文の主な要素たち

述語と動詞
代名詞
主語と補語と名格
目的語と対格
格の一致

 こんな文を見ると……

Mi vidas lin. -- わたしは彼を見ている。(彼が見える)
Li trinkas kafon. -- 彼はコーヒーを飲んでいる。
Mi vidas vin. -- わたしはあなたを見ている。(あなたが見える)
Vi trinkas teon. -- あなたはお茶を飲んでいる。
Ankaux mi trinkas teon. -- わたしもお茶を飲んでいるのだ。
Teo estas bongusta. -- お茶っておいしいよね〜

Mi が「わたし」、viやvin が「あなた」、teoやteonが「お茶」らしい、 というのは、おぼろげに判るかと思います(わかってください)。

 ちょっと待て、「あなた」がviだったりvinだったりするのは何故だ?  teoとteonとではどう違うんだ? ……というのが、本章のテーマで す(たぶん)。

述語と動詞

 てなことを言っておいて、いきなり述語の説明からします。

*述語とは

 述語とはなにか、なんて難しい話はしませんが、面白いことにことば というのは、「誰が(を)」とか「何が(を)」とかいった「ものやこ とを指し示すことば」を並べただけではどーにもならないようです。

わたし、あなた。    (が、どうだというのか)
この花。        (がなんだって? この花をどうにかするの?)

 もちろん上の〈文〉も、何かの問いかけに対する答としてはあり得ますが、 これら単独で使われることは稀だと思います。

 ということで、〈文〉が成り立つためには、「誰かや何かがどう した」とか「誰かや何かをどうする」とか「誰かや何かが どうだ」ということを言わなければならないようです。これら をひっくるめて「叙述」と呼ぶことにすると、叙述するためのことばを 述語といい、エスペラントでは動詞がその役割を担っていま す。

Mi amas vin. -- わたし、あなたが好き
Cxi tiu floro estas tre bela. -- この花、とてもきれいです

*文の内容を決定する

 ことばを換えると、述語は「文の内容を決める」ということが言える かと思います。「わたし、あなた」で、その文が話し手と聞き手のふた りに関係する何かを言っているらしいことは判りますが、その何かが何 なのかは述語を待たないとハッキリしません。それは「好き」なのかも 知れないし、「嫌い」なのかも知れないし、「頼りにしている」かも知 れないし、「似ている」かも知れないし……

 そんなわけで、述語は文の中でも重要なものであり、述語の役を担う 動詞も必然的に欠くことができません。どれだけ重要かというと、動詞 だけで文の内容が決まる無主語文というものがあるくらいです。

Pluvis. -- 雨が降っていました。
Heligxas. -- 晴れています。
Vesperigxos. -- 日が暮れるでしょう。

 日本語だと「降る」ということばがいろんなものの「降る」を表して いて、雨はその中のひとつであるのに対し、エスペラントでは「雨が降 る」というので一語の述語となっているわけです。日本語で例えるなら 「降雨する」なんて感じでしょうか(^^)。(従って「雪 が降る」や「霰(あられ)が降る」は別の動詞で言い表し ます)

 述語動詞の意味の中に動作の主体を含んでいるからこのような「無主 語文」が成り立つわけですが、それだけ動詞の占める役割が大きいと言 えるでしょう。詳しくは第4章に 譲りますが、話し手の判断とか、話される事柄がいつのことなのかとか、 そういったものを表すのもみんな動詞の仕事です。

*述語があるから

 無主語文なんていうものを紹介した後で言いにくいのですが、通常は、 述語に対してその主体となるものがあって、それを明示することになり ます。これを主語といいます

 述語が主語の様子や状態を表す場合には補語 などというものがついてまわります。

 述語が表す動作や行為が何かに影響を及ぼすなんていうこともあるわ けですが、その場合は目的語というものを 伴ったりします。

*助動詞はない

 日本語だと、述語の部分には、中心となる動詞にいろいろなものがくっ つきます。一番多い(?)のは「ですます」などの敬語でしょうか?  それでなくても「〜らしい」とか「〜しよう」とか、いろんなことばが くっついて、文の意味をはっきりさせたりぼかしたり(笑)します。英 語でも「〜できる」と言いたい場合にはcan、「〜だろう」と未来のこ とを言いたい場合にはwillとかshall、「〜に違いない」にはmust、な どという助動詞がくっつきます。

