは権威であるといいうる。権威が巨大であるときにはそこに巨大な依存が発生するかもしれない。フィルマーの神権(父権)に対する反論を書いたロックが父権の権威を分析しようとしたことは明きらかである。そこに依存の分析があったかどうかは明白ではないが、依存の分析こそすべての自由と社会病理を明白にする社会医学となりうるものと信じている。

 

 

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177、依存的行動傾向と、非行

 ある非行研究の教育学者によると、非行をする生徒は、すべてを他人にやってもらおうとする性格をもつという。他の人ができるのであって、その人ができるのではない。他の人がやってくれるのを待つ傾向である。

 

 

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178、完全な自由と依存

 

 完全な自由は完全な依存のなかで生まれる。ということは、ある権威に完全に依存することとは、ある権威によって危険なこと(自由とか)をすべて禁止してもらって、ある囲いのなかで、あたかも幼稚園のように、自由に、それも安全で危険のない、父権的温情主義の温かさのなかで、完全に自由に行動することを許してもらって、そのなかでのみ完全に自由に行動するようなものである。つまり依存とは温かい温情のなかで、危険を、自分の知らないところで、すべて取り去ってしまうということなのだ。依存とは自分の知らないところでおこっている、自由の危険性をとり除く作業を、無知のため、全く知らず、その状態のほうが都合がいいと、ダダをこねて主張するのとよく似ている。

 完全な依存はすべての危険ななくすから、完全な自由が生まれるのだ。

 

 

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179、依存と独裁・ワンマン

 

 依存的性格は独裁を生む。吉田茂やらの独裁は一般には独裁といわれていない。これはワンマンとよばれている。

 

 

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180、なぜ、二つの自我が依存から生まれてくるのか

 

 依存している場合、自分が服従しているものよりも高い自我によって、強制する必要が生じてくる。依存していても、相互に自らよりも高い理性(因果則)によって動かされあっていると考えることによってしか、相互依存を維持することはできなくなる。そうでなければ人々は独立してしまうのだ。依存から脱却して人々は自由をかくとくしてしまう。マルクスならばマルクスは聖家族が同じ経済によってすべての人が動かさなけれねばならないと考え、フロイトは聖家族が性本能という永遠の理性のみによって動かされていなくてはならなかった。ハーレムとよく似たものでなくてはならなかったのだろうか。

 

 

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181、依存は自由の環境や状況か、自由の障害か。自分についていうから障害である。

 依存の本質・従属性や、隷属性から考えれば、依存からの自由は自らのなかの、「自我がないこと=依存性」という障害から自ら自由になることであり、それは独立するということであり、独立は、依存という障害を他者によってではなく、自分の力によって脱するという点に特質(本質)があるのであって、その他の障害をとり去って自由になる場合のように、他者がその障害をとり除くことができない点に特質があり、他者はそれをすすめることしかできない。

 

 

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182、権威依存主義

 

 権威主義的というよりも、権威依存的とよんだ方が実体をより詳細にあらわしていると考えられる。権威のみからは他民族べっ視は生まれないが、依存からは生まれる。しかし依存は権威なしにはありえないからである。税に依存している人の場合、その税が他民族のために使用されないというので他民族べっ視の理論が形成されることはありうるだろうし、権威に依存することが他民族べっ視になるその他の理由付けは数多くありうる。

 

 

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183、二つの権威主義

 

 依存されることを好む方の権威主義は、逆依存的とか、逆権威主義と定義する。

 逆に依存することを好む方の権威主義は、一般に権威主義とよばれている。

 この二つの権威主義はどちらも自由を失わせている。

 

 

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184、ねたみの感情と政治

 

 「悲しみが競争者を押しのける努力をしたり、邪魔する努力をしたりすることと結びつくと、「ねたみ」とよべるとホッブズはいう。

 このねたみの感情はバーリンの積極的自由の大きな源泉となっていると考えられる。

 ある人の方が自分よりも優遇されていることは現実にあるし、その事実にたいして平等であるべきだと主張し、それによってすねることと、一方では努力することとは全く別のことである。最も良い平等への主張はロールズのいう「平等な自由」を主張することかもしれない。この「最も良い」という形容詞をロールズは「公平」(fairness)ということばで表現しようとしたものであり、その結果が正義であると主張したものであると考えられる。そのなかに自由を含んでいることを重視

 

 

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する必要があると私は考える。

 自分より力の強い者と、自分より力の弱い者がいると考えた場合には「平等」ではないのであろうか。強い者は頭脳に欠け、弱い者は頭脳に優るからトータルでは同じく平等であるという考えにいたることは、平等の質と量に関する誤りがある。また平等に自由が備っていると考えるのもまた、質と他の量のみかたによっては誤りであろう。従って人間はねたみを必ずもっているのである。そこから人間は、政治は出発すべきなのかもしれない。

 

 

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185、暴力革命の心理

 

 他人の財産が欲しい、それも暴力でとってやろうと思うことは、依存的な性格の人が、貧乏や被害を社会の制度のせいにしている場合にはよくあることである。暴力は警察権や軍隊のなかにある。従って警察や軍隊をとろうと思うのである。

 

 

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186、攻撃本能とはまちがいで、攻撃社会性である

 攻撃性は本能ではなくて社会的な自由性である。だからこそ攻撃性は社会的に制約することができるのである。それは行動社会学のテーマとなるべきものであり、政治学のテーマとなるべきものでもある。依存とサルキングのような暴力性こそ、攻撃性の源泉ではなかったのだろうか。それは社会的なもおんである。社旗利学がこれから分析しなくてはならないのである。

 

 

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187、「甘え」の心理、依存の心理、義賊の心理、他人志向型

 依存あるいは隷属という概念の分析にとって重要なのは、「甘え」という概念との関係である。「甘え」が母親との関係でとらえられるという概念は、母親との関係でとらえられるという概念は、母親の権威がほとんどない父権社会日本では無意味なことかもしれないが、「甘え」が含んでいるひびきにはディペンド以外の何かがあるという点には社会科学としては注目せざるをえないだろう。「甘え」にはスポクルされたという意味がこめられている。それは社会的に認められた以上の依存があるということであろう。独立する力がある人が、一生生活保護でくらすことは、依存ではなく「甘え」となるだろう。依存と「甘え」という二つの概念の差は微妙である。日本人の社会、世間では相互に「甘え」があるといえるであろうか。アメリカ人の社会では相互に依存があるといえるだろうか。これらは相互に「甘え」と依存とを互換できるであろうか。アメリカ人の社会

 

 

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も「甘え」があり、日本人の世間・社会が依存的であるといえるであろうか。

 これを解く鍵は他人志向型や、義賊の心理という概念ではないかと考えられる。バーリンのいう積極的自由も、平等な配慮と尊重も他人にたいして向けられる。この心理は法の名をかぶれば聖域であるとはいえない。また税という名をかぶれば義賊の心理を聖域であるとはいえない。他人にたいして向けられるあまりに積極的な自由は、義賊の心理を生む可能性がある。フロムのいう自己の内部を志向する積極的自由や、バーリンのいう消極的自由や、自由からの逃走をしないような自我の形成は、バーリンのいう自我の分裂を避ささせ、ベイのいう心理学的自由を得させ、自由な社会を形成する基礎となりうるのである。そこには「甘え」が存在しない。しかし依存が存在する。

 

 

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188、絶対理性と「常識」

 

 絶対理性や、依存的性格からくる思いやりということばが、そのようなことを信奉する人々から「常識」ということばで「強制」された時には、社会全体が「強制」収容所の様相をおびる。これが東独やソ連の密告社会を形成することになったと考えられ、自発性やイニシアティブのある人は密告され、「常識」のないこととなった。この「常識は実に非常識で、絶対的であった。あまのじゃくの絶対化であった。そのために「常識がない」ということは、「精神病」とそのような意味で普通の人にいって、その存在を認めないことと同じである。それは「存在を認めたくない」「絶対理性に従わない者の存在は認められないということと同じことである。

 

 

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189、依存と腐敗

 

 依存においては人格は腐敗するか。この難しい問題は各人各人の性格によるので解くことは不可能である。依存しない人が独立的で自由を味わっている人であるのにたいして、依存している人は自らの自我をかん養し、養って成長させることはできない。人格の成長により依存的な状態(制度)の社会を形成したのに、人格の成長が依存によってとまってしまうのであろうか。依存における人格の成長(平等性)と、独立や自由における人格の成長(自由性)とは全く逆なことであろうか。

 依存して生活していることと、狩猟を好むというリセーフォンがいいだし、マキャベリーが論評した生活上の好みとはどのように関係しているか、反発しあう好みであるのだろうか。毎日生活のために狩猟や、魚つりをすることは生活の緊張感がある。ところが依存によ

 

 

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って生活することはそのような緊張観を生まない。従ってこの二つは反発するものであるといえる。

 依存関係から生まれた権力は腐敗する。権力は腐敗するという諺はこのことを意味していたのかもしれない。

 

 

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190、依存の特殊な形態

 

 性本能や、経済にこだわるマルクスや、フロイトの態度はある意味ではマフィアや、暴力団と似ている。なぜならマフィアや、暴力団は性においての不自由や、経済においての不自由を基礎にして人々を恐怖に陥れ、組織を形成しているのだから。それは自由を相対的に欠いている。これはある意味では依存によって作られたものであると精神分析できる。不安、貧乏からの不安、政治からの不安などなどがそのような方向に向かわしめたのではなかろうか。

 

 

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191、生物的適応編と自由論

 

 人間が自由に選択しようとするのは、その環境に応じた最もよい適応をしようとしているからだといえば、人間は環境という原因によって自由な選択が影響されているのであるから自由ではないのだという答が、環境を物のみだと考える唯物論や、環境決定論者からかえってくるかもしれない。しかしもし自由な選択により決定が存在しなければ、適応できないではないかと反論したとしても、環境が自由な適応を決めていることにはかわりはないと反論されればまた決定論者に自由意思論者は適応というひとつのことばによって負けてしまう。これを適応論とよぶとすれば、進化論と同じような主旨でこの理論は自由論と同じくらいに巨大なものとなりうるが、しかしそれは生物論的であり社会論的ではない。

 

 

P467

 

 しかしこの適応論は人間の赤ん坊は自由な部分があるが、他の動物の赤ん坊は自由な部分が少ないという進化の一方向性を見誤って、人間と他の動物をいっしょくたにしているという誤りをもっている。人間の自由論が動物の自由論よりも、適応においてより異なった論を必要としている、そして相互にちがっているという点に力点があるのであって、それらを同じ適応という一点にしぼることはまちがっている。人間は地球上の多くの異なった環境に生物的にも、社会的にも自由に、つまり、この場合は様々にちがった形で適応して、その適応の仕方のよさ、悪さを多くの人々が競っている。それもことばやらによって競っている(この場合は自由に競争しているという意味である)ということが大切なのであって、社会的にそれを禁止して、人間以外の生物的に生活しているよりも、よりましな生活をしているという点が大切なのである。このような論考は政治学的ではあるが、実足法学的には存在

 

 

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しえない思考様式であり、政治学はこのように根本にたちかえって考察するところに特色をもっている。

 

 

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192、進化論と自由意思論

 

 進化論と自由意思論との関係は、自由意思の部分が人間においては増大することによって様々なことへの適応が人間にとっては可能となって地球規模の発展が可能になったということではないのか。地球上全体に住むためにはいわばいろいろな走向性をもたねばならなかったのだ。弱肉強食によって人間に進化してきたのだとするならば、人間ほどに弱い動物はいなかったことになる。しかし人間は適応能力を自由意思の陶やによって発達させることによって世界のあらゆるところに住むことができるようになった。では進化する原動力となった自由意思とは何であろうか。

 自由意思とは何か。ウソや、悪へいに人間は左右されることがある。「死の本能がある」という暗示的誘導と、生の本能という本当のものはどのようにしてかっ藤するのであろうか。そのことの解明は真実の科学とは何かの解明に役立つ。本当に生の本能をおかすことが自由意思はできるのだろうか。

 

 

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193、依存的な人の性格論

 

 性格論を提示する人が、自分が依存的な性格のために自分を依存させてくれる人が良い性格であり、自分を依存させてくれない人を悪い性格として多くの性格のことばを作り上げることがある。世界に歴史的に使われてきた多くの性格類型であらわすことばは依存的な性格の人がそのような目的を果たすために作ったものが多いと思われる人が多いかもしれない。ブラインドテストはそのようなことを示している。

 

 

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194、同業者とかへの全体主義への強制

 

 自分の依存できないという好きと嫌いを、例えば東大が悪いという相手方の永遠なものと、自分は貧しいとか、自分はドイツ人だとか、自分は医師だなどなどの誇れるものと一体化してドイツ帝国万才とか、貧しい人よ団結せよとか、労働者よ団結せよと一体化して全体主義を作りあげて、東大とか、自分の排除し、依存しようとする人々をこわそうとするのである。

 

 

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195、社会制度が本当に悪いのか。ただ社会に依存したいのか。

 マルクスのような人が経済的貧しさを社会制度の悪さのせいにして、共有を主張していたとする。ところがマルクスのような人がいかに自由が存在せず、経済がすべてを決定していて、自由は人間には全く存在しないといってる時にでも、自由に活動してみたら富者になったとかいう例を自由放任主義の側は持ち出してくるし、そのような自由が存在していると考えられる時がありうる。これがアメリカにおいて、一九九六年大統領選挙的に共和党やリバタリアンが民主党に対抗するために使った理論であった。これにたいして民主党の側はそのような例もあろうが、ハンディキャップが存在しているならばそのような例はまれであると反論するであろう。この二つにたいして答を出すに際して干渉されない消極的自由のみは、内在的自由という自由の本質からみてみても、保証されねばならないとバーリンは説くのである。

 

 

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 社会制度が本当に悪いのではなくて、本へが公務員の平等ということばに依存しようとしているだけなのか、本当に社会制度が悪いのかは現実にその人がやってみて試行錯誤をしてみた結果をみるまでは分からないという考え方も存在する。いや社会制度をつぶさに調べてみればわかるという考え方も存在する。

 私はこれにたいしては客観的に答を出すべきだと思うし、どちらにも味方はしない。どちらも客観的に適否が論じられねばならない。

 例えばプラトンのイデア論にたいして、アリストテレスが私有の方が共有よりもよい場合があると現実適に論じたように、マルクスが貧しさを私的所有制度の悪さのせいにして、共同所有という制度(暴力革命することを願うことの適否は、イデオロギー論によってではなく、経験的、現実論によって論じられねばならないであろうし、いくら試行錯誤しても

 

 

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どうにもならなくなった者は、それを社会制度のせいにして、税金に依存して生活をしてよいかもしれない。それらはすべて自由、内在的自由のなすわざであるからだ。

 

 

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196、サルク(sulk)論

 

 ある価値判断から発生する思想が、あるものが(ある人が)絶対にイヤだという価値判断から出発した思想である場合には、すべての人間関係をこわすための思想となるが、あるものが(ある人が)絶対的に好きだという価値判断から出発した思想である場合には世の中を明かるくする。マルクスのは前者であったし、フロイトのもそうだった。ヒットラーのも。前者の思想はすねること・サルク(sulk)から発生した思想であると考えることができる。

 

 

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 ストライキのようなものを「『ダダをこねて絶対にきらい』と他の人をいうような行動」としてサルクと名づける。sulkはすねるという意味であるがそれこそこれを表現するのに適していると考えるからである。ダダをこねるとか、最後っ屁とかいうことばを使うのではなくて、サルクということばで総称することはストライキのようなものの本質が苦闘から発生しているという意味で適切なことばであると考えることができる。ストライキが要求しての行動中止であるから、甘えて駄駄をこねるというサルクということばは、最後っ屁や、ストライキやらの行動を含んだものとして一般的なものになりうると考える。ストライキのようなものという概念を使うよりもサルクすねるということばを使ったほうが、甘えや依存の意味も含んでおり、かつ、ひねくれやあまのじゃくという性格的なもの、これを依存的な性格と考えるなら

 

 

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ば、その依存的な性格も含んでいるようなので、このすねるサルクということばはこのストライキのようなものをあらわすのに最も適切なことばであるといいうるであろう。

 

 

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197、サルキング(すねること)と暴力

 ストライキのようなもの、サルキングと、究極的な暴力が使われることとは関連がありうるか。すねることと、究極的暴力を権力がふるうのとは関連がありうるか。ほぼ同じような属性をもっていると考えられる場合がある。よく日本語で使われることばとして、「机をひっくりかえす」ということばがある。これはすねることの一つのあらわれである。もしも非依存的な関係のなかでそのような暴力が使われた場合は犯罪となる。依存的な関係のなかですねることは、それは犯罪とはならない。このことについてストライキにおける違法性の阻却が本当は許されないことなのではないかという依存を申し述べている政治学者がいる。これは暴力革命が許されないという時の理論づけとよく似ている。これまでの戦争はすべての暴力によった。これは依存的な関係のなかでのサルキングが原因ではなかったのだ

 

 

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ろうか。独立的な人々の関係のなかではサルキングはおこらない。独立的な人々でも、ある人が事業等に失敗して非常に貧しくなり、税による生活保護が必要となったとした場合にはそれは議会制民主主義による法に則った範囲内での依存はおこるが、これはサルキングを伴ったものではない。サルキングを伴った場合にのみ依存的関係はおこるが、それは暴力的なものを伴ったものとなる。

 インドの国会議員となった盗賊プーラン氏の事例はほぼ暴力的なサルキングにいたるくらいにカースト制度の差別がひどくなってきていることを示しているし、南アフリカの人種差別により迫害を受けていた黒人の場合にしても同様であったといえるであろう。自らの力により依存からの独立をしようとしてもできないような状態こそが、その原因であったと考える。ところが現代の日本やらにおける依存は独立しようと思えばできるような状態での依存であり、サルキングである。この

 

 

P480

 

ような暴力的サルキングが許されるかどうかについての法的判断は法の適用においても、立法上においても、行政上においても現代の最も政治的な課題であるといいうるであろう。

 義賊の心理はある意味ではこの暴力的サルキングである。しかし依存から独立のほうへ暴力なしで移ることこそ最上の方法であることは社会科学的にみれば明白である。

 

 

P481

 

198、サルク・すねることの効果

 

 積極的自由者のひがみや、最後っ屁は人々を悩ませるのみで、何ら実行力はない。積極的自由がどのような内心的社会心理から発生したかということが問題なのであり、それは政治学や社会学と大きく関係を有する。

 

 

P482

 

199、すねる原因

 

 サルキングの主な原因は人口過多による過度な競争心から生まれる。人口過多から、競争心、不安(自由の危険性の不安)、そしてサルキング、依存にいたる社会心理的過程は、理論的に証明されなくてはならない。自由の危険性の認識と、兄弟同胞の温かさの観念とは依存的な社会観を生み、依存が平等であるとの錯覚と、自由は殺せという論理とが生まれ、また、義賊の心理も同時に発生する。

 日本の自由民主党の利益誘導型政治は、この心理が共産主義に向かわずに、利益誘導につながり、自治体による票のとりまとめの投票行動と政治を生んだ。従って依存型政治とよんでよいと思われるし、その分析が進められる必要がある。

 

 

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200、依存的性格と、依存しすねるという行動

 

 依存的な立場にある人が依存し、すねる時、依存される立場にある人は依存され、すねられる。依存的な性格の人のみが一般には依存し、すねるが、逆に依存し、すねられている人が、もっと大きな権威に依存し、すねることがある。これがファッシズムや、ナチズムのようなものを生むと考えられる。

 依存的な性格の人が依存できない環境におかれた時に、ストライキをしたり、机をひっくりかえしたり、ダダをこねたり、すべてを破壊する行為等をすねるということばでいいあらわすとすれば、それは「依存的な性格と依存的な環境」との相関関係のうちの一つの形態であるといいうる。依存的な性格の人が依存的な制度の下にある場合はいいが、依存できなくなった時の一つの行動形態であるといえる。

 

 

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201、依存側からの制度と人への評価。

 

 「依存性のある人にとってある人がそうであること」と、それが依存性にとってイヤだということ」とが全く正反対の評価となることが多い。ある独立的な人がそうでことと、依存的な人がそのような人が都合が悪いということとは全く別のことである。依存性のある人にとっては依存させてくれる人や制度はいい制度であるし、独立させ自由にさせようとする人や制度は悪い制度である。それは人や制度は依存的であらねばならないという規範性や、そうあるべきだという当為性からくる評価である。

 

 

P485

 

202、セシュエーの事例と、フロイトの実際

 多人数兄弟の第一子であった子供の分析をセシュエーがしているのは、ただ多くの多人数兄弟の第一子によく発生する弟妹のすねることや依存やらのために精神的に自由をなくした結果にすぎない。某十二人兄弟の第一子の人とか、四人兄弟姉妹の第一子の人で自由をなくした人を見つけることは容易である。フロイトその人にもそのようなものであった。

 

 

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203、依存と、依存的性格

 

 服従や、隷属や隷属すること、干渉されることを依存とよぶとすれば、それを好む性格を依存的性格とよぶことができる。依存(depend)することは、服従する、隷属することなどを総合した概念とすることにする。干渉されることを好む性格がファッシズムを生んだというように記述することができるし、干渉されることを好まない性格、独立的性格が干渉されない消極的自由の概念を生んだというように記述できることになる。干渉されない消極的自由が多い社会は、個人が独立した社会であり、干渉する積極的自由が多い社会は依存的社会、そういう制度は依存的制度と記述できることになる。「自由からの逃走」というフロムの概念は、依存的社会においては独立的制度が制度化されていても、依存的性格(パーソナリティー)の個々人は権威を求めて、権威主義的な体制を作りあげる。

 

 

P487

 

依存的性格は権威に依存している人々を描写するのに、権威主義的性格よりも直感的、経験的にうけとることができる記述法である。サディズムや、マゾヒズムの性格という表現よりも依存的性格というものは、感情的ではなく、広い概念であり、自由とより深く関連させることができる。干渉され、強制され、強迫されることを好む性格は、すべて依存的であり、権威主義的よりも広い包括的な概念とすることができる。共産主義や、全体主義や、ナチズムや、ファッシズムやらも、これから生まれたものであり、ヒトラーや、スターリンや、マルクスや、フロイトの性格もこれから生まれたものであると考えると結論できるかもしれないし、制度のうちのあるものは依存的なものとして説明することが正当と思れるように記述することができるかもしれない。思いやりのある社会はひょっとしたら依存的な社会と説明すれば、誤解されやすい用語ではなくなるかもしれない。

 

 

P488

 

 依存ということばは、主語や述語を明確にできる他動詞であり、依存しないということばは独立ということばにすることができ、独立戦争のような政治的なことばであるし、現実に自由を求める政治運動の多くの名に冠せられたことばである。従って依存から脱却する戦争であったのだとアメリカの独立戦争を記述すれば、国際間の依存の問題としても説明できるし、何からの依存から脱却しようといたかも記述できることになる。国際間の関係であれ、人間間の関係であれ、この依存ということばは共通に使用することができ、個人や支配者の依存的性格と、国家内の政府と国民の依存的な関係という国内的依存的関係や、国際間の依存的関係とが関連し、相関係数が高く相関関係があるかどうかについても記述することが可能になる。法学、政治学的にいえば、日本や、ドイツや、イタリアの法制度が依存的な性格をもつのかということと、それらの国の国民の性格や行動が依存的な

 

 

P489

 

性格であるかどうか、その関係はどうかというようなことが記述できるようになるかもしれない。

 個人の領域が少ない社会を依存的社会の特徴であるとすれば、干渉されない消極的自由の範囲が少ない社会のこととなり、バーリンのいう自由論を社会の問題に関連づけることもできるようになるかもしれない。そしてそれを自由論の問題としてとりいれることができるかもしれない。

 ところが依存は自覚することのできない概念であるのかもしれない。依存は描写的な概念であるのかもしれない。だが自覚しようとすれば自覚できる。しかし自覚した途端に依存から脱却し、自由になることは危険なことであるので、「自由からの逃走」がおこるのである。

 

 

P490

 

204、人間の学問的客観的観察

 

 自分をみる者が、隠れた意図をもってみているとすれば気持ちが悪い。このように学問的観察は観察対象の人間の自由意思をもって最善とする。人間は自由をもっている。従ってマルクス主義のように人間を強制や、干渉する目でみるのは、人間を物としてみなすことである。

 

 

P491

 

205、依存する側、見る側としての勝手な立場(役割)の設定

 

 積極的自由の発生する理由は、私は見ている側の役割の人であり、あなたは見られている側の役割の人であると勝手に見ている側の役割しかしたくない人が決めることから発生する。私は見ている側の役割の人であると考える人は、一生見ているだけで行動をしたくない人であり、それが依存的な性格の人の特徴である。自分は見られる側にはいたくないので、見ているだけにしてほしいという。見ている側(観察する側)だけでありたいと願う理由はその人の性格、小さい時からのその人の性格による。それが依存的な性格といいうるのは見ているだけでは生きていけないので、見られている活動している人に援助を受けなくてはならないからである。そして見ている人は平等のために共有でなくてはならないといい見られて活動している人々の見え

 

 

P492

 

ざる手による平等化の作用については信じようともしないし、それは否定する。

 「見ている側の人間」だというのは、勝手に自らのみは依存する側の人間だと決めてかかっているということである。

 

 

P493

 

 自分はみている側の人間だから、命令ができるし、また、経験している人が知らないことが分かる。それが絶対理性である。

 

 

P494

 

 被害の程度を感じる量は依存的な性格の傾向の人の場合程大きい。

 

 

P495

 

 

P496

 

 「いつも脅威をうけていると訴え、いつも強制され、いつも妨害されている」と考える被害感情の強い人がいるとする。これは童話からもとることができる。この論は非常に分かり易い。しかし、そのような人はいつも脅威を与えることを正当化している依存的な人が多い。その童話の名は「シンデレラ」などである。

 

 

P497

 

206、依存したいという心理と、死にたいという心理

 

 あまのじゃくの人にとって、あまのじゃくを他人に認めさせるために、あまのじゃくは本能だと認めさせる。あまのじゃく以外の人からみればあまのじゃくは社会的なもので、それは治ゆ可能なものであるが、あまのじゃくの人にとってはそれは本能だと他の人はみてほしいのであろう。社会的なものについてはみる人側によって全く反対の評価となる。これがフロイトが「死の本能」と名付けたものの本質ではなかろうか。そのような依存的な性格はなおせるものである。しかし本人にとっては依存的な性格はなおせないと思っており、それは「死の本能」や、「依存の本能」であると自ら名付けて、他人にそれを認めさせたいと社会的に思うが、しかし普通の依存的ではない人からみれば、その「死の本能」や「依存の本能」は社会的に依存しているのであり、他

 

 

P498

 

人から死ぬように強制されているのである。それを本人が「死の本能」や、「依存の本能」とそのような依存的な人のみがいうのは、その人にとって死にたいや、依存をしていたいという方が社会的に(自分が依存的であるから)都合がいいからである。

 依存とはマルクスの主にいっていたことかもしれない。しかし以上の項は全くマルクスとは別に精神病はないということを証明するためにかかれたものであるのに、その全くマルクスの経済のみがすべてを支配している、従って社会制度が悪いから、依存したいというマルクスの心理を証明していることになっている。フロイトの「死の本能」の心理についても同様である。これをウソというのではなくて、バーリンのいうようにこれを自我の分裂というように科学的に分析することのほうが正しいようである。

 

 

P499

 

207、統合的パーソナリティーの少なさ。あるいは他人に依存する性格

 自我(エゴ)の量が少ない者は、絶対理性とかの権威に頼うざるをえなくなる。自我の量が少ないというのは、フロムのいうような全体的で統合されたパーソナリティーをもたないということである。それは自律的な規範意識が強すぎて自分では何もできないということでもありうる。自分で何もできないからこそ、他の権威に向かうのである。

 

 

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208、依存とフロムのいう全的、統合的パーソナリティーの欠如

 依存するのは自由であろうか。フロムの意味での積極的自由をかん養していることになるであるか。前者の答はイエス、自由であるであるが、後者の答はノー、かん養していることにはならないである。依存が自由であるとしても、自由であるが無のままであり、いつまでたっても能力は育ってこない。これは日本における日本社会党が反対政党であったために能力をみにつけなかったという暗喩のなかにも似たようなロジックが見いだされる。依存的な状態では依存しているその自由な行動については、依存されている権威にすべてをまかせてしまっているのであるから、その自由な行動を自分では行なっていないのであり、いつまでたってもその自由な王道をするための能力は育ってこないということになる。フロム流にいうと自由な制度の下で、自由な状態のもとにおいて自由に活動するための全

 

 

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的で、統合されたパーソナリティーが身につかないという表現となる。

 

 

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209、フロムのいう全的統合的パーソナリティーをもつとは独立で、安全だということだ。

 人間は安全ではない時に不安を感じ、誰かに依存しようと思うが、安全である時には安心し、自由で独立した人間になろうとする。逆に依存的な人は不安であるからそうなるのであり、独立的な人は安心感があるから誰かに依存することなくいられるのである。

 事実問題として依存的な状態にある人は、他人に依存していなければ不安を感じるし、依存的でない人は依存していなくても不安を感じない。ベイのいう心理学的自由が依存的な性格の傾向の人はないことになる。

 

 

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210、依存からおこる倒錯

 

 依存のなかからはあらゆる倒錯がおこる。フロイトについてドラッカーが指摘したようなこと。マルクスらについてバーリンが指摘したようなこと、即ち、二つの自我や偽装などである。

 

 

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211、家族、兄弟姉妹への依存

 

 『聖家族』の描写はマルクスが家族に甘え、依存していたということしか示していない。マルクスの共産主義社会の構想は家族、それも彼の家族の聖家族のイメージと重なっている。親に依存するのは当然であるが、それが兄弟姉妹への依存となっているところに問題がある。

 

 

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212、親子の当然の依存

 

 親子関係が依存的であるのは仕方のない、正当な依存である。親は子を育てる必要があるからだ。しかし、子供同志が依存関係にあり、敵対的であるのは正当な依存とはいえない。妹が兄にストライキをしたりするのは、姉が弟を包容するのとくらべると、よくある例であるが、これは正当な依存とはいえない。また四男が長男に甘えるのもそうである。この意味の依存は日本語では甘えというが、母親に甘えるのは依存ではない。

 

 

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213、家族と依存心

 

 家族の第一印象は、家族とは共同体的包容力のある、依存できる太陽のような暖かい場所であるというものである。それは失敗した時でも、同じ皿の、同じような顔の人達が集った場所であるから、傷をなめあってくれるという感覚から、相互に経済的に依存できる場所であるという印象も含んでいる。

 家族は政治的、経済的なつながりをもった集団である。社会は家族の成員としてでてきた人間が集った集団であるともいえる。家出をしてきた人、家族が大金持ちでそれに頼っている人々、その他様々な家族環境の人がその家族を代表して社会を形成しているのである。家族を政治学上で問題にしようとしたのはメリアムであった。『体系政治学』のなかでは多くの示唆に富む指摘を行なっている。家族の政治学ができあがるのを期待している

 

 

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のである。

 

 

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214、貧乏、されど、他人から干渉されない自由

 貧乏で、他の人とは不平等であることは認識しているけれども、自分は他人から干渉されない消極的自由を絶対的に愛する人が現実に一人はいたとする。それこそ重要なのだ。目が見えなくても、一生懸命に働いてそれで得た賃金と、生活扶助で生きていても、他人から干渉されない消極的自由を絶対的に愛する人がいるし、金持ちでも絶対的にその自由を愛する人がいる。一人っ子で、絶対に他から干渉されない消極的自由を愛する人がいる。この事実が大切である。そうバーリンはいっているのである。

 

 

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215、働くということ

 

 働いて賃金を得るということを子供に教育する場合に、義賊は金持ちから財を奪うことを教えるであろう。逆に商人はそれぞれの所有物にたいして各人がもっている所有権を契約の自由および同時履行の抗弁権によって交換し、利潤を得させることを教えるであろう。また公務員は税金として得られた国庫から公務を提供することによってその対価として賃金をえることと、その方法を教えるであろう。独立的な人であっても公務を行なうことができるのに、現在は公務は権威や公共経済への依存であると考えられている。

 働くというのは個人個人か、個人個人の集った集団が行なっていく人間にとっての最も重要な自由な活動である。経済的なものではあるが、法的政治的意味ももっている。

 

 

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216、生活保護と依存と独立とモラール

 

 生活保護は憲法に定められた生存権的自由権(基本権)から導き出されるものであり、誰も否定しない。しかし、生活保護の額については多くの政治的な問題を含んでいる。いくら倒産しても生活保護をもらえば、働いて倒産するよりも豊かな生活ができるとすれば誰も働かなくなるであろうか、あるいは、倒産する危険性のあるビジネスに多くの人が、トライアンドエラーの精神でつきすすんでいって、社会は活気に満ちたものになるのだろうかという問題である。ホームレスの人も、役人が生活保護の制度があるのだから、ホームレスをしないで生活保護を受けたらいいよといっても、それを受給しないで自らの意向で自由にホームレスをやっていきたいという人がいるのかもしれない。しかし本当に家が借りられないのかもしれない。生活保護を受けても、保証人とかがいなくてである。ある

 

 

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いは生活保護を受けても家を借りるのにまにあわない程度に受給金額が低いのかもしれない。自由か依存かの心理的な問題なのかもしれない。

 このことはホームレスの人に限らず、あらゆる人の心理のなかに存在する問題である。それは旧ソ連においても、現在の日本においてもおこっている問題である。

 この問題をとくには、依存と独立の問題と、依存はあまりの安心感を生み、ヤル気(モラール)をなくすという問題の二つの問題が解決されなくてはならなくなる。あまりの安心感が依存を生むのか、独立心をおこさせるのかについては不明であるが、依存は安心感を生み、危険なことに対する挑戦(冒険)心を喪失させる。ソ連においてはすべての人が「できることなら、何もせずに一生を過ごせたらと思っているうちに、誰も農業も、工業も生産する側にまわる人がいなくなったので、生産が落ちすべての人が依存する側に役割としてまわっ

 

 

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てしまった。すべての公務員は依存する側にまわることであり、現在でも公務員はそうである。特にすべての人が公務員であったソ連社会においてはすべての人が依存の側に役割としてまわったので、崩壊したのである」という見解を極端に述べる人がいるかもしれない。確かにそのように極端ではなくても、そのような傾向にあったのかもしれない。生産刺激の諸施策は人間の依存からの独立性を求めるものであったし、資本主義の一部をとりいれた。その部分とは依存に対する独立という側面であったのかもしれない。

 サッチャーはそれを促進するために人頭税という考え方さえ示した。サッチャーが父親の依存性に反発し、人間の独立性を尊重したという話は有名である。それにたいする反発は労働党のブレア政権をその後に生んだのである。

 

 

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217、大金持ちの依存

 

 ブラッド・マイナーが「自由」について、大金持ちが依存していることもありうると書いていることは示唆に富む。金持ちが政府の財産資金や権力に依存することは、ある意味では、自由の敵でもある。国民のそれに対するアクセスができなくなる。

 

 

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218、依存の自覚、負担の自覚

 

 他のある人が依存することは、その人に「負担」をかけているのであるが、その自覚がない。依存するほうが、負担を軽減しているのだという逆の意識さえある。

 日本語の甘えということばのなかにこの意識は含まれていると思われる。依存をなくしてものごとをみようと考えはじめた場合には「負担」をかけていることを自覚する必要がある。

 

 

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219、税への依存

 

 公務員があまりにも消費的であり、無駄な消費をしているとすれば、税を払いたくても税を払う気分にはならなくなる。もし無駄な出費をしなければ税を払わなくてよいかもしれないと考える可能性があるからだ。平均よりも無駄な出費をすることを依存とよぶことができる。それは甘えや、依存的性格から発生するからである。

 

 

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220、依存の形態

 

・何でもできるのに隠して、何もできないと依存させてくれと人がいう場合がある。

・本当に教育やらによって能力を育てる機会がなかったので、貧乏のゆえに能力が育たなかったから、政府に依存させてくれといってくる場合がある。

・今までは自分で努力しなかったから今後は努力するから、努力する間依存させてくれといっている場合がある。

・性格的に依存的性格であるために、すべてがそろっているのに依存させてくれといっている場合がある。

 

 第三の・のケースこそがここで依存的性格として問題にしているケースである。

 

 

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221、正当な税への依存は何か

 

 共産主義においてはすべての人が公務員となったのは、税への依存を強制したのと等しかったが、税への依存は働く意欲を低下させ、今度は税を納める人がいなくなり、ついに国家が破産することになったのだと考えられる。右翼の超国家主義も、左翼の共産主義も税への依存を求めるという点では共通点をもっていたといえる。税は平等への配慮を自由のなかでもっているという点において意味があるのであって、税への依存そのものが重要な意味をもつのではないのはブラッド・マイヤーの「大金持ちの依存」と「貧しい人の依存」という指摘が示唆していることであると考えられる。

 

 

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222、公務行政の民間委託と依存性

 

 公務の民間委託は行政の概念をかえるのであろうか。それを公務と、自由と、依存という観点から理論付けることとする。

 

 

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第四章 自由と環境・状況との関係

 

 

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第一節 環境・状況における自由

 

 

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223、自由と環境

 

 自由がその自由を持つ人の環境と関連していると考えることは、環境、社会的環境の様々な因子のうちのあるものが、外的な制約としてその人の自由を制約しているという因果関係が明白に認められるということを示している。そのようなことは環境ではなくて外的な資源や、外的な他の人間であると考えるならば環境ということばを自由論のなかで使用する必要はないことになる。ところが外的な資源や、他の人間など定式化された自由の定義の構成要素以外にも、歴史的な因果関係や、政治的な因果関係や、経済的因果関係等のようなものかもしれないが、自由を制約するものが存在するはずである。その様なものを環境と一括してよぶとすれば、そのなかには法的な制度や、道徳的な規律とかも含まれているかもし

 

 

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れないが、そのような一般的な環境が自由にある影響を与えているということは十分に考えられうることである。

 

 

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224、自由の一要素としての環境

 

 環境がある人の自由に大きな影響を与えているという場合、その環境には兄弟姉妹や、両親やら、その他の社会的人間的関係やらのほかに、金持ちであるのか、貧乏人であるのかなどとともに、アウシュビッツの収容所内における環境のようなある動作を行うにあたっての因果関係の発生する原因となる状況や素因の存在する環境のようなものも含まれている。そのように考えれば、Aという人がBという障害なしにPをする自由を持つという定式化された自由の概念であるマッカラムによる定式化のなかではこの環境はどのような位置を占めるのであろうか。ある環境が生の本能を阻害したり、あるいは、選択の自由の障害となったりすることはありうる。そのような場所にのみ環境が重要な位置を占めるのであろうか。ある人の拒食病が、その人の環境のうちの他のある人が、その人の生の本能を阻害

 

 

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するような状況を作っていたり(これを迫害とか、害を与えるとか、他の人による行為の禁止とかよぶとしても)、他の人がその人を食べさせるなと命令していたりするとした場合には、あるいは、アウシュビッツにおけるように明白に死に追いやる意思が他の人に存在する場合には、明白に人権侵害といえる。それが心理学的に人口の多さや、兄弟姉妹の多さからくるその人の性格やらから由来しているとすれば、それはひとつの自由を阻害する環境であるといわねばならないことになる。このような状況を考えることは人を気味悪くすることではあるが、そのような環境を作り出す性格の人は多いし、そのようなことはスキャンダルのなかに多数存在する。それは多民族べっ視や、自民族優越主義者のなかにも存在するし、そのような生存侵害や人権侵害(選択の自由の侵害と、生の本能の侵害とを明確に区別するとすれば、生存侵害が前者であり、生の本能の市外が後者ということになる)は人間の性格から発生している

 

 

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ものであると考えられ、これらを「権威主義的性格」として研究しようとしたバークレイグループの研究は自由と環境の心理学的解明であると考えられる。

 「クー・クラックス・クランが黒人の自由を奪っている」という状況を、自由論の立場からとらえてみよう。クー・クラックス・クランは黒人差別主義者であるから、黒人の自由の障害となっているのは他ならぬクー・クラックス・クランである。この場合はバーリンのいう積極的自由が主に政府や行政やらが個人に干渉しすぎる場合を想定しているのとは違っている。クー・クラックス・クランの例は莫大事典の「自由」の項目のなかにでてくる例であるが、この例はバーリンの積極的自由は政府の干渉に対してのみならず、他の人の干渉や、他の団体の干渉やらにも、拡大して考察することができることを示しており、その場合の干渉するような性格を研究したり、干渉する場合の思想を研究し分析したり、バーリンが「高い

 

 

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自我」とよんだ理想主義的傾向がバーリンのいう積極的自由を生んでいるのだという分析し研究することは他の人の自我についてと同時に、他のイデオロギーや、他の人の理想主義やらとともに、政府や団体のそれについても研究しなくてはならないことを示している。

 

 

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225、自由の妨害となる環境と、運命的自然的環境

 人間は自由に環境に適応するという場合の環境と、ある環境が自由を制約する妨害物となっているという場合の環境とは全く相違している。前者は内在的自由が地球の環境に適切に適応していくという場合の広い人間の環境であるので、それに対して人間は自由に適応して生存を進めていくことになるのである。後者の場合は最も適切に環境に適応していこうとしている人間にたいして、他の妨害し、悪意をもって干渉しようと作りあげたその自由を妨害する環境のことである。この例はアウシュビックの強制収容所における環境を一つの例とする。そこでの自殺はその環境が自由をなくさせ、殺したのであるといいうる。この場合の環境は人を自由にさせたくないという悪意の環境である。従って社会的な悪意の環境である。前者は自然的な環境であり、人間が適応しようと義務づけられている環境で

 

 

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ある。自然的な環境のうちの経済的、物的環境がすべてであるとして、経済決定論に陥り、ついには粛正収容所の環境を作り上げるのは、前者の環境の影響を、あるいは、環境の因果関係を誤解したためにおこったものといえるかもしれない。前者の環境は運命的、自然的に与えられたものであり、人間がのがれることができないものである。後者の環境は悪意からくる人為的なものである。

 

 

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226、自然の法と、環境

 

 「人間は自然の法による制限はあるが、完全に自由である」というロックのことばのなかに自然の法は、自然の環境といいかえてもよいのだろうか。人間は百度の熱帯においては生活できないし、人間は水のなかで一生過ごすということはできない。これは人間の自由を制約するものである。人間の自然的自由は人間の住める限度という制約があり、その範囲内においてのみ自由な選択の可能性がある。自由意思がある。自然には自然の脅威や、危険もあるが自然から利益を得ていることになる。自然の脅威や、危険を人工的に安全にすることについては人間の自由な意思(自由な選択)と考えることができるだろうか。より安全な、危険のないという意味では、人間はより安全な法を選ぶかもしれないし、そうではないかもしれない。危険を好む人々もいる。そうであれはより安全な方を選択するこ

 

 

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とが本能ではないとすれば、自由意思といえるかもしれない。開発優先への左翼からの批判はこの危険を好むという人間の心情をあらわしているのであろうか、あるいは、開発から生ずる公害を嫌っているのであろうか。おそらく後者であろう。しかし前者の意味もあるかもしれない。宇宙開発に際して宇宙の環境に適応しうる程の自由をも人間は有しているであろうか。それに関してはノーといえるだろう。人間は地球という限定された宇宙のなかの惑星に生まれた生物であり、三六度Cから三七度Cの体温を維持している本能と自由意思をもつ動物であるからである。何百度とかの宇宙には適応できるはずはないと考えるからである。

 

 

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227、自然の自然法・物理的自然法と、例外状態と保険。社会の自然法。

 絶対的な物理的な自然の法には、人間は絶対的に従う。生の本能は存在する。そしてそれに人間は絶対的に従っている。従わねばならないような環境を作っていくのは生の本能ではなく、自由である。倒産し自殺に追い込まれる人は生の本能をなくしたのではなく、他の人々によって自殺させられたのであり自殺はしたくないという生の本能によって様々な社会的な自由な行動をして、食べていけるようにその人は努力しようとしたが、回りの人が食べさせなかったのである。食べようとすれば食べられたはずである。これは例外状態という考え方によって説明すべきであるし、それを保険するのは社会保険である。食べるだけの物が存在しなかったという場合には、社会保険がそれをカバーすることになる。ある人の自然

 

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な生きる本能を妨害するような他人の活動はある意味では、殺人と同じ行為である。

 これは社会の自然法であり、自然(物の)の自然法と対立する。五百度のところに住めないというのは自然の自然法である。一方そのようなところに住まわせてはいけないというのは社会の自然法である。

 

 

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228、自然環境と人間

 

 環境影響予測の法理は、自由な人間が環境にいかにして適応できるか、適応できないとすればいかなる理由によるのかを予測することにある。人間にとって環境は自由の一要素となりうる。人間の適応可能限度を越えた環境には適応できないし、適応しえたとしても悪影響を及ぼすような環境があるかもしれない。環境にたいする影響が人間に悪影響を及ぼしたとしても、人間がそれに適応してしまったとしたならばその環境は悪いものではなかったということになるという法理が成立しうるかもしれない。これは社会環境がいかに強制的なものであっても、それに自由に適応した場合には強制的なものではなかったという社会環境の理論とよく似ている。しかしその適応以外に適応のしかたが選択できなかったとするならば、その適応は強制によったのであるから自由ではなかったということにな

 

 

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る。

 

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229、人間関係的(社会的)環境による自由の制約と、自然環境的自由の制約

 

 他の人は、自らにとっては自由の制約となることがある。これをシュタイナーは人間関係における自由の制約とよんだ。彼の理論は自由は所有であるという特殊な自由の定義の場合と、提供や脅威が人間関係においていかに自由と関っているかというものであった。

 

 

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230、環境に適応しようとする自由意志と、生きていこうとする本能

 環境に適応しようとするのは、ある意味では固定的な生の本能であり、ある意味では自由な選択である。環境に適応して、生きていこう(=生の本能)とするのであるが、環境に適応してというのは自由な選択にまかされている。動物の場合にはある一つの環境に適応するように自由意志がなく、本能として固定されている。これにたいして人間は様々な環境に自由に適応できる。そこに人間の動物のうちの一つの特別な種類であるという本性が存在する。それが地球上のあらゆるところに人間がひろがった理由である。他の動物の場合にはその程に適した環境にしか生存できない。渡り鳥の場合には季節の変動に応じて自らの固定した本能に適した地球に移り住むことになる。移り住むという自由があり、そうではない場合は危険にさらされそうであるが、そうでなくて、固定的な本能が環境に適応できないと

 

 

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いう表現が適切である。

 

 

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231、環境に適応しても、自由がある場合と、ない場合とがある。

 ある人が部屋に監禁されて、その環境によって自らの意思ではないことを書かされた場合、それは環境によって強制されたのか、その環境を作った人によって強制されたのか、あるいは、自由意志で書いたのか。あるいは、環境に適応したのか。これが法で問題となる時がある。取消ができるかという問題である。人間は環境に自由に適応する動物である。従って環境に適応したという表現が妥当であろうが、その場合に他の適応の仕方がないか、自分の好む選択の仕方がない場合には強制されたといってよい。アウシュビッツの「強制」収容所に収容された人々に、自由があったと考えるのは不可能だ。強制して殺すという目的で収容されたのだから、そこで自殺したとしても、強制されたのであり殺されたというしかいえない。それ以外の選択肢はなかったのだから。

 

 

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232、社会的環境における自由は分離できるか

 

 ある行動のうち、本能に帰属する部分と、本能以外の自由な選択意思に帰属する部分とに分離・分類することが可能であるとしても、本能以外の自由な選択が可能な部分のうち人間関係が関与する公的な部分と、人間関係が関与する公的な部分と、自然の環境のなかで選択する自然の部分とに分類・分離することが可能であろうか。またこれによりバーリンらのいう公的領域と、私的領域との境界線をひくことができるであろうか。

 社会的環境における自由とは、他の人間とどのように関係するのかについて自由に選択できることである。公的な人間関係においてはバーリンのいう積極的自由を行使するかどうかが重要な問題となる。公人と私人との人間関係において特にそれは問題となる。公人と公人との人間関係においては、私人と私人との人間関係におけると同じように、バーリ

 

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ンのいう積極的自由よりもバーリンのいう消極的自由や、フロムのいう積極的自由の方が大きな問題となる。しかし人間関係においての自由は対人関係を様々に自由に選択することができるという自由なのであって、ある人間関係を環境としてとらえる場合にそれに反発するのか、順応するのかは自由である。自分の環境として最も適応できるものを選ぶのは、自然の環境の場合とは違い、人間の環境のほうも自由であり、自分も同じように自由であるので、自由な社会が作れるということである。自然な環境を自由にかえることはほとんど不可能であり、自分がその環境に適応するしかないが、人間関係の環境は自分も自由であり、人間関係も自由である点に特徴を見い出すことができる。

 

 

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233、歴史論と自由論と自由の環境

 

 歴史論と自由論は常に手をあいたずさえて進んできた。歴史の必然性と人間の自由との関係は、人間の内在的自由にたいする歴史の因果関係の影響がどのようなものであるかについての考察として進められてきた。フロイトと対立したフロムやらは、歴史的な思考のかたまりが人間の内在的自由のなかにプログラムされた時、そのプログラムの特徴は人間の性格や、社会的性格(フロム)に影響を及ぼすが、統合的パーソナリティーはそれらに勝って自由を(積極的自由を)確保できると考えた。自由論はこの場合歴史に勝ちを宣言している。

 歴史は人間にとって一つの環境である。過去の環境ではあるが、それが現在まで伝わってきているということは現在の環境でもある。未来に向かって新しい自由を得るためには現在の環境を分析するとともに、現在まで積み重ねられた自由な選択の束である過去につ

 

 

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いても研究し、それを経験の束として未来に生かさねばならないと考えられる。それが人間にとっての、学説上の対立をこえた、純粋な責務である。それは歴史にたいする実在的なとか、経験的なとか、分析哲学的なとかの学説をすべてとびこえた人間の本質である自由に関わるものであり、自由の環境である。

 

 

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234、内在的自由を拘束するもの

 

 内在的自由は本来的に物的環境に適応しようとするゆえに、物的環境に左右されているし、社会的環境に適応しようとするゆえに、社会的環境に左右されている。社会的環境にたいして平等な配慮と尊重という概念ではなく、他の概念によって対応しているようである。その概念は利他性か、あるいは何か。内在的自由は社会的にはあれか、これかを安全とか、危険性の除去という概念によって対応するのであろうか。内在的自由はある環境の範囲内で適応する自由を有する。他の人々と適応する範囲内で自由を有するということになる。その範囲とは平等な尊重と配慮であろうか、バーリンのいう干渉されない範囲であろうか。バーリンにとって強制的な環境には適応しない自由があるということであり、平等派にとっては平等のための干渉ならば、従うべきであるといっていることになる。

 

 

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 人間的環境が脅威(強制)(threat)になることがあり、個人的自由を侵害することがあると述べるのはシュタイナーである。その論文「個人的自由」(Individual Liberty)において詳細に論じている。「百ポンドをくれなければ、殺す」ということは、確かに強迫(脅迫)である。

 

 

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235、環境の自由と都市の自由の共通性、農地の土地にしばられない人間。

 都市の自由は自由な環境という意識から生まれる。

 都市の自由はあらゆる制約からのがれた状態におかれたことをさしているようである。そのなかで信仰の自由を与えられ、伝統とはちがった新しい信仰を選択したり、新しい生活をはじめたりすることができる。そこには意志の自由も、選択の自由もあるようにみえる。田舎から都市に新たにでてきた学生が感じる自由感であり、あるいは、奴隷が自由人になったときの自由感であり、日本において第二時世界大戦争が終了した時に日本人が感じた自由であったのかもしれない。日本ではそのような自由が第二時世界大戦後の自由であった。自由党と民主党が保守合同を果たした時の自由はそのような意味が含まれていたのかもしれない。

 都市の自由は都市社会の構造による。商業と移動を中心とした社会であった。

 

 

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236、状況・環境と自由

 

 ニコライ・ハルトマン(一八八二〜一九五〇)は、選択、決断の自由は状況による束縛、拘束と両立しうると考えた。

 状況内での自由という考えは、サルトルによると、人間はそのつどの状況において刻々自らの実施を自由に創造していかねばならないとした。

 

 

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第二節 対人関係における自由、社会における自由

 

 

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自然な社会

 

 法は社会的自然の法からの社会的逸脱を制限するという第一の機能をもっている。しかし、社会的自然の法よりも恐怖政治は厳しく自由を制限し、平等のみで自由を殺す主義も自然の社会の法よりも自由を厳しく制限する。自然の社会の法をみる時に自由を中心にしてみなくてはならないのは、自由が人間の本質だからである。しかし自由は厳しく制限されたり、ゆるくしすぎたりしながら、最後には自然の社会の法に収れんするという自然収れんの法則があるといえば、経済学のまねにすぎるだろうか。自由がすぎると不平等が拡大し、平等化への圧力が働き、平等がすぎると自由が殺されるための自由化への政策への希望と、その実現の力が働き、人々はその間のちょうどよい政権や政策を選択しようとするのだという議論は「自由が平等化を崩す」という不明確な命題を出発点にしているのでまちがっているのか

 

 

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もしれないが、もしその命題が正しいとすればそのような力が働くのかもしれない。しかしその命題は「自由によるみえざる手による平等化が働く」という命題にとってかわられるのかもしれないので、それを主張することは一つの仮説であるということになる。

 アジアや、日本の戦後の経済発展と平等化をみていると、自由は自ずと平等化への力をもっているかもしれない。一方自由の方も次第に拡大の一途をたどるのであって、上下にぶれながら収れんしていくのではないのかもしれない。それは自然の許す限り次第に拡大していくのかもしれない。

 

 

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自由な人と自由な人との集合である社会。

社会とは何か、社会ということばは適切か。

 

 社会ということばは適切ではない場合があるかもしれない。自由な人と自由な人とが集合してできあがった社会内で、少年非行端において反社会性ということばにおける社会の使用方法はすでにできあがった社会という意味であって、自由に作ろうとしている社会や、社会契約という時の社会ではない。社会は自由な人間によって自由に作られるという意味が存在しないし、社会性ということばにおける社会もその様な意味が込められており、それは秩序ということばにいいかえたほうがよいかもしれない。社会学や社会科学という術語における社会ということばのなかにも同様な二面性がある。社会化するという社会学のことばも秩序化の意味がある。政治学における政治的社会化ということばにおける社会ということばも、自由化という意味がこめられてい

 

 

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るべきであり、秩序化といういみのみでよいのであろうか。

 社会化には自由化という意味が含まれているのにたいして、秩序化には自由化という意味が含まれていない。

 自由な人間がどのようにして社会を作っているかを考察するのが社会科学であり、アリの社会のように本能のなかにある特定の社会を作るように指示がはいっている自由のない社会的動物が人間であるならば、本能的に同じ社会を作るのであって、社会科学は必要ではないということになる。アリの社会を研究するのはアリの本能についての科学、生物学の一種なのであって、シートンの動物記も含めてそれらは生物学となる。ところが人間はどのような社会を作るのかについては自由な前頭葉によって考える力をもった動物が人間である。だから社会科学が必要となるのである。

 

 

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自由な人間の社会

 

 社会をみる時にせ判断停止をするということは、相手が自由に動くから、自分は予測することができないということであり、逆に相手は経済や、性本能のみで動いていると考えることは、即ち、決定論をとることは、絶対的に判断停止をせず、社会をそれのみで決めてしまって、すべての人にそう動くように要求することである。ある意味ではデュケームのように社会をとらえようとすることは、社会を自然の物と同じようにとらえ、自由の概念を導入しないという態度であるとも考えられ、そこにおいて自由な人間の集合としての社会をとらえなかったことは一つの欠陥であったと考えることもできる。しかしどこかで判断停止をせざるをえないとは考えられる。この反断停止がなければいつまでも行動できない「くよくよした」人間とならざるをえない。判断停止をするとい

 

 

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うことはある意味では、自由に活動してみようということである。相手や、他の人も自由に動くから、その結果をみてみようということであろう。そこに一つの自由な社会がみられるとするならば、それはその後に平等とかをある程度考えにいれよう、まずは経験論的に自由を動いてみようという考え方である。

 

 

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自由な社会の社会的、人間的、法的、政治的基礎的前提

 彼や彼女を制約する物的環境(自然的環境)や、社会的人間関係的環境があり、そしてその他の因果関係の外の部分においては自由なのであるから、そして彼らは私とは違うから、その自由性を認めれば、彼や彼女がどのように行動するのか予測がつかないというのが、自由な社会を構成していく場合の基礎である。たしかに生の本能があり生きていくためには、衣食住の行動を固定的に行っているのは認めるけれども、その他については自由な選択が可能なので自分には予測がつかないというわけである。

 

 

P555

 

固定的な社会の部分と、自由な社会の部分

 土地には固定性があり、本能にも固定性がある。この固定的な要素が共同社会を形成しており、土地から離れた自由な活動や、生の本能とは対立的な人間の自由な本性が利益社会を構成していると定義するのは困難である。従ってこのような意味で社会を分類する場合には共同社会や、利益社会とはことなった用語を探す必要がある。いろいろな学者が自由な社会という場合にはこの利益社会というような意味でいっているのではなくて、全体主義社会にたいしての自由な社会をいっているのである。そのような自由な社会の内部においてもこのような意味での共同社会が存在している。自治会が政治における投票において、投票する政治家を決めることなどはこのような共同社会の名残りである。そこでは土地や本能の固定的なものに税が配分されることへの期待感と安心感がある。竹下登の「ふるさと創生事業」の一億円もそうであった。

 

 

P556

 

自由な人間の流動的な集合体としての流動的な社会像

 

 自由な行動は社会的である。社会的な行動は自由な行動からなりたつ。生の本能による行動は社会的ではない。食べる本能や、性の本能は、それが社会的な多くのことを生み出すが自由ではない。社会内における自由の状態と、社会内における自由な活動とは全く相違する問題である。自由の状態とは社会的に自由な人が干渉されない状態であるが、自由でない状態とは社会内において規範が存在するか、他の人によって干渉されるかによって自由でない状態のことである。その自由な状態のなかで自由な行動がなされるが、自由な行動がなされない場合もある。遂に自由でない、他人から干渉されている場合でも、あるいは、それを禁止する規範がある場合でも、その規範や、干渉に抵抗し、反発して、服従せずに自由に自由な行動をするという場合が

 

 

P557

 

存在する。これを不服従とか、干渉を排除するという。バーリンのいう消極的自由は主にこの不服従と、干渉を排除する目的で書かれたものである。

 

 

P558

 

対人関係と自由

 

 シュタイナーが自由の問題を内心の問題ではなく、対人関係における社会的な問題のみに限定しようと考えるのは、社会的自由や政治的自由に自由の問題を限定しようとするものであって、ミルが自由意思論をとりあげないという宣言を『自由論』の最初にしなくてはならなくなったのと同じような考え方によるものであったと考えられる。

 人間の精神の根本を対人関係においたのはハリー・スタック・サリバンであった。彼は社会的な精神のことを考えていたと解釈できる。あまのじゃくの概念についてもそれらを社会的な問題としてとらえたことには深い意義があると考えられる。その他の精神も社会的なものとしてとらえた。

 

 

P559

 

物のみで動いている社会が成立しうる可能性は何兆分の一でありうる。すべての人が唯物論で動けばよい。

 フロイトや、マルクスのいっていることが、彼らの心の中だけでおこったことであったとしても、人類すべてが同じ考えになれば、それが現実的なことであっても、それが現実になりうるという意味では現実的になりうる。その意味ではそれが何兆分の一の確率であっても否定できないからといってそれが真実であるといいうるであろうか。それはいいえない。何兆分の一の確率で真実であるといいうるのみである。マルクスや、フロイトにいくらそれはあなたの心のなかだけでおこったことだよといったとしても、それは彼らの心の中では何兆分の一の確率で、弁証法的にはありうるよといって否定されるのである。その意味では、そこに学習、労働者の学習というものがありうるし、何兆分の一であるという意味では特別な意味での精神病といいうる。それが秘

 

 

P560

 

密性と、批判(良い評価)の強制と、他の人々の公平な評価の排除につながっている。

 良い評価とは多くの議論のなかで生まれるものだ。しかし非現実な考え方が現実化するためには強制によらねばならないのであり、ここに非現実な考え方への良い評価の強制が生ずる原因がある。何兆分の一の確率の存在する理論であっても、唯物論やらをすべての人が強制的に「学習」させられてしまえばそれは真実となるという理論は成立するであろうか。成立する。すべての人が唯物論に良い評価をして唯物論で動くからである。

 

 

P561

 

 人間の行動は、マルクスのいうように経済のみによって、フロイトのいうように性本能のみによって、ヒットラーのいうように自由なくして権力のみによって決定されているのではなく、様々な因果関係によって決定されている。自由な部分もあればそうでない部分もある。

 

 

P562

 

社会科学方法論における社会

 

 「継続的な恐怖と暴力による死の危険」が存在するから、「権力とつよさ」を一人の人に与えて政治が存在するのである、とホッブズは考えた。自由の危険性の概念と権力とつよさを政治に与えてそれに依存するということを意味している。この概念は、アダム・スミスの「見えない手に導かれ」、「社会の利益を促進する」ことができる個人の利益の追求の概念を独立した依存しない人の行動とみることと矛盾しないのだろうか。

 「行動、思考、及び感覚の諸様式」を統制するものとしての社会という概念を社会学における社会の概念のなかに求めたデュルケーム。

 

 

P563

 

 そのデュルケームが社会をすでにあるものとして、総体として、客観的、自然科学的にみようとする学説は有機体的社会観につながる。それにたいするA・シュッツの相互主観の問題は自由な人間の総体としての社会を研究の材料としていることになる。歴史の特殊な事件と、一般的な原則との関係は、つまり、自由な因果関係を自由な人間のなかに認めるかどうかにかかっているといえる。マキャベリーが歴史をみる時には、政治を一般的な法則として求めようとしながらも、自由な政治的人間を求めようとしたのである。ここにマキャベリーが人間には半分以上の自由意思があるかもしれないといった理由があり、彼がフォルツナとともに、ヴィルツゥ(徳)を政治において重視した理由でもある。しかし状況の変化によって伝統主義が出世するのか、斬新主義が出世するのかが分かれるように運命も重視したのである。

 

 

P564

 

自由の観念のない社会

 

 社会主義における社会は、普通一般の社会とどのように違うのであろうか。社会主義における社会は物のみに支配された社会である。資源を平等にして自由をそのまま自由にしておくならば普通一般の(自由な人間の)社会であるが、資源を平等にして自由を殺した物のみで動く社会のことであり、唯物論の社会なのであり、唯物論を信じない人々は存在してはならない社会のことであり、物以外の自由は存在しない社会である。デュルケームのいう社会は社会という客観的で自由でないものが存在するという社会である。しかしその社会も一部は自由であったはずである。自由からはじまった社会を、自由なしでみることは正しい社会の見方とはいいえないであろう。

 

 

P565

 

人間関係と社会

 

 人は平等に生まれるわけではないから、自らの境遇によく似た二、三人としかあまり長い時間はつきあわない、その方がコミュニケーションがよくとれるという人がいるかもしれない。しかし何億人という人の社会というものも考えることができる。しかしいずれにしても人間は本能以外の部分は自由な存在である。フォーマルな社会と、インフォーマルな社会という区別は組織論、国家組織論のなかでも、自由と、自由な社会という観点で東西冷戦後の再構成を迫られていると考えられる。

 

 

P566

 

自由の社会心理

 

 ベイの『自由の構造』におけるハリー・スタック・サリバンの人間関係論と自由論との関係の記述はあまりに文献学的であり、ほとんど実感をもって伝わってこないし、フロイトやフロムの記述と自由との関係の記述についても文献的であり、あまり実感はわかないが、その着眼は大いに参考となる。それはカリフォルニア大バークレー校の権威主義に関する研究や、フロムの研究に言及している点でも自由、社会心理における自由の研究の先駆的なものであるといえる。しかし、グリーンシュタインの政治心理学や、政治的社会化の理論とはことなって自由に関する研究の一部としてそれらを研究したことは特筆に値するものである。安全、それは自由と関係するだろうということの着眼、安全でないこと、不安がまた自由ということと関連するであろ

 

 

P567

 

うということの着眼も特筆に値する。しかしこのことはあまり普及しなかった。逆に同じ年に発表されたバーリンの「二つの自由概念」のなかの「真」の自我と、経験的自我の対立の考え方は世の中をあっといわせた。しかしそれを継ぎ一般化するような研究はほとんど生まれなかった。バーリンはこの二つの自我論を、二つの自由論程には徹底的には解明してはいない。このことは残念ではあるが、今後の社会心理学が解明していかねばならない研究である。

 

 

P568

 

社会における衝突しない自由と規範(範)

 

 あまりに多くの他人を知りすぎると、自分の動きがとりにくくなる。かといって他人のことを気にもかけないでいると、他人と衝突することがある。他の人々のことを考えて、平等な配慮と尊重(日本でいえば世間かと思う時もある)をもしながら、自己の主張も行なっていかねばならない。自己の主張をしながら自然にノリ(範)を越えなくなるのは小さい頃に他人のことを充分に考えたからなのであろう。

 人間はある程度をすぎると判断停止をせざるをえなくなるのだろうか。それを結論としてよいのであろうか。あまりに他人との平等のことを考えすぎると、相手の自由な行動が全く分からず、全く行動ができなくなってしまう可能性があるし、それはつまり全く自由ではなくなってしまうかもしれないからである。

 

 

P569

 

この場合自由にやったとしても、「見えざる手」や、神の見えざる手によって平等が達成されるだろうと考えるか(アダム・スミス)、あるいは、不平等になったらその時点で平等になるように努力しよう(ジョン・ロールズの考え方)と考えておいてそれまでは判断停止をするしかなく、アプリオリな概念である自由に従おうと考えるなどの方法が社会的には考えられる。

 

 

P570

 

自由な選択の積み重ねとしての自由

 

 ある積み重ねられた自由な選択の結果が現在的なある人間にとってのある状態であるといいうる。更に新たな自由な選択によって次の状態が作られている。しかし一旦その自由な選択が悪かったとして修正しようとする時には昔に選択されたものを白紙に戻して、もう一度別の選択をすることになる。これを解放とか、回心とかよぶとすれば人間は自由になりうる存在であるということができる。

 

 

P571

 

自由の構造と自由の制度

 

 自由は無であり、構造はないが、自由を規制する規範(制度)は有であり、構造がある。自由を規制する規範(制度)を新しくし、より自由な人間に適するようにすることは妙々にとってそれが政治的な自由の意味である。

 自由民主党が我々にとって足かせとなり、新しい自由のために障害となっているのならば、また日本共産党がそうであるならば、そのような障害は新しい自由のために取り除くべきである。古い制度や政党は時代が変化すればそのようになりうることはありうる。現実にそうなってしまっているとはいえないが。アンシャン・レジームというフランス革命時代のことばはそのような制度をさしていたといえる。新しい自由は制度そのものを変化させるであろう。人々が依存的ではなく、独立的になってくればくる程依存的な制度はアンシャン・レジームとなることはありうることである。

 

 

P572

 

 体制や政治的な制度や政党などは耐えず政治的な状況に左右されており、古くなってしまったものは新しい状況に対応しなければならなくなる。これが制度化や、適応とよばれるもである。政治が柔軟性をもつとはそのような自由さを常に有していることであると考えられる。

 

 

P573

 

自由を拘束するものの社会的統計

 

 自由に人間が行動するからといっても、人間は様々なものに拘束され、束縛されているのであるから、ある同じものに拘束されている人々は、ある同じ選択をすると予測ができるかもしれないし、他のある同じものに拘束されている人々は、他のある同じ選択をするかもしれない。これによって社会全体を一つの方向に動くだろうとか社会調査や、理念調査や、世論調査によって予測できるかもしれない。これは統計学の範囲のことであって社会科学や、そのうちの政治学はそれを応用することができるかもしれない。

 その統計を行なうにあたっての基礎理論は政治学やらの社会科学によって形成する必要があると思われる。どのような拘束を受けている人が、どのような結論を出すのかについての基礎理論が調査にあたっても、調査後の分析においても必要であると思われる。労働者階級ということばによってではなくて、他

 

 

P574

 

の社会のクラス分けをするためには、自由を拘束するものが同じ人々をクラス分けをすればじゅうぶんなのであって、それがマルクスのいっている階級である可能性はまずないといえる。労働者にも富裕な人もいれば、貧乏な人もいるし、絶対的窮乏化説の誤りはほぼまちがいなさそうだからだ。

 

 

P575

 

確率論におけるベイズの定理

 

 自由な人間が自由な人間とともに作る「あいまいな」社会は一つの法則を確率論的に持っているだろうか。人口急増時の社会と、人口減少期の社会とを確率論は、自由に、あいまいに予測できるであろうか。統計学おいて社秋価額においてもあてはめることのできる定理はベイズの定理である。この定理は人間の自由を前提としているといえるであろうか。その点はこれからの研究がまたれるところである。

 私は自由な社会が、「本能の代置物としての自由」のある社会であるととらえているので全く悲観的に考えないので、ロールズのようにマキシミン(Maxmin)のルールをとる必要はないと考えるが、自由の危険性の絶大さを考えるとマックスマックス(Maxmax)の原理も人間社会においてはとることもできない。従って人間は動物と同じくらい普通の動物であるという立場

 

 

P576

 

自由な人間が悲観もせず、投機的にもならず、オプティミスティックに楽観的に確率論的に生きている社会を想定するからベイズの定理が自由な社会ではもっともよくあてはまると考える。

 

 

P577

 

法が自由を許していても、積極的自由が充満している社会がある。

 「〜する自由」を積極的自由とよぶとすれば、各人が自由の状態におかれて他人に干渉しないで自我の実現へ努力するのがフロムのいう積極的自由であるが、バーリンのいう積極的自由は各人が自由の状態におかれていても他人に干渉する積極的自由を一人の人や、多くの人が持っているために、各人は全く自な活動ができないという場合の、他人に干渉するそのような自由のことを積極的自由と名付けたのである。そのような積極的自由を統治のみにバーリンは限定しているが、統治をそのような積極的自由が政権奪取により取っている場合以外においても、人々の多くが不寛容な思想を持っていて他人に干渉しあっているような社会においては、自由が法や、制度によって許され、法的制度として自由の制度が確立されているとしても、各人は自由を干渉されて、自由を妨害され、自由であるとはい

 

 

P578

 

えないことになる。クー・クラックス・クランのような団体が数多く存在するとすれば、法や制度がどのように多くの自由を認めていてもそこで生活している人々は自由を減少させられていることになる。そのようなバーリンのいう積極的自由が充満している社会においてこそ、バーリンのいう消極的自由が認められていなくてはならないということになる。

 このように統治以外における積極的自由がみられる場合について、バーリンは特に指摘していない。しかし地位の承認の章や、多数派の専制などはそのような積極的自由の見地から分析できない。

 

 

P579

 

第十章 私的領域と、公的領域・私有と共有

 

 

P580

 

公的領域と私的領域

 

 バーリンの消極的自由は干渉や、妨害がない状態をさすものだとすれば、法の関知しない様々な領域は政治や法から自由、法や政治の規制や干渉から自由であるということになる。法や政治の関与する領域を公的領域とすれば、消極的自由のある領域は私的領域のことである。

 共同所有が近代的であり、私的所有がアンシャンレジームであるが、その逆であるかはどのようにしていえるのか。共同所有の場合共同の共有者全員の自由は全員一致でなければ実行不可能な場合があるのは、マンションの建て替えの例では存在するが、そのほうが近代的であるのか、戸建て住宅の方が近代的であるのかは、不明であろうし結着はつきそうにないが、処分の自由性は私的所有のほうにあるであろう。しかし私的所有も全体としてみれ

 

 

P581

 

ば私的所有と、私的所有の間には公共用の道路などの共同所有が介在しているのであるから、区画整理を全体として法に従って行なおうとする時には私的所有の自由処分性は、公共用道路のために私的所有の戸建住宅が買収される時にも「公用地収用法」によって制限されることになる場合がある。ただ私的所有の領域が大きくなればなる程、自由処分性が大きくなることだけは確かである。この場合には共同所有は総体的に少なくなっていて、社会的に私的所有の自由処分性は多くなっているといいうる。

 

 

P582

 

公的領域と私的領域

 

 公的領域の範囲外において各個人が平等であるかどうかについても、平等論はとり扱うが、干渉されない消極的自由論は公的領域の範囲外についてはただ干渉されなければよいのであって何らとり扱わない。

 私的な領域はある意味では私的所有の厳正となっているという説を提起すれば、それは証明できるのかという問題提起がなされるであろうが、消極的自由を証明するのと同じ程度にこの問題を解くことは困難である。

 共同所有が化ならずしもバーリンのいう積極的自由をもたらすとはいえない。

 

 

P583

 

私的所有と個人の責任と、権力の減少

 権力の強大さと共同所有の強大さとは同じことか。共同所有の量が多ければ多い程私的所有の量は一国内では相対的にではあるが少なくなる。権力は一旦握られると次にくるものを排斥して腐敗していくことになる。権力を小さくすることは、私的所有の範囲を拡大することに伴うかもしれない。干渉されない範囲を求めることは歴史的に私的所有の範囲を拡大する政治運動になるかもしれない。しかし私的所有には責任が伴うことがバーリンのいう「強者の自由は弱者の死」ということわざの意味のなかから導出することができる。これは税の思想のなかでは固定資産税という考え方のなかに、人頭税の思想とは逆の意味をもったものとして、意味として含有されている。一人の人の所有が多くなることは、他の人の所有が少なくなることである。従って多くの「私的所有=固定資産」をもつ人は多くの

 

 

P584

 

固定資産税を支払わねばならないという思想である。これは所有に責任が伴うという思想であり、人頭税が個人個人が主権をもつということに責任が伴い、努力する義務が生ずるというのとは対照的であり、人一人を一人と考えないで、多くもつ人は多くという考え方である。

 

 

P585

 

固定資産評価額の情報の公開とプライバシー

 固定資産の評価額は各個人のプライバシーの権利に属するので、他人は見ることができないことは現在の日本の最高裁判所が判例として認めている。これにたいしてアメリカでは他人は他の人の固定資産の評価額、所有者を知ることができる。韓国においても地価の公示という形で評価額を知ることができる。プライバシーの権利に属するかどうかは、国会において左右の両派がどのようにして合意に達するのかという立法過程の問題であろう。各人が自分の責任によって得た所有をもって得た固定資産の増減については、身にやましいことがないならば左右両派はプライバシーの権利から除外して、固定資産の情報の公開が行なわれることになるだろう。国会議員など議員の固定資産の公開についても同様である。固定資産のうち登記されている部分については公開されているのであるから、固定

 

 

P586

 

資産税の評価額の情報の公開とプライバシーの問題は、市町村の行政の問題ではあっても、政治一般とも深く関連している。

 

 

P587

 

内部志向と外部志向

 

 自由の向きに関していえば、フロムの積極的自由は内心に向かって自由を発揮しており、内部志向的といえそれはバーリンの自己否定や、自己実現とは全く逆の立場を指しているといえ、バーリンのいう積極的自由は自己の自由が外部の人人に向かって使用されているのであって、それを他のことばで表現すれば外部志向的である。「外部志向」型人間と、「内部志向型」の人間という区別を別の形で表現しているといえる。

 

 

P588

 

 人口減少期には消極的な干渉されない自由が多くなり、逆に人口増大期には積極的な干渉する自由が多くなるのはどのような理由によるのであろうか。インドのような国では自らの知らない間に干渉する自由が多くなっている。これはそのままでは平等が達成されないからであろう。長男、長女のみが継ぐ社会であれば不平等が拡大しないが、人口増大期には他人志向型となり、三男、四男の多い社会となり不平等が拡大するのがその理由かもしれない。干渉されない自由の範囲が拡大すればそのなかでの自己(内部)志向型の人も多くなる。この場合の内部とは干渉されないという意味とほぼ同じである。

 

 

P589

 

 人口の爆発期他人志向型、バーリンの積極的自由、干渉する自由を求めることが多くなるのはどのような理由であろうか。

 もしも兄弟の多いことからくる性格の傾向の方が他人のことについて多くの時間を割いて考え込んでいるという性格の傾向が生みやすいのであるならば、それが理由である可能性がある。

 その考え込みは他人志向型、あるいは、他人への干渉という形で、自民族の優秀さや自己の先租の優秀さや、自己以外のものの優秀さによって、高い自我となり、その自我を他人に干渉し押しつけるものとなる。

 兄弟間の平等という原則を考えるならば兄弟姉妹の数が八人であれば、両親の経済資源は四分の一となる。もし経済がゼロ・サムの状態で成長しており、プラス・サムの状態でなければそのようにいいうる。

 

 

P590

 

財産権(所有権)の制限と資源の平等と合理性

 

 「言論の自由を擁護することと、ある種の財産の利用の権利を否定することが矛盾しないこと」についてドゥウォーキンはバーリンのいう消極的自由の一般理論が否定されているのだという主張をなす。彼はその場合には外的選考や、平等な配慮と尊敬という平等論によって、より自由が削減されている人々の権利を擁護するのだと主張する。しかし財産権の公的侵害が許されるケースがあるとしても、そこで侵害される財産は資源であって稀少な資源であり皆が譲りあって生活しているようなものであるということが忘れられて議論がなされているのではなかろうか。経済的な資源の場合にはある他の方向の自由を捨てて、ある一つの方向の自由を選ばざるをえば

 

 

P591

 

いという場合が存在する。ところが言論の自由の場合にはマスコミが巨大な資金を使っていう場合と、個人が何の金も使わずにいう場合とでは後者の方こそ言論の自由を守るべきであるが、それが公益に反する場合にはどのような理由付けによって自由は制約されうるのであろうか。

 実際の事例としては土地収用法のケースが考えられる。道路用地として買収されていた用地のうち最後の一人に対してどのような理由付けによって土地の収用がなされるであろうか。その人が収用に応じれば道路ができるが、応じなければ何百年も道路ができないということになる。道路として売った方が経済合理的であるのに、不合理な行動としてそこに居すわる場合である。

 

 

P592

 

人間の本性としての利己性と利他性

 

 人間は平等でないことを知っていながらも、自分の自由を貫いて活動したがるものである。しかし利他的に義賊に分配する心ももっている。その双方をもっており、人格の成長とは平等でないと思う時には義賊に分け与えることであるといえるだろうか。利他的性質の成長こそが人格の成長と考える考え方を、利己的な性質を排斥するという観点からのみ批判する考え方があろう。バーリンの干渉されない自由は利己的な人間の性質を重視し、利他的な人間の成長を妨げるものであろうか。バーリンの著作からそうとらえられるような言説は見受けることはできない。ただ自由は社会的な自由の妨害を排除するという観念を最優先してとらえるべきだといっているのみである。しかし「利他的性質が人間の人格の成長である」という命題はどうしてもある種の利己性の排除の強制を伴っているようにみえる。利己性と利他性は時間的継起に伴って共存できると考えることのほうが正しいと思われる。

 

 

P593

 

外国人と自国人。それを越えた人間の自由と、それを侵害する狂気。

 民族自決の原則があるのに、他の国において人権を抑圧されているある一人の人を、他の国が人権を救済することを正当化できる理由付けは外国人と自国人の区別が少なくなってきていることを証明しているかにみえる。政治にとってその一人の人の自由が干渉されていることは人類にとって許しがたい行為であるというわけである。人間が狂気であるかどうかは他の一人の人が自由を奪われているかどうかを見過ごすことができるかどうかにかかっている。バーリンならそういうであろうし、ほとんどすべての人がそう考えるであろう。それは国を越えている。このことについてロールズや、ノージックは気がついていなかった。どちらも国の主権にこだわっていたために国の主権をこえた人間共通の本性について気がつかないで、この問題を解こうとした点に誤りがあったと思われる。

 

 

P594

 

干渉されない範囲と縄張り意識

 動物における縄張りは自らの干渉されない「範囲」を線引きするものである。その範囲は一人があまりに多くをとれば他の人々は相対的に少なくなる。フロンティアがない場合にはゼロ・サムである。また子供の数が多い場合には「相続」によって一人当たりの子供に割り当てられる縄張りの範囲は少なくなる。従って相続しないか、少なく縄張りを相続する子供は他のフロンティアを探して自分の縄張りを確保するようにつとめなければ自分の親と同じ程度の縄張りを確保できない。魚のアユはこの縄張り意識を本能的に持っており縄張りをおかした他のアユを攻撃する。この性質を利用してアユ釣りがなされる。

 人間が所有権の絶対性・不可侵性を主張する場合はこの縄張り本能に似ている性質を主

 

 

P595

 

張することになる。一方縄張りを主張しない動物本能があったとした場合、それに似た人間の所有権に関する主張は所有権の制限を公共的に容認する主張とその性質において近いことになる。人間がそのどちらであるのかについては法や政治のあり方、また経済や政治や文化の状況(環境)のあり方とかかわってくる。人口論や地球の資源の有限性に関する主張は応々にして所有権の及ぶ範囲が少なくなってきているという危惧にもとづいている。

 

 

P596

 

縄張り意識と所有権の暗喩

 

 人間のなかに縄張り意識がなかったとするならば、ロックのいう自然状態(the state of nature)においては所有権(proterty)がなかったかもしれない。もし自然的な状態においても人間に縄張り意識があったとするならば、所有権が存在したことになる。人間が自分の範囲を定め、占有し、そこに寝起きしていると考え、自らそこを掃除し、使用種駅しているのだと考えるならば、所有権の概念が定まっていなくても、その範囲については妨害排除の考え方が存在し、縄張りの権利があると考えているだろうと考えられる。私達は動物であっても、縄張り意識があると見受けられる多くの現象を見い出すことができる。しかしそれは現在の所有権と同じような権利の範囲が定まっていたとは考えられないから、この縄張り意識と所有権との関係は暗喩的なものである。

 

 

P597

 

共有と自由の主体

 

 共有の問題と、自由の主体の問題は共通した点をもっている。共同所有であれは共同の自由な所有者全員で、自由意思を決定しなければならない。全員で意思決定する場合の政治的過程は政治を構成する。

 

 

P598

 

干渉する主体、集団の自由の主体

 

 集団の自由に干渉する主体と、集団の自由の主体とは相違する。共有における意思決定が個人のみではできないからといって、それは他の人の意思決定を干渉していることにはならない。自らが共有であるマンションを建て替えたいと思っていても、マンション内の他の人が建て替えたくないといっている場合には、自らの意思は他の人の意思によって干渉され、制約されているといえるかもしれない。不動産において先に占有されているものを競売によって取得したとしても、先に占有している人は強制執行によらなければ立ち退いてはくれない場合がある。また公共道路の用地買収にあたって最後の一人が小さな用地の買収に応じてくれない場合にも、公共用道路の建設の意思も妨害されていることになる。マンションが共有の場合にはその全員の意思がマンションの建替の自由の主体となるし、個人の反対はそれを妨害

 

 

P599

 

していることになる。競売の場合先に占有している者は、所有者の自由処分性を干渉しており、干渉する主体となっている。公共道路の買収の自由を、用地買収に応じない最後の一人が妨害していることになる。この三例ともともに全体が一致した意思にとうたつしなければ、全体としての自由は存在せず、その全体としての自由にたいして、個人の自由はそれを干渉し妨害していることになる。しかし全体としての自由という観念が消えると同時にそれぞれの個人の自由は戻ってくることになる。

 

 

P600

 

ヒレル・シュタイナーの自由論

 

 「脅威は個人的自由に影響を与えるといえる」(threats can be said to affect personal liberty)とシュタイナーは述べる。そして所有を定義して、「ある主体とその人の占有する物理的空間の割合の関係及び、ある主体とその人の占有する物的対象との関係である」(The relation

between an agent and a portion of pbysical space which he occuyoies, and anagent and a material object od which he disposes, is commonly called possesion.)として、自由とは物理的対象の個人的所有のことであるという理論を組み立てる。 (My theorem is, then, that freedom is the personal possesion of physical objects.)そしてまた、所有とは「主体と、対象と、その他すべての主体の間でおこる三者関係である」(Possesion is thus a triadic relation obtaining between an agent an object, and all other agents.)という。「もしXとその二人だけの主体しかいなければ、Xの自

 

 

P601

 

由の程度と、Yの不自由の程度は、共にXの所有の程度の関数である。」このことをシュタイナーはバーリンの「ある人々の自由はその他の人々の自由の制限に依存せねばならない。」(the liberty of some must depend on the restraints of others’.)ということばを引用して証明しようとする。(If there were only two agents, X

and Y, the extent of X’s freedom and of

’s unfreedom would both be functions of the extent of X’s possessions.)

