21.箕面市粟生間谷(下乗石)の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
箕面市粟生間谷2914−2 勝尾寺山門南の木製門の南部に南を正面に建つ
(東横には「下馬」と書かれた大きな石がある。)
角柱(元、五輪塔婆?) 113x南面22.5x20p(基部16p含む)(水輪が折れた後か上部は1p窪む)
N34.864398 E135.493264


写真eimg3414

写真eimg3415

写真eimg3416

写真eimg3417

南面
┌―――――――――――――――――┐
│(梵字バン)下乗 (砂門慶賢)  │
└―――――――――――――――――┘
(梵字(バン)は金剛界大日如来の種子)
(字はくずし字、『箕面のみちしるべ』より)

西面
┌―――――――――――――――――┐
│       元治元甲子     │
│右 大坂六り           │
│       七月立之      │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――┐
│左 京 十リ           │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――――┐
│右中山寺 百六十丁        │
│左そうじ寺 二リ(半) 龍王山二リ│
└―――――――――――――――――┘
(「半」は『箕面のみちしるべ』より)


(元治元年(甲子)七月1日なら1864年8月2日火曜日となる。)
(箕面市教育委員会の案内板では、丁石と同じく、宝治元年(1247年)鎌倉時代の建立とある。)
(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では、26)
(同書に「五輪塔婆であったが上部が欠け角柱だけである。」としている。
 又、砂門は沙門(修行僧)で慶賢の名が、高野山町石塔婆百七十七町石に見える、としており、今後
 の調査とする。
  同じく「下乗石は道標でないが、この側面にはそれぞれ道案内の文字が追刻されている。」とある。
  風化の具合を見ても、その通りと思え、道標部分に限って考えてみると、東面に「左京」、西面に
 「右大坂」とあり、単純に理解すると、京は南へ、大坂も南へとなり、同じ方向を示す。この様な時
 は三叉路の突き当り正面に建つ場合が考えられるが、今の位置では北からの道が無い。が、現在閉ま
 っている大きな木製門扉が通行可能であれば、北から来て、石垣が邪魔をしていなければ、今でも通
 用する。依って、元は、現門扉の正面に建っていたものと思われる。
  そうすれば、「下乗」も納得でき、今見えない北面も寺参詣の帰りに、正面に見え、右、宝塚市
 「中山寺」二十四番へ行くか、左、茨木市「総持寺」二十二番に向かうか、納得のいく道標となる。)
(まず初めに、南部から勝尾寺への参道を明治の地図を参考に、見ると、
 a.表(古)参道(三十六丁=1里)、西国街道新家大鳥居−帝釈寺東−外院−善福寺西−境内傍示石
   −山門−本堂、4.2q
 b.東1(旧参道)、表参道とほとんど重複
 c.東2(巡礼道、茨木市総持寺からの道)
 d.西1(ウツギ谷道)、外院2丁目北−しらみ地蔵−本堂、3.1q
 e.西2(谷山尾根道)
 f.西3(谷山谷道)
 g.西4(白島道)
 h.西5(二十二曲)
 j.高山道(政の茶屋まで)
 k.滝道(滝の手前からは、現在のドライブウェイの経路)
 等10本程あり、更に、各道に繋がる枝道も相当あるようだ。
 寺近辺の南方よりの参道を見ると、現滝道方面からは、南西からの道となり石垣沿いに来て、いきなり
 現本堂階段下に、出ていた様で、山門には繋がっていない。上記d.西1(ウツギ谷道)以下、
 k.滝道まではこの道に合流する。
 一方、上記a.表参道とした道は、この辻から南南東へ進み山門に出会い、更に南へ山を登って外院へ
 出ている。
 この山門の南へは、巡礼道(総持寺からの道)が東から来て合流しており三ツ辻を形成している。
