77.箕面市粟生間谷表参道の三丁丁石

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箕面市粟生間谷 南北に通る表参道、ウツギ谷からの道との合流地点の南15m辺りの西側に、東を正面に建つ
(20m北には「32.箕面市外院表参道とウツギ谷道分岐点の道標」がある)
角柱(元は五輪卒塔婆型か) 95x東面21.5x22p
N34.861881 E135.494372


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東面
┌――――――――――――――――――――┐
│(梵字)三町   阿闍梨顛□      │
└――――――――――――――――――――┘
(梵字はキリ−ク『箕面市史』より、種子は阿弥陀如来)

南面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘




(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では23)
(同書に、「願主名は阿闍梨顛為と市史にはあるが、顕□とも読める。」としており、南横に建つ現在の
 木標も、「顕」としているが、「顕」の字の旁部分が、「日」の下の二本の縦棒と止めの横線が見えず
 「ハ」で終わって見えるので、やはり市史の「顛」であろう。
 その下の字は土中に埋まっており読めなかった。(市史の「顛」の旁は「眞」となっており、「為」に
 は「ママ」と振ってある。))
(この丁石も、「五町」と同じく、水輪より上部の欠けた一石五輪塔であろうが、欠けた部分は直径18p
 の円形で1pにも満たない窪みになっており、これだけを見た場合は、角柱とするであろう。)
(尚、宝治元(丁未)年十一月1日とすると、鎌倉時代、西暦1247年12月6日金曜日、当時のユリウス暦
 では、1247年11月29日となる。)
(勝尾寺丁石に関しては
 43.「箕面市勝尾寺の東巡礼道丁石一覧」
 44.「箕面市勝尾寺の表参道丁石一覧」
 45.「箕面市勝尾寺のウツギ谷参道丁石一覧」
 46.「箕面市西江寺の高山道参道丁石一覧」
 も参照下さい。)

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【1.丁石を北に望む 【2.丁石を南に望む 【3.丁石を南に望む
 奥(北)勝尾寺へ  背後(北)勝尾寺へ  中央分岐点に32道標
 左下手前しらみ地蔵へ】  奥、ボウ示石へ】  ハイカーの右に当丁石】

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【4.丁石を北西に望む 【5.東面地輪下部拡大 【6.東面地輪下部拡大
 頭頂部は折れた為か  「…阿闍梨□□」  左を更にアップ
 少し窪んで見える】  と読める】  「顛□」とした】

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【7.箕面市の道標】 【8.勝尾寺丁石分布図】


【勝尾寺旧参道の案内板】


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 勝尾寺旧参道

 勝尾寺旧参道は西国街道の新家の大鳥居から、三十
六町(約4q)の道程を経て山門に至ります。現在こ
の間には寺までの距離を示す町石が二十基確認されます
が、本来は一町ごとに建てられていたと推測されます。
町石には必ず梵字が刻まれていますが、これは金剛界の
種子曼荼羅の各尊を表わしたものです。
 二十町の町石のうち、下乗石から七町石までの八基の
町石は、勝尾寺に伝えられる古文書によると、宝治
元年(一二四七年)の建立で、これは、文永二年(一
二六五年)高野山の町石よりも古く、我国で最古の町
石として、昭和四一年、国の史跡に指定されています。
 山門前から新家の大鳥居に向かって進むと、途中には
国の史跡に指定された勝尾寺八大膀示石蔵(国指定史跡)
のうちの牛未方石蔵、清和天皇と行巡上人の対面石、江
戸時代に建てられた十二基の町石等、さまざまな文化財
が点在しています。

    箕面市教育委員会

(町石の略図)
(東面の拓本)
(参道の地図)


(説明板では、「旧参道」としているが、当資料内では、「表参道」と表現している。理由として、丁石
 の残る旧参道が、他にもあり区別する為である。)
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