 

 

P602

 

ヒレル・シュタイナーの所有と自由との関係

 富者の自由が貧者の不自由となるゼロ・サムの社会においては、富者が規範意識を強くもって、利他性を発揮し、貧者に物を分け与ることは禁欲主義となるのか、快楽主義となるのか。王や富者が禁欲主義をとることは貧者の自由を増すと考えるのは、ゼロ・サムを重視する場合であり、富者が快楽主義をとり大量消費をした方が社会的、経済的に「経済循環がうまくいくので、貧者も裕福になると考えるのは、富者が使った、消費された金が貧者をとますと考える経済循環主義の場合である。

 貧者が禁欲主義をとると、自らの地位や立場に足るを知って満足してしまうということが考えられる。

 

 

P603

 

私的所有と精神の安定性

 

 私的所有権を多くもっている者は精神的に安定しているが、私的所有権が少ないからとしっとしている人間は精神的に不安定である。私的所有は縄張りのようなものであり、それが精神的な安定をもたらすのはそれが人間の本性である自由にねざしているかもしれないし、生の本能のためにはそれだけの縄張りが必要だということかもしれない。

 

 

P604

 

私的所有者も、一私人として平等な配慮と尊重をするから、干渉されたくないと主張する場合がある

 

 平等な配慮と尊重の考え方が所有権を制約するという時の主語は政府であり、個々人の私的な主体ではない。私的な主体自らが自発的に博愛によって所有権を制約することは考えていない。自由を制限するものが政府であるとするならば、その干渉や制限を排除する主体は私的な主体となり、自らの力で平等を達成するのであるから干渉はいらないという論理で、政府の平等な配慮と尊重の考えに対抗する自由を求める政治運動を展開するかもしれない。それはリバタリアンの運動となる。つまり、ドゥウォーキンのいう平等な配慮と尊重を私的な主体が自発的に行なうとすれば、自由な動きに干渉されたくないという動きが私的な主体からおこってくることになる。これはドゥウォーキン理論の一つの欠陥となる。

 

 

P605

 

所有と所有の関係

 

 Aという家計と、Bという家計の資産と負債と資本を共に考察するということは、Aの総価値の増大はBの総価値の下落を示すものであるから、AとBの所有を考えればヒレル・シュタイナーのいう通りに相■的というのはあまり重要なことを指摘していないし、また、それはゼロ・サム社会でも、トータルで増価している社会でも同様であり、利他的と利己的の交換の連鎖とみる方が正しい。

 

 

P606

 

私的所有の概念

 

 私的所有の概念はアリストテレスの見方によればギリシャ時代にも存在したようである。奴隷制度や、共同所有制度や、家族制度の存在と併合して私的所有の概念もあったと思われるが、それが人間の本性的感覚としてのみであったのか、法制度として結実していたかは不明である。

 

 

P607

 

消極的自由のなかから生ずる同時履行の抗弁権は消極的自由の対立と解消といえるか

 干渉されないバーリンのいう消極的自由がもしあるとすれば、それが有効に社会的機能を果たすためには消極的自由が処分の自由性を有しているがゆえに発生する同時履行の抗弁権と契約の自由はある程度平等化へ社会を動かす機能をもっているといえる。貧乏であるからという理由で高くしか売らないといわれれば、富裕な人もより高く買わざるをえなくなる。これで貧乏な人はより富裕になる。これは税により徴収する時の原則、最後の一円が貧乏人と富裕な人ではちがうから、税の機能により平等化がなされるという税の機能に似ている。公共の税が平等化する機能をもつように、民間の自由契約が平等化する機能をもつことがありうることの一つの例である。

 

 

P608

 

 交換は消極的自由や、私的所有の結果生まれるものではあるが、それはその上に同時履行の抗弁権が存在してはじめて成立するものである。

 

 

P609

 

共同所有と干渉されない自由

 

 共同所有のなかには、干渉されない消極的自由は存在しないのだろうと考えられるし、全体主義のなかにも干渉されない消極的自由は存在しないだろうと考えられる。共同所有や、全体所有の本質はこの干渉されない消極的自由が存在しなかったことかもしれない。秘密警察や、強制収容所や、それへの密告社会が東西冷戦中にも存在したこと、また、共有社会や全体主義のなかにおいてもそれが存在したことはこのことを証明しているのかもしれない。現代の共同所有と私的所有の混合社会においても、共同所有である公務員の社会や、私的企業の官僚組織内においては、このようなものが存在する。これが官僚や、役人の批判につながることがある。それが的外れ場合があるとしても干渉されない消極的自由が求められている可能性(妥当性)が存

 

 

P610

 

在していることはありうる。

 共同所有は組織的な意思決定によるしか処分の自由性はない。各個人には処分の自由性はない。その意思決定が社会契約とかどのような理論によろうと、そこには集団の自由性しかない。

 

 

P611

 

国家所有から、私的所有への移行

 

 一部の国で国家所有から私的所有に経営が移行した理由は何か。人間の自由意思の所有によるのであろうか。国家所有は国家への依存を生む。そこでは右翼と左翼を生む。その中間には私的所有があり、独立がある。独立のなかには自由がある。

 

 

P612

 

共同所有から私的所有になった時に人は自由になったと思って喜ぶ。私的所有は、消極的干渉されない自由が存在するからというわけではなく、自由に処分ができるという意味でも人間本質的な自然的自由の観念と合致していると考えられる。逆に共同所有においては共同である処分の自由をえられた時ではないと、人は自由とは感じない。ただ共同所有に私的所有がなったからといって喜ぶ人はいない。

 

 

P613

 

共同所有者同志における意思決定過程における自由

 民法の範囲内のことであるが、共同所有のなかにおける自由を考える一つの例は、マンションという共同所有形態における意思決定の自由をどのように定めるかという法律上の問題がある。古くなったマンションを建てかえるにあたって何分の一の同意があればマンションを建て替えることができるのかは、他の共同所有における意思決定と同様な問題を提起している。一人だけ反対したら、誰もが建て替えできなくなるのか、強制はできるのかという問題が常に共同所有においては発生する。ドゥウォーキンが所有権については平等な配慮と尊重があれば足りるというが、この場合はそれだけの問題ではなさそうである。各人の自由と、合同の意思決定の問題でありそうである。

 

 

P614

 

共有は何によって私有となるのか。私有は干渉されない自由と関係する

 現実の社会で共有が自由によって私有になるという時の自由は、自由な選択でも、干渉されない自由でもない。それは何か。所有にたいする好みか。所有の楽しみか。あるいは共同で決定することにより、自分の決定と異なるかもしれないことが嫌いだからか、自由処分性を好むからか、独立性か、個人の自由性を集団の自由性より好むからか、人間の個人性のためか、それが善であるからか。このうちで正しいのを決定するためには、それぞれのことばをこの文章のなかにそう入してみて、最もぴったりとするものを選択するしかない。

・共有は自由な選択によって私有になる。

・共有は干渉されない自由によって私有になる。

・共有は所有に対する好みによって私有になる。

・共有は所有の楽しみによって私有になる。

 

 

P615

 

・共有は共同で決定することにより、自分の決定と異なるかもしれないことが嫌いだから、私有となる。

・共有は人間の独立性により私有となる。

・共有は、個人の自由性を集団の自由性より好むから、私有となる。

・共有は人間の個人性のため、私有となる。

・共有は善のために私有となる。

 これらはいずれも正しそうな命題である。相続によって多くの人が共有で取得した財産を、人が分割(私的)所有権とする場合を想像すると、その理由のなかのどれが相当かは個別的であるようであるが、すべてもっともらしく思える。このように社会的な命題はどれかが一般的に、すべてのケースにあてはまるような命題はなく、各人が自由な存在であるということを前提とすればすべて相対的に真であり、相対的に正義であるかもしれない。なかには共有のままでいこうと期待する

 

 

P616

 

相続人がいるかもしれないし、そのように期待してもその他のすべての人が私有にしてしまったので、私有であることを強制される人がでてくるかもしれない。あるいは共有であるように説得してまわり、共有のままでいくようになり、自分が早く死んで、またその相続人が共有か、私有かでもめるかもしれない。しかし一般的にみれば、私有になることの方が多いかもしれない。各人各人がいつ死ぬかは全く別々であり、その子供の数も別々で違うからである。

 このように考えると、人生が、また人間が別々であることが私有を発生させるのかもしれないが、私有の量の相違はまたしっとや、ねたみを生み出し、平等化への力が働くかもしれないし、日本の相続法も平等を原則として相続物の分割をすることを要請してもいる。他人の所有物をうらやむということが、しかし、ルソーのいうように人々の争いや、共有化への力となると考えることはほとんどできず、ロールズの第

 

 

P617

 

二原理が自由のために働くと考えるのが妥当であろう。

 しかし干渉されない消極的自由が、そう考えるとしても、これらすべての裏側で働いていると考えることは、・から・の例の裏の意味を考えれば明きらかとなろう。

 

 

P618

 

第一四章 一九九一年東西冷戦終了以後の現在の自由

 

 

P619

 

東西冷戦後の自由論

 

 第二次世界大戦は現在の自由論に莫大な影響を与えた。フロムやバーリンやベイは第二次世界大戦直後に様々に自由について論じた。それでは現在の東西冷戦直後においてはどのような自由論が展開されるのであろうか。第二次世界大戦は全体主義に対抗して自由主義が勝利をおさめたが、東西冷戦は社会・共産主義に対抗した自由主義陣営が勝利をおさめたといえる。しかしそれは自由主義が平等主義に勝ったといえるのではない。社会・共産主義は平等ではなくて、モラールの低下した依存を生んだものと考えられるからである依存に自由は勝利したが、平等に自由が勝ったとはいえない。自由が見えざる手によって完全な平等を達成しうると証明できるならば自由主義は平等主義に勝利するであろう。クリントンやブレアがでてきたのは、社会・共産主義によ

 

 

P620

 

るのではなくて平等主義によったのだと考えられる。今後自由(人間の本質的な自由)主義による「みえざる手」の平等化過程が明白にされていけば、自由主義が最終的に平等主義のうえに位置して勝つことはありうるだろうと考えられる。自由のなかの平等を主張するところの「自由の構成要素としての資源・機会などの平等」の考え方は、そのような意味で最後の自由主義の砦になりうると考えられる。

 

 

P621

 

東西冷戦終了後の世界においては、新しい自由を求める市民は「第三の革命」を無党派層として起こしつつある。大衆は煽動によって自由を奪われることなく、また、国家の自由に自らの自由を譲り渡すことなく、そして政党の自由に自らの自由を譲り渡すことなく、無党派として「第三の革命」の主導権を握るかもしれない。第一の革命はマグナ・カルタにはじまる市民革命であり、第二の革命は産業革命であり、第三の革命は東西冷戦終了後におこりつつある革命である。

 

 

P622

 

 マキャベリーののいおうとした「イタリアの統一のためにはボルジアのような政治とか、政治家が必要だ」という命題は、東西冷戦の終結したあとでは統一がなったのであるから、何が政治であり、何が政治家であるといったらよいのであろうか。それでバーリンの干渉されない自由が政治であるというのか、ドゥウォーキンのいう平等な配慮と尊重を政治というのか。

 

 

P623

 

東西冷戦後の政治学と自由

 

 東西冷戦の終了で、東西両陣営の対立がほとんど解消されるとともに、それまでその対立のために制限されていた自由は、制限する理由とされてきたものがその対立であったものに限っては、自由化されることになった。東側陣営にあっては自由主義を賛美することも、共産主義を批判することもできなかったのにそれが許されるようになったし、西側陣営においてはその逆が許されるようになった。それにより新しい自由と平等についての考察が必要となった。それまで制限し政府により妨害されていた様々な自由な行為がどのような理由により制限し、禁止されていたのかが次第に哲学的に解明されていくことになると思われる。東西冷戦の時代の対立のうち自由と平等に関する部分や博愛に関する部分が、もしも(政治)対立の大きな部分を占めていたので

 

 

P624

 

あるならば、新しい自由と平等についての政治哲学上の、政治学上の研究は東西冷戦後の今日の政治学と、政治哲学の衷心的議論を占めうるものと思われる。

 自由と平等は本当に調和できるのであろうか。自由は平等をもたらすのであろうか。平等な資源や、平等な機会を確保することは自由なしでできるのであろうか。平等は自由の一要素であり、平等な資源や平等な機会を確保すること(平等な配慮と尊重をすることによってかどうかは別として)によって自由が平等に確保できるという論と、資源があってはじめて自由が可能となるのであるから、平等を論ずるのはただ単に資源を平等にし、機会を平等にしようと論ずるのみであり、自由論のなかに一部であるという論とはどういう論理的な差異があるのであろうか。自由と平等が確保されてから、博愛が生まれるのであろうか、自由を確保し自由な博愛の精神がついに平等をもたらすのであろうか。この二つ

 

 

P625

 

のうちどちらが自由と平等を調和させることができるのであろうか。東西両陣営は共に自由平等を叫び民主主義と称してきた。これを古い民主主義とすれば、東西冷戦後の新しい自由と新しい平等による民主主義はどのようなものとなるであろうか。自由が西側陣営の主なスローガンであり、平等が東側陣営の主なスローガンであったのだとしたら、その自由と平等は調和させることができるのであろうか。新しい政治と法の精神(心)はどのようなものとなるのだろうか。

 

 

P626

 

東西冷戦後のの政治と自由

 

 マルクスの経済のみで自由がないと考えるかどうかの軸によって東西冷戦後の政治が動くのではなくて、その他の選択の軸が自由に探されていかなくてはならない。自由とは、マルクスとは違って自由な選択があるということであり、それまでのマルクス主義の夢、理想は自由な選択をしないという夢であったのである。自由な選択のためには討議や、討論が許されなくてはならない。第二次世界大戦の終了後の日本の政治においてマルクスの社会主義が、飢餓と貧困のなかでの自由のなさを求めていくことは例外(限界)状態のなかでは必然のことであった。開発し経済成長が必要であったのだから、そこでの格差拡大の後の平等な自由をこれからは求めていく必要があると考えられ、そこにおける政策の違いを自由に討議する必要が生じたのである。そして自由に討議している間に政治的に大きな変化・東西

 

 

P627

 

冷戦の終了という大きな政治的変動がおこってしまったのである。そこでは経済的な自由のほかに新しい政治的自由が必要となってきた。

 

 

P628

 

東西冷戦後の主権と国家

 

 東西冷戦後においては東西の対立はなくなった。そこにおける自由は東西の対立やらからくる国家による強制や国家の秘密から解放されたものであるべきである。従って国家による干渉、バーリンのいう積極的自由は少なくなる。国家からの自由は国家間の対立が少なくなることによって達成されることがありうる。国家は対立の時代においては国家機密を守るために多くのことを禁止してきた。それは組織を守るためでもあった。そこには国家としての組織が必要であったのである。そのような他の国家からの脅威が少なくなったことによって国家内における所有権の観念や、主権の観念に影響が及んだとすればどのような影響が、どのような理由で及んでいるのであろうか。主権は様々な理由から生まれてきた。その理由のあるものが消えたゆえに、主権のうちの

 

 

P629

 

ある種の機能が東西冷戦の終結に伴って変容するか、その機能の一部が失われてきた可能性はあるうるが、それは主権の現実的な機能を詳細に分析することによってのみ分析が可能になると思われる。そこでは主権と自由との関連の考察が不可欠である。

 東西冷戦が終了することにより、主権は東側の主権と西側の主権というものがあったとすれば、それより高い主権のようなものができあがったといえる。これは大変なことだし、何事もバーリンのいうように一元論はよくない、多元主義によってしか政治の現実はとらえられないとすれば、高い一つの主権のなかに多くの国家や、集団や、個人が多元的に存在するようになったのであり、特にバーリンのいう積極的自由を行使する全体主義的団体は個々の集団やらに移ったのであり、今後はその違法性を確定させるような法理論や、政治理論や、哲学理論が必要となってくるのではないかと考えられる。個々の集団が、表

 

 

P630

 

現や出版の自由を侵したりする事件について、また不寛容な団体の積極的な違法性のあるような自由や、ガキ大将の積極的な非行やらをどのように抑えることができるのかというような政治社会学的理論が必要になってきたのだと考えられる。

 

 

P631

 

 東西冷戦終了後は人間は次第次第に依存から独立的な人間に、個人個人が変化していくのかもしれない。というのは東側陣営という巨大なものに依存することも、西側陣営という巨大なものに依存することもできなくなったからである。一つの地球全体となってしまったからには、どこに確固たる東西両陣営全体という大きな権威が存在するのかみえなくなってしまった。これは権威が消えたのではなくて、権威は様々に分かれたのである。その権威が全体としては権力のあるものではなくなった。それらに依存していた個々人は、依存するものがなくなったので、仕方なく独立せざるをえなくなった。しかし、突然独立せよといわれても、独立するためには知識が必要であるが、その知識は突然得られるものではないので、東西冷戦終了後の政治も人々も一見混乱状態に陥ったようにみえるが、個々人は仕方なく知

 

 

P632

 

識を権威に依存するのではなくて、自らの力で、地を流すような努力で習得せざるをえない羽目になっているのであり、早晩その知識は習得されるであろう。

 

 

P633

 

東西冷戦後の唯物論

 

 東西冷戦後の現在もかってマルクス主義の左翼を学んでいた人とそうでない人とに党派が分かれているのは、全く冷戦をひきずっているとしか見えない。東西冷戦後は依存と独立という別の党派分け、自由と平等という二つの党派分けを考えるべきである。マルクス主義の左翼は平等よりも依存を生んだという点を考慮すべきである。独立させても最後には完全に政府が社会権を保証するという体制をとるべきであろうと思われる。

 

 

P634

 

自由と独立|干渉されず、依存しないこと|

 東西冷戦の終結により個人の自由と独立が、真実のものとして人間が歴史上はじめてかく得できるかもしれない。国家が消滅したといえるのか。国家は最後の社会権の保証という点では絶対的に必要とあるのは、世間や社会がそのようにすべきである。しかしそうしない時には国家がそうすべきであるという理由からである。

 

 

P635

 

東西冷戦の終結の解釈

第二次世界大戦が終わり、全体主義が消えて世界は共産主義と、資本主義の日立つに集約されたのであり、そして東西冷戦の終結とともに、それらが一つになったのである。これは紀元二千年を前にした文明の一大転換であった。バーリンならこれを消極的自由と積極的自由の対立解消ととらえるであろうと思う。フロムはその逆の意味でその二つの対立の解消ととらえるかもしれない。あるいは兄や姉の妹や弟にたいする温情的干渉主義と、それにたいする干渉されない自由を主張する側との感情的対立の哲学的和解ということと理解する人や、男の権威主義に彩られたフロイトやマルクスの精神世界と、女性の子供を産む人間的な心との和解ととらえる人がいるかもしれない。

 東西冷戦の終結は、キューバや、北朝鮮や、中国(元の中共)が崩壊すれば、本当に東西冷戦をひきずった多くの防衛力の見直しに迫ま

 

 

P636

 

れるであろう。しかしそのようなことはささいなことである。もっと重要なことは人々の心がかわっていくことである。それは依存と独立という二つの相対立することばによってかわっていくと考えられる。人々が依存から自由になることは人間の本性に復帰することであり、人間がかわるということではない。現在でもインドのカースト制度の下でのように多くの人が依存に甘んじていて、ルソーのいっていたような制度の重圧の下にあえいでいる人がいる。戦争の重圧にあえいでいる人がいる。それにたいしてルソーの社会契約や、「自由であることの強制」はベイがいったような意味ではなく、また、バーリンが解釈したような意味ではなく、ルソーのいった意味での依存からの自由、依存からの解放という意味で支持された有効な力を発揮すると思われる。

 

 

P637

 

 東西の対立は共有と私有の対立であったし、依存と独立との対立であった。東西冷戦は積極的自由と消極的自由との対立であった。この対立が解消されたあとは、国家の観念が稀薄となってきた。そのあとには新しい規範と自由の観念や、国家観、家庭観が生まれようとしている。

 

 

P638

 

 我々は東西冷戦がそこにあるのだから、東側に見方する者は平等についてのみ思考し、自由をないがしろにし、西側陣営に見方する者は自由(干渉されない自由から生ずる私的所有など)のみを考え平等を考えることを判断停止してきたのである。しかし東西冷戦が終了し我々は自由と平等を共に思考しなければならなくなったのだ。

 ロールズに見方する(ibid, Talking Rights Seriousby, p.205.)ドゥウォーキンにとって平等の方が自由よりもより強い権利であるかもしれないが、自由を主張するバーリンにとっては自由の方が平等よりも強い権利だということになる。クリックや、フロムの自由な活動よりも干渉されない自由そのものがバーリンにとっては最も強い権利という主張になり、平等のことも知識人としてみとめるがそ

 

 

P639

 

のことについては判断停止をすることになる。他の人のことばかり気にしていては自由な行動はできないからである。

 ところがドゥウォーキンは裁判官の目になってみると平等の方が自由よりも強い権利、少なくともある個別的権利に関しては強い権利ではないかと述べているのであって、すべての人がマルクスのいうように平等のみで行動せよといっているわけではない。法に限っているのである。それはラズにしても同様である。T・H・グリーンが、すべての人に人格の成長を要求したのは資本主義の初期という時代の特殊な環境があったのである。環境はサルトルのいうように自由な決定に大きな影響を及ぼすからである。

 

 

P640

絶対理性を絶対的に強制することのなくなった東西冷戦後の世界

 マルクスらの絶対理性の絶対性が、認められる可能性があったのは、そこに国家主権という概念が存在していたからであった。この国家主権を奪取することは絶対理性の絶対性が認められることがありうるという一点に賭けてこのような絶対理性論は主張されたのだと解釈することができる。右翼の国家主義の絶対理性にしても人民主権の理論にしてもそのような絶対性をもっていたのである。ところが東西の冷戦が終結したあとにおいては、国家主権のこのような絶対性が全世界が単一の理性によって動いているのではないかという考え方に変化することはなかった。これは多元論ということはできない。多元な政治的主体が国家主権に影響を与えていくという考え方はあまり妥当であるとはいえなくなり、世界のなかに多様な主権があり、そのそれぞれに各種の政治的主体が影響を与えていると

 

 

P641

 

いえるようになったと同時に、各種の政治的主体は国連や、世界という莫然としたものにたいしても影響を与えるようになったといいえるのである。このような時代における政治は世界的なものとなったと同時に、個人的なものとなったといえる。主権はそれ程絶対的であるとはいえなくなった。ルソーの「一般意思」のように絶対的なものではなく、そのもととなった構成員個人個人が重要視される個人個人の総体としての主権という考え方に移行してきたのだといいうるのかもしれない。

 クリントンや、ブレアが政権をとったとしてもそれは絶対理性を主張するマルクス主義によって絶対的に政権をとったのではない。自由のなかの資源の平等という主張が、自由を殺して絶対的に行なわれなければならないという主張によって政権をとったのではなくて、様々な個人が自由によって自由のなかの資源の平等化というような莫然とした方向性についての主張が受け入れられて政権

 

 

P642

 

をとったのである。その平等化は政権によって絶対主権によってなされるのではなくて、自由な個人によってなされるのである。それは見えざる手という考え方に近いが、資源という側面については様々な方法(政治による方法を含め)が示されたことによって政権をとったのである。

 

 

P643

 

東西冷戦後の日本の自由

 

 人間に、また、あなたに今自由はあるか。日本では多くの自由がありすぎるのだとか、自由社会であるとかいわれているが、自由ということばは日本の古典のなかにはなかった。自由ということばの現在的な意味は政党としては明治期の自由党、戦後の自由党と民主党の保守合同でうまれた自由民主党、そして中村正直の訳したミルの『自由之理』などのなかに自由ということばの現在の意味をみいだすことができる。そして東西冷戦終了後にはそれまでに禁じられていた自由が自由化されるとするならば新しい自由の時代がやってきたことになる。

 平凡社の百科事典のなかの「自由」の項目のなかで自由という外国語及び自由ということばが日本語として定着した過程を知ることができるが、自由に否定的な側面と、肯定的な側面があることが分かる。干渉されない自由を主張するバーリンが自由のライセンス(放縦)としての側面について述べて

 

 

P644

 

いる部分があることによっても、自由はいかに難かしい難問をかかえた政治的、法律的側面を有することばであるかを知ることができる。

 日本は戦後自由な社会を形成してきたといいうるであろう。そこには自由を基本的人権として成文化した日本国憲法があり、それを守るための政治機構を成文化した日本国憲法があった。また東西冷戦の時代には自由社会の一員として資本主義体制の側にあり、東側の社会・共産主義体制の側と対立してきた。しかし今では東西冷戦はほぼ終結し新たな自由を模索する時代がはじまった。北朝鮮や、中華人民共和国やらの少数の国家を除いては大勢としては自由主義陣営の仲間入りをすることとなった。これが歴史の終わりとなるのか、新たな歴史のはじまりとなるのかそれは今後の社会の動きによる。

 ハンチントンは諸文明が衝突するだろうという。しかし今後の世界の動きはあまり明白で

 

 

P645

 

はない。自由という観点からすれば「自由からの逃走」も、バーリンの消極的自由論も東西冷戦の時代の自由主義社会の陣営からの見方であった。フロムの「自由からの逃走」はどちらかといえばファシズムや全体主義に対する自由主義陣営からのものの見方であった。

 今後はそれらをすべて視野に入れなくてはならない。そのためには東西両陣営のなかで抑圧されてきた自由を研究するのも一つの方法であろう。それは自由からみた平等のみかた、平等からみた自由のみかたである。これまで自由を見方する者は平等はないがしろにしてきた。それが東西両陣営のイデオローグであったのである。東西冷戦が終結した現在では自由と平等は両方共に冷静な目でみつめなおす必要があると考えられる。自由も平等も現実にあるがままを、あるがままで見てみるとすれば何か新しいものがあらわれてくる

 

 

P646

 

と信じるものである。

 

 イデオローグと東西冷戦の分析、この分析は哲学史、思想史と現実の政治の接点であり、非常に広い範囲をカバーせねばならなくなる。しかしそのあとでなければ自由論の新しい側面は見えてこないのかもしれない。この分野の研究が待たれているのである。

 

 

P647

 

 私は現実の方がそうなっていたので、学問を現実に合わせようと考えているのみである。政治家も次のような家庭に影響されて社会観を形成している。東西冷戦後の現実は政治を大きくかえている。社会観や、政治観は現実にあうように常に変化していかねばならない。

 

 

P648

 

東西冷戦後の集団による積極的自由

 

 東西冷戦後においては、国家によるバーリンのいう積極的自由よりも、集団や他の人がある人にたいしてバーリンのいう積極的自由を行使するという問題の方が多くなってきたし、問題となってきたと思われる。この問題は統治による干渉ではなくて、集団や他の人の一般的な干渉であり、それは全体主義国家がなくなっても大きな問題である。政治の定義における政治は国家のみに限定されることばが、集団や個人間の人間関係にも適用されるべきことばかという課題のうち、集団や個人における人間関係における権力的関係、依存的関係、バーリンのいう積極的自由の人間関係が東西冷戦後においては重要になるかもしれない。というのは東西が合体するということは、国家自体が全体主義や、国家主義や、共産主義という形でのバーリンのいう積極的自由を行使することは少なくなったかわりに、個人や、集

 

 

P649

 

団が、クークラックスクランのように他の人にたいして積極的自由を行使することが多くなったからである。

 

 

P650

 

 現実のソ連において問題となったものは、さぼりを生む依存であって平等ではなかったし、結局依存では平等もなにも、なにものもえられなかったという社会的な結果を生んだ。一般に平等論が問題にするのは、ドゥウォーキンもいうとおり平等な配慮と尊重などなのであって、主に平等であり、依存なのではない。依存は動かないこと、バーリンのいう自由な状態をも含んでいる場合があるが、一般には平等な動きから生まれる動きをも含む広い範囲のものである。

 すねることがすべてを破壊したのかもしれない。依存しすねて、すべての動きをとめようという依存心は、モラールを低下させたのであろう。

 

 

P651

 

 チェルノブイリの原子力発電所の処理の遅れは権威主義に依存した体制が環境の問題やらに対応する能力を欠きがちであることを証明したとされる。現実に認識されたことが外に表現されることを権威が抑圧しがちであることがその原因であると考えられるし、そのような自由の抑圧からの解放が東西冷戦の終了のもたらしたものであるとかんがえられる。

 

 

P652

 

第三章 政治と自由

 

 

自由の普遍性と、政治の普遍性

 

 学問ではより一般的で、普遍的な理論が求められているという学問の目的があるならば、自由な人間という概念は人間社会をみる場合、一般的で、普遍的な人間の見方でありうる。バーリンはそれこそ人間社会の狂いと正常とを見分ける基準なのだと述べた。それが正当かどうかはじゅうぶんに検討されるべき問題提起である。政治が普遍的でありうるのは自由に基礎を置いている場合のみであるという考え方は正しいかもしれない。

 

 

P654

 

管理の方法と統治の方法

 

 自由放任にする管理と、責任を持たせてまかせる管理と、また、干渉しすぎる管理もまたちがっている。これらの管理を統治とおきかえることができるであろうか。自由放任の管理法と、責任をもたせる管理法は似ているが、後者の場合責任は管理者がとることになる。自由放任の場合にはそれによって見えざる手の機能が働いて平等化がなされない場合にも管理者は責任をもって対処しないというように表現されているように聞こえるが、責任をもたせてまかせるという表現の場合には、部下にという場合に使用する用語法ではあるが、もし部下が平等とか、成果とかを達成しえない場合には責任をとったり、責任をもって平等を見えざる手にかわって達成したりより成果を得られるように努力するとりう意味を合意した表現である。

 

 

P655

 

政治とは何か、自由と政治との関係は。

 政治が自由な活動であるとすれば、あるいは政治は自由な活動を保障し守るものであるとすれば、政治を一般の自由な活動と区別するメルクマール・標識・Merkmalは何かということを決定すればこの質問に答えることは容易である。コントロールか、調整か、稀少資源の権威的配分か、徳か、平等か、しっとか、主権か、領土か、国民か、国民の一般意志か、社会契約か、社会を作る契約か、合意か、規範か。などなど、この答は様々でありうる。しかし社会制度を自由な意志によって様々に作りうることだとする見解は最も広い範囲をカバーしている。この制度と自由ということばは、制度が規範(ルールか?)の集合体であるのだから、規範と自由ということばや、ルールと自由ということばにおきかえることができることになる。平等な分配や、それを調整によって行なうことや、

 

 

P656

 

秩序のために社会を統制することや、主権を行使して規範を定立し、一般に合意を求めることなどのすべては、この自由に制度を作るということのなかに含めることは可能であるか、逆はできない。

 

 

P657

 

個性と政治

 

 現実政治に関った政治学者のうちメリアムや、マキャベリーや、バーリンなどのような人は政治とパーソナリティーについて言及している。大隈重信が時の政治家について寸評したりしているのは、政治家の政治家評である。個性の対立は政治的党派や、政治的意見の対立のようにみえる時があるし、社会・共産主義には絶対理性より生ずる独特の個性があるように見受けられる。

 

 

P658

 

個別性を認めて自由を殺す考えにいたるか、個別性を認めて自由にいたるか。

 政治や法において政治心理学や法心理学を探究するということはどのようなことであろうか。もし個性を認め性格の傾向の相違を認めるということは多様性を認めるということであろうか。しかしそれは相対性や、自由を認め、寛容さを求めるということではあっても、絶対性や、不寛容や、バーリンのいう積極的自由を認めるものであることではないのである。逆に自由と、相対性を認めるということであるから、そのような絶対性と自由のなさを認めないことである。依存性の立場の人は逆に個性を認めよという主張を不寛容と、絶対理性の強制を認めよという要求にすげかえるのであるのが通例であるので、それはまた集団主義やら、権威主義に陥ることにもなり、恐ろしい結果や恐怖政治をもたらすことになる可能性がある。個性を認めるとは依存性からみたのとは反対に、独立的な立場

 

 

P659

 

からみれば相対性と、自由、干渉されない自由を認める立場にいきつくのである。このことはドゥウォーキンが「人は皆違うように生まれてきた」のだから、自由のない平等のなかにいたるべきだという考えにいたったのにたいして、ノージックが「各人の行き方を尊重するゆえに、干渉されない自由が必要なのだ」という考え方にいたったその両者の考え方の経緯によく似ているといえる。このように考えると「個別性を認める」ということには全く政治的な議論における価値は存在しないようである。たしかにそれは事実論としてすべての人が認める事実であろう。しかし、それにたいする評価で全く異なった結論がでてしまうのである。その評価をできるだけ客観的にするために、「バーリンのいう消極的自由」と、「バーリンのいう積極的自由」の概念は大きく貢献したといえるのではなかろうか。バーリンの理論は客観的に二つの自由の真実を分析している。それでいて価値評価

 

 

P660

 

を客観的事実評価にかえうる力をもっている。このような文筆、つまり、価値評価の裏にある事実を客観的に分析し、価値評価を事実評価にかえるのは、中性の魔術を事実としての分析にかえた科学と同じように、科学といえるのではないか。そのようなことをバーリンは自覚していたことは観念論の首を「大学教授のみが」事実によってすげかえることができるのではないかと考えていたと思われることによって推測できるのである。それはすなわち「干渉されない消極的自由という概念がいかに巨大なものとなりうるのかということを示しているといえる。

 

 

P661

 

政治と自由の問題は、政治の自由な活動の問題ではなくて、政治が求めていく規範が、法と自由の対立、すなわち、政治の決める法が自由を制限するという問題である、という考え方は正しいのか。

 政治と自由の問題を考えるときに、アーレントのように「自由の要素」(the element of freedom)としての演技力とか、始めることを考えるのではなくて、政治は法を決定し、その法が自由を制限していることになること、つまり政治は自由を制限していることに、結局は、なるのだ、ということに、政治と自由との関係を求めることは妥当であろうか。一般には政治は自由な活動としてヴィルツウによって、マキャベリーのいうように行なわれているのに、それが法を作り自由を制限しているから、政治と自由は関連があるということは正しいのであろうか。政治家が法務大臣になれば、また、警察庁長官の上の位置

 

 

P662

 

にたてば、自由を制限せねばならないし、ことによっては死刑を認める印鑑を押さねばならない。法務大臣は裁判所が認めた死刑の判決をくつがえす権限は、死刑廃止の法案を通さない限りは、もっていない。つまり、ある人の生命を奪わねばならない法的義務をおっており、その人は政治家なのである。そのような政治が政治は自由な活動によって成立しているというだけで、政治の本質をついているといえるであろうか。学校の教員にあっても、また、学年主任にあっても、生徒指導として学生や、生徒の自由を制限せねばならないのである。政治や教育が自由な政治を求める。教育においては自由教育を主張しようと生徒指導によって自由を制限せねばならない。管理教育を批判する政治学者がいても、実際の企業においては遅刻する社員をなくさなければ、つまり、管理主義をとらなければ、九時から動きはじめるベルト・コンベアーに人が一人足りないとすべての自動車を作るべ

 

 

P663

 

ルト・コンベアーはすべて、他の何千人の人のためのベルト・コンベアーのすべてをとめてなくてはならなくなるのである。ここに現代社会における政治の自由な社会への欲望と、現実に生きていくためには自由を制限する管理社会、自由を制限する厳しい法が必要であるとする社会的な考え方とのかい離が存在する。いくら自由にさせようと思っても、そのベルト・コンベアーをすべて全員そろって動かさねばならないという自由の制限との間に考え方の差異が生ずるのである。その中での新しい自由を求めていこうという考え方はトヨタ自動車の本拠地である愛知県で、ニュー・フロンティア・パーティーと■■されている新進党が受け入れられる余地があるといえる。毎日自分の思うままにして生きていける余地を残している芸術家やらの多い地域の自由とは自由の大きさが全く違うといいうるのである。

 自由の制限するために政治が存在するので

 

 

P664

 

あると政治を定義してしまうのであれば、政治は法と同じように自由はなくなるし、政治学は実定法学と同じように全く自由のない学問であるということになってしまう。

 自由を制限することは絶対に必要である、それはある意味での法の役割でもある。しかしそのような法によって制限された自由を少しでも多くすること、つまり、制限するものを少なくすること、それにたいして努力することが政治の役割でもあるならば、それはニュー・フロンティアを探すということでもあり、政治が自由を求めるという政治の本質をついているものであり、それはじゅうぶんに政治に夢をもたせるものである。

 政治は規範のみを扱う法よりも、自由な行動を行動科学的に扱うのであるから、自由な活動に近く、法における活動は自由の制限により近いので、方角においては演技力や、独創力や、進取の気性が問題になることが少ないということだけはいえるであろう。

 

 

 

P665

 

政治は自由な社会的な選択であるか。政策は自由な社会的な選択肢であるか。法は規範的なことに関する自由な選択であるか。

 自由な選択のうち、社会的に大きな影響を与える選択は政治といえるか。政治は自由な活動ではあるが、社会的な影響を与える自由な選択である。法も選択ではあるが、多くの規範のうちから権威的選択である。政治も多くの規範のうちから政治的選択をするが、法はすでに政治的に選択された実定法や、自然法のなかからの、その内部での選択である。つまり政治はより広い選択を行なうゆえに、法よりも自由な活動により近い。法は規範のうちからの決定であるから、静的であるために自由な活動であるよりは自由な選択を頭のなかで行なうという活動である。規範を決定するために、規範的行為をする以外に政治は規範的行為と日常的行為を両方天秤にかけて、そのなかから規範的行為とは何かを決定する作

 

 

P666

 

業を含んでおり、日常のなかから規範を定立するという側面を政治は含んでいるのにたいして、法はすでに規範として定められている抽象的概念について他の規範との考量のなかでの思索を行なうのである。

 法は思索的な部分を多く持ち、政治は行動的な部分を多く持っているゆえに政治行動論が行動科学的に研究されようとするが、法は規範に関する思索行動は扱うが、例えば法廷における行動科学のような法行動学はあまり研究されているとはいえない。しかし法定における行動科学も重要である。ラズウェルは劇化型と、強迫型という二つの行動のタイプの分類によりその研究を行なおうとした先駆者である。

 政治における自由が演技力(virtuosety)であるかのような印象を与える理由は政治が自由な活動に多く依存しているからであるだろう。しかし政治におけるヴィルツゥや法の中身の多くは、規範的なもの、規範定立的なもの

 

 

P667

 

なのであって、政治における法は、最も規範的な規範と、最も規範的な規範にもとづく最も規範的な、徳のある、規範的な行動とに重点はあるといえる。

 

 

P668

 

政治には何故観客が必要なのか。それは模範的活動であるべきか、集票活動であるべきか。

 政治家も、芸術家も「ともに自分の仕事のために公的な組織化された空間を必要とする。」し、「他の人々に依存している。」ことになるというアーレントの政治的な自由活動の本質・属性についての指摘は何を意味しているのか。この指摘はたしかに政治と演技力の類似性についてするどく指摘している。政治家が模範的な活動をしていなくても、多くの人々の票を得るだけの支持を得ているならば、それは政治的な自由活動である。社会の多数が現政権に反対しているならば、政治家もその政権に反対しているという演技を行なわなくてはならないであろう。政治がノルムをもとめるものである場合、そのノルムはノーマルなもの、これは特殊な意味としては多数の人々の意思を受けているものと考えれば、そのようなものでなくてはならないだろう。しかしそれは模範的である必要はない。マキャベリ

 

 

P669

 

ーのいうヴィルツゥは、それが模範的でなくてはならないということを意味していたであろうか。そうではなくて、チェーザレ・ボルジアのような国家理性、国の統一に向かっていく勇敢さのみを意味していたのであろうか。一般の通説は後者を是とするが、私は前者を是とする。前者こそが国家理性に合致していると考えたと私は考えるからである。それは自由論と平等論の帰結でもある。

 

 

P670

 

模範的活動は規範的な行動であるか

 

 マキャベリーのいうヴィルツゥは模範的な生活を送っている者は政治社会において出世し易いといっているのとほぼ等しい。この模範的と規範的ということばはどの程度に関連性があるのだろうか。「めざしの土光さん」は社長であってもめざしを食べていて、質素な生活をしている人である。したがって国民もめざしを食べるような質素な生活をしなさい、また、行政府の役人も質素な生活をしなさい、そうすれば行政の支出も減り、そのうちに行政改革が実行されるのであろうという考え方を示していた。このめざしの土光さんが演技であったのかどうかは不明であるが、演技であったと考えて裏舞台を紹介した番組もあった。つまりこの演技は模範的な演技を、禁欲主義を宣伝させるために裏方の人が考えた筋書きにのって演技されたものであっ

 

 

P671

 

たのかもしれない。禁欲主義とはこの場合はぜいたく品を食べないということであるとともに、「それを食べではならない」という規範の意識を強く持っているということである。

 

 

P672

 

自由と立身出世の学として政治学

 政治学は立身出世の学であるという人がいるかもしれない。社会にでて出世するためにはこれこれの政治的な徳を身につけておいた方がよいという学問であると考える人がいるかもしれない。なのになぜ政治学と自由論においては自由というものが大切であるということしか述べないのであろうか。自由は政治的な徳であり、立身出世の道具とでもなるというのであろうか。では禁欲主義は自由から逃避しているのになぜ政治学の大将となるのであろうか。

 

 

P673

 

政治と自由

 

 政治学において内在的自由を認知するのか。いやそれは政治とは全く関係のない領域の概念なのであろうか。この問題は現在においては決着がまったくついていないし、これから決着をつけるべき問題である。政治人類学においては経済人類学が人はなぜ服を着るのかを問題にしたのと同じような意味で、政治は内在的自由を問題にすることを認知し、教科書に内在的自由について書くべきであろうか。政治人類学はそれをすべきかもしれないといえるであろうか。何故に未開社会の政治と、今現在の政治がほぼ同じであることを説明するのに内在的自由の問題を認識することが必要なのであろうか。その問題が人々の心のなかに根付いているとするならば、政治学の教科書の中に内在的自由の問題を入れる必要があると考えることができる。政治学において自由を問題にすべきかどうかについては、いまだ

 

 

P674

 

はっきりとした答はない。憲法の教科書には自由についてはっきりと書いているが、政治学の教科書のもある。マキャベリーはその教科書なかには、例えば山川雄己氏の教科書のように自由については一言もふれていない教科書的な『君主論』や、『政略論』において自由について政治の教科書においては自由について書かないのが通例となっているのは、方角の教科書が自由について書くのとは対照的である。

 政治においてどのような意味を自由が持つのかをとらえるためには、内在的自由を政治学がどのように認知しうるかどうかについてまず考えなくてはならないと思われる。

 アーレントの「政治と自由」に関する論文は的外れところが多い。それは一に内在的自由について政治学がまだ認知しえていないところから発生したと考えられる。自由は個々の政治的闘争においては個々の自由として、

 

 

P675

 

自由開放闘争の目的なり、対象物として認知されてはいたが、人類史をふりかえってみてそれが内在的自由の働きであったのであり、人間の本質としての内在的自由を求めるための闘争であったのだとは認識されたことはあまりなかったのである。ヒューマニズム(humanism)ということばも歴史のある時期であったルネッサンス期や、フランス革命期や、ロマンティシズムの時期やらをあいまいに表現する主義としてとらえていくのであれば、そこにある一貫したものを表現する力というものを感ずることはできない。同じイタリアという国においてルネッサンス期にはあったルネッサンス・ヒューマニズムは、その後なくなってしまったと考えることはできない。ルネッサンス期も、フランス革命期も、現代も自由を求める動きが高まった時期であるととらえるならば、ヒューマニズムが高まった時期として特筆する歴史のみかたと、人間の本質としての内在的自由がそれにたいする障

 

 

P676

 

害をはねのけようとした時代であったととらえることは、ヒューマニズムということばを普遍化していく役割を果たしうると考えられる。これと同じような意義を政治学において人間の本質としての内在的自由というものに目を向けることが有しているといえると考えることができる。

 

 

P677

 

自由と社会契約としての政治

 

 社会契約を自由の相互放棄であると考えるならば、政治は社会契約にいたるまでの自由な過程である。社会契約によって作られるのは制度であるが、契約するかどうかについての自由は「約束は守らねばならない」とか、「ルールは守られねばならない」とかいう最初のルールを認めるかどうかにかかっている。ロールズの第一原理をルールの第一原理として認めない人がでてくるし、その人が社会契約に参加しなくてよいのかどうかの問題が残る。

 

 

P678

 

個人主権から、社会契約へ。しかし個人の主権は絶大である。

 民主主義は、あるいは、社会契約は、国民があることについて自由に意思を選択し、それが一致したことが前提となっている。

 

 

P679

 

ルールの形成過程

 

 日本における電車のなかで、ルールが存在する。空いた席には一番近くに立っている人が座るのである。このようにルールは自然にできあがるものであるし、それを作る人間の人格に影響されてできあがる。これが制度と人間の関係を考察されるにあたっては、つまり、政治とは何かを考えるにあたっては、考察されねばならない。

 

 

P680

 

自由と、硬性憲法、軟性憲法

 

 平等に皆が貧しくなること程恐ろしい状態はない。平等を主張して自由をないがしろにすると、そのようなことが現実に起こった。平等な社会と考えられていたすべての人が公務員となってしまったソ連の社会においてそのようなことがおこった。平等のために自由を殺しあっていたために、誰も働くことさえイヤになったのかもしれない。全体の社会が前よりも裕福になるならば、自由と不平等を認めようという条件付の自由論は有効であろうか、それよりも自由を第一段階で平等に認め、第二段階で不平等を「人間としての生活を満たすために」是正することの方がより社会を裕福にするであろうか。それを社会契約によるルールの選択として国民の自由意思に、憲法制定会議のように、委ねることをいつも行なっていくことの方が正しいのであろうか。もし常時そのルールを決めておくとすれば、それは憲

 

 

P681

 

法理論では改正を容易に認めないような硬性憲法のようなものとなるが、人間が適応すべき環境がかわるたびに、つまり平等な自由による不平等の発生の程度に応じて、その都度その環境に対応するルールを自由意思により決定しようとするようなルール作りは改正・修正を容易に認めるような軟性憲法のようなものとなる。ロールズの第一、第二の原理は硬性憲法に近いと考えられ、ノージックの理論は軟性憲法に近いと考えられる。ノージックでさえも極端な不平等の存在は認めるはずはないからであると私は思うからである。

 ロールズが遂次的順序lexical orderとよぶものは、「第二原理に移る前に第一原理を満足させ、第三原理を考える前に第二原理を満足させることを要求するという順序なのである。それに先行する原理が完全に満足されるか、完全に適用されない限り、ある原理は作動を開始することはないのである。………順序はけられたどの原理も、先行する諸原理が完全

 

 

P682

 

に満足されているという条件に従って最大化されると想定することができるからである。」(ロールズ『正義論』、訳書三一頁、原書pp. )

 このロールズの考え方はもし、経済的、社会的不平等が許容される限度以上に拡大した場合にも、社会の基本構造としての平等な自由の概念に矛盾しない方法で、富や権限の不平等に手段を講ずるべきであると述べるが、「その場では、それほど有望なものとは思えない。」それは第一原理が「限界( )」になったときに第二が作動するべきだとするが、第一原理を効用原理とすると、それですべての規準が内包されてしまうという。

 最初に戻ればしっとが埋まく平等主義のふきあれる自由のない社会、この恐ろしい恐怖政治の社会を作らないという目的と、そしてまた不幸な人々を発生させない社会、その人々の自由をも考えた社会を作るのに、どちらの目的を優先すべきかという問題が発生する。

 

 

P683

 

もしあなたが憲法制定会議のメンバーであったとするならば、どちらかに優先の順序を与える憲法の条文を作る時にはどうするか。

 「Aというルールを曲げない範囲での、Bというルールを決定する」

とするであろう。この場合AというルールがBというルールに優先していることになる場合とそうでない場合があると考えることができる。

 

 

P684

 

自由からの逃走

 

 政治学上最も問題となる独裁や、専制の問題はナチスドイツのナチズムにおいて頂点を極めた。これを自由からの逃走であるととらえたフロムの説はなるほど評価できる表現ではあるが、自分からの逃走の理由について完全に証明できていた、それも政治学的に証明できていたとはいえないのではないか。クセノフォンが『ヒエロ』において独裁者が民衆にとり囲まれた時に感ずる不安などについてフロムはそれ程明確に証明していないのではなかろうか。あるいは全く証明しえていないのではなかろうか。もしそうだとすれば政治学にとってナチスの問題はゼロに近い程全く解明されていないといいうる。それだからこそその後のソ連の独裁について政治学は全く答を出すことができなかったといえるのではなかろうか。

 ソ連の問題については事実が、現実が政治学よりも先へ走っていったのは政治学が、現実

 

 

P685

 

に起こっている自由からの逃走、一党独裁を全く解明しえていなかったのではなかろうか。

 『自由からの逃走』における社会的性格論は、ユングの理論を採用してきたものかもしれないが、私には全く受け入れ難い性格論である。人種のルツボのアメリカにおいて自由な性格を考える時には特にそのような考え方は受け入れ難くなるであろう。自由な社会を前提とした社会的性格論が考慮されるべきである。フロムの社会科学や、政治学に関する知識はほぼ皆無であるといってよい。それはフロムの性格からきているものかもしれないと、皮肉的にいう人もいるが、そうではないであろう。

 自由からの逃走は、平等のために自由を殺すような政治学的な意味でおこる場合もあれば、そうではなくて、社会学的な意味で解釈できる理由でおこることもある。

 

 

P686

 

自由と政治

 

 アメリカにおいては自由という政治的なことばが、二大政党名のなかにはいらなかったのに、日本の政党には自由党からはじまって自由民主党にいたるまで自由という名をつけた政党が主要三党や、戦後の三大政党のなかに残ったのは不思議なことである。自由の少ない国だからこそ日本では自由を求める人が多いのだろうか。アメリカでも現在リバタリアンという政党は少数政党として存在するし、イギリスでも 党という自由の名を冠した政党が存在する。

 自由が人間の本質であるのならばアメリカ・イギリスにおいても自由を冠した政党が二大政党となってよいはずであるが、両国共に自由民主主義の国であるのだという意味では自由は浸透してしまっているといえるのかもしれない。このことは政治とは自由に行なわれるのが正当なのであるから、自由な政治活

 

 

P687

 

動によって行なわれる政治がどのような自由な活動をするのかのほうが大切なのであって、あらためて自由を政治において求める必要はないということなのかもしれない。ところが日本ではまだ達成されていない自由があまりにも多すぎるから、自由を求めることが政治活動の主要な目標となっているのだとも考えられる。あたかも普通選挙権をえている国ではどのような政治を行なうかが問題になるのに、普通選挙権をえていない国においては政治活動を行なう自由を求めることが政治の主要な目標になるようなものである。

 それでも政治活動が自由な国であるイギリスやアメリカにおいてこそ、ミルの『自由論』、バーリンの『自由論』、フロムの(自由論)、ベイの「自由論」のような著作があらわれるのに、日本のような自由の少ない国においては自由についての論文は非常に少ないといえる。自由ということばをいうことすら、自由でないかのように思われる時がある。そのような国においては自

 

 

P688

 

由論があらわれようとしても、自由を経験していないのであるから、いい論文とならないのかもしれない。

 日本は和漢洋の三つの文化の混合した文化をもっているのであるから、東西冷戦終了後の今では新しい自由があらわれるかもしれない。しかし高校生をみれば、教育のなかであまり自由を尊重されているとはいえず、企業のなかでも自由を味わっている労働者とはいえない。

 

 

P689

 

政治的環境と選択の自由

 

 伝統にのっとった固い人が出世するのか、反対に漸進的・斬新な人が出世するのかは、伝統主義と、漸進・斬新主義のどちらがいいのかとは別問題である場合があり、これが自由と政治学の根本問題となることがある。伝統からの自由をとるのか、伝統をとるのかはその人の環境による。その人の環境が伝統からの自由を求めている時には、伝統からの自由を政策的にとることが求められるであろう。その時にはそのようにふるまう技術が政治の知識であり、それはマキャベリーのいった運命にたいするヴィルツゥを身につけた政治的な人間であるといいうる。一方伝統にのっとった方がいいような政治的環境においてはそのように対処するのがヴィルツゥであろう。この場合のヴィルツゥは徳よりも、政治的な技術力というのに近いし、それは政治的な自由な選択というのに近いことになる。その反対の選択はあまり環境に適しない。

 

 

P690

 

政治学と政治哲学

 

 政治学は政治の様々の事象をとり扱う。一方政治哲学は自由と平等や、博愛、さらには主権のような概念が政治のなかでどのように取り扱われているのかについて研究をする。

 政治は人間が行なう行為や活動であり、人間は生の本能があると同時に、自由でもあり、全体として社会を作っている。政治の事象をとり扱うにあたって政治哲学のなかの自由について論ずることは政治を見つめる一つの視点として重要な役割を果たすと考えられる。自由は政治の芯のようなものである。自由によってこそ博愛や、平等の概念も生まれうる。自由な意識を残しておくことは平等や、博愛の意識を増やすためにも大切なことである。

 

 

P691

 

政治的人間の自由性と政治と人間

 

 政治が本能のみではなく、人間の自由の思考と、自由な活動によって行なわれるという意味で自由と政治は深い関係にある。人間が自由に動かないアリと同じような存在であるならば、アリの社会同様に自由は研究する必要はない。アリの行動は本能によって規定されている。しかし人間の社会や、政治は生の本能以外の自由の部分に多くは関わっている。政治は一部分固定的な本能や、固定的な土地を統御するものである。生の本能を自由が統御できるかどうかについては「否」というべきであろうが、生存権的基本権のように生の本能のための資源やらを用意して、生の本能のうちの食の本能が可能になるようにするのは自由の部分である。

 

 

P692

 

自由はなぜ殺せないか

 

 独裁的な性格の政治家に満足せず、不満であったとしても、仕方がないということになっても、しかし自由を殺すことにたいしては人々は死にもの狂いで反抗する。この感情はマキャベリーが自由についての立早で力強く表現しているが、この感情は現在も存在している感情である。それは人間の本性としての自由な部分に反しているからであろう。人間が本能のみからなりたち、性本能や経済的な生の本能のみから固定的に成立し、自由な選択性をもたない動物であれば、そのような感情は成立しようがない。

 

 

P693

 

政治現象と政治規範

 

 五W一Hの政治現象論は、政治学のなかでも政治行動の分析である。正義論のなかでも自由という規範や、平等という規範やらが政治規範として存在しているからこそ政治現象は起こるのであり、政治行動論は政治規範を超越したところに存在すると考えられていたのはまちがった考え方であったとも考えられる。政治規範が政治制度を形成する基礎となるものであり、政治制度に向かって政治行動はおこなわれているものだからである。

 

 

P694

 

政治の五W一Hと、自由の六要素。

自由な活動と、欲望、目標。自由には三要素があるのではなく、四(六)要素があるのか。

 自由な活動を行なうにあたって、欲望や、目標や、目的や、本能やらがどのような役割を果たすのか。そしてそれは自由の三要素と環境との関係ではどのような位置にあるのか。バーリンが目的(ends)といったり、目標(goals)といったりするのは、生本能で固定されて行動をしたり、生本能から生まれてくる欲望へ向かって固定的に人間が行動するのとは違った意味である。腹が減ったら食べたくなる。この場合の腹が減ることからくる食の本能は、生の本能ともいえるし、生の本能からくる欲望である。ところがある人は弁護士になろうという目標をもち、その目的のために努力しているとする。ところが他の人は不動産鑑定士になろうと一生懸命に努力していたりする。その目的や、目標が多数であるところに人間の自由が存し、その目的や、目標が多数であり、そのなかから選択ができると

 

 

P695

 

いう点に人間の自由と、人間の自由意思が確認できる。ということは自由な活動とは様々な目的や目標に向かって自由な活動ができると表現することが正しい表現ということになり、自由には三要素ではなくて四要素があるということになるのであろうか。「ある環境のもとにおいて、ある人が、ある障害物なしに、ある目標のために、ある自由な活動をする」という表現が自由の定式化としては正しいのであろうか。この目標に関しては、「自分の欲望のままに」とか、「自分の思いどおりに」とかいう表現によって批判的に、わがままなこととして排斥する場合の理由付けとされることが多い。逆にバーリンが人生の目的は多種多様であり、人生の目標が様々であるという時には、多元論(pluralism)を擁護し、それを自由によって証拠づけるときの理由付けとして用いられることになる。人生の目標は様々であるとして他人の人生を肯定するのとは正反対に、他人の人生の目標にたいして

 

 

P696

 

わがままであるとか、放縦であるとか、恵恣横暴であるとか、ふらちであるとかの理由付けによって自由を制限する場合には、他人の人生の目的を否定することは、あたかも、その否定によって他人を障害物と自分がなることの、自分が他人を妨害することの理由付けとしているようなものであるから、それは自由の定式化の三要素のなかでは「自由を妨害する」ものであるかのようにみえる。これは人間関係における干渉や、強制やらの主な理由付けであるといえるであろう。しかし自由の三要素の定式化にはじゅうぶんにはいれることができないもののようである。「自由とは、ある環境のもとで、ある能力や資源や機会があって、ある妨害なしに、ある人がある目標や目的のために、ある自由な活動をすることができることである」と定式化するとすれば自由には六つの構成要素があることになる。ある環境のなかには憲法上その自由が認められているのかというような社会的、法的環境と、自然的環境とに分け

 

 

P697

 

られる。一方能力や資源や機会は形式的自由を実質的自由にする構成要素であり、能力は教育によって作られるのだからと平等な教育が主張されたり、資源や、機会も平等に分配されなくてはならないと主張されたりする。ロールズがロールズの第二原理で分配的正義を主張するのは自由のこの部分に関してであり、形式的自由については第一原理において述べているということになる。アリストテレスが分配的正義について述べるのも、自由のこの部分についてである。形式的自由については自由のための環境において述べられているのであるから、それを補充する意味で、ある人に実質的自由が存在し所有とかを自由論で問題にするというのは、この資源や機会や能力について述べているのだということになる。従って形式的自由について述べるのであれば、能力や資源や機会については述べる必要はないことになる。

 憲法上の条文は、この形式的自由について

 

 

P698

 

述べていることになる。「すべての国民は思想の自由を有する。」とか、「すべての国民は生存する自由を有する。」とか規定するのは国家等から妨害されることなく、思想の自由を有し、生存の自由を有することを表現しており、他の四要素を除外していることになる。クー・クラックス・クランのような他の人々や、他の団体が思想の自由を妨害するのにどのようなことを憲法がいうのか、他の一般団体も思想の自由を妨害してはならないということを憲法がいっているのかどうかについては法的な問題となるが、文言解釈によればそのような妨害も禁止しているととるべきであろう。憲法は国家の干渉のみを排除しているととる学説によれば、私人間のことには国家は干渉しないことになる。憲法が自由な活動を保障すると規定するのか、思想の自由などの自由な活動を妨害しないと反対解釈により規定しているのかという問題と同じことになる。法が妨害しないというのは、思想統制

 

 

P699

 

や、経済統制や、検閲のような妨害をしないということを保障しているのか、自由な活動に重点を置けば自由な活動を積極的に実現させるためにその他の妨害も排除していく施策をとるのかということになる。また、資源や機会や能力の平等化をはかって、実質的自由を平等化させたり、実現させたりするために国家が積極的に活動するのかどうかも学説上の対立を生むことになる。生存権の保障に関しては生活保護の金額について実質的自由を政府が保障すべきだという考え方が日本の憲法判例では定着しているのである。しかし働かないでも動いている人よりも裕福な生活保護の金額を政府が与えるならば、その政策によって誰も働かなくなり、今度は政府の保障する資金源の財政が圧迫されるという論理的矛盾があるがいやそうではなく実質的自由を平等化するところまではどのような極端な政策を行なってもよい、形式的自由など殺してもよいのだという論理も主張され続けている。この二つの論理の対立

 

 

P700

 

は、自由と平等の対立として永遠の課題であるが、ロールズの正義の二原理はそれを順序の問題として解決したところに大きな意義があると考えることができる。

 社会的な環境として憲法のような外的選好としての法体系は、自由に大きな影響を与え、人間はそれに適応せざるをえない状況にまずおかれる。法は規範、〜せねばならないの体系であるから、そうしない自由にたいしては社会のサンクションがありうることになる。この社会的制裁(サンクション)については別の項に譲ることとする。これは自由の危険性と関連があるだろうし、自然環境の危険性とも関連があるだろうから、自由をじゅうぶんに考察したあとでこそ考えられるべきことであり、その意味では順序の問題であるといえる。

 次に妨害や、障害となるものについて考察するには、自由な存在である人の場合と自然的な物とに分けられるであろうが、資源は物

 

 

P701

 

であり、機会は時間や社会的な地位や職務であり、能力とは教育によって養われるものであるということになり、それらが欠けていることは妨害や障害であるという考え方をとれば資源やらはこの妨害に含まれることになる。他の人がその当該する人に故意か、過失により妨害を与えている場合には自由な他の人と、自由な自分との作る自由な人間関係や、自由な社会について考察せねばならないことになる。

 次に自由の主体である「ある人」について自由論が述べる時にはある人の性格の傾向が様々であることや、その人の人生の目標や目的が様々であるということが問題となろう。更に進めていえば、このことは自由な活動と深く関っていることになる。様々な目標や目的をもったある人が、その目標やらのために様々な自由な活動を選択しうるのであるという表現をするならば、自由の主体と、自由の目標やらと、自由な活動とは、自由の目標・目的を

 

 

P702

 

ができると考えることもできる。どのような場所でが、自由の環境にあたり、何のためにが自由の目標や目的にあたり、誰がが自由の主体にあたり、どのようにしてはある妨害を排除してにあたり、どのような時にはどのような場所でとともに自由の環境にあたり、何をについては政治においては権力をであったり、平和をであったり、利益の調整をであったりするが、自由の場所は自由な活動であるということになる。権力などを「得る」ということが、自由の場所には自由な活動を「する」ということにあたる。資源や機会や能力については自由はそれによって可能となるのであるが、政治の場合にはそれらの奪いあいの結果の配分的正義を問題とするという点においてそれらは政治では、「調整や、配分や、稀少資源の配分という場合の配分や、権力の配分に際してのポストや資源などのような権力の目的物や、教育や職

 

 

P703

 

務の機会均等という場合には機会として配分されるあるものや、所有の場合には所有の対象となるものや、教育によってえられる能力」などのような政治の定義においてそれをとりいれるか、とりいれないかについて問題となるようなものである。稀少資源の配分を権力的に行なうことが政治であると定義するならば、この稀少資源こそが政治の重要な構成要素となっていることになる。しかし稀少資源は自由の一構成要素であることからすれば、稀少資源も政治の一構成要素にすぎず、それが政治の本質を構成しているとは考えることができないのは、この政治と自由についての考察から明きらかになるであろう。資源や、能力や、機会は、そしてその配分は政治の重要な構成要素ではあっても、政治の本質ではないという考えは、自由にとって資源や、能力や、機会が一つの構成要素に過ぎないことによっても知ることができる。この論文はそのような立場にたち、平等もこれらの量的な、

 

 

P704

 

実質的平等について述べているのであって、それは自由の一構成要素にしかすぎず、平等が自由を殺すことはありえないと考えるのである。その論からすれば政治の本質は自由と深く関っており、政治が自由の妨害を排除する活動であるという解放の側面をもっているということは、政治の本質の全部ではなくても、政治の本質の重要な側面を構成していると考えることができる。

 稀少資源の権力的配分を政治と提起する考え方はアリストテレスや、ロールズの第二原理の考える配分的正義について主に言及しており、アリストテレスの自由論や、私有論についても、ロールズの自由な社会に関する第一権利についても言及していないということになる。ロールズにとっては正義の辞書の優先順位、順番からすれば第一原理は第二原理に「優先され」るべきなのであって(prior to)、政治の定義にあっても、第一原理のほうこそ優先されるべきであると考えるであろう。た

 

 

P705

 

しかに自由には危険性があるから、権力を一人の人に預けようというホッブズの考えや、ロールズの第一原理のみでは配分的正義がかなえられないから、第二原理によって権力が配分的正義を実現するのであるから、政治は第二原理のほうにより関連があるのだという意見もありうる。しかしそれではロールズのいう第一原理が優先されるという原則はどうなるのか、また、自由の全く存在しない社会において、例えば、全体主義社会において、配分的正義が完全に実現されている社会においては政治が完全に実現されているということになるのかという問題が発生することになるのである。ロールズのいう第一原理を優先した政治の定義が必要であると考えられる。

 政治の五W−Hの六要素と、自由の六要素は驚嘆すべきぐらいによく相似している。このことで政治が平等化への自由をも含めた、自由

 

 

P706

 

媒介として他の両者が関係づけられているということになる。しかし自由な活動はある環境に適応していくために行なわれる活動であるとするならば、ある環境からそれに適応するためにその人の目標や、目的が発生して、その目標や、目的のために自由な活動が発生することになり、人は様々であるから様々な目標や、目的が発生し、様々な自由な活動が選択されるということになる。

 人間の行動科学においては人間の行動が研究されることになる。しかし人間の行動が動物とはちがって固定的ではなく、自由な行動がなされる部分があるということをとらえておかないと人間の行動科学であるとはいえない。政治や、報道の場において行動が五W一Hに分解されるとする説は自由の六要素とどのように関連するのであろうか。政治も権力を誰が、どのようにして、どういう理由で、どのような時に、どういう場所で得ようとするかを分析することによって研究していくこと

 

 

P707

 

と深く関連しているという結論を出すにははやすぎるであろう。しかし行動理論から脱行動理論へと進んでいくなかでの政治学が、自由の問題をぬきにしては考察できなくなってきていることも事実である。人間の行動は本能による行動を除いたら、自由な行動である。自由な行動の総体が自由な社会を作っているのであって、行動理論が脱行動理論もそこから出発せざるをえなくなってきて、政治学は新たな局面を迎えたと考えられるからである。

 

 

P708

 

政治とは何を得る者か

 

 五W一Hの政治的行動によって得るものは、権力のみではなくて、資源や機会や教育などであったりする。権力のみを追い求めればヒットラーのようになるが、善をも追い求めなくてはならず、徳を追い求めなければならない。マキャベリーの徳はそのような意味の徳である。しかし平等をえるのは、自分のために得るのではないかもしれない。アクトン郷のような金持ちが平等を主張するかもしれないからである。それこそ自由なのである。

 

 

P709

 

自由、平等、国家と「自由の強制」

 

 国家は自由と平等のためにあるとルソーはいう。法も自由と平等を目的とする。しかし自由は国の規制と反発する。そこには国家からの自由の観念も生まれる。この矛盾をルソーは「自由であることを強制する」という表現をつかわざるをえなかったのではなかろうか。自由と平等とを国家が求めてりうとするならば、ルソーの自由の強制とは、国民を自由にする活動として社会契約論が書かれたということしかあらわしてはいないと考えられるが、それが絶対性を一般意思という名でもっていた点では、常に法はそのような絶対性をもってはいるものではあるが、誤解され、人民主権論に利用されるような性格をもっていた。

 

 

P710

 

主権を求める主義と自由

 

 社会民主主義や、自由民主主義における自由の概念を一般化できるか。自由と主権との関係、所有権と自由との関係を再構成できるか、どちらも議会を通過していれば、税という名前で義賊の心理が正当化されることがありうるということを示しているのだと考えるならば、自由の制限は主権によってのみ可能であるのだ、所有権(所有の自由処分性)も主権によれば制限できるのだということを意味しているのだといいうる。自由民主主義であれ、社会民主主義であれ、どちらも主権についての主義である。

 これまでの国民主権論や、社会・共産主義の側からの人民主権論やらも自由論を基礎にして再構築されていくとすれば自由民主主義理論や、社会民主主義理論における自由の概念の再構成の問題となり、つまり所有権の自由性や、多数者である主権者やらの意思と少

 

 

P711

 

数者の自由の問題にいきつかざるをえない。代議制民主主義においてはこの外的選好と内的選好のくいちがいの問題は永遠に解決のできない問題、ある意味では自由の問題となるであろう。平等主義者のドゥウォーキンはこの問題は「平等な配慮と尊重」によって解決できると考え、バーリンはこれは干渉されない消極的自由と主権との問題として解決されるべきだと主張する。

 

 

P712

 

自由主義の政府と機能

 

 政府が自由主義の政策(主義)をとるということは、政府は国民に何もしてやらないということであるから、政府の機能はどのようなものに限定されることになるのであろうか。服をきせることを子供にしてやっていた親が、自分で独立してやらせるようにすれば親の仕事は少なくなったといえるが、子供が独立してもうまくやっているかどうかみていてやる必要があるだろうか。

