50.茨木市安威墓地の道標

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茨木市安威、墓地入口北の地蔵を内に持つ建物の北側に、北を正面に建つ
五輪塔型(下部六角柱)155x33x33p
(地輪部115x16〜18p(6面幅)x33p(対角線、太さ))
(水輪20Xφ31p)
(火輪20x33x33p、上辺8p6角)
(風、空輪、欠損)
N34.851657 E135.559875


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南西面
┌────――――――――――――――┐
│南無阿弥陀仏            │
└――─―――――――――――――――┘

北西面
┌────――――――――――――――┐
│南無阿弥陀仏            │
└――─―――――――――――――――┘

北面
┌────――――――――――――――┐
│左 そうじ寺ミち          │
└――─―――――――――――――――┘
(「寺」は、くずし字)

北東面
┌────――――――――――――――┐
│南無阿弥陀仏            │
└――─―――――――――――――――┘

南東面
┌────――――――――――――――┐
│南無阿弥陀仏            │
└――─―――――――――――――――┘

南面
┌────――――――――――――――┐
│南無阿弥陀仏            │
└――─―――――――――――――――┘


(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では68)
(同書に「…形は石幢(せきどう)のように下部は六角柱形であるが…」とある様に、六地蔵石幢を模して、「地蔵」
 の代わりに五面に「南無阿弥陀仏」を書き、その上で一面を道標にあてたものかも知れない。墓地に相応しい体裁な
 のかもしれないが、ここでは一応、五輪石塔とした。
 尚、石幢とは「六角(八角)柱状の石で造った幢。龕部・笠・宝珠から成る。わが国では鎌倉末期から建てられた。」
 と辞書にあった。同じく、「幢は旗の一種」としている。)
(現在の場所では、道標自体も目に触れることが無いため、移設は間違いないが、元の位置は、墓地の入口前の三叉路
 であろう。
 ここを左(東)へ曲がっているのが、穴太寺から総持寺を目指す巡礼道であり、それを示すものであろう。南へはす
 ぐに、4948、と続くが、北へは44、まで大きく飛んでしまい、国見峠(現、山手台)の旧清坂街道や、
 妙見街道との各分岐点には有って欲しいが、無くなってしまったものか。
(峠の頂上に51が有った様だが、両寺への案内は無い。)
  因みに、ここを左折せず、南へ直進すると、現在の追手門学院大の入口へと続き、総持寺へは遠くなる。
 依って、墓地内への通路も道とすると現位置から南へ15mの四辻の北西部を元の位置(墓地入口右手)としたい。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北東に望む
 右、地蔵覆い屋と  道標は建物の  左が当道標
 左、水桶置きの間】  裏で見えない】  上部宝珠は欠落】

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【4.道標北面拡大 【5.道標南面拡大 【6.道標上部を東に見る
 「左そうじ寺ミち」  南西、南、南東面  上部は欠落して
 と読める】  全て「南無…」】  それ以下は一石】

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【7.道標を南東に望む 【8.茨木南部の道標】 【9.茨木北部の道標】
 左端に現道標、元は
 右スクーターの左辺りか】

【2021/5/21追記】
 断面が四角形で無いものは珍しく、「大阪市東住吉区針中野3の道標1」「芦屋市清水町9の道標」
 「高槻市萩谷寒天小屋分岐点の道標」等を参照。
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