箕面市粟生間谷 南北に通る表参道、山門から南1丁(109m)、ここでは南への登り道の西側に、東を正面に建つ
五輪卒塔婆型 151x東面23x19p(水輪17x23x18p)(火輪14x23x19cm)(風輪7x18x15p)(空輪14x15x14p)
N34.863406 E135.49356




東面
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│(梵字)一町 阿闍梨□□ │
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(梵字はウーン『箕面市史』より、種子は阿シュク如来)
北面
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│(なし) │
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南面
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│(なし) │
└――――――――――――――――――――┘
西面
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│(なし) │
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(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では25)
(同書に、『勝尾寺文書に「宝治元年十一月比(頃)町卒都婆立之、月輪ノ梵字者天王寺人書也。丁数教
念房也。其比東西坂一町ツゝ人別ニ(下欠)」という記録が残っているのがこの町石の出来である。』
とあり、又、『門前の坂は南北に通っているので「東西坂一町ツゝ」という文に疑問を持つ人もあるが、
この町石以外にあてはまる「町卒都婆」は見当たらない。』としている。
史跡にも指定されており、間違いは無いのかも知れないが、もう少し調べてみる。
尚、宝治元(丁未)年十一月1日とすると、鎌倉時代、後深草天皇、執権北条時頼、西暦1247年12月6日
金曜日、当時のユリウス暦では、1247年11月29日となる。)
(五輪塔(五輪卒塔婆)型の道標や、丁石は数が少なく、「尼崎市久々知3丁目の道標」や、
「吹田市岸部北2の小路道標」等に見ることが出来る。)
(梵字「ウーン」は、阿しゅく(閃に人人)如来、難勝仏、降三世明王、等の種子か。北側の木標には、
「阿しゅく如来」とある。)
(東面、「阿闍梨」の下は、くずし字の「国カマエ」の字で「国、固、困、圓」等か、その下は「成、爲」
等は、どうか。
『箕面市史』第一巻、昭和39年刊には「阿闍梨圓□」とある。)
(勝尾寺丁石に関しては
43.「箕面市勝尾寺の東巡礼道丁石一覧」
44.「箕面市勝尾寺の表参道丁石一覧」
45.「箕面市勝尾寺のウツギ谷参道丁石一覧」
46.「箕面市西江寺の高山道参道丁石一覧」
も参照下さい。)
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【1.丁石を北に望む |
【2.丁石を南に望む |
【3.丁石を西に望む |
奥(北)表参道を |
背後(北)勝尾寺へ |
右(北)勝尾寺へ |
山門迄一丁】 |
奥に登り、新家へ】 |
左に登り、新家へ】 |
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【4.丁石東面頂部 |
【5.東面地輪上部拡大 |
【6.東面地輪下部拡大 |
水輪に梵字がなく |
梵字は綺麗に残る |
「阿闍梨」も |
地輪に刻む】 |
「一町」は教念房か】 |
良く読めない】 |
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【7.箕面市の道標】 |
【8.勝尾寺丁石分布図】 |
【勝尾寺旧参道の案内板】

勝尾寺旧参道
勝尾寺旧参道は西国街道の新家の大鳥居から、三十
六町(約4q)の道程を経て山門に至ります。現在こ
の間には寺までの距離を示す町石が二十基確認されます
が、本来は一町ごとに建てられていたと推測されます。
町石には必ず梵字が刻まれていますが、これは金剛界の
種子曼荼羅の各尊を表わしたものです。
二十町の町石のうち、下乗石から七町石までの八基の
町石は、勝尾寺に伝えられる古文書によると、宝治
元年(一二四七年)の建立で、これは、文永二年(一
二六五年)高野山の町石よりも古く、我国で最古の町
石として、昭和四一年、国の史跡に指定されています。
山門前から新家の大鳥居に向かって進むと、途中には
国の史跡に指定された勝尾寺八大膀示石蔵(国指定史跡)
のうちの牛未方石蔵、清和天皇と行巡上人の対面石、江
戸時代に建てられた十二基の町石等、さまざまな文化財
が点在しています。
箕面市教育委員会
(町石の略図)
(東面の拓本)
(参道の地図)
(説明板では、「旧参道」としているが、当資料内では、「表参道」と表現している。理由として、丁石
の残る旧参道が、他にもあり区別する為である。)
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