箕面市粟生間谷 南北に通る表参道、ウツギ谷からの道との合流地点の南15m辺りの西側に、東を正面に建つ
(20m北には「32.箕面市外院表参道とウツギ谷道分岐点の道標」がある)
角柱(元は五輪卒塔婆型か) 95x東面21.5x22p
N34.861881 E135.494372




東面
┌――――――――――――――――――――┐
│(梵字)三町 阿闍梨顛□ │
└――――――――――――――――――――┘
(梵字はキリ−ク『箕面市史』より、種子は阿弥陀如来)
南面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし) │
└――――――――――――――――――――┘
北面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし) │
└――――――――――――――――――――┘
西面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし) │
└――――――――――――――――――――┘
(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では23)
(同書に、「願主名は阿闍梨顛為と市史にはあるが、顕□とも読める。」としており、南横に建つ現在の
木標も、「顕」としているが、「顕」の字の旁部分が、「日」の下の二本の縦棒と止めの横線が見えず
「ハ」で終わって見えるので、やはり市史の「顛」であろう。
その下の字は土中に埋まっており読めなかった。(市史の「顛」の旁は「眞」となっており、「為」に
は「ママ」と振ってある。))
(この丁石も、「五町」と同じく、水輪より上部の欠けた一石五輪塔であろうが、欠けた部分は直径18p
の円形で1pにも満たない窪みになっており、これだけを見た場合は、角柱とするであろう。)
(尚、宝治元(丁未)年十一月1日とすると、鎌倉時代、西暦1247年12月6日金曜日、当時のユリウス暦
では、1247年11月29日となる。)
(勝尾寺丁石に関しては
43.「箕面市勝尾寺の東巡礼道丁石一覧」
44.「箕面市勝尾寺の表参道丁石一覧」
45.「箕面市勝尾寺のウツギ谷参道丁石一覧」
46.「箕面市西江寺の高山道参道丁石一覧」
も参照下さい。)
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【1.丁石を北に望む |
【2.丁石を南に望む |
【3.丁石を南に望む |
奥(北)勝尾寺へ |
背後(北)勝尾寺へ |
中央分岐点に32道標 |
左下手前しらみ地蔵へ】 |
奥、ボウ示石へ】 |
ハイカーの右に当丁石】 |
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【4.丁石を北西に望む |
【5.東面地輪下部拡大 |
【6.東面地輪下部拡大 |
頭頂部は折れた為か |
「…阿闍梨□□」 |
左を更にアップ |
少し窪んで見える】 |
と読める】 |
「顛□」とした】 |
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【7.箕面市の道標】 |
【8.勝尾寺丁石分布図】 |
【勝尾寺旧参道の案内板】

勝尾寺旧参道
勝尾寺旧参道は西国街道の新家の大鳥居から、三十
六町(約4q)の道程を経て山門に至ります。現在こ
の間には寺までの距離を示す町石が二十基確認されます
が、本来は一町ごとに建てられていたと推測されます。
町石には必ず梵字が刻まれていますが、これは金剛界の
種子曼荼羅の各尊を表わしたものです。
二十町の町石のうち、下乗石から七町石までの八基の
町石は、勝尾寺に伝えられる古文書によると、宝治
元年(一二四七年)の建立で、これは、文永二年(一
二六五年)高野山の町石よりも古く、我国で最古の町
石として、昭和四一年、国の史跡に指定されています。
山門前から新家の大鳥居に向かって進むと、途中には
国の史跡に指定された勝尾寺八大膀示石蔵(国指定史跡)
のうちの牛未方石蔵、清和天皇と行巡上人の対面石、江
戸時代に建てられた十二基の町石等、さまざまな文化財
が点在しています。
箕面市教育委員会
(町石の略図)
(東面の拓本)
(参道の地図)
(説明板では、「旧参道」としているが、当資料内では、「表参道」と表現している。理由として、丁石
の残る旧参道が、他にもあり区別する為である。)
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