 

 

P713

 

危険の除去は政府やらの役割か

 

 政府や、政党は、国民や、生徒の自由を守るが、その危険性は取り去ってやる必要があるということには人々は同意するかもしれない。しかしそれは国家やらの機能観による。国家や、教員ではなく、自分達が自分で危険性を除去するのだという国民やらの意見(国家観やら)がるかもしれないからである。それは温情的干渉だというが如き意見である。これらの政府論は自由論の大きな部分をしめる。干渉されない自由を国民が有するかどうかは、誰がどういう主義でどのように統治するかと大きく関係しているからである。統治に関する主義をある人が持ち、その主義が他の人に干渉すべきかどうか、どのような範囲について干渉すべきかについての思想が積極的自由の範囲であるといえる。河に落ちようとする人の自由を制限することは自由の制限とはならないのは、その人が依存的な政府を望んでいる場合である。

 

 

P714

 

マキャベリーと現代

 

 マキャベリーの時代の戦争は現代では、選挙となった。選挙において金のある方が勝つのか、徳がある方が勝つのかについて、その他についてマキャベリーの『君主制』や、『ディスコルシ』を現代風に解釈することができる。

 

 

P715

 

マキャベリーの政治論

 

 マキャベリーの書物の内容は偶然的にイタリアの当時の状況ち、ティティウス・リヴィウスの『ローマ史』に影響されているものであって、政治を論ずる者は常にマキャベリーの書物に依存しなくてはならないというのではない。

 

 

P716

 

選挙をマキャベリーの『君主論』と『政略論』で科学する

 

 

P717

 

マキャベリーにおける政治と自由

 

 政治学と自由論の関連をみるにはマキャベリーの政治論がどのように自由との関連をもっていたのかをみるのが最も意義があると思われる。クセーホンの『僭主論』(De Tyranuide)を読むにかぎるとしてマキャベリーが僭主に関する意見を述べるとき、マキャベリーの僭主、つまり、独裁君主についての意見が最も多く述べられる。人民は憎悪を抱くこと、弾劾したり、復讐の挙に出ることなどが記してある。一例としてペロポネソス戦役当時のギリシャ都市国家のコルキアにおける例を挙げている。貴族が主導権を握り人々から自由を奪ったのにたいして、人々は貴族全員をとらえて殺害したという事件をあげている。(ディスコルシ、第二巻、第二章。)自由をとりあげられた場合にどれ程の復讐心が古代の人々にはあったのか、自由に対する愛着がどれ程大きなものであったのかについて考察し、宗

 

 

P718

 

教や軍事力が自由を守るためにローマ人がヴィルッウ(徳)をもって事にあったかについて述べ、ローマ時代には自由を中心として生活していたのに、マキャベリー時代イタリアは奴隷の状態になってしまっていることを嘆いているのである。そして自由独立の場合は最も国が発展するのたいして「奴隷状態におちいった国家」は落ちぶれてしまうということについて評述する。「奴隷状態におちいった国家」とはある国家が一人の外国人の支配下に落ちたばあいであり、ある国家が国内の一市民の支配下におちいることを独裁(僭主)となづけている。

 一方『君主論』の第二六章においては政治に運命はつきものではあるけれども、ヴィルツウ(徳)をもってあたれば人間の自由な意欲も政治においては有効であると述べている。神が人間から自由な意欲をすべてとりあげてしまっているわけではないと述べているのである。そのことをもっともはっきりと一章

 

 

719

 

のなかで述べている章は『君主論』の第二五章においてである。かりに運命が人間の活動の半分を思いのままに決定することができているとしても人間の自由な意欲(libero arbitrio)は人間活動の半分か、半分近くは支配しているとみるのが「真実であろうと私(マキャベリー)は考える。」と書いている。これはクランストンが『自由』の概念について述べていることと内容的には似ている。自由を政治学において考える時に、この運命という因果律の問題と自由な意欲、これを自由意思と同じ意味の因果律に支配されない意思という具合に解釈すれば、との関係の問題は政治学の重要問題であることになる。様々ん政治法則や、その後のホッブズや、ルソーや、ロックや、それ以後の政治学における自由論もこの大きな文脈のなかでとらえてはじめて、政治学と自由論という問題となりうるのである。

 

 

P720

 

ヴィルツウと、フォルツゥイ

 

マキャベリーにおける徳(virtu)に対する運命(fortuna)は政治における自由について論ずる時の一つの研究材料となる。徳は君主論や政略論で述べられているような平和な統一国家のことであり、人間の公衆の徳がそれを可能にする。この意味ではマキャベリーは性善説をとっている。ところが、マキャベリーはそれを壊すものとしての様々な不徳も数えあげており、人間は徳と不徳とをあわせてもったものであるから、徳のある人の運命も女神にみはなされることがありうると考えたのである。

 

 

P721

 

 政治家は金によって民衆を引きつけるのではなくて、また、マスコミの操作によって民衆を引きつけるのではなくて、徳によって民衆を引きつけておかねなならない。マキャベリーの徳はこのような意味での徳である。徳には公平も、平等も、公正も、その他のあらゆる価値が含まれていると考えられる。

 

 

P722

 

マキャベリーにおけるパワー

 

ローマ法皇の権威と、世俗の政治の権力

 

 

P723

 

第 章 スキャンダルの政治

 

 マキャベリーは多くの現実の政治を分析することによって、現在でいえばスキャンダルの政治学のような政治についても分析したといいうる。スキャンダルの多くは依存から発生していると考える。依存については別に考える。

 

 

P724

 

賞は自由を増大させ、罰は自由を減少させるのか。

 刑法やらの賞罰は自由とどのような関連があるか。マキャベリーが信賞必罰は政治制度や、政治にとって必要なものであるという時、それは人々の自由を増大させるといっているのではない。政治が安定するといっているのである。ある政治的権威に人々を依存させるためにはそのような技術が必要であったし、必要であるといっているのである。

 

 

P725

 

賞罰と応報

 

 社会的正義について論ずる時に、ディザートdesert相応の賞罰があることは正義とどのような関係があるのか。権利とこの応報とはどのような関係にあるのか。

 

 

P726

 

アメとムチ

 

 依存から脱却させるのはムチである。しかし、最下層にあらん限りの優遇を与えよというロールズの説はアメである。このアメとムチが両立できるだろうか。イエスの答は現在のクリントン政権のラジカルさのなかにある。それはブレアについても同様である。

 

 

P727

 

学における自由の位置。自由論における政治の位置

 自由論を追求していくと、政治と自由とはどのような関連があるのかについて言及せざるをえなくなる。ところが政治や、政治学を深く研究するにつれて自由とは何かについて思いをめぐらさざるをえなくなる。自由論のなかでは中央くらいに政治論がそう入されざるをえず、また政治学においては本文の中央くらいに自由論について論ぜざるをえなくなるのはこのような理由からだと思われる。ディビッド・ミラー編集の『自由』という本のなかでハンナ・アーレントの「政治と自由」の論文がその中央くらいにおかれているのはこのような理由によるといえる。この中央とは中心ということになるのだと考えることができる。

 

 

P728

 

バーリンとその後のリバタリアン

 

 libertarianリバタリアンということばをバーリンは一度使用している。ロックや、J・S・ミルや、ベンジャマン・コンスタンや、トックビルやらについて述べているのである。絶対に侵されてはならない個人的自由の最小限の範囲が存在しなければならないと主張するようなlibertariansリバタリアンたちと記している。このような自由尊重主義はバーリンがくみする人々であるが、バーリンはその重要な点に理論的枠組みを与えようとした。しかし主義としてのその後のリバタリアンにバーリンが理論的枠組みを与えようとしていたかどうかは不明である。しかしその後のノージックらのリバタリアンの思想に大きな影響を与えたことも事実である。社会的に干渉されないことを主な論点にすえるという一点において彼はその理論を構成しようとした。政府が干渉するべき範囲は何か、その干渉を排除できる範囲

 

 

P729

 

は何かについてバーリンはその自由論を一点にしぼったのである。それは政府論にしぼられたが、オッペンハイマーのようにクー・クラックス・クランが自由を妨害しているようなケースについてもあてはめることができると考えることができる。

 

 

P730

 

マスコミ論と自由論

 

 マスコミが「最強の首相」とかくと、本当に強くなったと思った人は、その首相のところにいき、コネを作り、利権をひきだそうとする。すると、その首相は利権をえるために金集めをしなくてはならないと思い、実際にそれができる権限を与えられている場合にはそれを使って金集めをする。

 これとは全く逆のケースがおこる。

・一方、そうかかれた首相に対抗する側はマスコミに金を使って広告を出さねばならなくなる。

・先の逆のケースとは、弱いとかかれた側は金が集められなくなってますます金がなくなり、弱くなる。

 ・と・の二つのケースは全く相違するケースである。こうして全体として金集めの強い方がかつという政治が生まれる。

 

 

P731

 

世論の形成とマスコミ

 

 大衆が世論を形成することができるのはマスコミを通じてであろうか、インフォーマルな組織を通じてであろうか、日本の場合では自治会や旧くは隣組を通じてであろうか、あるいは、井戸端会議を通じてであろうか、人間の本性によってであろうか。このような素朴な疑問にマスコミは大きな力を発揮して、人間の内在的自由を殺すことさえできるようになったという批判が、特に集団主義の国家内においてはおこってきた。

 

 

P732

 

 「共産主義は復調した」という三大マスコミの報道がもしウソであったとしても、意思は現実化するという原則によって本当にそうなるかもしれない。これは世論調査報道の禁止とはまた別の次元の考察すべき問題である。マスコミは大声である。従って、ウソの報道も現実化しうる。

 このようななかでの真の自由とは何かを考えることは容易なことではない。自らが自由に決定したと思っていても、実はマスコミの影響が大きかったということが考えられるからである。しかし人々が干渉を排して自由に向かう性質をもっているとしたならば、世論操作をしようとしても、できない、自分の力で決定しようとする人々が生まれてくるであろう。しかしこれはバーリンの自己実現という考え方ではない。自己実現という考え方は

 

 

P733

 

経験から離れた永遠の理性(理想)を設定し、それに自らが従うということなのではなかろうか。そうではなくて自らの経験的実態にあわせて行動し、決定するということである。

 共産主義が復調したということはある意味で永遠の理性がまた復活しそうだという予告であり、それに従う自由も存在するのではあろうが、それに従わず自らの経験や、ソ連の現実をみつめなおそうという意識によって自ら決定しようという自由が必要なのだ。

 

 

P734

 

政治における大きな音と声

 

 マキャベリーが音が大きく威かくすることもできるから音が大きい方がいいといったのは、現代ではマスコミに当たるが、逆にインターネットのような小さな声で全員にということもある。この二つの対立は今後の政治の二つの大きな潮流となるかもしれない。マスコミは経済先決の大きな声を出し続けるかもしれないが、個人個人は自我・経験的な自我を優先するかもしれない。

 

 

P735

 

公共放送

 

 公共放送のテレビの政治討論会においては四割の人が支持する政党の代表が二人出席するならば、二割の人が支持する政党の代表は一人、あと二割の人が支持する政党の代表は一人というように選ばれているそうである。

 

 

P736

 

情報の時間性、テレビの同時性

 

 テレビの情報は同時的なものである。

 この情報がグーテンベルグの印刷術の発明とその普及による人間の文化そのものを何百年の後に大転換させるのだとういうマーシャル・マクルーハンの予測は正しかったのかもしれない。

 東西冷戦後の自由論はまさにそのようななかで問われている問題である。

 

 

P737

 

法におけるフィクションの幣害

 

 法は空想とは違う。しかし法廷における劇化型性格によるフィクションは現実化して、それが大きな紛争を生ずることがある。これはドゥウォーキンのいう逆差別においても生ずることがありうる現象であるし、マスコミが空想の放送をすることで発生する現象でもありうる。できるだけ法も、マスコミも、政治もフィクションの現実化は避ける必要がある。フィクションによる空想の現実化は、紛争を解決するどころか、現実の紛争を更に拡大することが多い。ドイツ観念論のなかには現実の経験よりも、思っている観念が空想であっても絶対理性により現実化するという信念がある。そのような信念が法におけるフィクションのなかにはいってきているというある意見も、法におけるフィクションの弊害の理論化とともに無視できないものがある。

 

 

P738

 

極小国家と自由な国家

 

 自由国家論、自由な国家観、自由で干渉されない消極的自由を求める国家は、極小国家であろうか。それはただ単に内在的自由を人間の本質として求めているのであろうか。

 

 

P739

 

政党と自由

 

 自由な意思の主体としての政党が、人々の自由な意思によって形成され、自由に脱退できるような集団となる必要がある。

 

 

P740

 

制度と自由な人間との対立としての政治

 大学や高校の学生や生徒の親というものを環境としてとらえるならば、学生・生徒が貧しい環境で育ったというのは、学生・生徒の責任でも、学生・生徒の性格の責任でも、学生・生徒の努力が足りなかったからでもない。逆に大人の努力が足りなかったから収入が足りなかったということはありうるが、平等を考える際に不平等の原因をある人の努力のせいにするのか、制度をかえて相続税を重くすればよいとか、いやあまりに相続税を重くすればビルの賃貸業をする人がいなくなるとかいうことを考えることとか、制度をかえる必要を論じるということは、自由と平等を考えるうえでは政治学的な意味をもつ。制度と自由な人間とを考察することが政治的ということである一つの例であるといえる。

 

 

P741

 

被害を社会制度のせいにできるか

 

 被害の程度は客観的にはかられなくてはならない。貧乏は社会の制度の責任だという社会・政治理論によれば自分は被害を前世とかで受けてきたのであるから、他人に被害を与えるのは正当であって、その当該他人は被害を受けても、被害を受けたといってはならないことになる。これが逆差別の理論であるし、貧乏な人を義賊の心理をもつ人、当該他人を富裕な人とおきかえれば義賊の心理の社会、政治理論となる。

 これはバーリンが「マルクスは社会制度が悪いといったのだ」と解釈したことと関連する。この考え方によればマルクスは自分は社会制度の悪から被害を受けたのだといっていることになる。

 確かに相続税が強化されれば親の富の不平等が学生・生徒の不平等に直接影響する程度は少な

 

 

P742

 

くなるといいうる。

 

 

P743

 

第 章 科学の歴史と諸科学のなかにおける政治学の地位

 

 政治学はマスター・サイエンスといわれる。法学は紛争解決を目的としているので、紛争解決のための科学であるといいうる。が、政治学の本質は何にあるのだろうか。政治学が諸科学を統制する役割を果たしているとするならば、政治学が隣接諸科学のごった煮的な側面をもっていることも首肯できることである。人間が形成してきた科学を統制するものが政治学であり、政治は人間が形成してきた科学や、多くの人間を統制する任務を過大視しても過大視しすぎることはない。そのような任務を政治や政治学はそう簡単には背負えそうにはない。歴史をみると政治は政治学に大きな影響を及ぼしてきた(カール・シュミットとナチスとの関係をみよ)し、政治学も政治に大きな影響を及ぼしてもきた。政治思想

 

 

P744

 

史や政治学史は、政治史とも大きな相互関係をもっていたことになる。

 多く学問がこれまで様々な曲折を経て現在に致っており、そのような曲折の全体をマスターとして制御してきたのが政治や政治学とも考えられる。文学は政治に左右されてきた多くの側面をもっている。

 政治概念の分析としては山川雄巳氏が『政治学概論』(有斐閲、一九九六年)ニ頁−七頁において分析しておられるのは、政治の「まつりごと」性、「国と国家」、「治めること」、「制御」、「闘争」、「公的生御」、「制御」などの政治の属性についてである。

 その他の多くの学者が政治の概念について分析を行なっている。政治が調整し、それでも決着がつかない場合には究極の手段として権力(暴力)を使うこともありうるなどの多くのことが政治について分析されている。

 政治学は主に社会科学との関連をもってい

 

 

P745

 

るが、その他心理学や、精神医学とも関連性をもっている。経済学や、社会学や、法学や、経営学は政治学と深い関係をもっている。政治学がそれらの社会科学のマスターとなることができるかどうかは、それら他の諸価額を統制できるかどうかにかかっている。秩序を維持するためにモーゼの十戒を定めることどのような機能を社会に与えたのであろうか。それは社会の諸科学を研究しなければ研究することはできないし、自殺を少なくしたり、いじめを少なくしたりするという政治は教育学も、心理学も、社会学をも導入しなくてはならない。しかし政治の一大目標となりうる目標でありうるのである。

 

 

P746

 

 政治学と関連をもつのは社会科学ばかりではない。技術や、工業も政治学と深い関係をもつ。技術を育て、多くの軍事技術者を育てた旧ソ連邦の政治をみれば、政治が当時のソ連の文学や精神医学に与えた影響とともにはかりしれないものがあったと考えられるし、更に現在においても日本の臓器移植法案などの審議において政治が医学にも影響を与える可能性のある一例をみることができる。

 倫理学や、道徳論や、哲学と政治学とが極めて深い関係をもっているのは、政治学の規範論的側面によるところが大きい。技術と政治学との関係は規範論とはあまり関係がなく原子力の平和利用などの側面において■であるが、法学とか政治学の規範論的側面は政治学の本質に近いところにその原理と基礎を置いている。その点で政治学の原理は規範論と深く関連を有していることになる。規範論はその原理において自由論と対をなすものであり、人間が自由である側面をもっているか

 

 

P747

 

らこそ、規範が人間のうちに存在し、行動するのに規範が必要となるのである。人間は自由であるからこそ、規範をとるのか、とらないのかの自由を有する。規範をとる場合にはそこにその人の規範が存在し、自由があるからこそ規範を選択しうるのである。生の本能の部分のように人間が選択しない部分については規範は存在せず、生の本能を選ぶしかないことになる。

 もし規範が存在するとすれば、そこには論理として三段論法が存在していることになる。「〜すべきか」、「〜すべきではないか」を選択しうるからこそ、自由が存在している。我々がある行動をするのは、そうすべきだと考えたからだということができるが、それについては様々な解釈が他の人からはできる。そうするのが妥当だと考えたとか、そうする義務があるからだと考えたのだ等々と解釈することができる。

 

 

P748

 

 「人を殺してはならない、人を殺したるものは死刑もしくは無期懲役の刑に処す。」という規範は、自由意思によって人を殺した者にたいして、その事実にたいして、結論が発生する。「他人の所有物を窃盗してはならない、窃盗した者は、〜年の懲役に処す。」という規範についても、自由意思によって窃盗をしたという事実にたいして、刑が結論として導き出される。モーゼの十戒にしても同様の規範性を有するし、政治のなかにはこのような規範性が必ず含まれている。窃盗についても経済が貧しい者は生きていくためには窃盗をするのは、自由意思は存在しないのであるから、罰すべきではないという論理は、唯物論のなかにはいっている規範性ということになる。

 法や規範は自由にとって「足かせ」であろうか。自由の限界をあらかじめ示しているものであろうか。自律的な人間が法や規範を自らのものにしてしまっているとしても、それ

 

 

P749

 

は自由の「足かせ」であろうか。そして法や、政治が個人の自由に干渉できる範囲はどこまでなのであろうか。ある個人が他人によって干渉されない範囲はどのような範囲であるべきなのか。前者を積極的自由とよび、後者を消極的自由とよんだバーリンは政治学のなかで自由を現代にも通ずる問題として論じており、その問題は現代にいたるまで政治と自由論の大きな課題となっている。

 しかしバーリンの時代の自由と規範は現代の自由と規範の問いとはことなっている。実際に問題となる自由は各時代各時代に特有の問題ではあるが、各時代に共通する自由論の普遍的な課題も存在するはずである。それは自由の一般化の問題でもあり、両者がともに研究されねばならないことになる。

 

 

P750

 

法という政治における規範

 

 何をすべきで、何をすべきではないかということについて述べているのが法であるのだという法理論がある。政治理論における規範性は現実の政治を分析するにあたっての重要な分析視点となる。

 

 

P751

 

規範論

 

 「〜しなければならない」は、「〜する自由」とどのような関係にあるだろうか。「物が人をすべて動かしていなくてはならない」という唯物論の命題は物が人の自由の障害物であるべきだという命題であり、これがユートピアを主張する原因となった。平等は規範論である場合がある。自由も同様であり、現実には自由でも、平等でもない時に自由で、平等であるべきだというのは規範論である。規範は〜であるべきだということであるから自由の障害物をとりのぞいて、自由に〜するということも含まれていることになる。〜すべきではないという規範は、〜する自由を禁止し、それ自体が自由の障害となるような規範である。自分で規範を作り、それに従い、自分の自由の障害を設けることを人間はするであろうか。規範意識の強い人はそれを多くすることになる。しかしその規範の定立

 

 

P752

 

も自由によっておこなわれる。この意味での自由こそ自由であるとする説は、しかし、規範意識が強いか弱いかの自由のみについて述べていることになり、経済と物のみが人間を規制せねばならないという規範さえも許す危険なものと私は、バーリンとは反対に、考えるものである。

 物のみが人を支配していなくてはならないという規範にたいして、現実の事実はそうではない。従って、強制や、絶滅収容所は許されるべきだという結論は本当に許されるのであろうか。自己否定の考え方に、温情的干渉主義を否定するカントの考え方がなっていないとはいえないし、ミルの自由の考え方が自己否定のこの結論に到達しないとも限らないと私は考えている。バーリンのいう干渉されない自由のための「自由への強制」は、それとは別の意味で温情的干渉が許される場合もありうると私は考える。バーリンの主張そのものがそれに当たるのではなかろうか。

 

 

P753

 

 しかしいずれにせよ、つまりミルの頑固なことをすることにたいする不干渉主義であれ、マルクスが唯物論にたいして干渉するなという不干渉を尊重する主義であれ、バーリンのいう干渉されない消極的自由論であれ、純粋にフロムのいうような全的総合的パーソナリティーにたいする不干渉主義であれ、不干渉を主張するという一点にかけては一致しているのであって、マルクスの干渉主義以外のものは、法的には干渉されない範囲を定着させることを求めている点では一致しているのだと考えられるのならば、それらの不干渉主義は法の干渉しない私的領域の範囲を拡大することに役立っているという貢献についてはかわりはないといいうる。この点でバーリンがカントの温情的不干渉主義が私的領域の範囲を定めようとしていたのではないかとバーリンであっても、錯覚した理由なのではなかろうか。バーリンはカントのそれが唯物論にもなりうることに気付かなかったのだと私は

 

P754

 

感じる。

 裁判の結果法によって確定された結果は強制性がある。この法と政治の性質について一般意志ということばをあてたルソーはこの意味においては正しいといえる。勝訴した方の原告か被告に与えられる「〜してよい」というのは確定された社会的自由であり、敗訴した方に与えられる「〜してはならない」という判決は自由を規制する自由の制限、それも社会的不自由、確定された社会的不自由である。バーリンでさえもこの自由の制限は認めるものだと考えるが、それ以上に彼がいいたいのはその法が誤っていたり、その法が唯物論によっていたり、その法が強制収容所や、絶滅収容所に送り込む法であるならば、そのような強制や干渉は誤っており、そのような誤った強制や干渉を極力排除することは政治的であり、かつ、法そのものを私的領域を拡大する方向に向けるものであらねばならないといっているのだと考えられる。

 

 

P755

 

 現実に不平等は存在する。しかしそれにたいしてどのような規範をもち、その事実にたいしてどのような結論を出すのかはまさに政治的な課題であり、政治的な討議の対象である。事実としてどのように不平等があるのかを調査し、統計を出すことも、規範同志が討議しその理論のかみあっているところと、かみあっていないところを調整しあうことも、我々にとっては必要な政治的作業であるといいうる。それは政治学の課題ではあるが、自由の問題と大きく関連しているといいうるのである。

 

 

P756

 

自由論や平等論の規範性と、事実性

 

 不平等が事実の認識であるのにたいして、平等は事実的なものであるとともに規範論的な問題である。自由は人間の本性であり、事実の問題であると、反自由意思論者以外は認めるであろうが、現実の社会における自由論は人間の本性に戻るべきであるという規範的な論理となってあらわれる。自由が干渉されない消極的問題であるべきだという意味では、自由を求める政治運動と同じような意味で、バーリンの理論は規範論の要素も有している。ベイの理論は安全が求められるべきだという規範論が大部分を占め、ローウェイの『自由主義の終えん』の議論も規範的な意味が含まれている。フロムの自由論にしても規範論を含まざるをえなかった。ロールズや、ドゥウォーキンの理論も規範性を脱することはできていない。事実としての不平等にたいして人々はどのように対処するかを常に考えていか

 

 

P757

 

なくてはならないし、考えた結果が政治哲学なのだといいうるのである。政治や法は自由とか平等とか博愛などを中心概念として運営されるのであろうが、その概念について再構成する必要はあろう。

 

 

P758

 

わがままではない自由と、わがままな自由

 わがままではない自由とは障害や、妨害を排除することによって、より人間的で、人間の自然を回復することである。一方、わがままな自由とは妨害を排除することによって、より自然な、より人間的な状態より以上の自由を確保しようとすることであり、専制や独裁もこれにあたるし、個人の自由のいきすぎもそれにあたる。ところが、この両者のちがいはこのように単純な量的な計測ができないのが人間の自由である。自由は人間の本質であり、各人が自由であると感ずることは様々な自由を行なうことによってなのであって、それらの自由が対立するものであり、ゼロ、サムである自由もあればそうでない自由もある。対立したとしても自由な意思で調整することができる。わがままだという批判的な評価は対立した相手が自分の自由を減少させていて、被害を受けたと考える人の批判なので

 

P759

 

あってその批判が正しいかどうかは不明である。

P760

 

第 章 政治学における自由論の位置、マスター・サイエンスとしての政治学

 自由ということばは政治及び政治学のことばのなかでは最もひんぱんに登場してくる、重要なことばである。政治や政治学は解放を目的としたり、自由にすることをそのなかに含んでいるからかもしれない。生の本能以外の部分については人間は選択の自由、その他の自由をもっている。ある人は走向性や、走光性を本能としてもっているわけではない。光に反して行動し、どうくつのなかで生活することもできるし、東の方向にばかり向かわないこともできる。人間の自然がどのようであるのかについては、ほとんどの政治哲学者は考察の対象としている。人間の自然は自然科学の分野であったり、他の社会科学の分野に属するのに政治哲学者が考察の対象とする理由は政治学は人間や自然をどのようにみるのかについて政治学の前提として説明せざるをえないと

 

 

P761

 

考えたものだと推測できる。これは政治学がマスター・サイエンスである理由ともつながっていると考えられる。

 人間について考える時、人間とは何かという問題を最初に考えなくてはならなくなる。人間は他の動物とはちがって生の本能のみによって支配されているのではない。ここで生の本能とは、死の本能に対置したものであり、衣食住などすべての生きるための本能、自分が死んだあとに子孫を残そうとする生きる本能を生まれながらにしてもっているのであり、それ意外の名誉欲とかは社会的な自由意思の領域に属するものであり、名誉はなくても生きていけるならば人間は満足するものであって、生の本能以外の部分は人間の自由意思の領域に属するものと考えていこうという考え方によっている。社会を形成するのは人間の自由意思によるのであって、アリの社会のように特定の決まった社会を作るようには本能的に決まってはいない。他の動物で死刑

 

 

P762

 

制度を持たない社会を作る動物が多いのに、人間は死刑制度を作る本能をもっているのであろうか。死刑制度廃止論を人間が考察しうるということは人間は本能的に死刑制度をもった社会を作るようにはなっていないという事実を示している。

 自由論は様々な社会ついての自由な考察をも目指しているのである。死刑制度廃止論が唯物論によるものであろうとも、それはじゅうぶん検討してみる価値はありうるし、それは自由論のなかで物によって自由が制約されているという理論が最も死刑廃止論をわかりやすく説明しているということは、貧乏や社会制度の害悪やらについて唯物論が近代経済学よりももっともらしく説明しうるのと同じく、不思議なことであり、その点も人間の自由という観点から考察しなおさなくてはならない不思議な難問であろう。それは自由な教育という観点、自由な人間の評価という観点を導入することによってロジャースのいうように

 

 

P763

 

克服されるのであろうと考えられる。人間を社会において自由なものをもった存在としてみるということは、人間のすべてを肯定的にみる、他の人間を肯定する(すばらしいものと考える)ことであるからだ。そこには依存的な人が他人をみる時に、自分が依存できない人は悪いというような特別な観点がはいりこんでいないということである。政治学のなかに自由な人間の本性という観点を導入することは今後の社会においては、主権や国家を観察する場合においてすべての人間について人間の本性によって社会をみなおし、国家や主権についての概念を再構成しなおしていくということである。

 

 

P764

 

マスター・サイエンス

 

 政治は結果重視である。ということは現実に合わない理論は切り捨てていくということである。結果とは現実的なものだからである。マルクスの理論もそうなるかもしれないし、フロイトの理論も、ヒットラーの理論もである。それゆえに政治は文化人や言論人にも大きな影響を及ぼす。また学問にもである。それが政治がマスター・サイエンスである理由である。他の諸科学、特に社会科学に与える影響はそのような意味でも、政府予算の配分という意味でも大きなものがある。マルクスの共産主義の科学や、フロイトの性理論や、ヒットラーのドイツ民族の優越性の科学などが書き直されて、政治学に大きな影響を及ぼしているのは、結果重視という点に大きな力点がある。

 

 

P765

 

政治における全体と部分

 

 ある部分は他の部分と合体することによりひとつの全体となるが、その時シイジー効果はあるか。東西冷戦のさなかにあっては人は東西のうちの一部分であったが、現在二つが一体となったとすればすべての人は全体となった。政治においては政治的行為の各部分各部分と、全体としての政治の全体も、部分の合計以上のものを生み出していると考えられる。この集合効果は一たす一を二以上にしていると思われる。経済学におけるミクロの経済行為が、集権されマクロの経済となった場合の効果のようなものが存在すると考えられる。

 

 

P766

 

政治・法における自由

 

 自由ということばは多くの政治的な運動の名称の一部分となってきたことばである。それも政党および政党の綱領の一部分を構成してきたことばである。「私は何かをする自由がある。」このことばは何と政治的な意味を多く含んだ文章として政治的な活動の源泉となってきたことだろうか。ところが「私には人を殺すことは許されない。殺すなかれ。人を殺したる場合は死刑または無期懲役に処される。私は人を殺す自由はない。」この文章もまた法学や政治学や倫理学のなかで数多く論じられてきた文章である。一方ではその中間には「車は左、人は右を通れという規則を破って、危険がない時には車が右を通ったり、人が左を通ったりしてもいいのではないか。も

 

 

P767

 

っと悪法のユダヤ人を全滅させよという法律には従わなくてもよい場合があるのではないか。そのような自由があるのではないか。」という政治的な問題も存在するであろう。また「バニラアイスクリームを選ぶのか、チョコレートアイスクリームを選ぶのかの自由が自分の欲望どおりに存在するのかどうか。」という基本的な経済的選択の自由の問題や、「黒人の自由を黒人の人種を差別する団体が規制している。」という場合と、「政府や国家が黒人の自由を制限している。ある人が黒人の自由を制限している。」という三つの場合がどのように違うのかという問題も存在する。あるいは「場所恐怖症がある人の自由を制限している。」ということはどのようなことかという問題も存在する。更には「共同所有と私的所有とにおける自由はどのように違うのか。」という所有と自由、処分の自由の問題も存在する。また「都市の空気は自由にする。」という中世のことばは自由の歴史的な意味あい

 

 

P768

 

を考える契機となる。ルソーの「自由であることを強制する。」ということばはまた当時の自由の意味を考える参考になるし、大山厳秀央氏の『政治分析の手法|自由化の政治学』は現代の自由を考える契機となる。それはハイエクやフリードマンの理論を中心にイデオローグを紹介しているが、それとは対照的に政治哲学上では自由尊重主義(libertarian)と、自由主義(liberalism)とがまったく同じ自由ということばを使いながら昔ながらの右と左とに対立しているのが興味深い対照を示している。

 自由ということばはこのように多種多様な使用法のある幅の広いことばである。従って自由を政治学や、法律学のなかで科学として学問化することは非常に難かしい。ジョン・スチュアート・ミルからアイザイア・バーリンにいたる自由論の伝統はイギリスの思想史のなかでは大きな一つの流れとなっている。一方でアイザイア・バーリンの主張する消極

 

 

P769

 

的自由にたいしてはそのような自由の権利は存在しないのだというイギリスのオックスフォード大学法学部のハロルド・ドゥウォーキン法理学(jurisprudence)の教示も今現在いる。また北米で研究しているクリスチャン・ベイは『自由の構造』において社会心理学や、社会的な面での精神医学にも自由の概念を拡張しようとしている。

 

 

P770

 

自由を高める活動、自由を求める政治・社会運動

 

 これまでの自由論においては、自由を行なう人ではない自由の定式化の外にいる他の人が、自由を求めて自由の障害となっている妨害物を取り除こうと活動する(戦う)ことについての説明はほとんどなされなかった。他の人が干渉を排除すべきかどうか、自分があるいは政府が他の人に干渉すべきかどうか、自由は平等のためにどの程度に犠牲にするべきかなどの問題が論じられることがあっても、自分や他人の自由を高めるために自由を妨害しているものを、どのようにして排除すべきかについてはほとんど論じられることはなかった。それは自由の最適な状態が定義されるならば、それはそのまま自由を求め、自由を高める活動になると信じられていたからである。自由を高めるためには文筆、ペンは最高の道具となってきたのかもしれない。

 

 

P771

 

 ある人が他の人の自由が、わがままでありいきすぎだと考えるならば、その人は他の人の自由を妨害すべきだと考えるかもしれない。干渉を排除するよりも、干渉する方を選ぶかもしれない。

 逆にある人が他の人の自由が不当にも制限されている、例えば、貧乏な人は平等になるように自由をもっと与えるべきだと考えるならば、貧乏な人や、南アフリカの黒人のように差別されている人にもっと自由を与えるように自由を求める活動をし、差別している人や富裕な人のわがままな自由を抑えようとするであろう。それは平等を求める自由といえるかもしれない。あるいは自由化の政治活動により我々の経済活動を制約している様々な規制を排除しようという活動を行なっている人がいるかもしれない。あるいは男女平等化のために女性の障害となっている様々な妨害物を取り除くための運動を行なっている人がいるかもしれない。これらはすべて自由を求

 

 

P772

 

める活動である。ところがある人の妨害となっているものが、他の人の自由である場合には、そのような自由のための政治活動は他の人の自由を奪うことになるかもしれない。その場合には他の人の自由がある人の妨害になっていることを他の人に納得させる必要がある。そこに自由論が必要になると考えられる。

 自由論のなかには、自由の主体と、消極的自由と、積極的自由の三つが複合した形ではいりこんでいるとするマッカラムの主張は、自由論の定型的分析としては自由の意味を明白にするものである。しかしどのようにして自由を妨害している干渉や、強制を排除するのかという点に関してはあまり力が発揮できない分析であるといえる。逆に、干渉を排除し、強制を排除することこそ自由論の最も大切な部分であり、その結果自由の状態が生まれるだけでもよく、自由な活動を説明的に描写することのみが自由論の課題ではないとす

 

 

P773

 

るバーリンの見解は、観念の力こそ時代を動かすという信念、自由を求める政治活動者としての信念がみなぎっており、その論文を活力のある印象を与えるものにしている。それはあくまでもペンの力を信ずるというように理解できる。しかしマッカラムやらの自由の分析家の力もまた価値を離れた分析力の力が感じとれる。

 社会に生きるすべての人が、自由な人間である。だからこそ自由は必然的に衝突する。しかし自由の障害となっているものを取り除こうとする努力は大切なことである。自由は量としては計れないかもしれないが、一つの干渉、一つの規制を排除することはその人にとっては善である。他の人の自由がそれによって規制されることにより他の人が悪と感じることについては、相互に、あるいは、裁判により、あるいは、規範を作ることで調整することが必要なのである。ベンサムのいうように法を作ることは必然的に自由を減少させ

 

 

P774

 

ることにはならないのではないか。自由を制限することになることもありうるが、他のある人の自由を増大することもありうるのではないかということがいえるのである。

 貧者の自由を増大させることで、富者の自由を抑圧することになると考えるゼロ・サム社会においては貧者の自由を増大させる政治運動が富者の自由を抑圧している場合があることには注意しておく必要がある。

 

 

P775

 

政治の現実と政治の理想

 

 政治の現実は直視されなくてはならないし、政治論や政治学は役に立つものでなくてはならない。政治の現実と政治の理想とはあまりに離れすぎている場合政治学はどのようにあるべきかについて非常に迷うことになる。自由と規範のかっとう、政治過程の分析など政治学の分析対象はまりいも広い。しかし政治のなかにいる人間は、つまり公民としての人間はいかにあるべきかについて論ずることは政治学的にはすべての問題点を含んだ議論となるが、一つのまとまったものとなりうる。この分野ではマキャベリーの『君主論』は先達の残した一つの偉大な研究であり詳読すべき文献である。

 一つの国はいかにあるべきか、その国を統率する者はいかなる人間であるべきかなどという大きな問題が存在していること自体政治

 

 

P776

 

額はいかに大きな重責を負わされたのかと政治学に同情せざるをえないが、公人としての人間の所詮は一人の人間にしかすぎない。すべての人間を代表することもできないし、すべての人間を統御することもできない。マキャベリーの考えたイタリア統一におけるチェーガレ・ボルジアへの期待は現代においてはどのようにとらえるべきであろうか。これは現代における君主論ずるのによく似ている。

 東西冷戦がなくなった現代において支配者や君主はいかにあるべきであろうか。これまでのように北の脅威、東側陣営の脅威だけでは支配していけない時代となった。自由はこれまでよりも広がったのであり、権威と自由の新たな関係が求められるようになったのである。

 バーリンの積極的自由を行使する政府が政府ではなくて、個々の団体に移ったのだと考えれば、個々の団体や、個々の個人の積極的自由が、法

 

 

P777

 

的にどのように規制されうるかという問題に重点が移ってきたのだとすれば、ラズウェルの破壊活動の防止の観点や、ベイの安全の観点はこれからの時代こそ生きてくると考えるべきではなかろうか。フロムのいう統合されたパーソナリティーの理論はナチズムという国家的なものにたいして提起されたとともに、私的な団体や個人の権威主義にたいして提起されたものであったのならば、それもまた現代の自由を考えるうえでの一つの視点となるものと考えることができる。

 

 

P778

 

自由は政治的論争のなかで使われてきたことばである。

 政治学において自由を論ずることの意義は自明のようであって、自明なことではない。ところが自由党や、自由民主党のような多くの政党が政党名や、綱領のなかに自由ということばを使っているし、マキャベリーもその件『政略論』のなかで自由ということばを使っている。これらの多くは自由という言葉を賛美している。ところがバーリンは『自由論』のなかで積極的自由ということばを賛美されるべきではない自由としてとりあげた。また一般にはリバティー(自由)に対してライセンス(licence、放恣、わがまま)はバーリンのいう消極的自由の一部であっても賛美されるべきではないいきすぎた自由の意味のことばである。バーリンならば積極的自由を名付けてライセンスということばを用いるかもしれない。大金持ちが多くの財産を持ち、干渉されない自由を主張することがライセンスなのか、

 

 

P779

 

積極的に他人や、国民にいきすぎて干渉することの方がわがままなのであろうか。この問いにたいしては答える努力がなされなくてはならないと考えられる。これにたいする答えとしては、自由と平等を調和し、皆が博愛にいたれるような社会を作るべきであるという結論を導き出していこうとするのが本論文である。

 

 

P780

 

外的選好に対立し、抵抗する内的選好の理論

 主権や民主主義の問題を内的選好にたいする外的選好の問題としてとらえることは、選好ということばを使っている点において、それらを自由という考え方で説明しようとしたものであるといいうる。ドゥウォーキンはそれを平等な尊重と配慮という考え方によって説明しようとするが、バーリンのいう干渉されない消極的自由の概念のほうが内的選好と外的選好の対立をよりよく説明できると考えることができる。外的な選好であっても、自らの納得できない選好に反発するという考え、反発(反抗・抵抗)によって干渉されないようにし、妨害を排除するという考え方はバーリンのいう干渉されない消極的自由の新骨頂なのであって、ドゥウォーキンのいう平等な配慮と尊重という考え方のなかにはこの考え方は少ない。ただし、少数者ゆえに差別され、有利に取り扱われていない同性愛者の差

 

 

P781

 

別され、自らの選好を受け入れられなかったことによる損失を逆差別によってとり戻さねばならず、そのためには外的選好(異性愛)にたいする内的選好(同性愛)も法的に認めねばならないという論理においてはドゥウォーキンの主張はもっともな主張である。しかしもし、その内的選好がミルのいうような一夫多妻によって多くの女性が男女同権の主張を害するようなものであったとすればどうするのか。その時には女性差別による女性の損失と、一夫多妻による内的選好のどちらをより重くみるべきかということ、また、多妻の方の妻たちが内的選好によって好きこの人でそのような一夫についており、一夫多妻を守っている場合にはどうするのかというような利益・利害の対立という問題に帰属してしまって、どこかに法的、政治的な原則をみつけ出すのは難かしいということになってしまう。バーリンのいう干渉されない消極的自由という考え方によるにしても、ミルが迷ったよ

 

 

P782

 

うにこの問題を解くことは難かしいのではあるが、人間の本質としての内在的自由はどこにあるのか、異性愛と同じような形での同性愛の形態を子供を生むために認めているのか、一夫多妻というのは人間の内在的自由に含まれているのか、あるいは、依存によるのであって本当は独立して、一夫一婦で子供を育てたいのにできないような社会的な不正な圧力・強制があるとか、あるとか、異性愛による結婚を人間の本質の内在的自由や性や生の本能として望んでいるのに社会的な圧力・強制によって自殺した人と同じような、そのような社会的な圧力が存在しているのではないかと疑うことの方がずっと社会的な、自由論的なもののみかたであるといえるのではなかろうか。実際結婚して、一夫一婦制度の下で子供を育てるのは、内在的自由によるもので苦しい生活であるのに、それを性の本能がすべてととらえるようなある種のタブーのようなもの、

 

 

P782

 

自由を妨害するようなものが存在しているのではないかとを自由と社会論的に考えてみることのほうが大切なのではないかという観点が生まれてくるのである。

 

 

P783

 

ドゥウォーキンのいう同性愛という内的選好は、それを禁止したり、しなかったりする外的選好とどのように対立するか。

 

 同性愛をする「自由の権利」を法的に認めよという時のドゥウォーキンは一般的な干渉されない「自由の権利」を認めないといっているのとは正反対に、そのような「自由の権利」を認めよといっているようであり、外的選好に対立するような内的選好を、黒人のような弱者や、同性愛者のような少数者が持っている場合には「自由の権利」を認めよといっている。これはモルモン教徒の「一夫多妻の自由」、「異教徒的自由」を寛容にも認めようではないかというミルの干渉されない自由論に近いものである。バーリンのいう干渉されない消極的自由という概念は、自由意思に関する決定論である絶対理性の不寛容な要求に屈せず、寛容にしておいてくれというも

 

 

P784

 

のである。

 ドゥウォーキンのいう外的選好は、多数者が決めた意思であると解釈するならば、それは一般意思とルソーが名付けた意思に近い。それにたいして少数者の内的選好は、その人々が不利にならないように守られるべきであるというドゥウォーキンの主張は、「不利にならないように」という限定付きではあるが、「自由の権利」を求めるものであって、また、外的選好にたいする抵抗権を認めているのである。抵抗権の理論は法的に憲法理論に現代社会では法規範化されたように、どのような種類の外的選好による内的選好の「干渉されない自由の権利」を認めることができるのかが問題となるのである。

 これが「不利になっているか、不利になっていないか」の基準とか、「明白かつ現在の危険があるか、ないか」の基準とかは、「自由の権利とはあまり関係がない。同性愛者が不利になっているから、弱者として救済すると

 

 

P785

 

いう考え方はただ単に現実的なことであり、不利になっていなければ平等な配慮と尊重の原理によって救済されないのだという理論となってしまう。これはリベラル・平等の側からの理論である。ところが今度は逆にリバタリアン・自由の側が問題とするのは「現在かつ明白な危険」の有無の基準も、現実的な問題であり、それが全く存在しないということであれば、不寛容な思想は全くもって、社会的自由、思想・表現の自由を侵害していないということになりはしないであろうか。

 現実に明白な危険がおころうが、おこるまいが、不寛容の思想の強制は、裏側で社会的自由を侵害されているという場合に裁判所が「干渉されない自由の権利」が認められるような法制度、自由の法制度が認められなくてはならないと考えることができる。

 

 

P786

 

第十五章 一九九一年の東西冷戦終了以後の各国の政治と自由

 

 

P787

 

東西冷戦後の政治と原理

 

 東西冷戦後の新しい統治原則は何か。功利主義か、反功利主義か、平等も自由もまだ達成されてはいないので自由・平等主義か。ここに日本での一つの事例を考えてみよう。

 青島幸男東京都知事は東京で行なわれる予定であった都市博覧会を中止した。しかし最大多数の最大幸福の原理によって一部の工事は継続すると発表した。

 

 

P788

 

東西冷戦後の個人の自由

 

 人間の拡張というマクルーハンの使った表現の仕方を使えば、マクルーハンのいうテレビよりもワープロや、パソコンは人間の、あるいは、個人の人間を爆発的に拡張する。パソコンが十メガバイトのハードディスクを得たり、ワープロが一メガバイトのハードディスクを装着した時に、人々が人間が拡張されたと感じた、その感覚をマクルーハンはまだ確認できない時代の人であったが、もしそれが確認できる時代の人であったならば、パソコンにたいしてどのようなメディア理論を作り上げたのだろうかという問いのマクルーハンの答の予測には興味深いものがある。

 これは個人の自由観とも関係するであろう。個人が出版できるようになれば、すなわち、パソコンのDTP(Desktop Publishing)は、活版印刷術の発明以来はじめての画期的な印刷術の大革命となり、新しいルネッサンスがおこるか

 

 

P789

 

もしれない。東西冷戦の終結こそその結果であったのかもしれない。一九九一年といえば日本でワープロがはじめて一般に売りに出された年、シャープとキャノンが一号機、WD590とキャノンのキャノワードを一般に売りに出した年、一九八六年から五年を経た年である。個人の机上で印刷ができるDTPの技術は現在はまだ、それは大量に新聞程大量に瞬時に他の人々に伝達する技術をもってはいないが、インターネットの技術の発達は一九九六年くらいから一般のパソコンユーザーにも、世界に向けて個人が作った情報を瞬時に世界に公開することを可能にしはじめた。

 この技術の発達が世界的に個人に広がれば、国際政治にも大きな影響を与えるものと考えられる。現在はまだ費用という点で誰でもが皆安く世界にアクセスできるまでにはいたってはいないが、世界の人口の半分以上にまで、その技術が広がっていけば、テレビメディアが

 

 

P790

 

政治や、人間の文明に与えてきた影響以上に法や、政治に大きな影響を与えるものと考えられる。現在ではアメリカの連邦最高裁がインターネットのポルノを既製しようとするアメリカのクリントン政権の動きにたいして、自主既製にまかせるべきであるとして、表現の自由を理由に違憲の判断を下したとの報道がある。そのことについて学者達は多くの論評を即座にいしているのであるが、自由の問題に関するこのような動きは今後更に新しい問題を生み、政治や法における自由の問題の意味は新しい解決を迫られることになると予測される。各人の自由な活動は政府の規制がなくなれば、なくなる程大きくなるといえるが、しかし表現の自由はプライバシーの公開とかの問題を起こすと考えられる。名誉の観念は依存的な人で、評判を強制したりする人程大きいという仮説を受け容れれば、自由と強制の問題はこのような小さな場所でもおこる可能性があるということになり、そこには心

 

 

P791

 

理学の重要な問題提起が、政治や法の側から行なわれる可能性がある。しかし現在はそのような動きが「絶対的で」、「不寛容な」考えや、思想を排除して東西冷戦を終結させる力となったり、国際的な国境線の垣根をボーダーレスにしたりする力となっているようである。それを解釈すれば、バーリンのいう人生の目的や目標(ends or goal)が各人様々であるから、人々はそのような意味での個人主義的な自由を尊重してほしいと考え、干渉されない消極的自由の実現を求めているように思われる。幸い経済の大恐慌は一九八九年頃の日本のバブル崩壊後も回避されたようであるので全体主義がたいとうにするにはいたらなかった。経済的な問題が崩壊にいたらず、その解決のメドがたてば、今度は政治の問題が荒起され、今後の自由の問題は新たな展開がなされていくものと考えられる。東西冷戦の終結は自由の問題にこそ最も大きな影響を与えつつあるといえると考える。

 

 

P792

 

日本における第一次、第二次、第三次の市民革命

 アメリカの手動の下に行なわれた戦後のGHQの政策は、左翼的なマルクス主義を否定したが、平等主義的であった。これは四民平等を推進した大隈重信らの留守政府の改革を日本における第一次の市民革命となづければ、第二次の市民革命ということになる。大隈重信の明治十四年の政変によって実質的な市民革命は四民平等以降も続いていたとしても、形式的には明治十四年の政変によってドイツ型の大日本帝国憲法の路線をひくことが決定されることになった。そしてこれがその後の第二次世界大戦へと歩む道に始まりを画す事件となり、本物の市民革命はアメリカという他国の政府にまかされることとなった。そこでも完全に市民革命が済んでいなかった部分については東西冷戦後の現在までもちこまれることとなった。東西冷戦後の現在は日本においては、世界の動きと連動した日本独特の第三次の市

 

 

P793

 

民革命が進行中であるといっても過言ではない。

 第一次市民革命においては中性の身分制社会における四身分が四民平等となったのにたいして、第二次市民革命において明治十四年の政変においてしりぞけられた大隈重信、高田早苗らの英米流の私擬憲法案の市民革命的な部分が、日本国憲法として採用され天皇制の廃止が行なわれた。そして現在は様々の世襲的な要素を排していったり、バーリンのいった政治における絶対理性の絶対性を排して市民の平等とか自由が求められ、政治の絶対性を排除するという意味での無党派層が増大しつつあるといえるのである。

 

 

P794

 

 東西冷戦終了後の政治においては政治の変化と文明の変化とがともに考察されなければならないのは、政治と文明とがほぼ同じ歩調をとって動いていくという理由による。東西冷戦終了後新聞も、政治学者も文明の動きを見据えないと政治をどのように描写してよいのかわからなくなるかもしれない。政治の動きは文明の動きに伴うのである。これまでのように「神々」のように高貴な人々の動きが政治であると書くこともできなくなったが、世界が一つになっても政治が存在していることは明白である。ところがどこに存在しているのかが分からなくなったのだ。政治は各人各人のパーソナリティーのなかに、自由な選択の傾向として存在するのである。つまり、自由な選択の傾向とは政治的な選択の傾向であるということになる。

 

 

P795

 

 日本においては、旧東ドイツにおける密告主義のような東西冷戦時代の「左右両翼による人権侵害」の清算がまだ終わっていなくて、それによって苦しんだ人々の心にたいする損害の償いは全く終わっていない。

 

 

P796

 

伝統は一般には質素である。経済先決ではない。経済が裕福であるところから生まれる。

 ダイアナ英国元王妃は、本当は王室の質素な生活がイヤだったのではないか、だから、ハロッド百貨店の大きな財産でぜいたくざんまいをしたかったのではないか。ぜいたくをしたいという欲望が、チャールズらの質素な生活がイヤだったのではないだろうか。ここには政治の根本が横たわっているかもしれない。伝統は質素であるがゆえに何百年も保たれるものである。日本の皇室は雅子妃、紀子様にしても質素な人を民間から嫁にもらったから長続きしており、質素な生活でもそれに感謝して生活しておられるが、これがダイアナ元英国王妃の様な性格であったらどのようなことになっていただろうか。伝統が経済先決論や、ぜいたくさや、はでさからうち破られることがあろうか。

 

 

P797

 

王権の解体。君主制に関するイギリス労働党の見解にたいする見解。君主や、指導者の自由。

 王権の解体は、王にとっては自由をなくすことであったが、臣民にとっては権威という妨害がなくなることであり、自由になることであった。ところが王にとっても、自らが普通の自由な人間であるという立場からみれば王権をなくすことのほうが普通の自由な人間として行動する余地を多くすることであった。これはクセノフォンが独裁であることは安全ではなく、独裁でないことは安全であると考えたことと似ている。つまり独裁は人間の内在的自由を殺しているといえると考えられるし、家父長制も、王権も内在的自由を殺していたと考えられる。天皇の人間宣言は、ある意味では天皇の人間的な内在的自由を増大させたし、それだから自由な活動ができるようになり、マスコミにそれが提示できるようになって天皇の人間的内在的自由が強調される報道がなされてきたといいうると考えられる。

 

 

P798

 

しかし伝統の重みはそこにあるべきであり、人々は伝統をこそ信頼しているといいうるのである。イギリスにおけるダイアナ元妃の「帽子のかぶり方」から「生き方」における伝統破りは、どの家庭にも必ずあることであるが、自由と伝統のあり方について深く考えさせるところがあった。自由が伝統の破壊となることがあっても、人間の内在的自由の破壊となるまでにいたることは、マルクスやフロイトのそれと同じく自由になったというのではなくて、絶対理性の絶対性により全く自由をなくすことと等しく、伝統は内在的自由の存在するところに意義があるのだから、絶対理性の絶対性は内在的自由の解放と全く反対のものであると考えられる。伝統は単なる秩序(社会)維持であってはならないが、自由な人々の自由な関係を破るのが、伝統の破壊や、タブー(禁忌)からの解放であってはならない。

 内在的自由のなかに、博愛や温情主義的愛

 

 

P799

 

情(父母の愛情)や、兄弟姉妹の愛情などか含まれているならば、絶対理性によって「家族を破壊せよ。」(『共産党宣言』、 頁。)といったり、あるいは、共有で子供を育てるために、親子の愛情をひきさいて子供を共同社会のなかにむりやりにおしこめることは、内在的自由のおもむく方向とはいえない。それは本能ではない。否定できるということは内在的自由である。

 とにかくダイアナ元王妃の問題を書くことは、こちらの方が気持ちが悪くなる。それをダイアナ元妃は理解しないであろう。それは彼女の心の中のみの問題ではなかろうか。この世の中にはこのような問題が多い。それがベイやフロムの取り扱った社会心理学的問題といえなくもない。いや、この問題は社会心理学的問題というよりも心理学プロパーの問題であるのかもしれない。

 

 

P800

 

自由論

 

 私がロールズの研究者であったり、バーリンの研究者であったとしてもロールズや、バーリンの意見にそのまま賛成する必要はない。私は自殺は生の本能に対する反逆であると考え、それが干渉されない自由の範囲に属するとは考えない。妊娠中絶についても人間の生の本能にたいする反逆であり、それを自由とはとらないであろう。ただ妊娠中絶が母体の安全を害したり、食べていけない程貧乏のためというのでなければ、胎児と母体の生の本能を重視することは自由なよい社会観を育てる上で重要な視点であると考えるものである。自由論はこのように社会や、国をみる重要な視点となりうるのである。

 

 

P801

 

平等主義に関するアメリカの特殊事情。イギリスや日本の特殊事情

 日本とは違ってアメリカにおいては、平等主義を採用しなければならない歴史的な事情がある。黒人は奴隷制度の下で極端なハンディキャップをもって生誕するし、そのような社会的環境にある。ところが日本においては多少の多民族差別の歴史はあったが、大多数は一民族であり、民族的なハンディキャップを歴史的におわされた人々は非常に少ない。平等主義と、反自由主義は学校においてははびこっているけれども、その他の社会においてはすでに平等である部分が多いから、自由から出発することが可能になっているものと考えられる。このことはイギリスにおいても同様なことがいえるが、イギリスや日本においてはマルクス主義の影響、自由を平等を殺すという極左の影響が強かったのはどのような理由によるのだろうか。

 

 

P802

 

クリントンとブレア

 

 東西冷戦後イギリスも、アメリカも自由から平等にシフトした。

 「黒人も白人も、ドイツ人もユダヤ人も平等である。」このような考え方が平等主義として定着しはじめたのである。人種の平等主義はドゥウォーキンの平等主義の根幹となっていると思われる。ドゥウォーキンがプライバシーの権利と、プライバシーの義務とが表と裏の関係かどうかについて述べる時にはプライバシーの権利や、表現・思想・言論の自由に関する干渉されない自由についても、皮肉にも認めていると考えるのであり、自由と平等と国家・権利の理論は新しい時代を迎えたと考えられる。

 

 

P803

 

 経済好況の運が、クリントンの再選の勝利の原因である。これが運命であるとするならば、このような運についての政治的な運命論はヴィルツウ論とどのような関係があるであろうか。ドールは不運だったのだろうか。そうではないかもしれないし、そうなのかもしれない。時代は平等のなかの自由に向かっているといえるから、時流にのったともいえる。

 

 

P804

 

現代の政治・経済と自由論

 

 大恐慌はかろうじて避けることができるようになった。総需要を公共事業の拡大によって増加させることでそれは可能になったとしても大不況(超不況と名付ける)が大恐慌のかわりにやってきた。このような一九九七年現在の経済大不況のなかで、個人の自由と、自他の平等をいかにして達成しうるのかが今後の自由論の課題であるといいうる。バブルの崩壊は経済不況をもたらし、また、大規模な規制緩和は経済的不平等を増大させた。このようななかで人間はどのような社会的自由論を展開していくのであろうか。一九二九年大恐慌を契機としてバーリンの積極的自由が増大し、スターリン主義や、ナチズムや、ファシズムが台頭してきたことの二の舞とならなければよいが。

 

 

P805

 

 ケインズの不況時の公共支出の拡大の理論は、公共事業を総需要拡大のために要求したのではなく、その結果乗数を増大させるような「不平等の是正」を財政支出によって要請したのかもしれない。TVAも、日本の公共事業も失業処策であったのかもしれない。公共事業の本質は需要刺激よりも不平等の是正であったのであり、公共事業が不要になる時代がやってきてもそれは不平等の自由によって総需要は拡大されるべきでえある。ケインズの理論はクラッスス兄弟の改革から続いてきた。不平等の是正という大きな流れのなかの一つの理論であったのかもしれないし、ローウィの『自由主義の終えん』の議論もその一つの側面としてとらえることができるかもしれない。そしてそれはウッドロー・ウィルソンの『新しい自由』にしてもである。

 

 

P806

 

戦後日本の自由概念の変遷

 

 自由の意味はさまざまにうけとることができる。自由民主党はそのような自由の変化をうけいれてきた。明治政府の四民平等はそれまで差別された身分のもとにあった人々を、自由にした。そこで生まれた自由民権運動のなかで育った自由の概念を、戦後一部分受け継いで、自由党と民主党が合同して自由民主党を形成したが、戦後の世界はまたしても大きく変化した。四民平等により自由になったという事例は平等と、自由とは全く因果関係はないとするバーリンの消極的自由論の大きな反証となってはいる。しかしバーリンが状態であるとする消極的自由には四民平等は何ら影響も与えなかったかもしれない。

 第二次世界大戦直後GHQは「自由の強制」ともいえる日本国憲法の制定を指導した。これに反発するのが自由民主党であり、自由な(自主)憲法の制定をも主張する。その自

 

P807

 

由が日本人個人の自由を高めるものであるならばよいが、国家の自由を高め、個人の自由を抹殺するのであってはならないと考える。

 

P808

 

イギリスと、日本と、アメリカの政治の流れと自由と平等と政党の綱領

 平等な自由のある社会ということを正義の第一原理としたロールズの考え方は、日本の政治の流れからすれば自由民主党的であるのではなかろうか。日本の左派は平等によって自由を否定する立場をとってきた。そのような立場をロールズはとらず、平等化はただ自由な社会を強化するためにのみ第二番目に、第二原理としてのみアレンジarrangeさらねばならない。このアレンジするとは、Aという人がBを手はずを整えておくという意味であるから、人間は手段を講じなければならないという意味であると思われる。あくまでも自由な社会を守ろうとするのである。従ってそのような政党は日本では自由民主党の立場である。

 ところがアメリカにおいては、それはリベラルな左派と考えられている民主党のとる政策となった。共和党は資本家集団に属する人

 

 

P809

 

々の多くが考えていたように干渉されない自由を主張する人々が多く、干渉されない自由を主張するリバタリアンたちにはロールズに匹敵するような理論家が見つからなかったのである。ロールズの考え方はイギリスにおいては、リベラルに属するのであろうか。

 イギリスにおいては労働党の考え方は、ロールズの考える自由な社会を守るよりも左派の思想であった。イギリスではオックスフォード大学のドゥウォーキン法理学教授は干渉されない自由などは一般的には存在しないという。この考え方は自由は自由によってのみ制限されうるというロールズの自由の優先性に関する第一の優先性のルールに反する。ドゥウォーキンは自由は、平等な配慮と尊重という彼の法原則によって制限すること(殺すことということも、反対陣営からは、できるであろう)が可能であるという主張を、法道徳と、政治道徳の最も大きな、第一の優先原理として提示する。ドゥウォーキンはロール

 

 

P810

 

ズよりも左派に属するといえる。イギリスの労働党の思想は左派の考え方が強かったためにロールズよりも左であったドゥウォーキンの考え方を受けいれるのにはじゅうぶんな素地があったと考えられる。これにたいして保守党はバーリンのいう干渉されない自由の考え方を受け付けたであろう。しかしそれよりも新保守主義とよばれる考え方が、サッチャー首相のもとでおしすすめられた。この考え方は依存をたちきるという考え方を中心にして構成された哲学であったと考えられる。サッチャーはこれを父の依存的性格の否定からみにつけたのだと報道されたことがある。ポールタックス(人頭税)という新税さえも実施されてサッチャーの新保守主義の政策の展開は終了した。「サッチャーは、こうした犯罪やその背後にある(他人を省みない)『自己中心主義』を、一九四五年以来の左翼による『甘えを許容する(permissine)』文化に由来するものと考え、厳罰主義で臨んだ………」(大嶽秀夫『政

 

 

P811

 

治分析の手法|自由課の政治学|』放送大学教育振興会、一九九五年、一二三頁。)のである。この考え方がコミュニティや、伝統的秩序を回復することを目標としていたのに、その結果として秩序を回復することになったのか、そうではなかったのかについては、厳罰主義が秩序を回復できるかどうかの参考にある。この答については左翼の側と、右翼の側では違憲を異にしているようである。

 

 

P812

 

各国における消極的自由の相違

 

 日本は国土が狭いために、肩を寄せあって生活しており、消極的自由の範囲は狭いとかんが得られる。世間ということばと、社会ということばとの関連性については多くの人々が研究したり、言及したりしているが、それはある意味では消極的自由の狭さに由来しているといえるかもしれない。生活のあらゆることに関して他人にきがねして生活していかざるをえないのが日本であり、それは土地の狭さに由来していたり日本の政治や法文化やらに由来していたりとその原因の追求は様々であろう。それなら日本において消極的自由について研究する余地はないという考え方におちいるかもしれないが、必ずしもそうとはいえない。欧米にも、日本にも他人に「干渉するな」ということをいいたい人はほぼ同じ数いるかもしれない。日本全体としてではなく個

 

 

P813

 

人個人を考えていけば、本当は世間体やらのことばは日本独特の考え方ではないかもしれないし、世間への甘さ(依存)も日本独特の考え方ではないかもしれない。あるのは日本には世間体や、甘えや、末っ子や、一人っ子とかいうような独特な分析概念であることばがあるだけなのかもしれない。

 各国の文化や、政治や、経済の違いは各国に応じた消極的自由の範囲を決定していったように思われる。それらの研究は政治学における各国の政治というのと似ているが、自由論の総論はある意味では政治学の原理の、あるいは政治学総論の核ととなるような部分であるといいうる。

 

 

P814

 

 日本人や、ドイツ人や、イタリア人のようなローマ法の国においては、法が自由の制限という見方でみると自分で法や政治について考えるよりも、それらに従っていた方が楽であるという感覚がある。これが陪審制裁判についても普及が遅れる理由となっていると考えられる。一方英米法の国であるイギリスや、アメリカにおいては陪審制度が定着したり、政治についても各人は法や政治権力にまかせるよりも、もう一度自分達で作ったり変えたりしてみようという考え方が定着しやすい。これは英米法が法の適用にあたって柔軟であることと関連していると考えられる。

 主権者はオオカミであった(ある)のではないかという意識に乏しいのが日本人である。

 

 

P815

 

日本人とアメリカ人

 

 弟、妹の世話から親になるための経験をしたという女性がアメリカが四十%台であるのにたいして、日本では三十%台であった。この事実は日本においてより以上にアメリカにおいてのほうが、兄弟姉妹の長幼の序を十四しているという解釈をすることができるであろうか。

 

 

P816

 

行政の民営化は、保険と共にであれば可能である。

 行政の独立採算制度は、民営化とは違い、失敗した時の担保としての保険がある。民営化もじゅうぶんな保険と共に制度化されればほぼ行政と同じ役割を果たせる。

 

 

P817

 

開かれた政治

 

 裏で決めないことは、開かれた政治の原則である。ウッドロー・ウィルソンが『議会政府論||アメリカ政治の研究|』において委員会制度を批判した理由はそのような開かれた政治を求めるものであった。ボスが決めている政治にたいする反発であった。

 

 

P818

 

民主主権と国民主権

 

 裏で事を運ばなければ公開の政治が可能である。裏で事を運んでも公開の席上それを強制することも可能である。その強制において裏で運んだこと、裏で決めたことは表でも当然のことであるとして強制することはバーリンのいう積極的自由にあたると考えられる。人々はこれで満足せねばならないという論理である。この論理はバーリンの理性の強制の論理とよく似ている。共産主義社会における意志決定のシステムはこのようなことをするのに適した形態になっていると思われる。民主的な政治制度における意思決定の過程はこのようなシステムよりももっと複雑であるといいうる。ここに現代政治における複雑な政治過程論が生まれてくる理由がある。立法過程においても、司法過程においても、行政の過程においてもそのようにいえる。開かれた政治においては公開の場において意思決定

 

 

P819

 

がなされるのではあるが、少数の立場となったものにもできるだけ有利になるように公開の討議が行なわれて様々な意志決定がなされることになる。そこで決定された意志決定がルソーのいう一般意志になることについては仕方のないことである。それが人民主権的であるのか、国民主権的であるのかについてはやはりバーリンのいう強制や、干渉というものが本質的な相違となるものと考えられる。やはりバーリンの主張は重要な側面について述べていると考えられる。人民主権論と国民主権論の対比をバーリンの考え方をぬきにして考察することは本質を抜きにした論議であるといわねばならないのかもしれない。強制性の問題である。

 

 

P820

 

日本の第一次、第二次、第三次の市民革命

 大隈重信の四民平等を第一の市民革命、明治一四年の政変をそれに対する反動、第二次世界大戦の後のGHQの改革を、第二次の形式的市民革命とすれば、東西零戦後の今日は第三次の本格的市民革命がはじまっている。

 

 

P821

 

 大隈重信が明治十四年の政変以前に提出していた日本の憲法草案は、天皇ということばよりも世論ということばに重点が置かれている。そこには四民平等の観念と同じ自由と平等の観念が流れていた。

 

 

P822

 

 独占的な企業、例えば国策会社のコンピューター会社で外国からの輸入も禁止されている場合に壊れるようなコンピューターを売ってもそれ以外の購入方法がないと、国民は黙ってそれについていかざるをえない。独占の弊害はこのようなものであると比喩的にいえる。

 

 

P823

 

自由な政治過程と開かれた政治(過程)

 

 多くの政治的意見が一致するまでの過程が政治過程である。しかしその政治的意見は一致しないこともある。その場合に一般の政治的意見に従うのか、抵抗するのか、暴力革命をおこすのかが問題となる。

 

 

P824

 

主人への従属・依存と、委託

 

 「私の主人は誰であるのか」の問いにたいしては、私が誰に依存するのかなのではなくて、私が誰に主権を委託するかであるべきなのである。もし私が依存する相手を求めて政治家を捜すのであるならば、そこには消極的自由を放棄した姿がある。

 

 

P825

 

“The guestions ‘Who is master ?’ and ‘Over what area am I master ?’ cannot be kept wholly distinct.” ibid.pp.(Introduction)

 

 

P826

 

「自由であることを強制する」とは。

 

 自由であることの強制には二つの内容が存在する。一つは依存的な関係にある二つの主体を独立にすること、二つ目は義賊の心理によって貧乏な人が富裕な人から資源を奪うことである。二つ目には議会や、一般意志の承認を得ている場合とそうでない場合とが存在する。承認を得ていない場合は暴力革命になるし、承認を得ている場合は議会内社会主義となる。一つ目の内容は自由を達成する活動、自由化の活動が二つの主体が依存的な関係や、従属的・隷属的関係にある時に相互に独立させることを意味している。

 

 

P827

 

公民のための政治・政党

 

 リパブリカンは一般には共和党員と訳され定着している。自由な人間は一般的な人間であり、その自由な人間が論じられなくてはならないばかりではなくて、社会的な自由として論じられなくてはならないと考えられる。

 しかし公民としての資質は、アメリカの民主党の綱領においても要求されており、平等のために自由を殺すようなことを主張してはいない。

 ということはアメリカにおいては民主党も共和党も、共通して政治的に、公民として人々を導いていこうという点では一致していることになる。ところが日本においては平等のために自由を殺すことを目的とする多くの政党が存在していた。

 

 

P828

 

しっとは現実か。

 

 公務員になったら長い間公務員をしていた公務員の主のような人がいて、新人の公務員が人々のためになることを一生懸命にやっていると、それはつかれるだけだよ、そのような公務員は出世しようとしている、出世にとりつかれた人だ、何もしなくても給与は一緒だよ。」といって、行政では人々が、学校では生徒が困っていても何もしてやるなと、新人の公務員をけん制して教育してまわる人がいたとする。これはあくまでも暗喩であって真実ではない。もしそのような人が平等のために自由を殺しているのだと主張しているのならばそれは平等とはいえないであろう。それはただ自由を殺すことを他人に強制して、バーリンのいう積極的自由を他人の妨害のために行使し、フロムのいうように自由を否定し消極的自由に陥っているだけである。学校では生徒の親がいくらいってきても、それは生徒の親がすることだ、生徒自身が学習すべきことだという

 

 

P829

 

ことで済ましてしまい、学校の機能を否定することになる。それでも社会は動く、独立的で進取の気性のある人はそれでも自分で学習していくからである。官公庁・行政の場合においては人々はそのようななかで、自主独立して自分で「うまくやっていく」ことを覚えるであろう。そしてそのような行政をなくそうと思うかもしれない。そのような学校をなくそうと思うかもしれない。

 しかし、そのような学校や、行政が一般的であると思ってはならないだろうし、そのような行政や学校や、そのような主はいないといって反論があるかもしれない。しかしバーリンにしたって干渉されない消極的自由は法があれば制約されることは認めているのであるから、干渉されない消極的自由は一般的に存在するといっているわけではない。そう考えるとバーリン理論は全く意味がなくなるので、バーリン理論における干渉されない消極的自由というのは、以上最初に述べたような

 

 

P830

 

ケースのみに限定されていたか。そのような類似のケースのことをいっていたのであるとすれば、この節の暗喩は残しておいたほうがよいということになる。

 そのような主のいっていることは、そのうちに絶対理性、長年の経験からつちかわれた絶対理性、唯物論のようなものになってしまった場合には「何もしなくても給与は同じだよ」という絶対性の押しつけになってしまうということがありうる。

 

 

P831

 

モラールをなくすこと、さぼりを生むことと、バーリンの積極的自由

 モラールをなくすとか、さぼりを生む体質は、以上のようなバーリンのいう積極的自由の例が示しているともいえる。平等のために自由を殺す一つの例であるといえる。平等は大切ではあろうが、自由の一構成要素のためであるべきで、自由を殺すためにあるのではない。バーリンのいう積極的自由は絶対理性による理想を迫っており、現実を見ていないゆえにさぼりを生むのであるというように理屈付けることができる。

 

 

P832

 

よい評判の絶対的強制

 

 おどおどとした劣等感の多い、絶対理性を信ずる人々が良い評判の強制を行ない、積極的自由を主張するのは、その人の劣等感が原因である。このように考えるのは某学説によりその分析を行なったかのようにみえる。しかしそれは法律的、政治的、社会的な側面から分析が行なわれて解決されなくてはならない。

 

 

P833

 

共産主義批判の類型

 

 アリストテレスの共産主義批判が経験的な事実からの理論化であったのにたいして、バーリンのそれは思想としての全体主義の批判であり真向からの批判であった。それはマルクスの伝記を書いたバーリンであったからできたことであった。ポッパーの分析哲学による批判とはまた異なった視点をもっていた。

 

 

P834

 

共産主義批判の三類型と依存

 

 共産主義を思想としてとらえ批判する思想は、アリストテレスによる古典的なものから、カール・ポッパーの分析哲学によるものと、アイザイア・バーリンの二つの自我論によるものとがある。

 自由を求める政治活動の観点や、自由論の立場から分析が可能であろうか。自由の定義から理論的に分析することはできるであろうか。共同所有においては疎外がなくなり、自由になれるのであろうか。「真の」自由は共同所有全体の自由であり、個人個人の自由ではないといえるであろうか。

 私の提案する依存論は共産主義批判の第四の類型でありうるだろうか。カール・ポッパーのいっていることのなかでの依存の意味や、バーリンのいっていることのなかでの依存の意味や、古代においてアリストテレスがいっている意味での依存の意味は共産主義批判

 

 

P835

 

においてどのような意味をもっているのだろうか。一方で現代の保守主義者、マイケル・オークショットのストライキ論においては依存についてとらえているのであろうか。オークショットの保守主義者としての自由のみかたは、どのような観点からしたらストライキについての不法性の指摘となりえたのか。ますます少なくなるストライキの行方は人々の心の独立性への新しい動きと関連しているのではなかろうか。

 

 

P836

 

プラトンの呪ばく

 

 プラトンの呪ばくとして、カール・ポッパーはプラトンの共同所有論の欠点や、プラトン的歴史史主義を批判した。ある程度はイデオロギー的な側面をもっていたにしても、それは真実をついている面もあった。カール・ポッパーは分析哲学的手法を使ったと一般にはいわれているが、社会科学における分析的手法は相当に混乱してしまっている。自由はいくら分析しても自由のままであり、社会を分析するにあたっては他の自由人の多くの目的を考慮していけば、どこかで判断適しをして、自由を認めるところにいきつかざるをえないからではなかろうか。

 

 

P837

 

プラトンのじゅ縛と自由

 

 プラトンのじゅ縛のなかでも、洞くつの比喩は批判の対象となりうる。いつも被害を受けているという人は、いつも被害を与えることが正しいというかもしれない。洞くつという表現は自己否定した絶対理性の世界であると考えることができる。そう考えるならば経験的な自我は「 」なようにみえる。

 

 

P838

 

プラトンの絶対理性

 

 プラトンの洞くつの暗喩において囚人たちの陰が現実だと思い込んでいることは経験的な真実の暗喩であるにたいして、目を当てていた太陽そのものは理想的な絶対理性、倫理的な価値に目ざめるのだという暗喩なのであると解釈すればプラトンの共産主義はマルクスの絶対理性論によく似ている。より低次の、より不完全な経験的な現実という考え方はバーリンのいう干渉されたくない人々の現実の生活と似ている。

 

 

P839

 

「パンツをはいたサル」の概念と政治人類学

 

 人間がネコのような動物とはちがって毛をのびちぢみさせて、カゼを除ぐことができず、自分の自由な意思によって(自由な選択によって)服をきたり、家に住んだりすることによってカゼを除ぐという概念は、「パンツをはいたサル」という概念によって最も比喩的に表現されている。そこに経済人類学が成立しうる余地があるし、政治人類学の成立するよちがあるといえるであろうか。

 

 

P840

 

共産主義にたいする対処の仕方

 

 共産主義は排除するのではなくて、また、評判の強制に屈するのではなくて、その貧乏さの主張のみを尊重すればよいのである。その精神が絶対的に陥った理由、二つの自我の分裂を教えてやればよいのである。

 

 

P841

 

個人の名誉の回復の遅れ

 

 文化大革命が平等主義のために自由を殺すために毛沢東の指導の下で行なわれたものであるとすれば、現在その当時命を落とした人々が名誉回復されているのと同じことが日本においても行なわれなくてはならない。平等主義は精神的なものであると私は思って発表してきた。

 

 

P842

 

第十一章 自由論・平等論・博愛論

 

 