 これらの「助動詞」はエスペラントにはありません。「できる」も 「してもいい」も「ねばならない」も「に違いない」も「したい」も、 みんな普通の動詞として扱われています。

代名詞

 続いてなぜか代名詞の説明をします。これを紹介しておけば、それだ けでなんとなく文らしいものを作れるからです(^^)

*人称代名詞

 誰か別の人間に向かって自分を指し示したい時、どう言うでしょう。 「ミチコはバナナパフェが好き」と、自分の名をまるで他人みたいに言 う人もいますが、普通は「わたし/あたし/ぼく/おれ/……」という ことばを使うでしょう。あるところで、もう四十歳は越えている鈴木さ ん(仮名)という男性が、「スズキはこう考えています」「それがスズ キのやり方です」などと、〈自分を指す三人称〉を多用しているのを見 かけたことがあります。〈自分自身を他人のように言う〉というのは、 子どもっぽさの表れなのでしょうか、自分を客体化しまくっているクー ルな大人の態度なのでしょうか。

 寄り道に入ってしまいました。

 誰か別の人間に向かって自分を指し示すためのことば(誰がそれを使っ ても、「話し手である自分」を指すことが明らかなことば)が、たぶん どんな言語にもあるんだと思います。同じように、話しかけている相手 を指すことば(誰に向かって使っても、「話しかけている相手」を指す ことが明らかなことば)もあるんだと思います。こういうことばを人称 代名詞といって、エスペラントにも備わっています。話題に上ってい る特定の人を指すことばとして、三人称の人称代名詞ももちろんありま す。

単数 複数
一人称mi ni
二人称 ci vi
vi
三人称 li ili
sxi
中性gxi
一般(不定)oni
再帰si

 二人称のうち、使われるのは殆どviで、ciは今日では滅多に使われな いそうです。

 一人称、二人称とも男女の区別はありませんが、三人称単数にはあり ます。男性の場合は li 、女性の場合はsxi を使うことになっています。 gxi は中性の場合、つまり人間以外の生物やものや抽象的な存在を指す 場合に使います。三人称でも複数になると性別はなくなり、ili となり ます。

 一般(不定)人称代名詞とは、人称代名詞のくせに不特定の何者かを 指し示すというフシギな語で、日本語だと「誰もが言う」の「誰も」と か「みんなそう思っている」の「みんな」とか、「世間では」とか「一 般には」に相当するでしょうか。

 再帰代名詞というのは、主体を改めて指し示すもので、「自分の(に)」 といった感じのことばです。「彼は自分の家に帰った」とか「彼女は自 分の妹を愛していた」とか「彼女は妹を助けるために荒波にわが身を投 じた」とかというときの「自分の」として使われます。主語として使わ れることはありません。

*指示代名詞

 人扱いするのでなくても、何かを指し示したいときというのがあって、 そんなときに使うのが「指示代名詞」というものです。筆者の見るところ、 日本語は(あるいは日本人は)「代名詞大好き」な言語、あるいは民族 なんじゃないでしょうか。

「この間のあれ、どうした?」
「ああ、それならこれで(と身振りで)決着しました」

みたいな会話、日常生活ではけっこうありますよね。

もの・こと人・もの意味
指示tio tiu その人、それ
不定io iu 誰か、何か
全称cxio cxiu みんな、どれも
否定nenio neniu 何も(誰も)……ない

