33.宝塚市山本東1−2の道標

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宝塚市山本東1丁目2 東からの巡礼道が突き当たるT字路の南東部に北を正面に建つ
蒲鉾型角柱 37x北面17.5x14p(頂高3p)
N34.821425 E135.38576


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北面
┌─――――――――――――――┐
│右さい所           │
│左み能於           │
└―――――――――――――――┘
(「能」は変体仮名「の」)

西面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│左池田            │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│施主大坂住吉         │
└―――――――――――――――┘


(『たからづかの道標』(昭和61年刊)45では
 「場所を移動したものか、方向が一致していない。」とあるように、)
 北面と南面が矛盾する、この地では、池田、箕面は共に東方向であるが
 南面「左池田」が西を指している。移設の可能性あり。
 南面の碑面が平らでなく凸凹している、よってこの面が元々使われていなかった可能性は
 大である、一度移設された時に、追刻の必要が出来、その後現在の位置に置かれた時、
 南面を隠すように設置されたものか。
 『たからづかの道標』に「下部が深く埋もれている。」からの勝手な想像で、もし「左池田」
 の下に、「京道」が付いていて、今の辻の西部に置かれていたなら、在所方面への道を辿ると、
 小浜から丸橋、口谷、加茂、池田と続く「京伏見・池田街道」の丸橋近くに出ることを示す
 ようになり、矛盾は無くなる。
 「池田・京」なる表現は結構見かけ、近辺では
 1.伊丹市荒牧三丁目の道標
 2.伊丹市荒牧5にあった道標
 3.小浜資料館2/4(中央)の道標
 4.中山寺山門前の道標(西側)大きい方
 等がある。
  尚今の場所にあっても、道路と並行にはなく、微妙に捻じれており、在所方面への道の
 角度に合わせたものなのか、気になる点でもある。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を上から、下側が北面 【3.巡礼道から南を望む
 右端電柱手前が道標  黒い舗装や側溝のコンクリートに対し  正面左当道標、奥は在所道
 奥は巡礼道、箕面、池田へ】  20度程、時計方向に回転】  左(東)は巡礼道池田へ】

写真dimg0759
【4.宝塚東部の道標(明治44年)】

【訂正 2023年9月】 変体仮名の説明を枠外に移動等。
 上記を見直した結果、移設に関して少し説明を変更します。
(『たからづかの道標』で「場所を移動したものか、方向が一致していない。」からの考察で
 南面「左池田」…としていますが、これは追記として無視し、現在の北面の記述だけで検討
 すべきでしょう。
  東方向に進む道に対し並行して置かれていない点が気になりますが、中山寺方面から来て
 南行している場合は三ツ辻の正面に見える状況となり、「左み能於(箕面)」は問題なく、
 「右さい所(在所)」も南へ向かう道と理解すれば、山本の集落中に進みこれも矛盾しませ
 ん。依って北面だけからは、移動の問題を提起できない事になります。
  現道標はコンクリートに固定されているが、同書の写真よりも今の方が見える範囲が下に
 広がっており、舗装路の修復の度に埋っていくことから考えると、掘り上げられていると思
 われ、「ついでに移動」が有ったりはするかもしれない。
  尚、現状当辻は筋違い四辻ですが、『今昔マップ on the web』明治42年測図の地図では当辻
 は三ツ辻として描かれている。現状の西への路地が無かった訳ではないであろうが、案内に
 は影響しない(旅人も道として認識しない)ものと考えました。
  辻北西部には宝塚市山本東1−4の道標が中山寺を案内します。)
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