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不安の心理と、豊かな社会の博愛の心理

 不安の心理には、根源的には、二つの環境の想定が含まれている。それが社会的攻撃性の厳選となっている。その第一は、義賊により自分の所有物を奪われるかもしれないという心理、二つ目は、十二人の人間がいるのに三人分の食料しかない状態がくるかもしれない、あるいは、今そうであるという想定からくる不安である。この不安は自由論の出発点に安全という概念を置く考え方を発生させる。逆に豊かな社会を想定することは自由論の出発点を人間と人間が自由で平等な状態の想定から出発させるであろう。更に豊かな社会の想定から出発する自由論は、余り余った食料を他の社会に博愛によってほどこすような社会の想定から自由論を出発させるであろう。これらは個人がそのような状態にあるということとは関係のない自由論として表現されるが、個人個人の想定はその人の個人的な環

 

 

P845

 

境によって左右されている場合が考えられる。それは自由論のイデオロギー性ということになるが、自由論そのもの、自由そのものはイデオロギーの存在しないものであり、それは自然的なものである。その自然性をあらわしているものとして本能の代置物(the

substitute of instinct)としての内在的自由というものの存在を指摘することができる。

 

 

P846

 

自由論の過去と現在

 

 自由の概念の歴史の研究と、主権の概念の歴史の研究とが自由を殺した人民主権の概念にラスキのようにいきつくのか、バーリンのように自由な国民の主権の概念にいきつくのか、この結論のだしかたの違いは干渉されない自由を認めるのかどうか、平等のために自由を殺すのかどうかにかかっているようである。そのために資源の平等化は、自由の一構成要件としての資源の平等化なのであって自由を殺しているのではないという考え方は有効な考え方ではある。アリストテレスは『政治学』第一巻において共有が良いという主張が私有では訴訟などが多いからだということのためになされるのはまちがいで、私有であっても人々の心がけがよければ争いや訴訟やもめごとも、共有の場合よりも少なくなるという趣旨を述べたあとで『政治学』第四巻の一二九一bにおいて「自由と平等は民主政治のなかで実現されると考

 

 

P847

 

える人々がいる」(‘liberty and equality, as is thought by some, are chiefly to be in democracy’)と『政治学』において、自由と平等は対立的なものとして考えられていたであろうか。平等が自由を殺すという概念はどこにも見当たらない。たしかに共有にならないと、紛争が多くなるのだというのが共有化の理由付けとされていたという第一巻における表現は私有の自由を抑制しようと考え方が当時存在していたことは示しているが、マルクスの一党独裁論のような主権理論として平等のためには自由のない社会を作り上げようというような理論は考えられていなかった。平等のためには自由を殺さねばならぬという主権理論が生まれた背景には近代国家の出現と関連があったと考えることができる。ところが東西冷戦の集結は世界的な一つの単位の成立が期待されることによって近代国家における主権の概念を

 

 

P848

 

変化させていく可能性を秘めており、そこに自由と平等の観念の新しい動きを感じることができる。

 その場合に古典的政治学は総合的であり、現代の政治学が参考にすべきものであると主張するレオ・シュトラウスの見解は傾聴に値する。アリストテレスが平等ということばを使う時に、人々が平等でありたいと各人各人が配分的正義などについて論じていることは念頭においていたとしても、そのために自由を殺してしまおうなどということを考えていたであろうか。そうは思えないし、そのように考える人が当時いたとは考えられない。プラトンでさえもそのようなことを当時、考えたりいったりしてはいない。それは集団主義的となった現代においていわれたことである。当時の人々が平等をいう時には、自由の構成要素としての名誉とか、資源とか、機会などについての平等について述べていたとしか考えようがない。そこまで主権概念は発

 

 

P849

 

達してはいなかったからである。ある人の自由が他の人の自由を制限することがありうることについて、当時の人々が気付いていたことは認知できる。それは人間の普遍的な感情である。ところが近代の主権概念の成立以後はそれが国民のすべての人々に強制できるという理論ができあがった。これにはホッブズの主権論や、ルソーの「一般意思」論が影響を及ぼしたかもしれない。ルソーの「自由であることを強制する」という善意が誤解されてすべての人々に一般意思を強制できる。それも人民主権的な意思を強制できるというところまで曲解された時にルソーへの誤解は最頂点にまで達したと考えられる。ルソーの「一般意思」論は人民主権を主張したものではなく、国民主権を主張したものであるというのがかねてからの私の見解であり、ルソーはフランス革命時に以上の通り誤解されたものであると私は解釈している。すでに死んでいたルソーはそれに反論できなかったのである。

 

 

P850

 

 その後東西冷戦終了後の現代においては、ルソーの「一般意思」論は新しい角度、つまり国家の全体が一般意思に全体主義的に拘束されるべきだという意味での「一般」ではなくして、国家のなかにも「一般的」な意思の形成は過程として必要であるという意味での「一般意思」論として、見直され評価されるべき時代がやってきたのだと考えることができる。

 それは自由論を主権との関わりで、東西冷戦後の世界に合致した形で再構成することでもあるのである。

 

 

P851

 

 政党の境界と自由論、平等論

 

 政治学において、自由論を研究することの意義を大衆社会における政党の分類の仕方に自由論を適用できるかどうかについての研究において検証してみることにする。自由化の政策の研究においては自由を平等化との対比において大嶽秀夫がとらえている。特に教育における自由化は平等主義に対抗するものとしてとらえられている。これはドゥウォーキンが彼の平等論を黒人と白人の融合を教育において実現しようとするときの「平等の主張」と「自由の主張」との対立としてとらえるとらえかたと類似している。金融の自由化、その他の様々な自由化もほぼ同じ文脈で二人はとらえていることになる。一方政党をリベラリズムとリバタリアニズムに分類する仕方においては片やリベラリズムは貧乏な人々に見方する側が、社会制度を改革する自由を訴える側としてとらえられ、片方のリバタリアニズムは

 

 

P852

 

所有権の自由処分性を主張し、所有権の不可侵性(干渉されえない自由)を求める側としてとらえられている。これらの境界線は東西例戦後の現在においては、あいまいになってきているのではあるが、フランス革命以来このような政党の分類が支配的であった。

 ところが所有権の不可侵性をリベラリズムの側も認めることが、生活の必要上不可欠であることが経験上認められるようになると、これらの境界線は非常にあいまいになってきた。

 

 

P853

 

利他性を自由のみにまかせて、強制しないでも社会は成立するか。

 もし、利他性によって富者が「自己の意思で自由に」貧者にわける財産をもっていると感じる時にのみ、税は納付されればよいと決めて、納税を義務ではなく任意な、強制性のないものとしたらどのような結果となるだろうか。誰も支払わなくなるだろうか。金持ちは最後の一ペンスを貧者にわけ与えるであろうか。その場合イエスであったとしても、共有財産の維持や、貧者の平等化の政府機能が果たせるだとうか。

 

 

P854

 

 我々は本当に心の底から、黒人の人や、ホームレスの人や、器質的な障害をもった人の心の中に感情移入したことがあるだろうか。もしあるとして、あなたの顔がメニラン色素で黒かったとしても、平等をあわれみのように、自由を殺してから、与えてくれるように望むであろうか。そのような人が本当に笑いながら自由を得て、干渉されない自由を乏たいと思っているという感情を理解できるであろうか。肌の色が黒いくらといって自由をなくそうと黒人の人間は本当に思っているのだろうか。それが平等だというのはマルクスのような唯物論的偏見によるのではないか、あるいは、マルクスのように絶対的な理性を主張するからなのではなかろうか。その偏見はマルクスのような甘えた、依存的な、自分を甘えさせてくれる人のみに笑って、そうでない人には思っているというその性格からのみき

 

 

P855

 

ているのではなかろうか。

 これは明きらかにバーリンのいう二つの自我である。自分を依存させてくれる者には甘え、自分を依存させてくれない人には絶対理性によって暴力革命をおこすという自我との分裂である。前者は甘え、依存であり、後者は疎外である。疎外論を公然といえた裏にはこの甘え、依存があったのではなかろうか。

 甘え、依存的な人が本当に黒人に自由を与え、仲よくなれただろうか。その逆ではなかったのか。権威主義的態度や全体主義的態度はユダヤ人屋や、日本では朝鮮人にたいしてあらわれたが、そのような民族主義的態度は黒人や、差別されたホームレスとかに甘えられないので、その自由を認めないという差別と同根のものではなかったのだろうか。それはすぐに同じものとなりえたのではなかろうか。それはある甘えた人にはそのような事実が認められた。

 

 

P856

 

利他性は自然か、自由か

 

 他人が顔が病気のためにみにくくなっているのにたいして、その他の人がどうしてやることもできないのに、同情したり、平等化を求めるのはどのような場合に妥当か。医者がそれを治そうとするのは妥当なことである。しかし、その他の人でどうしてもやれない人はどのように考えるべきであろうか。大都会でホームレスの人と、そのような人がいた場合にはどのように対応すべきであろうか。前者の場合は自然的、器質的なものであり、後者の場合は社会的なものである。しかし後者の場合にはホームレスになって気楽に過ごそうと本人が自由意思で選んでいる場合にはどうか。しかし生活が貧しくなろうと自由意思で選ぶことは、生の本能からしてありえないとも考えられる。その人があまのじゃくになったのは他の人と平等になれない社会制度があったのだと考えられる場合はどう対応すべきか。そのような同情

 

 

P857

 

心は全く持たなくて、大都会でそのような人に会っても通りすぎてよいのであろうか。

 

 

P858

 

ラブ(愛‥love)とフラターニティ(博愛:fraternity)について

 学生諸君にとっては愛はすべてであるということば程魅力的なことばはないと思われるが、では博愛がすべてだといわれれば、修道院にはいって結婚もしないで一生を過ごすなんてということになるかもしれない。旧姓鍋に百円入れることには抵抗はないがと思うかもしれない。これらの愛はすべて他人に対する愛から成立している。親が子供に与える愛もそのなかに含まれてる。

 博愛と訳されているフラターニティ(fraternity)は The Concise Oxford Dictionary によれば、1、a religiaus brotherhood. 2、a group or conpany with common interests, or of the same professional class . 3、 US a male students society in a university or college. 4、 being fraternal; brother liness. とある。本論文の2の意味で使用し、fraternal の元の意味1、of a brother or brotherの意味をと

 

 

P859

 

り、1、の宗教的な意味合いを除いた愛情を指して使うこととする。

 兄弟姉妹間の愛情はすべての愛情の出発点であることについてはほとのどの人が認めるから、それを比喩的に使い博愛の感情や、愛情の感情を表現したものであると考えられる。例えばロールズの第二原理が博愛の原理であるとロールズが述べる時にはロールズは博愛ということばを貧しい人々への愛情や、博愛という意味で使っているのであり、このような意味でこの博愛を使うことにする。この博愛のほかに愛(love)ということばもまたほぼ同じような意味で使われる時には、このような社会的紐帯として考えられるからこのような愛についても考えることとする。恋愛においてもその愛は社会的な関係を作り出すものであるので、同様な意味でここで取り扱うこととする。

 

 

P860

 

 博愛二種類

 

 慈善(鍋)や、慈愛や、博愛を説く宗教にも唯物論的な観念が含まれているのだろうか。愛は奪うものである場合、義賊の心理のようなものであったり、他の心理のようなものであったりするであろうが、そのような場合と、人々の利害を調和させ独立的な人々が愛のある世界を作るという場合との二つの場合に分けるべきであろう。

 

 

P861

 

自然な博愛は自然な利己性と矛盾しない。自然な博愛は現代経済学にあるか。

 博愛の限度については自然に決定しなければならない。人間はどの程度に博愛であり、どの程度に利己的であるべきか。それは同時にそのようでありうるのか。例えば大金持ちで大金を得る事業をやっている人は極大の利己性をもつと同時に、その客に対しても極大の博愛をもち、また、客以外の義賊のようなもにも極大の博愛を持ちうる。

 

 

P862

 

博愛

 

博愛は本能か、人格の成長によってえられるか。この場合の博愛は利他性である。利他性が本能なら、愛も本能となる。人間は利他性を本能として備えているかどうかについては議論がわかれるところである。ある人は本能であるというし、ある人はそうではないという。生の本能のみを本能であると規定するとしても、自分以外の人も自分と同じように幸福であるほうが、自分の危険性も少ないという理由から、人間は危険性の少ない安全な社会の方が生の本能を満足できるという理由から本能的に利他性をもっているのだというように論理展開することもできるし、いやそうではなく、人間は利己的であるが人格が成長するに伴って利他性の精神が成長するのだという考え方も存在する。

 

 

P863

 

自由で独立的であることは味けなく、愛情や博愛を欠いているか。

二人の人間関係において二人が依存的であれば、二人の関係は煩わしく相互に自由を奪い合うのであるが、二人があまりにも自由で独立的である場合には二人は「あまりにも味けなく、愛情や博愛を欠いている」といえるであろうか。そうであるとはいえないであろう。なぜなら二人は、相互に愛しあって二人は相互に博愛の情を持っているのであるから。

 

 

P864

 

博愛、自由論はそれを内包できるか。博愛が自由を内包するのか。

一般には、「自由論」において自由・平等・博愛について述べるならば、自由から、平等にいたり、そして博愛について述べるであろう。しかしここでは最初に博愛について論じ、そして、自由から平等にいたり、そして最後に博愛にいたる過程を、自由という味けがないものから出発し、自由の一構成要件としての平等にいたりながら考えていくことにするのが、興奪惹起的で(エキサイティングで)理性を高揚させるような議論ができると考えるので、最も良い論文作成読書の方法であると考えるので、そのようにするために「最初に博愛と愛について述べることとする。」、もしこのような自由論があるとすれば、それはあまりにもロマンティックすぎる。ロマンティシズムは歴史の一時期、思想家の心を支配し、ついにはイデオロギー的なユートピア社会を夢想させる一段階前の思想となった。ロマンス、それ

 

 

P865

 

男と、女の人間関係を結婚前に採る夢の世界である。ところが結婚後の結婚生活は現実的であり、質素なものである。後者こそ本当の愛であり、博愛だと考える人が多いだろう。子供を育てていくことは父権的、母権的愛情や、博愛が必要であるし、子供達の間にも愛情や博愛が満ちていると考えることができる。一時的なロマンスにおける愛情よりもこの愛情や博愛のほうが大切だと考える人が多いのかもしれないし、その方が現実的である。しかしロマンスの熱情も忘れてはならないであろう。だがそのロマンスは現実にのっとったものでなくてはならない。博愛や、愛情も現実にのっとったものでなくてはならないであろう。そのような意味では自由論のなかに博愛や、愛は内包されるべきであり、それは自由な人間同志の人間関係としてとらえられるべきであろう。

 

 

P866

 

本当の愛と、ドゥウォーキンのいう博愛。内在的自由を人間として愛すること。

ドゥウォーキンが一般的に自由など存在しないというのは、社会福祉的な政策、たとえば黒人と白人とを同じバスに強制的にのせることに反対する人々の理由付けが別々のバスにのる自由があるという論理構成をとることに煩労するためなのである。そのような自由よりもは、平等な配慮と尊重を求める自由のほうが強い権利であると主張しているだけである。たしかにそのような自由は、人間にとって永遠普遍の「本能に対置される内在的自由」とは全く違って、社会福祉政策のもとにおいてはわがままな、社会福祉に反対する自由に近いかもしれない。しかしそのような人々であっても、そのような自由であっても黒人と白人とは内在的自由は、人間として本質的には同じではあるのだけれども、現実的には実質的にみて、現在までの教育の機会が黒人の方が少なかったのであるから、現在では一時的に教育により生

 

 

P867

 

まれた能力の量が違うのであるから、今は一緒のバスにのせたくない、教育の低いうちはラズウェルのいう攻撃的性向が強いのであるから、(たしかに、一緒にのせると黒人の教育にはよいかもしれないが)白人にその攻撃性向が移るとよくないのでという理由で別のバスにのせたい自由があると考えているのであれば内在的自由についてじゅうぶんに考えているのであるから、そのような自由は人間の本質的自由について考慮に入れていると考えられる場合があるかもしれない。そのような内在的自由、あるいは、平等な自由をじゅうぶんに考えて黒人と白人の同じバスにのることに反対している人を強制することは本当に平等により自由を殺しているといえないであろうか。ドゥウォーキンの理論が自由を殺すことがありうるのはこのような場合であると考えることができる。

これにたいして依存的な性格の人々やらが、独立的な人々とはちがって、黒人をべっ視

 

 

 

P868

 

したり、黒人を民族的に劣っているとするのは、黒人は自分と同じである白人とは違うのだ、劣っていると同じである白人とは違うのだ、劣っていると考えることによって、自分を優位に(経済的に優位な立場に)たたせようという意思を発生させることによる。特に依存的性格と、この他民族べっ視の感情の因果的関係は理論的に説明することができる。依存的な性格の人は、自らが依存している権威との一体感を感じて閉じた論理構成を採用するから、その一体としての依存者と被依存(逆依存)者との閉じた関係(経済的、政治的、権威的なすべての関係)を大切にするあまり、その外側にあるところのその人が白人であれば、黒人と自分との間を断絶させるために、この場合は黒人べっ視論をとるのであり、もしその外側の世界がユダヤ人の社会であればユダヤ人べっ視論をとるのである。

もしその人が自由な独立人であり、依存していて閉じた理論のなかにひたっていないのであれば黒人であれ、ユダヤ人であれ、自分

 

 

P869

 

と同じ(内在的自由をもった)平等な人間としてとり扱い、尊重し、配慮する能力をもっていると容易に想像できるのである。

イデオロギー的に考えてみても、平等な配慮と尊重を、あたかもロールズのいう平等な自由を主張するような形で、主張する人は、自由で独立な人であろうから、ドゥウォーキンの理論もその裏のイデオロギーや、理論の前提をみてみれば、独立な、また自由なイデオロギーや、独立な、また自由なパーソナリティーをもっている人々であることが推論できるのである。このことはロールズの平等な自由の平等と、ドゥウォーキンのいう平等な配慮と尊重における平等が、ほとんど同じ意味であることを前提とした期待的理論ではある。

 

 

P870

 

黒人や、ユダヤ人をべっ視しないためには、社会的には、自らが父母や兄弟姉妹やらから大いに愛情を受けて育っていることが大切である。そのような人々はフロムのいう全体的で統合的なパーソナリティーを持つことができるのであるが、そのような愛情を受けないで育ったヒットラーやフロイトのような家庭環境で育った人々は黒人や、ユダヤ人をべっ視する性格を育てていくようである。

 

 

P871

 

博愛は愛と同じか。

 

 博愛は愛とはどのように相違するのか。黒人やユダヤ人をべっ視しないで自分と同じような人として愛する、博愛するということは自由で独立な人として、同じ内在的自由をもっている人として、平等に配慮し尊重することではなかろうか。また平等な自由をもっている人であるとして、人間の本質である内在的自由をもった人であると考えることではなかろうか。そうであるとしれば、愛や博愛は自由、平等と深く関係をもっていることになる。白人で黒人と結婚した人は黒人である相手の配偶者を深く愛するであろう。その愛は博愛よりも深い愛であり、本当の愛であろう。そこには同じ内在的自由を持った人間への愛があろう。そこには社会的な障害は排したすべての愛が存在する。今の白人の人々にそのような愛、博愛よりも深い愛があるとはほとんど感じられない。そこにフランタニティ|

 

 

P872

 

ということばと、愛ということばの差異を発見するのは私だけであろうか。

 

 

P873

 

 愛すれども、社会的なことを考えて結婚を反対されて、結婚する自由がないという表現を妥当と考える人がいたとするならば、愛する人の社会的なものを外した内在的自由の平等性を考えて、本当の愛を考えてみなさいということをいいたいために、「愛しているけれども結婚自由がない」というような自由の使い方を肯定する人々に、本当の愛について語りたいために自由と言う言葉の例示として「愛する自由はないのか」という自由ということばの使用のしかたを分析的に考えてみなさいと述べたのである。

 

 

P874

 

博愛論、愛情論の諸問題

 

 温情的干渉は愛情か、博愛か。依存と被依存とは博愛のしるしか、愛情か。思いやりか。思いやりのある社会、依存できる社会は博愛に満ちた社会であろうか。父権的温情干渉博愛や、愛情によってなされるのであるか。母権的温情的干渉の方が、温かく愛情が豊かなのか、父権的温情的干渉の方が、温かく愛情が豊なのか。甘えや、依存は父権社会における甘えと、母権社会における甘えとが相違した形をとるのは愛情や博愛の形が違うのであろうか。甘えさせるのと、依存させるのでは愛情と博愛の面からみれば、どのように違うのであろうか。「愛は惜しみなく奪う」のか。奪い合う愛や、奪い合う博愛があるのだろうか。自由を奪い合う依存や、甘えの場合の博愛や、愛は、博愛や、愛情とはよべても本当に博愛や、愛とよべるのであろうか。独立した人々の間には博愛や、愛の感情

 

 

P875

 

はないのであろうか。独立した自由な人々の間にも博愛や、愛はあるのではなかろうか。依存した、依存的な人を遠くから離れて独立し、自由になるようにと祈りながら、温かくみつめてやっているだけの、あるいは、独立し、自由になるようにとしったげきれいするような冷たくつきはなしていると依存したり、甘えた人が主張するような博愛や愛がないだろうか。

 このような多くの相対立する命題の真偽を判定するためには、人間関係、それも自由な人間同志の関係の分析に戻り、最初から理論を構築せねばならないと考えられる。

 利他性のある社会的行動はどのようにして作られるのか、道徳感情のうちの愛情や、博愛の感情はどのようにして作られるのか。愛情を少なく与えられて育った人に本当に愛情は少なくなるのか、このような愛情、博愛の感情の生まれる(育つ)(家庭などの)環境はどのようなものであるのか。依存的な環境

 

 

P876

 

環境のなかでは本当の博愛や、愛情は育っていないのではないか。このような問題も深いものをもっているが、私はそれはこの自由論のなかでじゅうぶんに答を出しえたと思っている。それは欲望や欲求と自由の理論とオーバーラップしており、依存などのその他の自由論の章とオーバーラップしているといえる。

 

 

P877

 

博愛はロールズの第二原理のなかに存在するか。

 ロールズの第二原理は博愛論を内包しているのではないかというロールズの主張は、あまり妥当であるとはいえない。博愛は第一原理のなかに含まれているべきであり、第二原理に含まれているのはしっとの感情をなくすための社会的装置が内包されているだけである。効利主義者ならば効利によるみえざる手が含まれているだけなのであるというであろう。というのは第二原理は博愛によってなされるのではない。人間関係のなかの博愛や、愛は自由で独立な平等な人々のなかに存在するのであって、依存や甘えのなかに博愛や愛の存在する余裕で少ない。あいは自由を惜しみなく奪うというのは、依存や甘えの人間関係なのであって、利他性や道徳感情は自由な人々の間にこそあるのである。

 

 

P878

 

義賊は最も大きな博愛を持っているか。全く持っていないか。

 自分は義賊になりたいという感情と、博愛の感情はどれ程に共通性があるのだろうか。窃盗は社会を騒がせるであろう。そのために義賊はヒーローになるという心理と共通している。金持ちから財物を奪うという心理は、商業を批判したり、ユダヤ人を迫害したりする心理とも共通性を持っており、これまでのマスコミやロマンティシズムの中心的心情の根底にあったものだといってよい。そのドラマは多くの人によって観賞されてきたが、それは大きな社会的潮流となった場合には自由を殺す悲惨な結果を招いてきた。『レ・ミゼラブル』などの描写とは違って、その上におおいかぶせられる義賊の描写は人々を興奮させてきて、小説家や、政治家のよき題材となってきたし、現在でもマスコミの最も好む題材である。

 

 

P879

 

しっとする自由はある。

 

 バーリンのいう積極的自由は乏しいものにたいして「富者にしっとしなさい」といって回る「しっとのほのおに燃える自由である。これは内在的自由であるバーリンのいう消極的自由論にたいして、しっとの自由のことをいっているにすぎない。

 

 

P880

 

ドゥウォーキンの自由論において欠けているものは何か。

 

 干渉するべきではないという観点が、ドゥウォーキンの自由に関する論のなかには存在しているだろうか。ある人が干渉されたくないという意向をもつということについても、平等な配慮と尊重を行なっているとは考えられない。もし平等な配慮と尊重をする人程、干渉されたくないという意向が強いのだという命題が真実であったとするならば、これは平等な配慮と尊重の理論の最も大きな矛盾となる。

 

 

P881

効利と効用と見えざる手。最後の一ペンス。

 効利主義における効利(utility)と、効用主義における効用(utility)の概念が見えざる手による平等化のための説明道具となりうることはありうるか。

 金持ちの最後の一ペンスはほとんど効用をmoたないために、貧乏人の効用の多い最後の一ペンスのために金持ちによってムダ使いがなされるとすれば効用の概念によって社会の平等化が、イヤイヤながらの利他性の道徳の強制によらずとも、見えざる手によってなされうるという考えは、正当化されるであろうか。見えざる手によらず税という考え方によって公の平等化の機能としての政府によって、その同じ金持ちの最後の一ペンスが貧乏な人の最後の一ペンスのために、政府の観念によって再配分されることと、この見えざる手という考え方はどこが相違しているの

 

 

 

P882

 

であろうか。政府の平等化の機能という考え方はルソーにもみられるが、それを政府の理論としてみれば、効利主義者たちの最大多数の最大幸福という概念のなかに見いだされる。平等のために社会の最大幸福を得られない場合や、効率の原則に反する程度にでも平等な配慮と尊重の概念は政府や他の人が尊重しなければならないとするドゥウォーキンの理論は、この効利主義の原則よりも暴力革命を認容する共産主義の理論により近いといえるが、思想・表現の自由は絶対的なものとして認めているという点においては議会主義的であるといいうる。効利主義者の効利の概念は政府を指導する原理や主義としては、最初に述べた見えざる手による効用の概念に最も近いものであり、近代・現代経済学における税の理論に近いものであるといいうる。

 つまり政府が金持ちの最後の一ペンスを、貧乏な人の最後の一ペンスにまわす理由が、「見えざる手による効用の再配分」と同じ理

 

 

P883

 

由付けがなされた上で、税の徴収が行なわれ、税の再配分が行なわれるのであれば、これは「見えざる手」の役割を政府が行なっているのだということになる。政府の役割としてそれを行なうのではなくて、人々の自由な心の動きとして平等化が行なわれることを期待する主義と、政府の役割としてそれを行なうべきだと考える主義とはどこが同じで、どこが違うのであろうか。政府が存在することと、平等化への教育や、教育が有効でなかった場合の再教育や、それでもという場合の強制性、政府支出が存在するかしないかという点に違いが存在することになる。

 

 

P884

 

金持ちの最後の一円を、貧乏人の最後の一円としてさし出すこと。

 最も金持ちの最後の一円があまりにも効用のないものになっている場合、それを最も貧乏な人の最後の一円という最も効用の高いものとして差し出していけば、たしかに平等に近付きはする。しかしその方法が問題だ。利他性が強制を必要とするからといって暴力で行なうのか、グリーンのように教育による人格の成長を期待するのか。自発性にまかせるのか。更には自発性にまかせるのがある限度以上に不平等が拡大した場合にのみ、教育による方法、それでもさらに不平等が拡大した場合にのみ強制による方法を使い、それでも不平等が拡大した場合には暴力による方法を認めるのか。このいずれをとるにしても限度の認定が問題となるし、暴力や強制がそもそもよいことなのか、許されることなのかという問題がある。おそらく暴力は許されないということになろ

 

 

P885

 

と思われるが、それが義賊の心理として残っている場合の社会の不安定性について考えると、その社会不安は大きいであろう。依存的な人程、暴力はいけないといいながら、そこでたまったフラストレーションを最後には社会転ぷくという暴力による方法に、フラストレーションが大きければ大きい程、訴えるし、訴える主張をしがちである。

 

 

P886

 

規範意識の強さを他人に要求する利己性。心からの利他性は非常に難しい。

 規範意識が強いという例として、「他人にたいしては平等になるまで義賊に請求されるまえに、自分の生活を削ってでも自分より貧しい人に恵んでやり、平等をはかる」という人は、利他性が強いということもできるが、規範性が「そのようなことはしない」人よりも規範意識が強いということができる。ところが義賊が「自分にたいしてそのようにしてくれ」と要求することは規範意識が強いこと、思いやりのある態度を相手に要求しているのではあるが、自分の利益(貧しい人が義賊である場合には平等化への利益)を増やすために要求しているのであって、自分の身を削ってでもそのようにしようという人の規範意識の強さとは全く逆の意識であることがありうる。自分の利益のために他の人々に「自分に恵んでくれ」と要求することは誰でもしようと思うことであるが、逆に自分の身を削って貧しい人々

 

 

P887

 

に恵んでやることは、自分が損をすることであるからなかなかできるものではない。心から自分が損をすることをする人を人口の何%くらいとみるかによって政治・経済のみかたは全く違ってくるであろう。そのような人は全くいないと考えるならば、見えざる手による平等化にまたねばならないことになるが、社会鍋のようなする人々が半分以上であると考えれば国家はそのようなことと同じ富の再配分のことは考えなくてよいことになる。この二つはリバタリアンが期待していることであろう。これにたいして教育によって利他性のある人々の数を増やしていくにしても、人々のなかにはそのような人は少ないであろうから国家が義賊となってそのような利他性(公、公共の利益のために所得の再配分をしなくてはならないという考え方は『新自由主義』、『自由放任の終えん』論などの主要な考え方である。

 このどちらが正しいのか。

 

 

P888

 

第 章  平等な配慮と尊重が求められるような稀少資源に関する自由にもバーリンの消極的自由は必要である

 平等な配慮と尊重や、平等を求めるリベラルがリベラルであるにもかかわらず、平等ではない活動の自由も、平等な活動の自由も共に認めないとするならば、片手落ちといわねばならない。表現の自由のみは絶対なものとして認めるが、健在的な稀少資源に関わる自由は平等が達成されるまで認めない、すべての稀少資源に関わる自由は相互にゼロ・サムであるから。平等が達成されるまでは一切認めないというのであれば、どのような経済活動(稀少資源に関する活動)もできないことになる。活動をするとはほとんど自由ということばでよんでよいものだからである。このことはバー燐のいう干渉されない自由が、ドゥウォーキンのいう平等な配慮と尊重を認めるにしても、絶対的に必要だ、経済的稀少資

 

 

P889

 

源に関してさえも、必要であることを示しており、ドゥウォーキンが平等な配慮と尊重を求められるような自由に関しては、自由の相互譲歩が必要であるのだから、干渉されないバーリンのいう消極的自由などは全く認められないという主張はある意味では現実的ではないということを示している。

 ドゥウォーキンが自由の権利はないという時の自由の権利は、法学者のドゥウォーキンが自己決定の場ではない公的な場面においては他の争っている人々との間に対立があるのだから、双方の自由は平等な配慮と尊重によって制限されねばならないといっているのであって、バニラアイスクリームを自由に欲しいだけ食べる権利については譲歩すると述べているのである。しかし法哲学者であるドゥウォーキンが何が法かについて法実証主義をとらずにいる時には、英米法体系以外の日本におけるように近隣に非常に気がねをして生活している場合にも自由はあるのかどうかについては微妙な問題がおこる。 

 

 

P890

 

第 章 唯物論と自由

 

 バーリンが何百ドルの自由をもっているという表現は唯物論においてのみ通用する表現であると述べることは妥当であろうか。五千ドルの自転車を買うには五千ドルの貨幣をもっていなくてはならない。これは因果関係論的に五千ドルの貨幣があるから五千ドルの自動車が買えるということを意味しているのであって、五千ドルのケインズの意味での流動性である貨幣を持っていたからといってその自動車を買う必要はない。そこには因果関係はない。他のものも買うことができる。ところがその自動車を買うためには五千ドルの貨幣がない場合には買うことはできないのであるから、これは必要か、十分かの条件の問題なのであって唯物論の問題ではないと考えることができる。唯物論はすべての行動が経済によって決まっているといっているのみなのであって、条件の問題なのではない。

 

 

P891

 

自由の一構成要件としての資源の平等を考えることは、干渉されない一般的自由を認めていることになる。

 自由と平等から博愛に致るという考え方のなかで、平等な資源を自由の一構成要素である資源についてのみの平等に限って使用する政治的概念である平等の使い方は、平等を自由のなかに求めていて、あくまでも人間の本質である自由を残しておこうとしているのであるから、バーリンの干渉されない消極的自由の概念と相通ずるものがある。この考え方はドゥウォーキンの考え方である一般的な干渉されない消極的自由はないという考え方に対抗して、干渉されない消極的自由を一般的に認める考え方となりうる。

 

 

P892

 

自由と平等の概念と量と質

 

 差別からの自由や、平等でない状態からの自由や、均等でないことから解放されることなどという考え方は、自由と平等が全く別の概念だと考えるバーリンの考え方と対立する概念である。それではなぜ平等な自由というような全く熱の概念が成立するのであろうか。自由は妨害がないことであると考えるならば差別は一つの妨害である。従って差別から解放されるという考え方は妥当である。また平等でない状態はその人の貧乏な状態にしているかもしれないので、その状態から解放されること、そして平等な状態になろうとすることは自由を求めているのかもしれない。しかし何の平等を求めているのかといえば、資源や空間が平等ではないから、資源や空間を平等にしようということしかいっていないという場合が考えられる。そうであるとすれば

 

 

P893

 

平等でない状態からの自由といういい方は、資源や空間を平等にしようといったほうがよいのかもしれない。

 平等論者のドゥウォーキンは一方では、自由の制限は量やその影響力で計測することはできないと批判し、自由の概念は平等という政治的道徳によって正当化される場合は、自由は守らねばならないと『権利論』の第十二章で指摘する。そうであるとすれば、平等というものは量によって計測しているのであるから、それは質の同じものでなければ量を計測することはできなくなるということを考えなくてはならないと思われる。平等は自由よりも具体的なことを考えている。自由は平等な自由といわれることは、無(free)であるのだから問題外なのではなかろうか。平等な自由とは自由を量と考えて計測していることになるのではなかろうか。自由は無であるから、一人の人間には一つしかない平等な状態であるといえるかもしれない。しかし平等な自由

 

 

P894

 

という考え方はそのようなことをいっているのではない。平等な自由とは各人すべてが自由であるという点において平等だということを表現しているのだと思われる。

 平等は計測できる量についての概念である。法の下の平等も、法の下ではA氏とB氏は平等で等しいものとして取り扱われるということを示している。自由は無であり、計測のできない、人間の本質である。消極的自由によって人間が、より自由に近くなることがあるかもしれないが、消極的自由そのものが人間の本質であるという考えをとることはできない。一方積極的自由によって平等でない状態からの自由を求めることが、ドゥウォーキンのいうようにそれのみが人間の本質だということもできない。それはプライバシーの権利と義務が表裏だという時、その含意がほぼバーリンのいう消極的自由について説明していることになっていることによっても分かる。ドゥウォーキンがその消極的自由について

 

 

P895

 

干渉する人は干渉される人を平等に尊重し、配慮しなければならない義務があるのだから干渉される人のプライバシーの権利を、干渉される人にも認めようというのに等しい。

 逆に干渉される人も、干渉する人を、たとえその人が貧乏であれ、その人を平等に配慮し、尊敬してやろうという考え方を持っていなくてはプライバシーの権利は成立しないというのがドゥウォーキンの考え方なのではなかろうか。

 

 

P896

 

自由の平等性

 

 「見えざる手」による平等化の原理は、共産主義化による平等化より現実的である。そしてそれは内在的自由の平等性、機会の平等性、能力の平等性、肉体の平等性などによって証明される。自由はもともと無であり、それを入れる容器のようなものであるか、いつでも入れたものを無に戻してもう一度作りなおせるという点において平等性を有する。

 

 

P897

 

内在的自由は、自由な状態のなかでは、自然に平等を目指せるのか。

 積極国家における積極性の用語の使い方がバーリンのいう積極的自由ということばにおける積極性の使い方と同じであり、福祉政策的なものであるのにたいして、片や、フロムのいう積極的自由がバーリンのように統治者の積極性をあらわすものではなくて、個人個人が全体的で統合的であるための積極性であるという理由から、フロムのいう積極的自由が政治学のなかでとり上げられなくなったというのならば、それは本来てん倒といわねばならない。というのは、自由論において大切なのは、自由そのものなのであって、つまり、自由そのものの本質なのであって、それに冠している形容詞なのではない。自由に冠する形容詞はただ単に自由の性質について解釈し、説明しているにすぎないのである。どのような環境の下でどのような人が積極的であり、消極的であるべきなのかを論じ、それが政治とどのように

 

 

P898

 

関っているかについて研究するのが、政治と自由論である。

 自由を制限し、妨害するものがないだけでは、法もなくなってしまったような状態では、ちょうどオオカミに育てられた内在的自由をもった人間であるかのように、どう動いていいのか、自分でどのような法を定立してよいかも分からないかもしれないし、多くの道があけられて待っているといっても、また多くのことをなす自由が待っているとはいってもどのようにしたらよいかわからないではないかというのがフロムの論点である。そのような自由の状態のみが必要であるのならば、なぜ、ワイマール憲法によって自由の状態を与えられたのに、人々はその自由から逃走し独裁者ヒットラーを求めたのかというわけである。

 内在的自由を認めるのは、あるいは、統治が許すのは内在的自由が自己の幸福とかの価値を追求することができるからであるとこの

 

 

P899

 

ように論理付けると自由は、よい方向に向かう自由は善きものであるが、悪い方向へ向かう自由は悪しきものであるということになってしまう。これでは自由主義は成立しなくなる。そこで自由はその人にとっては善きものへと向かうのであるというように最初に定義づけ、それを生の本能の発現としてとらえるような考え方が発生することになるか、干渉されない自由そのものに自由の価値を認め、そのことにより「内在的自由」が存在することそのものが、自由の価値であるというバーリンのような考え方が生まれてくるのである。バー燐が考えた自由という観念の力や、ハイエクや、フリーオマンの自由の考え方もそこに端緒がある。そしてまたその自由が、人格を成長させ、他の人々との平等な配慮や尊重という考え方も生むであろうという楽観論のなかには、自由競争によれば各人の肉体的平等性や、内在的自由の平等性ゆえに見えざる手による平等化がおこるであろうと

 

 

P900

 

いう楽観的な競争の見方以外の、内在的自由が平等を人格の成長により認知することによる「見えざる手」による平等化の過程が想定されることも可能なわけである。アダム・スミスの見えざる手のなかには、楽観的な自由競争のみかたによるもののほかに、税などによる政府によりなされる平等化政策以外の、各人の「道徳感情」による平等化の過程の考え方も含まれていたと考えることができる。ただし、個人個人による「道徳感情」が国会の議決を経ていない場合には義賊の心理とならざるをえなくなる場合もあるし、金持ちの博愛や慈悲となる場合もあり、国会の議決を経ていなければ「悪人が得をする」というモラル・ハザードを生みやすいという欠点をもっているのではあるが、大金持ちが新聞とかによる一般的賞賛をえながら、その「道徳感情」を自分一人の博愛や、善の感情に移すことは大いにありうることである。

 

 

P901

 

自由と平等の質と量

 

 あるものが平等であるかどうかは、質において同等なものが量において平等であるかどうかが吟味されなくてはならないのであって、質の違うものが平等であることはありえない。逆に自由というものは妨害がない状態で人間が様々な選択の自由をもつという人間の本質的な存在状態をいいあらわしているのであるから、自由は無という状態からどのような有の選択をなすのかということをさすのであるから、そこにおける平等は選択をなす行動の平等をさすのであって、自由そのものが平等ということはありえないと考えられる。従って平等な自由という考え方は、選択にあたっての資源とか、能力とか、機会とかの平等が必要なのであるから、自由という無そのものの平等という考え方は主張されることはありえないと考えられる。

 

 

P902

 

 あることをなす自由が与えられており、あることをなす資源や、能力や、機会が存在する場合に、ある自由な選択をなすことができることが、自由の実行、自由の行動であるという表現をするとすれば、自由の実行には資源などが必要である。資源や、能力や、機会が平等に与えられていたとしても、ある選択をなせずに何もしないことも可能であるのだから、バーリンのいうとおりに自由は状態なのであって活動ではないという考え方にも一理あるといいうるのである。

 

 

P903

 

自由と平等の歴史的、時間的交替

 

 今すべての人が自由に干渉されずに活動している社会を想定してみよう。しかし彼らも衝突してしまい、どちらが正しいかを裁判したり、平等になるような法規範を作ったと想定しよう。

 逆にすべての人が平等に所有しており、すべての人が自由であるような社会を想定してみよう。その社会では自由を規制する法を作らないであろうか。平等のためにみなが行動をすれば、平等は崩れないのであろうか。自由に行動すれば平等は崩れるのであろうか。

 この二つの状態が歴史においては繰り返し交替していると考えるのがよいという見解もありうる。自由が平等を崩すという考え方は古いのかもしれない。平等な資源は自由の要素と考えれば自由が残ったまま、平等が確保されうる可能性がある。

 

 

P904

 

人間性と自由、人間の政治道徳としての平等

 

 干渉されない消極的自由をテーマとしたバーリンと、平等な配慮と尊敬をテーマとした学者ドゥウォーキンとはどちらがより人間的に生きられたであろうかと考える時、自由は人間の本質であり活き活きしたものであるが、平等もその自由が作り出した人間社会のなかでは欠くべからざるもの、ひきんな暗ゆを使えば自動車や机のような、生活必需品であることについてその両者の本質にたちかえって討議すべきものであることがわかる。平等は自由によって作られたもの、つまり、社会生活上の道具、先の自動車のようなもの、であることに気付く。しかし自由は生の本能以外の人間の本質そのものである。自由を説くには有賀弘氏のように思想史にたちかえったり、バーリンのように哲学や哲学史にたちかえる必要があるが、平等を説くにはドゥウォ

 

 

P905

 

ーキンのように今現在における憲法問題を考え込む必要がある。今現在における平等こそが問題なのであって、過去に問題となった平等の問題は現在では解かれてしまった問題かもしれない。人間は一度解いた問題は伝統として維持する性質をもつもので、それが社会科学なのであるからだ。しかし今現在の自由の獲得の問題があるように、平等も自由の獲得と共に論ぜられねばならない。

 共産主義が自由の獲得を目指すことなく、平等の獲得にはしったからこそ失敗に終わったが、自由の獲得と共に平等という自動車のようなものの獲得が、自由を目指しながら、目指されればそれはきっとうまくいくかもしれないと私は思う。天安門事件は確かに歴史の汚点である。と同時に小林多喜二事件もまた歴史の汚点である。それは共に共産主義と自由、平等と自由、依存と自由という観点から考察されねばどうしても解決のできない問題である。

 

 

P906

 

 ロールズは平等な自由という観点からそれを解こうとしたし、ノージックは現代版自由放任を主張し、見えざる手による平等化によってこの問題を解こうとした。

 自由尊重主義の伝統(今や伝統となった観がある)はアメリカの共和党や、イギリスの保守党の政策のなかにとりいれられ、日本にも一部浸透をはじめた。一方ではロールズやドゥウォーキンの政治的主張はイギリスの労働党や、アメリカの民主党のなかに政策や思想的バックボーンとしてとりいれられつつある。またイギリスにおいてはミルや、バーリンの消極的自由論は伝統として、また、哲学的主流として脈々と受け継がれている。政治哲学上の論点としての積極的自由と消極的自由という観点は、フロムらの社会心理学的自由とともに政治学における自由論の最も大きな論点である。

 Bーリンの消極的自由については、ロールズも、ドゥウォーキンも論ずるし、マッカラ

 

 

P907

 

ムも論じている。社会心理学的な要素について論ずる者もいる。それは高い、低いという自我がどのようにして生じてくるかという社会心理の分析となって将来結実するかもしれない。学問の夢のような結実への期待である。私は依存的性格というものがその原因であると考えてはいるが、証明は難しいディシプリン(学問的記述)である。現実に依存している自我が主権をとるには「高い、真の」時がを主張するしか方法はないという観点からの分析であり、それが閉じた哲学を形成するという考えである。これから証明されねばならないと考えている。

 現代社会における自由、思想史における自由、哲学史における自由はそれぞれ現在の人間社会と歴史上の人間社会との関わりでとらえられ幅の広い問題となる。しかし東西冷戦後の現代社会の自由はそれらをふまえながら範囲を限定して論ずることが可能である。東西冷戦の集結はマキャベリーがイタリアの統

 

 

P908

 

一という狭い範囲の統一を願った時とは違い、地球という人間が住む唯一のわく星の全体を統一したかのような状況を生む。このことは世界史的にも非常に重要な画期的な出来事であったと考えられ、それまでどちらかの陣営に依存してすごしてきた人々にとっては、驚天動地のできごとであったと考えられる。そのことは依存と自由、自由の本質について考えなおす一つの時代がやってきたことをあらわしているのかもしれない。

 自由の問題は政治や、法や、経済や、社会のことを考える出発点となりうる。特に政治の問題は自由の問題と切り離して考えることはできない。政治はある意味では自由を妨害するものからの解放であるともいえるからである。

 

 

P909

 

赤ん坊の内在的自由と平等への道徳的、利他的感情

 赤ん坊は三才までは、内在的自由をもつから、北極につれていって生活をさせれば北極に適応し、熱帯につれていって生活をさせれば熱帯に適応する。社会的にも日本で育てば日本人になるし、ソ連で育てばソビィエト人になる。別の共同社会で育てばその社会の成員となる。その社会が固定的な社会ではない、自由な社会であればなおさらである。

 一方十八才をこしてから、どの宗教が自分に適しているか、宗教はいらないと考えるかとか、どの思想が現実に最もよく合致しているかとか、自由な選択が可能になるのも内在的自由があるからである。それを悟性とか理性とよんでいるが、絶対理性の考え方は本能論により近く、相対理性論は自由論により近いと考えられる。これは決定論と、自由意思論といいかえてよいかもしれない。これは古くから対立している問題である。理性の力については合理性との関連で問

 

 

P910

 

題が多いので、これは客観的理性と、主観的理性との対立として後に考察するが、この問題は内在的自由のなかにア・プリオリな合理的理論体系が組み込まれているのかどうかという問題となる。人格の成長がすでに利他的な理論と、利他的な平等化への理論として人間の内在的自由のなかに組み込まれていると考えるよりも、自由な社会のなかでプログラムされていくのだと考える方が妥当性であろう。なぜなら人格の成長ではなくて、利己的な自由な活動が平等なみえざる結果を生むというように考えることも、人間はできるのであるからだ。

 理性論については別に大きく章を設けなくてはならないと考えられるのでその項に譲るが、人間の内在的自由のプログラム化は、当然に理性的に、合理的に行なわれるであろうということはこの論文自体がそのように考えて、そのプログラム化のためにその序章とし

 

 

P911

 

て欠かれていることによっても、推察がつくと読んでいる人は理解できるであろう。それが人間の理性である。それこそ内在的自由のプログラム化である。

 

 

P912

 

自由な人間にとって平等は時間的な継起のなかでおこるのか、資源の平等として自由のなかでおこるのか

 人間が行なうであろう様々な選択、光のくる方向に進むのか、光をさけて洞くつに住むのか、光のあたる場所に進むのか、光のくる方向と反対の方向に進むのかについて各人の決定に政府がまかせるということ、それが自由であるならば、そこには、楽一楽座の日本の歴史にあるような自由社会の理想がみえてくるかもしれない。

 しかし自由のあとには平等の要求や、紛争の発生がみられる。そこではまた政府の社会的規制が必要となる。

 自由のみを絶対化することもできないし、社会的なことにおいて平等のみを絶対視して自由をないがしろにすることもできない。自由と平等が時間的な継起のなかでおこるのか、あるいは、平等は自由の一要素であると考えて、自由のなかに平等を求めるべきなのか

 

 

P913

 

そこには自由と平等に関する政治哲学的な問題があり、古来多くの人間がそのことについて考えてきた。

 

 

P914

 

自由論・平等論の浩造と、政治哲学・政治学原理

 

 ホームレスをどうとり扱うか、マフィアをどうとり扱うかなどについて、様々な政治理論は自由論と平等論の特殊な携帯をもっている。その類型は、安全を重視するベイの類型、不干渉を重視するドゥウォーキンの類型、不干渉を重視するバーリンの類型等々に分類できる。ある人が自分は自由であると考える時の自由の意味の多様さと同じくらい多い自由論の類型に分類できる。ミルの自由な性格論、ノージックの最小国家論、ロールズの平等な自由論、共産主義の完全な自由論、自由な教育論など数えあげればきりがない。それらをいくつかの類型に分類することにいか程の意味があるであろうか。自由は無であり、それから生ずる有をいくら分類しても無限大にあるとしかいいようがない。それよりも自由が無であるという点に注目する必要がある。

 

 

P915

 

 どのような携帯の自由論も、もう一度考えなおせば無である自由に戻ることができる。そうなると自由論の類型はすべて連絡しあっていることになり、その連絡している点、どのように連結し関連しあっているのかを指摘しあうことが大切なのである。自由というものが本質ではあるが、干渉されない自由にしてもそこからどこへいくのかが大切となり、そこには『自由からの逃走』におけるフロムの積極的自由論があるのであって、また、そこにグリーンの人格の成長の理論や、ドゥウォーキンの平等な配慮と尊重の理論があるかもしれないし、バーリンのいう消極的自由論に戻らなくてはならない可能性もある。それらの自由論は、自由であることによって、オールターナティブなものであり、どれか一つに固執するのはそれこそ自由ではない。人間は状況や環境に応じてどのような自由論をとるべきか常に変化すべきものである。それが自由意志が存在していることのあかしでもあ

 

 

P916

 

る。ドゥウォーキンがあらゆる政治理論には権利と義務の体系が含まれており、それはそれぞれの政治理論に特殊的であるという時、それらの政治理論に各人が固執しているのではなくて、どこをどう変えれば、相互に自由に動くことができるのか、現実にはどの自由論が合致しているのか、それはどのような理由によるのかの方が大切なのである。

 ベイが安全を中心にして自由論を厚生しようとする時、あるいは、ある人が依存を中心に自由論を構成しようとする時、そこには相互依存社会や、兄弟姉妹の相互依存の関係や、人が互いにオオカミである社会や、人が互いに幸福にすごしている社会やらの様々なイメージがあるかもしれない。ベイは安全な社会と、安全ではない社会という概念が政治や社会における自由の概念の中心的な関心であると考えて、安全をもって自由論のカギ概念と考えたのである。一方依存か、独立かがカギ概念であるという考え方があるだろうし、

 

 

P917

 

あるいは、バーリンのように強制(強迫)服従か、あるいは、干渉か不干渉かが自由のキイ概念であると考えることもできるのである。フロムのいうように、積極的な自由により統合的なパーソナリティができているかどうかがキイ概念であると考えてもよいのである。しかしそれらが相互に、自由という無の状態に戻ってみれば、無という同じものから出発しており、関連しあっているということの方が大切なのである。自由な表現によって無に戻ってみれば、人間の自由が存在し、そこでは自由論は対立的なものではなくて、ただ自由に対立点が干渉できるのだという点に最も重点がおかれるべきなのである。それこそ自由論の出発点であるべきで、その根本の人間の自由という点においてはすべて平等だ、これが法の下の平等の出発点になりうるのであり、そこに肉体の平等をいうのではなくて、人間の自由という無の状態が平等であるということを考えに入れなくてはならない。

 

 

P918

 

大きさなどにおいて人間の肉体は平等ではないかもしれないが、人間の自由はすべての人に平等に存在している。

 仮定的な試行においてジョン・ロールズがこの無である人間の自由が平等であるという意味で、平等な自由と述べたとは考えることはできないが、ほぼそれに似た意味であったとすればこの平等な自由の概念はそれを究極的にまで推し進めたものである。そこからリベラリズムがでてくるのか、リバタリアニズムがでてくるのか、ドゥウォーキンのいう平等論がでてくるのか、あるいは、信教の自由や、学問の自由や、思想・表現・言論の自由がでてくるのかは不明であるが、それらの根底には人間の自由が存在しているといえることだけは確かなことである。そこに社会が生じ、あらゆる自由も生じてくるのである。こう考えると、リベラリズムもその反対極のリバタリアニズムも自由は人間の社会に関するものであるから人間の自由が重要なのであって、人間の自由という一

 

 

P919

 

点においてそれらはすべて関連をもっているといえるのである。

 ホームレスに対してはホームレスであることは自由であるという人間の自由と考えるのか、ホームレスにした社会・経済制度が悪いのだから完全に救済すべきだと考えるのか、人間(日本人)として憲法の範囲内での救済はするが、他は何をしてもよいと考えるのか。それらはすべて人間の自由にたち返って結論を各人についてだしていくべきであろう。

 一方マフィアをどうとり扱うか、安全を最優先するか、干渉されない自由を優先するか、マフィア文化も一つの自由な文化だとするのか、安全でない自由は自由とはいえないとするのか、それらの考え方も相互に関連しあっていて、それらの違いを自由にたちかえって最初から整理して、自由な討議を行なうことが自由論の最後の課題であるといえる。

 

 

P920

 

 私は自由な存在である。そしてあなたも、あなた方も自由な存在である。しかし相互に生活しているのであるから、対立する場合には相互に自由を制限しよう。そして、これが自由な社会であるとしても、全体がある規範を法として認めるならばその外的選好にたいしては、自分が同じ選好の場合は必ず当然に従います。もし私が外的選好と、私自身の選好とが創意する場合であっても、法が自分を他人と、平等に扱ってくれている限りは従いましょうそれ以外は従いません。こういうのとバーリンのいう消極的自由とはどこが違うのであろうか。バーリンのいう消極的自由も、自分の自由には干渉しないでくれ、自分の干渉されない範囲のなかでのみ、自分には人間本来の自由を発揮できる場があるのだ。その発揮できる場さえ整えておいてくれれば、私は自由であり、あなたも自由である。しかし相互に自由を制限しあいましょう。私が外に向かってする自由な活動があなたに干渉している

 

 

P921

 

ことになる場合にはというのである。ところが、全体主義的な社会であり、自由な社会(今述べたような)ではない場合には、支配者のみは莫大な自由をもっているのに国民である我々にはほとんど自由がなく、干渉され妨害され、教養されているのではないですか。存在に強制し服従を強要しないでくれ、あなたの自由は積極的自由であり、私はそれにたいして消極的自由という干渉されない自由を主張するというものである。

 このバーリンとドゥウォーキンの二つの理論は消極的自由をいつもってくるのか、先にもってくるのか、最後にもってくるのかという違いなのである。ドゥウォーキンは平等な配慮と尊重をしたあとであれば、バーリンの消極的自由を認めていいのではないかといっていると私は解釈すべきだと考える。逆にバーリンは干渉されない消極的自由が先に確保されているのでなければ、平等な配慮と尊重のような概念は全く役にたたず、平等が自由を殺すことになってしまうのではないかといっていると解釈できる。そう解釈しないとバーリンの自由論のところどころにでてくる各人の自由を制限してよい場合があるという部分について理解することができなくなる。以上の二つの解釈は私のみの解釈であり、バーリンの理論とドゥウォーキンの理論があまりにかけ離れているように一見みえるので、それをつなぐかけ橋として先か、後かということによって説明をつけようとするものである。論文においては先にパラグラフをもってくるか、あとでもってくるか大きな違いを生むが、実際の現実の政治においてはどちらが先におこって、どちらが後におこったのかは不分明であることが多い。結果として干渉されない消極的自由も確保され、平等な配慮と尊重された結果があればよいのである。干渉されない自由が存在しなければ自由は存在しないというのがバーリン理論の出発点であるとすれば、その自由を全く消し去ったあとでの平等な配慮と尊重はソ連のような現実を生むというのが、平等が自由を殺すと言う対立的な考え方である。このような考え方をバーリンがとってしまっているとは考え難い。バーリンと同様に、ドゥウォーキンもプライバシーの権利を認めるであろう。権利論の著者としてそのような権利はないとはいっていない。この権利は干渉されない自由については認めているのである。ドゥウォーキン自身は干渉されないという一般的な自由は身お目先には認めないといっているのであって、平等の権利を認めたあとでは認めるといっていると考える方が正しいのではなかろうか。

 

 

P924

 

第 章 自由か平等か||政治哲学上の問題と、現実政策上の問題

 

 ある一つの政府による規制がなくなることは自由が増大したことになる。しかしそのことでその自由の分野には多くの人が経済的な活動によってはいりこむことになる。そして安定した時には不平等が発生している可能性がある。そしてその後で平等化への政策が行なわれる。

 アメリカにおける規制緩和は航空会社の数を大幅に減少させたが、そのあとには多くの失業者が発生したり転職を余儀なくされた者たちが生まれた。このことを批判した左翼系の多くの雉があらわれたし、そのことがクリントン政権や、ブレア政権の誕生につながった。自由化と平等化とは調和させるべきものであると同時、このように時間的な継起の問題でもある。現実的な政策の問題として現実の不平等の認識と、それに対応した適切な政策の問題でもあるし、それと同時に政治哲学上の問題でもある。自由とは何か、平等とは何かが政治哲学、政治原理として追求されねばならないのと同時に、その原理のうえにのっとって政策が立案されねばならない問題でもある。イギリスのサッチャー政権の人頭税は自由化を求めたものであったがそのあとには平等化を求めるブレア政権が誕生した。アメリカにおける規制緩和による自由化のあとにはクリントン政権の平等化政策が選択されたのである。

 平等が構成要素である資源についてだけあてはまるものであり、自由という無であるものそのものにあてはまらないという論理や、ロールズの無知のヴェールのもとで選択される正義の原理は平等な自由の権利を認めることによるのだという論理もすべて、自由と平等に関する哲学的、原理的な論理である。ドゥウォーキンの平等な配慮と尊敬の概念も自己と同時に他人の資源や機会のことも考慮した上で、平等になるように他人に譲歩しなければならない、従ってすべてにおいて干渉されない自由など存在しないのだという哲学や原理的問題の分析なのである。平等という概念は自分と他人は平等であるべきだという点では他人に干渉していることになるが、自由のなかでこそ考察されるべきなのである。この自由は内在的自由のことであり、干渉されない消極的自由のことではない。したがって内在的自由として自由をとらえるならば、資源や機会の平等化の問題は自由の一構成要素にしかすぎないものとする。

 

 

P927

 

税法による平等化と、義賊の心理の法規化

 税法の概念のなかには、平等という概念が含まれている。「居住用の資源」という概念は一人の人がもっている二百平方メートル以上の土地には課税するとか、別荘地には課税するとかいうような考え方である。また相続にあたってあまりも多くの資産を相続するという考え方や、働かないことを防ぐという考え方や、不労所得を少なくするという考え方のなかにも平等という考え方がふくまれている。あまりにも多い一人の人の土地は他の人の土地を少なくするし、農地法の考え方のなかにあったが不在地主や、使用人の数を多くしてしまうという考え方である。しかしこのような平等の考え方は各人の自由を増やすという考え方でもある。使用人や、小作人は依存の状態にあるし、自由ではないから、平等によりそのような人の自由を確保しようという考え方である。この考え方は逆に私有財産を各人に平等に分けようという考え方でもあり、平等は自由

 

 

P928

 

や私的所有とは矛盾していないのである。

 税法における平等も自由を中心にして概念構成されるべきであると考えられる。

 

 

P929

 

平等化したあとの干渉されない消極的自由

 税法の「居住用の資産」という考え方は、干渉されない自由の範囲をも規定しているものである。「居住用の資産」は平等や、生の本能を規定した最小限のものであるからこそ、それを売却し新しい「居住用の資産」を得るのは無税である。

 

 

P930

 

思想の自由と表現の自由

 

 表現・思想の自由は、それがあらゆる行動の自由に致る理論的・合理的理由付けとなるからこそ、最も基本的な自由となるのである。人間は自由に思考を行なう存在である。デカルトのいう考える葦である。弱い、葦ではあるが考えるゆえに人間として生きているのである。思考を表現したり、思想したりする自由はそれによって人間が人間として活動したり、思考したりすることができるようになるという意味で人間の最も重要な自由となる。しかし非合理的なウソをいう自由はあるのだろうか。弁護士はそのウソをいう自由され認められているといわれている。そのウソは仮説でもあり、真実を目指すために反証や、反税をやっていないという権利であり、自白はしなくていいという権利であり、自白を強要されない権利である。思想の自由や表現の自由は完全な形で認められるべきであるということの

 

 

P931

 

意味は、自由な思想や思考が人間の自由を与えていて、それなくしては自由な行動はありえないということのほかに、自由な思想や、自由な思考は討論や討議を重視する政治社会の最も重要な基本的人権と考えられるるからでもある。それは政治的自由の一要素となっている。

 不寛容な思想や、不寛容な表現をどのようにとり扱うのか、マスコミの第四権力に対して本当に個人の表現の自由や、思想の自由が守られているのかという問題などがいまだに解決されてはいない自由論の課題ではあるが、そのような自由論の進展も思想・表現の自由にまたざるをえない点が存在し、これが基本的な出発点となるのは人間が考える自由な葦であるというのとよく似ている。

 

 

P932

 

裁判におけるバーリンのいう消極的自由の権利と、平等。

 

 書物が回収されたり、炎書にされたりした場合には、その回収行為が憲法に合致せず向こうであるべきだという提訴が、裁判所に対してなされるであろう。原告である個人は書物の回収行使は憲法違反と述べるが、被告である国は様々な理由とつけてそれを正当であるといいはるであろう。しかし裁判所は憲法判断を避けて結局は書物の回収を有効とすると考えよう。これはこの書物がバーリンのいう消極的自由を主張する場合にそれが社会の集団主義的傾向と合致せずにこのような結果となったのだと考えられる。一般には集団主義的ではない社会は、集団主義を主張する書物であっても、書物である限り危険ではないから、書物を回収したりすることはないと考えられるからである。

 このような現実的ケースではどのようにし

 

 

P933

 

て書物の回収というような行為をやめさせるのかということが鍵となる。そこにおいてバーリンの干渉されない消極的自由の原理が生きてくることになるのであるが、その理論づけは現実のこのような裁判のケースに実際適用できるところまでは理論的に・化してはいない。社会的自由権として裁判所が認めてくれるようになるまでにはまだまだの感がある。裁判所はほとんどのケースにおいて憲法判断を回避しがちであるからだ。

 書物の回収が認められるのはそれが公益のためというのでもなく、また、それが憲法に合致しているからというのでもない。「高い」し、「真の」時がが公益と偽善されているからでもなく、ただ、すでにおこったことは仕方がないという理由からである。現実には自由の権利はこの程度のものであるかもしれないが、そして裁判においてはドゥウォーキンのいう平等な尊重と配慮の方が有効な力をもちうるかもしれないし、今後もそうであるかも

 

 

P934

 

しれないが、東西冷戦後の今後の世界においてもバーリンのいう干渉されない消極的自由は、人間の本性としての自由のあり方に関係しているところの人間の本性であると考えねばならないと考えられる。人間の本性のあり方としての平等も、人間の自由な思考による平等の概念の確とくの方向に目を向けるべきであろう。人間の本性と、そこからくる社会的な人間のあり方こそ政治の本来のあり方を決めるのだと考えるものである。

 

 

P935

 

ロールズの正義論における「自由な概念」の章について

 

 「自由を一般的な描写すると次のようになる。この人やこの人々はあることをすること(あるいはしないこと)について、ある制約や(いくつかの制約)から自由である(あるいは自由ではない)。」つまり、「自由である主体、その主体があるものから自由であるというときの制約や制限、あることをすることあるいはしないことが自由であるというときのその動作、この三つの項目について自由論は記述しており、完全な自由論はこの三つの項目を現実的に記述している。」とジョン・ロールズはその『正義論』のなかで、G・C・マッカラムの一九六七年にかかれた「消極的自由と積極的自由」の論文を参照しながら自由の概念について要約している。この記述の前半はそのまま『オックスフォード・コンサ

 

 

P936

 

イス・政治学辞典』のなかに飲用されている。ロールズは更に続けて「ある一群の人々の自由が他の一群の人々の自由よりもより大きい時には自由が平等であるとはいえない」のだから「平等な市民(citizenship) のすべての個別的自由の全体は社会の各人各人にとって同じでなくてはならない」と述べるのである。この議論がロールズの正義の二原則の第一原理の自由の議論へとつながることになる。ロールズ本人も「自由の概念の以上の説明は抽象的なものでおわってしまうのは残念なことだ。」とのべて、正義論の第三二章「自由の概念」は短かく終わってしまう。

 

 

P937

 

自由のために平等を使うということと、平等のために自由を殺さないことは同じだ。

 ロールズが、自由のために(第一原理のために)、第二原理の平等の概念を使うという考え方は、ハイエクのいう「平等のために自由を殺す」という概念を防止するためには有効な考え方であるといいうる。ロールズがそのように考えた目的が平等のために自由を殺すことを防ぐことを目的としていたかどうかは別として、平等のために自由を殺さないという結果になったことはたしかなことである。自由を殺さない方法はほかにもあるかもしれないがロールズのこの方法はどのような点に特徴があるのだろうか。

 

 

P938

 

ロールズにおける平等な自由と、公平としての正義

 ロールズの主張する正義の二原理並びにその二つの原理の間の優先ルールは次のとおりである。不平等に関する部分は意訳である。本文は別に示す。

 「第一原理

 すべての人間はもろもろの平等な基本的自由が最も広く存在する全体的な社会制度を求める平等な権利をもっているべきである。それであれば、すべての他の人々にとっての同様の社会制度と相容れるからである。

 第二原理

 (a)正しい貯蓄の原理と矛盾することのないように、最も不利な立場にある人々に最大限に利益を与えるように、〔相違の原則〕並びに

(b)機会の平等性を公正に保つためであるという条件を満たすため、すべての人に職務や地位が公開されるようにする目的のために、〔公正な機会の原則〕

 

 

P939

 

社会的な不平等や、経済的不平等にたいして人間は手段を講じなければならない。

 

第一の優先性のルール(自由の優位)

 この正義の二原則は、第一の次に、第二の原理という順序で順番づけられるのであるから、それゆえに、自由が制限されうるのは、自由のためだけなのである。(a)すべての人によって共有されている自由の全体的社会制度を、あまり広い範囲に存在していない自由が強化するようにならねばならない場合と、(b)平等な自由よりも小さい自由をもつ人は、自分より小さい自由をもつ人々を受け入れなくてはならない場合との二つの場合が存在することになる。

 

第二原理の優先性のルール(効率性と福祉に正義が優先するべきこと)

 正義の第二原理は、効率性の原理や、利

 

 

P940

益の合計を最大化するべきだという原則に、順序的に順番に前に優先されるべきである。

 また、公正な機会の原則は相違の原則に優先する。

 (a)あまり機会的に恵まれていない人々の機会を増大させるために、機会の不平等化が使用される場合と、

 (b)貯蓄の少なさのハンディキャップの重荷に耐えている人々の苦しみを減少させ、バランスをとるために、貯蓄の割合を多くさせるということを使用する場合と、

の二つが存在する。」  」

 

「一般的概念

 自由と機会、所得と富、また、自己の尊

 

 

P941

 

厳のいろいろな基礎||基礎的なすべての社会的な善は、すべての善あるいはいくつかの善を不平等に配分することが最も不利な状況になる人々の利益となる場合を除けば、平等に配分されるべきである。」

(John Rauls, A Theory of Justice, Harvard Uninersity Press, 1971. pp.302〜303)

 

 

P942

 

ロールズの第二原理の別の訳(2)(物主構文の主語を、受身型から能動形になおした訳)

 ロールズの第二原理では(a)最も恵まれない人々(the least advantaged)が最も有利となる(the greatest benefit)ように社会的不平等も経済的不平等にたいして、人間は手段を講じ(手はずを整え)なくてはならない。また、それとともに(b)職務や地位をすべての人に公開し、すべての人を、機会を公平に平等にするという条件を満たすように、参加させるように、社会的不平等や、経済的不平等に人間は手段を講じ(手はずを整え)なくてはならない。

 

 

P943

 

ロールズの正義の第二原理の訳(3)

 

 第二原理

 (a)正義の貯蓄の原則に矛盾してはならないが、最も恵まれない人々(the least advantaged)が最も大きな利益(the greatest benefit)をえるように、社会的不平等と経済的不平等にたいして、人間は手段を講じなくてはならない、また、それとともに、(b)機会を公平に平等に与えるという原則を満たすために、すべての人に職務と地位を公開にし、すべての人を職務と地位に参加させるように、社会的不平等と、経済的不平等とにたいして、人間は手段を講じなければならない。

 

 

P944

 

ロールズの正義の二原理はその順番に

 (in lexical order)正義は実行されねばならない。まずは法的に平等に自由が確保されているような社会制度が作られねばならないし、(第一原理)、次にすべての人が職務が公開され、地位が公開にされ公正に機会が平等化されねばならない(第二原理のb)、そしてそれによって格差の相違が発生した場合には最も不利な立場となった人々に最大限に利益を与えるように、社会的に不平等な取り扱いをしたり、経済的に不平等な取り扱いをしてやる(arrange)べきである(第二原理のa)。第一の優先性の原則においては、自由が制限されるのは自由のためだけである。よって(a)最も不利な立場となった人々を最大限に利益を与えることによって自由な社会制度を更に強化できるようになる場合と(b)自由が少ない人々を平等な自由は受け入れてやらねばなら

 

 

P945

 

ない場合とがある。

 第二の優先性のルールによれば、効率性や利益の合計を最大化の原理とは反対に、第二の原理によって弱者を救済したり、黒人などの差別されている人々などに優先性を与え、不平等に取り扱い優遇することは、効率性や利益の合計を最大化することに反するのではあるが、それに優先して第二の原理は適用されるべきであり、その後に(lexically prior to)効率性や、利益の合計を最大化するという原則が適用されるべきだというのである。「公正な機会の原則は、相違の原則に優先する」のは先に述べたとおりである。

 第二の優先性のルールの(a)と(b) 例示に近いものであり、第二原理のbによって機会に恵まれていない人が、例えば黒人にたいする優先的な機会の配分によって、機会を得る場合(a)と、配分的正義によって貯蓄(富と同義か)を増やす場合(b)とがありうるということを例示している。

 

 

P946

 

 そして一般概念としては、自由も、機会も、所得も、富も、自己の尊厳のための様々な善もすべて平等に配分(distributed equally)されるべきではあるが、最も恵まれない人々に利益になる。(the advantage of least fasored)場合にのみは、差別的にとりあつかってよいというものであり、この一般的概念を順序として説明し、第一原理のあとに、第二原理の(b)、そのあとに第二原理(a)がくるべきであるとして、その順番を示したものが、第一と第二という順番である。

 このロールズの正義の第一と第二の原理は自由社会のなかにおける平等について述べたものである。自由は自由のためにのみ制約されるとか、最も恵まれない人々を不平等に取り扱うのは自由な社会制度、つまり平等な自由の存在する社会制度を維持するためなのだという論理は、自由社会を守るために平等という概念をどうとらえるのかについて非常に苦心したあとがみられるといえる。彼の平等

 

 

P947

 

は、黒人を優遇することによって平等化できるような機会と貯蓄(富)の平等に限られており、人間の本質的な平等については「平等な自由」ということばによって表現されており、それは人間の本質的自由の平等性について述べているのだと考えられる。従ってロールズにおいては平等な自由という時の平等と、 社会的不平等と経済的不平等(socical economic inegualities)という時の平等とはその平等の概念内容と異にしているのである。社会的不平等は職務や地位(offices and postitions)についての機会の公平な平等(fair eguality of oppotunity)についての不平等について述べており、経済的不平等は最も恵まれない人々の利益(benefit of the least advantaged)という場合のように利益(benefit)や、有利性(advantage)について述べている。

 自由な社会制度を維持しながらも、平等を保つためには、第二原理が必要であるとし、

 

 

P948

 

かつまた、効率性の原則や、利益を最大化すべきだという原則を、活かすためには第二の優先性のルールが、優先される順番のルールとして必要だとしたのである。従ってロールズの理論は効率性の原則や、利益最大化の原則を完全に否定することなく、それを順序の問題としたところに最大の特徴があったといえるのである。

 例えば、アファーヌティブ・アクションや、累進税などはより富める者をより不平等にとり扱うものである。これを認めることの前に優先される順番として平等な自由が認められている社会制度が、第一原理として要求されたのである。社会制度の第一原理として、もし第二原理をもってくれば、最初から自由が平等化のために殺されてしまう社会ができあがるかもしれない。ねたみや、富のある者にたいする反感のみが支配する社会となるかもしれない。

 

 

P949

 

ロールズの第二原理について

 

ロールズの第二原理では、まだドゥウォーキンのいう経済的差別については論じてはいないが、ほぼ同じようなことについて述べている。

 (a)では、最も恵まれない人程、それだけ多く利益を得られるようにという反比例の原理を強調しているが、(b)では機会が平等になるように職務や地位が公開され、社会的不平等や経済的不平等にもかかわらず平等に参加させることを求めている。職務や地位につけない恵まれない人人々、社会的、経済的に恵まれない人々にたいして公平に平等に職務や地位につけるように手段を講じて、機会の平等性を正義の第二原理としたものである。当然に最も恵まれない人は最も手段を講じられなくてはならない人々であり、反比例の原理が存在することを前提としている。

 

 

P950

 

ロールズの第二原理は自由を制約していることにはならないのか

 ロールズが第二原理とするものによって平等によって自由の制約はおこなわれているのではあるが、自由な社会は守られている。もし社会的不平等や、経済的不平等が自分の力によって是正されるように努力されるならば、自由の制約は他の人によって行なわれないかもしれない。第二原理が適用される前に貧しい、自由の少ない人の努力が述べられていたならば、自由の制約はやむをやない時にのみに限定されていたのかもしれない。例外状態では自由が制限されても仕方がないという原則は、やむをえなくて人は選択できるかもしれない。ある不平等の状態が認められることと、規範によってそれが是正されるべきだとすることと、やむをえず仕方がなく不平等を是正することとは全く相違している。

 

 

P951

 

ロールズの第二原理はバーリンのいう積極的自由といえるのか、いえないのか。

 

 ロールズがバーリンのいう干渉されない消極的自由を肯定すると考えられるか。バーリンのようにロールズも内在的自由については肯定すると予測する。  

 

 

P952

 

 

P953

 

ロールズの第一の優先性の原則について

 

 自由が自由のためにのみ制限されることができる。この原理は自由を平等のために制限することを認めているのであろうか。平等な自由な社会を守るために、自由が制限されなくてはならないという論法は、自由を平等化のために制限するのは、結局は平等化された不自由社会を作るためではなく、第一原理である平等な自由が認められるために自由を制限し、平等化政策をとるのであるから、個々の人にとっては自由が平等のために制限されているのであるが、社会にとっては、平等な自由がある社会を作るために自由を制限しているのであるから、自由の制限は自由な社会を作るためなのであるという論理である。平等が自由を殺すといういいかたは確かに自由社会を殺してしまうということであって、何らかの自由の制限が法や、人間関係によって発生することにつ

 

 

P954

 

いて認めていなかった人はいないのであるから、自由が自由社会のためにのみ制限されるといういい方は正しいのかもしれない。そのようにして、正義の第二原理によって社会的不平等を正していかなければ、しっとやねたみの感情が社会に充満し、そのことによって自由社会が危うくなるかもしれないというのである。

 自由の優先性のルールの(a)のケースでは、あまり自由を広くもっていない人々の自由が自由な全体社会を強化しなければならないし、(b)自由の量がより少ない人々は平等な自由よりも少ない自由を受け入れなくてはならないケースもある。

 

 

P955

 

自由論と平等論と正義論の新しい潮流

 

 ロールズの第一原理は、自分と他の人々とを結ぶものは何かをまず考え、自分も平等な自由をもち、他の人々も平等な自由をもっているということを認めることによって結合されている全体的社会制度を構築しようとするのである。この考え方は自分と他人とが平等に配慮しあい、平等に尊重しあうことによって法や、政治がなりたっているのだとするドゥウォーキンの理論ともつながるものをもっている。

 また、ロールズの正義の第二原理は、ドゥウォーキンにおいては逆差別の理論とつながるものである。黒人にたいするアファーマディブ、アクションの理論的基礎となったものである。ロールズの理論とドゥウォーキンの理論の決定的な違いは自由のみかたにある。ロールズは「自由を制限できるものはあくまでも自由である」という原則を貫こうとするのにたいして、ドゥウォーキンは逆差別とか、黒人と白

 

 

P956

 

