タイトル/data-0/ti-55.gif タイトル/てつまるくんの今日のひとこと/data/ti-22.gif 2003/8
てつまるくんの今日のひとこと
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通天閣のこと
2003/08/25

浪速区恵美須東1丁目
 天王寺動物園の西側に隣接している地域は新世界と呼ばれています。その中心に有るのが通天閣です。最初は明治45年、現在は2代目で昭和31年に再建されました。設計は東京タワー(昭和33年)を設計し、又耐震設計の先駆者でもある内藤多仲氏です。高さは103m。入り口に掲げられた「通天閣」文字は藤本義一氏だそうです。通天閣の足下には(坂田三吉・王将の碑)が有り、展望台には幸運の神様(ビリケンさん)が足を触ってという風に足を突き出した姿で鎮座しています。  入場料600円
写真左から
ビリケンさん
坂田三吉・王将の碑
通天閣遠望

愛染かつらのこと
2003/08/20

天王寺区夕陽ケ丘町

参照
天王寺七坂の件
2002/10/25
 川口松太郎作の「愛染かつら」で知られる勝鬘院(愛染さん)は上町台地の西側でもちょっと高台に有り、又夕陽が綺麗な所としても知られています。本堂は慶長5年に豊臣秀吉が再建したものでご本尊は「愛染明王」だそうです。
 その境内の一角にこのご神木が有ります。桂の大木にかづらが絡みつき一体となった事から男女の縁を結ぶ霊木「愛染かつら」と呼ばれるようになったそうです。桂はハート形の葉を茂らせ、かづらはオレンジ色の花を咲かせます。
 尚、門前は天王寺七坂の1つ、愛染坂になっています。
写真左から
勝鬘院本堂
ご神木・愛染かつら
茂る桂とかづら
てっぺんで咲くかづら

真田幸村戦死跡のこと
2003/08/15

天王寺区逢阪1丁目

参照
真田 幸村のこと
2003/04/05
 真田幸村は昌幸の次男で信繁が本名。昌幸は関ヶ原の合戦の折り、信州の上田城にて僅か3千人の兵でその10倍以上の徳川秀忠の軍を足止め、ついに関ヶ原に間に合わなくした張本人です。又、戦国の習いで兄は徳川方にするなど昌幸の作戦は成功する。しかし弟幸村は幼い頃秀吉に人質として差し出され恩義を感じていた為、終生豊臣方につく。
 大阪夏の陣では茶臼山を本陣としていたが、松平(徳川)忠直の猛攻撃を受け、慶長20年(1615年)5月7日当神社の境内にて戦死をしてしまう。若干49才であった。
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写真左から
安居神社・安居天満宮
境内
幸村戦死跡の碑
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御勝山古墳のこと
2003/08/10

生野区勝山北3丁目
 上町台地の東縁部に当たり、5世紀前半に造られた時は海上交通の要でも有ったそうです。昭和48年の発掘調査で埴輪や葺石が発見されました。全長約120m、濠を含めると約150mの中規模の前方後円墳で有ると推定されました。又、後円部直径約55m、高さ約7mあります。前方部は現在では陸橋をはさんで南側の公園になっています。
 もともとこの地方は岡山と呼ばれていましたが、大阪の陣の時、徳川秀忠の本陣となり、戦勝を記念して御勝山(おかやま)と呼ばれるようになったとの事です。
写真左から
史跡碑
御勝山遠望
後円部の御勝山
前方部の御勝山南公園
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茶臼山古墳のこと
2003/08/05

天王寺区茶臼山町
 大阪夏の陣の激戦地だった茶臼山は標高27.2mで天王寺公園内の北側に位置しています。古墳だったという説と、堀川を掘った時の土砂を積んだという説が有るそうです。又古墳への橋は、堀川を掘った和気清麻呂(788年)にちなんで和気橋と呼ばれています。さらに徳川家康の本陣めがけて突入した真田幸村の話でも有名です。幸村は夏の陣で当地から200m程北側に有る安居神社境内にて戦死しました。
 橋を渡り山頂までの遊歩道は森林散策に絶好ですよ!。
 (公園入場料・150円)
写真左から
史跡碑
茶臼山と河底
茶臼山入口と赤い和気橋
茶臼山山頂付近
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