 では、西面「大坂六里」は、どの道筋を示したものであろうか、途中に距離の目安となる地点があり、
 イ.「箕面市粟生新家1大鳥居南東二基の内東側の丁石」「勝尾寺へ三十六丁(=一里)」
   (この地点を通過する場合は、残り5里が大阪までの距離であればよいが、わざと大廻りをする
    必要がある為この地点は除外できる。)
 ロ.「豊中市上新田1西口道標」「大坂へ三里」
   (この地点を通過する場合は、参道dが最短となるが、敢えて東回りの参道a(少し遠回り)も
    あるか。)
 ハ.「箕面市牧落2の大きい(東側)道標」「大坂へ四里半」
   (箕面街道と名付けられている様に、大坂への主道路と思われる。)
  山門前から参道a〜kの何れか、と上記の途中地点ロ、ハ、の距離を合わせて6里(23.5q)になる
  かを見る。
 ロ.から、参道a、を使って勝尾寺に到る距離を、測図すると、8.2q(二里)となり、残り三里に一里
  も足りず、不可。
  依って残るハ.から、勝尾寺まで、1.5里の経路を探ればよい。
 ハ.地点は参道a、より西にある為、東に位置する参道は除外する。
 参道a.を使うには、大鳥居に出る必要があり、そこまで1里あるので、大鳥居からの1里を加えると
  2里あり、不可。
 次に、ハ.から、西国街道牧落経由、箕面(平尾)に出て、参道k.では、1.8里(7q強)あり、
  少し遠く不可。
 更に、ハ.から、西小路を通り箕面、参道k.で1.7里(6.5q)でまだ少し遠い。
 では、ハ.から、西小路を通り箕面、参道j.高山道だと、1.6里(6.3q)となり、1丁遠いが、
  これが最も近いと思われる。
 その他、ハ.から、西1〜西5の組み合わせは、高山道より東に位置し明らかに遠くなり不可。
  依って西面「右大坂六里」は、山門を出て右(西)へ現在のドライブウェイを「政の茶屋」まで進み、
 川と別れ高山道を南に入って、西江寺から箕面(平尾)、西小路、「箕面市牧落2の大きい(東側)
 道標」、旧箕面街道で大坂、の道筋を示しているとする。
 途中政の茶屋に道標が残り、それに「川尓付下ル箕面」とあるのは、逆に、高山道が箕面への第一の道
 筋であった事をうかがわせる。)
(北面「中山寺、百六十丁(四里16丁)」は、途中「巡礼道」に「箕面市新稲5の道標」「中山へ二里」
 が有り、この地点経由は間違いないと思われるので、そこからの、残り二里16丁(9.6q)の道筋
 を検証する。
  新稲から巡礼道を箕面(平尾)へ、滝道を登り、政の茶屋道標、山門前までで7.4qと大分足りな
 い。箕面から登らず、外院に廻り、参道をa.を北へ進むルートを採っても、8q強にしかならず、
 1q以上大幅に足りない。それより東へ廻る道は考えられない。依って該当する道が見つからない。
  距離を丁数だけで示している事も含め、誤記や、勘違い、丁数換算単位(当資料内、1里=36丁、
 1丁≒109m)の違いなど、或いは、先の仮定、新稲の巡礼道を使わず、西国街道を経由する等も、道標
 の基本から外れるが、考えて良いのかもしれない。
  ここで、「西國廿三番札所 勝尾寺案内之絵図」に、中山道「四里」が見え、1里=40丁とし160丁
 と表現しただけと解釈し、四里からだけの計算をしてみると、新稲の道標から中山寺までの二里(実8.5q)
 を引き、残り二里(実7.8q)となり、この道標間の距離と一致する経路を探すと、高山道経由で6.3q、
 谷山尾根筋で6.8q、ウツギ谷筋7.4qとなり、後の二者が候補になるが、途中の道標の案内などから、
 谷山尾根筋を示しているとしても、道標として示す距離としては、問題は無くなるであろう。
  よって、北面の案内は、表参道を登り、谷山尾根筋へ導くものと思われる。これは、西面等から導き
 出した元位置に置かれた場合、矛盾する様に見え、追刻の可能性も考えあわせ何度かの移設、或いは道
 の敷設が有ったものであろう。)
(「砂門慶賢」をWebで検索すると、『御請来目録』空海著に「正安四年十一月廿日高野山愚老沙門慶賢
 (八十二)」が見え、ユリウス暦で1302年12月9日となり、丁石の1247年11月と約50年の差となり、