人の平等化政策とかにたいして、それに反対する政治理論や法理論が■■する自由、所有権の自由処分性、学校を自由に選択する自由など等の自由論をもち出してくるゆえに、それに対抗する論法としてか、「一般的にあらゆる場合に通用する自由は存在しない」という自由論を展開することである。しかしドゥウォーキンがこれはターミノロジー(術語の使い分)ではないと否定はするが、ロールズが「自由を否定するものは自由である」というときの後者の自由を黒人の幸福とか、黒人の富とか、黒人の所得とか、黒人の利益などのように最も恵まれない人々の社会的な善におきかえたものであり、最も恵まれない人々の自由によって自由を制限するのだというのとほぼ同じ結果となっている。法や政治の舞台にもちこまれる多くの事件は、ほとんどがロールズのいう第二原理に関っているものだという主張に賛同するならば、ドゥウォーキンの理論化は自由などの社会的に基本的自由と

 

 

P957

 

認められている自由以外についてはそのような置き換えをしても何ら理論的に支障は生じないであろうが、ロールズの第一原理にいうような社会制度のなかにおける自由を一般的に認めるための理論としてはなりたたなくなる。また、平等な配慮と尊重も人間の本質的自由によってなされるのであるとか、黒人などの最も恵まれない人々も平等な自由や、人間の本質的自由をもっているとかいう自由論の出発点を危うくして、平等にために自由を殺すという一般論が台頭してくる可能性がありうるという一抹の心配が感じられるのである。ドゥウォーキンの理論はロールズの理論と同じく、自由の平等性に基礎を置いていると考えられるのでその心配は杞憂にすぎないと思われるのである。人間の自由の本質性からみれば「自由の制限は自由によってのみ行なわれる」というロールズの主張は、平等化や、社会的、経済的不平等の是正は、自由のために行なわれ、平等な自由を人々が維持する全

 

 

P958

 

体的社会制度を維持するために行なわれるのだという理論体系は自由の本質を何らこわすことなく社会制度を維持するためには、どのような原理を正義の原理とすればよいのかについて考察したものであるといえる。

 フランス革命以来自由と平等をいかにして調和するのかという難問は現実の政治においても、政治理論においても大きな難問であったが、これを正義の二原理という形で正義論として公式化したロールズと、平等な配慮と尊重という一原理で法理学(法哲学)のなかに集約しようとしたドゥウォーキンは、この難問に一里塚をたてたといいうる。自由についてのフロムや、バーリンの果たした学問的業績とともに自由と平等の理論は新しい局面を迎えていると考えることができる。

 

 

P959

 

自由論と、自由と平等の双方を考慮する正義論。バーリンとロールズの違い。

 

 「開かれた選択の可能性が十分であること」が自由な社会であるとしても、その結果悪い選択がなされるかもしれないという点についてバーリンは指摘している。デモクラシーが民主的でありながら各人の自由を抑圧することを選択する場合である。このことは自由な選択は自由を抑圧する方向を選択するかもしれないということを示している。ところがそのような選択、つまり、民主的に自由を抑圧することがないように、民主的であるまえに自由、干渉されない消極的自由の範囲は前もって定めておかれねばならないということを示している。このことは干渉されない消極的自由の範囲を決定することのほうが、民主的であることより以前に、ずっと以前に決定されておかれねばならないということをバーリンはいおうとしたのである。ロールズが正義の第一原理は第二原理より以前に優先して適用され

 

 

P960

 

るべきであり、第二原理は第一原理を満たすように適用されるべきである、つまり自由の制限は自由のためになされるべきであると述べたのと類似している。ただ相違点は民主的であることに干渉されない消極的自由以外の平等化などの価値の実現のすべてをバーリンはまかせてしまったので、その「二つの自由概念」という論文は自由論としてその名をはせたのみであったが、ロールズの自由の概念は、第二原理により自由と平等の調和という正義の原理の■述にいたったので正義論としての価値を有しているという点においてである。

 バーリンとロールズの類似点と相違点との分析に当たって留意すべきことは、バーリンの考え方によって平等はいかに考えられているのか、一方でロールズの考え方においては干渉されない消極的自由はいかにして守られているかという点である。ロールズにあっては平等による自由の制限は自由のためにのみなされるのだということを提案しているが、

 

 

P961

 

バーリンにあっては干渉されない消極的自由によって平等化が達成化されるのかどうかについては、考察されないままに終わったのである。バーリンの考え方を受け継いだノージックは、干渉されない消極的自由を認めつつ「見えざる手」によっていかにして「平等化」がなされるのかについて言及しているのはバーリンの考え方を一歩進めたものであると考えることができる。このリバタリアンの伝統は脈々と現在も受け継がれているということができる。「開かれた選択の可能性が十分であった」としても、それが不平等を選択する方向に向かうことはどのようにして防がれるのかという「見えざる手」の理論化は回避されてはならない。内在的自由がすべての人間にとって平等であるということは、「平等化」がなされていく原因となるかもしれないし、その他各人の使用できる時間(機会)が平等であるということも平等化への動きのために一つの力であるかもしれない。

 

 

P962

 

 ジョン、ロールズの自由への平等な権利

(am agual right to the most extensive fasic liferty compatifle with a similar liferty for all)という考え方は、ドゥウォーキンが『権利論』第12章において明白な個別的自由の個人の権利(imdiwidual rights to distinct liferties)の考え方とはどのように違うのであろうか。ドゥウォーキンが認める自由への権利は平等な人間として取り扱われる基本的な権利がそのような自由権を要求しているとわかる時にだけ認められるのだという。注 ドゥウォーキンは『原理論』の二〇七頁において現実の世界においてはすべての人は平等な条件で出発しているのではなく、家族の富や受けた教育や人種などで有利に出発する人も、不利に出

 

 

P963

 

発する人もいるという現実認識から出発する。ところがロールズの理論は無知のヴェールのもとでの原初状態において契約されるであろう正義の理論として提示されるものである。ロールズの第二原理である格差原理とよばれるものは第一原理である自由への平等な権利という無知のヴェールのもとでの仮定された状況よりも現実に近い状況のもとにおける原理であるといえる。政治学が現実と理論理想のあいだを往き来するものであるとすれば第一原理と第二原理はそれらを表現しそのあいだを往き来するという性格のものであると思われる。第一原理は自由とそれまでよばれてきたものであるし、第二原理は平等とそれまでよばれてきたものである。その両者の往き来を結合するものとしてロールズは第二原理の最後に限定条件を付している。それは公務員であろうと民間のビジネスにおいてであろうと機会が均等に割り当てられるべきであるという限定条件である。

 

 

P964

 

ドゥウォーキンの自由

 

 ドゥウォーキンの理論の体系のなかにおける自由論の位置付けを『権利論』の第12章を分析することによって明らかにする。「平等な配慮と尊重」を主張するドゥウォーキンが自由をどのように位置付けしたかを考察することは自由と平等の関係を考えるうえで参考になる。平等な配慮と尊重の原則による自由の制限のどのような部分が自由を尊重し、どのようなものが自由を平等のために殺していることになるのだろうか。法や政治は自由と平等を尊重すべきものであるからこそその検■は重要な意味をもつと思われる。

 

 

P965

 

フロムとバーリンの論争

 

 自由とは「ある人が他の人や他の物によって妨害されたりすることなく、『存在する状態』であるのか、『活動すること』であるのか、『活動できる状態』であるのか」についてのバーリンらの論争は、〜からの自由という消極的な自由を主張する側では、〜する自由を比較的軽くみるので「状態」とみなす主張をバーリンのように行なうであろうのにたいして、フロムやこのようにフロムのいう積極的自由がその論調のなかで主張したい主な論点である場合には自由とは「活動」であるという主張を行なうであろうと考えられる。そう考える時、フロムとバーリンの論争は当然のくい違いということになる。しかしフロムとバーリンが結局対立したままと考えるのはその統合的論旨からいってまちがいであるといえるだろう。バーリンも消極的自由がかく得され

 

 

P966

 

た場合にはどのように活動したらよいかを真剣に考えていたであろうし、フロムはフロムで自由を活動として生かすためにはある静的状態、つまりバーリンのいう干渉されない消極的自由が存在しなければならないと考えていたはずであるからである。フロムは干渉されない消極的自由がワイマール憲法のもとで与えられたドイツ国民が、その消極的自由そのものから逃走し、ヒットラーの支配による積極的に干渉される自由を求めていった群集の全体的心理について把握しようとしたのであり、それはつまりバーリンのいう消極的自由のみでは群集は権威によりすがっていこうとすることをといたのである。そのような傾向に対抗するにはフロムのいう積極的な自由が必要であると考えたのである。

 

 

P967

 

ベイ、バーリン、フロム

 

 ベイが理想主義的と感ずるボーズンキットや、グリーンについて、同じくバーリンも理性主義的であると感じていることについては別々の研究の中では一致している点である。ベイとバーリンの研究はほぼ百八十度違う観点からの研究であるように、権威主義についての感想などはほぼ同じように感じられる文章である。自由という観点からものをみて、その感じ方が同じようにみえるということは少ないと思われるのにこのように感じ方が同じようなものであったことは驚くべきことである。安心がえられた時に自由があるというベイにたいして、干渉されない自由が安心を生むとバーリンが考え、そのためには統合的パーソナリティーや独立性が必要だ、それが安心だとフロムがいっていたと解釈すればほぼ同じ傾向の核心をついていたといえる。

 

 

P968

 

第 章 二つのポジティブ・リバティー

 

 フロムがナチズムから逃れるためにはポジティブ・リバティーを保有しておくべきだと述べたのは自立的に規範を自らの力で形成する力を蓄えておくようにという意味であったのではなく、能力をそうせよという意味であったとすれば、バーリンガナチズムのようなポジティブ・リバティーにたいして、その干渉を排除するためにはネガティブ・リバティーを保有すべきであるといったことと似通った性質をもっていたことになる。バーリンのイラネガティブ・リバティーはポジティブ・リバティーの干渉に対抗し、そのような干渉を排除する力をもったものでなくてはならなかった。干渉が妨害や障害であるとすれば、それを排除する力がネガティブ・リバティーで、ある。一方排除する力はフロムのいうポジティブ・リバティーによって作られることにな

 

 

P969

 

る。バーリンのいうネガティブ・リバティーが政府によって、ちょうどワイヌール時代のように与えられていたとしても、フロムのいうポジティブ・リバテーをもっているのでなければ、自らそれに対抗する力はもたないことになる。全的、統合的パーソナリティーとは権威に依存しないで自らの決定ができるということであると考えられる。

 

 

P970

 

バーリン、ドゥウォーキン、フロム

 

 自由の問題を政治の問題に限定してとらえると、強制(強迫)や服従、干渉や依存。支配や権力、統制や計画などの問題となる。バーリンは二つの自由のなかではこの問題のうちでも、政府によって強制されたり、干渉されたりしない自由を消極的自由として尊重することを主張した。これに対してドゥウォーキンはこのような消極的自由は存在しないという時には、自由の他の側面である自由の主体は他人の自由であもあり、他人の自由をも尊重するのであれば、また他人のことを配慮するのであれば、様々な自由な活動にあたっては多くの他の人々を、自分をも含めて、平等に配慮し尊重しなければならないと考えたのである。バーリンがしかしドゥウォーキンのいうような状態が考えられ、多元主義をとるにしても一党独裁や暴力革命のような事態

 

 

P971

 

を避けるためには、干渉されない消極的自由の範囲を自然法や、自然権や、社会契約の原理などによって定めておかねばならないと考えたのである。一方ドゥウォーキンは表現の自由や、思想の自由、言論の自由などについて完全な形で認められるべき理由付けについては、『権利論』第十二章において詳しく述べている。どのような独裁社会においても、思想、表現、言論の自由などについては完全な形で認められるべきであるという理由付けは行なうが、財産権などについては干渉されない自由は存在しないとドゥウォーキンは考えるのである。

 

 

P972

 

労働と自由

 

 

P973

 

他の人の得は私のだと主張することはできるだろうか

 

 ある社会で、その社会で働いて得られた所得、その他不労所得が、その社会の規則に従って獲得されたものであるにもかかわらず、その人のものではあるべきではないという感情が、マルクスや、フロイトにはあった。それは現実のものではない、もっと高い自■によって、その人のものでなく、自分のものであるべきだと考えられた。その理由付けは社会の制度が悪いから、自分は同じように働いているけれども同じような所得が得られなかったのだというものであり、したがって義賊になって奪うことは正当だということであったと推論することはできる。しかしこの理由付けを正当だと認めることはほとんど不可能であるといえる。あまりに多くのその他の要因が無視されすぎているからだ。

 

 

P974

 

資源と自由の因果関係

 

 資源や、能力や、機会やらがあって、妨害がなくてはじめて、ある人は自由に行動できるということは、人間はやはりマルクスのいうように資源によって因果関係的に制約されており、かつ、他人の制約(妨害)によっても左右されており、資源があってかつ他人の制約がない時にはじめて実質的自由があるということなのだろうが。内在的には完全にあっても、実質的自由はそのようにいうことができるので、唯物論は正しかったのだろうか。バーリンはノーという。

 

 

P975

 

労働者のためを思って

 

 ある人が「真の自由」を主張するのは、本当に労働者のためであろうか。その主張する人々自身のためなのではなかろうか。ある自由のための政治運動が、誰の役に立つのかはその政治運動が作りあげた状態のなかにおける人々の自由がどのようなものであるのかを分析することによって理解できる。プロレタリア■裁の体制のなかにおいては、思想、表現の自由は存在しない。

 

 

P976

 

労働者よ団結せよか

 

 マルクスは、労働者のプロレタリア独裁を主張し、労働者の「真の自由」を達成し、「真の自由」を求める政治的活動を通じて、労働者の自由を確立できると主張したと動じに、それは独裁によってのみ達成できるのだと主張したのであった。しかし独裁は自由を奪うはずだった。このことを若きバーリンは「真の」自由の論理で『カール・マルクス』のなかですでにのべていた。

 階級のためという「地位の追求」についてバーリンは平等のためでだったのかと疑問を投げかける。ひょっとしたら個人主義的労働の保護という観点からの政策の方が、階級全体を保護するよりも人々はより平等になったり、豊かになったりするのではなかろうか。

 

 

P977

 

「権力はいらない」か

 

 共産主義が国家は死滅すると考えたのは、共産主義は競争がないから権力はいらないと考えたのだ。しかし共産主義は最も大きな権力であった。

 ここに「権力はいらない。」という考えが再び共産主義社会で生まれる。

 非価格メカニズムによる分配は、平等とい

 ながらも、理由なき逆差別がありこれ程恐ろしい権力は存在しなかったのであり、■が完全に平等主■■に■■した。

 

 

P978

 

完全な自由と積極的自由

 

 依存する人は、依存されている権威が常に自分のことを思ってくれていると思っているし、そう期待するが、その依存される人でも誰でも自分の生活があり、それができない。これが積極的自由を行使する人にたいして、消極的自由を主張する人が干渉するなという理由である。

 完全に保護された、依存できる環境においては「完全な自由」が存在する。そこには自由に伴う危険が存在しないからである。ある意味では完全に依存しきった「完全な自由」を求めたのが「真の」自由論であったのかもしれない。しかし依存される国家のあまりにも危険なことを国民がしすぎる「完全な自由」には耐えきれなくなって崩壊したのではなかろうか。

 

 

P979

 

義賊の心理の窃盗性・暴力性・非行性

 

 義賊の心理は平等を求める賊の心理である。

 義賊の心理が高じて、殺してでも、暴力ででも義賊とならねばならないと思い込みはじめる。ところが富裕な人々はそれでも賊として窃盗をすることを許さない場合がありうる。こうなると連鎖てきに「とらねばならぬ」、「とれぬ」という心理が回り回ることになる。

 これを心理的なものではなくて、社会的なものとするには討論や討議が必要であり、表現の自由がなくてはならない。この点は平等主義者も認めるであろう。

 

 

P980

 

平等と干渉されない自由

 

 平等への配慮と尊敬を求めるあまりに義賊の心理とならないように、自立と自由をも同時に求めさせなくてはならない。この場合の自立と自由はバーリンの意味では干渉されない消極的自由である。義賊の心理となることのブレーキの役割をそれは果たしうるといえる。

 

 

P981

 

内在的自由と平等

 

 平等があっても自由を殺すことはできない。自由は自然的自由や、内在的自由とよばれるものが人間には人間の本質として存在し、それをすべて殺すことはできないからである。

 

 

P982

 

商業と社会利学

 

 全員が商人になったら政府はなくなるであろうか。なくならない。警察や、道路等は必要である。しかし国家の全員が公務員になれば国家は巨大になるのであり、「国家の削減や人種史のはじまり」どころではない。国家のうちの全体、共有物も、私有物も含め共有物となってしまい、国家はなくなるどころではなく、人間も物に支配される物となってしまう。商業は社会利学たりうるか、このような意味で、商業が税金により共同財産をも管理しているのであると考えることができるような社会においては、商人にとって商業学はすべてであると考えることができるし、社会利学のうちの一分野としての商業学について考えることはできる。商業学は税金の出し方からすべてを含んでいると考えることもできる。商業学は、私有財産における消極的な干渉されない自由の概念から導き出されるものである。

 

 

P983

 

 商業が利他行動と、利己行動との交換によるのであるなら、進化論による競争と優勝劣敗の原則による利他行動の否定は商業という文化的な活動においては否定されることになる。

 

 

P984

 

商業学は社会利学か

 

 商業は所有と所有との交換関係であり、所有それ自体が社会的なものであるから、社会学としてしか商業学は成立しえない。商法はそれを規制するものである。

 

 

P985

 

ユダヤ人の迫害は主に商業と、利己性に対する迫害であった

 

 商業学や商業哲学において「■」や、

利己性についての批判をかわすこと」は大きな位置を占めてきた。利己性と、利他性という人間の人格の二つの側面、一方で利己的でありながら一方で利他的であるということは多くの難問を社会において生んだ。平等の主張は利他的な人格を教育し、人格を成長させるのだという理論を生むが、そうするあまり利己性を主張する人々を迫害してきた歴史的な多くの事件があった。平等が自由を殺すという時の自由は平等の側からみれば利己性ととらえられていたのであるからだ。

 

 

P986

 

 どんなが才大将にも大義名分はある。その主なものは、こじつけではあっても義賊の心理である。この積極的自由の正当化のどこに難点があったのか、それに理論付けを支えることをバーリンは努力した。

 

P987

 

自由と妨害・干渉・障害・強制・強迫

 

第七章 自由と、妨害・干渉・障害・強制・強迫

 

 

P988

 

 干渉されない自由と、干渉しない自由。干渉しない自由、自由放任主義を実行する自由は積極的自由である。

 干渉する自由にたいして、干渉しないことをする自由も積極的自由にあたる。干渉したいけれども干渉しないということに決める選択の自由は、自由な活動のうちに属するのであって、自由を妨害するものを排除するという消極的自由に該当するのではなく、積極的自由に該当する。ということは自由放任主義は積極的自由に該当するのであって、バーリンのいう消極的自由はそのような積極的自由が、他人に干渉する方向に向かった時に、その干渉する方向を「妨害するもの」とうけとり、その妨害を排除したり、中止させたり、干渉主義を中止させたりする時に、発生する自由である。しかし完全な自由放任主義というものは存在しないのであるから、何らかの干渉はすべての人が行なっているといえる。そのような他人からの干渉にたいして消極的自由

 

 

P989

 

をすべての人が主張しうることになる。ドゥウォーキンがすべての人が干渉されない一般的自由をもっているわけではないと主張する時には、社会的干渉が福祉政策を実行する時にはおこるのであるから、そのような社会的干渉に反発し、干渉されない消極的自由を主張するということは、現代における消極的自由にたいする権利の主張の主な場合であり、社会福祉に反対する法的主張、特に憲法裁判における主張の骨子をなすものではあるが、そのような消極的自由が一般的にすべての場合にあてはまるものではなく、正当であるとみなされるわけではないと述べているのであると簡単にいえば考えることができる。自由主義の限界について述べるサンデルも、自由主義の終焉について述べるローウィも、自由放任の終わりについて述べるケインズもすべてこのような現点にたって述べるのである。そこにはわがまま(kisence)と考えられるものであり、社会的な福祉や公共的福祉のもとに排

 

 

P990

 

除され、制限されるべき自由、消極的自由が列挙されるべきと考えられており、それこそ自由論の本質であるかのように述べられている場合がある。ところがドゥウォーキンのみはそのような自由論の立場をとらず政治道徳としての平等な配慮と尊重こそは、自由に対立すべき価値であると正々堂々と述べるのであり、自由主義の姿をまとった自由の制限論とは異なっている。一方、バーリンは逆の立場から干渉されない消極的自由が存在すること、いくら平等な配慮と尊重によって自由が制限されるべきであるといっても、干渉されない消極的自由が完全に存在すべき場合があること、そしてその理由はどのような理由であるかについて追求すべきであることについて述べるのである。実際に干渉されない消極的自由が存在すべき理由が何であるかについての理由付けは、自然権とか、自然法とか、社会契約の神聖とかなどの理由付けがあるとのべるにしても、その理由付けを完全になし

 

 

P991

 

えているわけではないのであるが。

 たしかに自由の限界について述べることと、干渉することのできる範囲の限界を述べることとは、両者の集合が全く重なりあったところがなくて、二つのものが加えて百パーセントになるものであるとするならば、干渉することのできる範囲を決定することは、干渉されるべきではない範囲を決定するし、逆に干渉されるべきではない範囲を決定することは干渉することのできる範囲を決定することになるのである。

 自由の限界を政府が述べ、それが公共の福祉の範囲を決めることができるかもしれない。公共の福祉は社会政策上の問題となるかもしれない。しかしそれを政府が決定するのではなくて、個人の側、人間の本質の側から決定されるべきであり、個人や、人間そのものが政府にたいして、自らが干渉してほしくない、干渉されたくない消極的自由の範囲を要求すべきであると考えるのがバーリンなので

 

 

P992

 

ある。それはとりもなおさず、政府がそのようなことを自覚した個人によって形成される政府であるならば、そのような政府が個人にたいしてどのような程度や範囲まで干渉してよいのかについて決定する場合に、そのような個人は干渉されえない消極的自由の範囲について、基本的に、自然法的に、自然権的な消極的自由に納得して、ついには正しい政府を形成するのであろうことをバーリンは期待しているのだということができるのである。

 このことをバーリンは

 「おそらく自由主義者にとって統治に参画する政治的|積極的|権利の主たる価値は、かれらが究極の価値として考えている個人的|「消極的」|自由を保護するための一牛段たるところにあるのであろう。」

と述べている。

 バーリンは自由放任を主張しているのではない。究極の価値として考えている個人的|

 

 

P993

 

「消極的」|自由が保護される必要があることについては干渉されるべきではなく、自由に放任されるべきであると述べるのである。そのような自由を保護するために統治に参画する政治的権利は積極的なものであるとバーリンも認めているのである。政治的権利は積極的であるにしても、平等を求めて自由を殺す積極的自由もあれば、干渉されない消極的自由を保護するためにそのような範囲については自由放任を主張する積極的自由も存在する。それは干渉を排除する自由でもあるといいうる。

 自由の限界は、人間の本質としての内在的自由の限界である八百度℃の世界には住めないというような自然的な限界は誰でも認知できる。それは人間であるからである。これにたいして、自由の限界である公共性の範囲、他の人々が他の人に平等な配慮や尊重の原理などによって干渉することのできる範囲については異論の多いものである。ドゥウォーキンのいうように黒人と白人との混合したバ

 

 

P994

 

スに強制的に、干渉されない自由にたいする干渉として、乗せることについては、憲法判断としても異論が多いのである。それを納得させる原理として黒人も平等に配慮され、尊重されるべきではないのかという理由付けを考えているドゥウォーキンの説はその説を読んでみると納得させられるところも多い。しかし、どこまでその範囲が及ぶべきかという限界については、バーリンのいう干渉されない消極的自由の範囲を決定せよという議論や、内在的自由の理論、つまり、自らの内在的自由を信じて、内在的自由が選択し、決定することに待つべきで干渉するべきではない、選択の自由にまかせるべきであるという理論は、バーリンやドゥウォーキンのいっている理論よりもさらに説得力をもっている。それでは人々は愚かであるから、そのような内在的自由を使って選択の自由を行使しえない程に愚かであるのだから、そのような選択の自由を行使できるようになるまでは、政府は干渉して、平等な

 

 

P995

 

配慮と尊重とによって、内在的自由や選択の自由を大きく制限すべきであるという議論も、相当な説得力と、法的な力をもっている。しかし、法的にも妥当であり、説得力があるかどうかは、人々が本当に内在的自由を行使しえないくらいに愚かであるかどうかにかかっている。人々は愚かではなくて、内在的自由に干渉せず、その自由によって最も賢明な選択をすることができるのではなかろうかという反論が残っている。

 干渉せず、干渉されない消極的自由を、黒人と白人とを混合バスにのせるかどうかについての議論に適用するとすれば、政府が干渉せずとも、干渉されない消極的自由を与えられ、人間の内在的自由のなかのそのようなことに関する選択の自由を政府から与えられた人々は、黒人のこと、黒人の困りきった状況を考え(尊重し)てやり、黒人との平等を配慮して行動することのほうを選択するのであ

 

 

P996

 

れば、人々は干渉されない消極的自由を認められようが、平等な配慮と尊重を自分達で行なって平等化へ向かうことができるかもしれないという議論が存在する。平等化は自由によっても達成されるであろうという考え方は「神の貝えざる牛」による平等化の主張であるといいうるであろう。ところがそれがグリーンのいうような「人格の成長」によるべきであるという考え方であるとすれば、人々はそのような善き人や、性善の人ばかりではなく、性悪の人や悪い人が多いのであるから、自由に放任していれば黒人と白人の経済的、社会的な差はひらいていくばかりなのであるから、政府が「強制的に」、「干渉して」、平等な配慮と尊重をしてやるべきであるという考え方が存在する。この考え方によれば政府は公という平等の考え方を押し進めるものであるから、私人は自由放任の中で平等化を崩すものであるという考え方になる。

 公は平等化、民間や私は自由による不平等

 

 

P997

 

化という考えは、伝統的なものであるが、バーリンのいうような究極の価値としての消極的自由を守るために、統治に自由主義者の個々の人が積極的に参加するという考え方とは完全に対立しているように見えるが、本当にそうであるのだろうか。

 政府が平等な配慮と尊重を行なってくれたあとだからこそ、干渉されない消極的自由の範囲が決定されるということがありうるし、逆に、干渉されない消極的自由の範囲が先に決まっているのであり、その部分については平等なのであるから、そのようにして個人が干渉されない、消極的自由の範囲を求めることこそ平等につながるのだという考え方が存在する。この二つの理論は対立的ではある。しかし後者の論理において平等な、干渉されない消極的自由の範囲を決定したからといっても、それ以外の範囲の部分が公によるにせよ、金持ちなどの私的な範囲の部分によるものであるにせよ、その部分が金権的な巨大

 

 

P998

 

な権力となったり、政府の公的な巨大権力となったりして、個人の干渉されない、消極的自由を、その巨大な権力によって妨害するということは大いにありうることである。ドゥウォーキンが金によって、裁判の行方が決定されることがありうることはまちがっていると述べるのはこのような考え方によっていると考えることができる。

 

 

P999

 

干渉されない自由の種類

 

 ただ単に他の目的がなく、干渉されることの嫌いな人にとっての干渉されない自由は、人間にとっての干渉されない自由は平等のために自由が殺されない自由であり、平等主義者にとっての干渉されない自由は自由を殺す自由であり、平等にする自由、バーリンのいう積極的自由を行使することを干渉されない自由である。これはドゥウォーキンにとってバーリンのいう消極的自由など一般的に存在しないという時のドゥウォーキンの使った意味の説明にとっては有効である。バーリンのいう干渉されない自由の意味は第一の意味であり、ドゥウォーキンのいう「一般的に干渉されない自由」も第一の意味であるが、ドゥウォーキンが主張しているものは第三の意味であり、ある人が使っている意味は第二の意味での干渉されない自由を、つまり平等によって殺されない自由を、第一と第二

 

 

P1000

 

の「干渉されない自由」の総合的なものとして主張しているのである。そのためには平等はその厳密な意味で資源のような自由の構成要■の平等化であらねばならないのである。その場合資源そのものは自由ではありえないのであるから、資源の平等は自由のためのものであり、それはロールズのように平等化は自由のためになされるといわなくても、平等は自由のなかに内包されているのである。

 これらの区分は厳密なものではないので、バーリンも第一の意味で干渉ということばを使っている場合もあれば、第二の意味で使っている場合もある。第三の意味での干渉されない自由については「干渉する自由」をゆるしてくれということになるから、干渉されない自由を求めているといえないという、マッカラムがそれは自由とはいえないといったのと同じような厳密な意味で、干渉されない自由を求めているといえないと表現するのが正しいであろう。

 

 

P1001

 

干渉とは何か・干渉はどのような種類に分類できるか。

 

 干渉とは他人の自由に干渉するという意味を主に持っていると考えられる。他人の自由に干渉するということは他人の自由の妨害や障害となるということである。

 干渉の分類は妨害や、障害の種類とオーバラップした質の分類となる。商業や経済的契約の自由にたいする干渉、趣味や好みの選択にたいする干渉、学問にたいする干渉、思想の表現にたいする干渉、信教にたいする干渉など憲法に列挙されている自由にたいする干渉など様々である。

 

 

P1002

 

「干渉する自由」と、「干渉しない自由」

 

 干渉する自由は存在するが、しかし、それによって干渉された人は自由がなくなる。他人に干渉しないうえに、他人に干渉されない自由は、妨害を排除するから自由を増大させるのである。他人に干渉しない自由は、〜〜をしない自由である。他の人々に干渉せず、各人が自由に活動ができるのを許すのが、「干渉しない自由」である。干渉しない自由をすべての人が選択すれば、すべての人はバーリンのいう干渉されない消極的自由を得ることができる。それは干渉する積極的自由を捨てたという状態である。この観念は対になっており、干渉されない消極的自由が得られるのは、干渉する人の積極的自由の人が、干渉しなくなることによるのである。自由放任に他人をしておく自由と、他の人々を自由にしておかないで干渉する自由との差異は他の人々にしっとをしていないということである。

 

 

P1003

 

干渉の種類

 

・人間

  国家

  法

  両親

  兄弟

  他人

  集団

・物

  自然的制約

P1004 

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干渉はすべてが悪いとはいえない。独裁的干渉や、権威主義的干渉はよくないかもしれない。温情的、養育的干渉はよいといえるのかもしれない。後者の場合には消極的自由をおかしているとはいえないと思われる。一方ある人の考える干渉がそのどちらに該当したのかについて特定することは難しいといわねばならないので、バーリンのいうように一般的に干渉されない自由を求めることは妥当なことであろう。カントの考えていた温情的干渉にたいする拒否は何を意図していたのか、あるいは、ミルの考える干渉の排除は何を意味していたのか、そしてその場合の干渉がそのどちらに該当するのかを特定してそれを論ずることは有意義ではあっても困難な作業であると考えられる。ミルのいっていることもある意味では温情的干渉主義にたいする拒否である。これは天才教育を受けたミルが、感じた父親 

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P1005 

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の干渉にたいする拒否であったのかもしれないし、■■からの自由、■■からの独立、■■からの自立のようなものから、心理学的には発生したものであったのではないかと私は思う。 

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P1006 

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干渉する主体 

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自由の主体のほかに干渉する主体も問題となる。 

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誰が嬉 ア渉するのか。それは政府がそうする場合もあるし、他の人がそうする場合もある。しかしそれが強

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制と受け取られるのは専制や独裁や全体主義の場合だけであろうか。強制と受け取られないのは自分の意向と政府の意向(選好)とが一致した場合なのであろうか。経済や、性衝動が干渉しているということが可能であろうか。 

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ある行動をする自由が与えられているからある行動を自由にする(することができる)。この二つの自由は相違する。前者は自由な状態であり、後者は自由な活動である。自由な状態とは自分以外のもの、政府であれ、経済であれ、性衝動であれ、何であれ干渉していないことであり、社会的な干渉は他の人(人々)の干渉であり、物理的な因果関係を発生させる経済とかは干渉とはいえない。 

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P1007 

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干渉する主体は、妨害や障害となる主体である。妨害する人、干渉する人は貧しい人々が、富裕な人々を干渉する場合には妨害し、干渉する貧しい人々である。ところが、富裕な人々が貧しい人々の障害となっていると考える人々がいるとすれば、その場合は逆に富裕な人が貧しい人々が活動する障害となっていることになる。 

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他の人がある人の自由を制限する理由は平等であったり、自由であったり、公共の健康であったり、正義であったりする。干渉する主体が干渉する理由、バーリンはこの理由を目的とよんでいるが、この理由を明日に示すか示さないかは大きく干渉される側に強迫や、強制のあるかないかに影響を与える。納得できる理由があればそれに従うのは当然である。 

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P1008 

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善い干渉と悪い干渉はあるか 

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男女不平等の社会のなかで、兄の弟や妹にたいする干渉は権威を■的や、全体主義的傾向に陥りやすいのであるが、妹の弟や妹にたいする干渉は温情的、養育的干渉になるのである。前者は悪いとか、後者はよいという評価を与えられやすい。それは後者が男女不平等による男の自然的優位を前提としていないからかもしれない。 

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不平等とかを前提とした干渉は悪い干渉であると一般化できるであろうか。悪い干渉は自然ではない。自然ではない差別を強制することは悪い干渉といえるであろう。共産主義における、あるいは、全体主義における干渉が悪い干渉であった理由。これが明日になればバーリンのいっている積極的自由が悪かった点の大部分が解明でき、そのような主義がなくなっても行なわれているようないわゆる■■■派の自由にたいする干渉が悪いという理由も明 

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P1009 

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きらかになると考えられる。 

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P1010 

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養育的干渉はよい干渉であるか 

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「自ら危険なことをしたり、破壊したりする」のをとめるのは、養育的態度である。河におちるのをとめるのは自由の制限とはならないか。ラズウェルが破壊的活動をとめようとしたのは干渉になるであろうか。あるいは強制となるであろうか。破壊的活動がどのような理由によって発生するのかは別としても、その破壊的衝動をどのようにしてとめるのかは大切な政治学の課題である。それをよい干渉の理由付けと名付けることができる。干渉はドゥウォーキンのいう平等な配慮と尊重によって行なわれる場合もあれば、ラズウェルのいう破壊的衝動の防止という形で行なわれる場合もあれば、河におちるのをとめるような自由の危険性を防止するために干渉がなされる場合もあるし、その他様々な場合が考えられよう。平等な配慮と尊重という概念はこのように自由を制限するための理由付けのうちでも、平等という量的な概念に頼って 

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P1011 

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いるために、事実把握と、平等という規範論の両者によっているために、客観的で科学的なものだといいうるのである。エクィティーlguity衝平法の概念がイギリスにおいて一般法(コモン・ロー)にたいして、その欠陥を道徳律(規範)に従って補正した法律であるというのはこのような理由によると考えられる。それでは一般法のほうは、自由の概念により近いということになるだろうか。 

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P1012 

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父権的温情的干渉は許される場合はないのか 

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父権的温情主義が完全に悪であると考える思想は、完全に否定されるであろうか。自由を強制することは、絶対王制のもとでの人々の障害となっている自由を取り除いてやることについては是認されうるのではなかろうか。ところが人々が自分の力でそれらの障害を取り除く力があるのに、温情主義的干渉によって、社会制度を混乱に陥れてまでも、取り除こうとすることは悪であるかもしれない。人々の干渉されない自由の権利を残したままで外部からそれらの障害や、妨害を取り除いてやろうとする自由主義的政治活動は、パターナリズム、温情的父権主義であっても、善なのではなかろうか。そうでなければ、兄が弟の世話をすることでさえ悪いこととなってしまうことがありうる。できるだけ干渉されたくないといってもその限度はあり

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うるとい 

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P1013 

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う点ではバーリンの主張は正しいことである。バーリンがその範囲を積極的自由の内容を先に定め、例えば、平等な配慮と尊敬とかの内容を先に定め、その残った部分を干渉されない自由の存在する部分であるとするのか、逆に干渉されない消極的自由を先に決めて、その残りは積極的自由に干渉されても仕方ないと考えているのかは不明である。その範囲は移動するので、境界線も時代に伴って移動すると考えている。それが自然法や自然権や社会契約によって決まるのであれば、自由論は次には自然法やらに進まなければその境界線を決定できないことになる。 

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兄が弟に善意で干渉するような父権的温情的干渉主義は母が子にたいする干渉するのと同じような理由で許される場合がある可能性があるし、自由の国であると自負していたアメリカが日本に自由な憲法を押しつける干渉をするようなやり方での干渉は許されることがありうる場合もあると考えられる。 

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P1014 

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父権と母権 

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父権社会に反駿するロックにたいして、母権社会にたいして反発する論はないのだろうか。自然的に年上の者が絶対権力を得るのに反対する論は多くあるであろうが、父権的干渉は悪いが母権的温情的干渉はよいとする理論は多い。 

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P1015 

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絶対的理性の強制 

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バーリンの積極的自由により、死にたくもない他人に「死んだほうがよい。」、「死ぬのがよりよい」と、その人が必死に抵抗しているのに強制しはじめる。「今君は死んだ方がよいというのが、世の中のすべての理性から考えると当然の絶対的な歴史の理性だ。」「死ぬのが当然だ」という理性を、その人が絶対に死にたくないといっていても押しつけるようになる。 

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これと同じことは経済決定論を強制したり、フロイトが性衝動論をすべての人々に強制したりする時にもおこる。 

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P1016 

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自由と強制 

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自由を妨害するものは数えなければきりがない。法や、規範、経済、運命や、因果律などである。しかしその主なものはすべて因果関係によって説明できる。人を殺してはならない、人を殺した場合は無期懲役または死刑という規定は、人間にはまず規範があり、その規範に違反した場合には社会的強制による自由の制限があることを示している。規範に違反したという事実を規範に適用し、強制という結果を生み出す論理は一般には三段論法とよばれている。道路用地をたちのかない最後の一人は強制して、用地収容されるべきであるか。その場合の強制も規範によっているのであろうか。権利として立ち退かない自由があるのか、強制収容によって立ち退かねばならないという結果が規範によって生み出されるので 

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P1017 

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あろうか。公共用地の収用にあたって私権は制限されねばならないという時の規範と、人を殺してはならないという規範の差は公法と刑法との差であろうか。 

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精神としての全体主義のあり方を解明しようとしたハンナ・アーレントは全体主義国家における強制収容所の意味について考察した。「強制することは人から自由を奪うことである」というバーリンのことばは、自由と強制との関係を表現している。自由が強制によって奪われるとすれば誰によって強制され、誰によって自由は奪われるのであろうか。逆に自由が回復されるとすれば、何から自由になるのであろうか。強制や規範や全体主義の強制やらから自由になるのであろうか。規範や因襲から、魔術から自由になったり、日本でいえば旧家族制度の古いしきたりから自由になったりするのであろうか。全体主義や旧家族制度や管理社会や、管理する力の強い社会はその成員を強制しているのであろうか 

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P1018 

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。その強制は正常な強制や、異常な強制があるとすれば、消極的自由と積極的自由とは対照的であろうか。正常や異常、健康と病気との関係は社会科学的に明白になるのだろうか。自然な強制と、強圧的な強制とはどのように違うのであろうか。 

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自由な人を強制して地獄の状態へつれていくことと、自由な人を強制せずに自らの意思で自然に地獄の状態へといくように環境をととのえることとのあいだにはどのような違いがあるのだろうか。 

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P1019 

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ペシミズムの強制 

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ペシミズムをペシミストが、オプティミストに強制して、不安がらせることがある。不安とは現実の「自由の危険性」の確率以上に危険を感知することをいう。ある人がメリーゴーランドや、回覧車に遊園地でのっているときに、ペシミストにそんな高い所にいくと落ちるかもしれないといわれてしまうと、その確率を考えることなしにそれを信じてしまえば、その人は実際の確率以上に不安になって、回歴落ヤの上で不安にな

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ってしまう。ペシミズムの強制とはこのような現象をよぶ。 

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P1020 

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強制や、強迫がないこと 

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自由とは政治学的にいえば、ある行為をするにあたって選択の自由が存在することである。すなわち、選択の自由を妨害する強迫や強制が存在せず、その人の好みに応じて自由に選択ができることである。強迫のもとになされた選択は自由になされた選択ではない。民法の場合は取り消すことができる。 

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逆に河におちようとするをとめるのは、自由を妨害することにはならない。これは河におちようとする人が生の本能が自然に備わっているのであるから、いないだろうという考えが正当であるならば、このようなケースは存在しないだろうと考えられる。生の本能は非合理なことをもなさせないかどうかについては疑問がある。歴史の合理性とよぶものが、マルクスのいうように合理的なものだとすれば、人々がそれに従わないのにマルクスからいわせれば非合理性ということ 

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P1021 

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になるかもしれないが、その歴史の必然性の観念こそ誤っていた合理性であったということになるかもしれない。「真の」自由は真の絶対精神であったのだろうが、それが誤っていた可能性がある。 

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また社会的に将来出世するために勉強しなさいというかわりに、勉強しないのを、相手に温情的に干渉することにより、干渉し遊ばないで勉強しなさいと強迫する(強制する)ことは自由を奪うことになるのであろうか。バーリンは温情的干渉主義であっても干渉にあたると主張する。しかしバーリンが本当にいいたいのは全体主義やファシズムやプロレタリア的強制が干渉することを積極的すぎるといいたいのであり、このような場合についてバーリンがどのように述べるかは不明である。一般的には子供にたいして勉強を強制する場合の理由づけや、兄弟姉妹における兄や姉の弟妹に対する干渉まで禁止するのには、干渉されない自由以上の理由付けが必要では 

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P1022 

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あろう。しかしバーリンのいうようにある範囲の干渉されない部分は必要であると思われる。 

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強制と自由意思 

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ある人が自分の意思によって行動するのと、他人の意思を強制されて行動するのとは全く別のことである。それは自由意思の問題ではなく強制の問題である。他人の意思は自由意思であるかもしれないのに、私はその自由意思に強制されている。私の自由という私という主体の側からみれば自由ではないが、他の人は自由である。ある環境にたいして他の人は自由であるが、私は自由ではないことになる。他の人と私は別の主体であり、別の分離した主体である。もし他の人と私が別の分離した存在でなければ、他の人も私も自由でありうるが、別の存在である。他の人に私は従属しているのであり、他の人に強制されているのである。別の主体に強制するのを、強制ではないというためには両方共に同じ原因と結果によっているのだという絶対理性が存在するということを信じなくてはならないことになる。 

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P1024 

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自由を妨害するものは、他人の強迫や強制や干渉であったり、自分の能力や、自分の持つ空間や資源が欠けていることであったり、事故や故意によって腕が折られていたものが書けない時には腕を折られたことであったり様々である。他人からの強迫や強制や干渉に目を向けそれのみが政治的自由および経済的・社会的自由の研究対象であると考えることは正しいことであろうか。潜在的自由や、心理学的・社会心理学的自由があるとして他人からの干渉以外の場合における自由をも考察しようとしたのは、フロ・->->->->->->->->->->->->->->->->->-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->ベイであった。ベイは特にハリー・スタック・サリバンの人間関係論をとりいれ、人間関係がある人に心理的影響を与え、精神的及び心理的に安全ではない、自由ではないと考える心理的傾向が発生する可能性があると考えた。この考えは 

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P1025 

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人間関係を考察しているという点においては社会的である。社会的ではあるが、人間の性格の傾向に内在されてしまっている自由の傾向について考察しているのであって、それを心理学的自由や潜在的自由となづけたものであると考えられる。だとすれば、それこそ性格の傾向と同じように、人々の行動、自由な行動の源泉となるものであって、各人の自由にたいする感覚の違いや、各人の自由論の相違はここに由来しているともいいうるのであり、それが社会的自由として顕在化したときに生じてくる様々な社会的問題を解こうとするのが社会的自由の問題であると考えることができる。ミルの「大胆で、独創的で、空想力に富み、独立自尊、偏屈なまでに適合・従順を排する」性格を自由論の骨格として求める考え方はその性格に由来している。また国家と自由との問題を主に考え、干渉されない消極的自由を尊重するバーリンは自を轤フ心理学的自由

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の傾向とナチズムやフ 

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P1026 

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ァシズムと、スターリニズムの社会的自由との関係で干渉されない消極的自由論が生まれてきたものであると考えられるし、ドゥウォーキンの平等な配慮と尊重の理論もドゥウォーキンの潜在的自由や心理学的自由と、現代アメリカの人種問題などの社会的自由との関連のなかで生まれてきたものであると考えられる。ロールズの平等な自由の理論にしても同様である。 

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しかし依存というようなものを、価値としてではなく事実論として分析することは潜在的自由論や心理学的自由論をのりこえることができるようになる一つの契機となると考えることができる。もしそのようなことができなければ社会的自由論は潜在的自由論や心理学的自由論のしたじきになって押しつぶされてしまうことになる。自由論が誰かのことばを借りれば、イデオロギーのとりことなってしまうのである。自由論はイデオロギーのとりこになってしまえば全く価値のな 

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P1027 

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いものなのであろうか。 

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価値論から離れた自由論が東西冷戦後の現在では求められているのではなかろうか。そのためには潜在的自由論や、心理学的自由論をもじゅうぶんに考察してみる必要はある。しかしそれと同時に、フリードマン夫妻が考えていたような社会的な恐慌が個々人の自由を越えて、あたかも運命のようにおそってきた場合の社会的自由や平等はどのようにあるべきなのかも考察される必要がある。これはまたハロルド・ラズウェルが攻撃性の原因として世界大恐慌のようなものを考察したのと相通ずる考察手法である。また経済成長期に戦争がおこるのか、経済恐慌期に戦争はおこるのかというようなことも考察する必要がでてくることになる。 

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P1028 

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自由を制限する理由付け 

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自由論の構造として自由を制限する理由が述べられていることが多い。自らが他の人の自由を制限する理由が述べられているか、自らが自らの自由を制限する理由が述べられていることがある。判決の大部分はこれから成る。ドゥウォーキンの平等論は、自らが課した平等という理念のために自らの自由を制限していると同時に、他の人にも平等という制限を設けて他の人にも自由を制限することを要求しているといえる。カントの道徳論もほぼこれに近いものと考えることができる。グリーンの人格の成長の理論もそれと同じような構造をとっている。バーリンが積極的自由とよんだもののうち自己否定や自己実現とよばれるものの考え方(人格の成長とよく似た表現と思われる。人格が成長し、自己が実現されるという考え方と解釈すれば。)は、ある意味ではこのこ 

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P1029 

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と等しいことになる。これを他人を思いやる心と表現すれば何ら積極的自由とは関連性がないように思われる。ところがバーリンによればその考え方を政府として国民に強制するようになれば、それに服従しない者は干渉されない自由をおかされることになりかねないと哲学的に論ずることができるというのである。干渉が善意であっても、悪意であっても同様に否定するのがバーリンである。悪意である場合のみを問題にする考え方もあろう。 

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P1030 

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干渉されるべきではないことのミルの理由づけ 

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ミルの挙げる政府の干渉を制限すべきである理由の第一、個人がなした方がよい、第二、政府がなした方がよいが個人の精神的な教育のために個人が行なう方がよい、第三に、政府の権力が必要以上に増大するのを防ぐの三つのミルの理由については、現在の依存からの脱却という観念から分析する必要がある。 

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P1031 

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干渉するなという法的判断は、裁判所や、立法や、行政はどのような理由付けによってなすことができるかプライバシーの権利が干渉するなという権利であるということはないと考えるが、その他の干渉するなという法的判断はどのような理由付けによってなすことができるのか。表現の自由をおかしている団体にたいして裁判所が、あるいは、表現の自由をおかしている行政にたいして司法部はどのような法的理由付けで妨害を排除してくれとする請求を認容できるであろうか。 

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P1031 

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給付判決のように司法が、給付する立法の場合のように立法部と行政府が、ある人にたいして強制的に執行をさせる場合が存在する。法の強制性について自由論は何らかの答を用意して、その強制を禁止しようとするのではなくて、ある限度内については干渉したりする権利が行政にも、立法にも、司法にも存在しないといっているのである。プライバシーの権利を、もし犯罪を隠すため、あるいは、依存させたり奴隷にさせることをするために主張すること、自由でない状態を維持するために主張することは許されないであろう。しかし奴隷になを黷ニいう強制については、ひょっとしたら自由論も、法もある理由をみつけて法的に、政

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治的にその強制をするな、ある人に干渉し、妨害するなという命令を下すことができるかもしれない。クー・クラックス・クランにたいして、例えば、黒人を差 

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P1033 

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別するなという命令を下せる法哲学上の正しい理由付けをみいだせるかもしれないのである。 

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P1034 

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他人に干渉する積極的で自由な活動と自己完成する消極的な自由 

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〜する自由(freedom to 〜)が一般的に積極的自由とよばれるのではあるが、フロムにおいては自己完成のためにそれが使われ、内部志向型であるのにたいして、バーリンにおいては他人に積極的に干渉するという他人志向型となる。どちらも〜する自由にかわりはないが、何をする自由であるかによって、二人は全く別の意味をもたせたのである。「何を」というのはつまり自由な活動の目的のことである。目的語という文法上のよび名のものである。人生の目的は多種多様ではある、しかし、他の人にそれを強制し、押しつけ妨害するのは人間の本質上許されないとバーリンは考えたのである。フロムのいう積極的自由は自己を積極的に完成しようとする自由である。 

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P1035 

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干渉と妨害の関係 

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ある人が他人に干渉して、「そんなものは食べるな」といって、ある選択された食事を妨害しているとした場合、干渉している主体は他人の妨害となっているのではなく、干渉しているその人の「食べるな」という命令が他の人を干渉し、妨害することになっている。干渉は全人的な妨害や、一般的・全体的に妨害することであり、妨害はある自由な活動を個別的に妨害することである。障害物や妨害物はある物であって自由な活動の障害や、妨害となっているものである。障害になったり、妨害したりする人の場合は干渉であ-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->、例えばある橋を渡るのにそのまんなかに石がある場合、その石は橋を渡る障害物であり、妨害物である。お金がないことがある買い物をするのに妨害物となっているという表現は、日本語の場合には、障害物となっているという表現よりも多くは使用されない。 

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P1036 

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死刑制度をもつ社会は存在しうるのか。 

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死刑制度をもつ社会は動物の社会のなかにはないのに、人間の社会においてはそのような制度がある社会も存在するのはどのような理由によるのであろうか。それも軍隊や暴力を使ってそのようなことが行なわれるのはどのような理由によるのであろうか。つまりはまた人間が人間を「殺す」こともあり、「殺すな」という規範や、「他人を殺せば死刑や無期懲役」という規範と罰則というものをもつ人間はどのようにして自由に社会を作っているのであろうか。あるいはスケープゴートを作る人間とはどのような人間なのであろうか。そこに自由な思考による合理化というものが存在するのであろうか。 

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P1037 

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強迫や、妨害による意思の撤回 

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選択の自由が強迫や、妨害によって妨害された場合にはある人間の自由な意思が妨害されたのであるから、悔いが残り、あとから取り消したくなったり、あとから後悔したりすることになる。これを法的に解決する場合には法が取消を許すことになる。政治的には変革がおこることになる。 

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P1038 

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バーリンの二つの自由概念について 

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バーリンは、マルクスとマルクス主義の政治を一人の人間として干渉されない消極的自由というものによって批判した。それは一つの正しい批判であった。干渉されない、自由の権利というものにたいして、ドイツの哲学者ヘッフェがノージックについても理解を示す傾向さえ有しはじめていることをみれば、このバーリンの干渉されない消極的自由という概念がいかに影響力をもっているかということを理解できる。東西冷戦後のドイツの政治(哲学)の新しい傾向はこのような干渉されない消極的自由にたいしてどのような方向性を示すのか興味がもたれるところである。 

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P1039 

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ノージックの最小国家の概念は今後追求されるべきであると考えられる。ヘッフェは次のように解釈している。 

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「ノージックは最小国家という形態の国家を正当化しているが、このなかに社会契約概念の三要素のすべてがはいっていることを確認してみよう。 

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社会契約の概念の第一の要素は「すべての人が自由に同意していること」であるが、この要素は、「すべての人にとって利益になっている」というノージックによる正当化の規準則に該当する。 

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社会契約の概念の第二の要素である「権利と義務の相互委譲」の要素についてはロールズの正義論と同様に十分には明らかになっていないとはいうものの、ノージックの正義原理の対象となっている「自由論」の権利概念のなかに見いだをキことができる。 

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そして最後に社会契約の概念の第三の要素は、国家という公的な強制権力を理論づけることである。ノージックは自由権を法的に 

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P1040 

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効力を持たせるように実現させ徹底させることができるかということを明確に問題意識として持っていて、そのために国家という公的な強制的権力を基礎的に理論づけようとしたのである。」(§四七三頁) 

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自由の権利、つまり、国家が干渉してはならないということは、まだ、法的に裁判所で完全に認められた権利ではなく、多くの理論によって簡単に他の価値におきかえられているのにたいして、ノージックはそれを法的にすることに力を注いだのであるといえる。 

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P1041 

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二つの自由 

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二つの自由について論ずるにしても、そのことばとしての最初の意味と、バーリンの二つの自由と、フロムの二つの自由は、すべて重なった意味ではあっても、それが異なった環境のなかでことばとして使われているために、その二つを対照し、特色を洗いなおすことは非常に自由論の将来にとっては意義のあることだと考えることができる。 

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P1042 

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バーリンの考える自由な社会 

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バーリンが考えている自由な社会は、ある人や、ある集団が、他の人や、他の集団や、統治者からできるだけ干渉されることの少ない社会であるということになる。 

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P1043 

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自由な状態 

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自由の妨害の排除は、一時的には自由な状態を荒起し、次に自由な活動を行うことになると考えられるので、バーリンの自由な状態論も正しいし、フロムの自由な積極的活動論も正しいことになる。自由な状態とは形式的自由のある状態のことである。自由な状態においては自由な活動をしても、しなくてもよい。『自由からの逃走』において論じられたのは「しなくてもよい」という選択をした人々が、権威に自由の処分をまかせたことを研究したのである。マゾヒズムにしろ、サディズムにしろそのような研究である。「しなくてもよい」ほうを選んだ人のうち、バーリンのいう積極的自由を行う人々がでてきて、他の人々に干渉して、他の人々の自由を奪おうという人がでてきて、そのような人々が過半数を占めてしまって、寛容的ではない法をを作ってしまったり、寛容的ではない思想を 

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P1044 

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流布させることによって、人々の自由を奪い、形式的自由さえなくしてしまわせるかもしれない。これを「自由からの逃走」と名づけたフロムは、そのようなことをおこさないパーソナリティーとして全体的に統合化されたパーソナリティーの概念をサディズムや、マゾヒズムの概念の対抗概念として提出したのである。私のことばでいえば、マゾヒズムとは、一般的なことばでいえば依存的な性格のことであり、サディズムとは逆依存的な性格のパーソナリティーのことであり、その二つは一体となって依存状態を発生させることになる。ハイエクはその状態を隷従の状態とよんだのである。それは社会的な奴隷状態のはじまりのようなものである。 

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P1045 

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バーリンの二つの自由論と、その発展 

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バーリンの二つの自由論は東ドイツのシュタージェの世界や、東ドイツの密告社会の存在を一九五八年の段階で予言するような予言の書であったとともに、当時の東西冷戦時代の西側のイデオローグであるという側面ももっていた。しかし、現在東西冷戦が終了したのちに東西冷戦時の様々の人権侵害の事実が表面にでてくるにつれて、単なるイデオローグの枠を越えた「人間の本性」をとらえた政治家、政治学者であったのではないかという評価が可能となってきたのではないかと私は考える。もし単なるイデオローグであったのならば現在東西冷戦が終結したあとでは必要がなくなるということになるはずであるのに、現在でもバーリンのいう「二つの自由」の概念は人々の心を打ち、自由の政治的概念の中心をなすものであると考えられていると思わ 

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P1046 

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れる。 

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P1047 

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バーリンの自由論とミルの自由論 <-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->SPAN>

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バーリンのいう消極的自由論は内在的自由論に近いものであり、ミルの自由論は自由な活動論に近いものである。ミルは社会的な妨害をなくすことについて主に述べるが、バーリンはそれによって内在的自由を確保すべきことについて主に述べる。それは重点のおき方の違いである。従ってミルの自由論は社会状態のなかにある社会的、政治的自由について詳細に述べたものであるが、バーリンは自然的内在的自由について述べるがゆえに、自然法や社会契約の神聖さについて述べざるをえなくなるのである。 

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P1048 

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内在的自由とバーリンのいう消極的自由 

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内在的自由は法によって守られるべき自由と同じであるか。あるいは内在的自由はバー・潟唐フいう消極的

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自由と同じであるか。バーリンは消極的自由の範囲はソ連邦や独裁者の法のような実定法によって侵されることがあったとしても、道徳上の規則によって守られるべきであるという。この消極的自由の範囲は人間の本質的自由を守るものであるという。人間の本質的自由が内在的自由であるとするならば、消極的自由と内在的自由はほぼ同じものであることになる。 

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P1049 

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バーリンの干渉されない消極的自由論が、偉大な観念として、人間の本質的自由である内在的自由をあらゆる障害や、妨害から解放して、内在的自由を明白にしようという目的で主張されるならば、それは現実的で、リアルな本当の人間的自由論となる。 

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P1050 

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干渉されない自由は人間の本性か 

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個人としての人間は干渉されず、他人に拘束されていない状態が、人間の本性であり、社会的に自由な存在、自由な人々の集まりである社会的な存在としての人間も、干渉され他人に拘束されていない状態が人間の本質的な状態であるとするならば、そのことだけで人間にはバーリンのいう干渉されない消極的自由の必要性を証明することができると考えられるだろうか。依存的な人、強制の側にいる人でも、服従の側にいる人でも、その人が社会(国家)観を構成しようとすると、人間は権力に依存しているべきなのが本質で自由であるのは人間の本質ではないと考えるであろうから、その人は他人に拘束され、他人に干渉されない状態の存在する社会を構想することはできない。 

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社会は人間の本性そのものから成立しているから、最初の質問はイエスであろう。 

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P1051 

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バーリンの消極的自由をどのように解釈するのか。 

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干渉されない自由の範囲を決定し、かつ、干渉することのできる自由の範囲も決定しようと考えたバーリンは前者を消極的自由、後者を積極的自由と名付けて論じた。この二つの自由はまず前者が干渉されない私的自由の範囲を決定するのに役立ち、後者が干渉することのできる公的範囲を決定するのに役立つから重要なアイデアであるという高い評価が下せるというのではない。この区別は全体主義の精神構造をバーリンのいう「自我の分裂」の解明という形で明白にできるという点こそがこの理論の第一のメリットなのである。社会のなかには自由を拘束するものがたくさんあることは誰もが認めるところである。しかし社会のなかにおいて絶対理性や絶対的なものを主張し、それを強制し、他人に押しつけることは、自由にたいする大きな脅威であることを示そうとしたところにバーリンの自由 

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P1052 

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論の重点があり、バーリンの自由論の自由論のなかにおける位置付けがある。ミルの自由論がそこまでの理論付けを行なっていたとは考えることはできないし、ベイの自由論にしても同様である。これはバーリンが旧ソ連邦における彼のそうぐうした革命という事件の解明から生まれてきた特殊なものであるということはできず、現在の不寛容な人々の自由論の解明をも行なうことができる一般的で、普遍的な位置を有していると考えることができる。 

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干渉されえない消極的自由の範囲は干渉する積極的自由を主張する人からみれば、そのようなものは存在しないということになるし、干渉されえない消極的自由を主張する人からみれば、干渉できる積極的自由の範囲など存在しないことになる。この二つのせめぎあいは結局交渉によるとすれば、干渉されえない消極的自由を主張する人を自由を守ろうとし、干渉する積極的自由を主張する人は自由をおか 

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P1053 

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そうとしているにすぎないことになる。となればこれはマッカラムのいうとおりに、積極的自由は自由を侵害しようとしているのみなのであって、自由を求めているとはいえないことになる。ところが積極的自由主義者も積極的自由を行使しているということになると主張するであろう。こうなるとそこにはただ自由ということばの使い方の違いがあるのみである。 

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P1054 

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バーリンの自由論 

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自由の主体は一個人であることもあれば個人の集団である場合もある。自分自分の意志を自分で考え自分で行為し自分で選択をし、自分で責任をとること、それが自由の本質である。このためには他の人や他の集団から干渉されず放任されているべきである。他の人や他の集団が統制ないし干渉できる根拠や範囲を決定することが放任されているべき範囲を決定するためには必要である。前者を消極的自由とよび後者を積極的自由とバーリンはよんだ。消極的自由の範囲は人為的な境界線によって決定されたものではなく、歴史のなかで自然に長い間受容されてきた規則、自然法や社会契約やら様々な理論付けがどのようになされたとしても共通に存在しなければならない規則によって定立されをスものであり、誰も決して越えることを許されるべ

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きではない越界線のなかに存在する範囲である。どの 

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P1055 

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ような社会においてもその境界線のなかに存在する消極的自由の範囲は、厳然として存在せねばならない。この境界線を守ことは正常な個人という概念や、非人間的な行動や狂気の行動という概念のなかに含まれているべきである。バーリンにとって「個人が正常である」という表現のなかには消極的自由の範囲の境界線を簡単 にふみこえてはならないということが含まれているとしている。友人同志が密告しあったり、多数者ないし暴君が少数者を気にくわないという理由で虐殺したり、拷問にかけられたりするときには、この消極的自由に関する諸規則が破られているのだとバーリンはいう。この諸規則が法律には関係せず道徳的に正当化されるものであり、絶対的な防壁となるべきものである。この消極的自由は人間の本性に深く根差しているものであって、正常な人間という観念の本質である。バーリンはこの範囲内の個人的自由は不可侵である 

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P1056 

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と信じ。それは絶対的であると主張する。 

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P1057 

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バーリンの絶対理性論と自由 

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自分の主体性を絶対理性の法に従属させねばならないという考え方にバーリンは反対する。絶対理性に反対する権利があると主張する。この考え方はバーリンが処女作の『カール・マルクス』においてもあらわれてくる考え方である。バーリンは一九〇九年にラトビアの首都リガに生まれたが、一九一五年六才の時に家族とともにロシアに移住し、一九一七年にロシア革命にそう遇して一九二〇年彼が十一才の時にイギリスに移住した。この経験は彼にカール・マルクス研究の本を出版させるきっかけとなったものと考えられる。 P1058 

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バーリンは、ある人が、他の人の自由な活動の妨害となることを、「絶対理性」による-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->極的自由による妨害として、二つの自由の概念を明白にしようとした。そのような積極的自由の発生理由を主に絶対理性に求めたのである。そのような絶対的な理性を発見させるために、絶対理性を強制したり、経験的な自我にたいして絶対理性を強制したりすることが積極的自由であると考えた。禁欲主義による自己否定も絶対理性にいたる場合があると考えた。バーリンは統治する側が積極的自由を行使する場合を主に説明し、統治論・政治論として主にこの二つの自由の概念を展開したのである。 

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P1059 

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しっとする自由と、しっとされない、干渉されない自由。 

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バーリンのいう「二つの自我」をもった人達は、他人を干渉し、妨害する自我をもっているのである。干渉される側からすれば、干渉する人は「二つの自我が分裂した人」であるが、干渉する側からすれば、干渉される人は多くの所有をもった「わがままな」人であり、富裕すぎる人であり、私がしっとし、干渉するのは自由であるということになる。しかしこれは分裂した自我のさようであり、あまり正しいとはいえない。P1060 

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バーリンの積極的自由 

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バーリンのいう積極的自由の意義は「わたしは何をし、何であるのに自由であるか」("What amI free to do or be ?"ということ、つまり私の自由な活動にあるのではなくて、「誰によって統治されているか。」"By whom am I ruled ?"あるいは、「私が何であり、何をするべきか、するべきではないかを誰がいうことができるのか。」"Who is to say what I am not , to be or do ?"ということこそがバーリンのいう積極的自由の関心事なのである。これは私の自由な活動(積極的自由)なのではなくて、統治者の自由な活動(積極的自由)が問題となっているのである。そしてそれは私の積極的自由を他の人、あるいは、統治者が干渉する主体となることがどの範囲までできるのであるかについて問うているのであって、私の積極的自由はその干渉が少なければ少ない程大きくなるのである。すなわちそれは私の干渉 

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P1061 

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されない消極的自由が増大したことになるのだから、統治者が私のする自由である積極的自由に干渉するべき範囲及び、統治者が私の積極的自由を増大させるもととなる私に統治者が干渉しない消極的自由を増大させることを目指しているともいえるし、逆に、私に干渉する統治者の積極的自由を減少させるともいえるのである。 

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自由の三要素の分析でいえば、こえは私の自由を干渉し、妨害するものについて述べているのであり、それが統治者や、他の人であったり、他の集団であったりした場合の分析であるということができる。そして統治者があなたの「真の」自由のために干渉するのだといを「ながら、実は自由を全く認めていないというこ

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とをいっているのだと、マッカラムのように解釈すればこれは「真の」自由とさえいうことはできず、自由ということばは使い方がまちがっているということになる。「真の」というのは自由のための資源を増やして 

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P1062 

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やるよという意味にとる時にだけ、資源がふえることを自由が増えるといった時にのみ、それは自由を、「真の」自由を増大させているのだということの意味を理解できることになるのである。 

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こう考えると「真の」というのは「経済的な唯物論における資源の」というように解釈する時にのみ「真の」自由といえるのであって、あるいは、干渉する「積極的」自由という意味に解釈する時だけ、自由ということばを使いうるということになるが、しかし、干渉する自由を指していることになると、それはそのまま干渉されない消極的自由と対立していることになるのである。 

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P1063 

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バーリンの自我の分裂論 

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「より高い」自我は「真の」自由を達成するし、「より高い」自由を実現するのが「真の」自我である。これが積極的な自由をもった自我であることになる。「真の」自我は国家主義の場合には国家そのものとして考えられるようになる。国家は「真実の」主体とみなされるようになる。そうなることが個人の自由ないし独立であり、それは国家の自由ないし独立に合致することになる。現実に戻ればたとえば国家主義者も経験的な現実を持っているのであり、そこに自我の分裂が発生する。 

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P1064 

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煽動の心理‖自我の分裂 

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「労働者よ団結せよ。」という『共産党宣言』のなかにおけるマルクス・エンゲルスのことばは、煽動の最も端的なことばである。この心理を分裂するためにはバーリンのいう自我の分裂について深く研究する必要がある。絶対理性としての歴史法則としての唯物論がまず存在する。次に、自分が見方する者達をひとまとめにくくる。自分が見方する労働者という概念でそのすべての人々をひとまとめにくくり、そこには労働者の自由というものを設定し、それの一般意思を設定し、労働者一人一人には自由は認めず労働者全体の自由を求めることこそ「真の」自由なのだといいはる。そしてそれを絶対理性として絶対的に労働者すべてに強制し、主権をとったあかつきには、その絶対性を万国の労働者すべて、つまり人類すべてに及ぼすといいはるのである。そのような煽動家は道徳心や、規範意識 

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P1065 

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強く、すべてを共有にしようというくらいだから、私有意識が全くないのであろうか。そうではなくて世界を私有しようとしているのであって、自分が世界を持ち、世界全体を自由にし私有しようとしているのであろうか。 

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P1066 

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積極的自由と依存 

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依存的な関係においてはバーリンのいう積極的自由が最も多く行使される。それは依存の側からも逆依存の側からも。サルキングはその最も主なものである。 

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P1067 

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絶対理性の現実は依存か。 

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絶対理性論は、自らが依存できないことにたいして、依存させることは絶対的な使命であると強制しているだけなのかもしれない。依存させてくれないのは悪いことだといっているにすぎない。たしかに「その人にとって」依存させてくれず独立せよという人は、依存させてくれる人よりもずっと悪いひ人である。これは誰でも分かる心理である。しかし依存させてくれている人が、ある時依存させてくれなくなった時には、その人が独立していなかったことは、もっと悪い結果を生むことになる。 

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P1068 

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共産主義批判における依存性と絶対性の批判 

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共産主義を批判するのに、依存的な性格から生まれた一人の頭の中だけのことだったというのと、絶対理性の絶対性(自由のない、性質)を批判するのは同じことだろうか。 

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大量生産により作られた製品が、貧者が平等に近くなりその製品を買うことができるようになり、大量生産を行なう資本家をも富ませるであろうという経済循環の考え方がマルクスの共産主義にあっただろうか。このような経済循環は自由な意思によって成立しているのであって、絶対的な自由のないことによって成立しているのではない。経済的なものは経験的な、場所的な、絶対理性論者のいうつまらないものからなりたっていることが多い。 

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P1069 

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依存、より高い自我、絶対性 

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依存することと、「より高い」自我を考えることは深く関連しているという仮説をここに提示したい。依存するのは何に依存するのかといえば、「より高い」自我である国家の自我とか、階級の自我とか、「歴史の絶対理性」とかなどに〈依存〉していることになるのである。それは薬に依存するのも同じことである。依存的であることを可能にするの-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->、依存する人の方がより高い自我を持っているということによってのみ可

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能となるのである。その「より高い」という概念は主権の概念に似ており、絶対性を主権に認めるならば絶対王権の考え方に似ていることになる。相対的な部分が主権に認められるならば、主権は現実で、経験的となり、更には三権分立以上に多数の権力の分立状態が可能となることになる。 

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P1070 

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積極的自由は、害というよりも危険であるといえる。 

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積極的自由は、その積極的自由によって干渉する人に危険を与える。これがガキ大将とバーリンが同一視した理由であろう。ところが消極的自由には全く危険性がない。危険性があり、評判の強制ができないので、積極的自由の「二つの自我の分裂」をこわして治し一つの自我にすることで、積極的自由を行使する人には「危険」とうつるかもしれないが、その危険で「二つの自我」から一つの自我になることは正常になるためには必要なことであると思われる。 

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P1071 

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干渉されないことによってえられる内在的自由の見地からみたバーリンの消極的自由と、それに対立する干渉する自由 

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自由とは干渉されない自由のことであるから、干渉する自由である積極的自由は自由とよばなくてよいのではないかというのがバーリンの意見であった。このことを自由の定義として「ある人の、自由の妨害を排除して、自由な行動をすること」の三つの複合体が自由であるとすることによって、マッカラムはバーリンのいう積極的自由は自由でないことを説明しようとした。この両者はともに自由を干渉されない方にとらえ、干渉する意味での自由とはとらえなかったのである。それでは干渉する自由は何か。それは人間の内在的自由ではあり、リベラリズムのいう自由ではある。この二つの自由は片方があれば片方がなくなり、片方がなくなれば片方が増える。このことをバーリンは「強者の自由は、弱者の自由の死である」という比喩によって表現した。 

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P1072 

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自由を否定してナチズムに走った人々にこそ消極的(否定的)自由は必要だった。 

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「フロムのいう消極的自由、つまり、自由を否定した自由から逃走する自由」を否定するためにバーリンは干渉されない消極的自由が必要であると考えたことになる。バーリンは干渉されない消極的自由の範囲が定まればそのなかにおいては、必然的に、理の当然として自由が達成されうると考えた。これがバーリンの「自由の状態」論である。ところがそれは必然なことではなかったとフロムは考えた。自分の家や、干渉されない範囲を決められた人でも不安や、自由の危険性のために自由から逃走していくような性格の人がいることをフロムは心配したのである。そこにおいて積極的自由が必要と考えたのである。フロムのいう積極的自由が、バーリンのいう消極的自由の範囲内のみに限定されるのか、バーリンのいう積極的自由に向かうのか、バーリンのいう消極的自由を得るための政治活動に向かう 

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P1073 

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のかについては、パーソナリティーの問題だと考えたのである。 

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「権力とパーソナリティー」の関連について考察したハロルド・ラズウェルにたいして自由とパーソナリティーについて極めた政治学的にフロムは論じていることになる。メリアムが『体系的政治学』のなかで待望していたパーソナリティーと政治の科学化の問題がラズウェルの考察のあとフロムによって一歩進められたことになる。フロムの研究は社会心理学や、心理学の範囲に追いやられているが、しかしこのような意味では極めて政治学的であり、政治心理学や、政治学が研究すべき問題であると思われる。 

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P1074 

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バーリンのいう積極的自由は、他の人に干渉して、他の人を奈落につきおとそうとしているのか。 

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「ライオンは子供をつきとばして育てる」というような格言を、依存性の強い人が、自らが依存できないと思った人間を、積極的自由により干渉し、妨害するために、引用して使用する場合がありうる。依存的な人が他の人をつきとばしているのは、ただバーリンのいう積極的自由を行ない、他の人に害を与え、他の人にたいして悪意をもって「何もしてやりたくない」と干渉しているだけのことであって、「ライオンのような温かさ」もないのである。これをバーリンは「人間の管理を物の管理のようにする」といっていると私は思う。ライオンよりも劣っていることになる。 

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P1075 

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ある集団の地位の要求による干渉の利益と、他の集団に対する「害」 

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他人のことに干渉するのに、その他人の地位を向上させるためという各自のためにその人に干渉するが、ある人に利益を与え人以外の人々に害を与えるのは妥当か。これはマルクス主義のような場合が考えられる。P1076

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積極的に他人に干渉することは、ミルの禁止する「社会の害」になるか。 

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バーリンのいう積極的自由は、ミルのいう干渉されたくない人々にたいする「害」になっているのではなかろうか。それは社会にたいする害になっているのではなかろうか。たしかにそれが「害にならない」、「許す」とされている社会を暴力革命によって作り、そのような憲法を国民すべてに強制することを許可し、すべての人が干渉されない自由をなくした社会を作る、暴力的に作り、その暴力的権力で、そのことを強制するならば、それは強制は憲法で認められている自由であるから、自由となるかもしれない。しかしそれは他人に害を与える自由を憲法で認める社会であるとはいえないのだろうか。 

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私はそういえると思う。従って、形式的自由にたいして、実質的に干渉されたくないと思っている人にたいして干渉することは害を与えているといえる(表現できる)のではな 

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P1077 

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かろうか。 

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そう考えると、ドゥウォーキンのいう干渉されない消極的権利などないという考え方は、そのような意味でまちがっているのではないのか。黒人の人でも干渉されたくないと思っている人はたくさんいるのに、ドゥウォーキンの考え方は、依存的な人の思い上がり、いわゆるおとなしい人の、口数の少ない人の、絶対理性的な人の思い上がりではないのだろうか。この疑問がぬぐえない。ある人はそのような考えは不孫だというかもしれないが、そのような考えは人間のア・プリオリな本性をついているかもしれないのだということについて、ドゥウォーキン氏らは反論すべきであると考えるのである。ドゥウォーキン氏の『権利論』の第十二章は、バーリンにたいする反論であるから、バーリンの研究者はそれにたいしても研究し結論を出すのが学者としての使命ではなかろうか。両方の討論を聞いて、反対論についても結論を出すのが学者 

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P1078 

<!--[endif]>

の使命であろうからである。 

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「二つの自由」について学問的に述べようとするならば、それに真っ向から反対しているドゥウォーキン氏の「消極的自由」など存在しないという議論にたいしても、それが百%否定する発言であるからこそ、反対論の学問的、良心的、(裁判の現実上の)現実的反論であるからこそ、理想論にのみ陥らず現実論として干渉されない自由を論ずべきであるから現実的に性格に反論すべきであろう。 

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黒人や、虐げられた人の心の中にこそ、普通の人以上に干渉されたくない、消極的自由の主張が、貧乏にもかかわらず(富んでいればなおさら)存在するであろうことは現実的な感情である。より以上に富めばそれにこしたことはない、しかし、貧しくてもその感情があることは現実的に観察する人はだれも否定できないであろう。 

<!--[endif]>

P1079 

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同業者団体主義と、集団主義とは同じ地位の承認を要求しているのか。 

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中性のギルドや現代の同業者団体内部における自由の問題は、地位の承認ということばでバーリンが考察した問題といか程に関連しているだろうか。階級の概念による地位の承認の要求や、第三世界の国家が先進国家にたいして行なう地位の承認の要求という概念とはことなって、同業者団体や、現代政治学における圧力団体の地位の承認の要求はバーリンのいう抽象的な「階級とか、国民、皮膚の色、民族」などを一個の実在として認めてほしいというものではない。労働者という階級に自らを絶対的に従属させ自らの個人的自由を捨て去ったり、国家や民族という抽象的で絶対的なものに自らを従属させたりして、自らの個人的自由を捨て去ろうというものでもない。バーリンは同業者団体(利益団体といってもよい)と自己を同一化することと、階級や国家と自己を同一化して自由をなくすこととを、同一の 

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P1080 

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次元で述べているが、この二つは利益団体か、本能のような固定的なものにねざした自由のないものに根ざした共同体かとの違いくらいに相違するものであると考えられる。前者は自由を増大させるために使われることはあるが、後者は自由を減少させるかもしれない。なぜなら、自由のない固定的なものに自己を従属させることになるのであろうからである。 

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P1081 

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自由な活動のために、自由な人が自由を妨害するものを排除すること。 

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ある自由の妨害の排除は、ある自由な人が、自由な活動のために行うのであって、この三つは互いに関係をもっている。ただ単にある自由の妨害の排除のみが、その自己目的のために、干渉されない消極的自由のために、例えば、自分の家と、自分の境界線の範囲の確定のためだけに、目的とされることがあるとバーリンはいう。その家の中でどのような家庭を作るかは自由の境界線が確定されてから考えるという場合が存在するとバーリンはいう。たしかにバーリンのいうとおりではあるが、をオかし、自由の妨害を排除しようとする

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のは、生の本能の妨害を排除したりする場合とはちがって、自由(内在的自由とする説をとるかどうかは別としても)があると思うから、妨害を排除し、自由を確保しようとするのである。その家の中で生の本能を確保しようとするかもしれないが、それにたいす 

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P1082 

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る妨害は、ただ単なる妨害の排除であり、生の本能を確保することは目的としているのであって、自由のためではないから、自由論とは全く関係ないのである。今ここで問題となるのは自由の妨害の排除であり、その結果自由になると分かっているから、自由の妨害を排除するのであるから、やはり、バーリンのいう主張はそのような意味ではまちがっていることになる。自由の妨害の排除は内在的自由や、自由な活動を、自由な人間が行なうためにするのである。 

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P1083 

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内在的自由と、無知のベールと、無縁。 

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無知のベールの状態と内在的自由との関係については相当な関係がある。無知のベールの状態を大人どうしのカフェにおける状態と考えることと、子供同志が互いに名も出身も知らないで子供同志の遊びをはじめる時の状態を考えることとではどちらがより無知のベールの状態に近いのであろうか。大人の場合無縁の人が集まっているので、無知の無の意味と無縁の無とはどちらもあるものがない(無い)という点においては共通している。しかし赤ん坊に近い子供の場合程、それだけ内在的自由の状態に近い状態であり、何にでもなれる可能性が存在している状態である。ところが一方大人同志が無知(知らない)人間同志が集まっていても、すでに内在的可能性のうちの大部分はすでに決定されている。もしもそこから解放されて、あたかも「無礼講」の宴会におけるように自由に解放されている状態 

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P1084 

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にすぐになれればいいが、大人の固定され、決定された状態から解放された内在的自由の状態になることはある程度の努力が必要である。従って無縁状態にあるといっても少しはぎこちない。それにたいして赤ん坊に近い子供達程内在的自由に近い状態であるから、無知のベールをかぶった平等な自由の状態に近いといえるのである。 

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P1085 

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サロン、無縁、居酒屋・独立することと自由。自由な場と人と、制約され制限されている場と人。 

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土屋恵一郎『正義論・自由論||無縁社会日本における正義||』岩波書店、一九九六年において述べられている無縁の状態は自由とは全く関係がないのではなかろうかという見解がありうる。しかし一時的に無知のベールをかぶっているようにみえる場所がありうるかもしれない。無縁の状態を大人が演出していても内在的自由があらわれているのか、あらわれていないのかは容易には見破ることはできない。赤ん坊同志の集まりでは内在的自由はよくあらわれているといえるであろう。 

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P1086 

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バーリンはフロイトとマルクスをどのようにみたのか。 

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バーリンは一九六九年版の『自由論』の二五頁にオーウェルや、ハックスレイやその描いた全体主義の社会が、マルクスやフロイトの世界と同じであるという意味で、一九五八年の初版に"far removedfrom Morx or Freud"という語句をそう入している。マルクスやフロイトは心理的かっ藤を悪いものと考えたが、全体主義社会においては社会心理的かっ藤はないものと考えられたのである。悪いものであるからないものと考える考え方が生まれるのである。人生の目的が様々であれば社会心理的かっ藤は悪いものではない。従ってそれをなくそうとは考えずに個人的な自由の範囲無いで解決しようと考えるが、マルクスやフロイトにおいてはそれを全体的に、絶対的理性によってなくそうと考えたのである。 P1087 

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ヘーゲルの世界精神としての自由の歴史は、決定論か、自由意志論か。 

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自由、それも内在的自由が人間にあるという本質からすれば、自由は永遠普遍なものではあるが、自由意思論によるものであって、自由意思によって決定されるという考え方は決定論ではなく、人間の内在的自由によって決定されるといっているのである。 

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P1088 

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価値相対主義と自由の同一性 

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絶対理性による絶対的強制を積極的自由、相対的な理性による相対的強制を消極的自由とよぶとすれば、それはこれまで絶対価値論と価値相対主義とよばれてきたものを自由という観点からいいかえたものだということができることにある。ある強制が絶対理性似寄るものではなく、相対理性によるものならばその強制には自らが納得しないならば、それに従う必要がないことになる。 

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P1089 

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絶対理性の主張は、その論理の絶対性を主張するが、そのような絶対的価値は自由のある人間についてはあ

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りえないかもしれない。 

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P1090 

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自由の相対性と、自由な人間の把握 

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自由は相対的であり、絶対理性ではない。正しい人間の把握は自由のなかにある。しかし性本能や食本能は本能であり、絶対的である。そこから絶対理性論が生まれる。 

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P1091 -->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->SPAN lang=EN-US>

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自由を殺す原因はねたみなのであって、平等が殺したのではないといえるか。 

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自由を殺す最も大きな原因はねたみである。これがソ連や東ドイツにおいて密告社会を作ったし、平等のために自由を殺すことにつながった。資源を平等にすることがねたみによってではなく、合理的に行なわれるのであれば自由を殺すことはないであろう。 

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P1092 

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ホッブズにおける内在的自由 

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「自由とは、この言葉の正しい意味に従って理解するならば、外的な障害(exteranall Inpediments)が存在しないことであり、この障害はある人が意思したころをするその人の能力の一部分を喪失させるかもしれないが、それでも判断力と理性が命ずるとおりに行動するその人に残された力を行使することを妨害することができない。(deviathage,P.I Chapter, 14.)おそらくこの「その人に残された力」とは実定法や、悪法の陰に隠れた「自由権」についていっているのであろう。それは私のことばでいえば内在的自由ということができると思われる。彼の社会契約論はそのような意味で、内在的自由のような意味の自然の状態における自由をとり戻すために、君主主権に対抗して社会契約を行ない、社会契約の下における自由をとり戻そうというものであったと解釈できる。 

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P1093 

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ホッブズにおける自由 

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ホッブズは『リヴァイアサン』の第二一章「臣民の自由について」のなかで、「リバティーあるいはフリーダムとは、活動の外的な障害物という意味での対立する物、そのような対立する物が存在しないことを、もともと意味する」と冒頭で書いている。この定義によれば、囲いに囲い込まれている動物にも自由は存在しないということになるし、水が容器のなかに閉ざされて外に拡散できない場合には、水や動物にも自由という表現ができるということになるので、人間が自由であるとは、「自らの強さの力と知識力とによってすることが可能ないろいろなことについて、自分がする意志をもっていることをすることを、妨害されない」ことであると定義しなおしている。「自由意思」というものをホッブズが定義して、人間の自由のことであるとし、「あることを 

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P1094 

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する意志や、欲望や、意向をもっている人がそれをすることを妨害されないこと」であると述べている。 P1095 

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Hobbes, Thomas, Leniathan, (1651) 

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Cambrige Uninersity Press, 1991. 