Tiu estis tre granda. -- その人(それ)はとても大きかった。
Tio estis tre malgranda. -- それはとても小さかった。
Cxi tio estas tre bongusta. -- これはとてもうまい。
Cxiuj gxojis. -- みんな喜んだ。
Nenio trovigxas. -- 何もない。

 tiu, iu...の仲間は指示形容詞としても働きます。

Tiu arbo estis tre granda. -- その木はとても大きかった。
Iu knabino vizitas min. -- ある少女がわたしを訪ねてきた。
Cxi tiu knabino estas mia plijuna fratino. -- この子がわたしの妹です。

 指示代名詞の話は第8章でちょっと詳 しめに取り上げるかも知れません。

*ついでに定冠詞

 「その猫」という時は"tiu kato"としていいわけですが、この「その」 という意味を表す働きをすることばがもうひとつあります。la(ラ) と いう定冠詞です。

 エスペラントにある冠詞はこの定冠詞がひとつだけ、しかも性(文法 上の)や単数複数で変化をしないので、フランス語やイタリア語などに 比べれば単純となっています。とはいっても、この定冠詞 la の使い方 はさすがに冠詞一族の流れを汲んでいるだけあって、「冠詞のない国」 に暮らしているわれわれにはピンと来ないところがあります。少なくと も、説明を聞いてもピンと来ない。

 「冠詞の意味合いや使い方」なんてきっと長い間の慣例の積み重ねで 定まってきたのだと思いますが、そういう代物を無理にリクツをつけて 説明するのだから、腑に落ちないところがぽろぽろ出て来るのは当たり 前でしょう。

 ちなみに、強調の度合はtiu の方がlaより強いとされています。

主語と補語と名格

*名格

 上でmiやviなど人称代名詞と、tiu など指示代名詞を紹介しました。 これらの形(mi, vi, tiu...)この形を名格といいます。いわば 基本形で、辞書に載っているのはこの形です。形容詞も普通の形は名格 です。

 名格を使うのは次の場合です。

  1. 文の主語となる場合
  2. 文の補語となる場合
  3. 前置詞の後に現れる場合(例外あり)

*主語として

Li estas viro. -- 彼は男です。
Sxi estas ino. -- 彼女は女です。

*補語として

 「補語」というのをきちんと説明しようとするとすごく大変な気がし ますが、ここではのほほんと適当な説明で乗り切りましょう。 あるもの(主語とか目的語とか)について、性質とか属性とか状態と かを述べたり、補足説明したりする語を「補語」といいます。 「あの人は優しい」という時の「優しい」、「このカレーは辛い」とい う時の「辛い」、「夏は暑い」という時の「暑い」、「お風呂の水がぬ るい」という時の「ぬるい」、などが補語です。

 補語にも名格を用います。

Via busxo estas floro de rozo, viaj okuloj estas du kristaloj. -- あなたの口はバラの花、あなたの両目は水晶の珠。
Tiu estas mi. -- それはわたしだ。
Tiu rozo estas bela. -- その薔薇(バラ)はきれいだ。
Tiu homo estas bonkora. -- あの人は優しい。
Tiu plado estas bongusta. -- その料理はおいしい。

*前置詞とともに

 前置詞が名詞を従える場合、通常は名格を用います。

Iru kun sxi. -- 彼女と行きなさい。
Venu al mi. -- こっちにおいでよ。

目的語と対格

*対格

 miやviが文の目的語(直接目的語)になる場合は、対格とい う格をとり、格変化を起こして形が変わります。という と何かものすごいことが起こりそうですが、心配はいりません。

Mi amas sxin. -- ぼくは彼女が好きだ。
Sxi ankaux amas min. -- 彼女もぼくを好きなんだ。
Tiu knabo amas min. -- あの男の子、わたしを好きなの。
Sed mi ne amas tiun knabon. -- でもわたしは好きじゃないの。

 という具合に、語尾に -n を付加するだけです。

 対格を使うのは次の場合です。

  1. 文の目的語(直接目的語)となる場合
  2. 移動の方向を示す場合 (第3章第6章参照)
  3. 前置詞の代用 (第3章第6章参照)

