85.能勢町剣尾山の国境標石(道標ではない)

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能勢町山辺 剣尾山北400mの府境三ツ辻に、東を正面に建つ
尖頭型角柱 172x19x16.5p(頂高6p)巻石10x110x80p
N35.006837 E135.403385


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東面
┌────――――――――――――――┐
│丹波                │
│   國界             │
│摂津                │
└――─―――――――――――――――┘
(「摂」の旁部分は「耳」が三つ)

北面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘

西面
┌────――――――――――――――┐
│          左 京都府   │
│明治十年三月 建焉         │
│          右 大阪府   │
└――─―――――――――――――――┘
(「焉」はここにの意「エン」)

南面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘


(明治十年は西暦1877年となる。)
(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行には未記載)
(道標ではなく、施政権が変わる地点を示すだけ。旅人が利用した道ではないと思うが、載せておく。
 この石の面白い点として、両府の位置を表す為に府名の上に「左」「右」を小さく彫っている。文字の順番から
 して、「京都府」が先に書かれる事から京都が優先されたと考えるが、現地で建てた時に向きが一致しない状況
 となりその場で入れた等とも考えられる。私なら方向を入れると思うが、石に刻む時点では設置位置が未定であ
 ったものかも知れない。それなら現地で180度回して建てれば良さそうであるが、表面の向きに何か約束事があ
 るのかも知れない。
  尚、この時点(明治10年)でも「国」の認識が残っていたのは役人だけなのでしょうか。)
(北西700mにこれと同時に建てられた「横尾山の国境標石」がある。
 その他、仮称・順不同ですが、
 1.ひいらぎ峠、能勢町、明治九年、  大阪・京都府
 2.杉原、   能勢町、明治九年、  大阪・京都府
 3.清坂峠、  茨木市、明治九年、  摂津・丹波国
 4.神戸市境、 神戸市、明治三十三年、神戸市
 5.山崎、   島本町、不明、    従是東山城国
 6.神戸郡境、 神戸市、不明、    八部・兎原郡
 7.伊丹町境、 伊丹市、不明、    伊丹町
 8.大山崎、  島本町、昭和十四年、 大阪・京都府、島本・大山崎村
 9.藍本、   三田市、昭和四十九年、摂津・丹波国
 等を挙げておきます。)
(西面の「建焉」は初めて見る書き方で、辞書によると「焉」は「ここに」の意で、音読みは「エン」とあった。
 それで、上記の明治九年三基も見直してみたが写真が悪くよく分からない、取敢えず「爲」のままとする。
 よくあるのは、「建之」で「これにたてる」と読むかと思うが、「建焉」なら「ここにたてる」、「建爲」なら
 「たてたり」などと読むのであろう。)

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【1.標石を北に望む 【2.標石を西に望む 【3.標石を南東に望む 【4.標石を南東に望む
 剣尾山から北に来て  奥(西)横尾山へ  右(南)剣尾山へ  左が丹波国(京都)
 正面に見える】  左(南)剣尾山へ】  背後、横尾山へ】  右が摂津国(大阪)】

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【5.標石東面拡大 【6.標石東面上部 【7.標石西面拡大 【8.標石西面下部
 「…國界」  「丹波」  「明治十年三月…」  「左 京都府」
 とした】  「摂津」と読める】  「建焉」とした】  「右 大阪府」】

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【9.摂津国の境界碑等】 【10.能勢町西部の道標】 【11.能勢町東部の道標】

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