GW第2弾 初めての四国旅日記2(2011.5.2)

今日は朝から5名集合。
昨日の疲れが取れなかったが6:00ロビー集合。

高松うどん

6:00?6:30にロビーに集合し、県庁近くのこだわり麺やでかき揚げうどん+アジフライを頼む。(うどん4杯目)
うどん玉を中にしたが量が多く、食べ切れなかった。欲張りすぎ。
しかし、うどんが美味しいね。久しぶりのうどん漬けである。いや初めてかな?
高松駅にバスで移動したが、7:20発の高知行きに間に合わず、1本電車をずらす事にした。

高松城(なんちゃって)

次の電車まで時間があったので駅周辺を散策。 高松駅は港の直ぐ近くにあり、少しびっくり。船通勤の人もいた。
まず、玉藻公園にある高松城へ。朝早いのでまだやっておらず、とりあえず、城の入り口から写真を撮る。次に港を眺めて時間を潰す。
高松駅付近の信号機が何故か青色でペンキが塗られていた。潮水により腐食するのを防ぐためかな?と思いつつ。
ぼちぼちいい時間になり、駅に向かう。

写真はこちら

大歩危峡

高松発の高知行きに乗り、大歩危峡で下車。
大歩危に何があるのかわからずに行ったが、渓谷とのこと。昔行った高千穂峡を思い出す。
大歩危駅の駅長は、なんと子泣き爺である。このあたりは、子泣き爺の発祥の地となっているらしい。
大歩危駅から大歩危峡の間に道の駅があり、そこには、「妖怪ミュージアム」があったが食いつかなかった。
道の駅の下に吉野川が流れており、渓谷が見る事ができた。上り下りして足が直ぐにパンパンになる。
更に歩き、大歩危峡があった。2km30分コースの舟にのり渓谷を楽しむ。舟に雨よけみたいのが付いていて、写真を撮るのに非常に邪魔であった。
舟に乗る際に、次の電車まで1時間くらいしかなく急いで乗って、降りたら直ぐに大歩危駅まで戻った。非常に疲れた。電車の本数が少ないのはきついね。
次の電車になんとか間に合い、大歩危を去る。

写真はこちら

高知へ(桂浜)

高知に1時間くらいで着き、昼食を食べる。
高知駅から山側は田舎町で1つ前の駅まわりは田んぼなどの田舎であった。高知駅から海よりは、繁華街、商業地区のように思えた。
高知駅の近辺に店があまりなく、仕方なく庄やに入り、海鮮刺身定食を食べる。かつおは、夜に取っておいた。
刺身定食はいまいちだった。かつお丼にしておけば。。。後の祭り。この時、酢店が味噌汁をこぼして騒いでいた。
バスで桂浜に移動するが出発まで時間があり、MY遊バスの1000円チケットを購入。電車にも乗れるため、はりまや橋まで移動。
庄屋(播磨屋)と庄屋の行き来に橋を架けたのがはりまや橋の由来とのこと。赤い橋で記念写真。
桂浜行きのバスが来たので乗ったが、桂浜まで1時間くらいかかるとのこと。GWだから仕方がない。 桂浜に着くと、人が多く、とりあえず、坂本竜馬の銅像を見に行くことにした。
銅像を見るが、顔がみえなーい。西日で顔が見えないのだ。特設展望台が竜馬の顔の横に突貫で作ってあり、行列ができていた。
行列に並び、もらった土佐観光の本を見ていたら、何度も何度も同じ放送が行われていて、少し覚えてしまった。
竜馬が立っている方向は皇居を見ていて、少し右斜めを向いているのは太平洋を横断したいから?とのこと。また、戦時中、どの銅像も鉄類が不足して没収されていたが、竜馬像は海軍を作った男であるため、免除されたとのこと。更に、昭和??年に土佐青年会が台座の劣化に伴い、募金で補修をしたため、今後100年は大丈夫とのこと。
覚え切れていないけど、耳に入ってきた。
特設展望台に登り、なぜ、行列ができていたか分かった。みな、竜馬と記念写真を撮っているからである。次の人が前の人の写真を撮る構図ができており、何枚も撮っている。狭いため人が消化できない。腹が立ったので、竜馬の写真だけを撮って、降りた。
ひねくれ者かな?
その後、桂浜に下りて写真を撮り、ゆずアイスを食べぶらぶらしてバスに乗る。土佐犬の闘犬場があったが、入らずに市内へ戻る。
帰りも1時間くらいかかり、はりまや橋で降車する。
写真はこちら