*格と格変化

 「格」というのは、「あることばが、文中でほかのことば、特に述語 に対して持つ意味的な関係」(三省堂「新明解国語辞典」第五版)だそ うです。これ自体はどの言語にもある概念と思われます。そしてどの 「格」なのかを示す方法も、どの言語にも備わっているでしょう。文が 語の並びである以上、どの語がどんな役割を果たすのかなんらかの方法 で明らかにならなければ、受け手は解釈に困ってしまうからです。

 日本語には「格助詞」というのがあって、これが「格」を示していま す。これに対して、ヨーロッパに見られるいわゆる屈折語系の言語では 語形の変化で格の違いを表すようで、確かドイツ語には格がありますね。 ロシア語にもあるという話です。英語では人称代名詞に「格」の名残が ありますが(所有格、目的格)、語順で「格」を表すために、普通の名 詞は格変化が消滅したもののようです。

*対格の威力

 直接目的語を対格で示す(語順で示すのではない)という規則のため に、文中の語の並びがわりと自由です。

Mi sxin amas. ぼくは彼女が好きだ。
Ankaux sxi min amas. 彼女もぼくを好きなんだ。
Min amas tiu knabo. わたしを好きなのよ、あの子。
Sed tiun knabon mi ne amas. でもわたし、あの子は好きじゃない。

 もっとも、「語の並びが自由であることは絶対的な長所なのか」とい う反論もあり得るでしょう。筆者自身の経験では、学び始めの頃は語順 を頼りに読んだりするので(英語の影響かな?)、正直のところ戸惑い ます。慣れてくると、主語が動詞より長い場合は動詞の後に主語を置い たり、強調したい修飾語句を前の方に出したりすると、据わりがいいな、 と感じるようになるようです。

En postkorto du kokoj estas. よりは、
En postkorto estas du kokoj. -- 裏庭には二羽鶏がいる。
  (しかしこの文例で下の方が「いい感じ」と思うのは筆者だけかも (^^;)

 その他、ここではこれ以上触れませんが、単に目的語を表すだけでな く、いろいろに対格を多用します。それも対格の威力のひとつといって いいのかも知れませんが、筆者などはそのために却って混乱を招くこと があるのではないかと思っています。これについては 第6章で改めて取り上げます(たぶん)。

格の一致

 格の違いを語形(語尾)の違いで示すというのは、〈いい(楽な、う れしい)〉こともある半面、〈悪い(うっとうしい)〉こともあります。

 名詞が形容詞を引き連れている場合、名詞の格に合わせて、形容詞も 格変化します。これを格の一致といいます(ついでに、数も一致します)。 名詞が名格なら形容詞も名格であり、名詞が対格なら形容詞も対格とし ます。

Mi havas iun libron. -- ある本を持っているんだ。
Tiu libro estas interesa. -- その本は面白いぜ。
Li havas iun floron. -- 彼は何かしら花を持っている。
Tiu floro estas tre bela. -- その花はとても美しい。
Sxi acxetis belajn florojn. -- 彼女は美しい花を何本か買った。

 名詞のそばにいる形容詞がいつも影響を受けるというものではありま せん。あくまで、意味の上でその形容詞が名詞と同じ格と考えられる場 合です。とはいえ受け手としては形から意味を解釈するしかないので、 格の一致を間違えると意思疎通に支障をきたすことにもなります。

 troviという動詞があり、これは「trovi 目的語」(〜を見つける) という形もとれば「trovi 目的語 + 補語」(〜が〜であると思う)と いう形もとります。そこで、格の使い方が変わると解釈が変わるという ことが起こったりします。 (第4章を参照)

Mi trovis la libron interesan. -- わたしはその面白い本を 見つけた。
Mi trovis la libron interesa. -- わたしはその本が面白いと思った。

 下の例では、interesaはtroviの目的語たるlibronを限定してはいな い(だから同じ格ではない)ので、対格にはなりません。(解釈の上で は、「対格ではないのだから、限定しているのではなく叙述しているの だ」と解釈する)

(2001.04.03)
(2002.12.20: CSS対応、加筆修正)

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