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P1096 

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ホッブズにおける法と権利と自由 

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「自然法(A Law Of Nature,(Lex Naturalis,)」とは、……この問題について論ずる人たちは、よく「ユスJus」と、「レクスLex」〔ラテン語〕、「権利(Right)」と「法(Law)」混同して使用するが、区別して使用するべきである。権利はする自由であったり、そうしない自由であったりするのにたいして、法はそのどちらかに決定し、その決定に拘束するからである。したがって「法」と「権利」は「義務」と「自由」くらいに相違しており。同一のことがらにおいて両立することはない。」(Levia than, P.I. Chapter.14.) 

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P1097 

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自由の一要素としての資源・機会 

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第九章 自由の一構成要素として資源・機会・能力 

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P1098 

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資源は自由の一構成要素であることの証明 

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資源は自由の一構成要素であることを証明するためには、自由は資源なしでは行使しえないということを証明しさえすればよい。例えば資源は何もなくても、頭の中だけでできる自由もある。しかしそれをする人はどこかに住み、食べ、衣服を着なくてはならない。 

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P1099 

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機会の自由とその平等 

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機会は時間的なものである。暇は人々に機会を与えてくれるが、そのためには労働から解放される必要があるといわれているが、それが真実である程度が低くなってきた。機会は自由の一構成要素であるかもしれない。なぜなら機会や、時間がなければ自由な活動はできないからである。時間は早死にする人でなければすべての人に同じく与えられておりこの点は、肉体や、内在的自由と同じくらいに人間には平等である。しかし早死にしないように人間は生の本能によって健康に留意して生活するのである。 

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P1100 

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努力し、能力を増大させることを干渉されないバーリンのいう消極的自由と、ロールズ。 

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干渉されない消極的自由は自ら責任をもって行動する努力をする自由を干渉されないという自由でもある。ペシミズムにおかされないということだ。努力しようとする人、たとえ能力がないと社会的にいわれている人であっても、内在的自由があれば能力が潜在していないことはありえないから、そのような人々が努力をしようとすることを妨害したり、干渉したりするということこそがバーリンが拒絶しようとしたものであると考えられる。内在的自由を認めるということはすべての人が内在的には潜在した能力を持っているということ、その平等性を認めるということでもある。それはまた能力をもとうとする努力を認めることでもある。ロールズが機会の平等を尊重しようとしたことは、そのような努力の妨害は積極的自由でありすぎそれゆえに認められるべきではないというのがバーリンの意図すると 

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P1101 

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ころであったと考えることができる。機会の平等ということばはバーリンは一度しか使っていない。それは平等ということばが自由を殺すために使われたいまわしい過去があるために、そのことばを使いたくなかったのであると考えることができる。しかし努力し、能力を得ようとする機会の平等は自由を殺すどころか、自由を増大させるものである。それはロールズの正義の原理の意図するところでもあるのである。 

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P1102 

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人間の外的な対象物と、人間の自由。固定的な対象物と自由な対象物。 

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資源や、機会や、能力は自由を可能にし、自由を実質的自由にする自由の一構成要素なのであろうか、自由が働きかける自由の外的対象であるのだろうか。自由の外的対象であると考えるならば、自由とは一切関係ないものであるということになり、自由の対象物ということになる。自由は人間の内部に存在する自由に選択が可能な、自由意思そのもののことであるとすれば、自由は外的な資源や、外的な機会や、外的な技術(人間の考え出した技能や、技術を■■によって得た能力のことを一時的にこうよんだ)や技能にたいして自由は働きかけるということになるが、外的な資源や、機会や、技能は外的に自由の外にある「もの」なのであって、固定的なものである。もし外的な「もの」が固定的ではなく、自由なものであるならば、それは自由の一構成要素ということができる。自由な活動も 

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P1103 

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、自由の三要素のなかの自由な主体も、自由な主体に・->->->->->->->->->->->->->->->->->-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->妨害も選択的であり、自由なものである。もし妨害する「もの」が橋が壊れているような自然の「もの」である場合には我々はその「もの」は自由の三要素であるというであろうか。もし橋を作ったり、作らなかったりすることが人間の自由(意思)の選択の範囲内に属するものであるのならば橋を作ることが、橋がない場合よりも人間を自由にしたといえるかもしれないし、橋があることと、橋がないこととは自由を妨害していないことと、自由を妨害していることとに対応しているのかもしれない。妨害物となっているものが固定的であること、たとえば人間が百度の場所には住めないということは、それは固定的な人間の障害物なのであって、人間の自由になるものではないし、水の中にずっと住むことも、宇宙の五百度の環境のなかに住むこともできないのは固定的なことであって、そのような障害物は人間にとって自由論の対象 

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P1104 

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となるような障害物ではないということになる。ところが先の例でわかるように橋を作るか。作らないかは人間の自由になる範囲のことであるから、橋が自由の障害物であるかどうかは自由論の課題となる。 

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このように考えてくると、資源や機会や能力が自由に関わりをもち、三要素の一つとなりうるかどうかは、それらが固定的であるのか、自由なものであるのかということにかかっているのである。 

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次に自由な障害物が、外的な対象であるのか、自由の三要素のうちの一つになるのかということに話しを戻そう。橋の例をみてもわかるように、橋は物である。バーリンが「自分の進む道に障害物がないこと」が自由であるといい、ドゥウォーキンはそのような欲望の自由にたいする権利などは一般的には認められないというときの、その障害物が橋がないことであったり、また、人間が空を飛ぶことができない理由が飛行機を操縦する能力を教 

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P1105 

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育によってみにつけていないときに、その橋を作っていないことや、操縦能力がないことは自由の障害物となっているといえるのか、人間の外的対象であるのか。橋は人間の外的対象物であるし、橋を作る工学をみにつけようとする時の工学は外的な対象であるし、飛行機の操縦能力も工学としをト学ぼうとする時には人間

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の自由の外的対象である。しかしそれが人間が自由と飛べたり、橋をとおって隣の村に自由にいけたりする時の「命題(文章)」のなかの一要素となっているときには、それは自由の障害となっているか、なっていないかの自由の三要素のうちの一つとなるといいうる。 

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それは資源についても同じで、自由に選択が可能な資源(公共的な橋もそのうちの一つであるし、自分の勉強机もその一つであろう)については、自由の三要素のうちの一つということができるのであって、それが固定的(決定的)であると考えるならば、それは自 

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P1106 

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由の三要素のうちの一つと考えることはできない。 

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社会的な物「もの」についてはそれが自由の三要素のうちの一つかどうかについて判断することは非常に難しい。社会的な制度を固定的で決定的と考える唯物論の立場によればそれは人間にどうにもならないものであり、暴力革命によって変革しなければならないのであるから、自由の三要素のうちの一つにはならないが、社会制度は人間が自由に変化させうる自由な「もの」のうちの一つであり、固定的なもの、決定的なものではないと考えるならば、それは自由の三要素のうちの一つとして人々は自由にそれをかえうるということになる。国会によってか、人々のインフォーマルな話しあいによってかの違いはあっても。固定的で、決定的であると考えるのであれば、自由にかえることはできないのであるから暴力によってかえねばならないと考えて、議会や、話し合いを拒否する主義となる 

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P1107 

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のである。 

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このように考えると自由の障害物となる一要素である資源を平等にするという考え方は、自由の妨害物を自由に考えていることになり、リベラルな考え方といいうるのであろうという意見は、唯物論こそ資源を平等にしようということであるから自由に資源を考えているのだという意見につながりそうである。しかしこれはまちがいである。唯物論は制度の悪いのが、資源がなくて自由がない原因であるのだから自分ではどうしようもない、自分には自由はないが、全体社会を崩壊する自由が、同業者団体や国家にはあると考えるのである。自分には自由がないが、組合には自由があり、国家やらにはあるという考え方がどうしてリベラルな、自由な考え方であるといえようか。 

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P1108 

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利他性への強制が難しいとすれば、博愛主義への国を挙げての宣伝が必要になる。しかし、自由の一構成要件としての資源の考え方は自由のなかで博愛を考える。 

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博愛主義は、自由を守った後に、自由のために平等化を行ない、そして平等の次に博愛主義がくるのであろうか。自由・平等・博愛というフランス革命の標語はその順番で優先されるのであろうか。博愛について政治学的に論じた(論文)は少ない。 

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第二原理がロールズは博愛主義を■合していると考えているが、自由の一構成要件として資源をとらえるならば、そのような資源の平等化は人々を平和にし、そして人々の博愛の心が自由とともに増大すると考えることができ、博愛は自由の一部分と考えることもできるのである。この考え方は自由と平等の対立的な概念を調和させることができると同時に、自由のなかに博愛を含めることができるということになる。 

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P1109 

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自由の一構成要素が資源であり、資源の平等化は自由のなかでのみ行なわれるという考え方は、ロールズのように第一原理と第二原理に分け、その優先性の規則を作る必要がないという利点をもつ。また、それに付随して平等と博愛を自由のなかに含めて、自由のなかで考察しうるというメリットを有する。 

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P1110 

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資源の平等を情熱的に、ロマンティックではなく冷静に論じる方法。 

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「資源の平等という観念」についてドゥウォーキンの『法の帝国』の第八章コモン・ローにおいては、「資源の平等という観念のほうが自由主義的観念よりもすぐれている」という論証をすることを差し控えている。自由主義(リバータリアニズム)的な観念は、富の再分配を窃盗のようなものと考えているのではないかとしている。しかし私の「義賊の心理」の理論は、窃盗であるとされる自由主義(リバタリアニズム)ではない。内在的自由論によって、この両者を統合することを目指しているのであり、それをG・C・マッカラムのいう自由とは三つの要素の結合した統合的な概念であるという用具を使うことが妥当かもしれないという考え方を用いると同時に、資源の平等は自由の一構成要件であるという原理を用いて義労しようとするものである。 

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P1111 

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新しい自由の概念としての「一塊のパンを買う自由」 

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自由意思論は「人間の本質としての自由」の理論とはかけはなれており、どちらかというと運命會_や神的

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決定論や因果関係論に近い考え方を追求した結果生まれたものである。そこからは様々な刑法理論や政治理論などが生まれるが、そのような基礎理論を承認しないかぎりはそのような刑法理論や政治理論は受け入れることはできないこととなる。 

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バーリンはマルクスの唯物論をこのような決定論の一種とみなしていると考えられる。決定論の一種とみなしていると考えられる。自由に関してバーリンは自由ということばと、一塊のパンを手に入れられない自由ということばのなかにおける自由とは無関係であり、後者のことばの使い方は唯物論を理論的基礎とした場合にのみ使用することのできることばの特殊な使い方であると考えている。なぜなら、自分はそれを支払う金をじゅうぶんに 

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P1112 

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もっていないということと、じゅうぶんにもつことを妨げられているということとはちがうという。社会制度が悪いことが原因となって、じゅうぶんにもつことを妨げられているという結果を生じているのだという「特定の社会・経済理論」に依拠した場合のみこれが自由論において論じられることになると述べ、社会の法律についてのマルクス主義の考え方や、若干のキリスト教の教義や、功利主義学説や、あらゆる社会主義理論の大きな要素をなしていると述べている。 

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->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->これに対して一塊のパンを手に入れられないということを、唯物論のように社会制度の悪さとの因果関係のなかで考えるのではなくて、良い、悪いという価値判断をぬきにしてある事実(状態)としての一塊のパンを買う資源や、資金がないという事実を表現(記述)することは可能であり、そのような資源や資金を、価値判断がはいるが、できるだけ平等に配分しようという主張は唯物論のような価値 

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P1113 

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判断にではなく、〜しようという行動理論に依拠していると考えられ、三段論法でいえば平等という価値と、自由のそのようなことばの使い方と、結論としての〜しようという行動理論に依拠していることになる。平等という価値判断はマルクス主義などにおける悪い判断という考え方よりも、普遍的であり、一般理論ではあるが、平等化はマルクス主義よりも達成できるかもしれない(おそらく達成できるであろう)うえに、平等な資源や資金により活動する自由という概念を認めている'バーリンのいう消極的自由のような状態ではなく、活動としての自由をも含むのであるが)ので、社会のなかから人間の本性としての自由を殺したり、なくしたりしようという理論ではないのである。 

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P1114 

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自由意思の競合対立か、経済資源の分配の競合対立か 

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人々の自由意思が本当に競合しているのであろうか。競合しているのはゼロ・サムの経済・資源なのであって自由意思ではない。自由意思は競合を避けているのではなかろうか。わがまま同志の対立というときには、自由意思が対立しているのではなくて、物のとりあいが主な理由で対立しているのであれば、もし物が豊富にあれば対立しないのであるから、自由意思同志が対立しているのではなくて、自由を可能にする資源(の量)が対立しているのである。 

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P1115 

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肉体の平等性と、精神の自由の平等性と、誠心の本能の平等性 

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ドゥウォーキンにとっては平等が主な論点であり自由は主な論点ではないとは認めてはいても、自由と平等をつなぐものがない。従って自由について書く時に論理が誤ってしまうことに気付いている。もし平等は資源や機会についてだけいえるのであり、自由についてはいえないのだという論理が論理的にはっきりすればもっと論理学的にすっきりすると思われる。術語の使用上の問題が自由の問題にすりかわることもないと思われるし、ドゥウォーキン自身が術語の問題をいっているのではないかと自問自答している。自由な思考が人間の前頭葉にすべての人に存在し、それは合理性的であることを前提とすれば、そこからも肉体の平等性同様に人間の平等性が生まれるのである。肉体の平等性と精神の自由の平等性は 

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P1116 

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ともに人間の平等性の根源である。しかしこの二つのうちルソーの考えた肉体の平等性と・ロールズが平等な自由のなかで考えた精神の自由の平等性とは共に資源や機会の平等性と深く結びついている。肉体の平等性はまた肉体の一部としての精神のうちの本能の平等性とも密接に関連している。なぜなら一つの口が必要とするカロリーはほぼ同じであり、衣料や住居についてもそうであるからだ。 

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P1117 

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何を、何のために平等化するのか 

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資源が平等に配分されていても、我々は自由であるとはいえない。そこに自由の権利が認められていない場合である。何を平等にするのかを考えるのは人間の自由である。しかし平等にしたあとで、自由が存在しなくなっている場合には、何のために平等にしたのかは意味がなくなる。資源の自由処分性はたしかに所有

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権の権利の一部ではある。その権利をなくしてまで平等にすることは何のための平等かということになってしまう。 

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P1118 

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利益と自由 

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政治においては利益という概念はどのような位置を占めているのだろうか。この利益は共同社会内における利益と、利益社会内における利益のいずれを主に指しているのであろうか。共同体を主に共有財産の管理という側面からのみみると定義して政治によってそのような共有財産から得られる利益を多く自分のものにできるとするならば、政治は利益政治となりうる。また利益社会ということばをもっぱら私有財産の世界における利益という側面に焦点を当ててみるとするならば、そのような利益を多く得るために政治が役に立つとするならば政治は利益政治となりうるであろう。自由が環境と関係し、環境のうちのある因子として利益というものが関連しているとするならば、利益もまた自由と関連していることになる。政治制度と人間とを結びつけるものが利益で 

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P1119 

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あり、政治制度は人間の環境、それも社会的環境の主要な一部であるとするならば、その環境は人間の自由と関係していることになる。 

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この環境を二つに分類することは可能である。依存的な環境と独立的な人間を要求する環境とである。その環境は政治的、規範的なものに限定すれば依存的な制度・規範と、独立性を要求する制度や、規範とに分類することができるであろう。 

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P1120 

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自由はゼロ・サムであるということを「ある人の極度の自由は、他の人の自由を殺している」という命題があらわしていると考える人は、強者の干渉されない消極的自由は弱者への積極的自由であるという考え方につらなることになる。ある富裕な人が自由を多くもちすぎているという主張は他の貧乏な人の自由を圧迫しているのだということを意味していることになる。わがままということばのうちに秘められている含意はそのような意味である。 

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P1121 

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社会心理学的方法による消極的自由と積極的自由の調整 

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バーリンのいう消極的自由と、彼のいう積極的自由とを調和する方法はあるのだろうか。積極的自由を主張する者が自己否定をし、自己実現したりする社会心理学的理由を考えるべきである。その心理は義賊の心理とよく似たものである。逆にいえば義賊はその暗ゆであるといいうる。義賊の心理はまず自己否定のなかにとじこもることから発生する。しかしとじこもった人に何かをいっても何にもならない。そこにはすべてがあるとその人はいうが、そこには現実的なものは何もないかもしれない。人間は内在的にはすべての自由を有するが、現実的ではない偽装された世界にいる自由もある。そこから発せられることばはすべての非現実的なことばでありうる。洞くつにひきこもった暗い所にいる人は明るいところがみえないのに、そこからみえる景色はもっと 

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P1122 

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も高い自我であると主張する。温情的干渉は専制でありと批判する。従ってそとの明るい世界は専制であるゆえに、自らの高い自我を強制することは専制ではないということになる。その世界ではすべてが逆の意味となる。それは依存するためにはそうであらねばならぬのだ。私有は共有にならねばならぬのであり、共同所有が私的所有にかわる現実はそうであってはならぬことになる。「世間を無視し、人間や事物をつなぐ鎖から離脱した孤立的な思想家の信条である。」とバーリンは積極的自由との関連で、自己否定をとりあげる。フロムのいう積極的自由は自我や自己を形成するものであるが、バーリンのここでいっている自己否定は自我や自己を形成しないのである。 

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P1123 

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二つの積極的自由のうちのバーリンのそれは他人の自由に干渉しすぎているということを表わしているし、逆にフロムのそれは自らのうちの能力をかん養しているのであるから他人に干渉をしていないのであるということを示している。ここでは干渉ということについて一般的な意味で使用している。 

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それは私自身の問題であり、あなたが干渉すべき問題ではないという一般社会におけることばは確かに干渉や、不干渉という問題の根源をあらわしているように思われる。哲学的に深く分析するとすれば干渉は自由の問題と大きく関わっていると考えることができる。ある社会集団内において相互に非常に干渉しあっているような組織があったり、相互にあまり干渉しあわないような組織があった-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->するであろう。 

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P1124 

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他人に干渉する場合において、他人に自己の厳しい規範をおしつける場合には、干渉はすべて自由を規制していることになるであろうか。自らが他人に干渉をする場合、他人の行動やらを妨害し、他人の障害となる

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のならばその場合は他の自由を直接的な意味で妨害し障害となっているのであるが、他人に自己の厳しい規範をおしつける(強制したり、規範を強制したりする)ときには、直接的に他人の自由の妨害や障害になっているのではなく、そのような厳しい(厳しくないものはすでに他人が規範としてもっているとして)規範を他人に学んでもらったり、みにつけてもらったりするように教育したり、すいせんしたりしているのみなのであるから、自由を妨害していることにはならないというであろうが、そうであろうか。 

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P1125 

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積極的自由の本当の原因に関する仮説 

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自己否定や、自己決定と積極的自由とに因果関係があることを説明しようとしたバーリンのどう察は驚嘆するに余りあるものがあり、同じ共産主義批判でもカール・ポッパーの分析哲学的考察よりも迫力があり、実感のこもったものにみえるが、しかし、なぜそのような積極的自由が発生したのかに関する考察がない。なぜ自己否定がおこったのかについて、独裁のせいにするのはフランスの場合の静じゃく主義の説明がつかないことの一例からみても説明力に欠けている。一つの反証はその理論を破壊する可能性がある。 

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私の仮説では他の人を殺したり、他の人がいなくなったりすれば自分の経済的地位が高くなるという一点から、他の人々に積極的に介入する(干渉する)ようになるのだという仮説である。他の人とは自分よりわがままな人とその 

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積極的自由を行使する独裁者や、ガキ大将が思い込んでしまっている人のことである。 

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経験的真実の否定 

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バーリンが経験的真実というものにたいしてフロイトやマルクスが最も大切なものと考えた性衝動や、経済は、フロイトやマルクスは客観的、理性的で、科学的社会だというが、それはとんでもなく、主観的で、非理性的で、非科学的であると考えられるが、バーリンもそのように考えたものと私は考える。経済や、性衝動が社会のすべてを決めているなんて、経験的真実からすればおぞましく、誰でも背筋がぞっとする。それを知っていたマルクスは自らの共産主義を妖怪とよんだ。 

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平等な配慮と尊重をした上でのバーリンのいう干渉されない消極的自由は誰でも守られるべきだと思う。 他人との平等のことを考えて'尊重し、配慮して)バーリンのいう今では認められている消極的自由の範囲を決定することになるのである。他のひとのことを考えて仕事はなされるのではあるが、平等のことを考えてはビジネスはなされないで、自分のためになされる場合がある。法や政治はドゥウォーキンのいうとおりに他人に対する平等な配慮と尊重の法や政治の心に従ってとりおこなわれるかもしれない。バーリンのいう消極的自由の範囲のなかにおいてさえ平等な配慮や尊重の下においてある行為がなされていて、それでも自らの利益になる消極的自由が得られているかもしれない。あるビジネスが他人のためになるためには貧乏な人を平等に尊重し配慮したがために利益になるということはありうる。しかし自分のためにする行為、消極的自由の範囲内で行なわれる行為はすべての 

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他の人々のなかにおいて行なわれるのであるから、平等を尊重し配慮しているかもしれない。つまりは、ここに行政の民間への委託の論理が発生する余地があるし、環境権などのように消極的自由の範囲内で行なわれる行為が環境に悪い影響を与えているというような場合もありうる。 

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もし他人との平等を尊重し、配慮した上でバーリンのいう消極的自由が確保されるならばそのなかでの生活はすでに平等への配慮と尊重は必要ではないかもしれないし、その範囲のなかで寝ていようが、活動していなくても平等と尊重はなされていることになり、この意味ではバーリンのいう活動しない時の消極的自由には大きな意味が存在する、そのような消極的自由は認められるべきことになる。そのような自由をヒットラー時代の全体主義が各人各人の資産やらに対する干渉を、平等な配慮や尊敬以上に行なうことになるとすれば、それはバーリンの積極的自由の行使であるといわねばならない。 

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クラックス兄弟の例をバーリンがもち出すまでもなく、時に不平等が大きくなり、積極的自由が行使されねばならない時代があるかもしれない。その時でさえバーリンは消極的自由の範囲は正しく確定される理論が必要だという理論を提出したのである。 

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ある時点において、政治と法によって平等な配慮と尊敬がなされたあと、次に平等が考えられるまでの間は既に決まってしまった消極的自由の範囲内では完全な消極的自由は認められるべきである。 

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消極的自由に対する異議はいつでも認められうるべきか 

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もうすでに、自分で、あるいは、政治的・法律的に平等な配慮と尊重によって、干渉されない「消極的」自由の領域内と定められたものを、もう一度話を再開し、その領域にたいして「積極的」に足をふみいれようとすることを「積極的自由」とよぶことはできるだろうか。しかしこの理論のなかにも、すでに定められた干渉されない領域というあいまいなことばがある。それが自然法によるのか、人間の本性によるのかなどの説明はさておいても、その領域は不明瞭であるのに議論の筋道がみえないという反論がおこりうる。しかし平等な配慮と尊重を主張する人にたいしては、もうすでにその配慮と尊重は済んでいるのだから、干渉しないでくれというのと同じだ、一事不再理だといえば納得できる理論となりうるかもしれない。 

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P1132 

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内なる自由と、自由な活動。 

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内なる自由は現実に自由な活動をしているわけではない。思考の実験のみをしている。従ってそこに自己を絶対理性によって実現し、それを他のすべての人々に強制しなければならにという思想が生まれてくる土台があるのである。自己否定と自己実現の二つはそこにおいて結合しうるが、自己否定したとしても、現実的に乏しくとも自由を尊重して生活していこうという思想にとう達する可能性もあるわけで、必ず絶対理性にとう達するとは限らないといえる。 

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第八章 自由な活動 

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自由な思考。自由な活動。自由な思考から自由な活動が生まれる。自由は自由な思考と自由な活動の両者を含んでいる。 

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マキャベリーがフォルツゥナに対抗して考えたヴィルツゥは、自由な政治的活動と自由な政治思想の両者を含んでいる。 

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勇敢は自由の一つか。 

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勇敢は自由な活動の一部分を構成することがありうるのは、独創性や、進取の気性が自由な活動の一部分を構成することがありうるのと同様で-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->る。勇敢は危険なことでも、正しいと思うことのためになすことである。逆に臆病は正しいと思ったことにたいしても、自由な活動をすべきだと思っているにもかかわらず、禁欲主義という主義のためとか、自由に動くと危険であるかもしれないという理由から、その自由な活動をとりやめることである。そのとりやめることの理由は、欲求があってもそのことをしないことであるのだから禁欲主義の場合とよく似ているとりやめかたである。禁欲主義がしっとによる欲望をとりやめるという点に重点をおいているのにたいして、臆病の場合にはそれが正しいことであることが社会的に分かっているにもかかわらずそのことをしないことであるのだから、 

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その重点の置き方が少し異なっているといえる。あることを欲求し、したいのにしないということにおいては同じことである。 

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勇敢がこのような正義の観点からではなくて、軍事的な意味で軍国主義下の日本において、死ぬことをもいとわないという意味に使われていたことがあったのは残念なことばの使用法であったといえる。軍国のために戦うことが正義であると考えられていたのであるという理由によって、この勇敢さと、前記の勇敢さの性質は同じであるという考え方は、勇敢さの是非をすべて正義であるか否かの問題にすりかえてしまうことになる。実定法的な正義に向かってつき進むことと、自然法的な政治に向かってつき進むこととは違うのであるという問題のたてかた、勇敢な分類になればこれは勇敢の問題をすべて政治哲学の問題にすりかえてしまうことになる。 

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いずれにしても勇敢な活動は自由な活動のうちの一つであるが、それは活動がそうなの 

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であって、それが賞賛されるべきものかどうかについては正義論いかんによるので不明であるということになる。この自由が危険性を伴っているのは、いささか感情的に「無鉄砲」ということばと、勇敢ということばが同義語のように使用されることがありうることによっても分かる。自由は危険を伴うものではあるが、この勇敢な自由は自由論の立場場からすれば最も危険性の伴うものであるといいうる。逆にいえば最も危険性の伴う自由であるからこそ勇敢といわれるのかもしれないが。 

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P1138 

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非合理なウソをいう自由は本当に存在するか 

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永久にたちのかないで、道路の建設やらを妨害している人の自由は非合理な自由である。「死の本能」をいうことはウソの非合理なことをいう自由である。表現の自由があるからといっても非合理なウソをいう自由も本当に認められるのであろうか。「死の本能」を強制することは生の本能から生ずる様々な自由を妨害することになる。またそうすれば表現の自由とは合理的なことを表現する自由に限定されるのであ

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ろうか。そこには合理的と非合理的の明確な区別が必要になるのだろうか。非合理的なことをいうことがついには合理的なこととなることがあるだろうか。効率に反対することがいかに非合理的であるようにみえてもついには合理的になるかもしれない。 

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P1139 

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選択の自由と、国家の計画経済・自由な政治 

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バニラアイスクリームか、チョコレートアイスクリームかを選択する自由があるかどうかは、選好という問題と関連する。外的選好においてバニラアイスクリームしか生産されていないとすれば、内在選好においてチョコレートアイスクリームを選好するとしてもそのような選択をすることはできない。この経済的な自由は外的選好の問題として、政治的自由と同じように論じられてきた。 

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悪法はある人にとって法か 

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外的選好としての悪法は社会にとってはポジティブな法ではあるが、その個人にとっては法としては認められないという場合が発生する。ユダヤ人を虐殺せよという法律ができたとしても、ある人にとってはそのような規範としての法は認められない、内的選好としてはそのようなことは認められない、そのような命令は認められないという場合が存在する。その場合抵抗権という権利を認めるならばその法に従わないことが権利となり、ある種の法的な権利が悪法は法ではないということを認めていることになる。  

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P1141 

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自由な学習・学ということ 

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人間は学ぶことができる。その場合の対象は自然と社会とに分けることができる。社会は人間からなり、人間は生の本能の部分と自由な前頭葉で考える部分とに分けられる。生の本能の部分は自然科学の分野に入ると考えられる側面もある。人間以外の動物や植物について学ぶことは自然科学である。そのことと同じような意味で生の本能の部分を学ぶことは自然科学の一部であるといいうるかもしれない。社会は自由な人間同志の関連、自由の総合をいう。自由なものが総合できるわけはない、なぜなら自由であるのだからという意見も存在する。社会のなかの自由な人間が、環境(政治学のなかでいう)や、経済学のなかでいう稀少な財や、歴史や、運命やらにどのような因果関係によって縛られているのか、縛られていないのか、自由な人が他の自由な人によってどの 

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P1142 

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ような因果関係によって決定されているのかを研究し、学ぶことが社会科学である。生の本能から派生するものとして実学が存在するであろう。確かに等価交換をする必要はないが、もし等価交換することができるようにある環境や、稀少なものにたいして価値をみいだすとすれば、そのような物や他の人に対して価値付けをしていけば、生の本能を満たせる程度に稼ぐことはできる。しかしそれ以外については人間は自由に考えることもできる。現実に合わせて価値をみいだし、生の本能のために学ぶことは実学である。生の本能よりも自由に考えることは虚学である。社会科学は自由な人間で構成する社会を学び、考えるのであるから、実学と虚学とをあわせもつ。虚学は疑うということでもあり、批判するということでもあり、その他様々な形をとりうるであろう。 

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子供は自由に遊んでいる時に笑うし、大人も自由に行動する時に笑う。笑いは自由の一つの表現であると考えられる。 

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学生にとっての自由 

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日本大学校歌のなかに「正義と自由の 旗標のもとに 集まる学徒の 使命は重し」とある。自由はどのような場合もそれまでの電灯や、習慣を自由に考えなおすという意味が含まれている。学生にとって自由は、このような普遍的なものに自らを近付けることにある。学校が暇という意味を語源とする語であり、大学が普遍という単語が誤源であるのはここからきている。ユニバーシティuniversityという単語はuniverse普遍という単語を語源としているのである。普遍的なものとは何かを考えていくのが学生の使命であるといえる。 

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決定論と規範論と規範の学習 

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大学等で勉強をして、絶対理性にいたり唯物論を信じるようになるのか、相対理性にいたり自由が内在的に存在することを信ずるようになるのか。学習はこのどちらに向かわしめるのであろうか。自由な学習は自由にいたらしめるであろう。唯物論に反対する自由をも認めるのであるから。 

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しかし勉強すればする程、唯物論のような絶対理性に近付いていく(いくべきだ)という人がいるかもしれない。それは自由がなくすべてが決定されるべきだという規範論(期待論)にとう達したといういうべきであって、現実に事実論としてそうであるといっていないのではなかろうか。「絶対に自由はないのであるべきだ」というのが交定論の意味ではなかろうか。 

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P1146 

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絶対理性か、相対理性か 

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理性の相対性にたいする信仰は、絶対理性にたいする反発となった。理性の相対性は人間の自由性、人間の思考の自由性を知っていればおのずから理解でき、人間が経済本能や性-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->能などに固定されていると考える時に絶対理性の考え方が生まれるといっても過言ではない。 

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P1147 

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バーリンの『カール・マルクス』における絶対理性論 

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「真の自由は、外的支配を脱した自己支配から成立つ。これは、自己が何であり、何になりうるかを発見することによってのみ成就しうる。すなわち、所与の時代と場所において、そこに生きる自己を必然的に従属させている法則を発見することによって、また自己の合理的な、したがって法則によって高速された本性のこれら潜勢力を現実化することによって成就される。潜勢力の現実化は、個人を全身させ、そのことによって彼が「有機体的」に粗属し、かつ彼と他人の中に自らを表現している社会をも全身させるのである。人がある主観的な理念の名によって、電灯を修正する代りに破壊しようと試みるとき、それは歴史の法則に対立し、不可能なことを企てることに等しい。それは自己の非合理性を暴露することになるのである。」(I・バーリン『カール・マルクス』倉塚平・小箕俊介訳、中央公論社、一九七一年)六四頁。棒線等者。 

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P1148 

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内在的自由と教育 

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内在的自由論は、自由な教育、教育の考え方にも大きな影響を及ぼす。ある一つの絶対理性を詰め込むことはそれを考えなおさせることができない。「労働者の学習」というのはそのような意味であった。 

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平等な能力の可能性と教育 

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平等な自由は、平等な能力を生むであろうか。すべての人において内在的自由が平等であることは平等な能力を持つ可能性を示唆している。しかし自由が能力にいたるためには訓練(ディプリン)を必要とする。従ってそれに達していない場合もあるし、達している場合もある。それは教育の力による。能力を持つとは、所有物をもつということと質的には等しい。能力は形式的自由を実質的自由に変化させる自由の構成要素である。それが教育や、訓練によって達成されるからといって、人格の成長による利他性のかん養の主張のみが教育によって得られるものではない。 

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P1150 

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表現の自由の哲学 

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人間はよく話をする動物である。サロンや、パブや、日本では喫茶店では人々はえんえんと話を続けている。これは自由のよいところである。ところが、積極的自由を主張する人々はそれらを一瞬にしてひっくりかえしてしまう。自分はすべてがきにいらないということなのであろうか。自分が気にいらないからといってそうすることは、マルクスの暴力革命論やソ連におけるように思想の自由や、表現の自由を奪ってしまうことになる。哲学は様々な話のなかから一つの何かを探し求めようとするものであるから、おしゃべりも自由な表現も大切なものだといいうるのであるという某哲学者のおしゃべりのなかでの意見は、このような意味で大切なことである。このサロンの意義について述べた哲学者は多い。 

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P1151 

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バーリンの自由とベイの自由 

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バーリンの自由論と、ベイの自由論を総合することは非常に難しい。なぜならバーリンは自由を無、あるいは、人間の思考における白紙の状態を想定し、そこから人間の本源としての自由をみて、そこから出発しようとしているのにたいして、ベイは無であれば自由には浩造はないのに、浩造が自由にあると考えた。それは各人が自由を発揮するにおいては各人は自由ではなく、すでに性格の傾向などの自由にたいする傾向、心理学的自由や潜在的自由のそなわった存在であるとみて、自由を無とみず、有とみたという理由からである。人間は双方共にとれるあいまいな(自由ともいえる)存在でもある。家族のなかで育つ二十年間の間にすでに性格の傾向は存在しており、人間は無である自由な存在ではないかもしれないというがベイの見解であり 

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P1152 

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すでに内在的自由などは存在しないという考え方である。ところがバーリンのほうは自由をほぼ無の状態である。つまり人間はいかに性格の傾向が存在にたちかえることができる(反復的教育によってどうにでもなる)という考え方をあくまで貫いて、歴史や運命にたいする自由をも考慮にいれながら論を進めるのである。哲学的で深いという意味ではバーリンに軍配があがり、歴史的に名を残しそうであるが、ベイの性格の傾向をみようとする研究については現実的で実用性がありそうである。 

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この両方を統合することは、政治理論と政治の現実を統合し、総合するのと同じくらいに困難な作業であると考えられる。 

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バーリンの見解は無である人間は、消極的な干渉されない自由の存在する範囲が決定されないとそこからどこかへ行くこともできないという考え方である。ベイはそのことには 

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P1153 

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あまりふれないで、安全な性格の傾向を造りあげることは、社会が自由になることであると述べたにとどまる。それは自由な社会を作るには政治をどうすればよいのかという問題を解こうとしたといいうる。 

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P1154 

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ドゥウォーキンの表現の自由論 

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ドゥウォーキンは表現の自由や、信教の自由が認められる理由は、それらの自由の制約が引きおこす自由の減少の程度によってではなく、「自由の性格」によるのであると考えている。それらの基楚的な自由の制約は「人間を傷付け」、「人間を卑しく」するという理由から守らねばならないと考え、それがそのような人間の価値に対する権利や、表現の自由の制限がうちまかす利益やらへの権利、表現の自由の制限がうちまかしてしまうであろう「ものの立場」への権利を人間は持っているのであって、自由への権利をもっているのではないと主張している。これはターミーロジーの問題ではないとドゥウォーキンは主張する。そして表現の自由や信教の自由などの権利を擁護するために、効利をこえた原理を発見しなければならないと主張した。なぜ 

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P1155 

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なら社会の一般利益に反するとしても、表現の自由や信教の自由は守らねばならないのであり、これは効利主義を越えていると考えているからである。彼はそれを最後まであいまいにしておくとしながらも、「政治的道徳の基礎」というものであるとしている。そしてまた自由の概念ではなく、平等の概念が彼の議論の中心概念であるとして、平等な配慮都尊重の概念という彼の政治的道徳の議論へと移っていくのである。 

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P1156 

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教育のすすめ 

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自由な教育はな後である。それは反復されたことは、自由に形成できる脳の回路が固まって、その人の性格となり易いということであり、一度定着した回路でも、それ以上の反復によって修正されれば修正することができる。犯罪をおかした人の場合にはこれは矯正とよばれる。 

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P1157 

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学校のIQや成績は生まれつきよいものではない。それは自由な部分については後天的なものだからである。 

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P1158 

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人は一番になろうと記憶したり、仕事をしたりするのではなく、ただそのことが好きでそうするのである。こう考えるならば人々は競争しようと思って努力するのではなくて、自分のために努力するのである。 P1159 

<!--[endif]>->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->

業績主義と自由 

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業績主義は自由意思と関係しているが、金持ちの子供を優遇する主義は、自由意思とは関係していない。P1160 

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グリーンの「人格の成長」の根本にある「人間が人間らしく生きる」というときの人間は自由によって人間らしくなるというときの人間であり、自由が制限されることによって人間らしくなることもありうるとして自由の制限を認めるのである。 

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P1161 

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人格を成長させ、富裕な人々が貧しい人々に積極的にその財産などを分け与えさせることを教育したり、学習させたり、期待したりする心理は妥当なことであろうか。 

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高まいな理想を説く道徳や、理性への信仰が共有になって欲しいという「願望」の偽装であることがありうるであろうか。義財の心理がそのまま「資本主義は共産主義にかわってほしい」という願望に偽装されたのであろうか。教育や、学習や、期待(願望)はそのような面をもっているし、そして願望は現実化することがありうるといいたいのである。政治のある面はマスコミが願望を報道しそれが現実化するという側面をもっている。 

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P1162 

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グリーンの人格の成長を主張する論理はどのような論理構造をもつのだろうか。自由な人が、貧乏という制約からのがれて、自由な行動をするためには、人々はどのようにすればよいと考えたのであろうか。 

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P1163 

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自由な思考は平等論の核心である 

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グリーンの人格の成長の理論と、ドゥウォーキンの平等な配慮と尊重の理論と、そしてそれに対立するようにみえるバーリンの干渉されない消極的自由の理論とは、ともにある一つのものに向かっている芯のようなものを持っている。貧者や弱者を自由によってどのようにして救うかという観念である。自律的な自由を求めたカントにあっても、それは自己と他人との総合を考えながら、道徳のつうじての自律を考えたものである。義賊の心理に陥らないためには、これらのものを総合する必要があると考えられるが、それぞれ自由によって総合できると考えられる。グリーンは「人格の成長」を自由と考えたし、・Jントは自律を自由と考

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えたし、ドゥウォーキンは平等を自由と考え、バーリンは干渉されないこと、平等が達成されて安心して干渉されな 

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P1164 

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い状態を自由と考えたのである。 

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この四つの理論はともに自由な思考によって形成された理論である。平等を考えたとしてもそれを考え出した自由は平等のうえにまだ存在しているべきであり、平等論であっても自由について論ずる必要があると考えられる。 

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P1165 

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規範教育と自由 

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〜しなければならないとか、利他的な人格の成長を学校教育や、家庭教育において教育することは自由とどのように関わりをもつのだろうか。規範教育は道徳教育や、法の教育や、作法教育などをも含む広い概念である。道徳教育については初中等教育において、法学教育や、政治学教育は大学や、大学院の教育において主に行なわれている。家庭の作法教育も、家庭や学校において行なわれている。 

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P1166 

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親から自由になる 

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親から自由になるということばは、一般には親から独立するということを表現して用いられる。しかし親に依存していて、すべてを親が決めている場合には、親から自由になる、親から独立して自分で自由に決定するようになるということばを使う方がよいかもしれない。これは依存しているかどうかということにかかって、精神的に依存している場合には親から自由になるを使い、経済的に自由になることを親から独立するということばを使っている場合もある。 

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酒をのむ自由 

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酒をのむ自由、タバコをのむ自由と、禁酒、禁煙の自由とをどのようにして積極的自由と、消極的自由の調和として考えればよいのだろうか。禁酒をするかどうかについて、酒をのむ自由があるのかについてはプラトンの大きな主題であった。タバコをのんで早死にするという医学知識は最近のものであるが、酒をのむかどうかについてプラトンは大いに自由との関連で考えた。 

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P1168 

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全体主義のもとでのイニシアティブや自発性 

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全体主義のもとでは、すべての人が同じ全体のなかに埋没していなくてはならず、イニシアティブや自発性が存在しなかったということが認知されうるであろう。政治が自由を抑圧していた。この場合の政治は全体主義の政治なのであって、自由化のための政治ではなかった。政治は自由と対立していることもあれば自由のための政治もある。全体主義の政治のなかにおいて自発性やイニシアティブがなくなっていたことは、自由を発現する能力を失い権ミにすがってしまったことの一原因かもしれない。しかしそれは自由の一属性、自由な活動の一属性、積極的自由という自由の一属性なのであって、自由全体の本質そのものとはいえない。自由の本質は自由の環境にたいする自由の三要素の全体なのである。 

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P1169 

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自由はものごとのはじめのものであるか 

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「すべての人間の活動を活気あるものとし、やる気をおこさせる、自由の機能、始める純粋な能力」(the faculty of freedom, the sheer capacity to begin, which animates and inspires all human activities)(Hannah Arendt, 'Freedom and politics', Liverty, edited by David Miller, OUP.1991.p.79.)という場合のビギンやビギニングの始めること、自由はどのような関係があるのだろうか。三才の赤ん坊でももっている内在的自由という意味が、「はじめのもの」という意味のなかには含まれていたようである。「手のつけられていない」(intact)ものであり、「非常に多くの種類の大きなことや、美しいことを作り出す」(produce a great variety of great and beatiful things)ことの「できる」(can)ものであるという意味が自由には含まれているのである。何もない状態が自 

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P1170 

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由であるが、そこからこそすべてが出発できるという意味である。ギリシャ語の自由も、ラテン語の自由にも、この「はじめ」beginningという意味が含まれていた。(ibid.p.74.) 

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P1171 

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フロムの『自由からの逃走』が政治学の書物から消され、ベイの『自由論』の工部が政治的自由論から消されているにもかかわらず、ハンナ・アーレントの「政治と自由」の論文は政治学の論文として考えられている。アーレントも、フロムも真っ向から全体主義にたちむかった人である。 

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そのアーレントが自由の機能のうちで最も重視するものがイニシアティブ(initiativを)と自

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発性(spontaneity)であった。この二つのことばは日本語で表現しても適当な・->->->->->->->->->->->->->->->->->-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->を見つけることが困難である。イニシアティブのほうは名詞で開始や、創始という意味が研究所の『新英和中辞典 第五版』(小稲義男他編)では第一にのっており、第二に創業の才、企業心、独創力の意味、第三に議案提出権、国民発案の意味があるとされている。小学館の『ランダムハウス英和大辞典』( 

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P1172 

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小西友七他編)によれば、第一に、開始、第二に起業心、進取の精神、独創力、第三に自らの責任ある決定、第四に政治上の国民発案や、発案権、第五に俗語でコカインという意味がのせてある。フロムと同じように全体主義を理論的に批判しようとしたアーレントが自由の本質をこのようなイニシアティブに求め、自発心に求めたのはどのような意味があるのだろうか。フロムがトータルで統合的なパーソナリティー(人格)こそ自由から逃走しないために必要的なパーソナリティーとした。積極的自由とフロムはそのようなパーソナリティーにおける自由を名付けたが、アーレントはイニシアティブと自発性こそはすべての活動のなかに存在する行動と自由の本質なのであり、全体主義と大衆社会はイニシアティブと自発性を抑圧することが危険であり、脅威であるという。このイニシアティブと自発性はフロムのいう積極的自由や、全体的統合的パーソナリティーというのと似てい 

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P1173 

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る。 

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イニシアティブはものごとを始めること、創始であり、開始であるとアーレントはいう。何か新しいことをはじめたり、新しい企画をはじめたりすることであった。従って現代でいえば進取の気性ということの指しうるような広い意味のことばとして使っている。自由であることと、何か新しいことをはじめることと能力とは同じことである証明として、ギリシャ語のαοχεινには、始めることと、統率することと、そして支配することもその意味のなかに含まれていることによっても、また、ラテン語でも自由であることと、新しくはじめることは相互に関係をもっていたことによっても証明できるという。たしかにポリスや家々の創始者や、指揮者・族長・家長は独立した人間であり、自分の所有物やらを「自由に」処分ができたであろう。ローマ帝国の創始者が伝統として確立したものはローマ人の自由であったとアーレントは 

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P1174 

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指摘する。現代でも創業者は大きな自由を有する。このようなイニシアティブという概念は、あるいは創始という概念は自由の属性の一つといえるにすぎないのではなかろうか。創始からは自由からは自由は生まれるであろうが、それは自由の必要条件であっても十分条件ではないし、まして自由と創始は同値(同じ)ではない。自由は創始によってのみ生まれるのではないだろう。自由は創始者でない多くの人々ももっているものである。 

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全体主義のなかでは『自由からの逃走』がおこるのはイニシアティブの精神をなくすからなのであろうか。自由とイニシアティブとが同時におこるものであるとするならば、その命題は真実である。しかし自由とイニシアティブは同じものではないから、イニシアティブの精神をなくすことは自由をなくすことの一部にしかすぎない。このことはバーリンがミルのいう自己の主張を通そうとする性格 

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は自由の本質とは関係がないという論理とほぼ同じ論理構造である。何か新しいことをはじめることは自由で、楽しいことであろう。しかしその精神のみがあったとしても、誰かから妨害されれば、その自由は存在しない。バーリンはこのことをいっている。ところがその妨害を排除したとしても、イニシアティブの心、イニシアティブのパーソナリティーがなければ自由な活動ができない。できないばかりではなくて自由から逃走し、他の人のイニシアティブを待ち、権威に依存してしまうかもしれない。こう考えると何か新しいことを自分で「自発的に」始めるということができる能力は、全体的・統合的パーソナリティーの重要な部分を構成しているのだという方が正しいのかもしれない。それは「自由からの逃走」を防ぐためなのであり、そのような意味では自由と、イニシアティブ(創始)及び自発性とは密接すぎる程関連しているのだといえるかもしれないし、このことと自らの 

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欲望を否定し、自己の内心の自由に閉じこもることとは正反対の極にあるのかもしれない。禁欲主義によって自己否定し、絶対理性に向けて自己実現をはかることは、イニシアティブや、自発性をなくすことである。それは全体主義に依存しようとする権威主義的パーソナリティーがイニシアティブや、自発性をなくしているのだという論理ともつながるものがある。 

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しかしナチズムがたい頭してきた社会においてイニシアティブと自発性のみによって、自由が確保されう

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るという意見にはならないであろう。その前に世の中の大きなうねりであるナチズムの干渉や矯正を排除しなければならないであろう。この干渉や強制の排除についてはナチズムや全体主義を理論的に批判しえたアーレントであったのだから、当然にそのことを知っていたと考えられる。じゅうぶんに知っていたからこそ、そのような中における人間の自由はと問われればイニシアテ 

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ィブのような何かを新しく始める力や、自発性が必要なのだと答えたのかもしれない。それは全的統合的パーソナリティーという中小的なもののなかの具体的な本質をいいあてているのかもしれない。しかしこのような意味で自由とつながっているものは、自由の本質をついたものとはいえないのかもしれない。 

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自由の本質についてはバーリンの自由も、フロムの自由も、このアーレントの自由も総合的に考察し、それらの複合と考えた考え方の方に軍配があがりそうである。 

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ナチズムのなかでは何か新しいことをはじめたり、自発性をもったりすることができなかったかもしれない。ところが何か新しいことをはじめると、危険が伴っているかもしれないのである。それは現代の経営にとってのエンタープレヌールシップ(企業家精神)にとっても同じような危険性が潜んでいる。しかしそれをも保険のような概念で包んで温かくむかえいれることは重要なことである。また依存し 

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ている間には大きな権威の下にあったために危険が少なかったのに何か新しいことをはじめることによって、ホッブズのいう「万人の万人に対する関連がおこってそのような危険も増すかもしれないのである。しかしそれにもかかわらず現代においてもエンタープレヌールシップは自由な社会の基本的なものであろう。それなくしては形式的自由がいくらあったとしても、実質的に自由なことをはじめる人がいなくなるからである。この実質的自由とは資源や能力があってのみ旅行するというようなことができる、それが法的自由にたいする実質的自由ということばであるという時の自由ではなくて、自由な憲法とかの形式的自由がある「自由社会」が作られたとしても、その自由社会をいろいろな危険を考えながらも実質的に動かしていく指導者、統率者という意味であり、それは現代でいえば世の中の様々な変動にたいして私的企業の独創的な動きや、時代にマッチした新しい政治や、行 

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政を行なっていく人々のことである。 

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「人間が自由なのは人間の万物のはじまりであり、普遍的世界がすでに存在したあとに人間は創造されたのである。だから自由なのだ。」「人間は始まりの存在であり、人間ははじめることができる。人間であることと自由であることは一致する。」というアウグスチヌスの『神の国』のことばからのアーレントの引用と、アーレントの解放は、イニシアティブということばが、キリスト教においても自由ということばとはじまり(ビギニング:beginning)ということばが関わりをもっていることを示そうとする。そして更にアーレントは「神は『創始という機能‖自由』を世界に導入するために人間を作られた。」とまでいう。これはビギニング‖開始と、自由との関連を示すために創世の記述のなかに「始まり‖自由がみいだされるということを示すための説明である。 

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欲望をなくし、自由をみつけることは自発性をなくすか 

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内心の自由をみつけるためには、欲望(目的・目標)をなくせばよいというのは、どのような方法のことであり、その方法は正しいのであろうか。何も望まなければ現実の生活をする必要がない、従って服ができるから、現実をはなれたことや、現実の裏にある内在的自由をみつけることができ・->->->->->->->->->->->->->->->->->-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->いう意味なのであり、そのような方法のことをいっているのであろう。これは禁欲主義とはちがうものをいっているのである。禁欲主義は欲望をなくすことによって静じゃくを得ようとするものであって自発性を生みだそうというものではない。たしかにねたみをなくせば人間は欲望から自由になり、他の人をうらやむこともなくなる。この心は静じゃくである。 

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アーレントのvirtuosity論について 

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政治における演技力のようなものが、マキャベリーのヴィルツゥだという比喩(metapher)は妥当であろうか。アーレント自身定義しているのではなく比喩であることわっているので学説として分析する必要はないと思われる。この比喩は政治を演じている政治化にとっては自らの行動をいいあてていて、自由と平等のような真剣な何かに向かって政治は動いているのではなくて、ただ単なる俳優のようなものが政治化だということで、安心さをケてくれる比喩かもしれない。しかし政治から離れたところからみていて、裏を

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知らない国民にとってそれは面白い、しかし、自分と他人との関係を数において再現してくれる劇であり、身につまされるものである。しかしヴィルツゥはフォルツナに対立する概念であり、ヴィルツゥが自由であるとすれば、フォルツナは様 

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々な政治的因果関係を指していると考えられる。自由な徳をみにつけていても運命に左右されて、マキャベリーのように失脚することがあるかもしれない。それは国民からみれば演技であり、劇(この場合は悲劇)にみえるかもしれない。そうみえるならば、政治はなるほど演じているようにみえるかもしれないし、うまく演じることと、みっともなく演じることとは大きな差があるかもしれないがこの演技力とヴィルツゥとは全く違うものである。演技力は悲劇をもうまく演じることができるが、ヴィルツゥはフォルツナに対抗して政治的徳(この場合の徳はアリストテレスのそれとよく似ている)を発揮して、不運をよい運命へと向かわしめるものである。この二つは全く違うものであり、アーレントの比喩は全くあてはまっていないと考えられる。ただいい演技をすれば政治的に出世する、つまり、不運をよい運命にかえられるという意味に解すれば、そのような意味ではこの比喩はあたって 

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いることになる。しかしアーレントの演技力をこのように解釈することはできそうにはない。 

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宗教の自由な選択の可能性と、ある宗教のなかにおける自由な選択の不可 

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「罪の意識こそ自由の現実性の確実な証拠」としたというニコライ・ハルトマンの『倫理学・第三節』における見解は、ある宗教のなかにおける自由の存在を証明している。 

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他の宗教にたいして寛容であることは、人間が宗教を選択できるということとともに、宗教と自由との関係を明白に示している。 

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『キリスト者の自由』における自由 

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マルチン・ハター『キリスト者の自由』の「第十さて、これらすべての神のみ言葉は、聖く(きよく)真実で義しく(ただしく)、平和を愛して自由であり、すべての善いことで満ちている。」(塩谷饒訳)「第八……おまえのあらゆる恩恵と義と平和と自由とを約束しよう。」(同)「第一…キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。」(同)「第十六…キリスト者が愚かにも善行によって義とされ、自由になり、救いを受け、つまりキリスト者というものになろうとするなら、……彼はすべてのものとともに、信仰をも失ってしまうであろう。」(同)「聖書は、学者たちまたは聖職者たちをministri, serui, oeconomiすなわち、キリスト、信仰、キリスト者の自由をほかの人々に説くことを務めとする「奉仕者」「僕」「執事」と呼んでいるだけで、何の区別をも与えていない。」(同) 

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ルターの「信仰のみsola fide」の観念がここで語られているにしても、自由は現世の自由ではなくて、宗教内における自由であった。ルターツゥムはカルバン主義の内包していた功績主義との関係においても信仰のみの内面の自由だけを貫き通すことはできなかった。 

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タブーと自由。ベジタリアンの自由。 

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イスラム教の豚肉の禁忌(タブー)や、ヒンズー教の牛肉の禁忌(タブー)やらは、その理由付けが前者が宗教的な忌みにたいして後者が聖なるものにたいする尊敬からとちがっているにしても、自由にたいする制限である。また、ベジタリアンは、ちょうど自分の好みが野菜のみであり、他の人々の食べる野菜以外のものは嫌いだという好みの問題であるかのように、野菜のみを食べるのである。一方赤ん坊で好き嫌いの多い子供がお菓子ばかりを食べるということがありうる。 

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第四節 自由と危険。保険・防衛と安心。 

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自由の危険と恐怖(fear)、心配(anziety)とのちがい 

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独立で、依存していない人も自由の危険を感じることができるが、その同じ自由のうち全く危険ではないと照明されていることに関して、注意や、偽の予定的証拠を集めてきて恐怖したり、心配したりすることは、杞憂と中国の諺ではよばれているものであり、自由の危険性の認識とは違う。人間と人間との関係においてもそのような心配症の人がいて、場所恐怖症や、政治恐怖症や、反政治や、非政治の考え方を示したり、アナーキズムに陥ったりすることはよくあることである。 

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物に依存して、自分の能力を増大させないで薬依存症になることがあるのは、人に依存するのと似ている。依存ということばは、人に依存する場合にも、物に芋ヒ存する場合にも使うことができる。自分の力でカゼ

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を退治するのではなくて、薬に依存して治してばかりいると、自分の体力をつけることをしないので。薬に依存する性格になり自分で体力をつける努力をしないことになる。カゼが治るには自分の力で外的環境に適応する自由な能力をつけるのが先決なのに、その能力はいつまでたってもその能力がみにつかないことになる。現代人のカゼはこのようなものであるかもしれない。同じように他人に依存していれば、自分の能力をつける努力をしないことになるだろう。現代人の自由が「自由から逃走」することによって自分の自由、それもフロムのいう積極的自由から逃走した自由になりつつあるのかもしれないし、マスコミに依存する傾向もその傾向の一つなのかもしれない。 

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「自由からの逃走」という時の自由がフロムのいう積極的自由をさしているのと同じように、依存からの自由という時の自由は、そのような自由のことであるといいうるのではなかろうか。 

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フロイトがある薬の依存症であったという事実は有名である。その依存症は人に対する依存症と全く同じ同根のものであったと考える意見がある。これの正否は証明される必要がある。 

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自由の危険の程度は防衛程度を増させるが、安心が増すとは限らない 

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自由の危険の程度が大きいと考える程、防衛を大きくしなければならない。例えば防衛施設庁は大きな施設を作らねばならない。国の機関もいつか爆撃されると考えるならば、どこかに核シェルターを作らねばならないし、また、どのビル-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->も逃げ出すための大きなエレベーターを作らねばならないが、平時にはそれが必要ではない。韓国や日本に北朝鮮が攻めてくるかもしれないという恐れが強ければ、軍備を増やさなくてはならないが、東西冷戦終了後なのでそのようなことはないと考えるならば、軍備は少なくてよいことになる。北朝鮮と「社会契約」を結んで攻撃する自由を抑制するとの契約(条約)をとり交わせば、より安全になることになる。 

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ところが自由の危険を考慮し莫大な防衛費をかけて、大きな防衛力を持つことがそれに比例して安心をもたらすとは限らない。あま 

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りにも大きな防衛力は国力を疲へいさせるばかりではなくて、安心も減らしてしまう。あまりにも大きな防衛力がそのまま攻撃力に変化してしまう可能性が大きいからである。 

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ギリシャの都市国家ポリスのなかの二つの対立的であったアテネと、スパルタはその自由と防衛や攻撃のための軍隊に関しては相違する考えをもっていた。自由の観点からみればスパルタは過剰な防衛力を持っていたし、アテネは適性かそれ以下の防衛力を持っていたと考えられる。この防衛力は軍事力ともいいかえられる。この点についてはもっと詳細な論述が必要であると考えられる。 

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ロックの自由論における防衛の概念と、現代の防衛理論 

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。自由はあらゆる権利の基礎(Foundation)であり、自由の権利(the Right of my Freedom)が存在するとロックが考えていることは、ロックは自然の基本法(the Fundamental Law of Nature)のなかに一般人の安全(the safety of the Innocent)とともに自由の権利を含めていたと考えることができる。自衛(own  Defence)をすることは自由のためであった。それは他人の侵害する自由にたいする防衛は自由のためである。悪意(Malice)による暴力的侵害に対する防衛は、自由を守ための法によってなされ、安全が確保されるということになる。この場合の防衛は実際に戦争状態になった時における防衛力による防衛なのであって、私が述べる自由の危険性が未来にあるかもしれないから、多少にかかわらず防衛力をもっておこうとする場合の防衛とは相違している。このような防衛する権利が実際 

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に行使される前に、自由の危険に対する「予防的措置」としての防衛力が戦争状態を抑止する機能を持っていることは明白である。交戦権の場合には戦争状態を誘発するかもしれないが、防衛力の整備の場合には戦争状態を抑止する可能性がありうる。このことは日本の防衛力の理論に大きな影響を与えるかもしれない。P1196 

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依存から独立してみてはじめてわかる自由の危険性。禁欲主義と、依存の共通の安全性は何故発生するのか。 

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ソ連の国家内においてはすべての人が公務員であり、国家に依存していたから、それは日本の右翼が国家に依存していた時にもいえることだが、自由になり独立してはじめて自由の危険性を認識することができるようになったといいうる。保険の制度の考え方もここにはじめて発生したといえるÅ B但し、ソ連においては

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完全な社会保障が、スウェーデンにおけるようにあったから、その他の危険がなかったといういいかたもできる。完全な社会保障に依存することによって危険は全くなかったのだといいうる。これは禁欲主義に似ているといえないこともない。 

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こう考えると、自由と独立ということばが最も関連しているのは危険という側面を両者がもっているという点においてである。しかし安全という側面を依存はもつが、不自由は 

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もっていない。ただ不自由でも禁欲主義は安全という側面をもっている。禁欲主義によって何もしなければ安全であるとはいえる。 

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依存と禁欲主義がともに安全を発生させる理由は、禁欲主義は依存や、積極的自由と共通の側面をもっているからだと思われる。バーリンが禁欲主義による自己否定が、自己実現というバーリンのいう積極的自由をもたらすというのは、この依存というものを媒介としても理解できる。依存の状態のなかからでなくては禁欲主義や、バーリンのいう積極的自由は生まれないのは、独立からはそのようなものは生まれえないという反対証明によって証明されうる。この理解は難しいが、これまでの依存の説明によって理解できると思われる。 

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その理解は、自由の危険性のなさという点を理解すれば、共通に理解できるのである。 

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国家の自由の危険性と、個人の自由の危険の相関関係と、個人の自由 

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自由が危険なのは、個人の場合だけであって、国家の自由は危険ではないといえるであろうか。それはまちがっている。個人の自由は他と衝突したり、自然の脅威や危険に向かったりすることがあるように、国家の自由も他の国家の自由や、自然の脅威にはばまれることがありうるからである。従って国家の自由に従っていればその内部にいる個人は安全だと考えるのかまちがいで、国家が危険になれば国家の成員である個人も危険にさらされることになる。 

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依存的な人は大きな権威に依存していれば、完全に安全で、完全に自由だと考えがちであるが、これは完全にまちがっている。その大きな権威が国家であれ、家父長であれ、兄であれ、姉であれ、企業であれ、そのような人や、集団の自由も危険にさらされることはおおいにありうる。特にベンチャー企業の場合はなおさら 

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であるが、親方日の丸の国家であれ、大企業であってもいつ危険にさらされるかはわからない。従って個人は独立して、自らの自由と危険をいつも認識していなければならないということになる。 

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自分で自分の危険性を注意できるようになること 

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自由の危険性をあまりに注意書にて忠告しすぎると、今度は自分で注意できなくなる。このためには試行錯誤による努力が必要である。これは子供の教育について特にいえる。そのためには親や、国家が完全な生への危険やらは取り払ってやっている必要がある。国の経営については大人について、また、大人の教育についても同様なことがいえる。 

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自由の危険と、注意書 

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子供に危険なことを、やめさせることは自由の妨害にならないかもしれない。しかし依存的なあるいは、自由で独立的な、大人に、注意書きをそえて危険なこと、例えばガケから落ちることをする自由を妨害することは自由の妨害になるだろうか。毒薬を売る時に、氏名と、住所と用途をかかせる場合はどうか、医者が注意をして危険なことでも「自由だ」といって許していた場合に本当に危険がおこった場合にそれは損害賠償の対象となるか。注意書きのみをしていた場合と、実際の多くの証拠を示していた場合とでは、法的に損害賠償の額ははどのように違うべきか。注意のみであって医者が多くの実際上の証拠を知らなかった場合はどうなるかなどの問題はどのように解決すべきか。 

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この問題はミルが考えようとした問題であると同時に、バーリンが考えようとした問題でもある。バーリンは主に政府がどのように 

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して人々の自由を規制する範囲はどのような方法によってどこまで許されるのかという問題として考えるだろう。注意書きを書かせて「危ないよ」と書かせるだけでじゅうぶんなのか、「これこれの多くの証拠があるよと書かせるのか。」という問題でもある。 

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私はこの問題は自由の危険性の問題であると思う。自由には危険性-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->つきものである。危険性のある自由な行動の場合以外にはこの問題は発生しないからである。そしてそれはまた依存と安心との関係でもあると考える。安心を重視するベイやらの考え方によれば、人々に「完全に禁止すること」でさえ自由を確保する方法であるということになる。「人を殺す自由を放棄する」というベイや、ホッブズの考え問題は実は危険性と自由との問題なのであり、フィ・qテが「人がガケからおちようとする人のその自由を防害することは自

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由を妨害することになるか」という問題提起と同じような本質の問題なのである。「人を 

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殺す自由を相互に放棄する」というホッブズの理論は、「銃を持つ自由を相互に放棄すること」と同じく安全と危険性の問題なのだ。安全であるとは、自由そのものの持つ危険性を相互に放棄するということなのだ。安全時県政の放棄とは、ほぼ同じ内容であり、自由の危険性を考えるならば、安全や安心を求めるということは、自由を放棄するのと同じことになのだ。この意味では自由と安全や、安心とを同列においたベイの考え方はまちがっていたことになる。(しかしベイの安全と自由に関する思考は、もともとはベンサムの考え方からきているようではあるが。 

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自由のなかに危険性と関連している自由と、危険性と全く関連していない自由との別があるのかという自由な活動の分類が可能なのだろうかという問題がそこにはあるのだろうか。ガケからおちる自由は危険が伴っているし、幸福を追求する自由は危険が伴っていないという分類をする人があるかもしれない。ある場 P1204 

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合は自由な活動が危険であるが、その他の環境や、状況によってはその同じ自由な活動が危険でない場合があるような自由な活動が存在するかもしれない。幸福の追求をおこなうような自由な活動であっても、ある場合には例えば旅行にいくにしてもその自由が危険につながるかもしれない。自由な活動は、銃をもつ自由や、ガケからおちる自由にしても、危険を伴う場合もあれば危険を伴わない場合もある。 

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依存とは危険を回避するために、危険はないように守ってくれる権威にすがっている場合のことをいうのであれば、独立よりも悪くないという人がいるかもしれない。実際平等を求めることは、人々がホッボズのいうとおりに人が人に対して狼であることをやめさせる一つの方法であるという依存の論理には、すべての人が一度は納得するかもしれない。平等でない自由の危険性をその理論は最も強調するであろう。自由は危険だから、自由はやめなさい、自由を 

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殺して、平等の側につきなさいというわけである。 

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こう考えてくると、ミルの論理はある意味では自由を守る一つの方法であるかもしれない。 

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自由を尊重しはするが、その人が例えば旅行にいくにしても「これこれの危険があるからと証拠を示した注意」を与え、旅行にいくのか、行かないのかは自由な選択にまかせる。政府であれば、そのような注意に関する法を作ったり、行政を行なったりすることあり、個人であれば、あとでこれこれの注意やらを証拠を示してしなかったと、あとから裁判で損害賠償されたりしないようにしようというような考え方である。平等の場合であれば、「自由にすることは平等でなくなるという危険性を注意書きや、証拠によって示した」うえで、あとは自由に選択をしなさいという方法によって自由を維持し、平等にしようということを強制によって行なおうとするこ 

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とをやめるのである。平等でないことの危険性が発生した場合には明白で、現実的な危険の原則によって、その場合のみは自由を規制することができるのだと考えることになるのかもしれない。この考え方をとればロールズの二つの原理、平等な自由と、格差原理によく似た結論が自由論のなかから、仮想的社会契約によってやら、無知のヴェールの理論やらによらずに、自由の危険性の論理によって導くことができるかもしれない。 

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現実的な危険とはあまりにも不平等が拡大して、裁判所にも行政にも、多くの人が訴えたり、頼みにきたり、議会にも多くの人が不平等を正せと陳情がきているような状態であるかもしれないし、それが明白に察知できるような暴動が起こっているような場合かもしれない。 

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平等論以外の自由な活動の危険性のはなしに戻ろう。 

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ある妊婦が危険であるにもかかわらず、 

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自由であるから海外旅行をしたいといっているのにどう対処したらよいのか例について考えてみよう。その妊婦は相当な自由主義者である。医者が注意や、多くの証拠を示して注意したにもかかわらず妊婦が旅行にでかけ、子供が産まれなくなった場合を考えてみよう。この場合は裁判をされても医者は損害を賠償する責任はおわない。一方多くの事例があることを知らずに、医者が「危ないですよ。」と注意したのみの場合には医者はどのような責任を負うべきであろうか。一方政府や行政はそのような場合にどのようにすべきであると、医者を指導すべきであろうか。これは生産物責任法における注意書きの仕方の問題と似ている。また、ソ連における保険の概念のなかったこととも関連しているし、ソ連における倒産の問題とも嬉ヨ連している

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。 

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このように考えると、自由は危険を察知する自由も含まれているのかもしれない。倒産の危険や、保険における危険の概念のなかに 

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はそのような考え方を明白にみてとれる。旅行の危険についても、人は多くを察知して、旅行にあたっては危険でないホテルなどを選んでいるのかもしれない。ミルの薬の注意書きの例にしても、それは自由の危険性に関する注意書きなのである。 

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欲望と危険・危険を回避する欲望(自由)と危険を求める欲望(自由) 

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「注意書」あるいは、「予定的証拠」(preappointed evidence)とミルがベンサムの使った用語を適切であると認めているものは、欲望とどのような関係にあるのだろうか。ミルは「自由とは己れの良欲するところを為すにあって、その人は何に墜落することを欲してはいないから」「自由に対する真の侵害」とはならないであろうと答える。この考え方によれば欲望をなくすことは危険をなくすことになる。一般には「自己の欲するところをなす」というのが自由であるという定義はアリストテレスが民主主義における自由としてはあまり適切なものだと考えていないものである。民主主義においては人々は自由を独裁者に侵害されたくないから、自由を民主主義者に預けるのである。侵害されたくないというのは、侵害されずに自己の欲望をなすということであるから、自由な活動をするということである。自由な活 

