GW第2弾 初めての四国旅日記3(2011.5.3)
朝目が覚めると7時。少し酒が残っていた。昨日何時まで飲んでいたのか記憶が定かでない。
7:30ロビー集合のため、自宅に送る荷物の整理をする。何故かボンビーの財布がある。
私のライター、FOMA充電器がない。
仕方がないのが荷物を詰めて、部屋を出てフロントで精算。ついでにボンビーの財布をフロントへ預ける。
集合時間に4名集合。電話をしてもとらないボンビーを置いて出発することに。
ちなみに昨夜は4時頃まで飲んでいたようで、土産のお酒3本すべて飲み上げたらしい。馬鹿かこいつら
清流 四万十川
08:21 高知発の特急に乗って、窪川まで移動。その間に弁当を食べる。食欲はあまりなかったがとりあえず食べる。
窪川で乗り継ぎに30分くらい時間があったので自由行動。私は駅で四国地図を購入。ずっと眺めていた。
窪川からは、宇和島に抜けるローカル線で1時間以上かけて移動する。
窪川からは、途中の「はげ」までは、四万十川沿線のルートとなり、川を眺めながらの移動。四万十川の上流から下流に向けての移動となる。四万十川はUの字に曲がっているため、高知から愛媛に向けて、上流から下流の移動となる。
四万十川を見ていると、ほとんど河川工事が行われていない。だから、清流といわれているのかと納得。しかし、この日は曇っていてきれいとは思わなかった。
途中鯉のぼりが飾ってあったりしてGWならではの眺めとなった。
宇和島に12時頃到着。
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宇和島城
宇和島に昼頃つくと、天候が悪くなり、小雨が振り出す。大きな商店街をとおり、宇和島城へ向かう。
宇和島名物はじゃこ天と聞き、今日はじゃこ天を食べようと決める。
宇和島城は山の上にあり、石段を登っていく。古い城だけあって、石段がきちんと並んでいない。石垣も苔などが生えて、古い城だと分かる。天守は重要文化財になっており、木造3重3階の建物である。あまり大きくはないが、昔のままの姿を保っており、いい城だと言える。途中に民族資料館があり、昔の宇和島の民俗資料や古写真など展示してあった。
天守に着き、200円だして見学する。
ここで少し宇和島城の説明をしよう。(パンフレットより)
”伊達十万石の城下町”と呼ばれ、江戸時代から四国西南地域の中心として発展してきた宇和島市は、日本屈指のリアス式海岸地帯にあります。城はその最深部、現市街地のほぼ中央にあり、慶長元〜6年(1596〜1601)の藤堂高虎創建時には大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張となっていました。石垣や天守、矢倉は、元和元年(1615)に入部した伊達家により修築されていきますが、基本的な城構えは高虎時代のものを引き継いでいます。
天守は、宇和島伊達家2代宗利が寛文6年(1666)頃に再建、3重3階総塗籠式(そうぬりごめしき)、層塔型(そうとうがた)の天守です。
各階の装飾性の高い破風(はふ)や懸魚(げぎょ)などから太平の世を象徴するものとして評されるとともに、小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、非常に格式を重んじた造りとなっています。
万延元年(1860)、昭和35年(1960)に大修理を受けていますが、昔の姿を今もなお伝えています。
とのこと。
雨が少し強くなり、宇和島城を後にする。アーケードになっている商店街でじゃこ天うどんを食べる。(うどん5杯目)
アーケードでイベントをやっていたので見ながら駅に向かう。駅に着くと電車まで少し時間があったので自由行動になるが、私は休憩していた。15時頃出発。
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伊予大洲城
宇和島駅から大洲まで移動する。16:00頃大洲に到着。
大洲は昔、大津(大きな港という意味)だったが、江戸時代?か何かに大洲城となったとのこと。
天守は、明治21年に取り壊されており、現在の天守はレプリカで平成16年に市民の要望により昔の工法で築城されている。
天守の木組み模型が残されていたため、昔の伝統工法で復元ができたとのこと。
城の中は新しく、主に、城の建築方法についての説明が多かった。入場料は、500円と高めである。
4棟の櫓は明治に解体を免れ、重要文化財となっている。
ここで、少し大洲城の説明をしよう。(パンフレットなどより)
大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道がある。また、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現八幡浜市)があり、大洲は歴史的にはややひなびた立地ながらも交通の要衝といえる場所にあった。宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた。
江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していた。
また、明治維新後から現在にいたる地元住民の城郭への保護活動と、平成16年(2004年)に主に市民による寄付によって完成した往時を出来る限り忠実に復元した4重4階の天守も特筆すべき点である。江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。
なお、城の復元について、作事方棟梁であった中野家に残されていた天守の木組み模型から構造の概要を知る手がかりとなったようである。また、明治時代に3方向から撮影された写真が鮮明に残っており石垣の石の形や垂木の本数まで確認できたとのこと。
城を出て、雨の中を散策しながら17:30過ぎに大洲駅へ戻る。
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松山 道後温泉
大洲駅から松山まで移動し、松山に18:30過ぎに到着。
市電で道後温泉まで移動する。
道後温泉に着くと、人がとにかく多く、有名な道後温泉本館には入れなかった。
別の椿の湯という銭湯に行く。前の日酔って、風呂に入りそびれたので体を洗いゆっくりお湯につかる。元々烏の行水タイプなので長湯はせずに上がる。俺より早く上がっていたのが酢店である。
ボンビーがまだ合流できないため、道後温泉でぶらぶらし、からくり時計を眺めていたら、ボンビーが現れた。反省しているか確認するために隠れて待っていたら、一向に動きもせず、なんやら探し始めている。スマートフォンを無くしたなどと想像していたが、しばらく眺めていることにした。
そのうち、からくり時計が動き始め、見学する。
からくり時計が停止し、ボンビーを見ているが、まだ何やら探している。公衆電話に向かい、きりなに電話してきたので合流する。
スマートフォンのSIMカードを無くしたとのこと。何でこんな所でSIMカードなど弄るのか意味不明であるが、皆で探すことに。
10分くらいして、かばんの中から出てきた。本当に人騒がせな野郎である。30分以上ボンビー見物していたことになる。
その後、電車で松山市駅まで行き、近くの居酒屋へ入る。この日泊まるホテルが怪しいと聞き、他のホテルはすべて満室だが、このホテルは10部屋以上空いていたとのこと。門限があるみたいなので、電話して23時くらいに着くと連絡。ゆっくり居酒屋で食事をすることができた。ボンビーは表面上反省しているようであった?
ボンビーはこの日は移動だけ。あぁー勿体無い。
コンビニで買い物してホテルレインボーへタクシーで移動する。
3500円で安いが本当に何もないホテルであった。石鹸のみでシャンプーなし、ドライヤーなし、冷蔵庫なし。
まっ安いから良いか!!
この日ボンビーは反省の色なく2時過ぎまで起きていたそうだ。
3日目終了。歩数18,379歩。だんだん歩数が小さくなっている。
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