20.武庫之荘8泥付地蔵堂の道標

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尼崎市南武庫之荘8丁目25 守部素戔嗚神社の南170m五叉路の北部に南面して建つ
立方形(供養塔等の台石部か) 33x34x33.5p(上部十字型凹部深4x26x26)(礎石15x52x45p)
N34.745544 E135.383005


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南面
┌─――――――┐
│ か婦と山  │
│右  ミち  │
│ にしの宮  │
└―――――――┘

西面
┌―――――――┐
│(なし)   │
└―――――――┘

東面
┌―――――――┐
│(なし)   │
└―――――――┘

北面
┌―――――――┐
│(不明)   │
└―――――――┘

(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では22)
(元々、道案内が彫られていたものではないと思う。理由としては、
 1.右への案内だけにもかかわらず、字の配置が不自然である。
 2.上部に石を載せる為の継穴が掘られており、元は道標以外に使われていたと思われる。
 3.現在の下の石も、上部とは別物であり、近辺にはその他使い道のない石が集められた節がある。
 を挙げたい。
  ここからは勝手な想像であるが、
 「ここを道なりに進む(左側の道)と、甲山道(この北では西宮伊丹道)に出られず、武庫川を渡る
 ことが出来ないので、『是非とも右側に進んで下さい』と案内する必要があった、道標を新たに作成
 するには何かと物入りである為、材料の石は、ここに転がっている適当なものを見繕って使おう」と
 なり、この石に彫るが、高さが少し足りない分、三行に書いた結果、今の字の配置に成らざるを得な
 かった。又、何処に置くかを思案した時、「堂前が一番目につくであろう、少し低いので他の台石の
 上に置けば、上部の窪みも線香置きとして使える。」
 との思いが現状をを生み出した。とするのはどうでしょうか。)
(甲山道の同定は難しいものがあるが、中国街道を蓬川の西で分かれ、市内で最南の「甲山道」を持つ、
 「19.尼崎市浜田町1松原神社の道標」のある濱田村から、今北村、戌井村、守部村の南東部に達し
 西に折れ、当道標(地蔵堂)のある三叉路を、北に折れ、「21.尼崎市守部神社の(南側)道標」や
 「22.同(北側)道標」のある神社に突当り、そこを西折れ後、更に次の三叉路を北に折れ、よう
 やく西宮伊丹道に合流するものとした。)
(甲山道の表現を持つ市内の道標は、全五基有り、
 1.「19.尼崎市浜田町1松原神社の道標」
 2.「20.武庫之荘8泥付地蔵堂の道標」(当道標)
 3.「21.尼崎市守部神社の(南側)道標」
 4.「22.同(北側)道標」
 5.「26.尼崎市南塚口3専念寺前の道標」
西宮市域に於いては、「68.神呪寺丁石一覧」を参照下さい。)
(『尼崎の道標を訪ね歩く』では、「五輪塔の地輪を道標に、宝筐院塔の残欠で月輪を線香立に使った」
 としており、上の案内の有る石が五輪塔から、下の台石が宝筐院塔からの流用としている。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を北西に望む
 右、守部素盞嗚神社へ  堂の前の二段重ねの  泥付地蔵は
 左(北西)西宮伊丹道へ】  上が当道標】  堂の中にある】

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【4.南面の拡大 【5.上部の凹部 【6.道標前から東を望む 【7.道標前から南東を望む
 右しか書かれていない  下が南面  この道が甲山道か  右、守部新田へ
 左へ行きがちだから?】  下の石にも凹部あり】  東突当り北へが甲山道か】  左(東)守部の南東端へ】

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【8.尼崎の道標】
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