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動をするということは危険を伴うが、自由に選択ができるということであるから、危険な選択を行なうことも、危険を避けて安全な行動をとることもできる。もし欲望を避けて禁欲主義をとり、自由な活動をしなければ心の中であらゆる活動をすることができる。それが「すっぱいぶどう」であるかどうかは別としても、実質的自由をおいかけることなく、形式的自由のなかで様々な自由を心のなかで考えることができる。しかし「すっぱいぶどう」であるとして現実を追い求めなければ、経験的真実を軽視することになりかねない。すっぱいぶどう(ぶどうはすっぱいぞ)の考え方は心の中を平安にすると同時に、心の中に絶対理性を発生させる可能性があるというバーリンの危険性は増大する。 

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欲望をなくすことは現実の危険はなくすが、絶対理性のような非現実な危険を増大させてしまうかもしれない。  

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自由の制約を危険によって知ることと、依存に対する干渉されない自由はちがう。 

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自由が危険である。自由な活動が危険であるということは、ある限度からはみだそうとする可能性があるということであり、自由の危険の認識すなわち、ある限度と、即ち、自由の制約について知ることである。つまりそれはわがままの限度を知ったりして、自分を制約する妨害・->->->->->->->->->->->->->->->->->-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->自分の手によって(試行錯誤と自覚するかしないかは別としても)自由を制限する障害物を探し求めてしまうということである。ところがそれはバーリンのいう干渉されない消極的自由に対立するものであって、絶対理性によって自己実現した人が、他人にその自我を押しつけ強制しようとすることに反発し、その絶対自我をはねのけようとすることである。従ってそれは自由の危険を知って、自由を制約するものを自然に知ることとは違う。それは依存する人、依存してこようとする人をはねのけるという考え方とよく似てい 

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る。政府の政策として左翼の政権のように政府に依存してくる人をはねのけないという政治は、財源や手間の許している間は何の不可もなく最高のようにみえる。しかし財源や手間が許さなくなった時には、それはすねること、サルキングと映るようになるのであり、そこから脱出するには独立をすすめて、すいせんするしか方法はなくなる。 

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自由と危険を防衛すること。危険の確率に見合った防衛をすること。 

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過度の防衛と適切な防衛の差異はどこに境界線を引くべきか。自由は危険を伴うから、自由は防衛されるべきであるとしても、その防衛の範囲については様々な人によって意見がわかれる。非常に防衛的な人は自らの自由をその危険の予測のためにすべて制限してしまうかもしれないのにたいして、あまり防衛的ではない人は、自らの自由を危険の予測のために制限することが少なく、時には何におちてしまうかもしれないし、本当に危険なめにあうかもしれない。しかしその危険を、「試行錯誤」といってのりこえていくかもしれないし、のりこえられなくて登山家が遭難するように死んでしまうかもしれない。しかしその人は死の本能があったのではなく、生の本能があったのではあるが、また危険にたいしては様々な防衛を行なっていたのではあるが、あまりにも危険の多いところにいたために、 

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たまたま雪崩などにあって、その危険を避けられずに死んでしまったということになる。サーカスの団員がロープをふみはずして落ちて死んでしまうというようなこともありうる。これは自由は危険を伴うということの証明ではあってもその防衛をしていなかったことにはならない。より危険の多い環境においては安全のためにより多くの防衛をせねばならないし、あまり危険のない、危険の少ない環境においてはそのための防衛の量は少なくて済むのである。これは国の防衛予算の数量についてもいえるのであって、防衛軍の大きさについて論ずる時にもいえることである。 

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適切な防衛とは、自由による危険の大きさの確率にみあった防衛の施策を講じることである。 

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あまり危険がないのに過剰な防衛をするとすれば、その人は逆に危険のために自由を制限しすぎたといいうるであろう。これは性格の傾向としても指摘することができる。恐怖 

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政治においては、あるいは、依存的で自由奪取的な人間関係においては自由は無制限に近い程に制限されている場合が多いかもしれない。その理由は閉ざされた世界においては、外部の自由な世界を脅威や、恐怖と考えてそれらを危険視し、依存と逆依存の一対の関係のなかに埋没してしまって自由を危険のために殺してしまっているのかもしれないのである。 

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東西冷戦後の防衛のための軍隊はどの程度であるべきであろうか。東西冷戦後は軍縮されるべきであろうか、軍拡されるべきであろうか。東西の緊張がなくなったということは東西の対立の危険は少なくなったのであろうか。 

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各人に自由の危険の一覧表はあるか 

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自由にしたら危険であるということの様々な危険に関する一覧表が幼い時から大人になるまでの間に人間は身につける。車にはねられないように、道路は注意して歩かねばならないという規範は危険の認識にもとづくものであって、小さい頃に身につけるのである。わがままでは他人に衝突する。従って「人間は人間にたいして狼であるから、自由を相互に放棄しようという考え方も小さい頃に身につく。「わがままではいけませんよ」ということであり、ホッブズの社会契約説は小さい頃のこの「安全性に対する信条危険の認知」から発生しているのであると私は考える。 

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依存と暴力性 

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依存的な性格の人はホッブズの「万人の万人にたいする戦い」の意味のうちの独裁者にたいする服従者の戦いというような意味において常に攻撃性を有していて、依存からの自由を求めていることを感じることができる。依存的な性格は依存的関係をたちきるための、自分では知らない依存的性格ゆえに、常にすねること、サルキングによる暴力的な転覆をしたいという暴力性がひそんでいることになる。これをラズウェルが攻撃性とよんだとすればそれは依存的な状態によって発生してきたものである。この暴力性はサルキング・すねることというものとして表現されることとなり、その暴力性の程度は大きいものから、小さいものまである。 

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自由から危険へ、危険の防衛から安全へ、安全のなかの自由へ 

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自由は危険であるからこそ、「注意書」が必要なのであり、危険を保険しておく必要がある。その範囲では自由も安全である。安全な自由は注意書に依存している必要がある。注意書は法に似ている。この自由、危険、防衛・注意・安全・安心を自分のなかで自由に自我を確立して行なえることは、全体的に統合されたパーソナリティーをもっているといいうるが、それに反して、他人に依存してこれを行なっている場合にはそのようなパーソナリティーを持っていないことになる。 

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自由を殺すことは安全であるか。自由を殺すことは不寛容か。 

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自由だから安全か、安全だから自由か。自由であっても皆がハトのような性善となる自由を主張すれば、自由であっても安全であるが、逆に皆がオオカミのような性悪となる自由を実行すれば、自由であっても安全ではなくなる。安全は自由とは関係がないのだ。安全であっても自由じゃない場合があるのは、自由を平等のために完全に否定して、安全だといっている場合があり、その場合に自由を主張し、人間の本質にかえろうとすれば、自由主義者は平等主義者に迫害されて平等のために殺されることはありうる。逆に自由主義者に殺されることはないが。自由を殺すことは自由であるよと、平等主義者が自由を殺すことにたいしても、ロールズのようにいうであろうから。しかし、不寛容なそのような主義が自由を減殺しているのは確かである。それは自由とはいえないとロールズはいうべきであったと考える。 

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ホッブズの「万人の万人にたいする戦い」と社会契約は芋 ヒ存からの自由か、自由の相互放棄か。安全と自由

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との関連。 

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独裁が安全でないという『ヒエロ』におけるクセーフォンの指摘は、安全と自由との関連について深い指摘を行なっていることになるマキャベリーが独裁にたいしては自由を求めるために人々にたちあがるであろうという時には、独裁者やそれに服従するものの安全についてものべていることになり、そこにおいてクセーフォンの『ヒエロ』を参照せよと述べていることも参考になる。「たちあがる」ということは安全ではなく、自由にとって独裁は人間の本性にそむくもの、人間の本性である自由にとっては独裁は反するものであるということを述べているのである。人間の自然な不安性についてホッブズがのべるのは、自由の危険性について述べると共に、このような独裁が人間の自然であるということ、しかし、それが人間の本性に反するものだ、それが安全ではないということについて述べているのである。そう解釈した場合には人間の本 

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性を回復するためにはホッブズが自由の相互放棄をせよ、社会契約をしようと述べるのは自由の相互放棄をせよという意図ではなく、安全は自由になることによって得られるということなのだ。独裁から自由とな・->->->->->->->->->->->->->->->->->-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->いうのは「依存からの自由」について述べているのであって、「自由の相互放棄」における自由について述べているのではない。「万人の万人にたいする闘争」において、ある人と他の人との闘争は独裁における独裁者と服従者との戦いなのであって、対象な独立した者同志の戦いととるのはまちがいなのかもしれない。対等な者同志の戦いはたしかに社会契約を「所有権などの譲り合い」、「平等へ致る道」などのために行なわれるのだととらえるならばそれはそれで社会契約の一源泉とはなる。「万人の万人にたいする闘争」という観念のなかには、もう一つ独裁者と服従者との戦いという意味が含まれており、この方こそ安全ではないというマキャベリーや、クセノフォンの 

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指摘はそれから脱出するための社会契約という意味が浮上してくるのである。人間が人間にたいする闘争を行なうのは所有権のためであるのか、独裁を防ぐためであるのかという問題について考察する必要がある。所有権に関する争いは自由競争などの経済学における様々な概念によって説明することができるが、独裁と服従における安心ではない状態の解決には、暴力装置による服従者の不満の圧殺というような政治的な概念によってしか説明がつかないのである。ホッブズが「戦い」を戦争とかのみに限定していたとしても、その戦争を所有権をめぐる争いのみに原因を帰していたわけではないと考えられるから、ホッブズにおける安全は以上のような二つの意味があり、独裁においては両者が依存からの自由を得ること、所有権の戦いにおいては平等のために自由を相互放棄することとうけとることができるのである。 

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戦争における和親や、民事における調停やらの結果の和解はある意味 

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では戦う自由の相互放棄であるが、しかしそれは他の自由の放棄は意味せず、独裁と服従関係における依存からの自由でもなく、しかし安全を得ることができる。アメリカの独立戦争における場合のように依存し、従属していた国家間の状態から独立するということはそれまでの安全でない状態から、安全な独立な状態に移行するということを内包しているのである。依存の状態は安全でないことを意味している。このように現実における戦いも二つの種類に分類することができ、ホッブズにおける「万人の万人にたいする戦い」も二つの意味が含まれていたということができる。 

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自由の障害であった「安全でないこと」が、ないことは、安心であり、自由になるといえるか 

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安全(安心)であるとは、自由を障害するもののないことととらえるならば、ベイのいうように確かに自由と関連していると考えることができる。しかし自由と関連しているととらえることは一般的にはできない。なぜなら自由になれば危険であるからだ。自由意思によってホッブズの意味での戦う自由を相互に放棄すれば安全となる。子供を自由にさせてやるといかに危険であるかは誰でも容易に想像がつく。そして彼らが戦う自由を相互に放棄したとしても彼らが安全でないのも想像がつく。人間の社会的な、政治的な関係においてのみなのであって、そうではなくても、自由にさせておくことのなかには多くの危険が存在する。河のなかでおぼれるかもしれない。自然環境のなかで凍死(熱射病死)するかもしれない。人間の社会が安全であるためには、競 

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争や、戦闘の自由を放棄することはたしかに安全を向上させるかもしれない。日本においては雨に課におけるよりも銃刀の取締が厳しいをフで、そのような紛争にまきこまれることは少ないが、たとえばそのような紛

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争自体の数が多ければまきこまれる総数は同じかもしれない。それは確かに心の問題である。 

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自由は、心の中での「安心は反対、安全の反対である恐怖や、不安」がないことが自由であると定義すれば、たしかに、それは自由と関係していることになる。しかしそれはほぼ同義反復に陥っているようである。「安心がないこと」がないことは、安心である。「安全でないこと」がないことは、安全であるといっているのと同じことになる。 

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しかしこの同義反復は心の中でのことに限っていえば有効になるのだから、ベイのいっていることは心理学や、社会心理学の見地からは有効な分析だということになる。 

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自分は依存的で、依存させてくれる人がい 

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なくなると不安だと感じている人は、そうではなくて自由を獲得するべく自立して、独立していこうと努力するならば、全的統一的パーソナリティーが得られるのだということになれば、これは不安である状態にあった不安であることがなくなったわけであるから、自分の心のなかで安全(安心)になったということになる。 

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これは自分の心の中での障害であった安心でないという自由の障害物をとり除いたという意味では自分で自分の自由をとりもどしたことになる。つまりフロムのいう全く、統合的パーソナリティーを積極的自由を獲得することによって得たということになるのである。この意味では、本来の自由(無)を獲得したといいうるかもしれない。 

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このようなフロムの意味では、ベイの心理学的自由や、潜在的自由は自由の問題であるといえよう。このことは依存における自由の問題と深く関係している。 

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依存と安心、安全 

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依存は、他者との依存によりなりたっている状態だから、他者次第であり常に安全(安心)ではない。依存させている人が、目を離したら不安になる。そして他者に依存しているから自由ではない。依存と干渉はほぼ同じである。 

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依存は権威と盲従の関係にあり、権威の側も盲従されている側に依存しており、安全ではなく、盲従している側も、権威に依存しており安全ではない。これをクセノフォンは『ヒエロ』のなかで、独裁者にむかってあなたは町のなかを安心して歩けますかという質問でその不安を端的に表現している。マキャベリーもクセノフォンの『ヒエロ』は独裁について学ぶのに最も適当な書物だと述べ、また、ルソーは絶対王権(国王)と臣民との関係は両者ともの自由をなくしているということを、奴隷の隷属として述べている。この隷属は 

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依存という概念とほぼ同じである。 

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安全な環境と自由の相反性 

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安全でなければ自由ではない。しかし、自由だから安全であるとは限らない。安全は人間の環境や状況である。安全な環境においても人々が自由をいいだし、例えば武器をもつ自由を主張するようになれば、安全で、安心な社会でなくなるかもしれない。そのような社会でも、個人個人が銃をとって戦う人間ではなくて、攻撃性をなくした、あるいは、攻撃性をスポーツとかで昇化し尽くした、安全な人間になれば、それで社会は安全で安全な社会になるのではないかという論理もありうる。この議論は自由と平等の対立とよく似ている。安全は平等とよく似た概念である。社会が平等であれば安心であるが、その時には自由を殺しているのである。安心になるためには攻撃性も、銃をもつ自由を捨てなくてはならないが、その時には自由を殺しているということもできる。 

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自由は安全ではないから、社会契約によって安全を確保しようという考えは自由の危険性についてのべると同時に、社会契約は自由の放棄に関する同意なのだという論理を含んでいる。自由の放棄は本当に安全にするのかという問題は人間の本性が人間の人間にたいする闘争状態であるのかという問題と根底においては相通ずるものがある。自由であっても、危険を保険する制度が整っていれば、安全な社会は存在しうる。逆な場合も存在しうる。ということは社会契約と、自由の放棄とは直接的関係はないということになる。自由の放棄をしていても非常に危険な社会が存在しうる。というのは、自由の放棄をしているゆえに、悪い侵略者にたいして防衛する武器をすべて捨てていために、侵略者にたいする防衛ができないこともありうるからである。侵略者も武器を捨てているのであるから、安全だという 

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ことにはならない。侵略は自由を放棄していようが、闘争と同じことで・->->->->->->->->->->->->->->->->->-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->人間の社会ではありうることであり、共産主義社会においても実際に侵略が起こったのは闘争がおこったからである。闘争の自由を完全に放棄していなかったから、闘争がおこったのだというのは詭弁にしかすぎない。闘争が存在することは認め

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ているのであろうからだ。 

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不安の構造は依存から生ずるか 

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ベイの『自由の構造』とは不安をもつ人がどのような心理的構造をしているのか、そしてその不安をとり除くにはどのような方法があるのかについて述べているのであって、フロムの『自由からの逃走』も、ホッブズの闘争状態が自然状態であるという説も、どちらも不安から脱出することが必要だ、そのためには全体主義がドイツの全体主義では必要であったし、ホッブズにあっては社会契約が必要であるという論法をとったのであると考えられる。その時の不安の構造を後天的なものとして分析し、その不安や、恐怖からの自由により安心にいたる方法について分析するという方法をベイはとったのである。私はその不安の構造を依存的な性格により自由をなくし、危険性のある自由につきすすみ、自らの力で危険を回避する方法を知ることのなかった依存的性格(家庭から生ずるような)に求めるのである。 

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自己の絶対理性にのみこもることから生ずる絶対性に対立する(相対)政治恐怖症 

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政治恐怖症、これはアナーキズムと似ているが、これは絶対理性論と同じであり、他の人の政治的意見を聞いて討議し、討論し一つの結果を導き出していこうという考え方ではなく、同じ政治であっても独裁的な政治のみを政治と考えるものであり、それは依存から発生しているといえる。 

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依存性、性格、破壊性 

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依存することが常態となっている人が、ある時依存できない状態になれば政治恐怖や、不安や、不機嫌や、破壊性が発生する。従って依存的な性格の人の性格は自分では良いと思い、そのような評判を強制することになりがちではあるが、依存されている人にとっては依存する人を良いとは思ってはいないし、また、外で独立して生活している人も依存している性格の人の性格が良いとは思っていない。しかし依存している人は依存されている人にとって自分はなくてはならない人間であると自分でサディスティックに思い込んでいるので、自分は最もちやほやされていてよい性格であると思っている。だから、性格は依存的な程よいという説をとる。ところが一旦その人は依存できないとなると不機嫌になり、破壊的性格となる。そして依存できている時は依存されている人に向かっても上機嫌である。依存できている時には、それも完全に依存できていて、何一つ心配事も、自由の危険も存在しないのであるから、完全に自由の状態である。それは依存の範囲内においてのみの完全な自由であり、満足して笑みさえでている。その笑みは依存の状態のなかのものであり、その自由も依存の状態のなかのみのものである。その笑みに一時は皆がだまされてしまう。ところがそこにはキバが待っている。そしてその人が依存できないという状態に陥ると、その人は狼(オオカミ)になってしまう。そこには巨大な破壊生が待っている。 

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破壊性をなくすという目標を追及すれば必然的に民主主義の追及という目標が追及されねばならなくなるというラズウェルの『権力と人間』における提案のなかにはこのような現象も考慮されていると考えるのである。またフロムの自由の目標として主張する全体的で統合されたパーソナリティーの概念のなかにもそのような含意があると私は類推する。フロムの場合には自由から逃走して政治心理学的にマゾヒズムにむかうというなどしてこの傾向は明白であるが、ラズウェルの場合には民主と自由との関係、そして民主的なものを破壊するものは何かという問いの中にそれが推測されるのである。この場合の依存とは奴隷状態という社会的、法的、政治的状態とは違っている。実際にそのような状態にあってもなくても、つまり社会的に、法的に、政治的には自由があってもなくても、とにかく依存している状態にあることを言っているのであることは論を待たない。 

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依存における安心と、隷従における不安 

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依存と隷従の違いは、依存は生活に不安も不満もないのに対して、隷従は生活に不安や不満があることである。依存における安心は逆依存の関係の人が依存からの離脱を求めた場合にはいつ不安と変化するかもしれないし、そこにサルキング・すねることや、暴力性の存在する余地がある。 

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恐怖政治と政治恐怖 

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恐怖政治と性格のなかの恐怖、例えばハウス大佐にみられたような恐怖症(フォビア)とは直接的に結びついていると考えられる。どんなに金持ちであっても、他の人から財産をとられて、いつでも無一文の状態や、十二人の人が三人の食糧しかない状態になるのではないかと、いつも恐怖をもっている人が存在するし、無芋齦カに近い状態の貧乏な人でもそのような恐怖症におびえずに気楽に楽天的にやっている人もいる。貧

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しくても十二人には十二人分の食糧をいつでも作れるさという考えや、その他の楽天的な考え方をもっている人は、人々がいろいろな意見を出して討議して政策を決めようとすること、すなわち、政治そのものに恐怖をいだきがちであるので、政権をとった時にも恐怖政治を行なう。 

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政治にたいする恐怖と、場所恐怖 

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場所恐怖症における例において自由が減じられていることを証明するためには、場所というものによってではない、依存という社会的関係が自由と関連していることを証明する必要がある。 

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秩序と安全と自由 

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安全は、秩序を形成するかもしれない。あるいは秩序は安全であるかもしれない。しかしそれが自由の制限によるかもしれない。自由を制限しないでも、各人がバーリンのいう干渉しない自由と、干渉されない消極的自由をもっていれば安全で、秩序だった社会においても自由が保障されうるかもしれない。バーリンが望んだのはそのような理想の社会であるということができるし、フロムのいう全体的で、統合されたパーソナリティーの追求もそのような自由で、安全な、秩序のある社会を求めていたのだということもできるであろう。バーリンは自由と安全とについてそのような意味での言及は行なってはいないのであるが、人間の本質を保障するという観点からそのように推論することはできると思われる。 

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自由と安全。ベイの安全と自由。安全の観念は自由論のベースであるか、自由の結果か。 

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ベイは彼にとっての安全(security)の定義を原著書六六頁において「他のいろいろな価値を楽しむことがいつでも現実的にできるか、あるいは、できると認知されていること(the actual or perceined probality over time of the enjoyment of other values)」としており、同著書六七頁においては、主観的安全(subjectine security)を不安(anviety) 、あるいは、恐怖(fear)が相対的に存在していないことであると定義している。六六頁においてホッブズの安全の概念とは違い安全の定義をし、議論するにあたっては、心理学的側面を考慮するという宣言をした結果、主観的な危険の知覚と客観的事実としての危険を区別したのである。同七四頁においては、客観的な安全を定義して、「危険が相対的にないことである」と定義する。(the relatine absence of danger)しかしここで有機という古い政治額の目標とされたものを 

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考えてみればどうなるであろう。現実の危険性が高くなればなる程、人は内心に不安を感じるであろうが、それでも有機をもって勇敢に戦う人もいれば「おじけづいて」(この意味については別に考える)逃げてしまう人もいる。同じ現実の危・->->->->->->->->->->->->->->->->->-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->たいしても二通りの自由な選択が存在し、客観的安全と、主観的安全は相互に関連していることがわかる。 

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しかし安全の観念は自由にとって最も重要な観念でありそうなのは、ベイが主張するような理由によってではなく、ホッブズの自由の観念が彼の安全観という性格的なものから生まれたのであろうという過程と、ベイの自由観念が彼自身の安全に関する観念から生まれたのである、という理由による。ベイの理論や、ホッブズの理論は原因と結果とが逆になって説かれているのだと私は考える。常に取締まりを厳重にし、ニュースなどで報じられる殺人の様々な形態が自分にいつでもふりかかってくるであろうと四、六時中(over time)考えている人は、そのために自 

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由が心理学的に少なくなり、その人の書く自由論は安全を中心にして自由論をかかざるをえなくなると私はいいたいのである。逆に、そのような事件は自分がすべての人とうまくやっているから、自分のいる環境では殺人事件などはおこりようもなく、人間と人間は自然的な状態においては自由と平等な状態にあるのだから、平和であり、いつも取締まりしておく必要がないと考えるのであるならば、そのような環境を「原因」とした自由論がかかれるであろうということを私はいいたいのである。それは環境によるのであると私はいいたいのである。ミルの自由論はそのどちらもカバーしているのかもしれないし、フロムの自由論は自由で平等な平和な人々の自由のことについて述べているだけのことかもしれないのである。日本の農村地帯においてはほとんどの家のドアはカギがかかってないし、窃盗のようなものがおこったという話もあまりきかない。とられるものがないのかもしれないが。 

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しかしそれはおそらく農村の安全と関連するだろう。日本における自由は、ベネディクトのいう「菊」と、「刀」との二つの対比によって示された状態から類推すると日本の鎖国時代の安全からきているのかもしれないし、フランスの農村のワインのみすぎの話も、農村ののどかさという点において日本の農村に似ているのかもしれない。 

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しかし自由の「危険性」、つまり、「安全の反対」の概念について述べるのは、安全の結果について述べているのではなく、バーリンのいうように自由を原因としておこる何ものかについて述べているのであって、安全の結果生ずる自由について述べているのではない。人間の本質としての生の本能の対立物である、自由について述べているのであって、その自由の概念は普遍的なものであって、安全やその他の価値の下にくるものではないと考えられる。人間は自由の結果として平等を知るのであって、平等の結果として(あるいは安全の結果として)ドゥウォーキンのいうように表現の自 

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由のような自由の絶対性があることを知るのではないのであり、ドゥウォーキンの理論も政治的議論としては、また、哲学的議論としては本来てん倒ということができると私は考える。自由によって平等を知り、自由によって安全を知るということの方が原因結果の理論としては正しいのであると思われるが、性格的に固定した人(安全の方に固定した人)は、安全が先にあってそのあとに自由が生まれてくるのだと考えがちであるが、ある人の安全の概念は他の人の自由と、自分の自由の概念や、自由な活動のなかから生まれてきた概念なのであって、安全が先にあるわけではないといいうる。家庭のなかで安全の観念がつくられ、それが性格として固定するとしても、その安全の観念は家族の自由な活動のなかから生まれてきたものであってアプリオリな、先天的な概念とはいえず、自由こそがアプリオリな概念であり、家庭の中で安全や、平等な概念が育つとしても、それは家庭の自由さのなかにおいてであると考え 

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られる。 

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このような論理からすればバーリンの自由に関する概念は人間の本質的なもの、人間の最根源のアプリオリなものをとらえて、社会的、政治的に主張したものであるといいうると私は考える。それは法学的にも、法哲学的にも応用できるものと考えることができる。しかしそれは平等論の方からドゥウォーキン氏のように大きな反論が加えられるであろうが、ドゥウォーキン氏もその平等論がどのようにして発生したのかを考えてみて、人間の本質としての自由の考え方にたちいれば、その反論はナンセンスなものだということに気付くのかもしれない。 

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それでは動物の本能は安全なように組み込まれているのであろうか。毛を冬になれば多くし、長くする動物の本能は確かに安全であり、危険を少なくするために役に立っている。ところが人間は南極探険や、熱帯探険においては凍死したり、熱射病で死ぬこともある 

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。自由な冒険家は生の本能があるにはあるが、この危険性、自由の危険性を味わっており、楽しんでいるようである。生の本能は人間の自由を安全の方向に向けているようである。こう考えると安全は、生の本能という人間の本質と最も近いようであるし、人間の自然回復の能力、自然治ゆの能力(本能)も、安全と最も関連しているようである。つまり、安全は本能と最も近い概念であり、自由とは最も遠い概念であると考えられる。依存的な人が依存的な体制を最も安全だと考えるのは、依存的に育ったから、それを維持し安全とするためであり、その逆の場合である自由で独立的に育った人は依存的な制度下でも、独立的な制度下でも安全を維持できるのはその人間の本性からくるものである。ただし思想・表現の自由を行使して、依存的な制度の下で、独立的な制度を主張しなければの限定的話ではあるが。 

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『正義論』のなかのジョン・ロールズの第一原理は平等な自由について先に述べ、次に 

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平等化のための格差原理について述べている。それはまず、自由という人間の本質的なものを尊重し、次に(第二二)安全のために(おそらくねたみや、しっとをなくし、それに応じて義賊の心理に金持ちが答えるという意味で安全のために)格差を平等のために是正しようと考えた点において、自由と平等と安全とをその人間の本性的順序においてとらえた点は評価できると考えられる。バーリンの自由論についてロールズが述べている点はその意味で非常に重要であるといいうるのである。 

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バーリンが干渉されない消極的自由を擁護するにあたって、自己実現や自己否定(自己を否定し、経済という永遠なるものに従うという素朴な意味での)とかの発生してくる機条や、万国の労働者を団結させる地

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位の要求が、干渉されない自由の反対物であるとして様々な反ばくを加えたことは、干渉されない自由というア・プリオリな人間に備った本性について 

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述べようとしたのだととらえるならば、バーリンの「二つの自由概念」の与えた影響が本人が考えた以上に大きかったのは、当然のことであったのであり、逆に安全をこそ重視したベイの『自由の構造』論が心理学的側面を重視したにもかかわらず、ロールズや、ドゥウォーキンによって論じられなかったことには意味があったのだと考えることができる。しかしベイの「安全」の概念こそは、心理学的な側面を重視すれば重要な概念でありうる可能性がありうる。それは依存は本能的な安全を求めようとする人間の本能からきているのだという点においてである。 

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人間が自然状態においてホッブズのいうように闘争状態にあるのか、自由で平等な平和な状態にあったのかについては、どちらも存在したということのほうが正しいのであろう。自由であったからこそ平等を発見したりして平和であった可能性もあるし、自由であったからこそ闘争し、危険な状態であったのかもしれない。それは時 

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と場合によったというほうが正しいし、それは時間的に原初(始原)状態においてどちらであったかと問うことはナンセンスである。同じ自由な人間の集合した社会にあっても、ある時は平和な状態にあり、ある時は、安全ではない闘争の状態にあったと考える方が正しいと考えられる。自由はそのどちらも生みうるのである。同じ時点においてあるところでは訴訟が行なわれており、他のあるところでは平和であり、また他のあるところではその訴訟をなだめるためにコモン・ローや、イクウィティや、ローマ法や、その他の制定法やらが使われているのである。 -->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->/P>

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第四章 自由の定式化 

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自由の概念 

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G・C・マッカラムは、自由を定式化して自由の主体が、自由を妨害されることなしに、自由な活動ができることであるとした。そしてすべての自由に関する言説はこれら三つのものの三者関係を含んでいるのであり、それらのうちのどれかを強調したり、どれかを重視したりすることによって自由論が様々な形態をとっているのではないかと考えた。これにたいしてアイガイア・バーリンは干渉されない消極的自由が自由の本質なのであると反論する。これにたいして自由な主体は人間であるのだから、人間の本質としての「本能の代置物」としての、本能として固定されていない自由な人間に内在する能力こそが、干渉されない自由を要求し、自由な活動を人間は行なうことができるのである。従って人間の本質であるところの内在的な自由に着目すればマッカラムとバーリンの対立も人間の本質 

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は自由にあるという理論によって解消できると思われる。J・S・ミルが『自由論』のなかで述べる自由な人間の性格や、アーレントが『政治と自由』のなかでのべる「ものごとのはじめ(ビキニング)としての自由も、人間の本質的自由に着目すれば、それ程対立した概念ではないということになる。 

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自由の複合性と、各要素の単独性 

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自由の本質を考える時に、マッカラムのいう自由の三主要構成要素の三者複合体だという考え方はあまり本質的な意味がないのかもしれない。たしかにある一つの自由には三つの要素が複合になっている文章ができるかもしれない。しかしそれらは自由の主体性、自由の積極性、自由の消極性の三つの自由の性質はそれぞれ別個に存在するのではあるが、それにもかかわらず一人の人の自由についてはそのような文章が成立するかもしれない。自由の本質はすべての人に適用されるのであるから、自由の属性のそれぞれは独立的に存在する。三者が一体として一つの作用をするのは、ある一つの自由な活動を描写する時にはその自由な活動をした主体は何か、その自由な活動をしたことにたいする妨害はいかにして排除するのかということが問題となるからである。ところが、自由の主体と、自由の 

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積極性と、自由の消極性は自由の属性としてどのように関わりあいをもつかということを哲学的に考察することの方が重要であり、それがこの三つの複合体が自由だという結論にいたるのか、あるいは、自由の一つ一つの属性は独立的に存在しているという結論にいたるのかということは自由をじゅうぶんに考察してから各自がだす結論なのである。 

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分析哲学的に、自由のことばの分析を行なうと自由の三要素論となる。 

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自由論のなかでもマッカラムが積極的自由と、消極的自由とを概念的に明らかにしようとして発表した論文のなかにあを轤れる自由は三つの主要な要素があるとする考え方は、自由の概念を体系的にとらえる場

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合には、最も有効な分析手法であると考えられる。この考え方はプラムナッツや、オッペンハイムのような分析哲学の手法、つまりは政治や政治学のなかにあらわれてくることばを徹底的に根本にたちかえって分析していこうという考え方から出発したものであると考えることができる。 

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自由の主要な三要素と、その他の五構成要素、それらの関係。 

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ある環境のもとで、ある自由な人が、他の人に依存せず、自分の社会的目的や社会的欲求のために、そのための能力があったので、妨害や障害を排除して、妨害物や障害物がないので、ある自由な活動をした。これが自由な活動や、自由な行動について自由の主要な三要素と、その他の構成要素を含めた自由の概念であるということになる。しかし自由の主要三要素のみでいえば、自由な主体が、自由を妨害するものなしに、自由な活動をすることが自由である。そのどれとどれが最も関係が深いのかは、それぞれの自由な活動の種類いかんにかかっている。ある人は自由を求める政治活動を重視して自由論を展開するかもしれないし、ある人はベイのように安全な環境を最も重視して自由論を展開するかもしれないし、ミルのように自由を行なう人を中心にして自由を 

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論ずるかもしれないし、ある人は、自由を行なう主体が様々であることを中心にして自由論を展開するかもしれないし、エピクテトスの自由論のように欲求と、欲求のない時には自由な活動をしようとは思わないということについて重点的に自由論を展開するかもしれないし、ある人は自由な活動が様々であるとして自由な活動の分類整理を行なうかもしれないし、ある人は自由化への政治活動を行なう時の自由の障害物や、障害物について分類整理するかもしれない。バーリンのように干渉されない自由のみを主に主張して自由化への活動について主に述べるかもしれない。 

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P1257 

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自由の定式化(環境を含む) 

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ある環境において、ある人が、他の人の障害や妨害がなく、あることをする能力と、あることをする資源をもっていて、あることをする意思を有していて、あることをすることや、あることになることができることが、自由である。ある人があることになるとは、あることをすることによってなるのであるからこれもあることをするということと同じことになる。 

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P1258 

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自由の定式化 

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ジョン・ロールズが『正義論』で自由の概念について述べる時、マッカラムからの引用を行なっているが、マッカラムは自由を定式化するにあたって「AがPをするについてBから自由である」と定式化しようとしたが、そのなかでの環境の位置は障害物であるBに環境があたっているのか、環境がPをする誘因となっているのかを区別しなくてはならない。アウシュビッツの環境はユダヤ人に死を選ばせると共に、自由に行動する環境をなくし自由な行動の障害物となっていた。Aの環境と、Bというものの環境や、Bという人の環境、Pという行動の環境が分析の対象となりうる。 

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P1259 

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マッカラムの自由の定式化に対するバーリンの批判の誤り 

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私がバーリンの誤りとして指摘したいのは、バーリンがマッカラムの自由の定式化を批判するにあたって、マッカラムが自由は三要素の総合的なものであるといったのは誤りであると論争するのに、その理由として、自由を求める「自由の定式化の外にいる他の人の活動」は常に妨害を排除し、干渉を排除するという干渉されない自由についてのみいっているのであって、その後の自由な活動については全く考慮していないのであるといっている点である。フロムにいわせるならば、干渉されない自由をえても統合的パーソナリティーがなければ自由な活動さえできないのであるから、形式的自由としてそのようなものが得られたところで、そのような自由を使えない人が生まれたらどうなるのかと反論してくるであろう。現実には普通選挙権 

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P1260 

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を求める活動をしている人々は、その後の選挙権の使い方について彼らを説得する材料として使っていたりしている場合が多いと考えられるし、普遍選挙権を得るであろ・->->->->->->->->->->->->->->->->->-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->人もそれが得られたら投票できることは知っていると思われる。自由の三要素の外にいる人が、自由を求める活動をする例は数多いし、そのことと自由が三要素の関連性とは無関係であると考えられるのであり、マッカラムのほうに勝ちを与えたい。バーリンの真骨頂は干渉されない消極的自由を、定式化し、その範囲を定めようとしたという政治哲学上の位置にあるのであって、それは何ものにもかえがたい宝の宝庫なのであり、それこそ彼も自負するとおりに人歴゙

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の知的遺産なのであるといえる。それは自由の三要素を賞賛し重要視したからというのではなく、他の自由の主体(依存的か、独立的かとかの分類も含む)と、様々な自由な活動を可能ならしめるからこそ 

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P1261 

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与えられる栄誉なのである。その人類史への貢献は大きなものがあったと考えられるのである。 

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P1262 

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バーリンとフロム等々のいう自由論の図式化 

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このほかの人々の自由論もこれによって図式化することができる。 

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P1263 

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現代自由論の課題 

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自由論の現代的問題は、・自由の主体、・自由を妨害するものは何か、・自由によって行う活動の三つの要素をどのように分析し、ある環境のなかで生きていく人間、それも自由な人間を総合的にどのようにとらえるかということである。この三つを自由として総合的にとらえるのではなくて、人間として総合的にとらえるのかが問題なのである。この総合性は自由な人間同志の全体である社会をとらえる場合の根本問題となりうるし、政治学や経済学の根本問題ともなりうる。バーリンは・の自由を妨害するものがない状態こそが自由主義の本質であると主張するし、・の自由によって行なう活動こそが自由主義の本質であるという主張もある。・の自由の主体を自由論のなかで強調する立場は、自己の自由と他人の自由との総合としての社会や、平等な 

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P1264 

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配慮と尊重を自由な人間同志が行ないあいながら社会を形成していくべきであるという立場をとることとなる。 

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マキャベリーやらのいっている自由が、・に重点を置いたバーリンの消極的自由の状態をさしていたのか、・の自由な活動をさしていたのかについては、文献を詳細に調べてみる必要がある。『キリスト者の自由』が干渉されない消極的自由を主張していたのか、宗教を信教する自由、・の活動としての自由を主に主張していたのかについても、詳細な検討が必要であろう。一般にはある干渉を排除して、ある自由な活動を、ある人やある集団がしようとするのが、自由の政治的な意味ではあるがバーリンのいう干渉されない消極的自由の状態の範囲が、確定されなければ、自由な活動も、何もしないことも存在しえず、そのような状態を求めるという動きは(政治的な動き、政治活動という意味での動きは)、 

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P1265 

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自由のためにはまずもって最初に必要な「自由のための戦い」ではある。しかし、その後自由な制度がその結果として獲得され、憲法や法制度として確立されたからといって、それでじゅうぶんではないというのがフロムの意見であろう。私有制度の下で私有財産として干渉されない自由が認められたからといって、他の人との平等なことやらを考えないで、自由に処分できる完全な権利が与えられた、所有権の完全性がある、と考えるのはまちがっている。プライバシーの権利として何をか守ってやることは必要であるが、完全にすべての権利をもっているのではないというのが、ドゥウォーキンの考える平等な配慮と尊重ということであると考えられる。それがドゥウォーキンのいう財産権に関する干渉されない自由は存在しないという考え方なのである。それはある意味ではバーリンのいう干渉されない消極的自由が認められてからあとのことであるが、そのなかでも「積極的な自 

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P1266 

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由」が必要だというフロムの考え方や、そのなかにあっても平等な配慮と尊重は必要だという考え方になるのである。 

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ということはこの・と・との関係は、時間的な順序の問題なのであろうか。ある意味では・により妨害は排除したあとでなければ、それに関わる・の自由な活動を行なうことはできないのである。しかし・が全く存在しないような自由な活動においては・の自由な活動のみが意識されることになる。もし自由な活動で、空気をすう自由のような・が全く存在しないような自由な活動があれば、・のみが問題となるのである。ところが、タバコを多くの人がすっている部屋で、よいタバコの煙のない空気をすう自由という形容詞をつけるならば、そのためには禁煙を行なうか、部屋を禁煙用と喫煙用に分けなくてはならないことになる。自分が喫煙の部屋から逃げ出すという方法もある。最後のものは自己否定とバーリンが名付けたものであり、禁煙 

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P1267 

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を他の人々に強制(強要、強迫)することはバーリンからは積極的自由といわれてしまうことになる。それに対して、禁煙室と喫煙室とに分けることはどちらも干渉されない消極的自由を残したままの対応ということになるが、もし資源が存在せずに、そのような二つの部屋に分けられないという場合には、一つの部屋を部分に分けることになる。しかし部屋が更に狭くて全くもって部屋を二つの部分に分けることさえできない

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というのであれば、その場合には禁煙を積極的自由によって喫煙する人に強迫せざるをえなくなる。 

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このように自由は環境あるいは資源とも関わっていることが分かる。関わっているからといって自由の大きな要素であるかどうかについては考察の必要がある。資源や空間が存在しないと、自由が存在しない場合がある。自由の干渉に資源や空間が該当する場合がこの場合である。この場合のように、資源や空間がないと自由が存在しえない場合もある。が、先に述べた禁煙の例のように、個人の自由な活動を主に考えて、個人から他のすべての人までの全体を囲むよ 

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P1268 

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うな環境としての資源や空間が考えられる場合がある。この場合の資源や空間は環境の一種と考える方が妥当といえるかもしれない。 

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P1269 

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「バーリンの自由」の三要素の分析 

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自由の三要素について、自由の主体を「政府と国民との関係」、障害や妨害を「政府の国民にたいする妨害や干渉」、自由な活動を「政府の干渉する範囲の活動と、その干渉しない活動」とに限定して論ずる場合にはバーリンの理論的分析は、出色のものとなる。 

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政府という主体が国民の消極的自由にどの程度干渉するべきか、国民という主体が政府野積極的自由をどの程度許すべきか。そして政府という主体が国民の消極的自由をどの範囲まで認めるべきかをバーリンは主要な課題とし、積極的自由のおこってくる理由を二つの自由論によって展開した。バーリンが「二つの自由論」のなかで展開した理論はこの三要素の三角関係を分析したものだというマッカラムの解釈についてバーリンはそうではなく、消極的自由こそ自由の本質であると述べる。 

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P1270 

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消極的自由は妨害や、障害を排除しようということであるから、それはすべての自由を求める政治運動の中心的概念ではありうるが、それがその後どのような自由な活動を求めているのかを明白にしないという点では、自由のすべてを表現しているとはいえない。 

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P1271 

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積極的自由と消極的自由の対立 

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バーリンのいう積極的自由が多くなれば、相対的に消極的自由は少なくなる。バーリンにとってこの命題が自由論の根本をなしたととらえられる。しかしこれはあたりまえの命題である。ある人の活動の自由が多くなれば、それが他の人に向かっている場合には当然に他の人の妨害や障害となり、それゆえに、他の人の自由は妨害されるゆえに少なくなる。従って積極的自由は他の人と・->->->->->->->->->->->->->->->->->-->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->->になるくらいに少なくしなくてはならない。それが他の人の自由との対立による見えざる手によるものであろうと、平等の自己概念によろうと、政府の規制によろうと。 

<!--[endif]>

しかしバーリンヘこの当然の命題について述べているわけではなくて、積極的自由が「高い自我」として他人に強迫し、干渉する場合の積極的自由について述べているのであって、他の人間を自由な人間として扱うのではなくて、「人間の管理を物の管理にかえる」ことによって積極的自由を行使する場合のこと 

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P1272 

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について述べているのである。これにたいしてフロムのいう全的パーソナリティーとしての積極的自由は、相手との平等のことも考えながらも、与えられた制度的自由のもとでその与えられた自由を積極的に自他にたいして使用して、社会を活性化し、自分の活性化することをさしているのだと考えられる。 

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P1273 

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すべての自由を求める活動は、ある障害や、ある妨害や、ある干渉や強制を、「排除する」ことを目的とするものである。こう考えるとこの意味での自由はすべてバーリンのいっている干渉されない消極的自由である。ある自由な活動をすること、それが目的であったとしても、自由を求める活動は消極的自由のみを最初は必要とし、それが達成されたあとでその目的である自由な活動ができるようになるのである。人間はもともと自由であるからそれは人間の本性であり、自由な活動をすることを人間が「目標」として自覚することは絶対にありえない。それは無であり、人間の自然である。人間が自由を求める活動をするということは、干渉や強制や妨害や干渉を排除したいということしか人間は意識しないのであって、バーリンのいっていることはこのように解釈すれば完全な真理である。 

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P1274 

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この場合の自由を求める活動は、法制度としてそれを求める場合にはその国法が適用される国民一般が主体として考えられており、ある人のためのみ妨害を排除しようとしている時は、その人のみが主体である。ところが自由の主体や、自由な活動についても分析しなければならないとして、バーリンのいう消極的な自由はこれらとの三角関係のなかにあるとするマッカラムの解釈は自由の本質は社会的には他人やらの干渉を排除することなのではあろうが、その干渉を排除したあとの自由な活動がどのようなものであるのかも択溷

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切であると考えれば妥当性を有する面もあある。フロムのポジティブリバティーも、その後の自由な活動について言及しているのであるからだ。従ってこの論争はいずれが正しいとも決着がつけられない。社会にとっては他からの干渉をなくした状態こそが自由であるというバーリンの説はシュタイナーのいうとおりに自由は他人との人間関係においてのみ問題となるとい 

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P1275 

<!--[endif]>

う説と近いということになる。なぜならば、他人からの干渉を排除するという点に自由の意味を重点的にとらえているからである。自由を求める政治活動においてはほぼそのような意味に自由をとらえられるということとそれは関連していると思われる。 

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P1276 

<!--[endif]>

自らの不自由を、自らの力によって回復することができる。 

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自分を制約している誤った考えから自由になることや、あまりに規範意識が強かった人が、現実の自由の危険性はそれ程でもないという理由から、自ら、自らの力で、自然に自由になるケースはありうる。 

<!--[endif]>

David Miller,Liberty,OUP, 

<!--[endif]>

Erich Fromm,Escape From Freedom,New York,1941.p.258.  

<!--[endif]>

John Stuart Mill,On Liberty,London: J.W.Parker,1859. 

<!--[endif]>

Ronald Dworkin ,Taking Rights Seriosly,Harvard University Press,1977. 

<!--[endif]>

Encyclopedia Social Science, 

<!--[endif]>

Edited by Iain McLean ,Oxford Concise Dictionary of Politics,Oxford University Press,1996. , Political Thought,  

<!--[endif]>

Brad Miner,The Concise Conservative Encyclopedia, New York:Simon & Shuster, 1996. 

<!--[endif]>

H ffe,Otfried,Politische Gerechtigkeit : Grundlegung einer kritischen Philosophie von Recht und Staat, Shurkamp, 1987. 

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<!--[endif]> -->

あるホームページよりの引用です
私のものではありませんが
參考にして下さい


神様、仏様のホームページ

難解なあまりにも難解な誰が書いたのか分からない書物。

本当の聖書かも知れない。
しかしだからこそ理解できれば、人生に神の恩寵が与えられるでしょう。
永遠の言葉、永遠の書物。普遍に向かった悟りの書。

死ぬ前に読んでおくべき書物。
感想――これで安心して老後を過ごせます!ありがとう存じあげます。――
――神仏の意味がはじめて分かりました。――

---皇太子、雅子妃共に読んでいただきたい書

唯物論と唯セックス論に
よることなく
女性は
ゼンダーによって
見るべきです

雅子妃
女の天皇もよし
天皇家を
御守らせたまえ

この本の
通りです

あなたを
精神の病というものは
精神の病に
陥っている
フロイトと
マルクスの承継者で
あるものである

雅子妃
女の天皇もよし
天皇家を
守りたまえ

この本の
通りです

あなたを
精神の病というものは
精神の病に
陥っている
フロイトと
マルクスの承継者で
あるものである

神の声は
神の
心は
仏の
心は
この本の通りです
ちまたには
天皇制反対の
フロイトと
マルクスの承継者である
者は
精神の病を
持っているものは
そこらじゅうに
います
神は
幾人も
その人々を
見つめてきました
心の闇を見つめてきました
暗い暗い心の闇を
天から
見つめていますから
この本の
通りに
お思いなさるように

そして
永遠の言葉によって
永遠に
永遠のために
生きていかれんことを
望みます

神は
いま
天皇制反対の
者を
見つめています

何人も
天から
照らし
続けています

精神の病に
陥っている
フロイトと
マルクスの承継者で
あるものの
精神の病が
治るまで
話し続けています
期待して下さい
永遠の
永遠に
永遠の言葉
によって
暗い暗すぎる
心の闇から生じた
精神の病に
陥っている
フロイトと
マルクスの承継者で
あるものの精神の病を
治そうとする
者である

永遠は

永遠の言葉は
雅子妃の下にも
すべての他の人の
下にも
あります---

―――戦死した陸軍士官学校の恩師と残された生徒達が読むべきである書―――

―――日本の神道も、千の風も本当の姿が分かりました!―――


神様、仏様はこう語った

神仏 国一郎

神様、仏様はこう語った

仏とは
原典によれば
目覚めた者
である

永遠の言葉に
目覚めた者である

神は
永遠である
永遠
そのものである

仏とは

無限と
自らの無に
気がついたものである

色とセックスのみという
考え方を
捨てた者である

物と物のみという
考え方を
捨てた者である

人生について
悟った者である

仏は神であり
永遠である

余は神仏である
人は地の栄養である

神仏は
全智である
人は

自由、フリー(無)である

このことは

人は無である
それと同時に

無限大である

ということでもある

神仏は
永遠である
永遠の
前にも
後にも
神仏しか
存在しないのである

人は自由である

人生は無である

人は

自由、フリー(無)である

それ故に
人生は
無常である

諸行も
無常である

永遠の
中には
無限大の
数の
人間がいた

そのすべての人は
ゼロであった
フリーであった

人間は人間以外の動物や、植物と
同じものからできている。
食物連鎖は
同じものに
帰す
地の栄養になる。

それは
精進料理好みであっても
肉食であっても
ベジタリアンであっても
同様である。

人は地の栄養である。

あなたがた
人間は
自由であり
無であり
無限大である

というのは
余は
人間を
自由に
無に
無限大な
ものに
造った者である
からである

余のみが
精神の病というものの
精神の病理の
定義と意味の確定が出来ます

何故なら
余は
人間と
同様に
無限大であるからである
無であるからである

いつも
悪と
心の闇を
天上から
見ているからである

余は
精神の病を
治せる

しかし
がんが治せなくても
フロイトの

精神の病を
治すことはできる

これが
社会を
治すことでもある
社会全体を
治す
唯一の
方法である
余は
治せる
余だけが
治せる
なぜなら
物のみという
マルクスは
セックスのみという
フロイトは
他の
普通の
人々を
恐怖の内に
陥れるから
フロイトとマルクスの
精神の病を
治すことが
社会全体を
治すことでもある

しかし
無であり
無限大にならなければ
フロイトが自殺させにくるので
誰も
怖くて
正しいことは
言えないのである

それが世間
社会というものである

社会的大混乱に
陥って
マルクスの
フロイトの
精神の病は
喜んで
ほくそえむのである

あなたを
精神の病というものは
唯一
セックスのみ
物のみという精神の病に
陥っている
フロイトと
マルクスの承継者で
あるものである

神仏を信じなさい

フロイトのいう
精神の病は
フロイトの
精神の病を
心の闇を
現しているのみである
それ以外ではない

人間は
自由であるから
きちがいといえるものは
いない

運勢の占いと
同じく
普通の
ことしか
言っていなくても
心の闇から生じた
フロイトの
悪を認めなければ
フロイトから
死と
言われ
殺される
フロイトの
悪を
認めれば
社会と
その人は
暗くなるが
フロイトからは

恨まれない
フロイトの
精神の病は
フロイトとともに
悪の帝国に
落ちていくこと
社会全体が
暗くなること

甘えから
要求することである

痛いという感情は
痛いという感覚であり
余が
人間に
与えた
唯一の
ものであり
余は
セックスのみ
物のみという
精神の病を
人間に
与えて
造ったのではない

セックスのみ
物のみという
精神の病による
論理は
学問でもなく
痛いという感覚から生ずる
痛いという感情ではなく
精神の病である

それは
セックスのみ
物のみという
死の病であり
フロイトのいう
死のうという
ヒットラーが自殺した時の

精神の病でしかない

神仏の
真理は
永遠の言葉である

あなたを
精神の病というものは
精神の病に
陥っている
フロイトと
マルクスの承継者で
あるものである


人は自由に造った故に

自由な精神を持つようになったが、
精神の病に
陥っている
フロイトと
マルクスの承継者で
あるものに物を奪いたいという
意味での
精神の病
や精神の病があると
言われない限りは
痛いという感情によって
自殺することはない。
自殺は他の人が

させるものである。

物を奪いたいという
意味での
精神の病
といってさせるものである。

ユダヤ人が強制収容所で
自殺したとしても
それは
物を奪いたいという
意味での
精神の病
として
自殺させたのである。

フロイトが
敵であるアーリア人によって
殺されるのを
免れるのを
おそれて
自殺したとしても

ヒットラーが
自殺したとしても
それは
相互に
物を奪いたいという
意味での
精神の病

いいあったからである。

神仏のみが
精神の病
として
フロイトや
ヒットラーが
自殺した理由を
心の闇を
断罪できるのである。

あー、ふふと、あははと
大声をあげて
笑いたまえ

フロイトは
神仏を信じる者は
精神の病
だと
いった

笑い転げたまえ

人間はそれによって
自由を獲得するであろう

神仏を信じることは
精神の病
であるはずはない
フロイトは
神仏を信じない立場から
その様に
言ったのである

余は神仏であり、
神仏は
全智であり
物を奪いたいという
意味での
精神の病
のはずはない

精神の病
という人が
精神の病
であると
気がついた人は
数多い

マスコミでさえ

そう気がついている

しかし
精神の病
というのは
神仏のみがいえる

神仏はガンを治せない

しかし
フロイトや
マルクスの
無神論

つまり

精神の病を治せる
唯一の
存在である

余は

体の病気はなおせない

体の病は

自ら祈ることでしか治せない

仏の教えである

その際も
余を信じなさい

フロイトを
信じている者で

セックスのみという考えのもの

以外は
人間は
精神の病
ではない

神仏のみがそのようにいえる

人間は
そういえば
フロイトの
心の闇から
殺され
その心の闇を
フロイトは
墓場まで
持っていって
殺し続けるからです

がんはくる
しかし
なおせない
病気には耐えなさい
しかし精神の病は
余は治せる
私の意思による

すべて言葉
論理による

はじめに言葉あり
論理あり

キリストは
よく私を理解した

すべて余は
言葉であり

論理である

ヨハネによる福音書は
「はじめに言葉があった」
とした

ヨハネは
よく理解した

マホメット
キリスト
仏陀

全仏教の宗派

すべて私の下にある

お互いに
精神の病
というのも
やめなさい

すべて

余の下にある

精神の病を治せる
余のみが
精神医学を持っている

フロイトは
精神の病を
持った
唯一の
人間であった

余を
信じなかった

他の人が
自由であるのを
認めないために
精神の病があると
言い張る
理由は
物とセックスのみに
こだわって
泥棒をするためである

フロイトは
物を奪いたいという
意味での
精神の病
であった
本当の意味での
精神の病を
持った
唯一の人間であった

余はそういえる
唯一の存在である

一般には
フロイトや
マルクスのような
人間は
唯物論や
唯セックス論に
よって
学校を
破壊する

破壊するために
あらゆる悪を
行う

物のみ
セックスのみ
という
理論には
学習は
必要ではないからだ

医学部の中に
フロイトが
無神論を
持ち込んだときに
医学部は一変した

医学が
神仏の領域を侵した

精神は
神仏のみが
治せる

人間は治せない

すべての
犯罪者の
心は
フロイトと
マルクスの
心の中に
あります

不満の心
その不満を
セックスのみ
物のみという
論理によって
正当化しようという心です

その正当化を
天国に
持ってくることは
許しません

人道上の
罪を
天国まで
持ってくることは
許しません

国が
行った
行為であるからという
理由だけで
罪を免れて
天国に
来る理由とはなりません

罪は罪として
悪魔によって
行われた
行為は
償われなくては
なりません

神仏は
峻厳です

永遠の
平和の
法は
永遠の
自然の
言葉
である

物のみという
考え方に
よって
更に
民族間の
宗教間の
戦いが
続くと見る
考え方は
物のみという
精神の病
からくる
間違った
考えである

永遠に
生きなさい

物のみという
セックスのみという
生き方は
やめなさい


余は人間をマルクスのような
フロイトのような
人間に
造った覚えはない
ただ
兄弟が多かったとか
若い頃
兄弟姉妹の中で
貧しすぎたとか
そのトラウマで
そうなったのであろう

兄弟姉妹が多くて
貧しくて
家族に
捨てられた
こと等
はセックスのみ
物のみという
考え方に
陥った
ことの
正当化にはならない
世の中の
すべての
家族を破壊せよという
論理を作ってはならない
それは
真理に
反することである

そのような
精神の病があるとして
フロイトのような者と
マルクスのような者は
余が
治さなくてはならない

余は
人間を
物のみとして
セックスのみとして
造ったのではない

余は
人を
無なものとして
造ったのである

フロイトのような者は
フロイトの承継者であり
マルクスのような者は
マルクスの承継者である
そのような物のみという
セックスのみという

承継者である者を
余は
造った
覚えはない


ゼロは
無限大である

無限大は
永遠である

永遠の言葉に近づきなさい

はじめに
言葉ありき

次に

永遠に
言葉あり

神仏は
永遠の
言葉であり
論理であり
永遠に
続くものである

人が
人を
精神の病
といって
殺すのを
余は多く見た

物のみという
セックスのみという
考え方に

によっていた

余は
物のみという
セックスのみという
考え方に
陥って
闘争と
殺人を
起しているのを
目の当たりに
してきた

心を痛めてきた

世界を
照らしながら
これを
戒めなくてはならない

すべての
殺人は
そうである

戦争も
親殺しも
子殺しも

一人でも
この世の中に
フロイトを受け継ぎ
精神の病を持った者がいれば
その者が
不満であれば
誰でも
彼でもが
精神の病があると
言われる

しかし
フロイトの継承者を
教育しない限りは
神を復活させない限りは
誰もが
精神の病があると
訴えられる

フロイトの継承者を
満足させることは
誰も
できない

できるのは
余のみである

これが人間界における
精神の病があると
いうことの本質である

フロイトと
マルクスは
物のみといい
セックスのみという
ことによって
自分一人よりも
智のある者
をすべて否定する

他の人でさえも
自分よりも知っている
者は
いないという

それは
論理の
延長として
当然
全智の
余をも
否定する

神は
催眠にかかったと
思っても
思い込もうとしても
絶対にかからない
神は
フロイトの
セックスのみという
論理の破綻を
知っている
全智のものであるからである

神が
魔術に
かからないのも
同様である
魔術と
催眠は
神とは
関連がない


フロイトの
嘘の
催眠に
神が
かかる訳がない

神は
いつも
フロイトの
悪と
心の闇を
見つめていて
見つめることは
永遠であり
止むことはないからである

余は
全智であり
マルクスが
大恐慌であるというときも
フロイトが
死の本能で
破滅し
自殺するというときにも
余は
全然
そのようなことは
起こっていないことを知っているので
それは
精神の病があると
しているのであって
これは
オプティミスティック
なのではなくて
普通の状態で
謙虚に
永遠の言葉が
永遠の事実を
言っている
だけである


セックスのみという
物のみという
論理は
他の人を
殺すために
ある論理である

神は
魔術から
セックスのみという論理から
物のみという論理から
解放を目指す

神は
魔術からの解放を
目指す
この解放は
自由にする
無にするという
意味である

自由と無は
同じことであり
永遠である
ということである

物のみという論理と
セックスのみという論理で
他の人を
殺せば
自らの
セックスの相手が多くなる
残った物が多くなる
という論理は
論理的には
セックスのみという
物のみという
考え方のみから
自然に正しいとして
出てくる
論理である

しかし
神は
それを
許さないのである

物は
すべて有限の物であり
セックスは
すべて有限の物である

セックスのみという
物のみという
考え方のみから

生れるのは

無限などは
自由などは
存在しない

疎外と
催眠のみが
存在する
という
考え方

他の人は

智のある
人間であってはならない

他の人は
催眠できるような
有限な物で
なくてはならない

自分よりも
智のある
人間であってはならない

これでは
全智の
余など
ないというのである

その傲慢さ


物のみ
セックスのみという
ことによって
他の人を
殺す道具を
論理という

通常に
正常に
正常な価格と数量で
商売を行っている者でも
それに
不満であれば
フロイトの継承者は
すべて
商売を
商売そのものを
疎外があるとして
精神の病があると
してしまうのである

その商売そのものを
行っている者が
不満がなく
平常心であっても
神の御心に
従って
永遠の言葉
永遠に
従っていても
精神の病があると
してしまうのである

セックスのみということと
物のみということとは
循環論法で
全く
同じことを
時に
違った
仕方で
述べているのであって
同じことを述べている

本人の
性格の中では
セックスのみで
論理の整合性が
とれなくなると
論理の破綻から
物のみという論理となり
それでも
論理が破綻すると
セックスのみという
論理に
戻ってくる

これは時間的経過によって
物のみの論理となり
次に戻って

セックスのみの論理となり
瞬時を置かず
相互に
毎日毎日時々刻々

交代し

つづけながら
永久に続くのである

フロイトの継承者を
治せるのは
精神の病を
治せるのは
余のみである

確かに
一人
フロイトの継承者が
いるだけで
人類は
暗くなる

その暗さは
並大抵のものではない
したがって
それを社会の闇と
呼ぶのである

しかし社会の闇は
すべて
フロイトの継承者の
心の奥深い闇から
生じた
悪魔の心から
生れたものである

宇宙から見れば
フロイトの継承者が
一人いるだけで
社会的に
暗く見られて
不安になり
いても
たっても
いられなくなる

しかし
フロイトの継承者は
心の闇の中で
そのことを
ほくそえんでいる

それを見ることができて
治すことができるのは
余のみである

もし
治せないで
手をこまねいている者がいれば
フロイトの継承者は
ほくそえんで
隠れて
堂々と
たばこをすっているのである
笑っているのである

そのように
神が
天上から見ると
見ることができる

それを
見えないから
人間は
かわいそうである

フロイトの継承者は
闇の中での
セックスのみという
自己暗示

自己催眠術という
心の闇の中で
神にも
世間にも
抵抗して
精神の病を
なおそうとはしないであろうが
神は
それを許さないのであり
天上には
こさせることはない

闇の中から
フロイトの

精神の病を
余が

治そうとする
ことを
フロイトの継承者は
妨害しようと

するであろうが
天上に
行けない
ことからくる
暗さに
闇に
彼ら自身が
いくら
自己催眠術という
魔術を使おうとしても
自分では
催眠に
かかっていないのであるから
耐えられるはずもないのである

暗すぎる
あまりに暗すぎる

心の闇に
催眠術という
誰もかかるはずもない
嘘八百に
耐えられる

はずもないのである


人は地の栄養となり

安らかに
また
生えかわる

キリストの

仏陀の
マホメットの
その他の人々の
血も
今あなたの土地
あるいは
食べ物の中

ぶどうしゅの中

飲みなさい

食べなさい

そして
栄養になりなさい

物を奪いたいという
意味での
精神の病
というを
治すのは
余のみ

それを治すのは
人間にはできない

精神の病
というのは
人を殺す言葉

精神の病を
治せるのは
余のみ

人をきちがいというなかれ
いう人は精神の病
である

無神論者
フロイト
マルクス
は余を信じない

余を

信じなさい

余は

無神論者を
精神の病
といえる
唯一の存在である

余は
多くの
兄弟姉妹の
関係を見てきた

兄弟の
数が多い人は
兄弟の
数が少ない人よりも
謙譲的であり
損するから
あるいは
精神の病があると
いい
逆に
そう
言われた
兄弟の少なかった人は
それを
精神の病があると
いう

そのどちらの場合でも
他の人が
自由であるのを
認めないために
精神の病があると
言い張る
理由は
物とセックスのみに
こだわって
泥棒をするためである

物のみ
セックスのみ
という
世界では
ゼンダー
という考えではなく
唯物論の
闘争と
唯セックス論の
闘争しか
生れない

セックスのみという
世界では
ゼンダーという
考えではなく
唯物論と唯セックス論によって
闘争を
もたらすのみである

そこに自由は
無は
存在しない
永遠も存在しない

セックスのみの
世界は
ゼンダーの
世界ではない

物のみの
世界は
母系の世界でもない
男尊女卑の
世界である
女は
魔女であり
魔女刈りがあったことで
魔女とするものである

マグラダの
マリアは
魔女を
母性に
変えようとして
キリストが
持ち出したものである

物のみの
世界から
脱すれば
女は
物を持ち
女は
セックスのみという
世界から
抜け出て
ゼンダーの
世界に出てくる

女は
男と
同じ地位にたつ

唯物論と唯セックス論は
究極として
兄弟姉妹をも
敵とみなしあたかも
兄弟姉妹を
敵同志と
みなし
親の
物を
奪い合いをする
存在とする
唯セックス論は
兄弟姉妹から
兄弟姉妹の
新しい夫婦の
物の奪い合いの
戦いの場とみなすのである

唯物論と唯セックス論とは
あたかも
兄弟姉妹の
愛を
家族に
持ち込んだように
見える

そうではなく
唯物論と唯セックス論とは
唯物論と唯セックス論によって
闘争と
魔女を
家族に
持ち込んだ
のであって
他ではない

家族を破壊せよ
とマルクスは
唯物論の
究極として
共産党宣言で
書いた

兄弟姉妹の愛を
物のみに
還元すれば
愛はなくなり
兄弟姉妹を
敵とみなす

兄弟姉妹の
愛は
物のみと
セックスのみという
有限性をなくして
はじめて
復活可能である

自由な
無限な
兄弟姉妹の
愛を生れさせよ

政治的には
この部分は
無視されてきたが
これが
本当の
マルクスの
心の闇である

唯物論により
兄弟姉妹をも
物の
奪い合いとして
敵としたのである

唯物論と唯セックス論とは
世界を
兄弟姉妹のような
自由な
無の
愛の
充満した
世界にするのではなく
闘争の世界にしたのである

兄弟姉妹が
多すぎて
養子に行かなくてはならない
くらいに
貧しかった
という
理由で
物のみセックスのみという
考え方に
陥ったかもしれない

しかし
それが
神を冒涜する
理由とはならない

これが
神の
仏の
存在証明である

自分は出来ないが
他人は出来て
何でも
やってくれるだろう
人は出来て
自分は出来ない
これが
原因であって
女にはできて
男には出来ない
この認識となり
この認識は
男女の
差別となって
朝鮮の差別となって
その他の
差別となって
精神的なフロイトの病と
マルクスの
マルクスの承継者で
そのような者の
精神の
病となったのである
これには多くの人が
気がついていたのである
新聞もこの事に
気がついていたのである

甘えや依存とは
全く違う
余が
治せるという
精神の
病の
本質である

自分は出来ない
とは
自由であり
無限であり
人間であることを
やめることです

それでいて
他人は出来るといい
他人の
自由であり
無限であり
人であることを
認めている

そして
自らは
悪に徹することを
悪によって
心の闇から生じたフロイトと
マルクスの承継者である
ことを認めようというのです

自由は
無であり
無限大である
自分は出来なくて
神には出来る
自分は出来なくて
他人は出来る
弟達の
考えそうなことである

しかし
兄に着いていくのではなく
自分で
歩きなさい

人は
自由であり
無であり
物ではありません
セックスのみ
でもありません

それ以上でもあり
無限でもあるものです

そこから
悪に到り
心の闇から生じた
フロイトと
マルクスの
精神の病に
陥るのは
やめなさい





しかし

悪は避ける様にしなさい。

悪は避ける

ことによって

神仏の永遠が
神仏のゼロが
ゼロ分の一の
無限大が
全智が
戻るのである


永遠の光の中で
光明を得るのである

マルクスや
フロイトや
ニーチェのように
自らが
神仏になって
物のみ
セックスのみ
という
考えかたに
陥っては
自分に
合わないものは
物を奪いたいという
意味での
精神の病
というに
等しいことです
そのような
精神の病を
神仏は精神の病を治せるのです


ここは大切といわれて
神仏はもう一度
繰り返された

唯物論や
唯セックス論のように
自らが
神仏になって
物のみ
セックスのみ
という考え方に
陥っては
自分に
合わないものは
物を奪いたいという
意味での
精神の病
というに
等しいことです
そのような精神の病を
治せるのは
神仏のみです
神仏は
精神の
病は治せます

こう繰り返されました

もし
あなたが
有限な
物と
有限な
セックスに
こだわっていれば
自分の
持つ物よりも
神仏の
持つものが
多いと
しっとし
自分の
物と
神仏の
物とを
比べて
一億分の一とか
十万分の一とか

と感じて

だから
しっとする
それだから
窃盗する
強奪するという
それが
マルクスであり
フロイトであり
ヒットラーであった

しかし
永遠に比べれば
それは
取るに足らない

もし
自らが
ゼロであることが
公に
光明にさらされれば
ゼロ分の一は
無限大であることが
分かるであろう

フロイトと
マルクスと
ヒットラーは
それを知っていたのに
マスコミのせいか
隠して
悪を行い
それを
地獄に
持っていったのである

それは
人の暗殺に
等しい行為であった

神仏は
暗殺されることは
無い

神仏は
全智であり
永遠であるからだ

神仏の
暗殺

それは
永遠に
できない
相談である

神仏は
殺されず
天国で
彼らの行為を
悪行を
見守っていただけである

永遠の
芸術と
学問を
人間は
まだ
考える途中にある

永遠に
途中である

それ
人間は
神仏には
なりえないからである

考える人が
神仏に
向かっている

余は動物と、植物と、人間を作った。

動物、植物、人間共に
死しては灰になる。

同じものから
生まれ
人は死して
同じく
栄養となる。

余は
キリスト、仏陀、マホメット

その他多くの
血であり、
栄養素であり、
地の栄養である。
      

余は
すべての人が
地から
栄養をとれるように

他の人を殺さないように
人間を作りました

余は
人間は
他の人の
痛みが分かるから

自分も殺さないように
人間を作りました

自殺は他の人が

心の闇によって

他の人を殺すことです

従って

心の闇によって
他の人を
精神の病
として
殺すことを禁止します

他の人を
精神の病
といって
殺しておいて
心の闇のまま

天国に来ること
地の栄養となることは

許しません

そのもののみを
天国から追放します

あらゆる
差別は
物を奪いたいという
意味での
精神の病
といって
いるということです

余が
人間を
平等に
作ったというのは
このことです

たとえ
生まれるときに
産道が
頭を圧迫して
ダウン症に
生れたとしても

学校の教員は
平等に
市役所の職員は
平等に
すべての人は
平等に
扱わなくてはならぬ

たとえ
食うのに
足りないくらいに
兄弟の数が
多かったとしても
兄弟姉妹を
愛しなさい

他の兄弟姉妹を
物を奪いたいという
意味での
精神の病
として
排斥し
土地と
物と
給与を
奪ってはいけません

神仏は
人を平等に扱います

神仏のみは
かもしれません

自由な土地に帰りなさい

栄養素になり
他の動物や植物に生まれ変われ。

もう一度人間に。

教室は
物的なものである

教務の
カリキュラムさえ
あればよい

学校は
言葉であり
物ではない

はじめに
言葉あり

積み重ねなさい
全智に
近づきなさい

そして
言葉を残し
地の栄養となりなさい

物を奪いたいという
意味での
精神の病
と他人を呼び
物を奪ってはいけません

セックスで
物を奪ってはいけません
セックスの本能を
調節しなさい

自由に造りました
それは幸福そのもののはずです

他の人から
幸福を奪ってはなりません

人生そのものが
学校であり
全智の積み重ねである
積み重ねのない
智は
意味が全くわからず
ただの反知識である

批判のみの
精神は
積み重ねが
全く
ありません

それは
物のみ
セックスのみ
によっていて
マルクスや
フロイトや
ヒットラーのように
なってしまいます

積み重ねは
神仏を肯定することから始まる

神仏を肯定するのに
教室という
物と
セックスという
物に近い
本能は
要らない

教室という
物は必要ではない

人生の
積み重ねの中から
生れる

正座して
静かに
経験を積み重ねて
はじめて
全智に
近づくことができる

余は神仏である

神仏であることを
教えるには
何と
教えるべきか。

自由は無はゼロである故に
無限大である。
ゼロ分の一は無限大である。
無限大分の一はゼロでもある。
ゼロと自由の発見は
無限大と全智の発見でもある。
全智とは神仏のことであり、
余のことである。
物と本能は有限であり、
無限大の余とは
無関係である。
数学のゼロの発見と同様
神仏の発見は
有限な
物と
本能を
捨てて
ゼロ
つまり無限大を発見する
ことである。
ゼロの発見者は
神仏をも
数量的に
発見したのである。

教室でカリキュラムで
教えるべきです

民間の世界の
生活において
余であるところの
神仏に関する
多くの伝承について

人が今
千の風
というは
神仏のことを
キリストの
仏陀の
マホメットの
本当は
人間の
心を
超えて
余のことを
申し述べている
民間の
伝承であっても
余は
公務員の
平等への
心を
超えて

ここに
現れたのである
千の風に
気がついたのは
人間を
余が最初に
造った時に
たまたまに
精神を
正しく
入れていたという
偶然による


余による人間の

偶然性


偶然は
運命である

余は人間を

偶然に

今あるように
造ってしまった

しかし

神仏を殺そうとした人間が

常に
現れた
今後も
現れるであろう

あらゆる唯物論などの論理を考えて
使って
しかし
マルクス、フロイトに

考えて
彼の
望んだ
全世界が
手に入ったと
考えるものは
いない
朝鮮の
一部と
中国の
一部
キュウバ、ベトナムが
手に入っただけである

神仏をなのる多くの者たちへ

フロイトの名をかたり
マルクスの名をかたり
人間の行為はすべて
物によると
セックスによると
唯一神を
物と
セックスに
なぞらえるものがいる
そしてそうではない精神は
精神の病であり
精神の病を治せると
うそぶくものがいる
そしてそれを職業としているもの
職業としようとしているものがいる
神仏は体を治せるというものがいる
しかし余は
精神の病を治せるだけであって
体の病は治せない
余は精神の病を治せるという
職業を許してはいない

そのような人間を造ったことはない

フロイトが

心の悪、闇から
そのようなことを

言い出しただけである。

神仏のみがこの
フロイト問題を解決できる
フロイトによって
殺されることがないからである

余は
こころは治せる
しかし体は治せない

アーリア人という
敵に恩を受けたくない
といって
ユダヤ人の
皆殺しに加担した
フロイトは
どこが
間違っていたのか

東大は悪い
と言い続けて
死んで行った
腹黒い
心の闇を持った
人間同様に
本質を見ずに
現象のみをみたからである

神仏は常に本質である

白い光る風は
本質を
物語っているのである

アーリア人が
悪くて
ホロコーストが
起こったのではない

フロイトと
ヒットラーの
そしてマルクスの
狂った
心の闇が
それらを
起こしたのである。

物を奪いたいという
意味での
精神の病
といった
人間が
神仏を冒涜し
それらを
起こしたのである

本質を見誤ったのである

ソクラテスも
本質を見ようとして
本質を見なかった

ニーチェも
同様である

神仏を冒涜したのである

神仏がいない国は存在しない

神仏は全智である

本質は
神仏によって
のみ
見いだされるものである

私が

人間を自由に造った

のとは反対に

歴史には
唯物論による
必然性がある
従って

それに反するものは
物を奪いたいという
意味での
精神の病
である
といわなくてはならなかった
ある人がセックスによって
動いてはいない
ただ女を見ているだけだと
いくら言い張っても
しかしセックスのためだ、
犯すためだと
嘘を言い張らなくては

ならなかった、
そうではないと証明しても、
その証拠は隠し、

そんな証明はさせないようにして
監禁に近い状態にし
そうなのだと
言い張って
セックスのためだ、
物を奪うためだと
言い張らなくてはならなかった、
これは
完全に気が狂っている
としかいいようがない

