2.神戸市東灘区住吉宮町4の道標

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神戸市東灘区住吉宮町4丁目4 東西の西国街道から北へ分岐する四辻の北東部に南を正面に建つ
(国道2号線住吉交差点北東角)
自然石板碑型 184x60x26p
N34.718323 E135.26063


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南面
┌─―――――――――――――――――┐
│有馬道 是ヨリ北江         │
│      九十丁         │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では東灘区6)
(これだけの大きさに関わらず、行先以外に記述が無いのは少し不審であるが距離の記述を「九十丁(9.8km)」と
 している事から、計量法(1952年)以前であろう。又「是ヨリ」の片仮名や「北江(北へ)」の「江」の使い方
 などは近世の古文書によく見られ江戸期等とも考えられるが、ワザと古い書き方をする事も多く決定的ではない。
  当辻は旧西国街道(明治期の浜街道に比肩して)から、明治のととや道が分岐する地点であり、ここに案内を置
 くことは不思議ではないが、江戸時代の「六甲越え道(旧魚屋道)」の辻には当たらない。資料としてよく使われ
 ている蜀山人の『革令紀行』にはこの石に該当する記述がない点で、文化元年八月十八日(1804年9月8日金曜日)
 以降と考えている。有馬に明治十(1877)年建立の「北区有馬町鳥地獄の道標」が有り、それは住吉から六甲越え
 有馬への道路が大改修された際の設置と思われ、その起点ともいえる地点に建つ当道標も多分その頃のものではな
 いかと考える。
  尚、前述の西50mにある「北区有馬町鳥地獄西の道標」には住吉まで12,413m(114丁弱)とあり、それが言う
 住吉はこの道標が建つ地点を指すものでは無いようである。)
(有馬道を北に進むと「住吉本町3の道標」へ続く。)
(江戸期の「ととや道」については、「森南町3の道標」を参照下さい。
 又、深江財産区が立てた「深江本町3昭和の道標」も合わせて参照下さい。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標南面上部
 右(北)有馬へ  左奥(北)有馬へ  「有馬道」
 土塀は住吉神社】  西側は住吉神社】  と読める】

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【4.道標を東に望む 【5.道標南面拡大 【6.道標南面下部
 左(北)有馬へ  石の形状等から  「是ヨリ北江」
 左、西國街道碑】  新しく感じる】  「九十丁」】

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【7.神戸市東部の道標】
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