名城 高知城

時間は5時近くになっていたが、高知城に行き、城見学する。高知城も木造で作られていて、四国には木造建築の城が沢山残っていることことに感動した。高知城は良かった。

ここで高知城を少し説明しよう。(HPより)
高知城は、天守を含め、十五棟も重要文化財に指定されている。ちなみに、四重五階天守、本瓦葺の天守、懐徳館(本丸御殿)、納戸蔵、黒鉄門、西多聞(櫓)、東多聞、詰門、廊下門、追手門、天守東南矢狭間塀、天守西北矢狭間塀、黒鉄門西北矢狭間塀、黒鉄門東南矢狭間塀、追手門西南矢狭間塀、追手門東北矢狭間塀である。
土佐24万石を襲封した山内一豊によって創建され以来約400年余りの歴史を有する南海の名城として名高い
山内一豊は、天文14(1545)年、尾張国葉栗郡黒田(岩倉ともいわれる)に生まれた。
父の盛豊は、尾張岩倉城主織田信安の家老で、黒田城を任されていたが、弘治3(1557)年、織田信長の手のものに襲撃されて討ち死にしたとも、永禄2(1559)年、織田信長に攻められ岩倉城で討ち死にしたとも言われている。以後、一豊は母とともに流浪の生活を送ることとなった。
一豊は流浪の末にいく人かの主君に仕えたのち、織田信長の家臣であった秀吉に仕え、信長の越前朝倉攻めでは秀吉の配下として武功をあげ400石の領地を与えられた。
また、本能寺の変で信長が死去し秀吉の天下となると、そのもとで数々の功績を重ね、天正13(1585)年に近江長浜2万石、天正18(1590)年に遠州掛川5万石を与えられ、検地や築城、城下町経営に手腕を発揮した。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方し土佐一国を与えられた。
当時の土佐は、長宗我部氏の除封による混乱の状態にあったため、土佐受取りのため井伊直政の家臣2人が一豊の弟、康豊とともに派遣された。
長宗我部盛親の遺臣が、浦戸城の明け渡しに反対する一揆を起こしたが、派遣軍はこれを武力によって鎮圧する一方で、康豊は旧来の制度を踏襲し領国統治を行う旨を示すなどの懐柔策を展開した。
とのこと。
その後代々続くき幕末に容堂公(僕の中では近藤正臣かな?)がなぜ、謹慎処分になったか分からなかったが、井伊直弼と喧嘩して、豊範に藩主を渡したが、安政の大獄で井伊直弼が殺されて、表舞台に舞い戻ったとのこと。なお、幕末の内容も充実して非常に良かった。
日が暮れて客もいなくなる6時ぎりぎりまで城にいて、7時過ぎにホテルにチェックイン。
写真はこちら

高知の夜

チェックイン後、直ぐに食事に行くが、ホテルマンに土産屋が開いている時間を聞くと、21時までとのことで、土産を先に見に行くことにした。福岡の友人に土佐鶴、司牡丹と酒盗を2つ、ゆず塩こしょうを買って送る。
客が捌けない店で時間がかかったがなんとか送ることができた。
店を出ると、ボンビーが店の中で沖縄?の友人に送ると言っていた日本酒3本を抱えている。住所がわからなかったのか知らないが送るのを止めたらしい。
私が一言、今日の夜、その酒飲めるな!と言ってしまった。ボンビーはそうですね。と
その後、郷土料理屋に入り、豪華な刺身などを注文。かつおを筆頭に、まぐろ、ぶり、鯛が勢ぞろい。1皿1万するが、ボリュームがかなりあって満足。酒盗も美味しかった。また、日本酒が非常にうまかった。
日本酒を飲みすぎてほろ酔い気分で、お店のお姉さんが土佐弁をしゃべっているのにニヤつく。
店をでて、カラオケ大会をすることに。2時間歌を歌ったが酢店の独壇場であった。

ホテルに戻り、きりなを除いた4名が、私の部屋に集まり、酒盛りが始まる。ボンビーの酒を2本飲んだくらいでへばって、私は寝る。カラオケ屋でも相当飲んでいたことと、旅の疲れでいつの間にか寝てしまった。

2日目終了。歩数21,424歩。またまたよく歩いた日でした。