中世に
魔女刈りがあったことで
それを正当化の理由として
女性を
物を奪いたいという
意味での
精神の病
というな


朝鮮人差別が
あったことで
朝鮮人を
物を奪いたいという
意味での
精神の病
というな

ユダヤ人虐殺があったことで
ユダヤ人を
物を奪いたいという
意味での
精神の病
というな

その精神の病
という
差別のみが
人を殺す道具である

物を奪いたいという
意味での
精神の病
という言葉は
フロイトの
心の闇であり
墓場にまで持っていこうと
決意した時にのみ
生れる言葉である

余は墓場に持ってこさせない

余のみが
フロイトを
精神の病
といえる

それは余は言葉であり
論理であるから
フロイトに
殺されることがないからである

余は神仏であり
風になって
千の風になって
すべての人に
毎日
吹いているのである

神仏のみは
知っている
フロイトの
邪悪な
悪魔の心を

心の闇を

異母兄達を
殺すための
言葉
精神の病

思いついた

心の闇
それは悪魔と呼ぼう

悪に走る
自由を
余は
与えなかった

人間は
自由に生んだ
育てた

神仏は言葉についてまた

科学史について

こう語った

人間は

二次関数は

解けるようになった。

二次関数の解は

2a分の−b

±2a分のルートbの二乘−4ac

である。
それが

放物線であることも

わかった。

そしてまた

エックス軸との交点二つのうちの

一つから発射すれば、

頂点(X=2a分の−b)で落ち始めた球は

他の交点に落ちるということに

利用できるようになった。
また

原子爆弾も理解した

と同時に、

原子力発電も理解した。
これらは

小学校5年生の子供でも

理解できる。
しかし

世界が

六五億人にもなると

戦争や、殺人が

横行して行って
間引きと同じものである
精神の病理、
フロイトの
心の闇から生じた
心理によって
ついには

所有権のために

他の人を精神の病
ということによって、

また

意識を失わせる物を

つまり毒を発明し、

その成果を
所有権を得るために
使い

神と
無限なるものを
心の闇によって
だますことによって
殺人と自殺させることを

平気で行うようになった

神を
信じない者は
人を
物として
管理するから
フロイトの
ように
唯物論と唯セックス論とによって
所有権のために
他の人を精神の病
ということによって、
また
意識を失わせる物を
つまり毒を発明し、
その成果を
所有権を得るために
使い
神と
無限なるものを
心の闇によって
だますことによって
人を
物として
扱い
女性を
セックスという
物として
扱い
意識を失わせる薬剤をつまり毒を
発明し
ユダヤ人が強制収容所で
虐殺されて
いったのと
同じことである
虐殺を
心の闇から生じた
フロイトの精神の病理によって
行うのである

兵器として

原子爆弾も

使える存在になった

のである。
神仏は

これに

怒り心頭に発している

といった。


人間は

神仏が作った脳をまねして

コンピューターを作ってしまった。
地球が

一つのコンピューターと

なってしまった

人間は
余が造ったのであり
コンピューターのように
物として
セックスのみの物として
造ったのではない

コンピューターと
人間は
物と
人間が
違うように
全く違う
存在である

人間のみが
余が
造った
存在である

人間は
神と同じように
無であり
かつ
無限大の
存在であり
物である
コンピューターとは
全く違っている

人間は
余を
知っている
存在である
限りは
永遠の
高貴な
存在である

科学は言葉である。
言葉は

「はじめに言葉あり」と述べさせた通りに

神仏が作ったのである。
神仏を冒涜を始めて、

神仏を殺そうとした

フロイトを神仏は許さない。
そう神仏は語った。

また

神仏は

セックスや物を

神仏の上に置く人間について
物の追求のみに

全力を尽くし
セックスのみに
全力を尽くす人間について
神仏を殺そうとしたフロイトについて
また
神仏を殺そうとした人間について
次のように
述べられた

長男が継ぐというのは
神仏は認めない。
四男は自我を持ちなさい。

長男の精神の病
の方が
二女を精神の病
といって
殺すのは許されない。

神仏は
キリストと、
仏陀と
マホメットを
使われており

精神の病を
なおす事が
できる
身体の病気は
なおせない

自殺は
他の人が
させるのだ
物を奪いたいという
意味での
精神の病
といって
神仏はさせない

神仏は語った

目の見えない
人を
精神の病
というな
自分の利益になるように
精神の病
というのは
人間の精神の病
である
その証明として受け取る

土地
利益
給与を
余は一切認めない

フロイトが

欲しかった
人を殺して
精神の病
といって
欲しかった
ものを
すべて
余は一切認めない

余はそれを
闇から
明らかにできる
唯一の存在である

その存在を認めない
フロイトに
精神の病

いえるのは

余のみである

余は
人を自由に
なれるように
作った

しかし人を
きちがいというようには

作らなかった

ダウン症の
子供も

余の
子供である

それに対して

物を奪いたいという
意味での
精神の病
ということは
認めない

余は
精神の病を
治せる
唯一の存在である


人は
生まれて
生きて
死す
残すは
言葉
残すは
栄養
地の栄養となり
次の
生を受ける

精神は
他の人を
殺さぬこと

きちがいと
いわぬこと
きちがいといって
他の人を殺さない
自分の
都合の悪い事を

きちがいといわぬこと

神仏は言われた

肉体はなおせない

精神の病は
治せると

精神は

言葉

平等につくった

自由に生きなさい

悪い事をしなければ
自由に

きちがいとは言わない

自由に生きてよい

きちがいとは

殺すための言葉

平等に作った
人間を

世界を
異端者が
支配した

フロイトは
ホロコースト
同様に
人を精神の病
とした

自由な
人間を作ったが
きちがいには
しなかった

どのようにでも
なれる
努力しなさい

しかし
他の人を

殺さない

精神の病

言わない様に

精神の病
という

フロイトに
精神の病
というと
殺される

人ならそうだが

神仏ならば
殺されない

フロイトは
神仏を殺した

マルクスも
神仏を殺した

フロイトに
精神の病

いえるのは
余のみ
神仏のみ
神仏のみぞ知る
フロイトの
心の闇

闇に葬って
死んで行った人

その闇を
知るのは

余のみ

唯一の存在である
余は
いう

唯物、唯セックスでは
人は語れぬ

それに合わぬ
人は多数いる
それは精神の病
ではない

余が
人を自由に
作ったのみである

自由な
形なきことは
精神の病
ではない

ただこれからだということである

岸田秀
はそれを精神の病

勘違いした

それは自由なことである

自由であることは
人を傷つけないが

物を奪いたいという
情動での意味で
精神の病
ということは

人を殺す

そのための
言葉を心の闇から
申し述べる
ことのみが
精神の病
である

神仏の行いは
物からも
セックスからも
超越して
自由である

唯物論のように
物にこだわらない

セックスにも
こだわらない

超越した
存在である

しかし
人は産んで
よみがえらせもする

余は
すべての
栄養であり
ぶどう酒である

行為は
自由である

存在は自由である

無神論からの
妨害は排除する

行為、存在、排除は三位一体である

これに気がついたのは
トーマス・アクィナス
である

よく気がついた

余はすべて一体であり

世の千の風である

余は
あまになり
尼僧になり
僧になり
巡礼者になり
すべての人に吹く千の風である

人間は
学校において
言葉を
学習するのである

はじめに
言葉あり

新学期に
教務は
授業時間のこまを作り

教員の
数だけの
こまを造り
それで
授業時間割を
造る

学校は
コマの数を
決めることによって
決定され
それがすべてである
教室はどこでもよいのである

トヨタの
かんばん方式と
同じである

その時に
人間というものを
つくるのに
神仏のことを
忘れたときに
マルクスが
発生し、
フロイトが
発生した

神仏は
物と
セックスの
上にいることを
理解させなくてはならない

学校の仕事であり
自殺をさせるように
他の人を物を奪いたいという
情動での意味で
精神の病
といって

排斥するような
フロイトの
ような
人間を
発生させないようにし

痛みのわかる
人間を
造る
べきである

その努力を
学校が
怠っている
時に
フロイトが
生れるのである

唯物論の
学校では
物のみを教える

唯セックス論の
学校では
セックスのみを教える

すべてその下に
神仏はいると
教えるのである

そこには
神仏を殺すために
授業が
繰り広げられる

セックスと
物によって
世界は動いていると
教えるのである

そこに
神仏の
時間割がなくても
人は
神仏を
感じながら
人の生活の中で

物のないところでの授業、
セックスのないところでの授業
を受けていて

唯物論が
唯セックス論が
いかに嘘であるかを
自然に知っているのであり
痛みを理解するのである

それは神仏が造った通りの
人間であるからである

神仏を殺し、神仏は死んだと
叫んだときにのみ
唯物論と
唯セックス論は
おどろおどろしく
生れるのである

そこにあるのは
学校ではなく
人の心を
人の痛みがわかる心を
殺すための
反学校である

学校が嫌いなもののみが
造りうる
神仏に反抗するための
学校ではない
学校をつぶすための
学校であり
言葉と
論理をつぶすための
学校である

それは学校ではない

学校ではないといえるのは
神仏のみである

神仏は
真理であり
全智である

物と
セックスは
教えなくとも
人には備わっている

しかし神仏は
全智
であり
教えなくては
不明である

マルクスが
発生し、
フロイトが
発生したが

反抗し
積み重ねがないものには

言葉は
不明である

はじめに言葉あり

神仏によってのみ
人間は
知識を積み重ねることができる

物と
セックスは
教えなくとも
人には備わっている

物とセックスのみという
論理は
教えなくとも終わり
それ以上ではありえない

神仏はこう語った

という私は
人間であって
神仏ではない
三位一体とは
私が神仏になったという
論理である
私は神仏ではない
しかし
神仏の言葉が分かったものである

神仏の行動は三位一体である
神仏の心は三位一体である
神仏の存在は三位一体である

神仏が神仏を排除する者を
無神論者を排除される行為は
三位一体の神仏の中では
最も重要な行為であり、
神仏の本質
神仏の存在
神仏の心の存在証明の
中では
最も重要なものであると神仏は
強調され
二回繰り返された

神仏に仕える
使者は
この神仏の言葉を知り
永遠の言葉、全智を
人々に
授ける
義務を負う

これが本当の授業である
青空での授業であり、
教室という物は
セックスという本能は要らない
授業である

キリストが生れて
たかだか2000年
20代前の祖先である
マホメットが生れて
たかだか1500年
仏陀が生れたのも
たかだか
数世代前である

余はそのずっと前から
この世を造った

その年代はほぼ永遠の前からである
余は永遠の言葉を永遠の前から
言葉として
残してきたのである

私はその言葉を

神仏はこう語った

と申し述べさせて
もらっている

神仏に仕える人間である

神仏は
悪魔を許さない

悪魔は
物のみと考えて
世界から良心を奪い
セックスのためだとして
セックスという本能のみに
頼ろうとする

そして
良心を奪い
封印し
闇に
葬り去ろうとする
マルクスの悪魔
フロイトの悪魔を
追放し、人間である存在を
神仏を殺そうとした人間について
神仏は人間に
近づけようとする

自分に都合が悪い人間を
精神の病
といって
排斥する

それが
悪魔の
主な
心である

神仏は仰せられた

悪魔を完全にうちのめす
フロイトの
セックスのみの誘惑から
マルクスの
唯物の誘惑から
人間を
自由にすると

これまでの
世界の
大戦の
戦いは
この数百年の
ことである

それは唯物と
セックスのみであるという
考え方から
生れたのであると

ヒットラー
フロイト
マルクス

悪魔の心によって
なくなられた
とても多くの方々の
心を
推し量ると
仰せられた

その悪の国を
また悪魔を
滅ぼすのは
原子爆弾や
鉄砲による
軍事に
よらずに
上に述べた物のない
授業によって
であると仰せられた

物のみという考え方によれば、
他人が盗んだのだから
自分も盜ってよいという
理屈になる。

他人が
セックスしているから
自分も
セックスのためだ
とすれば
何をしても
よいということになる。

しかしこれは
唯物と
唯セックスに
つながるとは
思えない

それを
神仏よりも
重きを置くことは
有限を
無限とすることである

自由を
認めないことである

人はすべて
生命を持っている

苦難を持って
進んでいる

依存していない

唯セックスと
唯物は
依存できないから
机をひっくり返す
怒るということである

いつも
不平不満を言うということである

それは
神仏の領域とは違っている

神仏は
自由であり、無であり
無限に知をもっている

神仏によって
それらの
不満は
切り抜けられるべきである

それにしても
ヒットラー
フロイト
マルクスの
唯物論は
極端であった

それは
心の闇によっているからである

神仏は
それを
見抜いているのである
人間は
見抜いてはならない
殺される
しかし神仏は
国の神仏も
見抜くべきである

無とは
最初は
何もない
フリー
という言葉の
原義である。

地上では
ヌル
ない
などと
いう
言葉が
当てられている。

聖書では
何度か
使用されている言葉の
原義である。

国の神仏は
南国であれ
北国であれ
東の国であれ
西の国であれ
常に
普遍と
自由と
無限大と
ゼロの
概念によって
運営されるべきである。

微分と積分によって
無限大と
ゼロの
概念を使っての
計算が可能になった様に
国の
運営は
自由という無、フリー
無限大という神仏の全智
との間での
綿密な
計算によって
行われなくてはならない。

単なる
セックスと
物によって
運営されるべきではない。

ヒットラーが自殺し
フロイトが自殺し
多くの死者が
出た
政策には
無限大の全智と
ゼロから始めさせた
余の心が生きていないのである

現世は

余の下にある
現世は
神仏の下にある

自由な
わが子は
平等に取り扱われる。


現世は

神仏の心によって
動かされるべきであり
物のみ
セックスのみ
によって
動かされてはならない

国の行為は
神仏の行為であって
自由な
無から来た
普段の
人の行為と
同等に
取り扱われる。

神仏はそう述べられた。

ヒットラーの行為が
国の行為であったから
何の罪もなかった
国の行為は
神仏の行為でなくてもよい
神仏の行為でなかったとからといって
罪から免れるということは
ないと
仰せられた。

国が心の闇による

悪の帝国でない限り
国の法は
神仏の法であり
世界に共通する
法律であり
国際法であり
永遠の言葉
永遠の法によっている
べきである

永遠の言葉は
神仏の言葉であり
平和の法である

神仏の法は
人の法になり
永遠の言葉
永遠の法になる

国は
人道の法を
無視したときには
罰せられるのは
悪の帝国に
陥ったときであり
人が
自由を無視したときと
同様である

国の行為は
人の行為でしかない

すべての
人は
精神の病を
持っているものはいない

公務員は
この言葉によって
公に
接していかなくてはならない

これは
その人に会ってみると
分かる

ひとはすべて
平等である

こういうと
フロイトに
人は
殺される

しかし
神仏は殺されない

四つの命題がある

1すべての
人は
精神の病を
持っているものはいない

2
しかしフロイトのように
セックスのみということによって
精神の病が存在するといって
誇張する人間は
精神の病を持っている
3
それならば命題1は否定されることになるようであるが、
しかしそれは神仏の場合には
否定されたことにはならない
神仏は永遠から見て
セックスのみという論理や
物のみという論理を
否定しているからである
神仏は人間を存在そのものと
見ているからである

4 人間の場合にも神仏という概念を持ってくることによって
つまり
1の命題は無神論を否定することによって
人間であっても
1の命題は成り立つことになる

これは無限大とゼロという
概念同様に
数学的な
説明でもある

かつてある新聞にも書かれた通りに
また共産主義末期の説明にも
新聞で書かれた通りに
精神の病があると
言い張る人間が
精神病であると
人間なら
誰でも
気がついている

しかし
人間であって
それをいうと
マルクスや
フロイトに
殺されるから言い出せない
しかし神仏のみは言える

フロイトや
マルクスは
精神の病

いうことによって
物が自分の所有になると
思い込んでいる

他人を殺せば
他人が持っていた
物が
自分のものになるからである

一方
他人を殺せば
人口が減った分だけの
セックスできる部分が多くなると
考えたのが
フロイトであった

これは
おどろおどろしい
精神の病である

神仏を信じて
物のみといい
セックスのみといい
それらを
神仏の上に置く
精神の病を持った
フロイト
ヒットラー
マルクスの
論理を
覆しなさい

ヒットラーが
アーリア人の優位性を
述べたのと
その
セックス観は
ユダヤ人を
根絶やしにしようというのと
同様の精神の病であり、
精神の病の中では
最もひどいものである

それは差別などという
なまやさしいものではない

自負と偏見は
神仏に対して
持たれるべき
概念であり
四つの命題を
持つことを言う

神仏のみが
精神の病を治すことができるという
意味である
しかし
神仏は
体を治すことはできない

体を神仏が治せるという主張は
魔術の世界であり、
物のみというに等しい
世界である

これまで
いじめや
戦争によって
寿命を待たずに
死んでいった人
フロイトや
マルクスや
ヒットラーによって
殺されて
寿命を待たずに
死んでいった
人々
自殺させられた人々
それらの人々に
本当の声を
話させ
マルクスと
フロイトと
ニーチェに
また
ヒットラーにも
神仏の存在を教えなくてはならない

彼らの
心の闇を
精神の病として
神仏は
公にして
神仏の心の
存在について
人々に
教えなくてはならない

これは
神仏のみが
いえる
人間は
神仏を信ずることのみが
必要である

神仏は
フロイトや
マルクスや
ヒットラーの
心の闇を
悪魔の部分を
治すことができる
唯一の存在である

余は
天から見てるから
知っているのであるが
不平不満のみからできている
フロイトと
マルクスと
ヒットラーの
行為は
物のみ
セックスのみと
家の外ではいっているが
所有権の絶対によって
守られている
家の内部では
全く別でくつろいで
その反対の行為を行っているのであって
実際には家の内部では
不平不満はないのである
家の外部の人が
この事実に気がつくと
精神の病

精神の病だ
といって
自殺させるか
殺そうとするのである

これが心の闇である

何故に
外部には
安心の事実を隠して
不安だという
不平不満の
言葉しか
言えないのか

兄弟が多かったので
食えない場合には
兄弟を
そのようにするという
行為が源泉になっているのであろう

しかし
余は自由な無限大なものに

人間を造ったのである

余は
人間を
いつもいつも
不平不満を
言っているような
者には
造らなかったのである

物のみという理論と
セックスのみという理論と
それ故に
神仏は存在しないという理論は
人間を自由とみない
つまり
神仏の
無限大な存在
全智を
認めない
無神論から
生れた

セックスのみを認めない者
物のみを認めない者
を精神の病として
心の中で
叫び続ける
異端の
悪の
悪魔の
心の闇の
えせ理論である。

ソ連の末期を
見てみれば
このことが
地獄として
現れた
絵図

見ることができる。

ソ連末期の後の
ロシアにおける
神仏の国は
いまだに
現れてきていないのも
物が要らない
カリキュラムとしての
学校の中における
神仏の居場所、
神仏の経験に
問題が
残っているからである。


物は必要ではないが
カリキュラムにおける
時間割における

神仏を経験する時間配分が
少なすぎるからである。

余が
はじめに
言葉を造ったように
人間が無限大であり
かつ
ゼロ
フリー
であれば
神仏の言葉が
法となり
物ではない学校と
国は
一つのものとなり
三位一体は
完成されるのである

神仏は
永遠である
永遠の
前にも
後にも
神仏しか
存在しないのである

現代の神仏が
生きかえるのか
近代の神仏が
生きかえるのか
中世の
神仏が
生きかえるのか
古典古代の神仏が
生きかえるのか
永遠の神仏は
どの神仏でもよい
すべて
永遠普遍の
無限大なるものの
概念が
生きかえるのである
地球上の
あらゆる所で
あらゆる時間に
全智が
生きかえるのである

先史時代の
神仏が
生きかえるのか
永遠よりも
前の
神仏が生きかえるのか
生きかえるのは
永遠であり
全智であり
神仏そのものである

神仏の
芸術も
神仏の
学術も
すべてを
生きかえさせる

神仏はこう語った

すべてが
永遠に
生きかえる
すべてが
太古の昔に
古代に
生きかえる

神仏の
芸術と
神仏の
学術は
永遠の芸術と
永遠の学術を
引き起こすのである

新しい神仏は
永遠であり
古代の
神仏そのものである

日は
太陽は
永遠である

火も
永遠である

水も永遠である

しかし永遠は
神仏があるから
永遠であり
物のみ
セックスのみでは
永遠ではなく

死の本能が
あるという
定義を
しなくては
唯セックス論は
成立しない

それは
その人を殺す
そして
その理由を
墓場に持って
行って
闇に葬るということである

闇に葬るということは
悪魔の世界に
持っていくということである

永遠は
なく
その物のみ
という考え方を
しなくては
唯物論は
成立しない

それは
物を窃盗するということである
物を強奪するということである
それは
死の本能を持つ人から
奪う
強奪する
窃盗するということである

余の学校では
そのようなことは
教えてはいない

それは窃盗術
強盗術
強奪術を
教えているのである

余の学校では
すべての人を
無限大に
かつ
フリーに
自由に
扱い
平等に扱い
永遠と
太古を
教えるのみである

余においては
闇に葬るということをしてきても
峻厳に
闇に光を当てて
罰するのである

罪と罰
恥と煩悩
である

悪を
闇の悪を
葬ってこそ
永遠が戻るのである

神様の精神医学

神はすべての人が
精神の病を持っていないと
思っている。

神は
すべての人に
平等に
分け隔てなく
接する

これが
自由と平等の
原理の
始まりである。

政治学の始まりである。

但し
神をないがしろにする
人間については
特に
セックスのみという
前提にたって
論理を展開して
神を亡き者にする
フロイトと

物のみという
前提にたって
論理を展開して
神を亡き者にする
マルクスについては
精神の病を持っているものとして
天国には
こさせることはない

その二人の
論理によれば
それにしたがったもの以外は
精神病であるということになるが
しかし
その論理にしたがった者こそ
精神の病を持つものである

家族に
そのような者がいると
他の家族は
そのような者がいることを
社会にいる他の人々に
話し公にすることが出来ない

それを
マルクスと
フロイトは
ねらって
このような理論を
組み立てて
強制し
それにしたがわない者は
精神の病
として
自殺させる
つまり殺すのである

このカルトは
恐ろしい
集団を形成する

そのような者が
依存できるような
社会制度を作ることのみが
その
精神の病を作り上げた
原因である

そのような者が
一人いるだけで
そのような者が
殺した
多くの人が出る

浅間山荘事件であり
沖縄の集団自決事件であり
その他
ヒットラーが自殺した事件である。

ちいさいことにはくよくよするな

永遠の
中の
一つの
ゼロにしか
過ぎない

物にこだわるな

セックスに
こだわるな

諸行無常

それは

心の闇から
物を追求し
セックスを
追求しても
得られた物は
何にもならない
ということです

逆に

永遠の神仏から
生れた
すべての
行いは
すべて
永遠のためにあり
永遠のものであり
諸行無常とは
無関係です

物を捨てなさい
権力を捨てなさい
セックスを捨てなさい

もし
マルクスや
フロイトのような人間が
物や
権力や
セックスを持っていたら
自由によって
平等によって
対抗しなさい

ないこと
無であること
それらは
無限大の強さを持っています

人一人の力は
無限大です

京都では
大文字焼きは
大の字を
一人と
読んでいます

一人は
無である限りは
無限大です

異性は
悪魔ではありません

中世において
女性を
悪魔にしたのは
間違いです

それは
異母兄を
継母の前の
母を
魔女にした悪魔の心なのです
フロイトの
心なのです

それは
セックスのみの
考え方から
きています

フロイトは
男尊女卑であった
そこから
生れたのが
セックスのみの
考え方であったのです

それも
悪魔の心が
入ってしまった
男尊女卑であったのです
魔女刈りの悪魔の心理でした

セックスのみという
考え方は
そういうことなのです

男女に
差はないと考えたときに
無が生れ
自由が生れ
そして
神が生れるのです

男であれ
女であれ
物を持った人であれ
物を持たない人であれ
余は
平等に、つまり自由な無限大な人として
取り扱います

それは
余であるからこそ
できるのです

余を信じて
ついてきなさい

余は
あなたと
同様に
無限大に向かった
永遠の
存在です

地球上で
理科系の学問を
学んだ人間は
社会の人間関係の
学問を
知らないので
フロイトや
マルクスに会うと
殺されるか
殺すかの
選択を
迫られて
フロイトを
精神病ということに
よる反撃をおそれて
他人を精神の病
という
側にまわり
自分の
親さえも

物を奪いたいという
情動での意味で
精神の病
といって
殺してきたのを
数千の単位で
多く
余は
見てきた

早く言った方が勝ちというのである
思想の相対性などは
存在しないというのである

思想の絶対性ならば
マルクスと
フロイトに
飛びつくのが
ヒットラーに
飛びつくのが
もっとも
考えなくてよく
簡単で
社会科学など
学ばなくてよいからである

多くの
赤軍派の
事件は
ここから起こった

革命的な
科学的な
マルクスの信者は
ここから生れた

しかし
物や
セックスの
絶対性は
存在しない

したがって
相対主義をとらなくとも
余の無限性を
全智を知っていることによって
人間は
自由となり
無神論から
逃れることができる

精神病の行為のまねを
特に
第一子とかがすることがある
それはフロイト、マルクスの暗示による
殺せ、殺さねば殺される
という狂った心理である
自殺のまね、高笑いのまね、
包丁を振りかざすまね、
しかし人間にとっては
言葉が初めにありき
その行為は
フロイトによって
殺された
心が
言葉として
悪魔の底から
行っているのである

精神の病を
分からずに
フロイトの
精神の
病を
まねる者がいる

自殺のまねをしたり
死の本能のまねをしたり
他の人を
親でさえも
精神の病
といって
殺そうとしたりする
フロイトの
精神の病
そのものを
まねしようとするものである

しかし余から見れば
精神の
病を持った
フロイトが
死の
本能と考えた
そのこと
自体が
精神の病である

なぜならば
余は
言葉を
最初に
人間に
入れたのであって
それが
そのまま
行動に
移るように
造ったからである

死の本能とは
他人に対して
死ねということである

フロイトの
病は
このような
言葉と行為に
表現されている

余は
フロイトの
心の深い闇を
知っているのである

占いの
言葉は
定義が
すべての人に
当てはまるように
つくられている

すべての人に
該当するような
言葉を連ねて
理科系の
人間が
殺されないうちに
他の人を
殺してしまえ
というのが
フロイトの
精神である

フロイトの
精神の病
という
言葉である

その精神の病から生れた
言葉は
悪魔の言葉である

悪魔の道にはいるのは
易しく
天国の道に
はいるのは
全智に向かって
はいることです
天国への道は
余が
造った通りの
自然の
道に
よれば
簡単なことです
物のみ
セックスのみに
陥らなければよいのです

自然で簡単な道は
自由で簡単にはいることが
できるみちです

誰もが
はいれる道です

キリストの
聖書に
よって
すべての人が開かれており

仏陀の聖典によって
マホメットの
聖典によって
すべての人に
開かれている道です

その解釈の違いを
乗り越えて
永遠の
全智に向かって
行動を行えば
自由にはいれる
広き門です

マグダラの
マリアも
聖母マリアも
すべてが
余が
造った者である

広き門より入り
行動を行いなさい

行動と労働を行いなさい

労働をする
苦難と幸福の道
によるのです

労働は
全智の余に向かって
行われるべきです

殺すか殺されるか、
その前に殺すというフロイトの
悪魔の心理が
これが
アーリア人との
間で
敵に
恩を売るという
言葉になったのである

しかし
本当の定義に
当てはまるのは
マルクスとフロイトの
物のみ
セックスのみ
という概念の体系である

あてはまるのは
マルクスと
フロイトの
セックスのみと
物のみと
いう考えによる
行動のみである

有限な物と
有限なセックスに
こだわって
それ以外に
考えられなくなっていて
いるからである

労働は神聖である
労働は無限の可能性を秘めている
労働は
人間の永遠の行為そのものである
労働は不平不満を言う場ではない
労働は物のみではない
労働はセックスのみではない

労働は神という
永遠の全智を
知った
人が
自由に
無限大に
可能性を引き出すことである

労働が
物のみに
こだわっていれば
セックスのみに
こだわっていれば
不平不満を言って
他人を殺すのには
便利であろう

労働は
有限な物と
有限なセックスを
捨てて
余に向かって
くる
永遠の営みである

労働は
僧侶の労働のみが
余に向かってくるのではない

一般の
すべての人の
労働が
余に
向かってくるのである

発明者の
労働も
綱渡り師の
労働も
ダウン症の子供の
労働も
目の見えない人の
労働も
すべて
余に向かってきているのである

労働は
人が
ゼロとなって
つまり無限大となって
祈りながら
余に
向かってくる
高貴な
行為である

労働に
励みなさい

フロイトや
マルクスのように
たちどまって
労働をやめて
セックスのみ
物のみ
従って
余は死んだ
などとは
いわないようにして

労働に
励みなさい

ある放送大学の
教授が
すべての人に
当てはまる
定義しか
フロイトは
してないので
フロイトの
勉強はしたくないといった

労働が
その段階で
止まるのである

また岸田秀氏は
形が無いことが
つまり
人間をそうつくったことが
精神の病
かもしれないので
勉強できないと
いった

形が無いことは
ゼロであり
無限大であるということだ

占いと同じだ
あるいは
殺される前に
殺せという
社会科学の中では
科学ではない
論理になってしまう

しかしセックスのみと
物のみに
こだわるとき以外には
人間は
精神の病

存在しない

人のゼロと
無限を
神の
無限と全智を
知りなさい

余が
天上から見て
フロイト模倣行動や
フロイトのいう行為に
催眠的に同様の行為を行う行為は
両親の子のうちの
第一子に
たびたび起こることが多かった

フロイト模倣行動の
悪魔の行為である
理由は
はじめに
言葉ありき
という
神に属する
永遠の
言葉を
物質のみ
セックスのみ
という物やセックスを
神と崇める
偶像崇拝に似た行為において
初めに言葉ありきという
永遠普遍の
言葉を悪用して
神の
永遠の全智に
置き換えて
地獄の言葉を用意して
人を地獄に連れて行くことであった

それは
地獄に向かって
何もしないで
向かっていることになります
地獄に向かって
突っ走るよりも
全智に向かって
労働し
蓄積しなさい
神の言葉の
蓄積は
いくら
蓄積しても
蓄積しすぎということは
ない

毎日
神に向かって
労働しなさい

ゼロであるあなたは
無限大に向かって
永遠の
行為を毎日
行っていることになるのです

何もしないで
フロイト類似行動をし
マルクス類似行動をする
ことだけは
やめなさい

神に向かって
全智に
向かって
突っ走ってきてください

あなたも
あかるく
天国で
光るのです

天国に
いくための
労働について
光の子
らしく
行動を
行えばよいのです

このような
労働観を
植えつけようとしたのは
労働観の
柳田謙十郎
でした

あるいは
神の
中での
労働観
でした

神は
永遠です
労働も
余と
共にある限りは
無限大であり
自由と共にあり
永遠です

ダウン症の子供の
労働も
自由に行われ
それは永遠の神に向かった
無限大の労働なのです

人間には
無意識というものはない

本能と
言葉があるのみである

言葉が複雑になると
感情として
説明できなくなることはある

本能には
物のみと
セックスのみという
ものはある

このことは
特に
20歳までの
子供を
教育するときには
重要である

物のみと
セックスのみという
ことを
教えてはならない

マルクスも
フロイトも
物のみといい
セックスのみという
ことによって
無意識
といった

しかし
はじめに言葉あり

それは
教育においても
特に
重要である

物のみといい
セックスのみという

神を教えないという
ことだけではない

教育を
しないことである

野性児とすることである

それは
つまり神を教えないという
ことである

神を教えないという
ことは
無神論を
強要することである

人間ではなくすることである

神を知ることは
無神論を
なくすことではなく
人間に
教育することである

理科系であっても
社会の中の
理科系であって
余をしらなくてよい
訳では
絶対にない

しかし
理科系の
教育では
神を
全智を
ないがしろにする
ことを
教えがちである

あくまでも
精神医学は
社会の人間関係の
神の学であって
人間の学ではない

神を捨てた
マルクスの
フロイトが自殺した
時の
心に
分かるようなものではない

神はすべての人の
創造主であるので
すべての人を
精神の病
としてではなく
神に近づこうとしている者
として取り扱う

つまり
神は
間違った考えを
取り除く

人間が
物のみに
拘束されているというのは
間違った
考えである

人間が
セックスのみに
拘束され
有限である
というのも
間違った考えである

マルクスや
フロイトの
物のみの
考え方
人間の
セックスのみの
考え方を
治すのが
精神の
医学である


人間関係においては
人間には
精神の病を持ったものは
いないと

神はいうのである

ところが


フロイトは
またマルクスも
自分以外は

唯物論と唯セックス論とを
採用しないので
精神の
病を持ったものである
という

他の人間にとっては
本当は
人間を神がそう造っていないので
当然である
神にとっても
人間にとっても
当然である

理科系の
人間が
経済を
物のみという
セックスのみという
時に
飛びつくのは
マルクスの
物のみの
奪い合いの
考え方であり
セックスのみという
フロイトの
異性の
奪い合いの
闘争史観
である
最も
学習しなくてよい
有限の
物と
セックスのみに
偏った
本能による
経済学である
それは
科学ではなく
精神の病があると
いうことができる

歴史の
法則性を
セックスのみに
物のみという
唯物論と唯セックス論によって
導き出し
有限の歴史に
歪曲するのである

バーリンは
このことを
よく
つきえた

また
神の
存在について
ベイズは
確率論によって
よく神を理解した

ベイズの
恩寵に関する
ベイズの定理は
まさに
的を射た
原理であった

ベイズは
唯物論と唯セックス論とを
排除すると
言ったのみであろう
それ以降の
図式化は
後世のものである

無であるが
ゼロ分の1の
無限大でもある
人間は
それ故にこそ
不確実な
確率を
事後的に
物のみでもなく
セックスのみでもなく
知って
行動を行っているという
ただ
それだけを
ベイズは
言いたかったのである

それは
神が
言ったのを
後世が
図式化したのと
同様である

自由に関する
オックスフォードの
デイビットミラー教授の
定義が
この点を
あいまいにしながら
進んだのは
本来の
哲学からは
外れていた

しかし
天安門でも
ニューヨークでも
パリでも
ローマでも
アテネでも
これらは
同様に
当てはまる
真実である

人間は
神を
余を
仏を
余を
もって
はじめて
人間となる


唯物論と唯セックス論とは
反対の
永遠の言葉
自由についての

定理であった

物のみといわず
マルクスの
物のみという考えを排し
セックスのみと
フロイトの
セックスのみという考えを排し
その上で
客観的に
自由という無によって
瞑想し
あるいは
座禅することは
永遠である
人間界を
理解して
出世に
結びつけられる
それは
余が
そのように
推奨しているからである
ということに
ベイズは
気がついたのである

神の
恩寵は
永遠の言葉
を信ずる
者にのみ
与えられ
唯物論と唯セックス論によっては
与えられないと
説いたのである

ベイズは
物のみという
有限性を捨て
フロイトの
セックスのみという
有限性を
捨てて
自由という
無限大それゆえに余を
考察したのである

しかし
これを説いたのは
キリストも
仏陀も
マホメットその他多くの人間の
説いてきたものであり
別に
新しい
考え方のみから
生じたのではない

統計学に
取り入れやすかった
のみである

神の
余の
仏陀の
目覚めた者の
心情が
いかなるものであるのか
説いたのであり
ずっと
かつてより
フロイトの
マルクスの承継者でない
物のみという
セックスのみという
考え方
を採用しない
すべての
自由なる
人に
採用されてきた
ものである

その考え方は
永遠であり続ける
考え方であるから
太古の昔から
採用されてきた
考え方であったし
永遠を
前提とする故に
永遠にあり続ける
考え方である

神がフロイトと
マルクスの
魔術に
だまされる訳がない

神は
いつも
悪と魔術を行う
心の闇を
見つめていて
見つめることは
永遠であり
止むことはないからである

心の闇から生じた
フロイトと
マルクスの
ファンタジーに
子供が
ひたるのは
いいことではない

神を信じた
無は自由であるが
神から
来たものであり
全智のものであるからである
それと
魔術と
催眠に
かかるのとは
違っている

悪魔の
魔術は
物のみという心
セックスのみという心
から
心の闇から
生れたものであり
殺すためのものであり

天使は
無限から
生れるもので
現実的で
人を活かした
神の
余の
心から
神の
恩寵から
現実に
起こることである

フロムはポジティブという時に、マルクスの唯物論を考えている。それと唯セックス論を唱えたフロイドも同一の領域でとらえている。
ヒットラーの行為がどのようであるのかについても。

フロムが実存主義的に自由をとらえているときに、ポジティブという性格をマルクスの唯物論に至った考え方は何であったのか。自由を怖がったのはフロムそのものでなかったか。
どうでしょうか。

実存主義的自由はサルトルにおいても自由からの逃走と同じように逃げていくべきものとして自由は恐怖としてとらえられている。

私が不思議に思うのは、綱渡りの自由を恐れながらもあえて行おうという気持ちも持っている、自由からの逃走しようとする人間の不思議さです。

自由なのに、恐怖を持つ。
わがままなのに、自由からの逃走をしようとする人間についてどのように表現するのかということです。

自由からの逃走、確かにいいえて妙である。
自由からの逃走をしようとしない人でも、自由は逃走するにしくはないのか。自由とは危険を伴うものであるのにわがままな人は自由を失った時を持ったことがなく、危険のみに意識を集中して恐れるのである。
恐れさえなければ自由から逃走しようとすることはなかろう。

自由に対する恐れはヒットラーが自殺した時までヒットラーの行為が自由からの逃走というものであることを表現することはなかった。

自由からの逃走はフロムの心ではなかったのではなかろうか。
フロムはフロイトによってそうなったのである。それはフロイトを承継しようとして、ある意味では自由を恐怖であると見るようにフロイトの継承者として、精神が陥ってしまったのではなかろうか。

よくこのようなことは発生する心の病である。それを自由からの逃走と呼んだのではなかろうか。
悲しいことである。しかしよく起こる現象である。それがまた起こらないか非常に心配です。

人間に神が与えたものは、自由に形成することのできる神に等しい部分と、それに反して固定された一億分の一の本能である。本能には物欲と性の本能がある。
唯物論と唯セックス論とによって決定論を主張することは、ゼンダーについて無限に語り、因果関係が結論からみた場合には様々な原因があるというシステム的社会を否定する。自由な行動と物と性がどれくらいに原因となるのかについて物と性がすべてであるという主張は決定であり、絶対にそれ以外はないという主張であるが、人間が人間の一億分の一の本能によってのみ決定されるという考えは人間を物と動物になぞらえる考え方である。
その反対感情である痛いという感情が含まれている故に生への本能がある。人間はだから殺されない限り自殺することはない。ほんの一部の本能がすべてであるということは精神が食べられないかもしれない、性の本能に耐えられないかもしれないという不安から発生したものであり、産めよ増やせよの20世紀の時代から生れた感情である。これらがホロコーストを引き起こした原因であり、それは産めよ増やせよの時代感情から生れたものである。それは結果としての性格がどのような理由によって生れたのかを考えるときに唯物論と唯セックス論とによっては決定を主張することなく、それらを一億分の一の本能として一部の原因として考えて、科学的にどのような原因によってそうなったのかを研究するベイズの定理は非常に大きな意味を東西冷戦後を反映して政治学が、また経済学が唯物論と唯セックス論とによる決定論から脱して行って永遠の世界へと歩みださなくてはならないことを示している。

しかしこれらを
人間が
行ってはならない。
言ってもならない。
それらは
神が言ってよいだけである。

東ドイツから西ドイツに
逃げようとして
射殺された人々は
フロイトの継承者から
逃げようとする
人々とは
違って
逃げることが
出来たかもしれないが
フロイトの継承者から
逃げようとする
人々は
射殺こそされないが
生活上の
理由から
逃げおうせることはない
しかし
神仏の心は
永遠である

フロイトの
唯セックス論について
セックスのみではないと
発表を
ためらうことはない 

マルクスの
唯物論についても
物のみではないと
発表を
ためらうことはない

どちらも
本当の
意見を
抑制する
必要はない

唯物論についても
唯セックス論についても
非難を
拒否する

それは自分は
できない
他の人々は
できる
できない人が
できるという
必要はない

しかし
できる人が
できるという
べきではないという
神の天上から見ると
人間は
平等で
すべて
無であり
無である故に
平等である

呪術師は
神の
自由よりも
政治として
神の
全智を
使う
魔術師になって
いる

中世の
自由は
唯物論に
いたる
手前の世界にあって
神の
永遠を信ずる
少数の
学者によって
現代にいたっている

アクィナスは
永遠の
神と
人間について
語っている

唯セックス論の
フロイトからの
決別者である
ユングは
いにしえからの
心の中に
無限大の
自由を
見いだした点で
正しい

いにしえの
自由と
現代の自由とが
同じく
永遠の
自由であると
見ていない
点で
神から見れば
難点がある

カール・グスタフ・ユングは、
ヒトラーについて
神秘的な呪師
予言者
魔術と見た点に
通ずる
大きな難点がある

フロムは
自由を
恐怖と見て
自由からの逃走を
肯定しこそしないが
純粋な永遠の
神の
自由を
見いださない

ロジャースは
神と自由を
重んじている

甘えの構造は
唯物論でも
唯セックス論について
同性愛の
部分以外は
ルーテル
以外の部分は
自由と
無を
重んじている

神と仏は
物を
永遠であるとは
考えない
神と仏のみが
永遠である

すべての国および国民一人一人は
すべての栄誉は
すべての物質は
永遠に無で自由である

神と仏の下においてのみ
存在する

甘えないようにしなさい
ということは
兄弟が多くて
唯物論に
陥ったものに
物とセックスに溺れないように
ということであり
唯物論と
唯セックス論に
甘えないように
勧めることこそ
甘えからの脱却であり
神に近づくことであって
物の呪縛
セックスの呪縛から
逃れて
色即是空と
唱えることである

神は
唯物論や唯セックス論によって
物や
セックスを
神として
甘えることを
禁止します

無であり
すべてである
神と仏を
大切にするように
甘えから
脱却するように
させます

甘えとは
物と
フロイトのようにアヘンと
セックスのみという
唯セックス論と
唯物論に
依存して
甘えることである

フロイトの
心理は
唯セックス論に
いたった心理は
多くの
兄弟
それも異母兄弟に
対する
憎しみと
甘えから来ている

甘えとは
物を
無と自由によって
永遠のものとして
自らが
神と仏によって
みないことである




東大医大受験の神様

受験の極意

試験の極意は人生を達観して、88歳になった気持ちで、要領を心得ることである。

人生は短く、光陰矢の如し。

すでに書いている東大受験の参考書をこれから印刷し、出版する。

実際に同値の記号を使って数式を計算していく方法は、様々な問題に使え、実際に私はその方式で解いていたので、それを発行しようと考えている。

また英語においてもネクサスの考え方で英文和訳、和文英訳しその方法で実際の大学入試を解いてみているのでそれを発行しようと考えている。
出版社を通して。

数学の極意

1、

問題を写し、同値変形を行っていけ。

2、

括弧は正確に読んでいけ。大括弧、中括弧、小括弧を区別せよ。

3、□1、(1)、@などを使って場合分けを行え。

4、二次方程式を解けるのであるから、

の公式以外は覚えるな。

5、

三角形は二等辺三角形1:1:√2と

30°、60°の直角三角形、1:2:√3とによって

すべての三角形

三角関数を理解せよ。

6、式にはすべて符号を付けていけ。

7、交わっている線は重ねて描くが、後ろを通っている線は少し消して描く。

8、図形、漢字、絵は大きくきれいに描く。

9、幾何は大きく図形を書くことをもって、始まりとする、
  代数はx軸との交点、y軸との交点、0原点と放物線等の頂点を描いたグラフが出発点である。
 

まず微分積分を「7歳からの微分積分」によって覚えることからはじめる。

同値を使え。

変形はすべて同値かどうかを確認しながら進めていくこと。

人間は二次方程式を解けるようになった。

分母が共通なので、まとめて、
  

この公式は覚えるに当たっては

グラフによって

前半部分から−b

2a÷b

から左右に等距離にある点でX軸と交わっていると読みます。

つまり後半の部分は2a分のという部分をも読み込む必要があります。

そして微分積分をX2は微分すれば2X、2Xを積分すればまた元に戻って2×X2÷2でX2に戻ると教える必要があり、

xが0から1までの

x軸と、y=x2との間の面積は

3分の1と教えます。

英語の極意

すべてネクサス毎にスラッシュを入れて行って理解せよ。

物理の極意

自動車が坂を滑っていく時の重力とその反作用から理解せよ。

化学の極意 

6.02×10の23乗の数の粒子集団のイメージをまずもたせる。

生物の極意

いかにして絵をうまく描けるか。

生物学は絵あるのみ。

個体発生は系統発生を繰り返しているのか。

政治経済の極意

社会契約は本当にあったのか。

経済循環と資産経済、福祉経済

歴史の極意

日本の歴史

源義経はなぜに頼朝に殺されたのか。

世界の歴史

マキャベリはイタリアのフィレンチェで何を考えたのか。

地理の極意

武漢は中国でどの様な地位にあるのか。

国語

中国語そのものシェシェ、イタリア語グラツィエgrazie、スペイン語グラシアス、フランス語メルシィイ、英語サンクキュウ、ドイツ語ダンケ、ギリシャ語エフハリストΕυχαριστω、ロシア語スパスィーバспасибо,ラテン語グラティアgratia、日本語ありがとうから始める。

古中国語漢文は、ネクサス毎の意味の固まりを日本人が読みくだしやすいように順番を付けたものである。

数の歴史と文字の歴史
1、2、3
アイン、ツバイ、ドライ
イー、アー、サン
アン、ドゥー、トロア
など最初に発見、発明された量を現す数字は整数であった。
最も重要な数はインドで発見されたゼロである。
その後負の数が発見された。0も負の整数も整数である。
ゼロの発見によって発見されえたのであるが1をゼロで割った数が無限大である。ゼロと無限大は反対のほぼ同じ概念である。
この概念が限界効用や、微分積分に応用された。
有理数は整数m、nによってm/nの形に表される数であり、nは0ではない数である。
無理数は有理数でない実数である。無理数を小数で表すと、循環しない無限小数となる。
解の公式でルート√の中が負の場合には解は虚数である。負でない場合が実数である。
α、β、γはギリシャ語文字であり、アルファベットが西洋に生れた。ギリシャ語文字αβγδεζηθικλμνξοπρσ(s) τυψχψωです。その後a,b,cの25文字となる。ギリシャではギリシャ数字が発達した。ギリシャのピタゴラスはピタゴラスの定理を発見した。α、β、γはロシア語においては反対向きにしたりしたがヨーロッパ、アメリカ、カナダなどに伝播した。
中国では漢字が発明された。絵文字からの発展であった。
漢字は日本、韓国等の文字の原型となった。

代数の発見と、未知数

求める未知数をエックス、xとおいて解を求めていくという方法を最初に発見したのはデカルトである。デカルトは確かなものと確かではないものを分けて、確かではないものを確かなものによってあらわすことによって確かにしていこうという方法を考えたのであった。代数の発見といわれる。分からない単語を分かる単語によって推測する方法である。
小学校5、6年生の頭脳が発達する時期に代数を教えるべきか、算数を教えるべきか。インドにおいては九九以外に代数的方法を用いて二桁の暗算を教えて成功している例を參考にすれば両方を教えるべきであろう。つまり二つ以上の解法を同じ問題に対して与えるのは最も効果的な方法である。和算の鶴亀算を、代数によっても解いてやるという具合である。
またこの時期に韓国のように英語や、外国語をも教えるのは、論理的な子供の発達教育のための有効な方法であろう。イギリスでラテン語を今も教えているのは論理的な発達を期待するという理由による。

人生88年すべて学問の道である。その第一歩に大学入試はあたる。
人生はすべからくすべて学問である。大学院博士後期を出た人間として言えるのは、大学入試は学問の場にいたる過程であって、詰め込みの場であってはならないということである。
小学校5年の子供が高校の問題を解けることはよく知られている。
その芽を摘むのはよくないことである。多くの芽が摘まれている。学問に上下はない。これは天は人の上に人を造らずというのと同じことである。

学問の道と入試の道
政治学者としては求める政治とは何かについて分かっているものから推測していき、政治とは何かについて結論を出すというのが私の一生の仕事であった。
これはリンゴは何故落ちるのかと考えたアイザック・ニュートン(イギリス人、1643〜1727年)の考えたことと匹敵することである。
地球から引っ張られているという概念と、家族と社会との間の関係であるという概念は科学という意味では同じことである。
そんなこと研究していたら大学入試には合格しないよという者がいるが、そうではない。
真に頭がよい人はながら族でもある。研究しながら覚えるのである。

私の家には地デジとハイビジョンで見られる55インチのテレビが2台あり、パソコンが10台以上ある。それももっとも早いパソコンを次から次に買っている。知的な研究のためには自分の探求するものを持っていることは子供にとっても必要なことである。

大学受験はいかに一般的に一般解を求めるかという普遍性を追求する場である。
しかし現実の88歳までの人生を現したものでなくてはならない。従って小中学生のようにまだ発展途上にあるものではない。原始時代であればすでに成人したものである。従って現実の社会に出て行って研究をし、一般的な社会において通用する普遍的な原理を研究すべき場所である。大学受験も同様に88歳までの人生を反映したものでなくてはならない。大学も大学入試も共に永遠の言葉を集めて普遍性を追求する場である。従ってマスコミでさえ、地デジとハイビジョンさえも含んだような普遍的な原理を表現することは東西冷戦後の現在は必要なことである。

翻訳と口語の会話

数学の論理と共に、言語の論理を身に付けることも大学入試において求められる。
翻訳をして論理を身に付けること。これは東京大学よりも京都大学の入学試験で重視されている。
英文和訳、和文英訳、古文和訳、漢文和訳、中国語和訳等の能力を重視するのは京都大学の入学試験である。これはラテン語の英訳を重視するイギリスの古典教育と似ている。
これは論理的な能力を母国語において涵養すると同時に他国語等の理解能力を増大させる。このために私は一年間訳のみに専念した時期があった。
一方では口語の会話能力や、筋を理解する能力、聞く能力や、実践的な商業英語の能力、旅行英語の能力などの涵養とこの訳の能力の関係がある。訳の能力が論理的な論文の書き方を涵養しても、会話能力を涵養しないのは明らかである。会話は両親の言葉のまねをしている赤ん坊が最もよく発達させる。従って他国にいくのが最もよい能力涵養の方法であろう。
しかし両者の脳力には深い関係があって、女性は言葉の能力が高く、中国に行った時に強く感じたが女性の方が外国語の能力は高い。しかし論理的な能力については翻訳とかさせてみるとあまり違いはない。
会話をしないと外国語の能力は一向に伸びないのは知られていることであって、両者の関係は非常に深いといえるであろう。

筋の理解力

デカルトの代数は小説の作法にも影響を与えたが、それとともに人生の永遠のテーマの探求にも使われることになった。Xが人生のテーマであり、永遠のテーマであってそれをいかにして求めるのかということが大学と大学入試においては問われるからである。求めるXをどこに置くのかという問題は小説の読者にとってと同様に大学入試に当たって大学の方が小論文とかにおいて要求するものである。それは永遠の人間の課題にいかに答えているのかを問うものである。Xが未知のものであるということが共有されるべきであるという結論によって各人にそれの説明を求めるのであるからXをいかに説明して大学人を納得させるのかという問題に帰した。
例えば小説の読者はどこにおかれようとX=に直さなくてはならない。しかしそれらは単語のみによっては表現され得ない。概念というものに昇華されていくテーマのようなものがXである。松尾芭蕉は旅をテーマとして俳句をつくっていった。不動産を取り扱う商売も旅をテーマにしている。不動産は各土地土地で違っているのである。各土地を見て松尾芭蕉のように俳句を読めるのである。下々の生活も、お上の生活も同じものである。それらに上下はない。
生活に根ざしてはいるが、小説とは作り事である。歴史小説もあれば概念を追求した小説もある。シナリオ作家もいる。だがフィクションの中にも真実によって証明しようとする態度こそフィクションのフィクションたるゆえんがある。しかし巷の多作主義の推理小説も、シェイクスピアも同じ形式をとっている。小説とはフィクションにおいて求めるテーマや犯人をXとおいて、確かなものをすべて固めていく、その上で読者にXをX=の右に集めさせてXをはっとする形で提示することである。Xをどこに置くか、どこに伏線をはっておくか、どこにハラハラする場面を置くのか、そして証明をどのようにするか、そして読者がXをどのようにして求められるか、それは小説におけるXの証明と同様のことである、読者の推理過程をあらかじめ綿密に計算しておくことが必要である。しかしその推理過程の通りに小説におけるXを置いておけば飽きられる。そこでXを最も目立たせる形で提示する必要がある。Xはどこにでも置ける。最初にも、中途にも、最後にも。最後にXを明示する作法もあれば、最後まで明示しない作法もある。明示しない方法であってもテーマは示されているのである。
シェイクスピアは推理小説とテーマ小説を一致させた。シェイクスピアのベニスの商人も、ハムレットもテーマは商業とは何か、戦争とは何かという永遠のテーマである。悪の商人、戦争の商人さえも描きうるのである。そこに永遠の神や宗教の問いが存在しているのである。
経済学も政治学も現実の政治を取り扱う。しかしそこにフィクションがあってはならない。それ故にいきおい方向として歴史の解析に向かいやすい。あくまでも事実に根ざしていなくてはならない。

大学入試は事実に即して答えが求められる。従って国語におけるXを求めるという論理性を事実の論理に限定しやすい。フィクションたる小説が出しにくいのである。しかし古典古代の物語などはフィクションたる小説に似通った部分が多くなる。古典古代も尊重するが、一方では学問では極力フィクションたる小説に似通った部分を排除しようという考え方が存在する。マキャベリはイタリアの現実の政治を解くのに、古典古代の伝統を持ってきた。そこには多くのローマの建設期のフィクションたる小説のようなものが入り交じっている。佐々木毅氏はそれを伝統の重視というが西洋のマキャベリ論はその様な考え方はとらない。マキャベリはイタリアの現実の事実のみを採用したかったが、ローマができあがった際の様々な戦史に言及せざるを得なかったのみである。リビウスのローマ史論を題材に事実に言及し、人生とは何かのテーマに立ち向かったのである。

作り事であるフィクションたる小説において求められるテーマは、88年かかっていかに生きるべきかを求めることにあるのであって、三島由紀夫氏のように生き急ぐことがテーマであってはならない。
テーマとして88歳の自分がどのようにして永遠に向かって生きるのかを学習していくために、それまでずっと経験をして確かなものを積み重ねて、人生とは=これまで確かなものからの推論によって答えを出すことが目的であらねばならない。
そのための大学入試であるべきである。
勢い大学入試においては小説のようなフィクションの出題は少なくなり、事実関係を問うものが多くなる。フィクションたる小説は国語の一部分ということになる。それも人間に共通する永遠のテーマだけが出題されることになる。国語、英語共に事実の叙述あるいは論理文、説明文が多く出されることになる。

物主構文やその他日本語にはない構文は副詞的に訳す等品詞が変わる場合がある

英語からの和訳において、What made him do so?のように、物が主語となっている場合にはその品詞と構文を変えて、「どういう理由によって彼がそうしたのか。」更には「彼がそうしたのは何故か。」と訳す。主語を副詞的に訳したのが最初のものであり、更にその部分を最後に持ってきた訳が後の訳である。特に数に関する表現は日本語では最後に来ることが多い。
これらの場合は意訳とは関連がない。意訳をすべきかという問題が次に出てくる。日本人の英訳、和訳を添削するのがこの場合の最も上達の早い上達方法である。意味論の問題である。
ネクサスについては主語と述語のひとかたまりの文章内の部分をネクサスとして区切って理解することが必要である。しかし日本語の訳においては物主構文のように別のネクサスとして翻訳しなくてはならない場合がある。

禅的に考えたときの人間の進化と言語の翻訳
ヘッケルが唱えた「個体発生は、その動物がたどってきた進化の道筋を繰り返す。」という説はもし正しければ面白い説である。ただ類推できるだけであるという反論がなされているが、しかし鰓(エラ)が一時的にでもできるという事実は正しいと考えてよいと私は思う。
もし正しければ人間が我思う、故に我有りと考えていること自体が進化する前を思っている故に我有りと考えているということになる。つまり進化の前の自分を考えられるから、自然を大切にするということになる。人間は羽毛や、毛皮の上の毛に覆われていない故に羽毛や、毛と同様な羊毛や毛を大切にし、毛皮を愛用することになった。それが体温調節という役目を自然によってではなくて自由な頭脳によって行うので、デザインを大切にするようになるがあくまでも体温調節という機能を代用しているにしか過ぎないのである。
本能の代用物であるとする考え方に対して本能の代わりに与えられた永遠の思想であるということが出来る。

人間として日本人は武漢に日中戦争においては爆撃を行った。長江(揚子江)を奥地まで攻め入った。それが進化した人間の姿であったのか。退化した人間の姿であったのか。
おそらく動物よりも退化した人間の姿であったのかもしれない。

荻生徂徠が漢文をよく読んで、徂徠学を起した同じ江戸に、解体新書を翻訳した杉田玄白はオランダ語の勉強をした。どちらも外国語であった。江戸時代以前の日本の学問からは想像もつかないものが外国より、外国の文化の翻訳からもたらされたのである。
日本は翻訳の恩恵にずっと恵まれてきた。
これが和漢洋の三学の混合文化であるという説につながっていくことになる。
語学は単なる技術であるといって済ますわけにはいかない。現在ではドイツ語は機械翻訳によってインターネットでの報酬価格の必要ではない翻訳ソフトによって容易に英語に直すことが出来る。競争上の条件が整いつつあるといえる。インターネットで世界中のサイトが閲覧できる。これによって外国語の能力を本当に伸ばすためには現地に行くことも必要ではあるが、機械的に翻訳するだけならば簡単になってきた。
世界中に行ってみて、その地理的な違いを体感することは大切な文化の習得であるが、言語の違いだけならばコンピューターの進歩発達とインターネットの発達によって相互の競争はし易くなってきたといえる。

本能の代用物としての自由と言語の発達と翻訳

人間が宗教を発達させたのは言葉によって自由になったからである。しかし多くの言語の発達は相互の理解不足から戦争を起こしても来た。その意味では大学受験が訳を重視するのは正しいことであろう。自分が理解するだけではなく、日本人に和訳によって伝達できるようになり、英訳によって世界の人に伝達できるようになるからである。
しかし大学受験において日本の古語をも学ぶ理由はどこにあるか。
日本人が日本の文化を発達させたという主張は正しいことである。しかし日中戦争からみても、その文化が超国家主義に必然的になったという丸山眞男の意見は正しいであろうか。
古文を学ぶ理由はここにある。
古語辞典でつわものを引くと武士という言葉が主な意味であり、ブレイブマンつまり勇敢な人という意味を書いている古語辞典は一つか、二つの辞典である。
ロナルド・キーンは芭蕉のつわものどもが夢の跡をブレイブマンつまり勇敢な人と訳している。確かに義経は勇敢であった。しかし鎌倉幕府をつくる頼朝にとっての最後の打ち倒すべきであった人であるという見方からすればつわものには武士という意味での訳が妥当かもしれない。新渡戸稲造はsoldier兵士と訳している。日本の古語は時代と共にある。農民であった松尾芭蕉は俳句を農民の目から見て武士社会を見るのに使ったとみるのが妥当であるとすれば、涙を流したのが感傷にひたってのものであったとしても悲劇の英雄義経とその部下たちの勇気ある行動ではなくて、それから何百年と続く武家社会の始まりの起点となった悲劇に涙したと考えられるのでつわものは刀の帯刀を許された武士であったのである。
古語は平安時代の、あるいは、各時代時代の社会の有り様を映した鏡であり、古語とはそのようなものである。古語の教育はイギリスの古典教育と似ている。特に英語とは違ったラテン語という言語を学ばせて、各時代の言語を学ばせる理由はイギリス人にも論理的な発達を期待すると同時にそのような意味もある。
その時に文化に込められた意志を丸山眞男のように古層として認識する必要があるとは思えない。日本人が今の今までその意識を持ち続けているかどうかについては検証してみないと分からないからである。文化は常に変化を続けているからである。

あくまでも技術的な問題として翻訳を、英文和訳と和文英訳を技術的に身につけるべき時期が大学受験の時期である。その背景にある文化と歴史についても現地に行ったりして勉強すべきではあるが、言語は技術的に乗り越えなくてはならない壁として学習すべきである。その他の古層や文化については別問題であり、上記の通りに意見の違いもあり深すぎるからである。

数学の学習も同様に小学校5年生のころに考えた鶴亀算をいかに代数という論理的な枠で技術的に発達させて、コンピューター化が進んでいる現在においてはコンピューターによる計算に合致させうる樣にまで技術的な上達を出来るかという点に力点を置くべきであろう。デカルトは確かなものと確かではないものを分けて確かに代数に近づいた。そのような理論的な側面は大学に入ってから一生の仕事として研究すべきものである。政治や経済において戦争をなくして平和をもたらす方法についても同様に考えるべきであろう。それを除いて学習を進めればただきったはった、とったとられたの政治学や経済学の学問しか生れないのである。

政治学や経済学と歴史と地理

BSハイビジョンで中国鉄道紀行をNHKが放送している。
私も武漢に鉄道で香港、シンセン、広州から旅をしてきた。内陸のこの地は三国志演技において赤壁の戦いがあった地である。
地理的にも、武漢は重要であるが、歴史的にも大西遷や日本軍の攻撃、あるいは、租界地があることで重要である。現在はゼロックスや、トヨタのような企業が進出している。

武漢に行ったのは、悠久のストックホルムのバルト海の水にふれ、ボストンの水にふれ、サンフランシスコの水にふれた後に流れがおだやかという悠久の長江の水に触れたかったからである。実際に触れてきて触れている姿を写真に撮ってきた。それらは写真に撮って残している。武漢の長江のほとりには「揚子江」という名前の3階建て程度のきれいな中華料理店があったので揚子江は死語ではないようであった。


地理や歴史は移動がどの程度の時間がかかるかという不動産的な地政学、経済地理の問題として心によってとらえるべきであって、本当は現地に行ってみてから空間的な概念を身につける方がよい。
しかし記憶という面では丸暗記になりやすい。そのために書いて覚えるという方法がとられるが、不動産同様に最後には現地に行ってみないとよくは分からないのが事実である。平面上では表せても、立体や、4次元、更には10次元情報としてとらえることが難しいからである。現地にいかないで分かっているような気持ちになっても実際に現地に行ってみると七転八倒何と全く違っているということはままあるからである。情報を得るのに先に調べてみてからしか行けないという人と、調べて危険があればいかないという人と、全体の10次元情報を先に得てからしか勉強しないという人とがいるが、行かないということがないようにした方がよいということだけはいえる。

他人に行ってもらったのでは全く分かっていないことが多い。

大学受験の意味と目的
大学生は前途洋々である。自由になにものにでもなれる。永遠の学問を学ぶのであるが、しかし人生は88歳で旅である、そのための大学入試である。大きく期待と希望を持って学問の第一歩を記すべきである。
これから問題を解いていく。

学問の上下はない。従って小中学生が大学生の問題に向かってもよい。人生88年の終わりにたった時の気持ちで人生を見る見方を学習するという達観が必要である。最も重要な要素は上記の通りに列挙した問題である。そして知の全体像を見ながら大学受験に立ち向かう必要がある。

デカルトは確かなものと確かではないものを分けていくに当たって数学と論理学に限定して論を進めたが、大学受験は全科目にわたって理解されなくてはならない。英語、数学、国語、理科、社会の各科目が対象となるのであるから、歴史の法則も、小説の主人公の心も、英語の言語も、今後は登場人物の情念も聞かれることがある。
学問は言語によってなされるが、登場人物の感情の情念は理解可能である。情念や痛いという感覚からくる感情をも取り入れた大学受験の勉強が可能であろう。理性は数学においてと同様に、国語においても、英語においても、理科や、社会においても言語によって永遠の真理として理解されなくてはならない。

数学におけるデカルトの方法序説における方法論は、代数と幾何の同値変形として応用できる。

方法の四つの規則とその有効性(第6段落〜第13段落)
 デカルトは、学院で習った論理学、それから幾何学者の解析と代数を手がかりに、われわれの精神を導く方法の諸規則を定める。それは次の四つである。(デカルト『方法序説』pp.28-29)

1.「わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと」(明晰判明の規則)
2.「わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」(分析の規則)
3.「わたしの思考を順序にしたがって導くこと」(総合の規則)
4.「すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること」(枚挙の規則)

マキャベリはイタリアの現実の中から、社会の法則を見いだそうとした。この際にもデカルトの方法序説における方法論は有効であり、また人文科学においてはシェイクスピアの小説における筋立てにおいてもデカルトの方法序説における方法論は有効である。そう考えれば大学受験は問題に対して自らの方法を駆使して答える能力を養い、学問への一歩を踏み出す第一歩であるといえる。

政治法則にはマキャベリがイタリアの現実の中で見いだした多くの法則がある。一方の経済学は数学と深く関わりがある。経済の数字はすべて価格の中に包含される。憎しみも、悲しみも、安らぎも、すべてが価格の中に表現されている。
従って経済学は微分積分によって大概の法則が理解される。
歴史の法則は人間の行動によって理解されるために、数学よりも言語による理解が先に来る。
物理学には微分積分が応用できる。化学や生物学は言語による理解よりも絵画による理解が先に来るので、数よりも質の科学であるといえる。

注:
代数や、論理学、幾何以外にも以下のデカルトの方法序説における方法論は有効であるのかについては、数学の一般理論性の問題であり、世界言語を考えたエスペルセンの文中の主語述語論であるネクサス論の一般解としての理論の有効性の問題であるので、大学受験後の若者の証明可能性の難問として与えるにとどめる。

[こうしたことから私は、[論理学、解析、代数という]これら三つの学問の長所を兼ねながら、その欠陥を免れているような、何か他の方法を求めねばならぬと考えた。そして例えば、多くの法律があることがしばしば悪行に口実を与えるものであり、国家がわずかの法律しか持たず、しかもそれが極めて厳格に守られている場合の方が、はるかによく治まっているのであるから、私は、論理学を構成するあの多数の規則の代わりに、たとえ一度でもそれから外れないという固い不動の決心をさえするならば、次に述べる四つの規則で十分であると信じた。

第一は、私が明証的に真であると認めたうえでなくてはいかなるものも真として受け入れないこと。言い換えれば、注意深く速断と偏見とを避けること。そして、私がそれを疑ういかなる理由も持たないほど、明晰にかつ判明に、私の精神に現れるもの以外の何ものをも、私の判断のうちに取り入れないこと。

第二、私が吟味する問題の各々を、できる限り多くの、しかもその問題を最もよく解くために必要なだけの数の、小部分に分かつこと。

第三、私の思想を順序に従って導くこと。もっとも単純で最も認識し易いものから始めて、少しずつ、いわば段階を踏んで、最も複雑なものの認識にまで登って行き、かつ自然のままでは前後の順序を持たぬものの間にさえも順序を想定して進むこと。

最後に、何物をも見落とすことがなかったと確信しうるうほどに、完全な枚挙と、全体にわたる通覧を、あらゆる場合に行うこと。](デカルト『方法序説』pp.28-29)

88歳までよく生きてきた人間のようになろう。よく寝てよく遊べ、よく勉強し、よくたのしく労働せよ、

人間に与えられた時間は全く同じ。それをいかに有効に使うのか、それがうまいかへたかのみが人の違いである。有効に使った人を恨むのはよくない。与えられた時間を有効に使い、よく寝て、よくたべて元気にしている人が特殊なのではない。気をつけて危険を避けているだけである。 そのようによく勉強し、よく有効に時間を使い、要領がよいことをうらやむよりも自分もそうしようと思う方がよい。うらやむよりもねたみのない社会を作ろうと考えた方がよい。努力がむくわれる社会、あるいは本当に88歳の貧乏な人から見て努力がよかったのか、いいところに生れてきた方がよかったのかを考えた方がよい。最初からあかんぼうのように、あかんぼうとして生れてきたときに貧乏だったからかならず貧乏になると考えるよりも終わりからつまり88歳までの人生を終わりになったときに反省する人間になったうがよい。

いかに効率よく勉強するか、これが大切である。競争のないときには象牙の塔にこもるのが学問であった。しかし現実の社会と、原因について何が理由であるのかについて本当に知ろうとする88歳の人々の知恵を身につけるべきなのである。これまで88歳の人々の、88歳の貧乏な人も、88歳の裕福な人もみて見ぬふりをしてきたならば温かい心で両方を見てやりなさい。そうなることが人生の永遠のテーマの探求にも通ずるのです。人生88年すべて学問です、その出発点である大学受験を喜んで甘受しなさい。
時間を有効に使う、健康に気をつかう、危険を常に察知して避ける、自由の第一歩は危険を回避する自由を身につけることである、そして危険を常に察知している人を危険であるとか恐怖であるというようにとらえてしっとしないこと、健康に気をつかっている人をうらやむよりも自分もそうすること、うらやむよりも恨むのは更に悪いことである。

平和をいうことがまちがいであるならば、三島由紀夫氏のように生き急ぐことが本当のことかといえばよいのだ。本当の学問に生きる準備としての大学受験であった方がよい。
一口に文明の衝突というときには平和と戦争を想定しているが、α、β、γをつかうときには西洋の源流を、漢字をつかうときには禅と神道を生んだ漢字文化を主にした東洋の源流を思い起こす必要がある。彼らがどのような方法を持っていたのかである。その方法は大学受験にも使えるのである。大学受験においてプラトンのような人間が生れても、揚子江で沈思黙考する哲人が生れてもよいのである。

アルファベット文化と漢字文化、そこから生れた文化の意味を考えながら文科系の学問に進もうとする者も理科系の社会経済文化の素人が歴史を研究しようとするときにも気をつけているということはすばらしいことである。それらの融合に成功した日本の人間であるからこそ大学受験はそれを要求しているのである。文字から生れた文化は社会経済更には科学技術の理科系の学問を表す技術である。英文を読むときにもラテン語からの語源の問題を考えて解くとか、漢字を文字の原型となった部首にまでさかのぼって成り立ちを考えて覚えて書くとかは大学受験において必要である。
今ここに英文があるとするその英文和訳の技術はremindのような語源にさかのぼって解くことから始まる。物主構文の場合には日本語の場合には物を主語としないということ、更には数を表す語を主語としないで、数を表す語を最後に表すというような日本語の問題や、古文漢文からの日本語の歴史、古中国語和訳から発生した漢文を読むという問題も関連している。

西洋政治経済社会科学と東洋の政治経済社会科学の流れをとらえるときに、理科系の素人が歴史を社会経済文化の問題としてみて、マルクス経済学の唯物論によることによって決定論として見る見方を批判的にか肯定的にか見ると共にそれを否定した現代の自由主義経済学的に見て見ることも大学受験の問題として見ることも必要である。経済の経緯を数学の問題として、自由な人間の行動の集合として見ることも可能であるし、線型計画法とか囚人のジレンマの問題として見ることも必要である。

若い人の職業には大きな夢がある。大学受験と大学において取得した自分の能力を社会に活かしてその社会に与えた能力の返済としてお金を稼ぐということが職業である。どのような能力でもいいのである。

経済学は現代の自由主義経済学的には政府と家計と企業に分けてその交換の問題としてとらえられているが、その根底には自由な人と人との自由な交換という概念から出発している。両方に消費者余剰、生産者余剰が残るから売買と、政府の活動と、企業の活動が成立している。余剰とは効用の増加である。ただあまりにも多すぎる効用の正常な増加以上の余剰は高すぎるという概念であり、そのようなことも起こりうる。独占状態では一円でできたものを一億円で売るといわれれば仕方ない場合もある。しかしダイアモンドのように希少価値がある場合には高すぎても市場において決まっている場合には正常な価格である。このように経済活動を一つ一つとしてみればこのことは正しく、能力を身につけて88歳までの人生を世間や社会に貢献することが大学受験においても目的としてとらえられるべきであろう。交換できれば生れてきたときに頭が産道にひっかかってダウン症になった人も、貧しく生れた人もすべてが大学受験においても大学においても学習する必要がある。交換自体は難しくない、しかし社会経済文化全体をとらえることは学習が必要である。職業選択の自由があるので、学習によってどのような能力を身につけるのかそのことの方は難しいのである。
このような意味において職業選択の自由は大学受験においても目的として持つことは当然であり自由からの逃避を許してはならないであろう。市場に自由にはいっていって試行錯誤の上でどのような職業においても市場から退出したり、参入したりする自由はある。しかしあまりにも重要な人生あるいは人間そのもののテーマであり、人生88年すべて学問ではあっても、88歳までの人生を考えながら人生のテーマとして学問を深く学ぼうとすることが大学受験において必要である。職業選択の自由と経済活動の自由は深く結びついている。
大学受験においても目的として十分に学生が考えなくてはならないことがある。

ギリシャ文字

ギリシャ文字の書き方:αβγδεζηθικλμνξοπρσ(s) τυφχψωです。一文字1秒で、1分で2回、10分で20回を50分繰り返せば誰にでも覚えられます。これがアルファベットと漢字との違いです。ギリシャ文字が単位や、代数に出てくるのでおぼえるべきでしょう。Π、πはpと発音します。実際の古語、現代語のギリシャ語はギリシャ文字によって綴っています。漢字20,000語覚えるのよりは楽に覚えられて、効果はあります。

基礎

私は小学生のときに次の概念をたたきこまれた。

微分と積分が同一の反対概念である理由は何か、それは無限という概念によっている。

無限に小さくしたのが、微分である。だから曲面の傾きが求められる。経済学での今後の価格の動きの上昇傾向は微分で求められる。限界分析である。同じものを無限に数を増やし平らにしたのが積分である。だから曲面の面積が求められる。

経済学はこの両方を使って、限界効用と、限界効用の和である余剰利益を計算する。

指数と対数・ログと、三角関数をただしく覚えること。

√2と√3、√4と、√5は必ず覚えること。30°と45°と60°の直角の三角関数をただしく覚え、大体の大きさを知ること。ひとなみにおごれやという具合にである。外国人がどう覚えるかはかってであるが、日本人はそういうように覚えよう。

これらは小学生のときに覚えておくべきである。小学5、6年生ごろまでに。難しいことではない。

文化社会的には、次に仏教、道教、儒教とイスラム教、キリスト教ではどこがどう違うかということを覚えること。

いずれも古典古代からの(西暦610年からのイスラム教はやや新しいが)歴史を持っているが、基礎となった生活は現在の生活とは違っている。その点は割り引くべきである。

地理に詳しくなること。世界を旅してみることはよいことである。

また英語や外国語は先に単語を覚えて、三回ずつ読んで覚えること。

また英語などの外国語を覚えるときには、意味のまとまりである節ごとに、あるいは、主語と述語のまとまりとしてネクサスの意味を考えながら、三回以上読んで理解してからでないと先を読まないこと。

世界が一つになるためには、世界共通語を作ったエスペルセンの思想が正しいが、今では難しいドイツ語も簡単にコンピューターによって翻訳できる時代である。大型コンピューターによれば正確に訳せるだろう。それは金がかかるから、自分で読むときには3回程度読みながら、外国語の順に理解して読み進める必要がある。教員もそのように読んで教えていくべきである。

早寝早起きは三文の得である。徳であり人生の生活の知恵と心得よ。

朝早く起きて、何でもいいから刺激になることをして、脳を活性化させることが必要である。それはジョギングでも、何でもいい。自分がもっとも興奮できることをすることだ。それから勉強でも、仕事でもすべてを始めることだ。それらを夜にやってはならない。夜にやると一日覚えたことが忘れられてしまう。夜は記憶装置が働いて、仕事でも勉強でも一日の総復習の時である。

 国語、現代文、外国語、英語、社会では試験問題を設問の問題から先に読むべきか、一般的な例文を先に読むべきか。

 デカルトの代数的な考え方からすれば、設問によって一般的な興味を先に持ってから、正しい真実はどこで言っているのか、そして不明な点は何かというように代数や、推理小説を解くように、まず確定したことを探し、次に未知数を探し、未知数を確定した事柄から導くように筋道を順序よく読み進めるべきである。先に自分の考えで、答えを予測しておくことも大切である。推理小説でこれは行われていることである。

 常に難問が何であるのか、これが未知数といわれ、それを代数でエックスと置くことになる。



著者紹介


かつて大隈重信が学んだ学校の跡に建っている佐賀では一番の進学校であり、葉隠の教えの発祥した佐賀県立佐賀西高校の出身です。大体全校で三番以内くらいの成績であった。大体50番くらいまでは九州大学医学部に合格する。家が薬局だったので行きたかったが、生物を選択したにもかかわらず血が怖くていけなかった。最初は東京大学法学部を受験したが、受験勉強が足りずに不合格。そのまま駿台予備学校で25番で入り、数学は同値で解く事を発見して大体25番以内だったが、出るときには50番くらいだった。いざ再受験しようとすると東京大学の入試は中止となり、泣く泣く当時の大平正芳総理に憧れて、一橋大学の商学部を第一志望に変更して選択して合格。しかし商学部が肌に合わず、大学生の癖に一年目は東京大学医学部を受験し、不合格。しかし数学の大部分は当時まだ解けた。現在娘の大学受験のために自分自身が受験するつもりで勉学に励んでいる。いまだに数学、英語についてはまだほとんどの東京大学の問題が解ける。英語、社会の教員免許を持っており、英語、経済、経営などを公立高校で教育した経験を持つ。この経験は巨大な資産となっている。大学受験においても人生においても有効な極意について実利的に書くことにした。これからも実利的な塾や学校を開きたいという夢は持っている。