68.高槻市神峯山寺七町丁石

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高槻市原3301 神峯山寺山門の南50m、参道西側に、東を正面に建つ
船形板碑 104x東面25x17p(頂高7p、稜線3p下る)(基部19p高さに含む)(碑面龕部64x17x-1p)
N34.896631 E135.608747


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東面
┌――――――――――――――――――――┐
│(梵字)七町              │
└――――――――――――――――――――┘
(梵字はベイ「毘沙門天」の種子であろうか)

北面
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│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘


(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、33)
(多分、「高槻市原1567の道標(牛地蔵の西)」を起点として、旧自動車参詣道の距離を示していると思われる。通常
 の丁石の様に本堂までの残距離を示さない。当初建設位置のままであるかは疑問である。
 又、上記起点は、神峯山寺への道標「三島江2の道標」「芥川町4地蔵堂の道標」が示したと思われる、参道の起点か
 らも760m(約7丁)も北になり、これらの道標との関連性は無いものと思われる。)
(手前の、「三町」との間隔は440mに近いと思われる。これ以降本堂まではピタリ二丁であるが丁石は無いようである。)
(尚、「神峯山寺参詣道筋標石建場の奉納額」には丁石に関しては触れられておらず、それ以降の建立かも知れな
 いが、これの方が古く見える。)
(『摂津名所図会』秋里籬嶌著、寛政10(1798)年刊に「行者笈掛(おいかけ)石」と共に描かれているかも知れず、
 もしそうなら、それ以前のものとなる。
 詳しくは上記「神峯山寺…奉納額」を参照して下さい。
 絵図は、国立国会図書館デジタルアーカイブの『攝津名所圖會』. [6]のコマ番号55を参照。)

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【1.丁石を南に望む 【2.丁石を北に望む 【3.丁石を西に望む
 奥(南)牛地蔵へ  丁石後「行者笈掛石」  右(北)神峯山寺へ
 手前、神峯山寺へ】  更に奥に山門】  左、牛地蔵へ】

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【4.丁石を北西に望む 【5.丁石東面上部より 【6.山門を北に望む】
 後は「笈掛石」  舟形が良く分る
 右50m程で山門】  稜線が後に下がる】

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【7.図会、〇印は丁石か】 【8.神峯山寺参道地図】

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【9.高槻中部の道標】
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【10.高槻南部の道標】
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