 八十二が年齢であるなら、この人物としても不都合はない。そうなると二度の追刻と考えられる。)
(北面、総持寺へは南東に下り「十六丁石」から、現粟生間谷交叉点、府道4号沿いに、宿河原、五日市、
 西河原の最短経路で、2.5里(9.8q)に一致しこれに違いないでしょう。
 ただ、下図「勝尾寺案内之絵図」において、この記述「京 惣持寺道、り半」のみが、一致しない
 ように思える。
  その下、「龍王山(くずし字で読み違いの恐れあり)」二里が、地名か山号なのか、不明ですが、
 箕面市箕面2丁目14−1に「龍王山大師寺」があるようだが、新しいお寺の様でかつ、距離も合わ
 ない。地名とすると、北東に「竜王山」があり、府道43号で、8q(2里)に、忍頂寺がある。ただ
 同寺の山号は「賀峰山」とするようで、山号とは一致しないが、茨城市域の道標には、多く「龍王山」
 と表現される寺であり、これであろう。
 wikiにも「全盛期には23もの寺坊を有し、勝尾寺や神峯山寺などと並び山岳修行(修験道場)の聖
 地として知られる大寺院 だった…」とし「支院の1つであった寿命院が現在の忍頂寺」とある。)
(「中山寺百六十丁」に関しては、「勝尾寺境内の中山寺百六十丁道標」も参照下さい。)
(丁石に関しては
 43.「箕面市勝尾寺の東巡礼道丁石一覧」
 44.「箕面市勝尾寺の表参道丁石一覧」
 45.「箕面市勝尾寺のウツギ谷参道丁石一覧」
 46.「箕面市西江寺の高山道参道丁石一覧」
 も参照下さい。)
(補記、『箕面市史』第一巻、昭和39年刊に次のようにある。
 「これらの塔婆には建立の紀年を欠いているが、幸いにも寺蔵の文書の中に、「勝尾寺毎年出来大小
 事等目録」と題する一紙があり、その末尾の二行が町石塔婆造立の記事であって、宝治元年十一月比、
 町率都婆立之、月輪ノ梵字者天王寺人書也、丁数教念房也、其比東西坂一町ツゝ人別ニ(下欠)とあ
 るが、塔形の古調は宝治元(1247)年の建立と認めるにふさわしい。最近これに接続する第二紙が寺
 蔵文書に見出され、町石建立の条の全文を知り得たという。」とあるが、第二紙の内容は無い。続い
 て、「さて、旧参道の参詣者からすれば、下乗の文字を刻する下乗塔婆の正面は南面して、参詣者の
 ほうを向いているが、旧参道を通らなくなった現在の人達は、門前からこの塔婆の背面・両側の三面
 だけを見ており、その上空風火水の四輪を欠失し、ただの柱状をなしているのであり、さらにこの三
 面は建立からはるかに降った元治元年に次記の文字を後刻の上で道標に利用していたから、今まで気
 付く人達もほとんど無かったわけである。」としているが、詳しい考察はない。
 「種子は一基に一字ずつ、金剛界の五仏を繰り返している。すなわち下乗塔婆の大日如来のバンから
 始まり、四町塔婆の不空成就如来のアクをもって一応完結し、今度はバンが抜けウーンから始まって
 いるが、二町塔婆の左側側面には、たまたま抜けているそれが刻まれていて、破格となっている。」
 とありその後に、二表が掲載されている。
  尚、上記の記述と、昭和36年の地図より、近接移設の可能性は大である。)

写真eimg3412 写真eimg3413 写真eimg3411
【1.道標を西に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北に望む
 右「下馬」石の  石垣前、中央  後、山門、右、外院
 左に当道標】  やや左に当道標】  左、箕面駅方面へ】

写真eimg3426 写真eimg3425 写真eimg3427
【4.北面下部右側 【5.北面下部左側 【6.西面下部
 「…山寺百六十丁」  「…二リ半」か  「元」か「六」か
 北面は彫りが深い】  「龍王山」とした】  「甲子」で「元」年】

写真dimg2458 写真cimg7535
【7.箕面市の道標】 【8.勝尾寺丁石分布図】

写真eimg4303 写真eimg4308
【9.西国廿三番札所 【10.勝尾寺付近元禄頃の絵図】
 勝尾寺案内之絵図】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