46.神戸市北区大沢町神付観音堂の道標1(二基の内南側)

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神戸市北区大沢町神付387 県道38、82号の上小名田交差点から北西に82号を1.5q、山陽自動車道をくぐり抜け更に640m、峠を下りかけた筋違いの四辻を北へ250m登った観音堂前の東部に西を正面に建つ
(県道82号から北へ急登の道は50m程の作業場分岐迄は舗装されるが後は山道)
(もう一基北側(お堂寄り)は「神付観音堂の道標2」こちら)
角柱 30.5x24x21p
N34.837561 E135.188355

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西面
┌─―――――――――――――――┐
│ 右 やまミち         │
│       同行       │
│西國巡礼供養          │
│       三人       │
│ 左 あ王志満道        │
└――――――――――――――――┘
(「王志満」は変体仮名「わしま」で「左粟嶋道」か)

南面
┌─―――――――――――――――┐
│ 明和四亥二月日        │
└――――――――――――――――┘
(「和」は「禾」と「口」を左右逆に刻む)

東面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(明和四(丁亥)年二月1日とすると、西暦1767年2月28日土曜日となる。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では北区47)
(『大沢町誌』には「昔からこの場所に建っていたわけではなく、…地区住民が当境内に移し…」とする説明を待た
 ずとも移設は確実で、この先に道は無く、辻でもない。北区淡河町野瀬193の県道38号に神姫バス「粟島前」が
 あり、その西に「粟嶋神社参詣道」とある道標等からしてこの神社(淡河町野瀬234)を示すと考えれば、元の
 位置は同じ町内だと見当を付け、明治の地図から候補地が二点ほど拾い出せる。
 1.県道82号の観音堂参詣道入口の筋違い四辻から南へ小径を200mの三ツ辻
N34.834904 E135.185947
 辺りで北面していたとする。ここから左(南)は八多町深谷から屏風辻に出て、県道38号を西へ粟嶋神社となろう。
 但し、明治の地図では南行する道は今の参道入り口からでなく100m程西側から始まっている。
 2.同じく参詣道入口から県道82号を西へ190m下った三ツ辻
N34.837596 E135.185217
 辺りでで南面していたなら、粟嶋神社へ向うには県道82号を北に進んだ後、神付の集落内で県道73号に入り南下し
 て八多町深谷へ出ればその後1.と同じ経路となるが、73号へ分岐後800mから、西畑、屏風辻にショートカット
 出来る小径もあり距離的には短くなる。
 何れも決め手は無い。)
(「明和」の「和」はWeb上で『「動用字」と呼び、発音や意味が同じで、文字の構成要素も同じだが、「偏・旁・
 冠・脚」の位置関係が違うものを云う。』と説明されるものに相当し、扁と旁が入れ替わって彫られている。この
 呼び方は「広辞林」には載らないが、一般的には「別体の字」と言うようで、石碑等には時々見かける。
 例として「高槻市天神1の道標」これは建立年まで同じや、「高槻市霊仙寺町の道標」等参照下さい。)
(尚、当石は単独で建つ道標では無く、少なくとも上部に石が載っていた事は窪みがある事から明らかで、すぐ後ろ
 に常夜灯の笠に似た石が転がっておりそれらの一部であったとも考えられる。)
(八多町深谷に向かえば「深谷1126の道標」に、上記2.の最短コース八多町西畑なら「大沢町神付黒岩の道標」
 から「八多町西畑256の道標」に出会う。)

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【1.参道入口を北に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を東に望む
 右奥、82号上小名田へ  奥の建物は観音堂  右から二番目の
 奥(北)観音堂へ】  では無さそう】  立方体が当道標】

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【4.道標西面左下部 【5.道標西面右下部 【6.道標南面拡大
 「左あ王志満道」  「右やまミち」は  「明和」の「和」は
 「左粟嶋道」か】  「右山道」であろう】  扁と旁を逆に刻む】

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【7.北区東部の道標】
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